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ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ


恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が62回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。






ジャイアント馬場、アントニオ猪木、長州力、藤波辰爾、天龍源一郎、闘魂三銃士、プロレス四天王、ユニバーサル、みちのくプロレス、ハヤブサ、……その熱い闘いをリングサイドで撮影してきたプロレスカメラマン・大川昇が、秘蔵写真ととっておきのエピソードでつづる日本プロレス黄金期。
プロレスカメラマンの楽しさを教えてもらったジャパニーズ・ルチャ、特別な縁を感じたメキシコでの出会い、引退試合で見せた素顔、レジェンドたちの知られざる逸話、そして未来のレジェンドたち……。ジャイアント馬場、アントニオ猪木、長州力、藤波辰爾、天龍源一郎、闘魂三銃士、プロレス四天王、ユニバーサル、みちのくプロレス、ハヤブサ、……その熱い闘いをリングサイドで撮影してきたプロレスカメラマン・大川昇が、秘蔵写真ととっておきのエピソードでつづる日本プロレス黄金期。 プロレスカメラマンの楽しさを教えてもらったジャパニーズ・ルチャ、特別な縁を感じたメキシコでの出会い、引退試合で見せた素顔、レジェンドたちの知られざる逸話、そして未来のレジェンドたち……。
「ブッチャー・フィエスタ~血祭り2010~」など数々の大会をともに手がけた盟友・NOSAWA論外との対談、さらに伝説の「天龍殴打事件」の真相が語られる鈴木みのるとの対談の二編も収録!
「あとがき」は『週刊ゴング』の元編集長のGK金沢が執筆!
本書を読めば、プロレスに夢中になったあの時代が甦る!「ブッチャー・フィエスタ~血祭り2010~」

など数々の大会を一緒に手がけた盟友・NOSAWA論外との対談、さらに伝説の「天龍殴打事件」の真相が語られる鈴木みのるとの対談の二編も収録! 「あとがき」は『週刊ゴング』の元編集長のGK金沢が執筆! 本書を読めば、プロレスに夢中になったあの時代が甦る!

著者
大川昇(おおかわ・のぼる)
1967年、東京都出身。東京写真専門学校を中退し、『週刊ファイト』へ入社。その後、『週刊ゴング』写真部で8年間、カメラマンとして活動。1997年10月よりフリーとなり、国内のプロレスだけでなく、年に3、4度はメキシコへ行き、ルチャ・リブレを20年間撮り続けてきた。現在、東京・水道橋にてプロレスマスクの専門店「DEPOMART」を経営。著書に『レジェンドプロレスカメラマンが撮った80~90年代外国人レスラーの素顔』(彩図社)がある。



今回は2023年に彩図社さんから発売されました大川昇さんの『プロレス熱写時代〜プロレスカメラマンが撮った日本プロレス黄金期〜』を紹介させていただきます。

大川さんは以前、『レジェンド』という本を出されていて、素晴らしい本でした。


この本で圧巻だったのが「伝説のプロレスカメラマン」大川さんによるプロレス史を彩った数々の写真と、記者顔負けの文章力でした。

大川さん待望の第2作は、日本人選手を中心に取り上げています。そこには大川さんならではの秘蔵エピソードが満載。これは「おすすめプロレス本」として紹介するしかありません。

またこの本の編集者は前回の『レジェンド』と同じくGさん。私もいつもお世話になっているあのGさんと大川さんのタッグなので、クオリティーは保証済み。あとはこの本がどこまでの高みにいくのかです。


今回は『プロレス熱写時代』を各章ごとにこの本の魅力をプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.はじめに

まえがきは、手短に書かれていますが、きちんとこの本がどのような内容なのかを簡潔に説明されていて、しかも前作の内容も紹介しているので、何気に両作品も宣伝しているところは正直、「うまい!」と思いました。

あと大川さんの爽やかさと情熱を感じるまえがきでした。


★2.第一章 我が青春のジャパニーズ・ルチ

ユニバーサルやみちのくプロレス、大阪プロレスといった団体によって確立されていったジャパニーズ・ルチャ。

大川さんが考えるユニバーサルの功績として、テクニコ(ベビーフェース)とルード(ヒール)を同時招聘して、メキシコからの抗争をそのまま日本に輸入してきたこと、日本のマスクコレクション文化を本物思考へと導いたことを挙げています。言われてみれば確かにそのとおり!!

この第一章ではやっぱりザ・グレート・サスケ会長ですね。ここ15年以上は、バラモン兄弟絡みの宇宙大戦争の影響もあり、エキセントリックな部分がどうしてもクローズアップされますが、メジャーを凌駕した空中殺法によって日本、いや世界のプロレス界を変えたプロレスラーだと思います。

そしてサスケ会長のラ・ケブラーダを最高のポジションで撮影するために試行錯誤と研究を重ねる大川さんのプロ魂が綴られています。私は『アメトーーーク!!』でカメラマンを務めている辻稔さんのプロ魂とダブりました。辻さんも演者さんが最高のパフォーマンスが映えるように、常に試行錯誤と研究を重ねていて、大川さんと辻󠄀さんのスタンスが酷似しているように感じました。

そして、ふたりともプロレス、お笑いがとにかく大好きだということです。ちなみに辻󠄀さんはめちゃめちゃプロレス好きです(笑)




★3.第二章 メキシコに渡ったジャパニーズレスラー

この章はメキシコで活躍した日本人レスラーのエピソードが満載です。

やはりハヤブサさんの回がよかったですし、感動しましたね。大川さんが手掛けた最初で最後のビッグイベントとなった2011年10月7日後楽園ホールで行われた『仮面貴族フィエスタ2011』でちょうど10年前の2001年に不慮のアクシデントで頸椎損傷の大怪我を負ったハヤブサさんが仲間たちに支えられてリングインするドラマも綴られています。

あのハヤブサさんのリングインは…感極まりましたね…。プロレスの神様、いたのかもしれません。

★4.【特別対談その1】NOSAWA論外×大川昇

前回の本でもありました大川さんの対談コーナーは今回も健在。NOSAWA論外さんは公私に渡り大川さんと繋がっているいわば盟友といっていいかもしれません。それは論外さんが対談の中で「大川さんとは気付いたら一緒に何かをしているって感じでしたね」と語るほど。

あと大川さんが語る論外さんの凄さはかなり唸りました。

「引退前の天龍さんが誰よりも強いパンチを叩き込んでいたのはNOSAWA論外だった。大仁田さんがサンダーファイヤーパワーボムを誰よりも高い角度から落としたり、机で頭をブッ叩いていたのもNOSAWA論外だった。これって、ベテランからホンモノだと認められた証だよね」

ここがプロレスラーという特殊な世界で生きる人たちだからこその感覚なのかもしれません。

誰よりも強く殴られたり蹴られること、誰よりも強く投げられたり叩きつけられること…。それは攻め手が受け手を「コイツなら受け止められる」と認めているからこそ行っているわけで、受け手となったプロレスラーにとっては最高の栄誉なのだと。

これは学びの多い対談です!


★5.第三章 格闘写真館


この章はまずは大川さんのプロレスラーの生き様が詰まった写真の数々を堪能してください。もう見惚れてしまいます。

そして『週刊ゴング』表紙物語と題して、大川さんが表紙に採用された写真について撮影秘話を記しています。

個人的には全日本1992年6月5日・日本武道館大会で行われたスタン・ハンセンVS川田利明の三冠戦に敗れた川田さんが、試合後に控室にいるハンセンに握手を求めにいくシーンが表紙になったゴングがめちゃめちゃ好きなんですよ。よくあれを撮りましたよね。

「プロレスは人間ドラマである」

このことを当時12歳の私はこの表紙から学びました。


★6.第四章 去る男たちの素顔



こちらは引退したレジェンドレスラーたちのオフショットとエピソードが同時に味わえるチャプター。個人的にはやっぱり天龍さん。大川さんは天龍プロジェクトのオフィシャルカメラマンとして関わり、引退試合の日は全エリア出入り可能のプレスパスをもらっていたので、会場入りから一挙手一投足をカメラに収めることができたそうです。

30歳でゴングを発刊していた日本スポーツ出版社を退社してフリーになった大川さんに天龍さんが「オマエ、絶対負けるなよ!」と声をかけたというエピソードがいいんですよね。さりげなく優しくて温かい天龍らしいなと。


★7.第五章 レジェンドたちの肖像
 
350ページに及ぶこの本において後半に持ってきたのはジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんといったプロレスの神々の回。

そこでも大川さん独自のエピソードが登場します。馬場さんが言った「ゴマを擦られて嫌な人はいない」はかなりのパンチラインとして印象に残りましたし、猪木さんのサイン色紙のエピソードも猪木さんらしくて。やっぱりこの2人は偉人ですね!

あと前田日明さん。大川さんと前田さんってあまり接点がないように見えたのですが、こちらも前田さんらしいエピソードがありました。


大川さんによる選手たちのエピソードからは「やっぱり◯◯選手は凄い!」「実は◯◯選手は優しい!」といった印象をリアリティー経由で伝わり、それは「プロレスラーは凄い!」「プロレスラーは素晴らしい!」と思わせる効果があります。これは文章における大川さんの強みではないでしょうか。



★8.第六章 未来のレジェンドたち

この章は現在進行形で活躍しているプロレスラーたちの回。

これはダントツで棚橋弘至選手&中邑真輔選手の回が素晴らしい!短編としても名文。この回に2人のレスラー人生が凝縮しているかの印象を受けました。




★9.【特別対談その2】鈴木みのる×大川昇

大川さんの対談コーナー。二人目は鈴木みのる選手。あの一部で伝説となっている天龍殴打事件について、鈴木選手と大川さんが語っています!

この対談はめちゃくちゃ面白いです!鈴木選手が「ルチャ・リブレのジャベとカール・ゴッチの関節技と仕組みが同じということに気付いたんよ」という話はね、これは唸っちゃいました(笑)

あと大川さんから鈴木選手に対して「天龍源一郎がやることがないだろうってことを実現させて、しかもそのすべてに説得力がある」と評したのは、新発見でした。これも言われてみればそのとおりです!

鈴木選手からは「死ぬまで一選手としてプロレスを続ける」という宣言もあり、やっぱり鈴木選手は面白いなと感じた対談でした。



★10.あとがき 元『週刊ゴング』編集長 金沢克彦

この本のあとがきは大川さんではありません。大川さんの戦友であるプロレスライター・金沢克彦さんが担当しています。

このあとがきが、ものすごくて…。「金沢克彦、ここにあり!」と見事に印象付けています。

どのような内容なのかはこの本を読んでご確認していただきたいのですが、個人的な感想は金沢さんが過去に出された著書『子殺し』『元・新日本プロレス』を執筆されていた頃のあの金沢さんの熱筆だったんです。魂が注入されていました。大川さんの爽快感ある文章の世界観が、最後の最後に金沢さんの情熱ジャーナリズムが持っていったとさえ感じました。

凄いものを読みました。7ページで主役をかっさらい強烈なインパクトを残した金沢さんは凄い。そして恐らくこうなるだろうと予測しながらも金沢さんにあとがきを託した大川さんと編集者のGさんもまた凄いなと。プロの仕事を見ました!




この本は数多くの日本人プロレスラーたちのエピソードが満載です。またその爽やかな文章は読み心地はよくて、入魂の写真は圧巻です。鈴木みのる選手、NOSAWA論外さんとの対談も必見なので、もっとプロレスが好きになる一冊として自信を持っておすすめします!

金沢さんがあとがきで「写真は嘘をつかない」と綴っていますが、大川さんの写真からは「写真はすべてを物語る」という境地を感じました。またプロの妙技による熱写とは対象的に文章は爽やかで、二面性があるのも著者として大川さんの魅力ではないでしょうか。



ジャスト日本です。

 

今回は特別企画として、さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開する場を立ち上げました。それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

 

今回はプロレスラー・棚橋弘至選手と作家・木村光一さんによる激論対談をお送りします。

 

 

 

(写真は御本人提供です)

 

棚橋弘至

1976年11月13日岐阜県生まれ。立命館大学法学部時代にレスリングを始め、1999年に新日本プロレスに入門。同年10月、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2003年に初代U-30無差別級王者となり、その後2006年に団体最高峰のベルト、IWGPヘビー級王座を初戴冠。第56代IWGPヘビー級王者時代には、当時の“歴代最多防衛記録”である“V11”を達成した。プロレスラーとして活動する一方で、執筆のほか、テレビ番組等に多数出演。2016年にはベスト・ファーザー賞を受賞、2018年には映画『パパはわるものチャンピオン』で映画初主演など、プロレス界以外でも活躍している。「100年に一人の逸材」と呼ばれるプロレス界のエースである。

 

BLOG
棚橋弘至のHIGH-FLY 
Twitter
@tanahashi1_100 
Instagram
hiroshi_tanahashi 
WAER
@highflyace 
Podcast
棚橋弘至のPodcast Off!! 

 

 

「プロレス界の一年の計はイッテンヨンにあり!!」

新日本プロレス2024年1月4日・東京ドーム大会

 

新日本プロレス「WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」 特設サイト 

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)がいよいよ発売!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 

 

棚橋選手は長年、所属する新日本プロレスだけではなくプロレス界のエースとして活躍してきたプロレスラー。木村光一さんはアントニオ猪木さんに関する数々の書籍を世に出し、猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫った作家でした。

 

なぜこの2人が対談することになったのか。そのきっかけとなった出来事がありまして、詳しくは私のnoteで経緯や諸々をまとめております。こちらをご覧いただければありがたいです。私と棚橋選手、私と木村さんについてもこちらの記事で説明させていただいています。

 

 

昔もいまもプロレスは面白えよ!|ジャスト日本 

 

 

 

私は棚橋選手と木村さん双方と繫がりがあり、立場やお気持ちも理解できました。だからSNS上で妙にザワついてしまった状況があり、「何とか打開策はないのか」と考えたりしてました。

 

 

そんなある日、棚橋選手とやり取りをしている中でこのようなことを言われたのです。

 

 

「木村さんと、直接、話したいですね」

 

 

 

棚橋選手はシンプルに木村さんという人物に興味を持ったのかもしれません。これまでまったく接点がなかった棚橋選手と木村さんが、新日本プロレスや猪木さんというキーワードを元に言葉を交わす場として今回、僭越ながら私のブログ上で対談することになりました。

 

私にはこの2人に対談していただくことによって棚橋選手にも、木村さんにも、そしてプロレス界にも少しでも恩返しする機会になればいいなという想いがありました。

 

 

そして、棚橋選手と木村さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.映画「アントニオ猪木をさがして」について

2.棚橋選手が新日本のエースとして歩んできた生き方

3.新日本道場にある猪木さんのパネルを外した理由とパネルを戻した本当の理由

4.棚橋選手と木村さんが考える新日イズムと猪木イズムとストロングスタイル

5.これからのプロレスについて

 

 

これは永久保存版です!プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた孤高の闘魂作家による対談という名のシングルマッチはどのように決着したのか!?


最後まで見逃せない対談、是非ご覧ください!



プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 前編「逸材VS闘魂作家」 


 


プロレス人間交差点 

棚橋弘至☓木村光一

 後編「神の悪戯」

 


 

 

 


 


猪木パネルを外した理由「誰かがそれをやらねば…」

「猪木ファンと棚橋選手、あるいは新日本プロレスとの溝を決定づけた出来事」(木村さん)

「パネルを外すという行為によって『新日本は次のステップに進むんだぞ』と世間にアピールしたかった」(棚橋選手)




──では次の話題に移ります。新日本道場にあった猪木パネルを外した理由と戻した理由についてです。こちらに関しては猪木パネルを外した棚橋選手がさまざまな媒体のインタビューで理由を語っておられますが、個人的にはその説明があまり足りてなかったように感じました。


木村さん 猪木ファンと棚橋選手、あるいは新日本プロレスとの溝を決定づけた出来事でしたから、私もその真意をきちんと伺いたいと思っていました。


棚橋選手 今でもその件に関しては色々と言われてます。「あの野郎、猪木さんのパネルを外しやがって!」と。でも、あの当時、新日本の誰かがそれをやらなければいけなかったんです。


木村さん といいますと?  


棚橋選手 パネルを外したのは猪木さんがIGFという別団体を旗揚げしたからです。そのとき、僕は猪木さんから「俺も好き勝手やってんだからいつまでも飾っておくなよ」と言われたような気がして。決して猪木さんが憎いとかじゃなくて、むしろそれが筋だし礼儀だと思ったんです。あとは、それをすることによって、新日本が猪木さんとは別の道でやっていくんだという意思表示でもありました。パネルを外すという行為によって「新日本は次のステップに進むんだぞ」と世間にアピールしたかったんです。




猪木パネルを戻した理由「王の帰還」

「帰還した王が戻る場所はやはり新日本プロレスの道場しかない。『ここに戻さないでどこに戻すんですか!?』というのが僕の偽らざる心境」(棚橋選手)

「このままでは猪木さんの帰る場所がないですね。だとすれば、過去の経緯はどうあれ、あのパネルが飾られるのに相応しい場所はたしかに新日本プロレスの道場しかありません」(木村さん)





──木村さんはどう思われていたんですか?


木村さん 私は棚橋選手がパネルを外したという行為については、今おっしゃったことが真意なら正当だったと思います。猪木さんは新日本に対するアンチテーゼとしてIGFを旗揚げし、はっきり対立姿勢を示したのですから。むしろ、それに呼応しなければ猪木さんのいう「プロレスは闘いだ」という根本原則に反しますし嘘になります。そこまでは納得できました。しかし、『アントニオ猪木をさがして』の中で、その棚橋選手がパネルを道場の壁に戻すシーンはあまりにも唐突で違和感がありました。


棚橋選手 たしかにパネルを戻したのはあの映画の演出の一部です。でも、嘘のない僕の正直な想いでもありました。


木村さん といいますと?


棚橋選手 2020年からコロナ禍になって、プロレスも含めてあらゆる娯楽やイベントで集客するジャンルはどん底まで落ち込みました。そこからもう一度這い上がって盛り上げていこうという矢先に猪木さんが亡くなられて…。都合のいい話ですけど、「猪木さん、もう一度、力を貸してください」と、素直にそういう気持ちになれたんです。


──今、新日本道場には再びアントニオ猪木のパネルが飾られ、その前で選手は練習をされています。何か変化はありましたか?


棚橋選手 僕より猪木さんと関わりがあった上の世代の人は、道場に入るとピリッとしてますね。猪木さんに見られている感覚があるから練習にも熱が入ります。あとは新日本にいる新弟子の中には15歳の子もいるんですが、猪木さんのことは全然知らないと思います。そういう若い世代にもあの猪木さんのパネルから何かしら感じてほしいと僕は願っています。


木村さん 映画をきっかけにして、棚橋選手も心の整理がついたんですね。


棚橋選手 猪木さんは新日本プロレスを旗揚げして、激しい戦いで1980年代にプロレスブームを巻き起こして日本プロレス界を牽引するメジャー団体に成長させ、その一方で異種格闘技戦や総合格闘技の舞台で格闘技界全体を盛り上げ、国政にも出て参議院議員になって、あらゆることをやり尽くした上で自らが創設した新日本に帰ってきた。このシチュエーションはプロレスの領土をむちゃくちゃ広げた王が元にいた場所に凱旋した「王の帰還」のドラマのエンディングだと僕は考えたんです。そしてその帰還した王が戻る場所はやはり新日本プロレスの道場しかない。「ここに戻さないでどこに戻すんですか!?」というのが僕の偽らざる心境でした。


木村さん 「王の帰還」とは言い得て妙です。プロレス界も格闘技界も未だにまとまらず全体を統括する組織もできていない。そうなると棚橋選手がおっしゃった通り、このままでは猪木さんの帰る場所がないですね。だとすれば、過去の経緯はどうあれ、あのパネルが飾られるのに相応しい場所はたしかに新日本プロレスの道場しかありません。実は、私が猪木事務所のブレーンをやっていた頃、格闘技アリーナ(猪木記念館)を作ろうというプランがあって、その企画書を作成したことがありました。結局、実現には至らなかったんですけど、そこにはプロレスや格闘技の専用会場のほか、あらゆる格闘技や団体において貢献のあった選手たちのパネルや記念品を飾る記念館も併設し、後世にその功績を伝えていこうという夢のあるプランでした。




新日本が長年温めている常設会場計画

「僕が新日本の社長になったら『イノキアリーナ』を作ります」(棚橋選手)




──それはプロレス界や格闘技界のために今後も挑んでほしい素晴らしいプランです。


棚橋選手 新日本にはずっと温めているアイデアがあるんです。東京都内に2000~4000人くらいのキャパの後楽園ホールに代わるような常設会場を作りたいという夢があるんですよ。もし実現したら、僕はその施設を「イノキアリーナ」と名付けますよ。そうすれば大きな話題になりますし、世代を超えてプロレスファンが集える場にもなる。そしてプロレスが未来永劫、続いていくのならこんなにいいことはないですよ。


──その「イノキアリーナ」に猪木さんの資料や記念品なども収蔵して公開すれば、猪木さんの多岐にわたる功績もきちんと後世に伝えることができますね。


棚橋選手  いいですね!僕が新日本の社長になったら「イノキアリーナ」を作ります。


木村さん それは公約ですね。その言葉、忘れませんよ(笑)。



──話は少し戻ります。さきほど棚橋選手が猪木パネルを外した理由として、猪木さんのIGF旗揚げを上げていました。棚橋選手はIGFについてはどのようにご覧になってましたか?


棚橋選手 IGFは総合格闘技でもプロレスでもないという印象でした。有名な選手も出ているし、きちんと技術を持っている本物の選手もいるのですが、もし僕がひとりのプロレスファンだったとしたら乗れなかったと思います。さすがの猪木さんもIGF時代は迷走していたのではないでしょうか。




木村さんの猪木論

「猪木さんが考える理想のプロレスとは格闘技術をベースに緊張感を生み出しながら観客を魅了するプロレスだった」(木村さん)




──猪木さんでも混沌が続いたIGFをコントロールすることはできなかったのかもしれませんね。木村さんはIGFについてどのように感じてましたか?


木村さん うーん…。要するに猪木さんが考える理想のプロレスとは格闘技術をベースに緊張感を生み出しながら観客を魅了するプロレスだったはずなんです。つまりプロレスという大枠の中にどれだけリアルな要素を詰め込めるのかという。猪木さんは現役時代、プロレスと格闘技の両方でそれができてしまった稀有なレスラーでした。プロレスに格闘技を引きずり込み、異種格闘技戦もハイレベルなプロレスとして成立させたのは猪木さんの最大の功績のひとつであり、誰もできなかった離れ業なんです。猪木さんとしてはそれをIGFのリングで誰かに再現してほしかったんだと思います。しかし、残念ながらあまりうまくいかなかった。そこで猪木さんは苦肉の策として格闘家たちにプロレスをやらせる方向に持って行こうと考えたのでしょうが、やっぱりプロレスはそんな簡単なものじゃなかった。と、そういうことだったのではなかったかと。


──同感です。


木村さん 猪木さんが力道山に弟子入りした当時は、まだプロレスというジャンルが確立しておらず、先輩レスラーも格闘技の精鋭揃いでした。ズラリと幕内力士が揃っていて、他にも柔道の猛者、高専柔道やレスリングの実力者もいて、凄くスキルの高い格闘家が大勢いたわけです。そういう環境の中で猪木さんはプロレスの基本としてさまざまな格闘技の技術を叩き込まれた。だから猪木さんがよく言う「俺はプロレスと格闘技に分けたことがない」というのは、そもそも猪木さんの中で最初からプロレスと格闘技は同じものだったからなんですよ。



棚橋選手 なるほど。


木村さん その考え方をもとに猪木さんはずっとプロレスをやってきたのですが、時代と共にプロレスが変化してギャップが生じていった。今回、僕は『格闘家アントニオ猪木─ファイティングアーツを極めた男』と言う本を上梓させていただいたのですが、いちばん伝えたかったのがその点なんです。もしかすると、次の時代のプロレスのヒントの一つになるんじゃないかと。周知の通り、猪木さんはプロレスや格闘技に対して具体的なことはあまり語りたがらない人でしたが、幸いなことに私はお話を伺うことができましたので、それをもう一度整理し直して、「アントニオ猪木のプロレスとは? 格闘技とは何だったのか?」あるいは「アントニオ猪木はそもそも格闘家だったのか、プロレスラーだったのか」といったテーマで深掘りさせていただきました。


棚橋選手 猪木さんはプロレスラーだったのか、格闘家だったのか…。猪木さんはファイターですよ。炎のファイターだったんじゃないですか。


木村さん この本のサブタイトルは“ファイティングアーツを極めた男”。猪木さんにとって、プロレスも格闘技もファイティングアーツだったんです。


棚橋選手 格闘芸術!


