ジャスト日本のプロレス考察日誌 -3ページ目

ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ





俺達のプロレスラーDX
第311
回 欧州最高のレスラーが紡ぐ魂の伝承/マーティ・ジョーンズ【俺達のプロレスラーDX】


「プロレスラーにとって、最も重要な『五感』とは何だろうか?」


強靭な肉体を躍動させるための触覚。観客の大歓声を浴びるための聴覚。試合の流れを嗅ぎ分けるための嗅覚。 だが、対峙する相手の僅かな重心のブレを見極め、次の一手を瞬時に見出すためには、何よりも「視覚(眼)」が必要不可欠であるはずだ。



四方八方から飛び交う技の数々。超高速で展開される空中戦、ミリ単位のコントロールが要求されるスープレックスの攻防。


 もし、その「片方の眼」の光を、幼い頃に完全に失ってしまったとしたら――。


 多くの者は、格闘のリングに上がることすら諦めるだろう。いや、それが常識的な判断というものだ。



だが、その過酷極まりない運命の悪戯を、自らの肉体に宿る「本物の格闘技術」と、不屈の魂でねじ伏せた一人の男がいた。



彼の名は、マーティ・ジョーンズ。


 またの名を、「ランカシャーのライオン」、あるいは**「ザ・ナンバーワン(No. 1)」。



1970年代から90年代にかけて、プロレスの母国・イギリスのマット界において絶大な支持を集め、中量級(ライトヘビー級、ミッドヘビー級)の絶対的なトップとして君臨した伝説のテクニシャン。 


日本においては、初代タイガーマスク(佐山聡)のライバルとして、また旧UWFのリングで「キャッチ・レスリング」の凄みを見せつけた本物のシューターとして、今なおマニアの間で神格化されている。


なぜ、彼は片眼の光を失いながらも、世界のトップに立つことができたのか。 


なぜ、ビル・ロビンソンは彼を「直弟子」として認め、自らの技術のすべてを授けたのか。 そして、彼が現代のマット界に残した、あまりにも巨大な「遺産」とは何なのか。


今回の「静かなる闘将」の知られざる生涯と、魂の技術の伝承の軌跡を紐解いていきたい。


★片眼の少年と『蛇の穴』の門番――ビル・ロビンソンの鉄拳制裁と、掴み取った『本物の技術』

ロバート・マーティン・ジョーンズ(のちにリングネームとなるマーティ・ジョーンズ)は、1953年12月13日、イングランドのグレーター・マンチェスターにある工業都市、オールダムに生を受けた。 


当時のオールダムは、産業革命の面影を残すタフで実直な労働者たちが暮らす、典型的なイギリスの工業地帯だった。


幼いマーティを襲った最初の試練は、わずか6歳の時だった。 


近所で自転車に乗って遊んでいたマーティは、不注意からレンガの壁に激突。その際、運悪く突き出ていた金属ワイヤーが彼の左眼を直撃してしまったのである。 懸命な治療も虚しく、彼の左目の視力は完全に失われた。



「片目の光を失ったことは、確かに大きなショックだった。遠近感が掴めず、最初はまっすぐ歩くことすら難しかった。だが、私は下を向くのが嫌いだったんだ。だから、他人より体を動かし、他人より感覚を研ぎ澄ます方法を、子供ながらに必死に模索したんだ」



片眼のハンディキャップを克服するため、マーティが12歳の頃に扉を叩いたのが、マンチェスターのフェイルズワーズにあるレスリング・ジムだった。 


そこは、イギリス伝統の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が息づく、美しくも過酷な格闘の聖域だった。



そこで少年マーティを待っていたのが、後にプロレス界の「人間風車」として世界を震撼させることになる怪物、ビル・ロビンソンであった。



当時のロビンソンは、イギリス国内で敵なしの強さを誇り、若手を容赦なく叩き潰す「蛇の穴(スネークピット)」の鬼コーチでもあった。 


1967年にイギリスのグラナダテレビが制作したドキュメンタリー番組『The Wrestlers』には、まだあどけなさが残る10代前半のマーティ・ジョーンズが、ロビンソンから過酷極まりないスパーリングと、徹底的なグラウンドの基礎を叩き込まれている貴重な映像が残されている。



ロビンソンの指導は、現代の基準から見れば「虐待」とすら言われかねない、凄惨なものだった。


 技が少しでも緩ければ容赦なく平手打ちが飛び、関節を容赦なく極められ、マットに這いつくばらされる。 


だが、ロビンソンはマーティが「左眼が見えない」という事実を知りながら、あえて特別扱いを一切しなかった。



「ビル(ロビンソン)は私にこう言った。『リングの上では、相手はお前の左眼が見えないことなどお構いなしに襲ってくる。だったら、右眼だけで相手の動きを察知するだけでなく、触れ合った皮膚の感覚だけで相手の重心の移動を読み取れるようになれ』とね。あの地獄のような日々が、私のレスリングの背骨を作ったんだ」



触覚で相手を視る。 皮膚から伝わる僅かな圧力、筋肉の緊張、息遣い。それらを瞬時に脳内で処理し、相手の次の動きを「先読み」する。


 片眼のハンディがあったからこそ、マーティ・ジョーンズのキャッチ技術は、他のどのレスラーよりも繊細で、狂いのない「精密機械」の領域へと達したのである。



1972年、17歳(一部資料では18歳)になったマーティは、ついにプロレスラーとしてのデビューを果たす。 ビル・ロビンソン、そして名トレーナーのテッド・ベトリーから授かった「本物の技術」を胸に、若きライオンはイギリスのマット界へと解き放たれた。


★『ランカシャーのライオン』と『ローラーボール』――マーク・ロコという、生涯のライバル

1970年代のイギリスマット界は、「ジョイント・プロモーションズ」を中心に、地上波テレビ局ITVの人気番組『World of Sport』枠で毎週土曜日の午後にプロレスが全国放送され、お茶の間の爆発的な人気を博していた。



そこで頭角を現したのが、伝統的なキャッチ・レスリングの技術をベースに、スピーディーかつアグレッシブなファイトを展開したマーティ・ジョーンズだった。


 彼はその実直でクリーンなファイトスタイルから「ランカシャーのライオン」と称され、ファンから絶大なベビーフェイスとしての支持を集めるようになる。



そして、このマーティの前に立ち塞がり、彼のプロレス人生を語る上で絶対に切り離せない「生涯のライバル」となったのが、「ローラーボール」マーク・ロコ(後の初代ブラック・タイガー)であった。



1976年11月12日、ウルヴァーハンプトンで行われた英国ライトヘビー級王座決定戦。 マーティは、当時すでに同階級のトップヒールとして君臨していたマーク・ロコを激闘の末に破り、自身初のシングル王座を獲得する。


ここから、ジョーンズとロコの「イギリス中量級ドル箱黄金カード」としての、果てしなき抗争劇の幕が開いた。



この二人の対決は、水と油のようでいて、その実は「お互いの技術を100%信頼しきった、極限のシンフォニー」であった。 


テレビ放送の枠内で展開される彼らの2/3フォールズマッチ(3本勝負)は、目まぐるしく変わる関節の極め合い、目にも留まらぬスピードでのロープワーク、そして観客を巻き込むドラマ性において、当時のヨーロッパプロレスの最高峰と評された。



「ロコとの試合は、いつも戦場だった。お互いに一歩も引かない。だが、彼が私を投げるとき、あるいは私が彼を極めるとき、言葉は要らなかった。お互いの呼吸だけで、次の展開がすべて分かったんだ。ロコがいたからこそ、私は『ランカシャーのライオン』になれたんだ」



ヘビー級において「欧州最強」と恐れられたのがアマレス五輪代表のローラン・ボックや、師匠であるビル・ロビンソンだったとすれば、中量級(ライトヘビー級・ミッドヘビー級)において「技術と凄みで欧州最高のレスラー」と呼ばれたのがマーティ・ジョーンズだった。



1970年代後半、マーティは世界へとその視野を広げる。 1975年にはメキシコのEMLL(現在のCMLL)に遠征し、あの伝説の「白い猛獣」ペロ・アグアヨと、メキシコ伝統の髪切りマッチ(カベジェラ・コントラ・カベジェラ)を行うなど、ラテンの地でもその実力を遺憾なく発揮した。 


また、カナダ・カルガリーの「スタンピード・レスリング」にも遠征し、北米のタフなスタイルのなかでも技術の重要性を証明し続けた。



マーティ・ジョーンズの技術は、もはやイギリス国内に留まるものではなかった。 そしてその名は、極東のプロレス大国・日本へと届くことになる。


★『黄金の虎』と奏でた究極のポリフォニー――1982年・新日本プロレスでの『奇跡の14分



マーティ・ジョーンズの日本初来日は1977年10月、新日本プロレスの「闘魂シリーズ第2弾」だった。 


翌1978年4月の「第1回MSGシリーズ」にも連続して来日。 


しかし、この時期の新日本プロレスは、アントニオ猪木の異種格闘技戦や、藤波辰巳のドラゴン・ブームの黎明期であり、ジュニアヘビー級という階級そのものが、まだ発展途上の段階にあった。



マーティの持ち味である「イギリス流の緻密なグラウンド・レスリング」は、当時のスピーディーなファイトを求める日本のファンの目には、やや「地味」と映ってしまったことは否めない。 


だが、1981年、日本プロレス界に「一頭の革命児」が誕生したことで、すべてが変わる。

初代タイガーマスク(佐山聡)の出現である。



タイガーマスクの登場によって、日本のジュニアヘビー級は一躍、メインイベントを喰うほどの超人気コンテンツへと変貌した。 


そして1982年10月、3度目の来日を果たしたマーティ・ジョーンズは、ついにその「黄金の虎」の首を狙うコンテンダーとして、リングの中央に立つことになる。



1982年10月8日、後楽園ホール。 


初代タイガーマスクとジョーンズのシングルマッチが実現。 この試合は、当時の日本のジュニア戦線における「空中戦の極致」とは、まったく異なるベクトルの「奇跡」を提示することとなった。


タイガーマスクが放つ、目にも留まらぬスピードのローリングソバットや、華麗なサマーソルトキック。 これに対し、マーティは一切動じることなく、ずっしりとした佇まいでタイガーの足を払い、グラウンドへと引きずり込んだ。


そこから展開されたのは、ビル・ロビンソン直伝の「密着型キャッチ・レスリング」だった。


 タイガーがどれだけ素早く動こうとしても、マーティは片目しか見えないハンディを感じさせない完璧なポジショニングで、タイガーの背後を奪い、首を極め、腕をコントロールしていく。


 タイガーマスクの華麗な空中戦を封じ込め、自らの土俵である「蛇の穴のグラウンド」で完全に相手を支配するその姿は、後楽園ホールのうるさ型のファンを大いに唸らせた。


「サトル・サヤマは天才だった。だが、彼は私のレスリングを非常にリスペクトしてくれた。あの試合は、彼が持つ『日本のストロングスタイル』と、私が持つ『イギリスのキャッチ・レスリング』の、最高峰の対話だったんだ」



試合は、タイガーが何とかマーティの牙城を崩し、勝利したものの、マーティ・ジョーンズというレスラーが持つ「底知れぬ実力」と「格闘技としての説得力」は、日本のプロレスファン、そして関係者の脳裏に「本物」として深く刻まれたのである。



このシリーズ中、マーティは単なるジュニアレスラーの枠を超え、ヘビー級の怪物たちとも渡り合った。いかなる体格差があろうとも、自らの「キャッチ技術」があれば対等以上に闘えることを自らの肉体で証明してみせたのである。



★旧UWF、後楽園ホールの『暗闇の中の結晶』――スーパータイガーとの『キャッチの交歓』



1984年、日本のプロレス界に激震が走る。 新日本プロレスを離脱した前田日明、藤原喜明、そして佐山聡らが中心となり、プロレスを「真剣勝負としての格闘技」へ近づけることを提唱した新団体「UWF(ユニバーサル・プロレスリング)」が誕生したのだ。



UWFが求めたのは、ロープに飛んでの攻防や、派手なボディスラムといった「プロレスの予定調和」の排除。


 グラウンドでの緻密な極め合い、鋭いキックと関節技の応酬。 その思想を実現するために、海外から招聘すべき「本物のシューター」として、真っ先に名前が挙がったのが、マーティ・ジョーンズであった。


1985年2月、マーティは「旧UWF」への参戦を果たす。 そこは、新日本時代の華やかなライトアップや、大観衆の狂乱とは一線を画す、一種の殺気と緊張感が支配する実験室のようなリングだった。



1985年3月2日、後楽園ホール。 マーティ・ジョーンズは、タイガーマスクのマスクを脱ぎ、より格闘技色を強めたスタイルに変貌を遂げたスーパータイガー(佐山聡)と対峙する。


この一戦は、かつての新日本プロレスでの試合とは全く異なる、骨の軋み合うような緊迫感に満ちていた。 佐山が放つ鋭いミドルキックに対し、マーティは的確なブロッキングで対抗。グラウンドになれば、お互いが一瞬の隙を突いてアームロック、レッグロック、アキレス腱固めを狙い合う。


「あの時のUWFのリングは、まるで『蛇の穴』の道場そのものだった。観客は声を潜め、私たちの指先の僅かな動き、関節が極まる音に集中していた。サヤマとは、お互いの手の内をすべて知っていたが、あの試合はさらにその先、お互いの『格闘家としてのプライド』の削り合いだった」



試合時間は14分28秒。 最後は、スーパータイガーが放った芸術的な「クルック・ヘッドシザース」の前にジョーンズはギブアップを喫したものの、試合後の二人の表情には、清々しいほどの「リスペクト」が満ち溢れていた。



UWFという、日本のプロレス界が生み出した最大の「格闘幻想」。 その幻想をリアルな「現実」として支えたのは、日本側の選手たちだけではない。


 マーティ・ジョーンズのような、幼い頃から片目のハンディを抱え、冷徹なイギリスのジムで鍛え上げられた「本物のキャッチ・レスラー」が、その高い技術で受けて立ったからこそ、UWFの輝きは本物足り得たのである。


★『No.1』の真実――ウィリアム・リーガルからゲイブ・キッドへ繋ぐ、偉大なる『魂の伝承』

1990年代に入り、イギリスのマット界はテレビ放送の打ち切りなどもあり、かつての黄金期から衰退期へと向かっていく。 しかし、マーティ・ジョーンズのプロレスラーとしてのプライドが衰えることはなかった。


彼は主戦場を「オールスター・レスリング」へと移し、そこで自身のキャリアの中でも画期的な転換を遂げる。


 長年のベビーフェイスとしての活動から、狡猾で自信に満ち溢れたトップヒール「ナンバーワン(No. 1)」へと変貌を遂げたのである。



マイクを握れば、その卓越したトークスキルで観客の憎悪を一身に浴び、リングに上がれば、ビル・ロビンソン仕込みの容赦のない関節技でベビーフェイスの若手たちを絶望の淵へと叩き落とす。 


1996年には、イギリス伝統の至宝である英国ヘビー級王座をトニー・セント・クレアーから奪取。「欧州最高のレスラー」 ジョーンズは、時代の変化に合わせ、自らのスタイルを最も効果的な形へとアップデートし続けたのである。



そして、彼が2000年代初頭に静かにリングを降りた後、プロレス界における彼の「本当の役割」が本格的に始動することとなる。



マーティはイギリスのオールダム、そしてマンチェスターにおいて「マーティ・ジョーンズ・プロフェッショナル・レスリング・アカデミー」を設立。


 彼が「蛇の穴」でロビンソンから受け継ぎ、世界のリングで磨き上げてきた「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の灯火を、未来の世代へと繋ぐための活動を開始したのだ。


彼が育て、あるいは若き日に徹底的に鍛え上げた弟子たちの顔ぶれを見れば、マーティ・ジョーンズという男がいかに偉大な「教育者」であったかが分かる。


マーティ・ジョーンズが遺した『遺伝子』の結晶】

・ウィリアム・リーガル(ロード・スティーブン・リーガル)


イギリスからWCW、そしてWWEへと渡り、世界最高峰のテクニシャンとしてその名を馳せた名将。リーガルがリング上で見せた、相手を小馬鹿にするような首の極め方、泥臭くも精密な関節技の数々は、すべて若き日にマーティ・ジョーンズから叩き込まれたものだった。リーガルは今なお、マーティを「人生の恩師」として最大の敬意を払っている。

 

・ゲイブ・キッド


 新日本プロレスやAEWにおいて、荒々しいヒールファイトと、卓越したレスリング技術を融合させ、トップへと駆け上がっている若き怪物。ゲイブの持つ、観客の憎悪を煽る「狂気」と、いざとなれば相手の関節をへし折るような「技術の裏付け」のハイブリッドスタイル。その原点には、マーティがマンチェスターで授けた「生き残るための格闘技術」が息づいている。



・ジョー・ヘンドリー  


TNA、そしてWWEのNXTマットをその圧倒的な歌唱力とキャラクターで席巻しているエンターテイナー。彼もまた、アマチュアレスリングをバックボーンに持ち、マーティの道場でプロレスのイロハを学んだ一人である。派手なパフォーマンスの裏にある、確かなグラウンドの安定感は、マーティの教えの賜物だ。



「今の若い奴らは、すぐに空中を飛びたがる。だが、プロレスの基本は常に『大地に足をつけ、相手をいかにコントロールするか』だ。私は弟子たちに、技の派手さではなく、技の『意味』を教えている。私の左眼は見えなかったが、彼らの動きを見れば、その魂が本物かどうかはすぐに分かるんだよ」



マーティ・ジョーンズの教えは、決して古い時代のノスタルジーではない。 2026年現在、世界のプロレス界の最前線で闘い、リングをコントロールしている強者たちの肉体の中に、彼の失われた左目の代わりに研ぎ澄まされた「皮膚の感覚」と「キャッチの真髄」が、確かに受け継がれているのである。

★我々が『本物(リアル)』に魅せられる理由――マーティ・ジョーンズが現代に放つ、沈黙のメッセージ



2026年現在、マーティ・ジョーンズは72歳を迎えている。 リングを降りて久しいが、彼の佇まいは今なお、かつて「ランカシャーのライオン」として恐れられ、愛された当時の、頑強で知的な格闘家のままである。


かつて、彼と共にイギリス中量級の黄金時代を築き上げた終生のライバル、マーク・ロコ(初代ブラック・タイガー)は、2020年にこの世を去った。 恩師であるビル・ロビンソンも、2014年に日本でその生涯を閉じている。



仲間たちが一人、また一人とリングの彼方へと去っていく中、マーティは今なお、イギリスの地で静かに、しかし力強く、キャッチ・レスリングの伝統を守り続けている。



プロレスというジャンルは、時代と共にその姿を大きく変えてきた。 今や、CGのような空中戦や、SNSを使った高度なプロモーションが主流となり、リング上の「闘いのリアリティ」は、時として二の次にされがちである。



だが、ファンが本当に心を揺さぶられ、胸を熱く焦がす瞬間とは、いつの時代も同じではないだろうか。 それは、言葉によるギミックや派手な演出の奥底にある、「この男は、本物(リアル)だ」という、冷徹にして美しい説得力に触れた瞬間である。



6歳での失明という絶望を乗り越え、 「蛇の穴」の理不尽な暴力を自らの技術へと昇華し、 タイガーマスクの華麗な光の影で、冷酷なまでに美しい「闇の結晶」を紡ぎ出し、 最後は自らの遺伝子を次世代へと完璧に伝承してみせた男。



「欧州最高のレスラー」マーティ・ジョーンズ。 あなたが片眼の暗闇の中で見つめ続けたプロレスの「真実」は、今もなお、世界中のリングの上で、熱い光となって輝き続けている。









俺達のプロレスラーDX
第310
回 “ECWの最凶処刑人”による一芸渡世のチョークスラム/911【俺達のプロレスラーDX】




プロレスとは、完璧な技術を持つ者だけが支配する表現世界ではない。 


時に、たったひとつの技、たったひとつの佇まい、そして時空の隙間に合致した強烈な「文脈」が、名うてのテクニシャンたちを遥かに凌駕する熱狂を叩き出すことがある。



1990年代半ば、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア。かつてビンゴホールであった湿ったコンクリート作りの会場「ECWアリーナ」は、既存のメジャー団体(WWFやWCW)が提供する優等生的なエンターテインメントに反吐を吐いた狂信的なファン=「ECWマニア」たちの巣窟と化していた。


タバコの煙と安ビールの臭いが充満し、血と汗と硝煙の香りが漂うその狂気の空間で、ファンが最も渇望したのは「カタルシス」であった。 


理不尽なマイクパフォーマンス、不快なヒール、だらだらと続く泥沼の試合――それら一切の不純物を一瞬にして灰燼に帰せさせる存在。



重低音のギターリフと怪獣映画を思わせるイントロ、エドガー・ウィンター・グループの『Frankenstein』やホワイト・ゾンビの『Welcome to Planet Motherfucker』が大音量で鳴り響く中、ゆっくりと花道を歩いてくる漆黒のロングコートを纏った巨漢。



その名は――911(ナイン・ワン・ワン)。


アメリカにおける緊急通報ダイヤルをその名に冠したこの男がリングインし、不遜な相手の首を巨大な手掌で掴み上げ、マットへと叩きつける「チョークスラム」を一閃させた瞬間、アリーナの天井は揺れんばかりの大歓声に包まれた。



「ナイン・ワン・ワン! ナイン・ワン・ワン!」


文字通り、緊急事態を収拾するための最終兵器。 彼がマットに叩きつけたのは、対戦相手だけではない。既存のプロレス界が持っていた「常識」そのものであった。


しかし、この熱狂の渦の中心にいた男、本名アルフレッド・ポリングのプロレス人生は、あまりにも歪で、あまりにも短く、そしてあまりにも切ない光影に彩られている。 


全米最優秀新人賞に輝きながらも、なぜ彼はメジャーの表舞台から急速に姿を消していったのか。 「演出の魔法」によって頂点へと押し上げられた男が、魔法の解けた世界で直面した現実とは何だったのか。


