瑞穂区妙音通りにあります
「藤原師長謫居跡」、
および
「藤原師長」について
まとめました。
★以前にブログした内容を一部修正しながらまとめる。
重複した部分もあります。
藤原師長謫居跡(ふじわらもろながたっきょあと)
謫居(たっきょ)とは罪によって、自宅に引きこもったり、遠くの土地へ流されたりすること。
・平清盛により尾張井戸田へ流され1年余を過ごしたときに住んでいた所です。
・碑は区画整理で嶋川稲荷社境内へ移転
藤原師長の略史。
・平安時代末期の貴族で、京の都で関白太政大臣の職に就いていました。
・しかし1179(治承3)年、平清盛がクーデターを起こし、
後白河法皇の院政停止を行い鳥羽殿に幽閉し、後白河法皇の側近を排除。
関白太政大臣だった藤原師長を尾張国井戸田へ流罪とした。
※当時(840年程前)の尾張は政治犯を配流するほど都から遠く離れていた地である。
・師長は、井戸田へ流され、近くの龍泉寺に度々訪れ、出家し仏門に入り、
『理覚』と法名を授かる。
龍泉寺には師長公画像、師長公記(二巻)が所蔵されています。
・師長は、琵琶の名手であり徒然に弾いていた。
朝・夕、東北2キロの丘に登り(今の師長町の丘陵)琵琶を弾じて京をしのんだ。
その音色が熱田神宮の神宮の御前まで響き、宝殿は大いに震動したと言われています。
・井戸田の村長、横江深光の娘が師長の身の回りの世話をするうち恋に落ちる。
・翌年、平清盛の怒りが解け、罪が許され京に帰ることになる。
①側に仕えていた村長、横江深光の娘が、別れを惜しんで枇杷島までついて来て見送る。
②師長は不憫(ふびん)に思い、娘に大切な「白菊」の銘のある「枇杷」を与え、家に
帰るように説得して別れる。
③娘は、別れを告げられ悲しみのあまり、形見に貰った「白菊の琵琶」を抱いて川に身
を投げて水死する。
※「白菊の琵琶」は、「幻の琵琶」といわれ、熱田神宮から尾張徳川家に伝わり、
その後、焼失したと伝わっていたが、平成22年宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されている
と発表された。
・枇杷島の村人達は娘のために「清音寺」を建てて冥福を祈る。
・その後師長は、1192年(建久3年)55歳の生涯を閉じ、法名(戒名)を妙音院と号す。
瑞穂区に、師長にちなんだ師長町と妙音通りの町名。
※西区には枇杷島町・琵琶里町・白菊町がある。
(付記)
妙音通の町名の由来…「藤原師長」の法名「妙音院」による。
師長町の町名の由来…藤原師長が、この辺りで琵琶を弾いており、その場所が琵琶ヶ峰
といわれたことによる。
藤原師長謫居跡です
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石碑です。
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尾張名所図会より
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枇杷島の村人達は娘のために建てた「清音寺」にある標札です。
☟尾張名所図会より
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↓
小袖塚…名古屋テレビ塔南にあります
◎藤原師長の石碑…刻銘の内容に???…瑞穂区師長町にあり
左大臣藤原師長公琵琶ヶ峯遺蹟と刻銘のある石碑があり。
(付記)
琵琶ヶ峯のいわれ
藤原師長は、琵琶の名手であり徒然に弾いていた。
朝・夕、東北2キロの丘に登り(今の師長町の丘陵)琵琶を弾じて京をしのんだ。
その音色が熱田神宮の神宮の御前まで響き、宝殿は大いに震動したと言われています。
石碑の刻銘の内容が、
あれれ~~おかしい・変➡と気が付く。
帰宅後、ネット等で確認のため調べる。
藤原 師長は、
・平安時代末期の公卿。
・従一位太政大臣(朝廷の最高地位)。
・妙音院太相国と号す。
・左大臣藤原頼長の長男。
やはり、誤り???
藤原師長は「左大臣」ではなく『従一位太政大臣』です。
ネットの中にデジカメを入れて写す ↓
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琵琶ヶ峯の石碑は、別の場所にもあり…同じ町内にあり
「左大臣藤原師長公琵琶ヶ峯遺蹟」と記した石碑から南へ、
『あゆちの水(伝承地)』名古屋市教育委員会設置の標札のある場所のなかにあり。
(瑞穂グランド東側)
※下にスキャン
↑ 琵琶峯と彫りあり