プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 前編「逸材VS闘魂作家」 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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今回は特別企画として、さまざまなジャンルで活躍するプロレスを愛するゲストが集まり言葉のキャッチボールを展開する場を立ち上げました。それぞれ違う人生を歩んできた者たちがプロレス論とプロレスへの想いを熱く語る対談…それが「プロレス人間交差点」です。

 
 
 

 

 

今回はプロレスラー・棚橋弘至選手と作家・木村光一さんによる激論対談をお送りします。

 

 

 

(写真は御本人提供です)

 

棚橋弘至

1976年11月13日岐阜県生まれ。立命館大学法学部時代にレスリングを始め、1999年に新日本プロレスに入門。同年10月、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2003年に初代U-30無差別級王者となり、その後2006年に団体最高峰のベルト、IWGPヘビー級王座を初戴冠。第56代IWGPヘビー級王者時代には、当時の“歴代最多防衛記録”である“V11”を達成した。プロレスラーとして活動する一方で、執筆のほか、テレビ番組等に多数出演。2016年にはベスト・ファーザー賞を受賞、2018年には映画『パパはわるものチャンピオン』で映画初主演など、プロレス界以外でも活躍している。「100年に一人の逸材」と呼ばれるプロレス界のエースである。

 

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「プロレス界の一年の計はイッテンヨンにあり!!」

新日本プロレス2024年1月4日・東京ドーム大会

 

新日本プロレス「WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」 特設サイト 

 

 

 

 

 

(この写真は御本人提供です)

 

 

木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある

 

木村光一さんによる渾身の新作『格闘家 アントニオ猪木』(金風舎)がいよいよ発売!

 

格闘家 アントニオ猪木【木村光一/金風舎】

 

 

 

 

 

YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談

 

https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 

 

 

 

https://youtu.be/FLjGlvy_jes 

 

 

 

https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 

 

 

 

https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 

 

 

 

 

棚橋選手は長年、所属する新日本プロレスだけではなくプロレス界のエースとして活躍してきたプロレスラー。木村光一さんはアントニオ猪木さんに関する数々の書籍を世に出し、猪木さんのプロレス論や格闘技論に最も迫った作家でした。

 

なぜこの2人が対談することになったのか。そのきっかけとなった出来事がありまして、詳しくは私のnoteで経緯や諸々をまとめております。こちらをご覧いただければありがたいです。私と棚橋選手、私と木村さんについてもこちらの記事で説明させていただいています。

 

 

昔もいまもプロレスは面白えよ!|ジャスト日本 

 

 

 

私は棚橋選手と木村さん双方と繫がりがあり、立場やお気持ちも理解できました。だからSNS上で妙にザワついてしまった状況があり、「何とか打開策はないのか」と考えたりしてました。

 

 

そんなある日、棚橋選手とやり取りをしている中でこのようなことを言われたのです。

 

 

「木村さんと、直接、話したいですね」

 

 

 

棚橋選手はシンプルに木村さんという人物に興味を持ったのかもしれません。これまでまったく接点がなかった棚橋選手と木村さんが、新日本プロレスや猪木さんというキーワードを元に言葉を交わす場として今回、僭越ながら私のブログ上で対談することになりました。

 

私にはこの2人に対談していただくことによって棚橋選手にも、木村さんにも、そしてプロレス界にも少しでも恩返しする機会になればいいなという想いがありました。

 

 

そして、棚橋選手と木村さんの対談は、こちらの5つのテーマに絞って行いました。ちなみに私は進行役としてこの対談に立ち会いました。

 

1.映画「アントニオ猪木をさがして」について

2.棚橋選手が新日本のエースとして歩んできた生き方

3.新日本道場にある猪木さんのパネルを外した理由とパネルを戻した本当の理由

4.棚橋選手と木村さんが考える新日イズムと猪木イズムとストロングスタイル

5.これからのプロレスについて

 

 

これは永久保存版です!プロレス界のエースとアントニオ猪木を追い求めた闘魂作家による対談という名のシングルマッチ、いざゴング!


プロレス人間交差点 

棚橋弘至☓木村光一

前編「逸材VS闘魂作家」


 

 

 


 「猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだった」(棚橋選手)




──棚橋選手、木村さん、今回の「プロレス人間交差点」にご協力いただきありがとうございます!プロレスの今と過去をテーマに、未来に繋がり、実りのある対談になればと考えています。よろしくお願いいたします!


