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受験コーチ池田潤が教える参考書学習法

‐志望校に合格する勉強法と思考法‐

今日も朝からカフェ来ています。これからカフェセッションがあるので、それまでは記事書いたり何なりしていようかと。


私は今、コーチングしたり、対話をしたり、コンテンツを提供することで人の人生に関わるということをやっていて、それが仕事になっています。


で、何でそういうことをすることになったかというと、自分自身が悩み苦しんできたから。


ホント、色々あるのですが、自分に自信が持てない、人とつながることができない、心を開けない、無心で人と接することができずいつもあれこれ考えてしまいぎこちなくなる、何がしたいか分からない、行動できない、自分の能力を発揮できない、愛想笑いばかり、人生が楽しくない……


書き続ければいくらでも書けてしまうくらい、色んなことを考えてきました。


そういう中で、「自分の人生は自分の手で切り開いていきたい」という気持ちが強くなって、弱い自分を乗り越えていきたい、と思うようになりました。


トルストイか誰かが、「人間のあらゆる努力は自由を獲得するためのもの」といったような主旨のことを言っていましたが、


弱いときというのは、自由にならないことが多いんですよね。誰かの奴隷だったり、社会の奴隷だったり、制約が多くてやりたいこともできなかったりする。


その状態って、その状態にあるというそのことだけで悔しいじゃないですか。そう思いませんか?

私は、結構「悔しい」っていう気持ちがあったように思います。


だって、一度きりの人生だし、自分の人生は自分でコントロールしていきたい。自分がしたいと思ったことができる自分でいたい。


例えば、好きな人がいるのにその人に対して何もできないような男でいたくない、とか。


相手の様子を伺って、自分からは何もせず、他の男にその子が奪われているのを指をくわえて見ているような男にはなりたくないわけですよ。


でも、現実は、そんなひ弱な自分がいたわけです。


ちょっと話が逸れてしまいますけど、


そこでアイドルを追っかけることに希望を見出す人もいるのかもしれません。でも、私はアイドルに興味を持ったことって生まれてこのかた一度もないんですよね。好きな女優とかアイドルを聞かれても、即答できない。いないから。別に。


アイドルの追っかけになるくらいなら、アイドルと付き合えるくらいの自分になればいいじゃん、と思います。そう思ったら、追っかけている暇なんてなくて、仕事をするしかない。


まあ、別にそんな風に思ってないですけど、それくらいに思う方が人生は楽しくなるし、向上心も衰えることはないですよね。


何度も言いますが、これは私の価値観。私はそう思っている、というだけのことです。


で、話を戻して、


心ががんじがらめだと、色々不自由なことが多いんです。何かをしたいと思ったときに、できない。

恐怖が強く、自分から心を開けず、失敗を怖れ、ダサイ姿を晒すことを怖れていたら、何もできなくなってしまいます。


それは、相当不自由な状態であって、色んなものの奴隷になってしまっているわけです。


で、それが当たり前になると、その奴隷状態でいることが「普通」の状態になり、自由を求めて動き出すこともなくなってしまう。


誰かが行った心理学の実験の結果で、奴隷たちは最後は自分を縛り付けている鎖の自慢を始める、という話があります。


奴隷であることに対してそこから抜け出そうとする気力を失った結果、鎖を自慢し始める。


現代社会でも、同じようにしている人はたくさんいるように思います。


そこから抜け出すためには、「内面の進化」。これしかありません。


で、私がしていることは、何をどうすれば内面から湧き出てくる力を手に入れることができるのか、っていうこと。それを伝えている。


自分の内側を解放し、色んな怖れから自由になっていく。そうすることで、したいと思ったことが自由にできる自分になっていき、欲しいと思ったものを手に入れられるようになっていく。


これからもそのお手伝いができればと思っていて、そのための企画も随時打ち出していくので乞うご期待。


スタートとしては、自分がすごく不自由な状態で生きているのだという自覚。その自覚から来る「悔しい」という感情が必要なのかもしれませんね。


ということで、今日はこのへんで。


これからカフェセッションをしに行ってきます。

私は基本的に、1年365日仕事できる人間です。もちろん、好きな仕事については、ですが。


仕事というか、自分の好きなことが仕事になっているので、好きなことを1年365日できると言った方が良いのかもしれません。まあ、同じことです。


遊びたいという気持ちは強くなく、逆に、遊ぶのは面倒くさいと思ってしまいます。だって、仕事ができなくなってしまうから。仕事ができない日が続くと、イライラしてしまったり。


