ジャスト日本のプロレス考察日誌 -3ページ目

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 
 
今回のゲストは俳優の嶋村太一さんです。
 
 

 

 
 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 
 
嶋村太一
フリー活動を経て、1999年に劇団桃唄309へ入団。以後、主要な役を演じ続ける。
演劇系コントユニット親族代表ではリーダーを務め、2014年には全国ツアーを盛況のうちに終える。シリアス、コメデイどちらの世界にも自然に溶け込み、存在感を発揮している。今年7月に英検1級を取得。現在、英会話を勉強中。9月に、クロスロード『セメダインの涙』、朗読劇『おとなの国語』と、2つの舞台に出演予定。
Xアカウント:@shimamurataichi
Instagramアカウント:shimataichi
 
 
(インフォメーション)
クロスロード vol.1
『セメダインの涙』
作・演出 塩田泰造 
2025年9/2日(火)〜7(日)
@下北沢シアター711
 
人生は
「言ってみるもんだな」と 「言わない方が良かったな」
の繰り返し。
この先の十字路、風はどっちに吹いている?
 
▼チケット取り扱い▼ 
ACTぴっと
https://t.co/NhIx4ArHJQ
詳細はこちら↓
https://t.co/FdbmBmMrcl
 
『おとなの国語 其の弍』
9/21(日)〜23(祝火)
@ TOKYO FMホール
 
江戸川乱歩「人間椅子」
谷崎潤一郎「刺青」
夏目漱石「こころ」
誰もが知るストーリーを基にし、新たな設定に置き換えた、誰も知らない全く新しい3部作。
▼特設サイトは下記から▼
https://t.co/MJnbZGL4t3
【公式X】
https://t.co/fGn3VJDSAZ
 
 
Amazon Prime「私の夫と結婚して」第8話
読売テレビ「FOGDOG」第1話

 

 
 

 嶋村さんといえば、バランスの良い身体とちょっぴり甘いマスクを活かした、「エセかっこいい」役が好評を得て、シリアス、コメデイどちらの世界にも自然に溶け込み、存在感を発揮している舞台や映像の世界でも活躍されている俳優さんです。実は大のプロレスファンということで「私とプロレス」にご登場いただきました。      

 

 是非、ご覧ください!

 

 

 
 
私とプロレス 嶋村太一さんの場合
最終回「プロレスと演劇の感情論」
 



プロレスと演劇 感情のやりとりの美学


── 次はプロレスと演劇の話。嶋村さんは俳優として「間」を大事にされてますか?     プロレスでも、技の合間や繋ぎ方に選手のセンスが出ますよね。どんな共通点を感じますか?

嶋村さん  難しい質問ですね(笑)。レスラーじゃないので想像の範囲ですが、プロレスの「間」は、選手の感情や個性が現れる瞬間で、めっちゃ大事だと思いますね     。演技     でも「間」は重要なんですけど、ただ間を取るだけだと、テクニックで終わっちゃう気がします。     いつも、お芝居で意識してるのは、相手の俳優さんと向き合った時に生まれる「感情の揺れ」です。自分で感情を作るんじゃなくて、相手に動かされることで、よりリアルで大きな感情が生まれるんだ     と思います。     プロレスも、相手の技を受けて次のアクションが生まれますよね。そこが似てる気がします。     。

── なるほど! 石井智宏選手が柴田勝頼選手とやると目の色が変わるみたいな、相手が引き出す感情ですよね。プロレスと演劇、めっちゃリンクしてますね。

嶋村さん  そうですね! 橋本さんが長州力さんとやると、キックがいつもより鋭くなるみたいな。あれ、感情の爆発ですよね。演劇も、相手の芝居に反応して初めてリアルな感情が生まれる。そこが、プロレスと演劇の共通点だと思います。

── プロレスと演劇の「相手あってのもの」って、めっちゃ深いです。一人芝居はどうなんですか? プロレスで言えば、仮想の相手との試合みたいな?

嶋村さん  確かにそうかもしれないです。一人芝居は、仮想の相手を脳内で作ってやりとりするから、ちょっとイビツかもしれないけど、同じ原理じゃないでしょうか     。


── プロレス見てて、試合結果よりレスラーの感情が動く瞬間が記憶に残るって言ってましたよね。

嶋村さん  はい。試合の攻防より、レスラーの感情が爆発するシーンが焼き付いてるんです。とは言いつつも、リングや舞台って、観客との距離感も大事なのかなと。プロレスは観客の声援やブーイングが選手の感情に影響するし、演劇も観客の空気が芝居に影響する。どっちも、生き物みたいな空間で、そこで生まれる感情が一番の魅力だと思います     。

── 生き物みたいな空間! めっちゃいい表現ですね。


               



嶋村さんの好きな名勝負三選 

── では、嶋村さんの好きなプロレス名勝負を3つ教えてください。選ぶの大変でしたか?(笑)

嶋村さん  ハハハ、めっちゃ悩みましたよ(笑)1つ目は、2009年11月20日大日本プロレス後楽園ホール、葛西純対伊東竜二のデスマッチ。リアルタイムじゃなくて、後でYouTubeで見たんですけど、試合後の伊藤さんの満面の笑みが忘れられない。葛西さんが引退を考えてる時に、伊藤さんが「楽しかったな、お前やめるつもりじゃねえだろ」って言って、葛西さんが「膝が壊れてもやってやる」って返す。その時の伊藤さんの笑顔が、プロレス史上最高の笑顔だと思うんです。

── あの笑顔! 伊東さんが葛西さんのすべてを受け止めたからこその試合ですよね。葛西さん視点で語られることが多いけど、伊東さんの笑顔にフォーカスするの、めっちゃ新鮮です!

嶋村さん  伊東さんが葛西さんを全部受け止めたから、あの試合が生まれたんでしょうね     。その後、大井町のお祭りで大日本がプロレスが試合するって知って、伊東さん観たくて、飛んで行きました。     リングサイドで、夏祭りの子供たちと一緒に応援     したんです(笑)。あの笑顔、ほんとプロレスの魔法だと思う。

── いいエピソードです! 2試合目は?

嶋村さん  2つ目は、2023年7月15日プロレスリングノア後楽園ホール大会で行われた宮原健斗対中嶋勝彦です。健介オフィスの3人(宮原、中嶋、マサ北宮)の複雑な関係性がリングに映し出されて、登場人物全員がいい仕事されてて     。チケット瞬殺の後楽園で、実況の塩野さんも感情が昂っていた気もしましたし、ゲストのマサ北宮さんが最高で、北宮さんが最初は冷たくて、試合が進むにつれて2人に心を開いていく過程が、感情のリアルさで胸を打ちました     。ランディー・サベージ対天龍源一郎戦みたいな、テレビプロレスの黄金期を思わせる試合でした     。

── あの試合! 3人のギクシャクした関係がめっちゃ面白かったですよね。

嶋村さん  試合の攻防もそうですが     、なによりテレビ画面に浮かび上がってくる登場人物の感情の昂り、もつれ具合     が印象的で     。テレビプロレス     、ほんと大好きなんです     。さっきの伊藤対葛西も、放送席の登坂さんと須山さんの、気持ちの入った喋りが素晴らしかったなぁ。

── 3試合目は?

嶋村さん  3つ目は、2019年10月14日の新日本プロレス両国国技館、獣神サンダー・ライガー対鈴木みのる戦。ライガーさんの引退ロードの一戦で、17年にわたるパンクラスからの因縁の決着戦でした。試合後の鈴木さんがライガーに座礼をして感謝を伝えて、ライガーさんがマイクで「鈴木、ありがとう」と語ったのが、プロレスの理屈を超えた感動を生みましたよね。大河ドラマのような試合で、感情の揺れが今でも心に響いています。

── あれ、ほんと泣けました! 鈴木さんがライガーさんにぶつけた想い、ライガーさんが受け止めた瞬間、ほんと大河ドラマ。ライガーさんの最後の試合(2020年1月5日・東京ドーム)は佐野直喜さんとのタッグだったけど、この試合が引退試合のイメージですよね。

嶋村さん  そう、佐野さんとの試合は覚えてなくて、鈴木さんとの試合が引退試合みたいに感じました     。感情の爆発がすごかったんでしょうね     。

── 3つのチョイス、めっちゃバランスいい! 葛西対伊藤の笑顔、宮原対中嶋の関係性、ライガー対鈴木の因縁。感情の物語が軸になってて、嶋村さんらしいなって思います。


あなたにとってプロレスとは?

── 今後の予定について教えてください。舞台やプロレス観戦の予定は?

嶋村さん  9月に舞台と朗読劇の2本に出演予定です。8月は稽古で忙しくて、プロレス観戦はちょっとお休みかもしれないけど(笑)、舞台での表現にプロレスの感情のやりとりを活かしたいですね。今後も     俳優として深みを追求していきたいです。プロモーション情報はまたお送りしますので、ぜひチェックしてください!



── ありがとうございます。では最後の質問です。嶋村さんにとって、プロレスとは何ですか?

嶋村さん  うわ、めっちゃ難しい(笑)。プロレスは、僕にとって「一生の呪い」かな。一回離れたけど、2012年にオカダのレインメーカーショックで戻ってきて、「今度こそ一生見続ける」って自分に誓ったんです。2013年の東京ドームで、中邑真輔選手を一心不乱に応援する女の子を見て、子供の頃の純粋な気持ちを思い出したんです。あの時の自分に戻りたいって思って、今は情報や先入観を入れずに、レスラーの感情をそのまま受け止めるようにしてます     。プロレスは、リング上で人間性が現れる瞬間が、僕の人生を豊かにしてくれているんです。

── 一生の呪い! めっちゃカッコいいじゃないですか。女の子の応援で原点に戻った話、ほんと素敵です。情報なしで感情でプロレスを見るって、ファンの究極の形ですよね。

嶋村さん  そう、戻れないけど、そうなりたい。ジャストさんみたいな研究は皆さんにお任せして、僕は純粋に楽しみたいです(笑)。

──最後に、プロレスファンへのメッセージをお願いします!

嶋村さん  プロレスは、リング上の感情が人生を教えてくれるもの。情報や勝敗にこだわらず、レスラーの心を感じてほしい。僕も一生追い続けるんで、みんなでプロレスの熱を共有しましょう!

── 最高のメッセージ! 嶋村さんのプロレス愛、めっちゃ伝わりました。ありがとうございました!


嶋村さん  ありがとうございました!!


【編集後記】
嶋村太一さんとのインタビューは、プロレスと演劇を結ぶ「感情のやりとり」というテーマが一貫して響き合う、濃密で心揺さぶられる時間となりました。3歳の国際プロレスでのトラウマ級の恐怖から、1983年のIWGPリーグ戦での興奮、2000年代のプロレス離れを経て、オカダ・カズチカのレインメーカーで再び引き戻された現在まで、嶋村さんのプロレス人生は、感情の波に満ちている。特に、葛西純対伊東竜二戦の伊藤の笑顔、宮原健斗対中嶋勝彦戦の人間関係のドラマ、獣神サンダー・ライガー対鈴木みのる戦の座礼と「ありがとう」の一言など、試合結果よりもレスラーの感情の爆発が心に刻まれるという視点は、嶋村さんの俳優としての感性と深く結びついていているように感じました。

プロレスと演劇の共通点として、嶋村さんの「相手あってのもの」という言葉が響きました。この視点は、嶋村さんがプロレスを見る際の「情報や先入観を排除する」姿勢にも繋がり、純粋なファンとしての原点を大切にする姿勢が強く印象に残りました。嶋村さんの話は、プロレスと演劇が融合した独自の視点を提供してくれたように思います。今後の舞台での活躍とともに、プロレスファンとしての嶋村さんのさらなる「感情の物語」が続いているのかもしれません。





 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 
 
今回のゲストは俳優の嶋村太一さんです。
 
 

 

 
 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 
 
嶋村太一
フリー活動を経て、1999年に劇団桃唄309へ入団。以後、主要な役を演じ続ける。
演劇系コントユニット親族代表ではリーダーを務め、2014年には全国ツアーを盛況のうちに終える。シリアス、コメデイどちらの世界にも自然に溶け込み、存在感を発揮している。今年7月に英検1級を取得。現在、英会話を勉強中。9月に、クロスロード『セメダインの涙』、朗読劇『おとなの国語』と、2つの舞台に出演予定。
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『セメダインの涙』
作・演出 塩田泰造 
2025年9/2日(火)〜7(日)
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人生は
「言ってみるもんだな」と 「言わない方が良かったな」
の繰り返し。
この先の十字路、風はどっちに吹いている?
 
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『おとなの国語 其の弍』
9/21(日)〜23(祝火)
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江戸川乱歩「人間椅子」
谷崎潤一郎「刺青」
夏目漱石「こころ」
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読売テレビ「FOGDOG」第1話

 

 
 

 嶋村さんといえば、バランスの良い身体とちょっぴり甘いマスクを活かした、「エセかっこいい」役が好評を得て、シリアス、コメデイどちらの世界にも自然に溶け込み、存在感を発揮している舞台や映像の世界でも活躍されている俳優さんです。実は大のプロレスファンということで「私とプロレス」にご登場いただきました。      

 

 是非、ご覧ください!

 

 

 
 
私とプロレス 嶋村太一さんの場合
「第2回 心を動かすレスラーたち」
 


スターダムの魔法 コロナ禍で気づいた感情の深さ

 
 
── 次はもう一つの好きな団体、スターダムの魅力について聞かせてください。いつ頃からハマったんですか?

嶋村さん  スターダムは、ブシロードが運営を引き継いでから(2019年頃)何となく見始めたんですけど、本格的にハマったのはコロナ禍の無観客試合ですね。2021年3月3日・日本武道館のジュリア選手と中野たむ選手の敗者髪切りマッチが、感情のぶつかり合いがすごくて、ガッツリ心を掴まれました。声が出せない状況なのに、リング上で二人の因縁が爆発して、まるで舞台のクライマックスみたいな感動があったんです。

── あの髪切りマッチ! ジュリアとたむさんのドロドロのドラマは話題になりましたよね。コロナ禍で女子プロレスの魅力に気づいたって、いい話じゃないですか。どんなところに惹かれたんですか?

嶋村さん  最初は岩谷麻優選手や星輝ありさ選手の試合を見て、「技術すごいな」って感じだったんですけど、コロナ禍で女子プロレスの感情の深さに気づけました。男子プロレスとはまた違う、ストーリーと感情の濃さがあって。特にジュリアとたむさんの試合は、因縁の積み重ねがリングで爆発して、観客がいなくても感情が伝わってくる。舞台のフィナーレみたいな、胸を打つ瞬間でした。

── 無観客なのにあの熱量! スターダムのストーリー性、ほんとすごいですよね。たむ選手は2025年4月27日横浜アリーナで行われた上谷沙弥選手との敗者引退マッチも話題になりましたけど、どうでした?

嶋村さん  あれは、ほんと素晴らしかった。     横浜アリーナでの引退試合、たむさんがすべての関係者に配慮しながら、負けて潔くリングを去った気がしたんです。     、それってプロレス史でも稀有だなって。猪木さんや大仁田厚さんみたいな「唯一無二」の存在感があったんです。たむさんはセルフプロデュースの天才で、現実なのに夢物語みたいなエンディングを作り上げた。上谷沙弥選手と並んで横浜の空を見上げるシーンは、まるで演劇や映画のラストシーンみたいで、魔法のような光景でした。だけど、プロレスでしか作れない空間だったというか。

── あのシーン、ほんと舞台のフィナーレですよね。たむさんの引退でスターダムの動員がさらに増えたって話もありますけど、どう思います?

嶋村さん       影響大きいと思います。上谷選手がたむさんの想いを背負って、団体を牽引してる感じがしますね。スターダムは、選手一人ひとりのセルフプロデュース力と、リング上の感情のドラマが、男子プロレスとは違う魅力。コロナ禍でそれに気づけたのは、僕にとって大きかったです。

── 去年、ロッシー小川さんが辞めてマリーゴールドが旗揚げしましたよね。マリーゴールドもチェックしてます?

