ドイツ語の体験話法に関しての補足につい、
連載の校正をしてくださっている
岡上容士(おかのうえ・ひろし)さんが、
文章を書いてくださっています。
今回は第12回の分です。
ドイツ語の体験話法に関しての補足
ドイツ語の体験話法における、
接続法の時称の変化についてなど
(連載の第12回で取り扱われている範囲で)
岡上容士(おかのうえ・ひろし)
※ドイツ語の体験話法に関しては、次の題名の頭木さんのブログで詳しく説明しています。
「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」6回目!月刊『みすず』8月号が刊行されました
※ドイツ語の接続法が使われている箇所を取り上げての説明になります。ですが、「ドイツ語の接続法とはどのようなものか」といったことから説明していますと非常に長くなりますし、ここのテーマからも外れてきます。ですから、ドイツ語の接続法に関してはご存知であることを前提とします。ご存知でない方でご興味がおありの方は、お手数ですが、ドイツ語の参考書などをご参照下さい。
※最初にドイツ語の原文をあげ、次に邦訳(青空文庫の原田義人〔よしと〕訳)をあげ、そのあとに説明を記しています。説明の中で、必要に応じて原田訳以外の訳もあげています。今回は、あまり長くなることを避けるため、原田訳以外の訳をあげる場合には、体験話法、もしくはその可能性がある文の訳のみにとどめます。
※邦訳に出ている語の中で読みにくいと思われるものには、ルビを入れています。
※ご意見がおありでしたら、頭木さんを通じてご連絡いただけましたら幸いです。
本論に入る前に、体験話法における、接続法の時称の変化に関しての、一般的な説明が必要なのですが、それは第10回に対する拙稿「ドイツ語の体験話法に関しての補足:ドイツ語の体験話法における、接続法の時称の変化についてなど(「変身」の連載の第10回で取り扱われている範囲で)」の中でしました。ここにそれを全部再録すると内容が重複しますので、再録はいたしません。初めてお読みになる方は、お手数ですがそちらをご参照下さい。
月刊『みすず』6月号が刊行されました!「咬んだり刺したりするカフカの『変身』」10回目!
ただ、要点だけをここに記しておきます。
※登場人物が思っている内容が接続法で言われている場合には、体験話法になってもそのままにされることが多いが、現在形の接続法が過去形の接続法に変えられることもある。
※現在形の接続法が、体験話法になったさいにそのままにされるか、過去形に変えられるかということに関しては、特に規則があるわけではなく、作者の好みによると言ってよいと思われるが、中にはそれなりに理由があると考えられる場合もある。
それで、今回の第12回でも、「現在形の接続法が、体験話法になったことにより、過去形の接続法に変えられた例」が、以下の(1)と(2)で出てきていますので、見てみることにしましょう。ただし(2)に関しては、その文が体験話法であるのかどうかは、見解が分かれるところです。
(1)
Vielleicht merkte der Vater seinen guten Willen, denn er störte ihn hierbei nicht, sondern dirigierte sogar hie und da die Drehbewegung von der Ferne mit der Spitze seines Stockes. Wenn nur nicht dieses unerträgliche Zischen des Vaters gewesen wäre! Gregor verlor darüber ganz den Kopf.