今回は、過激なハードコアの聖地に突如現れ、刹那の輝きを残して去っていった“ECWの最凶処刑人”911のレスラー人生を考察していく。


★叩き上げの巨躯〜建設現場からラリー・シャープの「怪物工場」へ〜



911ことアルフレッド・ポリングは、1957年1月22日、ニューヨーク州ニューヨーク市に生まれた。



幼少期や家庭環境についての多くは公にされていないが、彼を形作ったのは大都市の喧騒と、生まれ持った規格外の体躯であった。


成長したポリングの身長は201cm、体重は136kgに達する。現代のアメリカ社会においても一目置かれる巨大な骨格と肉体美を備えていた。



しかし、若き日の彼が最初からプロレスラーの道を志していたわけではない。 


1977年、20歳を迎えたポリングは建設業界に身を投じ、「A&T Builders」という建設会社を自ら設立して肉体労働に従事していた。


重い資材を運び、骨組みを組み上げる苛烈な労働の日々。彼の強靭な体幹と握力は、ジムのウエイトトレーニングだけでなく、この過酷な現場作業によって培われたものであった。


だが、30代を迎える頃、彼の胸中に一つの野心が芽生える。


 「この肉体を生かせる場所が、ほかにあるのではないか」


1980年代後半、ポリングが扉をたたいたのは、ニュージャージー州ポールズボロに居を構えるプロレス界の名門インディペンデントプロレススクール「モンスター・ファクトリー」であった。


 主宰者は、かつてWWFなどで暴れ回り、数多くの巨大レスラーを育て上げた敏腕トレーナー、ラリー・シャープ。 


バンバン・ビガロやキングコング・バンディといったモンスターたちを輩出したこの虎の穴で、ポリングはプロレスの基礎、受身、そして自らの巨体を活かしたパワームーブのノウハウを叩き込まれた。


1990年、ポリングは「アル・ザ・スレッジハンマー」というリングネームで、33歳という比較的遅い年齢でプロデビューを果たす。 


インディー団体を中心にキャリアをスタートさせた彼は、時には「アル・ポリック」名義でWWFのTV収録に呼び出され、トップスターの引き立て役(エンハンスメント・タレント/ジョバー)としてリングに上がることもあった。


当時の彼は、ただの「背の高い大柄な男」に過ぎなかった。 


プロレスの動きは重く、器用なレスリングができるわけではない。マイクパフォーマンスで観客を魅了する術も持たない。 もし、彼がこのままインディーの海を漂い続けていたならば、歴史の闇に葬られた無数の巨人の一人として終わっていたことだろう。


しかし、1994年初頭。ポリングの運命を根底から覆す一人の男との出会いが訪れる。 過激団体「ECW」を率いるプロモーター兼ブッカー、天才ポール・ヘイマン(ポール・E・デンジャラスリー)その人である。



★天才ポール・ヘイマンの錬金術〜「引き算の美学」が生んだ異形の熱狂〜



1994年1月18日、ECWのTV収録番組に、正体不明の巨大な男が姿を現した。 


当時、凄まじいダイブ技と自傷行為でカリスマ的人気を誇っていたサブゥー。ポリングはそのサブゥーを連行・管理する無口な「ハンドラー(飼い主/警護員)」として登場したのだ。 


試合ではチャド・オースティンを短時間で粉砕。その圧倒的な存在感に、ブッカーのポール・ヘイマンは大きな可能性を見出した。


同年2月5日のビッグイベント『The Night the Line Was Crossed』。 ヘイマンは、この巨人に正式なリングネームを与えた。


「911」。


ヘイマンがポリングに施したプロデュースは、プロレス界における「引き算の美学」の究極形であった。



通常のレスラーであれば、多彩な技を覚え、スタミナをつけ、長時間の試合をこなせるようにトレーニングを積むのが筋とされる。


しかし、ヘイマンは冷静にポリングの資質を見抜いていた。 


「ポリングにはレスリングのセンスはない。複雑なムーブをやらせればアラが出る。だからこそ、彼は一切プロレスをしてはならない」



ヘイマンが911に求めた仕事は、極めてシンプルかつ徹底していた。


レフェリーや対戦相手、あるいは不届きなマスコミやファンがリング上で混乱を引き起こす。→乱入テーマ曲とともに、911が一切の表情を変えずに粛々とリングへ上がる。→邪魔者の首を掴み、絶叫する観客の前で「チョークスラム」を叩きつける。→相手が起き上がらなければ、もう一発チョークスラムを見舞う。→一言も発することなく、そのまま去っていく。


試合時間はわずか数秒から数分。 受けた技はゼロ。出した技はチョークスラムと、時折見せるフライング・エルボードロップのみ。



この極端な演出が、ECWアリーナの毒気に当たっていたファンに劇的に刺さった。 


当時、WWFやWCWでは、長時間の退屈なマイクパフォーマンスや、決着のつかない反則裁定が横行していた。


ファンは「即座に下される絶対的な正義(あるいは暴力)」に飢えていたのだ。



911がリングに上がり、右手を高く掲げて相手の喉元を掴むと、会場全体が地鳴りのような歓声をあげた。


 「1! 2! 3! もう一発叩きつけろ!」 


ファンの要求に応え、911が2発目、3発目のチョークスラムを喰らわせると、ECWアリーナは狂喜乱舞の坩堝と化した。



ヘイマンはポリングを自身のヒールユニット「デンジャラス・アライアンス」に組み込み、サブゥーやタズマニアック(後のタズ)と同列の破壊兵器として重用した。


 技術がないことを隠し、怪物としての「記号」だけを極限まで研ぎ澄ませる。 


ポール・ヘイマンという鬼才のプロデュース術によって、建設現場の叩き上げ作業員であったアルフレッド・ポリングは、全米のプロレスファンが注目する「カルトヒーロー」へと変貌を遂げたのである。


★1994年の奇跡〜チョークスラム一閃、全米を揺るがした“モンスターの全盛期”〜


1994年から1995年にかけての911の進撃は、まさに破竹の勢いと言うほかなかった。


1994年5月の『When Worlds Collide』では、当時のECW TV王者マイキー・ウィップレックに挑戦。


短い格闘の末、試合をコントロールしきれなくなった911はレフェリーにまでチョークスラムを爆発させて反則負けとなったが、観客は王者の勝利ではなく911の破壊行為に酔いしれた。


続く『Hardcore Heaven』では、大型レスラーとして名を馳せていたミスター・ヒューズとのモンスター対決を制し、自身の存在感をより強固なものとする。


そして、911の評価を決定づけた伝説の夜が訪れる。


 1994年8月27日、フィラデルフィアで開催された『NWA World Title Tournament』である。 (※この大会は、優勝したシェーン・ダグラスがNWA世界ヘビー級ベルトをマットに投げ捨て、「ECW世界ヘビー級王座」の設立を宣言した、プロレス史上の大転換点となったイベントである)


このトーナメントの1回戦で、911は元WWFのスーパースターであるドインク・ザ・クラウン(マット・ボーン)と対戦。 


ポップで滑稽なピエロのキャラクターであるドインクに対し、ECWのファンは激しいブーイングを浴びせていた。


そのアウェイの空気の中、リングに降り立った911は、ドインクを容赦なく打ちのめし、怒涛の「4連続チョークスラム」で圧殺。3カウントを奪った。


この瞬間、ECWアリーナの熱気は絶頂に達した。旧時代の象徴である「メジャー団体のキャラクター(ドインク)」を、過激な新時代の破壊神(911)が叩き潰す。この図式は、ECWが掲げる「アンチ体制」のシンボルとなった。


 トーナメント準決勝で2コールド・スコーピオに敗れはしたものの、この夜の真の主役の一人は紛れもなく911であった。



同年12月の『Holiday Hell』では、凶暴なタッグチーム「ザ・ピットブルズ」をハンディキャップマッチで撃破。 


911の犠牲者はレスラーにとどまらなかった。実況アナウンサー、レフェリー、さらにはクリスマスイベントでリングに上がったサンタクロースの偽物や、後にマネージャーとして大成するフランシーヌまでもが、彼のチョークスラムの犠牲となった。



誰かを叩きのめせば大歓声が起きる。 この熱狂は専門誌にも波及した。老舗プロレス雑誌『Pro Wrestling Illustrated(PWI)』が選出する1994年度「PWI Rookie of the Year(最優秀新人賞)」に、なんと37歳のアルフレッド・ポリング=911が選出されたのである。



キャリアわずか数年、まともなロングマッチすらこなせない男が、全米のファンとメディアを熱狂させ、新人王の栄冠に輝く。 


プロレスというジャンルが持つ奇跡と歪みが、最も鮮やかに結実した瞬間であった。



1995年に入っても勢いは衰えず、4月の『Hostile City Showdown』では元WCW世界ヘビー級王者である重鎮ロン・シモンズ(ファルーク)から金星を獲得。5月の『Barbed Wire, Hoodies & Chokeslams』でもジム・スティールを一蹴した。


どこへ行っても「911」コールが巻き起こり、彼が腕を掲げれば会場が爆発する。 男は間違いなく、ハードコアの聖地の「王」の一人であった。


★狂気と現実の狭間で〜バックステージの軋みと、早すぎたECW離脱の真相〜


しかし、急速に燃え上がった炎は、消えるのもまた早かった。 911の成功は、綿密に構築された「幻想(ファンタジー)」の上に成り立っていたからである。



リング上のモンスターとしての地位が確立されればされるほど、バックステージでのアルフレッド・ポリングという人間の素顔と、団体の現実との間に亀裂が生じ始めていた。


1995年後半、ECWは単なる地域インディー団体から、全米へPPV放送を進出させようとする過渡期にあった。 団体のクオリティを高めるため、ポール・ヘイマンはレスリング技術に長けた選手(レイ・ミステリオ・ジュニアやペロ・アグアヨなどのルチャドール、クリス・ベノワ、ディーン・マレンコ、エディ・ゲレロら)を続々と投入し、リング上の「試合内容」を重視する方向へと舵を切りつつあった。



技が出せず、数分以上の試合を組み立てられない911のスタイルは、徐々に団体の進化スピードから取り残され始めていた。


さらに深刻だったのは、バックステージでの人間関係の悪化である。 


1996年1月5日、イベント『House Party』。 911は若き日のレイ・ミステリオ・ジュニアとタッグを組み、ザ・エリミネーターズ(ペリー・サターン&ジョン・クローナス)と対戦して勝利を収めた。


試合後、リング上でタズとの不穏な抗争劇が繰り広げられ、ファンは巨漢対決、あるいはモンスター対決としての「911 vs タズ」のフィーダー(抗争)に大きな期待を寄せた。



しかし、この抗争が実現することはなかった。 この時期、ポリングとプロモーターであるポール・ヘイマンとの間で、決定的な決裂が発生していたからだ。



離脱の直接的な原因として伝えられているのは、バックステージにおける「リングクルー(設営スタッフ)への接し方」を巡る対立であった。 


叩き上げの建設業者出身であり、肉体労働の厳しさを知るポリングは、裏方で過酷な作業に従事する若いリングクルーたちの待遇や扱われ方に対し、激しい不満を抱いていたとされる。


ヘイマンや団体の幹部に対し、クルーの代弁者として強く抗議を行った結果、両者の溝は修復不能なまでに深まった。



また、一説には「PWI新人賞」を獲得したことでポリング自身のプライドが高くなり、自身の扱いやギャランティに対して過度な要求をするようになったとも言われている。



理由がどうであれ、現実として突きつけられたのは冷酷な事実であった。 1996年初頭、911は突如としてECWを電撃離脱。


彼をスターに仕立て上げた「ポール・ヘイマンの魔法の城」から、自ら飛び出していくことになったのである。


★彷徨える処刑人〜WCWでの不遇、インディーの深淵、そして1998年の非情なる再会〜


ECWという「最高の文脈」を失ったアルフレッド・ポリングを待ち受けていたのは、プロレス界の厳しい現実であった。


1996年、ECWを去ったポリングは、巨額の資金力を誇る全米第2のメジャー団体「WCW」へと移籍する。 


しかし、そこにはポール・ヘイマンのような「短所を隠し長所だけを魅せる」精密なブッキングは存在しなかった。



WCWでのポリングは、「トゥームストーン」、「スレッジ・ハマー」、「ビッグ・アル*といった目まぐるしく変わるリングネームで出場。 

(※なお、2000年にWCWでタンク・アボットと革ベルト争奪戦を行った「ビッグ・アル」ことアル・グリーンは同名別人のレスラーである)



WCWのリングにおいて、ポリングは単なる「動きの重い、大きいだけのジョバー」に過ぎなかった。


 ECWアリーナで炸裂していたあの神聖なまでの「911コール」はどこにもない。


ロングコートを着て威風堂々と歩いても、観客からは冷ややかな視線が送られるだけだった。 


自身の技量の拙さが白日の下に晒され、メジャーの層の厚い層の中に埋もれていったポリングは、1997年にはWCWからも姿を消すこととなる。



その後、彼は地元ニュージャージーを中心としたインディー界へと主戦場を移した。 特に「JAPW」では重宝され、1997年から1998年にかけてJAPWヘビー級王座を2度にわたって獲得。


インディーの帝王として一定の敬意を集めてはいたものの、あの1994年の全米を巻き込んだフィーバーから見れば、あまりにも寂しい地方巡業の日々であった。


そして1998年1月16日。運命の悪戯か、ポリングに古巣ECWからのオファーが届く。フィラデルフィアで開催された『ECW UltraClash 1998』。


久々にECWのリングへと帰ってきたポリング。


悪徳マネージャーのジャッジ・ジェフ・ジョーンズを伴い、ビル・ワイルズをチョークスラムで叩き潰すと、ジョーンズはマイクを握り誇らしげにアピールした。


 「見ろ! これこそがプロレス界真のジャイアント、911だ!」


しかし、かつて熱狂したECWファンから巻き起こったのは、大歓声ではなく、どこか冷めた失笑とノスタルジーであった。 


時代はすでに進んでいた。ECWはよりスピーディーで、より過激で、よりドラマチックなエンターテインメントへと進化を遂げていたのだ。


そこへ現れたのが、体重わずか65kgほどの「小人レスラー」、スパイク・ダッドリーであった。 ジャッジ・ジェフ・ジョーンズの呼びかけに応じて急遽組まれた「911 vs スパイク・ダドリー」の一戦。



かつてどんな巨人をも沈めてきた911のチョークスラム。しかし、スパイクはその巨躯をかい潜り、電光石火の丸め込み(スクールボーイ)を決めると、わずか54秒で911から3カウントを奪ってしまったのである。



かつての最凶処刑人が、最軽量のレスラーに1分未満で惨敗する。 


それは、かつて自身を棄てて去っていったポリングに対する、ブッカー・ポール・ヘイマンからの残酷で冷徹な「回答」であり、911という幻想に対する完璧な引導(レクイエム)であった。



この一夜限りで、911のECWでの歴史は完全に途絶えた。


★ハードコアの残り火〜ノスタルジーの中の巨影と、今を生きるアルフレッド・ポリング〜


1998年の屈辱的な敗北を経ても、アルフレッド・ポリングのプロレス人生が終わったわけではなかった。


 彼は自らの身の丈を知り、プロレスという表現空間の中で生き続ける道を選んだ。



2000年代に入っても、ニュージャージーやニューヨークのインディー団体(NYWLなど)に散発的に参戦。 2002年6月29日、フィラデルフィアで開催された3PW(Pro-Pain Pro Wrestling)の大会『A War Renewed』では、タッド・ゴードンとサブゥーの助っ人として突如乱入。


かつてのライバルであり同僚であったザ・サンドマンに対し、凄まじいチョークスラムを叩き込んで往年のファンを歓喜させた。


さらに2005年6月10日。かつてのECWオリジナルメンバーが集結した伝説の自主興行リユニオンイベント『Hardcore Homecoming』。 


WWE主導の『ECW One Night Stand』に対抗して作られたこの純粋なハードコアの同窓会に、911の姿があった。 


ダニー・ドーリングとロードキルの試合後に突如姿を現した911は、二人まとめて首を掴み上げ、豪快なダブル・チョークスラムを爆発させた。



会場を埋め尽くしたオールドファンからは、あの日と寸分狂わぬ大合唱が沸き起こった。


 「ナイン・ワン・ワン! ナイン・ワン・ワン!」



そこにいたのは、技術の拙さを叩かれる惨めなレスラーではない。 


青春の過激な記憶(ECW)を象徴する、愛すべき「あの頃の怪物」であった。



その後、2006年から2008年頃にかけてゆっくりとリングを離れ、事実上の現役引退を迎えたポリング。2020年にはインディー団体のイベントにサプライズ登場してファンを沸かせる場面もあったが、レスラーとしての第一線からは完全に身を引いている。



現在、アルフレッド・ポリングはニュージャージー州ウェストクリーク(またはジャクソン)に静かに居を構えている。


 若い頃に築いた建設業のキャリアや家庭生活に戻り、8人の子供たちの父親として、穏やかな晩年を過ごしているという。


過激な流血と狂気に満ちたECWアリーナの喧騒から離れ、一人の人間として穏やかな日々を送るポリング。 だが、彼の胸の中には今なお、1994年のあの黄金色の熱気と、自らの右腕一本で1万人の観客を総立ちにさせた「チョークスラムの感触」が、消えぬ残り火として灯り続けているはずだ。


★プロレスラーの「価値」とは何か〜911という歪な巨人が残した教訓と美学〜


「プロレスラーの価値とは、一体どこで決まるのか?」



レスリングの技術が優れていることか。 60分間動き続けられるスタミナを持つことか。 芸術的な受身が取れることか。



それらは確かに、レスラーとしての素晴らしい資質であり、尊敬すべき技術である。 しかし、プロレスというジャンルの深遠さは、「それだけが正解ではない」という点に存在する。



アルフレッド・ポリング=911というレスラーの足跡を振り返るとき、我々はプロレスが持つ「演出(ブッキング)と文脈の恐ろしさ」をまざまざと見せつけられる。



彼はレスラーとしては不器用であり、未完成であった。 


しかし、1994年のフィラデルフィアという過激な空間において、ポール・ヘイマンという天才の手によって「余分な要素を削ぎ落とされた911」は、どんな一流レスラーよりも観客の心を掴み、興行を爆発させる「絶対的な価値」を持っていた。


「チョークスラム一発で、観客を狂喜させる」


これは言葉で言うほど易しいことではない。 タイミング、間の取り方、威圧感、そして「今、観客が何を求めているか」という空気の察知。 911は、ヘイマンが描いた絵コンテの中で、自らの巨大な肉体という絵の具を見事に使い切り、1994年という時代に強烈な自画像を描き切ったのだ。



911のチョークスラムは「一芸渡世」だ。そこには一つの芸だけを武器にして生き抜いたという意味と一つの芸しかできない中で渡り歩いてきたという2つの意味がある。


魔法が解けた後の挫折や不遇、そして1998年の惨敗も含めて、彼のキャリアは極めてドラマチックであり、プロレス史の「光と影」を凝縮したかのような味わい深さがある。


もし、あなたが1990年代のECWの映像を開く機会があるならば、ぜひ探してみてほしい。


 暗闇の中から響く危険なサイレンとギターリフ。 漆黒のコートを羽織り、巨体を揺らしてリングへと上がる一人の男の姿を。


そして、彼が右手で相手の喉を掴み上げた瞬間、画面越しに叫んでみてほしい。

「ナイン・ワン・ワン!」と。


そこには間違いなく、過激な時代が生んだECWの最凶処刑人」が、誇らしげに仁王立ちしているはずだ。

(終)








俺達のプロレスラーDX
第309
回 栄光と悲劇を乗り越えた天才万能職人の誇り/ディーロ・ブラウン







1990年代後半、世界のプロレス界の頂点で繰り広げられた壮絶な興行戦争「マンデー・ナイト・ウォーズ」。



ビンス・マクマホン率いるWWF(現WWE)は、過激で過剰なエンターテインメント路線「アティテュード・エラ」を爆発させ、宿敵WCWを怒涛の勢いで突き放していった。



ストーン・コールド・スティーブ・オースチンがビールを撒き散らし、ザ・ロックが「ピープルズ・チャンピオン」として万雷の歓声を浴び、DX(デジェネレーションX)が下品で攻撃的なムーブで全米の若者を熱狂させていたあの狂乱の時代。



だが、メインイベントで数万人のアリーナを揺らすスーパースターたちの足元で、毎週のように30分、40分の番組中盤(ミッドカード)を支え、目まぐるしいハイスピードな攻防と確かなレスリング技術で番組の「クオリティ」を担保していた「絶対的な軸」が存在したことを、僕たちは決して忘れてはならない。



テーマ曲が鳴り響くと同時に、独特のテンポで頭部を左右前後に激しく振る(ヘッド・シェイク)。 胸には黒い頑丈な「チェストプロテクター」を装着し、不敵な笑みを浮かべながらリングへと歩を進める。



巨漢でありながら驚異的な身体能力でコーナー最上段から鮮やかなフライング・ボディプレスを放ち、相手が向かってくれば一瞬で抱え上げて豪快なスパイン・バスターやスカイ・ハイで叩きつける。