だから、遊びに誘われても別に嬉しくなくて、遊びに行くとしたら「誰と」行くかが大事になってきます。というのは、好きな人と一緒にいることは好きだから。


先日も石垣島に行きましたが、石垣島に行きたいとか、マリンスポーツがしたいとか別になくて、ただ仲間たちと一緒にいられるから行っただけ。


もちろん、石垣島は良いところだし、マリンスポーツもやってみたら楽しいです。でも、仕事の楽しさや充実感には勝てないし、全くの別次元のものに感じます。


個人的には、そういった充実感を感じられないからこそ、一時的な遊びというものを求める人が多いのかな、と思ってしまったり。


私自身は、遊びが何かの代用品のように感じてしまうこともあります。遊ぶために生きるとかは、自分にはできない。遊びばかりだと虚しくなってしまいます。


イチローや本田圭介選手、村上春樹氏といったような人々も遊びが最優先になることはないだろうし、そんな時間があったら仕事につながることがしたいと思うでしょう。


だからこそ、結果も出せる。


多分、友達と遊びに行くこともなければ、奥さんを大事にしてはいても、遊びに連れて行けることも少ないのだと思います。遊ばない=大事にしない、ということではなくて。


そういう姿勢になるのは、自分が本気になって打ち込める何かを持っていて、それを磨き上げることが大事なことだから。


遊びが代用品だと思える「何か」を持つことは結構大事なことだと思っていて、それが持てないと、遊びが現実からの逃避にすぎなくなってしまったりするのではないか、と。


遊ぶことはもちろん楽しいけれど、そこにのめり込むことはできないし、遊ぶことというよりも仲間と一緒にいること、好きな人と一緒にいることが楽しい。私はそう思っています。


もちろん、これはあくまで私の価値観であって、それが絶対などではありません。何を善とするかは自分で決めていくもの。自分の価値観を持つことが大事です。


特に、男性と女性では価値観も大きく違うでしょう。今は男性と女性を同じものとして論じようとする人も多いですが、私は性差というのはあると思っていて、男性と女性では分かり合えないことも多いと思っています。


男性が大事にすることを女性には分からなかったり、女性が大事にしていることを男性には分からなかったり。


例えば、


私は、女性を大事にするとは仕事をしっかりとこなすことだと思っていたりします。


これは女性には理解不能かもしれませんが、仕事をこなすことをやめてしまったら、女性を守ることだってできないわけで。


遊んでばかりいる男は無責任なんじゃないか、と思ったりします。こういう考えが芽生えるのは、私の生い立ちも強く関係しているのでしょう。


でも、女性は「恋愛」がしたいと思うもの。だから、この考え方は女性には理解されにくいのかもしれません。


私は別に「恋愛」がしたいとは思っていなくて。ただ、その人が好きなだけ。駆け引きとか面倒くさいし。


一緒にいる時間が長い、一緒に遊ぶことが多い。それだけが、女性を大事にするということではないだろうと思っています。だからといって一緒にいないとか遊ばないということではありません。極論で捉えないでくださいね。


とはいえ、これはあくまでも私の考え。絶対的なものではありません。違う考えはいくらでもあって。


このブログは私のブログであり、私のフィールド。だから、好き勝手自分が思うところを書いているだけです。


反対意見とかいらないし、そういうのは面倒くさいのでパスでお願いします。あったとしたら、自分のフィールドで好きに書いてくださいね。


大事なのは「自分」です。自分はどう思うか。自分は何を大事にしているのか。それを見失わないようにすること。


好き勝手書きましたが、


仕事や遊びについても、自分なりの価値観を持って生きていくと良いと思います。


では、今日はこのくらいで。

大阪に帰還してきました。移動が多かったこともあり、多少肉体的に疲労してる感じ。ただ、速攻でいつものカフェに来て、この記事を書いています。やはり、書くことが好きなんだな、とこういうときに感じます。


昨日、メルマガを配信したのですが、たくさん返信いただきました。感想など送ってくださった方、ありがとうございます。励みになります。


では、今日の本題へ。


私は今26歳ですが、私が子供のときくらいから「ゲーム」はすごく身近なところにありました。

しかも、その頃くらいからゲームの質もすごく上がってきたように感じます。本当に面白いものが多く、私は実は結構ゲームは好きです。


もうロールプレイングゲームなど長いものは一切できなくなってしまいましたし(時間の無駄に感じてしまう)、ハマってしまって仕事が手につかない、なんてことはありません。


ゲームの面白さを認める一方で、それより面白いものが人生にはたくさんあると知っているし、やりたいことがあるので、面白いからといってずっとやっているということはありません。


