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ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が61回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。






旗揚げ前夜からパイオニア戦志まで――『実録・国際プロレス』、『東京12チャンネル時代の国際プロレス』に続く「第3団体」盛衰録第3弾!

内容紹介
 プロレス専門誌『Gスピリッツ』に掲載された国際プロレス関連のインタビュー、対談、評伝を加筆修正し、本書のための書き下ろし記事(ミスター珍の評伝)も加えた、ディープかつマニアックなアーカイブ集。1966年に団体が設立された経緯から、1981年の崩壊劇、さらに日本初のインディー団体となる1989年のパイオニア戦志旗揚げまでについて、貴重な証言および写真とともに約500ページもの大ボリュームで振り返る。

目次 
吉原功 
マティ鈴木
グレート草津 
サンダー杉山 
マイティ井上 
ヤス・フジイ 
大剛鉄之助 
追悼‐ビル・ロビンソン(門馬忠雄×清水勉) 
ミスター珍
 鶴見五郎×大位山勝三 
木村宏(ラッシャー木村次男)
 田中元和(元東京12チャンネル『国際プロレスアワー』チーフディレクター)
 ジプシー・ジョー 
ミスター・ポーゴ 
マイティ井上×高杉正彦
 追悼‐阿修羅・原(鶴見五郎×高杉正彦) 
新間寿(元新日本プロレス営業本部長)
 アポロ菅原
 マッハ隼人 
高杉正彦



今回は2023年に辰巳出版さんから発売されましたGスピリッツ編の『国際プロレス外伝』を紹介させていただきます。


辰巳出版さんが手掛けた国際プロレスシリーズは本作で『実録・国際プロレス』と『東京12チャンネル時代の国際プロレス』に続いて3冊目。 


「アンダーグラウンド」(村上春樹)級プロレス巨編~「実録・国際プロレス」おすすめポイント10コ~ 




約500ページに渡るとんでもない厚みを誇るプロレス歴史本。はっきり言って、面白いを通り越してクレイジーだと思います(笑)

なぜ、そこまで40年以上前に潰れた団体を追いかけるのか。
なぜ、国際プロレスは未だにオールドファンの心に残り続けているのか。
なぜ、国際プロレスは、日本プロレス界のパイオニアと呼ばれているのか。
なぜ、国際プロレスは新日本プロレスや全日本プロレスに敗れて崩壊していくのか。


本当に不思議です。 
でも得体のしれない理由があるからこそ人は国際プロレスを語りたがるのかもしれません。


今回は『国際プロレス外伝』の中で特に個人的な気になったところをプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!


★1.ずっと気になっていたマティ鈴木のインタビュー
【証言/マティ鈴木

この本には、国際プロレス創立メンバーのひとりであるマティ鈴木さんのインタビューが掲載されています。これはかなり貴重です。

まずマティ鈴木さんについて強烈な印象がひとりありまして、私がプロレスファンになった1992年。親戚の叔父さんが録画していたビデオの中に全日本プロレス20執念記念特番があり、そこでジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さん、三沢光晴さんの名勝負が取り上げられていました。

1974年12月2日 鹿児島県立体育館で行われたジャック・ブリスコvsジャイアント馬場のNWA世界ヘビー級選手権試合。悲願のNWA王者を目指す馬場さんが終盤に得意の河津落としを決めるも王者ブリスコがロープエスケープ。するとマットを叩いて悔しがるセコンドがいました。それがマティ鈴木さんでした。実況でも「悔しがる、マティ鈴木」と紹介されていました。最後、馬場さんが伝家の宝刀ランニング・ネックブリーカードロップで3カウントを取り、NWA王者となると真っ先に馬場さんにかけつけて喜びを爆発させていたのがマティさん。

この熱血セコンドの姿が当時12歳の私の脳裏にずっと残っていました。あれから31年。マティ鈴木さんのインタビューで、彼がどのようなレスラー人生を歩んだのか知ることができました。

実はマティさんは、馬場さんやアントニオ猪木さんよりも先に日本プロレスに゙入門してデビューしていたのですが、実家の事情で一度プロレスから離れて4年後に戦列に復帰したという苦労人だったのです。

マティさんは国際プロレス時代には日本人レスラー育成を担当していました。その中で国際プロレス創世記に組んでいた吉原功代表と外国人レスラー招聘担当のヒロ・マツダさんがなぜ決裂したのかという理由について明確に答えているのです。

「結局、ボタンの掛け違いというかなぁ。マツダさんは日本に『エディ・グラハム(アメリカ・フロリダ地区のプロモーター)』・カンパニーの日本支社を創りたかっただけなんです。一方、吉原さんの側からすると、グラハムには義理も何もない。国際プロレスは日本の会社であって、フロリダの会社の支社ではない。(中略)マツダさんはフロリダのレスラーだけを呼んだ。それはブッキングが簡単で、しかもグラハムの顔が立つからなんですが、もっと大事なことはリング上のマツダさんをカッコ良く見せてくれたからです」

これぞ、魑魅魍魎のプロレス界ならではのエピソードですね。

マティさんが国際プロレスを辞めたのは、吉原さんと仲違いしたわけではなく、アメリカでプロレスをやりたいという夢を叶えるためでした。

そこからアメリカ各地を転戦して、1973年に全日本プロレスに助っ人として参戦することになります。だから馬場さんのNWA戦は助っ人としての立ち位置であそこまでのパッションをセコンドとして出していたということなんですね。これも驚きました。

そしてマティさんは若手時代の鶴田さんの指南役をしていたというのも知りませんでした。プロレスは掘れば掘るほど、まだまだ知らないことが多いです。
 
マティさんは40歳で引退し、アメリカで実業家として成功しています。ウール製品の大手企業『ペンドルトン』では役員待遇で雇用されたり、未だに現役のビジネスマンとして活躍されています。

マティさんだけでレビュー1本分書けるほど濃密なインタビューでした。





★2.なぜグレート草津は団体の嫌われ者になってしまったのか?
【評伝/TBS時代のグレート草津】

国際プロレス創設から崩壊まで所属として過ごした唯一のレスラー…それがグレート草津さん。プロレス考古学に造詣が深い小泉悦次さんによる草津さんの評伝。これが面白い。恐らく『国際プロレス外伝』でしか成立しないかもしれない草津さんの評伝。

「ラグビー日本一」を経験したラガーマンだった草津さんが日本プロレスに入門してプロレスラーとしてデビュー。国際プロレス旗揚げに参加。アメリカやカナダでの武者修行を経て凱旋。そこからリングの内外から国際プロレスを支えるレスラーとして活躍。営業本部長や現場責任者といった役職にもついていた。

そんな草津さんがプロレスラーとして一番期待されていたTBS時代について小泉さんが切り込んでいます。

草津さんといえば、1968年1月3日・日大講堂で行われたルー・テーズとのTWWA世界ヘビー級戦(60分3本勝負)。「20世紀最強プロレスラー」「鉄人」と呼ばれたテーズのバックドロップを食らって1本目を取られた草津さんが、2本目になってもフラフラになって起き上がれ図にTKO負けを喫した曰く付きの試合。草津はキャリア3年の25歳。TBSと国際プロレスはプロレス中継のニュースターとして草津をプッシュしたかったのかもしれないが、目論見は脆くも崩れました。

草津さんの評伝は面白い。あとアニマル浜口さん以外は皆さん草津さんに関してはネガティブなことしか言わないんですよ。

「酒癖が悪い」
「酒を飲んでなくても横柄」
「プロレスなんてどうでもいいと思っている」

東京12チャンネルでは新体制の国際プロレス設立を考えていて、現場監督だった草津さんを外そうとしていたということなので、やはりスタッフからの評判も悪かったのかもしれません。

それでも草津さんは国際プロレスを支えた重鎮であることは変わりないのです。






★3.国際プロレスの正統派外国人エース
【対談/追悼 ビル・ロビンソン 門馬忠雄☓清水勉】

国際プロレスは、これまで日本プロレス界に外国人が来日する主流ルートだった北米から、ヨーロッパのルートを開拓してきた。これは歴史的に大きな功績です。

その中でヨーロッパヘビー級王者として来日した「人間風車」ビル・ロビンソンは、そのテクニックでファンを魅了し、国際プロレスの正統派外国人エースとなりました。

ロビンソンについて、国際プロレスのテレビ中継で解説を務めたプロレス評論家・門馬忠雄さんと、ファンとしてロビンソンの試合を見届けてきた元週刊ゴング編集長・清水勉さんが対談したのが「追悼 ビル・ロビンソン」です。

ここで私が読んでいて印象に残った両者のコメントを紹介します。

「(ロビンソンは)3段階くらいのリズムがあって、それを奏でるように試合するんだよね。とにかく試合の組み立て方が巧い。あのワンハンド・バックブリーカーを初めて見た時も衝撃だったなあ。あれは持ち上げるタイミングもあるけど、相当パワーがないとあの体勢からあの高さまで持ち上がらないよ。ロビンソンは技術だけじゃなくて、力もあるし、あの柔らかい筋肉、身体のサイズもレスラーとして理想的だよね」(門馬さん)

「ロビンソンが来て、テクニシャンの概念が大きく変わったと思います。それにロビンソンの試合には、『見せる要素』が多分に含まれていましたよね」(清水さん)


★4.息子が語る素顔のラッシャー木村
【木村宏(ラッシャー木村次男)】

この『国際プロレス外伝』における最大の目玉はラッシャー木村さんの次男・木村宏さんのインタビュー。

実は宏さんは木村さんの実の子ではありません。木村さんが、ヨーロッパ遠征中に後に嫁となる純子さんと出会い、結婚。純子さんには2人の連れ子がいたのですが、木村さんが2人を引き取ったのです。

あと驚きの事実ですが、宏さんは木村さんと出会う前からプロレスファンで、木村さんの金網デスマッチを見ていて、その武骨なファイトスタイルが好きだったそうです。だから木村さんの試合について宏さんが語ると、木村さんが「何でそんなことまで知っているんだ!?」と驚いていたといいます。

国際プロレスのエース時代から亡くなるまで、木村んの人生を見届けてきた宏さんのインタビューは必見!!感動しましたよ。木村さんの素顔ってそこまで知られてなかったので色々と衝撃でした。

個人的には国際プロレスよりもノアの話が印象的で、ものすごくドラマなんですよ。やっぱり僕は三沢光晴さんが好きになりましたね。そして息子の宏さんも三沢さんが好きだった。そういえば脳内出血で倒れて引退する時に、専務の大八木さんが宏さんにこう言ったのです。

「木村さんはツイてますよ。全日本で倒れていたら、クビですよ。三沢が社長だから、ウチで木村さんを一生面倒見ようと言ってますよ」 

そしてノアは最後まで木村さんの面倒を見た。『プロレス地獄変』では描かれていないもうひとつのノアのえぴ



★5.放浪の殺し屋と呼ばれたジプシー
【証言/ジプシー・ジョー】

「放浪の殺し屋」ジプシー・ジョーは東京12チャンネル時代の国際プロレスを支えた外国人ヒールレスラー。イスで殴られても効かないタフネス、金網最上段からのダイビングニードロップ、血の気の多い喧嘩ファイト…今でいうところのハードコアスタイルを先駆けた存在がジプシー・ジョーというプロレスラーの凄さだと思います。またリングを降りれば、マスコミやファンとフレンドリーに接したこともあり愛された悪役レスラーでした。 

当時77歳のジョーがレスラー人生を振り返るインタビューが読みます!これもまた面白い!

印象に残ったジョーの2つの言葉をここで紹介します。  

「『ダイナミックに見せることができない技なら、最初からやるな』というのが俺の持論だよ。小説と同じだ。『面白いストーリーが書けないなら、本を書くな』ということだ」
「どんな職業でもそうだと思うが、小説家は文章を書くのが好きなんだろうし、医者だったら人を治すことに生き甲斐を感じるだろう。自分の場合は、それがレスリングなんだ」

ジプシー・ジョーは見た目は荒くれ者そのものですが、コメントが妙にインテリジェントで、詩人なんですよね。




★6.極悪魔王がまだミスター・セキだった時代
【証言/ミスター・ポーゴ】

これはあまり私は知らなかったのですが、「極悪魔王」として恐れられていたミスター・ポーゴさんが国際プロレスに上がっていた時期があったそうです。

ポーゴさんが新日本プロレスを解雇され、アメリカ・ハワイに渡り、そこからアメリカ各地を転戦。1976年に国際プロレスに参戦することになります。

ミスター・セキは1978年にミスター・ポーゴに変身。このポーゴは本当はトーゴーだったのだが、プロモーターのテリー・ファンクが間違ってポーゴと誤記して新聞広告欄に掲載したことにより、ミスター・ポーゴというリングネームが定着してしまったそうです。

実は国際プロレスに逆上陸で参戦していたポーゴさんですが、そこまでメインストリームに絡んでこなったことには色々な事情もあるようです。当時のポーゴさんは日本よりアメリカを主戦場にしていたこともあり、そこの駆け引きという部分もあったのかもしれません。



★7.「和製チャールズ・ブロンソン」は国際プロレス次代のエース候補だった
【対談/追悼 阿修羅・原 鶴見五郎☓高杉正彦】

国際プロレスにとって元ラグビー日本代表である阿修羅・原さんの存在は、団体の未来を支える次代のエース候補でした。ただ、エースになる前に団体が崩壊してしまうという悲劇が待っていました。

原さんを影からコーチしていた鶴見五郎さんと、同僚レスラーで団体の事情通・高杉正彦さんが対談して、2015年に逝去された阿修羅・原を偲びました。二人とも当時つけていた日記を持参して、編集部サイドで用意した資料と照らしながら、国際プロレス次代の阿修羅・原さんについて検証しています。
 
個人的にはめちゃめちゃしびれたのが、1979年4月15日・会津田島町体育館で行われた上田馬之助&マサ斎藤&ジプシー・ジョー(とんでもない悪役レスラートリオ!!)VSラッシャー木村&稲妻二郎&阿修羅・原について。

「そこでマサさんが原をオモチャにしたんだよ。肚の技をまったく受けないで、ボロクソに痛めつけてさ。(中略)それを見ていた(アニマル)浜口さんが怒ってね。次の長野(4月19日・長野市体育館)の6人タッグでもマサさんがまた原に同じようにやったから、パートナーだった浜口さんがキレてさ。かなり揉めたよね」(鶴見さん)
「その翌日の富山(4月20日・富山市体育館)だったかな?マサさんと浜口さんのシングルがあったんだよ。今度は浜口さんがマサさんの技を受けなかったんだ。(中略)試合後にマサさんが『ふざけるな!』って控室に殴り込んできたんだよ。そうしたら、(ミスター)ヒトさんが来て、マサさんの首っ玉を掴んで壁に押しつけたんだ。『悪いのはお前だ!』ってね。ヒトさんの周囲のガイジンはみんなカルガリー関連だから、マサさんは手出しできなかったよ。(中略)(マサさんは)所属選手じゃないから関係ないと言われればそうなんだけど、原の売り出しなんてまったくヨソ事みたいな感じなんだよな。でも、カルガリーで一緒に強化キャンプを張ったり、ハノーバーで同居生活をしていたヒトさんは原を可愛がっていたから」(鶴見さん)


この対談の締めもまたいい!

「本人は『あと身長が5センチあれば…』なんていつも言っていたけど、あと3年早く原さんが国際に入ってきていたら時代は変わったかもしれないですね」(高杉さん)
「上の人たちの中でも、吉原社長だけは国際の未来をしっかり見据えていたのに…。原を団体を背負えるエースに育て上げるには時間と金が足りなすぎたよ」(鶴見さん)

阿修羅・原さんが国際プロレスのエースになる未来線、見たかったですね!



★8.「はぐれ国際軍団」を作った新日本の過激な仕掛け人
【証言/新間寿(元新日本プロレス営業本部長)】

元新日本プロレス営業本部長の「過激な仕掛け人」新間寿さんは、団体崩壊後にラッシャー木村さん、アニマル浜口さん、寺西勇さんの元国際プロレスの選手による「はぐれ国際軍団」を結成させ、アントニオ猪木さんと壮絶な抗争を展開させています。

そんな新間さんから見た国際プロレスとは?

1978年に国際と新日本が業務提携をして、団体対抗戦に発展していきます。実は、阿修羅・原さんとWWU世界ジュニアヘビー級王座を賭けて対戦したの「ユーゴの鷹」ミレ・ツルノは新間さんがブッキングしたそうです。外国人レスラーのブッキングも新日本が協力していたのは意外でした。
 
そして国際プロレスが崩壊後に、新日本との全面対抗戦が組まれようとしていましたが、国際サイドで不参加を表明する人間が続出したことにより、実現しませんでした。彼らが不参加を表明した理由のひとつは「木村、浜口、寺西だけがその後も新日本に継続して上がる契約を水面下で交わしていた」ということでした。なぜ、新日本はこの3人を選んだのか?

それは新間さんのインタビューで確認してください!


★9.アポロ菅原のレスラー人生
【証言/アポロ菅原】

この『国際プロレス外伝』では、アポロ菅原さんのインタビューが読めます。これも貴重です!

菅原さんが歩んださすらいのレスラー人生。国際プロレスでデビューしてから、全日本、TPG(たけしプロレス軍団)、パイオニア戦志、新日本、SWS、NOW、東京プロレス…。

個人的にはSWSで勃発した当時藤原組の鈴木みのる選手との不穏試合。この本ではかつてGスピリッツでの行った鈴木選手のインタビューとリンクして掲載することで、あの不穏試合の真実について迫っています。ここら辺りの公平性をもたせる編集は評価したいと思います。




★10.国際プロレスの後継団体・パイオニア戦志とは?
【証言/高杉正彦】

1981年、国際プロレスが崩壊。それから8年後の1989年にたった3人でプロレス団体を旗揚げ。それが「元祖インディー団体」パイオニア戦志です。

剛竜馬さん、アポロ菅原さん、高杉正彦さん。いずれも国際プロレス出身で、全日本プロレスから契約解除された苦い経験を持っていました。

業界きってのプロレスマニアである高杉さんのインタビューは国際プロレスの事情通と呼ばれているのがよくわかるほど、ディープな内容でした。

この本で高杉さんは2つの対談企画にも登場していて貴重な証言者として活躍しています。


『国際プロレス外伝』は国際プロレスという40年以上前に崩壊した団体をマニアック視点とディープな切り口で構成されています。

まえがきには国際プロレスの歴史を見事に凝縮させた2つの名文がある。


「国際プロレスの道程を振り返ると、『一難去ってまた一難』という言葉が思い浮かぶ。日本プロレスからの妨害を受けつつ所属レスラーは僅か4人という弱小体制で旗揚げし、資金不足や選手の離脱といった問題を常に抱えながら何とか運営を続け、そんな状況下でマッチメークも迷走を繰り返した。1970年代には全日本プロレスと新日本プロレスの2大メジャーに翻弄され、若手レスラーもなかなか育たず、最後は様々な思惑が入り混じって乱離拡散という結末。しかも、夢も希望もないような話が頻出するのはこの団体のお約束(?)であり、こういた苦難の上に今の日本のプロレス界は成り立っているのだ
「年号が令和になった今、42年前に消滅した団体に関する500ページ弱の書籍が刊行されるという事実は、どういうことなのか。それはいまだに薄れることのない昭和のプロレスに対する興味、そして昭和のレスラーが持つ強烈な求心力の裏返しである。抗うことなかれ。時代がいくら移り変わろうと、こんな面白い世界から抜け出す必要はない」


確かに昭和プロレスは未だに語り継がれる大切なレガシーだ。だが、昭和プロレスだからという理由で国際プロレスが語り継がれてきたのかというと少し違います。


日本プロレス界においての国際プロレスの功績は計り知れません。

レスラーとの契約書の作成、巡業バスの導入、日本人マスクマンデビュー、日本人同士の世界タイトルマッチ、金網デスマッチ、外国人留学生の受け入れ、日本初の選手テーマ曲の導入…
国際プロレスは現在の日本プロレス界の基盤となっているあらゆる事例のパイオニアでした。

だが、団体設立から崩壊まで「一難去ってまた一難」であり、自転車操業で運営されていた国際プロレス。

全日本と新日本のメジャー団体の後塵を拝する苦難も味わってきました。

だが国際のパイオニア精神から生まれたアイデアと、味わい深い男たちが奏でたリング上のブルースがオールドファンの心を離さないできたのではないでしょうか。

「やめられない止まらない」「一度ハマったら抜け出せない」作用がある辛酸風味の魅惑沼地…それが国際プロレス。

これから時代を超えても、令和から年号が変わっても、国際プロレスの魅力にハマる者たちは後を絶たないと…。


皆さん、チェックのほどよろしくお願いします!!








恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が記念すべき60回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。





かゆい所に手が届く猪木ヒストリーの決定版!
日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である筆者が猪木について書き下ろす渾身の書。全3巻。
第2巻には、新日本プロレスを旗揚げした1972年(昭和47年)から、黎明期の苦難を経て、強豪外国人との激闘、数々の大物日本人対決、異種格闘技戦で人気絶頂を極める1976年(昭和51年)までを掲載。

【目次】
1972年(昭和47年)
ノーテレビの苦境下、ゴッチとの名勝負をよりどころに臥薪嘗胆の日々

1973年(昭和48年)
坂口、NET、シン、NWFの力を得て大反転攻勢に転じる!

1974年(昭和49年)
歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる

1975年(昭和50年)
最初の「引退危機」を脱し、ロビンソンと生涯ベストバウト

1976年(昭和51年)
ルスカ戦、アリ戦で世間・世界を大いに賑わす!


著者
流 智美(ながれ・ともみ)
1957年11月16日、茨城県水戸市出身。80年、一橋大学経済学部卒。大学在学中にプロレス評論家の草分け、田鶴浜弘に弟子入りし、洋書翻訳の手伝いをしながら世界プロレス史の基本を習得。81年4月からベースボール・マガジン社のプロレス雑誌(『月刊プロレス』、『デラックス・プロレス』、『プロレス・アルバム』)にフリーライターとしてデビュー。以降、定期連載を持ちながらレトロ・プロレス関係のビデオ、DVDボックス監修&ナビゲーター、テレビ解説者、各種トークショー司会などで幅広く活躍。



今回は2023年にベースボール・マガジン社さんから発売されました流智美さんの『猪木戦記 第2巻 燃える闘魂編』を紹介させていただきます。

2022年10月に逝去された「燃える闘魂」アントニオ猪木さん。プロレス界のカリスマである猪木さんを追悼する書籍や番組が世に出ましたが、遂にあの流智美さんによる猪木本が発売されました。いよいよ真打ちの登場!

その内容は「日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である流智美氏が3巻に渡り、猪木について書き下ろす渾身の書」という内容。

流さんといえば、一時期「プロレス博士」「日本一プロレスに詳しい男」と呼ばれた重鎮プロレス評論家で、2018年7月にアメリカのアマレス&プロレス博物館「National Hall of Fame」ライター部門で殿堂入り、2023年3月にはアメリカのプロレスラーOB組織「Cauliflower Alley Club」最優秀ヒストリアン部門を受賞したプロレスマスコミ界のレジェンドなのです。

以前『猪木戦記 第1巻 若獅子編』をご紹介させていただきました。



今まで知らなかった知識や流さんのエピソードが面白かったです。

今回は『猪木戦記 第2巻 燃える闘魂編』の各章ごとに個人的な見どころをプレゼンしていきたいと思います!

思えば流さんは「1974年のアントニオ猪木がピークだった」とスポーツ報知さんのインタビューで語っていました。


この本を深掘りすれば1972年〜1976年までの猪木さんを考察しています。流さんが語った「アントニオ猪木のピークは1974年」と語った理由が分かるような気がします。


よろしくお願い致します!


★1.「地獄固め」とは何か?!
【1972年(昭和47年)ノーテレビの苦境下、ゴッチとの名勝負をよりどころに臥薪嘗胆の日々

まずは1972年。新日本プロレスが旗揚げした年です。いきなり流さんは猪木さんが新日本旗揚げを機に開発したという新必殺技「地獄固め」の話をぶっこんでいます。名前は聞いたことがありましたが、忘れてました。

実はこの「地獄固め」は後に「鎌固め」と呼ばれるようになった技で、そのオリジナルは猪木さんなんです。リバース・インディアンデスロックで足を固めて、ブリッジしてチンロック。アメリカではグレート・ムタが使っていたので「ムタロック」と呼ばれています。

ちなみに「鎌固め」という名称は、『ワールドプロレスリング』の舟橋慶一アナウンサーが実況で連呼したことによりこの名前が定着したようです。

私は「鎌固め」大好きで、確か1992年1月4日東京ドーム大会の馳浩戦で、馳さんの鎌固めを、猪木さんが逆に顎を極める「逆鎌固め」も話題となりました。

冒頭からマニアック知識を展開する流智美ワールドが爆発しているのです。


★2.ゴッチ・ベルトの秘密
【1972年(昭和47年)ノーテレビの苦境下、ゴッチとの名勝負をよりどころに臥薪嘗胆の日々】
 
新日本プロレス旗揚げ戦のメインイベントで猪木さんと対戦したのが「神様」カール・ゴッチ。その後も何度も行われた猪木VSゴッチには、「世界ヘビー級王座」をかけて行われました。まさに新日本黎明期を支えたストロングスタイルの名勝負でした。

1972年10月4日・蔵前国技館で「実力世界一」と呼ばれていたゴッチにリングアウトで破り、「世界ヘビー級王座」を獲得した猪木さん。流さん曰くゴッチの私有物だったこのベルト、実は日本製で割りと新しかったそうです。後にこのベルトは、古舘伊知郎アナウンサーが『ワールドプロレスリング』から勇退する時に猪木さんからプレゼントされています。

猪木さんが腰に巻いたチャンピオンベルトのなかでもこの「世界ヘビー級王座」はかなりレアな代物だったのかもしれません。


★3.「これはタイガー・ジート・シンというインドのレスラーです」
【1973年(昭和48年)坂口、NET、シン、NWFの力を得て大反転攻勢に転じる!】

1973年は日本プロレスの坂口征二を含めた数名が新日本に移籍したことに伴い、NETテレビ(テレビ朝日)による『ワールドプロレスリング』中継がスタート。ノーテレビで旗揚げした新日本にいよいよテレビ局の力を得ることになる。

新日本初期の最大のヒット作は「インドの狂虎」タイガー・ジェット・シン。エースである猪木さんのライバルとして立ちはだかる悪役レスラー。実はこのシンの初登場は客席から試合に乱入して、山本小鉄さんをチョーク攻撃で絞め落とすという衝撃をもたらしました。    

流さん曰く、レスラーなのかも分からない謎の外国人について、実況の舟橋アナウンサー「これはいったい、誰ですか?」と解説の鈴木庄一さんと問いかけると「これはおそらくタイガー・ジート・シンというインドのレスラーです」と即答したそうです。当時のシンは日本ではほぼ無名だったので、そこまで即答したということは鈴木さんのアンテナが凄かったということかもしれません。

伝説のプロレス記者、日本プロレスマスコミ界のご意見番である鈴木さんのようにもしほとんどの人が分からない選手や現象、技とかが目の前に現れた時にきちんと分かりやすく伝えられる人間になりたいなとこのエピソードを読んだ時に感じました。かなり痺れました。  




★4.マスコミ初の主催プロレス興業で実現した世界最強タッグ戦
【1973年(昭和48年)坂口、NET、シン、NWFの力を得て大反転攻勢に転じる!】
  
マスコミが主催する興業といえば、『プロレス夢のオールスター戦』『夢の懸け橋』『ALL TOGETHER』などありますが、その元祖が東京スポーツが主催した1973年10月14日・新日本・蔵前国技館大会。

その経緯もこの本に書かれていますが、メインイベントのアントニオ猪木&坂口征二VSルー・テーズ&カール・ゴッチの世界最強タッグ戦は、なんと東京スポーツの櫻井康雄さんのアイデアだったそうです。テーズとゴッチのギャラ、ホテルと飛行機代、会場の使用料を東京スポーツで負担。東京スポーツが興業を買い取った新日本にとっての売り興業。

櫻井さんは「このカードでもし蔵前国技館が半分しか埋まらないとなると企画者の私は切腹ものでした」と語っています。結果は1万2000人の超満員となり、世界最強タッグ戦は歴史的名勝負となりました。  

当時東京スポーツの井上博社長は「これからは猪木が日本のプロレス界を牽引する」と語り、「猪木を中心の紙面作り」を決断。新日本プロレスを創世記から支えているのはやはり東京スポーツだったということがこの


★5.アントニオ猪木VSストロング小林
【1974年(昭和49年)歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる】

流さんがかつて語っていた「猪木さんのピークは1974年」という真相に迫る章に突入。まずは1974年3月19日・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VSストロング小林のNWF世界ヘビー級戦。前年12月にジョニー・パワーズを破り、NWF世界ヘビー級王座を獲得した猪木さんの初防衛戦は、禁断の日本人大物対決。

ストロング小林は元国際プロレスのエース。団体の至宝IWA世界ヘビー級王座を幾度も防衛してきた「怒涛の怪力」を相手に猪木さんが調印式から仕掛けた作戦とは?流さんが考察する猪木VS小林とは?

これはめちゃめちゃ面白い。改めて猪木さんの凄さと恐ろしさを感じました。詳しくはこの本を読んでご確認ください。


★6.アントニオ猪木VS大木金太郎
【1974年(昭和49年)歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる】

1974年10月10日・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VS大木金太郎のNWF世界ヘビー級戦。日本プロレス時代の因縁が絡んだ喧嘩マッチ。

こちらに関して流さんは「過激な仕掛け人」新間寿さんの証言をもとにまとめています。

読み進めていくと1974年の猪木さんを論じていく流さんの文章には自然と熱が帯びているように感じました。


★7.ジャイアント馬場への挑戦状
【1974年(昭和49年)歴史的名勝負を連発し、レスラー人生最高の1年となる】

1974年12月13日付けで猪木さんが全日本プロレスのジャイアント馬場さん宛に「対戦要望書」を送っています。アントニオ猪木と署名が入っていますが、やはり文章を作成したのは「過激な仕掛け人」新間寿さん。個人的には打倒・馬場を猪木さん以上に燃えていたのは新間さんじゃないのかと思います。それだけこの文面には怨念と情念を感じます。








★8.アントニオ猪木VSビル・ロビンソン
【1975年(昭和50年)最初の「引退危機」を脱し、ロビンソンと生涯ベストバウト】

1975年12月11日・蔵前国技館で行われたアントニオ猪木VSビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級戦。この試合も歴史的名勝負となりました。

国際プロレスの外国人エースとして活躍した「人間風車」ビル・ロビンソンと猪木さんが行った唯一のシングル戦は、プロレスの源流のひとつとも言われている「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の達人であるロビンソンに、猪木さんが「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の攻防を中心に展開していったテクニカルな激闘を、流さんはロビンソンの証言を元にまとめています。

これも面白い。今思うと当時のロビンソンは37歳、猪木さんは32歳で、ちょうどキャリア的にもいい時期に遭遇したことも含めて奇跡の一戦だったと思います。 
 
それにしても初遭遇した対戦相手に猪木さんは次々と名勝負を展開している。本当に名勝負製造機です。


★9.世間に賑わしたルスカ、アリとの「格闘技世界一決定戦」
【1976年(昭和51年)ルスカ戦、アリ戦で世間・世界を大いに賑わす!】

1976年の猪木さんは「ミュンヘン五輪柔道金メダリスト」ウィリエム・ルスカや「プロボクシング世界ヘビー級王者」モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」でプロレス界や格闘技界だけではなく、世間や世界を賑わしています。また、「パキスタンの英雄」アクラム・ペールワン戦で猪木さんはダブルリストロックでペールワンの左肩を脱臼させた「カラチの悲劇」などかなり物騒な事件も起こしています。

1974年の猪木さんはピークならば、猪木さんを全世界に轟くような仕掛けを行ったのは1976年と言えるかもしれません。





★10.流さんによる「猪木さんのピークは1974年」


流さんは以前、スポーツ報知さんのインタビューでこのように語っています。

「私は欠かさずテレビでアントニオ猪木の試合を見てきました。1974年のアントニオ猪木は、ただひたすら素晴らしかった。我々ファンがひれ伏すだけの1年だったんです。この年の猪木がピークなのは間違いない。誰が何と言っても、これだけは譲れません。(中略) 3月19日、蔵前でのストロング小林戦に始まり、4月26日、広島での第1回ワールドリーグ戦・坂口征二戦。6月26日には大阪でのタイガー・ジェット・シン戦、8月のカール・ゴッチとの『実力世界一決定戦』2連戦(大阪府立、日大講堂)。10月10日の蔵前での大木金太郎戦、12月12日の蔵前、小林との再戦…全てにおいて、文句のつけようのない1年だったんです」 


流さんはこの『闘魂戦記 第2巻』でこの説を文章を使って立証しようと試みた作品だったと思います。実際に読み進めていき、流さんの「猪木さんのピークは1974年」説は納得できました。要は1974年の猪木さんは色々と神懸っていたんです。

その一方でこの本がなぜ1976年で終わっているのか疑問だったのですが、それもスポーツ報知さんのインタビューで明確に分かりました。

「(1976年の)モハメド・アリ戦の後のグダグダの試合は、僕としては見ていられなかったです。試合中に蹴りを繰り出すと、お客さんが『アリキックだ!』と沸くわけです。そこに猪木さんが引っ張られて、ウケを狙ってしまい、試合のリズムがめちゃくちゃになったと思います。アリ戦で得たものも大きかったけど、実は失ったものも大きかった。アリキックがなかったころの、美しい『起承転結』を見せていた頃の猪木が、僕にとっての全てですね」

つまり『闘魂戦記 第2巻』とは流さんが愛する美しい「起承転結」プロレスを見せていた頃の猪木さんの魅力を詰め込んだラブレターのようなものなのです。 

だからアリ戦が行われた1976年でこの本を締めくくるのはよく理解できます。そうなると次作『闘魂戦記 第3巻』を流さんはどのように描いていくのか、楽しみさと不安も入り交じる感情を抱きました。

ピート・ロバーツやスティーブ・ライトの猪木さんは一騎打ちをしていたとか。マサ斎藤さんとも1970年代に一騎打ちしていたとか、意外なことも分かるのも超プロレスマニアである流さんが手掛けた本だからこそです。

今回はこの本の一部をご紹介しましたが、「この部分が面白い」とか読み手によっては多種多様な違った味わいを感じるのではないでしょうか。


 

 

この本はプロレスマニアもビギナーも、元プロレスファンも楽しめる作品です!是非チェックのほどよろしくお願いします!


 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

 

今回のゲストは、ライターの原田イチボさんです。





(画像は本人提供です) 


原田イチボ

1990年生まれ、千葉県出身。編集プロダクション「HEW」所属のライター。

芸能人やクリエイターなどへのインタビューを中心に、幅広い媒体で執筆を担当。女子プロレスラーを招いたトークイベントのMCも手掛けている。



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是非ご覧ください!






私とプロレス 原田イチボさんの場合「最終回(第3回)非エース路線の生き方」


 


 
ライターとして執筆の際に心掛けていること



──これまでライターとしてプロレスに関わった中で印象に残っていることはありますか?

原田さん やっぱりトークイベント『レッスルガールズブラボー!』ですね。あと『まるっとTJPW!! 東京女子プロレス OFFICIAL “FUN” BOOK 2023』(玄光社)とかは今まで東京女子を観戦してきたことの集大成のような気がしました。また、伊藤ちゃんや白川さんのように何度かインタビューさせていただいた選手が、インタビューするごとにステップアップしていく姿を見ることができたのは印象に残ってます。

──インタビューを通じて伊藤選手や白川選手の成長を見届けた感じですね。

原田さん きっと彼女たちがステップアップすればするほど簡単にインタビューできる存在ではなくなっていくんですよ。だから伊藤ちゃんや白川さんの頑張りにしっかり追いついていきたいです。


──より信頼を勝ち得るようにならないといけないですね。

原田さん 編集者から「この選手のインタビューで担当が原田イチボというのはショボいから、他の人にしよう」とか思われないようにしないと。

──それは原田さんの仕事ぶりを見れば大丈夫ですよ。

原田さん ありがとうございます。

──ありがとうございます。次の話題に移ります。さまざまな媒体で執筆されてきた原田さんがライターとして文章を書くときに心掛けていることはありますか?


原田さん 滅私の精神ですね。


──それは詳しくお聞かせください。

原田さん 私はあくまで読者や媒体にとってベストな形に沿って書くようにしているんですよ。なぜかというと、キャリアのわりと早い段階で「自分自身のセンスや見解を売りにするような華やかなライターには向いていない」と気づいたんです。

──自分はエースにはなれないということですね。

原田さん  そうなんです。だからどうしようかなと考えて、非エース路線としての働き方を模索し始めたことが、今それなりにオファーをいただけている理由だろうかと感じています。



──非エース路線が功を奏したわけですね。

原田さん  だからコンスタントにお仕事をいただけているのは本当にありがたいことなんです。


原田さんの好きな名勝負とは?



──ありがとうございます。ここで原田さんに好きな名勝負を3試合、選んでいただきたいです。


原田さん  分かりました。まずは東京女子プロレスから2018年5月3日・後楽園ホールで行われた山下実優VS辰巳リカです。

──それはどういった理由ですか?


原田さん  「これぞ東京女子プロレス」という試合だったんですよ。山下さんもリカさんも団体の初期メンバーで、普段から仲が良くて、お互いのことを大切に思っている。「リスペクトし合う関係だからこそ良い試合ができる」というのを最初に教えてくれた試合でしたね。

──リスペクトし合う関係だからこそ生まれた名勝負ですね。

原田さん この戦いへの覚悟を示すためリカさんはリング上で断髪しましたが、ロングヘアを切ったら切ったでそれもまたかわいく、なんだかピースフルなオチになったのも東京女子らしかったです(笑)。



──ありがとうございます。では2試合目を教えてください。

原田さん スターダムから選びました。2019年12月24日・後楽園ホールで行われた木村花VSジュリアですね。


──アイスリボンからスターダムに電撃移籍したジュリア選手とスターダムの看板レスラーの一人である木村花さんの因縁対決ですね。

原田さん この試合は東京女子の大ファンである自分でも「スターダムが業界で頭ふたつ抜けちゃう!」と直感しましたよ。2人のビジュアルもファイトスタイルも試合にかける意気込みも、全てが噛み合った15分間でした。


──東京女子ファンの原田さんにも届いた試合だったんですね。





原田さん はい。もちろんジュリアさんと中野たむさんのライバルストーリーも素晴らしいものですが、「もしも木村花さんが生きていたら……」というのはプロレス界に投げかけられた大きなifなのだと思います。生で観戦できたことを一生自慢したい試合です。

──ありがとうございます。では3試合目を教えてください。

原田さん これは変化球かもしれませんが、ハードヒットから2022年8月21日・川崎球場(富士通スタジアム)で行われた鈴木みのるVS優宇ですね。


──すごい変化球ですね(笑)。


原田さん 「エニウェア畳ルールを採用した異種格闘技戦」という混沌の試合でありながら、ふとしたときに思い出しては元気をもらっている試合なんですよ。



──元気をもらっている試合!



原田さん 優宇さんが頑張ったんです!ともすればコミカルに転じそうなルールの中で、あくまで真摯に勝ちをつかもうとし続けたところにグッときました。試合後、握手を求めたみのるさんを投げようとしたのも最高でした。「大物に認められてめでたしめでたしではなく、最後まで何が何でも相手を倒そうとしなくてはいかんな」と自分としても感じ、心の中のひとつの指針となりました。


今後について


──ありがとうございます。どれも原田さんらしい名勝負セレクトだと思います。では今後についてお聞かせください。

原田さん 仕事の内容としては大体今の感じのまま、スケールを大きくしていければと思っています。


──少しずつバージョンアップしていく感じですね。


原田さん そうですね。でも「自分の得意分野からはみ出ない働き方をしている」と言われたらその通りなので、伊藤ちゃんがマイクを封印して海外でブレークしたのを見習って、小さく収まってしまわないようには気をつけます。いつ何をどのように仕掛けるかは模索中ですが……。


あなたにとってプロレスとは?
  

──いつ仕掛けてもいいようにナイフを磨いているところなんですね。では最後の質問をさせていただきます。あなたにとってプロレスとは何ですか?

原田さん 私はあまり深く考えず、屈強な人間たちが戦うのはおもしろいなぁという気持ちで観戦しています。ただ、自分が仕事で壁にぶち当たったときなどに、ふとプロレスラーのことが思い浮かんで、「あの選手も頑張っているのだから自分も頑張ろう」と励まされます。「もし自分がプロレスラーだったら、こういうときにどう動くのが一番おもしろいか?」と考えて行動を決める場面もあるので、ある種、プロレスというものが思考のフレームワークになっているようなところもあります。


──これでインタビューは以上となります。原田さん、長時間の取材ありがとうございました。今後のご活躍を心よりお祈りしています。

原田さん こちらこそありがとうございました。


(「私とプロレス 原田イチボさんの場合」完/第3回終了)





 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

 

今回のゲストは、ライターの原田イチボさんです。





(画像は本人提供です) 


原田イチボ

1990年生まれ、千葉県出身。編集プロダクション「HEW」所属のライター。

芸能人やクリエイターなどへのインタビューを中心に、幅広い媒体で執筆を担当。女子プロレスラーを招いたトークイベントのMCも手掛けている。



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プロレスを好きになるきっかけ、初めてのプロレス観戦、好きなプロレスラー、好きなプロレス団体、ライターとして大事にされていること、好きな名勝負…。さまざまなテーマでお話をお伺いしました。


是非ご覧ください!






