受験コーチ池田潤が教える参考書学習法 -16ページ目

受験コーチ池田潤が教える参考書学習法

‐志望校に合格する勉強法と思考法‐

昨日のメルマガを転載しておきます。


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池田です。


昨日から申し込み受付開始したセミナーですが、続々と参加者が集まってきています。


東京会場懇親会付きはすでに満席となりました。


大阪会場懇親会付きは残り1席のみ。


セミナーのみの受講についてはまだ席は残っている状態です。


今日までは参加費半額で参加できます。最終日です。


次回の開催時期は未定。


(受験を終えていない受験生の参加はお控えください。合格目指して勉強してください。受験を終えた場合はOKです。)


では、本題へ。


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自分が嫌いで、八つ当たりばかりの日々
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私はずっと大阪の田舎の団地で暮らしていました。


家にお金はあまりなく、経済的な問題で中学生時代から塾に通うことはできず、


予備校時代はアルバイトをしながら受験勉強をしていました。


私大を受験する受験料がもったいなかったので、浪人生であるにも関わらず、京大一本の受験でした。


元々すごく不器用で、勉強しても勉強しても成績が上がらず、


よく家の物に八つ当たりしていました。


ふすまを蹴飛ばしたり、タンスを殴ったりしていたことがあります。


不器用で、上手くできない自分のことが嫌いで、そんな自分にいつもイライラしていました。


ときに、それを家族のせいにしたり、DNAのせいにしたり、環境のせいにしてしまったこともあります。


毎朝5時30分に起きて洗濯や朝食作り、弁当作りをして、夜18時に帰ってきて晩ご飯を作る母に、八つ当たりしたこともあります。


休みの日は疲れていつも寝ていて、子供のためだけに生きていたような母を傷つける言葉を、言ったことがあります。


小学生のときにいじめられ、そこから人の目が気になるようになり、自分を隠すようになりました。


ランドセルを背負いながら本屋に通うほど、心が傷ついていました。


本屋さんは、私にとっては「逃げ場所」だったのです。


当時の一番の特技は、面白くもないのに愛想笑いをすることでした。


心にもないことを言うことが、得意でした。


そのくせ、心にあることは言えませんでした。


人一倍、悩む方だったと思います。


小さなことでクヨクヨし、自分に自信が持てず、劣等感がすごく強かったです。


今思えば、京大を目指したのは、そんな自分を変えたい、という思いからだったのかもしれません。


しかし、京大に合格しても、根本的な問題は解決しませんでした。


いつまで経っても、何を成し遂げても、自分のことは好きになれませんでした。


幸せとは言えませんでした。


だから、考えました。


そんな自分を変えたくて、もっと充実した人生を生きたくて、毎日考えました。


どうしたらもっと充実した人生を生きることができるのか。


どうしたら自分に自信を持てるのか。


どうしたら自分を好きになれるのか。


そうしたら、自分なりの答えがだんだんと見つかるようになり、次第に私は変わっていきました。


それに呼応するかのように、現実も変わり始めます。


出会う人が変わり、仕事が生まれ、応援してくれる人が現れ、本を書くようになりました。


自分の心の変化に合わせて、私の人生も変わっていったのです。


自分を変えることでしか、人生は変わらない。


今、私はそう思っています。


環境のせいにしたって、人のせいにしたって、何も変わらない。


全て、自分次第なんだ。


今までの経験から、そう確信しています。


私はハッキリ言って、すごい人間などではありません。


むしろ、傷つきやすい、弱い人間です。


私よりすごい人など世の中にたくさんいるし、自分より行動力もあって、頭も良くて、お金持ちの人だって山ほどいます。


自分がすごい奴だとは、どうしても思えません。


しかし、それでもいい、と思っています。


そんな自分でもいい、と今は思えます。


自分は、自分だから。


それが自分を愛することなのかもしれない、と思います。


そして、そんな自分だからこそ救える人がいると思っています。


傷つきやすいし、弱いし、どうしようもないところがある自分だからこそ、できることもあると思っています。


「私のセミナーは日本一です!絶対に人生を変えるとお約束します!」


そんなことは、言いません。


私にもできることとできないことがあります。


多分、日本一ではないです。


メルマガ読者さんに嘘をつこうとは思えません。


私よりもハラハラドキドキさせてくれて、感動の涙を流させてくれるセミナーなんて、たくさんあると思います。


ただ、思うことは、


「私にしかできないこともある」


ということです。


私はいつも、そんな気持ちでやっています。


このメルマガも、そんな気持ちで書いています。


今回のセミナーで伝えたいことがたくさんあるんです。


そしてそれは、私しか伝えられないことでもあると思っています。


