タイで12回目のボランティア旅行:続き
湖でキャンプ
タイでも3月は卒業式のシーズンです。去年も卒業式に出て、その後、孤児院の子供たちをキャンプに連れて行ってあげました。それが楽しかったので、今年もそうすることに。キャンプと言ってもダムでできた湖の小さな無人島。大きないかだを曳航船に引っ張ってもらって岩場に着岸し、寝泊りや食事はいかだの上です。
一泊二日で、2回子供たちに話をするように言われていたのですが、二日目は卒業する子供たちに話してもらいました。彼らは、キャンプの翌日、里の村に帰り、長い夏休みを過ごしたり、進学する子はその準備をしたりします。タイは4~5月が一番暑いので、3月末から夏休みなのです。
卒業生たちがみんなと過ごせるのはこの日が最後ですので、その心境を話してもらいました。高校を卒業して大学に進学する子が三人と、中学を卒業して、何らかの理由でほかの市の高校に行くために孤児院を出る子が三人です。
最初に話したのはT君。彼に限らずみんな恥ずかしがり屋で、何を話せばいいのか困っている様子。そこで私が質問をしました。
去年、チームメンバーのY君が彼にサッカーボールを買ってあげました。彼は、今年中学を卒業したのですが、体育専門の高校にサッカー選手として受かったのです。そのため、別の市に引っ越さなければなりません。Y君のサッカーボールが練習の役に立ったかと聞くと、うなずいていました。Y君の小さな心遣いが、彼の一生を変えるかもしれません。Y君は、今年も孤児院にサッカーボールを二つ寄付しました。
一番感動したのは、6人の中で孤児院滞在期間が最も長かったMちゃん。私は、彼女が10年前にお兄ちゃんと一緒に孤児院に入った時、私とよく鬼ごっこをしていました。そのほかにも当時の思い出話をして、覚えているかと聞いたら、首を振りながら泣き出してしまいました。進学先は、お兄さんが働いているバンコクだそうです。
今年から孤児院のサポートを始めるSさんやそのほかのメンバー、孤児院の世話をしている御夫婦などにも話をしてもらって、大変いい時を持つことができました。タイの卒業式は直前まで予定が決まらないので旅程を組むのに困るのですが、彼らの人生の節目に来たいと思ったのは、私だけではないでしょう。
貧しい子供たち
Mちゃん(卒業生のMちゃんとは別人で12歳)とSちゃん姉妹は、孤児院に入っているわけではないのですが、メソトの教会がサポートしています。二人はキャンプにも一緒に行きました。孤児院のCちゃんはMちゃんの同級生で、Mちゃんがお弁当を持って来ないことがあり、毎日同じ服を着ているので、教会の牧師さんに相談しました。教会は、二人の昼食代を出してあげることにしたのです。
お父さんが亡くなり、お母さんは家政婦の仕事をしているそうですが、一軒半日で収入は150バーツ、約730円だそうです。それも、仕事があればの話。タイの物価も上がってきて、日本とそう変わらなくなってきた感じがするのですが、730円では生活できません。
ところが、この姉妹はすごく明るくてとてもかわいい。家が教会のすぐ近くにあり、そうと知らないで通りかかったときに、Sちゃんが家から飛び出してきて飴をみんなにくれました。
見ると、家は、一部屋の掘立小屋。チームのI君のごみ屋敷よりひどい住居です。I君は、来年は彼らの家を直してあげようかと言ってましたが、自分のアパートもちょっときれいにしたほうがいいのでは?