ただ、ここで考えてみたいのは、その面白さはどこから来ているのか、ということ。


よく言うことではあるのですが、ゲームが面白いのは適切な課題が与えられているから。


つまり、できそうで、できない。というちょうど良いバランスがあって、「乗り越えるべきもの」が存在することが大事なんです。


ドラゴンクエストをやっていて、レベル1で「ひのきの棒」を持っているときにラスボスが出て来たら、ゲームを「そのへんの棒」で殴りたくなってしまいます。


逆に、レベルがどれだけ上がっても「スライム」しか出て来なかったら、マジで面白くありません。


適切な課題があって、その課題を乗り越えていくところに、面白さがあるわけです。


最近では、「人とつながる」という要素も入ってきていますね。私はよく知りませんが、オンラインでつながって一緒にプレイできたり。


つまり、『一緒に』課題を乗り越えるという面白さもプラスされたわけです。


で、それっていうのは、ゲームの世界だけの話ではない、というところがポイントで。


私たちの日常生活の中でも、なぜ毎日に張りが生まれたり、楽しいものになるかというと、


適切な課題があるからだったりします。(あと、仲間の存在)


課題がなくなってしまうと、することがなくなり、ただ時間を潰すだけになってしまう。


ゲームの世界でも、乗り越えるべきものがなくなれば、もうすることがなくなってつまらなくなるでしょう。


それと同じで、私たちの人生もやはり「乗り越えたいもの」があるから面白くなる部分があって。

例えば、私の場合で言えば、「もっと良いものが書きたい」とか「もっと人間についての研究をしたい」「もっとたくさんのことを知りたい」「もっとたくさん映画を観たい」「もっと良い男になりたい」とか。


色々ありますけど、自分なりに課題を持って、それを乗り越えていこうとする毎日が楽しいわけですね。


で、そこには終わりもないわけで。終わりのないゲーム。死ぬまで楽しめる。


てか、ゲームより面白い。


だって、何が起こるか分からないわけだし、何より「リアル」だから。自分の人生を生きているわけで、現実が本当に変わっていくわけだから。


生きるということは、こんなに面白いものなのか、という感じです。


そういった姿勢が失われてしまうからこそ、毎日がつまらなくなるわけで、したいと思えることもなくなってしまう。


ただ、ここで大事なのは、そうやってこのリアルの人生から「乗り越える」楽しさや歓びを得ていくためには、

「自分にはできる」という思いが必要だということ。


最初から諦める癖、「どうせ俺なんか」と言ってしまう自己イメージの低さ。人生を斜めに見る態度。純粋性を失った歪んだ心。


そういったものがあると、乗り越えようとする意志が生まれなくなってしまう。


ゲームの世界で、「もうあのボスは倒せないよ…。俺なんて…」と言ってしまったら、もうそのゲームはやらなくなりますよね。


でも、「絶対にあのボスは倒せる」と思っていたら、地道にレベル上げに励んだり、お金を貯めていい武器を買ったりし始めます。


自分を諦めなければ、この人生から歓びを得ることはできるけれど、


自分を諦めてしまえば、乗り越えるための行動をやめてしまい、その結果することがなくなってしまう。


することがなくなれば、人生がつまらなく、味気ないものになってしまう。


だから、自分を信じるってことは大前提で大事なことであって。


そして、何か「乗り越えたいもの」があることは、それがあるというそのことだけで、幸せなこと。


そういうものが存在するということだけで、素晴らしいことだったりします。


その自覚を持っていれば、もっと楽しく、もっとプラスの気持ちで課題に取り組んでいけると思うんですね。受験勉強だって、そう。


「乗り越える楽しさ」を感じながら、日々を過ごしてみてくださいね。


ではでは、今日はこのへんで。

今日先ほど配信したメルマガを転載しておきます。


池田です。


今、石垣島にいます。なぜか。


総勢20名くらいで、来ました。


今はホテルで一人、このメルマガを書いています。


久しぶりにマリンスポーツなどで海と戯れ、今は体が重く、指も重く、書くのも結構大変な状態です。


今日は滞在して、明日の朝、大阪に戻る予定。


戻ったら、また仕事です。楽しみ。


てことで、本題へ。


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初、ウエイクボード

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今回、生まれて初めて、


ウエイクボード


というものをやってみました。


今回、とある大物と一緒に石垣島に来たのですが、


その大物はスイスイと乗りこなすわけです。


ウエイクボードって、スノボみたいなやつを足につけて、輪っかを手に持って、


ジェットスキーに引っ張られながらスイスイするやつです。


で、自分はというと、最初全然ダメで、なかなか上手くスイスイできませんでした。


何度も、顔面を海に打ち付けました。


しょっぱい海水を飲まされました。


塩分濃度は、かなり高かったです。


石垣島の海は、透き通るようなエメラルドグリーン!