棚橋選手 よろしくお願いいたします!


木村さん よろしくお願いいたします!


──まずは10月6日に映画『アントニオ猪木をさがして』が全国公開され、賛否両論の声があがりました。「いまを生きる中高年に改めて、『おめぇはそれでいいのか?』と覚悟を突きつける人生の応援歌」「猪木ビギナーにやさしいつくりの映画」「めちゃくちゃ元気をもらった」といった高評価がある一方、「観る価値なし」「猪木の魅力が伝わってこない」「何度席を立とうとしたか。観る側に何を伝えたかったのかサッパリ分からん」という厳しい意見もありました。そこでお聞きします。まず、出演者として関わった棚橋選手はこの映画についてどのように捉えていますか?


棚橋選手  映画化するという話を聞いた時は「この手があったのか」と思いましたね。スペシャルDVDを制作するとかドキュメンタリー番組を放映するとか色々な打ち出し方がある中で、かつて猪木さんが言っていた「環状線理論」(業界人気を上げるためには環状線の内側がファンだとすれば、環状線の外側にいるファンじゃない人たちを引き込むことが必要だという猪木特有の理論)で考えるとプロレス界の外側に届けることができる映画という手段がよかったかなと思います。

僕はアントニオ猪木VSビッグバン・ベイダー(新日本プロレス/1996年1月4日東京ドーム大会)を見て、以前から好きだった猪木さんに心をあらためて鷲掴みにされて大好きになったんです。猪木さんの試合をオンタイムで見ていたファンの皆さんにはもう一度その素晴らしさを思い出してほしかったし、猪木さんを知らないファンの皆さんにも知ってもらいたかった。ですので猪木さんの功績をこの世に残したいという多くの人たちの想いが映画という形に結実したのはベストだったと思ってます。


──木村さんは映画『アントニオ猪木をさがして』をご覧になってどのように感じましたか?


木村さん 今、猪木ファンの間でも意見が分かれているようですが、率直に言って私にとってはすごく気持ちのいい映画でした。なにより、イベントが大好きだった猪木さんの一周忌に映画を公開していただけたことに対し、いちファンとして感謝しかありません。あまりマニアックに作り込みすぎても一般のお客さんは疎外感を味わうだけになってしまいます。再現ドラマのパートも、アントニオ猪木を理解するとき、やっぱりその時代背景もひっくるめて表現しないと僕ら猪木現役世代が味わった熱い思いは若い人たちには伝わりません。したがって1人の猪木ファンの人生ドラマとしてそれを表現するのはありだなと思いました。


棚橋選手 ありがとうございます。この映画を制作したプロデューサーや監督は木村さんが指摘した部分をかなり意識されてました。ドラマパートは昔からの猪木ファンの方々に「あの頃、よく家族や友達とプロレスの話題で盛り上がったなぁ」という記憶を呼び起こす効果があったんじゃないですか。


木村さん 家族間のテレビのチャンネルの取り合いのエピソードなどはまさにあの時代ならでは。好きな動画をいつでも自由に楽しめる今の若い人たちには想像もつかないことでしょう。


棚橋選手 しかも金曜夜8時に放送されていた『ワールドプロレスリング』(テレビ朝日系)の裏番組も強力だったとか。(1970~1980年代、『ワールドプロレスリング』は日本テレビ系『太陽にほえろ!』、TBS系『3年B組金八先生』といった国民的人気番組と熾烈な視聴率競争を繰り広げていた)


木村さん ビデオデッキは高嶺の花で、一般家庭にようやく普及し始めたのが80年代半ば。ですからそれまではプロレス中継を見る私たちも一発勝負だったんですよ。だから見る側の集中力も高かったし、没入感がまったく違っていましたね。


棚橋選手 没入感!いいキーワードですね。まだエンターテインメントの選択肢が少ない時代、熱中せざるを得ないという状況でもあったわけですね。


木村さん 当時はプロ野球全盛の時代で、大人も子供もみんな野球に熱中していました。ゴールデンタイムのテレビは毎日、巨人戦。おまけに金曜8時は人気番組の勢揃い。でも私のようにプロ野球には乗れないタイプもいて、その人たちのためにプロレスはあるという感じもありました。


棚橋選手 なるほど、迷える人たちをプロレスが「俺たちが受け止めてやる!」と包み込んだという…プロレスは異端児たちの受け皿だったわけですか。まさに受けの美学ですね。




「棚橋選手、あの記事は本音ですか?炎上を狙ったものですか?」(木村さん) 



──棚橋選手は映画『アントニオ猪木をさがして』のプロモーションでかなりの数の媒体でインタビューを受けていました。実はその中の1つの記事が今回のこの対談のきっかけになったわけですが…。


木村さん それについて、一点、棚橋選手に確かめたいことがあります。よろしいでしょうか?