Sちゃんにお返しをしようと思って、ハワイから持ってきたお菓子を携え、Cちゃんと一緒に尋ねてみました。あいにくSちゃんはお友達の家に遊びに行っていませんでしたが、Mちゃんとお母さんがいたので、いくらかお金を渡しました。学校がある間は教会がお昼ご飯代を出してくれると聞いていましたが、長い夏休み中はそれがないのではないかと思ったからです。
私は、お母さんに上げるように伝えてMちゃんにお金を渡し、お母さんにどう言えばいいか分からなかったので、すぐに立ち去りました。お母さんは家から出て来ませんでした。お母さんもどう対処してよいか分からなかったのでしょう。Cちゃんに、あの子たちは本当に貧しいねと言ったら、リッチじゃないけど、それほど貧しくもないという答え。えっ、と思ったのですが、そう言えば、Cちゃんも同じ境遇です。
実は、私は個人的にCちゃんをサポートしていて、今回も、小学校卒業祝いに中古のスマホを買ってあげました。8人兄弟の末っ子で、お父さんが亡くなってから家族は極貧状態。下の3人が孤児院に預けられました。お姉ちゃんのSちゃんは今年高校を卒業して孤児院を出ることになり、看護学校に入学するそうです。進学手続きのためか、二人ともキャンプ翌日に里帰りせず、孤児院に残っていました。
チームメンバーも全員帰り、一人残っていた私がメソトを出る日、バス乗り場まで送ってもらうために車に乗ろうとしている私めがけて、Cちゃんが走ってきました。手製のカードを渡してくれたのですが、「私の二人目のお父さんへ」と書いてありました。私は、年齢的には彼女のおじいさんですが、ハグして別れました。
私の教会が孤児院のサポートを止めたので、もう私が来なくなるのではないかと心配していたようです。再会を約束してお別れしました。それにしてもまるで映画のシーンのようなタイミング。もう少しでカードをもらい損ねるところでした。
卒業生と10年ぶりの再会
私は、タイでの最後の一晩を、一足先にバンコクに行っていた次男と過ごしました。10年ほど前に孤児院を卒業したS君と妹のBちゃんがホテルに来てくれて、一緒に食事をしました。二人とも英語が好きで、今は英語の先生をしているのですが、特にBちゃんの英語が、ネイティブじゃないかと思うほど上達していてびっくり。日常会話もままならなかった孤児院時代からは、想像もできません。
驚いたのはそれだけではありません。実は、私はBちゃんに関してあまり良くない想い出がありました。あれは確かBちゃんが高校を卒業する前のクリスマス。孤児院を運営している教会のスリウィッチャイ牧師に、子供たちにプレゼントを買ってあげたいのだが、何か必要なものはないかと聞きました。彼に、靴を買ってあげて欲しいと言われ、孤児院のスタッフのビサヌがみんなを安い靴屋に連れて行ってくれたのです。
ところがBちゃん、タイ語で「こんな安物の靴は履けない」と言っていたのだと思うのですが、買おうとしません。結局ビサヌが適当に彼女の靴を選んで買いました。タイは、お隣のミャンマー、カンボジア、ラオスほど貧しい国ではありません。孤児院の子供でも、女子高生ともなれば、学校の上履きみたいな安物は履きたくなかったのでしょう。その事件以外にも不満が多い子でしたので、あまりいい印象は持っていなかったのです。
ところが10年ぶりに会って、すっかり変わっていました。「私の人生は、どこに行っても神様が周りに本当にやさしい人を送ってくださり、すごく祝福されている」と話していました。私と次男、そして今回行けなかった家内のためにお土産を持って来てくれ、帰るときにはお祈りをしようと言われて、祈って別れました。何という変わり様。彼女の人生の一部を担えて、嬉しいです。
サポートにご興味ある方や、行ってボランティアをしたい方は、ご連絡ください。あなたもBちゃんが言う「やさしい人」になれるかもしれません。いや、もしかしたら、誰かの二番目のお父さんかお母さんになれるかも。
タイで12回目のボランティア旅行:全面的サポートを止めることに
孤児院サポート、奇跡の引き継ぎ
私は、103歳の母の介護で日曜日に教会には行けないのですが、去年2月、まだ元気だったころ母が通っていた松山の教会を訪ねる機会がありました。その日は東京に行かなければならない用事があり、朝、母にショートステイに入ってもらったのです。私は、その後教会に行って、礼拝後、空港に行きました。教会では、母が元気にしていることを皆さんに伝え、翌月タイに行くことを話しました。
私が以前牧師をしていたハワイの教会は、同じ教団のタイの教会が運営している孤児院を全面的にサポートしてきました。しかし、母の介護で5年前に牧師を辞めなければならなくなったのです。教会に残っていた献金を孤児院のサポートのために使っていたのですが、あと1年でそのお金もなくなるという状態でした。その事情を説明して、後を引き継いでくれる教会、あるいは人を探しているという話をしたのです。
