福岡氏の著書「自然農法」では、現代科学の限界についても多くが語られている。
現象を構成する事実や事物を捉えていくごとに分析知が無限に増えていくが、ここで得た分析知をあらためて結合し直しても元の現象を解明することはできない。なぜなら、分析知の要素と現象そのものとの関係性が明らかにならないからだ。現象を分けて分析していくことは容易だが、分析したことを再統合して元の現象を再現することができないのだ。現象は無限の構成要素から成り立つが、その要素が他の構成要素とどのように関わっているのかが不明なのだ。
これは、ムー師匠の「成分論」と相通じる一面がある。
結局のところ、細分化して分析すればするほど「分からなくなる」。分からないという表現で使用されるのは「分」の漢字だが、分からない=理解できない・知らない=いくら「分類・分析」しても本質には迫れない と言っているようだ。
現実の生活では、身の回りで様々な問題が起こる。自分たちはすぐにその問題に「対処」して「解決しよう」とするが、その問題がどうして生じたのかを深く考えることをあまりしない。原因を考えるよりもまず対処・解決に心身が動いてしまう。考えても「分からない」ことも多い。分からないということは「分析しても本質に迫れない」と同じ意味であり、問題全体の意味やその原因を究明する場合は、分析という手法は必ずしも効果的とはいえないという理屈になる。
怪人の菜草園も、土壌・土壌生物・微生物・野菜・野草・果樹・動物・・と細分化して個々の事実を見ることはせずに、菜草園そのものを自然環境全体の一部として認識していくようにしたい。目に見える菜草園が自然界の理に沿っているのかどうかを注視しながら、これからの菜草園に寄り添っていくこととする。
やたら理屈めいた文章が続いてしまったが、これから自身が手掛ける計画に着手する前に、どうしてもまとめておきたかったことである。
現代社会を取り巻く分析知の嵐の中を飄々と泳ぎまわる。
(つづく)
怪人菜草園の全体写真。面積は縦3m×横4mの12㎡。