棚橋選手 はい。


木村 私は今のプロレスやレスラーに対して批判的なことを一切書かないことをモットーにしています。それを書いたところで何も新しいものは生まれないし、プロレスファンの世代間の溝が深まるだけ。そんな不毛な衝突を煽るようなことはやりたくないんですよ。でも、『アントニオ猪木をさがして』に関するある記事を読んで違和感を感じ、「これは違うんじゃないか」とX(Twitter)に投稿しました。棚橋選手が本当にそういう話をしたのかどうなのか、あるいはどのように発言が切り取られたのか、何らかの書き手の意図があったのか。棚橋選手の言葉が必ずしもストレートに反映されていない可能性があるとも思いましたが、オフィシャルに棚橋選手の意見として世に出てしまった以上、どうしても黙っていられなかったんです。はっきりお聞きします。あの記事は本音ですか? あるいは炎上をあえて狙ったものだったのですか? 


棚橋選手 僕がアントニオ猪木を越えたという発言ですよね。


木村さん いえ、プロレスラーは自己演出と自己主張をしてナンボですからそんなことは構わないんですよ。私がカチンときたのは、猪木さんが人生を懸けて取り組んでいた事業の数々を揶揄したようなくだり。そもそも事実関係にも誤りがあって、だから「知らないのであれば一切語ってほしくない」という趣旨の意見を書いたんです。


──「試合をして、ファンの喜びを自分の喜びにしたら、『永久電機』ですよ。猪木さんが(アントン・ハイセルで失敗して)作れなかった永久機関を実はもう作っている。猪木超えを果たせたのかもしれません(笑)」という棚橋さんのコメントですね。


木村さん はい。



──アントン・ハイセルは1980年代に猪木さんがブラジル政府を巻き込んで取り組んでいた国際的な事業で、サトウキビからアルコールを精製したあとに残る大量の産業廃棄物であるバガス(サトウキビの搾りカス)をバイオ技術で家畜の飼料に生まれ変わらせ、エネルギー不足と食料不足を一挙に解決するという夢のプロジェクトでした。永久電機は、アントン・ハイセルの失敗から約20年を経て再び猪木さんが手がけた「スイッチを入れたら永久に自力で駆動し続ける発電機」の開発。そもそもアントン・ハイセルで失敗して永久電機を作れなかったというのは時系列からして事実とは違っているということですね。


木村さん その通りです。要するに、アントニオ猪木を否定するなら否定するで、もっときちんと知ってから発言して欲しいんですよ。事業についてもそうですが、プロレスラーとしてのアントニオ猪木をどれだけ理解しているのですかと。私が言いたかったのはそれだけのことでした。


棚橋選手 炎上を狙ったかどうかについては、まったくそんなつもりはなかったです。僕は猪木さんがやってきた数々の事業は本当に凄いことだったと尊敬してます。ただ猪木さんに時代が追いついてなかっただけで。今のプロレスラーで環境問題とかエネルギー問題とか、世界規模で物事を考える選手は1人もいませんよ。「自分がどう強くなるのか」「チャンピオンになってスターになるのか」とか自分主体になってしまうのに猪木さんはどういう頭の中をしているのだろうと思ってました。結果的に事業はことごとく失敗しましたけど、猪木さんが誰もやっていないビジネスにチャレンジしたこと自体が凄いことなんです。だから、つまり、この記事からはその想いが全然伝わってなかったということですね…。


木村さん 印象としてまるで真逆でした。


棚橋選手 それは心外です。自分ができないことをされている方はもう無条件で尊敬の対象になるし、猪木さんの型破りな実行力はもちろん尊敬に値します。また、それを支え続けた坂口征二会長(現・新日本プロレス相談役)も凄いなと思います。


