日本の音楽シーンからまた一つ星が消えた。8月7日に肺癌のため死去した「ジョー山中」の時と同様に、柳ジョージの訃報は一ファンとして耐え難いものであった。
無類の酒好きが祟ったのだろうか、糖尿病を起因とする腎不全でこの世を去ったが、その酒とステージでギターを奏でる風貌がファンの目にはエリック・クラプトンの姿とだぶったのかも知れない。
1978年にシングルカットされた「雨に泣いている」が大ヒットし、柳ジョージ&レイニー・ウッドがブレイクする切っ掛けとなった。
1979年に発売された4thアルバム「RAINY WOOD AVENUE」はオリコンアルバムチャート初登場1位を獲得し、このアルバムからシングルカットされた「スマイルオンミー~微笑みの法則~」は資生堂のCMソングになり大ヒット。
立て続けにヒットを飛ばす彼であったが、その下積み時代は実に長い。「雨に泣いている」がヒットする以前には萩原健一のバックバンドをしていた事もあったと聞いている。
彼の音楽の出発点はブルースではなくフォークであったが、アマチュア時代に日本各地に点在する米軍キャンプを巡り米兵相手に演奏していた。おそらくそのような環境の中でブルースが柳ジョージの音楽として積み上げられていったものと思われる。
1979年3月に発売されたアルバム「Y.O.K.O.H.A.M.A」がわたしと柳ジョージの架け橋になっているが、その当時わたしは実に荒れた生活を送っていた。
息子の勇樹は1歳半で風邪をこじらせ、肺に膿が溜まり片方の肺が完全に潰れていた。前々妻とは既に離婚していたので息子の面倒は彼女が見ていたのだが、仕事が忙しいのを理由に息子を夜遅くまで保育所に預けっ放しという状態で、午前0時を過ぎても帰って来ない母親の代わりに、わたしが保育園に引き取りに行ったりしていた。
母親と息子が住んでいた六畳一間のアパートは日中でも陽が射さず、湿気を帯びた部屋の空気と引きっ放しの薄い布団、全く片付けようとしないゴミが部屋中に散乱し、とても幼い子どもを育てる環境ではなかった。
オムツさえも変えて貰う事がなかったのか、尿で濡れたままの冷たいオムツに泣いて訴える事さえしない勇樹はわたしの顔を見るなり笑顔で抱きついて来た。
身体も熱っぽいし通常の風邪とは様子の違う咳を何度も繰り返していたが、それでも病院へ連れて行こうとしない母親の態度に業を煮やし、その日の仕事を休んで勇樹を近くの小児科へ連れて行った。手の平に収まってしまうほどの小さな胸のレントゲンを見るなり、医師は直ぐに設備の整った病院へ行けと命令口調で言った。
息子の身体に何が起こっているのか全く予想も付かなかったが、医師の態度でそれが尋常でない事だけは理解出来た。
母親の仕事先に電話を入れ、事情を話し直ぐに帰って来るように伝えると、彼女は仕事先の車を借りて駆け付け、二人で既に医師から連絡済みの静岡市立病院(わたしが最初の心臓手術を受けた病院)へと勇樹を運んだ。
後になって分った事であるが、借りた車は彼女が当時結婚を前提に付き合っていた男の車であった。そして勇樹は自分の子どもではなく姉の子どもだと男に伝えていたのである。
息子の背中に残っている大きな傷跡はその時に受けた肺の手術痕。わたしと勇樹と母親とそしてその男を巡って一生分に匹敵するほどの一年を送り、疲れ果てたわたしは自分の住んでいた大浜海岸に程近い環境に恵まれたアパートを勇樹と母親に荷物丸ごと譲り、静岡を立ち去ったのである。
「フェンスの向こうのアメリカ」はそのアルバムに収録されている曲でわたしのお気に入りであるが、1982年に日本に返還された横浜の本牧ベースキャンプが舞台となっている。本牧の金網のフェンス越しに見えるアメリカ。
わたしにとってみれば、二度と戻るものかと自分の中にフェンスを張り巡らし、静岡での想い出を封印した積りだった。
捨てた筈の自分の過去と静岡、この曲を聴くと思い出してしまう当時の故郷であるが、23年振りに再会した父と子の間にあのフェンスはもう必要なかった。
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