嶋村さん  はい、ちょくちょく見てますが、     マリゴは弟が担当です (笑)。正月に会った時、話すのが楽しみです。     でも近藤修司さんがコーチに入ったり、林下詩美選手やMIRAI選手みたいな好きな選手がいるんで、応援してます。いつかスターダムとマリーゴールドの対抗戦を東京ドーム大会とかで見たいなぁ、っていうのは悪いファンの先走りですね(笑)     

── 対抗戦! マリーゴールドのロッシー小川代表とスターダムの岡田太郎社長が当時スターダムで今はマリーゴールドの岩谷麻優選手が間に入ってプロレス大賞の授賞式で話してましたし、いつか実現するかもしれませんね。スターダムの選手層の厚さって、ほんとすごいですよね。

嶋村さん  そうなんですよ。ビクトリア弓月選手やMIRAI選手、桜井麻衣選手、岩谷選手が抜けても団体として強いですね。マリーゴールドも、元スターダム勢はもちろん、山岡聖怜選手や松井珠紗選手とか気になる選手が沢山いるので               、これから楽しみです。


アントニオ猪木さんの振り回す力
 


── 次は好きなプロレスラー3人の魅力について。まずはアントニオ猪木さんからお願いします。

嶋村さん  猪木さんは、僕にとって「心を振り回す天才」です。子供の頃は入場曲だけで「猪木コール」してたのに、2000年代前半、     新日本に介入したりする姿を見て、     嫌いになった時期があったんです(笑)。でも、最終的にはまた大好きに戻るっていう、振り回されっぷりがすごい。

── ハハハ、2000年代の猪木さん! スカイダイビングしたり、橋本真也対小川直也(1999年)とか、ファンにはキツい時期もありましたよね。どの辺で嫌いになったんですか?

嶋村さん  それが、はっきりと良く覚えていないんです。     ただ、あの頃の猪木さんは、なんかプロレスを混乱させる存在に見えてしまって。現役時代の試合も、僕が見たものはハプニングが多くて。1983年のカネック戦は3分で終わるし、引退試合(1998年)はドン・フライで「小川直也じゃないのか!」って裏切られた気分になったり。一度も「試合内容」で満足した記憶がないんですよ(笑)。

── 猪木さんらしいですね! 確かに、70年代が全盛期で、80年代以降はアクシデント多かったかもしれない。暴動が起きたり、ファンに怒られたりもしてましたよね。

嶋村さん  そう、愛されるけど裏切る。それでも、最後に「ありがとう」って言って会場を収める人間力がすごい。YouTubeチャンネルが始まった頃、体調が悪そうな猪木さんを見て、「やっぱりすごい人だ」ってまた戻されたんです。忘れられない人ですね。


── まさに振り回す天才! 古舘さんの実況も猪木さんの魅力を引き立ててましたよね。高校生の頃、プロレスごっこで実況役やってたって話、めっちゃ好きです!

嶋村さん ブームが去った後でしたので、プロレス好きな友達が1人しかいなかったんですよ。なので「透明人間にプロレスする男に実況をする」という高難度なプロレスごっこをしていました(笑)。 クラスメートには受けてたと思います!ハハハ、ほんと狂った高校生でした     。          古舘さんのワードセンス、子供心に憧れましたね。

── 古舘さんの実況、ほんとプロレスの熱を倍増させますよね。猪木さんの試合で、他に好きなエピソードは?

嶋村さん  1987年の猪木さん対マサ斎藤さんの巌流島決戦も、弟と正座待機してテレビの前に座ってたんですが、子供ながらに「思ってたのと違う!」と混乱したのがいい思い出です。でも、忘れられないという。          



橋本真也さん 魂の重低音と人間臭さ


── 次は橋本真也さんの魅力について教えてください。

嶋村さん  橋本さんは、高校生の時に両国国技館で初めて見たレスラーで、魂に響く存在でした。1989年のハシミコフ戦で聞いた入場曲『爆勝宣言』に乗って入場してくる橋本さんがめっちゃカッコよかった! ハシミコフに負けた時の悔しそうな表情が、人間らしくて心に残ってます。

── 89年のハシミコフ戦! 橋本さんが凱旋帰国直後の試合ですよね。若々しい橋本さん、めっちゃいい!

嶋村さん  そうなんです。同じ年の12月、大阪府立体育館でのスティーブ・ウィリアムス戦も見たんですけど、橋本さんのストンピングが会場を震わせて、めっちゃ迫力あった。あの頃は24歳くらいで、膝の手術前だから、キックが凶器みたいに鋭かったんですよね。

── レガースなしのキック! 川田利明さんが「橋本のキックはヤバい」って言ってたくらい、ほんと尋常じゃなかったですよね。

嶋村さん  そう、レガースなしであの威力はほんと怖かった。あとプロレスを見ていると試合の内容より、リング上の感情や光景が心に残るんです。橋本さんの試合って、いつもドラマチックで、入場曲もハチマキも、全部カッコよかった。     ああいう人間臭いレスラーを、僕はずっと待ち望んでいるんだと思います。     

── 2000年の小川直也戦で引退に追い込まれた時はどうでしたか?

嶋村さん  めっちゃ落ち込みました(笑)。     スポーツ新聞を買い漁って、友達と熱く語ってたんですけど、ゼロワンの旗揚げ戦(2001年)で復活した時は興奮しました。でも、その頃プロレスから離れてた時期と重なって、だんだん見なくなっちゃって。2005年に40歳で亡くなった時は、ほんとショックでした。
 
 
石井智宏は言葉に頼らない


── 次に嶋村さんの好きなプロレスラーである石井智宏選手について語ってください。

嶋村さん  石井さんは決して体格に恵まれてる方じゃないですよね。     でも試合を見ていて体格差を感じたことが一度もないんです。


── 確かに!

嶋村さん 田中将斗さん、後藤洋央紀さん、鷹木信悟さん、柴田勝頼さん、真壁刀義さん、ケニー・オメガ…誰と対戦してもいい試合になるのが石井さんの凄さですよ。しかも言葉に頼らず     試合でメッセージを届けてくれるところも大好きです。


── 石井選手はマイクパフォーマンスはほぼないですね。

嶋村さん 本当に石井さんはリスペクトしてます。iPadの壁紙は「Stone Pitbull」です。個人的に僕は大阪府立体育会館が大好きで、あの会場が盛り上がるとテンションが上がって興奮するんです。石井さんの大阪府立で名勝負になった試合も多いんです。2013年8月のG1と2016年2月のNEVER王座を賭けた柴田勝頼戦、2015年11月の本間朋晃とのNEVER戦が印象に残っています。

(第2回終了)
























 

 

 ジャスト日本です。

 

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その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

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『セメダインの涙』
作・演出 塩田泰造 
2025年9/2日(火)〜7(日)
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人生は
「言ってみるもんだな」と 「言わない方が良かったな」
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9/21(日)〜23(祝火)
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 嶋村さんといえば、バランスの良い身体とちょっぴり甘いマスクを活かした、「エセかっこいい」役が好評を得て、シリアス、コメデイどちらの世界にも自然に溶け込み、存在感を発揮している舞台や映像の世界でも活躍されている俳優さんです。実は大のプロレスファンということで「私とプロレス」にご登場いただきました。      

 

 是非、ご覧ください!

 

 

 
 
私とプロレス 嶋村太一さんの場合
第1回 「プロレスとの出会い」
 
 
 

父と見た国際プロレスの衝撃

 

 

── 嶋村さん、この度は「私とプロレス」をテーマにしたインタビューにご協力いただき、本当にありがとうございます! プロレス愛をたっぷり聞かせてください。よろしくお願いします!

嶋村さん  こちらこそ、ありがとうございます。プロレスの話、めっちゃ楽しみです。でも、しっかりお話しできるか、心配です(笑)  

── さっそく本題に入りますが、嶋村さんがプロレスにハマったきっかけって何でしたか? 最初にプロレスに触れた瞬間や、好きになったエピソードを教えてください。

嶋村さん  きっかけは間違いなく父ですね。父が新日本プロレスのアントニオ猪木さんの熱烈なファンで、僕が物心つく前からプロレスの会場に連れて行ってくれてたんです。記憶をたどると、一番古いのは3歳か4歳の頃、岡山で見た国際プロレスの大会。もう、めっちゃ怖かったんですよ(笑)。

── 3~4歳で国際プロレス! めっちゃ早いスタートですね! どんな記憶が残ってるんですか? 3歳だと、ちょっとトラウマになりそう(笑)。

嶋村さん       ほとんど断片的ですけど、薄暗い体育館の雰囲気が異様で、リング上では怖い顔の外国人レスラーたちがドスドス戦ってて。子供心に「何この世界!?」って圧倒されて、泣きわめいたんです。父の話だと、僕があまりに泣くから途中で抱えて会場を出たらしいんですけど(笑)。

── ハハハ、そりゃ泣きますよ! アレックス・スミルノフとかオックス・ベーカーを子供が見たらトラウマ確定ですよ。国際プロレスの雰囲気って、なんかサーカス小屋っぽいですよね。

嶋村さん  まさにサーカス小屋! あの薄暗い感じと、リングの熱気が、子供には恐怖だったんでしょうね。   でも今思うと、岡山の田舎にそんなビッグネームが来てたかもしれないなんて、ほんと貴重な体験ですよね。


1983年IWGPリーグ戦の興奮と恐怖


── その後、プロレスの会場で鮮明に覚えてる観戦体験ってありますか? やっぱり猪木さんの試合とか?

嶋村さん  一番鮮明なのは、1983年5月23日、新日本プロレスの『第1回IWGPリーグ戦』岡山武道館大会です。10歳くらいの時で、メインイベントがアントニオ猪木対エル・カネックの試合だったんですけど、3分くらいで終わっちゃって(笑)。子供ながらに「え、これで終わり!?」って拍子抜けした記憶がありますね。

── 3分! ハハハ、確かにその試合、記録だとめっちゃ短かったですよね。


嶋村さん  セミファイナルがハルク・ホーガン対キラー・カーンのスペシャルシングルマッチだったんですけど、その試合が全然覚えてなくて。一番強烈だったのは、アンドレ・ザ・ジャイアントが入場してきた時の会場の熱気と恐怖なんです。     暴れるアンドレから逃げ惑う人混みに踏み潰されそうになって     「死ぬ!」って思ったのが、プロレスの興奮と一緒に焼き付いてます。

── それ、めっちゃ強烈な体験じゃないですか! アンドレの入場だけで会場がカオスになるって、80年代新日本のパワーですよね。IWGPリーグ戦って、猪木さん、長州力さん、藤波辰爾さん、初代タイガーマスクが揃った黄金期。10歳でそれを見たって、めっちゃ羨ましい!

嶋村さん  そうなんですよね。父が猪木さんのファンだったから、たぶん国際プロレスの時も連れてってくれてたと思うんですけど、僕の中ではこのIWGPリーグ戦が「プロレス観戦の原点」。会場の熱気、リングの迫力、暴れまわる外国人、全部が非日常的     で、これはすぐにまた来なければと思いました。     

── 素晴らしい! 国際プロレスはサーカス小屋の怖さで、IWGPはスターたちの輝きって感じですね。他に会場でのエピソードとかあります?

嶋村さん  周囲の観客が     「猪木! やれ     !」って怒鳴るように叫んでたのが印象的で     。日常にそんな大人、周りにいないじゃないですか。僕も真似して「猪木!」って叫んでたんですけど、いかんせん試合が短すぎて(笑)。ま、入場の猪木コールで大満足してましたが。          

── ハハハ(笑)。カネック、確かにあの頃は猪木さんとの相性が微妙だったかもしれない。会場で他に覚えてることは?

嶋村さん  そうですね、リングサイドにいたスタッフの動きがカッコよかったです。あと田中秀和(現・田中ケロ)リングアナウンサーさんの声や、セコンドの動きを見て、「プロレスの裏方ってすごいな」って子供ながらに思ったんです。あの頃の新日本は、試合だけじゃなくて、会場全体がドラマチックでした。



アントニオ猪木の無敵の魅力



── では、初めて好きになったプロレスラーって誰ですか? やっぱり猪木さん?

嶋村さん  間違いなく猪木さんです。父が毎週金曜8時の新日本プロレスのテレビ放送を家族で見る環境だったんで、猪木さんが自然とヒーローになりました。母は『太陽にほえろ!』が見たかったみたいですけど、父の「プロレス優先!」ってルールで(笑)。猪木さんの入場曲『炎のファイター』が流れるだけで、子供ながらに「猪木コール」を叫んでました。

── 家庭内権力で新日本プロレス! 最高の環境じゃないですか。猪木さんのどんなところが子供心に刺さったんですか?

嶋村さん  子供の頃は、ただただ「強い人」ってイメージだったんですけど、猪木さんの入場シーンがとにかくカッコよかった。赤いタオルを首にかけて、リングに向かう時のあの雰囲気     。父が「猪木は怒らせると怖いぞ。骨を折るからな!     」って言うから、僕も「猪木さんが一番!」って信じてました。


東京への憧れと地方の熱狂



── 好きなプロレス団体について聞かせてください。やっぱり新日本プロレスが一番ですか?

嶋村さん  そうですね。父の影響で新日本一色だったんで、自然と大好きになりました。全日本プロレスは父が「馬場には興味がない     」って感じで、深夜放送の時は、母から「子供は寝なさい」って言われて(笑)。だから、新日本の選手や雰囲気が僕のプロレスのすべてだったんです。

── ハハハ、全日本禁止令! でも、80年代の新日本って、めっちゃ魅力的な団体でしたよね。どんなところに惹かれたんですか?

嶋村さん  新日本は、子供の頃の僕にとって「東京そのもの」でした。岡山の田舎から見ると、蔵前国技館や両国国技館でのビッグマッチは、都会の輝きそのもの。地方興行で新日本が来るだけで、町が祭りみたいになって。古舘伊知郎さんの実況や、リングサイドで働くスタッフのカッコよさにも憧れてました。小学生の頃は、古舘さんのモノマネばっかりしてましたよ(笑)。

── 古舘さんのモノマネ! 80年代の新日本の実況って、試合と同じくらい熱かったですよね。「言葉のマジック!」とか、子供が真似したくなるフレーズばっかり。どんなモノマネしてたんですか?

嶋村さん  「おおーっと!猪木、インディアンデスロック     ! どーですか、小鉄さん!?     !」とか、友達とプロレスごっこする時に叫んでました。小鉄役はいないんですけどね(笑)。     古舘さんのワードセンスに、子供ながらに憧れてましたね。

── 最高の遊び! 新日本のどの時代が一番好きでしたか?

嶋村さん  やっぱり80年代後半から90年代初頭ですね。高校生の時に初めて両国国技館で観戦したのが、1989年8月10日の両国大会メインイベントはビッグバン・ベイダー対長州力のIWGPヘビー級戦で、セミファイナルが獣神ライガー(現・獣神サンダー・ライガー)対佐野直喜のIWGPジュニアヘビー級戦。あと、橋本真也対サルマン     ・ハシミコフもあって、どれも衝撃的でした。

──1989年8月の両国大会といえばライガーさんがプロテクターつけてた試合ですよね。ベイダーが長州さんに回転エビ固めで勝利して王座を奪取したんですよ。めっちゃいいカード揃いじゃないですか! どの試合が一番印象的でした?

嶋村さん  ベイダー対長州は、実は記憶がちょっと薄いんです(笑)。一番強烈だったのは、ライガーさんのプロテクター姿と、橋本さんの入場曲『爆勝宣言』。ハシミコフに負けた時の橋本さんの悔しそうな表情が、なんか人間らしくて心に残ってます。ライガー対佐野は、佐野さんが雪崩式バックドロップで勝ったって後で知ったんですけど、当時はライガーさんがアメフトのプロテクターをつけた痛々しい姿に圧倒されてました。

── ライガー対佐野は、技術と意地のぶつかり合いでエスカレートしまくった試合ですよね。プロテクターのインパクト、めっちゃわかります。この時期から新日本は闘魂三銃士(橋本真也、蝶野正洋、武藤敬司)も出てきて、勢いがありましたよね。

嶋村さん  そう、闘魂三銃士にハマりました。特に橋本さんの入場曲と、リングでの存在感に心を奪われた。ハシミコフに負けた時の悔しそうな表情が、なんか人間らしくて印象的だったんです。ライガーのプロテクターも、悲壮感と気迫がすごくて、今思うとテーピング技術もっとあったんじゃないかって思うけど(笑)、あの雰囲気は唯一無二でした。

── 90年代以降の新日本はどう見てました?

嶋村さん  90年代は三銃士やG1クライマックスに夢中だったけど、2000年代に入ると、猪木さんが新日本に介入したり、格闘技ブームでプロレスが微妙な時期になって。2002年の札幌での猪木問答とか、面白かったんですけど、なんか寂しい気持ちにもなりました。          、リング外のドタバタを眺めるうちに、だんだん心が離れていったんです。

── あの頃、大阪ドームのチケットが怪しいルートで配られたり、東京ドームで詐欺チケットが出回ったり、最悪な話もありましたよね。ファンとしてはキツい時期でした。

嶋村さん       結局、観るのはテレビで東京ドームとG1くらいになってしまって。     でも、2012年頃にオカダ・カズチカさんのレインメーカー旋風で引き戻されました。2012年のG1クライマックス決勝、オカダ対カール・アンダーソンの試合を見て、「新日本、めっちゃ面白い!」って再燃したんです。今は新日本プロレスワールドにも加入して、リアルタイムで追いかけてます。

── レインメーカーで復活! あのG1決勝は、オカダのスター性とアンダーソンの巧さがぶつかった名試合ですよね。どんなところが刺さったんですか?

