ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスをもっと広めたいという思いブログをやってます。新旧洋邦のレスラーを取り上げた「俺達のプロレスラーDX」を連載中!
ご愛読よろしくお願いいたします。


NEW !
テーマ:

 

俺達のプロレスラーDX
第189回 ひとりぼっちのエスペランサ~罪を背負う最強勇者の栄光と挫折~/高田延彦

 

 

「自分のことを、こんな風に言うのは、あまり良くないことかもしれないが、いまの私は輝いていない。自分が一番分かっていることだ」
【覚悟の言葉 悩める奴らよでてこいや!高田延彦/ワニブックスPLUS新書】

 

2012年に発売された著書で彼は一見、自嘲気味でこう記した。

高田延彦は今年(2017年)55歳を迎えた。プロレスファンじゃない人達やプロレス初心者からすると彼はタレントとして数多くのテレビ番組に出演する芸能人というイメージが強いかもしれない。だがプロレスファンは知っている。この男の強さと凄さを…。

 

「強さに貪欲。やるとなったら脇目をふらず一心不乱にトレーニングにのめり込む。それが高田延彦というレスラーだ」

【プロレス最強は誰だ? プロレス評議会/竹書房】

 

私がプロレスファンになった1992年。

思えばスター選手は皆輝いていたように思えた時代だった。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木は大御所として試合をしていて、長州力、藤波辰爾、ジャンボ鶴田はまだまだ健在だった。SWSを解散してWARを旗揚げした天龍源一郎は新日本に標的を定め、水を得た魚の如く暴れ回っていた。三沢光晴は三冠王者となり、川田利明はスタン・ハンセンと名勝負を残し、プロレス大賞ベストバウトを受賞した。武藤敬司はグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王者となり、蝶野正洋はG1CLIMAX連覇を果たし、馬場に続いて二人目のNWA世界ヘビー級王者となった。

 

そんな1992年、誰よりもプロレス界で輝いていた男…それが高田延彦だった。

184cm 98kgの均整取れた肉体と格闘プロレスUWFイズムである「キック、サブミッション、スープレックス」を見事に体現し、「最強」を掲げたUWFインターナショナルの絶対エースとしてリングで光を放ち続けた。

その甲斐があって、彼はその年のプロレス大賞MVPを受賞する。

強くて華があって、カッコいいプロレスラーの代名詞といえば、この時代は彼だった。

 

「プロレスイベントなんて単に身体の大きなやつらの仮面ライダーごっこ以下」

 

高田は総合格闘技PRIDE参戦以降からプロレスに対してどこか辛辣な発言をするようになった。その境地に至るまでに彼はどんな人生を歩んできたのだろう。新日本プロレスに入ることが夢だった男。彼にとってプロレスは人生だったはずだ。元プロレスラーの戯言だと切り捨てることは簡単だ。しかし、高田はプロレス界のスーパースターだった。プロレスから亡命し、格闘技に鞍替えし、芸能界の住人となった彼のレスラー人生を追いたい。

 

あなたは知っていますか?

1990年代のアントニオ猪木になろうとした男がいたことを。

平成の格闘王としてあらゆる相手をことごとく打ち勝ってきたプロレスラーがいたことを。

プロレスと格闘技、二つの醍醐味をリング上で昇華して見せた天才がいたことを。

総合格闘技のリングに立ち、公開処刑という憂き目にあい、痛烈なバッシングされた男がいたことを。

それでも強さを追い求めるために公開処刑のリングに上がり立ち向かおうとしたプロレスラーがいたことを。

プロレスと格闘技が線引きされる時代となった今だからこそ、ここに記す。

高田延彦という勇者の物語を…。

 

高田延彦は1962年4月12日神奈川県横浜市に生まれた。

本名は高田伸彦(デビュー当初は本名でリングに上がっていた)。

父はサラリーマン、母は水商売で働いていた。

だが高田が小学三年生の時に両親は離婚。彼は父に引き取られる。父は離婚後、毎朝5時半に起きて、朝ご飯を用意し、そして会社帰りには夕飯のおかずを買って帰宅後、子供と食べる毎日。シングルファザーの元で育った高田は寂しさを埋めるために少年野球に打ち込む。当時野球界のスーパースターは長嶋茂雄。長嶋のような野球選手になりたいと夢見た少年はオール横浜に選抜され、最優秀選手にも選ばれるほど野球で才能を発揮していた。そんな高田がプロレスファンになったのは小学6年生の時だ。アントニオ猪木VSストロング小林を見て、猪木のファンになった。

 

中学生となった高田は野球部に入部する。父は息子の弁当作りも行うようになった。ノリにしゅうゆをかけただけの弁当、焦げたウィンナーと卵焼きという定番メニューばかりで、しかも弁当箱は新聞紙で包まれていて、思春期の高田にとって恥ずかしかったという。

だが、中学二年生の夏、父は倒れた。くも膜下出血だった。父が倒れた姿を発見したのも高田だった。幸い、入院から数か月後には日常生活に戻れるまでに回復する。

父が倒れたことによって親戚に預けられた高田。だが、往復3時間の通学はきつかった。模試に遅刻、知人から無視、周囲からの軽蔑、遂には集団リンチに遭う羽目に。野球部通いもしなくなった。もう何もかも嫌になっていた。野球もテレビで観なくなった。甲子園に出たい夢もなくなっていた。

 

そんな失意の高田の目に飛び込んできたのがテレビ朝日系で放映されていたプロレス中継「ワールド・プロレスリング」。セリビアンブルーの新日本プロレスでカリスマレスラーでエースのアントニオ猪木が誰よりも強くて光り輝く眩しかった。こんなにかっこいい人はいないと思った。

 

「新日本でプロレスラーになりたい」

 

野球選手になるという夢を捨て、新たな夢が見つかった高田は中学校に休み、プロレスラーになるためのトレーニングに精を出す。中学生が登校する時間から彼の練習は始まる。毎日ランニング、スクワット1500回を続ける。周囲は冷たい目で彼を見つめる。

 

「学校に行かないでこの子は何をしているんだ?」

 

そんな雑音など高田には関係なかった。トレーニングに没頭し、強くてカッコいい猪木のようなプロレスラーになって周囲を見返したかった。中学を卒業した高田は高校に進学せず、トレーニングとアルバイトに打ち込んだ。新聞配達、酒屋、機材運びといった体力作りに役立ちそうな職種を選び、生活費を稼ぎ、その一方でトレーニングも継続した。だがプロレスラーになるという想いは父にはなかなか言えなかったが、遂に父に「新日本の入門テストを受けたい」という夢を告げる時が来た。最初は大反対した父だったが、「一度受けてダメだったら諦めなさい」と言われ許可が下り、入門テストを受けた高田は"鬼軍曹"山本小鉄の目に留まり、合格する。こうして1980年彼は新日本プロレスに入門する。

 

「『新日本プロレスに入門する』ということが、俺の唯一の夢だった」
【KAMINOGE Vol.10/東邦出版】

 

夢を叶えた高田。だが、それは修羅への入り口に立ったことを意味していた。

 

「白っぽいズボンに麻か何かのジャケットを着て細いネクタイ。えらいハイカラな服装のヤツが入ってきたと思った。コイツが手をつけられない不良でね」

【『週刊ファイト』とUWF 大阪発・奇跡の専門紙が追った「Uの実像」 波々伯部哲也/双葉社】

 

当時新日本の寮長を務めていた前田日明は入門時の高田についてこう語っている。どうやら前田からするとかなり手のかかる新弟子だったようだ。早起きができない高田を叩き起こすのが前田だった。掃除当番をサボり、前田に怒鳴られ竹刀ではたかれたこともある。入門してから半年のある日、女性と仲良くなって無断外泊をしてしまった。翌日、帰ってきた高田を待っていたのは前田の強烈な鉄拳制裁。高田の顔は腫れあがり、立てないほどのダメージを負う。その後、泣きながら道場の雑巾がけをする高田がいた。

 

雑巾がけが終わるとリング上には"道場最強の門番"藤原喜明がいた。藤原が高田にこう呼びかける。

 

「お前、リングに上がれ」

 

関節技の達人・藤原との初のスパーリングで高田はボロボロにされた。殺されるかと思った。意識が遠のく中で藤原の強烈な一言が突き刺さる。

 

「お前、女なんて10年早いぞ」

 

それでも前田も藤原も高田を憎めないヤツだと捉えていた。前田は高田を弟のように可愛がり、藤原はスパーリングで音を上げず、ギブアップしない高田の根性を買っていた。

 