池田潤という人間が、自分だけの経験から考えてきたこと、見てきたこと、感じてきたこと。


そこから生まれるメッセージは、池田潤にしか出せないものだと思っていますし、だからこそ意味があるのだと思います。


来てくださる方に少しでも何か伝わるセミナーにしたいですし、


それができれば私自身本当に嬉しいです。


久しぶりのセミナーということで、非常に気合いが入っています。


読者さんに会えることも、めちゃくちゃ楽しみです。


自分ができる最善を尽くし、話していきますね。

この3日間、加藤秀視さんが主催する合宿に参加していました。


私自身、もっともっと学んで、力をつけて、その力をこのブログを読んでくださる方や、今プログラムに参加してくれている方に役立てられるようになりたいと思っています。


加藤さんは、日本の中でトップの人材育成家と言っても良い人であり、3日間を共に過ごす中でたくさん気づいたことがあるので少しこの記事に書いていきます。


ちなみに、長倉顕太さんもいました。


今回、本当に強く感じたことは、仲間の存在の大切さ。


かなり陳腐な表現になってしまっていますが、深い部分でその大切さを今回は感じたな、と。


というのは、人は人にやってもらったことを人にもしようとするもの。


人から助けられた経験、愛された経験があると、それを他の誰かにもしてあげようと自然に思う。


逆に、あまり助けられた経験、愛された経験が少ない場合には、誰かに何かをしようと素直に思えなかったりする。


例えば、学校や職場で考えてみても、仲の良い人、気の良い人がたくさんいて、自分が困ったら助けてくれる。


そんな集団の中にいると、他のメンバーが困っているのを見たら助けてあげようと思いますよね。


無理することなく自然にそう思うし、いつも助けられていたら、困っている相手のことが気になって気になって仕方なくなる。


逆に、困ったことが起こったときに誰も助けてくれない。そうすると、他のメンバーが困っていても、「助けなきゃ」と思って助けることになるかもしれませんが、自然な気持ちは生まれにくい。


どこかで「勝手にしたら」と思ってしまったり。


助けるとしても、「人間としてそれが正しいからそうする」という形になります。


何でこんなことを言うかというと、私自身は、自分だけの力で問題を解決しようとする傾向が強いです。


あまり人にも相談せず、自分の内側に入って、自分を見つめ直し、向き合う。


そうすることで問題を解決してきましたし、それで上手くいってきました。


本も出し、それがベストセラーになり、著名な方とも同志としてつながることができるようになりました。


だからこそ、自問自答することが大事ですし、それが基本だと思っています。


ただ、それだけじゃなくて。


それは「助け合い」であったり「支え合い」。仲間の存在。仲間と一緒に成長していく段階。


「自分」と「他者」。この二つが大事なんだろう、と思います。


今回3日間を共に過ごしたメンバーは、人を思う気持ちがすごく強く、一緒にいるだけで元気になったり、自分を好きになることができます。


話を超聞いてくれるし、自分のために涙を流してくれます。


これ、やばいですよね。


自分のために涙を流してくれるんですよ。


超泣いてる。ホントに。


で、そうやって向き合ってもらうと、次はそれを誰かにしてあげようと思うわけです。


究極的には、社会に対してそう思うようになってくる。


世の中に困っている人がいるんだな、自分にできることはないかな、と「感じる」ようになってくる。


人との関わりの中で自分と向き合うようになり、人のために自分の力を使おうか、と感じる。


それが生きるエネルギーになるし、孤独を感じることもなくなり、自分を好きになり、愛せるようになってくる。


そうなると、エネルギーが出てくるわけですから、目標達成能力も自然に上がっていくし、何より毎日の幸福感が増すようになります。


ということを考えると何が大事になってくるかと言えば、「誰といるか」「どんな集団にいるのか」です。


自分のことしか考えず、他人のことを考えない集団にいれば、自分も誰かに何かをしようという気持ちを失っていきます。


どうやったら自分だけが得をできるか、ということを考えるようになっていく。


その結果、孤立したり、劣等感に苦しめられたり、愛情飢餓になって満たされなくなっていく。


そうすることで人生の方向性が違うようになっていく。


自分を認めさせるためにやりたくないようなことをやったり、いつも他人の目を気にするようになり、疲れる。家に帰るとドッと疲れたりとか。


外で気を張りまくっているわけですね。


仲間がいれば、そういうこともなくなってくるんですよね。自己肯定ができるから。自分でいいんだ、と思うから。


で、新プログラムの話を結構最近出していて、ちょっとうざがられているかなと思いながらも書くのですが(笑)、


仲間っていうのを大事にしていきたいと思っているんです。だからこそ、「プログラム」形式にするんですよね。


何ヶ月か一緒に、共に成長していく形にしていきたい。


飯を食ったりしながら関わって、対話して、自分のことを話し、誰かの話を聞いてあげて。「誰といるか」が本当に大事だから。


日常生活の中で、自分の本当の心を出せない、分かってもらえない、つらい寂しい。もしくは、もっと人生のステージを上げていきたい。成長したい。新しい体験をしたい。もっと学びたい。


