私「洋ちゃん」、西区内にある
名古屋市教育委員会設置の名勝標札巡りをしています…№23➡最終
その一環で、
先日、
「清音寺」の名勝標札をデジカメ。
設置場所 西区枇杷島3丁目10-6
↓名古屋市教育委員会設置の名勝標札…№23
「清音寺」について…西区史跡散策路等より引用
・治承3年(1179年)、時の太政大臣藤原師長は、
平清盛によって尾張国井戸田(瑞穂区)に流され、その地で村長の娘を寵愛。
・後に赦されて都に帰るとき、形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残しました。
・しかし娘は別れを悲しみ、琵琶池に身を投じたため、この地を琵琶島と命名。
・枇杷島の村人達は娘のために「清音寺」を建てて冥福を祈る。
・娘の法号清音院から寺名が付けられました。
デジカメ
(追記)
藤原師長について
にタイトル「清須市西枇杷島町にある「藤原師長ゆかりの地」を訪ねる…小場塚弁財天(市寸島社)、恋待白菊の琵琵 」
にタイトル「藤原師長謫居跡(ふじわらもろながたっきょあと);藤原師長について 」
👇資料より
藤原師長について
・師長は42歳のとき井戸田の地に流されて来て、
琵琶の名手としても知られ、風流を愛し、和歌を詠みながらのんびり暮らしていた。
・師長が奏でる琵琶の音色は離れた熱田社(宮)にも届き、熱田社が震えたなどという話がある。
・近くにある龍泉寺は師長がたびたび通ったとされ、
木彫の師長像や木彫を模写した掛け軸(西区の清音寺に)などが伝わっている。
・津賀田神社にも祈願のため参拝したとされ、津賀田神社は平安時代末には既にあったとされる。
・妙音通の妙音は、師長がこの地で出家して妙音院と号したことに由来する。
・井戸田の地で暮らしの世話をしていた里長(さとおさ)の娘、
塊(かい)は師長に恋をし、師長が都に帰るとき、土器野(かはらけの)辺りまで後を追いかけ、
不憫に思った師長は愛用の琵琶「白菊」を娘に与えたが、悲しみのあまり池に投身し命を落とす。
(付記)
後にそこが枇杷島と呼ばれるようになったという説があり。
・中区栄のテレビ塔の南に、そのとき娘が入水の前に小袖を掛けたと伝わる小袖掛けの松があった。
・西区東枇杷島にある清音寺は、
娘を哀れに思った村人たちが建てた寺で、娘の法名である清音院から取られたという。
娘が辞世として残したとされる歌が、
四つの緒のしらべもたえて三瀬川、沈みはてぬと君につたえよ
※四つの緒は四弦の琵琶のことで、三瀬川は三途の川を指している。
・この白菊の琵琶が近年、出てきた。
平成22年(2010年)に宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されていることが分かり、
師長は京へ帰るときに琵琶を熱田社(宮)に奉納したとされ、
熱田社から尾張徳川家に伝わり、14代藩主慶勝が孝明天皇に献上したという。
明治初めの皇居の火災で失われたと思われいたが、
実は燃えずに残っていた。その後、徳川美術館で展示された。
◎但し、尾張徳川家に伝わったものには違いないが、師長の白菊かどうかは定かではない。
(特記)
◎西区内にある名勝標札巡りについて
稲生原古戦場跡…西区名塚町一丁目(庚申塚)(西区名勝標札 №22)
名塚城(砦)跡…西区名塚町4-22-14(白山神社)(西区名勝標札 №21)
「慶栄寺太子堂・松濤庵」の名勝標札…西区那古野1-6-12(西区名勝標札 №20)
「豊田自動織布工場跡」の名勝標札…西区則武新町4丁目1-35(西区名勝標札 №19)
「東岸居士の墓碑」の名勝標札…西区南堀越1-8-20(西区名勝標札 №18)
「興西寺」の名勝標札…西区城西4-15-24(西区名勝標札 №17)
鈴木朖(あきら)離屋の跡…西区花の木1-7-1(西区名勝標札 №16)
蜂谷宗意宅跡…西区上名古屋2-10-5(西区名勝標札 №15)
鈴木朖(あきら)終焉地…西区城西3-21-17(離屋会館)(西区名勝標札 №14)
「福昌寺」の名勝標札…西区大野木2丁目138(大野木保育園)(西区名勝標札 №12)
「蛇池」の名勝標札…西区山田町大字比良字野市場(蛇池竜神社)(西区名勝標札 №11)
「西志賀遺跡」の名勝標札…西区貝田町一丁目58(西区名勝標札 №10)
大乃伎神社のボダイジュ…西区大野木2(大乃伎神社)(西区名勝標札 №6)
鴫塚(別名刈跡塚)…西区新道1-19-36(法蔵寺)(西区名勝標札 №4)
比良城址(佐々成政城址)…西区比良3-501(光通寺)(西区名勝標札 №2)
旧志水家玄関車寄と風信亭…西区児玉3-13-38(西区名勝標札 №1)