私とプロレス 原田イチボさんの場合「第2回 幸福感とザラザラ感」


 


 船木誠勝の凄さと魅力とは?

 
──第1回では伊藤麻希選手、白川未奈選手、NOSAWA論外さんと原田さんの好きなプロレスラーについてお伺いしました。今回は原田さんが好きなプロレスラー・船木誠勝選手の凄さと魅力について語っていただいてよろしいですか。

原田さん 私は昔の船木さんを知っているわけではないので、あまり詳しいことは言えないんですけど、「何が起きるのか分からない」という緊張感やザラザラ感が漂う試合をする選手が好きなんです。船木さんには、そういう印象があって。

──確かに船木選手の試合は先の展開が読めないですよね。

原田さん そうですね。試合で目に指を入れたりとか。

──船木選手は真面目な方なんですけど、もう一方で狂気性を持っている方でもあるんです。

原田さん 確かに。あと鈴木秀樹選手にも同じイメージを持っています。大日本プロレスに上がっている頃の鈴木選手が特に好きで、私はまだ初心者で、関節技とかあまりよく分かってなかったんですけど、それでも面白かったんです。「なんか分からないけど、異様にヒリヒリしてる」という理由で鈴木選手の試合を見続けてました。



ザラザラしたプロレスが見れる選手や団体を常に探している


──船木選手と鈴木選手はプロレス界でもトップクラスの狂気性がありますよね。

原田さん あと私は足の長いプロレスラーが好きなんですよ。足が長いのはエースの資質だと考えていて、実際に足の長い新人レスラーがいると「未来のエース候補だな」と勝手に思ってます(笑)。船木選手も鈴木選手も脚が長い!鈴木選手に関しては名勝負となると関本大介戦なんですけど、強烈に覚えているのが、2018年9月16日・横浜文化体育館で行われた中之上靖文戦ですね。

──かつて鈴木選手がタッグマッチで一方的にふっかけて因縁が生まれた中之上選手との試合ですか!

原田さん あの試合が鈴木選手が圧倒的に強くて、最後は顔面を蹴り上げて試合が終わったんですよ。それで試合後に鈴木選手がマイクで「努力をした人が報われるんじゃなくて、報われたヤツは努力している。俺の方が努力しているんだよ。報われたから」って言うんですよ。なんて嫌なヤツなんだろうと(笑)。そこがたまらなく好きです!

──ハハハ(笑)。鈴木選手らしい発言ですね!

原田さん みんながハッピーになるプロレスもいいんですけど、見ていてモヤモヤするプロレスも好きなんですよ。だからいびつだったり、ザラザラしたプロレスが見れる選手や団体は常に探している感じですね。

──なかなか凄いマニアックですね!

原田さん 先日、アクトレスガールズを見に行ったのですが、意外と朝陽選手は船木選手や鈴木選手に近いザラザラ感がある選手なんじゃないかと感じました。彼女が更新したブログが最高で、なかなかぶっ飛んだことを書いているんです(笑)。

──そうなんですね!

原田さん 私の中では船木誠勝、鈴木秀樹、青木真也、朝陽が波風を立たせることをいとわない選手です(笑)。

──強烈な4人(笑)。鈴木選手と青木選手は意図的にやってますけど、一番自覚がないのは船木選手でしょうね。

原田さん 朝陽選手も船木選手に近い感覚かなと。だから彼女に期待しています!


東京女子プロレスの凄さと魅力とは?


──ありがとうございます。続きまして原田さんの好きなプロレス団体・東京女子プロレスの凄さと魅力についてお聞かせください。

原田さん 東京女子は見ていて幸せになるし、心が暖かくなるんですよ。

──東京女子は幸福感があって、ザラザラ感とは真逆ですよね!

原田さん はい(笑)。もう皆さん頑張っていて仲がよくて、互いに高め合っていくという感じがいいんですよ。東京女子はアイドル好きな人は絶対はまりやすい団体だと思います。私は女の子同士がギスギスしていると悲しい気持ちになるので(笑)、みんなニコニコして闘っているところは素晴らしいなと感じてますよ。

──東京女子は女子プロレス団体では珍しい男子プロレス(DDTグループ)から生まれた団体なんですよね。

原田さん 東京女子を解説する方も「動きが女子プロレスっぽくないよね」みたいなふうに言う人もいますね。

──その通りですね。

原田さん あと東京女子ってアイドルとかグラドルとか全然プロレス知らないで入ってくる選手が多いんですよ。他の団体だったら絶対デビューできないレベルの人が出ていて。

──確かにそうですね。とは言いつつも凄い選手がデビューしたりするのも東京女子なんですよね。

原田さん 山下実優選手、坂崎ユカ選手、中島翔子選手といったトップ選手がしっかりとしている一方で、プロレスを全然知らなくて興味もないレベルの人がデビューできるくらいスタートラインが低い。「プロレスって何?」という感じだった女の子たちが少しずつプロレスを好きになって成長していく過程を見守ることができるのも東京女子の魅力ですね。

──同感です!

原田さん 特に初期メンバーの皆さんはアイドルや芸能といった夢に敗れて、プロレスの世界に入ってきた女の子が多くて、第二の人生をプロレスに賭けているところが共感しましたね。


ハードヒットの凄さと魅力とは?



──ありがとうございます。ここで原田さんの好きな団体・ハードヒットの凄さと魅力について教えてください。

原田さん ハードヒットは、ザラザラしている感じが好きです(笑)。


──やっぱりそうですか(笑)。

原田さん 格闘技に近いスタイルで、試合が30秒で終わることもありますし、目が離せないですよ。でもハードヒットを最初に見に行った時は何が起きているのか全然理解できなくて、選手がリング上でゴロゴロ転がっていて、凄いことをやっているのは伝わるのですけど、この緊張感が面白くてなんとか理解したい気持ちになったんです。今はお休みしていますが、柔術とか習って寝技を知るようになって、何回かハードヒットを行くとだんだん理解できるようになりました。

──えらいですね!ハードヒットを理解するために柔術をやるとか。

原田さん 私はガリ勉なところがあるのかも(笑)。

──ハードヒットは今は独立しましたが、元々はDDTの一ブランドでしたね。

原田さん そうですね。ハードヒットは試合形式とか変わったものが多いんですよ。あと2022年の川崎球場(現・富士通スタジアム)大会で天龍源一郎さんがオープンカーに乗って来場されたんですよ。みんなが車に群がる中でにこやかに手を振っているのが最高でした(笑)。


──ちなみにハードヒット VS LIDET UWFの対抗戦はご覧になられましたか?

 

原田さん 『LIDET UWF Ver.0』(2021年6月9日新宿フェイス/ハードヒット VS LIDET UWF全面対抗戦)は見に行きましたよ。あれは凄く好きでした。謎の迫力があってモヤモヤした気持ちで帰れてよかったです(笑)。

──ハハハ(笑)。佐藤光留選手がカズ・ハヤシ選手を秒殺したじゃないですか。あの試合はモヤモヤしましたか?

原田さん モヤモヤしました(笑)。

──和田拓也選手が松井大二郎選手を塩着けした「地獄の15分」はいかがでしたか?

原田さん あれは現場で「これまだ続くの?」と思いながら見てました(笑)。相手に見せ場を作らない感じがよかったです!


──そういえばハードヒットの佐藤光留選手、和田拓也選手、関根シュレック秀樹選手もザラザラしているプロレスラーですよね。

原田さん そうですね。シュレック選手は好きですよ。

──シュレック選手はUWFへの想いが誰よりも熱い人ですからね。

原田さん まだ遡って見てませんが、恐らくUWFを見たらめちゃめちゃ楽しんだろうなと思ったりしています。いずれ履修したいですね。

──シュレック選手が大学時代に入門を熱望していたUWFインターナショナルや佐藤選手のバックボーンであるパンクラスの試合とかがいいかもしれませんね。

原田さん ありがとうございます。


トークイベント『レッスルガールズブラボー!』


──原田さんは、気鋭の女子プロレスラーにこれまでとこれからを聞くトークイベント『レッスルガールズブラボー!』をやられていますが、こちらのイベント開催の経緯についてお聞きしてもよろしいですか?

原田さん ロフト周りでイベントをやってる大坪ケムタさんから「女子プロレスのイベントをやろうと思ってるんだけどMCやってみる?」というオファーがありまして、私はあまり話すのが得意じゃないんですけど、得意分野だけでやっていてもよくないし、苦手分野とちゃんと向き合おうと思ったので、やることにしました。

 

──ケムタさんもMCでいてくださっているので心強かったんじゃないですか。

原田さん そうですね。さすがに一人では無理ですよ(笑)。

──『レッスルガールズブラボー!』は何回くらい開催されたのですか?

原田さん 4回ですね。

──実際にイベントに登壇された感想はいかがでしたか?

原田さん 相当緊張しますね(笑)。原稿は後で修正したりどうにでもなりますけど、イベントは一発勝負ですから。

──私も東京や大阪でイベントに登壇しましたが、『レッスルガールズブラボー!』はプロレスラーがゲストですよね。ファンの皆さんはプロレスラーの声が聞きたいわけで、MCのさじ加減がものすごく難しいですね。

原田さん そうなんですよね。ファンの方からすると「知っていて当たり前」と思うことを私が知らなかったりすると冷めるのかなと思ったりしますし。だからイベントの2週間くらい前から調子が悪くなって、イベントが終わったら爆睡するんですよ(笑)。


「ジャストさん、ちょっと仕掛けてもいいですか?」


──お気持ちは分かります!イベントをやられて充実感はありますか?

原田さん SNSで「すごい面白かった」という反応をいただけると嬉しいですし、「やってよかったな」と思いますよ。ライターも厳しい時代なので公開インタビューのようなイベントができるようになっていくと将来のためになるのだと信じて頑張ってます。

──素晴らしいですね!

原田さん ちょっと話が変わりますが、ジャストさんも同じことを考えていると思うんですけど、インタビューの場で多少は仕掛けたいなみたいな気持ちがあるじゃないですか。

──確かにあります。

原田さん 相手のいうことを全部受けようと思いますけど、あまり相手の都合のいい感じになってしまってもそれはよくないじゃないですか。だから「こいつは受け止めるけど、何かの拍子に目に指を入れてきそう」という気配を出しておきたいなと(笑)。

──船木誠勝選手のような感じですね。

原田さん ジャストさん、ちょっと仕掛けていいですか? 逆に質問したいんですけど。

──どうぞ。なんでも受け止めますよ。

原田さん ジャストさん自身はこういう感じのプロレスのインタビューをやっていきたいなというのはありますか?

──プロレスラーのインタビューをやるときは生い立ちから現在まできちんとお聞きして、良くも悪くもその選手のレスラー人生が伝わるものにしたいというのはありますね。

原田さん なるほど。

──私がインタビューしているプロレスラーの皆さんは特に個性の強い方が多いんですよ。彼らの生き方に時系列で迫り、プロレスに対する想いはあの手この手で引き出して、文章にするときは考察も交えて綴りたいという感じですね。

原田さん プロレスと同じく、インタビューもまた「受け」が重要ですよね。でもこちらが全部受けすぎると、逆に相手を輝かせることができない。「じゃあ、どうするか?」というので、ジャストさんの場合はプロレスに関する深い知識と考察を武器に、「やられているコイツも決して弱いわけじゃないぞ」という雰囲気を醸し出して、名試合に持っていくのでしょうね。プロインタビュアーの吉田豪さんも言っていることですが、プロレスとインタビューは通じるものがあるので、仕事で悩んだときは試合を見るようにしています。


(第2回終了)





 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 

今回のゲストは、ライターの原田イチボさんです。





(画像は本人提供です) 


原田イチボ

1990年生まれ、千葉県出身。編集プロダクション「HEW」所属のライター。

芸能人やクリエイターなどへのインタビューを中心に、幅広い媒体で執筆を担当。女子プロレスラーを招いたトークイベントのMCも手掛けている。



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プロレスを好きになるきっかけ、初めてのプロレス観戦、好きなプロレスラー、好きなプロレス団体、ライターとして大事にされていること、好きな名勝負…。さまざまなテーマでお話をお伺いしました。


是非ご覧ください!


私とプロレス 原田イチボさんの場合「第1回 私はNOSAWA論外のようなライターになりたい」


 

 原田イチボさんがプロレスを好きになるきっかけとは?
 
 
──原田さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
原田さん よろしくお願いします!
 
 
 
 
──まず最初に原田さんがプロレスを好きになったきっかけからお聞かせください。
 
原田さん 元々、私はライターとしてAVのレビューを業界の情報誌に書いていたのですが、AV業界の皆さんはプロレスを好きな人が多いんですよ。
 
 
 
──確かにその印象があります。
 
原田さん 周りの人たちがプロレスの話でずっと盛り上がっているのを聞いて、それで「一回ぐらい見に行くか」ということで、あまりよくわからないままDDTを観戦しました。
 
 
 
──いつ頃とか覚えていますか?
  
原田さん DDTがさいたまスーパーアリーナで20周年記念興行をする時期でした。確か2017年1月29日の後楽園ホール大会だったと思います。メインイベントがHARASHIMA VS 佐々木大輔のKO-D無差別級戦でした。あの頃のDDTはサイバーエージェントのグループに入る前で、文化系プロレスを前面に押し出している時期でした。
 
 
 
──DDTが一部から「ネオメジャー」と呼ばれ、かなり勢いがあった時期ですね!
 
 
原田さん はい。DDTにはレディースシートがあって、チケットもお手頃だったので行きやすかったんですよ。そこから月一の趣味としてプロレス観戦をするようになりました。 


プロレスというジャンルをざっさく把握するために手当たり次第、会場観戦

 
──そこからプロレスを好きになっていったのはいつ頃ぐらいからですか?
 
原田さん 時期は覚えていないんですけど、元々好きになるとジャンル全体を一旦把握しようという気持ちになるんですよ。DDTを何回か見に行くようになってから、プロレスというジャンルをざっくり把握するために、手当たり次第、色々なプロレス興行を見に行きました。昼夜観戦も普通に行ってました。
 
──そうだったんですね!
 
原田さん あと父がプロレス好きだったので、一緒に見に行きましたね。新日本、全日本、DDTとか、あとはもう少し小規模に活動している団体についても知りたくて、新宿2丁目プロレスや666も行ってました。
 
 
──なかなかコアなところも行かれていたんですね。プロレス好きになる人って団体や選手とかで追っていくケースが多いと感じますが、まずはジャンルを把握するためにさまざまな団体を見に行くというスタイルは割とレアケースな気がします。
 
 
原田さん 私は女性アイドルオタクだったんですよ。プロレスを見るようになったのも、好きなグループが活動休止になって暇だったからで。アイドルを好きになった時も、アイドルシーン全体を把握して楽しむタイプだったので、その見方をプロレスでも応用した感じですね。結構、漫画とかアニメとかでも流行ってるやつは一応ざっくり把握しておきたいみたいなタイプなんです。
 
──マーケティングリサーチみたいですね(笑)。ちなみに初めて好きになったプロレスラーは誰ですか?
 
原田さん DDTの佐々木大輔選手と、巨大な方が好きだったので高山善廣選手ですね。プロレスを見慣れていない人間からすると佐々木選手はキャラが立っていて、高山選手は巨体で目立つし、分かりやすいじゃないですか。あと単純に佐々木選手は見た目が好きで(笑)。


DDTは初心者が入りやすい会場の雰囲気がある

 
──原田さんはDDTがプロレスの入口になったと思うんですが、どの辺りがよかったですか?
 
原田さん プロレスがよく分からなくても楽しめるところじゃないでしょうか。初心者が入りやすい会場の雰囲気があるんですよ。DDTのヤジとかってイジリやツッコミに近いんですけど、これが殺伐としたヤジなら初見だと「やべぇな」と思ったかもしれませんね。
 
──DDTはブーイングが少なくて、許容量が広いファンが多い特徴がありますよね。
 
原田さん DAMNATIONとか何かやってもみんな笑ってるみたいな感じがありますからね(笑)。あとDDTは選手による物販もやっていて、ドルオタである私からすると水が合いました。
 
 
伊藤麻希選手の凄さと魅力とは?

 
──ありがとうございます。ここからは原田さんが好きなプロレスラーについてお聞きします。まずは東京女子プロレスの伊藤麻希選手の凄さと魅力についてお聞かせください。
 
 
原田さん プロレス好きになる前から吉田豪さんのTwitter(X)で伊藤ちゃんの存在は知ってたんですよ。
 
 
──九州のアイドルグループLinQのメンバーでしたからね。
 
原田さん そうです。吉田豪さんが気に入っているアイドルとして(笑)。グループをクビになって大変そうだなと思っていると、「プロレスを始めたらしいぞ」と聞いて。最初は女友達から、筋肉アイドルの才木玲佳さんが東京女子のリングに上がっているからと観戦に誘ってくれたんです。私も伊藤ちゃんが東京女子に上がっているのを知っていたので一度、生で見たかったので2017年に女友達と一緒に行くことになったんです。
 
 
──まだ伊藤選手がデビューしたての頃ですね(2016年デビュー)。
 
 
原田さん 当時の伊藤ちゃんはまだプロレスラーとしては全然で、あまり動けてなくて、やる気とビッグマウスだけで目立ってましたね。
 
──今や大化けしましたね!
 
原田さん 見始めた当初はへなちょこだけど頑張っている伊藤ちゃんでしたが、今や「世界の伊藤ちゃん」になりましたね!伊藤ちゃんには何回かインタビューしたこともあって、へなちょこ時代からのし上がっていったサクセスストーリーを見れて思い出深い選手です。DDTドラマティック総選挙2018」3位や山下実優選手や竹下幸之介選手とのシングルマッチの時期は、たぶん本人としてもつらかった時期だと思います。当時は応援する側としても「強い選手とどんどんぶつかってほしいわけじゃないんだよな……」と感じる部分もありましたが、今の成長を思うと、その考えは明確に間違いでした。伊藤ちゃんはずっと頑張り続けてきたんです。
 
──伊藤選手はデビューした段階から強烈なキャラクターがありました。
 
 
原田さん 昔は試合後に必ずマイクパフォーマンスをやっていて、私も「伊藤ちゃんは勝ち負けとかじゃなくて、最後にマイクをやって、それが面白ければいいじゃん」と思ってましたけど、伊藤ちゃんはマイクを封印するようになってから、マイクに頼らない面白さを身につけて、今や「世界の伊藤ちゃん」です。
 
 
──確かに伊藤選手は頑張りましたよね!アイドルをクビになった”クビドル”と言われてプロレスラーになって、へなちょこでも頑張り続けて、東京女子のカリスマのような存在になりました。
 
 
原田さん それまで評価されてきた得意分野を封印するって、勇気がいりますよね。私が今こうやってジャストさんのインタビューをうけているのも、伊藤ちゃんがマイクを封印したのにインスパイアされているところがあるんです。「そのほうが適性があるだろうし、自分自身はあまり前に出ず、裏方に徹するライターでいよう」と思っていましたが、あえて苦手分野に向き合うことで大化けする可能性だってゼロじゃないんだと伊藤ちゃんが教えてくれました。
 
──そうだったんですね。
 
原田さん あと伊藤ちゃんが2021年の『東京プリンセスカップ』を制した後にマイクで「バットエンドなんかなくて、それはただの物語の途中なだけであって、ハッピーエンドって絶対存在すると思う」と言ったことがあって、あれは私の心に響きました。
 
 
 
──伊藤選手はコメントとか見るとかなりロックですね。
 
原田さん やっぱりマイクがめちゃくちゃうまいし。インタビューが面白いんですよね。ベルトを取った直後にインタビューを組んだことがありますが、当日になって「自転車が盗まれて警察に行くのでちょっと遅れます」と連絡が来ました。祝勝インタビューのはずが落ち込んでましたね。
 
 
──インタビューもしたからこそ余計に伊藤選手への思い入れも増したのですね。
 
原田さん 伊藤ちゃんの試合を見始めたころは、特に自分自身のキャリアアップを目指していた時期だったので、彼女のサクセスストーリーには感情移入できたのかもしれません。


白川未奈選手の凄さと魅力とは?

 
──ありがとうございます。ここで原田さんの
好きなプロレスラーである白川未奈選手の凄さと魅力についてお聞かせください。
 
原田さん 白川さんは何回もインタビューさせていただく機会があって、最初はプロレスデビューするかしないかという時期でした。私と年齢的に近くて、デビューは遅かったんですけど、今はスターダムですごい活躍しているので、何歳になろうが人間やってやれないことはないなと。
 
 
──白川選手も伊藤選手に近くて努力を積み重ねるタイプですよね。
 
 
原田さん そうですね。白川さんが頑張っている間は私も頑張ろうという気持ちで応援しています。本人はものすごくプロレスが好きな方で、インプットが多い分いつか報われるのかなと思っていたのですが、ワンダー王座を獲得したりしてご活躍されるようになって嬉しいです。お金持ちの家に生まれたんですけど、すごく泥臭くて野心が凄すぎるんですよ。
 
──プロレスラーになる前はタレント活動をしていた白川選手ですが、思うように芸能界で羽ばたくことができなくて、不退転の気持ちでプロレスに覚悟を決めたところはあったでしょうね。
 
原田さん 白川さんが東京女子からスターダムに移籍したときは、少し複雑な気持ちもあったのが本音でしたが、インタビューしてみると、元々海外志向で、ひとりでアメリカに移住して各地を転戦しようとまで思っていたときにコロナ禍になって、スターダムに上がるようになったとのことでした。そこまでの覚悟があったと知ったら、もう応援するしかありませんよね。
 
──最近、WWEのASUKA選手がSNSでスターダムの朱里選手と白川選手を認めている発言をさされているんですよ。白川選手も海外に行きたいという思いが再燃するかもしれないですね。
 
原田さん そうかもしれませんね。


NOSAWA論外さんの凄さと魅力とは?
 