おそらく父親も彼の善意に気づいたのだろう。というのは、彼の動きのじゃまはしないで、ときどき遠くのほうからステッキの尖端(せんたん)でその方向転換の動作の指揮を取るような恰好(かっこう)をするのだった。父親のあの耐えがたいしっしっという追い立ての声さえなかったら、どんなによかったろう! それを聞くと、グレゴールはまったく度を失ってしまう。
このWenn nur nicht dieses unerträgliche Zischen des Vaters gewesen wäre!は、過去形の接続法にはなっていますが、やはり今のグレーゴルの切羽詰まった気持ちを表現した体験話法と考えた方がよいのではないかと、私は思います。これをグレーゴルが心の中で思ったこととして、直接話法で書きますと、Wenn nur nicht dieses unerträgliche Zischen des Vaters wäre!となって、現在形の接続法となります。接続法の動詞は、体験話法になってもそのままにされることが多いのですが、ここでは地の文(語り手の文)の時制に合わせて、過去形になっています。この場合には、あえてこのように過去形にする必要性はないのではないかとも思われますが、作者の好みでこのようにしたのでしょう。
原田義人〔よしと〕訳は、はっきり過去形として――従って体験話法とは判断せずに地の文として――訳していますし、原田訳と同じように訳している邦訳はかなりあります。私がかねてから言っていますように、その文が体験話法か否かを決める絶対的な基準はありませんので、これらの訳も誤訳とは言えないと思います。ですがこの文に関しては、やはり次のように訳した方がよいのではないでしょうか。
ついでに、あの我慢がならない、父親の、しっ、しっ、という声もやめてくれんものかなあ。(中井正文訳)
このシッシッという父親の声さえなければいいんだが!(高安国世訳)
ただ「しっ、しっ」という声だけが気にさわる!(池内紀〔おさむ〕訳)
この父親が発する堪(た)え難(がた)い歯擦音(しさつおん)さえなければなぁ!(野村廣之訳)
以上の訳は、はっきり現在形に――従って体験話法として――訳しています。
せめて歯の間からしゅっしゅと音を出さないでくれたらなあと思う。(多和田葉子訳)
この訳は「...と思う」という言葉を足すことによって、この文が体験話法であることを示しています。
しっしっというあのやりきれない掛声さえ父親がやめてくれたら!(山下肇〔はじめ〕訳)
父親のあの我慢ならない叱声(しっせい)さえなかったら!(城山良彦訳)
あの我慢のならない叱音(岡上注:吃音〔きつおん〕の誤り?)さえきこえなかったら!(川村二郎訳)
ただ、耐えがたい「しっ、しっ」という声さえなかったら!(浅井健二郎訳)
あの我慢できないシッシッという音さえ父親が出さないでくれたら!(真鍋宏史訳)
それにしても、この耐えがたいシッシッというのを父さんがやめてくれたらいいのに!(川島隆訳)
以上の訳では、「た」が現在のことを言っているのか、あるいは過去のことを言っているのか、微妙な面もありますが、一応は現在のこととして訳しているとみなしておきます。
(2)
Dem Vater fiel es natürlich in seiner gegenwärtigen Verfassung auch nicht entfernt ein, etwa den anderen Türflügel zu öffnen, um für Gregor einen genügenden Durchgang zu schaffen. Seine fixe Idee war bloß, daß Gregor so rasch als möglich in sein Zimmer müsse. ①Niemals hätte er auch die umständlichen Vorbereitungen gestattet, die Gregor brauchte, um sich aufzurichten und vielleicht auf diese Weise durch die Tür zu kommen. Vielmehr trieb er, als gäbe es kein Hindernis, Gregor jetzt unter besonderem Lärm vorwärts; es klang schon hinter Gregor gar nicht mehr wie die Stimme bloß eines einzigen Vaters; ②nun gab es wirklich keinen Spaß mehr, und Gregor drängte sich – geschehe was wolle – in die Tür.
グレゴールが通るのに十分な通り路(みち)をつくるために、もう一方のドア板を開けてやるなどということは、今のような心の状態にある父親にはむろんのことまったく思いつくはずがなかった。父親の思いこんでいることは、ただもうグレゴールをできるだけ早く部屋へいかせるということだけだった。グレゴールはまず立ち上がって、おそらくその恰好でドアを通り抜けることができるのだろうが、そのためにグレゴールがしなければならない廻(まわ)りくどい準備も、父親はけっして許そうとはしないだろう。おそらく、まるで障害などはないかのように、今は格別にさわぎ立ててグレゴールを追い立てているのだ。グレゴールのうしろで聞こえているのは、もうこの世でただ一人の父親の声のようには響かなかった。そして、ほんとうのところ、もう冗談ごとではなかった。そこでグレゴールは、どうとでもなれという気持になって、ドアに身体を押しこんだ。
①の文全体と、②のnun gab es wirklich keinen Spaß mehr,は、それぞれ、体験話法として現在形に訳している邦訳と、地の文として過去形に訳している邦訳とがあります。