木村さん 猪木さんにすれば、何をやってもいいけど、やるなら芸術と呼ばれるくらいの域まで高めてみろよと言いたかったんだと思ってます。


──芸術にまで昇華させられれば表現方法は問わないと。


木村さん 猪木さんも実はスタイルに関してはそこまでこだわりはなかったように思います。ただ猪木さんが身につけたプロレスのベースが格闘技だったので、志向としては格闘技寄りになりがちでしたが、ご本人はあまりジャンル分けに興味はなかったし、そもそも自分が若い頃に修得した技術に関しても「これがレスリング」「これがCACC」「これが柔術」「これが高専柔道」とか整理されていたわけではなかった。全部プロレスとして呑み込んで咀嚼してしまったのがアントニオ猪木なんですよ。したがって格闘技が上位概念だという考えもない。すべてをプロレスと捉えているからアメリカンプロレスだって誰よりも上手かった。


棚橋選手 タイガー服部さん(元・新日本プロレスレフェリー)も「アントニオ猪木はアメリカンプロレスだよ」と言っていました。シチュエーションを作り上げて正義と悪の対立構造をはっきりさせ、前哨戦で盛り上げて状況を整えてから決着戦という勧善懲悪の世界観をきっちり作り上げていたということですね。


木村さん 猪木さんはただ漠然と試合をするのではなく、その2人が闘うしかないというシチュエーションを作ることを重視してました。だから猪木さんのプロレスは感情移入できてなおかつ緊張感と爆発力があったんですよ。


棚橋選手 試合前のセットアップをするか、しないかでファンの方の試合への集中力や期待感も変わってきます。激しい過酷な試合内容で盛り上げた全日本の四天王プロレスとの対比にもなりますよね。試合で凄いことをして魅せるのも大事ですが、あらかじめ試合前に闘う必然性をはっきり打ち出すことを猪木さんは一番大事にしていたんですね。「お前は怒っているのか!?」と言っていたのも「怒っているから闘うんじゃないのか」という問いかけだった。全部、繋がるような気がします。




棚橋選手にとって新日本イズム、猪木イズムとは?




──ここからはお二人が考える新日イズム、猪木イズム、ストロングスタイルについて、持論をお聞きしたいです。木村さんは先ほど(前編 参照)新日イズムは「どんな手を使ってでも客を入れてやるという意気込み」、猪木イズムは「“できない”“やらない”は絶対に言わない決意」とおっしゃってましたが、棚橋選手が考える新日イズムとは何でしょうか?


棚橋選手 僕はプロレスというジャンルは昔も今もマイノリティーだとずっと思っています。なので、「もっと有名になってやる」「もっと強くなってやる」という反骨心が新日本プロレスと新日本プロレスのレスラーには一貫してベースにあったんじゃないでしょうか。世間や物事に対する反骨心が新日イズム。「こんな面白いものを何でみんな知らないんだよ!もっと知ってくれよ!」という想いなんじゃないかなと。


──棚橋選手はマイノリティーであるプロレスをもっと世の中に広めるために全力でプロモーション活動を長年、実践されています。そこにはそういう新日イズムが流れていたわけですね。


棚橋選手 猪木さんが言っていたように、プロレスというジャンルに市民権を得たいんで

す。




──では棚橋選手が考える猪木イズムとは何ですか?


棚橋選手 僕にとっての猪木イズムは「見る前に飛んでしまえ」「とにかくなんでもやってしまえ」です。結果を気にするなと。今の時代は保険をかけて行動するじゃないですか。みんなが忘れてしまっている「成功するかどうか分からないけど、やってしまえ」というのが猪木イズムなのかなと思います。だってそっちの方がワクワクするし、どう考えても面白いんですよ。結果が失敗に終わっても猪木さんは「別に死ぬわけじゃない」位の感覚だったんじゃないですか。


木村さん そうですね。チャレンジの結果、数十億の借金を背負ってどん底に落ちても何度だって這い上がった人ですから。




「ストロングスタイルはただの言葉です。企業のイメージ戦略だと思っています」(棚橋選手)



──では、棚橋選手はストロングスタイルについてはどのように考えていますか?


棚橋選手 ストロングスタイルはただの言葉です。企業のイメージ戦略だと思ってます。ストロングという強い響きにスタイルという言葉をくっつけるとスタイリッシュでかっこいい。実態は掴めないけど、何となく強そうというニュアンスが伝わるじゃないですか。散々「棚橋の試合はストロングスタイルじゃない」と言われてきましたけど、ストロングスタイルという言葉そのものが曖昧で抽象的でしかないんです。僕は以前、猪木さんと対談した時に「ストロングスタイルとは何ですか?」と聞いたことがあって、「そんなものは知らねぇよ」と言われました。「そういうもんですよね」と思いましたよ。


──ちなみにプロレスライターの流智美さんが『詳説!新日イズム』(集英社)という書籍の中で、「ストロングスタイルとは新日本プロレスは本物・本流であり、全日本プロレスはショーマンシップが主体の見世物プロレスとファンを洗脳するために新日本関係者によって作られた和製英語」と綴っていて、ショーマンスタイルの対義語としてストロングスタイルという言葉が生まれたのだと述べています。


棚橋選手 なるほど。やっぱりイメージ戦略なんですよ。新日本は企業イメージの持っていき方が抜群にうまかったんでしょうね。

    

  


「猪木さんから直接伺った言葉ですが『カール・ゴッチをプロレスの神様にしたのは俺だ』と、はっきりそう言っていました」(木村さん)




──木村さんはストロングスタイルについてどのようにお考えですか?


木村さん 旗揚げ当時の新日本には全く売りがなかったわけで、いい外国人レスラーも呼べないし、そして猪木さんがやろうとしていたもっとスポーツ寄りのプロレスも時代が早すぎて観客に受け入れられなかった。じゃあどうやって客を呼ぶか。そのために無冠の帝王と呼ばれて誰もがその強さを認めているカール・ゴッチを神棚に祀ることで新日本プロレスをブランド化しようとしたんです。これは猪木さんから直接伺った言葉ですが「カール・ゴッチをプロレスの神様にしたのは俺だ」と、はっきりそう言っていましたから。新日本の道場をゴッチさんの色で染めたのもそのため。意図的だったんじゃないかと私は見ています。その妥協なきゴッチ流プロレスをイメージさせるのにもストロングスタイルというコピーはうってつけだったんだと思います。


棚橋選手 ストロングスタイルはレスラーのためというよりファンに対する救済処置だったような気もします。「新日本はストロングスタイル」と言えば、ジャイアント馬場さんや全日本プロレスファンとのプロレス論争でも論破しやすいわけで。その言葉が全日本との対比として生まれたのなら、猪木さんと馬場さんとの関係もずっと続いているということなんですよ。




棚橋選手と木村さんが考えるこれからのプロレスとは?



──ストロングスタイルという言葉はファンからすると守り神のような心強いワードだったのかもしれません。では次にお二人にはこれからのプロレスについて語っていただいてもよろしいですか? まずは棚橋選手からお願いします。


棚橋選手 僕が新日本のエースだった時に、団体がV字回復と言われて、みんなに「ありがとう」と言われましたけど、実は僕のレスラー人生は一度、そこで終結していたんです。「もうやり切ったな」という想いがありました。でもコロナ禍があって、せっかくみんなで盛り上げてきたプロレス人気が下がってしまったので、幸いまだ身体を動くので、もう一回コロナ前以上にみんながプロレスを楽しめる状況を作って役目を終えたいというのが今、僕にとって一番のモチベーションです。


──プロレス界で成し遂げたいことは?


棚橋選手 先ほどちょっと触れましたけど常設会場を作ることですね。そういう突飛なことをやって、最後に僕なりに猪木イズムと決着をつけて終わりたい。僕は猪木さんから一字もらっています。名付けというのは一種の呪いですから。(棚橋弘至選手の至という字はアントニオ猪木さんの本名である猪木寛至が由来だと言われている)


──木村さんはこれからのプロレスについて何か意見はありますか?


木村さん 正直、現状のプロレス界はネガティブな感じがしてなりません。プロレス団体がファンの囲い込みに躍起になっているというか。そんなことをやっていては外に広がりませんし、とくに私のように何十年もプロレスを見てきたファンは、なによりそういう囲い込みを嫌います。プロレス界は一丸となって、もっと外に、世間に対してオープンに発信を行っていった方がプロレスというビジネスのためにもなると思います。そして、昔はプロレスマスコミが色々なことをリードしながら共にキャラクターを作り上げていたと思うんですけど、今はSNSでレスラーも自分から発信できる時代ですから、もっと自己プロデュース力を磨いて自己主張してほしい。プロレス団体も管理するばかりじゃなく、もっと個々のレスラーやマスコミに代わってプロレスに関する情報を積極的に発信しているファンを後押しする環境を整備してほしいですね。


棚橋選手 「プロレスは時代の写し鏡」とはよく言ったもので、僕もチャラ男という言葉が全盛のとき、うまく自分のキャラクターにハマったと思ってます。


木村さん 好みは分かれるところですが、棚橋選手は時代の空気を絶妙に掴んで自分のものにしたいちばんの成功例だったんじゃないでしょうか。それともう一つだけ言わせてください。2000年代半ば以降、新日本を筆頭に日本のプロレス団体の多くがWWEのような方向性を目指して今に至っていると思われます。しかし、私はWWE的なやり方は日本のプロレスには馴染まないとずっと感じています。それについては猪木さんも同意見で、根本的に西洋人の鍛えられた肉体美や豊かな表現力と勝負しても勝てない、日本のプロレスは独自の方向性を目指すべきだと語っていました。



棚橋選手と木村さんにとってプロレスとは?


──棚橋選手は今の木村さんの言葉をどのように受け止めましたか?


棚橋選手 僕はプロレスで盛り上がる状況というのはタイトルマッチ、世代闘争、団体対抗戦と限られたものしかないので、だからそういう自然発生的に生まれる選手の感情を、対戦カードに落とし込んでいく方が、日本のプロレスには合ってるんじゃないかなとずっと思ってます。盛り上がった試合が見たいというのはもちろんあると思いますけど、それ以前に「応援している選手に勝ってほしい」「この試合に負けてほしくない」という勝負論がないと駄目で、「なんで俺が勝ちたいのか」「こいつには負けたくない」という想いとか、闘う理由を後付けするのではなく、自然に理解してもらえたらプロレスがもっと盛り上がるし、もっと外に伝わるんじゃないかなと思います。世代闘争や団体対抗戦は、世間に置き換えると会社に嫌な上司がいたり、競合相手には負けたくないというリアルな実感にも通じて落とし込みやすい。自己投影や感情移入がしやすいところもプロレスの魅力なんです。


木村さん 棚橋選手は、かつて新日本プロレスが発散していた危険な匂いについてはどう思われますか?


棚橋選手 僕は選手の感情が極みに達した結果、図らずも不穏試合になるというケースもプロレスには必要だと思ってます。


木村さん それを聞いて胸のつかえがおりました。ありがとうございます。


──ではここで棚橋選手と木村さんにお聞きします。あなたにとってプロレスとは何ですか?まずは棚橋選手からです。



棚橋選手 プロレスは生き方です。それはずっと言い続けています。やられてもやられても歯を食いしばって耐えて、チャンスを狙って足掻き続けて反撃するという図式があって、やられてばかりじゃなくて、攻めているばかりじゃない。いいこともあれば悪いことがあるのがプロレス。プロレスは人生と言ってしまうと、プロレスラー以降の人生がなくなってしまうような気がするので、プロレスは生き方なんです。


──では木村さん、お願いします。


木村さん プロレスとは可能性じゃないでしょうか。猪木イズムもそうですけど、プロレスには、やろうと思えば不可能はないんですよ。「やるのか、やらないのか」だけで。やろうと思ったことができるのがプロレスで、ファンはそれを見てカタルシスを味わってきた。棚橋選手もおっしゃっていた挑戦する気持ちですね。「絶対に俺はこれを成し遂げるんだ」という想いをリングの上で表現してみせることが、いつの時代でもプロレスの醍醐味だったのではないでしょうか。その際、表現方法は個々に見つければいい。強さを見せるのか、華やかさを見せるのか。その覚悟と可能性を見せるのがプロレスラーの仕事なのではないかと私は思っています。


──棚橋選手は木村さんの言葉を聞いてどのように感じましたか?


棚橋選手 肝に免じておきます。コロナ禍になってプロレスは衣食住から必要な職業ではないという烙印を押された。でも人が生きていく上での衣食住には関係ないけど、エネルギーをもらえたり、プロレスからしか得られない栄養素はきっとあると思っています。僕がファン時代にもらった原体験があるわけで、これからも「プロレスを見て人生が楽しくなった。元気や勇気をもらえた」僕みたいな少年がひとりでも増えるようにこれからも頑張りたいですね。


2人の刺激的対談、決着!

「僕は古参のファンの皆さんにも現在進行形のプロレスに戻ってきてほしい」(棚橋選手)

「今回の対談で棚橋選手の想いは十分理解できました」(木村さん)




──そろそろ急遽実現したこの対談もエンディングの時間となりました。棚橋選手、率直にこの対談、いかがでしたか?


棚橋選手 楽しかったです。木村さんのお話を伺って、いろんなことが腑に落ちましたね。そして、これは本音として言わせてください。僕は古参のファンの皆さんにも現在進行形のプロレスに戻ってきてほしい。あの熱狂したプロレスの原風景を知っている皆さんにもう一度今のプロレスを盛り上げてもらえたら、プロレスはもっと世間に届くはず。そう思っているんです。


木村さん 私も今回の対談で棚橋選手の想いは十分理解できました。発端こそ棚橋選手のインタビュー記事に対する私の怒りでしたが、それがこんな思わぬ形の出会いになり、ここまで深く、お互いに腹を割って話し合うことができて本当に良かったと思ってます。棚橋選手、ジャスト日本さん、素晴らしい機会を作っていただき、ありがとうございました!


棚橋選手 こちらこそ、ありがとうございました!


──棚橋選手、木村さん、ありがとうございました!


木村さん いや、今、ふと、もしかするとこれって天国の猪木さんのイタズラ? と思いました(笑)。


──ハハハ、そうかもしれませんね。さて、猪木さんと新日本という名のもとに繋がった棚橋選手と木村さんの緊急対談は以上となります。本当にありがとうございました!お二人のご活躍を心からお祈りしております。


(プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一・完/ 後編終了)







ジャスト日本です。

 

今回は特別企画として、さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開する場を立ち上げました。それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

 

今回はプロレスラー・棚橋弘至選手と作家・木村光一さんによる激論対談をお送りします。

 

 

 

(写真は御本人提供です)

 

棚橋弘至

1976年11月13日岐阜県生まれ。立命館大学法学部時代にレスリングを始め、1999年に新日本プロレスに入門。同年10月、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2003年に初代U-30無差別級王者となり、その後2006年に団体最高峰のベルト、IWGPヘビー級王座を初戴冠。第56代IWGPヘビー級王者時代には、当時の“歴代最多防衛記録”である“V11”を達成した。プロレスラーとして活動する一方で、執筆のほか、テレビ番組等に多数出演。2016年にはベスト・ファーザー賞を受賞、2018年には映画『パパはわるものチャンピオン』で映画初主演など、プロレス界以外でも活躍している。「100年に一人の逸材」と呼ばれるプロレス界のエースである。

 

BLOG
棚橋弘至のHIGH-FLY 
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Podcast
棚橋弘至のPodcast Off!! 

 

 

「プロレス界の一年の計はイッテンヨンにあり!!」

新日本プロレス2024年1月4日・東京ドーム大会

 

新日本プロレス「WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」 特設サイト 

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)がいよいよ発売!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 

 

棚橋選手は長年、所属する新日本プロレスだけではなくプロレス界のエースとして活躍してきたプロレスラー。木村光一さんはアントニオ猪木さんに関する数々の書籍を世に出し、猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫った作家でした。

 

なぜこの2人が対談することになったのか。そのきっかけとなった出来事がありまして、詳しくは私のnoteで経緯や諸々をまとめております。こちらをご覧いただければありがたいです。私と棚橋選手、私と木村さんについてもこちらの記事で説明させていただいています。

 

 

昔もいまもプロレスは面白えよ!|ジャスト日本 

 

 

 

私は棚橋選手と木村さん双方と繫がりがあり、立場やお気持ちも理解できました。だからSNS上で妙にザワついてしまった状況があり、「何とか打開策はないのか」と考えたりしてました。

 

 

そんなある日、棚橋選手とやり取りをしている中でこのようなことを言われたのです。

 

 

「木村さんと、直接、話したいですね」

 

 

 

棚橋選手はシンプルに木村さんという人物に興味を持ったのかもしれません。これまでまったく接点がなかった棚橋選手と木村さんが、新日本プロレスや猪木さんというキーワードを元に言葉を交わす場として今回、僭越ながら私のブログ上で対談することになりました。

 

私にはこの2人に対談していただくことによって棚橋選手にも、木村さんにも、そしてプロレス界にも少しでも恩返しする機会になればいいなという想いがありました。

 

 

そして、棚橋選手と木村さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.映画「アントニオ猪木をさがして」について

2.棚橋選手が新日本のエースとして歩んできた生き方

3.新日本道場にある猪木さんのパネルを外した理由とパネルを戻した本当の理由

4.棚橋選手と木村さんが考える新日イズムと猪木イズムとストロングスタイル

5.これからのプロレスについて

 

 

これは永久保存版です!プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた闘魂作家による対談という名のシングルマッチ、いざゴング!


プロレス人間交差点 

棚橋弘至☓木村光一

前編「逸材VS闘魂作家」


 

 

 


 「猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだった」(棚橋選手)




──棚橋選手、木村さん、今回の「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!プロレスの今と過去をテーマに、未来に繋がり、実りのある対談になればと考えています。よろしくお願いいたします!


棚橋選手 よろしくお願いいたします!


木村さん よろしくお願いいたします!


──まずは10月6日に映画『アントニオ猪木をさがして』が全国公開され、賛否両論の声があがりました。「いまを生きる中高年に改めて、『おめぇはそれでいいのか?』と覚悟を突きつける人生の応援歌」「猪木ビギナーにやさしいつくりの映画」「めちゃくちゃ元気をもらった」といった高評価がある一方、「観る価値なし」「猪木の魅力が伝わってこない」「何度席を立とうとしたか。観る側に何を伝えたかったのかサッパリ分からん」という厳しい意見もありました。そこでお聞きします。まず、出演者として関わった棚橋選手はこの映画についてどのように捉えていますか?


棚橋選手  映画化するという話を聞いた時は「この手があったのか」と思いましたね。スペシャルDVDを制作するとかドキュメンタリー番組を放映するとか色々な打ち出し方がある中で、かつて猪木さんが言っていた「環状線理論」(業界人気を上げるためには環状線の内側がファンだとすれば、環状線の外側にいるファンじゃない人たちを引き込むことが必要だという猪木特有の理論)で考えるとプロレス界の外側に届けることができる映画という手段がよかったかなと思います。

僕はアントニオ猪木VSビッグバン・ベイダー(新日本プロレス/1996年1月4日東京ドーム大会)を見て、以前から好きだった猪木さんに心をあらためて鷲掴みにされて大好きになったんです。猪木さんの試合をオンタイムで見ていたファンの皆さんにはもう一度その素晴らしさを思い出してほしかったし、猪木さんを知らないファンの皆さんにも知ってもらいたかった。ですので猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだったと思ってます。


──木村さんは映画『アントニオ猪木をさがして』をご覧になってどのように感じましたか?


木村さん 今、猪木ファンの間でも意見が分かれているようですが、率直に言って私にとってはすごく気持ちのいい映画でした。なにより、イベントが大好きだった猪木さんの一周忌に映画を公開していただけたことに対し、いちファンとして感謝しかありません。あまりマニアックに作り込みすぎても一般のお客さんは疎外感を味わうだけになってしまいます。再現ドラマのパートも、アントニオ猪木を理解するとき、やっぱりその時代背景もひっくるめて表現しないと僕ら猪木現役世代が味わった熱い思いは若い人たちには伝わりません。したがって1人の猪木ファンの人生ドラマとしてそれを表現するのはありだなと思いました。


棚橋選手 ありがとうございます。この映画を制作したプロデューサーや監督は木村さんが指摘した部分をかなり意識されてました。ドラマパートは昔からの猪木ファンの方々に「あの頃、よく家族や友達とプロレスの話題で盛り上がったなぁ」という記憶を呼び起こす効果があったんじゃないですか。


木村さん 家族間のテレビのチャンネルの取り合いのエピソードなどはまさにあの時代ならでは。好きな動画をいつでも自由に楽しめる今の若い人たちには想像もつかないことでしょう。


棚橋選手 しかも金曜夜8時に放送されていた『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)の裏番組も強力だったとか。(1970~1980年代、『ワールドプロレスリング』は日本テレビ系『太陽にほえろ!』、TBS系『3年B組金八先生』といった国民的人気番組と熾烈な視聴率競争を繰り広げていた)


木村さん ビデオデッキは高嶺の花で、一般家庭にようやく普及し始めたのが80年代半ば。ですからそれまではプロレス中継を見る私たちも一発勝負だったんですよ。だから見る側の集中力も高かったし、没入感がまったく違っていましたね。


棚橋選手 没入感!いいキーワードですね。まだエンターテインメントの選択肢が少ない時代、熱中せざるを得ないという状況でもあったわけですね。


木村さん 当時はプロ野球全盛の時代で、大人も子供もみんな野球に熱中していました。ゴールデンタイムのテレビは毎日、巨人戦。おまけに金曜8時は人気番組の勢揃い。でも私のようにプロ野球には乗れないタイプもいて、その人たちのためにプロレスはあるという感じもありました。


棚橋選手 なるほど、迷える人たちをプロレスが「俺たちが受け止めてやる!」と包み込んだという…プロレスは異端児たちの受け皿だったわけですか。まさに受けの美学ですね。




「棚橋選手、あの記事は本音ですか?炎上を狙ったものですか?」(木村さん) 



──棚橋選手は映画『アントニオ猪木をさがして』のプロモーションでかなりの数の媒体でインタビューを受けていました。実はその中の1つの記事が今回のこの対談のきっかけになったわけですが…。


木村さん それについて、一点、棚橋選手に確かめたいことがあります。よろしいでしょうか?


棚橋選手 はい。


木村 私は今のプロレスやレスラーに対して批判的なことを一切書かないことをモットーにしています。それを書いたところで何も新しいものは生まれないし、プロレスファンの世代間の溝が深まるだけ。そんな不毛な衝突を煽るようなことはやりたくないんですよ。でも、『アントニオ猪木をさがして』に関するある記事を読んで違和感を感じ、「これは違うんじゃないか」とX(Twitter)に投稿しました。棚橋選手が本当にそういう話をしたのかどうなのか、あるいはどのように発言が切り取られたのか、何らかの書き手の意図があったのか。棚橋選手の言葉が必ずしもストレートに反映されていない可能性があるとも思いましたが、オフィシャルに棚橋選手の意見として世に出てしまった以上、どうしても黙っていられなかったんです。はっきりお聞きします。あの記事は本音ですか? あるいは炎上をあえて狙ったものだったのですか? 


棚橋選手 僕がアントニオ猪木を越えたという発言ですよね。


木村さん いえ、プロレスラーは自己演出と自己主張をしてナンボですからそんなことは構わないんですよ。私がカチンときたのは、猪木さんが人生を懸けて取り組んでいた事業の数々を揶揄したようなくだり。そもそも事実関係にも誤りがあって、だから「知らないのであれば一切語ってほしくない」という趣旨の意見を書いたんです。


──「試合をして、ファンの喜びを自分の喜びにしたら、『永久電機』ですよ。猪木さんが(アントン・ハイセルで失敗して)作れなかった永久機関を実はもう作っている。猪木超えを果たせたのかもしれません(笑)」という棚橋さんのコメントですね。


木村さん はい。



──アントン・ハイセルは1980年代に猪木さんがブラジル政府を巻き込んで取り組んでいた国際的な事業で、サトウキビからアルコールを精製したあとに残る大量の産業廃棄物であるバガス(サトウキビの搾りカス)をバイオ技術で家畜の飼料に生まれ変わらせ、エネルギー不足と食料不足を一挙に解決するという夢のプロジェクトでした。永久電機は、アントン・ハイセルの失敗から約20年を経て再び猪木さんが手がけた「スイッチを入れたら永久に自力で駆動し続ける発電機」の開発。そもそもアントン・ハイセルで失敗して永久電機を作れなかったというのは時系列からして事実とは違っているということですね。


木村さん その通りです。要するに、アントニオ猪木を否定するなら否定するで、もっときちんと知ってから発言して欲しいんですよ。事業についてもそうですが、プロレスラーとしてのアントニオ猪木をどれだけ理解しているのですかと。私が言いたかったのはそれだけのことでした。


棚橋選手 炎上を狙ったかどうかについては、まったくそんなつもりはなかったです。僕は猪木さんがやってきた数々の事業は本当に凄いことだったと尊敬してます。ただ猪木さんに時代が追いついてなかっただけで。今のプロレスラーで環境問題とかエネルギー問題とか、世界規模で物事を考える選手は1人もいませんよ。「自分がどう強くなるのか」「チャンピオンになってスターになるのか」とか自分主体になってしまうのに猪木さんはどういう頭の中をしているのだろうと思ってました。結果的に事業はことごとく失敗しましたけど、猪木さんが誰もやっていないビジネスにチャレンジしたこと自体が凄いことなんです。だから、つまり、この記事からはその想いが全然伝わってなかったということですね…。


木村さん 印象としてまるで真逆でした。


棚橋選手 それは心外です。自分ができないことをされている方はもう無条件で尊敬の対象になるし、猪木さんの型破りな実行力はもちろん尊敬に値します。また、それを支え続けた坂口征二会長(現・新日本プロレス相談役)も凄いなと思います。


──もしかしたらこの記事で特に物議を読んだくだりも何かしら補足の言葉があれば印象がガラっと変わったかもしれませんね。


棚橋選手 そうですね…。一言、足りなかったのかも…。事業を失敗したことについて、馬鹿にしたようなニュアンスになってしまっていたのなら、僕の想いとは違った形で伝わってしまったのかなと思います。




「猪木さんの存在がいなければ『100年に1人の逸材』にはなれてなかった」(棚橋選手)    




──あらためて、最近の一連のインタビューで棚橋選手が伝えたかったことを教えてください。


棚橋選手 ポイントはいくつかあって、僕より上の世代である50~60代の皆さんとオンタイムで猪木さんを見ていない35歳以下の世代の皆さんにどのようにアプローチするのかを意識しながらインタビューを受けてました。ただ単に猪木さんの素晴らしさを語ると、いくらでも出てくるし、名勝負も多いです。でもそれは猪木さんの好きな方はご存知の話なので、そこじゃない部分でフックを作るということを意識してました。


木村さん 結果的にそのフックが思わぬ形のフックになってしまったと。


棚橋選手 そうですね…。違うところに引っかかったかもしれませんね(苦笑)。「賛否両論あって本物」という人もいるし、「これはちょっと…」という人もいて、それが猪木さんの偉大さで、プロレスの議論を熱くしていたと思うんです。その曖昧さも猪木さんの時代の魅力だったのかなと。今は何でもかんでも「白か、黒か」ときっちり分けてしまうところがあって、それは正しいということなんですけど、白と黒の中間の灰色があってもいいじゃないなというのがプロレスからずっと発しているメッセージなのかもしれません。



──ちなみに棚橋選手は猪木さんと試合をしたわけではないのですが、仮想敵国のような感じでずっとアントニオ猪木という存在と闘ってきたように感じます。ではどの部分で猪木さんに打ち勝ちたいという想いがありましたか?