そんな方には最適のプログラムになるかと思います。


メインは毎週毎週音声を配信して、自分を愛したり、自分を変える、人生を変える具体的な方法を学んでもらいます。


そして、それを実践してもらう。報告してもらったり何なりして。


その中でオフ会を開いたり、セッションしたり、セミナーしたり。


そういう感じの。


詳細もどんどん明らかにしていくので、お楽しみに。


では、今日はこのへんで^^


いつも読んでいただきありがとうございます。

私は、人がなぜ変わりたいのに変われないのか、なぜそもそも変わりたいと思うのか、なぜ悩み苦しむんだろうか、ということを考え続けてきました。


最初は、自分自身を救いたいという気持ちから始めたことでしたが、それをブログなどに書き続けるにつれて、


多くの人に役立てることなんだと分かり、もっと抽象化された形で、自分だけではなく、「なぜ人間は」という問いを自分の中で持つようになりました。


今現在も、その部分については考え続けているし、日々学んでいます。


考え学ぶこと自体が楽しいですし、それが人のためになるのだと思うと、使命感のようなものも湧いてきます。


で、今のところですが、究極的な部分として「自分を愛する」ということが全てのベースだと考えています。


去年つながりが生まれた加藤秀視さんも「自己愛が大事」と語っておられますが、


なぜ自分を愛することが大事なのかということを、これまで受験生の進路相談などもたくさん聞いてきた自分の見解として書いていきます。


自分を愛していない人は、自分を愛していないわけなので、自分以外の人間になろうと努力します。


この時点で、基本的に「努力はつらいもの」になる可能性が高い。


本来自分が持っている才能を生かせない分野に突き進んでいくことが多いからです。


自分を愛せないというのは自分の才能も愛せないということであり、


今の自分にないものを持っている人に憧れ、そのようになりたいと思い、自分の才能のない分野で活躍しようと試みます。


人にはそれぞれが活躍できる分野があり、その分野で輝くことができるもの。しかし、逆もまた然り。


私は今こうやってブログを書いたり、本を書いたり、セミナーで話したりしています。


それが好きだし、ある程度苦もなくできるので、そこに少しばかりの力はあったのかもしれません。


しかし、アルバイトしていたときは本当にミスばかりでしたし、塾講師をしていた頃も、人間関係は苦痛なことが多かった。会社組織の中では自由すぎて上手くやれません。


もし自分の力を生かせない場所にいれば、私自身の人生は全然上手くいっていなかったでしょう。


自分を愛していればこそ、自分のやりたいを優先することができ、自分の力を認め、その分野で頑張ろうと思えるのです。


自分以外の人間になろうとすれば、


自分に向いていないもの、しかも自分の身の丈を大きく越えたものを目指すことになるので、なかなか目標も達成できない、という状況が「継続的に」続く状況が生まれやすくなります。


「自分であれ」


これは最近の私は大きなメッセージの一つになっています。


これは今の自分に留まれという意味ではありません。


ここは勘違いが生まれやすいところなので、誤解のないよう。


生きていると、社会の価値観、周囲の人の価値観、社会の動向などが私たちに影響を与えます。


その影響があまりにも強すぎると、自分自身中心ではなく、社会中心に自分の人生を考えるようになる。


今はどこに行けば有利なのか、安泰なのか、何が時代の流れに乗っていることなのか。


そうやって「自分はどうか」ということではなくて、「社会はどうか」ということに比重が置かれる。


それは、資本主義社会の中で、ある程度仕方ないことだと思います。


ただ、個人の人生、個人の幸福ということを考えたときには、そうやって社会中心の考え方だとなかなか満足を得られない。


もちろん、資本主義社会であることを受け入れ、割り切ることができる場合は良いのです。それも一つの生き方。


できる限り厚遇で、給料も良くて、時代の流れに乗っている。


そういうところを働く場に選ぶ。それはある意味、賢い選択なのかもしれません。


ただ、賢いことが、生きている実感や、充実感、満足感にはつながらないこともまた多いのです。


多くの受験生、大学生、そして最近では本当にたくさんの社会人の方からの相談も受けます。


その中で感じることは、やはり自分を愛していない人が多い、ということ。


私も過去には自分のことが大嫌いで劣等感が強かったですから、見ているとすぐに気づいてしまうのです。


感じてしまいます。


ああ、この人は自分が嫌いで、自分を責めて、別の人間になろうとしているんだな、と。


現在、情報が氾濫する時代になっていて、様々な人が、様々な「評価」を下します。


あの生き方はああだ、あいつはこうだ、今良いのはこれだ、あれはダメだ、これがイイ……


そんな誰かの勝手な「評価」に揺さぶられ続け、戸惑う。


自分を愛していないわけですから、余計です。


先ほども言いましたが、自分を愛していない人は自分中心ではなく社会中心で物事を考えるので、

誰かが勝手に下した「評価」に自分の意見を左右されてしまいます。


誰かが、「あれはダメだ!わあ!」と適当に叫んだら、「そうなのかなあ…」と思う。自分は好きなのに。


「あれはあぶない!ひい!」と根拠なく叫んだら、「やめておこう…」となる。


いつだって他人の意見に頼るばかり。自分がない。


これからの時代、それは本当にまずいんです。


だって、誰もが情報発信媒体を持っているわけですから、意図的に何かを悪く言うことだって可能な時代なわけで。


そうやって自分というものを失っていけば、安易な情報に騙されてしまう可能性が高くなる。


悪い情報を掴まされ、良い情報を受け取ることすらできなくなっていきます。


話が逸れたようでは実は逸れていなくて、


自分を愛していなければ、いつだって誰かの評価を気にした生き方の選択になります。


人から見て「いいね」と言ってもらえるようなものしか選べない。


しかし、それが自分に向いているか、自分の才能を生かせるかどうかは分からない。


多くの場合、生かせないことが多い。


だから、変われないと苦悩し、結果が出ないと悩む。


全てのケースでそうだ、と言うつもりはありません。


ただ、そういうことも現代社会では起こっているのは事実だと思っています。


長くなりましたね。


今後、自分を愛するということ、それはどうすれば可能なのか、ということも語っていきます。


ただ、実は現在準備中の新プログラムの大きなテーマが、この「自分を愛する」ということになっています。


このプログラムの中で、全てを語っていきます。


『自分を愛し、自分を越える』


これが新プログラムの大きなテーマになっています。


本当に今悩んでいる、どうにかしていきたいと思う方は、楽しみにお待ちくださいね。

今日は、毎日たくさん届いている相談メールに回答をしていきたいと思います。


こんな相談です。


『はじめまして、大学四年生です。いつもメルマガ読んでます!


