人は死後どうなるのか | 海南島のヨハネの黙示録

海南島のヨハネの黙示録

キリスト教の元宣教師・海南島のヨハネさんの不思議な体験の数々

2007年 6月3日

さあ、大きな問題にぶつかった。

神様が言いたかった事の核心に触れて来た。

この前から、中国の田舎の食べる物もない貧しい人達に、神様はどうして奇跡を起こして救われないのかと聞いていた。

返事があった。


「もしわたしが奇跡を行えば、信じなかった人々に罪が残る」


これは明らかに不信者を考えての言葉である。

それで私は次の質問が出た。

では、神もキリストも信じなかった人々は死後どうなるのか?

私は自分の母親と、今迄に見たいくつかの幻の事だけは知っている。

私の母親は、霊友会の熱心な信者として一生を過ごした様に見えたが、ある時、すべてのことを忘れてしまった。

脳障害である。

その後半年ほどで死んでしまったが、私は母が地獄へ落ちたのを何分間に渡り見た。

その時に判ったのではあるが、地獄は人の為ではなく、明らかにその人に取り憑いていた霊の為であった。

母はその霊に固く結び付いていたので、一緒に落ちて行った。

地獄は、その悪の霊が出て行って悪事をしない為の檻の様に見えた。

その後、母は40日位して乞食の様にボロまとって我家に帰って来た(これは夢で見た)。

その後3回位、幻で母を見たが、全く若返り、もう地獄の者の様ではなかった。

それでは今どこに居るのであろうか?

キリスト教信者にしても未信者にしても、死後の様子を判然と知ってはいないと思う。

これは霊の世界であるから、この世の知識では表現が難しいだろう。

私も一度は行って来たし、何回も幻で見たので、少しは知っているつもりであるが…。

未信者はどうなるのであろうか…?


今は6/17であるが、この問題は神様に問い続けている。

返事は判っている。


「あなたが今迄して来たではないか」


これは何度も云われた。

訳すると、

「あなたが今迄に経験し、かつ知っている事を殊更に聞くな」


私の知っている事は下記の通り。


人の霊は、その人の肉体と一緒には死なない。

そして霊の感じ方も変わらない。

死ぬ頃に喜んでいた霊はそのまま喜んでおり、死ぬ頃歌っていた霊は引き続き歌っている。

死ぬ頃に空虚を訴えていた霊は、そのまま訴えている。

人間の死によって肉体は亡びるが、霊は変化しない。

人は死ぬ時、この世から受けているすべてのものは取り去られる。

生まれたばかりの赤子の様に。

すなわち、王は王でなくなり、貧民は貧民でなくなり、金持は金持でなくなり、権力者も権力がなくなる。

どんな人も、死ねば一つの霊に過ぎない。

最高に幸いな人、それはこの世で苦しみの中にありながら、なお霊が喜んでいた人。

苦しみが無くなるからである。

天国では、同様に喜んでいる天使に加わる事が出来る。

幸いな人、この世で苦しみの中にありながら、なお霊が生きていた人。

苦しみが無くなるからである。

彼等も又、生きた霊として天国で天使に加わる事が出来る(救われた、すなわち霊の生き返った人は、すべてこの集団に加われる)。


私の見た天国は、巨大な神様と、それを取り巻く天使集団であった。

天使は平等ではない。

神の直ぐ近くで宝石の様な天使もあれば、遠い所でまるで星の様な天使もある。

それぞれ一番幸せな位置に住んでいる様であった。

遠い処、そこを天国と云えるのかどうか?

人は死ぬと星になる…と言い伝えがあった様だが、なる程と思う。

誰かが天国を見たのであろうか?

不幸な人、それはこの世で霊の死にかけている人。

霊は、この世の如何なるものも食物とはならない。

霊の食物は神から来る。

これ等の人は、空虚さを霊から絶えず聞いていたはずである。

この世の刺激で心を麻痺させ、しかし霊の餓死状態は変わらない。

死んだ後、彼等は神に遠く光の届かない所にいて、霊の消滅を待つばかりである。

これを永遠の死、又地獄とも云える。

最も不幸な人、それはこの世で悪の霊に全く結び付いた人である。

人が死ぬと、悪霊は神から遮断された世界へ追放される。

この世でその霊とくっ付いていた霊は、悪霊に引きずられてその世界へ落ちて行く。

この世界は神の光の届かない処であるから、悪霊のやり放題である。

仏教で云う地獄の針の山や釜ゆでは、成程、良い表現であると感心している。

誰かが地獄を見たのであろうか?

この人達は生きている内に、悪霊と手を切る事である。

死後どんなに苦しいか、あなたは今直ぐ経験する事が出来る。

5分間息をするのを止めたら良い。

死後やって来ること、それは神の前での裁判であり、これは必ずやって来る。

それは何時やって来るのか…もうこの世で裁かれている人もいる。

そこでは、この世の地位、権力、全く役に立たない。

神社に祭られている人でも全く関係ない。

墓に莫大な金銀を持ち込んでも関係ない。

私は視た。

彼等が死後、うなだれて怯えて歩く姿を。

生前の威光等全くない。

これは私の若い時から知っていた。

ある時、課長の席へ呼ばれて散々説教されていた時、

(この人は、やがて私と2人神の前に立たされた時、どんな顔をしているであろうか?泣き面をしているだろうか?あるいは命ごいをしているだろうか?)

これを思い出し、プッと吹いて笑ってしまった。

課長の怒ること、怒ること。


1960年頃、大阪府警と裁判をやっていた。

私が被告で一審、二審共有罪で最高裁に上告しようかと思っていた時、神様は言われた。


「今の裁判官はいつまでも裁判官ではなく、あなたもいつまでも被告ではない」


神の国の裁判の事を言われたのである。

天の国の裁判の時、神様は味方であるのか、敵であるのか、これは大変な違いである。

もし神が味方であれば、その人は被告席にいない。

そしてその後どうなるか?

又神様に聞く事にしよう。


私には二度、異次元体験があるが、行く時はその時のまま、スーっと行っている。

死んだ人で、自分が死んだ事すら知らなかったと言った人がいるが、成程と思う。

しかし元に帰る時、二回共深い眠りから覚めた様に感じた。

人間側から見ると、死は眠る様だとの言葉も成程と思う。

脳の記憶では霊界の事は残っていない。

しかし霊は経験している。


関連記事


ヨハネさんの記事の紹介ではないのですが、面白い内容だったので、オニさんの動画を貼っておきます。(管理人)

管理人は、聖書が嘘だったらというより、聖書の解釈を間違えて、誤った教義を信じ込んだまま死んだ人は、あの世に行った時に、かなりショックを受けるのかなぁと考える事があります。

導き教える役目の天使や聖徒達が正しい真理のあり方について教えようとしても、受け入れられない人もいるようです。

以下にサンダー・シングの本からの抜粋を載せておきます。


人々が大いなる神と一体化した人生を生きようと切に願うとき、現世で考え方を改め、生き方を一新しようとする。

神の聖霊が直接彼らを教えるだけでなく、「心の密室」で起こる聖徒たちとの交わりによって彼らは助けられる。

聖徒たちは、目にはみえずとも、善に向かう手助けをしようと、常にそばにいてくださる。

だが、キリスト教徒の真理探求者についていえば、多くの信者は、真理について誤った部分的な考えをもったまま死ぬ。

この場合、彼らが自分のみの意見、自我に固執せず進んで学びとろうという気持ちがありさえすれば、彼らの考え方は霊界において正される。

それは、この世においてもあの世においても、神も、またどのような神の使いも、人の意志に反してまで何かを信じ込ませようとはしないからである。



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