どうでもよくなりました。


周りから見たら、笑われるレベルで顔面を打ち付けていました。


ただ、何回かやると、だんだんできるようになってきて。


まあ、5回くらいやらせてもらって、最後までそこまで上手くはならなかったのですが。


他の仲間の方が上手かったり。


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センスがなくても「修正」はできる

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ただ、自分の中で、


もっと練習すれば絶対にできるようになるだろう


という気持ちがあったんですね。


基本、私は不器用なので、最初から何かが上手くできることってあまり多くありません。


でも、自分には、できることもあります。


それは誰にもでもできることなのですが、


何かというと、「自問自答」です。


自問自答ができるので、トライして、修正して、ということができます。


「修正」は、人よりも粘り強く、また本質をついたものができると思ってます。


これまでも、そうやってきたから。


凡人は、そうするしかないと思っているから。


失敗しては自問自答して、修正して、ということを繰り返してきたのです。


そうすると、最初からセンスのあった人よりも上手くなっていたりすることも。


ただ、自問自答して、修正して、ということをするためには、


チャレンジしてダサイ姿を晒す


ことが必要になります。


だって、器用じゃない場合には、最初から上手くカッコ良くできるわけではありません。


どうしても失敗はするし、結果、ダサい姿を晒すことになります。


時には、バカにされたり、批判されることだってあります。


でも、ダサい姿を晒してでも挑戦することで、何が良くないのかを考える機会が生まれます。


そこで、上手くいかない方法を学ぶことができます。


でも、


多くの人が、最初からチャレンジを避けています。


失敗を怖れて何かを「しない」という選択を取る。


ウエイクボードやったことないから、できる自信がないから、やらない


と言っていたら、一生ウエイクボードに乗れるようにはなりません。


で、やったこともないのに、


ウエイクボード恐怖症


を発症します。


やったこともないのに、ウエイクボードという言葉を聞くだけで、足がガクガク震え、


マブダチに「やろうよ!」と誘われてしまったら、


「ああん、俺、ちょっと今日腹痛でさ」


という苦しい嘘で、その場をごまかさないといけなくなります。


「やる」ということをしなければ、


できないができるに変わることはありません。


他のことでも、全て同じです。


やらなければ、挑戦してみなければ「それ」ができるようにはならない。


そして、なぜ「それ」ができるようになるために挑戦できないか、というと、


ダサい姿を晒したくない


と思っているからです。


挑戦して失敗するのが恥ずかしいと思っているから。


でも、そんなものは一時的なものなのです。


必ず、乗り越えることができます。


ダサくなることを怖れていたら、何もできなくなります


挑戦せず、新しいこともせず、


今できることだけをやっていくしかなくなります。


そうすると、人生に刺激がなくなるし、前に進んでいる感覚もなくなるし、


色々と飽きてきて、つまらなくなります。


毎日に飽きます。


生きることに飽きるかもしれません。


人生に飽きて、人生をつまらなくさせたのは、


自分自身です。


人生が悪いのではなく、自分が悪い。


自分が、何かにチャレンジする気概を失ってしまったから、


ダサい姿を晒すことにビビってしまったから、


毎日がつまらなくなってしまっただけ。


全ては、自分の姿勢次第。


ダサい姿を晒しながら、そこで上手くいかない方法を学び、


できないをできる変えていくような生き方は、いいじゃないかと思います。


今日伝えたいのは、こんな感じ。


最後にお知らせなのですが、


今、新しい企画など色々と準備中なので楽しみにしていてください。


詳しいことはまだ言えませんが、随時ブログやメルマガでお知らせしていきます。

今、石垣島に来ています。仲間たちと一緒に。総勢20名ほどです。


シュノーケリングをしたり何なりして、今から晩ご飯なのですが、それまで時間が空いたので一人部屋でブログを書いています。


超大物も一緒に来ていて、かなり面白いです。


で、今回は「好き」ということについて書いていきたいのですが、あなたは自分の好きを明確にしているでしょうか。


例えば、今回、マリンスポーツをしているわけですけれど、確かにマリンスポーツは楽しいですが、私はどちらかというと、仲間と一緒にいること自体が好きなんですね。


仲間とか、好きな人と一緒にいること。それが好き。


だから、別にマリンスポーツはしなくてもいいんです。笑 ホントは。


「バナナボート乗りてー!!!!」とかは、ない。


ただ、それを仲間と一緒にするんだったら、したいと思います。でも別に、マリンスポーツじゃなくても、一緒にトランプをしているだけでも別に良いのです。私からしたら。


トランプとか、何か勝負ごとを仲間とするのは面白いです。


大事なのは、仲間と一緒にいるということで、その時間を楽しめるかどうか。なのですね。


マリンスポーツをすることや、石垣島に行くことが大事なのではなくて。一緒に何かをする、ということが大事。


だと、私は思っています。


もちろん、そうじゃなくても全然いいのです。旅行が好きでも、マリンスポーツが好きでも、石垣島が好きでもいい。


大事なことは、自分を分かっていること。自分が何に歓びを感じるのかを知っていること。


自分を知っていれば、自分の歓びがどこにあるか分かっているわけですから、楽しく充実して生きていくことができますよね。


私の場合、みんなで一緒にいることが好きで、でもそれと同時に一人でいることも好きで、今とか一人でこの記事をわざわざ石垣島まで来て書いているわけです。笑 Macもちゃんと持って来て。