棚橋選手 うーん…。「やる前に負けることを考える馬鹿がいるかよ!」という猪木さんの名言がありますけど、力道山先生が活躍した頃は戦後の日本復興という時代背景がありました。猪木さんも時代が生んだプロレス界のスーパースターでした。やはり時代に乗れないとなかなかスターからスーパースターには昇格できないんですよ。だから猪木さんに挑むというのは今のレスラーからしたら、負け戦なんです。もう敗退するのを分かっていて突っ込めるのか。新日本に入ってそれをやる選手、やらない選手の2種類に分かれて、やらない選手が圧倒的なに多かったんです。僕はそういう姿勢を打ち出したから、目立ったわけで。だから棚橋弘至というレスラーを作り上げていく中で、猪木さんの力を借りたということです。


木村さん 棚橋選手がアントニオ猪木という絶対的存在と闘うことを決意したのはいつ頃ですか?


棚橋選手 猪木さんが総合格闘技(PRIDE)のプロデューサーをやっていた頃です。正直、「なんでプロレスを助けてくれないんだろう」と思ってました。他力本願かもしれないけど、あの時に影響力がある猪木さんが「プロレスは面白い」と言ってくれたら多くの皆さんが振り向いてくれて、救われた人も多かったはずなのにと…。


木村さん そのときに怒りを感じたわけですね。


棚橋選手 じゃあ僕が猪木さんに負けない影響力を持つレスラーになればいいじゃないかという気持ちをずっと持ち続けて、ここまでプロレスをやってきました。直接的な関わりは少ないですけど、猪木さんの存在がいなければ「100年に1人の逸材」にはなれてなかったような気がします。


──アントニオ猪木という存在がなければ棚橋弘至もレスラーとしてステータスを上げることはできなかったと。


棚橋選手 もっとクセのないレスラーになっていて、ただカッコいいという評価で終わってましたよ。思えば2006年~2010年頃まで結構ブーイングされてましたから。新日本隊にいて、ベビーフェース側なのにブーイングを受けて、強烈に人に嫌われる経験したことが僕のレスラー人生にとって大きかったですね。片方がブーイングされるということは、もう片方に応援が集中するというプロレスの原風景ともいえる仕組みをより知ることができました。


木村さん 猪木さんも「ベビーフェースしかやれないヤツは駄目だ」とよくおっしゃってましたよ。


──私の大好きなレスラーであるブレット・ハートが「車で例えるとベビーフェースは助手席、ヒールはドライバー」という名言を残してましたよ。


棚橋選手 なるほど!


──試合はヒールが組み立てるという意味なのですが、逆にずっとベビーフェースというのもずっと御輿に担がれるという覚悟が必要なのかなと思います。


棚橋選手 確かにその通りですね。



猪木さんの本音

「『プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ』と…」(木村さん)





──木村さんは猪木さんがPRIDEエグゼクティブプロデューサーをされていた頃、猪木事務所のブレーンとして関わっていましたね。格闘技界と接触していく2000年前半の猪木さんの動きについてはどのように思われてましたか?


木村さん PRIDEの百瀬博教先生(作家。「PRIDEの怪人」と呼ばれプロデューサー的役割を担っていた。選手には小遣いや土産を渡すなどタニマチ的な存在でもあった)に同行してアメリカ・ロサンゼルスまで猪木さんの取材に行ったことがありました。その間、PRIDEサイドの考え方、猪木さんに対する評価を百瀬先生から直接伺ったんですが、無条件で猪木さんを称賛してましたね。そのあと、それについて猪木さんはどう感じていたのか本音を聞きました。「なぜ今、格闘技なのか?」と。で、これは言っていいのかな…。


棚橋選手 是非、聞きたいです!


木村さん 「プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ」と、ちょっと悔しそうでもありました。


棚橋選手 そうだったんですね…。猪木さんも寂しかったのかな…。


木村さん 孤独だったんだと思います。


棚橋選手 猪木さんはいつも元気でスーパーマンというイメージがあるから、そういう感情の起伏を人に読ませないじゃないですか。だから全然そういう感情には気づきませんでした。プロレス界の側もリスペクトを込めて「猪木さんはここにいてください。全部用意しますからお願いします」という姿勢があってしかるべきだったということですね…。



新日本が一番厳しかった時代で決めた覚悟

「『どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ』と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が『ファー』と僕を包み込むように降りてきた」(棚橋選手)





──猪木さんの寂寥感というのは、1990年代から続く長州力さんの体制になってから続いていたものかもしれませんね。


棚橋選手 猪木さんと藤波辰爾さんの関係と猪木さんと長州さんの関係は違うんですよ。藤波さんはとにかく猪木さんが大好きだったんですけど、長州さんは猪木さんとは違うスタンスだったことも、影響したのかもしれませんね。


木村さん これは私の持論ですが、新日本プロレスの道場には猪木イズムがUWF勢が離脱するまでは受け継がれていたと言われていますが、こと技術に関して言えば、猪木の流儀は新日本の道場には最初からなかったと思ってます。そこにあったのはカール・ゴッチによるゴッチイズムであって、新日旗揚げ以降の選手たちは猪木さんへの尊敬の念は別として、実質的にはカール・ゴッチさんの弟子だった。ところが長州さんはゴッチイズムに馴染めずにあぶれた人で、平成に入って現場は長州体制となり、そこでゴッチイズムを完全否定して新日本道場も作り変えた。新日本はつねに根本から変わり続けていたんですよ。ただ、猪木さんとゴッチさんのプロレス観には隔たりがなかったからよかったのですが、長州さんがゴッチ色を一掃しようとして極端に逆の方向へ走った。だから長州体制になって猪木さんがプロレススタイルについて異議を唱え始めた。猪木さんは「なんで今の選手はラリアットばかりなんだ」と不満そうでしたね。


棚橋選手 たしかに、一時期、新日本にはラリアットプロレスというのが前提にありました。


木村さん 長州さんは猪木イズムやゴッチイズムを全部排除して、まったく新しい自分の世界を作ろうとしたのだと私は考えています。そこで生じた猪木さんとの軋轢が、そのまま2000年代はじめの混乱の源だったと。多くの選手が新日本を離脱する背景にはオーナーである猪木さんと現場トップとの対立がもろに影響していたんですよ。私は猪木さんと長州さんの両方に近い方との付き合いもありましたので、きな臭い話も色々耳にしていました。傍で見ていて、こういう状況では選手や社員の皆さんが疑心暗鬼になるのも当然だと思ってました。そしたら案の定、大量離脱が発生して新日本が経営危機に陥ってしまったんです。



──棚橋選手は大量離脱が発生した2000年代前半でレスラーとして頭角を現わすようになります。その頃の新日本の空気はどうでしたか?


棚橋選手 大量離脱は2000年の橋本真也さんから2006年の藤波さんまでの長期間、続くんですよね。長州さん、大谷晋二郎さん、武藤敬司さん、小島聡さん、佐々木健介さんとか多くの選手が新日本を辞めていきました。でも僕はラッキーと思ってましたよ。これであっという間にトップに行けると!


木村 そこはポジティブに捉えてたんですね。


棚橋選手 僕はIWGP・U-30無差別級王者だった2005年かな。新日本が一番厳しかった時代です。試合会場のドレッシングルームで、「誰かスーパースターが現れてプロレス界が盛り上がらないかな」と漠然と考えていて、先輩や後輩も含めて他のレスラーの顔ぶれを見た時に「俺かぁ!」と思って、そこで覚悟が決まりました。「誰かがやるのではなく自分がやればいいじゃないか」「どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ」と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が「ファー」と僕を包み込むように降りてきた感覚があって…。今思うと我ながら、一番険しい道を選びましたね。


──棚橋選手は団体が激動に揺れていた1999年に新日本に入門されました。2000年代前半になると、オーナーである猪木さんの現場介入というのが顕著に目立つようになります。棚橋選手絡みでいいますと、2004年11月19日大阪ドーム大会で当初、ファン投票で棚橋弘至VS中邑真輔の初シングルマッチ(IWGP・U-30無差別選手権試合)が決まったのですが、直前に猪木さんの強権発動でカード変更。棚橋選手は天山広吉選手とのタッグでファイティングオペラ『ハッスル』代表チームの小川直也&川田利明と対戦しました。カード変更の一件も含めて、この時期の猪木さんの介入についてどのように思われてましたか?


棚橋選手 ウンザリしてました。でも、もし当初のカードをそのままやってもたぶん盛り上がらなかったような気がします。猪木さんはなんやかんやで新日本に気をかけてくれていて、意地悪とかじゃなくて、「これが最善策」だと思ってそういう行動を取られたのかと。今、振り返るとそう思います。




「棚橋選手の本音を伺って、猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じた」(木村さん)




──新日本2001年4月7日・大阪ドーム大会。テレビ朝日は当日2時間ゴールデンタイム生中継が組まれていたのですが、新日本からなかなかカード発表がなくて、中継の目玉も提示してこなかったんです。それに対して業を煮やしたテレビ朝日サイドが猪木さんに「中継の目玉を作ってほしい」と直談判したそうです。


棚橋選手 そうだったんですね。


──猪木さんは、テレビ朝日からの依頼を受けて、新日本VS猪木軍という図式で、藤田和之選手に初代IWGPヘビー級王座を持参させて、当時のIWGP王者スコット・ノートンと「IWGP王座統一戦」を組ませたり、犬猿の仲である橋本真也さんと佐々木健介さんの一騎打ちを実現させたり、小川直也さんと長州力さんが一触即発の状況になったり、試合前のセレモニーでなぜか天井に「魂」と書かれた巨大な球体が浮かび中で猪木さんが「闘う魂をこのリングに呼び起こせ!」と叫んだりと、結果的には盛り沢山の話題を提供したとも言われています。


棚橋選手 猪木さんは本当にアイデアマンですよ。普通の人では思いつかない切り口でやってくるので、猪木さんを理解することは並大抵のことじゃないんです。そんな猪木さんを理解する前にシャッターを閉めたのが長州さんだったと思います。


木村さん 今の話を聞いていて、新日イズムって何なのだろうなと…。要するに新日イズムは「どんな手を使ってでも客を入れてやろうじゃないか」ということなんですよ。そして、猪木イズムとは、「“できない”“やらない”は絶対に言わない」こと。


棚橋選手 その意味でいえば、新日イズムや猪木イズムは僕にもありましたね。プロレスラーとしてつねに会場を絶対に満員にしてやるという気持ちはあります。



木村さん ええ、今日、初めて棚橋選手の本音を伺って、なるほど猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じました。


棚橋選手 僕はプロレスと出逢うまで「このまま普通の生活をしながら人生を終えるのかな」と考えていましたが、高校3年生の時にプロレスが好きになって、「こんなに熱中できるものがあるのか」「プロレスがあるから生きていける」と思うくらい人生が1000倍、楽しくなったんです。逆に「こんな面白いジャンルを知らずにここまで生きていたのか」と後悔の念もありました。プロレスを好きになるというのは確率の問題で、「全国1000万人のプロレスファンの皆さん」と古舘伊知郎さんが実況で言っていた頃は毎週20%の視聴率を取っていましたから1000万人、2000万人がたしかに見ていたんです。今はそこまで多くの皆さんがプロレスと接していないんですけど、1人でも多くの皆さんにプロレスを好きになってもらいたい。そのためには自分たちが自信を持っているプロレスを見せるしかない。だからプロモーションにも力を入れたし、「もっと有名になりたい。有名になればもっとプロレスが世間に届く」とずっと思ってました。



ユークス時代の新日本を振り返る

「今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきました」(棚橋選手)




──それは2005年からのユークス体制になってから棚橋選手がやってきたことに繋がりますね。改めて、この時代について振り返っていただいてもよろしいですか。


棚橋選手 正直に言うと、現場の足並みはまだ揃いきってなかったです。僕がIWGP王者になって、メインイベント後にマイクで興行を締めることが多くてまだ『新日本プロレスワールド』がなかった時代に全国各地の会場で「有名になります!」と宣言してました。「僕が道を歩けないくらい有名になれば、プロレス会場が絶対に満員になるんだ」と…。なんか今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきましたよ。どうやったら有名になるのかずっと妄想してました。例えば、「散歩で通りかかった時に、川で子供が溺れているのを助ければすごく有名になるんじゃないのか」とか。


木村さん たしか猪木さんも代官山のマンションに住んでいた頃、火事から隣人を助けて表彰されたことがあったという記憶があります。でも、猪木さんの場合、いいことをやってもあんまり表に出なかった(笑)。


棚橋選手 猪木さんは奥ゆかしい方で、自分からそういうことを発信するようなことはしませんでしたね。


──では棚橋選手の中で新日本のエースとして試合からプロモーションに至るまで奮闘する中で「これはいけるな!」と思ったのはいつ頃ですか?


棚橋選手 大きく変わったのは2012年のオカダ・カズチカの凱旋ですね。あれから新日本のビジネスがワンランク上がりました。僕は2012年1月4日東京ドーム大会で鈴木みのるさんを破ってIWGP王座V11を達成したのですが、あの時点ではその先の展望があまり見えてなくて、その中で凱旋して僕を破って24歳でIWGP王座を奪取して、一躍スターとなったオカダの存在は大きかったです。農産物で例えると、荒れ地を僕が耕して、種をまいて、芽が出始めた時にオカダという大雨が降って、作物が育って、オカダから王座を取り返すことで僕という太陽によって作物がさらに大きく実った。雨と太陽が繰り返されたことで、一番作物が育ちやすい環境が何年も続いたわけですよ。


──棚橋選手にとってもオカダ選手の存在は特別だったんですね。


棚橋選手 僕と中邑真輔のライバル関係がひと段落した時に、オカダが現れて、4年間は棚橋VSオカダの物語で新日本を引っ張っていったので、あんな敵対関係はなかなかないですよ。だからオカダには「同じ時代に生まれてくれてありがとう」と言いたいですね。


──オカダ選手にとって棚橋選手というライバルがいたから、経験値が上がって自身の成長スピードが加速したという感じがします。


棚橋選手 「レインメーカー」を生んだのは僕かも(笑)。


──ハハハ(笑)。ちなみにこれはお聞きしたかったんですけど、2012年に新日本の親会社がブシロードに変わりました。ユークス体制の時は猪木さんというフレーズがどこかタブー視されていたように思います。ブシロード体制になってからちょくちょく猪木さんの名前が出るようになりました。こちらについてどのように感じてましたか?


棚橋選手 そこは全然意識はしてなかったんですけど、猪木さんに対するアレルギーが時間とともに薄れていった結果なんじゃないですかね。新日本の土台がしっかりしてきて、ビジネスとして盛り上がっていった状況で、猪木さんの名前を出しても揺るがないという自信があったのかもしれません。




「『できない・やれないを絶対に言わない』という猪木イズムに則ると、一度でも『できない』と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう」(木村さん)




──話は少しさかのぼりますが、2006年に猪木事務所が突然閉鎖します。木村さんは猪木事務所の外部ブレーンとして協力されていた時期があり、棚橋選手が新日本で浮上していく頃の新日本と猪木事務所の関係を見ていたと思います。木村さんは新日本と猪木事務所の関係についてどのように捉えてましたか?


木村さん あまりいい関係には見えませんでした。猪木さんではなく、猪木事務所が新日本をひとつ下に見ている感じはありました。これは猪木さんのやり方なんでしょうけど、猪木事務所以外にも猪木さんの側近の方々はそれぞれグループを形成していて、そこで猪木さんをめぐる綱引きがつねに繰り広げられていたんです。結果的には本家本元だと思っていた猪木事務所がある日突然また別のグループに取って代わられて、いきなり解散になってしまった。私は2005年の年末に猪木さんのバングラデシュ視察に同行し、記録ビデオを編集して2006年の正月明けに猪木事務所に届けに行ったのですが、すでに事務所は閉鎖されても抜けの空。青天の霹靂とはあのことでした。


棚橋選手 そうだったんですか…。


木村さん よくよく考えると、どんな言葉かは思い出せないんですが、空港で猪木さんから別れ際にちらっと何かを匂わせるようなことを言われたんです。後から考えるとそれが事務所の閉鎖を示唆してたんですよ。後から解雇された猪木事務所のスタッフから「全く寝耳に水だった。気配もなかった」と聞きました。猪木事務所を解散させるために、極秘裏にさまざまな権利関係の移行手続きが行われていたみたいで、その時、僕はある意味、猪木さんの神ではない悪魔の一面を見た気がしました。猪木さんはこんなふうに自分に群がる人たちをコントロールしてきたのかと。そうやって自分がより活動しやすい環境に乗り換えていく…。これもまた猪木さんの歴史の非情な一面なんですよ。




──言葉がでないですね…。


木村さん 日本プロレスから東京プロレス、また日本プロレスに復帰して、新日本プロレスを旗揚げするという歩みの中で、猪木さんの側近の方々は全部入れ替わっているでしょう。UFOからIGFの時もそう。ずっと猪木さんのそばにいた人はいないんです。猪木さんはプロレス界においては絶対に自分の周りの人間関係を固定しないということを意識的に徹底してやっていたような気がします。


棚橋選手 人間関係が固まると、多分、アイデアも枯渇するからじゃないですか。


木村さん 先ほど私が言った「できない・やれないを絶対に言わない」という猪木イズムに則ると、一度でも「できない」と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう。そのときに「やります」「俺ならできる」と言った人間がその後も猪木さんの周りについていくというサイクルの繰り返しだったような気がします。


棚橋選手 猪木さんは生い立ちや人間関係が複雑だったこともあって人を見抜く目がものすごく鋭かったんじゃないですか。


木村さん 肩書とか人気者かどうかだとかでは人を評価しない。自分がやろうとしていることに対して「乗れるのか、乗れないのか」「やる気があるのか、ないのか」それだけが判断の基準だったと思います。


棚橋選手 猪木さんは面白いことが好きじゃないですか。「面白いのか、面白くないか」というシンプルな判断基準が猪木さんにはあったんでしょうね。僕は2002年にあの事件があって、相当落ち込んでもうプロレスを辞めるしかないと思った時に、猪木さんにPRIDE(2002年12月23日・マリンメッセ福岡大会)に呼ばれて、初めて人前に出ました。猪木さんがどこかのインタビューで「面白いやつがいるじゃねぇか」と言ってくださって、あれでどれだけ救われたことか…。プロレスという間口の広い土壌がなかったら、僕は多分社会復帰が許されてなかった。あの時、僕は猪木さんにプロレスラーであることを、プロレスを続けることを許してもらえた。なんか「神」に出逢ったような気持ちでした。


──猪木さんには悪魔のような非情な一面もありますが、その一方で人情や心優しい天使のような一面もあって、棚橋選手はこれまでのレスラー人生で猪木さんの両極端な部分を味わったのですね。


棚橋選手 そうですね…。


(プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一前編終了/後編に続く)




後編はこちらです!

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 後編「神の悪戯」 






 


 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。



 

 

 今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。






(画像は本人提供です) 


中井祐樹(なかいゆうき)

1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。


以下もろもろ情報です。

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主宰道場・パラエストラ東京の公式ホームページはこちらです。

パラエストラ東京news(日本語)

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クラス時間割

http://www.paraestra.com/images/class20130215.jpg

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News (English) http://blog.livedoor.jp/para_tyo_e_news/

公式サイト Official Web (日本語 Japanese)

http://www.paraestra.com




中井さんといえば、1990年代のプロ格時代を見届けてきた我々世代にとってはヒーローであり、サムライ。 

修斗ウェルター級王者として無敵の強さを誇り、バーリトゥードジャパン1995で、ジェラルド・ゴルドー、クイレグ・ピットマンという怪物格闘家相手に勝利、決勝でヒクソン・グレイシーに敗れるもゴルドー戦で右目を失明する事故がありながら見事に準優勝。プロレスファン、格闘技ファンから絶賛された彼はまさに「伝説の格闘家」。

その後、右目失明が原因で総合格闘技から引退し、柔術家として復帰を果たし、日本にブラジリアン柔術を普及させた「日本柔術の父」。

彼が創設した柔術道場パラエストラは、本部や支部も含めると青木真也選手、扇久保博正選手、斎藤裕選手、平良達郎選手など、有名格闘家を数多く輩出し、指導者としても高く評価されています。まさに「格闘技界の名伯楽」。

中井さんがいたからこそ、日本格闘技界はここまで発展したといっても過言ではありません。
 
そんな中井さんは格闘技に目覚める前は熱烈なプロレス少年でした。今回は、日本格闘技界の伝説である中井さんのプロレス話をお聞きしたいとインタビューさせていただきました。




是非ご覧ください!







私とプロレス 中井祐樹さんの場合「最終回(第3回) プロレスと格闘技を繋ぐもの」




修斗創始者・佐山聡さんの離脱


──これはどうしても中井さんにお聞きしたかったのですが、1996年のVTJを最後に修斗創始者である佐山聡さんが離脱されました。


中井さん はい。

──本当の真相は不明ですが、一説には修斗のスポンサーとのトラブル、VTJでの日本人選手の敗北による佐山さんの指導力が問われ責任を取った、佐山さんがプロレスのリングに上がったことなど色々な理由があがりました。中井さんはこの佐山さんの修斗離脱についてどのように思われていましたか?

中井さん 私は佐山先生が修斗を離れるようになることに賛成した人間です。それは一生、消えないですよね。

──中井さんは『真説・佐山サトル』(田崎健太/集英社インターナショナル)の中で「あのとき、若気の至りだったのですが、(先生を)外すべきだと頑なになっていました。今でも、とんでもないことをしたと思ってます。だけど後悔はしていない。あのときはそうすべきだと考えていたからです」と語っています。

中井さん ただ、このことに関してはのちに先生から御言葉をいただいています。「今さらかよ」と言われそうですが、改めて感謝しています。


──あと佐山さんが『Gスピリッツ vol.44』(辰巳出版)でのインタビューで、「総合格闘技を創り上げた佐山さんが、その総合格闘技に興味を失った理由は何でしょう? 」という質問に対して、かなり踏み込んだ発言をされています。

中井さん はい。


──「アメリカの総合格闘技で刺青を入れ始めたり、『俺は強いぜ』とスター気取りになる選手が出てきたり、いわゆる興行の姿になってしまった。僕が思い描いていた姿ではないですよね。それだったら、ジャンケンでも同じじゃないかと。ジャンケンポンで勝って、『勝ったぜ!俺は世界一だ!』と言っているのと一緒なんです」「格闘技界は僕を裏切りました。だから、僕は格闘技の雑誌に出ないでしょ?誰が作ってきたんだという恩義をみんな忘れているみたいですから。(中略)もちろん、プロレスは別てすよ。プロレスは裏切らなかったですから」と佐山さんは語っています。    


中井さん なるほど…。



──「プロレスは裏切られなかったけど、格闘技は僕を裏切った」という佐山さんの発言に対して、中井さんはどのように思われますか?


中井さん 複雑な気持ちになりますが、佐山先生のご発言を胸に刻んでまいりたいと思います。業界をより良い方向に向けていきたいと常に思っていますし、佐山先生の功績も語り継ぎたいと考えています。



──ありがとうございます。色々な感情があると思いますが、今現在、佐山さんへの想いをお聞かせください。

中井さん 僕は佐山先生のもとに駆け込まなかったら世には出ていません。それは間違いない。そして、世界の流れを変えたプロレスラーと競技スポーツとしてのMMA(総合格闘技)を創った人が同一人物だということは本当に驚愕としか言えないですよ。


「プロレス最強神話」崩壊について


──中井さんがVTJで大活躍された2年後の1997年10月11日東京ドームで行われた『PRIDE.1』で「平成の格闘王」高田延彦さんがヒクソン・グレイシーと対戦して惜敗。そこから新日本を中心に築いていた新日本を中心に築いていた「プロレス最強神話」が崩壊していきます。PRIDEやK-1などの格闘技が盛り上がりを見せ、総合格闘技のリングに上がったプロレスラーたちがことごとく惨敗していきます。格闘技サイドにいた中井さんは「プロレス最強神話」崩壊技のについてどのように思われていますか?