嶋村さん  どっちが勝つか分からない緊張感と、オカダさんの若さと勢いがすごかった。アンダーソンは試合巧者の味があって、試合の流れがドラマチックで。会場全体が「オカダ!」って一つになってたのが、子供の頃の興奮を思い出させました。あの試合で「プロレス、最高!」って再確認したんです。

(第1回終了)






























 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 
 
今回のゲストはフリーアナウンサーの川尻直美さんです。
 
 

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 
 
川尻直美
1月31日生まれ
中央大学経済学部卒(ジャンボ鶴田さんの後輩になりたい一心で法学部を受験するも不合格となり経済学部へ)
福島放送、テレビ新潟でアナウンサーを務めたあと関西に移りフリーアナウンサーとしてラジオ大阪、KBS京都で報道番組等担当。
1995年テレビ新潟在籍中。日本初の女性プロレス実況アナウンサーとしてデビューを果たした。

2025年1月、栃木県足利市のコミュニティFM、FM DAMONO(FMだもの)にてプロレス番組「川尻直美の恋してプロレス」をスタート。
しかし6月に乳がんステージⅢと診断され抗がん剤治療の開始に伴い番組は休止中。
ただ、本人は一日も早い復帰に意欲を燃やす。
番組についてはFMプラプラのアプリをダウンロードすれば全国どこでも聴取可能。
(番組再開の際はこれまでと変わらず毎週土曜日夜8時ゴング!の予定)

番組復帰目指して抗がん剤治療頑張っています!!
番組再開の際は、皆様からの熱いプロレスメッセージをお待ちしております。

 

 
 





川尻直美さんのプロレス愛は、リング上のヒーローたちへの深い敬意と共にあります。三沢光晴さん、小橋建太さんといったレジェンドへの思い入れや、忘れられない名勝負の数々。そして、プロレスが彼女の人生に与えた意味とは? 最終回では、川尻さんが愛するプロレスラーや試合、そして現在も続くプロレスへの愛と情熱を語ります。彼女の人生を彩ったプロレスの物語を、じっくりと紐解いていきます。

 

 

 

 
 
私とプロレス 川尻直美さんの場合
「最終回 プロレスへの愛と情熱」
 
 


「超世代軍の旗手」三沢光晴さんへの思い

──次に川尻さんの好きなプロレスラー・三沢光晴さんの魅力を教えてください。

川尻さん はい、三沢さんは足利工業大学付属高校でレスリングをしていた地元の英雄です。中学生の頃、国体で優勝した記事を見て知り、全日本プロレスに入団したときは本当に嬉しかったです。赤いタイツの時代からタイガーマスク、鶴田さんを破るまで、ずっと応援していました。特に1995年7月の川田利明さんとの試合は、エルボーで勝利したシーンや、試合後の握手が感動的でした。

──三沢さんの試合はいつもドラマチックですよね。どんな点が特に心に残っていますか?

川尻さん あの試合は、全日本が新しい時代に入る瞬間でした。川田さんとの激しいエルボーの応酬が、まるで二人の魂のぶつかり合いみたいで。試合後の握手は、ライバル同士の敬意が感じられて、プロレスの美しさを見た気がしました。三沢さんのエルボーが決まった瞬間、会場が一気に沸いたのを覚えています。

──実況者としての三沢さんとの思い出はありますか?

川尻さん 1995年9月の田上明さんとの三冠戦で副音声実況をしましたが、緊張で試合を追うのに精一杯でした。解説の松村邦洋さんにうまく絡めず反省しましたが、試合後に三沢さんから花束をいただき、全日本プロレスが用意してくれたと知り、感動しました。あの花束は今でも宝物です。

──花束のエピソード、素敵ですね! 三沢さんとの交流はどうでしたか?

川尻さん 三沢さんはとても優しくて、試合後の疲れた状態でも笑顔で対応してくれました。花束を渡されたとき、「お疲れさまでした、大変だったでしょ」と言ってくれて、プロレスファンとして本当に幸せな瞬間でした。ハグまでしてくれて、緊張しすぎて頭が真っ白になりました(笑)。

──ハグのエピソード、最高です! 三沢さんの死は大きな衝撃だったのでは?

川尻さん はい、2009年6月13日の広島での事故は信じられませんでした。友達からのメールにも返信できないほど混乱しました。お別れ会では2万人のファンが集まり、三沢さんの偉大さを実感しました。今もデスクに三沢さんのグッズを飾り、FM番組を始めたのは彼のレジェンドぶりを伝えたいと思ったからです。


「鉄人」小橋建太さんの魅力

──三沢さんへの愛が伝わります。もう一人の好きなプロレスラー、小橋建太さんの魅力は?

川尻さん 小橋さんはテレビ新潟入社直後のトークショーで初めてお会いしました。リング上ではスターなのに、大谷翔平選手のような好青年で、周囲に気を配る姿に感動しました。試合では一切手を抜かない全力ファイトが心を打ち、特に女性ファンが多かったのは彼の爽やかさとスター性が理由だと思います。

──小橋さんの全力ファイト、圧巻ですよね。どんな試合が印象に残っていますか?

川尻さん 小橋さんの試合はどれも全力で、どれも印象的ですが、特にノアでの三沢さんとの対戦は特別でした。2003年のGHCヘビー級選手権は、35分以上の激闘で、リングが壊れるんじゃないかと思うほどの迫力でした。小橋さんのチョップの音が、会場中に響き渡っていました。

──ノア時代や引退についてはどう思いますか?

川尻さん ノア時代は腎臓の腫瘍が見つかり、悪性と診断されたときはショックでした。それでも復帰して同じレベルの試合を見せた根性はすごいです。2013年の引退試合は30分以上の8人タッグで、まだできるのではと思った一方、三沢さんの事故を教訓に、ファンを悲しませない引き際を選んだと感じました。

──小橋さんの第二の人生については?

川尻さん フォーチュンドリームなどのプロデュース活動で活躍されています。来月の興行も楽しみで、彼の情熱が新しい形で続いているのを見て応援したいです。小橋さんがプロデューサーとして若い選手を育てている姿は、プロレスの未来を感じさせます。


川尻さんが選ぶ名勝負三選


──さて、好きな名勝負を3試合教えてください。難しい質問かもしれませんが!

川尻さん 本当に難しいです! 3試合に絞るなんて、5試合でも10試合でも選びたいくらいです(笑)。まず外せないのは、1990年6月8日・日本武道館で行われた三沢光晴さんがジャンボ鶴田さんを破った試合です。全日本が危機に瀕する中、三沢さんがチャンピオンになり、若林さんの実況で「三沢が泣いている」と伝えられたのが感動的でした。

──あの試合は歴史的ですよね! どんな点が特に印象に残りましたか?

川尻さん 天龍源一郎さんが退団して全日本が危ないと言われていた時期に、三沢さんが鶴田さんを破ったことで、「これから全日本は大丈夫だ」と思えました。若林さんの実況が感情的で、三沢さんの涙に私ももらい泣きしました。

──次はどの試合でしょうか?

川尻さん 1977年12月15日・蔵前国技館で行われた世界オープンタッグ選手権、ザ・ファンクス対シーク&ブッチャーです。フォークを使った壮絶な展開や、試合後のスピニング・トーホールドの曲が歴史的でした。テリー・ファンクのチアガールが登場して踊る姿も、子供心に強烈な印象でした。

──あの試合、めっちゃインパクトありますよね! フォークのシーンはどうでした?

川尻さん フォークを突き立てるなんて、子供の頃は「警察に捕まるんじゃないか」と思いました(笑)。

──3試合目は?

川尻さん 2003年3月1日のノア日本武道館での三沢さん対小橋さんのGHCヘビー級選手権です。小橋さんが試合前に母親に「三沢さんを恨まないでくれ」と電話した覚悟と、35分の激闘が忘れられません。WJやK-1の大会と重なりましたが、ノアが内容で圧倒した試合でした。


川尻さんにとってプロレスとは?

──では、川尻さんにとってプロレスとは何でしょうか?

川尻さん プロレスは私の人生の頂点であり、宝物です。20代から30代のプロレス実況の時代は、精神的にも充実していて、人生で一番良い時期でした。三沢さんや小橋さん、四天王が輝き、さまざまな団体が盛り上がった90年代に実況できたことは幸せです。馬場さんの全日本プロレス中継に関わり、三沢さんから花束を受け取れた経験は、プロレスファンとしてかけがえのないものです。

──素晴らしい言葉です! 今後のプロレスとの関わりについては?

川尻さん 2025年1月に始めたコミュニティFMのプロレス番組を長く続け、地元の足利や全国の人々にプロレスの魅力を伝えたいです。スポンサーを獲得してゲストを呼び、栃木県内のプロレスの中継で実況できれば最高です。

──その番組、ぜひ聞きたいです! どんな内容なんですか?

川尻さん プロレスの歴史やレジェンドレスラー、ファンの声を紹介しています。地元のプロレスファンを増やしたいと思って、ラジオで発信しています。地元の子供たちにもプロレスの魅力を知ってほしいですね。

──応援しています! 最後に、プロレスファンへのメッセージをお願いします。

川尻さん プロレスは会場で見ると、テレビとは全く違う感動があります。選手の情熱やファン同士の熱気が一体となる雰囲気は特別です。ぜひ一度、会場に足を運んでその魅力を感じてください。

──川尻さん、3回にわたり素晴らしいお話をありがとうございました。これからもプロレス愛を伝え続けてください!

川尻さん こちらこそ、ありがとうございました。久しぶりにプロレスを熱く語れて楽しかったです。また機会があればぜひ!



編集後記
川尻直美さんのインタビューは、プロレスへの深い愛と、アナウンサーとして道を切り開いた情熱に満ちた時間だった。幼少期のおじいちゃんとの思い出から、女性初のプロレス実況アナウンサーとしての挑戦、そして現在も続くコミュニティFMでの活動まで、川尻さんの人生はプロレスと共にある。特に、三沢光晴さんや小橋健太さんへの思い入れ、名勝負のエピソードは、プロレスの魅力とその時代を生き生きと伝えてくれた。2025年1月に始めたFM番組は、彼女のプロレス愛を次世代に繋ぐ素晴らしい取り組みだ。

なお、川尻さんは現在、乳がんステージⅢと診断され、2025年6月初旬より抗がん剤治療を受けられてます。7月より番組は一時休止していますが、治療に専念し一日も早い復帰を目指しています。川尻さんの力強い生き方とプロレス愛が、治療を乗り越える力となることを心から願い、エールを送ります。川尻さん、リングのように力強く立ち上がる姿を、プロレスファンの皆さんと一緒に応援しています。

(私とプロレス 川尻直美さんの場合 完)





 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 
 
今回のゲストはフリーアナウンサーの川尻直美さんです。
 
 

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 
 
川尻直美
1月31日生まれ
中央大学経済学部卒(ジャンボ鶴田さんの後輩になりたい一心で法学部を受験するも不合格となり経済学部へ)
福島放送、テレビ新潟でアナウンサーを務めたあと関西に移りフリーアナウンサーとしてラジオ大阪、KBS京都で報道番組等担当。
1995年テレビ新潟在籍中。日本初の女性プロレス実況アナウンサーとしてデビューを果たした。

2025年1月、栃木県足利市のコミュニティFM、FM DAMONO(FMだもの)にてプロレス番組「川尻直美の恋してプロレス」をスタート。
しかし6月に乳がんステージⅢと診断され抗がん剤治療の開始に伴い番組は休止中。
ただ、本人は一日も早い復帰に意欲を燃やす。
番組についてはFMプラプラのアプリをダウンロードすれば全国どこでも聴取可能。
(番組再開の際はこれまでと変わらず毎週土曜日夜8時ゴング!の予定)

番組復帰目指して抗がん剤治療頑張っています!!
番組再開の際は、皆様からの熱いプロレスメッセージをお待ちしております。

 

 
 





日本初の女性プロレス実況アナウンサーとして、川尻直美さんは1995年にテレビ新潟で鮮烈なデビューを飾りました。プロレス愛を胸に、男性中心の業界で果敢に挑戦した彼女の実況は、多くのファンの心を掴みました。批判やプレッシャーを乗り越え、リング上の熱を伝えた日々は、川尻さんの人生のハイライト。この第2回では、川尻さんが実況の舞台裏や、プロレス団体への思いを語る。全日本プロレス、プロレスリング・ノア、大阪プロレスの魅力とは? 川尻さんのプロレス愛がさらに深まるインタビューをお届けします。
 

 

 

 

 
 
私とプロレス 川尻直美さんの場合
「第2回 日本初の女性プロレス実況アナウンサー」
 
 
日本初の女性プロレス実況アナウンサー

──第1回はプロレスとの出会いやアナウンサーへの道を伺いました。今回はプロレス実況の経験や好きな団体について詳しくお話を聞かせてください。川尻さんはテレビ新潟時代の1995年から全日本プロレス中継でプロレス実況を担当されるようになり、日本初の女性プロレスアナウンサーとして話題になりました。そのきっかけを教えてください。

川尻さん はい、テレビ新潟に入社した当時、プロレス人気が盛り上がっていました。特に新潟はジャイアント馬場さんの故郷で、全日本プロレスの大会には良いカードが組まれていました。日本テレビのプロレス中継が30分に短縮されたため、地方局で1時間の番組を作る動きがありました。テレビ静岡が先に始めていたので、新潟でもやろうという話になり、ディレクターに「レポーターでも観客インタビューでもいいからチームに入れてほしい」とお願いしました。すると、「女性が実況したら面白いんじゃないか」と提案され、ぜひやりたいと即答しました。

──女性実況は当時本当に珍しかったですよね! ディレクターの提案に即答したとき、どんな気持ちでしたか? 

川尻さん もう、ワクワクしました! プロレスが大好きだったので、実況できるなんて夢のようでした。ただ、同時に「本当にできるかな」という不安も少しありました。でも、プロレス愛が勝って、「やるしかない!」って気持ちになったんです。ディレクターさんも「川尻ならできるよ」と背中を押してくれて、覚悟が決まりました。プロレスを実況できるなんて、ファンとしては最高のチャンスだと思いました。

──その情熱、最高です! 初めての実況はどうだったんですか? 緊張しましたか? どんな準備をして臨んだんですか?

川尻さん もう緊張の連続でした! 最初は日本テレビの後楽園ホールでの研修で、第1試合か第2試合をいきなり実況しました。当時『全日本プロレス中継』プロデューサーの今泉富夫さんが「なかなかいい」と評価してくれて、トントン拍子で話が進みました。1995年7月20日の新潟大会では、メインのタイトルマッチを野口敦史アナウンサーが実況し、私は下位カードを担当。4日後の日本武道館でも数試合、実況させていただきました。

──日本武道館での実況は相当プレッシャーがかかったのではないかと思われます。川尻さんは実況の際に どんな準備をしたんですか? 具体的にどんな資料を作ったり、どんな心構えで臨んだんですか?

川尻さん 試合前に選手のプロフィールや技の名前を必死に覚えて、ノートにびっしりメモして臨みました。選手の入場曲や過去の試合のデータ、得意技の名前とか、頭に叩き込むのに必死でした。でも、実際の試合では興奮してメモを見る余裕がなくて(笑)。とにかく選手の動きを追いながら、必死に喋ったのを覚えています。武道館の雰囲気はすごくて、観客の声援が響き合って、リングの迫力が直に伝わってきました。心臓バクバクでしたけど、プロレスの熱さに負けないように喋ろうって思いました。



批判を乗り越えて

──武道館の雰囲気、想像するだけで鳥肌ものですね! どんな反響がありましたか? 女性実況への反応はどうでした? ファンやスタッフからの声はどうだったんですか?

川尻さん 当時は女性がスポーツ実況、特にプロレス実況をする例が少なく、違和感を覚える方もいたようで、電話での批判や誹謗中傷もありました。「女がプロレスラーを呼び捨てにするとはなんだ」「すぐにやめろ」といった声が日本テレビやテレビ新潟に寄せられました。あるとき、土日に私が受付で電話を取ってしまい、「川尻か」と聞かれて「はい、そうです」と答えたら、「やめろ」と直接言われたこともありました。

──それはつらい経験ですね…。直接言われるなんて、かなりショックだったのでは? どうやってその気持ちを乗り越えたんですか?