 
──ありがとうございます!原田さんの好きなプロレスラーであるNOSAWA論外さんの凄さと魅力についてお聞かせください。
 
 
原田さん 伊藤ちゃんや白川さんと同じく、論外さんも「思い入れがある」という言葉が近いプロレスラーですね。、今はライターにもある種のタレント性が求められる時代だと思うんですよ。私自身はそこまで面白い人間ではないので、キャラクターの強いライターがSNSで人気があって活躍しているのを見て、「いいなぁ」と思ってました。でも2019年2月19日に両国国技館で行われた『ジャイアント馬場没20年追善興行』でミル・マスカラス&ドス・カラス vs カズ・ハヤシ&NOSAWA論外という試合があって、老いたマスカラスブラザーズと闘う論外を見て、「私はビッグマッチのメインイベントに立てなくても、論外さんのようにレジェンド相手にきちんと試合ができるライターになればいいんだ」と思えたんです。
 
──おおお!それは素晴らしいパンチラインですよ!
 
原田さん そっちのほうが、ライターとして貴重な存在になるのではないかなと思うんですよ。論外さんがいるだけは試合のクオリティーは保証される。だからNOSAWA論外さんのような立ち位置で、編集者に「こいつを入れておけば、とりあえず企画としては成り立つだろう」と思ってもらえるライターでなりたいなと。
 
 
──その視点はあまりなかったはずです。論外さんが好きな方は「プロレスがうまい」「気楽たーが面白い」といったことが理由だと思ってました。
 
原田さん まぁ論外さんはエース路線ではないというだけで、本人のキャラクターもかなり強いんですが(笑)。私がライターとしてどうありたいかと悩んでいた時に、論外さんの試合を見たので、自分の道標になりましたね。
 
(第1回 終了)
 
 
 
 
 
 
 





 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。





(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん、事務所ブレーンとして関わった猪木さん、猪木さんとの別離、そして今現在、率直に感じる猪木さんへの想い…。


元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!








私とプロレス 木村光一さんの場合「第4回(最終回) シン・INOKIプロジェクト」


 「燃える闘魂」アントニオ猪木さんの訃報


──2022年10月1日、アントニオ猪木さんが79年の生涯に幕を閉じました。木村さんはその訃報にどのような形で接したのでしょうか?

木村さん 前回話したような経緯があって、それからはずっと猪木さんの動向を距離をおいて見ていたんですけど、昨年の春「猪木危篤」の未確認情報が流れましたよね。あの時は動揺してしまって、和田良覚さんにお願いして真偽をたしかめてもらったんです。和田さんからは「大丈夫、持ち直したということなので安心してください。でも、覚悟はしておいた方がいいみたいです…」という返事をいただいて心の準備はしていたつもりでした。ところが、それから半年して、いざその時が訪れたら取り乱してしまって…。いや、自分がどういう状態になったのか、どういう形で訃報に触れたのかも記憶が飛んでいて憶えてないんです。

──相当なショックを受けられたんですね。

木村さん しばらくいろんな感情が込み上げて頭が混乱してたのですが、ふと我に返った瞬間、「猪木さん、やっと楽になれたんだな。苦しみから解放されたんだな」と悲しいより安堵したのは憶えてます。でも時間が経つにつれて「どうしてもういちど自分から猪木さんに会いに行こうとしなかったのか」「自分にやれることが何かあったんじゃないのか」という後悔や自責の念にかられて、しばらくは何も手につきませんでした…。  



木村さんを奮い立たせた友人からの言葉



──それほど大きな喪失感から、どのようにして立ち直られたんですか?

木村さん 猪木さんへの思いを整理しきれないで鬱々としていたら、ある友人から「木村の中にはさ、まだ誰にも伝えてないアントニオ猪木のいろんな記憶や情報が眠ってるんだろ? それを自分だけの思い出にしたまま墓場まで持っていくのか? お前も物書きならそれを世に出せよ。それが仕事だろ!」と言われたんです。

──ものすごく胸に刺さる言葉ですね。

木村さん 僕は猪木事務所解散のゴタゴタに巻き込まれてよくわからないまま猪木さんと袂を分かって以来、プロレスに関しては旧い付き合いの編集者からたまに依頼されて雑誌に記事を書くくらいしかしてこなかったので、たしかに、猪木さんに関する情報が眠ったままになっていました。海外に同行した際のビデオ映像の大半は誰にも見せていませんし、数十時間はある膨大なインタビューの録音テープの中には活字にしていない言葉もまだたくさんあります。ただ、昨年春の危篤報道をきっかけに自分の著作の内容などをブログにアップしてたのですがとくに反応もなかったため、どうしようか考えあぐねてたんです。そしたらさっきの友人がTwitter(X)を勧めてくれて。じゃあとりあえずブログ記事の紹介からやってみようとツイートを始めてみたんです。


Twitter(X)開設の反響  


──そういう経緯があったんですね。実際にTwitter(X)を始めて、反響はいかがでしたか?

木村さん 驚きました! 僕が自分の名前で本を出してからもう20年以上経っていましたし、これといってプロレスや格闘技関連の仕事もしてきませんでしたから、とっくに忘れられてると思ってたんです。それが、Twitter(X)を始めた途端、昔、僕の本を読んでくれていたという皆さんが一斉にフォロワーになってくれて…。本当に感激でした!

──Twitter(X)をされて大正解でしたね!

木村さん はい。猪木さんへの思いを共有する皆さんと交流できるようになって、すごく元気をいただきました。そしてフォロワーの皆さんから新しい猪木さんの本を書いてほしいという要望をいただき、それが何よりの力になりました。

──猪木さんは色々な編集者やライターが関わった印象がありますが、木村さんのように何冊も書籍を出したり、深掘りしたインタビューをした方は少ないかもしれませんね。

木村さん だと思います。当初、僕にできるせめてものこととして、現在入手困難になっている過去の著作の中から主な情報をブログにまとめ、ファンの誰もがいつでも自由に読めるライブラリーを残そうと考えていたんです。Twitter(X)ではそれを伝えていけばいいかと。ところが何人ものフォロワーさんから「木村さんはまだ書いていないことがあるはず。新しい本を読ませてほしい」といった叱咤激励をいただいて…。 


YouTubeチャンネル『男のロマンLIVE』出演


──フォロワーさんに火をつけられたのですね!

木村さん そうです。で、そんな矢先にTwitter(X)のDMにYouTubeチャンネル『男のロマンLIVE!』のTERUさんから連絡を受けまして。

──プロレスマニアなら誰もが知っているあの有名YouTube番組ですね。どういった内容だったんですか?

木村さん とにかく直接お会いしましょうということになり、昨年の暮れに初めてお目にかかったのですが、その場で「申し訳ありません。実は無断で木村さんの本にインスパイアされた番組を作りました。たいへんな反響をいただいているのですが、皆さんから絶賛されればされるほど心苦しくて。そこで、お詫びも兼ねてこの元ネタは木村さんの著作だということを説明する番組を作りたいのですがご出演願えないでしょうか」という謝罪と出演オファーをいただいたんです。

──それが『男のロマンLIVE!』の特別対談番組になったんですね。       

木村さん はい。実際のところ、僕は連絡をいただく前にTERUさんが制作した「アントニオ猪木・格闘技術の源流」というシリーズを偶然拝見し、番組のクオリティの高さやとことん真面目な姿勢に感服していたのでクレームをつけるつもりはなかったんです。むしろ、僕が四半世紀前に猪木さんから聞き出した話をさらに深掘りし、10万人以上の視聴者に届けてもらえたことに感謝してました。そのうえスタジオまで用意して対談番組を作っていただいて。昔、僕も広告の仕事に携わってましたから、「こんなに制作費にかけたら絶対赤字だ」とすぐに気付いたんです。


『シン・INOKIプロジェクト』とは?


──木村さんとTERUさんの対談はとても見応えがありました。それで、番組の中で発表された『シン・INOKIプロジェクト』についてあらためて聞かせていただきたのですが。

木村さん TERUさんと色々話してるうちに、「アントニオ猪木・格闘技術の源流」のベースになった僕の『闘魂戦記』や『アントニオ猪木の証明』といった著作が絶版になったまま現在入手困難になっているという話になり、じゃあそれを復活させるプロジェクトを立ち上げようということになったんですよ。というより「この2冊は猪木さんがプロレスや格闘技に関してかなり深いところまで語っている唯一無二の本。もう一度世に出して後世に残したいので協力してもらえませんか」と僕の方からお願いしたところ、TERUさんが二つ返事でプロデュースを快諾してくれた。それが真相です。

──なるほど、アントニオ猪木への熱い思いが木村さんとTERUさんを結びつけたわけですね。現在『シン・INOKIプロジェクト』の進捗状況はどうなっていますか?   

木村さん 年が明けてすぐ、第1弾として『闘魂戦記・格闘家猪木の真実』の復刻に取り掛かったのですが、問題が発生して当初の予定より大幅に進行が遅れています。

──問題といいますと?

木村さん 猪木さん自身が語った格闘技論の内容はまったく色褪せていません。それどころか、時を経てますます重みを増している感があります。ところが、『闘魂戦記』が書かれた時代とは格闘技界の情勢や常識が激変しているのと、当時の資料を参考にした解説文などが、今あらためてチェックすると間違いや誤解だらけだったことがわかったんです。たとえばアンドレ・ザ・ジャイアントは〝木こり〟だったとか(笑)。それらのプロレス的ファンタジーの要素をアップデートせず、あえて時代感を残したまま復刻するという手もありました。が、そのやり方だと単なるノスタルジー本と捉えられて本来訴えたいテーマがぼやけてしまうと判断し、猪木さんの言葉や関係者インタビューはそのまま残し、それ以外は現在の視点に立ってすべて書き直すことにしたんです。そもそもオリジナルを今でも読み返してくださっているという読者の皆さんからすれば、単に焼き直しの復刻版では手に取る意味もありませんから。

──では復刻版ではなく新作がリリースされるわけですね!

木村さん はい。年月を経て発掘された事実や僕の中で総括できた事柄、これまでにない視点の提示や技術分析も加えました。さらに、猪木さんと縁の深い方の特別インタビューも行って歴史的に重要な証言も得ています。そういったものすべてを今回の本に注ぎ込んでいます。

──それはめちゃめちゃ興味深いです! ちなみに本のタイトルは決まっているんでしょうか?

木村 『格闘家 アントニオ猪木 〜ファイティングアーツを極めた男』です。近々、『男のロマンLIVE!』やTwitter(X)にて詳細を発表します。関連イベントなどの企画も考えておりますのでご期待ください!


木村さんが選ぶ猪木さんの名勝負



──ありがとうございます! 続きまして木村さんの好きな猪木の名勝負を3試合、選んでいただけますか?

木村さん アントニオ猪木の名勝負の中から3試合だけ選ぶのは不可能です(笑)。いくつかの基準をもとに「これは外せない」という試合をピックアップさせていただくということでいいですか?

──分かりました!よろしくお願いいたします!

木村さん まず〝記憶に残る名勝負〟をかなり大雑把に選んで時系列で並べると──アントニオ猪木VS大木金太郎(1974年10月10日・蔵前国技館/NWF世界ヘビー級選手権試合)、アントニオ猪木VSビル・ロビンソン(1975年12月11日・蔵前国技館/NWF世界ヘビー級選手権試合)、アントニオ猪木VSウィリエム・ルスカ(1976年2月6日・日本武道館/格闘技世界一決定戦)、アントニオ猪木VSモハメド・アリ(1976年6月26日・日本武道館/格闘技世界一決定戦)、アントニオ猪木VSザ・モンスターマン(1977年8月2日・日本武道館/格闘技世界一決定戦)、アントニオ猪木VSラッシャー木村(1981年11月5日・蔵前国技館/ランバージャックデスマッチ)の6試合になります。

──素晴らしいセレクトです!
 
木村さん 次に、自分が生観戦した試合の中から強いて選べば、アントニオ猪木VS藤波辰巳(1985年9月19日・東京体育館)、アントニオ猪木VS藤原喜明(1986年2月6日・両国国技館)、アントニオ猪木&藤波辰巳&木村健吾&星野勘太郎&上田馬之助VS前田日明&藤原喜明&木戸修&高田伸彦&山崎一夫(1986年3月26日・東京体育館/新日本VSUWFイリミネーションマッチ)の3試合かと。


     
──ひとつ気になったんですが、アントニオ猪木VSラッシャー木村のランバージャックデスマッチを選んだのはどのような理由からですか? 


木村さん 僕が猪木さんにインタビューを行った際、「国際軍団との1対3といい、ラッシャー木村選手に対する仕打ちがあまりにも非情だったように思えてならないのですが、なぜ、あそこまで彼を蹂躙する必要があったんでしょうか?」と訊いたことがあったんですよ。それに対して「あれはイジメだった」ときっぱり猪木さんは答えた。鉄拳制裁、延髄斬り、顔面蹴りをまともに食らったラッシャー木村選手がたまらずリング下にエスケープしてもセコンドに戻されてまたボコボコにされる──延々それが繰り返されるあの試合はたしかに凄絶なイジメでした。でも、よくよく考えてみると、不器用で華のないラッシャー木村選手を光らせるにはあれしか方法がなかったんですよ。

  
   
──ラッシャー木村さんは「金網デスマッチの鬼」と呼ばれた国際プロレスのエースで、受けの強さがものすごくて、尋常じゃないほどタフネスなレスラーでした。


木村さん そうなんです。猪木さんはその一点にテーマを絞った。そして一連のラッシャー木村戦で見せた猪木さんの怒りの表情はどれも絶品! とくにランバージャックデスマッチにおける猪木さんのブチ切れ方は最上級の怒りの表現でした。それもこれも、殴る蹴るをどんなにエスカレートさせても耐えられるラッシャー木村選手のタフネスさがあってこそ成立していたわけで、そこには見た目の非情さとは裏腹に、あの二人にしかわからない信頼関係のようなものが感じられて僕は観るたびにゾクゾクしてしまうんです。

──本来、猪木さんはイジメが大嫌いな方なんですよね。

木村さん おっしゃる通りです。でも猪木さんは、本来、絶対的ヒーローであるべきアントニオ猪木がそのイメージに反する行為をおこなうことへの批判も引き受ける覚悟であえてそれをやって見せた。実は猪木さんも見えないリスクを背負ってたわけで必ずしも一方的なイジメではなかったんですよ。

──やっぱり猪木さんは凄いです。人間・猪木寛至とプロレスラー・アントニオ猪木は別人格であり、別々の感性の持ち主なんですね。

木村さん 猪木さんはベビーフェースの立場にこだわる選手を嫌っていましたが、おそらく、そういうレスラーはプロとしての覚悟が足りないと腹を立てていたんだと思います。

──アントニオ猪木VSラッシャー木村のランバージャックデスマッチは『新日本プロレスワールド』でもアップされていますので、リンクを貼らせていただきます。まさしく初心者からマニアまで多くの皆さんにご覧いただきたい凄い試合です。

木村さん ラッシャー木村に対する猪木流の〝もてなし〟から何かを感じてもらえると嬉しいですね。






──では、アントニオ猪木のベストバウトとして語られることの多い猪木VSロビンソンですが、木村さんはこの試合をどのように捉えているのでしょう?

木村さん これはCACC(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の攻防をテーマにしたプロレス。どちらがキャッチレスラーとして上かというプライドを賭けた一戦で、CACCの技術に関しては冷静に見てロビンソンに一日の長があったのは間違いないです。ただ、このインタビューの初めの方(第2回 アントニオ猪木の強さとは!?)でも話した通り、アントニオ猪木の格闘技術には柔術や高専柔道も含まれており、必ずしもCACCがすべてではなかった。にもかかわらず、猪木さんはCACCの名手であるロビンソンとCACCのテクニックでほぼ互角に渡り合った。そこに価値があると思うんです。それとあの試合は猪木さんがチャンピオンだったでしょう?        

──猪木VSロビンソンはNWF世界ヘビー級選手権試合。猪木さんは王者、ロビンソンは挑戦者でした。

木村さん 猪木さんはチャンピオンとして相手の土俵で闘ってみせた。おそらく、それをやればロビンソンの方が強く見えるのもわかってたんじゃないでしょうか。しかし、猪木さんがそういう闘い方を選択したことによって、あの一戦は20世紀最高のストロングスタイルの名勝負になった。試合内容でベルトの価値を高めようとしていた猪木さんとしてはそれで本望だったんだと思います。

──ロビンソンは翌1976年に全日本プロレスに移籍します。それからヒザや腰が悪化してコンディションが落ちていきましたよね。もし、仮に全日本時代のロビンソンがもう一度猪木さんと試合したとして、あそこまでの名勝負になったと思いますか?    

木村さん ならなかったでしょう。両者のコンディションの巡り合わせから見ても、あのタイミングで行われた猪木・ロビンソン戦は20世紀のプロレス史における特異点。二度と起きない奇跡だったんですよ。




猪木さんの格闘技術は一代限りで終わってしまった。1980年半ばまで新日本道場に伝わっていたのは猪木イズムではなくゴッチイズム


──では、木村さんの今後の活動についてお聞かせください。

木村さん ようやく形になりつつある『シン・INOKIプロジェクト』では2冊の本のリリースと関連イベントの開催を考えています。まず、さきほどお話しした『格闘家アントニオ猪木 〜ファイティングアーツを極めた男』を猪木さんの一周忌を目処に出版し、次に時期は未定ですが第2弾としてこれも絶版になっている『アントニオ猪木の証明』という丸ごと1冊、猪木さんがプロレス、ライバル、格闘技について語っているインタビュー集の〝完全版〟を世に出す予定です。プロジェクトの他にも1冊、昭和のプロレスに関する書籍の出版計画が進行してます。




──素晴らしい!!大いに期待したいです!『シン・INOKIプロジェクト』は猪木さんへの供養になりますね!

木村さん 猪木さんが亡くなられて、残された僕らにできることは語り継ぐことしかありません。このプロジェクトの目的はそれが全て。これから数十年、アントニオ猪木を語り継ぐための根拠の一つを提示できればと思ってます。

──アントニオ猪木の強さの本質を追求することが木村さんのテーマですものね。

木村さん 結局、アントニオ猪木の強さの核心部分を、猪木さん本人も含めてこれまで誰も説明できていないんです。後継者が現れなかったのもそのため。これは僕の持論なんですが、新日本道場で培われた猪木イズム云々みたいな言われ方がありますけど、そこで80年代半ばまで伝わっていたのは猪木イズムではなくてゴッチイズムだった。アントニオ猪木の格闘技術は、実のところ一代限りで終わってたんですよ。

──それは、どうしてそんなことになってしまったんですか?

木村さん 若き日の猪木さんが日本プロレスの道場で無意識のうちに身に付けた柔術や高専柔道の技術は肌感覚で身に付けた独自のものですから、当の猪木さんがスパーリングという直接的な方法によって後進に伝えるしかなかったんです。ところが新日本プロレスの旗揚げ以降、多忙すぎる猪木さんはそれができなくなってしまった。そして、元々新日道場のトレーニングは猪木さんがゴッチから学んだ方法論をベースにしていましたし、理論的にも完成されていて曖昧さがなかったのでやがてあらゆる面でそちらが主流になったわけです。したがって、ある時期から新日本道場に伝わる技術はゴッチ流一辺倒になり、猪木さんが身に付けていた柔術や高専柔道の技術の存在は忘れられてしまった。ゴッチ流は完成度が高くシュートにも対応可能だったため、おそらくあえて日本プロレス道場由来の技術を思い出す必要もなくなったのだと思います。


プロレスは時代を映す鏡。その時代のプロレスは、その時代のプロレスラーとファンのもの。時代の要請に従ってどんどん姿を変わっていくのは当然。


──だからグレイシー柔術が台頭した時、「面白い」と反応できたのは猪木さんだけだったんですね?