ディーロ・ブラウン。


プロレス界において、彼は「ミッドカードのキング」であり、誰もがその全能ぶりを認める「ワークホース(仕事師・万能の職人)」であった。


WWF史上数人しか達成していない「ヨーロピアン王座」と「インターコンチネンタル王座」の同時戴冠という偉業を成し遂げ、全米のファンを狂喜乱舞させた男。


そして全日本プロレスやプロレスリングNOAHのリングにおいても、TAKAみちのく率いる「RO&D」や「ヴードゥー・マーダーズ」のキーマンとして、日本のファンに世界最高峰のバイプレーヤーとしての凄みを見せつけた男。



ロー・ダウン(トップロープから大きく開脚して放つ、非常に美しいフォームのフロッグ・スプラッシュ)、スカイ・ハイ(相手をポップアップで高く放り投げ、空中で捕らえて叩きつける変型サイドスラム)、シャイニング・ウィザード、サモアン・ドロップ、サドン・インパクト(相手を抱え上げ、自身の体を反転させながら叩きつけるサイドスラム)、ムーンサルト・プレスと技が多彩なテクニシャンなのがディーロの凄さ。


だが、彼のレスラー人生は、単なる華やかな栄光の連続ではなかった。


1999年に起きた、リング上での凄惨なアクシデント。 対戦相手の人生を永遠に変えてしまった事故の罪悪感に苛まれ、自らのプロレス生命をも絶ちかけようとした暗黒の夜。


そこから彼はどのようにして立ち上がり、自らのレスラーとしての尊厳を取り戻していったのか。 なぜ彼は、どんな団体、どんなポジション、どんなギミックを与えられても、常に100%のクオリティでリングに応え続けることができたのか。


今回は、アティテュード・エラの隠れた主役であり、日米のマット界で激動の時代を駆け抜けた「天才職人」、ディーロ・ブラウン(本名:アッカー・ジュリアス・コナー)の波乱に満ちた軌跡と、その深遠なるプロレス理念を深く、深く考察していきたい。




★ニュージャージーの雑草と「ギャングスターズ」の用心棒――叩き上げのアスリートが踏み出した第一歩




1970年10月22日、アメリカ合衆国ニュージャージー州バーリントン。 本名アッカー・ジュリアス・コナーとして生まれた男は、幼少期からフットボールやレスリングに熱中する万能のアスリートであった。


大学時代にはメイン大学でアスレチックな才能を発揮し、恵まれた体格(身長186cm、体重125kg)と俊敏性を兼ね備えた大型選手として頭角を現す。


しかし、彼の心を捉えて離さなかったのは、テレビの画面の中で巨体と巨体がぶつかり合い、観客の感情を揺さぶるプロレスリングの世界であった。


大学を卒業した彼は、伝説のインストラクターであるラリー・シャープの「モンスター・ファクトリー」や、アール・スノーらの教えを受け、1994年にプロレスラーとしてデビューを果たす。


初期のリングネームは「エース・ザ・アニマル」や本名の「A.C.コナー」。


 インディー団体でジョバー(引き立て役)を務めながら、WWFのTV収録の前座(ダークマッチやテレビジョバー)としてリングに上がり、マイク・ロトンド(IRS)やアースクエイクといったベテランたちの技を受け止めることで、プロレスの「受け身」と「間」を叩き込んでいった。


そんな彼に最初の転機が訪れる。


1994年秋、ジム・コルネットが主宰するテネシー州の過激な地域団体SMW(スモーキー・マウンテン・レスリング)への参戦である。


ここで彼は、ニュー・ジャックとムスタファ・サイードからなる伝説の凶悪ストリート・タッグ「ザ・ギャングスターズ」のボディーガード兼セキュリティ役としてスカウトされる。


リングネームは「“ダウンタウン” ディーロ・ブラウン」。



スーツにサングラスを着用し、腕組みをしてリングサイドに仁王立ちする恐怖のストリートギャングのボディガード。


だが、単なる見張り役ではなかった。タッグマッチや乱闘になれば、その巨体から繰り出される鋭いタッグアタックや力強いパワースラムで、過激なSMWの観客を恐怖に陥れた。


「デカくて動ける黒人レスラーがいる」


SMWでの実績と、心臓部であるHWA(ハートランド・レスリング・アソシエーション)でのさらなるトレーニングを経て、1997年、彼はついにWWF(現WWE)との正式な長期フルタイム契約を勝ち取ることとなる。



雑草の泥臭い叩き上げからスタートしたアッカー・コナーは、アメリカ最大最高のメジャー舞台で、自らの名を歴史に刻む準備を確実に進めていたのである。


★黒人軍団「ネーション・オブ・ドミネーション」での覚醒――ザ・ロックの傍らで磨かれた自我


1997年春、WWFのマット界には黒人過激派主義を前面に押し出した強力なヒールユニットが猛威を振るっていた。


元WCW世界ヘビー級王者のファルーク(ロン・シモンズ)が率いる「ネーション・オブ・ドミネーション(NOD)」である。


ディーロ・ブラウンは、このNODの「スーツを着た用心棒」としてWWFのTV画面に本格登場を果たした。


当時のNODには、ボスであるファルークを筆頭に、カマ・ムスタファ(のちのゴッドファーザー)、マーク・ヘンリー、そして1997年後半に加入し急速に頭角を現し始めた若き天才、ロッキー・メイビア(ザ・ロック)が名を連ねていた。


初期のディーロは、ファルークの背後に控え、相手を威嚇する黒幕のような立ち位置であったが、彼がリング上で試合を任されるようになると、アリーナの空気は一変した。


120kgを超える重量級でありながら、リング端から端へと弾丸のように走るスピード。 


相手をトップロープから投げ落とすパワフルなスープレックス。 そして何より、試合中のちょっとした仕草や表情で観客のヘイト(憎悪)を集めるヒールとしてのセンスが群を抜いていた。



1998年初頭、NODの内部で地殻変動が起こる。 エゴを爆発させたザ・ロックがファルークを追放し、ユニットのリーダー権を強奪したのだ。



この「ザ・ロック体制」のNODにおいて、ディーロ・ブラウンはロックの「最側近(右腕)」としてポジションを確立する。


ロックがマイクを握り「分を弁えて口を閉じろ!」とアリーナを挑発する横で、ディーロは独特の不敵な笑みを浮かべ、首を上下左右に激しく振ってみせた。


この「ヘッド・シェイク(首振り)」のパフォーマンスは、一度見たら忘れられない中毒性を持っていた。


さらに、この時期のディーロの代名詞となる「あるアイテム」がリングに持ち込まれる。


「チェストプロテクター(胸部プロテクター)」である。



ストーリー上、ディーロは「胸筋を痛めたための医療用サポーター」として黒いプロテクターの装着をコミッショナーから許可されたと主張。


しかし試合になれば、その頑丈なプロテクターを悪用し、相手に強烈なボディスプラッシュを浴びせたり、プロテクターの入った胸で相手の攻撃を無効化するという卑劣なインサイドワークを展開した。


天才ザ・ロックの傍らで、ディーロ・ブラウンというレスラーのキャラクターとマイクパフォーマンス、そしてリング上での表現力は、一気に覚醒を遂げたのである。


★首振りアティテュードと「ヨーロピアン&インターコンチ王者」の金字塔――中堅最高の輝き


NODの解散後、ディーロ・ブラウンのシングルレスラーとしての快進撃が本格的にスタートする。

1998年7月14日(放送は7月20日)、ディーロはDXのトリプルH(当時ハンター・ハースト・ヘルムスリー)を破り、第9代WWFヨーロピアン王座を奪取。彼にとって初となるWWFでのシングルタイトル獲得であった。



ここから、ディーロとDXのX-パック(ショーン・ウォルトマン)との間で、過激でハイペースなヨーロピアン王座を巡る名勝負数え歌が繰り広げられる。


1998年8月の『サマースラム1998』において、ディーロはヴァル・ヴィーナスを相手にヨーロピアン王座を防衛。マディソン・スクエア・ガーデンの超満員の観客を前に、完璧な動きでアリーナを沸かせた。


彼のファイトスタイルは、当時のWWFの中でも異彩を放っていた。


必殺技の「ロー・ダウン(開脚式フロッグスプラッシュ)」はチェストプロテクターを装着した状態から繰り出されるこの技は、説得力と美しさを兼ね備えた絶品であった。



さらに、相手を抱え上げて高々と抱え上げ、自らも跳躍しながらキャンバスへ叩きつける変型のパワーボム/スパインバスター「スカイ・ハイ(Sky High)」。


彼が放つ技の数々は、ヘビー級の説得力とジュニアヘビー級の華やかさを完全に融合させたものであった。


そして1999年夏、ディーロ・ブラウンのキ

ャリアにおいて最大のハイライトが訪れる。

1999年7月25日のPPV『Fully Loaded 1999』でミディオンを破り、通算3度目のヨーロピアン王座を獲得したディーロは、わずか2日後の7月27日(RAW IS WAR)で、ジェフ・ジャレットの持つWWFインターコンチネンタル王座に挑戦。


激闘の末、ジャレットを破ったディーロは、インターコンチネンタル王座とヨーロピアン王座を「同時に保持」するという快挙を成し遂げたのだ。


シングル王座の二冠達成。 プロレス史において、この「ヨーロピアン&インターコンチネンタル・チャンピオン」となったのは、アルティメット・ウォーリアーやトリプルH、カート・アングル、ディーロ・ブラウンといった一握りのトップレスラーのみである。



入場曲が鳴ると、会場全体が彼の首振りを真似し、相手を「スカイ・ハイ」で叩きつけるたびに大歓声が上がった。


アティテュード・エラというプロレス史上で最も苛烈な全全米興行戦争の中で、ディーロ・ブラウンは「WWFで最も頼りになる中堅の絶対エース」として、その名を全米に知らしめたのである。


★1999年10月5日、惨劇の夜――ダレン・ドロズドフ事故の絶望とプロの十字架


だが、人生の頂点に立った男を、あまりにも残酷な暗転が襲う。


1999年10月5日、ニューヨーク州ロングアイランドのナッソー・コリシアムで開催された『SmackDown!』のTV収録。


ディーロ・ブラウンの対戦相手は、元フットボールプレーヤーであり、危険な技も厭わない過激なファイトスタイルで人気を集めていた新鋭ダレン・ドロズドフ( ドロズ)であった。


試合中盤、ディーロは自らの得意技である「ランニング・シットアウト・パワーボム」の体勢に入った。 


相手を抱え上げ、走り込んで豪快にキャンバスへ叩きつける、これまで何百回、何千回と繰り返してきた得意のムーブメントである。


しかし、その瞬間、不運な偶然が重なった。


ドロズが着用していたシャツの生地がだぶついており、ディーロの指が滑って十分なグリップ(ホールド)が効かなかったこと。そしてドロズ側の跳躍のタイミングがわずかにズレてしまったこと。


空中で体勢が崩れたまま、ドロズは頭部から垂直にキャンバスへ激突した。


鈍い音がアリーナに響く。 リング上で動かなくなったドロズ。ディーロはすぐに異変を察知した。


医療チームがリングになだれ込み、試合は急遽中断。病院へと緊急搬送されたドロズに突きつけられた診断結果は、「頚椎損傷による首から下の麻痺」という、レスラー生命どころか日常の歩行すら奪われる絶望的なものであった。


事故の瞬間、バックステージに戻ったディーロ・ブラウンは、激しい罪悪感とショックで錯乱状態に陥った。


「俺が彼の人生を奪ってしまった」

 「俺はもう二度とリングに上がるべきではない」



自分が大切にしてきた「対戦相手の安全を守り、無事に控室へ帰す」というプロレスラーとしての最大の誇りが根底から崩れ去った。ディーロは頭を抱えて泣き崩れ、本気でプロレス界からの引退を決意した。



だが、そんな絶望の底にいたディーロを救ったのは、他ならぬ被害者であるダレン・ドロズドフ本人であった。


車椅子生活を余儀なくされたドロズは、罪悪感に苛まれるディーロに対し、一切の責め苦や恨みの言葉を口にしなかった。


「ディーロ、責めるな。あれは純然たるアクシデントだったんだ。プロレスのリングに上がる以上、俺たちは全員リスクを承知で上がっている。お前のせいじゃない」


ドロズは事故後もWWEのコラムニストとして働き続け、ディーロとの友情を保ち続けた。



ドロズの寛大な心と、仲間たちの励ましによって、ディーロは再びリングへと戻る決意をする。


 しかし、事故のトラウマは彼のファイトスタイルに大きな変化をもたらした。


相手を力任せに叩きつける過激なパワーボム系の技を封印し、より安全で、確実なクラシカルレスリングへとスタイルを移行せざるを得なくなったのだ。



自分の過ちと向き合い、一生消えることのない十字架を背負いながら、それでもプロレスラーとしてリングに立ち続ける――。



1999年10月5日の夜は、ディーロ・ブラウンという人間の魂に、最も深く、最も重い傷跡と誇りを刻み込んだ夜となったのである。


★日本マット界への飛翔――全日本プロレス・RO&DからVM、NOAHへ


2003年2月、WWF/WWEでの長期におよぶ活動に区切りをつけたディーロ・ブラウンは、新天地を求めて世界へと旅立った。


アメリカの新興団体TNA(NWA-TNA)への参戦を経て、彼が次なる「最高の輝き」を見せた舞台が、日本の全日本プロレスであった。


2003年、武藤敬司体制の全日本プロレスに初参戦したディーロ・ブラウンは、TAKAみちのくが率いる外人ヒールユニット「RO&D(Roughly Obsess and Destroy)」の主力メンバーとして加入する。


メンバーには、ブキャナン、ジャマール(のちのウマガ)、ジャスティン・クレディブルらが集結。


アメリカの超メジャー団体で揉み抜かれてきたディーロの参戦は、全日本プロレスの外国人戦線のクオリティを劇的に跳ね上げた。


日本のファンは、テレビで観ていた「あのディーロ・ブラウン」が目の前のリングで繰り広げる圧倒的なレスリングセンスに目を見張った。


大型でありながら、日本のハーフネイビーの重厚な攻防にも完璧に対応。 



タッグチームとしても、ディーロのゲームメイク能力(試合をコントロールする組み立て力)と、ブキャナンの高い打点の攻撃が見事な化学反応を起こした。



さらに、全日本マットでのディーロの真骨頂は「ストーリーテラー」としての役割であった。


2006年9月、RO&Dと、TARUが率いる極悪ユニット「ブードゥー・マーダーズ(VM)」との間で行われた「敗者ユニット解散タッグマッチ」。



この歴史的一戦の最中、ディーロ・ブラウンは長年ともに戦ってきたリーダーのTAKAみちのくを電撃的に裏切り、ブードゥー・マーダーズへと寝返ったのだ。


アリーナを包む悲鳴と怒号。 顔色ひとつ変えずにVMの赤いTシャツを羽織り、不敵な笑みを浮かべたディーロの姿は、まさにプロレスの「裏切り美学」の極致であった。



VM加入後も、TARUや近藤修司、"brother"YASSHIらとともに全日本マットを席巻。


さらに全日本離脱後は、緑のマットプロレスリングNOAHへ参戦。 盟友ブキャナンとともにNOAHのタッグ戦線へ殴り込み、2007年10月にはGHCタッグ王座を獲得。




技の精度、受けの美しさ、観客の煽り方、そしてタッグパートナーを引き立てるアシスト能力。


ディーロ・ブラウンは、日本のプロレスファンとレスラーたちに対し、自分が単なる「アメリカのテレビタレント」ではなく、世界最高峰の技術を持つ「本物のプロレス職人(ワークホース)」であることを完全に証明してみせたのである。


★TNAでの激闘とプロデューサーへの転身――第二のレスラー人生


2000年代後半から2010年代にかけて、ディーロ・ブラウンのキャリアは「リング上の闘い」から「リングの舞台裏を支える要職」へと、しなやかに移行していく。


2008年に一度WWEへと復帰し、サンチノ・マレラらを相手に健在ぶりを示した後、彼はTNAへと本格的に帰還する。


TNAにおいて、ディーロは現役レスラーとしてリングに上がりながら、バックステージにおけるエージェント(プロデューサー)としての重要な任務を任されるようになった。


プロレスの試合の構成、技の組み立て、若い選手たちへの指導、番組全体のテンポ感の調整――。



WWFのアティテュード・エラ、全日本プロレスの王道スタイル、NOAHの激闘派スタイル、そしてインディーマットの過酷な環境をすべて体感してきたディーロの経験値は、プロモーターや若手レスラーたちにとって「宝の山」であった。


2013年には、TNAを震撼させた覆面バイク集団「エイセス・アンド・エイツ」のストーリーラインにおいて、裏で手引きをしていた「副社長」として衝撃のヒールターンを果たし、久々にリング上で激しい攻防を披露。


歳を重ねても、彼のあの独特な「ヘッド・シェイク」と、重厚なスパインバスターは健在であった。


2019年以降は、TNAの正式なバックステージ・プロデューサーおよび解説者(カラー・コメンテーター)として定着。 


試合の解説席に座れば、レスラーの心理や技の技術的背景を、持ち前の知性と情熱的な語り口で視聴者に分かりやすく伝え、解説者としても高い評価を獲得した。


また、プライベートやバックステージにおいては、かつて事故で負傷したダレン・ドロズドフとの交流をドロズが他界する2023年まで続け、若手レスラーたちに対しては「安全面への配慮とプロ意識」を口酸っぱく教え続けた。



リングの上で光を浴びる演者から、次世代のスターを輝かせる演出家へ。


ディーロ・ブラウンは、その卓越したプロレスIQと誠実な人柄によって、プロレス界において欠かすことのできない「絶対的な重鎮」となったのである。



★職人(ワークホース)の誇りと、歴史に刻まれた揺れぬ信念


プロレスリングという壮大な人間ドラマの歴史を紐解く時、スポットライトは常に世界ヘビー級王座を巻いた主役たち(ハルク・ホーガン、ストーン・コールド、ザ・ロック)に当てられがちである。


しかし、彼らが最高のスーパーピッチを投げ込めたのは、どんな暴投でも完璧にキャッチし、最高のパスを打ち返してくれる「名捕手」が対戦相手にいたからに他ならない。



ディーロ・ブラウンとは、まさにプロレス界における「史上最高峰の名捕手」であった。


彼には、世界を一人で引っ張るカリスマ性や巨大な肉体はなかったかもしれない。 だが、彼にはどんな対戦相手の魅力をも引き出し、どんなつまらないカードでも「面白くて熱い試合」へと昇華させる魔法の手腕があった。


チェストプロテクターを叩いて不敵に笑い、首を激しく振りながらアリーナを煽り、最後は完璧なフォームで「スカイ・ハイ」や「ロー・ダウン」を突き刺す。


彼の見せたあの躍動感は、90年代のアティテュード・エラをリアルタイムで体験した僕たちの胸の中で、今も鮮烈な熱量とともに生き続けている。

栄光の頂点から、絶望のアクシデントへ。 そして日本のマットでの再起と、裏方としての開花――。


波乱に満ちたそのレスラー人生のすべてを受け入れ、彼は今日もプロレス界の未来のためにその知恵と情熱を注ぎ続けている。


首を振り続けた天才万能職人、ディーロ・ブラウン。


彼が四角いジャングルに刻みつけた「ワークホースとしてのプライド」は、時代を超え、団体を超え、プロレスを愛するすべてのファンの記憶の中で、永遠に輝き続けるのだ。








俺達のプロレスラーDX
第308
回 完成された悪魔のカウボーイ 愛と波乱人生/ランス・ケイド






プロレスラーの「完成度」とは、一体どこで測るべきなのだろうか。


誰もが見惚れる彫刻のような肉体か。190センチを超える大型ヘビー級でありながら、流れるように技を繰り出す確かな技術か。あるいは、観客の感情を瞬時に掌握する天性の表現力(インサイドワーク)だろうか。


もし、そのすべてを20代前半にして完璧にマスターし、世界最大団体WWEのトップ戦線で「未来のエース」と目されながらも、あまりにも早く、あまりにも切なく歴史の闇へ消えていった男がいるとすれば、私たちは彼のプロレス人生をどう評価すればいいのだろう。


男の名は、ランス・ケイド。


本名ランス・カーティス・マクノート。


かつてWWEでトレバー・マードックとの名コンビで世界タッグ王座を3度獲得し、2008年にはあのクリス・ジェリコの「懐刀」として、自らの実の師であるショーン・マイケルズを奈落の底へ突き落とす冷酷なヒールとして大ブレイクを果たした男である。


王道アメリカン・プロレスの「正統な遺伝子」を宿し、日本とアメリカのマット界を繋ぐ架け橋となるはずだった若きカウボーイ。


しかし、2010年8月、彼はわずか29歳という若さで、心不全によりこの世を去ってしまった。



2026年現在、彼の早すぎる悲劇的な死から16年という歳月が流れた。 


現代のマット界を見渡したとき、彼の同期であったブライアン・ダニエルソン(ダニエル・ブライアン)やブライアン・ケンドリックらがレジェンドとして歴史を創り上げた姿を見るにつけ、私たちは「もしランス・ケイドが健在であったなら、どれほど巨大な存在になっていただろうか」という、切ない仮定を抱かずにはいられない。


師の影を追い続け、タッグの王道を極め、そして狂気のドラマの中で一瞬の強烈な閃光を放ったランス・ケイド。今回は、彼の短くも濃密だったプロレス人生と、彼が遺した「クラシック・アメプロの美学」について、深く考察していきたい。



★ショーン・マイケルズの遺伝子を継ぐ者――テキサスで産声を上げた「196cmの最高傑作」


1981年3月2日、ネブラスカ州オマハに生まれたランス・ケイドは、幼い頃からプロレスラーになることだけを夢見て育った。



彼は生まれた瞬間から「選ばれしアスリート」の宿命を背負っていた。高校生になる頃には、身長は190cmを遥かに超えていた。


その規格外の体躯と、巨体に似合わぬ圧倒的なスピード。地元のコロンビアン高校で彼がアメリカンフットボールの防具に身を包み、あるいはバスケットボールのコートに立てば、誰もがその怪物ぶりに目を見張った。