──もしかしたらこの記事で特に物議を読んだくだりも何かしら補足の言葉があれば印象がガラっと変わったかもしれませんね。


棚橋選手 そうですね…。一言、足りなかったのかも…。事業を失敗したことについて、馬鹿にしたようなニュアンスになってしまっていたのなら、僕の想いとは違った形で伝わってしまったのかなと思います。




「猪木さんの存在がいなければ『100年に1人の逸材』にはなれてなかった」(棚橋選手)    




──あらためて、最近の一連のインタビューで棚橋選手が伝えたかったことを教えてください。


棚橋選手 ポイントはいくつかあって、僕より上の世代である50~60代の皆さんとオンタイムで猪木さんを見ていない35歳以下の世代の皆さんにどのようにアプローチするのかを意識しながらインタビューを受けてました。ただ単に猪木さんの素晴らしさを語ると、いくらでも出てくるし、名勝負も多いです。でもそれは猪木さんの好きな方はご存知の話なので、そこじゃない部分でフックを作るということを意識してました。


木村さん 結果的にそのフックが思わぬ形のフックになってしまったと。


棚橋選手 そうですね…。違うところに引っかかったかもしれませんね(苦笑)。「賛否両論あって本物」という人もいるし、「これはちょっと…」という人もいて、それが猪木さんの偉大さで、プロレスの議論を熱くしていたと思うんです。その曖昧さも猪木さんの時代の魅力だったのかなと。今は何でもかんでも「白か、黒か」ときっちり分けてしまうところがあって、それは正しいということなんですけど、白と黒の中間の灰色があってもいいじゃないなというのがプロレスからずっと発しているメッセージなのかもしれません。



──ちなみに棚橋選手は猪木さんと試合をしたわけではないのですが、仮想敵国のような感じでずっとアントニオ猪木という存在と闘ってきたように感じます。ではどの部分で猪木さんに打ち勝ちたいという想いがありましたか?


棚橋選手 うーん…。「やる前に負けることを考える馬鹿がいるかよ!」という猪木さんの名言がありますけど、力道山先生が活躍した頃は戦後の日本復興という時代背景がありました。猪木さんも時代が生んだプロレス界のスーパースターでした。やはり時代に乗れないとなかなかスターからスーパースターには昇格できないんですよ。だから猪木さんに挑むというのは今のレスラーからしたら、負け戦なんです。もう敗退するのを分かっていて突っ込めるのか。新日本に入ってそれをやる選手、やらない選手の2種類に分かれて、やらない選手が圧倒的なに多かったんです。僕はそういう姿勢を打ち出したから、目立ったわけで。だから棚橋弘至というレスラーを作り上げていく中で、猪木さんの力を借りたということです。


木村さん 棚橋選手がアントニオ猪木という絶対的存在と闘うことを決意したのはいつ頃ですか?


棚橋選手 猪木さんが総合格闘技(PRIDE)のプロデューサーをやっていた頃です。正直、「なんでプロレスを助けてくれないんだろう」と思ってました。他力本願かもしれないけど、あの時に影響力がある猪木さんが「プロレスは面白い」と言ってくれたら多くの皆さんが振り向いてくれて、救われた人も多かったはずなのにと…。


木村さん そのときに怒りを感じたわけですね。


棚橋選手 じゃあ僕が猪木さんに負けない影響力を持つレスラーになればいいじゃないかという気持ちをずっと持ち続けて、ここまでプロレスをやってきました。直接的な関わりは少ないですけど、猪木さんの存在がいなければ「100年に1人の逸材」にはなれてなかったような気がします。


──アントニオ猪木という存在がなければ棚橋弘至もレスラーとしてステータスを上げることはできなかったと。


棚橋選手 もっとクセのないレスラーになっていて、ただカッコいいという評価で終わってましたよ。思えば2006年~2010年頃まで結構ブーイングされてましたから。新日本隊にいて、ベビーフェース側なのにブーイングを受けて、強烈に人に嫌われる経験したことが僕のレスラー人生にとって大きかったですね。片方がブーイングされるということは、もう片方に応援が集中するというプロレスの原風景ともいえる仕組みをより知ることができました。


木村さん 猪木さんも「ベビーフェースしかやれないヤツは駄目だ」とよくおっしゃってましたよ。


──私の大好きなレスラーであるブレット・ハートが「車で例えるとベビーフェースは助手席、ヒールはドライバー」という名言を残してましたよ。


棚橋選手 なるほど!