川尻さん はい、最初はショックでした。でも、プロレスは熱いファンが多いので、そういう声も愛情の裏返しだと思うようにしました。それに、技の名前を正確に言えたことが評価されたのが救いでした。今泉プロデューサーや解説の百田光雄さんから「よく勉強している」と褒められたのは本当に嬉しかったです。プロレスファンとしての知識が認められた瞬間は、やっててよかったって思いました。

──プロレスファンとしての知識が活きたんですね! 技の名前を正確に言えたのはすごい! どんな技を特に意識して勉強しましたか? 具体的にどんな準備をしたんですか?

川尻さん 技の名前はほぼわからないものがなく、関節技の違いも抑えていました。アキレス腱固めとヒザ十字固めの違いとか、細かいところまで勉強していました。例えば、三沢さんのエルボーや川田さんのストレッチプラム、馬場さんの32文ロケット砲とか、技の背景や選手の得意技を頭に入れておくんです。試合中に突然技が出ても、すぐに名前を言えるように、ノートに技のリストを作って何度も見直しました。プロレスの歴史や選手のストーリーも勉強して、試合の背景を伝えられるように準備しました。

──その準備の徹底ぶり、プロですね! 実況の難しさや醍醐味はどこにありましたか? どんな瞬間が特に楽しかったですか?

川尻さん 難しさはもう全てですね。選手の資料を準備しても、試合に集中するあまり見られず、余裕がなかったです。醍醐味は、目の前のプロレスをストーリー性のあるものに仕上げることですが、そこまで到達できなかったのが正直なところです。最初の後楽園ホールでは、嬉しさから笑顔で喋ってしまい、野口アナウンサーに「真面目にやったほうがいい」と言われました。でも、今泉プロデューサーには「いいじゃん」と言ってもらえたので、楽しむことの大切さを感じました。

──笑顔で実況する川尻さんの姿、想像すると微笑ましいです! そのエピソード、どんな状況だったんですか? どんな試合を喋ってたんですか?

川尻さん 後楽園ホールでの練習で、若手の6人タッグマッチを喋ったんです。野口アナウンサーが近くで指導してくれて、「川尻さん、声が明るすぎる。笑いながら実況するのはありえないよ」と(笑)。でも、私、プロレスを実況できるのが嬉しくて、つい笑顔になってしまったんです。それが声に出てしまったみたいで。でも、ディレクターさんには「その明るさがいい」と言われたので、楽しむ気持ちも大事だなと思いました。試合は若手選手のスピード感ある展開で、めっちゃ盛り上がりました。


憧れの実況者・若林健治アナの影響

──その明るさが川尻さんの魅力ですね! 実況で目指したアナウンサーはいましたか? どんな実況を理想としてましたか?

川尻さん やっぱり若林健治さんです。的確で間違いがなく、プロレス愛に溢れ、優しさのある実況が素晴らしいと思っていました。中立であるべき実況で、多少偏っても受け入れられるのは若林さんの魅力です。「プロレスは男の歌、魂の歌、裸の歌」というフレーズも印象的で、去年、共通の友人を介して初めてお会いし、プロレス談義ができたのは良い思い出です。

──若林さんの実況は特別ですよね。

川尻さん 選手の喜怒哀楽を真面目に、熱く、時には切なく表現したりする姿に、プロレス愛を感じました。優しさと人情味が実況に溢れていて、聞いていて温かい気持ちになりました。去年お会いしたときも、プロレスへの愛を熱く語ってくれて、改めてすごい方だなと思いました。特に「プロレスは魂の歌」という言葉は、プロレスの本質を捉えてて、胸に刺さりました。


川尻さんの好きなプロレス団体

──若林さんのプロレス愛、素晴らしいですよね。では、好きなプロレス団体について伺います。プロレスリング・ノアの魅力は?

川尻さん ノアは全日本から離れて「自由と信念」を掲げてスタートした団体で、三沢光晴さんが選手をまとめ、プロレス界を引っ張る意志を感じました。派手なパフォーマンスより命がけの試合でファンの心を掴む姿勢が魅力的でした。特に三沢さんと小橋建太さんの試合には魅了されました。

──三沢さんのリーダーシップがノアを特別なものにしましたよね。どんな試合が特に印象的でしたか?

川尻さん 2003年3月1日・日本武道館で行われた三沢さん対小橋さんのGHCヘビー級選手権は、35分以上の激闘で、リングが壊れるんじゃないかと思うほどの迫力で、プロレスラーの覚悟を感じて胸が熱くなりました。リング上での二人のぶつかり合いは、プロレスの真髄を見た気がしました。

──その三沢さんですが、2009年にリング禍で逝去されました。

川尻さん はい、2009年の三沢さんの事故は本当に信じられませんでした。受け身の名手がリング上で亡くなるなんて、悪い夢のようでした。仕事や母の介護で観戦が難しくなりましたが、映像やテレビではチェックを続けていました。三沢さんがいなくなった後も、ノアの試合には特別な思いがあります。

──ありがとうございます。次に川尻さんが好きな団体として挙げていただきました全日本プロレスの魅力はいかがですか? やっぱり特別な存在ですか?

川尻さん 全日本は物心ついた頃から見ていたので特別です。新日本はリズミカルでエンターテインメント性が高いですが、全日本の重厚な試合リズムが好みでした。スタン・ハンセンさんのウエスタンラリアットや、馬場さんの解説を受けた実況は夢のような経験でした。分裂後は川田利明さんが残り、苦戦していましたが、最近は宮原健斗選手や斉藤ブラザーズ、安齊勇馬選手など新しい選手が時代に合わせて進化していると感じます。

──全日本の重厚感、たまりませんよね! 分裂後の全日本で印象に残る試合は?

川尻さん 川田さんが頑張っていた時期の試合はどれも印象的です。特に2000年代初頭、川田さんが若手を引っ張りながらメインを張っていた試合は、全日本の底力を感じました。

──ありがとうございます!あと好きな団体として大阪プロレスを挙げています。大阪プロレスの魅力について語ってください。

川尻さん 大阪プロレスは、ラジオ大阪時代に選手が局に来てくれた縁で観戦を始めました。全日本やノアとは違い、ルチャリブレのような飛び技や大阪らしいユーモアが新鮮でした。食いしん坊仮面のようなユニークな選手もいて、全体の雰囲気が楽しかったです。フェスティバルゲートが閉鎖し、道頓堀に移ったことは後で知りましたが、ゼウスさんが社長として頑張っている姿に期待しています。

──大阪プロレスのユーモア、いいですよね! 食いしん坊仮面のどんな試合が好きでしたか?

川尻さん 食いしん坊仮面がリングで食べ物をかじりながら闘うシーンが面白かったです(笑)。お客さんを巻き込んだコミカルな試合運びが、大阪プロレスの魅力だなと思いました。ゼウスさんのパワフルな試合も、会場で見ると迫力満点でした。



女子プロレスの魅力

──ちなみに女子プロレスもきちんとチェックされていたそうですね!

川尻さん はい、中学生の頃、足利でビューティーペアの試合を初めて会場で観ました。相手は極悪同盟の前の悪役コンビだったと思いますが、名前が思い出せません。ジャッキー佐藤さんとマキ上田さんの試合に会場が沸きました。また、長与千種さんとダンプ松本さんの試合で、長与さんが負けて坊主になったシーンも心に残っています。

──女子プロレスの熱気、すごいですよね! ビューティーペアの試合はどうでしたか?

川尻さん 会場がすごい盛り上がりで、女性ファンが多かったのが印象的でした。ジャッキー佐藤さんのキレのある動きと、マキ上田さんの華やかさが、子供ながらに「カッコいい!」と思いました。リングサイドで見たあの熱気は、今でも忘れられません。



(第2回終了)
 

 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 
 
今回のゲストはフリーアナウンサーの川尻直美さんです。
 
 

 

 
 
 
 
 
(画像は本人提供です) 
 
川尻直美
1月31日生まれ
中央大学経済学部卒(ジャンボ鶴田さんの後輩になりたい一心で法学部を受験するも不合格となり経済学部へ)
福島放送、テレビ新潟でアナウンサーを務めたあと関西に移りフリーアナウンサーとしてラジオ大阪、KBS京都で報道番組等担当。
1995年テレビ新潟在籍中。日本初の女性プロレス実況アナウンサーとしてデビューを果たした。

2025年1月、栃木県足利市のコミュニティFM、FM DAMONO(FMだもの)にてプロレス番組「川尻直美の恋してプロレス」をスタート。
しかし6月に乳がんステージⅢと診断され抗がん剤治療の開始に伴い番組は休止中。
ただ、本人は一日も早い復帰に意欲を燃やす。
番組についてはFMプラプラのアプリをダウンロードすれば全国どこでも聴取可能。
(番組再開の際はこれまでと変わらず毎週土曜日夜8時ゴング!の予定)

番組復帰目指して抗がん剤治療頑張っています!!
番組再開の際は、皆様からの熱いプロレスメッセージをお待ちしております。

 

 
 

 

川尻直美さんといえば、日本初の女性プロレス実況アナウンサーとして、1990年代のプロレスブームを彩った存在です。幼少期からプロレスに魅せられ、テレビ新潟で実況の第一歩を踏み出した彼女の人生は、プロレスとともに歩んできたといっても過言ではありません。おじいちゃんとの思い出から始まり、スポーツへの情熱がアナウンサーへの道を開いた川尻さんの物語は、プロレスファンならずとも心を掴むのではないでしょうか。この第1回では、川尻さんがプロレスに心を奪われたきっかけや、アナウンサーとしてのキャリアの始まりをじっくり伺う。プロレス愛に溢れる川尻さんの物語を、3回にわたりお届けします。

 

 

 

 

 
 
私とプロレス 川尻直美さんの場合
「第1回 プロレスとの出会い」
 
 
 

 

 

プロレスとの出会いとおじいちゃんとの思い出

──川尻さん、この度は「私とプロレス」というテーマの企画にご協力いただき、誠にありがとうございます。川尻さんのプロレスとの関わりやアナウンサーとしての経験をじっくり伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

川尻さん こちらこそ、よろしくお願いいたします。プロレスについて語れるのは本当に楽しみです。

──素晴らしい! 川尻さんのプロレス愛、すごく楽しみです! では早速、川尻さんがプロレスを好きになったきっかけからお聞かせいただけますか? いつ頃、どんな風にプロレスに出会ったんですか?

川尻さん はい、これはもう母方のおじいちゃんの影響が大きいですね。普段は一緒に住んでいなかったんですが、おじいちゃんの家に行くと、必ずテレビでプロレスを見ていました。幼稚園生くらいの頃、横で一緒に見ているうちに「かっこいいな」と感じ始めたのが最初です。力道山さんの時代は知らないんですが、全日本プロレスや新日本プロレスが分かれた後の1970年代後半から80年代のプロレスに夢中になりました。

──幼稚園生でプロレス! それは本当に早いですね。おじいちゃんの影響が大きかったんですね。おじいちゃんはどんなプロレスファンだったんですか? どんな試合を一緒に見ていたか、具体的に教えていただけますか?

川尻さん おじいちゃんは特に全日本プロレスが大好きで、ジャイアント馬場さんやアブドーラ・ザ・ブッチャー、テリー・ファンク、ドリー・ファンク・ジュニアの試合をよく見ていました。特に印象に残っているのは、世界オープンタッグ選手権でザ・ファンクスがブッチャー&シークと対戦した試合です。フォークを突き立てるような壮絶なシーンがあって、子供ながらに「これはすごい!」と興奮しました。血だらけの展開に、目を丸くして見ていました。

──あの時代のプロレスは本当に迫力がありましたよね! フォークのシーンは今でも語り草ですけど、幼い川尻さんにはどんな衝撃だったんですか? どんな風に感じましたか?

川尻さん もう、子供心に「こんなのあり!?」ってびっくりしました。フォークを突き立てるなんて、警察に捕まるんじゃないかと本気で心配したんです(笑)。テリーがドリーを助けに颯爽と戻ってくる姿に、テキサス魂を感じました。子供ながらに「かっこいい!」と心から思いました。

──テキサスの魂、めっちゃいい表現ですね! その試合のどんなシーンが特に印象に残っていますか? フォーク以外にも何か強烈な思い出はありますか?

川尻さん 試合後のスピニング・トーホールドの曲が流れる中、テリーがチアガールと一緒に登場して踊るシーンが強烈でした。子供の頃は「なんでチアガールが?」って不思議だったけど、あのエンターテインメント性がプロレスの魅力なんだと後で気づきました。血まみれの試合から一転して、明るい雰囲気で締めるのがすごいなと思いました。テリーの笑顔とチアガールの華やかさが、試合の重さを和らげてくれる感じがしました。


「世界の巨人」ジャイアント馬場さんへの憧れ

──あのチアガールの演出、最高ですよね! 本当にプロレスのエンタメ性が光る瞬間ですね。他にもおじいちゃんと見た試合で印象に残っているものはありますか?

川尻さん そうですね、ブッチャーとシークのコンビが馬場さんと対戦する試合もよく見ていました。馬場さんの大きな体がリングで動く姿は、子供の私にはリングネームの如く、まさしく巨人。ブッチャーの凶器攻撃に立ち向かう馬場さんの姿に、毎回ハラハラドキドキしていました。馬場さんがチョップを繰り出すたびに、おじいちゃんが「よし!」って小さくガッツポーズしてたのが、なんだか微笑ましくて。

──おじいちゃんのガッツポーズ、めっちゃいいエピソード! プロレス中継はどんな時間帯に見ていたんですか? ゴールデンタイムだったんですか?

川尻さん 最初はゴールデンタイムだったんですが、私が中学生くらいになると夕方5時半から6時20分くらいの時間帯に移っていました。私は栃木県の足利に住んでいたので、関東エリアの放送でよく見ていました。学校から帰ってきて、宿題をしながらでもプロレスは欠かさずチェックしていました。テレビの前でおじいちゃんと一緒に、夢中になって応援してました。

──夕方のプロレス中継、懐かしい雰囲気ですね。宿題そっちのけでプロレスに没頭してたんじゃないですか? おじいちゃんとのプロレス観戦で、特に心に残っているエピソードってありますか?

川尻さん おじいちゃんが普段は静かな人なのに、プロレスを見ると拳に力が入ったり、「おお!」と声を上げたりするんです。その豹変ぶりに驚きつつ、「プロレスってそんなに人を熱くするんだ」と子供心に感じました。おじいちゃんが若い頃、街頭テレビで力道山さんの試合を見に行った話をよくしてくれて、その話に引き込まれるようにプロレスが好きになりました。力道山さんが外国人レスラーを倒す姿を話すとき、おじいちゃんの目がキラキラしてたのが印象的です。

──おじいちゃんの熱量が伝染したんですね! 力道山さんの話はどんなエピソードでしたか? 具体的にどんな話を聞かせてくれたんですか?

川尻さん おじいちゃんが言うには、街頭テレビの前でみんなが集まって、力道山さんが外国人レスラーを倒す姿に大興奮だったそうです。日本中が熱狂していた時代で、力道山さんが日本の希望だったと。戦争後の大変な時期に、力道山さんの勝利がみんなの元気の源だったって話してました。おじいちゃんの目がキラキラしながら話す姿を見て、私もプロレスに夢中になりました。力道山さんの試合は見たことなかったけど、おじいちゃんの話でリアルに想像できたんです。

──素敵なエピソード! 力道山の時代への憧れも感じますね。おじいちゃんの話で特に印象に残った部分ってありますか?

川尻さん おじいちゃんが「力道山さんが勝つと、みんなで拍手して抱き合って喜んだ」って話してくれたのが印象的でした。街頭テレビの周りに知らない人たちが集まって、一緒に盛り上がる光景が、子供の私にはなんだか不思議で素敵に思えました。プロレスが人をつなぐ力を持ってるんだなって、漠然と感じました。

──プロレスの力、素晴らしいですね! では、川尻さんが初めて好きになったプロレスラーはどなたですか? やっぱり馬場さんですか?

川尻さん はい、やっぱりジャイアント馬場さんです。大きくて、男前で、なんでもできる印象でした。32文ロケット砲という技もかっこよくて、初恋のような気持ちで応援していました。馬場さんの試合を見ると、いつもワクワクしました。

──馬場さんの存在感は圧倒的ですよね! 32文ロケット砲、めっちゃかっこいい技名です! 馬場さんのどんな技や試合が特に好きでしたか?