私の中で、好きなことで人生を埋め尽くしたい、という願望があって。それって、楽しいじゃないですか。


でも、そのためにはまず自分が何を好きなのか、ということを分かっている必要があるわけです。


多くの人が、自分が何が好きなのか。何を求めているのか。を分かっていません。


だから、日々が充実しなくて、何となく楽しくなくなる。つまらなくなる。毎日に不満が残る。


自分が何かをしているときに、どういう気持ちになっているか。


楽しい気持ちになったとしたら、それはなぜなのか、考えてみてください。


だんだん、自分のパターンというか、何を欲していて、何に満足を感じるのかが分かってくるはず。


それが分かってきたら、後はそれを追い求めていくことです。


そうやって、毎日は楽しいものになっていきます。


自分の「好き」自分の「求めるもの」。それは、何なのか。


明確にしていきましょう。


では、今日はこのへんで。

一人でいることが多いです。


物書きであったり、ネットを使っていたり、ということが大きな理由ですが、それ以前に、単純に一人の時間が好きで。一人でも寂しいとかは、あまり感じません。もちろん、ずっと一人はキツいし、ネットで何かを書けば反応があるから、という部分は大きいです。


物理的には一人だけど、精神的には一人じゃないと感じているから、一人でいても寂しくはないのでしょう。本当の意味で一人だと、人は生きていけないと思います。


自分で発信することができるし、好きな人の発信を見ることもできる。一人ではないと心の中では感じている。だから、一人の時間を楽しめる、ということはあって。


深い心のつながりを持てることと、一人でいられる能力は関係しています。


精神的な孤独を感じている人ほど、物理的に誰かと一緒にいることを求めるのだと思います。逆に、精神的に一人ではないと感じていれば、無理に誰かといつも一緒にいる必要はなくて、いたいならいればいい、という感じになるのでしょう。


少し前置きが長くなりましたが、


では、一人の時間に何をしているか。よく、そういうことを聞かれることがあります。


好きなことをしています。


好きな世界が描かれた映画を観たり、小説を読んだり、音楽を聴いたり、知識を得るための読書をしたり、あとは物を書いたり。


私はカフェが好きなので、車を走らせ、よく一人でカフェに出掛けてコーヒーを飲みます。1日で3~5軒を回ることだってあります。


そこで何をしているかというと、ノートと向き合って考え事をしたり、仕事のアイデアを練ったり、または本を読んだり、物を書いたりして自由に過ごしています。


私は自分と対話するのが好きなので、自分をより高めていくためにどうすればいいか、といったことを考えることも多いです。その対話の中で自分を見つめていて、だからこそ、他者のことを見抜くこともできるようになってきたのだと思っています。


一人時間を楽しめるようになると、他者との関係が、甘えでも依存でもない、より深いものになっていきます。


なぜなら、相手への要求が減るから。「求める」気持ちが減り、「与える」気持ちを持てるようになるから。


一人でいられないときというのは、相手に求める気持ちがすごく強くなります。相手を利用して、自分を満たそうとする気持ちが強くなる。


だから、相手をコントロールしたいと思うし、相手を変えたい、思い通りにしたいと思う気持ちが強くなります。


結果、相手は自分の自由を奪われているように感じ、だんだんと距離が離れてしまったり。もう一方も一人でいられない人の場合は、いつもいつも一緒にいる状態になる。


ただそれも、「与え合い」ではなく「求め合い」なので、ひょんなことから愛の関係が、憎しみの関係に豹変する、というのはよくあることです。


つまりは、本当の愛の関係ではなかった、ということなのですが。


求め合いの関係はいつか崩壊しますが、与え合いの関係は長く続きます。それができる相手とは、生涯の付き合いになるものです。何年か会っていなくても、メール一通でいつでもつながれてしまう。


求め合うだけだった相手のことは、何年かしたら忘れ、「何だったんだろう?」と思うものです。


ということで、何が書きたいのかよく分からなくなってしまいましたが、一人時間を持ってみましょうということですね。それも、極上の。一人で人生を楽しんでみてください。


その時間があればこそ、人との関係の中で「怖れ」の感情も減ってくるのです。怖れ、不安、求める気持ち。そういったものが減ってきます。だから、「与える」ということもできるようになる。


てことで、私もこれからカフェに向かおうかなと思います。


で、明日からは石垣島に行ってきます。気の合う仲間たちと。いつも一人なわけではなく、そうやって仲間たちと一緒にいることもあります。ただ、一人の時間が多いからこそ、仲間たちとの時間がより楽しいものに感じられるものです。