とても、毎日の更新が楽しみです(^O^)


いきなりですけど、相談です。


自分は、携帯依存症です。


自覚があります。LINE、Twitter、Facebookなど、常に見ています。


今年は大学院に進学します。その状況にも関わらず、携帯を離せません。


自分の夢から遠のいてるのは、わかるんですけど、現実、そう簡単に離せないんです…


携帯依存症をやめたら、たくさん自分の時間が作れるのは、わかるのに…


こんな相談メール間違えかもしれませんが、


少し意見を聞かせていただけたらなと思います。


今後のブログ、メルマガ等の更新楽しみにしてます!!』


はい。


これは、現代に生きる誰もが抱える問題の一つだと思います。


相談者の方がまだいいのは、それを自覚していることです。自覚しない人の方がほとんどでしょう。


知らない間にSNSを見て、知らない間に時間が経っていて、やるべきことができていない。


そうやって人生が停滞していく。


そんな状況が、生まれていると思います。著書『勉強の結果は「机に向かう前」に決まる』でも、その危険性については書かせていただきました。


私も今、意図的にfacebookから離れている状態です。もうすぐ再開しますが、そこにも意図があるわけで。


で、そのような「何かに依存しているとき」というのは、少し大袈裟ですが、心に穴があいていて、その穴を埋めるために依存している、と考えてみてください。


例えば、何かに夢中になっている人はSNSをチラチラ見ることはしません。


もっと厳密な言い方をすれば、「見る必要性を感じない」。


SNSを見るという行為は、逃避行動としてよく行われます。


まず、自分がただ逃避しているだけなのではないか、ということを検討してみてください。


私自身のことを言っても、文章を書いているときに、行き詰まるとついついfacebookを見てしまう、とか。


見れば何かしらの更新があるわけで、いつも読んでいる人が更新しているかもしれないわけで。


ある程度はいいと思うのです。待ち時間、移動時間などちょっとした時間にチェックすることで、実際に情報収集になったり勉強になったり、ということがあります。


ただ、今回の相談者の方のように、常に見ているという状態ですと、そこにいい情報があったとしても、それを生かしきれない、学んだことを実践できない、ということになってしまいます。


それでは結果も出ません。


では、どうすればいいか。


SNSを離れることを考えるよりも、「何をするか」を明確にすることです。


大学院生だったら理想は「勉強」ということになると思うのですが、夢中になること、熱中することを見つける。


もし勉強に夢中になれないということであれば、何でもいいです。


運動でも読書でも漫画でも映画でもドラマでも会話でも何でも。


まず、SNS依存を断ち切る、ということを考えるなら、何でもいい。


そこで、SNSなしでも生活できる自分を取り戻していきます。


そういうものがない時代にも人は生きていたわけで、別になくても生きていくことはできます。


そのことを、何かに集中する時間を取ることで実感してみる。


SNSを見る暇のないくらいに予定を入れてみてもいいでしょう。


電車でSNSを見そうになったら、本を読む。ハードルが高ければ漫画でもいいです。


理想は勉強です。受験生だったら単語帳を見るとか。


そうやって、他のことをすることでだんだんと離れていく、という方法があります。


ただ、もう少し根深い問題が存在するケースについても考えてみましょう。


周りの人間が何をしているか気になる。置いてけぼりになってやしないか、あいつは誰と遊んでいるんだ、みんなの状況を知っておかなければならない、


一人になりたくない。


正直に言えば、私にはこの気持ちは分からないのですが、しかしそういう人もいることでしょう。


いつも周りとつながっていたい。寂しい。


だから、せめてSNSでつながる。


これは、先ほどの話よりも少し根深い問題を秘めています。


そもそもの自分の在り方の話にもなってきます。


なぜそこまで他人とつながっていたいのか。


それは、自分を拠り所とすることができないからだし、本当の心の通ったつながりを持つことができていないからでしょう。


深いつながりを持たない人は、つながることを必要以上に求めます。


自分を拠り所にできない人は、誰かに依存することでその穴を埋めようとします。


結果、必要以上にSNSを見るという状況が起こってしまう。


自分と向き合いたくない、課題と向き合いたくない、一人は嫌だ。誰かとつながっていたい。


当然、人間は本当の意味で孤立して生きていけるものではありませんから、つながりは必要です。


しかし、それがスマホ依存などの形で出ると、本来向き合わなければならない課題と向き合うことができず、


人生が上手くいかなくなってしまう、ということにもなり得ます。


そんなとき大事なのは、自分を拠り所にすること。


先ほどの話とつながってきますが、


自分がやりたいことをやること。これさえあれば、というものを創ることです。


私の場合は、文章を書くこと、読書すること、映画を見ること、カフェにいること。


それだけで満足します。究極、ノートに向き合って考えているだけで満ち足ります。


紙とペンさえあれば、それでいいのです。本なんかがあった日にゃあ、天国です。


今はスマホで映画も観れますし。


歩いたり走ったりも好きだし、筋トレも好きです。


もう、何もいらないのです。


とは言え、そこに安住するのではなく前に向かって行くのですが。


言いたいのは、心の拠り所があるか、ってこと。


自分を拠り所にするからこそ、他人とも深くつながることができます。


実は。


自分を拠り所にできない人は、他人を自分を慰めるために「使っている」に過ぎません。


他人を道具にしているだけです。


そんなものは「愛」でもなければ、「友情」でもない。


お互いがお互いを利用し合い、自分を満たす道具として使っているだけなのに、「これが愛かあ」「友情かあ」と勘違いする。


しかし、どこか不安。


本当はつながっていないから不安なんです。


自分が相手を使っている人は、自分が相手から使われていると感じるものです。


全ては、自分の問題です。


長くなりましたね。


今回は以上です。

最近は、一段と相談メールが増えて来たのですが、中には人間関係についての相談も多いので今回は趣向を変えて人間関係についての記事を。


人間関係において大事なのは、自分との関係です。


自分と折り合いをつけているかどうかということが、相手との関係に如実に現れます。


ほとんどの人間関係で悩む方は、どうにかしようとして「相手との関係」に目を向けます。


・コミュニケーションを円滑にする方法


・良い印象を与えるためにはどうすればいいか


・モテる会話術!