川尻さん 馬場さんの凛々しさですね。晩年は動きがゆっくりになり、チョップや16文キックが中心でしたが、若い頃は32文ロケット砲など躍動感がありましたよ!一時期、ブッチャー対策で長髪にしましたが、短髪の方が断然似合っていました(笑)。

──長髪の馬場さん、確かにレアですよね! どんな試合で長髪を見ましたか? そのときの印象はどうでした?

川尻さん ブッチャーとのシングルマッチで、長髪の馬場さんがリングに上がったとき、テレビ越しに「え、誰!?」って思いました(笑)。でも、試合が進むにつれて、馬場さんのいつもの迫力が戻ってきて、やっぱりかっこいいなと。短髪に戻ったときはホッとしましたけど。長髪の馬場さんは、なんだか新鮮で、でもやっぱりいつもの馬場さんが一番だなって思いました。

──そのエピソード、面白いですね! テクニシャンとしての馬場さんの魅力も感じましたか? どんな技や動きに惹かれましたか?

川尻さん はい、馬場さんは元々テクニシャンで、どんな相手とも素晴らしい試合をしていました。どんな技でも「馬場さんならできる」と思わせる力があって、それが大好きでした。リング上での堂々とした姿は、今でも目に焼きついています。馬場さんがリングに立つだけで、会場が特別な空気になるんです。相手がどんな強敵でも、馬場さんなら勝てるって信じられたんです。


初めての会場観戦



──馬場さんの魅力、めっちゃ伝わります! では、初めての会場観戦はいつ頃だったんですか? テレビとはまた違う感動があったのでは?

川尻さん 実は会場観戦は遅くて、社会人になってからです。1991年頃、後楽園ホールで全日本プロレスの試合を見ました。タイトルマッチだったかどうかは定かではないですが、ビッグマッチだった記憶があります。会社に入ったばかりの頃、全日本のファンの先輩に誘われて行ったんです。

──後楽園ホールでの初観戦! どんな雰囲気でしたか? テレビとはどう違いました?

川尻さん テレビとは全然違う迫力でした。その先輩が普段は物静かなのに、会場では大声で「やれ!」と叫び始めて(笑)。その豹変ぶりにまず驚きました。試合の重厚感、打撃の音、受け身の音が耳に残り、「プロレスは会場で見るものだ」と実感しました。リングの近くで感じる選手の気迫やファンの熱気は、テレビでは味わえないものでした。

──先輩の豹変、面白いエピソードですね! その先輩とはどんな試合を見に行ったんですか? 具体的なカードやシーンで覚えていることは?

川尻さん 確か三沢光晴さんや川田利明さんが出ていた試合だったと思います。カードの詳細は忘れてしまいましたが、メインイベントがすごく盛り上がって、会場全体が一体になる感じが忘れられません。先輩が「これがプロレスだ!」って興奮してて、私もその熱に引っ張られました。リングサイドで選手の汗や息遣いを感じたのは、初めての経験でした。三沢さんのエルボーが炸裂した瞬間、会場が「オーッ!」って沸いたのが印象的です。

──会場の一体感、最高ですよね! その試合で特に印象に残ったシーンや選手の動きってありますか?

川尻さん 三沢さんのエルボーが決まった瞬間、会場が一気に沸いたんです。リングの振動が伝わってくるような迫力で、テレビで見るのとは全然違う臨場感でした。ファンの声援もすごくて、プロレスの熱を肌で感じました。川田さんのキックも、音が会場に響いて、めっちゃ迫力がありました。

──その後、観戦は定期的にされましたか? どんな頻度で会場に足を運んでいましたか?

川尻さん はい、1993年か1994年頃から定期的に観戦するようになりました。全日本の試合を中心に、だんだん足を運ぶ機会が増えました。後楽園ホールだけでなく、地方興行にも行くようになり、プロレスの魅力にどっぷり浸かっていました。栃木での興行もあって、地元でプロレスが見られるのは特別な喜びでした。

──地元での興行、いいですね! 栃木での興行で特に印象に残っている試合やエピソードは?

川尻さん 足利での全日本の興行で、三沢さんや川田さんが出ていた試合は、地元愛もあって特に印象的でした。地元の体育館が満員になって、みんなが大声で応援する姿を見て、プロレスの力を感じました。子供からお年寄りまで一緒になって盛り上がるのが、プロレスのすごいところだなと。地元の友達も一緒に見に行って、試合後に「プロレスってこんなに面白いんだ!」って言ってくれたのが嬉しかったです。


アナウンサーへの第一歩

──プロレスファンとしての情熱が伝わります! さて、川尻さんがアナウンサーを目指したきっかけを教えていただいてもよろしいですか?

川尻さん 実は私、プロレスだけでなくスポーツ全般が大好きで、特に野球に熱中していました。大学時代はセ・リーグでは阪神タイガース、パ・リーグでは西武ライオンズのファンで、東京の大学に通っていたので西武の試合を見に行くことが多かったです。あるとき、西武ライオンズのマスコットガールを募集していると聞き、時給が良いので応募したら採用されました。

──マスコットガール! どんなお仕事だったんですか? 具体的にどんなことをしていたんですか?

川尻さん 1986年から3年連続で日本一になった西武ライオンズのマスコットガールとして、ホームランを打った選手に大きなレオの人形を渡すのが主な仕事でした。例えば、清原和博さんがホームランを打ったら、グランドでレオの人形を持って渡しに行くんです。そのほか、テレビ埼玉のレポーターも務める機会があり、選手やファンにインタビューする中で、人の話を伝える面白さを感じました。それがアナウンサーを目指すきっかけになりました。

──レポーターの経験が大きな転機だったんですね。どんなインタビューが印象に残っていますか? 具体的なエピソードを教えてください。

川尻さん 西武の選手にインタビューしたとき、みんな気さくで、ファンとの距離が近いのが印象的でした。あるとき、試合後に清原さんがファンと一緒に写真を撮っていて、その笑顔を見て「こういう瞬間を伝える仕事って素敵だな」と思いました。ファンの子供が清原さんに抱きついて喜んでる姿を見て、スポーツの力ってすごいなって感じました。それで、アナウンサー試験を受ける決心がついたんです。

──素敵なエピソード! キー局の試験も受けられたそうですが、どうでしたか? どんな挑戦でしたか?

川尻さん はい、キー局はすべて受けましたが、東京のキー局は全滅でした。

──宣材写真の工夫、面白いですね! どんな写真を撮ったんですか? 具体的にどんな工夫をしたんですか?


── その後、川尻さんは福島放送に入社されました。

川尻さん 1990年に福島放送に入社し、3年半ほどアナウンサーとして勤務しました。地方局なので、アナウンサーといっても報道記者やカメラ、編集など、なんでもこなす必要がありました。時には残業が月100時間を超えることもありましたが、マスコミ業界ではそれが普通だと感じ、苦にせず働いていました。

──月100時間の残業! 大変だったでしょうね。どんな経験が特に印象に残っていますか?

川尻さん 本当に忙しかったですが、いろんな役割を経験できたのは財産になりました。報道記者として現場を取材したり、カメラを回したり、編集作業をしたり。あるとき、台風の取材でずぶ濡れになりながらリポートしたんですが、放送後に地元のおばあちゃんから「頑張ってるね」と電話をもらって、すごく励みになりました。そのおばあちゃん、実は近所の方で、放送を見てわざわざ電話してくれたんです。

──地元の方との交流、温かいですね。東京のアナウンサーとはどう違いましたか?

川尻さん 東京のアナウンサーは主に喋ることに専念できますが、地方局では幅広いスキルが身につきました。ある先輩アナウンサーが「地方局での経験がなければ得られなかった視点がある」と言っていて、確かにその通りだと感じました。取材から放送まで一貫して関わることで、伝えたいことをどう表現するか深く考えるようになりました。

──地方局のマルチタスク、貴重な経験ですね。福島時代にプロレスとの関わりはありましたか?

川尻さん 福島時代はプロレス中継の仕事はなかったんですが、休日に観戦に行ったり、テレビで試合をチェックしたりしていました。プロレスファンとしての情熱は変わらず、全日本の試合を中心に追いかけていました。福島でも全日本の興行があったので、仕事の合間に見に行ったこともあります。

──プロレス愛がずっと続いていたんですね! どんな興行が印象に残っていますか?

川尻さん 福島での全日本の興行で、スタン・ハンセンさんのウエスタンラリアットを見たときは、会場の熱気がすごかったです。ハンセンさんがロープに振られて戻ってくるたびに、観客が「ウォー!」って叫んで、会場が揺れるようでした。あの迫力は忘れられません。

(第1回終了)

 


ジャスト日本です。
 

これまで昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんと共にさまざまなプロレステーマ曲に関する対談をブログで配信してきました。今回の「テーマ曲多事暴論」では、プロレス史に燦然と輝く「SWS(スーパー・ワールド・オブ・スポーツ)」のテーマ曲に焦点を当てました。SWSの音楽文化の革新性、WWF(後のWWE)との提携による海外テーマ曲の導入、ファン心理を捉えた選曲の妙について熱く語ります。バブル期のメガネスーパーの資金力が生んだオリジナル曲の量産、部屋制度を活かしたテーマ曲の戦略、そして幻のレア曲まで、プロレス史の裏側を掘り下げる濃密なトークをお届けします! SWSがバブル期のプロレスシーンでどのように音楽を通じて革命を起こしたのか、その全貌を解き明かします!


前編でSWSのテーマ曲の革新性と功績を掘り下げた対談は、後編でSWSの系譜を継ぐ藤原組、WAR、NOW、PWCのテーマ曲史へ。藤原組の硬派な格闘技路線、WARの天龍魂、NOWのカオスなインディー感、PWCの高野兄弟の自由なスピリットをテーマ曲を通じて熱く語ります。インディー団体のチープで愛嬌ある選曲や、プロレスと音楽の文化的交差点としての意義も深掘りし、S系団体の魅力を余すことなくお届けします! バブル崩壊後のインディーシーンで輝いたテーマ曲の物語を紐解きます!





テーマ曲多事暴論〜SWSとS系団体アナザー激闘史〜後編「S系団体のテーマ曲史」





藤原組のテーマ曲ヒストリー

── コブラさん、後編もよろしくお願いします!まずは SWSと同じメガネスーパーがオーナーとなって1991年に旗揚げされた藤原組のテーマ曲史について教えてください。どんな特徴があったんでしょうか?

コブラさん 藤原組に関しては藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるのテーマ曲は基本的には第二次UWF時代とあまり変わっていないんです。私、映像を見てビックリしたが旗揚げ戦の入場式。最初、藤原組には「新UWF藤原組」という名称で、後に「プロフェッショナルレスリング藤原組」に変えてますが、旗揚げ戦で『U.W.Fのテーマ』が流れると思いきや、聞きなれない曲が流れたんですよ。


── そうだったんですか!

コブラさん 調べると横関敦というアーティストの『VIOLENT WAVES OF DINOSAURS』という曲だったんですよ。DINOSAURSということは?

── 恐竜ですよね。

コブラさん こんなところにもSWSの影響があるんだなと(笑)。私はさらに気になったので、横関敦さんの曲を調べまくったんです。するとSWSでザ・ウォーロードのテーマ曲として使われていたり。これは明らかにメガネスーパーの力があったのかもしれません。

── やっぱりSWS絡みのテーマ曲は謎が多いですね。

コブラさん SWSも藤原組も同じ人がテーマ曲を選んでいた可能性はありますね。

──ミスターXならぬ、ミスターSですね(笑)。藤原組で気になっている選手のテーマ曲はありますか?


コブラさん 船木さんのテーマ曲が第二次UWF時代から安定しなくて色々と変わっているんですよ。調べると第二次UWFだけで4曲あって、藤原組でも1曲あって、あと『LEADING EGDE』というフリー音源を使っているんです。

──その曲ってWCWのPPVイベント『スーパーブロール』VHSでの宣伝とかで使われてましたね。


コブラさん そうそう(笑)。あの曲です。


──ということは関西圏で流れていたイーグルボウルのテレビCMで使われていた曲ですよ(笑)。

コブラさん ハハハ(笑)。そうなんだ!!なぜ、船木さんに『LEADING EGDE』が使われたのかというと、当時船木さんのVHS『ジャパニーズボーイ』があって、そのオープニングがこの曲だったんですよ。だからテーマ曲マニアではこの曲を『ジャパニーズボーイ』と呼んでたんですよ(笑)。

──ハハハ(笑)。

コブラさん 後に『LEADING EGDE』はアニメ『美少女戦士セーラームーン』でも流れてましたよ(笑)。それでこの曲が『美少女戦士セーラームーン』で流れていたとXでポストしたら、船木さん本人から「いいね」をもらいました(笑)。


WARのテーマ曲ヒストリー


──最高なエピソードです(笑)。次はWARです! 天龍さんが率いたこの団体のテーマ曲史、どんな感じだったか教えてください!


コブラさん SWSの『レボリューション』が団体化したのがWARです。SWS時代は天龍さんとカブキさんしかオリジナルテーマ曲がなかったんですけど、WARになると各選手にテーマ曲がつくようになりました。これは新日本プロレスとの対抗戦でも流れていたので彼らのテーマ曲を覚えているファンもいるかもしれません。石川隆志(当時は石川敬士)のテーマ曲とかいいですね。


──同感です。新日本プロレスの1993年1月4日東京ドームでの藤波辰爾戦で石川さんのテーマ曲を聞きましたけど、「テーマ曲はカッコいいな」と思いましたから。


コブラさん 確かに!


──冬木弘道さんのテーマ曲『SHOOT IT』(デヴィッド・リー・ロス)もいいですね!

コブラさん  『SHOOT IT』はWAR旗揚げ時から使ってますね。途中からキングレコードのカバー版を使うようになりましたが、『理不尽』というCDアルバムを出してからは、それに入ってる本人のシャウト入りカバーを使用しています。


──WARのテーマ曲選曲でキーマンはいらっしゃったんですか?

コブラさん WARはキングレコードと組んでオリジナルテーマ曲を作成してCD化しています。その時に関わっていた元テレビ東京の阪上登さんがオリジナルテーマ曲作成に動いていたので、恐らくWARのテーマ曲選定も阪上さんがやっていた可能性はあります。


──貴重な情報をありがとうございます。WAR末期なんですけど、試合前とか会場に流れるBGMに天龍さんの娘である紋奈さんが選んでいたという話は聞いたことがあります。

コブラさん へぇー、そうなんですね!


──ちなみにWARのテーマ曲CDに関してはコブラさんはどのように評価していますか?

コブラさん 主要な既存曲もカバーで収録されているけど、折原昌夫のオリジナルテーマ曲やWARオリジナルテーマが入っているので、それなりには聞きごたえはあるかなと思います。あとCDが発売された時期は既存曲を使っている選手もカバーで入場したりしてましたね(笑)。

──CD宣伝のためですね(笑)。

コブラさん その通りです。


NOWのテーマ曲ヒストリー


──ありがとうございます。ではSWS分裂後のNOWはテーマ曲の観点から見るとどうですか?

コブラさん NOWはWARの阪上さんのようなテーマ曲のキーマンは見当たらないですね。NOWはSWSの『道場・檄』と『パライストラ』が合体した団体で、高野兄弟(ジョージ高野&高野俊二)が旗揚げ戦だけ参加していて(笑)。


──あとは上田馬之助さんが乱入してますよね。

コブラさん 後にインディーを渡り歩く鶴見五郎が『ジョーズ』のテーマ曲、アポロ菅原は『トータル・リコール』のメインテーマを使っていて、実はNOWから生まれていることは功績ですかね。あとキングレコードから出た『インディペンデント・ファイターズ』ってCDがあって、NOW、W★ING、オリエンタルプロレスの3団体連合のコンピレーションなんだけど、そこにNOWから大矢剛功、畠中浩旭、維新力のオリジナルテーマ曲、上田のカバーが収録されてます。


──マニア中のマニアしか聞かないですよ(笑)。

コブラさん ハハハ(笑)。素晴らしいですよ!!

──NOWはケンドー・ナガサキさんルートでアメリカGWFからボビー・ダンカン・ジュニア、ビッグ・ジョニー・ホーク(後のJBL)、マニー・フェルナンデス、ボブ・オートン・ジュニア、ロッド・プライスとか来日していたじゃないですか。彼らのテーマ曲はどんな感じだったんですか?

コブラさん 正直、ベタな洋楽の使いまわしがテーマ曲として採用されていた印象が強いです。

──ハハハ(笑)。NOWの歴史はあまり掘っている人は少ないですけど、改めてクローズアップすると面白そうですね!