アメフトでは攻守の要としてラインを支配し、バスケではゴール下を制圧する。


大学のスカウトたちが、スポーツ特待生の枠を用意して彼の進路を血眼で追うのは、当然の成り行きだった。


誰もが、彼がフットボールのエリート街道を進み、いつかはNFLのスターになる未来を疑わなかった。


しかし、青年ランスの胸の奥で激しく燃えていたのは、楕円のボールではなく、ロープに囲まれた四角いジャングルへの憧憬だった。


「俺が人生を賭けるのは、ここじゃない」




 高校卒業後、大学からの誘いをすべて断り、周囲の驚きをよそに、彼は18歳で荷物をまとめた。


目指すはテキサス州サンアントニオ。そこには、当時WWEのトップスターだったショーン・マイケルズが立ち上げたばかりのプロレス学校『テキサス・レスリング・アカデミー』があった。


アメフトやバスケで培った「動ける巨体」という最高の武器を携え、ランスはプロレスの門を叩いた。同期には、後に「世界最高のテクニシャン」と称されるブライアン・ダニエルソン、そして天才的な身のこなしを誇るブライアン・ケンドリックがいた。才能あふれる同期たちとの過酷な生存競争が始まった。



当時のTWAは、後に世界のマット界を揺るがす天才たちがひしめき合う、奇跡的な梁山泊だった。 軽量級の小柄な天才たちが揃う中、196cm、118kgという、WWEのメインストリームを張るに十分な恵まれた体躯を持っていたのが、ランス・ケイド。


彼のポテンシャルは群を抜いていた。走れる、飛べる、そして当たり負けしない。フットボール仕込みの爆発的なダッシュ力と、バスケで鍛えた高い跳躍力。


それらがプロレスの技術と融合したとき、師であるマイケルズは確信した。


この男はただの大型新人ではない、本物の天才だと。


単に大きいだけではない。マイケルズ譲りの、技のキレ、そしてリング上での「間(タイミング)」の取り方も巧みだ。


マイケルズは愛弟子に「完璧の投影(ザ・リフレクション・オブ・パーフェクション)」という理想像を重ね、その技術のすべてを英才教育として注ぎ込んだ。


ケイドは師の動きを文字通りスポンジのように吸収し、TWAの「ヘビー級最高傑作」として頭角を現していく。



★日本での武者修行、WWEまでのカウントダウン。



1999年、デビューを果たしたばかりのランスに、最初の大きな転機が訪れる。それが、海を渡った日本での武者修行だった。


1999年12月、まだデビュー間もない18歳のランスは、同期のアメリカン・ドラゴン(ブライアン・ダニエルソン)と共に日本のインディー団体「FMW」のマットを踏む。これが彼の記念すべき初来日だった。


アメリカの学生スポーツでトップを走り、天才の指導を受けたエリート。


しかし、当時のFMWは「エンタメプロレス路線」へと舵を切りつつも、大矢剛功やボールズ・マホニーといった、一癖も二癖もある猛者たちが荒々しいファイトを繰り広げる混沌とした戦場だった。


ランスはこの過激なリングで、日本独特の激しい洗礼を浴びながら、プロレスラーとしてのタフネスと「観客を惹きつける泥臭さ」を貪欲に吸収していった。


2000年2月まで続いたこのFMWでの濃密な経験こそが、彼のアメリカ帰国後、WWEの下部組織と契約を結ぶための決定的なラストピースとなったのである。


アメフトの有望株から、日本の過激なリングへ。大学からのエリートコースを蹴り、自らの直感と情熱だけを信じて突き進んだ18歳の決断が、のちに世界最高峰の舞台WWEへと繋がる強固な礎となった瞬間であった。




FMWでの過激なインディープロレスを体感したランスは、帰国後、自身の原点であるテキサスへと戻る。そこには、大怪我で長期欠場中だったショーン・マイケルズが主宰する「レスリング・アカデミー(TWA)」があった。


ランス・ケイド、ブライアン・ダニエルソン(のちのダニエル・ブライアン)、ブライアン・ケンドリック(当時はスパンキー)、シューター・シュルツはマイケルズから期待をかけられ、「テキサス4人衆」と呼ばれていた。


この4人は深い絆で結ばれていた。同じ車に荷物を詰め込んでアメリカ中をドサ回りしました。ケイドとケンドリックがタッグを組み、ダニエルソンがそこに立ち塞がるなど、お互いを高め合ったこの数年間が、彼らのレスラーとしての血肉となっていった。



ショーンからの英才教育を受けて彼はプロレスラーとして成長を遂げていく。



2000年の初夏、その才能をWWFのスカウトが見逃すはずもなかった。


ランスを含むアカデミーの面々は、WWFの育成契約(ディベロップメンタル)を勝ち取る。


彼らが最初に送り込まれたのは、テリー・ゴールデンが運営する育成団体MCW(メンフィス・チャンピオンシップ・レスリング)だった。


ここでは、のちにWWEでトップに立つチャーリー・ハースや、3ミニッツ・ワーニングとなるアイランド・ボーイズらと激しい出世競争を繰り広げた。


気の合う同期だったスパンキーとタッグを組み、ダークマッチでWWFの首脳陣にアピールを続ける日々が続いた。



2001年夏、ランスのキャリアにおいて決定的な転機が訪れる。WWFのファームが移行したことに伴い、レス・サッチャー率いるHWA(ハートランド・レスリング・アソシエーション)へと籍を移したのだ。


ここでランスは、自らの殻を破る。地元レスラーのコーディ・ホークとタッグを結成して頭角を現すと、当時WWFを揺るがしていた「WCW/ECW連合軍(アライアンス)」のストーリーラインがHWAにも波及。


ランスはWWF生え抜きでありながら、あえてWCW側のヒール(悪役)へと寝返るマイク・サンダースらと共闘することを選んだ。


このヒール転向が、彼の「演者」としての才能を爆発させた。


2002年5月にはジョニー・ザ・ブルを破り、HWAヘビー級王座を奪取。


シングルプレイヤーとしての確固たる地位を築き上げる。胸を張り、不敵な笑みを浮かべ、大柄な体躯を駆使して観客のヘイトを集める──後の「カウボーイ」ギミックの骨組みは、間違いなくこのオハイオの地(HWA)で完成した。



2003年に世界最大団体WWEへと正式に入団。当初は「ギャリソン・ケイド」の名で、マーク・ジンドラックとのタッグで爽やかなベビーフェイスとして売り出されたものの、まだ自らの「本当のキャラクター」を見出せずにいた。



しかし、2005年、彼にある「運命の出会い」が訪れる。その出会いこそが、彼のレスラー人生を黄金期へと導く起爆剤となった。


★ケイド&マードックの黄金時代――2000年代に蘇った「1980年代の南部タッグ」


2005年、心機一転、リングネームを「ランス・ケイド」へと改名し、髪をブロンドに染め上げた彼の横に、一人の男が立った。 


男の名は、トレバー・マードック。 かつて「ミスター・プロレス」ハーリー・レイスに師事し、日本のプロレスリング・ノアのリングでも揉まれた、泥臭くもタフなカウボーイである。


ショーン・マイケルズの最高傑作であるスタイリッシュなランス・ケイドと、ハーリー・レイス直系の無骨で荒々しいトレバー・マードック。


 この二人の融合は、当時のWWEにおいて、異質でありながら圧倒的な完成度を誇る「カウボーイ・タッグチーム」として爆発的なケミストリーを生み出した。


彼らが目指したのは、2000年代の洗練されたプロレスではなく、1980年代のアメリカ南部(NWA圏)を震撼させた、古き良き「クラシック・タッグ」の再生だった。 


ケイドがその端正なルックスと鋭いインサイドワークで試合をコントロールし、マードックがラフファイトで相手を痛めつける。


そしてフィニッシュは、ケイドが相手に強烈なラリアット(衣服ひっかけ気味のクローズライン)を叩き込むと同時に、トレバー・マードックが相手の足元へラリアットを仕掛ける「ハイ・ロー」という、完璧な合体技。


2005年9月、彼らはWWEデビューからわずか数週間で、ハリケーン&ロージーを破り「世界タッグ王座」を初戴冠。


 その後も、ハードコア・ホリィ&コーディ・ローデス、さらにはD-ジェネレーションX(ショーン・マイケルズ&トリプルH)といった大物たちと激しい抗争を展開し、通算3度にわたり世界タッグ王座のベルトをその腰に巻き付けた。


特筆すべきは、ケイドの「タッグ屋」としての質の高さである。 相手のタッチを絶妙なタイミングで妨害する悪辣さ、自らが技を受ける際の美しいバンプ(受身)。


彼のプロレスには、師であるマイケルズが持っていた「相手を光らせ、試合そのものを極上のエンターテインメントに昇華させる」という、プロの職人としてのDNAが完全に息づいていた。



しかし、タッグとして頂点を極めたケイドの中に、徐々に「一人のシングルレスラーとして、師の領域に挑みたい」という、抑えきれない野心が芽生え始める。


2008年、彼らは惜しまれつつもタッグを解散。ここから、ランス・ケイドのレスラー人生の「最も熱く、最も残酷な最終章」が幕を開ける。



★2008年、狂気のドラマの「最重要人物」――クリス・ジェリコの懐刀として


2008年5月にトレバー・マードックとのタッグを解消したケイドは、それまでの泥臭いサザン・カウボーイのイメージを一新。


タイトな高級スーツに身を包み、冷徹な目をもつ「エリート・ヒール」へと生まれ変わった。


6月のPPV『ナイト・オブ・チャンピオンズ』で、クリス・ジェリコのピンチに乱入して師匠のショーン・マイケルズを裏切ったことで、そのポジションを確固たるものにする。


ケイドはジェリコの「ビジネスパートナー(懐刀)」として、WWEのメインストーリーのど真ん中に飛び込んだ。


ジェリコが理詰めで観客を煽る横で、196cmのケイドが微動だにせず睨みを利かせる構図は、それだけで圧倒的な威圧感を放っていた。


ジェリコは当時、このケイドの起用について「ただデカいだけじゃない。俺の試合のリズムを理解し、完璧なタイミングで介入できる天才だ」と大絶賛。



事実、ジェリコが世界ヘビー級王座を防衛する裏には、常にケイドの「見えない、しかし致命的なアシスト」があった。



この時期のケイドは、師匠であるマイケルズの心を折り、肉体を破壊するために、自身の持つパワフルかつシャープな技をフル稼働させた。


ジェリコとマイケルズがマイクで激しい舌戦を繰り広げる中、ケイドが背後から急襲。マイケルズをマットに這いつくばらせると、コーナー最上段からダイビング・エルボードロップを投下した。師匠の十八番をあえて本人の前で完璧に決めてみせるという、最悪の精神的揺さぶりをやってのけたのである。


またマイケルズが反撃に出ようとロープに走った瞬間、ケイドはその巨体で正面からキャッチし、凄まじいキレのスパインバスターでマットに叩きつけた。この技の美しさとタイミングの良さは、当時のRawの解説陣からも「往年の名手アーン・アンダーソンに匹敵する」と称賛された。



そしてレフェリーの目を盗み、場外やエプロンサイドから相手の首元へぶち込むラリアットは、まさに暗殺者の凶器だった。


彼のラリアットは、巨体の重さに加えてスピードがあったため、喰らった相手(マイケルズやバティスタなど)が文字通り空中を「一回転」して崩れ落ちるほどの大迫力だった。


師弟の愛憎が交錯した、短すぎた絶頂期ケイドの活躍は、ジェリコのサポートだけに留まらなかった。


9月のPPV『アンフォーゲイヴン』で行われた、WWE史上最も過酷とされる「Unsanctioned Match(非公認試合)」では、ジェリコと二人がかりでマイケルズを血祭りにあげた。


ケイドはパイプ椅子を手にリングを支配し、師匠を肉体的・精神的に完全に追い詰め、ジェリコの勝利を決定づけた。


そして明くる10月、ケイドはついに『Raw』のメインイベントで、ショーン・マイケルズとの一対一の「ノー・DQ・マッチ(反則裁定なし戦)」に臨む。


ここではジェリコの介入なしで、マイケルズと互角以上の肉弾戦を展開。巨体を活かしたパワフルな攻めと、ファーム時代に培った細やかなレスリング技術を融合させ、レジェンド相手に「シングルプレイヤーとしての格」を世界中に証明してみせた。





毎週のようにTV番組『Raw』のエンディングに登場し、世界王者ジェリコの隣で不敵な笑みを浮かべるケイド。


「ランス・ケイドは、近いうちに世界ヘビー級王者になる」


 誰もが、彼の輝かしい未来を確信していた。あの、突然の暗転が訪れるまでは。


★暗転したシンデレラ・ストーリー──2008年10月14日、ランス・ケイドを襲った突然の宣告



2008年10月14日。


世界最大のプロレス団体WWEの公式ウェブサイトに、一通の短いリリースが掲載された。


「WWEはランス・ケイドを解雇しました。彼の今後の幸運を祈ります」


それは、あまりにも唐突で、あまりにも残酷な宣告だった。


当時のケイドは、世界王者クリス・ジェリコの右腕として毎週のように番組のメインイベントを張り、実の師であるショーン・マイケルズ(HBK)との血の抗争を繰り広げていた真っただ中。


プロレス界の頂点へと駆け上がるシンデレラ・ストーリーの途中で、彼はなぜ、突如として表舞台から姿を消さねばならなかったのか。


その引き金となったのは、リング上のドラマではなく、移動中の機内で起きた「あまりに危険な異変」だった。



暗転へのカウントダウン事の発端は、解雇の数日前に起きたWWEの移動中のフライトだった。



機内にいたケイドの身体を、突如として激しい痙攣(けいれん)が襲う。意識が朦朧となり、過呼吸に陥るケイドの姿に、同行していたレスラーやスタッフの間には瞬く間に緊張が走った。



飛行機が着陸すると同時に、ケイドは緊急搬送され、そのまま病院へと担ぎ込まれる。


幸いにも一命は取り留めたものの、この緊急事態によって、ある「不都合な真実」が白日の下に晒されることとなった。


彼の発作の原因──それは、長年の激闘でボロボロになった肉体を維持するために服用していた、処方薬(鎮痛剤など)の過剰摂取(オーバードーズ)だった。


当時のWWEは、かつて多くのスターが若くして命を落とした反省から、選手たちの薬物使用や健康状態を厳格に管理する「ウェルネス・ポリシー」を本格的に導入していた。


このルールにおいて、不適切な薬物の過剰摂取や、それに伴う職務不能は、どれほどトッププッシュを受けているスターであっても例外なく処分の対象となった。


当時の最高責任者ビンス・マクマホンは、ケイドのリング上での才能や、ジェリコとのストーリーラインの重要性を十分に理解していた。


しかし同時に、機内で起きた発作は「一歩間違えれば命を落としていたかもしれない」という組織としての危機感を植え付けた。


ビンスは、ケイドをこれ以上リングに上げ続けることは、彼の命を危険に晒し、同時に団体のコンプライアンスを揺るがすリスクがあると判断。



厳罰を以て臨む姿勢を示すため、ストーリーラインの辻褄合わせすら放棄した「即座の解雇」という最も重い決断を下したのである。


この解雇劇の切なさは、彼が「直前まで最高の仕事を全うしていた」という点にある。


解雇のわずか1週間前、10月6日の『Raw』で、ケイドは師匠マイケルズとの「ノー・DQ・マッチ」という大一番を戦い抜いたばかりだった。



それがWWEにおける彼のラストマッチになるとは、観客はおろか、対戦相手のマイケルズさえも知る由がなかった。


相棒を失ったクリス・ジェリコは後年、自伝の中で当時の衝撃をこう振り返っている。


「ランスの解雇を聞いたときは、言葉を失った。彼は俺の隣で完璧な仕事をしてくれていたし、これからさらに大きなスターになるはずだった。あの決定はビジネス上、本当に大きな痛手だったが、彼の身体のプロテクト(保護)のためには仕方がなかったのかもしれない」



2008年10月、絶頂の最中でWWEを追われたランス・ケイド。世界最大の団体という後ろ盾を失い、薬物過剰摂取による体調不良という十字架を背負った27歳の若きカウボーイにとって、そこからの日々は、再びリングという名の「光」を取り戻すための、孤独で泥臭いサバイバルだった。 



★旅路の果てに咲いた悪の華──WWE解雇後、ランス・ケイドが歩んだ「日本」での再生





WWEを離れたケイドに、まず手を差し伸べたのは一人の男だった。


かつて世界タッグ王座を3度ともに獲得した、最高の相棒であり親友のトレバー・マードックである。マードックはケイドの荒んだ心を誰よりも理解し、彼を決して一人にはしなかった。


2009年5月、二人はアメリカのインディー団体を舞台に「ケイド&マードック」を電撃的に再結成。


カウボーイハットを並べて花道を歩く二人の姿に、観客は熱狂した。ケイドの顔には、心からプロレスを楽しんでいたあの頃の笑顔が戻っていた。


その直後の2009年後半、ケイドはもう一つの再起の地として、18歳の頃に産声をあげた思い出の国・日本を選ぶ。


参戦したのは、エンターテインメント色の強いプロレス興行「ハッスル」だった。


WWE時代のスマートな背広姿から一転、「悪魔のカウボーイ」と呼ばれ、再びカウボーイハットを被り、ロングタイツ姿でリングに上がったケイドは、元横綱・曙らと激突。

巨体を活かした鋭いラリアットや豪快なパワームーブは健在で、日本のファンに「WWEトップ戦線の実力」をまざまざと見せつけた。


この日本での活躍や、実の師ショーン・マイケルズ(HBK)の導きもあり、同年9月にケイドはWWEとの再契約を勝ち取る。


今度こそ完全復活を。しかし、一度狂った歯車を戻すことは容易ではなく、リングに上がる許可(メディカル・クリアランス)が下りないまま、2010年4月、彼は一度もTV画面に復帰することなく、二度目の解雇という現実を突きつけられることとなった。


巨大メジャー団体から二度も見放されたケイドだったが、彼はプロレスラーとしてのプライドをまだ捨てていなかった。


2010年5月、彼は再び日本の地を踏む。今度はハッスルのようなエンタメの舞台でも、マードックとのタッグでもない。


一人のトップガイとして、名門「全日本プロレス」へ単身乗り込む道を選んだのである。日本のファンの前に姿を現した196cmの巨体が身を投じたのは、当時団体を恐怖に陥れていた最凶のヒール軍団、「VOODOO-MURDERS(ブードゥー・マーダーズ=VM)」であった。


総帥TARUを中心に無法者たちが集うVMにおいて、一線級の元WWE大物レスラーであるケイドの加入は、ユニットの破壊力を決定づけるものとなった。TARUやレネ・デュプリらと並んでも一切見劣りしない圧倒的な佇まい。


彼はただ暴れるだけの外国人ヒールとは一線を画す、試合を支配できる「極上の悪役」として瞬く間にVMの中核となった。


VMの頼れるポイントゲッターとなったケイドは、全日本のヘビー級戦線で凄まじい存在感を発揮していく。諏訪魔や河野真幸、そして当時まだ若手だった真田聖也(現:SANADA)ら全日本生え抜きのレスラーたちと激しい肉弾戦を繰り広げた。


特に、彼の代名詞であるスパインバスターやラリアットは、王道のマットでも強烈なインパクトを残し、「やはり本物のトップスターは違う」と誰もがその実力を再認識した。


2010年7月4日、大阪府立体育会館。

ケイドはシングルマッチで真田聖也と激突する。これが、世界のプロレス界が目撃した「レスラー、ランス・ケイド」の生前最後の試合となった。


若き才能をパワーと技術で圧倒し、ヒールとしての仕事を完璧に全うしたその姿は、復活への確かな手応えを感じさせるものだった。


秋のシリーズへの継続参戦が期待されていた、まさにその矢先だった。

 

 

★早すぎた終幕、遺された言葉──2010年8月13日、ランス・ケイドが旅立った日


2010年8月13日。次なる全日本マットへの参戦を目前に控えながら、ケイドはテキサス州サンアントニオの自宅で突然この世を去った。死因は心不全。29歳という、あまりにも早すぎる幕引きだった。

悲劇の歯車は、亡くなる数日前から静かに、しかし確実に回り始めていた。


長年の激闘、そして196cmの巨体を維持しトップシーンで戦い続けるための過酷な負荷は、彼の心臓を人知れず蝕んでいた。


亡くなる数日前、妻のタニヤはケイドの明らかな体調の異変に気づく。8月10日、激しい呼吸困難に陥ったケイドは救急搬送され、病院のベッドに横たわることとなった。


しかし、ケイドは翌11日、医師の制止を振り切るように自らの意思で退院してしまう。


迫り来る全日本プロレスの秋のシリーズ、そして再び巡ってきた再起のチャンス。


プロレスラーとしてのプライドが、彼に「休んでいる暇などない」と焦りを与えたのかもしれない。これが、破滅への決定的な引き金となってしまった。


8月12日、ケイドは父親の職場である自動車ディーラーを訪れた。久しぶりに顔を合わせた息子を心配した父親は、その夜、ケイドを自分の家に泊まらせることにした。夜が更ける中、ケイドは静かにベッドへと向かった。それが、彼が生きている姿を家族が見た最後の瞬間だった。