やたらマリンスポーツをするとのことなので、めちゃくちゃ焼けそうです。もう9月なのに真っ黒みたいな状態になるかも。笑 まあいいや。


では。

昨日は、生き方、働き方について書きました。で、今日もその続きみたいな感じになるのですが、


今ってすごく自由度が高いというか、色んなことができる時代です。私のように就職しない人間だっているし、それでも本を書けてしまったりするし、本当に夢が広がる世界だと思います。


ただ、実はそんなに「自由」というのは生易しいものではなくて、自由が広がることで「迷う」ということが生まれます。


何でもできる気がするがゆえに、「もっと良いものがあるのではないか?」と思ってしまう。


そうすると、今目の前のことが急激に魅力的でなく思えてくるもの。


これは、何にでも言えることです。


例えば、大学に入っても、今の大学の悪い点ばかりを見て「あの大学の方が良かったんじゃないか」と考える。


現実ではなく空想上でその大学の良い点ばかりを見る。逆に、今の大学については悪い点ばかりを見る。


一概にこの心の働きが悪いものとは言えないかもしれませんが、ただ、そうしているばかりだと大事なものを失ってしまうことだってあるでしょう。


今ある人間関係を大事にせず、まだ見ぬ人間関係ばかりを追い求めるのも、自由度が高いがゆえに「もっといい人がいるのでは」なんてことを考えるから。


受験で言えば、受験勉強は苦しいことだって当然あります。


ただ、そこに学歴が全てではない時代がやってきた。


そうすると、「受験勉強からの自由」が生まれたわけですから、そこから逃避することだってできるようになったわけです。


受験しかなかった時代は、受験勉強をするしかなかった。しかし、今はそうではない。


そうではないがゆえに、心が揺れる。


「こんな苦しいことをしないで、もっと楽に生きられるかも?」


という思いが頭に浮かぶ。しかし、実は他にしたいことは別にない。他に目的があって勉強をやめたいわけじゃない。


つまり、ただ今目の前の現実から逃げるために、「自由を利用した」に過ぎなかったりする。


もちろん、受験勉強をやめて、自分がしたかったことに進むのは良いことだと思ってます。ただ、受験生時代の私で言えば、実際には自分が何をやるかなんて分かっていなかったし、その時点の自分には選択肢があまりにも少なすぎた。


だから、大学に進むという選択をして、結果的に辞めることにはなったけれど、そのときのベストの選択をしたと思っています。


大学にいることで、社会的保証を得つつ、様々な可能性を残しつつ、自分のやりたいことに突き進んでいけたのは良かったと思っています。


話変わって、


何でも自由にやっていい時代になって、人々はいくつかの課題に直面しました。


・目の前の困難から逃げやすくなった


・何かを続けることが困難になり、「他があるから」と考えて転々とするがゆえに実力がつかない


・いつでも「もっといいものがあるのでは」という考えが浮かび、目の前にあるものに価値を見出しにくくなった


・「可能性を残しておきたい」と考え、何かを選択することが難しくなり、何もできないままズルズルいってしまう


などです。


で、私が今なぜそのことについて書いているかというと、もし上記の状態になっていたとしたら、


まず大事なのは、自分がその状態に陥っているということを知ることだからです。


以前の記事で、「私は教えるために書いているのではなく、気づいてもらうために書いている」と書きました。


気づくこと。自分がどういう状態であるか知ること。


そのことによって、私たちは最善の選択をすることができる、と思っています。


自分の状態に気づかず、自分を見失ったままでは、その見失った自分による選択になってしまう。


それは得てして、自分の望まない結果を生んだりするものなのです。


自分と向き合い、自分を知り、自分が望む結果を得られる選択をする。


それが、大事なのだと思ってます。


昨日は、ブログ書いて、映画を1本観て、本を2冊読んで、小説も少し読んで、そこから仕事のアイデアを考え、アギーレジャパンを応援してました。人には会わず、カフェに行ったくらい。ただ、自分としては充実した一日。


人によって、何をもって「充実」とするかは違います。自分にとって充実とは何なのか。何が自分にとっての善なのか。それを自分の心に聞きながら自分で考えること。そして、そこを目指すことが大事ですね。

今の時代って、結構、自分の生き方について考えている人って多いのではないかと思います。


というのは、もはや既存の価値観の限界は見えているわけで。よくある一流大学→大企業の道だけじゃないよね、それももうキツいよね、という話。


もちろん、完全にそれがダメになったという話ではありません。ただ、全体として流れは確実に変わってきていて、学歴不問の企業も増えてきています。そのへんの情報を得ていくのは大事なことではありますね。


さらに言えば、私の周りには、就職しない人も増えてきました。大学生時代に簡単なビジネスを立ち上げ、そこからさらに自分のやりたいことをやったり、自分の人生を切り開いていこう、としているみたいです。