──試合はヒールが組み立てるという意味なのですが、逆にずっとベビーフェースというのもずっと御輿に担がれるという覚悟が必要なのかなと思います。


棚橋選手 確かにその通りですね。



猪木さんの本音

「『プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ』と…」(木村さん)





──木村さんは猪木さんがPRIDEエグゼクティブプロデューサーをされていた頃、猪木事務所のブレーンとして関わっていましたね。格闘技界と接触していく2000年前半の猪木さんの動きについてはどのように思われてましたか?


木村さん PRIDEの百瀬博教先生(作家。「PRIDEの怪人」と呼ばれプロデューサー的役割を担っていた。選手には小遣いや土産を渡すなどタニマチ的な存在でもあった)に同行してアメリカ・ロサンゼルスまで猪木さんの取材に行ったことがありました。その間、PRIDEサイドの考え方、猪木さんに対する評価を百瀬先生から直接伺ったんですが、無条件で猪木さんを称賛してましたね。そのあと、それについて猪木さんはどう感じていたのか本音を聞きました。「なぜ今、格闘技なのか?」と。で、これは言っていいのかな…。


棚橋選手 是非、聞きたいです!


木村さん 「プロレス界は俺をまったく尊敬していない。それに対してPRIDEは最高の敬意を払ってくれている。それに対してきちんと応えているだけだよ」と、ちょっと悔しそうでもありました。


棚橋選手 そうだったんですね…。猪木さんも寂しかったのかな…。


木村さん 孤独だったんだと思います。


棚橋選手 猪木さんはいつも元気でスーパーマンというイメージがあるから、そういう感情の起伏を人に読ませないじゃないですか。だから全然そういう感情には気づきませんでした。プロレス界の側もリスペクトを込めて「猪木さんはここにいてください。全部用意しますからお願いします」という姿勢があってしかるべきだったということですね…。



新日本が一番厳しかった時代で決めた覚悟

「『どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ』と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が『ファー』と僕を包み込むように降りてきた」(棚橋選手)





──猪木さんの寂寥感というのは、1990年代から続く長州力さんの体制になってから続いていたものかもしれませんね。


棚橋選手 猪木さんと藤波辰爾さんの関係と猪木さんと長州さんの関係は違うんですよ。藤波さんはとにかく猪木さんが大好きだったんですけど、長州さんは猪木さんとは違うスタンスだったことも、影響したのかもしれませんね。


木村さん これは私の持論ですが、新日本プロレスの道場には猪木イズムがUWF勢が離脱するまでは受け継がれていたと言われていますが、こと技術に関して言えば、猪木の流儀は新日本の道場には最初からなかったと思ってます。そこにあったのはカール・ゴッチによるゴッチイズムであって、新日旗揚げ以降の選手たちは猪木さんへの尊敬の念は別として、実質的にはカール・ゴッチさんの弟子だった。ところが長州さんはゴッチイズムに馴染めずにあぶれた人で、平成に入って現場は長州体制となり、そこでゴッチイズムを完全否定して新日本道場も作り変えた。新日本はつねに根本から変わり続けていたんですよ。ただ、猪木さんとゴッチさんのプロレス観には隔たりがなかったからよかったのですが、長州さんがゴッチ色を一掃しようとして極端に逆の方向へ走った。だから長州体制になって猪木さんがプロレススタイルについて異議を唱え始めた。猪木さんは「なんで今の選手はラリアットばかりなんだ」と不満そうでしたね。


棚橋選手 たしかに、一時期、新日本にはラリアットプロレスというのが前提にありました。


木村さん 長州さんは猪木イズムやゴッチイズムを全部排除して、まったく新しい自分の世界を作ろうとしたのだと私は考えています。そこで生じた猪木さんとの軋轢が、そのまま2000年代はじめの混乱の源だったと。多くの選手が新日本を離脱する背景にはオーナーである猪木さんと現場トップとの対立がもろに影響していたんですよ。私は猪木さんと長州さんの両方に近い方との付き合いもありましたので、きな臭い話も色々耳にしていました。傍で見ていて、こういう状況では選手や社員の皆さんが疑心暗鬼になるのも当然だと思ってました。そしたら案の定、大量離脱が発生して新日本が経営危機に陥ってしまったんです。



──棚橋選手は大量離脱が発生した2000年代前半でレスラーとして頭角を現わすようになります。その頃の新日本の空気はどうでしたか?