①の文は、グレーゴルが切羽詰まって苦労している様子を語ってはいますが、強い緊迫感が感じられるとまでは言えません。ですから、体験話法と判断すべきなのか、地の文と判断すべきなのかは、私も断言できません。ただ私個人の感じでは、どちらかと言えば地の文かなと思います。ご参考までに、地の文のように訳している訳を1つだけあげておきます。
だからといって、グレゴールが立ちあがり、こうしたやりかたで入口をくぐろうとすれば、おそらくはいろいろな準備がいるはずだったから、とてものことに父親の我慢するところとはならなかったのだろう。(川崎芳隆訳)
原田訳は「ぼく」などではなく「グレゴール」としてはいますが、「けっして許そうとはしないだろう」と現在形にしていますから、体験話法として訳したのではないかと思われます。
からだを立てて、おそらくそのままドアを通りぬけるとしても、そのためにはやっかいな準備がいろいろと要るわけだが、これも父親は決してゆるしはしないだろう。(辻瑆〔ひかる〕訳)
この訳は、グレーゴルのことを言っている部分を主語を出さずに訳しており、はっきり体験話法として訳していると思われます。
それで、この文が体験話法であると仮定し、グレーゴルが心の中で思ったこととして、直接話法で書いてみますと、
Niemals gestattete er auch die umständlichen Vorbereitungen(またはNiemals würde er auch die umständlichen Vorbereitungen gestatten), die ich brauchte(またはbrauchen würde), um mich aufzurichten und vielleicht auf diese Weise durch die Tür zu kommen.となります。これが体験話法になり、接続法の動詞が過去形になったのは、gestattenは過去形と接続法第Ⅱ式とが同じ形であり、このままではどちらなのか区別がつきにくいためと考えるのが妥当かなと思います。なお、würde ... gestattenとも書き換えられますが、こちらの方をそのまま体験話法にしますと、未来形(werden+不定形[動詞の原形])の体験話法と同じ形になってしまいますから、不適切ですね。brauchteがgebraucht hätteとはされずにbrauchteのままにされたのは、このすぐ前にhätte er auch die umständlichen Vorbereitungen gestattet と出ていて、このbrauchteも接続法であると類推できると考えられたためではないかと思われます。
ただここは、直接話法になると、接続法第Ⅱ式のbrauchteとはならずにbrauche(現在形)となり、体験話法で過去形のbrauchteとなったのだという考え方もできると考えられ、こう考えても間違いとは言えないと思います。ですが私は、前のhätte ... gestattet(接続法第Ⅱ式)に合わせているのではないかと思いますし、さらには、副文に影響を及ぼす主文がこのように否定になっている場合には、副文の動詞も接続法第Ⅱ式になることが多いことも考え合わせて、ここではやはり接続法第Ⅱ式のbrauchteを考えたいと思います。
ついでながら、これが体験話法になったのなら、ichはGregorではなくerとなるべきだという考え方もあるかもしれませんが、体験話法でも人称代名詞ではなく固有名詞が使われることは(少ないですが)あります。
②のnun gab es wirklich keinen Spaß mehr,は、それなりの緊迫感はあると思います。ですが、このように体験話法のような雰囲気を持った短い文が、地の文の中に1つだけ入っている場合も、体験話法と判断すべきなのか、地の文と判断すべきなのかは難しいところです。原田訳は地の文として訳していますが、体験話法として訳している訳もかなりあります。ここでは3つだけあげておきます。体験話法であると仮定して、直接話法で書いてみますと、nun gibt es wirklich keinen Spaß mehr,となります。
もう笑いごとどころではない。(中井訳)
こうなってはもう冗談どころではない。(山下肇訳)
実際、のんびりしている場合ではない。(丘沢静也〔しずや〕訳)
なお、冒頭のnunは、体験話法と解するのであれば文字通り「今」、地の文と解するのであれば「そのときは」くらいの意味かと思われますが、山下肇訳のような訳し方もよいと思います。
(3)
Nun, vielleicht war dieses Vorlesen, von dem ihm die Schwester immer erzählte und schrieb, in der letzten Zeit überhaupt aus der Übung gekommen. ①Aber auch ringsherum war es so still, trotzdem doch gewiß die Wohnung nicht leer war. ›Was für ein stilles Leben die Familie doch führte‹, sagte sich Gregor und fühlte, während er starr vor sich ins Dunkle sah, einen großen Stolz darüber, daß er seinen Eltern und seiner Schwester ein solches Leben in einer so schönen Wohnung hatte verschaffen können. ②Wie aber, wenn jetzt alle Ruhe, aller Wohlstand, alle Zufriedenheit ein Ende mit Schrecken nehmen sollten? Um sich nicht in solche Gedanken zu verlieren, setzte sich Gregor lieber in Bewegung und kroch im Zimmer auf und ab.