木村さん だと思います。ただ、猪木さんは自分の技術の特異性もあまり自覚してなかったようなので意識的にそれを伝えようともしていなかった。グレイシー柔術やUFCが出現してから猪木さんもそのことに気付いたわけですが時すでに遅し。新日本は格闘技と一線を画す方向へ路線を転換し、ゴッチ流さえ排除された新日本には何も残らなかったんですよ。今でも時折〝闘魂伝承〟〝猪木イズム〟といった言葉が使われることがあるようですが、それは単なるブランド戦略でしかないと僕は思ってます。

──それは寂しすぎる話です。

木村さん ただ、僕は、だからといって今の新日本プロレスを否定する気はないんですよ。プロレスは時代を映す鏡。その時代のプロレスは、その時代のプロレスラーとファンのもの。時代の要請に従ってどんどん姿を変えていくのは当然だと思ってます。僕らの世代は自分たちの時代にアントニオ猪木のプロレスに熱狂することができた幸福に感謝すればいい。「あの頃のプロレスと違う」と今のプロレスを否定する気は全然ないんです。

──今のプロレスについて木村さんにお伺いしようかなと思ってましたが、そのお言葉を聞けただけで十分です。素晴らしいです。

木村さん 誤解を恐れずに言わせてもらえば、これは猪木さんの言葉なんですけど、「プロの格闘技は全てプロレス。俺たちの仕事は夢を売る商売」なんですよ。



木村さんにとってプロレスとは?


──猪木さんのレスラー人生が凝縮されたコメントですね。では、最後の質問です。木村さんにとってプロレスとは何ですか?

木村さん アントニオ猪木です!

──やはり、答えはそれしかないと思ってました(笑)。 

木村さん 僕にとってはアントニオ猪木という世界の中にプロレスがある。枠組みとしてはアントニオ猪木の方がプロレスよりスケールが大きいんです。今回の僕の話も、それが前提だと思っていただければわかっていただけるかと(笑)。

──今回、木村さんにインタビューさせていただき、これまで猪木さんに対して抱いていた漠然とした疑問や謎というものが、ハッキリと解けたような気がしました。  

木村さん 僕の話で何かしら腑に落ちたのでしたら嬉しい限りです。

──インタビューは以上となります。木村さん、長時間お付き合いいただき本当にありがとうございます!今後のご活躍を心よりお祈りしています。

木村さん こちらこそありがとうございました!


(第4回終了/『私とプロレス 木村光一さんの場合』完)




ジャスト日本です。 


1990年代のプロレス界を検証する新企画『世紀末バトル・アーカイブス』。これは激動と波乱の1990年代のプロレス界を、90年代系YouTuberゴクさんと漫画家ペンダフさんと共に一年ごと振り返りながら、深掘りしていく対談コーナーです。




 



【ゴク】



Twitter、Instagram、YouTube、電子書籍で「90年代プロレス」の魅力を発信し続けている。

自称“ジャイアント馬場さんの実家から最も近いプロレスファン”

◆1978生

◆新潟在住

◆Youtube(2022年4月開設)→ https://youtube.com/channel/UCW5uAINrEyC3DKb061O6dZg 

◆Kindle本「昭和53年生まれによるプロレスの思い出1~5巻」📕カテゴリ別ランキング1位著者。4コマ漫画が挿絵のプヲタ自伝。Kindle unlimited会員様は全5冊が無料でお読み頂けます→https://amazon.co.jp/%E3%82%B4%E3%82%AF/e/B09L6LMM3J/ref=dp_byline_cont_pop_ebooks_1


【ペンダフ】



漫画イラスト講師、漫画描き、イラストレーター

専門学校卒業後、アパレル勤務をしながらイラスト(イベントのフライヤーやメインヴィジュアル、Tシャツのデザイン、書籍の表紙など)と漫画の創作を中心に活動し、自作のプロレスファン漫画がジャンプルーキー受賞作としてジャンププラスに掲載。

現在、サブカルチャーイベントの出演、イラストレーター、専門学校の講師と活躍中。


2016年6月 ジャンプルーキーにてブロンズルーキー賞獲得

https://rookie.shonenjump.com/series/FlR8CfEGNkI


現、掲載作品

https://rookie.shonenjump.com/series/FlR8CfEXwww




【画像はゴクさん作成】






今回は1991年のプロレス界を振り返ります。




1991年のプロレス界


【参考文献】

・『平成スポーツ史 永久保存版 プロレス』(ベースボール・マガジン社)

・『日本プロレス52年史〜あの時、日本マット界は揺れ動いた〜』(日本スポーツ出版社)



【1991年】

新世代台頭の 芽吹きと 多団体時代の予兆



UWFが3派分裂し、さらにFMWから派生する形でWINGも旗揚げ。団体数が増加するなか、新日本では「G1 CLIMAX」を初開催し、 闘魂三銃士が躍進。全日本では三沢光晴、川田利明らが存在感を強め、 新世代が台頭していった。



【東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞】

1991年の受賞者 

最優秀選手賞(MVP):ジャンボ鶴田(全日本) 

年間最高試合賞(ベストバウト):天龍源一郎×ハルク・ホーガン(12月12日/SWS・東京ドーム)

 最優秀タッグチーム賞:三沢光晴&川田利明(超世代軍/全日本) 

殊勲賞:大仁田厚(FMW) 

敢闘賞:蝶野正洋(新日本)

 技能賞:馳浩(新日本)

 新人賞:折原昌夫(SWS)



1月4日 東京スポーツ新聞社制定『1990プロレス大賞』授賞式&パーティーは大仁田厚がMVPとベストバウトを独占した事を各団体が批判したためか、例年になく選手・関係者の出席が悪かった。

1月7日〈UWF〉選手会合の席上、 前田日明が団体の解散を宣言。 3派に分裂。     1月9日 前田が都内でクリス・ドールマンと会談。ドールマンは新日本出場を白紙に戻し、前田に協力すると意思を表明。

1月17日〈新日本〉横浜。ビッグバン・ベイダーが藤波辰爾を破り、IWGPヘビー級王座奪還。 

1月19日〈全日本〉松本。ジャンボ鶴田がスタン・ハンセンを破り、三冠ヘビー級王座奪還。

1月29日〈パイオニア戦志〉休業を宣言し、そのまま消滅。


2月4日 〈藤原組〉 都内ホテルで藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるらが「新UWF藤原組」設立を発表 。 

2月6日〈新日本〉札幌中島体育センター。橋本真也がトニー・ホームとの異種格闘技戦に連敗。この敗戦後、橋本は右膝悪化のため長期欠場することに。    

2月15日 〈新日本〉長州力を初代グレーテスト18クラブ王者に認定。

2月20日 〈UWFインター〉 高田延彦、山崎一夫らが 「UWFインターナショナ ル」の設立を発表 。

2月27日〈FMW〉後楽園。世界マーシャルアーツ王座決定戦で、ソウル五輪柔道銀メダリストのグリゴリー・ベリチェフが大仁田厚を破り、初代王者となる。  


3月1日 〈新日本〉諏訪湖。 来日予定のなかったタイガー・ジェット・シンが馳浩の乗用車をバットで襲撃。〈全日本〉ジャイアント馬場が退院。

3月4日 〈藤原組〉 後楽園。 旗揚げ興行を開催。エースに推された船木誠勝はバート・ベイルに快勝。またカール・ゴッチが最高顧問としてあいさつ 。

3月13日 〈SWS・藤原組〉 両団体の業務提携を発表。

3月14日 〈リングス〉 都内ホテルで設立を発表。

3月21日 〈新日本〉東京ドーム。 「91スターケードIN闘強導夢」を開催。 IWGPヘビー級王者・藤波辰爾がNWA 世界王者リック・フレアーとのダブ ルタイトル戦に勝利。 しか し試合後、裁定にクレームがつき、フ レアーはベルトを持って翌日帰国。 スタイナーブラザーズが馳&佐々木健介組を破り、IWGPタッグ王座を奪取。長州力がタイガー・ジェット・シンとのグレーテスト18クラブ指定試合に勝利。

3月24日 〈WWF〉 カリフォルニア。 「レ レッスルマニア7」に天龍源一郎、北尾光司が出場。  

3月29日〈藤原組〉団体名を「プロフェッショナル・レスリング藤原組」に改称。  3月30日 〈SWS〉東京ドーム。 WWF共催「レッスルフェストIN東京ドーム」を開催。 リージョン・オブ・ドゥームが 天龍&ハルク・ホーガン組に勝利。また維新力が日本デビュー。


4月1日 〈SWS〉 神戸ワールド記念ホール。 北尾が対戦相手のジョン・テンタに「八百長野郎!」の暴言。藤原組・鈴木みのると対戦のアポロ菅原が試合放棄。 

4月4日 〈SWS〉 北尾の解雇を発表。 

4月16日 〈全日本〉 愛知県体育館。ジャンボ鶴田がスタン・ハンセンを破り、11年ぶり2度目のチャンピオン・カーニバル制覇。

4月18日〈全日本〉日本武道館。鶴田が三沢を破り、三冠ヘビー級王座防衛。スタン・ハンセン&ダニー・スパイビーがテリー・ゴーディ&スティーブ・ウィリアムスを破り、世界タッグ王座獲得。

4月30日〈新日本〉両国国技館。保永昇男が獣神サンダー・ライガーを破り、トップ・オブ・ザ・スーパージュニアを優勝。さらに第14代IWGPジュニアヘビー級王者となる。


5月6日 〈FMW〉大阪万博お祭り広場 にて、 有刺鉄線バリケードマット地雷爆破デスマッチが行われ、大仁田厚がミスター・ポーゴに勝利。

5月10日 〈Uインター〉 後楽園。旗揚げ戦を開催。エース髙田延彦がトム・バートンに勝利。

5月11日 〈リングス〉横浜アリーナで、 旗揚げ戦を開催。エース前田日明はオランダ軍団のディック・フライを破る。日本人選手は前田ただひとりの船出となった。

5月31日〈新日本〉大阪城ホール。藤波辰爾デビュー20周年記念試合が行われ、蝶野正洋を下し、IWGPヘビー級王座防衛。橋本真也が約3ヶ月半振りにカムバック。


6月1日〈全日本〉 日本武道館。ジャイアント馬場が183日ぶりに復帰。ファンの熱狂的な歓迎を受けて6人タッグ戦に出場。

6月16日 ミスター・ポーゴとビクター・キニョネスが「キャピタル・スポーツ・プロモーション」日本支部設立を発表。

6月21日〈W★ING〉都内ホテルにて大迫和義社長らが記者会見を開き、世界格闘技連盟立

「W★ING」設立を発表。「キャピタル・スポーツ・プロモーション」日本支部はこの新団体に吸収。



7月4日〈新日本〉福岡国際センター。獣神サンダー・ライガーがペガサス・キッドをマスク剝ぎマッチで勝利。敗れたペガサスはマスクを脱ぎ、正体が元新日本留学生クリス・ベノワと判明。

7月6日〈全日本〉横須賀。ゴーディ&ウィリアムスがハンセン&スパイビーを破り、世界タッグ王座奪還。

7月19日〈SWS〉天龍がSWS社長に就任。

7月23日 〈SWS〉「レボリューション」伊豆合宿で、阿修羅・原の入団を発表。

7月24日〈全日本〉金沢。三沢光晴&川田利明がゴーディ&ウィリアムスを破り、世界タッグ王座を初戴冠。



8月1日〈リングス〉大阪府立体育会館。前田が左膝負傷を押して出場するも、ディック・フライにTKO負け。長井満也がデビュー。

8月4日 〈SWS〉長岡大会。阿修羅・原が2年9カ月ぶりにリング復帰。翌5日の高崎大会で天龍との龍原砲が復活。

8月7日〈新日本〉 愛知県体育館。第1回G1CLIMAXが開幕。〈W★ING〉後楽園。旗揚げ戦を開催。

8月11日〈新日本〉両国国技館。G1CLIMAX決勝戦。蝶野正洋が武藤敬司を下して初優勝。 

8月17日〈FMW〉JR九州・鳥栖駅東隣接地でロックとジョイントイベントを開催し、4万8000人の観客を動員。ノーロープ有刺鉄線電流爆破トーナメント決勝で大仁田がサンボ浅子を破り優勝。      

8月25日 〈新日本〉 よみうりランド。佐々木健介が試合中に左腓骨骨折・左側関節靭帯断裂の重傷。 長期欠場へ。


9月4日〈全日本〉日本武道館。三沢光晴&川田利明組がジャンボ鶴田& 田上明組を相手に世界タッグ王座防衛。三沢が鶴田から日本人のギブアップ勝ち。

9月23日 〈新日本〉横浜アリーナ。橋本真也がトニー・ホームに雪辱。メインイベントでグレート・ムタが藤波辰爾に勝利。〈FMW〉川崎球場に初進出。大仁田厚がターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチで勝利。

9月26日〈Uインター〉札幌中島体育センター。メインイベントで髙田がボブ・バックランドに75秒KO勝ち。その試合内容にファンが暴動寸前となる。〈SWS〉メキシコEMLL(現CMLL)との提携を発表。     


10月17日 〈新日本〉福岡国際センター。 藤波&ビッグ バン・ベイダー組がSGタッグリーグ戦に優勝。10月18日〈ユニバーサル〉浅井嘉浩が CMLLに移籍し、マスクマンのウルテイモ・ドラゴンになる。 

10月24日〈SWS〉浅井嘉浩との契約を発表。   

11月5日〈新日本〉日本武道館。スコット・スタイナーの負傷返上によるIWGPタッグ王座決定戦が行われ、武藤敬司&馳浩がスコット・ノートン&リック・スタイナーを破り、新王者となる。

11月19日〈W★ING〉団体の解散を発表。 

11月20日〈FMW〉ザ・シークが10年ぶりに来日し、甥のサブゥーと組んで活躍する。



12月4日 〈新日本〉馳が永田町の参議院会館でアントニオ猪木と会談。1992年1.4東京ドーム大会でT・J・シン戦が予定されていた猪木に自身との対戦を要求し、承諾される。

12月6日 〈全日本〉 日本武道館。 テリー・ゴー ディ&スティーブ・ウィリアムスが三沢&川田を破って最強タッグ2連覇達成。

12月10日 〈W★INGプロモーション〉後楽園。旧W★ING所属選手の大半が参戦して、旗揚げ戦を開催。

12月12日 〈SWS〉東京ドーム。「スーパ レッスルIN東京ドーム」 開催。天龍がホーガンに敗北。浅井はウルティモ・ドラゴンに変身、日本デビュー戦を飾る。

12月18日 〈新日本〉巌流島。 馳が猪木との対極を懸けた一騎打ちで、シンにKO勝ち。 12月22日 〈Uインター〉 両国。高田がボクシング元ヘビー級王者のトレバー・バービックとの格闘技世界一決定戦に勝利。

12月25日〈WCW〉アトランタ。獣神サンダー・ライガーがブライアン・ピルマンを破り、第2代WCW世界ライトヘビー級王者となる。

それでは皆さんを1990年代のプロレス界にお連れいたします!



──ゴクさん、ペンダフさん。1990年代のプロレス界を振り返る企画『世紀末バトル・アーカイブス』にご協力いただきありがとうございます!今回は1991年のプロレス界について大いに語っていただきたいと思います。よろしくお願いいたします!

ゴクさん よろしくお願いいたします!
ペンダフさん よろしくお願いいたします!


──1991年のプロレス界は、UWFが解散しまして三派(藤原組、UWFインターナショナル、リングス)に分裂し、新団体W★ING旗揚げ、新日本では『G1 CLIMAX』が開催され、闘魂三銃士が台頭します。全日本では『チャンピオン・カーニバル』でリーグ戦が復活してジャンボ鶴田さんが優勝。また超世代軍が大躍進していくのがこの年でした。また1991年の東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞についていかがですか。


ゴクさん 新人賞が折原さんなんですね。

──折原選手はSWSジュニア戦線で佐野直喜さんや北原光騎さんといった先輩レスラー相手に健闘して、いい試合が多かったんです。この当時から場外へのケプラーダとかやっているんです。

ペンダフさん この頃から無鉄砲だったんですか?


──そうですね。ガムシャラファイトと空中殺法を得意にしてました。


ペンダフさん 後に折原さんはWAR代表として新日本と対抗戦やってから知るようになったので、その時期はあまり意識してなかったですね。山本小鉄さんの著書によると折原さんはプロレスラーになる前に、新日本道場に見学したことがあって、グラン浜田さんがスパーリングで相手して、「子供だから、何してもいいよ」と浜田さんは下になって寝転がると、なんと彼はコーナーに登ってダイビング・ニードロップをしたらしいですよ(笑)。それで浜田さんがブチ切れて、折原さんをボコボコにしたと。


──ハハハ(笑)。


ゴクさん  天性のトンパチですね(笑)。

ペンダフさん 寝技とか打撃じゃなくて、そこでニードロップを選ぶなんて凄いじゃないですか!


──折原選手は結構、強い選手なんですよね。レスリングで実業団で活躍してますから。

ペンダフさん キングダムにも出てましたね。


──1991年は激動の一年だったんですけど、1月4日に1990年のプロレス大賞授賞式があったんですけど、大仁田厚選手がMVPとベストバウトの二冠を達成したのが理由なのか、各団体がこの結果に対して批判をするためか例年になく関係者の出席が少なかったそうです。


ゴクさん そうだったんですね。
 

ペンダフさん 今でこそデスマッチなんか当たり前ですけど、当時はスーパー邪道やと思うんすよね。僕は大仁田さんのデスマッチは別物として見てました。


──1991年がそもそも波乱の幕開けをしていて、その数日後の1月7日にUWFが解散するんですよ。前田さんの自宅に選手が集まって会合をして、解散という流れになるわけですが、その二日後に前田さんはオランダのサンボ世界王者クリス・ドールマンと会談をしてますね。実はドールマンは新日本参戦が内定していたんですけど、白紙にして前田さんを選んで後にリングス旗揚げに協力するようになるんですよ。



ペンダフさん 実は前田さんは先手を打ってたんですね。あと前田さんは藤原喜明さんが藤原組、高田延彦さんがUWFインターナショナルを旗揚げして、色々と疑心暗鬼になっていたのかもしれません。


──それはあると思いますね。

ペンダフさん あと1991年といえば橋本真也VSトニー・ホームですね。まだこの頃は新日本を中心に見ていて、橋本に連勝したトニー・ホームが印象深かったですね。新日本にはビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバンビガロ、スコット・ノートンといった怪物外国人レスラーが勢ぞろいしていて、それが面白かったですよ。

 

──ベイダー、ビガロ、ノートン、ホームの新日本外国人四天王。わきを固めるのが、グレート・コキーナ、ワイルド・サモアンのサモアン・スワットチーム。

ペンダフさん ハハハ(笑)。全日本に負けず、新日本も外国人レスラーが揃ってましたね。


──ゴクさんは1991年のプロレス界で印象に残っていることはありますか?

ゴクさん  僕は1992年からプロレスファンになったんですけど、プロレスを見てから、古本屋で投げ売りで、週刊プロレスが1冊50円で売られていて、それを持てるだけ買うと、やたらと1991年のものが多かったんです。紙面を見ると衝撃的なSWSからの取材拒否という表紙の週刊プロレスがあったんですよ。



──SWS社長・田中八郎さんからFAXで取材拒否の文面が送られてきたことをそのまま表紙にしたんですよね。


ゴクさん  そうです。あの時の週刊プロレスを読むと、取材拒否に対する読者のFAXでの熱量が凄すぎて、「プロレスはこうでなくちゃ!」と思いましたよ。ターザン山本さんと読者があらゆることに揚げ足取りをしている文章が多くて(笑)。


ペンダフさん 全盛期の週刊プロレスにおけるターザン山本さんが良くも悪くも神がかっていましたね。僕は当時は週刊ゴング派で、フラットで中立に取り上げて、冷静に分析するスタンスが好きで、資料性が高かったんです。

ゴクさん  その通りですね。

ペンダフさん 週刊プロレスだと、SWS、新日本に取材拒否されているから抜けている時期があるじゃないですか。そうなると資料としてはゴングのほうが優秀かなと。


ゴクさん  僕はプロレスファンなりたてだってので、分かりやすい週刊プロレスを買ったという感じですね。

ペンダフさん 山本さんは文章に色気があったんですよ。映画畑の人やから例え話とかうまくて。
ゴクさん  ゴングは特集号とか技の解説とか、資料として魅力的でしたね。

ペンダフさん  そうなんですよ。ゴングは冷静に書いていて、週プロはエモーショナル。

ゴクさん  週プロは色を付けすぎくらいやりますよね(笑)。ペンダフさんは1995年4月2日の『夢の懸け橋』(東京ドームで開催されたベースボールマガジン社主催の13団体参加プロレスオールスター戦)とWAR後楽園ホール大会なら、WARの方を選んだんじゃないですか?

ペンダフさん  うーん、迷いますけど。WARに行くかな。今となるとターザン山本さんのポップなセンスは評価されるべきかもしれませんね。でも学生時代は硬派なゴングが好きでした。


ゴクさん  その気持ち、分かります!



ペンダフさん  あとゲームの『ファイプロ』の存在は大きかったです。あれでUWFの凄さを知りましたから!冴刃明、桧垣誠、梶原丈がとにかく強かった!

──冴刃明の大車輪キックは恐ろしい打撃技でしたから!