棚橋選手 大量離脱は2000年の橋本真也さんから2006年の藤波さんまでの長期間、続くんですよね。長州さん、大谷晋二郎さん、武藤敬司さん、小島聡さん、佐々木健介さんとか多くの選手が新日本を辞めていきました。でも僕はラッキーと思ってましたよ。これであっという間にトップに行けると!


木村 そこはポジティブに捉えてたんですね。


棚橋選手 僕はIWGP・U-30無差別級王者だった2005年かな。新日本が一番厳しかった時代です。試合会場のドレッシングルームで、「誰かスーパースターが現れてプロレス界が盛り上がらないかな」と漠然と考えていて、先輩や後輩も含めて他のレスラーの顔ぶれを見た時に「俺かぁ!」と思って、そこで覚悟が決まりました。「誰かがやるのではなく自分がやればいいじゃないか」「どうにかならないかじゃなくて、どうにかすればいいんだ」と。その時、映画のワンシーンみたいに円形の光が「ファー」と僕を包み込むように降りてきた感覚があって…。今思うと我ながら、一番険しい道を選びましたね。


──棚橋選手は団体が激動に揺れていた1999年に新日本に入門されました。2000年代前半になると、オーナーである猪木さんの現場介入というのが顕著に目立つようになります。棚橋選手絡みでいいますと、2004年11月19日大阪ドーム大会で当初、ファン投票で棚橋弘至VS中邑真輔の初シングルマッチ(IWGP・U-30無差別選手権試合)が決まったのですが、直前に猪木さんの強権発動でカード変更。棚橋選手は天山広吉選手とのタッグでファイティングオペラ『ハッスル』代表チームの小川直也&川田利明と対戦しました。カード変更の一件も含めて、この時期の猪木さんの介入についてどのように思われてましたか?


棚橋選手 ウンザリしてました。でも、もし当初のカードをそのままやってもたぶん盛り上がらなかったような気がします。猪木さんはなんやかんやで新日本に気をかけてくれていて、意地悪とかじゃなくて、「これが最善策」だと思ってそういう行動を取られたのかと。今、振り返るとそう思います。




「棚橋選手の本音を伺って、猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じた」(木村さん)




──新日本2001年4月7日・大阪ドーム大会。テレビ朝日は当日2時間ゴールデンタイム生中継が組まれていたのですが、新日本からなかなかカード発表がなくて、中継の目玉も提示してこなかったんです。それに対して業を煮やしたテレビ朝日サイドが猪木さんに「中継の目玉を作ってほしい」と直談判したそうです。


棚橋選手 そうだったんですね。


──猪木さんは、テレビ朝日からの依頼を受けて、新日本VS猪木軍という図式で、藤田和之選手に初代IWGPヘビー級王座を持参させて、当時のIWGP王者スコット・ノートンと「IWGP王座統一戦」を組ませたり、犬猿の仲である橋本真也さんと佐々木健介さんの一騎打ちを実現させたり、小川直也さんと長州力さんが一触即発の状況になったり、試合前のセレモニーでなぜか天井に「魂」と書かれた巨大な球体が浮かび中で猪木さんが「闘う魂をこのリングに呼び起こせ!」と叫んだりと、結果的には盛り沢山の話題を提供したとも言われています。


棚橋選手 猪木さんは本当にアイデアマンですよ。普通の人では思いつかない切り口でやってくるので、猪木さんを理解することは並大抵のことじゃないんです。そんな猪木さんを理解する前にシャッターを閉めたのが長州さんだったと思います。


木村さん 今の話を聞いていて、新日イズムって何なのだろうなと…。要するに新日イズムは「どんな手を使ってでも客を入れてやろうじゃないか」ということなんですよ。そして、猪木イズムとは、「“できない”“やらない”は絶対に言わない」こと。