コブラさん ジャストさん、一個いいですか。実はNOWのテーマ曲が収録されたカセットテープがヤフーオークションで出品されていて、飛びついて買ったんですよ。ラベルにワープロで「ケンドー・ナガサキのテーマ」とか書いてあって、めっちゃインチキ臭いんだ(笑)。多分会場で売ってたやつ。本当は著作権的にアウトですよ。で、そのカセットテープを聞いたら、ケンドー・ナガサキに『道場・檄』のテーマ曲が使われることが判明したんですよ。


──そうなんですか!ナガサキは『ファイナル・カウントダウン』(ヨーロッパ)の印象があるんですけど、NOWでは『道場・檄』のテーマ曲を使っていたということは、かなりSWSを継承していたわけですね。

コブラさん ナガサキはNOWでは他に映画『ターミネーター』のテーマ曲を使ってましたね。


──確かに一時期、ナガサキさんはターミネーターと呼ばれてたような気がします。

コブラさん それよりも衝撃の事実が判明したのが、三宅綾(みやけりょう)がNOWにいた時代があったんです。


──三宅さんはインディー団体を放浪しすぎてどこにいたのかわからないですよ(笑)。

コブラさん このカセットテープに三宅のテーマ曲が収録されていたんですけど、これがビックリ!『SWSのテーマ 第一節』だったんですよ!!



──えええええ!!

コブラさん なぜ三宅が『SWSのテーマ 第一節』なのかと(笑)。



──三宅さんは1990年にFMWにデビューして、1991年にW★INGに移籍、そこからNOWに渡っているので、SWSに何のゆかりもないじゃないですか(笑)。


コブラさん そうですよ(笑)。


──インディーらしいエピソードですよ。どさくさ紛れで使っていたんですかね。

コブラさん たまんないですよ(笑)。


PWCのテーマ曲ヒストリー

──ありがとうございます。では次はPWCです! SWSやNOWとはまた違う雰囲気ですが、テーマ曲の観点から見るとどうですか?


コブラさん SWSが1992年に解散して、WARとNOWはメガネスーパーから一時期、資金援助を受けて旗揚げした団体ですけど、1993年に誕生したPWCは高野兄弟が独自に立ち上げた完全インディー団体で、メガネスーパーの援助を一切受けてなかったんです。団体のテーマである『アルビノ・クロー』を作ったのが高野兄弟の従兄弟で元・全日本プロレスの高野直樹さんなんです。


──そうなんですね!!


コブラさん 高野さんは全日本廃業後にミュージシャンになって、高野兄弟のためにPWCのテーマ曲を作ったんですよ。PWCは高野ファミリーの団体なんですよね。


──同感です。PWC旗揚げ時はまだ高野兄弟に幻想が残っていた時代じゃないですか。


コブラさん 高野俊二は本気を出せば最強という話もありましたから。PWCで高野兄弟以外の元SWSは高木功と将軍KYワカマツくらいで。あとウルトラマンロビン、ホー・デス・ミン(ポイズン澤田JULIE)、保坂秀樹、黒田哲弘(当時は黒田哲)とかインディー団体にいた選手たちを寄せ集めたのがPWCでしたね。


──あとセッド・ジニアスもいましたね。

コブラさん 彼は『オリーブの首飾り』をテーマ曲にしているんですけど、実はPWCで本名の渡辺幸正時代から使っているんですよ(笑)。


──ハハハ(笑)。

コブラさん PWCはSWSの色は全然ないですよ。

──ちなみにジョージ高野さんと高野俊二(後の高野拳磁/ケン・タカノ)さんはどのようなテーマ曲を使っていたんですか?

コブラさん 俊二はNOW旗揚げ時はYMOの『BEHIND THE MASK』、ジョージはハウンドドッグの『FLY』を使っています。PWCで俊二はピンク・フロイドの『幻の翼』で入場してくるんですよ。


──これは本人セレクトじゃないですか。

コブラさん そうでしょうね。後に俊二は岡村靖幸やドアーズの曲をテーマ曲として使っていて、PWCは高野俊二ワールドなんですよ。

──岡村ちゃんの曲なんて誰も選ばないですよ(笑)。

コブラさん 普通はね(笑)。バルティモラの『ターザンボーイ』とかも使ってました。ザ・グレート・サスケと組んでいた頃に。

──VHS『ゆきゆきて人間バズーカ』を制作した時期ですね(笑)。

コブラさん ハハハ(笑)。高野俊二は団体の経営とはともかく人たらしではありましたね。高野俊二の「引きつける何か」は、テーマ曲の選曲にもバッチリ表れていたと思います!


──俊二さんといえば、ピザーラのCMに出てましたけど、その時の肩書が「元SWSタッグ王者」ですから(笑)。

コブラさん ハハハ(笑)。


──PWCは高野兄弟らしいフリーダムな選曲やなと感じました。やっぱりS系団体テーマ曲の話は面白いですね!

コブラさん そうなんですよ!掘り起こすときりがないですよ。いくらでも語れますから!!

SWSとS系団体テーマ曲の功績


──コブラさん、今回の対談も大詰めです! SWSとS系団体のテーマ曲史を振り返って、総括をお願いします!

コブラさん 実はSWSって意外とファンの要望に応えているプロレス団体なんですよ。あと要望に応じられるだけのマニアックな知識を持つスタッフがいたと思うんです。天龍のオリジナルテーマ曲を採用して不評だったら、『サンダーストーム』に戻したり、阿修羅・原が全日本で短期間だけ使っていた『DREAMS』を使ったり、デイビーボーイ・スミスにWWFで使用しているテーマ曲じゃなくて、全日本時代に使っていた『CAR WARS』を採用したり、臨機応変に対応していたんですよ。


──『週刊プロレス』のネガティブキャンペーンで隠されていた真実ですね。

コブラさん ロード・ウォリアーズ(WWFではリージョン・オブ・ドゥーム)がSWSに上がった時、彼らにはWWFでオリジナルテーマ曲があったにも関わらず、おなじみのブラックサバス『アイアン・マン』を流しているんです。

──素晴らしい判断です。WWF時代のウォリアーズのテーマ曲もいいんですよね。

コブラさん そちらの曲はWARにアニマル・ウォリアーが参戦したときに流れているんですよ。


──ホーク・ウォリアーが怪我で欠場してWWF離脱をするんですよね。

コブラさん ちゃんと「What A Rush!!」というシャウト入りで、アニマルが登場してビバリー・ブラザーズとハンディキャップ戦を行いました。


──「What A Rush!!」は当時のVHSで「おお!殺戮!!」と翻訳されてましたね。

コブラさん ハハハ(笑)。あとユニバーサルプロレスのスターだった浅井嘉浩がSWSに移籍してウルティモ・ドラゴンとして参戦するじゃないですか。彼に対してオリジナルテーマ曲を作っていいのに、SWSはユニバーサル時代から使っている『セパラトス』(ルイス・ミゲル)を採用していて、テーマ曲視点からもSWSの柔軟な姿勢はもっと評価されていいですよ。

──1990年に旗揚げしたSWSは天龍さんの武骨なイメージが根強くて試合内容に華やかさはあまりなかったんですけど、ウルティモ・ドラゴンを移籍させたりして、課題を克服しようとしていたんですよ。残念ながら1992年に解散しますけど、もしあと2~3年存続していたら、もっと面白い団体になっていたかもしれませんよ。

コブラさん 確かにそうですね。

──元々、SWSは当時WCWにいた武藤敬司さんをエースにしようとしていた団体ですよ。武藤さんと天龍さんを相対させていこうと考えていたわけですから。帰国後に武藤さんが新日本に残って構想が崩れてしまった。もしあと3年あれば自前でスターを育てていたかもしれないし、移籍もあったかもしれないので、何かともったいない団体だったと思いますよ。

コブラさん テーマ曲だけをクローズアップしてもSWSは面白い団体なんです。でも情報があまりない(笑)。


──語りたいけど語れない(笑)。

コブラさん だからSWSのテーマ曲情報を持っている人がいたら、私にご一報ください(笑)。SWSは色眼鏡で見られがちだけど、テーマ曲視点から見る、ほんとすごい団体だと分かるはずです。


──これで対談は以上となります。コブラさん、本当にありがとうございました!!


コブラさん ありがとうございました!!





総括(ジャスト日本)
SWSとS系団体のテーマ曲が残した遺産

今回の対談では、SWSとその系譜を継ぐ藤原組、WAR、NOW、PWCのテーマ曲史を熱く掘り下げました。SWSはメガネスーパーの資金力でオリジナル曲を量産し、部屋制度をテーマ曲で強化する革新的なアプローチを取りました。そのDNAは、藤原組の硬派な格闘技路線、WARの天龍魂、NOWのカオスなインディー感、PWCの高野兄弟の自由なスピリットとして、後続団体に受け継がれました。

特に印象的だったのは、SWSのファンへの配慮と臨機応変な選曲。天龍の『サンダーストーム』への回帰や、ロード・ウォリアーズの『アイアン・マン』の忠実な使用は、ファンの期待に応える姿勢の表れです。S系団体のテーマ曲も、それぞれの団体の個性を反映し、インディーならではのチープで愛嬌あるエピソードが満載です。

昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんが珍しく平成のテーマ曲について語ったこの対談はプロレスファンのみならず、音楽とカルチャーの交差点を愛する人々にとっても貴重な資料になるでしょう。SWSとS系団体のテーマ曲は、プロレス史の輝かしい一ページとして、これからも語り継がれるべきです。プロレスの熱さ、情熱、そして個性を音楽で表現したこれらのテーマ曲は、プロレス文化の奥深さを象徴する遺産です。








最後にコブラさんよりお知らせです!

『昭和プロレステーマ曲史論Updated』

日時:9月13日 (土)
会場:闘道館(巣鴨)
参加費:3000円
開場 14:45
開演 15:00





ジャスト日本です。
 

これまで昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんと共にさまざまなプロレステーマ曲に関する対談をブログで配信してきました。今回の「テーマ曲多事暴論」では、プロレス史に燦然と輝く「SWS(スーパー・ワールド・オブ・スポーツ)」のテーマ曲に焦点を当てました。SWSの音楽文化の革新性、WWF(後のWWE)との提携による海外テーマ曲の導入、ファン心理を捉えた選曲の妙について熱く語ります。バブル期のメガネスーパーの資金力が生んだオリジナル曲の量産、部屋制度を活かしたテーマ曲の戦略、そして幻のレア曲まで、プロレス史の裏側を掘り下げる濃密なトークをお届けします! SWSがバブル期のプロレスシーンでどのように音楽を通じて革命を起こしたのか、その全貌を解き明かします!



テーマ曲多事暴論〜SWSとS系団体アナザー激闘史〜前編「Sの革命と功績」 






メガネスーパーの資金力が生んだオリジナル曲の革命

── コブラさん、今日はお時間をいただき、ありがとうございます! さっそくですが、SWSのテーマ曲の特徴について教えてください。バブル期のプロレスは音楽もめっちゃ印象的でしたが、SWSのテーマ曲の魅力はどこにあったんでしょうか?

コブラさん  ジャストさん、 素晴らしい質問ですよ。SWSのテーマ曲の最大の特徴は、なんといってもオリジナル曲の圧倒的な多さ。1990年の旗揚げ当時、メガネスーパーというバブルの申し子みたいな巨大企業の資金力があったから、主要選手のためにオリジナルテーマ曲をバンバン作ったんですよ。これは当時のプロレス団体では本当に異例で、普通は新興団体だとコストを抑えるために洋楽や映画音楽を借りるのが一般的だったけど、SWSはガチでゼロから曲を作りまくった。横浜アリーナや東京ドームみたいな大舞台の豪華な興行に合わせて、専属のミュージシャンやレコード会社をフル動員したんですよ。バブル期の「金に糸目をつけない」精神が、音楽にもガッツリ反映されてたんです。

── メガネスーパーの資金力、ほんとバブル感ハンパないですね! 他の団体では絶対真似できない規模だったんですか?

コブラさん  うん、新日本プロレスには鈴木修さんっていう天才作曲家がいて、オリジナル曲を作れたけど、平成の新興団体でここまでやるのはSWSくらいですよ。たとえば、UWFだと高田延彦の『クロスファイヤー』くらいしかオリジナルがなくて、他の選手はほぼ借り物の既存曲。SWSは主要選手ほぼ全員にオリジナルテーマ曲を用意して、さらには「部屋制度」に基づくテーマ曲まで作っちゃった。この気合の入れよう、半端なかったわけですよ。バブル期のプロレス団体としては、まさに頂点の存在だったね。ジャストさん、SWSのバブリーな雰囲気って、どんなイメージがありましたか?

── やっぱりド派手な演出と豪華な会場ですよね! 東京ドームでレーザー光線が飛び交う中、テーマ曲がガンガン流れるみたいな、めっちゃ興奮するイメージです!

コブラさん  その通り、ジャストさん! バブル期のSWSは、プロレスの興行をエンターテインメントの頂点に押し上げるために、音楽にもめっちゃこだわってた。メガネスーパーの資金力があったからこそ、こんな豪華なテーマ曲文化が生まれたんです。



部屋制度を活かしたテーマ曲の統一感と戦略

──部屋のテーマ曲が存在したというのがSWSの大きな特徴ですよね。

コブラさん  その通りです。SWSには天龍源一郎率いる『レボリューション』、若松市政率いる『道場・檄』、ジョージ高野率いる『パライストラ』という3つの部屋があって、それぞれに専用のテーマ曲があったんです。このシステムのポイントは、オリジナル曲がない選手でも、所属する部屋のテーマ曲で入場できたこと。たとえば、レボリューションだと天龍源一郎とザ・グレート・カブキ、北尾光司だけが個人用のオリジナルテーマ曲を持ってて、北原光騎(当時は北原辰巳)、折原昌夫、冬木弘道(当時はサムソン冬木)なんかは『レボリューション』のテーマを使ってた。


──えええ!そうなんですか!

コブラさん  『道場・檄』も同じで、維新力と谷津嘉章以外は部屋のテーマ曲で入場してくるんですよ。この仕組みのおかげで、個々の選手にテーマ曲がなくても、団体の統一感をしっかり出せたんですよ。

── 部屋ごとにテーマ曲があるなんて、めっちゃ画期的ですね! その仕組みでどんな効果があったんですか? ファンへの影響も大きかったんでしょうか?

コブラさん  部屋ごとのテーマ曲があることで、選手の入場時に「この選手はあの軍団だ!」ってファンが一目でわかるし、軍団間の対抗意識も煽られて、SWSの興行をめっちゃドラマチックにしてましたね。

──テーマ曲効果ですね! 


コブラさん SWSファンにとっても、テーマ曲が流れるだけで「次はあの軍団の試合だ!」ってテンションが上がる瞬間なわけですよ。バブル期の豪華な演出と相まったわけで。SWSの部屋制度は、プロレスのストーリーテリングを音楽で強化した、ほんと画期的な試みでした。



ファン心理を捉えたテーマ曲の役割


──今の話を聞くとSWSはテーマ曲選びはうまかったんですか?

コブラさん  SWSのテーマ曲は、ファン心理をガッチリ捉えてた点も大きいですよ。WWFとの提携を生かして、海外選手のテーマ曲を忠実に再現してました。


──SWSのテーマ曲選定のキーマンは誰かいらっしゃったんですか?

コブラさん これがわからないですよ。天龍のオリジナルテーマ曲は宇崎竜童さんが作ったんですけど。佐野と北尾のテーマ曲は同じ人が作っているという噂がありますけど。しかもSWSのテーマ曲CDアルバムが出ていないんですよ。


──そうなんですか!!


コブラさん  だからなかなか掘り下げることが難しいんですよ。


──オリジナルテーマ曲が多いSWSですが、既存曲を使う選手はいたのですか?

コブラさん いました。特に外国人選手には既存曲が使われています。例えばザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)はWWFで使っているテーマ曲もありましたが、SWS参戦時にはオジー・オズボーンの『Crazy Train』という既存曲が使われていました。

──それは貴重ですね!

コブラさん オリジナルと既存曲をうまく使っていた印象がありますよ、SWS末期になると仲野信市、高野俊二にも専用テーマ曲が用意されましたね。あとこれは既存曲ですけど、挑龍軍のテーマ曲もありました(笑)。

──ハハハ(笑)。最高です!挑龍軍は北原、仲野、大矢剛功(当時は大矢健一)が「打倒!天龍源一郎」を掲げて組んだチームですね。

コブラさん レッグス・ダイアモンドというアメリカのバンドの「タウン・バッド・ガール」という曲で、SWS分裂後は北原の個人テーマになってます。キングから出たWARのテーマ集でもカバーされてるんですよ。


旗揚げ戦の謎に包まれたテーマ曲


──やっぱりSWSの話は面白いですね(笑)。コブラさん、SWSのテーマ曲で特にレアなものってありますか? マニアの間で話題になるような、隠れた名曲や謎の曲をぜひ教えてください!