その教会にSさんという中小企業の社長さんがいます。忙しい方で、日本だけでなく、世界を駆け巡っており、教会に来ることはめったにないのですが、その日はたまたま来ていました。その彼が、礼拝後、金額がいくらかも聞かないで、サポートを買って出てくれたのです。来年は一緒に行きましょうという話をして別れました。正に、神の摂理による導きでした。
こうして、去年3月、タイで孤児院の運営費1年分を渡したのですが、それで終わりではなく、続けてくれる人が見つかったことを伝えることができました。そして今年3月、Sさんは、お子さん二人と仕事仲間を一人連れて来ることになりました。こうして、今年は過去最高の11人のチームメンバーが日本やハワイから集まりました。
Sさんと子供さんたち
特殊詐欺とイラン攻撃
孤児院はミャンマーとの国境に面したメソトという市にあり、国境の向こう側は、去年特殊詐欺事件で有名になったところです。そのため、今年も当局の取り締まりが厳しく、4人がメソト市に入る直前の検問所やメソト空港で止められ、教会の人に迎えに来てもらわなければなりませんでした。私は歳のせいか無視されました。
しかし、今年の最大の問題はホルムズ海峡閉鎖によるガソリン不足。6人はバンコクやチェンマイの空港からレンタカーやハイヤーで行きましたので、ガソリンが買えるかどうか不安でした。特にメソトはほかの市に比べて不足しがちで、ガソリンスタンドには車やトラックの長蛇の列。幸い、全員無事に往復できました。
全種類売り切れのサイン
ホテルアメニティーが人気
次男は職場で今回の旅行について同僚に話し、何人かが寄付をしてくれました。その中に、ホテルなどでもらえる旅行用のアメニティーなどを大量にくれた人がいました。次男はホームレスシェルターで働いているのですが、多分そこに寄付するつもりで集めた物のお裾分けでしょう。中サイズのスーツケースが一杯になる量で、重量制限の23キロぎりぎりでした。
問題は、これを30人の子供たちにどう分けるか。結局、全部大きなテーブルの上に並べ、全員に袋を渡し、欲しいものを一斉に取ってもらうことにしました。
孤児院のダイニングはバーゲンセール状態。英語なので何がなんだからわからないままとりあえず袋に入れる子もいて、スマホで翻訳してあげました。生理用のタンポンもあったのですが、小さな女の子や男の子たちが取って袋から出し、何だろうと不思議がっているのを見て、みんな大爆笑。意外に好評で、これはまたやる価値あり。
開店前の準備中
滞在中の毎日の仕事は?
今年頼まれた作業は、孤児院の塀の塗装と、その裏の土地のフェンスの修復作業。修復と言うより、取替でした。これは結構大変な仕事なので、教会の人主導で私たちはそのお手伝い。塗装は、子供たちに手伝ってもらった以外は、私たちでやりました。塗るより、その前に塀の汚れを取る方が大変でした。
Y君はワーキングホリデーを利用してオーストラリアの鉱山で働いています。一週間働いて一週間休むというシフトで、その休みを利用して短期間ですが今年も来てくれました。鉱山の機材の錆を防ぐための塗装も彼の仕事の一つで、大型トラックでなければ運べないサイズのコンプレッサーを使っているそうです。彼が近くの店で小さなコンプレッサーを買ってくれて、塗装が終わった後、教会に寄付してくれました。
塀がきれいなピンクに
私が属しているIREM(全米不動産管理協会)や教会にも、個人的にサポートしてくださっている方が複数いらっしゃいます。Gさんもその一人で、今回もタイに来て塗装を手伝ってくれました。彼は不動産会社の社長さんですが、一緒に来てくれたAさんは保守担当ですので、こういうことは知識が豊富。ボロボロになった孤児院のソファーも直してくれて、見違えるようになりました。(続く)
一つの脳、二つの心——ケチャップが解き明かす「感情共有」の謎
去年6月、神経外科の教授であるマイケル・エグナー博士の、魂の存在と不死性に関するブログを書きました。今回も彼の研究をご紹介します。
https://ameblo.jp/junjiono/entry-12913623165.html
カナダに住む結合双生児、クリスタとタチアナ・ホーガン姉妹は、頭部が結合しているだけでなく、「視床(ししょう)」という脳の中枢部分を共有しています。頭部でつながっている双生児は数多くいますが、彼女たちのように、視床を共有すると言うことは、極めて珍しいそうです。
まず、視床の共有によってどういうことが起きるか、簡単にご紹介しましょう。クリスタがテレビを見ていると、タチアナにも見えています。後頭部で結合していますので、二人は逆方向を向いているのですが、二つのスクリーンを同時に見ているような感じなのでしょうか。