妹がいつも彼に語ったり、手紙に書いたりしていたこの朗読は、おそらく最近ではおよそすたれてしまっていたようだった。だが、たしかに家は空(から)ではないはずなのに、あたりもすっかり静まり返っていた。「家族はなんと静かな生活を送っているんだろう」と、グレゴールは自分に言い聞かせ、暗闇のなかをじっと見つめながら、自分が両親と妹とにこんなりっぱな住居でこんな生活をさせることができることに大きな誇りをおぼえた。だが、もし今、あらゆる安静や幸福や満足が恐怖で終りを告げることになったらどうだろうか。こんな考えに迷いこんでしまわないように、グレゴールはむしろ動き出し、部屋のなかをあちこちはい廻った。
①の文全体を、体験話法として現在形に訳している邦訳と、地の文として過去形に訳している邦訳とがあります。
この文は、グレーゴルが不安を抱いている様子を語ってはいますが、これも強い緊迫感が感じられるとまでは言えず、体験話法と判断すべきなのか、地の文と判断すべきなのかは断言できません。ただこれも、私個人の感じでは地の文かなと思いますが、dochやgewißのような強めの言葉もありますし、体験話法的な雰囲気もないとは言えませんので、体験話法として訳してもそれは構わないと思います。体験話法であると仮定して、直接話法で書いてみますと、Aber auch ringsherum ist es so still, trotzdem doch gewiß die Wohnung nicht leer ist.となります。
原田訳は、前半は現在形で、後半は過去形で訳していますが、訳文の感じから判断しますと、地の文として訳したのではないかと思われます。ここでもご参考までに、完全に地の文として訳している訳を1つと、完全に体験話法として訳している訳を2つ、あげておきます。
しかしいずれにせよ、そこら中いかにもひっそりとしてはいたが、だからといって家の中が無人のはずはないのだった。(川村訳)
それにしても、家の中に人がいないというわけはあるまいに、あたりがじつにひっそり閑(かん)としている。(高橋義孝訳)
だが、あたり全体もしんと静まり返っている、家にだれもいないはずはないのに。(高安訳)
②の疑問文全体は、体験話法と考えてよいと思います。これは一種の慣用的な表現であり、「...ならばどうなのか」という意味になります。Wieのあとには、wäre(seinの接続法第Ⅱ式) esが省略されています。
(補足:省略されている wäre esを補ってWie aberを書き換えますと、Wie wäre es aberのようになります。aberの位置は厳密には決まっていませんから、ここでなくても構わないと思われますが、ドイツ語の語感に詳しい方のご意見では、ここが一番自然とのことでした)
直接話法で書いてもこの文と同じになります。solltenはsollenの接続法第Ⅱ式です。直接話法で書くとsollenとなり、体験話法になったから過去形のsolltenとなったという解釈も考えられるかもしれませんが、上記のとおり、Wieのあとには、wäre esを補って考えるのが普通ですから、このsolltenも接続法第Ⅱ式と考えた方がよいと、私は思います。それに、このような体験話法に出てくるsollteやsolltenは、接続法第Ⅱ式とみなされるのが一般的でもあります。
つまり、ここでは体験話法になっても過去形の接続法にされたりはせず、直接話法と同じ形になっていることになります。
原田訳のような「なったら」の「た」は、(1)でも記したように、現在のことを言っているのか、過去のことを言っているのか、微妙な面もありますが、ここでも現在のこととして訳しているとみなしておきます。
次の訳は、明確に現在のこととして訳しています。
ところがいまや安穏(あんのん)無事な生活のいっさいが、恐怖とともに終わってしまわなければならないとすれば、これはまたどうなることだろう。(川崎訳)…ただ、Wieのあとにはwäre、あるいは、wäre esが省略されていることを考えますと、「どうなのだろう」と訳した方がより正確かとも思いますが、こう訳しても間違いではありません。
付録
Als er aber endlich glücklich mit dem Kopf vor der Türöffnung war, の邦訳と英訳の一覧
全体の訳もさることながら、特に英訳の方で、glücklichをどのように訳しているかにご注目下さい。
それでもどうやらうまいぐあいに敷居のところに首が来たが、...(高橋義孝訳)
けっきょく、頭の位置をぴったり入り口へ向けることはできたのだが、...(中井正文訳)
それでもやっとこさなんとかうまく頭がドアの閾(しきい)の前まできたときに、...(山下肇〔はじめ〕訳)
だが、とうとううまい工合(ぐあい)に頭がドアの口まで達したが、...(原田義人〔よしと〕訳)
しかし、やっと無事に頭をドアの開口部に向けてみると、...(辻瑆〔ひかる〕訳)
しかし幸いなことにどうやら頭を入口のところまでもってくることができたが、...(高本研一訳)
それでもとうとう無事にドアのあいた部分に頭を突っ込んだとき、...(高安国世訳)
それでもやっとの思いでなんとか頭だけは入口のところまでもってはきたが、...(川崎芳隆訳)
しかしやっとうまく首が戸口にきたとき、...(城山良彦訳)
それでもまあ何とかうまいことに、戸口まで頭がきたのだが、...(片岡啓治訳)
それでも、とうとううまいぐあいに敷居のところまで頭が来たが、...(立川〔たつかわ〕洋三訳)
しかしそれでも、とにかく無事にあいている戸口にまで頭がたどり着いた時、...(川村二郎訳)
しかしついに幸運にもドアの開口部に頭をもってくることに成功したが、...(三原弟平〔おとひら〕訳)
ようやく頭を戸口に向けたとき、...(池内紀〔おさむ〕訳)
それでもようやくなんとか頭をドアの下枠(したわく)の前まで持ってくるのに成功したのに、...(山下肇・萬里〔ばんり〕訳)
しかしようやく無事に頭をドアの開口部にむけたとき、...(丘沢静也〔しずや〕訳)
ところが、ついに首尾よく頭をドアの開口部に向けたとき、...(浅井健二郎訳)
しかし、ようやく幸運にも頭を両開きのドアの開口部へ向けることができたとき、...(野村廣之訳)
それでもなんとか運よく頭をドアの開いたところに持っていくと、...(真鍋宏史訳)
やっと頭を扉の前に持ってくることができ、その扉は開かれていたので幸せな気持ちになったが、...(多和田葉子訳)
やっとのことで頭は上手(うま)く扉の開いている場所に入ったが、...(田中一郎訳)
それにもめげず、めでたく頭を扉の開いた部分に向けるところまで漕(こ)ぎつけたとき、...(川島隆訳)