中井さん  僕は「プロレス最強神話」崩壊のきっかけを作った張本人のひとりだと思っています。プロレスに対する愛情はありましたけど、ちょっと裏切られた気持ちを勝手に思い込んでいたので、MMAファイターとプロレスラーが闘うことで「彼らの化けの皮を剥いでやれ!」という想いがあったことは事実です。

──そのような想いがあったんですね。

中井さん グレイシー柔術の力を借りたとはいえ、リアルファイトのプロがプロレスラーを撃破していくことで「プロレス最強神話」崩壊に手を貸したことは事実です。間接的にプロレスを追い込んでやったという明確な想いがありました。プロレスが格闘技ではなくなって相当な年月が経過していて、リアルファイトだけの世界があるのなら、いくら相手がプロレスラーでも、そのための練習をずっと積んでいる人間が勝つのは当たり前。でも世間はそれを分かっていなかったので、プロレス側からすると残酷な現実を見せるしかなかったんです。

──なるほど。格闘技サイドから見るとその考えは理解できます。

中井さん だけど21世紀になってWWEで世界王者になったブロック・レスナーがUFC世界王者になった。レスナーの活躍を見ると、「強いやつは何をやっても強い」という結輪になるんですよ。WWEとUFCで頂点を取ったレスラーによって「プロレス最強神話」は復権したし、保たれたのかなと思います。格闘技の選手がWWEにいっても頂点なんて取れないですよ。

──今思うと、プロレス側からすると「プロレス最強神話」崩壊によって現実を知ることができました。以前、天龍源一郎さんが多くのプロレスラーがMMAで敗退したことについて「餅は餅屋」という表現をしています。もしプロレスラーがMMAをやるならきちんと時間をとって研究して対策を練らないといけないという意味でこの言葉を使われたと思います。


中井さん さすが、天龍さんですね!


格闘技の選手のプロレス参戦について


──さきほど少しお話があがりましたが、2000年代になると格闘技の選手が次々とプロレスのリングに上がって、プロレスルールで闘ってましたよね。こちらについてどのように思われてましたか?

中井さん  格闘技が強ければ、プロレスもちょっと覚えればできるんだろうという勘違いがあるのかなと感じてました。だから僕は格闘家のプロレス参戦はあんまり好きじゃなかったです。格闘技での実績や名声を活かしてプロレスラーになったとしても、プロレスの技術は本当に難しくて、きっと覚えなきゃいけないことがすごく多いはずなので、ちゃんと基本から学ばないとプロレスラーとしては成功しにくいなと思ってます。


──おっしゃる通りだと思います。

中井さん  でも強さの象徴として格闘技の選手を活かすという考えはプロレス界の中にもあるかもしれませんので、一概に否定はしません。今もプロレスにトライしている格闘技の選手がいます。僕はプロレスファン歴が長いので、彼らがプロレスラーとして成功したいのなら、ちゃんとプロレスに取り組んでお客さんを沸かせる選手になってもらいたいですね。




──近年、格闘技の選手がプロレスをやっている方がいます。プロレス向きや不向きというのはありますが、元UFCファイターのトム・ローラーとマット・リドルのような成功している選手はきちんとプロレスに取り組んでる方が多いです。ローラーは新日本プロレスで初代STRONG無差別級王者になり、リドルはWWEでUS王者になりました。だからちゃんと努力を積み重ねている方は格闘技出身でもプロレスラーとして成功している傾向があります。

中井さん そうなんですね。僕は格闘技の世界からプロレスにチャレンジして頑張っている選手は応援したいなと思いますよ。 


桜庭和志はММAの力道山である


──「プロレス最強神話崩壊」の最中に1997年12月21日横浜アリーナで開催された「UFC JAPAN」のヘビー級トーナメントで優勝したのが、桜庭和志選手。日本人初のUFCトーナメント王者となった桜庭選手は試合後に「プロレスラーは本当は強いんです」という格闘技史上に残る名言を残しました。そこから桜庭選手PRIDEでグレイシー一族を倒すなどの活躍が国内外に格闘技ムーブメントを起こしてきました。「日本総合格闘技の英雄」「PRIDEのエース」桜庭選手について、中井さんはどのように思われていますか? 

中井さん 総合格闘技をポピュラーにした存在、本当に凄い方だと思います。「MMAの力道山」、でしょうね。


──「ММAの力道山」は絶妙な表現です!確かにその通りです!


中井さん ありがとうございます!今は桜庭さんとはQUINTET(クインテット)というグラップリングのチーム戦にして抜き試合の大会を考案者と審判委員長という関係で盛り立てていっています。これからも力を合わせていきますよ。


CACCとフォークスタイルレスリング


──ありがとうございます。中井さんは日本ブラジリアン柔術会長として格闘技の発展に寄与している立場だと思います。格闘技サイドから見て、「このプロレスの技術は実用的だな」と感じているテクニックはありますか?

中井さん やっぱりCACC(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の基本や真髄みたいなものがプロレスで見えてきたのはよかったと思います。UWFはフォールを廃止したサブミッションだけのプロレスになっていくと、そこにピンフォールを認めないとレスリングの全体は見えてこない。サブミッションだけということは、格闘技の世界でいうグラップリングですよね。


──そうですね。

中井さん やっぱりピンフォールという相手をしっかり抑え込んだり、そこから自力で逃れる文化があるCACCやフォークスタイルレスリング(CACCを源流としたアメリカンスタイルのレスリング。カレッジスタイルとも呼ばれ、このスタイルを経験しているアメリカ人レスラーはMMAルールに馴染みやすい傾向にある)手の反応を見て戦略を変えながら勝利に持ち込むことです。そういったレスリングの源流はビル・ロビンソンさんの試合で感じることでき、CACCやフォークスタイルレスリング目線で昔のプロレスを見てみるとまた違ったように見えて勉強になりますよ。


──CACCをバックボーンにしているビル・ロビンソンや近年では鈴木秀樹選手の試合は特にレスリングの真髄が見れる試合が多いですよね。

中井さん その通りです。MMAを読み解くには組み技の技術も寝技だけじゃなくて、実戦的なレスリング技術はどうしても必要なんです。関節技から逃げるにしても、自分からグラウンドから回復してスタンドに戻せるのも含めて、やっぱり全部レスリングの中に答えやヒントがあるということをこの20年でわかってきました。だからCACCはものすごい奥が深くて、今のMMAにおいても有効なんだなと。

──諸説ありますが、プロレスの源流はCACCであるとも言われていますよね。

中井さん 柔道やブラジリアン柔術だけでは見えてこない技術がCACCにはあるんです。似ている技法はどこの格闘技にもあるのですが、それがクリアに見えてきたのはCACCやフォークスタイルレスリングのおかげかなと考えています。


──確か中井さんは以前、フォークスタイルレスリングをレスリング版高専柔道という風に表現されてましたよね。

中井さん  はい。ざっくりいうとオリンピックスタイルのレスリングはフリースタイルとグレコローマンで、オリンピックスタイルよりも古くて伝統的なスタイルがフォークスタイルです。オリンピックになると、ちょっとフォークスタイルの技術は無駄や邪魔になる部分はあります。今のUFCを見たレスリング関係者は「これはレスリングと一緒じゃん」と言うのも無理はなくて、フォークスタイルを身に着けた選手がMMAに参戦して結果を出してますし、これからその傾向は続くと思います。日本ではオリンピックスタイルが主流でフォークスタイルはなかなか根付きにくいんのですが、是非フォークスタイルに注目していただいて、この繋ぎの部分を強化する必要があるのかなと思います。


──CACCの技術は今のプロレス界においてももう一度見つめなおす時期に来ているのかなと感じています。見落とされていたりするCACCの技術に、今後のプロレス技術革新のヒントがあるかもしれません。

中井さん プロレスと格闘技が繋がるには柔術だけではちょっとピースが足りないところがあって、CACCが入ることで”コク”がでるわけです。それは相手をどのようにコントロールしてからピンフォールを取るのか。サブミッションだけでは”コク”はでなくて、CACCやフォークスタイルが入ることで鮮明にクリアになるのです。


今のプロレスと格闘技について


──ちなみに今のプロレスや格闘技について中井さんが率直に思うことがあれば教えてください。

中井さん これは個人的な感じていることですが、プロレスと格闘技に対して共通している3つの課題があるんですよ。

──それは知りたいです!


中井さん 一つ目は、今のプロレス界と格闘技界は、まったく知らない人や素人の方の方向に向いていますか?二つ目は、プロレスと格闘技が世の中に存在する意味を考えてみてはいかがでしょうか?三つめは、プロレスや格闘技のルーツをたどることはありますか?

──ものすごく深いです。


中井さん もちろん進化していくことは素晴らしいことです。でも、時にこれらを考えることさえあれば、現状はもっと良くなり続けています。だから「行け行けドンドン!」と思います。


ハードヒット参戦


──ありがとうございます。中井さんは2019年12月30日東京・竹芝ニューピアホールで行われたUWFの系譜を継ぐ興行であるハードヒットに参戦されて、鈴木みのる選手とタッグを組んで、藤原喜明選手と近藤有己選手とグラップリングルールのエキシビションマッチで対戦されました。この試合について語っていただいてもよろしいですか?

中井さん これはグラップリングルールのエキシビションマッチなのですが、和田京平さんがレフェリーなので「プロレス風の味付けはあるかも」と言われて闘いました。15分時間切れで終わってから、パートナーが入れ替わった延長戦になったんです。(プロレスラー側の藤原&鈴木vs格闘技側の中井&近藤という5分延長戦となり、引き分けで終わる)

──確かにハードヒットらしい展開ですね!


中井さん 藤原さん、鈴木さん、近藤さんもレスリングのサブミッションを熟知している皆さんとグラップリングできたので、とても味わい深い時間を体感できました。僕は完全にいつも使っているリアルな関節技で取りに行くスタイルで、途中で関節技が極めた時に和田京平レフェリーが鈴木さんとやり取りしていて見ていないとか(笑)藤原さんは「ここから先はやらせねぇよ」という極めるところまで持っていかせない強さがありましたよ。70歳でこの強さだから若い時はどれだけ強かったんでしょうね。あと鈴木さんにはマウントを取ったけど、パッと外されたし、そこはベテランという言葉では片づけられない強さと技術の確かさが藤原さんと鈴木さんにはありました。


中井さんが語る今、注目のプロレスラーとMMAファイター

──このブログ記事の多くはプロレスファンがご覧になられると思われてます。中井さんが今の総合格闘技選手の中で、プロレスファンにも注目してほしい選手がいますか?その選手の凄さと魅力について教えてください。


中井さん これはどの選手にも良いところがありますので皆に注目してほしい、というのが本音です。

──確かに総合格闘技の世界には素晴らしい選手がたくさんいますよね!


中井さん RIZINあたりはある意味メジャーなプロレス団体並みの規模じゃないかと思いますので自然と注目されているのかなと感じます。その意味であえて言うと平良達郎をはじめUFCや海外のプロモーションに挑む選手に注目してもらえたらと思いますね。

──平良選手はまさに中井さんが言われているUFCという世界最高峰のバトルフィールドで頂点を立てる可能性が高い逸材ですね!

中井さん そうなんです!今のMMAファイターの、最初からMMAをMMAとして学んだ選手の完成度、そしてそんな彼らの競い合いや戦術・技術やスピリットを感じてほしいですね。


──ちなみに今のプロレス界で中井さんが気になる選手はいますか?

中井さん WWEの中邑真輔選手、かなぁ。WWE女子はアスカ選手やイヨ・スカイ選手がすでに頂点に立ってますが現地で世界の頂点に立てるか、ひそかに注目しています。


──中邑選手も中井さんがプロレス少年時代から抱いていた日本人初として海外で世界王者になるという理想を体現しているプロレスラーです。しかも総合格闘技の経験もあり、強さへの追求心も高いですよね。

中井さん はい。中邑選手はアマチュア修斗に出ていたころ私がレフェリーを務めたことがありましたし、ブラジリアン柔術も嗜んでおられたしか茶帯なはず。親近感もあります。あ、やっぱ僕はプロレスを競技のように結果で追い求めているんですね! いかんいかん、でもあくまで個人の感想です(笑)。


中井さんが選ぶプロレス名勝負


──ハハハ(笑)ではここで中井さんには好きなプロレス名勝負を3試合選んでいただいてもよろしいですか?

中井さん 僕が選んだ試合は勝敗がついていないものが多いかも(笑)。まず一番はジャンボ鶴田VSキム・ドク(全日本/1978年9月13日・愛知県体育館)です。個人的に日本人同士の至高の一戦であり、燦然と輝く我が心のベストバウトです。

──素晴らしいです。では2試合目を教えてください。

中井さん ジャンボ鶴田VSラッシャー木村(全日本/1976年3月28日・蔵前国技館)ですね。全日本と国際プロレスの対抗戦で、結果は両者ピンフォールという痛み分けで終わりました。鶴田さんが他団体のエースと対戦するというヒリヒリ感がすごくあって、どっちもリスキーじゃないですか。それが興味深くて試合を見ていて興奮しましたね。

──ちなみに中井さんは同郷の大先輩であるラッシャー木村さんについてどのように思われてましたか?

中井さん 木村さんは大好きなレスラー。朴訥な力道山みたいですよね。サンボをされていて結構強かったという話も聞きますけど、その強さをあまり表では出さない。あと木村さんを悪く言う人を聞いたことがなくて、本当に男の中の男ですよ。鶴田さんと対戦していても団体のエースとして意地を見せていてカッコいい。


──実は1992年4月18日東京・後楽園ホール大会で当時50歳を過ぎた木村さんが、全日本のエース鶴田さんと急遽タッグを組んだことがあったんです。超世代軍と鶴田軍のサバイバルタッグマッチ(タッグ版勝ち抜き戦)で元々鶴田軍として出場予定だった田上明さんが左足の怪我で欠場して、代打として木村さんが出まして、大将チームとして鶴田&木村が実現して、副将チームの三沢光春&小橋健太(現・建太)と対戦しました。木村さんはクロスチョップとかブルドッキング・ヘッドロックで立ち向かって、最後は三沢さんを木村さんがコーナーで釘付けさせている間に鶴田さんが小橋さんをバックドロップでピンフォール勝ちを奪ったんです。


中井さん おおお!凄いですね、木村さん!

──大将戦は鶴田&木村VS三沢&川田(利明)になって、川田さんが木村さんにストレッチプラムを極めてギブアップ勝ちを取ったのですが、木村さんの意地が見えた素晴らしい試合でした。普段は前座のお笑いプロレスに講じていても、いざという時はやるのが木村さんなんですよね。

中井さん やっぱり木村さんは素晴らしい!!ちゃんと受けきるし、魅せますよね。全日本との対抗戦で見たのがほとんどですけど、国際プロレスのレスラーは好きですよ。


──ありがとうございます。では3試合目ですね。

中井さん やっぱりジャイアント馬場&ジャンボ鶴田VSファンクス(全日本/1978年12月15日・札幌中島体育センター ’78公式戦)かな。馬場&鶴田が45分時間切れで1978年の世界最強タッグ決定リーグ戦を優勝した試合。これは猪木さんにはできないだろうと(笑)

──ハハハ(笑)

中井さん この試合は元NWA世界王者が3人いて、誰も傷をつかずに馬場&鶴田が優勝するドラマが本当に美しい。とにかくこの試合の全部の攻防が大好きでした。


今後について

──ありがとうございます。では中井さんの今後についてお聞かせください。

中井さん これからも変わらずにMMA、柔術、グラップリングを中心に格闘技界をかき回していきたいです。自分は指導者なので、色々なジャンルや年齢層の人たちを教えて、自分自身も練習していきます。大学の柔道部員、MMAファイター、主婦や子供にも教えてますし、生涯一指導者でありたいと思います。あと試合に関してはやる意義があれば考えてみたいです。基本的には現場に立ち続けて教鞭を取りつつ、身体を張って動い続けて人に教えるという生活を125歳までやりますよ!今、53歳なのでまだ70年先の話です。

──素晴らしいです!70年先のプロレスや格闘技はどのようになっているのか想像ができませんが、中井さんがその未来においてもプロレスや格闘技で重要な鍵を握る人物になっているのかもしれませんね。


中井さん 頑張りますよ!


あなたにとってプロレスとは?


──では最後の質問です。中井さんにとってプロレスとは何ですか?

中井さん プロレスかぁ…それは僕にとって人生だと思います。プロレスという芸術の中に人と人が集まってどういったものを作るとか、会社みたいなこともあるし、あと1人1人の生き方によって、試合の意味も変わってくるし、そういう意味では、プロレスと格闘技は違うと考えてましたが、大枠はやっぱり、格闘技も色々なことの全部がプロレスには含んでいている。だから…回り回って思考を巡らせていく中で、プロレスには敵わないなというのが思うところですね。

──プロレスに対して紆余曲折の感情と想いがあるからこそ出てくる言葉ですね。

中井さん これは敬意をもって言わせていただきます。僕はプロレスをやったことはない門外漢なので、プロレスの技術は知らないと断言します。ただカール・ゴッチさんやビル・ロビンソンさんは僕らが知らなかった技術を持っていて畏敬の念が凄くあります。


──中井さんはプロレスを時には強く愛して、時には強く憎むという対極的な想いを抱きながら、プロレスを意識して歩まれてきた格闘人生だったのかなとインタビューをさせていただき、そのような印象を感じました。


中井さん 人が生涯を通じて強くなったり、強さを保つには絶対プロレス的な要素が必要になってくると思うんです。技を魅せたり、受けたりすることもそうだし、自分がピンチ寸前で逃れる技術も全部含まれてるし、そういった点では、プロレスはライフそのものなんじゃないかなと…。

──これでインタビューは以上となります。中井さん、長時間の取材を受けていただき本当にありがとうございました。今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます。

中井さん こちらこそありがとうございました!

(「私とプロレス 中井祐樹さんの場合」完/第3回終了)










 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。



 

 

 今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。






(画像は本人提供です) 


中井祐樹(なかいゆうき)

1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。


以下もろもろ情報です。

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公式サイト Official Web (日本語 Japanese)

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中井さんといえば、1990年代のプロ格時代を見届けてきた我々世代にとってはヒーローであり、サムライ。 

修斗ウェルター級王者として無敵の強さを誇り、バーリトゥードジャパン1995で、ジェラルド・ゴルドー、クイレグ・ピットマンという怪物格闘家相手に勝利、決勝でヒクソン・グレイシーに敗れるもゴルドー戦で右目を失明する事故がありながら見事に準優勝。プロレスファン、格闘技ファンから絶賛された彼はまさに「伝説の格闘家」。

その後、右目失明が原因で総合格闘技から引退し、柔術家として復帰を果たし、日本にブラジリアン柔術を普及させた「日本柔術の父」。

彼が創設した柔術道場パラエストラは、本部や支部も含めると青木真也選手、扇久保博正選手、斎藤裕選手、平良達郎選手など、有名格闘家を数多く輩出し、指導者としても高く評価されています。まさに「格闘技界の名伯楽」。

中井さんがいたからこそ、日本格闘技界はここまで発展したといっても過言ではありません。
 
そんな中井さんは格闘技に目覚める前は熱烈なプロレス少年でした。今回は、日本格闘技界の伝説である中井さんのプロレス話をお聞きしたいとインタビューさせていただきました。




是非ご覧ください!





私とプロレス 中井祐樹さんの場合「第2回 愛と憎悪の果てにシューターとなったプロレス少年」




 中学時代に熱中した「疑似UWF」


──私のプロレス仲間である漫画家のPEN D.A.F(ペンダフ)さんから聞いたのですが、『真夜中のハーリー&レイス』(ラジオ日本)にゲスト出演された中井さんが学生時代に友達とプロレス興行を全試合、ガチンコでやって、みんな疲弊しまくって、興行の大変さを知ったというエピソードが語ったとのことですが、これは本当ですか?

中井さん 本当です(笑)。これは中学生の頃なので、UWFの時代です。僕を含めて5人くらいで、1人余って全身の試合が組めないということがあったりするけど、色々な組み合わせを考えてシリーズをやってましたね(笑)。東京ではきっとこんなことが行われているかもしれないと、クルック・ヘッドシザースや三角絞めとか今までのプロレスでは見られなかったサブミッションに重点を置いたプロレスが「新時代のプロレス」に見えたんですよ。週刊ゴングを見て技を学んだり、そこに昔のクラシカルなプロレスやメキシコのジャベ(関節技)も勉強して、UWFとか少し違う独自路線を求めたことがありました。

──おおお!まだプロレスで行われていない境地を新たに開拓をされていったのですね。

中井さん 今はまだあまり知られていない格闘技の中からヒントを得ようとしてオリジナル技を研究したり。だから中学生の時は「疑似UWF」をやってました(笑)。


──ハハハ(笑)。「疑似UWF」ですか!

中井さん 僕はサッカー部だったので、サッカーのすね当てにウレタンを入れて、自作のレガースを作って相手に蹴ると、1~2分くらいで簡単に勝っちゃうんですよ(笑)。これを25分とか闘う東京のプロレスラーは凄いなと。でも僕らは25分の熱戦をやりたいから、極めたりするのを引き延ばしたりして、なんとか「25分50秒、変形裸絞めで中井が勝利」という感じで、プロレス熱戦譜のような感じでノートに書いたりしてました。


脳内では世界中のタイトルを獲得して最強のプロレスラーになろうと考えていた


──中井さんは実戦でやられてますけど、これを脳内で空想マッチメイクをやる人もいますからね(笑)。

中井さん ハハハ(笑)。僕は中学生の時はバスとか使わずに歩いて登校と下校をしていたので、その歩いている間に「海外のどこに遠征しようか」「どこに武者修行すればいいのか」とか脳内に描いて、世界中のタイトルを獲得して最強のプロレスラーになろうと思ってました。

──素晴らしいです!ちなみに脳内では武者修行先はどこを考えていましたか?

中井さん ヨーロッパかアメリカを考えてました。なんかヨーロッパで修行した方がレスリングがうまくなるのかなというイメージはありました。そんなことを考える時間が当時の僕にはあったんですよ。

──ものすごく有意義な時間を過ごされたんですね。プロレス脳を鍛えるのは脳内でプロレスについて考えて空想することは必要な儀式だと思います。

中井さん そうですよね。



──今の時代は、空想していたことがすぐに現実化してしまうんですよ。


中井さん はい。今は映像で全部見れちゃうので、自分の中で咀嚼する時間がないんですよ。


──咀嚼する前に、料理が出されますからね。

中井さん ハハハ(笑)。色々なことを妄想したり、考えたりする時間がたくさんあったので、田舎者でよかったのかもしれません。

──プロレス脳を学生時代に養ったからこそ、後々のプロとしての行動に活きてきたりしますよね。

中井さん そうなんですよ。僕は『ゴング』、『プロレス』、『デラックスプロレス』も全部購読していて、地元の浜益村の書店で取り寄せてました。だからプロレス発売日が待ち遠しくて、「『ゴング』が入りました」という連絡があった日にはたまらなかったですよ(笑)。プロレス雑誌は隅から隅まで読んでました。色々な世界観や言葉もプロレス雑誌から学んで、プロレス的考え方を培ったのでこれは一生、抜けきれないですね(笑)。

──プロレス雑誌で、伏魔殿や刹那という単語や四字熟語を覚えたりとか(笑)。


中井さん ハハハ(笑)。我々の教科書ですよ、プロレス雑誌は。


中井さんがプロレスラーにならなかった理由



──ありがとうございます!元々、NWA世界王者になりたかった中井さんはプロレスラーにはならず、レスリングと高専柔道で強さを磨き、最終的に総合格闘技・修斗を目指された理由についてお聞かせください。

中井さん プロレスラーになろうと思ったときになぜか僕は大好きな全日本ではなく、新日本でデビューしたいと思ったんですよ。新日本は実力主義で練習もきつそうですし、強くなるだろうなと。感覚的にプロレスラーになるなら新日本を選んだのかもしれません。

──そうだったんですね。

中井さん UWFが生まれてからはこの団体でプロレスラーになろうと思ってました。調べると新日本には入門テストの条件として身長制限(180cm以上)があったんですけど、UWFには身長制限がなかったんです。僕は身長が大きくなかったので、「これはUWFしかない」と思って、そこから自分でプロレス団体を作って、「擬似UWF」をやってました。


新日本UWFも違う、プロレスを愛した分、憎しみも深くなっていく…。



──ちなみに中井さんの人生を変えたUWFとはどのような存在でしたか?

中井さん その時点での現状のプロレスの原点回帰をすることによってリアルファイトとして世間に胸を張って語れるプロレスでした。「あくまでその時点」の話ですが、それで中学を出たらすぐUWFに入ってプロレスラーになろうと考えたんです。進路相談でもその旨を伝えたんですけど、「ちょっと待て」という話になりレスリング部のあって、先生方が納得する進学校で高校生活を送ることになったんです。


──高校に入って、将来プロレスラーになる準備の一環としてレスリング部に入ったということですね。

中井さん はい。UWFでプロレスラーになるためにはレスリングでもっと強くなろうと。UWFが出現すると、新日本や猪木さんは視界に入らなくなるのですがレスリングに挫折して、北海道大学に進学後に柔道部(寝技中心の高専柔道の流れを汲む七帝柔道)に入るんです。でも大学では学問上の迷いが出てきた時に、「総合格闘技・修斗(シューティング)がプロ化」というニュースを知ってから、修斗に入ってプロ格闘家になろうと決意しました。元々修斗が競技化したときはアマチュアでやっていくと表明していたんですけど、プロ化するということで「これで飯が食える!」と思ったんですよ。

──修斗にたどり着くまで結構、紆余曲折があるんですね。

中井さん 新日本を脱皮してUWFに憧れたものの柔道部員になると、「UWFも真剣勝負じゃないぞ。違うよな」という気持ちが強くなったんです。ガチンコのプロレスをやりたかったのかもしれない。でもそれは叶わない。ならば完全なリアルファイトである修斗に至ったということですね。今ではプロレスに対してはリスペクトの気持ちが強いのですが、プロレスを愛した分、憎しみも深くなっていきました。若気の至りかもしれませんが、プロレスを信じていた分、UWFでも違ったときの反動が凄くて、心から落胆してましたね。


プロレスと決別して、修斗でプロシューターとなる。今思うと総合格闘技が僕が思い描いたプロレスだった


──プロレスに対して愛憎がご自身に渦巻いていたわけですか。それだけ純粋にプロレスを見ていたという現れですよ。

中井さん UWFに挫折して、プロ修斗を目指してから30年以上経ちますけど、今改めて考えると総合格闘技(MMA)が僕が思い描いていたプロレスだったんだと思います。

──今のお話を聞いて感じたのですが、中井さんは見る側視点とやる側視点をスイッチされていたのかもしれませんね。プロレスを見る側だと全日本で、その想いは変わらないんですか?