クリスタがコップを取ろうとして、それがタチアナのそばにある場合、タチアナの手を使って取ってもらうことができます。相手の体は全部完全にコントロールできるわけではないのですが、タチアナは、頼まれたわけでもないのに、手が勝手に動くのだそうです。
喧嘩をするときは大変。クリスタがタチアナを叩いても、痛いのはタチアナだけではありません。自分も痛いので、喧嘩はほどほどに。
前回のブログでは、脳を二つに分けても人格は一つのままと言う例が出て来ましたが、今回はその逆。視床を共有しているのに、人格は二つなのです。これも、エグナー博士の脳と魂の分離のエビデンスの一つなのですが、視床共有の医学的影響を十分に理解できない私には、判断できません。ただ、今日は、感情の位置づけについて考えさせられましたので、共有したいと思います。
不思議なことに、「感覚は共有しているのに、感情は共有するものとしないものがある」という現象です。彼女たちの事例が教えてくれる「共有できる感情」と「共有できない感情」の違いについて掘り下げてみましょう。
1. ケチャップのパラドックス:同じ味、違う反応
ホーガン姉妹の「意識の分離」を最も象徴的に表しているのが、幼児期の「ケチャップ事件」でした。クリスタはケチャップが大好きですが、タチアナは大嫌い。ある時、クリスタが美味しそうにケチャップのかかった料理を食べていました。すると、何も食べていないタチアナが顔をしかめ、まるで自分の口の中の汚れを拭うかのように舌を拭き始めたのです。
ここで脳内に起きていることを整理してみましょう。
- 共有されているもの(入力): 「酸味」「甘味」「冷たさ」などの味覚の電気信号。これらは視床と言う架け橋を通って、二人に平等に流れています。
- 共有されていないもの(出力): 「美味しい!」という快感と、「不味い!」という不快感。これは、それぞれの人格がその信号をどう評価したかによる結果です。
この事実は、私たちに重要なことを教えてくれます。それは、「感覚データ」と「心の反応」は別物であるということです。
2. 共有される感情:身体の叫び
では、彼女たちは何もかもがバラバラなのかというと、そうではありません。「感情」の中でも、より本能的で身体に近い部分は共有されているようです。つまり、より動物的な感情です。痛みや快不快といった、生存に直結する生理的な情動は、脳のハードウェアに強く依存しているため、脳がつながっていればそのまま伝わってしまうのです。
3. 共有されない感情:魂の領域
一方で、高次の感情や「意志」は驚くほど独立しています。クリスタがおしゃべりで冗談好きなのに、タチアナは静かで時に気難しいなど、性格は全く異なります。
また、彼女たちは自分の手足を動かすだけでなく、相手の手足を動かすこともできますが、「私の手」「彼女の手」という所有感覚は幼いころから区別できています。理性、信念、複雑な好みといった「人格の核」となる部分は、たとえ脳を物理的に共有していても混ざり合うことはないのです。
4. 結論:私たちは「入力」以上の存在である
ホーガン姉妹の事例は、「感情」には階層があることを示しています。
- ベースレイヤー(共有可能): 痛み、空腹、単純な快・不快。これらは生物としての「OS」のようなもので、ケーブルをつなげば共有できます。
- トップレイヤー(共有不可能): 好み、知識、価値観。これらは、その人が生きてきた記憶や意志によって作られる「アプリケーション」であり、誰とも取り替えることができない「私」そのものです。
好み、知識、価値観は共有できないと言うことですが、ちょっと気になることがありました。まず知識ですが、勉強は、試験に備えるために、私は英語を勉強するからあなたは数学を勉強して、と言うのはだめ。二人とも全部勉強しないと落第です。これは納得できますし、知識と感情は直接的な関係が薄いので比較対象から外しましょう。問題は、もっと感情に深い関係にある好みや価値観です。
私のいとこが大学時代に魚の心理を研究していました。どのような状況下で餌を与えるかによって、その餌の好き嫌いが決まるのだそうです。「金魚すくいをしながらやった餌は嫌いになるのか」などと言ってからかっていましたが、好き嫌いも学習するものだそうです。味覚は肉体に直結しているのに共有されない理由が、ここにあるようです。
しかし、魚でも学べる食べ物の好みと、ホーガン姉妹が大人になるにつれて築いていく価値観などとは、階層が違うと思いませんか。ケチャップが健康に良いかどうかは別として、その好き嫌いはどちらでもよいことです。しかし、価値観は単なる好みの問題ではありません。ですから、先述したトップレイヤーも、さらに二つに分かれていると思うのです。