だが一向に体重が増えない高田はなかなかデビューの機会が訪れない。毎月のように体重のノルマを課せられて、それをクリアできなければ解雇される状態。毎食5杯のご飯を食べ続け、とにかく胃袋に食べ物を詰め込んで体重増加に励んだ。ちなみに高田は体重増加のために連れていかれた大相撲・片男波部屋でいつの間にかその部屋の新弟子と登録されていた。プロレスラーになりたい高田を連れ戻したのは前田だったという。この頃から高田は前田を兄のように慕うようになる。

 

そして遂にデビューの時が来た。1981年5月9日保永昇男戦でデビューする。

デビューすると高田は強さへの探求に没頭する。藤原のスパーリングパートナーとなり、関節技やプロレスラーの心構えを教わった。道場破りが来ても対応できるようにキックボクシングとアマチュア・レスリングを習いに行こうとした。すべては強くなるために…。

 

新人時代の高田のライバルは同世代の仲野信市だった。

 

「(仲野信市は)入門は1年上の先輩でした。同じ神奈川出身で、すごく刺激を受けてきた存在」

【「高田VS仲野」レスラー実感/YOMIURI ONLINE 2015年4月3日】

 

そしてデビュー直前の1981年1月から高田は猪木の付き人を務めてきた。

 

「俺の前はね、ヒロ斎藤さんと前田さんがずっと猪木さんの付き人をやってたんですよ。その前は藤原さんが7年ぐらいやってて、メキシコ行く前の佐山聡さんもしばらくやっていたらしいですね。(中略)後藤(達俊)と交代するまでやってたから、4年くらい猪木さんの身の回りの世話をやらせてもらったことになりますね。中学を出たばかりの子供にとって、付き人って役目は凄くいい勉強になりましたね。目上の人に対する言葉づかいから、ちょっとした気の使い方まで、付き人をやらせてもらいながら学んだことは数えきれないです」

 

 

【DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻)斎藤文彦/ベースボールマガジン社】

    

前田や藤原との強さに貪欲になる日の中で、猪木への尊敬は強くなる。

 

「猪木さんがまだ全盛でスタン・ハンセンなんかとガンガンやってたころはね、いつかああなりたいなんていうことよりも、一生この人の付き人やってもいいな、なんて思ってたんだ。俺らがだらだら稽古してた時なんか、腕立て用の棒で殴られたこともあったけど、何されてもつらくなかったな。昔、仲野信市と新日本の合宿で一緒だったころ、よく一緒に飲んだんだけど、俺らの話題といえば猪木さんのことばかり。『猪木さんがダメになったら、俺らも死にましょう』なんてね」

【DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻)斎藤文彦/ベースボールマガジン社】

 

高田にとって転機となったのも猪木の言葉だった。

 

「猪木さんの付き人になって1年以上がたったころ、試合がしょっぱくて干されてしまったんです。
ある地方の試合が終わって控室に戻ると、何人もの先輩からいきなり『何のためにやってんだ』『もう帰れ、辞めろ』と罵倒されました。その晩は旅館で涙が止まらなかった。そんなことを言われたのは初めてでしたから。“復帰戦”をさせてもらえたのは、そこから約3か月もたってからです。北海道で試合を組んでもらえました。実はその干されている間に、ある先輩から『若々しさはないし、おとなしいし、第1試合の意味がない。イベントの足を引っ張るだけだ』とアドバイスされました。だからその“復帰戦”では1年先輩の選手と、鼓膜が破れてあごが外れて、鼻血が流れるぐらいの試合をした。これで会場が沸きました。猪木さんから貴重な言葉をもらったのはこの試合後です。当時はもう第1試合から見るような人じゃなかったんですが『今日みたいな試合をしろ』と声をかけられました。私は『はいっ!!』と元気よく答えた記憶があります。思えばその日が、私のレスラーとしてのターニングポイントとなったのです」
【高田延彦連載9 猪木さんから貴重な言葉をもらった転機の一戦/東京スポーツ 2016年12月27日】

 

1983年4月、兄貴のような存在だった前田がヨーロッパ遠征から凱旋帰国を果たす。「12種類のスープレックス」を取得したと豪語する前田のスパーリングパートナーを務めたのは高田だった。公開練習で次々と前田の危険なスープレックスを受ける高田は内心こう思っていたという。

 

「俺はダミー人形じゃない。いつか全員見返してやる!」

 

この男は人一倍負けず嫌いなのだ。

そんな彼はいつしか道場でも屈指の実力者となっていた。

橋本真也、船木誠勝、山田恵一、佐野巧真(当時・直喜)と言った後輩レスラーは皆、高田の強さに憧れた。特に彼のアキレス腱固めは足を取られた瞬間に一生忘れられない強烈な痛みが走ったという。

 

そんな高田を買っていた猪木はビッグマッチの第一試合にはよく高田を指名し、アメリカやカナダ遠征にも彼を同行させていた。カナダで行った試合は「ワールド・プロレスリング」でも流れた。猪木のストロングスタイルを継ぐ若武者は実況の古舘伊知郎アナからこう形容されるようになった。

 

「青春のエスペランサ」

 

エスペランサとはスペイン語で希望、望徳という意味でキリシタン用語だという。

高田というヤングライオンは新日本にとっては未来に向けた希望の星だったのだ。

 

テレビマッチでトップ選手との試合が増えていった高田は経験値を上げていった。特に1984年4月19日の正規軍と維新軍5対5勝ち抜き戦での谷津嘉章との一戦は敗れたが、後世の残る名勝負となった。特に綺麗なブリッジのジャーマン・スープレックス・ホールドと打点の高い高角度ミサイルキックで谷津をあと一歩のところまで追い込んだみせた。

 

当時の新日本は初代タイガーマスクが引退し混迷期だった。ザ・コブラというタイガーの後釜が不発に終わったのもあり、高田が次代の新日本ジュニアエースになるのではと予感させた。

 

ところが…。

 

1984年、高田は藤原の誘われ、前田をエースの新団体「ユニバーサルプロレス(第一次UWF)」に合流。新日本プロレスを離脱していった。実は高田は同年7月にダイナマイト・キッドが保持するWWFジュニアヘビー級王座への挑戦が決まっていた。なぜ彼は新日本を去ったのか。

 

「ダイナマイト・キッドとのタイトルマッチも決まっていた1984年6月。当時22歳の私は、猪木さんに認められ始めたことを実感しながら、新日本プロレスを飛び出してユニバーサル・プロレス(第1次UWF)に移籍しました。最大の理由は、体をぶつけ合って私を磨いてくれた先輩に『ユニバーサルに行こう』と誘われたからです。猪木さんや山本小鉄さんも大きな存在ではあるけど、やっぱり実際に手を差し伸べて厳しく磨いてくれた先輩がいなくなってしまうのは耐えられなかった。そのころの私にとっては『強くなりたい』という思いがすべてでした。だからその先輩から『行くぞ』と言われれば…。引っ張られたというか、体をぶつけ合って日々を共に過ごしてきた者同士の思いというものに、最後は『負けた』感じでした。シンプルに言えば『兄貴分が行くから俺も行く』ということ。ただ猪木さんがレスラーとして私を認め始めてくれた空気は伝わっていたし、半人前から一人前に足を踏み込みつつある私を視界に入れてくれているということは分かっていた。ですから苦渋の決断でした」
【高田延彦連載11 新日を離れユニバーサル、そして新生UWFへ/東京スポーツ2016年12月28日】

 

このインタビューでは名前を出していないが、藤原に誘われ、苦渋の決断をしたのである。また彼が向かう先に兄貴のように慕っていた前田がいたのも大きかった。

 

ちなみに高田は第一次UWF移籍の際に、まだデビューしていなかった橋本真也を誘っていたという。実は高田は橋本を「宙太(漫画「巨人の星」の伴宙太)」と呼んで橋本を一緒に食事に連れていき、可愛がった。彼にとって前田が兄なら、橋本は弟だった。三人の共通項は「強くなりたい」という願望が強い、そして両親が離婚し、片親で育てられたという孤独な家庭環境だった。しかし、高田のUWF入りの誘いを橋本はこう言って断ったという。

 

「自分は高田さんと違ってデビューしていません。新日本にまで何も恩返ししていません。だからUWFには行けません」

 

高田は「分かった」といって納得したという。しかし、橋本は高田という男の生き方に心の底から共鳴していた。

 

「高田さんの中にある寂しさみたいなもの、自分では分かる気がするんです。他の人が中学に行ってる間、自分は、新日本プロレスに入る道しかなくて、そのトレーニングをするしかなかった。だからその悔しさ、ずっとぶつけて来たんだと思うんだよね」