棚橋選手 その意味でいえば、新日イズムや猪木イズムは僕にもありましたね。プロレスラーとしてつねに会場を絶対に満員にしてやるという気持ちはあります。



木村さん ええ、今日、初めて棚橋選手の本音を伺って、なるほど猪木さんの新日イズムは継承されていたんだと感じました。


棚橋選手 僕はプロレスと出逢うまで「このまま普通の生活をしながら人生を終えるのかな」と考えていましたが、高校3年生の時にプロレスが好きになって、「こんなに熱中できるものがあるのか」「プロレスがあるから生きていける」と思うくらい人生が1000倍、楽しくなったんです。逆に「こんな面白いジャンルを知らずにここまで生きていたのか」と後悔の念もありました。プロレスを好きになるというのは確率の問題で、「全国1000万人のプロレスファンの皆さん」と古舘伊知郎さんが実況で言っていた頃は毎週20%の視聴率を取っていましたから1000万人、2000万人がたしかに見ていたんです。今はそこまで多くの皆さんがプロレスと接していないんですけど、1人でも多くの皆さんにプロレスを好きになってもらいたい。そのためには自分たちが自信を持っているプロレスを見せるしかない。だからプロモーションにも力を入れたし、「もっと有名になりたい。有名になればもっとプロレスが世間に届く」とずっと思ってました。



ユークス時代の新日本を振り返る

「今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきました」(棚橋選手)




──それは2005年からのユークス体制になってから棚橋選手がやってきたことに繋がりますね。改めて、この時代について振り返っていただいてもよろしいですか。


棚橋選手 正直に言うと、現場の足並みはまだ揃いきってなかったです。僕がIWGP王者になって、メインイベント後にマイクで興行を締めることが多くてまだ『新日本プロレスワールド』がなかった時代に全国各地の会場で「有名になります!」と宣言してました。「僕が道を歩けないくらい有名になれば、プロレス会場が絶対に満員になるんだ」と…。なんか今、こうやって喋りながら、あの当時の情熱が蘇ってきましたよ。どうやったら有名になるのかずっと妄想してました。例えば、「散歩で通りかかった時に、川で子供が溺れているのを助ければすごく有名になるんじゃないのか」とか。


木村さん たしか猪木さんも代官山のマンションに住んでいた頃、火事から隣人を助けて表彰されたことがあったという記憶があります。でも、猪木さんの場合、いいことをやってもあんまり表に出なかった(笑)。


棚橋選手 猪木さんは奥ゆかしい方で、自分からそういうことを発信するようなことはしませんでしたね。


──では棚橋選手の中で新日本のエースとして試合からプロモーションに至るまで奮闘する中で「これはいけるな!」と思ったのはいつ頃ですか?


棚橋選手 大きく変わったのは2012年のオカダ・カズチカの凱旋ですね。あれから新日本のビジネスがワンランク上がりました。僕は2012年1月4日東京ドーム大会で鈴木みのるさんを破ってIWGP王座V11を達成したのですが、あの時点ではその先の展望があまり見えてなくて、その中で凱旋して僕を破って24歳でIWGP王座を奪取して、一躍スターとなったオカダの存在は大きかったです。農産物で例えると、荒れ地を僕が耕して、種をまいて、芽が出始めた時にオカダという大雨が降って、作物が育って、オカダから王座を取り返すことで僕という太陽によって作物がさらに大きく実った。雨と太陽が繰り返されたことで、一番作物が育ちやすい環境が何年も続いたわけですよ。


──棚橋選手にとってもオカダ選手の存在は特別だったんですね。


棚橋選手 僕と中邑真輔のライバル関係がひと段落した時に、オカダが現れて、4年間は棚橋VSオカダの物語で新日本を引っ張っていったので、あんな敵対関係はなかなかないですよ。だからオカダには「同じ時代に生まれてくれてありがとう」と言いたいですね。


──オカダ選手にとって棚橋選手というライバルがいたから、経験値が上がって自身の成長スピードが加速したという感じがします。


棚橋選手 「レインメーカー」を生んだのは僕かも(笑)。


──ハハハ(笑)。ちなみにこれはお聞きしたかったんですけど、2012年に新日本の親会社がブシロードに変わりました。ユークス体制の時は猪木さんというフレーズがどこかタブー視されていたように思います。ブシロード体制になってからちょくちょく猪木さんの名前が出るようになりました。こちらについてどのように感じてましたか?


棚橋選手 そこは全然意識はしてなかったんですけど、猪木さんに対するアレルギーが時間とともに薄れていった結果なんじゃないですかね。新日本の土台がしっかりしてきて、ビジネスとして盛り上がっていった状況で、猪木さんの名前を出しても揺るがないという自信があったのかもしれません。




「『できない・やれないを絶対に言わない』という猪木イズムに則ると、一度でも『できない』と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう」(木村さん)




──話は少しさかのぼりますが、2006年に猪木事務所が突然閉鎖します。木村さんは猪木事務所の外部ブレーンとして協力されていた時期があり、棚橋選手が新日本で浮上していく頃の新日本と猪木事務所の関係を見ていたと思います。木村さんは新日本と猪木事務所の関係についてどのように捉えてましたか?