コブラさん  北尾のテーマ曲ですね。後年、キングレコードから発売された『プロレスQ』というCDからSWSで使われた数々のテーマ曲はCD化されているんですけど、北尾のテーマ曲はまだCD化されていないんですよ。


──そうなんですね!

コブラさん あとレアなテーマ曲で言うと、1990年10月の横浜アリーナでの旗揚げ戦の入場式で流れた曲がめっちゃ謎なんですよ。豪華なレーザー光線とともに流れたんだけど、オリジナルか、既存なのかも特定できていないんです。

──なかなか謎ですね(笑)。

コブラさん ただ当時の『週刊プロレス』の記事にSWS設立記念パーティーが掲載されていて、「SWSのテーマ 第一節」として披露されたって書いてあったんですよ。そんなのは知らないよと(笑)。実はアポロ菅原や新倉史祐みたいなフリー選手の入場曲としても使われていて、その曲が「SWSのテーマ 第一節」だったのかなと仮定しています。誰かSWSのテーマ曲に詳しい関係者がいないですかね(笑)。


── え、めっちゃ気になる話です!誰かSWSのテーマ曲について詳しい関係者がいればコブラさんにご一報いただければありがたいです。SWSといえばWWFと提携していたので、多くのWWFスーパースターが来日しました。彼らのテーマ曲は基本的にWWFで使用しているテーマ曲だったんですか?


コブラさん  そうですね。ホーガンに始まり、ジ・アースクエイク、テキサス・トルネード、ミスター・パーフェクト、ミリオンダラーマン、ザ・デモリッションとか。WWFで流れていたテーマ曲が日本の会場で聞けたんですよ、これはSWSの功績だと思いますよ。

──WWFは選手一人一人のキャラクターに合わせたオリジナルテーマ曲を作っているので、それがきちんと日本に直輸入されたのは素晴らしいですね。 

コブラさん テーマ曲を通して考えるとSWSってヘンなプロレス団体ではないですよ。


コブラさんが選ぶSWSテーマ曲ベスト3


──ありがとうございます。ではここでコブラさんがSWSのテーマ曲ベスト3を教えてください! マニアの視点で、たっぷり深掘りお願いします!


コブラさん じゃあ、3位からいきます。まず3位は、グレッグ・バレンタインのテーマ曲『ホンキー・トンク』(ガッド・ギャング)です。



──渋いチョイスですね!バレンタインですか!

コブラさん これはガッドギャングの既存曲なんだけど、バレンタインの入場にめっちゃハマってたんですよ。SWSはオリジナル曲が多いイメージだけど、実は既存曲のチョイスもめっちゃ上手かった。バレンタインは新日本時代からテーマ曲がコロコロ変わってた選手で、WWFではオリジナルテーマ曲があるんですけど、なぜか日本だと流れないことが多かったんですよ。『日米レスリングサミット』も日本テレビが選んだ曲で登場してますから。


──そうなんですね!

コブラさん だからその中でSWSがセレクトしたのが『ホンキー・トンク』(ガッド・ギャング)で、これが彼のガウンを着た渋い入場にピッタリの、男の色気を感じさせる曲だったんですよ。バブル期のプロレスファンには、この渋さがたまらなかった。


──ありがとうございます。では2位をお願いします!

コブラさん   2位は天龍源一郎のオリジナルテーマ曲です。



──この曲は刑事ドラマのサントラっぽいなと思ったんですけど、宇崎竜童さんが作曲されているという話を耳にすると、宇崎竜童さんらしいサウンドやなと思いました。

コブラさん SWS旗揚げ当初はこの曲だったんですけど、天龍さんといえば全日本時代から愛用している『サンダーストーム』じゃないですか。宇崎竜童さんが作った曲もめちゃくちゃいいのに、『サンダーストーム』のイメージが強すぎるからお蔵入りになって、これはテーマ曲あるあるですよ(笑)。


──テーマ曲あるある!!


コブラさん オリジナルテーマは悪くなかったけど、ファンが『サンダーストーム』のインパクトに慣れちゃっていたんです。天龍の魂とあの曲がリンクしすぎてて、変えると「なんか違う!」って感じになっちゃった。



──ありがとうございます。では1位をお願いします!


コブラさん 佐野直喜のオリジナルテーマ曲です。

──同感です。私も佐野直喜のテーマ曲がSWSではナンバーワンです。


コブラさん 曲名があるのか、ないのかは不明ですが、佐野のオリジナルテーマ曲がダントツで素晴らしいです。

──せっかくちゃんとしたミュージシャンが作っているはずなのに曲名がないのが寂しいですね。

コブラさん さすがにこれは不動の一位ですよ。この曲は静かめのイントロが長くて、盛り上がるまで時間がかかるんです。普通テーマ曲ってそういうところはカットするんですけど、この部分が長い花道を黙々と歩く佐野に合ってたんですよ。新興団体なのに大会場の多いSWSならではのオリジナル曲だと思いますね。


──SWSのテーマ曲の奥深さ、もっと知りたいです!

コブラさん  本当に奥深いですよ。歴史が短いのに、情報が少ないのに調べたいという意欲がわきますから。阿修羅・原のテーマ曲とか、全日本時代で短い期間しか使っていなかったヴァン・ヘイレン『DREAMS』をセレクトしていたり、なかなかマニアックなんですよ。

──SWS内部にテーマ曲マニアがいたんじゃないですか。阿修羅さんといえば名曲『阿修羅』ですからね。

コブラさん そうなんですよ!普通は『DREAMS』は選ばないですよ。だから本当はキーマンもいて、テーマ曲マニアもいるはずなんですけど、なかなか情報が出てこない…。


──確かに!

コブラさん だって『SWSのテーマ曲』が三部構成だったんですよ(笑)。一部はこれかなと仮定はできても、二部、三部は謎ですから。二部と三部は実際あったのかも不明です(笑)。


──SWSのフライングじゃないですか。なかったと思われますけど(笑)。

コブラさん そうでしょうね。ふかしです(笑)。


──あとSWSテーマ曲ベスト3で惜しくも圏外になったテーマ曲はありますか?

コブラさん キング・ハクのテーマ曲として選ばれたアート・オブ・ノイズ『バック・トゥ・バック』です。地味で、ジ・アースクエイクのテーマ曲並みに(笑)。


──ハハハ(笑)。ジ・アースクエイクは地響きで構成されているテーマ曲じゃないですか!

コブラさん でもハクのテーマ曲は、ハクが持っているナチュラルな強さや怖さをビシビシと感じる音楽なんですよ。実はハクはSWSだけじゃなくても、WARでもこの曲を使っていて、なんと後年、ミングとして新日本に参戦したときもこの曲を使っているんです。

──ええええ!!!

コブラさん ミングはWCWに上がってましたけど、その時のテーマ曲ではなかったんですよ。だから誰がSWSからこの曲を持ってきて、新日本で使ったのか、謎なんですよ。


──WAR関係者から音源をもらったんですかね。

コブラさん その可能性はありますね!!

──やっぱりSWSのテーマ曲史は面白いですし、まだまだ掘り下げることができそうですね。また情報があまりないから神秘的ですよ(笑)。

コブラさん 確かにそうですよ。


── コブラさん、SWSがテーマ曲の面で残した功績ってどんなものだと思いますか? プロレス史での影響ってどれくらい大きいですか?

コブラさん   SWSのテーマ曲の最大の功績は、やっぱりWWFとの提携で、アメリカでドル箱スターとなった海外選手のテーマ曲を、WWF時代と同じものを使用したことかなと思います。『日米レスリングサミット』もそうでしたけど、あれは単発に終わってしまいましたからね。メガネスーパーのバブリーな資金力があったから、主要選手にオリジナルテーマを用意し、部屋制度にもテーマ曲を割り当てることができた。これは当時のプロレス界では革命的で、新日本プロレス以外の団体ではほぼ例がなかった。SWSは興行の規模感に合わせて、音楽にもガッツリ投資したのかなと思います。


──阿修羅さんの『DREAMS』をSWSで使ったのも功績かなと思ったりしますがいかがでしょうか。



コブラさん  鋭い!『DREAMS』を復活させたのは大きいですよ。だってSWSで復活させなかったら、原さんは『阿修羅』のままで引退していたかもしれませんから。平成から原さんを見ているファンにとっては『DREAMS』が原さんのテーマ曲かなと思いますよ。


── SWSのテーマ曲文化って、後続の団体にも影響を与えたんですよね?

コブラさん   うん、めっちゃ影響与えたと思います。 SWSのテーマ曲文化は、藤原組、WAR、NOW、PWCにそれぞれの形で受け継がれていった。SWSが短命だったのは残念だけど、もしあと2、3年続いてたら、もっとすごいテーマ曲が生まれてたかもしれない。CDが1枚でも出てたら、マニアの宝物になってたはずなんです! バブル期の勢いそのままに、もっと豪華なテーマ曲や斬新なアレンジが生まれてた可能性もあるわけですから。

── もっとド派手なオリジナル曲とか、海外スターとのコラボ曲とか出てたかもしれないですね! CD出てたら、絶対買ってました!

コブラさん  その通り、ジャストさん! 活動期間中はSWSは真っ当な評価をされていなかったかもしれませんけど、WWFとしっかりとした協力体制を築き、直輸入でスーパースターたちのテーマ曲を届けてくれた。これはSWSにしかにできなかったことです。テーマ曲視点からもSWSの功績はしっかり生きてるし、もっと評価されるべきだと思います。

(前編)

最後にコブラさんよりお知らせです!

『昭和プロレステーマ曲史論Updated』

日時:9月13日 (土)
会場:闘道館(巣鴨)
参加費:3000円
開場 14:45
開演 15:00





ジャスト日本です。


6月25日に大阪・ロフトプラスワンウエストさんで開催されました新しいトークイベント『平成プロレス感謝祭』に演者として登壇させていただきました。相方はなんば紅鶴さんでのイベントでも一緒に組んできた漫画講師のPEN D.A.F(以下ペンダフ先生)さん。私にとってはかけがえのないプロレス仲間であり、盟友です。




『平成プロレス感謝祭』 
(概要)
※平成プロレスをこよなく愛する人必見のイベントがここに見参!!今回のテーマは漫画と最強ガイジンタッグ。今いたらもっとハネたレスラー特集、技術論等、歴史年表を交えながらディープに語ります!




(配信)
※チケットは1500円(税込)。購入日時から14日間は視聴可能。アーカイブの販売期限: 2025年7月9日(水) 23:59まで


今回はこちらのトークイベント『平成プロレス感謝祭』について振り返っていきたいと思います。


そもそもイベント開催の経緯なんですが、2023年から2年連続でペンダフ先生から誘われてロフトプラスワンウエストで行われた『昭和プロレス復活祭』という人気トークイベントに観覧する機会がありました。


過去に『昭和プロレス復活祭』の感想をポストしていますので、こちらをご覧いただければありがたいです。


https://x.com/jumpwith44/status/1731089997133181008?t=DrKIH3-38Dlt2TR8-JLkSQ&s=19



『昭和プロレス復活祭』、めちゃくちゃ面白かったんですよ。その一方でこう考えたんです。



「そういえば、平成プロレスをテーマにしたトークイベントってあまりないよな」



これはトークイベントもそうですし、書籍もそうです。プロレスを取り上げる場合はどうしても昭和プロレスが多くなってしまう現状がここ15年ほど続いています。


昭和プロレスは面白いんですけど、平成プロレスも面白いですよ!!



だからこそ平成プロレスをテーマにしたトークイベントをやりたいという思いがふつふつと湧いてきまして、ペンダフ先生と共にロフトプラスワンウエストさんにお伝えしたところ、すぐにイベント日時を組んでいただけました!本当にありがとうございます!


ただ、やっぱり昭和プロレスが需要がある現実があって、そこに対するリスペクトを込めたアンチテーゼとして、平成プロレスを深掘りしていければと思い『平成プロレス感謝祭』を立ち上げました。昭和プロレスの伝説と幻想を引きずった平成プロレスがどのように変容していったのか!?



このタイトルにしたのはミック博士とコブラさんがやられている『昭和プロレス復活祭』に対する最大のリスペクトです!


ディープでハードコアで、愛と情熱と狂気が充満したプロレストークイベント『平成プロレス感謝祭』、旗揚げ戦に向けて我々は準備して挑みました。


ペンダフ先生はプロレス年表(クレイジー年表)、私は外国人選手特集とプロレスクイズのパワポを制作しました。







ではいざ本番!




実はロフトプラスワンウエストさんでのイベントは初出演だった私。少し感慨深い気持ちになりました。


店内に入り、店長の小林タクオさんにご挨拶。『平成プロレス感謝祭』開催はタクオさんの後押しがあったからこそ実現しました。今回は影ナレとして参加していただきました。













詳しい内容は配信でチェックしていただければありがたいですが、とにかくディープでハードコアなプロレストークイベントになりました(笑)



それにしてもペンダフ先生のクレイジー年表。平成がメインなのに、紀元前からスタートしてますからね、これには驚きました(笑)ペンダフ先生が年表を使ったボケと笑いに私が色々とツッコむという展開が続きました。


あと私は1990年代最強外国人タッグチーム特集とプロレスクイズを担当。個人的にはダニー・スパイビーとビッグ・タイトンのプレゼンは手応えありました!



ちなみに『平成プロレス感謝祭』、今後もロフトプラスワンウエストさんで定期開催を行っていくことになりましたので、会場に来られる方は現地で一緒に盛り上がりましょう!会場に来られない方は配信でチェックしていただければありがたいです。平成プロレスには30年の歴史があります。その長き歴史のストックがありますので語るテーマは山積みです。



最後に個人的な想いを綴らせてください。


SNSを見ていると昔のプロレスファンと今のプロレスファンの対立や分断というものがあるように感じます。これに関しては人それぞれプロレスの見方があるので自由だと思いますが、せっかくプロレスが好きな者同士なのにもったいないよなと。



https://x.com/jumpwith44/status/1938794724124697036?t=8t2zt0DK7LBt8O1_SJBYdw&s=19



昭和プロレスは素晴らしいんです。

でも今の令和プロレスも素晴らしいんです。

その昔の昭和プロレスと今の令和プロレスを繋ぐ「夢と希望の懸け橋」として平成プロレスの存在をお伝えすることが今の時代には大切なのではないかと考えています。


昭和プロレスと令和プロレスに挟まれた平成プロレスを伝えることで相互のプロレスの良さを少し理解できれば…プロレスがもっと好きになってくれるんじゃないのか。


あと『平成プロレス感謝祭』を通じて、プロレスファンが増えるきっかけになれば…。






ペンダフ先生と共に『平成プロレス感謝祭』は今と過去を繋ぐ懸け橋として大阪で頑張りますーー!!