【泣けるプロレス ベストマッチ/瑞佐富郎と泣けるプロレス制作委員会/アスペクト文庫】

 

UWFは格闘プロレスと称され、他のプロレスとは一線を画すスタイルが賛否両論を呼んだ。

 

試合はシングルがほとんどロープワークを廃する相手の技を簡単に受けないなど従来のプロレスのショー的要素を廃して「キックが急所にまともに入ったら誰であってもまともに立っていられない」、「関節技はポイントがガッチリ決まれば絶対に逃げられない」とする格闘技色の強いレスリングを展開して従来のプロレスに飽き足らなくなっていたファンはUWFの標榜する路線を支持して一部に「UWF信者」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出した。
【UWF/wikipedia】

 

だが経営難により1985年UWFは活動停止に追い込まれ、新日本との業務提携により、高田は再び新日本にUターンする。妥協なきプロレスで新日本でイデオロギー闘争を持ち込んだUWF戦士達。その中で高田はUWFスタイルを貫きつつ、新日本スタイルにも滑らかに対応しようとするプロレスセンスを発揮する。「わがままなヒザ小僧」、「UWFのジェームス・ディーン」という異名通り、「キック、サブミッション、スープレックス」の三種の神器で彼はジュニア戦線のトップに名を連ねた。1986年5月に越中詩郎を破り、IWGPジュニアヘビー級王者となった高田は越中を「ジュニア版名勝負数え歌」を繰り広げていく。当初は全日本出身の越中を見下していた高田だったが、闘うにつれて、真っ向から攻撃を受け止める越中の凄みに一目を置くようになった。まさしく高田にとっては越中は自分のプロレスをぶつけ、相乗効果が生まれるライバルだった。時には越中との試合がテレビ中継で5分弱しか流れず、悔しさのあまりに「俺達の試合がこんな扱いか、もうプロレスを辞めてやる」と憤ったこともあったし、越中とのコンビで年末のタッグリーグ戦に出場を打診された時も、「俺達の扱いを変な扱いにしないなら組んでもいい」といってのけた高田。終盤戦で高田は右手人差し指を骨折、分厚いギブスを付けた状態でリングに上がった。右手が壊れれもいいと思ったが、パートナーの越中は高田の盾となり、一人で対戦相手の外国人チーム(ディック・マードック&マスクド・スーパースター)の猛攻を受け続け、敗れていった。試合後、高田は越中の控室を訪れ、涙ながらに謝罪した。だが、越中は高田の手を気遣ったという。それがまた高田の心に沁みたのだ。高田にとって特別な存在となった越中はこう語る。

 

「僕の蹴りなんか一流のキックボクサーや空手家なんかと比較したら、まだまだ下手くそだと思いますよ。だけど、この100kg近い人間が無防備な相手の顔面なんか思いっきり蹴ったらどうなります? 大怪我か、下手したら再起不能ですよ。それなのに、エッチューさん(越中)はこんな凄い顔して『蹴れるものなら蹴ってみろ!』って胸じゃなくて無防備に顔を突き出してくる。そんなことをされたら、僕の蹴りだって寸前にカーブしちゃいますよ。顔とか表情で反撃してくる人なんて初めてだよね」
【元・新日本プロレス「人生のリング」を追って 金沢克彦/宝島社】
 
試合以外で会話をしたことがない二人。だが、リングでは誰よりも互いを理解していた。その気持ちは越中も同じだった。
 
「高田との試合は快感だったのかな…。どう表現していいのか上手い言葉が見つからないけど、夢中になっていたよね。あのヒリヒリ感がなんとも言えないんですよ。(中略)俺が高田から一番感じたものはオーラなんですよ。まず男前じゃない? それだけで自分の描いているプロレスラーのイメージを覆している。最初からこの野郎って思えるわけですよ。(中略)長州さん、藤波さん、三銃士からも感じたことのない、僕だけに見えるオーラ。それを高田だけに感じるんです」

【元・新日本プロレス「人生のリング」を追って 金沢克彦/宝島社】

 

しかし、ここでも高田には漂流する運命が待っていた。

1988年、高田は前田と共に第二次UWF旗揚げに参加することになる。

高田は前田、山崎一夫共にトップ3「前高山」の一角に君臨する。

一度は前田を破ったこともあったし、元WWF世界王者ボブ・バックランドを破ったのだが、やはりUWFのカリスマ前田の存在の前には高田はナンバー2に甘んじることになる。後輩の船木誠勝に敗退したこともあり、どこか大爆発できないでいたよう思える。その一方で、元プロボクシングWBA&WBC世界ミニマム級王者・大橋秀行のキャップに参加した際、その身体能力と格闘センス、運動神経からトレーナーからボクサー転向を勧められたこともあった。

 

UWFは強さを追い求めたならず者達の集合体だった。その個性派だらけのならず者達は人間関係のもつれから衝突し、第二次UWFは1991年1月に崩壊、三派(前田のリングス、藤原喜明の藤原組、高田のUWFインターナショナル)に分裂していく。高田は宮戸優光と安生洋二らに担がれる形でUWFインターナショナルのエース兼社長となった。このUインター時代こそ彼の全盛期となった。

 

「プロレスこそ最強」を旗印に掲げ、一気にマット界の頂点を極めた団体が、UWFインターナショナルだ。絶対的エースである高田延彦の神懸かり的な強さとカリスマ性。一億円トーナメント、新日本プロレスとの全面対抗戦といった刺激的すぎる話題の数々は、紛れもなく1990年代のプロレス界の中心であった。

【俺たちのプロレス Vol.4/双葉社】

 

何故、Uインターは「プロレスは最強」というアイデンティティーを全面的に打ち出したのか。

何故、高田延彦が団体のエースとなったのか。

Uインターの頭脳と呼ばれ、高田を担いだ張本人である宮戸優光はこう語る。

 

「プロレスというのは強さが一番なんだし、プロのレスリングなんだから。プロレスという言葉の定義を元に戻したかったのがUインターだったんですよ。いざ蓋を開けたら一番強いのがゴロゴロいた。プロレスという本質を追求すればそうなるんだって、そこを見せたかっただけで。だから当時からみんながプロレスって言葉をショーとか八百長的なニュアンスの意味だと勘違いしてたけど、僕は『プロレスって、そういうことじゃないんだよ!』って常に思ってました。(中略)あのときの高田さんはホントにものすごく強かったし、ホントによく練習されてましたからね。その高田さんのすごさ、強さを知らしめたいという思いはありましたね」
【吉田豪の喋る!!道場破り プロレスラーガチンコインタビュー集 吉田豪/白夜書房】

 

そこで宮戸ら首脳部は高田を「1990年代のアントニオ猪木」にするために、"最強の象徴"へのキャラクター作りに着手する。まずはその強さを満天下に示すことが必要だ。だから猪木が「格闘王」と呼ばれるきっかけとなった「格闘技世界一決定戦」を開催し、元プロボクシング世界ヘビー級王者トレバー・バービックや元大相撲横綱・北尾光司を撃破し、その圧倒的な強さを実証。さらに、ジャーマン・スープレックスを殺人技として復活させた"赤鬼"ゲーリー・オブライトを相手に対戦した際は、"鉄人"ルー・テーズが長年保持していた世界ヘビー級王座(通称テーズ・ベルト)を賭けた「プロレスリング世界ヘビー級選手権試合」で大激闘を繰り広げ、見事に勝利を収めた。ルー・テーズ、ビル・ロビンソン、ダニー・ホッジといった伝説のプロレスラー達が賞賛する中で、高田は「最強勇者」となった。

また、Uインター時代の高田は公式コメントと試合前後のコメント以外はあまり発言を控えた。なぜなら猪木とは違い、高田は実はひょうきんな一面もあるので、あまり喋らせると幻想が崩れてしまうという首脳部の方針からだった。だから雑誌のインタビュー記事はよく手直しされていたという。

「プロレスリング世界ヘビー級王者」高田には強豪が待ち受けていた。当時全米アマレス王者で後にUFCトーナメントを優勝するダン・スバーン、日本マット界で最強外国人レスラーともいわれる元IWGPヘビー級王者のビッグバン・ベイダー(スーパー・ベイダー)、元アマレス世界王者で元IWGPヘビー級王者のサルマン・ハシミコフといった怪物達を次々と撃破していき、彼は「平成の格闘王」と呼ばれるようになった。