中井さん 変わらないです。

──でも自分がプロレスをやる側になるなら、全日本じゃなくて新日本やUWFであり、最終的にはどちらからも気持ちが離れて、最終的に修斗でプロシューターとなったのかなと。

中井さん そこは僕という人物を読み解く鍵かもしれませんね。

──プロレスラーの成り立ちとして、ファン時代に好きだったものを追いかける人もいれば、見る側としてはこの団体を応援していたけど、実際にプロレスラーになろうと思ったのは別の団体とか、色々な形があると思いますので、そのお気持ちはよくわかりますよ。

中井さん ありがとうございます。それで大学を中退してすべてを捨てて上京して修斗に入ったのですが、プロ格闘家になってもなかなか生活はできませんでした。


修斗が手掛ける壮大な実験に参加して、色々なものをひっくり返して革命を起こしてやろうと思っていた


──新日本にはヘビー級とジュニアヘビー級、UWFに至っては階級がありませんでした。修斗は階級制なので、より体格とか関係なく自分の強さを証明することができますよね。

中井さん その通りです。でも思ったより現実は厳しかったです。組み技はやってましたけど、打撃は初体験だったので、「これは難しいな」と感じてました。




──具体的にどの部分が大変でしたか?

中井さん やっぱり打撃の筋肉と組み技の筋肉は全然違うので、総合格闘技の場合はそれを同時にやっていかないといけないわけですよ。総合格闘技はいくつかの違うスポーツが一緒になったジャンルだと思うんです。打撃と組み技では疲れ方や筋肉の使い方や作り方も違っていて、そこに独自の技術がある。総合格闘技をマスターするにはあまりにも技術が膨大すぎて身につくのかなと感じてました。

──総合格闘技(MMA)はトライアスロンに近いですよね。

中井さん そうですよね。総合格闘技は難しいなと思っていた一方で、「このスポーツは出来立てだよな。ならば先駆者になるために絶対にやり遂げないといけない」という感じで修斗に取り組んでました。上京するまでは、脳内で総合格闘技はこんな感じかなと組み立てていたのですが、やり方が全然違う。足関節技も修斗時代に学びました。

 

──総合格闘技(MMA)はトライアスロンに近いですよね。ちなみに中井さん以外に修斗に入られた方はどのような理由だったと思われますか?

中井さん 関東近辺に住んでいた人は色々な情報を得ていて、UWFだけじゃなくて、キックボクシングとかさまざまな格闘技大会を見る機会があるんですよ。僕の周りの皆さんは修斗に入門したという感じの人が多くて、今思うと割と習ったことを試合をやるという感覚だったのかなと。でも僕は違う。新日本、UWFから地続きで繋がっていて、格闘技団体・修斗が手掛ける壮大な実験に参加するために来たという気持ちが強くて、色々なものをひっくり返して、革命を起こしてやろうと思ってましたよ。


猪木さん、ゴッチさん、藤原さんから受け継がれたUWFの分家である修斗の実験で、超最先端にアップデートしたかった


──それは大胆ですね!

中井さん だからUWFが僕の人生を変えて、「違うな」と思って心の中で決別しているんですけど、修斗でやっている実験はUWFの分家だと思っていて、アントニオ猪木さん、カール・ゴッチさん、藤原喜明さんから受け継がれたものがUWFにはきっちり流れていて、僕はそれを超最先端なものにアップデートをするという革命家になりたかったのかもしれません。でもその根底にはプロレスがあって、僕の中でこうあってほしかったプロレスを修斗でやろうと思ってました。僕がやりたかったプロレスが修斗にあったということです。

──おっしゃっていることはよくわかります。ちなみに中井さんは修斗時代にプロレスはご覧になられてましたか?

中井さん テレビで放送されているものを少しは見たかもしれませんけど、修斗になってからほぼほど見れなくなりましたね。U系団体もちらちら目に入ったりしますけど、「やっぱり俺たちと考えているものとは違うな」と。あと修斗とリングス、修斗とパンクラスとかもあんまり関係がよくなかったですから。個人的にはU系団体は打破する対象でしたね。今は前田日明さん、高田延彦さん、鈴木みのるは仕事仲間です!


「新格闘プロレス」木川田潤戦について


──そこから中井さんは新格闘プロレス1994年3月11日・後楽園ホール大会に参戦して、木川田潤さんと対戦して、27秒ヒールホールドで秒殺しています。実際にプロレスのリングに上がったわけですが、この試合について語ってください。

中井さん 修斗のリングでシューターを作ったけど、やってくれる選手が少なくて、これは新格闘プロレスの選手を修斗のルールに出してくれるということで進行していった話だったと思います。当時の修斗を統括していた佐山聡先生も色々と模索されていた時期かなと。木川田さんが85kgぐらいあって、体重差があるから誰も対戦相手に名乗りでなかったので、「やりますよ」と手を挙げました。僕は体重が70kgくらいだったので、85kgまでの選手なら問題なしと考えてました。プロレスラーになりたいと思っていた僕にとっては木川田戦は大きなチャレンジだったのでワクワクしていたのを覚えています。


──以前、私は『まるスポ』さんという別団体で、新格闘プロレスに参戦していた元プロボクサーの新宿鮫(大角比呂詩)さんにインタビューさせていただいたことがあって、中井VS木川田についてお聞きしたことがあって、「修斗はプロレスを利用して恥を掻かせてやろうという感じがひしひしと伝わってきて、なんか違うなと。朝日昇なんかバックヤードで片っぱしからメンチ切りまくってましたから」と語っていたんですよ。




中井さん そうだったんですね。僕の中で木川田戦は「ここでやってやろう!」と気持ちがありましたね。


修斗創始者・佐山聡さんの新日本参戦


──あと新日本プロレス・1994年5月1日福岡ドーム大会で修斗創始者の佐山聡さんが参戦して、獣神サンダー・ライガーさんとエキシビションマッチで対戦されましたよね。佐山さんの新日本参戦についてどのように思われていましたか?

中井さん 修斗の台所事情は分かりませんけど、これは佐山先生にとって新しい営業開拓の一環で、修斗の集客や発展のためにはプロレスファンも取り込まないといけないとお考えになったのかもしれません。だからといって佐山先生がプロレスに戻るわけじゃないし、やむを得ないと思ってました。かつて佐山先生が否定したプロレスのリングにエキシビションマッチながらやっていくというのは佐山先生にしかできない営業手段ですよ。そういう意味では間違ってることではないのですが、当時は複雑に思われている先輩が多かったですよ。

──修斗の皆さんは佐山さんの新日本参戦はあまりいいように思ってなかったんじゃないですか。

中井さん そうですね。僕はドライに捉えてましたけど、先輩方はプロレスを交わることに複雑な感情を抱いていたのかなと思います。

──私個人としては、中井さんが新格闘プロレスで木川田さんと闘ってくれたのは大きくて、後に『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』で活躍された時に、木川田さんに勝った選手だという認識があったんです。そこはありがたくて、もし木川田さんと闘ってなければ中井さんの存在を事前に認識できなかったのかもしれません。

中井さん 今思うと、木川田戦は次の舞台に向けたいいステップになった気がします。

──ちなみに新格闘プロレスは中井さんと木川田さんが闘った1994年に崩壊しています。団体の歴史も1年しかなかったんです。そして、新格闘プロレスの末期の1994年11月に松阪市総合体育館で全試合を「有刺鉄線金網デスマッチ」で行う特別興行を開催しているんです。

中井さん えええ!!そうなんですか!それは知らなかったですけど新格闘プロレス、凄いですね!

中井さんの人生を変えてしまった伝説のVTJ1995

──1995年4月20日・日本武道館で行われた『VALE TUDO JAPAN OPEN 1995』(後のVTJ)にて中井さんはトーナメントに参戦。一回戦でプロレスや格闘技団体で活躍していた「喧嘩屋」ジェラルド・ゴルドー戦で、ゴルドーの反則攻撃により中井さんは右目の視力を失いますが、見事にヒールホールドで一本勝ち。準決勝もアメリカの巨漢プロレスラー「サージャント」クレイグ・ピットマンから腕ひしぎ十字固めで勝利を収めます。そして決勝では「400戦無敗の男」ヒクソン・グレイシーと激闘を繰り広げるも、敗退。70kgの中井さんが100kgオーバーの怪物ファイターを次々と撃破していく様は日本格闘技界における伝説の大活躍として後世に語り継がれていきました。中井さんにとって人生のターニングポイントとなったこの大会について振り返っていただいてよろしいですか。


中井さん VTJに関しては、1994年に第1回が開催されて日本人はトーナメント一回戦で全滅して、「次やるなら中井しかいないだろう」という空気になっていました。僕自身もそのつもりだったし、修斗内でも同様でした。満を持してトーナメントに出て、ヒクソンには決勝戦で敗れて、あと右目の視力を失い、総合格闘技ができなくなりました。あらゆることがあの日を境に変わっていきました。

──トーナメント1回戦のジェラルド・ゴルドー(オランダ/196cm 98kg/空手・サバット)でした。この試合でゴルドーがレフェリーの制止を無視して中井さんに故意のサミングを仕掛けたことによって、中井さんは右目を失明することになりました。この件につて覚えていることがあって、VTJの三年後の『格闘技通信』の中井さんのインタビューで初めて「ゴルドー戦で右目を失明しました」という衝撃のカミングアウトをされました。その中でゴルドーの行為を「こんなことは格闘技の試合では起こらない。あくまでもハプニングで、例えるとテニスの試合でピストルで打ち込まれるほど、本来の格闘技の試合ではあり得ないことです」と語っていたのが印象的でした。

中井さん 当時はマスコミを含めてバーリ・トゥードに対して反対論が根強くて、「こんな野蛮なことを見せられない」という論調でした。右目を失明した直後に事実を発表することは「団体や総合格闘技のためによくないので伏せてほしい」ということだったので、沈黙することにしました。でも周りやマスコミから「次の試合はいつですか?」と聞かれると、うまく誤魔化してかわしてました。総合格闘技ができないかわりに柔術の試合をリングでさせてもらいましたけど、その事情や理由は言えなくて、「色々なことにチャレンジします」とよく答えてました。

──私は70kgという階級で中井さんが最強の格闘家になる世界線が見たかったんですけど、その一方でVTJで刹那のごとく光輝いたから、もう総合格闘技では闘えなかったからこそ、中井さんの名前は伝説になったのかなという複雑な気持ちがありますよ。


中井さん 当時は総合格闘技で中量級ファイターがスーパースターになることなんて考えられなかった時代です。僕らの後の世代は中量級や軽量級でも総合格闘技の日本人スター選手が次々と登場しました。佐藤ルミナ、宇野薫、桜井”マッハ”速人、五味隆典、須藤元気、山本”KID”徳郁、川尻達也、青木真也、北岡悟…。無理やり階級を変えなくても、自分の体格に合った階級のまま世に出ることができる道標に僕はなれたと思っています。だから無茶をしてトーナメントでヘビー級の選手と対戦したことも意義がありましたね。


ジェラルド・ゴルドーへの想い


──それは間違いないですよ。では今の中井さんが感じているジェラルド・ゴルドーへの思いを率直にお聞かせください。

中井さん 僕にとってはプロレスラーでした。プロレスもやっていた、という意味においても。猪木さん、その前は前田さんとの試合やリングスで猛威を振るっていて。彼らプロレスラーとの比較からも負けるわけにはいかなかったですね。ゴルドーさん御本人はフランクで至って良い人なんだと思います。場内のムードも考えて僕をいたぶったのでしょう。


トーナメント一回戦でプリンス・トンガVS中井祐樹が組まれる予定だった!?


──ありがとうございます。トーナメント準決勝のクレイグ・ピットマン(アメリカ/183cm120kg/WCWプロレス・レスリング)戦では約50kgの体重差を克服して腕十字で一本勝ちをされました。ちなみに聞いた話では元々、WCW代表はピットマンじゃなかったそうですが、本当ですか?

中井さん 本当です。確かプリンス・トンガ(キング・ハク/WCWではミング)が参戦する予定でした。トーナメント一回戦でトンガと闘うかもしれないと言われました。トンガが実はガチンコが強いということで、選出されたようです。全日本大好き人間からすると、「チャンピオン・カーニバルに出ていたプリンス・トンガと闘える!」と血が騒ぎました(笑)。恐らくトンガが出れなくなって、代わりのガチ要因がピットマンだったということでしょうね。

──そうだったんですね。プリンス・トンガVS中井祐樹はファンタジー溢れるカードですよ!

中井さん ハハハ(笑)。ピットマンはレスリング世界大会にも出て、アレクサンダー・カレリンと対戦している実力者でしたから。セコンドにブラッド・レイガンズがついていたので、全日本ファンの僕はまた燃えました(笑)。

──全日本好きからするとレイガンズ先生がいるのは燃えますね!

中井さん その通りです!相手が巨漢だったので、焦らずにじっくりやって、持久戦に持ち込んで、相手がバテたら最後に極めれたらいいなと思ってました。これは試合時間は2時間はかかるなと。何時間闘っていいから、終電になってもやるつもりでした(笑)。

──ハハハ(笑)。最高です!

中井さん 夜遅くなって会場の電気が落ちても闘っていたら、一般紙にニュースとして掲載されるじゃないですか。僕は全日本で散々、60分時間切れドローの試合を見てきているので、長時間は上等です。全日本は60分闘うのが基本ですから(笑)。


「スタン・ハンセンは結構ガチンコに強い」幻の不沈艦VTJ参戦計画!?


──素晴らしいです!それにしても、中井さんがプリンス・トンガと対戦していたら、人生がまた違ったかもしれませんね。彼はストリートファイトでプロレス界最強という都市伝説もありましたから。

中井さん そうですよ。このVTJで佐山先生が「スタン・ハンセンは結構ガチンコが強い」と言っていて、会議でVTJトーナメントにハンセンを呼ぼうという話がありましたよ。さすがに来ないと思いますけど(笑)。


──えええ!それは無茶苦茶な話ですね(笑)。


中井さん だから僕はハンセンと闘うのかなと思い描いていた時期がありましたよ(笑)。トンガとかハンセンとはどうやって闘ったのかなぁ…。

──中井さんはゴルドー戦でヒールホールドで、ピットマン戦で腕十字でタップアウトを奪ってますけど、トンガとハンセンはギブアップしなさそうですよ。

中井さん かなり戦略は難航したでしょうね。二人とも腕っぷしだけじゃなくて、スタミナがありそうですから。でもトンガとハンセンと対戦したかったなぁ~。ちなみにピットマンはVTJで僕と、レスリングでカレリンと、WCWではリック・フレアーやスティングと対戦しているので、かなりレアキャラですよ(笑)。

──その頃のWCWにはハルク・ホーガン、ランディ・サベージもいて、ベイダーやアーン・アンダーソン、スティーブ・オースチンもいて、新日本と業務提携している一方で、UWFインターナショナルとも繋がっていたんですよね。

中井さん なんかWCWをもっと知りたくなりましたよ(笑)。


──いい素材や大物レスラーがいるんですけど、あまり活かしきれていない感が最高に面白いんですよ、WCWは(笑)。

中井さん ハハハ(笑)。

──『WCWワールドワイド』という番組のテレビ収録はフロリダ州オーランドにあるユニバーサルスタジオでやっていて、なにをやっても意味不明に盛り上がる観客がいて、もしピットマンに勝った中井さんがまだ総合の現役ファイターだったら、「クレイグ・ピットマンに勝った日本のサムライ」としてWCWに上がっていたかもしれませんよ(笑)。

中井さん ハハハ(笑)。マジか!!それはワクワクしますよ!


──ありがとうございます。ではトーナメント決勝で対戦したのが「400戦無敗の男」ヒクソン・グレイシー(ブラジル/178cm 84kg/グレイシー柔術)。奇跡の決勝進出を果たした中井さんでしたが、ヒクソンのチョークスリーパーで惜敗しました。ここでVTJについて振り返っていただく締めとしてヒクソンへの想いを語ってください。

中井さん  ヒクソンさんこそあの日、15㎏軽い僕には絶対に負けるわけにはいかなかったでしょうね。あの日以来ずっと一貫して僕に対して紳士的に接してくれています。それが嬉しくて…。ヒクソンさんと闘えて良かったです。

(第2回終了)




 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回、のゲストは、「伝説の格闘家」日本ブラジリアン柔術協会会長・中井祐樹さんです。






(画像は本人提供です) 


中井祐樹(なかいゆうき)

1970年8月18日生まれ。北海道浜益郡浜益村(現石狩市浜益区)出身。高校時代にレスリング、北海道大学在学中に高専柔道の流れを汲む七帝柔道を学び、4年時には七帝戦で団体優勝に輝く。その後同大中退後、上京し修斗に入門。93年4月にプロデビュー。94年11月、第3代ウェルター級チャンピオンとなった。95年4月、バーリ・トゥード・ジャパンオープン95に出場。決勝まで進み、ヒクソン・グレイシーに敗れるも準優勝。しかし一回戦のジェラルド・ゴルドー戦で受けたサミングで右目を失明、王座を返上した。その後しばらくは選手活動を停止していたが96年に柔術家として現役に復帰、日本におけるブラジリアン柔術の先駆者となる。98年パンアメリカン柔術選手権茶帯フェザー級優勝などアメリカ・ブラジルで実績を残す。99年7月の世界柔術選手権より黒帯に昇格し、99年10月のブラジル選手権では黒帯フェザー級で銅メダルを獲得した。97年12月、自らの理想を追求するためパラエストラ東京を開設。現在、日本ブラジリアン柔術連盟会長。著書に「中井祐樹の新バイタル柔術」(日貿出版社)や「希望の格闘技」(イースト・プレス)や「本当の強さとは何か」(増田俊也氏との共著、新潮社)、DVDは「中井祐樹メソッド 必修!柔術トレーニング」(BABジャパン)や「中井祐樹 はじめようブラジリアン柔術」(クエスト)他多数。


以下もろもろ情報です。

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中井さんといえば、1990年代のプロ格時代を見届けてきた我々世代にとってはヒーローであり、サムライ。 

修斗ウェルター級王者として無敵の強さを誇り、バーリトゥードジャパン1995で、ジェラルド・ゴルドー、クイレグ・ピットマンという怪物格闘家相手に勝利、決勝でヒクソン・グレイシーに敗れるもゴルドー戦で右目を失明する事故がありながら見事に準優勝。プロレスファン、格闘技ファンから絶賛された彼はまさに「伝説の格闘家」。

その後、右目失明が原因で総合格闘技から引退し、柔術家として復帰を果たし、日本にブラジリアン柔術を普及させた「日本柔術の父」。

彼が創設した柔術道場パラエストラは、本部や支部も含めると青木真也選手、扇久保博正選手、斎藤裕選手、平良達郎選手など、有名格闘家を数多く輩出し、指導者としても高く評価されています。まさに「格闘技界の名伯楽」。

中井さんがいたからこそ、日本格闘技界はここまで発展したといっても過言ではありません。
 
そんな中井さんは格闘技に目覚める前は熱烈なプロレス少年でした。今回は、日本格闘技界の伝説である中井さんのプロレス話をお聞きしたいとインタビューさせていただきました。



是非ご覧ください!


私とプロレス 中井祐樹さんの場合「第1回 僕はずっと馬場・鶴田派です」


 中井さんがプロレスを好きになったきっかけとは?

 
──中井さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。

中井さん よろしくお願いします!

──まずは中井さんがプロレスを好きになったきっかけを教えてください。
 
中井さん 僕のじいちゃんとばあちゃんがプロレスやボクシングをよく見ていて、部屋にいって見たりとか、兄貴もプロレスが大好きでした。一番古い記憶としては、1976年6月26日新日本・日本武道館大会のアントニオ猪木VSモハメド・アリの『格闘技世界一決定戦』で、二人が入場するシーンはかすかに覚えています。

──世紀の一戦じゃないですか。

中井さん 僕は1970年生まれなので当時6歳で、猪木VSアリの試合内容は全然覚えていないんですけど、完全に覚えているのは1977年12月15日全日本・蔵前国技館大会の『世界オープンタッグ選手権大会』ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク)VSアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークです。

──こちらもプロレス史に残る名勝負ですね。

中井さん そうですよね。この試合をクリスマスケーキを食べていて、ケーキを食べるフォークでブッチャーがテリーを刺していたというのは鮮明に覚えています(笑)。

──それは凄惨なクリスマスですね(笑)。ちなみに試合はいかがでしたか?

中井さん 実は最近、G+でブッチャー&シークVSファンクスの試合映像を見直したんですけど、記憶とかなり展開が違ってました。でも、今見ても衝撃ですよ。僕は仮面ライダーやウルトラマンで育った世代で、彼らがヒーローでした。1977年に小学校に入学すると、仮面ライダーとウルトラマンがパッと終わっちゃうんです。二大ヒーローシリーズが終わって、次に始めるのが1979年のアニメ版ウルトラマンやスカイライダーで、そのころになると特撮じゃなくて実物のヒーローに憧れるようになって、それがジャイアント馬場さんとジャンボ鶴田さんなんです。

──そうだったんですね。

中井さん だから趣向もバーチャルからリアリティーに変わったのかなと自己分析してます。これまで歩んできた人生からすると考えられないかもしれませんが、僕はずっと馬場・鶴田派で、全日本プロレスが好きなんですよ。申し訳ないですけど、新日本は苦手でした。これは実家の北海道浜益村(現・北海道石狩市)では電波の関係上、札幌テレビ(日本テレビ系)はよく映るんですよ。でも北海道文化放送(フジテレビ系)と北海道テレビ(テレビ朝日系)の映りが悪くてザラザラしていて見づらい(笑)。だからそういった事情で二局の番組はあまり見たくないんです。


カラフルで鮮明な全日本の方が好きでした


──そういった当時の電波状況もあったのですね。

中井さん 新日本を見るとみんな黒タイツの選手ばかりで、対する全日本はカラフルなコスチューム姿の選手が多いですよね。僕はカラフルで鮮明な全日本の方が好きになっていきました。

──全日本では黒タイツの選手は少なかったですよね。

中井さん その通りです。あとこれも僕の好みの話で申し訳ないのですが、アントニオ猪木さんが得意じゃなくて。「なぜ猪木さんが苦手なのか?」という理由がなかなか説明できないんですよ。猪木さんがそういう人じゃないかもしれませんけど、「俺、強いだろう」という印象があって、強さを追及していたり、シリアス100%な感じが当時はあまり好きじゃなかったかもしれません。

──なるほど。1970年代~1980年代で全日本にハマっていく人はそのような理由が多いですね。猪木さんが嫌になって、全日本ファンになっていくケースはあります。学生時代の三沢光晴さんは新日本について「新日本はなんか作り過ぎているという感じがしてね。俺が一番、うちが一番、とか言うやつって嫌なんですよ」と語ってましたよ。

中井さん まさしくそれですよ!! 僕には馬場さんと鶴田さんが柔らかな雰囲気があって、穏和でいい人に見えたんです。だから馬場・鶴田派で全日本ファンだったんですけど、人生の進路は強さを追い求める新日本方面だった(笑)。

──ハハハ(笑)。その辺は矛盾もあったりするわけですね。

中井さん やっぱり猪木さんの異種格闘技戦を持ち出さないと世間との論争には勝てないんですよ。プロレスの強さに関しては、「猪木さんは試合で柔道や空手にも勝っているぞ」と結果があるので、論争の拠り所にしてました。でも猪木さんが好きか嫌いかは別の話で、そういうアンビバレンツ(正反対な感情を同時に持つ心理状態)な気持ちがずっとありました。


──この論争で馬場さんで分かりやすく説明するのはなかなか難しいんですよね。

中井さん そうなんですよ!後に柳澤健さんの本とか読むと、「馬場・鶴田は決定的に人気がなかった」「全日本は人気なかった」と書いていて、「そうだったかな?」と疑問でした。僕が馬場さんと鶴田さんが好き過ぎるから、全日本が人気がないという感覚がないんですよ。確かにファンクスやマスカラス・ブラザーズを応援している人は多くて、馬場さんと鶴田さんを応援していた人は周りに少なかった気がしますけど、でも僕は馬場さんと鶴田さんが好きだから、それでいいんです。だから疎外感とかないですね。だって馬場さんと鶴田さんが1978年の『世界最強タッグ決定リーグ戦』の最終戦でファンクスと45分時間切れ引き分けで優勝した時も、勝ったわけじゃないのでめっちゃカッコ悪いかもしれない。でも僕はそれでよかった。馬場&鶴田VSファンクスの45分が楽しめたんですよ。馬場さんがテリーにコブラツイストをしながら、ずっと肘や拳でグリグリ脇腹に当てるシーンがすぐく長くて、あれに興奮してました(笑)。


──素晴らしいですね!

中井さん 馬場さんと鶴田さんで展開するすべてのプロレスが好きだったんです。ただ理由はシンプルに馬場さんと鶴田さん、全日本が僕の好みにマッチしたのかなと思います。


初めてのプロレス観戦


──では初めてプロレスを試合会場で観戦したのはいつ頃ですか?