翌朝、2010年8月13日。ベッドの中で冷たくなっているケイドの姿を、父親が発見する。 


のちに医療検査官から発表された公式な死因は、「拡張相心筋症(肥大し、弱っていた心臓)に、複数の処方薬の過剰摂取が重なったことによる偶発的な心不全」。

自ら命を絶ったわけでは決してなかった。


満身創痍の身体の痛みを抑え、もう一度リングに上がってファンを熱狂させるために服用していた薬物が、限界を迎えていた心臓にトドメを刺してしまったのだ。


あの日、彼が夢見た日本のリングへの帰還は、永遠に叶わぬ幻となってしまった。


この哀しい知らせは、プロレス界を深い絶望で包み込んだ。彼を我が子、我が兄弟のように愛したレスラーたちは、その胸の内を痛烈な言葉で明かしている。



ケイドの死を誰よりも早く知り、そしてプロレス界に伝えたのは、彼の才能を見出し、一から育て上げた恩師ショーン・マイケルズ(HBK)だった。訃報を受けた直後、マイケルズは感情を隠すことなくこう綴った。


「朝のツイートをしたわずか5分後、ランスについての電話を受け取った。どんな言葉を使っても、今のこの気持ちを表すのには十分ではない。俺の教え子の一人が逝ってしまった。涙が止まらない。ランス、さようなら。愛しているよ。みんなも、遺された彼の家族のために祈りを捧げてほしい」


世界タッグ王座を共に3度戴冠した最高の相棒、トレバー・マードックは、ショーンからの緊急の電話で親友の死を知らされた瞬間の悪夢を、後年に涙ながらに語っている。


「自宅で寝ていた時、妻とバーのマネージャーに起こされたんだ。『ショーン・マイケルズから何度も着信が入っている』と。画面を見ると、ショーンから『今すぐ電話をくれ』とメッセージが入っていた。その時、俺はランスのことなんて1ミリも想像していなかった。共通の師であるハーリー・レイスの身に何かあったに違いないと思ったんだ。だからショーンに電話してすぐに聞いた。『ハーリーに何があったんだ?』って。そしたら、ショーンのあの声を俺は一生忘れない。彼はこう言ったんだ。『キッド、すまない。ランスが逝ってしまった』と。WWEは、100万ドルを稼がせるために俺たち二人を組ませたつもりだったんだろう。でも彼らが知らなかったのは、結果として俺たちが『人生最高の親友』になったということだ。今でも毎日、ランスのことを考えない日は生きていて一日もない。彼と組めたことは、俺の人生の誇りだ」


2008年、世界ヘビー級王者としてケイドを「最高級の用心棒」に指名し、メインイベントの景色を共に見終えたクリス・ジェリコ。彼はケイドの訃報に接した直後、自身のSNSでこのように短く、しかし実直な言葉で追悼した。


「安らかに眠れ、ランス・ケイド。本当にナイスガイで、一緒にいて楽しい男だった。2008年の俺のヒールとしての成功は、ランスの完璧なサポートなしにはあり得なかった。彼はただデカいだけじゃない。俺の試合のリズムを理解し、完璧なタイミングで介入できる天才だった」


1999年、ショーン・マイケルズのアカデミー(TWA)に集まった「テキサス4人衆」の一人であり、ファーム団体で長くケイドとタッグを組んでいたブライアン・ケンドリック。


「俺とランスは、メンフィス(MCW)時代にずっとタッグを組んで旅をしていたんだ。彼は196cmもあって、俺とは体格が全然違ったけれど、驚くほど動けたし、何よりプロレスの頭脳がズバ抜けていた。彼が亡くなったと聞いたときは、自分の青春の一部が急に消えてしまったような感覚だった。俺たちはみんな若くて、何にでもなれると信じていたあの頃のランスの笑顔が、今でも忘れられないんだ」


同じくTWAの一期生であり、のちに世界の頂点に立つブライアン・ダニエルソン(アメリカン・ドラゴン)。


「ショーン・マイケルズの学校にいた頃、ランスは最初から『スターになる器』だと誰もが気づいていた。体格に恵まれていただけでなく、彼は人の心の掴み方を知っていたんだ。プロレス界は過酷な場所で、時に俺たちは多くの素晴らしい友人を早すぎる形で失ってしまう。ランスの死は、僕たち同期にとって本当に大きな衝撃だった。彼が日本(全日本プロレス)のリングで最期まで素晴らしいプロレスラーとして戦っていたことを、僕は誇りに思っているよ」



★「悪魔のカウボーイ」ランス・ケイドの愛された人生


2010年8月13日。ランス・ケイドという一人のレスラーの命の灯火は消えた。しかし、リング上で魅せた「悪魔のカウボーイ」としての圧倒的な輝き、そして彼を愛した日米のレスラーたちが遺した言葉は、彼が駆け抜けた29年という人生がどれほど濃密で、どれほど多くの人々の心に深く刻まれていたかを、今もマット界の歴史に証明し続けている。


彼が去ってから、16年という月日が流れた2026年。 現在のプロレス界は、WWEもAEWも、よりアスレチックで、よりスピーディーなファイトスタイルが主流となり、プロレスラーの「魅せる技術」は極限まで進化している。



しかし、そんな時代だからこそ、私たちは時折、あの2000年代後半にランス・ケイドが見せていた「クラシックな、あまりにもクラシックなヘビー級プロレス」の匂いが恋しくなる。


196cmの美しい体躯から繰り出される、完璧なフォームのスパインバスター。 師であるショーン・マイケルズを彷彿とさせる、トップロープからの美しいダイビング・エルボードロップ。


 そして、派手なギミックに頼ることなく、ただ「カウボーイハットを被り、不敵な笑みを浮かべる」だけで、会場全体を敵に回すことができた、あの本物のヒール・ダイナミズム。


彼は、世界ヘビー級のベルトを巻くことはできなかった。歴史の教科書に「伝説の男」として何ページも割かれることはないかもしれない。


 しかし、2008年に彼がクリス・ジェリコの背後に立ち、ショーン・マイケルズという「神」に反旗を翻したあの数ヶ月間、ランス・ケイドは間違いなく、世界で最も贅沢で、最も洗練された「プロレスという名の演劇」の、最高の主役の一人であった。


2026年の夜空を見上げたとき、テキサスの荒野にぽつんと輝く一つの星のように、ランス・ケイドの名前は、アメプロを愛する者たの記憶の中で、今もなお切なく、しかし気高く輝き続けている。


 彼は、ショーン・マイケルズという偉大すぎる師の影を追い続け、その影に呑まれることなく、自らの力で「悪の華」を咲かせてみせた。


もし今も彼が生きていたなら、45歳となった2026年のマット界で、後輩たちに「アメプロの教科書」を教える偉大な重鎮になっていたに違いない。


彼の早すぎる死は今なお痛恨の極みであるが、彼が遺したマードックとの友情のタッグ、そしてジェリコとの冷酷な共闘の記憶は、私たちがプロレスというジャンルを愛し続ける限り、決して色褪せることはない。



ルックス、肉体、テクニック、インサイドワーク、プロレスIQ、何もかも高次元に完成されていた男。


ファンや関係者に愛された悪魔のカウボーイは、その愛と波乱のレスラー人生を駆け抜けたのである。






俺達のプロレスラーDX
第307
回 不条理と迷走の波に翻弄された巨神兵が見つけた幸せ/ロン・リース



プロレス界において、「巨人(ジャイアント)」であることは、神から与えられた最大のギフト(贈り物)である。


 リングに足を踏み入れただけで観客の目を釘付けにし、一挙手一投足が規格外のダイナミズムを生み出す。アンドレ・ザ・ジャイアント、ジャイアント馬場、ビッグ・ショー(ザ・ジャイアント)。


彼らはその圧倒的な質量だけで、プロレスというジャンルを一つのファンタジーとして成立させてきた。



だが、巨人であることは同時に、抗いようのない「呪縛」でもある。 


どれほど運動神経が良くとも、どれほど努力を重ねようとも、フロント(団体上層部)から要求されるのは常に「動く城」としての怪物性や、トップスターを引き立たせるための「巨大なやられ役」、あるいは常軌を逸した「色物」の押し付けである。


1990年代中盤から後半にかけて、世界最大のプロレス団体に成長しつつあったWCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)において、219cm、166kgという圧倒的な体躯を持ちながら、アメリカン・プロレス史上最も奇妙で、最もファンからネタにされ、そして最も愛された一人の巨人がいた。



男の名は、ロン・リース。



またの名を、トイレットペーパーのミイラ男「ザ・イエティ」。 


またの名を、脈絡なき東洋の刺客「スーパー・ジャイアント・ニンジャ」。 


またの名を、師匠の威光を借りた「ビッグ・ロン・スタッド」。 


またの名を、闇のカリスマに心酔したグランジの盾「リース」。 


そして、日本のファンには、ビッグバン・ベイダーの偽物として横浜アリーナに現れた「ビッグ・ボム・ジョーンズ」として。



デビューから引退まで、これほどまでに短期間で巨大なギミックチェンジを繰り返し、プロレスファン(特にプヲタと呼ばれるマニアたち)の心に「カルト的な爪痕」を残した巨人も珍しい。


 今回は巨大すぎるが故にプロレス界の波に翻弄されながらも、真面目に不条理なキャラクターを演じきった不器用な大巨人、ロン・リースの愛すべきプロレス人生を考察していきたい。


★219cmのバスケットマン、偉大なる師「ビッグ・ジョン・スタッド」の最後の弟子としてプロレス界へ


ロナルド・アレン・リースは、1970年4月26日、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンノゼに生まれた。


彼の肉体的な規格外さは、遺伝によるものが大きい。父親のロン・リース・シニアは、シンシナティ大学のバスケットボール選手として1961年と1962年にNCAAディビジョンIで全米優勝を果たしたエリート・アスリートであった。


父の血を受け継いだリースもまた、幼い頃からめきめきと身長を伸ばし、高校時代、そしてサンタクララ大学時代には、その219cmの長身を活かしてバスケットボールのゴール下を支配するセンタープレイヤーとして活躍する。



しかし、彼が最終的に選んだ道は、NBAのハードコートではなく、四角いジャングルであった。 


大学卒業後、プロレス界への扉を叩いたリースに、運命的な出会いが訪れる。1980年代のWWF(現WWE)において、あのアンドレ・ザ・ジャイアントと「どちらが真の巨人か」を巡って歴史的な抗争を繰り広げたレジェンド、ビッグ・ジョン・スタッドが、自らの後継者としてこの未完の大器に目をつけたのだ。



スタッドは、己の持てる「ビッグマンとしての誇りと技術」のすべてをリースに叩き込んだ。



 1994年、リースはアメリカ北東部ニューイングランド地方の独立系団体IWF(インターナショナル・レスリング・フェデレーション)にて、「ジャイアント」ロン・リースのリングネームでプロデビューを飾る。試合には師匠であるスタッドがセコンドとして付き添い、愛弟子に熱い視線を送っていたという。



219cm、166kg。 


当時のアメリカ・プロレス界において、このサイズの若手はまさに「金の卵」である。打倒WWFに燃え、巨額の資金で巨大レスラーをかき集めていたWCWのトップ、エリック・ビショフが彼を放っておくはずがなかった。


1995年、リースは鳴り物入りでWCWと契約を結ぶ。 だが、そこから先は、彼と師匠スタッドが思い描いていた「正統派の巨人レスラー」としてのサクセスストーリーとは全く次元の異なる、狂気と迷走の「WCWキャラクター・アミューズメントパーク」の始まりであった。



★1995年、伝説の包帯男「ザ・イエティ」の衝撃――ハルク・ホーガンへの“熱き抱擁”



1995年。当時のWCWは、悪の総帥ケビン・サリバン率いる魔の軍団「ダンジョン・オブ・ドゥーム」が、エースであるハルク・ホーガンを血祭りに上げるため、世界中から怪奇派レスラーを召喚するというアメコミチックなストーリーを展開していた。



同年10月のPPV『ハロウィン・ハボック 1995』に向けて、サリバンは「氷漬けにされた巨大な怪物を蘇らせた」と予告。氷の塊の中から現れたのが、ロン・リース扮する「ザ・イエティ」であった。 だが、ここでプロレスファンは誰もが激しく突っ込んだ。



「イエティ(雪男)と言いながら、なぜ全身トイレットペーパーのような包帯を巻いたミイラ男なんだ!?」



そう、そのビジュアルは雪男のモフモフ感など微塵もなく、包帯を全身にぐるぐる巻きにした不格好なミイラ男そのものであった(当時、エル・ヒガンテがこの役をやる予定だったが体調不良で欠場し、急遽リースが代役としてミイラ風のコスチュームに押し込まれたという都市伝説すら存在する)。



そして伝説は、『ハロウィン・ハボック』のメインイベント、ハルク・ホーガンvsザ・ジャイアント(のちのビッグ・ショー)の試合直後に起こる。 


試合に乱入したイエティは、ホーガンの背後にゆっくりと回り込み、前方にいたザ・ジャイアントと共に、ホーガンを前後から巨大な腕で挟み込む「ダブル・ベアハッグ」を敢行したのだ。


しかし、イエティ(リース)の不器用な動きと、背後からホーガンに密着して腰をカクカクと前後に振るような不自然な動きが相まって、その光景は「巨大なミイラ男がホーガンに対し、極めて卑猥な行為(後ろから腰を振っている)に及んでいる」ようにしか見えなかったのである。 


現在でも、このシーンは「イエティの腰振り」と呼ばれ、WWEネットワークの珍場面集やYouTubeなどで世界中のファンから爆笑と愛をもって擦られ続ける、アメリカン・プロレス史上屈指の迷場面として語り継がれている。



だが、この「ミイラ男」は非常に動きづらかったらしく、すぐさま翌月にはなぜか全身黒装束の「スーパー・ジャイアント・ニンジャ」へと意味不明なマイナーチェンジを遂げ、あっという間にフェードアウトしてしまう。 


新人の超巨漢は、WCWの迷走ブッキングの生贄として、深い傷を負うことになった。


★新日本プロレス修行、ビッグ・ロン・スタッド、そして闇の盾「リース」への転生――フロックでの輝き



1996年、日本のプロレス界がUWFインターナショナルとの対抗戦や夏の風物詩『G1 CLIMAX』に向けて熱く沸き立っていたその最中、新日本プロレスの野毛道場には「規格外の巨大な影」がそびえ立っていた。


アメリカのメジャー団体WCWからフルタイムの留学生として送り込まれてきた大巨人ロン・リースである。


前年の1995年末、WCWで「ザ・イエティ(ミイラ男)」として全米のファンに怪奇派としての強烈なインパクトを植え付けた彼は、さらなるレスリング技術のステップアップを求めていた。


WCWが「次世代の巨大なスター」として彼を育成すべく、世界で最も厳しい修行の地として選んだのが、1996年初夏の新日本プロレス・野毛道場だった。当時の新日本の道場といえば、スクワット数千回、果てしないスパーリングなど、「世界一過酷な梁山泊」として知られていた。


アメリカのテレビマッチ仕様の環境に慣れた外国人レスラーであれば、一日で音を上げて逃げ出すような場所である。


しかし、彼は違った。全米強豪校のバスケットボール選手だった彼は、並外れた身体能力と柔軟性を武器に、うだるような日本の夏の暑さの中、日本人選手たちに混ざって過酷な基礎メニューを黙々とこなしたのだ。


道場で彼と汗を流した武藤敬司や若手レスラーたちは、その超ド級のサイズだけでなく、「これだけ巨大でありながら、これほど動けるのか」というポテンシャルの高さに衝撃を受けたという。


ロン・リースが日本の道場で真摯に泥にまみれ、ストロングスタイルの基礎である体幹や受け身を体に叩き込んだことは、のちのキャリアにおいて非常に大きな財産となった。



新日本プロレスの野毛道場で本物のレスリング技術を叩き込まれ、彼は「ギミックに頼らない、一人のレスラー」として勝負する自信をつけ、偉大なる亡き師匠(ビッグ・ジョン・スタッドは1995年に47歳の若さでこの世を去っていた)へのリスペクトを込め、「ビッグ・ロン・スタッドというリングネームで再登場を果たす。 


星条旗柄のタイツを履き、スタッドが得意とした逆水平チョップや強烈なベアハッグ、そして遅めのブレーンバスター(ディレイード・スープレックス)を武器に正統派のパワーファイター路線を目指した。


しかし、当時のWCWはnWo旋風の真っ只中であり、レトロなキャラクターの巨人がトップ戦線に食い込む隙間など1ミリも存在しなかった。彼は主に若手や中堅のジョバー(やられ役)としての扱いにとどまってしまう。




だが1998年、ロン・リースにレスラー人生で最も「似合っていた」、そして最もファンから支持されたキャラクターが舞い降りる。 


ECWからWCWに移籍してきた“カリスマ”レイヴェンが率いる、社会のドロップアウト組を集めたグランジ・ユニット「レイヴェンズ・フロック(Raven's Flock)」への加入である。


リングネームをシンプルに「リース」と改め、汚れた白いTシャツにボロボロのジーンズという出で立ちで登場した彼は、レイヴェンの横に静かに佇む「寡黙な用心棒」として、圧倒的な存在感を放った。 


nWoの派手さとは対極にある、陰鬱で退廃的なフロックのメンバーたち(サターン、シッコロ、キッドマンなど)の中で、219cmのリースが壁のように立ちはだかる構図は、ビジュアルとして完璧であった。


彼はフロックの「最終兵器」として、レイヴェンに手を出そうとする敵を、豪快なチョークスラムで次々と粉砕。 イエティ時代のコミカルさは完全に消え失せ、純粋に「怖いストリートの巨人」として、遂に彼は自分の居場所を見つけたのである。



プロレスファンというものは、こうした「居場所を見つけた不器用な巨人」を愛してやまない。フロック時代のリースは、彼のキャリアにおいて間違いなく最もクールな輝きを放っていた時代であった。



★日本マット上陸の謎と「ビッグ・ボム・ジョーンズ」――橋本真也&小川直也と対峙した幻のベイダー


1998年後半にフロックが解散すると、再びリースはWCW内で居場所を失い、1999年には団体からリリース(解雇)されてしまう。


 だが、彼の数奇なプロレス人生は、なんと我々日本のファンに、強烈な形での「ご対面」を用意していた。



2000年3月11日。新日本プロレスが横浜アリーナで開催した『力道山メモリアル』。 この歴史的なビッグマッチのセミファイナルで、天龍源一郎のパートナーとして「謎の超巨漢」が来日した。 そのリングネームは、ビッグ・ボム・ジョーンズ。



甲冑のようなマスクと黒いコスチューム。その姿はどう見ても、かつて新日本プロレスを席巻した「皇帝戦士」ビッグバン・ベイダーの丸パクリ(オマージュ)であった。 対戦相手は、橋本真也&小川直也という、当時の日本プロレス界における最強最恐のタッグチームである。



「なんだこのデカすぎるベイダーの偽物は!?」



横浜アリーナの観客がざわめく中、マスクを脱いだその正体こそ、あの元ザ・イエティ、ロン・リースであった。 


219cmの超巨漢が、橋本の重爆キックを受け、小川のSTOを浴びる。試合自体は天龍と橋本・小川の遺恨劇が中心であったが、ジョーンズ(リース)の圧倒的なデカさは、日本のファンに「なんだかよくわからないが、とにかく巨大なアメリカ人が来た」という強烈なインパクトを残した。 

 「ベイダーの偽物」という、これまた無茶なキャラクターを嫌な顔一つせずに引き受けた彼のプロ意識は、ある意味で賞賛に値するだろう。


巨大な迷走劇の果てに残した、唯一無二のカルト的記憶



日本でのツアーを終え、アメリカに戻った彼は、2001年からダスティ・ローデスが主宰するインディー団体TCW(ターンバックル・チャンピオンシップ・レスリング)に参戦。


ここでは再び「ビッグ・ロン・スタッド」を名乗り、なんとあの“氷の戦士”グレイシャーとタッグを組んでTCWタッグ王座を獲得するという、WCWマニア感涙の活躍を見せた。



その後、2005年にヴィンス・ルッソが手掛けたキリスト教系プロレス団体「Ring of Glory」に「Evil(悪)」という直球すぎる名前のキャラクターで出場したのを最後に、ロン・リースは静かにリングを降り、プロレスラーとしての現役生活に終止符を打った。



大巨人が選んだセカンドキャリアは、華やかなプロレス界とは対極にある、一般社会の「ビジネスマン」への転身だった。


彼はアメリカ・ジョージア州アトランタを拠点に、大手ワイン流通企業の営業・地区マネージャーという職に就いたのである。


219cm、166kgの営業マン。スーツに身を包んだ彼がレストランやスーパーマーケットの商談に現れるだけで、誰もが二度見する圧倒的なインパクトだ。


しかし、彼はかつての怪奇派ヒールの顔を完全に封印し、持ち前の明るさとユーモアを武器に、瞬く間に優秀なディストリビューターとして頭角を現した。


のちに彼は、自身の体格を活かした営業スタイルについて、かつてのキャラクターに引っかけてこんなジョークを飛ばしている。


「お店のマネージャーに『このワインを仕入れてくれ。さもないと、目玉が飛び出るようなデスグリップ(アイアンクロー)を食らわせるぞ』って言えるから、この体格は営業活動において最高の武器だよ(笑)」


多くのプロレスラーが引退後に怪我の後遺症や経済的な困窮に苦しむ中、ロン・リースのセカンドキャリアは驚くほど健全で、そして幸福に満ちている。


最愛の妻と出会い、息子を授かった彼は、かつて浴びた大歓声よりも、家族と過ごす「朝9時から夕方5時まで」の規則正しい、ごく普通のサラリーマン生活に何よりも価値を見出している。