フジテレビのスポーツ情報番組のキャスターを務め、芸能人と結婚した。当時の日本スポーツ界の代表的なカッコいいアスリートの一人となり、1990年代の猪木となった彼は格闘プロレスが生んだカリスマだった。
だがエースとして、社長としての重圧は高田にのしかかる。
実は本当は彼自身は団体の長になりたいとは思ってはいなかったという。第二次UWF解散後も高田は前田と行動を共にしようとしていたが、宮戸や安生に担がれるようにUインター旗揚げに走ったのだ。重圧と苦悩を抱え、彼はどこか孤独の宇宙の中にいた。
 
「高田さんならまとめられます。だからなんとか一緒にやってくださいって話でした。(中略)お前らがそういう気持ちになってくれるんだったら、つまり俺っていう人間を信頼してくれるんだったら、やってみる価値があるかもしれないな…とは言ったものの、なにか吹っ切れないものがあったのは事実でした」
「時間的なことよりも、精神的なものがきつかったですね。なにかが起きる。すぐに自分のところに相談が来る。問題に5つのランクがあるとしたら、1か2のレベルであれば、みんなも自分で処理してくれるんですけど、3以上になると全部ぼくのところにくる。で、会社が大きくなるにつれて、3以上の部分がどんどん分厚くなってくる。最初のうちは喜んでやっていた部分もあるけど、Uインターが軌道に乗り始めたあたりからは、問題の対策を練る作業がかなりの苦痛になってましたね」
【泣き虫 金子 達仁/ 幻冬舎】
 
Uインターが掲げた「最強」の看板は、ヒットマン安生洋二がヒクソン・グレイシーへの道場破りに失敗し、その株は暴落していった。「最強」の看板に傷がついた団体は求心力が低下していく。一方の高田は苦悩していた。そんな孤独の中で口走ったのが1995年6月の「引退発言」だったという。だが、責任逃れはするつもりはない。参議院選挙に出馬に落選した高田に大きな決断がすることになる。
 
新日本プロレスとの全面対抗戦である。
 
「経営が立ち行かなくなり、またもや人間関係でいろいろあって『なんか面倒くせえなあ』と思い始めたんです。それで誰にも告げず、95年6月の両国国技館大会で『近い将来引退します』と宣言した。半ば投げやりな気持ちでした。ただ、すぐに辞めるわけにもいかなかった。会社には負債もありましたから、代表の私はそれを何とかしないといけなかった。そこにたまたま再び来たのが新日本との対抗戦の話でした。当時はいろいろ言われました。特に95年10月9日の武藤敬司戦(東京ドーム)は足4の字固めで負けたため『今まで何のためにやってきたのか』『なんで4の字なんだ』って…。でも背に腹は代えられなかった。手にした宝物もありました。特にうれしかったのは天龍(源一郎)さんと2回シングルマッチ(96年9月、12月)ができたことです。天龍さんとは、一度はやりたかったから。しかも東スポさんのプロレス大賞で年間最高試合にも選んでもらえました。新日本と対抗戦をやることによって若い選手の顔と名前も売れ、私としての義務作業も落ち着き始めたころに、気持ちは戻るわけです。『さあ、辞める時だ』と」
【高田延彦連載12 新日との対抗戦、そして手にした宝物/東京スポーツ2016年12月28日】
 

新日本との対抗戦で高田は1996年1月4日東京ドーム大会で武藤敬司を破り、第18代IWGPヘビー級王者となった。実は高田はIWGPの歴史において、ヘビー級とジュニアヘビー級の両王座を戴冠した初のプロレスラーである。この記録は2017年11月の段階で、成し遂げている選手は彼だけである。現代プロレス史ではあまり語られない高田の偉業である。

 

1996年12月27日後楽園ホール大会を最後にUインターは解散する。団体は解散した。Uインターの選手達はキングダムという団体旗揚げに参加した。ならば高田はどうするのか?

己のレスラー人生を振り返るとふと少年時代の情景が蘇る。

 

「中学2年生の時、横浜文体でパンフレットを手にして進路を決めた瞬間の自分に対して『このまま辞めたらあまりにもみじめだし、かわいそうすぎる』と思ったんです。プロレスが大好きで、脇目も振らずトレーニングしていたあの時の自分にもし会うことができるなら『入ってよかったよ。最高だったよ』という終わり方をしたかった。しなければ、あの時の自分に申し訳ないと思った。プロレスを嫌いになって辞めたくはなかった。そこで『じゃあどうすれば、あの時の自分に胸を張って辞められるのか?』と考えた時、答えはひとつしかなかった。もう一度、脇目も振らずに目標へ向かって進んでいくこと。戦うしかなかった」
【高田延彦連載12 新日との対抗戦、そして手にした宝物/東京スポーツ2016年12月28日】

 

自分自身の進路を思案していた高田の前に現れたのは榊原信行という人物だった。この男は東海テレビ在籍時代にはK-1名古屋大会やゴルフ東海クラシックのプロモートで「名古屋に榊原あり」と言わしめたイベンターだった。実はUインター名古屋大会をプロモートしたのが榊原だったという。

 

「当時、彼(榊原氏)は名古屋の東海テレビに勤めており、たまたまUインターの名古屋大会を手伝ってくれたんです。大会後の夜の打ち上げで意気投合しました。お礼を言って乾杯をして酒を飲んで…その時にもう気が合ったのかな。気がついたら最後はホテルの私の部屋で2人きりで飲んでいました。そして翌日、彼から電話がかかってきたんです。『昨日僕に言ったことを覚えてますか? ヒクソン・グレイシーの話』って。部屋で飲みながら『ヒクソンと戦いたい』と話していたんです。実は初めてヒクソン戦の希望を伝えた相手が彼。それまでは妻にさえ話したことがありませんでした。そのころ、ヒクソンの評価はさんぜんと光り輝いていました。ホイス・グレイシーが『自分より10倍強い』なんて言ったもんだから、幻想も広がっていた。だから『誰と戦って辞めるか』と考えた時に『世界最強』と呼ばれるヒクソン以外にはいなかった。少なからず因縁もありましたしね。安生洋二が道場破り(1994年12月、米ロサンゼルス)に行ったり、Uインターとしてリング上から『俺たちと戦え』と宣戦布告したり…。ただ、私個人としてヒクソンの名前を口にしなかったのは、どこから手をつけていいか分からなかったからです。現実的につてもなければ、金もなかったわけですから。そんな時にヒクソンの名前が出た。榊原氏は『実は僕、来週名古屋でヒクソンの写真展をやるんです。そこでヒクソンに会います』と言う。もうこれは運命みたいなものじゃないですか。初めて言葉で伝えた彼が、すぐヒクソンに会うって言うんだから。『対戦したいという話を本人にしていいですか?』って言うから『ぜひよろしく!』と答えました。それが1回目のヒクソン戦の原点です。『最後のケジメ』のために始まったんですね。余談ですがPRIDE『1』というナンバリングも、実は『PRIDE』だけだと商標登録の問題で使えなかったからつけたんですよ」
【高田延彦連載13 ヒクソンと戦って辞めるつもりだった/東京スポーツ2016年12月28日】

 

こうして始まったのが高田VSヒクソン実現プロジェクトだった。そして、高田はこの試合で引退しようと決めていた。だが交渉は難航する。高田の心は折れていった。

 

「ところが動きだしてからいろいろあって、実際に戦うまで約2年を要したんです。ヒクソンサイドはOKだったんですが、テレビの地上波とか会場とか、いろんな条件を積み上げていくのは大変な作業で、事態が一転二転三転しました。そんな中で私の気持ちが切れてしまった。『これだけ時間がかかるならやめよう。無理してやらなくていい』と、主催者側に伝えました。すると私が書いた『選手個人の契約以外全て任せます』という委任状が出てきた。委任状を持つ主催者から『それなら裁判になる』と言われたんです。そこで考えました。ヒクソンか法廷か、どちらの戦いがよりシンプルで楽かと(笑い)。法廷の戦いはきつい。シンプルなのはヒクソンだけど、それもきつい。結論として当然『戦うのはリングしかないか…』となった。気がつけば、消去法のようになっていたんです。『やってやる!』が『やるしかないか…』と消極的なものになっていた。最終的に1997年10月11日の対戦が決まったのは、3月に入ったころでした。そこからの準備期間は相手の存在にのまれていましたね。それまでやってきたことをすべて変えて、初めて減量したり禁酒したり…。でも根本的に何を変えたらいいか確信がなくて、ムダな準備をしてしまった。当時は本当に情報が少なかった。グレイシーといえばホイスで、最初のUFCで自分よりはるかに大きい選手を倒して強さを証明した。その上で『ヒクソンは自分の10倍強い』って言ったんですから、幻想は広がる一方でした。トドメになったのは直前にブラジルの柔術家であるセルジオ・ルイスを(練習パートナーに)呼んだことです。ヒクソンと引き分けたことがあるセルジオ相手に最終仕上げでスパーリングをしました。ところがそのセルジオが帰国直前になって『ヒクソンは強い。殴るな。殴った瞬間にタックルに入ってくる』『蹴るな。片足立ちになるとタックルに入ってくる』と言いだした。その後も『組むな』『寝るな』『彼の周りを回っていろ』と続く。要は『対策はない』ってことですよ。正直きつかった。試合直前なんだから『お前ならいける。パンチをブン回せばいける』と勘違いさせてくれればよかったのに…。呼んだ私が悪かった。委任状といいセルジオといい、なかなかうまくいかないですよ、世の中は(笑い)。そういう経緯もあって、リングに上がった時には戦う前からヒクソンに圧倒された状態になっていました」
【高田延彦連載14 戦う前からヒクソンに圧倒されて…/東京スポーツ2016年12月28日】