ゴクさん  冴刃明の大車輪キックは結構、流血率が高かったですね。

ペンダフさん  そうですよね。あと桧垣誠の掌底が凄くて。ここで骨法の恐ろしさを知りましたね。


──骨法を我々に洗脳させたのはターザン山本さんですからね。


ペンダフさん  そうですよ!


──山本さんはカルト宗教の教祖のような感じなんですよ。



ペンダフさん  もしかしたら別分野でも大物になっていたかもですね!



──我々はターザン山本さんと堀辺正史さんに洗脳されましたね(笑)。


ペンダフさん  ジャン斎藤さんも自身のサイトで似たようなことを言ってたんですけど、ファイプロ経由でUWFを知って、そこから後追いでゴングで調べて、過去のVTRを見まくってUWFの凄さを認識していくという感じでした。ビデオは当時、配達レンタルビデオというのが流行っていて、それでプロレスやUWFを借りまくってましたよ。


──ありがとうございます!あとSWSの北尾光司八百長発言事件も1991年なんですよ。


ペンダフさん  ああ、そうだった!


ゴクさん  僕もこの印象が強いですね。


ペンダフさん  SWSはメガネスーパーがバックにいて、WWEと共闘したりして、花道を初めて導入したり、資本主義プロレスとかエンタメ寄りの思想のイメージがあったんですけど、割とこういう事件が多かったですね。あと数年前のSWSを特集したムック本で若松市政さんのインタビューが掲載されていて、当時のSWSでは若手同士の試合はほとんどこれ(シュート)だったらしくて。これが本当かどうかはわかりませんが。


──おおおお!!それはなかなか興味深い証言ですね。


ペンダフさん  だから折原さんや北原さんが台頭したのは納得なんです。


──SWSで個人的に印象に残っているのは、キング・ハクが天龍源一郎さんをビール瓶で殴ったんですけど、それが中身入りだったという話ですね。それが原因で天龍が脳の後遺症を患ったそうです。


ゴクさん  えええ!

ペンダフさん  それはヤバいですね!


──あと阿修羅・原さんとキング・ハクが会場全体に響き渡るほどの頭突きやチョップの打撃戦を展開していて、トップクラスの攻防もSWSはかなりハードヒットだったんです。


ペンダフさん  なるほど!


──ありがとうございます!ちなみに1991年で語りたい試合はありますか?


ゴクさん  これはウケ狙いとかではないのですが、1991年9月30日に日本テレビ系で放送された『第7回ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』で行われた格闘字読みクイズですね。


──ありましたね!


ゴクさん  その字読みクイズに藤波辰爾さん、橋本真也さん、獣神サンダー・ライガーさんが出演していたんですよ。宴会場に突如、リングが出現するという感じでした。最初は解説席にいた藤波さん、橋本さん、ライガーさんがテーマ曲に乗って入場してくるんですよ。鈴木修先生が手掛けた藤波さんの『RISING』、橋本さんの『爆勝宣言』がとにかくかっこよかったのを覚えています。



ペンダフさん  プロレスラーにとってバラエティー番組に出るのは大事ですよね。大仁田さんだって、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんがずっとものまねをしていたことによって知名度が上がりましたよね。


ゴクさん  それはありますね!僕は当時プロレスを見てなかったので、なんで上島という芸人はずっと泣いているんだろうと疑問でした(笑)。

ペンダフさん  ハハハ(笑)。


ゴクさん  その字読みクイズでは橋本さんとライガーさんの相手を最初はたけし軍団が務めて、どんどんハードヒットを食らうんですけど、後半になると井手らっきょさん、春一番さん、ダチョウ倶楽部さんがお笑いという武器を使いながら互角に渡り合うような策を使うんですけど(笑)。


──最高ですね(笑)。


ゴクさん  それで途中で藤波さんを春一番さんが呼び込むシーンがあって、藤波さんがサスペンダーとタキシードを脱ぐと黒のショートタイツを履いていて、ロープ越しで春さんをビンタするんですよ。あの飛竜革命の再現をやったんですけど、僕は当時よく分からなかったんです。もう本当、お笑い番組の一つの企画の中にいろんな元ネタが散りばめられてる。ただ、そんなことを知らなくても、もう本当にプロレスは面白いなという一つのきっかけでしたね。

ペンダフさん  今の『アメトーーク』のように意味は分からなくても面白いという感じですよね!これは後で気がついたんですけど、1992年から始まったWARと新日本の抗争も、会社同士で決めたことかもしれませんが、きっかけはテレビ番組やったらしいですね。

──その通りです。『プレステージ』という深夜番組に越中詩郎さんと木村健悟さんがゲスト出演していたんです。

ペンダフさん そこにWARの北原光騎さんが途中に電話で割り込んで、互いに口喧嘩になったという件ですね。

ゴクさん 確か週プロの記事でそれありますね。

──週プロはそのやり取りを文字起こしをしているんですよ。口喧嘩が終わった後に、馳浩さんやライガーさんに感想を求める光景があって、馳さんが北原さんの言動に「社会人としてどうかと思う」と感想を述べていますね。

ペンダフさん 北原さんは後に「向こうから喧嘩を売ってほしいと言われたのに」と言っていたような気がします。

──何かとテレビがきっかけになることがプロレスにはあったんですね。

ペンダフさん あとはこれは思い出したのですが、1991年にペガサス・キッドがマスクを脱いでいるんですよね。ライガーさんとの敗者マスク剥ぎマッチで。

──新日本の7月4日福岡国際センター大会ですね。

ペンダフさん これは衝撃でしたよ。マスクを取った方がかっこいい(笑)。めっちゃ男前やんけみたいな。ペガサス・キッドというリングネームも、坂口征二さんが当時ペガサスというパチンコにハマっていて、そこにちなんで命名されたという話ですね。

──実はペガサス・キッドは日本ではライガーさんに敗れてマスクを脱ぎましたが、メキシコではビシャノ3号と抗争をしていて、彼に敗れてマスクを脱いでいるんです。だからキッドは2回マスクを脱いでいるということになりますね。


ペンダフさん ペガサス、好きやったですね。僕は初代タイガーマスクは幼稚園の時にリアルタイムで見ていたんですけど、そこまで乗れなかったんですよ。あのマスクがどこか特撮すぎて、その一方がミル・マスカラスの無駄のないデザインのマスクがめちゃめちゃ好きだったんです。入場テーマ『スカイ・ハイ』、彫刻のような筋肉もカッコよくて。

──はい。

ペンダフさん その流れでペガサス・キッドも無駄のないマスクのデザインで、しかもあの筋肉隆々。やっぱり僕はヒーローのライバルキャラが結構好きなんですよね。初代タイガーマスクよりはライバルのダイナマイト・キッドが好きでしたから。

──なるほど!

ペンダフさん 超世代軍でも三沢さんも好きでしたけど、心のなかでは川田さんを応援していたり。鶴龍対決だと天龍さんを支持したり。



──鶴龍対決は、天龍さんの方が支持率が高かったような気がしますね。

ペンダフさん なんか反体制にやっぱ憧れちゃうんすよね。民衆で革命を起こしたい人にシンパシーを感じてしまうんです。どちらかというと追いかけるキャラが結構好きだったりするんだよね。


ゴクさん 孫悟空よりもベジータっていう感じですね。


ペンダフさん そうです!わかりやすい例えをありがとうございます!

ゴクさん わかりますね。


ペンダフさん それでペガサス・キッドの正体がかつて新日本で留学していたクリス・ベノワという若手のレスラーだったわけですよね。後に世界のスーパースターになりますが。

──キッドがマスクを脱いだ時に、解説の山本小鉄さんが「昔、新日本道場で留学していた選手」と言ってましたね。

ペンダフさん そうだったんですね。小鉄さんやマサ斎藤さんの解説は勇み足的なところありますよね。

──小鉄さんの勇み足はなんか可愛げがあるんですけど、マサさんの勇み足解説がすごくてヒヤヒヤしますよね。

ペンダフさん グレートOZの正体も「バスケットボール選手だったんですよ」と平気で言いますからね(笑)。オズの魔法使いキャラなのに、そんな経歴を言われちゃうと幻滅するじゃないですか。

──2代目ブラック・タイガーに「エディ(ゲレロ)」って言いますからね。

ペンダフさん あれはひどかったですね(笑)。


──ニックネームのことをホーリーネームとか(笑)。

ペンダフさん ハハハ(笑)。

ゴクさん ハハハ(笑)。


ペンダフさん 1991年といえば阿修羅・原さんの復帰戦ですね。

──原さんが1988年に全日本を解雇になって、1991年に復帰するまでの物語はほとんど演歌の世界観ですよ。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』でおなじみですね。


──最高ですね。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』は最高ですよね。ゴクさんは読まれたことはありますか?

ゴクさん 持っているかもしれませんけど読んでないかもです。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』の漫画は『プロレススーパースター列伝』の原田久仁彦先生が描かれているんですよ。宝島社から出ていて、WJの黒い話とか暴露系のネタが多くて、「原田先生にこれは書いてほしくなかったな」とショックを受けたんです。でも原さんの回はめちゃくちゃかっこよかったんです。原さんが借金してトンズラして、紆余曲折の末に天龍さんが原さんを迎えに行くという話で。

ゴクさん 原さん、寿司屋で下宿していたんですよね。


ペンダフさん そうです!北海道の寿司屋!

ゴクさん 別冊宝島のプロレスムックで、阿修羅・原さん最後のインタビューという企画があって、東京から来た記者に「長崎に来たんだから、いいもん食わせてやる」といって、リンガーハットでおごったそうです(笑)。



──ハハハ(笑)。

ペンダフさん 『プロレス地獄変』は別冊宝島の漫画の部分だけを単行本にまとめたもので、かなり分厚くて、最初は原さんのエピソード目当てで買って読んだんですけど全部めちゃくちゃ面白かったんですよ。元新日本取締役でWJを立ち上げた永島勝司さんの回が全部面白かった!

ゴクさん 「カ、カテェ!」は有名ですね。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』を読むと原田先生のワードセンスが凄くて、梶原一騎先生と組んでいた時期もあるから、梶原一騎イズムを吸収したのかもしれませんね。


──『プロレス地獄変』はラッシャー木村さんの回とか感動しますよね。原さんと木村さんの回はドラマ化してほしいなと思うほどクオリティーが高いです。



ペンダフさん  『プロレス地獄変』は多くの皆さんに読んでほしいです。


──ちなみに1991年の年表を見ると、12月にライガーさんがブライアン・ピルマンを破り、第2WCW世界ライトヘビー級王者になったというニュースがあるんですよ。


ペンダフさん それはゴングの記事で見ましたね。


──あとは第1回の『G1 CLIMAX』が1991年開催ですね。


ペンダフさん  第1回のリーグ戦にエントリーした選手は全員優勝候補でしたね。



──長州力、藤波辰爾、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、ビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバンビガロ、スコット・ノートンという豪華なメンツでした。


ペンダフさん  今の『G1 CLIMAX』とは全然違いますよ。まさか蝶野さんが優勝して、その決まり手がパワーボムとは…。あと翌年の『G1 CLIMAX』も印象深くて、アメリカンプロレスの選手が大挙来日するじゃないですか。



──1992年の『G1 CLIMAX』はWCWからリック・ルード、バリー・ウィンダム、スティーブ・オースチン、アーん・アンダーソン、テリー・テイラー、ザ・バーバリアン、ジム・ナイドハートが来日しています。今思えば結構渋い人選ですよ。

ペンダフさん  そのトーナメント決勝戦が蝶野さんとリック・ルード。ルードのプロレスなんて僕みたいな子供にはなかなか理解できないじゃないですか。でもいざ試合を見るとルードはうまいですよ。ちゃんとヒールをやってくれていて。



──ルードはランディ・サベージのような試合巧者ですから。


ペンダフさん  ルードとサベージは似ているかもですね。互いに女性マネージャーを引き連れてますから。ルードといえば1994年3月の馳浩戦もよかったですね。


──ルードは1991年の全日本『サマーアクションシリーズ』で来日しているんですよ。殺人魚雷コンビとトリオを組んでましたね。


ゴクさん  そうなんですね!

ペンダフさん 全然覚えてないです。あとスタイナー兄弟も1991年に新日本に来日しているんですよね。

──その通りです!


 
ペンダフさん スタイナー兄弟、好きやったなぁ。アマレスのムーブを出す全面的に選手は地味な印象が強かったんですよ。サルマン・ハシミコフ、谷津嘉章さんとか。その流れをスタイナー兄弟が変えましたね。とにかくド派手でしたね。スタジャンとかかっこよかったし。

ゴクさん  確かに!

──実際にスタイナー兄弟は強いんですよね。

ペンダフさん 特に兄貴のリック・スタイナーは喧嘩が強かったそうですね。


──これは後年の話ですけど、新人時代の真壁刀義選手が先輩から理不尽ないじめを受けた時に、慰めてくれたのはリック・スタイナーだったという話を聞いたことあります。


ペンダフさん そうらしいですね。


──あと橋本さんが真壁選手が理不尽ないじめに遭っているときに「いい加減にしろ!」と一喝したというエピソードもありますね。

ペンダフさん 橋本さんも大概ないたずら好きですけどね。



──橋本さんはいたずら好きですけど、いじめは嫌いなんですよ。


ペンダフさん そこは橋本さんのいいところなんですよ。



(『世紀末バトル・アーカイブス 1991年のプロレス編』終了)



 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。




(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん、事務所ブレーンとして関わった猪木さん、そして今率直に感じる猪木さんへの想い…。

元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!




私とプロレス 木村光一さんの場合「第3回 蜜月と別離」


 


取材対象としての魅力は猪木さんがダントツだった

 
──ここからは木村さんには取材対象として猪木さんについてお聞きします。実際に取材をしてみて猪木さんの印象はいかがでしたか?

木村さん 僕はプロレスライターでもスポーツライターでもないので、これまでプロレスラーや格闘家だけじゃなく、アスリート、芸能人、芸術家、作家、学者、政治家等々あらゆるジャンルの有名人や著名人に会ってきました。これはその経験をふまえた上での結論なのですが、取材対象としての魅力は猪木さんがダントツ。オーラが桁違いでした。自分の憧れの人という特別な感情を大幅に差し引いても、他の方々とは比較になりません。

──さすが、「20世紀のスーパースター」アントニオ猪木さんですね!

木村さん 猪木さんとは取材以外の世間話やビジネスに関する会話までトータルすれば数百時間話をしているにもかかわらず嫌な思いを味わったことは皆無でした。

──どの辺が他の取材対象とは違いましたか?

木村さん 猪木さんのインタビューはテーマによってはかなりハードルが高かったんです。とくにプロレスの話。事業や環境問題のことならいくらでも雄弁に話してくれるんですが、それがプロレスや格闘技についての質問になると短い答えが返ってくるだけですぐ別の話題に変えられてしまう。猪木さんに何度かインタビューした記者や編集者にもたしかめましたが、みんなそれで困ったと言ってました。

──猪木さんはプロレスや格闘技に関してはあまり話をしたがらないというイメージはありますね。

木村さん これは私の推測ですが、猪木さんはアリ戦のあとの苦い経験から「どうせ話をしてもわかんねぇだろう」とその点についてはずっと心を閉ざしていたのではないかと。なにしろ全世界から一斉にバッシングを受けたんですから。最近になって猪木・アリ戦の評価は手のひらを返したように一変しましたが、僕が取材していた95年から2005年の頃でもあの一戦の評価は定まっていませんでした。それに相変わらずプロレス八百長論も根強かったので、もう話すものいいかげんめんどくさかったんだと思います。


なぜ、木村さんは猪木さんからプロレスや格闘技の深い話を聞き出すことができたのか?


──しかし、木村さんはその時期に猪木さんからプロレスや格闘技に関するかなり深い話を聞き出されています。いったいどうやったんですか?

木村さん プロレス記者やマスコミの取材者は、その後の猪木さんとの付き合いもありますから空気を読んで話題を変えるしかなかったんだと思います。猪木さんが話を逸らしたらそれ以上は訊かないという暗黙の了解があったようです。しかし、僕はそもそもプロレス業界でもなければマスコミの人間でもなかった。いわば部外者。しかも猪木さんにインタビューするというそのためだけにいきなりライターに転身したという〝どこの馬の骨かわからない奴〟でした。したがって「この後、二度と話を聞く機会はないかもしれない」という思いもあって引き下がれなかったんですよ。

──危機感があったからこそ踏み込んで質問されたのですね。

木村さん だから僕も最初ははぐらかされましたが、それでもしつこくプロレスや格闘技に関する質問をし続けていくうち、さすがの猪木さんも呆れたんでしょうね、重い口を開いてくれるようになったんです。会う度に根掘り葉掘り質問するものだから、一度、「これはインタビューじゃなくて検察の取り調べだな」と苦笑いされたこともありました(笑)。

──ハハハ。事情聴取をされた気分だったんですね!

木村さん いま思えば、たしかに相当しつこかったし、あの猪木さんの言葉は警告だったのかもしれません(笑)。

──でも、木村さんはプロレス村の部外者だから暗黙の了解も関係なかったと。

木村さん はい。多分、僕の質問の大半はタブーだったんじゃないかと思います。一度、猪木さんがその場にいた新日本の永島(勝司)企画部長に「これ、どこまで答えていいのかなぁ」とあきらかに困った素振りを見せたこともありました。でも、そのうち「なるほど、そう来たか」と面白くなってきたみたいで。猪木さんはプロレス界の象徴として絶対に夢を壊すような発言はしない方でしたが、それでもギリギリの答えを返してくれるようになりました。



蜜月期だからこそ味わうことができた猪木さんのフェイスロック


──猪木さんに技をかけてほしいとリクエストしたこともあったそうですね?

木村さん フェイスロックのことですね。一時期まで新日本の試合で必ず使われていた基本技の一つで顔面の急所を手首の硬い骨で痛めつける技です。この技の話になったとき「理屈ではわかるんですが、どういう痛みなのかイメージできないんです」と僕が言ったところ「ちょっとそこに座って」と猪木さんが立ち上がり、背後に回って僕の頬骨に手首の内側をあてて軽く顎を頭のてっぺんにのせた。そしたら何が起こったと思います?

──わかりません、いったいどうなったんですか? 

木村さん 僕の上顎と下顎が逆方向に捻じれて外れそうになったんです。

──そうなんですか!!

木村さん しかも猪木さんはまったく力を入れていなかった。もし、ちょっとでも力を込めていたら完全に僕の顎関節は破壊されてました。あれは人生で初めて味わった痛みでした。

──フェイスロックって本当はそんなにすごい技なんですか…。

木村さん それ以来、プロレスを見る度にフェイスロックに注目するようになりましたが、でも、猪木さんのそれとはあきらかに別モノなんですよ。多分、ほとんどのレスラーは形だけで本当のかけ方を知らないんじゃないでしょうか。

──貴重な体験をされましたね。

木村さん ええ。僕は自分の中のケジメとして猪木さんからサインも貰ったことはないんですよ。でも、あのときのフェイスロックの痛み。あれが僕にとってはいちばんの宝になってます。



猪木さんに取材すると元気になる!?

        
──ところで木村さんは『闘魂転生』という書籍を出されていますが、その版元のKKベストセラーズさんは不定期に発売していたプロレス雑誌『プロレス王国』の発売元でしたよね。

木村さん はい。平子保雄編集長にはずいぶんお世話になりました。

──確か1996年発売の『新日本プロレスSUPER BOOK プロレス王国特別編集』の企画で猪木さんと橋本真也さんのスパーリングが行われていました。木村さんはそれも実際にご覧になられたんですか?

木村さん いえ、その企画には関わってなかったので一読者として記事を拝見しました。

──猪木さんが上になって掌底を見舞ったり、猪木・アリ状態で橋本さんがヒザ十字固めに移行したり、途中から猪木さんが「ポイントがズレている」とヒザ十字を橋本さんに指導したり、「髙田延彦には極まったかもしれないが、俺には極まらないぞ」と三角絞めをかけさせたり、魔性のスリーパーを伝授したりと、スパーリングと技の伝承も兼ねた内容でした。最後まで猪木さんが元気だったのに対し、橋本さんは鼻血を出して疲弊している印象を受けました。

木村さん 現場にいた平子編集長によると、橋本選手はスパーリングが終わってから「あのおっさん何考えてんだ。何、本気になってんだよ」と怒ってたとか。


──それは橋本さんらしいコメントですね!


木村さん ですね。でも、そのあたりの受け止め方が橋本真也選手の甘さだったんじゃないでしょうか。猪木さんの方はスパーリングの前からコンディションも調整して準備していたそうですから。


──他に猪木さんの取材をしていて印象に残っていることはありますか?


木村さん いろいろありすぎてどれを話したらいいか(笑)。そう、猪木さんの取材をすると大抵の場合、終わった後は元気になるんですよ。でも、猪木さんの調子が悪い時にあたると、どうやらこちらの元気を吸い取られてしまうみたいで、体調を崩してしまうことがありました。


──えええ!