「プロレスの後は、普通の生活に戻ったよ。普通の仕事をして、子供ができてさ。でも、あの頃のプロレスは最高に楽しかったよ」


そう笑顔で語る彼の表情には、プロレス界への未練は微塵もない。


1996年のあの熱い夏、新日本の野毛道場で日本人選手と泥にまみれてプロレスの「芯」を学んだ実力派大巨人は、いま、ビジネスのリングで新たな勝利を重ね、一人の父親として、一人のビジネスマンとして、218センチの背中を誇らしげに丸めながら、幸せな日常を闊歩している。



今年(2026年)、 56歳となったロン・リースは、ジョージア州カミングで静かな生活を送っている。


時折、プロレス関係のポッドキャストやインタビューに姿を見せる彼は、白髪混じりの穏やかな笑顔で、かつてのWCWでのクレイジーな日々を非常に客観的に、そしてユーモアを交えて語ってくれる。


「イエティの衣装? ああ、あれは本当に最悪だったよ(笑)。ホーガンにハグした時、自分でも何をやっているのかわからなかった。でも、俺はプロとして、ビショフやサリバンに求められた仕事を全力でやっただけさ。フロックの時代は最高だったね。レイヴェンは天才だし、俺はただ突っ立って、最後に相手をぶん投げればよかったんだから」



現代のプロレス界において、これほどまでに短期間で「ミイラ男」「忍者」「師匠のパクリ」「グランジの用心棒」「ベイダーの偽物」と、全く脈絡のないキャラクターを押し付けられ、それでも不平不満を漏らすことなく、その巨体を揺らしてリングに上がり続けたレスラーは他にいない。



彼がもし、あと5年遅くプロレス界に入り、WWEの育成施設で基礎からじっくりとキャラクターを構築されていれば、ビッグ・ショーやケインのような「団体を支える歴史的モンスター」になっていた可能性は十分にある。彼の身体能力(大学バスケ仕込みの俊敏さ)と、真面目な性格を考えれば、決して夢物語ではない。


しかし、我々が愛しているのは、洗練されたスマートな巨人ではなく、WCWという混沌の時代に咲いた、あまりにも不器用な巨神兵の姿なのである。 


歴史の教科書には「名勝負製造機」や「カリスマ」として載ることはないだろう。だが、ロン・リースが世界中のプロレスファンの脳裏に刻み込んだあの「迷場面の数々」は、プロレスというジャンルが持つ底知れぬバカバカしさと、果てしないロマンの象徴として、永遠に語り継がれていく。




そしてレスラー引退後にセカンドキャリアを成功させて、普通の生活を過ごすという幸せを手に入れた。


ロン・リースは数々の理不尽を飲み込み、不条理と迷走の波に翻弄されながらも、リングに立ち続けたあなたこそ、決して忘れ去られることのない素晴らしいレスラー人生を生き抜いたのである。






俺達のプロレスラーDX
第306
回 浪漫に生きる美学〜異端のアメリカン・サムライ/ジェイソン・デルーシア【俺達のプロレスラーDX】







1990年代初頭。プロレスと格闘技の境界線が今よりもずっと曖昧で、それゆえに底知れぬ熱とロマンを孕んでいた時代。



「果たして、誰が一番強いのか?」


この根源的で野蛮な問いに対する答えを求めて、世界中のあらゆる格闘家、武術家たちが己の肉体と幻想をぶつけ合っていた。


 まだ「MMA」という洗練された言葉が定着する前、「バーリ・トゥード」や「ハイブリッド・レスリング」と呼ばれた荒々しい闘いの黎明期において、現在の競技化された格闘技では絶対に見られないような“異端のバックボーン”を持った男たちが四角いジャングル(あるいは金網)へと足を踏み入れていたのである。



五獣拳(ファイブ・アニマル・カンフー)、合気道、テコンドー、空手。



およそ現代の総合格闘技のセオリーである「キックボクシング+レスリング+ブラジリアン柔術」という方程式から完全に逸脱した、東洋の伝統武術の数々。


それらを己の血肉とし、独特の構えと変幻自在のグラウンドテクニックで、UFCの歴史的幕開けと、日本のハイブリッドレスリング「パンクラス」を生き抜いた一人のアメリカ人がいた。



男の名は、ジェイソン・デルーシア。



UFCの長い歴史において、オクタゴンの中で行われた「記念すべき第1試合」を戦った男であり、初来日の日本で完全無欠のエース・船木誠勝を秒殺するという大番狂わせを演じた男。


そして、死の淵を彷徨うような重傷を負いながらも、最後まで己の「武道」の哲学を曲げなかった求道者である。



格闘プロレスというジャンルが最も危険で、最も刺激的だった時代を、五獣拳の構えで飄々と駆け抜けた異端のアメリカン・サムライ、ジェイソン・デルーシアの数奇な格闘人生を考察していきたい。



★五獣拳とオクタゴン――UFC「真の第1試合」の記憶




ジェイソン・デルーシアは、1969年7月24日、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ベリンガムに生まれた。



若き日のデルーシアは、アメリカの多くの青少年がそうであったように、ブルース・リーの映画や東洋の武術に対する強烈な憧れを抱いていた。


彼の格闘技人生は、映画さながらの奇妙な環境から始まった。


少年時代、彼は自身の「カンフーの師匠」に法的に養子として引き取られ、文字通り24時間体制で中国武術の英才教育を受けることになる。


彼が授かったのは、伝統的な中国武術の中でも実戦性が高いとされる「五獣拳(ファイブ・アニマル・カンフー)」。


その修練の過酷さを物語るのが、帯の昇格試験である「サッシュ・テスト」だ。


これは演武を競うものではなく、相手を行動不能にするまで戦い、力ずくで帯を奪い合うという極めて実践的な“果し合い”だった。


一度は失敗し、鼻を折られながらも2度目で赤帯を勝ち取ったデルーシアは、ここで強力な打撃のベースを築き上げる。


しかし、彼の探求は道場の中だけでは終わらない。青年となったデルーシアは、自身の技術が本当に通用するのかを確かめるため、地元ボストンのチャイナタウン周辺で、非公式のアンダーグラウンドなストリートファイトに身を投じていった。現場で磨かれた勘と度胸が、彼のプロへの扉を開くことになる。 



「真の強さとは何か」を追い求めるデルーシアの行動力は、時に常軌を逸していた。


当時、映画スターとして全盛期だったスティーヴン・セガールが雑誌で「道場への挑戦者を歓迎する」と発言したのを見るや否や、マサチューセッツからロサンゼルスまで3日間車を走らせて道場へ直談判に向かった(惜しくもセガール本人には会えなかったが)。



さらに「真の強さ」を求めて柔道や柔術といった組み技・寝技の概念を吸収し、テコンドーや合気道にも10年以上の歳月を捧げた。


 183cm、90kgという均整の取れた肉体に、数多の東洋武術の思想を詰め込んだデルーシアは、まさにアメリカに生じた「突然変異の武道家」であった。




彼が、運命の壁にぶち当たったのは1993年のこと。雑誌で見かけた「グレイシー・チャレンジ」の広告に応じ、UFC旗揚げ前のホイス・グレイシーの道場へ乗り込んだのだ。


結果は、グラウンドでの完敗。それまで打撃の絶対性を信じていたデルーシアにとって、寝技で何もできずに極められた経験は、脳を揺さぶられるほどの衝撃だった。


しかし、ここで腐らないのが彼の凄みである。「真の強さを追求するには寝技の習得が不可欠だ」と痛感した彼は、プライドを捨てて柔道やブラジリアン柔術の習得へ即座に舵を切った。




そんな彼に、歴史的な運命の扉が開かれる。


 1993年11月、コロラド州デンバー。ルール無用の金網デスマッチとして産声を上げた『UFC 1(Ultimate Fighting Championship)』である。



歴史の記録上、UFC 1のトーナメント第1試合はジェラルド・ゴルドー対テイラ・トゥリの一戦とされている。


しかし、ペイパービューの放送開始前、トーナメントのリザーブマッチとして行われた「真の第1試合」が存在した。 



そのオクタゴン(八角形の金網)に足を踏み入れたのが、ジェイソン・デルーシアであった。


彼はトレント・ジェンキンスを相手に、開始わずか数十秒でチョークスリーパーによるタップアウト勝利を収めている。



すなわち、巨大格闘技帝国UFCの歴史において「最初に勝利のコールを受けた男」は、ジェイソン・デルーシアなのである。



そして翌1994年3月、デルーシアは『UFC 2: No Way Out』の本戦トーナメントにエントリーする。 そこで彼を待ち受けていたのは、第1回大会を圧倒的な強さで制し、世界中に「グレイシー柔術」の恐怖と神秘を見せつけた男、ホイス・グレイシーであった。



未知の東洋武術を操るデルーシアと、ブラジルの密林から現れた寝技の魔術師の対決。


しかし、当時のホイスの極めはあまりにも冷徹であった。 開始約1分、グラウンドの攻防に持ち込まれたデルーシアは、ホイスの電光石火の腕ひしぎ十字固めに捕獲される。


デルーシアはたまらずタップアウトをしたが、ホイスはレフェリーが制止するまで腕を放さず、デルーシアの肘関節は無惨にも極め切られてしまった(後に靭帯・カプセルの損傷があったとされるが、本人は「ひどく曲げられただけだ」と誇り高く語っている)。



世界最高峰のリアルファイトの洗礼。己の腕を破壊された敗北。 しかし、この痛みこそが、デルーシアの中に眠る「武道家としての闘争本能」に火をつけた。彼は己の技術をさらに磨き上げるため、アメリカにおける総合格闘技の虎の穴へと身を投じることとなる。



★1994年・パンクラス上陸の衝撃――「完全無欠のエース」船木誠勝狩り



UFCでの敗北後、デルーシアは、当時のアメリカ格闘技界において最先端のグラップリング技術を持っていたケン・シャムロック(当時のリングネームはウェイン・シャムロック)が主宰する「ライオンズ・デン」の門を叩く。


 シャムロックは日本の新団体「パンクラス」で鈴木みのるや船木誠勝と死闘を繰り広げており、その道場には実践的なサブミッション(関節技)の技術が蓄積されていた。




打撃の五獣拳に、ライオンズ・デンのシューティング・レスリングを融合させたデルーシア。 


ついに1994年7月、彼はライオンズ・デンの刺客として、日本のリングに初上陸を果たす。



1994年7月6日、パンクラス尼崎市記念公園総合体育館大会。 パンクラス旗揚げから約1年。当時のパンクラスは「秒殺」という流行語を生み出し、プロレスの枠を超えた真剣勝負の緊張感で、日本中のファンを熱狂の渦に巻き込んでいた。



その日本デビュー戦で、デルーシアに用意された相手は、パンクラスの創始者の一人であり、絶対的な強さを誇っていた完全無欠のエース、船木誠勝であった。 


日本のファンやマスコミの誰もが、船木がこの見慣れないアメリカ人を圧倒し、数分で関節を極めて勝利するものと信じて疑わなかった。



しかし、ゴングが鳴った直後、歴史に残るジャイアント・キリングが起きる。 両者がグラウンドの攻防にもつれ込んだ瞬間、デルーシアの足が蛇のように船木の足を絡め取った。


そして、強烈な膝十字固め。 船木は苦悶の表情を浮かべ、たまらずエスケープ(ロープブレイク)ではなく、タップアウトを宣言したのである。


試合時間、わずか1分1秒。 絶対的エースの信じられない秒殺負けに、尼崎の会場は水を打ったような静寂に包まれ、やがて地鳴りのようなざわめきに変わった。 格闘技専門誌のみならず、週刊プロレスでさえもこの一戦を大々的に報じ、ジェイソン・デルーシアの名前は一夜にして「日本の格闘技界を震撼させた未知の強豪」として、全国のプロレス・格闘技ファンの脳裏に焼き付いたのである。



後年、船木はデルーシア戦について、「あの時は、自分が仕掛けたアンクルホールド(足首固め)が極まって相手がロープエスケープするだろう、と完全に高を括っていた」「しかし、デルーシアは逃げるどころか、瞬時に私の足を跨いで逆方向から膝十字固めを極めてきた。あの瞬間、彼の勝負への執念と反応速度に完全にやられた」と振り返っている。


船木はデルーシアという強敵が現れたことを、心の底から喜んでいた。



この日を境に、デルーシアはパンクラスにおいて、絶対に無視できないトップランカーであり、新たなスターの一人として定着することになる。



★ハイブリッド・ブドーカンの哲学――異端の構えと引き込み、そして悲劇


パンクラスに定着したデルーシアのファイトスタイルは、日本のファンにとって極めて奇異であり、同時に目が離せない魅力を放っていた。



試合開始のゴングが鳴ると、彼はレスリングの低いクラウチングスタイルや、キックボクシングのアップライトとは全く異なる、両手をふわりと前に出した「合気道」や「五獣拳」を思わせる独特の構えを見せる。そこから、ノーモーションで鋭いローキックやハイキックを繰り出し、相手を牽制する。


船木はデルーシアのファイトスタイルについて「五獣拳(カンフー)の使い手として、構えや打撃の軌道が他のキックボクサーとは全く違っていて非常に闘いづらかった」と語っている。



そして何より特徴的だったのが、彼の「引き込み(ガードポジションへの移行)」である。 当時のパンクラスはラウンド制のない一本勝負(後に時間無制限から15分や30分に移行)であり、ロープエスケープの回数制限(ロストポイント制)が存在した。


そんな中で、デルーシアは相手と強引に打ち合うリスクを避け、自らゴロンと仰向けに倒れてグラウンドへ相手を誘い込む戦法を多用したのである。 


下からの前腕チョーク、三角絞め、あるいは足首への執拗な関節技。時にはマウントポジションを奪われても慌てることなく、じわじわと体勢を入れ替えてみせる。



鈴木みのる、近藤有己、柳澤龍志、國奥麒樹真。 パンクラスが誇る日本人トップファイターたちと幾度も激戦を繰り広げ、彼は常にランキングに名を連ねる「門番」であり「上位の壁」として君臨し続けた。



しかし、闘いの神は時として残酷な試練を与える。 


1996年6月25日、パンクラス『Truth 6』福岡大会。相手は当時「世界最強のストライカー」として恐れられていたオランダの破壊神、バス・ルッテンであった。



この試合で、ルッテンの戦慄のレバーブロー(ボディへのパンチ)がデルーシアの腹部を完璧に捉えた。 デルーシアは尋常ではない苦痛に顔を歪め、キャンバスにうずくまってTKO負けを喫する。



単なるボディへのダメージではなかった。病院へ緊急搬送された彼に下された診断は、「肝臓破裂」という、生命に関わる恐るべき重傷であった。


プロのファイターとして、いや、一人の人間としての死の恐怖。 通常の選手であれば、ここでリングに上がることを諦めても全く不思議ではない。


しかし、デルーシアの心の中にある「ブドー(武道)」の精神が、彼を再び立ち上がらせた。長期間の治療と過酷なリハビリを経て、彼は自らのチーム名を冠した「ハイブリッド・ブドーカン」の看板を背負い、再びパンクラスの白いキャンバスへと帰還したのである。


★激動の流浪――UFC-J、掣圏道、そして失われた「異種格闘技のロマン」


1990年代後半から2000年代初頭にかけて、総合格闘技の技術は急速な進化を遂げていた。


 「タックルで倒してパウンドで削る」あるいは「ポジショニングで圧倒する」という現代MMAのセオリーが確立されつつある中で、デルーシアのスタイルは時代遅れと評価されることもあった。


しかし、彼は己のスタイルを変えなかった。


 1999年11月に開催された『UFC-J(UFC 23)』への凱旋出場。ジョー・スリックから開始1分28秒でTKO勝利を収め、自らがUFCの開拓者であることを日本の地で証明してみせた。


 さらに2001年には、初代タイガーマスク・佐山聡が創設した立ち技ベースの異種格闘技『掣圏道(せいけんどう)アルティメット・ボクシング』にも出場を果たしている。


勝つこともあれば、無惨に負けることもあった。 グラウンドでの「引き込み」による膠着が、判定において不利に働く場面も少なくなかった。団体からの評価や待遇が必ずしも最高のものではなかった時期もある。


それでも、彼が五獣拳の構えから放つ独特の打撃と、合気道のように相手の力を流す柔の動きは、画一化されつつあったMMAのリングにおいて、最後まで「異種格闘技戦のロマン」を漂わせていた。 


誰が一番強いのかを争うスポーツの中で、デルーシアはただ一人、「武道としての理(ことわり)」をリング上で表現しようとしていた芸術家であったと言える。それが彼の美学なのかもしれない。


彼にとって格闘技とは、単なる勝敗のゲームではなく、自己の精神と肉体のハイブリッド(融合)を試す、終わりのない求道の旅であったのだ。


★ベリンガムに吹く、武道の風



2006年の試合を最後にプロの総合格闘技(MMA)から完全に引退。今年(2026年)、57歳となったジェイソン・デルーシアは、武道家としての歩みは決して止まっていない。 生まれ故郷であるマサチューセッツ州周辺に拠点を置き、彼が半生をかけて組み上げた「ハイブリッド・ブドーカン」の哲学と技術を、静かに、そして熱心に後進へと伝え続けている。


近年、「人生の困難(ハードシップ)があっても、今なおトレーニングを続け、武道に関われて居られることに心から感謝している」と語るなど、非常に穏やかで、武道家らしいストイックかつ精神的な日々を送ってる。


派手な格闘技ビジネスの表舞台からは退いたものの、彼がかつて追い求めた「真の強さへの探求」は、今も形を変えて彼のライフワーク。


 SNSやメディアに頻繁に登場して過去の栄光を誇示するようなことはせず、あくまで道場の畳の上で、己の信じる武術の真理を探求し続ける毎日。それこそが、彼が少年時代から思い描いていた「真の武道家」の姿そのものではないだろうか。



現代のUFCは、グローバルな大企業が運営する、洗練された巨大なスポーツエンターテインメントへと変貌を遂げた。選手たちはアスリートとして高度に管理され、ケージの中では緻密な戦略とフィジカルがぶつかり合っている。


しかし、我々オールドファンは時折、強烈な郷愁とともに思い出すのである。 格闘技というジャンルがまだ海のものとも山のものともつかなかった時代。オクタゴンの中に、空手着の男や、片手袋のボクサーや、巨漢の力士が入り乱れていたあの熱狂を。 そして、その荒野のようなリングに、静かな瞳で、五獣拳の奇妙な構えで立ち向かっていった一人のアメリカン・サムライの姿を。



ジェイソン・デルーシア。 彼が残した「UFC第1試合」の記憶と、完全無欠の船木誠勝から奪い取った「1分1秒の膝十字」の衝撃は、格闘プロレスの歴史が語り継がれる限り、永遠に消えることはない。



どんなにMMAの技術が進化しようとも、己の信じた「東洋の武の心」を武器に、格闘技という浪漫を追い求めて、誰よりも勇ましく、誰よりも傷つきながらジャングルを生き抜いた彼は永遠に異彩を放ち続ける真の格闘家ではないだろうか。












俺達のプロレスラーDX
第305
回 無慈悲な漆黒の殺気を放つプロレス界の助演男優賞/バッドニュース・アレン








プロレスの世界において、「ヒール(悪役)」と呼ばれる存在は数多く存在する。



奇抜なペイントを施し、狂気を演出する者。マイク一本で観客の心理を巧みに揺さぶり、大ブーイングを巻き起こす者。あるいは、ルール無用の反則攻撃でベビーフェイスを痛めつける者。それらはすべて、プロレスという壮大なエンターテインメントを成り立たせるための極めて重要な技術であり、美学であった。



しかし、かつて昭和から平成にかけてのマット界に、そうした「作り込まれた悪役」という生ぬるい枠組みを嘲笑うかのように、ただそこに存在するだけでアリーナ全体の空気を凍りつかせた男がいた。



男の名は、バッドニュース・アレン。 またの名を、バッドニュース・ブラウン。


188 cm 、120 kg の頑丈で厚みのある体格を誇り、スキンヘッドに鋭い眼光。黒のタイツに身を包み、ゴングが鳴るやいなや相手を叩きのめし、自らの代名詞である一撃必殺の「ゲットー・ブラスター」(延髄斬り)でキャンバスに沈める。味方すら作らず、マネージャーの差し出す手すら拒絶し、文字通り世界中のマット界で「孤高の無法者」「一匹狼」として暴れ回った男である。



だが、この男の真の凄みは、その禍々しいヒール像の裏側に、オリンピックのメダリストという「圧倒的な本物の強さ」と、黒人アスリートとして差別や偏見と戦い抜いてきた「不屈のプライド」を秘めていたことにある。



1976年モントリオール五輪・柔道重量級で銅メダルを獲得した真の格闘家が、なぜプロレスの世界へと身を投じ、過酷なヒール稼業にその一生を捧げたのか。 


新日本プロレスでのアントニオ猪木との激闘、国際プロレスや全日本プロレス、カナダ・カルガリーのスタピード・プロレスでの大暴れ、そしてWWF(現WWE)での「唯一無二の独行者」としての記憶――。



2007年にこの世を去り、伝説となった今もなお、彼がリングに遺した「本物の凄み」と「ストイックなプロレス美学」は色褪せることがない。 


今回は、黒人初の五輪柔道メダリストからプロレス界最強の凶悪ヒールへと上り詰め、己の美学を貫き通した「バッドニュース」のあまりにも濃密で、誇り高きプロレス人生を深く、深く考察していきたい。



