多くの若者の悩みを聞いていて、自分なりに思うことがあるのでそのことについて。
多くの人が抱える悩みは、「自分が何なのか分からない」というもの。
自分は何が好きなのか、自分は何がしたいのか、どういう未来を描いていきたいのか。
それが分からない。
これはある意味当然のことで、今社会的に「こうあるべき」というものが多くの面で消失していっています。
女性らしさが否定され、男性らしさも否定され、女は男に近づこうとし、男は女に近づこうとしています。
以前は大企業に行けば安泰と言われ、学歴されあれば良しとされていましたが、そんな時代も終わりました。
こうしておけばいい、というものが無くなっていっているのが今の社会です。
今まで人間の生き方を規定してきたあらゆるものが失われていっています。
それが良いとか悪いとか言っているわけではなく、ただ事実としてそうなっているということを言いたいだけです。
そうすることで、今まで抑圧されてきた人は力を発揮するようになりました。それは歓迎するべきことです。
私自身もそうです。今まで規定されてきた形式から飛び出し、自らの人生を生きるようになりました。
実際に、そうやって今までの規定が破壊されていくことで、人々はより自由に自らの人生を選択することができるようになっています。
ただ、それと同時に起こったことは、上手く自分自身を規定することができず、自分探しの旅に出たり、やりたいこと探しに奔走する人々の出現です。
自分が誰なのか分からない。自分は何をしたいのか分からない。どうやって生きて行こうか。
そんな悩みを抱える人が増えました。
人間は、ある種の「物語」に沿って生きています。
一人一人が自分が紡ぎ出す物語の主人公であり、自分が紡いでいる物語のおかげで、一つ一つの行動に意味を感じることができます。
本来は意味のないこの人生の中で意味を見出すことができるのは、自らが紡ぐ物語があるからです。
そして今までは、その物語は明確になっていた。こうしておけばいい、そうすればこういう人生が歩める、という物語が社会には存在しました。
しかし、それが存在しなくなっている。
この話と関連した話をすると、
以前から水滸伝という本を紹介していますが、この本の面白いところは反乱後の世界を描いているところです。
反乱をしているときは、明確に敵が存在しました。その敵を倒すことが自分が生きるということであり、そうであるからこそ自らの一つ一つの行動に意味を見出すことができた。
しかし、反乱はある形で成功し、敵は明確な形で存在しなくなった。
そのとき起こったのは、これまで戦い明け暮れていた男たちが、生きる意味を見失うという状況です。
自分が紡ぎ出す「反乱」という名の物語。
その物語が終了したのです。
物語があったからこそ得られた「意味」が、物語の消失によって色あせてしまった。消えてしまった。
そして次に彼らが行うことは、「新たな物語を紡ぎ出す」ということ。
自分の人生に意味を創造するために、また新たに物語を紡いでいく。
人生は、その繰り返しです。
そもそも意味が存在するのではなく、意味は自分で作るもの。
そしてその意味なるものは、物語を紡ぐことで生まれます。
現代の日本社会には、水滸伝の中で描かれる世界のような分かりやすい「敵」は存在しません。
生きることだけを考えるなら普通に生きていくことができる。
しかし、人間はただ生きていくことに耐えられるものではない。
何か意味あることをしたいと思う。
思うのだけど、社会的に意味を与えてくれる物語が存在するわけではない。
その結果、人々は迷い苦しみます。自分のアイデンティティについて考えざるを得なくなります。
そのときに人が行う行動は様々です。誰かが与えてくれる意味らしきものに追従したり、依存的になったり、もしくは自ら自らの物語を紡いでいきます。
今求められていることは、自らが自らの物語を紡いでいくこと。
それは簡単なことではありませんが、そうすることで私たちは生きる意味を実感することができます。
私たちは一人一人が自分で描く物語の主人公です。
そしてその物語は好きに描いていい。
最初から存在する自分らしさなどは存在しないけれど、それは所詮、周りから与えられたものだったりするのだけど、
自分が自分で「これが自分だ」という自分を選択し、創造していくこと。
その姿勢が今必要とされています。
少し分かりにくかったかもしれませんが、今後ブログやメルマガなんかを読んでいただければより明確に理解することができるはずです。