・相手の心理を知り、思うままに操る方法


などなど。


悩みが深いがゆえに雑誌や本、セミナーなんかに出て学ぶのだけど、なぜか根本的には解決できていない気がする。


そういう人が多いのかな、と。


何を隠そう、私は小学生のときからそんな感じでした。


いじめられた経験があるので、人から嫌われるのが怖かったし、人の目を気にしたし、周りの評価を優先して生きていたような時期があります。


だからこそ、私と似たような悩みを抱えている人を見ると、大体すぐに分かります。会話をすれば。


で、何でそうなるのか。どうすればいいか、も分かります。


私自身が同じようなことで悩んできたからです。


はっきり言えば、上記のような方法を学んだところで根本的な解決には至りません。


むしろ嫌われることの方が多いです。


不自然だからです。


これはかなり大事なことなのですが、特に男性は、自分の思惑はバレていると思った方がいいです。


特に不器用な人は。


バレていないと鷹をくくるからこそ、墓穴を掘るし、避けられたりするのです。


話を戻して、


大事なのは、自分との関係。自分と折り合いをつけ、自分を受け入れること。自分の価値を感じること。


そこからです。


恋愛でも、同じ。


自分との関係が上手くいっていない人は、自分を好きになってくれない人ほど好きになったりします。


だからいつまで経っても恋人ができない。


なぜそもそも好きになってくれない人ほど好きになってしまうのか?


そこを考えねばなりません。


そこには大きな理由があります。


人間誰でも、心に穴を持っています。


それは劣等感だったりコンプレックスだったり、強い嫉妬心だったり支配欲だったり、様々な形で現れますが、


誰しもが心に穴を抱えています。


穴のない人間などいません。


穴のないように見える人間は、その穴と上手く折り合いをつけているだけです。


自分を知った上で、それでも尚、自分のことを受け入れている。


だから、無理していない、肩肘張っていない、自然なコミュニケーションができるんです。


穴と折り合いをつけられないと、卑屈になったり、攻撃的になります。


人を攻撃してしまう人は、必ず自分を攻撃しています。誰かへの攻撃は自分への攻撃なんです。だから、心中はかなり辛い状況にいるはずです。


話を進めて、


自分の心の穴、自分との関係。


これが上手くいかない人は、相手を見ることができません。


自分のことしか見てません。


相手を通して自分を見ています。


周囲の評価ばかりが気になるということは、それだけ自分が自己中心的だということ。


周りを気にしているから他人のことを思っていると勘違いしている人もいますが、逆です。


自分のことしか考えていないから、周りの評価が気になるんです。


周りの評価を気にする人が増えているということは、それだけ自分のことしか考えられない人間が増えたということであり、


そうであるがゆえに私たちは精神的な孤独状態に陥ったり、相手と信頼関係が築けなかったりと、苦労します。


自分のことしか考えていない状況は、自分の首を絞めます。


いつまで経っても苦しい状況から抜け出すことができません。


ただ、安心してください。


私はいつもどんな人間も変わることができる、と言っていますが、人間関係で悩む人も必ず変わることができます。


変わるというか、本当は自分を取り戻すということなのですが。


様々伝えていきたいと思うので、お楽しみに。

私のプログラムにおいては、1日12時間とか勉強する人がたくさんいますが、1日12時間の勉強というその事実だけで認められることはありません。


たとえ1日12時間勉強していたとしても、その勉強が「実質」を意識した中身のある勉強であるか、が大事。


そして、実質を意識した中身のある勉強というのは、想像以上にハードです。


というのは、自分と、自分の勉強と、そして過去問と徹底的に向き合わないといけないから。


頭を使います。思考します。考えながら、向き合いながら、突き詰めながら学習します。


その作業は決して楽なものではないのです。


私は、1日12時間勉強しているだけの人は、「楽をしている」とみなします。


相当厳しいですね。笑


というのは、「○○していたらいいだろう」という発想がそこにはあるからです。


今回で言えば、量をこなしていたらいいだろう、という発想。


「○○していたらいいだろう」というのは、楽で安易な発想です。


この発想をしている限り、実力はなかなかついてきません。


これは勉強の全てにおいて言えます。


過去問演習していたらいいだろう


単語暗記していたらいだろう


有名なこの参考書をやっていたらいいだろう


ダメです。その発想自体がダメ。


私のプログラムでは、こういった発想ができなくなるくらい徹底的に根本部分を叩き直していきます。


「○○していたらいいだろう」というのは、自分の頭で考えていないし、自分の実力、自分の勉強と全く向き合っていません。


自分置き去りで勉強している状態になってしまっています。


向き合っていないから、考えていないから、そんなことができるのです。


真剣に考え、自分や過去問と向き合っている人間がそういう風に考えることは不可能です。考えられません。


量をこなしていたらいいだろう、というのも同じで、量をこなしさえすれば、努力しさえすれば合格できると思っている。


そんなことはありません。


見当違いな勉強をしているのであれば、たとえ量をこなしたって成績は上がりませんし、目標は達成できません。


そして見当違いな勉強をしてしまうのは、自分の頭で考えず、勉強と向き合っていないからです。


これは、全ての分野において言えます。


人間関係でも、「とりあえず褒めていればいいだろう」とか「愛想良くしていればいいだろう」とか。


それは、相手を全く見ていません。


相手を見ず、テクニックに主眼を置き、しかも自分で考えることを放棄しています。


これは、楽をしているのです。


たとえすごい数をこなしたとしても、楽をしています。


そして、楽をすればするほど、力はつきません。


しかも、楽をしているのに、数はこなしているから「俺は頑張っている」となる。


そういう風に勘違いしていると、『勉強しているのに成績が上がらない』という状況が生まれます。


私から見れば、それは勉強していることにはなっていません。


成績が上がっていないのですから。


厳しいことを言うようですが、大事なのは著書『勉強の結果は「机に向かう前」に決まる』でも書いた通り、「実質」なんです。


中身があるかどうか、それが結果につながっているかどうか、です。


徹底的に、そこにこだわるのが私の勉強法であり、そうであるがゆえに、厳しいものだと言えるでしょう。


1日12時間勉強しても、「全然ダメ」と言われるかもしれないわけですから。笑


ちゃんと考え、向き合い、その上で勉強しているか。


明確に、的確に、学習できているか。


そこが大事です。

毎日毎日、ブログやメルマガを読んでくださっている方から相談メールが届いています。


最近はその数も増え、残念ながら全員にメールを返すことはできていないのですが、今日は一つの相談を取り上げてみたいと思います。


以下の内容です。


『こんにちは。メルマガでいつもお世話になっている、○○と申します。


今回は少し相談があります。


私は実は受験生ではなく、今年(2013年)国立大医学部に入学した1年生です。


今、専門科目は生化学という科目を中心にしたものしかやっておりません。(そういうカリキュラムです)