中井さん 1981年7月11日・全日本『サマーアクションシリーズ』北海道江別市民体育館大会です。このシリーズが新日本にいた悪役レスラーのタイガー・ジェット・シンが開幕戦のメインに乱入し急遽数日だけシリーズに参戦して江別大会は参加しなかったんです。しかもシリーズ途中でディック・スレーターが帰国してしまうんですよ。(スレーターは1981年2月に交通事故に遭い、平衡感覚を失う後遺症が出た為、7月22日から欠場し治療の為24日に帰国している)

──「全日本次代の外国人エース候補」スレーターの運命を変えた交通事故でしたね。

中井さん 最終戦(7月30日・後楽園ホール)でスレーターとインタータッグに挑戦する予定だったビル・ロビンソンは、自身のパートナーに天龍源一郎さんを指名してタイトルに挑戦したんですよ。

──ありましたね!

中井さん 天龍さんのブレイクにきっかけになったシリーズの途中で開催されたのが江別大会で、キラー・トーア・カマタ&グレート・マーシャルボーグというコンビも参加してましたね。その大会のメインが鶴田&天龍VSロビンソン&スレーターなんです。結構いいカードでした。プロレス初観戦でロビンソンの試合を見ているし、後にロビンソン本人にお会いした時に「会場でロビンソンの試合を見たことがありますよ」と話したことがありますよ。本当は札幌中島体育センター大会に行きたかったんですけど、日程が合わなくて、江別大会が初観戦になりました。

──実際に会場でプロレスを観戦された感想はいかがでしたか?

中井さん 意外とリングが小さいなと思いました。あと選手が試合前に体育館のフロアにある座るところでくつろいでいて、トランプとかやっていたのは覚えています。意外とリラックスしてましたね。


「世界の巨人」ジャイアント馬場さんの凄さと魅力


──全日本らしい話です。新日本の選手は試合前に練習とかアップする方が多いんですけど(笑)。ではここで中井さんの好きなプロレスラーであるジャイアント馬場さんの凄さと魅力についてお聞かせください。

中井さん 馬場さん、そして全日本は世界と繋がっている感があったんです。NWAと繋がっていて馬場さんはNWA世界ヘビー王座を三回獲得していて、しかも一時期はNWA第一副会長という要職にもついていました。今は総合格闘技だとUFCという世界最高峰の舞台がありますけど、世界に繋がっていて、そこを追いかける世界観というのが僕の中にはあって。馬場さんのリング上での実力とリング外の政治力とかも含めて、プロレスの王道を歩んでいる感じが好きでしたし、それが馬場さんの凄さと魅力だと思います。

──同感です。

中井さん 選手として馬場さんが凄かったのは世界三大タイトル(NWA、WWWF、WWA)に挑戦したアメリカ時代だったことは後から知りましたが、世界と繋がっていて堂々としている馬場さんがとにかく好きでした。だから全日本には多くの外国人レスラーが来日して豪華なシリーズになるじゃないですか。後年、PRIDEやDREAMで世界のファイターが大挙参戦していたゴージャス感はあの頃の全日本らしくて好きでしたね。

──馬場さんの試合は見ていてどのように感じましたか?

中井さん 今思うと馬場さんが全盛期を過ぎていたのですが、スタン・ハンセンが全日本に移籍して、馬場さんとPWF戦を闘ったときは「馬場復活」と言われて動きも早くなったり、健在ぶりは出てましたね。『チャンピオン・カーニバル』を何度も制したとか実績が凄いんですけど、動きがスローとか色々と言っている人は当時からいました。でも馬場さんにはランニング・ネックブリーカードロップという『水戸黄門』の印籠のようなはっきりした決め技があったのがデカかったですよね。


物心がついたときから馬場さんと鶴田さんが好きでした


──その通りですね。

中井さん あと今の言い方をすると、馬場さんはプロレスがうまかったと思います。鶴田さんが何度も馬場さんと対戦しても一度も勝てないから、「やっぱり馬場さんは強いんだな」と感じてました。とにかく馬場さんと鶴田さんが好きでした。それがすべてですよ。


──馬場さんと鶴田さんへの愛はものすごく伝わります!

中井さん 僕は馬場さんと鶴田さんを最強の格闘家と思っていたことはなくて、「鶴田最強説」が流れていた時は、UWFに傾倒して、リアリズムを追及してました。でも鶴田さんは別格で、好きという概念も越えた人でした。理由がないけどしょうがないんですよ、物心がついた時から馬場さんと鶴田さんが好きだから。


「若大将」ジャンボ鶴田さんの凄さと魅力


──ありがとうございます。では改めてになりますが、中井さんの好きなプロレスラーであるジャンボ鶴田さんの凄さと魅力について語っていただいてもよろしいですか。

中井さん 僕が特に好きだったのは、一部から「人気がなかった」と言われていた頃の鶴田さんです。絶対エースや怪物じゃなくて、青と赤の☆が入ったタイツを履いていて、「善戦マン」だった頃の鶴田さんが好きでした。ある種の爽やかさがあって、元祖アイドルレスラーだったのかなと思います。コンサートとかやったりとか(笑)。


──ありましたね!

中井さん コンサートで意外な一面を覗かせて、ストイックなところを見せなくて、飄々な感じがして奥ゆかしい。鶴田さんの佇まいが大好きでした。あと母親も鶴田さんが好きで、親子で応援してました。本当は鶴田さんにNWA世界王者になってほしかったですよ。何度も挑戦してもNWAの壁が高くて取れなかった。それが総合格闘技で日本人ファイターがUFCに挑んでいく図式に似ていて。「鶴田さんにNWA世界王者を取ってほしい」と「自分の生徒がUFC世界王者になってほしい」は僕の中ではほぼ同じ感覚なんですよ。

──そうだったんですね。

中井さん これは自虐的な言い方になりますが、プロレスを結局、格闘技として見ていたんです。結果が大事で、鶴田さんのNWA世界王座に挑戦して、反則勝ちでタイトルが取れないとかマジで悔しかった。あくまでもプロレスから格闘技に舞台が移動しただけで、日本人選手が世界を取ってほしいという想いはずっと変わらないんです。


僕はNWA世界王者になりたかった


──形とか表面が変わっているだけで、世界への想いはずっと中井さんの中で続いているんですね。

中井さん そうですね。鶴田さんにはNWA世界王座を取ってほしかったし、僕もNWA世界王者を取りたかったですよ。どうすれば取れるのかも子供の時は考えてました。


──「NWA世界王者の登竜門」と呼ばれているミズーリ州ヘビー王座を取るとかですか?

中井さん ハハハ(笑)。


──ちなみに1984年2月23日全日本・蔵前国技館大会で鶴田さんがニック・ボックウィンクルを破り、日本人初のAWA世界ヘビー級王者となります。この試合はご覧になられましたか?

中井さん はい。久しぶりにゴールデンタイムで特番がやっていて、それをリアルタイムで見ました。鶴田VSニックは好きな試合ですよ。でも鶴田さんがニックに勝ったので、違う世界に行ってしまったという想いがありました。鶴田さんはAWA王者になると海外で防衛戦ツアーに旅立つじゃないですか。あれは結構、理想図のひとつです。世界を取って嬉しんですけど、その一方で遠くに行っちゃった感もあって、ニックにもっと守ってほしかった気もしたんです。


──当時、ニックは3度目のAWA世界王者で、1年4か月王座を守ってました。いわば名王者ですね。

中井さん やっぱりニックは凄くて風格がありました。僕にとって世界王座を何度も獲得したハーリー・レイスとニックの試合を見て育ったので、あの渋さがたまらなかったんですよ。

──ちなみに鶴田さんはリック・マーテルに敗れてAWA世界王座から転落します。そこから鶴田さんは長州力さんや天龍源一郎さんとの対決で、「鶴田最強説」や「鶴田は怪物である」といった評価をされていくじゃないですか。その頃の鶴田さんはどのようにご覧になってましたか?

中井さん その頃になると僕が真剣にプロレスを見ていた時代じゃなくて、1984年にUWFが誕生してからは既存のプロレスとは決別していました。だから鶴田さんや全日本とは距離を置いてました。だけど鶴田さんが全日本の絶対エースになっていくのはめちゃくちゃ嬉しかったです。勝手に全日本や鶴田ファンのOBになっていましたけど、「やっとみんなは鶴田さんの凄さに気がついたか」と思いました。


──鶴田さんは天龍さんとの鶴龍対決や超世代軍との抗争で無類なき強さや怪物性がクローズアップされていきますよね。

中井さん そうですよね。UWF好きになって、格闘技に気持ちが移行していたのですが、やっぱり鶴田さんが評価されるのは嬉しいです。

──そういえば大物相手に健闘するも最後は敗れる「善戦マン」というワードも鶴田さんあたりから生まれたような気がします。

中井さん 確かに!「善戦マン」時代の鶴田さんは歯がゆかったんですけど、応援してましたし、好き以外の何物でもなかったです。 


「野性の虎」キム・ドクさんの凄さと魅力


──ありがとうございます。では次に中井さんの好きなプロレスラーであるキム・ドクさんの凄さと魅力について教えていただいてもよろしいですか。

中井さん 鶴田さん絡みになるんですけど、ドクさんはスープレックス合戦ができて、キウイロールという隠し技もあって、大木金太郎さんのコンビも絶妙だったんですよ。デカくて風格もあって絵になるプロレスラーだったと思います。でも後にタイガー戸口に改名して日本陣営に入ったのは残念でした。僕は鶴田さんとドクさんのライバルストーリーが好きでしたから。


──日本陣営に組み込まれると鶴田さんとドクさんが対戦する機会が減りますよね。

中井さん それなんです。1978年9月13日・全日本愛知県体育館(現・ドルフィンズアリーナ)大会で60分時間切れ、さらに延長5分を闘って65分ドローで終わったUNヘビー級戦があって、後にRIZINドルフィンズアリーナ大会で中継の解説を務めた時に、関係者に「この会場で鶴田VSドクが引き分けの名勝負を展開したんですよ」というと、ちょっとひいてましたね(笑)。

──そりゃそうですよ(笑)。愛知県体育館と聞いて、鶴田VSドクが浮かぶのはなかなかのプロレス通ですから。

中井さん ハハハ(笑)。

──ドクさんは鶴田さんとのライバルストーリーが一区切りすると、新日本に移籍してさまざまな団体を転々とされますけど対戦相手に恵まれてなかった印象がありますよね。

中井さん 同感です。新日本ではキラー・カーンさんとタッグチームを組んだのはよかったですけど、あまりいい素材を活かしきれなかったのはただただ残念ですよ。猪木さんや藤波辰巳(現・辰爾)さんに負けたりとか。「さすがに藤波さんには勝ってよ」とは思いましたよ。

──もしドクさんが全日本に残留していたらまた違った風景が見れたかもしれませんね。

中井さん そうかもしれないです。『Gスピリッツ』を読むと色々な事情があったようなのでやむを得ないかなと。とにかく鶴田VSドクは日本人同士による至高の名勝負でした。

──鶴田さんにとって体力、技術、頭脳といったあらゆる側面で競い合えた、刺激を受けた相手がドクさんだったのかもしれませんね。

中井さん はい。デカい日本人同士がシングルマッチをやって60分フルタイムとかあまり聞かないじゃないですか。鶴田VSドクは見ていて退屈しなくて、飽きないんですよ。確か1979年1月29日全日本・大阪府立体育会館大会では馬場さんとブルーザー・ブロディのシングル戦を刺しおいてメインイベントを取っていて、こちらも60分フルタイムドローだったんです。馬場さんも鶴田VSドクを買っていたのかなと。

──スーパーヘビー級の選手同士が互いの体力と技術、闘志をぶつけ合う試合は馬場さんにとっての理想のプロレスなので、鶴田VSドクは馬場さん好みの試合だと思います。

中井さん 僕もそう思います。長州さん、天龍さん、みささんもいいんですけど、やっぱり鶴田さんのライバルといえば、デカさでも負けないドクさんなんですよ。だから鶴田VSドクは全日本を愛していた僕にとって一番熱くなって見てました。

──今の話の延長戦になるんですけど、鶴田さんにとって一番のライバルはブロディだと思っていて、鶴田VSブロディは知力・体力・技術力・心理戦も絡めた巨漢同士のチェスプロレスだったんです。鶴田さんにとってその礎やバックボーンになったのはドクさんとのライバルストーリーだったと思うんです。そしてドクさんも鶴田さんが生涯唯一のライバルだったのかなと。

中井さん 同感です。ドクさんは日本プロレス出身なので、試合の作り方とか相手をリードできる存在なんですよ。藤波さんもそうですけど、日本プロレス出身者の味わいというのがあって、プロレス巧者の方が多い印象があります。誰とやっても手が合ったり、合わせられるし。

──もしかしたら鶴田さんはドクさんのインサイドワークとかを試合を重ねながら吸収していったのかもしれませんね。鶴田さんは全日本の絶対エースになっていくと、試合に懐の深さとか出すようになったので、ドクさんとの対戦は鶴田さんのキャリアにとって大きかったですよね。

中井さん そうだと思います。


1980年前半までの全日本プロレスの凄さと魅力


──続きまして、中井さんの好きなプロレス団体・1980年前半までの全日本プロレスの凄さと魅力についてお聞かせください。

中井さん 猪木さんの異種格闘技戦がピリオドを打って、UWFが出てくるまでの4年間くらいですか。1980年前半の全日本がとにかく好きでした。猪木さんのストロングスタイルや異種格闘技戦からUWFまでの流れは僕の中では繋がっているような気がして、UWFが出現した時は僕の人生を決定づけたんです。でも「プロレスの本流はこうあってほしい」という想いを抱きながら全日本を見てました。世間との論争にはノータッチで、異種格闘技戦路線にも走らないで、プロレスがプロレスとして成り立つ空間が全日本にはありました。

──確かにそうですね!

中井さん もちろん今でも格闘技は偏見で見られている社会ですよ。これは仕方がなくて、やってない人にはなかなか分からない部分もあると思います。でも格闘技はどこかアウトローのスポーツと見られていて、それは大事なんですけど、格闘技が格闘技として成立する世界観が必要で、ファンの皆さんにも安心して楽しんで見てもらえる環境を整備しないといけない。それは1980年前半までの全日本が僕の理想形なんです。僕にはそう見えました。

──なかなか深い話ですね。

中井さん 全日本にはNWAとガッチリと組んでいて、ここで実績を残せばNWA世界王座に届くかもしれないという世界観があって、豪華な外国人レスラーが毎シリーズ来日してきて、日本人や全日本発の外国人スターが対抗する図式が好きでした。

──全日本といえば創設当初からNWAと強固な関係を築いていましたよね。

中井さん あと天龍さんが1980年前半になると「全日本第三の男」としてクローズアップされていくじゃないですか。確か昔はあまり人気がなかったんですよ。ロッキー羽田さんの方がプロレスでの番付が上でした。だから平手の天龍チョップとか、正面飛びドロップキックをやっていた頃から天龍さんの試合は見ていて、足掻いていた頃の天龍さんが好きでした。不器用だけど一生懸命にプロレスをやっている天龍さんが妙に気に入っていました。


──ブレイク前の天龍さんの試合を見ている中井さんの言葉なので説得力あります。

中井さん 髭を生やしていた頃の天龍さんの試合も見ていますよ。ひとりの選手が努力を積み重ねて、人々の支持を集めながらブレイクして、トップレスラーに駆け上がっていく過程を見させていただきました。天龍さんの生き方を通じて、全日本がより好きになりましたね。


『Gスピリッツ』佐藤昭雄さんのインタビューがいつも楽しみで仕方がない


──全日本は鶴田さん以外はぽっと出の選手が少なくて、中堅レスラーだった選手がステップアップしていく過程を見れたのが印象的ですよね。あと中井さんのお話を聞くと、佐藤昭雄さんが全日本のマッチメーカーとして辣腕を振るっていた時代がお好きなのかなと感じました。

中井さん その通りです。もう『Gスピリッツ』の佐藤さんのインタビューが楽しみで仕方がないですから。超面白いですよ!全日本が体制が変わっていくときに佐藤さんが重要な役割を担うことになって、鶴田さんの時代になっていたのも佐藤さんが絡んでいたんですよね。

──しかも佐藤さんは馬場さんの一番弟子で、馬場さんのプロレス哲学を見事に分かりやすく言語化できるのが佐藤さんの凄さですよね。あと佐藤さんに育てられた多くの若手レスラーが大成したんですよ。今、新日本の現場を長年取り仕切っている外道さんは、佐藤さんの弟子である冬木弘道さんの指導を受けている方なので、佐藤さんの孫弟子なんですよ。

中井さん おおお!!そうなんですね!やっぱりいいですね、佐藤さんは!!

──佐藤さんは選手に合うように育て方を使い分けているんですよ。同じ基本動作でも三沢さんには「こう動いたらできる」と感覚で教えて、冬木さんはきちんと理論で説明するとか。素晴らしいマッチメーカーであり、名トレーナーでもあるんです。三沢さんは佐藤さんを「心の師匠」として仰いでましたから。

中井さん 凄いですね!全日本の新時代をつくった重要人物ですね。

──そして佐藤さんも日本プロレス出身ですから。

中井さん 色々と繋がっていきますよね!

(第1回終了)






 



 

 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 今回、記念すべき20回目のゲストは、「プロレス西の聖地」プロレスバー・カウント2.99のマスターコウジさんです。





(画像は本人提供です) 




マスターコウジ (北山幸治) 

1976年3月25日、大阪府大阪市生まれ。バーテンダー。

2010年(35歳の時)に脱サラし、同年11月大阪ミナミに「プロレスリングBARカウント2.99」を旗揚げ。日本のプロレスから世界のプロレス、男子プロレスや女子プロレス、クラシックから現代プロレスまで長らく広くプロレスを見続けてきたマスターがプロレスの発信をはじめ、オーセンティックBARでのバーテンダー修行を生かした美味しいお酒を日々提供中。大阪はもちろん、県外から訪れるお客様も多く、最近では海外から訪れるお客様もいるとか。またBARにプロレスラーを招いて開催するイベントもプロデュースを手掛けており、その数は300を超える。


プロレスバー「カウント2.99」 - 大阪ミナミのプロレスバー「カウント2.99」のホームページ 



プロレスバー・カウント2.99とマスターコウジさんについて、以前私はブログで取り上げたことがあります。


ライターになる前、一プロレスファン時代だった頃の私をよく知る数少ない方がマスターコウジさんでした。  

カウント2.99さんがあったから、私はプロレスがもっと好きになることができて、一プロレスファンという立場からフリーのライターとしてプロレスやエンタメを中心に色々な書籍や記事を書く立場になれたと思います。マスターコウジさんは私にとって恩人のひとりです。

プロレスとの出逢い、好きなプロレスラー、好きな名勝負、カウント2.99立ち上げの経緯、イベントの思い出、コロナ禍のカウント2.99、今後について…。


マスターコウジさんへのインタビューは二時間半超えの長時間大作となりました!


私とプロレス マスターコウジさんの場合「第2回 プロレスリングBARカウント2.99誕生」 


私とプロレス マスターコウジさんの場合「第3回 カウント2.99から立ち上がれ」 




是非ご覧ください!


私とプロレス マスターコウジさんの場合「最終回(第4回) 選手とファンの懸け橋でありたい」





「半分プロレスファン、半分プロレス業界人」だからこそ見えてきたプロレスラーの姿


──コウジさんは、カウント2.99を立ち上げてから自身の立ち位置を「半分プロレスファン、半分プロレス業界人」とおっしゃっていたと思います。プロレス業界に足を踏み入れてから感じたプロレスとプロレスラーについての考えをお聞かせください。

コウジさん プロレスの見方や見え方が変わりましたね。通常営業でプライベート来店いただいたり、イベントをさせていただいたり、600人以上のプロレスラーの方々とお話させていただいて。その中で選手の深さを見ることがあって、皆さんほんと頑張っているんだな、色々考えているんだなと感じることが多くなりました。あと、この業界のスーパースターと呼ばれるプロレスラーにもお会いできて。スーパースターは「他人と比べたり、周りからどう思われたいか」ではなく、「自分がどうなりたいのか」だけをとことん突き詰めている選手が多い気がしています。たくさんのプロレスラーとお話できたことは僕の財産ですね。

──そうなんですね!

コウジさん リングに上がる選手の目つきや顔つきとか見ると「この人は本当に努力しているな」「この人は不安そうにリングに上がっているな」「この人は何も考えずに試合しているんだろうな」と感じますよ。メジャー団体やトップの選手を見るとやっぱりみんな「俺を見ろ!」と自信満々なんですよ。その裏には自己研鑽と努力があるわけで。そういった部分はこの業界に入ってよく見えるようになりました。

──おっしゃっていることはよく分かります。以前、冬木弘道さんが「キャラクターでヒールをやったり、ベビーフェースをやっていたとしても最終的にその人の人間性が出る」という発言をされていますが、リング上の佇まいにその人の人間性が出るということですか?

コウジさん そうです。人間性、出ますね。だから努力が積み重ねている選手の姿を見るとパワーをもらうことあります。今までは強さやカッコよさとかをメインで見ていましたけど、見えないところを見えるようになってから試合からその人の人間性がにじみ出るなという見方をするようになりましたね。

──なかなか深い話ですね。

コウジさん ありがとうございます。



「もしこの日が坊主になったら店を閉めよう」と決めていた営業日


──次の話題に移りますが、カウント2.99を経営している中で特に印象に残っている営業日はありますか?

コウジさん 二つあります。一つは、第2回でもお話させていただいたことなんですが、最初の2年ぐらいに色々なことがあり自分自身がしんどくなってお店を辞めようかなと思ったことがあったんです。それぐらい思いつめていて「もしこの日が坊主(お客さんが誰も来なくて売上がゼロ)になったら、お店を閉めよう」と決めたんです。


──そんな苦労があったんですね…。

コウジさん 結果的にお客さんが入ってくれて、初めて来店されたお客さんから「このお店は凄いね!良いお店だね!」とすごく褒めてくれたのがとても嬉しくて。その言葉が胸にしみて…。その後も常連の方も来られてすごく楽しくて。この世界って、プロレスラーだ、スポンサーだ、とキラキラする世界があって、プレッシャーやストレスをすごく感じる毎日でしたが「一歩一歩、また一から積み上げていこう」「今、目の前にいるお客さんを大事にしよう」と思い直した営業日がものすごく印象に残っています。

──カウント2.99閉店を食い止めたのは、お客さんだったんですね。

コウジさん はい。もう一つは2022年秋、コロナの時短明け営業日です。夜9時以降も営業してもいいですと規制が外れた一発目。店の常連さんがいっぱい来てくれたんですよ。「マスター、ようやくコロナ明けたね。おめでとう!」とお客さんに言われて、本当に嬉しかったですよ。それでお客さんから「マスターも飲んでよ」と言われてガンガンお酒を飲んで、見事に泥酔したという(笑)。

──コロナを乗り越えてたわけですよね。

コウジさん そうです。やっとフルで営業できた嬉しさがすごくありました。


マスターコウジさんが選ぶプロレス名勝負とは?


──ありがとうございます。ではコウジさんが選ぶプロレス名勝負を3試合、セレクトしていただいてもよろしいですか。

コウジさん 1試合目は2000年4月7日新日本・東京ドーム大会の橋本真也VS小川直也です。

──「橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退スペシャル」ですね!

コウジさん あれはめちゃくちゃ記憶に残る名勝負ですね。強烈でしたよ。「嘘でしょ⁈」と。絶対に橋本さんが勝つと思っていたので、橋本さんが負けるとは…。でもあの試合は内容も含めて、好きですよ。

──コウジさんにお聞きしたかったんですけど、小川直也さんについてどのように思われますか?