When, at last, to his great joy, he found himself facing the half-opened double doors, ... (A. L. Lloyd訳)
When at last he succeeded in getting his head in front of the doorway, ... (Eugene Jolas訳)
But when at last his head was fortunately right in front of the doorway, ...(本によっては、But when he finally succeeded in getting his head right up in front of the doorway, ... ) (Willa & Edwin Muir訳)
But when he had at last successfully managed to get his head in front of the opened door, ... (Stanley Corngold訳)
But when, happily, he was facing the doorway at last, ... (J. A. Underwood訳)
But when he had at last succeeded in getting his head opposite the doorway, ... (Malcolm Pasley訳)
And then, as soon as he finally managed to get his head to the doorway, ...(Joachim Neugroschel訳)
But when at last he had succeeded in getting his head to face the doorway, ... (Karen Reppin訳)
When he successfully ended up headfirst in front of the doorway, ... (Donna Freed訳)
But when at last he had happily brought his head around to the opening in the doorway, ... (Stanley Appelbaum訳)
But when he finally was successful in getting his head in front of the door opening, ... (Ian Johnston訳)
He was pleased when he finally had his head in front of the doorway, ... (David Wyllie訳)
But when he had finally succeeded in facing the doorway, ... (Richard Stokes訳)
When he was finally lucky enough to get his head before the doorway, ... (M. A. Roberts訳)
Then, when he found himself with his head successfully in the doorway, ... (Michael Hofmann訳)
He was just celebrating the fact that he’d got his head through the half-opened double doors, ...(Will Aaltonen訳)
But when at last his head had managed to reach the doorway, ... (Joyce Crick訳)
But when he finally had the good fortune to get his head in front of the door opening, ... (Charles Daudert訳)
But when at last he managed to get his head as far as the door, ... (John R. Williams訳)
When he was finally pleased with his success in positioning his head in the open doorway, ...(C. Wade Naney訳)
But when finally he succeeded in positioning his head in front of the doorway, ,,, (Susan Bernofsky訳)
But when to his delight he finally found himself facing the doorway, ... (Christopher Moncrieff訳)
But when he had finally happily reached the doorway with his head, ... (Katja Pelzer訳)
Yet as he finally put his head through the door, ... (Mary Fox訳)
When his head finally ended up in front of the door opening. ... (Philipp Strazny訳)
――und er konnte nur essen, wenn der ganze Körper schnaufend mitarbeitete――の邦訳と英訳の一覧
前後の――(または、――の代わりにカッコで書いてある場合にはカッコ)は省略します。なお、このnurはwenn以下にかかっており、直訳しますと、「...したときのみ、彼は食べることができた」となりますね。中井訳と野村訳はessenにかかっていると解していますが、やはり前記のように解した方が自然ではないかと、私は思います。
体全部がふうふういいながら協力してくれるのでなければものを食べることはできなかった。(高橋訳)
それならからだ全体が喘(あえ)ぎながら動いているときでも、食べることぐらいはできるのだ。(中井訳)
全身を喘ぎあえぎ協力させなければ食べられなかったからばかりではない。(山下肇訳)
そして、身体全体がふうふういいながら協力してやっと食べることができたのだ(原田訳)