生化学や細胞生物学は、確かに医学と関わりはあるのですが、私が元来興味を持っていた、疾患や治療などはほとんど含まれません。


かつ、複雑であることも一因となって、これらの科目に対してやる気が出ません。


勿論これらの科目をこなさなければ、進級できません。


医師になるという夢や、疾患や治療への興味は薄れていないはずなのですが、


それを実現するための嫌なこと=現在の生化学に対してやる気が出ないので


実は自分は、大して医師になりたいとは思っていないのではないかと考え始めました。


ですが、それ以上のやりたいことや夢はないし、私は何がしたいんだろうと深く悩んでいます。


やらなければならないことをどうしてもやることができない自分がすごく腹立たしいのに加え、


中学から目指してきた医師という夢が、自分の中でこんなに小さなものだったのかという思いで足元が崩れていく感じです。


今私は路頭に迷っています。


やるべきことができない、ってなんでなのでしょう。やりたいことが見つからないって、どうしたらいいのでしょう。』


はい。回答していきます。


この相談で最も核になる部分を取り上げます。それは、ここ。


「嫌なこと=現在の生化学に対してやる気が出ないので、実は自分は、大して医師になりたいとは思っていないのではないかと考え始めました」


ここです。


ここが、問題の核心部分になります。


この問題については受験コーチングプログラムでも取り上げたことがあるのですが(受験勉強にも関係あり)、


人は原因と結果について、大きな思い違いをしています。


この方のケースでは、


本当は医者になりたくないから、生化学が嫌いなのではないか


と考えてしまっていますが、そうではありません。逆です。


要は、こういう心理的な流れになっています。


生化学が嫌いで、やりたくない。


単純にこの思いがあるわけです。本質的には、ただそれだけの問題です。


おそらくすごく悩まれているのだと思いますが、私から見れば「生化学が嫌い」というただそれだけの問題。


しかし、医学部に合格したということは努力家な方だと思われます。知性もあり、プライドも比較的高いのかな、と。


そうすると、努力できない自分のことは許せないし、認めたくない。努力できない自分はおかしい。


このとき、原因と結果を逆にしてしまうのです。


そもそも自分は医者になりたくないから、生化学の勉強ができないんだ、嫌いなんだ


という思考を生み出します。


行動できない自分を正当化する理由として「医者になりたくないのでは」と考え、行動できない自分を納得させようとしているのではないかと思われます。


例えば、好きな人ができた。アタックした。無理そうだ。


そうなると人は、「そもそもあの子のことが好きではないのかもしれない」と考え始めたりします。


これは、「付き合うことができない」という現実によって傷つきたくないがゆえに持ち出してきた、『後づけ』の理由です。


受験勉強していた。志望校に届きそうにない。


そうすると人は「この大学に行く必要はあるのか?」「受験勉強に意味はあるのか?」と考え始めたりします。


全て、後づけの理由です。


「志望校に届きそうないと分かって」「伸びないという現実にぶち当たって」から、そういうことを考え始めるという事実がそのことを物語っています。


行動したくない、という単純な思いが先にあって、その理由を後から考え、好きなことやりたいことなら努力できるはずだという思考も手伝って、「やりたいことではないからできないんだ」と考える。