去年のブログに書いたことですが、てんかん手術のパイオニアであるワイルダー・ペンフィールドが、患者の脳表を電気刺激し、様々な反応を観察しました。感情は誘発できましたが、抽象的な思考や理性を誘発することは一度もなかったと報告しています。
彼は、「知的な発作」が存在しないことにも注目しました。てんかん発作では、感情が爆発することはあっても、複雑な計算や論理的思考を強迫的に行い、それを止めることができないといった種類の発作は報告されていません。これも、抽象的思考や理性といった心の高度な側面が、脳の特定の部位から直接生じるものではない可能性を示唆しています。
そこでですが、好みと感情は常に連動しています。好物を食べると常にうれしいですが、自分の感情に逆らって価値観に沿った決断をしなければならないことは多いのです。例えば、人を憎むことは良くないという価値観を持っていても、それで「憎い」という感情が消えるわけではありません。特に、私がクリスチャンになった時のように、価値観が急変したときなどはそうかもしれません。
この価値観と感情の乖離は、価値観が理想的であるほど大きくなります。私も、クリスチャンになってこの乖離が大きくなりました。理想は高くても、行動や感情はついていかないので、偽善者と呼ばれても仕方がありません。
それに比べて、成熟している人、精神的に健康な人は、この乖離が少ないように見えます。神は人ではありませんが、精神的に完全な人格(神格)を持つ方として、比較してみましょう。
例えば、神が私を愛していると言うとき、「神なんだから私みたいな人間でも愛するのは当然」と言う価値観だけで愛しているわけではありません。神は本当に私が好きで、私が悲しんでいるときは共に悲しみ、私が人を傷つけたときには怒ることもあるでしょう。
神にも感情はあるのですが、神の感情は、神の価値観に一致しているのです。私たちも、その一致に近づくことが人間としての成長ではないでしょうか。もちろん、このレベルの感情は私たちの人格の一部なので、脳を共有していても共有できないと言うのは納得できます。
例えば、なかなか人を赦せないとしましょう。神は私を赦してくださったのだから、私も赦すべきだということは分かっていても、なかなかその気にはなれません。赦す気になるのを待っていたのでは、いつになるか分かりません。
私は、「赦す」と言う決断をしなければならないのです。しかし、「赦せない」と言う感情がすぐになくなるわけではありません。赦しのプロセスについて詳しく考察することが本題ではないので止めますが、私の感情が癒されれば、私の価値観と感情が一致してくると言うことになります。これが、私が成長すると言うことなのだと思います。
さきほど「決断」という言葉を使いましたが、誘惑や衝動から起きる意志と、自由意志は違います。多くの唯物論者は自由意志を否定しますが、その論拠は因果的決定論(物理法則と過去の状態が現在を決定する)に基づくものです。唯物論者でありながら自由意志を肯定する学者(両立論)も多いですが、彼らは、それらを両立させるために自由意志を再定義しています。
純粋な唯物論は、「行為の原因は脳内の物理過程に還元され、主体的な非物理的選択は存在しない」と結論づける点に集約されます。つまり、例えば動物がバナナを食べようとするとき、それは自由意志ではなく、空腹と満たそうとする神経回路によって促された行為に過ぎないのです。人間の決断はもっと複雑ではあるが、基本的に同じという考え方です。
しかし、ほとんどの方は自由意志を認めるでしょう。人間は、バナナを食べようと思っても、「カロリーが高いので止める」と言う決断をすることができます。
ベンジャミン・リベットは、被験者が自発的に手首を動かそうと意図する約0.5秒前に、脳活動(準備電位)が記録されることを発見しました。これは一見、意志決定が無意識的な脳活動によって先行されることを示唆すると解釈されているようです。
しかし、彼は、意識的な意図が生じた後、実際に行動を起こすまでの短い時間(約0.15秒)に、その行動を「拒否する」自由があることも示しました。バナナを食べないと言う決断です。そして重要なことに、この「拒否」の際には、準備電位のような先行する脳活動は見られなかったのです。
これは、誘惑(行動への衝動)は脳から生じるかもしれないが、最終的な選択は自由意志によるものである証拠と解釈できます。そして、その自由意志を司る部位は脳には見当たらないのです。
人生は、自然発生的な衝動や誘惑と、私たちの価値観から来る自由意志の戦いです。これは、例え脳がつながっていても、ホーガン姉妹を二人の人格たらしめる人間の本質です。私は、自由意志の存在を否定しません。自由には責任が伴いますが、人間として、責任ある人生を送りたいものです。