大阪ロフトプラスワンウエストから愛を込めて…。


 


俺達のプロレスラーDX
第229回 ジャンボイズムを継承した温厚な巨大グリズリー〜信頼されたカナダの地震男〜/ジョン・テンタ

 

 

 
この日、カナダの地震男は怒りの形相で対戦相手を睨んでいた。
 
1991年4月1日SWS・神戸ワールド記念ホール大会。
当時、ジ・アースクエイクとしてWWF(現・WWE)のトップヒールとして活躍していたジョン・テンタは元大相撲横綱・北尾光司とシングルマッチ。2日前の東京ドーム大会でテンタが北尾を破っていたため、北尾にとっては雪辱戦のはずだったのだが…。
 
なぜか北尾が不可解な暴走をしてしまう。場外からリング内に机を投げ入れる、ヒザ関節蹴りやノド輪、サミングのポーズで相手に迫る意味不明な行為。
 
「あいつはプロレスをやるつもりはない!」
 
そう判断したテンタは北尾にヒートアップ。その表情は悪役レスラーの顔ではなくリアルに憤怒しているものだった。結局、北尾がこれまた意味不明のレフェリー暴行によりテンタの反則勝ち。試合後、北尾はマイクでテンタに「八百長野郎この野郎!八百長ばっかりやりやがって!!」と発言。さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの観て面白いのか!」と叫ぶ始末。ファンからは北尾に容赦ない罵声が飛んだ。この一件で北尾はSWS追放となった。
 
公衆の面前で「八百長野郎」と罵倒されたテンタと北尾は同世代で大相撲の世界では格が違うが、プロレスの世界ではテンタの方が格上。二人のその後のレスラー人生を見てもどちらが成功したのかは一目瞭然である。
 
思えばジョン・テンタはものすごく出世の早く、実力で周囲を納得させてきた早熟のプロレスラーだ。201cm 210kgと体重計ではなかなか測れないほどのスーパーヘビー級の体格を誇り、アースクエイクドロップ(ランニング・ヒップドロップ)、フライングソーセージ(ランニング・ボディプレス)、ギロチンドロップ、アバランシュホールド、エルボードロップといった圧殺技を得意にしながら、ドロップキック、ランニングネックブリーカードロップ、カナディアン・バックブリーカー、ベリー・トゥー・ベリースープレックスなど多彩な技のレパートリーを持つのがテンタの魅力だった。
 
今回は「カナダの地震男」「カナダのグリズリーベア」と呼ばれたテンタのレスラー人生を追う。
 
テンタは1963年6月22日カナダ・ブリティッシュコロンビア州サレーで生まれた。ジン・キニスキーとドン・レオ・ジョナサンに影響を受けて6歳からレスリングの道に進むことを決めていたテンタはフリースタイルレスリングで実力を磨き、1981年にカナダのジュニア王者、世界ジュニアレスリング選手権スーパーヘビー級6位入賞を果たす。
 
アメリカのルイジアナ州立大学に進学するとレスリングとフットボールで活躍していたテンタは1985年、大学を中退し大相撲・佐渡ヶ嶽部屋に入門。琴天山という四股名で序ノ口、序二段、三段目でいずれも7戦全勝で優勝する、1986年には東幕下43枚目に昇進するも、場所前の6月27日に愛知県一宮市の宿舎を無断で飛び出して東京に戻り、親方の説得にも応じず廃業。当時は「相撲世界になじめなかった」「ホームシック」と報道されていたが、テンタにとって大相撲はあくまでもプロレスラーになるためのステッピングボードにしか過ぎなかった。
 
1986年7月テンタは全日本プロレスに入団。当時180kgあった体重を160kgに減量して1987年5月1日、ジャイアント馬場とタッグを組んで、ラッシャー木村&鶴見五郎と対戦。スムーズな試合運びと器用さを見せつけて最後は鶴見をカナディアンバックブリーカーで破り、デビュー戦から白星スタートをとげた。同年9月にはバンクーバーでUWAヘビー級王座、11月には同カナディアン・ヘビー級王座を獲得。また年末の「世界最強タッグ決定リーグ戦」にもザ・グレート・カブキとのコンビでエントリーしている。全日本でプロレスラーとしてバックボーンを身に着けたのは彼にとっては大きな財産となる。
 
 
「全日本のスタイルは世界じゅうのどこへ行っても通用するものだと思ってる。とくに、カブキさんには、毎日試合が終わるたびに『ここはこうやれ』『あれはミステークだ』『タイミングを考えろ』と、レクシャーを受けた。(中略)(ジャイアント)馬場さんからも、よくなったとほめられて、うれしかった。ジャンボさんからは、プロレスはしんぼう強く取り組むものだということを教えられた。全日本の選手は、やさしいよ」
【DECADE デケード 1985~1994 プロレスラー100人の証言集 斎藤文彦/ベースボールマガジン社】
 
「全日本の先輩方は、プロレスの先生として最高だったよ。カブキさん、ジャンボ(鶴田)さん、(ハル)薗田さんをはじめ、道場のみんながよくしてくれた。渕(正信)さんなんかはいったんツアーを離れて、付きっ切りでコーチしてくれたこともあった。ホントに周りに恵まれていたんだ。もちろん練習はキツかったけど、『プロレスで最も大切なことは、いかに相手にケガをさせないで闘うか』ということをしっかり教えてもらったことで。WWFでも成功できたんだ」
【逆襲のプロレス vol.14 新日本プロレス 「掟破りのケンカマッチ」一撃の真相/双葉社】
 
周囲のレスラーからも評価が高く、特にブルーザー・ブロディからは「いい選手が入った」と絶賛するほど。
 
1989年にテンタはWWFに移籍する。実はテンタには全日本に愛着があったが、結婚を機にプロレスを続けるか悩んでいたところにWWFからオファーがあり、カブキからも「これは大きなチャンスだから、絶対に行くべきだよ」と後押しを受けてのWWF参戦だった。
 
テンタは「カナディアン・アースクエイク」というリングネームとなり悪役レスラーに転身。敏腕マネージャーのジミー・ハートがつき、パートナーには"カナダの怪力男"ディノ・ブラボーとなり、ハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーと抗争を展開。特に1990年8月27日にペンシルベニア州フィラデルフィアのスペクトラムで行われたPPV『サマースラム』でハルク・ホーガンとの大一番を闘っている。結果はリングアウトで敗れたがホーガンとの抗争はプロレスラーとしてのテンタのステータスを著しく上昇させた。
 
「いままでのキャリアで相手レスラーをケガさせたことは一度もないよ。だからホーガンがオレを対戦相手として使ってくれたんだ。知ってるだろ?ホーガンは自分をケガさせる相手とは絶対にやりたがらないからね。ホーガンが信用してくれて、初めてオレもメインイベントに出られたんだ」
【逆襲のプロレス vol.14 新日本プロレス 「掟破りのケンカマッチ」一撃の真相/双葉社】
 
WWFでトップレスラーの一角を担うようになってきたテンタは1991年には当時WWFと提携していたSWSにも参戦。そこであの北尾との不穏試合を迎えてしまう。テンタは北尾戦について次のように振り返っている。
 
 
「あの時、初日の東京ドームでオレが北尾をピンフォールしたんだけど、もちろん2日目もオレが勝つつもりだった。向こうは元・横綱だろうがなんだろうが、ここはプロレスのリング。オレが2連勝したって、なんらおかしくないからね。だから2日目の神戸も、オレはキッチリと自分の役目を果たすつもりでいたんだ。ところがアイツは、神戸の試合当日になって文句を言ってきたんだよ。『東京ドームのフィニッシュで胸の骨をケガさせられた』とか言いだしやがって。オイオイ、ふざけんなって! オレはいままで相手をケガさせたことが一度もないっていうのが自慢だったのに、オレがいつケガさせたって言うんだよ!? WWFの選手はみんな、オレのフィニッシュをきっちり受けてくれるぜ。文句を言うヤツなんて、誰もいなかった。それなのにキタオは当日になって文句を言ってきて、さらにマッチメイクに渋っているという。それでブッカー(マッチメーカー)のザ・グレート・カブキさんが控室に飛んできて意向を伝えにきた。オレはブッカーの指示には背かないから、カブキさんからの要請を素直に受け入れたんだ。『しょうがない、今日のところは北尾に花を持たせてやろう』ってね」
「俺は神戸でもちゃんと試合をするつもりだったから、まず普通にチョップを入れるところから始めたんだ。ところが北尾はセル(技のリアクション)もしない。それでも俺は普通にプロレスをしていたんだけど、あいつに腕を取らせたら、いきなりフジワラ・アームバー(脇固め)を極めてきたんだ。俺は『やばい!』と思ってかわしたけど、そこからおかしくなったんだよ。北尾はその後も、全力でキックを入れてきたり、サミングのポーズで威嚇してきたりした。そこで俺は、まともに試合をするのをやめたんだ」
「そもそも、あんな試合になってしまった発端は、東京ドームでのファンの反応にあったと思っているんだ。初日のドームの時点で、すでにお客さんはオレに声援を送り、北尾にはブーイングを浴びせていたんだ。そこらへんから、彼がイライラし始めたんじゃないかな。北尾は自分がスーパースターだと勘違いしているんだよ。『俺は横綱で、あいつは幕下なのに』っていう、相撲時代の意識を引きずっていたのかもしれないけど、へんな野郎だよ。べつに彼を『バカ』と呼ぶつもりはないけど、プロレスというビジネスをわかってなかったということは確かだね」
 
 
ただこの北尾戦には思わぬ余波を生んだ後日談がある。
 
「アメリカに帰ったら、話に尾ひれがついて何かものすごいシュートマッチをやったって大袈裟な噂になっていたんだ。相撲のグランドチャンピオンが仕掛けたシュートを返り討ちにしたっていう風にね。それで他のレスラーから一目置かれるようになったんだよ(笑)。まあ、良かったことといえば、それくらいかな。シュートマッチなんて、あれが最初で最後だよ。SWSに次に戻ってきたときも全然問題なかったし、数年後に天龍さんの団体WARで北尾と再戦が組まれたときも、ちゃんと普通に試合をしたからね」
 
 
1991年、テンタはタイフーンと「ナチュラル・ディザスターズ」を結成。テンタが201㎝ 210kg、タイフーンが204cm 174kg、合計384kgという超巨漢コンビはリージョン・オブ・ドゥーム(ロード・ウォリアーズ)最大のライバルとして立ちはだかり、WWF世界タッグ王座やSWSタッグ王座を獲得している。テンタはタイフーンについて「今までこの業界で出逢った中で最も素晴らしい人物」と絶賛している。WWEの歴史の中でもトップクラスの名タッグチームである「ナチュラル・ディザスターズ」は2025年のWWE殿堂を果たした。
 
テンタはWWFで活躍しながら、メキシコのCMLL、日本のSWSやWARでも活躍。

新日本プロレスには1993年6月にキング・ハクとのコンビで参戦し、当日新日本最強タッグチームであるヘルレイザーズと名勝負を残している。
またWARではキング・ハクと共に最強外国人レスラーに君臨している。角界の人間関係で悩まされてきたテンタだったがWWFでは充実した日々を過ごしていた。
 
「オレはブッカー(マッチメーカー)の言われた通りにやっていたから、彼らと揉めることもなかったし。ほかのレスラーからはオレが相撲とアマチュア・レスリングをやっていたことで、『アイツとは揉めてはいけない』って評判がすでに成立していたからね(笑)。あと、オレはWWFに入ってすぐ、キング・ハクのところに行って『兄弟子、よろしくお願いします!』って挨拶して、友達になったからね(笑)。ハクの伝説は知っているだろう?だからよけいに『あの2人には近づきがたい』という存在になっていったんだ」
【逆襲のプロレス vol.14 新日本プロレス 「掟破りのケンカマッチ」一撃の真相/双葉社】
 
1993年1月にWWFを去り、日本やメキシコを転戦。1994年1月にWWFに復帰して、ヨコズナとの相撲マッチが実現して話題を呼んだが同年5月にWWFを離脱。
 
その後、同年10月になんとUWFインターナショナルに参戦。当時プロレスリング世界ヘビー級王者だったスーパー・ベイダー(ビッグバン・ベイダー)のパートナーを務め、ゲーリー・オブライト&山崎一夫とのダブルバウトでUWFルールで闘った。オブライトとテンタはアマチュア・レスリングの大会で過去に対戦経験があった。テンタはUWFルールでも相撲とレスリングで培った足腰の強さを見せつけ、UWFルールに対応してみせた。
 
同年10月からはジ・アバランシュというリングネームでWCWに参戦。ケビン・サリバンが率いる怪物同盟「ダンジョン・オブ・ドゥーム」に加入し、かつてWWFで繰り広げたハルク・ホーガンとの抗争を再開する。実は当時、個人的な経済的困難を抱えていたテンタのWCW入りを後押ししたのがホーガン。彼にとってテンタはお気に入りのライバルのひとりだった。
 
WCWではザ・シャーク、ジョン・テンタとリングネームを変えたがWWF時代ほど活躍することはなかった。またWCWが1996年からnWoムーブメントが到来し、テンタのようなレスラーがやや前時代的に捉えられてしまったことも思った以上にWCWで活躍できなかった要因ともいえる。
 
1997年にWCWを去ったテンタは1998年にWWFに復帰。覆面レスラーのゴルガに変身し、クルガンやジャイアント・シルバとの怪物軍団「ヒューマン・オディティーズ」で活躍するも、1999年に解雇された。
 
その後テンタはカナダやイギリスを転戦しながら、フロリダ州サンフォードでレスリングスクールを経営して後進の育成に尽力してきた。またIWFというインディー団体のプロモーターも務めていたという。
 
WWFやWCWでプロレスラーとしてのキャリアを熟成させてきたテンタが13年ぶりに古巣・全日本に参戦したのが2002年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」で角界の先輩・天龍源一郎とのコンビが実現。天龍は全日本、SWS、WAR時代に共に戦い、時には対戦相手として対峙してきたからこそ、テンタの潜在能力をよく熟知していた。だからこそタッグパートナーとしてテンタを叱咤しながら、テンタの爆発力を引き出そうとしている印象を受けた。その天龍の振る舞いはライバル・ジャンボ鶴田に対してあの手この手で本気にさせようと躍起になっていた頃を彷彿とさせるものがあった。恐らく天龍はテンタの後ろにジャンボ鶴田の姿を少しダブって見えていたのかもしれない。
 
そういえばテンタは全日本時代に興味深いことを語っている。
 
 
「いま(1988年)、全日本のリングで一番インパクトの強い選手はやっぱり天龍さん。すべてが、あの人を中心に動いている。天龍さんが自分からすすんでヒールになったから、ジャンボさんもウカウカしていられなくなった。ボクがこの会社に入ったころのジャンボさんはエースとしてどっしり構えていたけど、天龍さんが暴れはじめてからは、急に攻撃的な姿勢になったような気がする。でも、ボクが見たところでは、実力ナンバーワンはやっぱりジャンボさん。(中略)ボクはずっとジャンボさんの味方でいたい」
【DECADE デケード 1985~1994 プロレスラー100人の証言集 斎藤文彦/ベースボールマガジン社】
 
テンタはプロレスラーとしての基礎を全日本で学んできた。その中でタッグパートナーとして、セコンドとして鶴田のどっしり構える「王者のプロレス」を見てきたことが後にWWFでの経験に活きているのではないだろうか。テンタは「対戦相手をケガさせたことがない」と語り、鶴田も「バックドロップは対戦相手によって角度を分ける」と語っている。相手と状況に合わせて自らの能力を使い分けるプロレスはまさにジャンボイズム。テンタにはジャンボイズムを内に秘めた形で継承していたのかもしれない。
 
40歳を過ぎプロレスラーとして円熟を迎えようとしてたテンタだったが、2004年に膀胱がんを発症したことが明らかとなり、プロレス界から引退。医者からは「あと1年から1年半の余命」と告知を受ける。化学療法を受け続けるも、リンパ腫も発症、臀部にも腫瘍が見つかり、ガンは肺にまで転移していた。
 
闘病生活を自身のブログで公開するテンタ。余命宣告を受け、ガンも転移して苦しい状態でも彼はウェブサイトの掲示板に「怖くなんかない」と書き込んでファンを安心させていた。辛くても苦しくても死にそうになっても彼は最後の最後まで生きることを諦めていなかった。
 
だが、2006年6月7日、フロリダで膀胱癌のため逝去。享年42。あまりに早い人生の幕切れ。レスリングスクールでレスラーを育成し、インディー団体プロモーターとしての活動もしていたテンタはさぞかし無念だっただろう…。
 
 
テンタの死後、彼と同じカナダ出身で共にWWFで活躍したブレット・ハートはこのように語っている。
 
「ジョン・テンタ、ジ・アースクエイク。彼はもの静かで控えめな優しい巨人で、みんなに『お願いします』『ありがとう』と言い、みんなを『サー』と呼んだ。残忍な怪物ヒールとして、何百万人もの子供たちを動揺させました。しかし、バックステージでは、ジョンはヒールになることを嫌っていた。彼は子供が大好きで、一緒に遊んだり、膝の上に座らせたりするのも大好きだったのに、空港に行って子供たちが泣いて逃げ出すと彼は動揺していたんだ。1992年に彼がベビーフェースになると世界は本物のジョン・テンタを見た。彼リングに来たときの笑顔、みんなからの歓声、そして子供たちがついに彼を『良い人』として見たとき、テンタ自身の心を温めました。タッグタイトルを獲得したとき、彼の顔に浮かぶ高揚感の表情はとても純粋でした。リングの外で善人になったとき、彼は自分が受けた反応を本当に愛し、バックステージの誰もがジョンのことを尊敬していた。だから彼が亡くなったとき、私たちは皆打ちのめされたんだ…」
 
角界でもトラブルがあり問題児扱いされたことがあったが、プロレス界に入るとその温厚な性格でみんなから愛されたテンタ。
確かな実力と人格でプロレス界で成功を収めたテンタ。
 
 
「プロレスは信頼と尊敬の芸術である」
 
これはブレット・ハートの名言だが、カナダの巨大グリズリーが歩んだレスラー人生は、周囲からの信頼と尊敬を勝ち取る生きるヒントが詰まっている。