★ハーレムの少年と五輪の栄光――柔道家アレン・コージが抱いた葛藤とプライド



1943年10月22日、ニューヨーク州ニューヨーク市ハーレム。 過酷な貧困と犯罪が背中合わせの街で、本名アレン・ジェームス・コージは生を受けた。



幼少期から体格に恵まれていたアレンは、15歳の時に護身術として柔道を始める。


当時、アメリカにおける柔道は日系人社会を中心に嗜まれるマイナーな競技であり、黒人少年が道場の門を叩くこと自体が異例であった。


しかし、アレンの持つ驚異的な身体能力と柔軟性、そして何よりも「負けたくない」という強烈な反骨心は、彼を瞬く間に頭角を現させのだった。 


師の教えを忠実に守り、厳しい稽古に耐え抜いたアレンは、全米柔道選手権で重量級(93kg超級)を次々と制覇。アメリカ代表の座を勝ち取るまでに成長する。



しかし、当時のアメリカ柔道界には、色濃い人種差別が存在していた。圧倒的な実力を示しながらも、黒人であるアレンに対する冷遇や判定の不利益は日常茶飯事であった。それでも彼は歯を食いしばり、自らの拳と技だけでその偏見を覆していった。



そして1976年、カナダで開催されたモントリオールオリンピック。


 32歳となっていたアレン・コージは、柔道男子重量級のアメリカ代表として夢の舞台に立つ。予選を圧倒的な強さで勝ち上がった彼は、見事に銅メダルを獲得。


これはアメリカの柔道史において、黒人選手として史上初となる快挙であった。



本来であれば、国家の英雄として称えられるべき栄誉である。しかし、帰国した彼を待っていたのは、冷ややかな現実であった。 


当時のアメリカにおいて、アマチュア競技である柔道のメダリストに対する経済的支援や社会的評価は極めて乏しく、アレンは生活のために自らのメダルと実績を誇りに思いながらも、新たな生き道を模索せざるを得なかったのだ。



「自分の強さを、正当な報酬と評価に変えられる場所はどこにあるのか――」



30代半ばを迎えていたアレン・コージの視線の先にあらわれたのが、プロレスという名の四角いジャングルであった。


★アントニオ猪木との遭遇と新日本プロレス――「格闘技プロレス」の洗礼



1970年代、アントニオ猪木がぶち上げた「格闘技世界一決定戦」のブームは、国内外のあらゆる猛者たちを日本へと引き寄せた。1977年10月25日、日本武道館。その熱狂の渦中に、1976年モントリオール五輪の柔道重量級銅メダリスト、アレン・コージ(後のバッドニュース・アレン)の姿があった。


1977年10月25日、日本武道館。その熱狂の渦中に、1976年モントリオール五輪の柔道重量級銅メダリスト、アレン・コージ(後のバッドニュース・アレン)の姿があった。彼が日本のファンにその存在を強烈に焼き付けた出発点、それこそが坂口征二との「柔道ジャケットデスマッチ(異種格闘技戦)」だった。



当時、新日本プロレスの副社長であり、自身も「世界の荒鷲」としてミュンヘン五輪の柔道代表(全日本選手権優勝)の実績を持つ坂口征二。


「猪木対チャック・ウェップナー」がメインを飾ったこの日、坂口とアレンの一戦は、プロレスの枠を超えた「柔道最高峰の意地」がぶつかり合う凄絶なジャケットマッチとなった。


結果は、日本の大先輩である坂口がアレンを絞め落として勝利。五輪の栄光を引っ提げて乗り込んできたアレンにとっては、苦い敗戦からのスタートとなった。



しかし、この敗北こそが、彼の人生を大きく変えるターニングポイントとなる。


異種格闘技戦の刺客として来日したアレンだったが、アントニオ猪木は彼の底知れない格闘センスと頑強な肉体を見抜いていた。


アレン自身もまた、日本の「ストロングスタイル」に魅せられ、なんとそのまま新日本プロレスの練習生として居残ることを決意する。


ここから、彼は「アレン・バッファロー」や「バッファロー・アレン」のリングネームを名乗り、プロレスラーとしてのキャリアをゼロからスタートさせた。


それは、当時の外国人レスラーの常識を覆すものだった。本国での名声を背景に「お大洋様」として来日する他の外国人とは違い、アレンは若手の日本人レスラーたちと全く同じように道場に住み込み、ちゃんこを食べ、厳しいセメント(実戦)の練習に汗を流した。


アマチュア柔道の最高峰に君臨した男にとって、プロレスの受け身やロープワーク、観客に見せるためのファイトスタイルを習得することは、プライドとの戦いでもあった。しかし、アレンは持ち前のストイックさと高い運動神経で、プロレスの技術を急速に吸収していく。



このアレンの泥臭い「居残り留学」の成功が、のちにクリス・ベノワやエディ・ゲレロら、世界のトップ選手を数多く輩出することになる



新日本の「青い目のヤングライオン(外国人留学生)」制度の礎となったのである。



1978年、新日本プロレスのリングで本格的にデビューを果たしたアレンは、「バッドニュース・アレン・コージ」の名でリングに上がる。


新日本に参戦した元柔道世界王者ウィレム・ルスカらと抗争を展開していたアレン。



山本小鉄や藤波辰巳(現・辰爾)、長州力らとの対戦を通じ、彼は自らの柔道の投げ技(払腰や大外刈り)をプロレス仕様に昇華させ、さらに規格外のパワーを生かした打撃を習得していった。



そして、彼にとってキャリア初期の最大の一番となったのが、アントニオ猪木との「格闘技世界一決定戦」をはじめとする一連の対戦であった。



柔道着を着用してリングに上がるアレンに対し、猪木はプロレスの意地をかけて真っ向から激突。アレンの鋭い足払いや絞め技に対し、猪木はアリキックや延髄斬りで応戦した。


 この猪木との死闘の中で、アレンはプロレスにおける「相手の光を引き出した上で、それを叩き潰す」というプロの技術と、観客の感情を揺さぶるリアルな「殺気」の重要性を深く学んだのだった。



しかし、1979年に一度アメリカ(WWF)へ戻り、名マネージャーのフレッド・ブラッシーのもとでヒール(悪役)のノウハウを吸収すると、1980年代からは冷酷無比な「バッドニュース・アレン」として新日本に本格定着する。アブドーラ・ザ・ブッチャーとの「黒い軍団」副将として活躍。


頭をスキンヘッドに丸め、全身を黒で統一した「ブラック・ブル(黒い猛牛)」の誕生である。


道場で磨き上げた確かな技術をベースに、一切の容赦がないラフファイトを展開する彼は、新日本プロレスにとって「最も信頼できる外国人エースの相棒」となっていった。


そして、彼が自らの必殺技としたのが、師であるアントニオ猪木の代名詞「延髄斬り」だった。



新日本の留学生としてプロレスの基礎を叩き込まれたアレンは、猪木の強さと華を誰よりも理解していた。


猪木が跳躍し、その足がアレンの脳髄を捉える瞬間、アレンは巨体を信じられないほどのスピードで1回転させ、マットに沈んだ。


そのダイナミックな散り様は、猪木の必殺技に説得力を与え、スタジアムの熱狂を最高潮へと導いた。まさに、主役の魅力を120%引き出すプロフェッショナル。「プロレス界の最高峰の助演男優」とファンが畏敬の念を込めて呼ぶ理由は、この徹底した職人魂にある。



猪木へのリスペクトと、道場で技術を盗み我が物にした自信の表れでもあるこの一撃は、のちに彼がアメリカに主戦場を移した際も「ゲットー・ブラスター」の名で全米を震撼させることになる。




しかし、アレンの本当の恐ろしさは、ひとたびその職人肌のブレーキが外れた時にあった。


オリンピアンとしてのプライドと、本物の格闘技術を秘めた彼の周りには、今も語り継がれる強烈な武勇伝が転がっている。


当時、世界のプロレス界で絶対的な権力を誇り、若手や外国人レスラーへの過酷な「いじめ(しごき)」でも知られていた大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント。


ある移動中のバス車内、酒に酔ったアンドレがアレンに対して人種差別的な暴言を吐いた。


その瞬間、アレンの目が変わった。彼はバスを急停車させると、巨漢のアンドレに向かって言い放った。


「降りろ、お前をここで殺してやる」


アレンの放つ尋常ではない殺気と、柔道のメダリストというバックボーンを知るアンドレは、顔面を蒼白にさせ、それ以上一言も発することができなかったという。


あの規格外の大巨人を力と威圧感で完全に黙らせた男は、世界のプロレス史を見渡してもアレンくらいのものだ。


セメント(真剣勝負)になれば誰も勝てないのではないか――


群れない、媚びない。一匹狼のアレンは、外国人レスラー同士の派閥や、夜の街でのどんちゃん騒ぎに加わることを嫌った。


試合が終われば、誰とも群れずに一人でホテルの部屋に帰り、肉体を休める。その孤高のライフスタイルは、リング上の「誰の助けも借りない凶悪ヒール」そのものであった。



五輪のメダルというプライドを捨て、道場の畳の上から這い上がったアレン。彼の新日本時代は、まさに猪木が掲げた「プロレスこそが最強の格闘技である」という思想を、身をもって証明し続けた泥臭くも美しい軌跡だった。



★カルガリーの地獄と「Bad News」の完成――スタピード・プロレスでの大暴れ



日本での修行を経て、アレンが真の「モンスターヒール」としてその才能を完全開花させたのは、カナダ・アルバータ州カルガリーを拠点とする「スタピード・プロレス」であった。



スチュー・ハート(ビルト・ハートやブレット・ハートの父)が主宰するスタピード・プロレスは、過酷なトレーニング空間「ダンジョン(地下格闘場)」で鍛え上げられたレスラーたちが、殺伐としたリアルな攻防を繰り広げるプロレス界屈指のハードコアなエリアであった。



ここでアレンは、「バッドニュース・アレン」のリングネームを固定。 スキンヘッドに黒のロングタイツ、黒のブーツという、一切の装飾を削ぎ落としたスタイルを確立する。


カルガリーでのアレンは、まさに猛威を振るった。 ダイナマイト・キッド、ブレット・ハート、レオ・バーク、ダイソン・グラハムといった実力者たちと、血で血を洗う過酷な抗争を展開。


 ルール無用のラフファイターとして暴れ回る一方で、相手が本気でかかってくれば柔道の技術で叩きのめす。


相手をコーナーに追い詰め、激しいパンチの連打を叩き込み、最後は宙を舞う延髄斬りで仕留めるそのスタイルは、カルガリーの観客を恐怖の底に突き落とした。


1980年代前半、アレンはスタピード・ノースアメリカン・ヘビー級王座を何度も獲得。団体の絶対的な「トップヒール」として君臨した。



このカルガリー時代に特筆すべきは、アレンが確立した「孤高のキャラクター」である。


 通常のヒールであれば、他のヒールレスラーと共闘したり、マネージャーを従えてセコンドにつけたりすることが一般的であった。しかし、アレンは違った。


「俺に必要なのは、俺のこの二つの拳と足だけだ」


彼はヒール仲間であっても平然と裏切り、マネージャーが試合介入をしようとすればそれを殴り飛ばした。


ベビーフェイスもヒールも関係なく、リングに上がるすべての人間を敵とみなし、叩きのめす。 


この「誰とも群れない無法者(ローン・ウルフ)」のスタイルは、観客にとって単なる悪役を超えた、ある種の「底知れぬ恐怖」と「歪んだ格好良さ」を醸し出していたのである。


世界中のリングに「バッドニュース(悪い知らせ)」を届け続けたアレン。カルガリーでの過酷な日々は、彼を完全無欠のプロフェッショナル・ヒールへと仕立て上げたのだった。


★WWFでの狂騒と孤高の美学――バッドニュース・ブラウンの「独行」



1988年、アレンの圧倒的な存在感と実力に目をつけた世界最大団体WWF(現WWE)は、彼と電撃契約を結ぶ。 WWFでのリングネームは「バッドニュース・ブラウン」。



当時のWWFは、ビンス・マクマホン・ジュニアの主導のもと、ハルク・ホーガンを筆頭とする派手なキャラクターとポップなエンターテインメント路線が爆発的なブームを巻き起こしていた時代である。


カラフルな衣装を纏ったレスラーたちがマイクで派手なパフォーマンスを繰り広げる中、アレンはカルガリー時代と全く変わらない「黒一色のシンプルかつ殺気あふれるスタイル」でWWFのリングに降り立った。



ビンス・マクマホンは最初、アレンに対して「ハーレム出身のストリート・ファイター」というギミックを押し付けようとした。


しかし、アレンは自らのプライドを賭けて、安易なステレオタイプの黒人キャラクターに染まることを拒否。あくまで「孤高の実力派ヒール」としてリングに立ち続けた。



WWFでのバッドニュース・ブラウンの存在感は異彩を放っていた。



トークコーナーやマイクパフォーマンスでは、観客には「骨なしのゴキブリども!」、対戦相手には「お前らは綺麗なコスチュームを着てメイクをした、ただの『おままごと』のスターだ」「ハーレムのストリートを1ブロックも歩けないような、ヤワな腑抜けどもが」と暴言を吐き捨て、誰も信用しない姿勢を貫いた。 


さらにはWWFのアナウンサーやビンス・マクマホンに対して自身の扱い(王座挑戦権など)への不満から、カメラの前やバックステージで「嘘つきのタコが、俺を誰だと思っているんだ」と本気で詰め寄っていたという。




試合になれば、相手が誰であれ容赦ないラフファイトを仕掛け、必殺の延髄斬り(WWFでは「ゲットー・ブラスター」と命名された)で次々と対戦相手をマットに沈めていった。



1988年の『WrestleMania IV』での20人参加ロイヤルバトルでは、最後にビッグ・ボスマンと共闘してクリス・アリアスを脱落させた直後、即座にボスマンを裏切ってリング外へ投げ飛ばし、勝利を奪い去るという「らしさ」全開のファイトを見せた。




さらに彼がWWFで展開した有名な抗争が、アンドレ・ザ・ジャイアントやロディ・パイパーとの激闘である。



223センチ、200キロを超える「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアントに対しても、アレンは一切怯むことがなかった。リング上でアンドレの巨体に真正面から殴りかかり、場外戦ではパイプ椅子で容赦なく叩きのめす。


かつてバックステージでアンドレが人種差別的な発言をした際には、掴みかかり「表へ出ろ!」と一触即発のリアル・シュート(本気の喧嘩)寸前まで追い詰めたという逸話そのままにアレンの強さが際立っていた。




1990年の『WrestleMania VI』では、「ホット・ロッド」ロディ・パイパーとシングルマッチで激突。半分黒塗りのペイントをして現れたパイパーに対し、アレンは殺気全開の打撃戦を展開。両者リングアウトの荒れ模様となったが、二人の放つ異様な熱気はアリーナを熱狂させた。 


しかし、華やかなエンターテインメント路線を推進するWWF上層部との間には、次第に深い溝が生じ始めていた。


アレンは、自らの格を落とすようなストーリーラインや、安易な負け役(ジョバー)を押し付けられることに対し、プロとして、そして五輪メダリストとしてのプライドから断固として拒否した。


 特に「下水管から大量の下水ネズミを取り出して相手にけしかける」というコミカルなギミックを提案された際、アレンは「俺を愚弄するのもいい加減にしろ」と激怒。


1990年秋、彼は自らの意思でWWFのリングに別れを告げたのだった。



妥協を許さず、媚びを売らず、ただ己の誇りと強さだけを武器にビッグビジネスの渦中を突き進んだバッドニュース・ブラウン。その姿は、まさにプロレス界に咲いた「孤高の毒花」であった。


★引退、後進の育成、そして早世――伝説となった無法者の真実


WWFを退団した後、アレンは世界各地のインディー団体や、日本のUWFインターナショナル、さらにかつて古巣であるカルガリーのリングなどに参戦。長年の激闘で傷ついた膝や腰の怪我と戦いながらも、リングに上がれば昔変わらぬ「無法者」であり続けた。



1990年代後半、彼は長年酷使した膝の手術を受け、プロレスラーとしての現役生活に静かにピリオドを打つ。



引退後のアレンは、カナダ・カルガリーに拠点を置き、プロレス界の後進の育成や、スポーツ解説者、さらにはショッピングモールの警備員などの職に就き、穏やかな第二の人生を送った。



彼が指導した若手選手たちに対して、アレンはリング上の凶暴な姿からは想像もつかないほど、親身で、丁寧で、そして礼儀正しい指導を行ったという。 彼が教えたのは、単なる技の形だけではない。



「リングに上がる以上、プロとして観客に本物のリアリティを見せろ」

 「自分自身の誇りを決して売るな」



五輪メダリストとして、そして世界を渡り歩いたトップヒールとしての教えは、多くの若いレスラーたちの心に深く刻まれた。


しかし、過酷なレスラー人生が彼の肉体に残した代償は大きかった。


2007年3月6日。カナダ・アルバータ州カルガリーの病院にて、アレン・コージは心臓麻痺のため、急逝した。享年63。 あまりにも早すぎる死であった。



訃報が世界中を駆け巡ると、かつて彼とリングでしのぎを削ったブレット・ハート、ダイナマイト・キッド、ストーンコールド・スティーブ・オースチン、そしてビンス・マクマホンをはじめとする日米のマット界関係者から、惜しみない追悼とリスペクトの言葉が寄せられた。



リングを降りれば、誰よりも温かく、知的で、家族を愛した紳士。 リングに上がれば、世界中の観客を恐怖させ、誰とも群れない最高の悪役。 アレン・コージという男は、最後まで「プロ中のプロ」として自らの仕事を完遂し、静かに伝説となったのである。



★現代プロレスが失った「本物の殺気」とバッドニュースの教訓



21世紀に入り、プロレスはより高度に洗練され、アクロバティックな技や緻密なストーリーラインが主流となる時代を迎えた。レスラーたちはSNSを通じてファンと交流し、リング外での誠実な素顔を見せることが当たり前の世の中となっている。



しかし、そうした「見せかけのエンターテインメント」が成熟すればするほど、プロレスファンは時折、無性にあの男の姿を欲することがある。

黒のタイツ一枚でリングに立ち、スポットライトの華やかさを拒絶し、ただ鋭い眼光だけで観客を恐怖させた、バッドニュース・アレンの姿を。



彼の放つ無慈悲で漆黒の「殺気」には、作りものの演出ではない、柔道五輪メダリストという「本物の強さ」の裏付けがあった。そして、人種差別や偏見に屈することなく、己の実力一つで世界最高峰のリングまで這い上がってきた男の「誇り」が宿っていた。



「悪役(ヒール)とは、演じるものではない。己の中にある強さと怒りを、リング上で爆発させる生き様そのものだ」



バッドニュース・アレンが遺したその教訓は、今なお歴史のキャンバスの中で、重々しく、そして眩いばかりの漆黒の光を放ち続けている。



誰にも媚びず、誰とも群れず、ただ己の足でリングに立ち続けた「本物の無法者」。


 

アントニオ猪木の強さを際立たせ、オリンピックの柔道メダリストという本物の実力を持ちながら、エゴを出さずに「極上の悪役」という自分の役割を徹底して遂行したプロフェッショナルな姿勢が、まさにプロレス界の助演男優賞ともいえる名脇役ともいえる。


バッドニュース・アレン――その名は、プロレスというジャンルが存在する限り、史上最も誇り高きヒールとして、永遠に語り継がれていくことだろう。







俺達のプロレスラーDX
第304
回 リングではなく銀幕で輝いたボグゴ・ロードの巨像/ネイサン・ジョーンズ






プロレス界において、「肉体という名の才能」は時に、残酷なまでの呪縛となることがある。

誰しもが羨む2メートルを超える身長、丸太のような腕、歩くだけで大地が揺れるような圧倒的なフレーム。


それを持った者は、リングに上がった瞬間から「未来の絶対王者」としての宿命を背負わされる。業界のプロモーターたちは色めき立ち、ファンはまだ見ぬ怪物の大爆発に胸を躍らせる。


しかし、その巨大すぎる「器」に注ぎ込まれるべき「プロレスラーとしての魂」が、あまりにも繊細で、あまりにも純粋だったとしたら、一体どうなるのだろうか。



男の名は、ネイサン・ジョーンズ。



2000年代初頭、世界最大のプロレス団体WWE(当時WWF)に彗星のごとく現れ、あのアンダーテイカーの「プロテジェ(弟子)」として、世界中のプロレスマニアの視線を釘付けにしたオーストラリア出身の超巨漢である。


 211cm、160kgという、まるでギリシャ神話のタイタンがそのまま現代に蘇ったかのような肉体は、当時のCEOビンス・マクマホンをして「これこそが俺の求めていた究極のプロレスラーだ」と言わしめた。



しかし、彼は数年というあまりにも短いキャリアの中で、メジャーの頂点から突如として姿を消した。プロレスビジネスの過酷さに絶望し、自ら巨万の富と名声をドブに捨てるようにして、リングシューズを脱ぎ捨てたのだ。


「見た目は100点満点の怪物だが、技術と精神面が追いつかなかった未完の大器」


それが彼の一般的な評価である。





ネイサンは戦いの場をリングから「銀幕(映画界)」へと移し、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『トロイ』といったハリウッドの超大作で、唯一無二の凶悪な悪役として大成功を収めることになる。



一度はプロレスの神様に愛されながらも、その愛を拒絶し、自らの居場所を表現の世界に見出した男。 ネイサン・ジョーンズのレスナー人生。「怪物性の正体」とともに深く考察していきたい。




★ボグゴ・ロード刑務所の怪物――武装強盗からストロングマンへの変貌



1969年8月21日、ネイサン・ジョーンズはオーストラリア・クイーンズランド州のゴールドコーストで生まれた。



その恵まれた体躯は少年時代から目立っていたが、彼の若き日は決して光に満ちたものではなかった。


1980年代後半、血気盛んで社会への行き場を失っていた若きネイサンは、武装強盗団の一員として犯罪に手を染めてしまう。オーストラリア史上でも指折りの重犯罪者として指名手配された彼は、1987年、18歳の時に逮捕され、8年の懲役刑を言い渡された。