だいたいからだ全体が、荒い息づかいをしながら協力しないと、彼はものが食べられなかったのだ(辻訳)
喘ぎ喘ぎ身体全体をを働かせないことには、食べることもできなかった(高本訳)
それにからだじゅうあえぐようにして、ようやく飲み込めるのだった(高安訳)
からだぜんたいをを喘ぎながら協力させないことには、食べるもくそもなかったが(川崎訳)
軀(からだ)全体がふうふういいながら一緒に働かないと、食事はできなかった(城山訳)
体全体が大騒ぎして協力してくれなければ、食べられないのだ(片岡訳)
はあはあいいながら全身を働かさなければ食べられなかった(立川訳)
大体、全身が息をはずませ躍動してはじめて、ものを食うことができるのだった(川村訳)
ハァハァあえぎながら、からだぜんたいを動員して、ようやく彼は飲むことができた(三原訳)
いまや息づかい荒く、全身を使ってようやく口にできる(池内訳)
息せき切って全身を使わなければ、それ(岡上注:飲み食い)すらできなかった(山下肇・萬里訳)
全身でハアハア息をしながらでなければ食べることができない(丘沢訳)
彼は、身体全部が息をはずませるように共同で働くときしか、物を食べることができなかったのだ(浅井訳)
ただ食べるだけなら、身体全体が喘ぎつつも協力してくれるなら、食べることはできたのだ。(野村訳)
体全体が息を切らせて協力しないと食べられなかった(真鍋訳)
全身でじゅるじゅる吸い上げるようにしなければ食べられなかった上、... (多和田訳)
彼は息を切らしながら全身を使ってやっと食べることができた(田中訳)
青息吐息(あおいきといき)で全身の動きをすり合わせなければ食べられない(川島訳)
... , for he could only eat by convulsing his whole body and snorting; ...(Lloyd訳)
as he could only eat now if his whole body worked snortingly in union (Jolas訳)
and he could only feed with the palpitating collaboration of his whole body(本によっては、and he could only eat with the cooperation of his whole snorting body) (Muir訳)
and he could eat only if his whole panting body cooperated (Corngold訳)
and he could only eat if his whole body panted systematically (Underwood訳)
and he could only eat if his whole gasping body was collaborating (Pasley訳)
he could eat only if his entire wheezing body joined in (Neugroschel訳)
and he could only eat if his whole panting body co-operated (Reppin訳)
and eating had to be a collaboration of the whole heaving body (Freed訳)
and he could eat only when his whole body participated, puffing away (Appelbaum訳)
he could eat only if his entire panting body worked in a coordinated way (Johnston訳))
he was only able to eat if his whole body worked together as a snuffling whole (Wyllie訳)
and he could only eat if his whole panting body participated (Stokes訳)
he could only eat when his entire body, panting, would assist. (Roberts訳)
it seemed he could only eat if the whole of his body, panting, participated (Hofmann訳)
... , and in fact he could only manage by contorting his whole body and snorting. (Aaltonen訳)
and he was able to eat only if his entire body joined in, puffing and panting (Crick訳)
and he could eat only when his entire snorting body worked together (Daudert訳)
and he could only eat if his whole body made a strenuous effort to cooperate (Williams訳)
he could eat only when the whole body worked together (Naney訳)
and he couldn’t eat at all without his entire body becoming gaspingly involved (Bernofsky訳)
and he could only eat by taking a deep breath with his whole body (Moncrieff訳)
and he could only eat when his entire body collaborated, puffing and panting (Pelzer訳)
and he could only eat with his mouth wide open and his entire body working, ... (Fox訳)
he could only eat if his whole panting body cooperated. (Strazny訳)
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他に、このようなリストもアップしています。