木村さん 自分だけなのかと思って『プロレス王国』の平子編集長に聞いてみたら、やっぱり猪木さんの取材後に具合が悪くなって寝込んだことがあると言ってました。


──つまり、逆に猪木さんはどんなに調子が悪くても人に会うことによって元気を取り戻してたと。


木村さん どうもそうみたいで。ただこちらはたまったものじゃないですよ。気を吸い取られるんですから(笑)。まあ、何度か海外などで猪木さんと数日間一緒に過ごす機会がありましたが、そういうときの猪木さんはまたエネルギッシュで、こっちまで元気を注入してもらってましたけどね。 
       

   
──「猪木が笑えば、世界が笑う!」「元気があれば何でもできる!」を体現してますね!



木村さん まさにそう。だから猪木さんにはいつでも元気でいてもらわなきゃいけなかったんです。 

──猪木さんにはスピリチュアルな力があったんでしょうか?
 
木村さん どうなんでしょう。でも、たしかに猪木さんの引退試合前の沖縄合宿に同行させてもらったときにも不思議なことがありました。タクシーに乗っているとき、隣の猪木さんに「ちょっと手を出してみな」と言われたんで手を出したんです。そしたら猪木さんが僕の手の甲の上に手をかざしたとたんに体の内側が熱くなって。「何か感じる?」と聞かれて「熱いです」と答えると「そうだろ」と。信じられないかもしれませんが、これは本当の話です。
 

海外同行時の猪木さんとのエピソード


──さきほど木村さんは海外にも同行されていたという話がありましたが、そのときのエピソードをお聞かせください。

木村さん 猪木さんとはロサンゼルス、グアム、タイ、バングラデシュにご一緒させていただいたんですが、世界中どこへ行っても必ず誰かが寄ってくるのには驚きました。日本人だけでなく、あらゆる人種の外国人が握手やサインを求めてくる。また猪木さんはそれを絶対に断らない。なのでずいぶん僕が記念写真の撮影係をやらされました(笑)。

──猪木さんはファンサービスにも定評があります!

木村さん ロサンゼルスで取材中、通りすがりのアメリカ人から「彼は何者だ?ムービースターか?」と聞かれたこともありました。バーのラウンジでも。猪木さんを知らない外国人でも、どうやら尋常じゃないオーラを感じたんでしょうね。そのときは「モハメド・アリと闘って引き分けた日本の有名なプロレスラーだ」と説明したんですが、アリの名前を出すとあきらかに態度が変わるのがわかりました。



現代版にアップデートした「格闘技世界一決定戦」を構想していたUFOの設立趣意書を作成!


──やはり猪木さんにとってモハメド・アリとの世紀の一戦は大きな財産だったんですね。そういえば木村さんは猪木さんに密着取材する一方、猪木事務所のブレーンとして、UFO(世界格闘技連盟)旗揚げにも携わったと聞いています。 

木村さん はい。UFOの設立趣意書は僕が作成しました。

──えええ!本当ですか!それは驚愕の事実です!    

木村さん といっても、佐山(聡)さんの頭の中で出来上がっていたイメージを引き出して、それを僕が文書やフローチャートにしてまとめていくという流れなので、あくまで補佐的な関わり方です。佐山さんはアマチュアの下部組織を世界中に作り、そこから何段階かレベル別のステージを設け、その中から選ばれたトップクラスの選手たちが実力を競う最高峰の舞台にUFOのリングを位置付けるという構想を思い描いていました。ルールはほぼ総合格闘技寄り。「ファイティングアーツ(格闘芸術)」というコンセプト・ワードは僕の猪木さんへのインタビューの中で自然発生的に生まれたフレーズを使いました。ちなみにそのUFOの設立趣意書は、英訳されてアメリカのメディア王ルパート・マードック氏に送られたと後で事務所のスタッフから聞いてます。はっきりしませんが、たしかマードック氏がテレビ朝日を買収しようとしていた時期だったような憶えがあります。     


(画像は本人提供です)

──ということは、UFOはマードック氏が所有している全米のテレビネットワークでの放送を目論んでいたわけですね。

木村さん おそらくそうだと思います。猪木さんはUFOの設立当初から世界市場を視野に入れていて、オランダのウィリエム・ルスカ、アメリカのウィリー・ウィリアムスといった異種格闘技戦で闘ったライバルたちを各拠点のリーダーにしようとも考えていました。


猪木事務所のブレーンとして


──めちゃめちゃ面白い話です!猪木さんの「格闘技世界一決定戦」を現在版にアップデートして、組織化していくという構想だったのですね。そういった壮大なプランニングにスタッフとして参加されていた時代をいま振り返るとどんな思いが蘇りますか?

木村さん いや、刺激的で楽しかったですよ! 佐山さんも猪木さんもズバ抜けた天才。そんな人たちと一緒に仕事ができる機会なんて普通ありませんから毎日わくわくし通しでした。ただ、周りの人たちは大変そうに見えました。一応誤解のないよう説明しますが、僕はあくまで猪木事務所とは対等な立場の外部スタッフで社員になったことはありません。仕事は成功報酬。主として運営がうまくいってなかった「公式ウェブサイト」やオリジナルグッズ販売の「イノキイズムストア」のリニューアルなどを頼まれてそのプロデュースを手掛けたり、実現には至らなかった「アントニオ猪木記念館/格闘技アリーナ」の企画立案やさまざまな商品開発に携わったりしていました。ところが、ある日、突然、猪木さんが事務所を解散してそれまで進めていたプロジェクトのすべてが水泡に帰してしまったんです。

──猪木事務所はどうして解散になってしまったんですか?

木村さん いろいろ憶測が流れていたようですが、そのあたりの経緯についてはまったくわかりません。事前に何の連絡もありませんでしたし、いまだに何があったのか誰からも聞かされていないんです。プロレス業界に詳しいマニアファンの間では一方的に猪木事務所が悪の巣窟のように語られているみたいですが、僕の見た限り、スタッフはみんな猪木さんのために体を張って頑張ってましたよ。正直、僕はもともと猪木事務所の倍賞(鉄夫)社長が新日本プロレスの役員時代に揉めたことがあって関係はあまりよくなかったんです。それでも、事務所に出入りしても倍賞さんから嫌な顔をされたことはありませんでした。が、肝心の猪木さんと倍賞さんの間には何かあったようで…。どうやら猪木さんにネガティブな情報を吹き込んでいる人たちもいたようでした。そう、さっきは猪木事務所の仕事は楽しかったと言いましたが、僕は猪木さんの周りでそういう不信感が渦巻いている状況には辟易してました。というのも、猪木さん関連の仕事の窓口は猪木事務所だけじゃなく、他にいくつも派閥があってつねに牽制し合ってたんです。僕は中立の立場でいずれの派閥とも仕事をしていたので冷静に全体の状況が見えていたんですが、よくよく考えてみると、猪木さんを独占したいというそれぞれの派閥の思いを利用して綱引きをさせていたのは他でもない猪木さんだったんです…。

──今の話を聞くと猪木さんは現役引退後も周囲に緊張感をふりまいていたんですね。

木村さん 猪木さんはリング上でそうだったように馴れ合いがいちばん嫌いだったんでしょうね。でも、プロレスならレスラー同士の不信感も闘いのドラマへと転じてプラスに作用する可能性もありますが、通常のビジネスの現場にそのやり方を持ち込んでも足の引っ張り合いにしかならないのにと僕は思ってました。


猪木さんとの別離


──猪木事務所が解散した翌2007年、猪木さんは新団体IGFを旗揚げします。木村さんはIGFには関わることはなかったのですか?

木村さん 関わりませんでした。というのも、猪木事務所が解散してIGFが旗揚げするまでの間に、モハメド・アリの娘レイラ・アリと猪木さんの娘・寛子さんに異種格闘技戦をやらせるというプランが持ち上がったんですが憶えてますか。

──ありましたね!2006年8月に、アントニオ猪木vsモハメド・アリ30周年を記念したイベントを日本武道館で開催して、アリの娘VS猪木さんの娘が行われる計画だと当時の東京スポーツで報じられました。結果的に実現はしませんでしたが。

木村さん ちょうどその時期、猪木さんの元・側近の方から会議に参加してくれないかという連絡があったんです。猪木さんからのご指名だと。でも僕は「申し訳ありませんがアリの娘と寛子さんの試合の件なら参加できません。もし猪木さんがそれを本気でやろうとしているのなら、猪木さんが御自身の歴史を否定することになります」とお断りしました。アリの娘は正真正銘プロボクサーなのに対し、寛子さんは格闘技経験ゼロのズブの素人。いくらなんでもそんなマッチメイクはあり得ない。強力な話題性が必要なのはもちろんわかっていましたが、そんなことを猪木さんがやってしまったらこれまでのアントニオ猪木の歴史までもがすべて嘘になってしまうと訴えたんです。それ以来、猪木さんサイドからの連絡はなくなりました。

──ちなみに2007年6月29日・両国国技館で行われたIGF旗揚げ戦はご覧になられましたか?

木村さん テレビで見ました。見事でしたね。あの旗揚げ戦のクオリティーが維持できればIGFは凄い団体になったと思います。しかし、続きませんでした。原因ははっきりしてます。メインイベントのカート・アングルVSブロック・レスナーがあまりにも凄すぎたんです。

──カート・アングルVSブロック・レスナーは、WWE『レッスルマニア』でもメインイベントとなったドル箱カードですからね! でも、なぜそれがIGFの続かなかった原因だと?

木村さん おそらく、あの試合はIGF旗揚げ当時の猪木さんの理想でありメッセージだったと思うんです。「こういうプロレスをおまえらやれよ。俺はこういうプロレスが見たいんだ」という。けれども、僕は残念ながら日本人選手には絶対真似できないプロレスだと感じていました。かといってアングルやレスナー級の選手を毎回呼ぶことはできないし、そもそもあの2人の他にああいう試合がやれる選手がアメリカにいるかどうかもわからなかったわけで…。つまり、その先、尻すぼみになるのは最初から見えていたんです。

(第3回 終了)





 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。




(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん…。

元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!




私とプロレス 木村光一さんの場合「第2回 アントニオ猪木の強さとは!?」


 

学生時代に格闘技研究をしていたからこそ分かるアントニオ猪木の強さ

──木村光一さんは〝格闘家・アントニオ猪木〟という視点から長年取材されてきたわけですが、なぜ〝プロレスラー・アントニオ猪木〟ではなかったのでしょう?

木村さん 前回も話しましたが、僕は子供の頃からプロレスラーの中でアントニオ猪木だけが違って見えるのはなぜなんだろうってずっと思い続けてたんですよ。そもそもルールの全く違う格闘技の超一流の選手たちとどうしてあんな凄い試合ができたんだろうと。それは〝プロレスだから〟の一言で済まされるほど簡単なことじゃない。その証拠に、猪木さんの他に、異種格闘技戦であれだけ多くの名勝負を残したレスラーは存在しないわけですから。

──確かにそうですね!

木村さん しかし、それについて考えようにも、僕が猪木さんの『格闘技世界一決定戦』に衝撃を受けた70年代半ば頃はビデオもなければ専門誌もほとんどなかった時代で、自分の記憶以外には手がかりがまったくなかったんです。そんなわけで、これは実践して身体で確かめてみるしかないと、少林寺拳法や柔道をやってる友だちを集めて公園で格闘技研究会みたいなことを勝手にやり始めたわけです。

──どなたかの指導を受けたわけではないんですか?

木村さん もともと僕は『空手バカ一代』とブルース・リーの影響を受けて、中学1年から知り合いにマンツーマンで空手を教わってたんです。伝統派空手の3段を持っていた人だったのですが寸止めに飽きたらなくなってキックボクシングのリングに上がったり、ストリートファイトで5人を相手にKOしたり、とにかく武闘派だったんですよ。ある日、その僕の師匠がなにを思ったか自動販売機に正拳突きを入れたところカップヌードルがドサドサッと無限に出てきて、それを山ほどおみやげにもらったなんてこともありました(笑)。



(写真は本人提供)

──ハハハ。ものすごい師匠ですね!

木村さん そんな調子なので教わったことといえば複数の相手との喧嘩の仕方みたいな、そういうことばかりで(苦笑)。そのうち師匠から「道場に行ってちゃんとした空手を教われ」と言われて町の道場に通うようになったんですが、なにしろ最初に教わったのがそういう空手だったのでさっぱり熱が入らなくて…。そんな時期に猪木さんの『格闘技世界一決定戦』を見て『空手バカ一代』『燃えよドラゴン』に続く第三の衝撃を受け、それをきっかけに中学高校の頃、同志を集めて格闘技研究みたいなことを始めたんです。

──具体的にはどんなことをやってたんですか?

木村さん まずはフルコンタクトに憧れがあったので、打たれ強さと防御を身につけようとひたすら打撃を受け続けるという練習を考案しました。反撃は許されない、一方的にボコボコにされるという(笑)。ほかにはVS柔道特訓もやりましたね。梶原一騎先生の『空手バカ一代』には〝柔道家は相手を掴まなければ技をかけられない。掴んできたら一撃を加えればいい〟と書いてあったんですが、実際、黒帯の柔道部員と道場で異種格闘技戦ごっこをやってみたらそんなに簡単にはいかず、結構投げられたんです。たしかに面白いように蹴りは入ったんですけどね。で、猪木・ルスカ戦後の「路上のストリートファイトなら猪木は投げでKOされていた」というカール・ゴッチのコメントをプロレス雑誌で読んで、確かにそうだと思って、地べたの上で柔道部員に投げてもらって受け身をとる特訓をやったんです。

──マットも敷かないで地面に投げられたんですか!?

木村 はい。いまにして思えばほんとバカですよね。受け身さえとれれば投げられた直後に必ず反撃のチャンスが生じる! なんて根拠のない理屈を念じながら「もう一丁!」(笑)。しばらくは全身打撲と擦り傷の痛みで寝られませんでした。

──かなり危ないことをやってたんですね。

木村さん 誰も大きな怪我をしなかったのはラッキーだったとしかいいようがありません。それに、実際、受け身特訓のおかげで助かったんです。夜、急な下り坂を自転車で走っているとき、 ライトをつけようと発電機に足を伸ばしたら爪先を前輪に突っ込んじゃって、前方に一回転してアスファルトに背中から叩きつけられたことがあったんですよ。上から自転車が落ちてくるのがスローモーションで見えました(笑)。ところがかすり傷ひとつ負わずに済んだんです。

──それは一歩間違ったら大変な事故でした…。

木村さん ええ、他にも笑い事では済まされないこともいくつかありました。いずれにせよ、ちょっと間違った方法論ではありましたが、格闘技についての情報や知識不足をとりあえず〝痛みという絶対的感覚〟を通して身体に叩き込んだわけです。結果、子供ながらにリアルとフェイクの違いが直感的にわかるようになったというか。その時点でレスリングや関節技についての知識は皆無でしたが、アントニオ猪木は本物であるという確信がどんどん固まっていったんです。すみません、また前置きが長くなってしまって。


アントニオ猪木と石澤常光の゙スパーリング

──いえ、すごく面白いです! 木村さんの場合、つねに感じたら即行動されるんですね。

木村さん やってみて納得できることがあれば、その先、理屈はどうあれ直感が働くようになりますよね。その直感から入っていったほうがより深いところに辿り着ける。僕にとってのアントニオ猪木を探究する旅がまさにそれでした。

──猪木さんにスパーリングを見せてもらったこともあるそうですね?

木村さん はい。猪木さんにお願いして新日本の道場で。1996年の夏頃です。スパーリングパートナーは当時付き人を務めていた石澤常光選手でした。

──すごい! めちゃめちゃ貴重な体験ですね!

木村さん 実はその前に『闘魂戦記 格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)という本の取材で、佐山聡さんや藤原喜明さんに「アントニオ猪木がセメントのスパーリングで使っていた本当のフィニッシュ技は何なのか」という質問に答えていただいていて、それを直に自分の目で確認したかったんです。

──実際に見た猪木さんのスパーリングはどのようなものでしたか?

木村さん 想像していたよりずっと静かで淡々としていて、すごく柔らかい印象でした。猪木さんは終始受け身なんですが、身体の柔軟性をうまく使っていつの間にか形勢を逆転させて下になった状態から三角絞めで一本取ってしまったり。UWFや橋本真也選手はキックで倒してから三角絞めというのが必殺フルコースでしたから、猪木さんの技の入り方を目の当たりにした瞬間は鳥肌が立ちましたね。



(写真は本人提供)


アントニオ猪木の本当の得意技とは? 

──恐らく、当時パンクラスの船木誠勝選手が下からの三角絞めを実戦でも使っていたくらいで、プロレスの試合で使っている人はいなかったです。あと猪木さんの三角絞めは試合ではあまり見たことなかったですね。

木村さん おっしゃる通りです。でも、僕がそのスパーリングで本当に見たかったのは、実は〝フィギュア・フォー・ボディーシザース〟だったんですよ。

──フィギュア・フォー・ボディーシザース? 要は胴絞めのことですよね? 

木村さん 佐山さんが「猪木さんの本当の必殺技はボディーシザースですよ。とくにフィギュア・フォーが巧かった」と語っていたんです。ある時期まで、猪木さんは試合でもよく使っていたんですが、あくまで繋ぎ技の一つという印象しかなかったので意外に思ったんですね。フィギュア・フォー・ボディーシザースは二種類あって、相手をうつ伏せにしてから上からのしかかるように胴を絞めるのと、仰向けあるいは身体が起きた状態のまま背中側から胴を絞めるパターンがある。スパーリングの最後に猪木さんが見せてくれたのは後者で、技に入った瞬間に石澤選手がタップしてました。

──恐らくその技は2001年のPRIDEで〝柔術マジシャン〟アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラがヒース・ヒーリングとの初代PRIDEヘビー級王座決定戦で使ったあれですよね。ヒーリングの意識が朦朧となっていった場面をおぼえています。

木村さん そうです。僕も『Number』の猪木インタビューで、ノゲイラの胴絞めから猪木のフィギュア・フォー・ボディーシザースを想起したという一文を書いています。


アントニオ猪木にとってタックルを取られるのはそれほど重要じゃなかった


──猪木さんのスパーリングパートナーを務めた石澤選手はレスリング全日本選手権を制したレスリングエリートで、スパーリングではダントツに強かった選手です。新日本の道場で彼からタックルでテイクダウンを取った人はひとりもいなくて、藤原組やシューティングのジムにも出稽古にも出向いて強さを磨いた猛者で、当時「新日本道場最強の男」と呼ばれていたんですよ。その石澤さん相手でも猪木さんは強かったんですね。

木村さん 最近よく接待スパーリングが云々とか言う人たちがいますけど、僕が見た時点での寝技における両者の技術にはかなり開きがありました。石澤選手にも話を聞いたんですが「(猪木)会長の関節をとっても全然極まらないんですよ」と首を捻っていました。そうそう、あとは「猪木はタックルできない説」みたいなのが流布されてますけど、僕が思うに、アントニオ猪木にとってタックルはそれほど重要じゃなかったんじゃないかと。なぜなら猪木さんは下からいくらでも極められたわけですから。自分からテイクダウンを取りに行く必要はなかった。

──猪木さんからすると下のポジションから寝技に引き込めばいいと。発想としては柔術的ですね。

木村さん ええ。実際にスパーリングを見て感じた猪木さんの強さはレスリングとは異質な感じがしました。佐山さんはそれを〝柔らかさとしなやかさ〟と表現してましたし、藤原さんも「猪木さんは体全体が柔らかくて、いくら技をかけても効いてんのか効いてないのかわかんない。本人は意識してないんだろうけど、技を逃しちゃう感じがあるんだ」とその独特のニュアンスを語っていました。

──う〜ん、深い! 他に木村さんが感じられたことは?

木村さん 猪木さんは観客の前ではつねに感情の動きを表現してましたが、さっきも言った通り、スパーリングのときは終始淡々としていて表情がない。相手を理詰めで追い込んでいく感じというか。その冷静さが冷徹に変わったとき、アクラム・ペールワン戦のような悲劇が起きたんじゃないか…。そんなことも考えてしまいましたね。  

──猪木さんがダブルリストロックでペールワンの腕をへし折った伝説の一戦ですね。

木村さん 猪木さんがそういうモードに入ってしまったときは顔が青ざめて無表情になるんですよ。表情があるうちはまだプロレスモードだけど、表情が消えたときの猪木さんは…。その中間にあるスパーリングを生で目撃して、ようやくアントニオ猪木のプロレスがわかった気がしたんです。つまり、プロレスの場合、強さを〝生〟のまま観客に見せてもしょうがないのだと。でも、じゃあ、猪木さんはその強さを何に使っていたのか? そこにアントニオ猪木のレスラーとしての本当の凄さが凝縮されていたわけです。


アントニオ猪木は格闘技の強さをどこに使っていたのか?