コウジさん あんまり好きじゃないですね(笑)。

──小川さんの名勝負は、小川さんの対戦相手が凄いから成立しているんですよね。

コウジさん 同感です。小川さんは別にプロレスラーじゃないから。対戦相手が超一流のプロレスラーだったから、プロレスになっただけではないかと思っています。橋本VS小川もやっぱり橋本さんが凄いんです。あの試合はプロレス界の名作だと思いますよ。

──ありがとうございます。2試合目を教えてください。

コウジさん 2002年3月17日のWWE『レッスルマニア18』(カナダ・トロント・スカイドーム)で行われたハルク・ホーガンVSザ・ロックです。店で「マスターのベストバウトは何?」とお客さんから聞かれたら必ずこの試合をあげるんです。僕はこの試合にプロレスのすべてが詰まっていると思いますね。

──ホーガンVSロックは「生もの」の試合でしたね。「悪の中枢nWoの頭領としてWWEに復帰したホーガンが入場してくるとヒールなのに大歓声を浴びて、逆にベビーフェースのロックにはブーイングが起こったんですよ。

コウジさん そうです。計算ができない状況になりましたよね。リアルとファンタジー、あれこそプロレスだなと。そして互いの積み重ねた歴史がぶつかるというプロレス的な要素が凝縮された名勝負でした。

──私もあの試合好きで、ロックが見事なくらいにホーガンファンなんですよ。それが試合ににじんでいて、さらに味わい深くなるのがいいですね。

コウジさん 僕は「プロレスは歴史」だと思うので、その選手の歴史を感じられる試合は好きですね。

──では3試合目をお願いします。

コウジさん これは今年の試合から、2023年1月1日ノア・日本武道館大会のグレート・ムタVS SHINSUKE NAKAMURA(中邑真輔)です。

──でましたね!今年のベストバウト候補。

コウジさん テイストはホーガンVSロックに近いんです。恐らくケニー・オメガVSウィル・オスプレイ(2023年1月4日新日本・東京ドーム大会)か、この試合がプロレス大賞ベストバウトに選出される可能性が高いかなと思うんです。

──ムタ VS SHINSUKEは、戦前の予想をはるかに越える名勝負になりましたね。

コウジさん そうですね。この試合も「プロレスってこうだよな」と。大技やるだけが名勝負ではなくて。

──ハイスピードでハイレベルな攻防をやっていたのがこの試合の前におこなれた清宮海斗VS拳王のGHC戦だったと思います。でも技を厳選していても観客を魅了する試合が見れるのがプロレスの醍醐味ですよね。

コウジさん 清宮VS拳王もいい試合でしたね。ケニーVSオスプレイは、ムタ VS SHINSUKEの対極ですよ。好みが分かれるところではありますが。

──ケニーVSオスプレイは進化プロレスの完成形で、さらに互いの感情もブレンドされていた試合で、ムタ VS SHINSUKEは、深化プロレスの芸術で、そこに歴史とリスペクトが充満していた試合ですよね。

コウジさん  確かに! ムタ VS SHINSUKEは深い試合でしたね。僕は歴史を感じる試合の方が好きかな。今のファンからするとキャッチーな試合じゃないかもしれませんけど、お店でお客さんに「プロレスを見続けたら、こういうものが見れるよ。お酒の10年物と一緒で、味わい深い試合に出逢うこともあるから、ずっとプロレス見てくださいね」と言っていて、ファンの皆さんには長くプロレスを見てほしいなとすごく思いますね。

──ムタ VS SHINSUKEはノア武道館大会の最終試合(ダブルメインイベントⅡ。ダブルメインイベントⅠは清宮VS拳王のGHC戦)だったじゃないですか。清宮VS拳王が最終試合じゃないことに、多くのノアファンから「なんでGHC戦が最後じゃないのか」と異論が出ました。でも、ムタ VS SHINSUKEが終わった後は、その声はほぼなかったんですよ。

コウジさん ムタもSHINSUKEもチャンピオンベルトを越えた存在になってますから、この試合順は正解だったと思います。

──あとムタ VS SHINSUKEは技の攻防は少なくても名勝負を展開したことは、今の進化系プロレスに対するアンチテーゼになったと思います。
     
コウジさん そうですよね。 


今、見直すとアントニオ猪木VSグレート・ムタは面白い!!  


──そういえば1994年5月1日新日本・福岡ドーム大会で行われたアントニオ猪木VSグレート・ムタもメインイベントで、藤波辰爾VS橋本真也はセミファイナルだったんですよ。

コウジさん 猪木さんが亡くなって、あらためて猪木VSムタを見るとあの試合は面白いですね。

──まず、武藤さんが凄いなと思いましたね。ムタという悪の化身を使って猪木さんに自由奔放にやりたい放題にやって、猪木さんの存在ごと食いにかかる。猪木ファンからするとムタ戦はトラウマでしょうし、認めたくない人が多いと思います。

コウジさん 猪木さんもあれだけかき回されたのは初めてじゃないですか。猪木さんもムタ戦は嫌だったと思いますよ。

──でもその対極のイデオロギーが選手とファンで衝突する猪木VSムタは面白くて、昭和の鬼と平成の悪魔による「魔界の時代闘争」だったんですよ。

コウジさん こういう試合、今の時代でも見たくなるんですよ。強烈な個性同士が全面衝突するような試合が。


「会いたい選手に会える店として」「プロレスラーとプロレスファンの懸け橋でありたい」今後のカウント2.99


──その通りです!コウジさんが選んだ名勝負、素晴らしいセレクトだと思います。では今後のカウント2.99についてお聞かせください。

コウジさん 今までとそんなに変わらないですよ。カウント2.99を開店したときに、「この選手に会いたい」「こんなイベントをやりたい」という夢は叶いました。ここから先も変わらずプロレスを発信し続けたい。通常営業では普通にプロレストークや試合をチョイスしてプレゼンして、クラブDJのようにやっているわけです。うちでアメリカンプロレスを好きになった人は、完全に僕がプロモーションしています(笑)。だから僕が感じた面白いプロレスや面白いプロレスラーは必ずプレゼンしていますよ。通常営業でプロレストークして、興味がなかった選手や知らなかった選手を少しでも興味を持ってほしいなと思ってます。皆さんがもっとプロレスを好きになっていただければ僕は嬉しいです。その積み重ねでどんどんプロレスファンが増えて。少しでも業界に貢献できればいいなと。

──素晴らしいです!

コウジさん あと普段BARをご利用されないお客さんも「プロレスBARだから」といらっしゃることが多くて。うちはBARを名乗っているので、美味しいお酒を飲んでいただきたいと思っています。かといって堅苦しいお酒を出すわけではなくて、例えばジントニックやハイボールでも安い居酒屋では美味しくないイメージがあるかもしれませんが、うちで提供するBARのジントニックやハイボールは本当に美味しいと思いますのでぜひ飲んでほしいですね。お酒やカクテルの印象が変わると思いますよ。あと女性のお客様にも一人で楽しんでいただけるようにしているので、異性への声掛けはNGにしています。居酒屋でもキャバクラでもありませんから、そこはBARとしてちゃんとしています。ちなみにコンセプトが強くなると敷居が高いと思われたり、常連さんばかりと揶揄されることもありますが、決してそんなことではなく比較的ライトファンがいらっしゃっていただいているので、気軽にお越しいただければ。

──プロレスリングBARとしてのこだわりですね。

コウジさん そして、最終的にはプロレス会場に足を運んでもらえたら嬉しいです。あとファンの方がうちのイベントで夢が叶うことがたまにあって、「好きな選手に会えました」「好きな選手のサインがもらえて、一緒に写真が撮れました」「好きな選手に想いを伝えることできました」とか、中には涙を流すファンもいらして。ファンの皆さんにとって夢が叶う場を今後も提供していきたいです。プロレスラーとプロレスファンの懸け橋でありたい…それが「プロレスリングBARカウント2.99」のアイデンティティーです。

──感動しました。プロレス関係者とプロレスファンの中間地点にいるコウジさんならではの立ち位置ですよね。

コウジさん 全員ではありませんが、会いたい選手に会える店として今後も営業していきたいですね。プロレスラーは面白い方が多くて、普段の姿とか人柄を知るともっとプロレスラーが好きになるはずなんですよ。そういうリングでは見せない一面をうちのイベントで知ってほしいし、知った上でリング上を見るとまた味わいが変わりますよ。  


マスターコウジさんにとってプロレスとは?


──ありがとうございます。では最後の質問をさせていただきます。あなたにとってプロレスとは何ですか?

コウジさん 夢と希望、そして歴史です。僕は今でもプロレスに夢を見たいし、希望を抱きたいと思っています。今でも変わらずプロレスにワクワクドキドキしたいし、プロレスラーの夢を一緒に追いかけていきたい。そして、それぞれのプロレスラーの歴史が交錯する瞬間をみたい。プロレスに絶対はないですからね。アメプロ風にいえば「never say never」。これだからやめられないし、これからも見続けていきたいですね。

──素晴らしいアンサーだと思います。これでインタビューは以上となります。コウジさん、長時間の取材を受けていただきありがとうございました。今後のご活躍を心からお祈り申し上げます。

コウジさん こちらこそありがとうございました。

(「私とプロレス マスターコウジさんの場合」完/第4回終了)



 

 

 

 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 今回、記念すべき20回目のゲストは、「プロレス西の聖地」プロレスバー・カウント2.99のマスターコウジさんです。





(画像は本人提供です) 




マスターコウジ (北山幸治) 

1976年3月25日、大阪府大阪市生まれ。バーテンダー。

2010年(35歳の時)に脱サラし、同年11月大阪ミナミに「プロレスリングBARカウント2.99」を旗揚げ。日本のプロレスから世界のプロレス、男子プロレスや女子プロレス、クラシックから現代プロレスまで長らく広くプロレスを見続けてきたマスターがプロレスの発信をはじめ、オーセンティックBARでのバーテンダー修行を生かした美味しいお酒を日々提供中。大阪はもちろん、県外から訪れるお客様も多く、最近では海外から訪れるお客様もいるとか。またBARにプロレスラーを招いて開催するイベントもプロデュースを手掛けており、その数は300を超える。


プロレスバー「カウント2.99」 - 大阪ミナミのプロレスバー「カウント2.99」のホームページ 



プロレスバー・カウント2.99とマスターコウジさんについて、以前私はブログで取り上げたことがあります。


ライターになる前、一プロレスファン時代だった頃の私をよく知る数少ない方がマスターコウジさんでした。  

カウント2.99さんがあったから、私はプロレスがもっと好きになることができて、一プロレスファンという立場からフリーのライターとしてプロレスやエンタメを中心に色々な書籍や記事を書く立場になれたと思います。マスターコウジさんは私にとって恩人のひとりです。

プロレスとの出逢い、好きなプロレスラー、好きな名勝負、カウント2.99立ち上げの経緯、イベントの思い出、コロナ禍のカウント2.99、今後について…。


マスターコウジさんへのインタビューは二時間半超えの長時間大作となりました!


私とプロレス マスターコウジさんの場合「第2回 プロレスリングBARカウント2.99誕生」 




是非ご覧ください!


私とプロレス マスターコウジさんの場合「第3回 カウント2.99から立ち上がれ」


 

 
「過去最高だった」 飯伏幸太選手スペシャルイベントが実現した経緯

 
──2023年3月10日大阪市内で、『Kota Ibushi Meet&Greet 2023 in Osaka』という飯伏幸太選手のスペシャルイベントがありました。怪我で長期欠場、紆余曲折の末に新日本を退団した飯伏選手が久しぶりに公の場に現れたのはこのイベントでした。飯伏選手のイベントについてどのような経緯で行われることになったのですか?
 
コウジさん 過去7回のイベントを経て飯伏選手とはたまにLINEで連絡する間柄になりまして。G1優勝したら「おめでとうございます」や飯伏選手がSNSで大騒動を起こした時も「大丈夫ですか?」「暴露系Youtuberになるんですか?(笑)」とか。

──そうだったんですね。

コウジさん 飯伏選手が最終的に新日本を辞めることになって、「またイベントお願いしますね!」と送ったら、本人から「久々にやっちゃいますか」と(笑)。実は飯伏選手には他からもイベント依頼がきていたみたいですが、今までの関係もあるし「復帰後のイベントは2.99さんで」と決めてくれていたらしく、本当に律儀な方だなとあらためて感じました。その話を聞いた時は本当に嬉しかったですね。

──飯伏選手らしいですね。実際にイベントを開催してみてどのような感想を抱きましたか?

コウジさん 色々なイベントをやってきましたけど、過去最高です。飯伏選手が感極まれていたことが印象的でしたし、飯伏幸太復帰ロードの第一歩をカウント2.99プロデュースイベントでスタートしていただいたということがとても感慨深かったです。本当に思い出深いイベントになりました。

──試合も含めてカウント2.99でのイベントが復帰一発目だったんですよね。

コウジさん 飯伏さんが2021年のG1CLIMAX決勝のオカダ・カズチカ戦で肩を外して以来、公の場には姿を現わしてなくて、ファンの前に久しぶりに登場してくれたイベントでした。シュチュエーション、歓声、内容、あれは僕が今までやってきたイベントの中でMAXだと思います。

──イベント会場はカウント2.99ではなく、大阪市内の某所ということでしたが、何人くらいのお客さんが来られましたか?

コウジさん 150人ぐらいです。ただ、応募抽選制にしましたので応募自体はものすごい数が来ましたね。注目度がすごいなと感じました。

──もっと入れようと思えば入れることができたのですか?

コウジさん そうですね。でも飯伏選手のファンサービスは神対応で、一人一人と会話されるのでどうしても時間がかかってしまう。だから人数制限を設けたんです。それでもファンサービスが良すぎて、夜8時スタートのイベントが終わったのが深夜12時を過ぎてました(笑)。4時間以上のロングランを休憩なしでやりきった飯伏選手は凄くて、そういったところでも神だなと思いました。

──飯伏選手はファンとの触れ合いにかなり飢えていたかもしれませんね。

コウジさん そうだとも思います。


毎年恒例!金沢克彦さんのトークイベント


──どういうイベントだったのかはシークレットだと思いますが、SNSで飯伏さんがイベント内で感極まっている写真がアップされていて、胸が熱くなりましたよ。次は2011年から毎年恒例となっているプロレスライター金沢克彦さんのトークイベントについてです。

コウジさん カウント2.99一周年記念として金沢さんのイベントが開催されたのが2011年ですね。

──個人的にはカウント2.99の看板イベントは金沢さんイベントだと思いますよ。

コウジさん 毎年の恒例行事になったのですが、最初は大谷晋二郎さんから金沢さんを紹介していただいたのがイベントのきっかけでした。カウント2.99の周年イベントは僕が採算度外視でやりたいことするようにしていて、どんな方でも会いたい人にオファーを出してイベントを開催しているんです。

──毎年11月といえば金沢さんイベントですから。

コウジさん うちの旗揚げ記念日が11月25日なのでその前後に金沢さんへイベント出演いただけるよう毎年オファーを出しています。結果的には毎年のプロレス界を総括する流れが出来上がってきて。そういった意味では長年プロレス中継で解説者を務めた金沢さんにオファーしたのが結果的に正解となりました。

──その通りです。

コウジさん イベントというのは開催するごとに成長していくものがいくつかあって、その代表例が金沢さんイベントですね。最初は一年間を振り返るイベントじゃなくて、金沢さんに聞きたいことがメインだった気がします。それが毎年やるごとに、流れやパターンがきまってきて。このイベントはプロレスの年間スケジュールにおいてある種、恒例化できたのかなと思います。今や参加者の同窓会と化してる一面もあって。なぜかというか、このイベントだけでしかカウント2.99にいらっしゃらないお客さんが多いこと多いこと(笑)。

──東京スポーツのプロレス大賞が、金沢さんイベントの2週間ぐらい経った後に発表されることが多いので、先だって金沢さん選出のプロレス大賞がイベントで発表されるので貴重なんですよね。

コウジさん それをわざわざ大阪まで来ていただいてやるっていうのが面白いですよね。

──実際にイベントで共演して、金沢さんはどのような方でしたか?

コウジさん 最初はすごい硬い印象がありました。でも、話して見るとすごくフランクな方で、年齢関係なく僕にもお客さんにも優しく接していただけますし、今では友達のような親戚の叔父さんのような関係になったかもしれません。今でも昼夜問わずにLINEが飛んできますから(笑)。

──金沢さんはプロレス中継の解説だけでじゃなくて、番組の司会とかもされてたから、イベントMCをされているマスターの苦労は恐らく分かるんじゃないでしょうか。あと、カウント2.99のイベントに出てから他のイベントにも出られるようになった印象がありますね。

コウジさん 当初はイベントには出ないと言ってましたよね。ファンの皆さんと話すのも、あんまり好きじゃなかった印象がありましたし。でもイベントを重ねていって、金沢さんもイベントの楽しさやファンとお話しする楽しさを知ったのかもしれません。女性のファンには特に優しくお話してくれますよ。

──金沢さんイベントといえば、毎回金沢さんが入場で誰かのコスプレをするんですよね(笑)。。

コウジさん そうですね。それだけ金沢さんもイベントをエンジョイしていると思います。イベントの時間も新日本の東京ドーム大会みたいに年々伸びて、ある年は5時間もやりましたから。あの時のお客さんは疲れたはずです。本当申し訳ないことしたなと思いますけど、やってる方は楽しいんですよ。何時間でも喋れますから。今は3時間に設定してますけど、やろうと思えば夜通しでやれてしまうかもしれません。


──ちなみに私は金沢さんイベントに7回参加していて、途中から何かしら金沢さんに質問をするようにしたんです。このイベントはノーSNSなので質問内容は公開しませんが、あの場での金沢さんへの質問を事前に考えるのは、後々にさまざまな現場で取材する立場になり、ライターとして活きてきたように感じています。

コウジさん ありがとうございます。金沢さんが元気な限りはこのイベントはやり続けますよ。


主催者として、MCとして、トークイベントで心掛けていること


──是非続けてくださいよ!では次の質問に移ります。コウジさんは店内のトークイベントを主催兼MCとして長年活動されてますけど、その中で心掛けていることはありますか?

コウジさん 単純にファンがそのイベントに何を求めているのかですね。僕がその選手のファンなら何をしてくれたら嬉しいか。もちろん選手に会えることが嬉しいことではあるけど、「何をしたらファンが喜んでくれるか」「何を求めてるか」というのを、事前に時間をかけてしっかり考えてますね。

──少し具体的に教えていただいてもよろしいですか?

コウジさん 歓談イベントはまた別ですが、王道のトークイベントをするのであればトークショーとファンサービスが重要になってきます。トーク内容に関しては、絶対に他で喋ってないことを聞き出すのが大前提です。裏ネタやゴシップを求めているわけでもなくて、みんなに楽しんで帰っていただくのが大前提。できればイベントで初出しのエピソードは欲しいですね。イベントにいらっしゃるファンの方はある程度ネットの情報とか雑誌の情報を知っている状態で来店されているので、僕よりもファンの方が情報に詳しい場合もあります。進行役である僕はそれよりも上回っている状態でイベントMCに挑まないといけないといつも思っています。あとは、旬の話題を必ず抑える。その選手が今抗争しているストーリーから触れていったりとか。イベントの中でも起承転結を意識しています。最後の締めは大事なので、ちゃんとそのネタだけは残しておく。あと、選手の話したいエンジンがかかってきたら、気持ちよく喋らせてあげる。ある程度の時間割を事前に決めていますが、話が面白ければ後ろを調整すればいいやと。カチカチに固めず柔軟に対応することを意識しています。

──それは深い話です。

コウジさん 既存の情報に終始して「新しいネタがなかった」と思われるイベントにはしたくない。お金を払ってこのイベントに参加して、参加したからこそ聞けた貴重な話を提供できる場を作らないといけない。ファンサービスは団体や選手によって異なりますが、精一杯交渉をして「イベントならではのファンサービス」をお願いしています。


──トーク内容に関しては事前に演者さんには「このような質問をしますよ」とお伝えしますか?

コウジさん 事前にお伝えする場合もありますが意外とぶっつけ本番が多いです。こっちは質問を用意していきますけど、選手は何を聞かれるか分からない。ぶっつけ本番の方がイベントは面白いですよね。質問を投げる僕も楽しいですから。イベントをやる以上、まずは僕自身がイベントを楽しまないといけないですから。
 

ファンサービスを一生懸命にやってくれる選手の゙イベントにはやりがいを感じる


──演者が楽しむとはイベントにおいて大切なことですね。

コウジさん そうです。演者が楽しい、聞き手も楽しいというのが理想です。なので、フレッシュな状態でゲストと対面することが多いですね、事前に打ち合わせをする場合でも進行の流れだけ説明して、あとは雑談しかしなかったり。入場直前で挨拶して、すぐに開始というイベントも稀にあって、それもレジェンドレスラーの時があったりして、僕が一番ヒリヒリするという(笑)。

──その思いはカウント2.99のイベントではよく伝わりますよ。

コウジさん 僕は毎回120点を出したいタイプなので、イベント自体に積極的であったり、ファンサービスを一生懸命にやってくれる選手のイベントはめっちゃくちゃやりがいがありますね。その代表選手は男性なら飯伏選手や女性ならKAIRI(カイリ)選手です。ファンのことをものすごく大切にされています。選手120%×僕120%ですから、成功確率がものすごく高くなります。

──選手本人が乗り気になっているから、イベント自体が盛り上がって成功していくということですね。

コウジさん その通りです。選手が「これやりたいです」と前のめりになっているイベントは確実に盛り上がりますよ。




──コウジさんが提案したイベント内でもファンサービスで印象に残っているものはありますか?

コウジさん 大日本プロレスさん関本大介選手イベントで「1ドリンク+1アルゼンチンバックブリーカー付」でやったことがあったのですが、とても面白かったですね(笑)。

──ハハハ(笑)。

コウジさん うちのイベントは「1ドリンク+2ショット撮影付」というのを基本の形でやってますけど、関本選手のイベントは「1ドリンク+1アルゼンチンバックブリーカー付」で企画して、GOをいただいて。企画の段階で勝ったなと思いましたもん。予想通り即完売しましたし。なので、ファンのニーズは大事なんです。みんな関本選手にアルゼンチンバックブリーカーをやられたいんだから(笑)。

──ハハハ(笑)。

コウジさん あと今年の飯伏選手のイベントでは、深夜のLINE通話で打ち合わせをたくさんさせていただいて、コスチューム姿での登場はその打ち合わせの中でのアイデアですね。

──そうだったんですか!

コウジさん 今までの飯伏さんイベントは私服でやっていたのですが、いつもと違うテイストを出したかったことや復帰というテーマもありましたので、最終的にコスチューム姿でGOとなりました。

──飯伏選手がコスチューム姿で登場したのがこのイベントのファインプレーだったと思います。

コウジさん 結果として、大当たりしました。飯伏選手にとっても怪我してからコスチュームを着るのが初めてだったらしく、サポーターの上下がわからないと言って着用していましたから(笑) あと凄いなと感じたのが、入場曲を流して、飯伏選手が登場して僕がリングコールをするという流れだったんです。試合の時、飯伏さんはリングに上がる前にトップロープを両手で掴んで伸ばしてからリングインするんですね。この動きはリハではやらなかったのに、本番ではエアロープを掴んでリングインのパフォーマンスを本番でやったんです。

──えええ!

コウジさん 飯伏さんが見えないロープを掴んでリングインするタイミングで僕がリングコールをしたんです。その辺のセンスはさすが飯伏選手だなと。復帰のリングに上がるんだ、という強い気持ちを感じました。

──さすがヨシヒコと名勝負を繰り広げた男ですよ。その場でやれるアドリブ力が半端ないんでしょうね。

コウジさん 同感です。だからその辺が他のレスラーとはやっぱり違うなと思いましたよ。僕もイベントをやりながら感動したし、半面肝を冷やしました。リハの後に、本番でアレやりますと一言ぐらい言ってくれればよかったのになと(笑)
 


「店を辞めるのか、辞めへんのか」コロナ禍のカウント2.99


──ありがとうございます。ここでどうしてもコウジさんに聞きたいことがあって、2020年にコロナ禍があって、カウント2.99も経営が大変だったと思います。コロナ禍でのカウント2.99について振り返っていただいてもよろしいですか。

コウジさん もうガチガチに法令を守るしかなかった。時短営業を守らずに営業している店はミナミにもありましたけど、自治体からの休業や時短営業の要請は守らないといけなかったです。そしてもう単純な話、店を辞めるのか、辞めへんのかの二択でした。そこは凄く悩みました。

──はい。

コウジさん カウント2.99は開店して10年だったので、店を閉めるなら区切りとしてはよかったんです。イベントに関してもやりきった感もあったので。僕がやりたいことはほぼやれましたから。

──最終的に店を辞めないという選択肢の決め手は何でしたか?

コウジさん やっぱりお客さんの存在が大きいです。2020年にクラウドファンディングをやりましたけど、その時に届いた声とか。

──よく耐えましたね…。

コウジさん そうですね…。今までも100%で頑張っていましたけど、コロナ禍になって店を存続する道を選んでからは120%に振り切って頑張ろうとなりましたね。今までは10年続けられたらいいなとか思っていましたけど、この仕事を一生続けようと思ったのはコロナがあったからです。

──コロナ禍では多くの飲食店が経営危機に陥って潰れました。プロレス界隈のお店も同様ですよね。 

コウジさん そうですね。事情はそれぞれにあるでしょうけど、売上がちゃんとあって利益が出ていれば基本は閉店しないんです。だからリアルに厳しい時代になってきましたよね。法令解除が去年の秋ですぐには売り上げが戻らなかったし、そのマイナス分を協力金で食い繋ぐわけで。協力金は課税対象ですから翌年所得税として払わないといけないですし。今年の春になってGW明けにマスクが解除になってからようやく客足も戻ってきて、そこからなんとか売上も立って格好がつくようになりました。でも飲食店の生存競争は大変ですし、昨今は値上げラッシュでお客さんの財布のヒモがどんどん堅くなるわけで。「今月大丈夫かな」と悩むことが多くなりました。ほんと毎月「カウント2.99」ですよ(笑) それでも、カウント2.99って、ここからじゃないですか。ギリギリだけど、負けていない。ここからが本当の勝負なんだ、跳ね返して必ず逆転するんだってね。我ながら良い店名をつけたと思っています。これからも人生を賭けてカウント2.99を続けていきたいですね。

(第3回終了)








 

 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 今回、記念すべき20回目のゲストは、「プロレス西の聖地」プロレスバー・カウント2.99のマスターコウジさんです。





(画像は本人提供です) 




マスターコウジ (北山幸治) 

1976年3月25日、大阪府大阪市生まれ。バーテンダー。

2010年(35歳の時)に脱サラし、同年11月大阪ミナミに「プロレスリングBARカウント2.99」を旗揚げ。日本のプロレスから世界のプロレス、男子プロレスや女子プロレス、クラシックから現代プロレスまで長らく広くプロレスを見続けてきたマスターがプロレスの発信をはじめ、オーセンティックBARでのバーテンダー修行を生かした美味しいお酒を日々提供中。大阪はもちろん、県外から訪れるお客様も多く、最近では海外から訪れるお客様もいるとか。またBARにプロレスラーを招いて開催するイベントもプロデュースを手掛けており、その数は300を超える。


プロレスバー「カウント2.99」 - 大阪ミナミのプロレスバー「カウント2.99」のホームページ 



プロレスバー・カウント2.99とマスターコウジさんについて、以前私はブログで取り上げたことがあります。


ライターになる前、一プロレスファン時代だった頃の私をよく知る数少ない方がマスターコウジさんでした。  

カウント2.99さんがあったから、私はプロレスがもっと好きになることができて、一プロレスファンという立場からフリーのライターとしてプロレスやエンタメを中心に色々な書籍や記事を書く立場になれたと思います。マスターコウジさんは私にとって恩人のひとりです。

プロレスとの出逢い、好きなプロレスラー、好きな名勝負、カウント2.99立ち上げの経緯、イベントの思い出、コロナ禍のカウント2.99、今後について…。


マスターコウジさんへのインタビューは二時間半超えの長時間大作となりました!