そして、進路を変えたりする。


しかし、こういう人はどこに行ってもその思考を生み出し、大事な場面、ここぞという場面でまた方向転換をします。


恋愛でも、受験でも、進路でも、就職でも、何でもそうです。


そしてこれは、現代社会を生きる若者にとても多く見られる思考形態です。


私は人間の心について相当学び、考えてきましたが、人間の心は一歩間違うと人生を大きく変える行動を安易に取ってしまいかねません。


それも、自分の本心とは全く違う方向に、です。


だからこそ、よく自分のことを知ってほしいと願うのですが、


たとえ好きなこと、なりたいものを目標にしていても、嫌いなことは出て来ます。


全てが好きなこと、ということは基本的にはありません。


なりたいこと、好きなことをやっていれば、人生の全てがバラ色で、やりたいことで、ということは現実にはない。


お医者さんの勉強であれば、好きなもの嫌いなもの、あって当然でしょう。当たり前のことです。


全てを好きであるべきだ、なりたい職業なら全てが好きなはず。


その固定観念が、自分を苦しめます。そうやって全か無か、といった思考をしているがゆえに、柔軟に考えることができなくなるのです。


解決策としては、今回の問題は単純に「生化学が苦手で嫌い」というだけの問題だと思われるので、


時間をかけ、先生や友達の手も借りながら、地道に少しずつクリアしていくことをお勧めします。


著書にも書かせていただきましたが、「できる分かるが好きを育てる」です。


まさに今、これとは逆の状況が生まれています。できない分からないからこそ、嫌いなのです。


自らの目標を達成するために通る道であるならば、興味を持とうという意識を持ち、少しでもいいから理解しようとしてください。


やる気が出なくて当然だ、くらいの気持ちになると取り組むことができるのではないか、と思います。


以上です。


多くの若者の悩みを聞いていて、自分なりに思うことがあるのでそのことについて。


多くの人が抱える悩みは、「自分が何なのか分からない」というもの。


自分は何が好きなのか、自分は何がしたいのか、どういう未来を描いていきたいのか。


それが分からない。


これはある意味当然のことで、今社会的に「こうあるべき」というものが多くの面で消失していっています。


女性らしさが否定され、男性らしさも否定され、女は男に近づこうとし、男は女に近づこうとしています。


以前は大企業に行けば安泰と言われ、学歴されあれば良しとされていましたが、そんな時代も終わりました。


こうしておけばいい、というものが無くなっていっているのが今の社会です。


今まで人間の生き方を規定してきたあらゆるものが失われていっています。


それが良いとか悪いとか言っているわけではなく、ただ事実としてそうなっているということを言いたいだけです。


そうすることで、今まで抑圧されてきた人は力を発揮するようになりました。それは歓迎するべきことです。


私自身もそうです。今まで規定されてきた形式から飛び出し、自らの人生を生きるようになりました。


実際に、そうやって今までの規定が破壊されていくことで、人々はより自由に自らの人生を選択することができるようになっています。


ただ、それと同時に起こったことは、上手く自分自身を規定することができず、自分探しの旅に出たり、やりたいこと探しに奔走する人々の出現です。


自分が誰なのか分からない。自分は何をしたいのか分からない。どうやって生きて行こうか。


そんな悩みを抱える人が増えました。


人間は、ある種の「物語」に沿って生きています。


一人一人が自分が紡ぎ出す物語の主人公であり、自分が紡いでいる物語のおかげで、一つ一つの行動に意味を感じることができます。


本来は意味のないこの人生の中で意味を見出すことができるのは、自らが紡ぐ物語があるからです。


そして今までは、その物語は明確になっていた。こうしておけばいい、そうすればこういう人生が歩める、という物語が社会には存在しました。


しかし、それが存在しなくなっている。


この話と関連した話をすると、


以前から水滸伝という本を紹介していますが、この本の面白いところは反乱後の世界を描いているところです。


反乱をしているときは、明確に敵が存在しました。その敵を倒すことが自分が生きるということであり、そうであるからこそ自らの一つ一つの行動に意味を見出すことができた。


しかし、反乱はある形で成功し、敵は明確な形で存在しなくなった。


そのとき起こったのは、これまで戦い明け暮れていた男たちが、生きる意味を見失うという状況です。


自分が紡ぎ出す「反乱」という名の物語。


その物語が終了したのです。


物語があったからこそ得られた「意味」が、物語の消失によって色あせてしまった。消えてしまった。


そして次に彼らが行うことは、「新たな物語を紡ぎ出す」ということ。


自分の人生に意味を創造するために、また新たに物語を紡いでいく。


人生は、その繰り返しです。


そもそも意味が存在するのではなく、意味は自分で作るもの。


そしてその意味なるものは、物語を紡ぐことで生まれます。


現代の日本社会には、水滸伝の中で描かれる世界のような分かりやすい「敵」は存在しません。


生きることだけを考えるなら普通に生きていくことができる。


しかし、人間はただ生きていくことに耐えられるものではない。


何か意味あることをしたいと思う。


思うのだけど、社会的に意味を与えてくれる物語が存在するわけではない。


その結果、人々は迷い苦しみます。自分のアイデンティティについて考えざるを得なくなります。


そのときに人が行う行動は様々です。誰かが与えてくれる意味らしきものに追従したり、依存的になったり、もしくは自ら自らの物語を紡いでいきます。


今求められていることは、自らが自らの物語を紡いでいくこと。


それは簡単なことではありませんが、そうすることで私たちは生きる意味を実感することができます。


私たちは一人一人が自分で描く物語の主人公です。


そしてその物語は好きに描いていい。


最初から存在する自分らしさなどは存在しないけれど、それは所詮、周りから与えられたものだったりするのだけど、


自分が自分で「これが自分だ」という自分を選択し、創造していくこと。


その姿勢が今必要とされています。


少し分かりにくかったかもしれませんが、今後ブログやメルマガなんかを読んでいただければより明確に理解することができるはずです。

新年早々、「変わりたいけど、変われないんです」といった内容のメールが来ました。


今年の一つ大きなテーマがこのブログやメルマガを読んでくれている人を勝たせること。


ですから、こういった変わりたいけど変われない、という人がどういう状況なのか、何をしていけばいいのかということについて書いていきます。


まず、人は自分が思う通りの人生を生きています。これを認めないといけません。


自分が望んだ通り、願った通りの現実になっている。


で、変わりたいけど変われないという人は、実際のところ変わらないでいたいという思いの方が強いのです。


これは別の記事にも書きましたが、今たとえどこかに不満を抱えていたとしても、その不満は「不安」よりもマシ。