──その気になる答えを教えていただいてもよろしいですか。

木村さん 猪木さんは格闘技のテクニックを使って相手をコントロールし、自在に試合を展開させていたんです。いわゆる攻撃と受けを段取りや型として見せていたのではなく、技術を背景とした理詰めの動きの中で相手を捕まえたり、リリースしたりを繰り返しながら、相手の出方や観客の反応によってときに技の掛け方をシビアにしたりしていた。ある新日本のレスラーは僕に「猪木さんはそういうところがイヤらしい」と言っていましたが、相手は追い詰められて本当に痛みや恐怖を感じているから反応もリアルで真に迫っていたわけです。だから猪木さんの試合はつねに緊張感があり、派手な大技を見せなくても観客をぐいぐい試合に引き込むことができたのだと僕は分析しています。

──プロレスにおいて相手をコントロールして試合を組み立てていく選手は今の時代もいますけど、皆さんプロレスの中の技術や手法で実行されてます。猪木さんはそれを格闘技の技術で実行していった。そんな芸当をやれたレスラーは猪木さんしかいなかったんじゃないですか。

木村さん プロレスを完全なる約束事として捉えていなかったという意味でアントニオ猪木は稀有な存在だったのではないでしょうか。もちろん猪木さんも試合の中に観客にカタルシスを与えるための技やパフォーマンスも織り交ぜてはいますが、基本的に格闘技として矛盾する動きはしていなかった。それもリアリティにつながっていたんです。

──なるほど、だから猪木さんのような試合運びは他の選手には真似できないわけですね。

木村さん 真似なんてできないですよ。プロレスラーである前に格闘家でなければできないプロレスなんですから。じゃあ格闘家なら真似できるかというとそれも違う。格闘家が持っている技術は相手に勝つための合理的手法であって、それを使って試合を作っていくという逆の発想やセンスをあとから身につけるのはおそらく相当難しいでしょう。それを高い次元で両立させていたことがアントニオ猪木の凄さだったんです。


アントニオ猪木の格闘技術の源流


──ちなみに猪木さんの格闘技術の源流はどこにあったとお考えですか?

木村さん それは間違いなく力道山時代の日本プロレス道場でしょうね。

──日本プロレス時代の話はどうしても聞きたかったんです。俗に言う「極めっこ」(サブミッションを取り合うスパーリング)ですよね。当時の日本プロレスで行われていた「極めっこ」では猪木さんの強さが群を抜いていたといわれています。取材をされて、そのあたりの確証のようなものは掴めましたか?

木村さん はい。キーマンは大坪清隆さん。96年に『闘魂戦記』の取材をした際、猪木さん自身が「寝技の技術は大坪さんから教わった」と言ってました。

──大坪さんは柔道5段で実業団でも活躍され、木村政彦さんのプロ柔道にも参加された柔道家でした。元々は高専柔道出身の方なんですよね。

木村さん 増田俊也さんの著書『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)にも登場してます。他に猪木さんは「日本プロレス時代、基本的なことは最初にレフェリーの沖識名さんから教わった」とも語っていたのですが、最近になって、プロレス史家の皆さんの調査によって、その沖識名さんが〝檀山流柔術〟(ハワイアン柔術)やCACC(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を修得していた達人だったことがわかってきています。ちなみに力道山もアメリカに渡る前に沖識名さんにコーチを受けていたというのは有名な話です。つまり、順を追って説明すると、猪木さんはまず沖識名さんから柔術やCACCの基礎を教わり、その後、徹底的に大坪さんから高専柔道の寝技を、さらに吉原功さん(後の国際プロレス代表で、早稲田大学レスリング出身の元プロレスラー)からアマレスの技術を伝授されていた。それらの格闘技術のすべてがプロレスラー・アントニオ猪木のバックボーンになっていたんですよ。

──なるほど! めちゃくちゃディープな話です! まさに日本プロレス道場は「虎の穴」だったんですね。

木村さん でも、猪木さんはもともと陸上競技の投擲種目の選手で、日本プロレスに入ってから格闘技を始めた人ですから「この技術は柔術」とか「この技術は高専柔道」とかいう認識はまったくなかった。教える側もいちいちそんな説明はしませんから、先輩方とのセメントのスパーリングを通して痛みと共に無意識のうちに身体で技術を吸収していった。猪木さんにとってはそれが最初に叩き込まれたプロレスそのものだったわけです。


53歳のアントニオ猪木は「まだ寝技なら誰にも負けない」と言っていた


──これはどうしても聞きたかったんですけど、日本のプロレスや格闘技の世界での足関節技の源流がちょっと分かりにくかったりするんですよ。ヒザ十字固めやアキレス腱固めは昔からあったという話があったり。ヒザ十字は古流柔術で存在したとも言われているんですけど、ヒール・ホールドの源流はどこになるのですか?

木村さん 75年から76年にかけて新日本にプロレス留学していたバーリトゥード王者のイワン・ゴメスです。ヒール・ホールドの技術がゴメスによってもたらされたことは、猪木さん、佐山さん、藤原さんの3人から証言を得ています。アンクル・ホールドについてはさまざまな格闘技に古くからある技なので確かめていませんが。

──実は以前、Twitter内で足関節技サミットを開催して、日本のプロレスや格闘技の世界における足関節技の源流を掘ってほしいという話題があったんですよ(笑)。

木村さん じゃあ堂々と「ヒール・ホールドのルーツはイワン・ゴメスだ」と断言してください(笑)。

──ありがとうございます。では、このテーマの最後の質問です。木村さんは、アントニオ猪木はいつ頃までその強さを維持していたとお考えですか?

木村さん 40代以降の猪木さんは糖尿病やさまざまな怪我の影響で決して良好なコンディションを保てていたとはいえません。それでも、スパーリングを見せてもらったとき、猪木さんは「まだ寝技だったら誰にも負けない」と断言してました。53歳の頃ですね。そういえば石澤選手がスパーリングの合間、オレッグ・タクタロフ(元UFCファイター、元世界サンボ選手権2度優勝)の膝の極め方を猪木さんから教わってました。確か、タクタロフと猪木さんはその年(1996年)にアメリカ・ロサンゼルスで行われた『平和の祭典』で対戦(オレッグ・タクタロフ、藤原喜明組VSアントニオ猪木、ダン・スバーン組)しています。ということは、現役引退の2年前の時点でも猪木さんはまだいろんな選手の格闘技術を貪欲に吸収していたわけです。そういうことも踏まえた上で猪木さんの「寝技なら負けない」という言葉について考えてみると、こと技術面では本当にそうだったのかもしれないと思えてくる。それだけの説得力が猪木さんの技にはありました。

(第2回終了)


 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。




(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん…。

元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!


私とプロレス 木村光一さんの場合「第1回 真の猪木を追い求める闘魂作家、登場!」


 
実在する猪木と漫画アニメのキャラクターとしての猪木。両方のカッコよさに魅了されてプロレスが好きになった

 
──木村さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。

木村さん よろしくお願いします!


──まず最初に木村さんがプロレスを好きになったきっかけからお聞かせください。

木村さん 小学校1年の時に、『ぼくら』(講談社)という漫画雑誌で『タイガーマスク』(辻なおき、原作・梶原一騎)を読んでプロレスに夢中になったんです。ところが、その劇中に登場するアントニオ猪木が主役のタイガーマスクより強いことに衝撃を受けまして(笑)。もっとも、漫画を読む前からテレビのプロレス中継を観ながら、スピード、テクニック、ルックスのすべてにおいてアントニオ猪木が群を抜いていると子供心に感じていましたので、タイガーマスクより強いというのも納得でした。つまり、実在する猪木と漫画アニメのキャラクターとして戯画化された猪木の両方のカッコよさに魅了されてプロレスが好きになったんです。

──なるほど。でも、ということは猪木さん以外のレスラーとも同じような出会いがあったはずですよね? とくにジャイアント馬場さんはジン・キニスキーやブルーノ・サンマルチノともやりあっていた全盛期で、『タイガーマスク』の劇中でも猪木さんより活躍してたと思うんですが?

木村さん 1960年代の終わりですから全盛期はちょっと過ぎてましたね。それでも、いま、昔のビデオを確認すると、馬場さんや大木金太郎さんもそんなに悪い動きじゃないし、たしかに漫画やアニメでもかなりカッコよく描かれてました。でもプロレス中継を観ると、なんだやっぱり漫画と全然違うじゃんと(笑)。

──ハハハ。今のお話を聞く限り、木村さんが初めて好きになったレスラーは猪木さんということで間違いないですね(笑)。

木村さん はい。100パーセントその通りです(笑)。



母から「プロレスは生で見るもんじゃない」とずっと言われていた


──では、プロレスをはじめて会場で観戦したのはいつですか?

木村さん それはだいぶ後になります。1985年8月1日の新日本プロレス・両国国技館大会でのアントニオ猪木VSブルーザー・ブロディが最初ですね。それから猪木さんの引退まで、後楽園ホールと両国で行われた試合はほとんど生で観てます。

──ということは、初観戦は社会人になってから?

木村さん はい。なんでそんなに遅かったのかっていうと…。ちょっと長い話になりますがいいですか?

──ぜひ聞かせてください。

木村さん 子供の頃から母に「プロレスは生で見るもんじゃない」とずっと言われてたんですよ。

──どういうことでしょう?

木村さん 隠す必要もないし、半世紀以上前のことなので話します。実は私が5歳の時に亡くなった父は、いわゆる地元の興行全般を取り仕切るその筋の関係者だったんです。なので僕の実家には父と芸能人のツーショット写真が山のようにありました。

──プロレスに限らず、興行全般が裏社会との関わりを避けて通れなかった時代ですね。

木村さん ええ。そういう特殊な家庭環境で育ったせいか、僕は田舎育ちですが、テレビの向こうの世界をそれほど別世界とは感じてなかったんですよ。すみません、すこし話が脱線しましたね。で、話を戻しますと、母が言うには、その父が生前に手がけた日本プロレスの興行がでたらめで酷かったと。昔から、プロレスは地方に行くと手を抜くとか言われていましたが、その最たるものだったそうです。

──そうだったんですか! それはいつ頃のことですか?

木村さん 馬場さんや猪木さんの姿は見かけなかったという話なので、豊登さんが社長だった頃じゃないかと。ちなみに僕の母は大の猪木ファン。元々プロレス好きの母が言うんだから、よほど酷かったんだろうと思います(笑)。それからずいぶん経って、僕が高校生の頃に新日本の興行が地元であったんですが、やはり同じことを言われて観に行くのをやめました。で、大学入学を機に上京してからは仕送りがなくて生活費を奨学金とアルバイトで賄う生活をしていましたから、正直、プロレスを会場まで観に行こうという発想すら浮かびませんでした。


大学の学園祭で開催した伝説の格闘技大会

──プロレス観戦の時間もないほどお忙しかったんですね。

木村さん しかも僕が入学したのは美術大学でしたので、課題や作品の制作にもけっこうお金が掛かったんです。しかし、よくよく振り返ってみると、あの頃は新日本プロレスの黄金時代だったんですよね…。

──1981年~1984年の新日本は猪木さんを始め、長州力さん、藤波辰巳さん、初代タイガーマスク、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン…時代を彩ったスーパースターが勢揃いしていた時代でした。

木村さん そうなんですよ。いま思えば、どんなに無理をしてでも行くべきだったとずっと後悔してるんです…。そうそう、プロレス観戦には行けませんでしたが、大学3年の学園祭で格闘技大会があって、そこで異種格闘技戦をやったことがあるんですよ。

──本当ですか!

木村さん すこしばかり空手をかじっていたので、アントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムスへのオマージュとして、空手VSプロレスをやったんですよ。中学、高校と8ミリフィルムのアクション映画をいっしょに作っていた仲間の1人を呼んでね。ところが、試合途中にアクシデントがあって僕の方が流血しちゃったんですよ。

──えええ!!

木村さん 唇を3針縫う程度の大した怪我じゃなかったんですが、なにしろ本物の血を流してしまったでしょう、会場が異様な雰囲気になってしまって。当時、大学は高尾の山奥にあったので学園祭はオールナイト。格闘技大会が行われたのも真夜中で観客のほとんどが酔っ払ってテンションが上がってる。そんな状況で流血ですからもうすごい騒ぎでした(笑)。僕も興奮して没入しちゃってたんでしょうね、セコンドがタオルで血を拭こうとしてくれたんですが「せっかく血を出したんだから余計なことすんな!」って怒鳴ってました。




(木村さんが大学の学園祭で行った異種格闘技戦)


──凄い!完全にファイターモードに入ってるじゃないですか(笑)。

木村さん その時、ちょっとだけプロレスラーの気持ちがわかったような気がしましたね(笑)。

──ちなみにその異種格闘技戦はどのようなルールだったんですか?

木村さん ルールも何もよくわからない状態のまんま闘ってました(笑)。

──アントニオ猪木VSマサ斎藤の「巌流島の戦い」のようにお互いのプライドがルールみたいな感じですか。

木村さん そんなカッコいいものじゃないですけど、たしかフォールはなかったと思います。

──今の時代にそのような大会を配信とかでやったら、絶対に見ますよ!

木村さん いやいや、若気の至りでお恥ずかしい限りなんですが、学園祭が終わってからもしばらくは学内で知らない人からよく声をかけられて「感動して本当に涙が出ました」と握手を求められた時もありました。いや、僕のやったことは真似事にすぎなかったんですが、それでもそんなふうに人の心に訴えることができたんですから、プロレスって凄いと思いましたね。あれ、すみません、なんの話をしてたんでしたっけ?(笑)


坂口征二、高野俊二、ブルーザー・ブロディ…3人のデカさに圧倒された

──はい、では話を戻します(笑)。プロレスを実際に会場で生観戦した時はどのような印象を受けましたか?

木村さん まず坂口征二選手の大きさにびっくり。あとは高野俊二(拳磁)選手、ブルーザー・ブロディ。この3人のでかさに圧倒されました。

──3人とも2mクラスですね。(坂口:196cm 130kg、高野:200cm 120kg、ブロディ:198cm 135kg)

木村さん 坂口さんは馬場さんとは違ってバランスの取れた体型の人を骨太にして大きくした感じじゃないですか。それまでああいう人を見たことがなかったので驚きました。きっと坂口さんは相当強かったと思いますよ。

──実際に異種格闘技戦になると坂口さんはやっぱり強いですよね。

木村さん UWFとの抗争の時だって、坂口さんだけちょっと別格って感じでしたよね。前田(日明)選手がアキレス腱固めをかけてもスッと立ち上がってしまうし、蹴られまくっても平然としてるのを見て「この人、すごい!」と鳥肌が立ちましたよ。


1970年代から1980年代初頭の新日本プロレスはフィクションを超えていた


──ありましたね! それだけの強者が新日本のエースにならずに猪木さんを支える女房役であり続けたんですよね。ここで木村さんが当時お感じになった新日本の凄さと魅力について語っていただいてもよろしいですか。

木村さん 僕が夢中になっていた1970年代から1980年代初頭の新日本プロレスはフィクションを超えていたんですよ。それはどういうことかというと、1960年代から長い間、日本のプロレス、ボクシング、キックボクシング、空手といった格闘技は1人の作家が創作した『チャンピオン太』『ジャイアント台風』『あしたのジョー』『タイガーマスク』『キックの鬼』『空手バカ一代』といった作品にリードされていたわけです。

──梶原一騎さんの時代ですね。

木村さん はい。その梶原先生が世に広めた虚実ない交ぜのファンタジーをアントニオ猪木の『格闘技世界一決定戦』のリアリティが超えてしまった。それまでフィクションの世界の中でしかありえなかった世界最強の男たちを集めて雌雄を決するリングが現実に目の前に出現して、そこで猪木が、世界最強の柔道家、世界最強のプロボクサー、世界最強の空手家と闘ってみせた。あの時、僕らは紛れもなくリアルがフィクションを凌駕してしまった瞬間を目撃してしまったんです。

──まさに歴史的瞬間だったんですね! 

木村さん プロレスに限らず、そんな壮大な夢を実現してみせてくれたのは、アントニオ猪木が率いる新日本プロレスが初めてでしたし独壇場でした。


格闘技ブームを生んだ梶原一騎VSアントニオ猪木


──梶原一騎さんは『格闘技世界一決定戦』に呼応するように『四角いジャングル』を手掛けていますよね。

木村さん そう、ある段階から今度は梶原先生が『格闘技世界一決定戦』を利用し、さらに虚実ない交ぜのファンタジーを増幅させていった。ウイリー・ウイリアムスの〝熊殺し〟という演出もそうだし、実際、そのウイリーと猪木の試合をプロデュースしたのも梶原先生でしたからね。結局、1970年代後半の格闘技ブームというのは大きなフレームでいえば梶原一騎VSアントニオ猪木だったわけです。フィクションとリアルの戦い。このしのぎ合いがあのブームをどんどん加速させていったんですよ。

──クリエイターとプロレスラーによる虚々実々の駆け引きがあったんですね。

木村さん リングの中だけでなく、リングの外でも2人の天才の闘いがあったわけです。そして、梶原先生を超えたのは猪木さんだけでした。馬場さんも『ジャイアント台風』という作品によってつくられた幻想を少なからず利用していましたが、現実にそれを超えようとはしなかった。

──極真会館の大山倍達総裁もそこには挑まなかったですよね。

木村さん はい。いまや格闘技漫画ではスタンダードな設定になってますが、当時はたとえフィクションでも世界最強の男たちが一堂に集結して闘うというシチュエーションは荒唐無稽でした。だからもしかすると、アントニオ猪木が梶原作品の幻想を超えてしまったことがフィクションの側の世界観にもビッグバンを起こし、そして現在に至っているのかもしれません。


昭和の新日本はアントニオ猪木のリアリティーショーだった


──今の話をお聞きすると猪木さんはプロレスだけじゃなくて、あらゆる方面に影響を与えるような革命的なイベントをやってのけたんですね! そう考えると猪木さんの偉大さがよく分かります! では、木村さんが初めて好きになったプロレスラーであるアントニオ猪木の凄さと魅力について。改めて語っていただけますか。

木村さん いまも話した通り、アントニオ猪木はフィクションを超えた存在なんです。フィクションを超えた存在だからこそ「猪木に不可能はない」と信じさせてくれた。また、実際のところは身も蓋もない選手同士の感情のもつれや人間関係も、猪木さんの手にかかればたちまちドキュメンタリータッチの緊張感漲るエンターテイメントに化けてしまったんですよ。小手先の表面的な演出じゃなく、そこには人間の生の感情も含まれているからリアルに迫ってきた。観る者を芯から熱くしたんですよ。

──今の話を聞いて、1970~1980年代の新日本というのは、猪木さんのリアリティーショーだったのではないかという気がしてきました。

木村さん そうです! まさにリアリティーショーという表現が的を射ていると思います。猪木さんにとってはリング内外で起こる出来事のすべてが繋がっていた。そしてそのクライマックスの一つが新宿伊勢丹前襲撃事件(1973年11月5日、東京・新宿伊勢丹百貨店前において、タイガー・ジェット・シンら数人が妻の倍賞美津子と買物途中だった猪木に殴りかかり流血に追い込んだ事件)でした。

──新宿三丁目の路上で勃発したシンの襲撃が通行人の通報によって警察沙汰にまで発展して物議を醸したという事件ですね。なるほど、そういう視点で捉え直してみるとまた別の面白さがあります。ところで、はじめて生観戦した時の猪木さんの印象はどうだったのでしょう?

木村さん コンディションがよくないのが一目瞭然でしたし、一方的にやられてばかりの展開にもフラストレーションが溜まりました。後年、ブロディ戦について直接話を聞いたのですが、やはり、猪木さんにとってのテーマはどこまで攻撃を受けきれるかにあったと語っていました。

──ブロディは猪木戦で色々な技にチャレンジしてましたね。ジャイアントスイングとか、ジャックハマー気味のブレーンバスターとか。

木村さん キングコング・ニードロップの落とし方も猪木さんに対してはえげつなかった。まあ、それも猪木さんとブロディが闘いの中で無言のうちに決めたテーマだったようです。でも、僕としてはそういう我慢大会みたいなプロレスではなくて、もっとアントニオ猪木らしい攻防が見たかった。なので不満ばかりが残りました。

──1986年10月9日の両国国技館大会で猪木さんは元プロボクシング世界ヘビー級王者レオン・スピンクスと異種格闘技戦を行いました。この試合はご覧になられましたか?

木村さん リングサイドで観ました。猪木さんの試合はどんな相手とでも何かしら見所があるのですが、残念ながらスピンクス戦だけはそれを見つけられませんでした。

──セミファイナル・前田日明VSドン・中矢・ニールセンの異種格闘技戦が名勝負だったので、メインイベントの猪木VSスピンクスが凡戦に終わり、観客からブーイングが飛び交ったんですよね。

木村さん 僕としては前田VSニールセンとの比較云々というより、それまで自分が生きていく上で大きな支えにしていた『格闘技世界一決定戦』を闘っていた頃のアントニオ猪木のイメージが音を立てて崩れてしまったことがショックで、もう、目の前が真っ暗になっていましたね…。

(第1回終了)