かく言う私も、大学を辞め、就職したこともなく、自分で仕事を創り、本を書き、多くの人とつながる、という生き方をしています。


今は、個人でコーチや作家として活動しています。そういうのに別に学歴はいらないわけで、大事なのは実力があるかどうかだけ。


ただ、かと言ってこの自分の生き方がいい!ということを言いたいわけではなくて、もちろん自分はそれが最高だと思っているわけですが、そこは人それぞれ。


だから、他人の生き方を否定するつもりはないし、自分の生き方を否定される筋合いもありません。


ただ、自分の人生を他人に乗っ取られて生きている人に、言いたいことはありますが。大事なのは、自分で選択していること。


あなたの生き方に学歴が必要なら、学歴を得るべきだし、大学で学びたいなら大学に行けばいい。就職したい会社があるのなら、偏差値の高い大学の方が有利ではあるでしょう。もちろん、そこからの努力は必要ですが。


すでに時代は大きく変わっていて、生き方に多様性が生まれているわけです。


この記事だって、お昼に一人で車を走らせてカフェに来て、一人静かにアイスコーヒーを飲みながら書いてます。髭も剃らずに。笑 昨日は寝るのが遅く、今日は朝11時に起きてしまいました。


私は組織というものが苦手で、上から指示されるのも嫌いで、一人の時間が好きで、考えたり書いたりする創作活動が好きで、一人でもそんなに寂しさを感じません。


だから、今の生き方、働き方になっているわけです。


これは、誰もができるわけではないでしょう。組織でみんなでワイワイするのが好きな人もいるだろうし、創作活動より数字を見るのが好きな人もいるはず。プログラミングが好きだったり、音楽が好きだったり、「好き」には様々あるはず。


大事なのは、自分を知ることです。自分を知って、自分が望むライフスタイルを考え、そのためにどういう仕事につけばいいのか、お金はどのくらい必要なのか、そういうことを考えてみること。


大体、自分が普段何をしているかを見ていたら、自分のことは分かります。


自分がしたいことは、自然にしているからです。


私は昔から、本を読んだり、映画を観たり、考えたりすることが多かった。そのおかげで洞察力や見抜く力が身に付き、ブログを書き続けたおかげで言語化能力も上がってきています。


「洞察力」と「言語化力」。この二つを、なぜか褒められることが多いのです。それは、私がこれまでの人生の中で磨き続けてきた力だから。


そして、今も磨き続けているから。


私はこの「洞察力」と「言語化力」、あと「共感力」を使って、多くの人の人生に関わっていきたいと思っているし、社会に対しても何かできればと思っています。それが、自分のしたいこと。


一応、コーチとか言ってますけど、実はコーチって呼び名は全然しっくり来てません。仕方なく使っているだけで、私は私なりのやり方で人と関わっているだけ。


その人の状態によってカウンセリング的なことだってするし、要は、その人の心と向き合ってるだけ。


自分の武器を使って、その人に寄り添い、その人が自分に気づいていくのを手伝っているだけ。


自分にはどんな武器があるのか。何ができるのか。それは、問い続けないといけません。自分を知らなければ、何ができるのか、何をしたいのかが分からない。


多くの人は自分と向き合わず、自分に問うこともなく、ただ流されるまま生きています。


それも一つの生き方ではあるかもしれませんが、普通に考えて、嫌じゃないですか。私は何かムカついてしまいます。


だって、一度きりの人生ですよね。したいようにしたいし、生きたいように生きたい。


そう思うのは、至ってまともなことなのではないかと思うのです。


どう生きるか。いかに生きるか。そこには唯一普遍の答えはないと思っています。そんなものはいらない。なくていいし、求めなくていい。


ただ、自分はどう生きたいのか。どう在りたいのか。それを自分で考え、自分で創り出していく。


今まで答えを与えられる教育を受けて来た我々にとっては、結構難題かもしれません。


だからこそ、こうやって書いていたりします。「未来の自分をつくる勉強法」でも、書きました。


答えを与えられる教育を受けてきた我々。でも、社会では答えのない問いについて考えないといけません。ビジネスだって、答えがあるわけじゃない。その場その場で、自分で判断しないといけない。

人生だって同じ。


だから、「考える」ということを一緒にやっていきましょう。考える力があれば、どこに行っても、どんな状況でも、切り抜けていけるはずです。


では、今日はこのへんで。


一昨日かな。ワンピース最新刊が出てて、テンション上がって、一気に読みました。ジャンプは読んでいないので。まだまだ、少年の心は衰えていませんね。私は多分、一生子供みたいな感性で生きていくことになると思います。笑