是非ご覧ください!


私とプロレス マスターコウジさんの場合「第2回 プロレスリングBARカウント2.99誕生」


 
35歳で脱サラしたコウジさんの運命を変えた言葉「お前にはプロレスあるやん」
 
 
──コウジさん、ここからはプロレスリングBARカウント2.99についてお聞きしていきます。まずは開店の経緯についてお聞かせください。
 
コウジさん プロレスバーを立ち上げる以前は、20代後半から35歳まで製造業の生産管理みたいな仕事で課長やっていたんですけど、色々な方向性の違いから計画性もなく会社を辞めまして。再就職するにも最後の年齢だろうから、やりたい仕事や受けたい会社だけを受けました。たまたま応募が出ていた全日本プロレスの営業も受けましたし(笑)でも転職活動がうまくいかなくて、自分でやることにしました。

──どこかの企業に就職するのではなく、独立だったり店を持つということですね。

コウジさん はい。ただ自分でやるといっても会社をやるノウハウもない。お店に関しては20代の時にオーセンティックバーでバーテンダーをやっていたことがあるだけで。そんな何も浮かばない時、バーテンダー時代にお世話になったバーの師匠に「次、何したらいいですかね」と相談してたんです。週一でそのバーに通って相談するにつれて、自分でバーをやろうかなと思うようになりました。でも普通にバーをやっても勝ち目がないような気がして、バーテンダーの仕事も10年近く離れていたので、このまま開店しても絶対に勝てないと思ったんです。



バーだけでは勝てないけど、プロレスを乗っければ勝負になるかもしれない


──勝算がないと、なかなか開店には踏み切りにくいですよね。

コウジさん それで悩んでいた時に、師匠が「お前にはプロレスあるやん」って言ってくれたんです。その瞬間、「バーテンダー2年+プロレスファン25年」の経歴になって(笑) これだったら勝負できるんじゃないかな、と思いました。

──「プロレス×バー」ということですね。

コウジさん そうです。バーだけでは勝てないけど、プロレスを乗っけると勝負できるかもと思ったんです。だから自発的にプロレスバーをやりたいわけではなくて、師匠のアドバイスがあったからプロレスバーを作る流れになったのです。当時はガールズバー、ダーツバーとか流行ってましたけど、そのジャンルでは勝負にならないし、やるからには続けないといけないですから。

──確かにそうですね。

コウジさん ビジネスとしてちゃんと成立するものを探してて、「自分の武器は何だろう」っていうことを考えて振り返ると、周りから「お前、プロレス詳しいやん」「プロレスやったらなんでも答えてくれるやん」と言われていて、自分では気づかなかったんですけど、それが武器になると感じたからこそ、「プロレスバー」をやってみようかなと思ったんです。

──そういう経緯があったんですね。

コウジさん でも僕には開店するにしてもお金がなかったんです。すると師匠が「俺がオーナーになって金を出すから、お前が店長になれよ」と言ってくれて。渡りに船で飛び込みました(笑)師匠との話し合いで店名は「カウント2.99」にすぐに決まり、店の内装や構成は自分の中でどんどんイメージできたので、一気に進んでいったんですけど、肝心のお金が師匠から出なかったんです。お金が出ないことに僕がしびれを切らせてしまい、師匠と離れることになって…。



お金がない中で開店資金を貸してくれた恩人



──当初の構想と離れたんですね。

コウジさん それで最終的に前の勤め先でお世話になった取引先の社長に頭を下げに行って、事業計画書を持って開店資金を貸してもらうことになりました。もしその社長からお金を借りれなかったら、プロレスバーを開店するのは諦めようと思ってましたから。でも結果貸してもらえることになって。これでもう後戻りはできないなと。

──引くに引けなくなったという感じですか?

コウジさん 良い意味でこれはもうやるしかないなと思いました。プロレスバーをやっていく運命なんだなと勝手に解釈しましたね。

──コウジさんにお金を貸してくれた社長さんはお店には後に来られたのですか?

コウジさん はい。もちろん何度か来店してくださいましたし、いつも応援してくれています。本当に僕の恩人ですよ。社長がいなかったから、「プロレスリングBARカウント2.99」は誕生してないと思います。

──ちなみに借りたお金の完済は済んでますか?

コウジさん はい。完済してます。 



これからプロレスは面白くなると読み、2010年「プロレスリングBARカウント2.99」オープン



──あと、カウント2.99立ち上げた頃、他の大阪でプロレス関連の店はあったんですか?

コウジさん プロレスバーとは謳ってませんが、プロレス関係者が経営するバーがひとつかふたつあったかなと思います。プロレスバーについて他の競合を調べると当時はなかったんです。以前プロレスバーはあったんですけど潰れていて、これを競合がないからチャンスと捉えるのか、ニーズがないと捉えるのかの二択でした。開店した2010年のプロレス界は暗黒期を抜けかける頃で、僕自身は面白くなってきたと感じていて、これからもっとプロレス市場は上がると判断して、勝負に出ました。まず、どこでやるのかというは大事だったので事前にリサーチして、やっぱり大阪のプロレス熱はキタ(梅田)よりミナミ(難波)で。ミナミなら大阪府立体育会館だなと。その近辺から空店舗を探したのですがなかなか入れる店舗がなくて、たどり着いたのが今のテナントビルで、目の前には「ムーブ・オン アリーナ(デルフィン・アリーナ、道頓堀アリーナと呼ばれ、かつて大阪プロレス常設会場として使用されていた。2015年に閉店)」がありました。

──ムーブ・オン アリーナの近くだったのは偶然だったんですね。

コウジさん 本当に偶然でした。当時の大阪プロレスを誌面では追ってましたけど、試合は見に行ってなかったので、物件を見に行った時に「大阪プロレスの常設会場、ここなんや」と驚きました。そしてもう、ここでやるんだなと良い解釈をして契約しました(笑)。

──思い切った決断をされたわけですね。

コウジさん 今、考えるとよく勝負したなと思いますよ。その後、プロレスファンの兄を筆頭に色々な方の協力があって開店することができました。当時は大阪にこういう店がなかったので、プロレス関係者の皆さんもものすごく協力的な方が多く、プロレスラーやプロモーターさんをたくさん紹介していただきました。でも、その半面、一部のプロレスラーには「こんな店やるのは金持ちの道楽か、ただのアホしかいないわ」と言われて、馬鹿にされたこともありました。

──それは言われた側はカチンときますね。私もプロレスラーを含めて色々な方に取材してきましたけど、大物になればなるほど、そのような不用意な発言はしないですね。

コウジさん その通りです。大人な対応しないと、どこでどう繋がるかわからないじゃないですか。仮に思っていても相手に不快になると察したら、その本音は言わないですよ。場をわきまえますから。



早い段階で経営は安定するも、自分自身の器とスキルが追いつかなった



──2010年にカウント2.99を開店して、そこから「これはいけるな」と思えるようになったのはいつ頃ですか?

コウジさん 開店してから1年目から売上があがって、半年ぐらいで経営は安定しました。そういう意味では結構早い段階でいけるなと思いました。ただ、せっかく皆さんのおかげでお店を軌道に乗せてくださったのに、そのスピードに自分自身の器とスキルが追いついてなくて。背伸びばかりの毎日ですごく辛かったです。揉め事もよく起こしましたし人間的にもまだまだでした。自分で始めたお店だったのに、「カウント2.99」の名前が勝手に一人歩きした時期があって、自分のお店とは思えなくなってしまってもう辞めようかなと思った時もありました。

──今、おっしゃった話でいうと、店の売上スピードに対して、ある程度自分が追いついてきたなと思えたのはいつ頃になりますか?

コウジさん 心技体が揃ったと感じたのは9年目ですね。日々の通常営業であったり、たくさんのプロレスラーが当店でイベントをしていただいて、自信とか色々なものを積み上げていったんですけど。9年目にそれまで数回当店でイベントをやっていただいていた飯伏幸太選手とバースデーイベントをしようとなりまして、お店を飛び出して開催しようとなりました。具体的に言うと、ライブハウスを借りて150人ぐらいお客さんを入れて。結果、飯伏選手の表現を借りるなら「大爆発」したんです。その瞬間もですがイベント終わってから、この仕事を始めてから自分が持っていたマイナスの感情があのイベントで一気にプラスへ転じたというか、大きな自信になったんです。あのイベントで辛かった時の負の感情が精算できたなと。バーテンダーが本職なんですけどね(笑)


店内でプロレスの映像しか流さない理由


──これは聞いてみたいなと思ったのが、以前お客さんとしてカウント2.99に行った時に、コウジさんが「プロレスバーを立ち上げてから、格闘技中継を流そうかなと思ったりもたけど、最終的には流さなかった」という内容を言われてたのも覚えているんです。他のプロレスバーだったら、格闘技中継や普通にテレビ番組を流すところもあったりするじゃないですか。

コウジさん はい。

──カウント2.99では、プロレスしか店内に流さないという理由は何だったんですか?

コウジさん それはジャイアント馬場さんの理論で「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」ですよ(笑)。プロレスバーをやるなら、基本的にプロレスだけ扱います。実は最初はスポーツバーにしようかなと迷ったこともありました。スポーツバーを名乗っていてプロレスを中心に扱っているところがありますけど、その気持ちは分かるんです。サッカーが盛り上がっていたらサッカーを扱いたいし、野球が盛り上がっていたら野球を扱いたいから。でも僕はサッカーも野球もそこまで詳しくない。専門店(コンセプトBAR)をやるなら、店のスタッフが詳しくないといけないと思うんです。詳しいスタッフがプロレスに絞って運営をする。そうすることでプロレスファンは全部取り込みにいきますよと。プロレスだけに特化してプロレスのファンの方に知っていただくやり方を取ったっていう感じですね。

──そうだったんですね。

コウジさん お客さんに言われるまで気づかなかったんですけど、Googleで「プロレスバー」で検索した時に何年目かの段階でカウント2.99がトップに出るようになったんです。特にSEO対策をしたわけではなくて。それはプロレスに特化して店を運営した結果だと思います。

──そこは格闘技に寄り道をしなかったっていうのが正解でしたね。

コウジさん そうですね。本当にプロレスを独占するというやり方ですよ。

──馬場イズムですね(笑)。

コウジさん ハハハ。新日本ファンだったのに、馬場イズム(笑) でも言えることは、見てきたプロレス全てが経営に生きています。



お客さんが来たいなと思わせる話題作りや情報出しを常にやらないといけない


──ありがとうございます。ではカウント2.99を経営していく上での苦労についてお聞かせください。

コウジさん 苦労は今でもありますよ。とにかくうちは何かやっている感を常に出しています。周りのイメージは「カウント2.99はいつもイベントをやっている」というのがあると思うんですけど、それをずっと意識しています。

──カウント2.99開店当初からですか?

コウジさん はい。それは今も変わらないですよ。止まったら終わりやと。新しいメニューやイベントを常に考えないといけないという苦労はあります。バーという待ちの仕事ですけど、お客さんが来たいなと思わせる話題作りや情報出しは絶対、僕はやらなあかんと思ってるんですね。カウント2.99に来ていただける努力をしないと。ただ毎日お店に来てお客さんを待っているだけではダメ。昔みたいに有料で広告出していく時代ではなく、SNSは無料で宣伝できるんですから利用しないなんかもったいない。だから、常に「攻めの姿勢」です。あと新鮮なものを出さないとお客さんも飽きちゃうので、「今月どうしようかな」とずっと考えてますよ。

──それはこの店をやり続ける限りは続くでしょうね。

コウジさん そうですね。



プロレスラーは本当に面白いので、イベントでその魅力を届けたい



──カウント2.99さんで手掛けたイベントで思い出のイベントはありますか?

コウジさん うちのホームページには過去来ていただいたレスラーさん絶対毎回、お写真いただいていて掲載しているんですけど、もう300本以上イベント開催させていただいているんで、思い出はいっぱいですね。

──開店して13年で300本以上のイベント数って尋常じゃないですね。

コウジさん イベントも「攻めの姿勢」ですから(笑)。最近では藤波辰爾選手、古くは藤原喜明選手、天龍源一郎さん、小橋建太さん、蝶野正洋選手といったレジェンドレスラーの皆さんは子供の頃にテレビで見ていましたから。自分のお店に来ていただいたのはすごく嬉しかった思い出ですね。あと今WWEで大活躍しているASUKA選手(明日華/華名)やイヨ・スカイ選手(紫雷イオ)、新日本だと棚橋弘至選手、真壁刀義選手、矢野通選手といった現在活躍しているレスラーのイベントも手掛けさせていただいて。振り幅でいうとDDTのヨシヒコ選手のイベントも開催しましたから(笑)。ヨシヒコ選手のイベントをやったのはうちだけだと思いますよ。

──DDT系の飲食店でもヨシヒコイベントはなかったように思います。

コウジさん あのイベントはファン参加型で、ヨシヒコ選手が何を言ったのかを心の声で聞き取っていく感じのイベントでした(笑)。

──ハハハ(笑)。最高です!

コウジさん うちのイベントは単純に僕が「この人に会いたい」「この人の声を聞いてみたい」と思った人にオファーしています。昔は、ASUKA選手やハヤブサさんへアメブロのメッセージ欄からお声かけしましたし、最近開催した新崎人生選手はみちのくプロレスのホームページにメールを送らせていただきました。やっぱりイベントをやるなら常に面白いことをやりたいですね。誰もやったことがないことをやりたい。プロレスラーは本当に面白いですから、そこを皆さんに届けたい。

──本当に幅広くイベントを手掛けてますね。

コウジさん レジェンドレスラーからメジャー系のレスラーのイベントを数多く開催した結果、安心感や信頼感を得たのかなと思います。「大阪でイベントをやるならカウント2.99がいいな」と思っていただけることも多くなり、年々イベントのお声掛けをいただける機会が多くなりました。もちろん、一つ一つのイベントをしっかりとやらせていただきましたし、オフィシャルサイトをちゃんと作って過去のイベント写真をはじめ情報や実績を正確に掲載して、このお店なら大丈夫だと思っていただける仕組み作りはしっかりやりました。そこはサラリーマン経験が生きています(笑)

──大阪でプロレスのトークイベントをやるにしても、やるところが少ないんですよね。

コウジさん そうですね。歓談系のイベントはありますけど、MCがマイクを持ってちゃんとトークイベントを回すタイプはあまりない気がします。僕はプロレスラーの話を聞きたいので、基本はトークイベントでお願いすることが多いです。イベントと言う限りトークショーは必須だと思っていますし。歓談イベントは歓談なりの良さはもちろんありますけどね。

──確かにそうですね。

コウジさん 実は最初の数回は知り合いの方に進行をお願いして僕はスタッフしてサポートしていたのですが、進行があまりにも面白くなくて(笑)いつからは僕が自分で進行をやるようになりました。イベントをすごいペースで開催していることもあって、自然とMCもやれるようになりました。実はうちで一番イベントをやったのはイヨ・スカイ選手(その当時は紫雷イオ)で10回以上です。彼女がイベントをやるにつれてどんどん出世していって、今や世界のトップレスラーじゃないですか。本当に感慨深いですし、いつか凱旋イベントをしたいなと夢を描いています。

──今はイヨ選手とASUKA選手でWWE女子タイトル戦をやる時代ですからね。

コウジさん そうですよね。凄い時代になりました。こういうトークイベントというのは業界のスターに直で触れられる貴重な機会なんですよ。イベント内外でのスターの振る舞い方や生き方を近くで体感できたのは僕の大きな財産になりましたし。だから、お客さんにも触れてほしいなと年々思うようになりましたね。
(第2回終了)







 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 今回、記念すべき20回目のゲストは、「プロレス西の聖地」プロレスバー・カウント2.99のマスターコウジさんです。





(画像は本人提供です) 




マスターコウジ (北山幸治) 

1976年3月25日、大阪府大阪市生まれ。バーテンダー。

2010年(35歳の時)に脱サラし、同年11月大阪ミナミに「プロレスリングBARカウント2.99」を旗揚げ。日本のプロレスから世界のプロレス、男子プロレスや女子プロレス、クラシックから現代プロレスまで長らく広くプロレスを見続けてきたマスターがプロレスの発信をはじめ、オーセンティックBARでのバーテンダー修行を生かした美味しいお酒を日々提供中。大阪はもちろん、県外から訪れるお客様も多く、最近では海外から訪れるお客様もいるとか。またBARにプロレスラーを招いて開催するイベントもプロデュースを手掛けており、その数は300を超える。


プロレスバー「カウント2.99」 - 大阪ミナミのプロレスバー「カウント2.99」のホームページ 



プロレスバー・カウント2.99とマスターコウジさんについて、以前私はブログで取り上げたことがあります。


ライターになる前、一プロレスファン時代だった頃の私をよく知る数少ない方がマスターコウジさんでした。  

カウント2.99さんがあったから、私はプロレスがもっと好きになることができて、一プロレスファンという立場からフリーのライターとしてプロレスやエンタメを中心に色々な書籍や記事を書く立場になれたと思います。マスターコウジさんは私にとって恩人のひとりです。

プロレスとの出逢い、好きなプロレスラー、好きな名勝負、カウント2.99立ち上げの経緯、イベントの思い出、コロナ禍のカウント2.99、今後について…。


マスターコウジさんへのインタビューは二時間半超えの長時間大作となりました!


是非ご覧ください!


私とプロレス マスターコウジさんの場合「第1回 プロレスファン時代の話」


 


 
 
マスターコウジさんがプロレスを好きになったきっかけとは?


 
──コウジさん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。
 
コウジさん よろしくお願いします!
 
 
 ──まず最初にコウジさんがプロレスを好きになったきっかけからお聞かせください。
 
コウジさん 実は「猪木舌出し事件」(1983年の第1回IWGP優勝戦においてハルク・ホーガンのアックスボンバーを受けたアントニオ猪木が脳震盪を起こし、舌を出して失神した事件)をオンタイムで見ている記憶があるんです。僕は1976年生まれで、当時は7歳でした。

──「猪木舌出し事件」は日本プロレス史に残る謎の事件ですよね。

コウジさん 今まではお客さんにこのような質問をされると「多分10歳くらいですよ」と答えていたのです。でも、「猪木舌出し事件や初代タイガーマスクの試合を何となく覚えてますよ」とか店で話していて、このインタビューに向けて時系列で振り返ると「猪木舌出し事件」をテレビで見た記憶があったので、7歳じゃないのかという結論になりました。

──ということはたまたまマスターの実家のテレビ画面に 『ワールドプロレスリング』が流れていたということですか?

コウジさん そうですね。お茶の間にプロレスがある時代に育っていて、おばあちゃんがプロレスが好きだったんです。あと兄も好きだったので、家でプロレス中継が毎週流れていて、それを見ながら自然とプロレスにハマりました。金曜夜8時の 『ワールドプロレスリング』を見て、当時は翌日の土曜も学校があったので友達とプロレスの話題で盛り上がりました。あとアニメ 『キン肉マン』があって、ファミコンが誕生してからはプロレスゲームもやって、何かとプロレスが常にある環境で育ちましたね。


デカくて強い怪物が好きだった



──ちなみにプロレスを見始めた中で初めて好きになったプロレスラーは誰ですか?

コウジさん 新日本時代のハルク・ホーガンです。やっぱりデカくて強い怪物が好きやったんですよ。そういうのに憧れてかっこいいなと。あとスタン・ハンセンも。ホーガンやハンセンが好きだったから、恐らくラリアットが好きだったんじゃないかなと思います。今でも小島聡選手のラリアット、好きですから。

──プロレスを好きなってからテレビ映像じゃなくて、実際に会場でプロレス観戦されたのはいつ頃ですか?

コウジさん これね、ほぼ覚えていないんですよ。覚えている方は偉いですね(笑)。多分、中学生の時に行ってるので、1990年頃の新日本だと思います。闘魂三銃士やビッグバン・ベイダーは出ていた記憶があります。当時、選手が入場した時にファンが触りにいきませんでしたか?

──確かにそうですね!

コウジさん ハンセンにブルロープで殴られた自慢とか。肝試しのようにベイダーが入場した時に触りに行ったことは記憶してますね(笑)。確か全日本はジャイアント馬場さんが売店に座っていた時代だったので、1990年頃かなと思います。


新日本と全日本の空気感の違い


──ハハハ(笑)。恐らくマスターが初観戦したのは大阪府立体育会館大会だと思われ、その後も大阪府立のプロレス興行は観戦されてきたと思いますfが、新日本と全日本の大阪府立の印象って違いませんでしたか?

コウジさん 違いましたね。今もそうですけど、新日本と全日本の空気感っていうか。やっぱり新日本は華やかですよね。選手やスタッフが変わってもその空気が社風として残っているような気がします。

──以前、中邑真輔選手が新日本のスタッフから聞いた話がありまして、新日本と全日本の違いは照明で、ややどんよりしているのが全日本で、とにかく明るいのが新日本だそうです。

コウジさん なるほど。確かに見える景色の色合いが違いますよね。

──それは客層も同様で、大阪での新日本のお客さんは熱気が凄いじゃないですか。全日本の場合と少し違いますよね。

コウジさん 全日本は落ち着いていて、ドーンとしてますよね。プロレスリング・ノアも全日本系じゃないですか。全日本やノアのお客さんは「どういう試合を見せてくれるんだ」となんか腕組んで試合を見ている感じなんですよ。新日本のお客さんは前のめりに見ている感じで、ファンの気質は今も昔もあまり変わらないと思います。

──その通りですね。

コウジさん 昔は新日派と全日派があって、考え方の相違はありましたよね。全日本は全日本で好きでしたけど、僕は結構、新日派でした。華やかな新日本の方が好きでした。


新日本プロレスの凄さと魅力とは?


──新日本の話も出ましたので、ここでマスターがプロレスファン時代に好きだったという新日本プロレスの凄さと魅力について語っていただいてもよろしいですか?

コウジさん ファン目線になりますけど、単純に華やかでキラキラしていて、魅力的な選手が多かったですよね。全日本も凄い選手がいるんですけど、新日本の方が選手層の厚さが凄いですね。新日本の場合は出れない選手がいるほど、選手層が豊富でした。

──1980年代から1990年代の新日本は、選手離脱による団体危機以外は別ブランドを組めるほど、選手層の厚さには定評がありましたね。

コウジさん あとあの時代の新日本の選手はほぼ黒のショートタイツを履いていましたけど、皆さん個性が強烈でした。今はコスチュームの違いで個性を出すことができる時代なのに、当時はみんな黒パンなのにそれぞれの色が出ていて面白かったです。黒パン一枚で個性を出すのってものすごく難しいじゃないですか。それをやっていたのですから。

──しかもヤングライオンになると技の制限もあって、その状況下で個性を出さないといけないから余計に大変ですよね。

コウジさん そうなんですよ。新日本は凄い団体ですよ。週刊プロレスと週刊ゴングを毎週買ってプロレス情報を追ってましたね。


「破壊王」橋本真也さんの凄さと魅力


──素晴らしいです!次にコウジさんがプロレスファン時代に好きだったプロレスラー橋本真也さんの凄さと魅力について教えてください。

コウジさん 橋本さん、大好きでしたね。高校の時に『G1 CLIMAX』が始まって、よりプロレスにハマっていって毎日、大阪スポーツ(関東でいうところの東京スポーツ)を読んでました。やっぱり僕の青春時代にフィットしていたのが闘魂三銃士と全日四天王。その中で僕は橋本さんのファンになりました。これはホーガンやハンセンを好きになった理由と同じで、圧倒的な強さですよ。1990年代プロレスの強さの象徴は僕にとっては橋本さんなのです。

──橋本さんは「でかい、強い、豪快」というプロレスラーらしい選手ですよね。

コウジさん そうです。説得力が体からあふれ出ているじゃないですか。そこに憧れたり、カッコいいなと思いました。強い選手がめっちゃ好きでした。でもこれは格闘技やUWFとかじゃないんですよ。UWFの選手は基本的にあまり受けがうまくなかったじゃないですか。僕にとってプロレスの強さとは攻めも受けも含めてのものなんです。橋本さんは受けに回ったとしても「弱い」とか思わないですよね。

──そうですね。

コウジさん 試合に負けたとしてもカッコいいじゃないですか。だから橋本さんに感情移入して応援してました。

──橋本さんは勝っても負けても豪快なんですよ。あれは才能ですね。

コウジさん 確かに。なんか魅力的で人間味があるプロレスラーですよね。だから橋本さんに会えなかったという後悔があるんです。もし生きていらっしゃったら橋本さんに会って、色々とお伺いしたかったです。

──橋本さんの武勇伝やエピソードって色々とあるじゃないですか。皆さん橋本さんについて語る時に、嫌そうに語ってなくてニコニコしながら語っていて、あれが橋本さんなんだろうなと思います。なんかそのエピソードが愛せるんですよね(笑)。

コウジさん 同感です。橋本さんは僕にとって試合も生き方も込みで理想のプロレスラー像だったのかなと思いますね。

(第1回終了)