 

「プロレスこそ最強」という看板と称号を背負い、プロレスファンの期待を全身に浴びてヒクソン戦に挑むはずだった。だが、ヒクソンという幻想が男を追い詰めてしまい気付けば、処刑されるためにリングに上がるという最悪の状態。勝敗は試合前から決していた。しかも大一番を前に首や腰に爆弾を抱え、右足のかかとや左肩の鎖骨も痛めていた。しかも、試合前日には点滴を打つほどの最悪の体調で身体も精神面でもベストコンディションには程遠かった。

 

1R4分47秒、ヒクソンの腕十字にタップした高田。紛れもなく惨敗だった。

 

そのあまりにもひどすぎる負けっぷりに批判が集中した。「プロレスは最強」という看板や称号は高田VSヒクソンで脆くも崩壊。

 

「よりによって一番弱い奴が出て行った」

 

師匠の猪木は高田をこのように酷評した。

 

「プロレス界のA級戦犯」

 

プロレスマスコミは高田をこうバッシングした。

 

「無様に負けて、恥ずかしくないのか」

 

プロレスファンは高田に失望した。

 

人生最悪の敗北を喫した高田はどんな心境だったのか。

 

「1997年10月11日の『PRIDE・1』で私はヒクソン・グレイシーに敗れました。1R4分47秒、腕ひしぎ逆十字固め。その直後から私は酒を飲み歩く自堕落な日々を続けました。地上波でのテレビ放送はなかったのですが、ちょうどCS放送が始まっていた。映像はそちらで放送されたし、翌日の新聞は1面で『惨敗』『惨敗』『惨敗』と出ていた。そんな周囲の状況を私は大きく受け止めた。それも過剰に…。
 例えば歩いていてもすれ違う人が皆『あ、負けたやつだ』というふうに自分を見ていると思い込んでしまう。誰かが遠くで話をしていると、自分をやゆしていると妄想してしまう。そんな精神状態が2か月ほど続きました。そのころから私は『周囲からどう見られているのか』ということを強く気にする気質があるようでね。だから余計にそういう精神状態になってしまったんでしょう。
 そこからは『ああ、これはもう辞めるしかねえかな』と思ったり『でも俺にはこれしかねえか』と気持ちが行ったり来たりして。収拾がつかない思考のまま不健康な生活を続けました」
【高田延彦連載2「ノブさん、ヒクソンともう一回やりませんか」/東京スポーツ2016年12月27日】
「『敗北者』という烙印と荷物を背負い、奈落の底まで落ちた、拭い去れないような絶望的な疲労。負けてからはどうにもこうにもならない状態が続いて、2か月くらい悶々としながら酒を飲み歩く日々が続きました」
【高田延彦連載1 97年ヒクソンに敗れ酒を飲み歩く日々/東京スポーツ2016年12月26日】
 
後に振り返ると高田がヒクソンに敗れたことによって、プロレスは格闘技の波に飲まれていく要因になったのは確かなことだ。その罪を彼はこの敗北で背負うことになってしまったのだ。「最強」を失った代わりに…。
 
だが、そんな高田を守ろうとした男がいた。かつての兄貴分・前田だった。前田は高田がヒクソンに敗れたことが悔しかった。そして、手のひらを返すようにバッシングする連中が許せなかった。前田は猪木に「高田は猪木さんの弟子だった人間。弟子に対して一番弱い奴とはなんだ!」と激怒し、ヒクソンとの対戦に名乗りを上げた。結局この対戦は実現しなかったが、このヒクソン戦は高田の仇討ち以外の何物ではなかった。色々あったし、袂を分かったが、前田にとって高田は可愛い弟だったのだ。
 
その後、高田は1998年10月11日東京ドーム大会でヒクソンと再戦を行った。前回と違い、そこにはリベンジに燃え、負けず嫌いな高田がいた。
 
「再戦に向けて一番変えたかったのは精神状態です。最初の時のように戦う前から圧倒されて消極的な気持ちでリングに上がることだけは、絶対にやめたかった。まず『練習場を作らないといけない』となって立ち上げたのが高田道場です。ヒクソンについては『こんなおっさん、興味ねえ。リングに上がって、ゴングが鳴ったら目を合わせればいい』と考えるようにして準備を進めました。とにかく自分のことだけを考えて、食事も生活スタイルも練習も以前に戻して…。精神状態を『戦いたくて仕方がない』という状態に持っていくことだけに集中しました。そこは思う通りに運んだ。『PRIDE・4』(98年10月11日、東京ドーム)は心地よく当日を迎えられました。ただ一朝一夕であのレベルにはなかなか…(1R9分30秒、腕ひしぎ逆十字固めで敗戦)。ヒクソンと2回戦って分かったことは『強い』の上に『達人』の領域があることです。彼の場合、その達人の域なんでしょう。私は2回とも腕十字で負けたわけですが、あの体勢から腕十字が来るというのは百も二百も三百も承知だった。そこで『ニュルッ』と持っていく“肌感”というかタイミング、スピード、柔らかさ、呼吸。そういうものを特に2回目で感じました。『居合』のようなイメージと表現すればいいのかな」
【高田延彦連載15 ヒクソンに2度負けて分かったこと/東京スポーツ2016年12月28日】
 
ヒクソンとの再戦に敗れた高田は何かを吹っ切るように総合格闘技に打ち込んだ。もうそこには最強と呼ばれた姿はない。だが、元々強さを追い求める本来の彼の姿に戻ったのだ。もう30台後半になってからのMMA挑戦は、彼の生き方からすれば必然だったのかもしれない。
 
毎試合ラストマッチという心構えでMMAに挑んでいた高田が遂に引退試合を迎えることになる。対戦相手はUインターの後輩・田村潔司だった。実は田村はかつて「引退発言」をした頃の高田に「僕と真剣勝負してください」と宣戦布告したことがあったが、結局その対決が実現しなかった。高田にはこの宣戦布告が心に引っかかっていたのだ。
 
「最後に彼を選んだ要因は、当然、それ(「真剣勝負」発言)がないわけがないわけだから。自分もいちファイターとしてさ、当時、そこを選べなかったというものもあるし。そこはドンと構えてさ、そのときに言ってやりたかったなと、あとから大人になると思うわけだよ。それが何年も自分の中で生き続けて、最後にバッと吐き出せたのは良かったと思う」
【俺たちのプロレス Vol.4/双葉社】
 
2002年11月24日、東京ドーム大会で高田は田村の右フックを浴び壮絶なKO負けを喫した。見事に田村に介錯された高田。強さを追い求めた男のリアルなラストマッチだった。高田VSヒクソンがなければ、総合格闘技の隆盛とPRIDEの栄光はない。そう考えると高田はPRIDEの功労者だったのだ。
 
引退した高田のその後は…。
 
PRIDE統括本部長に就任し、同時にPRIDE中継の解説も行っていた。大晦日の特別興行「PRIDE男祭り」のオープニングでは、開会宣言で「おまえら男だ!」と叫ぶ選手呼び込みで話題となった。2003年開催時にはさいたまスーパーアリーナの地上60メートルの屋上に立ち、2004年開催時にはふんどし一丁で暴れ大太鼓を叩いて、「男の中の男たち、出てこいやーっ!」と選手を呼び込んだ。(後にこのフレーズは高田を形容するキャッチフレーズとなる。単に「出てこいやー」とも。)そして、2005年開催時にはタップダンスを披露した後、2006年開催時にはピアノ独奏を披露した後に、ふんどし一丁で暴れ大太鼓を叩いた。
一方で、DSE(後にハッスルエンターテイメント)が主催するプロレスイベント「ハッスル」においては、ハッスル1と『ハッスルGP2008』に電撃参戦する小路晃の記者会見に登場した。なお、悪役レスラー軍団「高田モンスター軍」の「高田総統」とは、高田の古くからの友人という設定になっている。PRIDEに関わっていない現在においても、高田道場が主催する「ダイヤモンドキッス・カレッジ」に小路晃や\(^o^)/チエ、野口大輔レフェリーらが参加するなど、ハッスルとは良好な関係にある。
ディズニーのアニメーション映画「Mr.インクレディブル」で声優に挑戦。日本テレビのテレビドラマ「戦国自衛隊 関ヶ原の戦い・第二部 愛する者のために」や、ドリームステージピクチャーズ製作の映画「シムソンズ」、NHK大河ドラマ「功名が辻」「風林火山」、連続テレビ小説・「瞳」に出演した。
2015年、RIZIN FIGHTING FEDERATIONの統括本部長に就任。
【髙田延彦/wikipedia】
 