で、今日はサッカー日本代表の試合があるみたいなので、応援したいと思ってます。楽しみ。


では。

昨日、ツイッターに書いたのですが、私は何かを「教える」ために物を書いているというよりも、


「気づいてもらう」ために書いているのだと思っています。


昨日の記事もそうですが、人はとにかく自分に気づいていません。


それは、自分と向き合い切れていないということなのですが、


その結果、色んなことを「ごまかしながら」生きているわけです。


例えば、人の自分に対する態度がぎこちない場合、大抵、自分がぎこちないわけで。


でも、そこで「あいつは態度がぎこちない!」と相手のせいにしたり。


相手のせいにしているうちは、「自分は正しい」と思え、プライドを守ることができるので、


楽です。


ただ、楽である代わりに、人生は変わりません。


他にも色々あります。


人が自分を好きになってくれない!と言いつつ、自分の方が好きになっていなかったり。


あいつの教え方が悪い!と言いつつ、自分が全然勉強していない人。


あいつの言う通りにしてもできなかった!と言いつつ、言う通りに全然できていない人。


そのことに気づく。


自分がそうだったのだと気づき、向き合い、認めることで、人は変わっていくのです。


向き合わず、認めず。


そんなことを続けていても、ズルズルと時間だけが過ぎて行き、


不平不満は溜まり、人生が全く前に進まない。


私も、自分のダメさ、至らなさを理解しているつもりです。まだ理解しなきゃいけない部分もたくさんありますが。


私は全然完璧な人間ではないし、だからこそ、何かを教えているというよりも、


気づかせるために書いているのかな、と思うのですね。


セッションとかしたら、その人が見たくないところに入り込んでいくし、


何かごまかそうとすれば、そこに切れ込んでいったりします。


そうやって自分の核心に迫っていくことは、自分では難しかったりするんですよね。


だって、自分は自分をごまかしたいから。


自分は間違っていない、と思いたいから。


そう思っているから今の上手くいっていない現実があるのに、


その現実を変えたいと願っているのに、


それでも認められない。


それでも、誰かのせいにしたい。自分の問題だとは思いたくない。


現状に不満で、変わりたいと思っていても、それでも自分を守りたい。


自分の「プライド」を守りたい。


昨日と似た記事になってしまいましたが、そんな自分と向き合うことができたら、


向き合うことができたというそのことが、大きな一歩になってます。


では、今日はこのへんで。

人生を変えたい。現実を変えたい。


そういうときに必要なのは、自分と向き合い、変化させるべきことを変化させること。


今と同じ考え方、行動では、今と同じ現実がやってくる。


だから、何かを変えないといけないのだけど、それは自分を弱さや見たくない部分を向き合うことなしには、できません。


認めたくなかったことを、認めないと前には進めないもの。


しかし、人はとにかく自分を正当化したい生き物。


正当化するとは、自分と向き合うことから逃げるということです。


自分と向き合うことから逃げたとき、人は何をするかというと、「問題を周囲のせいにする」ということを始めます。


これは、よく言うことですね。


自分ではなく、誰かや何か、環境、など「外的」なもののせいにする。


そうしておけば、自分を変える必要はないし、自分と向き合って、何を変化させる必要があるのかと考える必要がなくなるからです。


これは、私も含め、誰もが持っているもの。


そして、あまりにも自己正当化が進むと、今この文章を読んでいる最中にも、自己正当化が始まります。


「俺は、自己正当化などしていない」という正当化です。


この状態は結構末期なので、この状態になるとなかなかキツいです。


こうなると、何を言ったところで「お前が悪い」「俺が正しい」という考えになってしまいます。


自分と向き合い、自分を振り返ることができない。


なぜ、自分と向き合い、自分を振り返ることができないかというと、


無意味でちっぽけなプライドに執着しているから。


余計なプライドにがんじがらめになっているからです。


そのプライドは、自分を守るためのプライド。


プライドが高いのは、それだけ自分の中身に自信がないから。


自分自身に自信がないから、いつも突っ張っていないといけなくなるのです。


バカにされたくない、自分はダメだと思いたくない、自分の弱さを認めたくない、


自分をすごい奴と思っていたい、今のダメな状況は自分のせいだと思いたくない…


そういったプライドが邪魔をして、とにかく自分の弱さと向き合うことができない。


そして、自分と向き合えない分を、相手のせいにします。


もし、この記事に反応した場合。


イラッとした場合。


何らかのネガティブな感情が生まれた場合。


なぜそうなるかというと、図星だからです。


実は薄々分かっているけれど認めたくないことを、言われてしまったからです。


このことに気づいている人は、イライラしたりはしません。


「そうだよね」と思うだけです。


イラッとするということは、図星なのです。


イラッとした場合、そこで二通りに分かれます。


素直にそんな自分を認め、向き合うようになるか


認めたら「負け」だと思って、反発心を強くして、まだ他責を続けるか


この二通り。


そこで、人生が変わります。


これまでと同じ現実が続くか、自分の望む現実をつくりあげるか。


それは、自分と向き合えるかどうかにかかっているんですね。