木村さん あまりいい関係には見えませんでした。猪木さんではなく、猪木事務所が新日本をひとつ下に見ている感じはありました。これは猪木さんのやり方なんでしょうけど、猪木事務所以外にも猪木さんの側近の方々はそれぞれグループを形成していて、そこで猪木さんをめぐる綱引きがつねに繰り広げられていたんです。結果的には本家本元だと思っていた猪木事務所がある日突然また別のグループに取って代わられて、いきなり解散になってしまった。私は2005年の年末に猪木さんのバングラデシュ視察に同行し、記録ビデオを編集して2006年の正月明けに猪木事務所に届けに行ったのですが、すでに事務所は閉鎖されても抜けの空。青天の霹靂とはあのことでした。


棚橋選手 そうだったんですか…。


木村さん よくよく考えると、どんな言葉かは思い出せないんですが、空港で猪木さんから別れ際にちらっと何かを匂わせるようなことを言われたんです。後から考えるとそれが事務所の閉鎖を示唆してたんですよ。後から解雇された猪木事務所のスタッフから「全く寝耳に水だった。気配もなかった」と聞きました。猪木事務所を解散させるために、極秘裏にさまざまな権利関係の移行手続きが行われていたみたいで、その時、僕はある意味、猪木さんの神ではない悪魔の一面を見た気がしました。猪木さんはこんなふうに自分に群がる人たちをコントロールしてきたのかと。そうやって自分がより活動しやすい環境に乗り換えていく…。これもまた猪木さんの歴史の非情な一面なんですよ。




──言葉がでないですね…。


木村さん 日本プロレスから東京プロレス、また日本プロレスに復帰して、新日本プロレスを旗揚げするという歩みの中で、猪木さんの側近の方々は全部入れ替わっているでしょう。UFOからIGFの時もそう。ずっと猪木さんのそばにいた人はいないんです。猪木さんはプロレス界においては絶対に自分の周りの人間関係を固定しないということを意識的に徹底してやっていたような気がします。


棚橋選手 人間関係が固まると、多分、アイデアも枯渇するからじゃないですか。


木村さん 先ほど私が言った「できない・やれないを絶対に言わない」という猪木イズムに則ると、一度でも「できない」と言ってしまうと猪木さんから見切りをつけられてしまう。そのときに「やります」「俺ならできる」と言った人間がその後も猪木さんの周りについていくというサイクルの繰り返しだったような気がします。


棚橋選手 猪木さんは生い立ちや人間関係が複雑だったこともあって人を見抜く目がものすごく鋭かったんじゃないですか。


木村さん 肩書とか人気者かどうかだとかでは人を評価しない。自分がやろうとしていることに対して「乗れるのか、乗れないのか」「やる気があるのか、ないのか」それだけが判断の基準だったと思います。


棚橋選手 猪木さんは面白いことが好きじゃないですか。「面白いのか、面白くないか」というシンプルな判断基準が猪木さんにはあったんでしょうね。僕は2002年にあの事件があって、相当落ち込んでもうプロレスを辞めるしかないと思った時に、猪木さんにPRIDE(2002年12月23日・マリンメッセ福岡大会)に呼ばれて、初めて人前に出ました。猪木さんがどこかのインタビューで「面白いやつがいるじゃねぇか」と言ってくださって、あれでどれだけ救われたことか…。プロレスという間口の広い土壌がなかったら、僕は多分社会復帰が許されてなかった。あの時、僕は猪木さんにプロレスラーであることを、プロレスを続けることを許してもらえた。なんか「神」に出逢ったような気持ちでした。


──猪木さんには悪魔のような非情な一面もありますが、その一方で人情や心優しい天使のような一面もあって、棚橋選手はこれまでのレスラー人生で猪木さんの両極端な部分を味わったのですね。


棚橋選手 そうですね…。


(プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一前編終了/後編に続く)




後編はこちらです!

プロレス人間交差点 棚橋弘至☓木村光一 後編「神の悪戯」