2017年10月6日NHK総合で放映された「ここから」という番組に出演した高田はあのヒクソン戦を改めて振り返った。思えば、今年(2017年)で高田VSヒクソンから20年が経っていた。会場となった東京ドームに立った彼は「20年たって消化できていないほど生々しい」と語る。今でもあの日を忘れていない。その後遺症と罪悪感を感じながら彼は生きている。その歪みの中でプロレスへの複雑な感情もあるのかもしれない。あの「プロレスイベントなんて単に身体の大きなやつらの仮面ライダーごっこ以下」という発言もその一端なのかもしれない。
 
だが本当にそれでいいのか?
 
あなたは偉大なプロレスラーだった。
そして、誰よりも勇敢な格闘家だった。
まさしく最強勇者…そのものだった。
どんなにあなたがプロレスに憎悪を感じても、プロレスに失望したとしても、プロレスはあなたの故郷であり、あなたを照らす太陽なはずだ。
 
「最強」の象徴となった男は栄光と挫折を味わい、やがて「プロレス失墜」の罪を背負う格好となった。ずっと心の中ではひとりぼっちだったかもしれないが、私は髙田延彦のレスラー人生は実に偉大で勇敢で贅沢な生涯だったと断言できる。他の誰も味わえない修羅を味わうには、勇敢な高田じゃなければ耐えられなかったのではないだろうか…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
NEW !
テーマ:
俺達のプロレスラーDXを久しぶりに更新しました。今回は高田延彦選手を取り上げました。

ひとりぼっちのエスペランサ~罪を背負う最強勇者の栄光と挫折~/高田延彦【俺達のプロレスラーDX】

今回はかなりの力作になりました。高田選手への想いをこの作品にぶつけました。是非ご覧ください。

さて来週はヘラクレス・ヘルナンデス(ハーキュリーズ)選手を取り上げます。お楽しみに!
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
前田日明「自分から本を作りたいなんて言ったのは初めてなんだから、俺の好きにさせてください」【週刊 前田日明】【カクトウログさん】

※前田日明本は12月発売予定
AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
ユーチューバー草なぎ、ガンプロ乱入!?極小団体トレンド入りの顛末と真の勝者。【Number Web】

※ガンバレ☆プロレスが旗揚げしたときまさかメジャータレントと絡むなんて予想だにできなかった。

カリスマ大家健とガンバレ☆プロレスはやっぱり何かもっている!

一瞬だけでもメジャーになれたことを評価したいですね!

この72時間ホンネテレビは2014年に収録風景がTwitterで拡散され、爆発的なムーブメントとなった劇場版プロレスキャノンボールに状況が似ていましたね。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

WWEビンスが許可したケニー品定め? それともジェリコによるWWE牽制? 1・4東京ドーム大会ケニーvsジェリコ実現の舞台裏【カクトウログさん】



※ケニー・オメガVSクリス・ジェリコはプロレス版フロウド・メイウェザーVSユアン・マクレガーか?あのY2Jが新日本プロレスに参戦!!その衝撃は世界に駆け巡った!

永遠のプロレス・ロック少年Y2Jによる珠玉のLIVE/クリス・ジェリコ【俺達のプロレスラーDX】

もしクリス・ジェリコというレスラーが分からない皆さんに予習の意味で以前書いたこの記事を読んでいただければ有りがたいです!





いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:
 
 
 
俺達のプロレスラーDX
第188回 大人げない文化系名将の処世術~とんねるずイズムと限界超越~/高木三四郎
 

 
「ボクたちとんねるずで火曜ワイドスペシャルの枠をください。
視聴率必ず30パーセント以上取ります。
とんねるず石橋貴明」
 レポート用紙に「企画書」と殴り書きし、石橋は編成局長の日枝久に直談判した。当時とんねるずは毎日のようにフジテレビにいた。石橋は収録の合間、「社会科見学」的なノリでスタッフなどしか入らない政策室の前などをウロウロしていたという。(中略)
 日枝は石橋が提出した"企画書"を読んで、ニヤリと笑い、「視聴率30パーセント取れなかったらどうする?」と迫った。
「(石田)プロデューサーを箱根の彫刻の森美術館に飛ばしてください」
 石橋が即答すると日枝は大笑いして、「よーし、わかった」とその場で、オンエアーを決めた。
 それが「とんねるずのみなさんのおかげです」の始まりである。
「どれだけ幸運に対して貪欲になれるか」という石橋の貪欲さが生んだ番組なのだ。
【1989年のテレビっ子 -たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記 戸部田 誠(てれびのスキマ)/双葉社】
 
 1986年11月11日からフジテレビ系のスペシャル番組「火曜ワイドスペシャル」の中で放映された「とんねるずのみなさんのおかげです」こそ、30年以上続く日本テレビバラエティー史に燦然と輝く「とんねるずのみなさん」シリーズの始まりだった。 
 若かりし頃のとんねるずがテレビ局の制作局に頻繁に出入りし、制作現場の「ノウハウ」や「空気感」を自然と吸収したように今回、取り上げる選手も幼少期にテレビ局に頻繁に出入りすることで、エンターテイメントの制作感を養い、プロレスラーになっても選手だけでなくクリエイターとして団体運営に携わってきたアイデアマンだ。そんな男はこの日、ある大きな賭けに打って出る決意を固め、リング上で表明するつもりだった。
 
2008年12月28日DDT後楽園ホール大会。
インディー団体DDT社長にして、KOD無差別級級王者の高木三四郎はメインイベントで若きエースHARASHIMAを激戦の末、破り防衛に成功した。
試合後、高木はマイクで語り始めた。
 
「正直言って、今年は不景気だとか不況だとか言って、本当に大変な年でした。社長になってから、いや旗揚げしてから最大の危機を迎えたと思っています。本当にこの1年は苦しい年でしたが、皆さんの力のお陰で何とかこの1年を迎えることが出来ました。でも後楽園大会もマッスルを入れて年12回やっています。新木場もやって、地方巡業もやって、正直なところを言うと、もう限界かもしれません。……限界です! ……自分は決めたことがあります。今日、皆さんのそれを報告しに来ました。発表します」
 
するとDDTの選手達が次々とリングに現れる。高木が選手達を遮って発表しようとするとまた、別の施主が阻止する。彼等は高木がリング上で「DDTを解散する」と発表すると思い、各々のやり方で止めに来たのだ。だが、選手達の制止を振り切って高木はこう叫んだ。
 
「お前らが何と言おうと俺は決めたんだよ! これを見ろ!」
 
するとスクリーンには「2009.8.29 DDTプロレスリング両国国技館大会決定II」という文字が躍った。この年、リーマンショックの煽りを受けて赤字に転落していたインディー団体は敢えて攻めの姿勢を打ち出し、大会場に勝負に出た。沸き返る選手達とファン達。高木はさらに熱く語る。
 
「無理だと思っている? でもそんなこと言ってたらこの不況の中、何もできねぇよ! 選手もお客さんもみんな自分の中で勝手に限界を作ってたんだろ? 心の中に限界を作っていたら先には進めないよ。不況になって何をすべきか。ピンチこそ最大のチャンス! だから俺はこの不況の中、8月23日、両国を押さえました。お前ら夢はないのか? プロレスだけやっていればいいのか? お客さん、あんたたちも夢はないのか? あるだろ? 俺たちと一緒に夢を見ましょう! もう待ったなしだ」
 
お前ら、限界を作っていないか。
限界を越えなければ上にはいけない。
 
高木はリング上で我々にそう問いかけた。
それは「限界超越」という道を選ぶことでプロレス界を絶対”生き抜く”という高木の覚悟だった。
これは「誰もやらないことをやること」をモットーとし、プロレス界のすきま産業として躍進してきた"大社長"と呼ばれる男の物語である。
 