不安というのは、分かりやすく言えば恋愛で好きな人に告白するときの不安を想像してみてください。


未来がどうなるかは分かりません。行動すれば良い結果になるか悪い結果になるかは分からない。


不安なわけです。


しかし、現状を維持し続けていれば少なくとも予測可能な未来が待っています。


今まで慣れ親しんできた状況、予測できる毎日が待っています。そこに不安はありません。


不満はあっても、不安はないのです。


だから、変わらないでいることを選びます。


受験勉強に関して言っても、「本気になれないんです」と言う人は大抵、本気になりたくないだけです。


なぜ本気になりたくないかというと、本気を出さずにいれば「俺はまだやれる」「まだ本気を出していないだけ」と言い訳を続けることができるからです。


可能性はまだある、と思いながら生き続けることができます。


告白しないのも、可能性の中に生きていたいからです。


まだあの子を振り向かせることはできる。そういう可能性の中に生きることは楽ですし、夢を見ながら生きることができます。


希望を断たれてしまえば、生き辛いものです。希望があるから生きて行ける。


だからこそ人は、その希望を失いたくないがゆえに本気を出すことをためらってしまうものなのです。


一度本気を出してしまえば、言い訳することはできません。


自分は無力だと感じ、価値はないと感じてしまいかねません。


言い訳することはできないからです。


それを極端に怖れる人たち、つまりは一つの失敗にダメージを受けるほど自己肯定感が低く、劣等感が強い人は、そうであるがゆえに行動することを避けます。


やる気が出ないと言い訳し、やりたいことではないと自分を納得させることで、乗り越えるべき壁から目を逸らし続けるのです。


そしてまた可能性の中に生きることを選びます。


しかし、それは無限に続きます。


無限に可能性の中に生きることを続けることで知らない間に年を取り、残された時間は少なくなってしまいます。


大事なのは、今なんです。今、自分が向き合うべき壁と向き合うこと。


そうすることでしか、人生の道は開けてこないのだと思います。


また、より深く書いていきますね。今日はこのへんで。

明けましておめでとうございます。ついに2014年が始まりましたね。


私はと言えば、特に変わらない日常ですが、かなり自分自身に気合いが入っていることを感じています。


この気合いはずっと続くんじゃないかな、という種類のもの。


受験生時代は、1日だけ遊んでしまいましたが、それ以外は勉強かバイト。バイトが終わってからは1日10~12時間ほどの勉強を毎日していたわけですが、それくらいできるんじゃないかな、と。


今日とかも朝起きてからずっと考えたり本を読んだりして過ごしていました。元旦なのに。笑 そんなことは関係ないんですよね。


で、こういう状態に入ると基本的に他のことがあまりできなくなってしまったり。


サッカーの天皇杯を楽しみにしていて観ていたのですが、途中から「もういいや」ってなってまた本を読んだり。


こういう状態に入ると、基本的にどんどん行動していくので目標も自然に達成していくもの。


で、2014年の自分にとってのテーマは二つあって、一つは「修行」。


つまり、自分自身をレベルアップさせること。まだまだ自分は限界に挑んでいないし、もっとやれるな、と思っています。


だから、徹底的に修行をする。修行の中の具体的なテーマもすでに決めています。


これは、個人のテーマ。


で、もう一つが、自分に関わってくれた人をどれだけ勝たせることができるか。


ブログを読んでくれたり、メルマガを読んでくれたりしているあなたを、勝たせること。


勝つということの意味は一人一人違うし、人生は競争ではありませんから、勝つという言葉がふさわしくないものもあると思いますが、イメージの話。


受験だけではなく、人生のあらゆる分野において。


そんなことを、いろんな形で2014年はやっていきたいと思っています。


で、早速ですが、1月に入ったということで、センター試験も近づいて来ていますから大事なことを言います。


この時期、「スランプに陥ってしまいました」という声を聞きます。


しかし、私から言わせれば、スランプは幻想だし、自分で意図的に生み出しているケースがほとんどです。


というのは、勉強していて成績が下がるということは基本的にはあり得ないことで、問題を解いているときにたまたまできないことが続いた、または肉体的な面で問題があってやる気が出ない、といったことがスランプの原因としてあります。


でも、そんなのは「たまたまだ」と思えばいいのだし、肉体面の休息を取ってしまえばいいだけ。


もっと言えば、「スランプ」という言葉が存在することで「スランプ」が存在しているに過ぎません。


言葉が現象を生み出します。これは、「うつ」も同じです。うつという言葉が存在することによってうつは存在するわけです。


ここは大事なところなので、よくよく考えてみてください。


さらに、自分が意図的に生み出しているとはどういうことかというと、


勉強を続けてきて、もう疲れた。休憩を取りたい。勉強するのはたくさんだ。


そう思ったとき、人間は、勉強しないでいい理由を作り上げようとします。


スランプだから勉強できないのではなくて、勉強したくないからスランプを作り出した。


スランプを作り出すことによって、自分を勉強しないでいいように持って行く。言い訳を作り出すわけです。


自分のできないところにフォーカスを当て、できない理由を数え上げ、そのせいで自分は勉強ができないとする。


対外的にも、「スランプなんだ」と言えば、「そうなんだ、仕方ないね。休んだらいいよ」を言ってもらうことができ、堂々と休むことができます。


ここで大事なのは、別に休むことは何の問題もないということ。


休憩することは大事だし、この時期にはストレスも増えやすいものですから休憩は余計に必要になります。


わざわざスランプだとか思い悩む必要は全くなくて、ただ素直に休めばいい。ただそれだけ。


スランプだと思い悩めば、人は「できる」と思えなくなるし、否定的でネガティブな考えが頭を占有するようになります。


結果、どんどん勉強時間は減って行き、結果的に本当に合格から遠ざかってしまったりする。


自分で作り出して幻想に脳を支配され、その幻想によって現実を支配されてしまうのです。


スランプという幻想が生み出す最大の悪は、ここにあります。


幻想が幻想を呼び、現実を歪めていく。


それは、避けねばなりません。


だからこそ、今話してきたことを理解しておくことが重要なのです。


スランプとは幻想であり、あなたが勉強してきたことは無駄ではないし、疲れたのなら素直に休む。


それだけで、OKです。


何も深刻になることはなく、自分を肯定し、自分の勉強を肯定し、適度な休憩を取りながら今まで通りに勉強を続ければOKです。


はい。


今回話したいことはこんな感じです。


これからもこれまで通り、このブログを読んでくださる方が自分のとっての勝利を得られるような、そんな記事をお届けしていきたいと思います。


2014年も、よろしくお願いします。