高木三四郎は1970年1月13日大阪府豊中市に生まれた。本名は高木規(ただし)という。父は毎日放送の技術部で働くカメラマンだった。彼にとっての遊び場はバラエティー番組の収録スタジオや編集作業の現場だった。制作畑にいた父の影響もあり、エンターテインメントの制作者に憧れを抱くようになる。
 
「そういうことをしているうちに、テレビの世界にあこがれをもつようになるのは自然なことだよな。ただ、普通の子どもならばスポットライトの当たるスターのようになれないと思いそうなもんだが、俺の場合はテレビに映らない方の世界へあこがれたんだ」
【俺たち文化系プロレス DDT 高木三四郎/太田出版】
 
母は自宅で器屋を開いていた。芸大や美大に出た若手の作品に目をつけて販売していた。これは器のセレクトショップのようなものである。
 
「母親のやったことって、僕が学生プロレス出のレスラーに価値をつけて世に出していったのと良く似てる気がします」
【ゴング第3号/アイビーレコード・徳間書店】
 
 制作者である父とアイデアウーマンだった母の影響を多分に受けたことによって、今日の高木三四郎が存在するのだ。テレビ番組を眺めていると彼は土曜日の夕方に放映されていたプロレス中継にはまった。アブドーラ・ザ・ブッチャーがテリー・ファンクの腕にフォークで刺したあの歴史的名場面をブラウン管で見たことで、学校でプロレスごっこにハマる。
 
単に技をマネるのではなく、「僕は天龍で君は背が高いから馬場、お前は太っているからブッチャー」と役どころを決め、さらに星取表を作り自作の最強タッグ決定リーグ戦を展開させていくというもの。全日本の大会でも、アントニオ猪木役を交ぜるなど、そのへんは子供らしくニュートラルだったらしい。特筆すべきは、高木が小学校の時点でプロレスをやる上での"流れ"を意識していた事実だろう「。ごっこではあるが、全体を見てショーを構築するプロデュース肌が発揮されていたのだ。
【レスラーヒューマンストーリーⅡ プロレスラー男の履歴書/ベースボール・マガジン社】
 
プロレスごっこに明け暮れる中で、次第に「プロレスラーになりたい」という夢を抱くようになった高木は高校の時に柔道部に入るも、プロレスを忘れない。彼が所属した柔道部は名ばかりで実質はプロレス同好会のようなものだった。道場でもプロレス技ばかりを練習、商談試験で高木はバックドロップを決めて一本勝ちをしたという。
 
高校を卒業すると駒澤大学に進学した高木だったが、大学にプロレス部(実技)はなかったのでどこにも入らないで大学生活を送っていた。ちなみに彼は1988年5月の第二次UWF旗揚げ戦を観戦している。実はUWF信者だった。後にDDTの別ブランド「ハードヒット」というUスタイル興行を行うようになったのはこの頃の原体験があったからだ。UWF好きが高じて、強さを知りたくなった彼は一年ほどサンボを習ったこともあった。プロレスラーになった時には全く生きていないサンボの技術だったが、プロレスの現場を仕切る時の"腕っぷし"を示す抑止力になっているのがこのサンボの技術なのかもしれない。しかし、大学生活を送る中で「プロレスラーになる」という夢は薄れていった。
 
大学に入りどこにも属さなかったがテレビ業界への憧れから「テレビ番組研究会」に入る。これがきっかけとなってエキストラやスタジオ観覧等でテレビ関係に関わるよいになった。そんなある日、麻布十番の「マハラジャ」で開催されたディスコパーティーに誘われて行ってみると、そこには日常を忘れるように踊る狂う若者達がいた。人がたくさん集まり、一体になって盛り上がる風景を見るのが好きだった彼はクラブイベントに興味を抱き、芝浦にある1200人が収容できる「GOLD」という会場でイベントを開催。そこで2500人を集めたという。映像を駆使したDDTの源流になるような演出をしたイベントを次々と開催し、大学生にしてイベントプロデューサーとしてその界隈で注目される存在となった高木。この頃はよく大手テレビ局プロデューサーや芸能関係者に紹介されていた。周囲は将来はイベント関係の仕事に就くものだと思われていた。
 
だが高木はその道を選ばなかった。大学を留年した彼に屋台村プロレスでリングアナウンサーをしているブレーメン大島に出会う。大島は高木の人脈に興味を持ち、屋台村プロレスを「東京ウォーカー」に掲載してほしいと依頼し、後に記事となった。これがきっかけで屋台村プロレスのスタッフとして手伝うことになった。プロレスの現場に関わることで少年時代から抱いていた「プロレスラーになる」という夢が再燃する。彼は1994年3月に大学を卒業し、入門テストに合格し、同年8月に屋台村プロレスの新人となった。同年12月25日の増田明彦戦でデビュー、12月31日の鴨居長太郎戦で初勝利を挙げたが、これは正式記録ではない。だから屋台村プロレスを率いていた高野拳磁が率いる団体PWCで1995年2月16日のトラブルシューター高智(高知政光)戦で正式なデビュー戦と記録されている。
 
イベンターとしての才能を知っている学生時代の仲間からはこう言われた。
 
「高木さん、なんでプロレスなんかやるんですか? そんなの儲からないじゃないですか。何千人と集めることができる高木さんが屋台村で酔っ払い相手にプロレスって…」
【レスラーヒューマンストーリーⅡ プロレスラー男の履歴書/ベースボール・マガジン社】
 
だが本人は…。
 
「本当に意地だけでしたね。認められていないという現実が悔しくて。イベントとかディスコに行けばVIPルームに通されていた自分がプロレス界では一兵卒で、業界からも同業者からもマスコミからもファンからも黙殺されて。それって、俺の人生ではないな…との思いが強かったんです」
【レスラーヒューマンストーリーⅡ プロレスラー男の履歴書/ベースボール・マガジン社】
 
屋台村プロレスもPWCもインディープロレス。プロレスマスコミでもあまり取り上げられる機会も少ない弱小団体だ。しかもギャラも少ない。だが、高木はインディー界で"野良犬"として地下プロレスのカリスマとなっていた高野拳磁に賭けていた。本当に理不尽で無茶苦茶だが、レスラーとしての色気やポテンシャルがあった。高木がプロデュースしたビアガーデンプロレスが成功した時だ。高木はその利益で後楽園ホールを押さえることを進言するも、高野からは予想外の発言が…。
 
「いや、この金は全部、俺がもらっていくからさ」
 あまりにも予想外のセリフに、俺は思わず「ええっ!?」と声をあげてしまい、二の句が出なかった。頭のなかでは、今聞いたばかりの言葉が脳の周りを旋回している。高野さんの言い分はこうだ。
「いや、俺だってさ、ビアガーデンにリスク背負っていたんだよ。病気とか事故とか事件があったら、俺が全部背負わなければいけねーんだからよ。そういうリスクを、おまえは背負えるのかよ!」
【俺たち文化系プロレス DDT 高木三四郎/太田出版】
 
高木は高野のこの発言を受けて、プロレスへの熱が一気に冷めていった。団体を支える気持ちもなくなった。やがて、高野はビアガーデンプロレス後に行われた興業が不入りだったことに激怒し、「PWC解散」を宣言する始末。
 
もうこの人にはついていけない。
プロレスなんてもうやめよう…。
 
PWC解散でフリーとなった高木になんと自由連合から衆議院選挙への出馬の依頼を舞いこみ、出馬するも落選。自民党から政治家の秘書にならないかという話が来ていた時、PWC時代の同僚であるNOSAWA論外(当時・野沢一茂)から電話がかかってきた。
 
「高木さん、一緒にプロレス団体をやりませんか!」
 
スター選手なんていない、ましてやどインディー団体の若手だけの団体に成功できるわけがない。高木は断っていたが、NOSAWAの熱意に押され、団体旗揚げに参加することにした。参加したのは高木、NOSAWA、MIKAMI(当時・三上恭平)の三人の若手に格闘家・木村浩一郎が扮するマスクマン・スーパー宇宙パワーが立ちはだかるというスタイルを取ることにした。
 
団体名は高木が大好きな漫画「1・2の三四郎」に登場するプロレス団体「ドリーム・チーム」にちなんで「ドラマチック・ドリーム・チーム(DDT)」と名付けた。経営者は高木ではなく、別人物が務めた。
 
1997年3月25日DDTは日比谷ラジオシティでプレ旗揚げ戦を開催。「Judgement」と銘打ったプレ旗揚げ戦は「観客の過半数の支持が得られなかった場合、旗揚げは取りやめる」というファンによる審判を仰ぐことになった。全試合終了後、観客に意を問うと、大部分の支持が得られて正式な旗揚げとなった。
 
木村が参戦したことにより、当初はバチバチを主体にしたプロレス団体だったが、一本のビデオテープを見たことにより、そのスタイルは変わることになる。
 
あるプロレスファンから送られたビデオテープには1990年代後半のWWE(当時・WWF)の映像が収められていた。そこにはまるで連続ドラマのように進んでいく海外のテレビ番組のようだった。リングの試合だけでなくバックステージでのやり取りが放映されていた。
 
WWEのようなプロレスをやってみたい。
映像の協力は取りつけた。WWEで悪のオーナーを演じるビンス・マクマホンの代わりとして、当時ネオ・レディースという女子プロレス団体を経営していた篠泰樹氏がDDTを買収を仕掛けるという役で関わることになった。高木は和製ストーン・コールドとして悪のオーナーに立ち向かうスタンスを取った。こうしてDDTはエンターテイメント・プロレスの道に進むことになった。
 
「DDTは『SMAP×SMAP』みたいにやりたいんです」
 
かつて高木はそう語ったことがある。
『SMAP×SMAP』はコントあり、歌があり、トークがあり、料理があるエンターテイメントのおもちゃ箱のようなテレビ番組。ならば、DDTはプロレス界のおもちゃ箱になりたい。それが、プロレス界のすきま産業としての原点だったのだ。
 
2006年、高木はDDTの社長となった。リング内外で「大社長」と呼ばれるようになる。社長になったことによって高木はプロレスラーとして一皮剥ける。経営に集中して、プロレスを疎かにしているのかという疑問を抱かれるのが嫌だった。元UWFインターナショナルのレフェリー和田良覚氏が指導し、肉体改造に取り組んだ。175cm 95kgという肉体は105kgまでウェイトアップし、フィジカルトレーニングにより、筋量が増加。彼の肉体は屈強にビルドアップされた。「経営においても、レスラーにおいても、決めた目標はきちんと達成する」と男色ディーノが評しているようにコツコツと目標に向かっていくのがプロレスラー高木三四郎の生き様だ。
 
だから2008年12月の後楽園大会。高木は赤字に抱えている中で、守りに入らずにビッグマッチ開催という賭けをすることにした。結果は成功し、DDTは黒字回復した。「限界超越」という決断が事態を好転させたのだ。また、経営における"裏切り"に遭い、DDTを畳もうとしていた時に救ってくれたのはプロレスだった。澤宗紀との「チーム変態大社長」で数々の路上プロレスとバカバカしいプロレスを展開、これが団体を続けるモチベーションとなり、この事態を持ちこたえた。両国国技館大会は2009年以降、夏の恒例ビッグマッチとなり、毎回満員。日本武道館大会、さいたまスーパーアリーナ大会も成功させた。芸能人を絡めたイベントを開催し、高評価を得た。いつしか、一介のインディー団体は「文科系プロレス団体」、「ネオ・メジャー」と名乗るほど独自の立ち位置を築いた。
 
ただ、DDTの価値観はいい意味で変わらない。
 
「新日本さんだったり、全日本さんだったりノアさんにはちゃんとしたプロレスをやっていただきたいなと思ってますね。たとえば新日本さんは日本が昔からやってきたプロレスを守っている団体だろうし、それだけで充分な存在意義があります。結局メジャー団体の選手というのは身体が大きい選手が多くて、ドスンドスンと闘うだけでさまになる。その中で中肉中背の僕らが特色を出して行くにはアイデアが大事ですから。僕らのスタンスは、あくまでスキマ。路上プロレスなんて絶対メジャーの団体はやらない。やらないというか、やる必要がないと思っている。でも、それでいいんですよ。段々僕らのスキマの規模だ大きくなっているのは実感しますけど、ウチは余り意識しないでやっていきたいですね」
【ゴング第3号/アイビーレコード・徳間書店】
 
これは「野郎z」という男性ファン限定興行を開催した時に感じたことだが、高木の本質とは「人を楽しませること」と「自分が楽しむこと」の両立なのだと感じた。特に「自分が楽しむこと」に関してはとにかくバカバカしい企画や行動に走るケースが多い。そこには大人げなくて、身内受けでもいいからとにかくバカバカしいことをして人を楽しませるんだというエンターテイナーとしての臭覚があるのかもしれない。
 
とんねるずは、自分たちの「部屋」をそのままテレビで再現した。そして、アマチュアリズムを維持したまま、ゴールデンタイムという本来大衆に向けるべき時間に、視聴率から大きな支持を集めることに成功した。いわばとんねるずの「部屋」に視聴者を引きずり込んだのだ。とんねるずは「青春時代」そのものの空気をテレビに映し出した。
【1989年のテレビっ子 -たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記 戸部田 誠(てれびのスキマ)/双葉社】
 
この「とんねるずイズム」をプロレス界で体現しているのが高木三四郎とDDTなのだ。そして、一つの武器だけではただのオマージュに終わる。だからこそ「とんねるずイズム」と「限界超越」というクリエイタースピリッツの二刀流が、DDTを支えてきた処世術だった。この二つのイデオロギーでプロレス界に、世間に立ち向かおうとしているのだ。
 
DDTはプロレス界にスキマでいいと言い続けてきた高木だったが…。
 
 プロレス団体のDDTは22日、9月1日付けで発行済み株式の100%をインターネットテレビ局「AbemaTV」などを運営する株式会社サイバーエージェント(代表取締役社長・藤田晋)に譲渡したこと発表した。今後は同社グループの一員となるが、社名および組織の体制に変更はなく、高木三四郎が引き続き社長を務める。また、同社取締役の山内隆裕氏が取締役に就任した。高木三四郎社長は、「いつもDDTグループを応援していただきありがとうございます。このたびご縁がありまして株式会社DDTプロレスリングはサイバーエージェントグループの一員となりました。無料で楽しめるインターネットテレビ局『AbemaTV』を運営する同グループの一員となることで、若い世代にDDTプロレスをよりアピールし、認知度を向上させ、さらなる業務拡大を目指して参ります。なお、9月24日後楽園ホール大会でファンの皆様に改めてご報告させていただきます。DDTプロレスはこれまで以上に楽しく、激しく、デタラメなドラマティックストーリーをファンの皆様にお見せしていきます。これからも変わらぬご声援の程、よろしくお願い致します」とのコメントを発表した。
【DDTがサイバーエージェントの傘下に 全株式譲渡も体制変更なし 高木社長留任/デイリースポーツ 2017年9月22日】
 
驚天動地の発表から二日後のDDT後楽園大会のリング上で高木は高らかに天下取りを宣言する。
 
「サイバーエージェントさんは、インターネットTVのAbemaTVを運営するなど若い層に絶大な影響力を持っています。これからサイバーエージェントさんと共に、DDTはさらなる業務拡大を目指して頑張っていきます!今までDDTはプロレス界がやってこなかったことを逆手に取ってやってまいりましたが、サイバーエージェントグループの一員となった今、声を大にして申し上げたいことがございます。DDTは、DDTらしさをそのままにプロレス業界のナンバーワンを目指します!」
 
DDTらしさを失わないで、プロレス界の頂点を取る。
巨大資本を味方につけた"文科系プロレス団体"を率いる名将が遂に動いた。
"世界一大人げない男"と呼ばれ、プロレス界随一のアイデアマンである高木三四郎。
この男の国盗り物語が始動した。
高木三四郎とDDTは時代を先取るニューパワーになれるのか。世間を自分達の部屋にできるのか。
ここからが、物語は最大の見せ場に突入していくのである…。
 
 
 
 
 
 
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
お待たせしました!俺達のプロレスラーDX、久しぶりに更新しました!DDT大社長高木三四郎選手を取り上げました。

大人げない文化系名将の処世術~とんねるずイズムと限界超越~/高木三四郎【俺達のプロレスラーDX】


是非ご覧ください!よろしくお願いいたします!さて次回ですが…。

遂にあの選手を取り上げます!高田延彦選手です!お楽しみに!
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:
大仁田がSFパワーボム7発で7年ぶり7度目引退! 11・3川崎出場は改めて否定、12・3新木場「大仁田反省会」でレフェリーデビュー【カクトウログさん】

※7度目の引退という記録は前人未踏!! 「大仁田反省会」でレフェリーデビュー!!

なんだか怪しい雲行きじゃないですか!こうなったら復帰も引退もどうでもいいですよ、大仁田選手に関しては。好きにやればいいですよ、引退したらいけないというルールがプロレス界にはないわけですから。

どうぞご自由に!!
死ぬまでプロレスラーとして生きたらいいですよ。
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。