彼が収監されたのは、オーストラリアで最も警備が厳重で、凶悪犯が集まることで知られるブリスベンの「ボグゴ・ロード刑務所」だった。


 光さえ遮断されるようなコンクリートの壁の中で、彼は己のエネルギーをすべて「肉体の鍛錬」へと注ぎ込むようになる。


刑務所内に置かれた粗末なバーベルを持ち上げ、自らの肉体を極限まで肥大化させていく。気がつけば、彼の体重は150kgを超え、胸囲は一般人の想像を絶するサイズにまで達していた。



1994年、7年間の服役を終えて出所した時、彼はもはやただの元囚人ではなかった。社会復帰を果たした彼が選んだ戦場は、己の純粋なパワーのみを競い合う「ストロングマン・コンテスト(世界最強の男コンテスト)」だった。



「メガ・マン」という異名を与えられたネイサンは、オーストラリア国内のパワーリフティング選手権を次々と制覇。1995年にはストロングマンの世界大会『World Strength Championship』に出場を果たし、世界の強豪たちと互角に渡り合いて優勝。「世界最強の男」となったのだ。


さらに、アームレスリングの世界大会でもその圧倒的な腕力を見せつけ、世界中の格闘・怪力マニアの間で「オーストラリアに、とんでもない怪物がいる」とその名が轟き始める。


最高警備の刑務所という地獄から、己の筋肉だけで這い上がってきた男。その規格外の経歴と肉体に、当時の格闘技界、そしてプロレス界が目を付けないはずがなかった。


★PRIDE.1の洗礼――北尾光司戦がもたらした転機


1990年代後半、格闘技界には「総合格闘技(MMA)」という新たな巨大な地殻変動が巻き起こっていた。その歴史の幕開けとなったのが、1997年10月11日、日本の東京ドームで開催された『PRIDE.1』である。 



ヒクソン・グレイシー vs 高田延彦という、世紀の一戦がメインイベントに組まれたこの歴史的大会の第4試合に、ネイサン・ジョーンズの名があった。 対戦相手は、元大相撲横綱であり、プロレス界の「問題児」としても知られた北尾光司。

 

世界中から集まった「本物の壊し屋」たちの中に、211cmの巨体を誇るストロングマンとしてエントリーされたネイサン。しかし、当時の彼は、圧倒的なパワーこそあれど、総合格闘技の技術――特にグラウンドでの関節術やポジションの概念をほとんど持ち合わせていなかった。



ゴングと同時に、ネイサンはその巨体から繰り出す粗削りなパンチで前へ出たものの、相撲仕込みの腰の重さを持つ北尾に組み付かれ、簡単にテイクダウンを許してしまう。


グラウンドで上を奪われたネイサンは、巨体ゆえのスタミナのロスもあり、北尾の技術に対応することができなかった。 最後は、北尾が極めた渾身の「アームロック」の前に、たまらずギブアップ。



わずか2分14秒、ネイサンの総合格闘技への挑戦は、ほろ苦い敗戦という形で幕を閉じた。



しかし、この日本での敗戦は、彼にとって決して無駄なものではなかった。


この時、プロレスと格闘技の狭間で揺れていた日本のリングの熱気、そして「魅せる闘い」の奥深さに触れたネイサンは、本格的にプロレスラーとしての道を歩む決意を固めることになる。



ネイサンが門を叩いたのは、米カリフォルニアに拠点を置くインディー団体UPWの育成機関『アルティメット・ユニバーシティ』。のちにWWEの歴史を塗り替える数々のトップスターを輩出した、伝説の梁山泊(りょうざんぱく)である。


そこにいたのは、若き日のジョン・シナであり、サモア・ジョーだった。


すでに「世界最強の男」として知名度があったネイサンだが、道場では一人の新人に過ぎない。受け身の取り方、ロープワーク、プロレスラーとしての魅せ方——。


それまでの「力任せに物を壊す」だけの荒削りなパワーを、リング上の「凶器」へと昇華させるための過酷な基礎練習が、来る日も来る日も繰り返された。


体格が大きすぎるがゆえに、自重をコントロールする受け身一つをとっても常人の何倍もの衝撃が肉体を襲う。


それでも、北尾戦での敗北を知るネイサンは、黙々とマットに背中を打ち付け続けた。


肉体の檻から解き放たれた「怪物」の完成約3年間に及ぶ地道な潜伏期間とハードワークは、彼の肉体と精神を完全に変貌させた。


単なる「デカいだけのストロングマン」は、リングを縦横無尽に暴れ回る「プロレス界のモンスター」へと脱皮を遂げたのである。



2001年4月、UPWのリングで満を持してプロレスラーとしての再デビューを果たすと、成長のスピードは加速していく。



2001年、当時WWF(現WWE)の対抗馬として世界ツアーを敢行していた新興団体「WWA」に参戦。大物レスラーたちと肌を合わせる中で、プロレスラーとしての基本、そして自らの肉体をどう表現すれば観客が熱狂するのかを学んでいった。


2002年4月には、シドニーで開催された大会でWWA世界ヘビー級王座を獲得している。




★ZERO-ONE参戦!カオスな戦場に現れた「動く巨大要塞」


2002年、日本のプロレス界は熱狂と混沌の渦中にあった。その中心にいたのが、橋本真也が旗揚げした新興団体『プロレスリングZERO-ONE(ゼロワン)』である。


かつて新日本プロレスを追われた破壊王が創り出したそのリングは、世界中から一癖も二癖もある猛者たちが集まる「外国人天国」であり、予測不能な刺激に満ちていた。そこへ突如として降臨したのが、211cm、160kgの圧倒的な巨躯を誇るネイサン・ジョーンズだった。


彼が相方に選んだのは、195cmの巨漢であり元NFLプレーヤーのジョン・ヘンデルリッチ。


211cmのネイサンと並んだその姿は、リングをまたぐだけで異様な圧迫感を放つ「動く巨大要塞」そのものだった。


彼らの暴力的なパワーが最高潮に達したのが、2002年10月20日の後楽園ホール大会だった。ターゲットは、ゼロワンのタッグ戦線を牽引していた大谷晋二郎&田中将斗の名コンビ(炎武連夢)。


ネイサンとヘンデルリッチは、その圧倒的な質量と荒削りな破壊力で日本の実力者たちをねじ伏せ、見事にNWAインターコンチネンタルタッグ王座(第3代)を強奪してみせたのである。


しかし、ゼロワンのリングは甘くはなかった。ベルトを奪取した異国のモンスターたちの前に、すぐさま最強の刺客が立ちふさがる。


団体の象徴である橋本真也と、暴走柔道王・小川直也の最強コンビ「OH砲」だった。


同年10月26日、大阪府立臨海スポーツセンター。ベルトをかけた防衛戦で、ネイサンたちはOH砲の凄まじい怒涛の攻めに直面する。橋本の重爆キックと小川のキレ味鋭い払い腰。最後は小川の前にネイサンがピンフォールを許し、わずか6日間で王座を明け渡す格好となった。


しかし、この短くも強烈な激突こそが、ネイサンの運命を決定づけた。


大谷らからベルトを奪い、橋本や小川といった日本の最高峰と肉体をぶつけ合って堂々と渡り合った実績は、海の向こうのプロレス帝国「WWE」のボス、ビンス・マクマホンの目に留まる。


ゼロワンでの大暴れをステップに、ネイサンとヘンデルリッチの2人は揃ってWWEへの栄転切符を掴み取ることになる。日本のファンに「絶望的なデカさ」を刻みつけたゼロワン時代は、彼が世界的なモンスターへと飛躍するための、最も濃密なプロローグだった。




★WWEという名の巨大な実験室――レッスルマニアの幻影



「彼を、次のWWEの象徴にする」



ビンス・マクマホンの命を受け、WWEはネイサン・ジョーンズを獲得するため、破格の条件を提示した。


2002年、WWEと正式契約を結んだネイサンは、傘下の育成団体であるOVW(オハイオ・バレー・レスリング)へ送られ、メジャー仕様のプロレスを徹底的に叩き込まれる。



そして2003年初頭、WWEの地上波番組『SmackDown!』において、彼のデビューに向けた大規模なプロモーションが始まった。 


かつて彼が服役していたボグゴ・ロード刑務所の不気味な映像とともに、ネイサンが自らの暗い過去を告白する。 


「俺は檻の中で、己の肉体を武器に変えた。今度は、WWEがお前たちの刑務所になる番だ」 



そのリアルで、かつ圧倒的な説得力を持つキャラクターに、世界中のファンは震え上がった。



WWEがネイサンのために用意したデビューのシナリオは、これ以上ないほど破格のものだった。


 当時、団体の絶対的な重鎮であり、生ける伝説であったアンダーテイカー。そのテイカーが、新人のネイサン・ジョーンズの才能を認め、自らの「弟子」として引き連れるというストーリーラインが組まれたのだ。



テイカーの背後に立つ、テイカーよりも頭一つ大きいネイサンの姿は、それだけで圧倒的なビジュアルを誇っていた。


 そして、そのプッシュは、同年3月30日にシアトルのセーフコ・フィールドで開催された、プロレス界最大の祭典『レッスルマニアXIX(19)』で最高潮に達するはずだった。



当初の予定では、「アンダーテイカー&ネイサン・ジョーンズ vs ビッグ・ショー&A-トレイン」という、超巨漢4人による大迫力のタッグマッチが組まれていた。


新人であるネイサンが、テイカーのピンチを救い、大舞台で華々しいレッスルマニアデビューを飾る――誰もがそのシナリオを疑わなかった。



しかし、ここで「メジャーの現実」がネイサンに重くのしかかる。 大会直前のハウスショーや練習において、ネイサンのプロレスの技術、特に大型レスラーとしてのポジショニングや、相手の技を受ける受身の技術が、レッスルマニアのメイン級の試合を成立させるレベルにまだ達していないと、首脳陣から判断されてしまったのだ。


もし生放送の大舞台で重大なミスを犯せば、彼のキャリアは完全に終わってしまう。



苦渋の決断として、WWEは大会直前のバックステージで、ネイサンがビッグ・ショーたちに襲撃されて負傷退場するというアングルを急遽挿入。試合はテイカーの「1対2のハンディキャップマッチ」へと変更された。



試合終盤、ネイサンはテイカーの危機を救うために花道から乱入。ビッグ・ショーに強烈なビッグブーツを叩き込み、テイカーの勝利(レッスルマニア連勝記録の更新)をアシストしたものの、彼がリング上で本格的なプロレスを披露する機会は失われてしまった。



この「レッスルマニアでの急な変更」は、ネイサンのプライドに、そして彼の繊細な精神に、深い傷を残すこととなった。


★あまりにも早すぎた別れ――ビジネスへの拒絶と電撃退職


レッスルマニア後、WWEはネイサンの軌道修正を試みた。 


アンダーテイカーのもとを離れた彼は、2003年秋、当時最盛期を迎えていた「怪物」ブロック・レスナー率いるヒール軍団「チーム・レスナー」に加入。


同年11月のサバイバー・シリーズでは、レスナーやビッグ・ショー、マット・モーガンらとともに、チーム・アングルとの歴史的な巨漢サバイバルマッチに出場した。



「コロッサス(巨像)」の異名通り、リング上で相手を力任せに投げ飛ばし、咆哮するネイサンの姿は、ヒールとしての凄みを増していた。ビンス・マクマホンは、彼をいずれレスナーやテイカーと世界王座を賭けて戦わせる青写真を、依然として捨てていなかった。



しかし、2003年12月、WWEのファンを震撼させる衝撃的なニュースが世界を駆け巡る。 


「ネイサン・ジョーンズ、WWEを電撃退職。プロレス界からの引退を表明」



アジア・オーストラリアツアーの移動の最中、彼は突如として荷物をまとめ、誰にも告げずに団体を去ってしまったのだ。


なぜ、彼は世界の頂点を目前にしながら、すべてを投げ出してしまったのか。 後年、彼が語ったその理由は、あまりにも純粋で、かつプロレスというビジネスの「闇」を浮き彫りにするものだった。


「WWEでの生活は、年中無休の監獄のようだった。毎日毎日、終わりのない移動とホテルの往復。プロレスのために自分の人生のすべてを犠牲にしなければならない。そして何よりも、バックステージにおけるドロドロとした政治、嫉妬、人間関係の不条理さに、俺の魂が耐えられなかったんだ」


かつて最高警備の刑務所を生き抜いたネイサンだったが、WWEという名の「プロレスの監獄」のストレスは、彼の繊細な心を限界まで摩耗させていた。彼は、大金を稼ぐことよりも、自らの「自由」と「精神の平穏」を選んだのだ。


ビンス・マクマホンが夢見た「究極の巨像」は、メジャーのシステムに綺麗に収まることを拒絶し、忽然とリングの闇へと消え去っていった。


★銀幕という名の真の聖地――『マッドマックス』での開花



プロレスのリングを去ったネイサンだったが、その規格外の肉体という「神からのギフト」は、彼をただの元レスラーで終わらせることはなかった。  


彼が次に見出した表現の場、それこそが「映画(シネマ)」の世界だった。 



映画界において、211cm、160kgのビルドアップされた肉体を持つ男は、特殊効果(CG)を使わずとも、それだけで画面を圧倒する「最高のスパイス」となる。



2004年、ハリウッドの超大作『トロイ』において、ブラッド・ピット演じるアキレスと冒頭で一騎打ちを行う巨漢戦士ボアグリアス役に抜擢されたネイサン。わずかな出演時間ながら、アキレスの圧倒的な強さを引き立てる「最強の敵」として、世界中の映画ファンにその存在を強烈に印象付けた。



さらに2005年には、タイのアクション映画『トム・ヤム・クン!』に出演。


主演のトニー・ジャーと、CG・ワイヤーなしのガチンコ格闘アクションを展開。


小さなトニー・ジャーの超絶アクロバットなキックをその巨体で受け止め、パワーで圧倒するネイサンの姿は、「これぞ映画における最強の怪獣だ」とアクション映画マニアを狂喜乱舞させた。


そして、彼の映画俳優としてのキャリアが永遠の神話となったのが、2015年に公開され、キネマ旬報をはじめ世界中の映画賞を総なめにした世紀の傑作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』である。



ネイサンが演じたのは、荒廃した世界を支配する独裁者イモータン・ジョーの息子であり、狂気的な怪力を誇る「リクタス・エレクトス」。



 巨大な火器を振り回し、荒野を爆走する車の上で雄叫びを上げる彼の姿は、まさに『マッドマックス』の世界観そのものだった。かつてWWEのリングで表現しようとして出来なかった「純粋な狂気」と「圧倒的な怪物性」が、ジョージ・ミラー監督のメガホンのもと、銀幕の中で完璧に開花した瞬間だった。



プロレスのリングでは「技術不足」と叩かれたその肉体が、映画のスクリーンの中では「誰にも真真似のできない唯一無二の芸術」として評価されたのだ。



その後も、インド映画の超大作やハリウッドのアクション映画で、彼は「世界最強の悪役」としてコンスタントに活躍を続け、50代を迎えた2026年現在も、その圧倒的なビジュアルを維持しながら、世界中の映画界からオファーが絶えない「名バイプレイヤー」としての地位を確立している。



★リングを壊し、世界を震撼させた「規格外のロマン」


プロレスラーの成功とは、一体何によって測られるべきなのだろうか。


チャンピオンベルトを何回巻いたか。レッスルマニアのメインイベントに何回立ったか。


あるいは、何十年間もリングにしがみつき、ファンに元気を与え続けたか。 


もし、その基準だけで語るならば、ネイサン・ジョーンズという男のプロレス人生は、未完のまま終わった「失敗作」と言われてしまうかもしれない。


しかし、私はあえて声を大にして言いたい。


ネイサン・ジョーンズは、プロレスというジャンルが持つ「最大のロマン(怪物性)」を、最も純粋な形で私たちに見せてくれた、記憶に残り続ける名レスラーだったのではないか、と。


彼は、プロレスのビジネスとしての理不尽さや、終わりのない過酷なスケジュールに魂を売ることを拒絶した。自らの肉体の価値を誰よりも理解していたからこそ、彼は「プロレスラー」という狭い枠に囚われることなく、世界中の人々を興奮させる「表現者(アクター)」へと進化を遂げたのだ。


かつて、日本の東京ドームで北尾光司に腕を極められ、シアトルの大スタジアムでテイカーの影に隠れていたあの巨像は、今、ハリウッドのスクリーンの中で、永遠の命を得て暴れ回っている。



彼が映画の中で見せるあの狂気に満ちた咆哮、そして画面を破壊せんばかりの圧倒的なパワーの根底には、かつてボクゴ・ロードの刑務所で培われ、WWEのリングで不完全燃焼に終わった、あの「闘争の本能」が今もなお脈々と息づいているに違いない。


プロレスを拒絶し、銀幕へと舞台を移し、そこで真の王となった規格外の怪物。 ネイサン・ジョーンズという男が、短い時間ながらも世界のリングに遺したあの圧倒的な「巨像の記憶」を、私たちはこれからも、映画を見るたびに熱く思い出すはずである。














俺達のプロレスラーDX
第303
回  未完の大巨人が描いた人生の設計図/マット・モーガン








プロレスという名の広大な闘技場において、「7フィート(213cm)」という数字は、神が与えた最大のギフトであり、同時にレスラーに生涯付きまとう過酷な「呪縛」でもある。



ファンやプロモーターは、その圧倒的なスケール感を目にした瞬間、否応なしに「第二のアンドレ・ザ・ジャイアント」や「ネオ・ハルク・ホーガン」、あるいは「現代に蘇ったブルーザー・ブロディ」といった、歴史に名を残すレジェンドたちの幻影を重ね合わせてしまう。


しかし、その巨大すぎる肉体は、時としてリング上での敏捷性を奪い、安易な「動けないモンスターギミック」として消費され、大成せぬままマット界の闇へと消えていく。


そんな「未完の大器」と呼ばれた巨漢たちを、我々はこれまでに幾度となく目撃してきた。



だが、213cm、150kgのスーパーヘビー級の肉体を持ちながら、トップロープを軽々と飛び越える驚異的な運動能力を誇り、WWE、ハッスル、全日本プロレス、TNA、そして新日本プロレスという、日米の主要団体を股に掛けて闘い抜いた男がいる。



男の名は、マット・モーガン。



ある時はWWEの若き巨大ヒールとしてトップ戦線に引き上げられ、またある時は日本の混沌としたエンターテインメントの渦中で未知なるマスクマンに変身し、そしてアメリカの第2極団体TNAにおいては、自らを「ザ・ブループリント(設計図、理想像)」と称して、近代プロレスにおける「動ける大巨人」の完成形を提示してみせた。



カーボン・フットプリント(顔面への強烈なジャンピング・ビッグブーツ)とヘルベーター(相手をチョークスラムの体勢で高く持ち上げ、空中で変型パワースラムへと移行して叩きつける豪快な技。WWE時代の一時期は「アトラス・ボム」とも呼ばれていた)、F5(ブロック・レスナーの十八番、旋回式フェースバスター)は強烈な必殺技だった。




しかし、彼の本当の凄さは、四角いリングの中だけにとどまらない。


プロレスの現役を退いた後、彼はスーツを身にまとい、自らの足で新たな戦場へと踏み出した。そして、フロリダ州の都市で「市長」に選出されるという、プロレスラーの枠を遥かに超えた「第二の人生の設計図」を自らの手で描き、完成させてみせたのだ。



今回は、数々の挫折と変身を繰り返しながらも、自らのポテンシャルを信じ、人生を完璧にコントロールし続けた「大巨人」マット・モーガンの半生を考察していきたい。



★コートの支配者から四角いジャングルへ〜タフイナフという運命の扉〜



マシュー・トーマス・モーガンは、1976年9月10日、アメリカ合衆国コネチカット州フェアフィールドに生を受けた。



生まれた時から周囲よりも頭一つ分以上大きかったモーガンが、学生時代にバスケットボールの世界で頭角を現したのは、必然の成り行きであった。フェアフィールド高校を卒業後、彼はNCAA(全米大学体育協会)ディビジョン1に属するモンマス大学に進学。ポジションは、チームの要であるセンターを務めた。



彼のバスケセンスは本物だった。1996年にはチームをNCAAトーナメント出場へと導く原動力となり、大学バスケ界でその名を轟かせた。大学卒業後、モーガンは世界最高峰の舞台であるNBAを目指し、インディアナ・ペイサーズとトロント・ラプターズのトライアウト(入団テスト)を受ける。


しかし、プロの壁は厚く、あと一歩のところで最高峰のコートに立つ夢は潰えた。



だが、天は彼を見捨てなかった。NBAの夢に破れた25歳のモーガンに、もう一つの「巨大な戦場」が門戸を開いたのである。



2002年、モーガンはWWEが企画した新人発掘リアリティ番組『タフイナフ2』に、本名の「マット」名義で応募する。


プロレスの経験は皆無に等しかったが、213cmの身長と、バスケットボールで培われた圧倒的なフットワーク、そして何よりボディビルダー顔負けの研ぎ澄まされた肉体美は、番組の審査員や、WWEの総帥ビンス・マクマホンの目を一瞬で釘付けにした。



結果として、番組内での怪我なども重なり、優勝を飾ることはできず予選落ちという形になったものの、WWEのフロントは彼の持つ「無限のポテンシャル」を無視することができなかった。


番組終了後、WWEはモーガンと即座にディベロップメント契約(練習生契約)を締結。彼はすぐさま、数々のスターを輩出してきたケンタッキー州ルイビルの下部団体「OVW(オハイオ・バレー・レスリング)」へと送り込まれた。


2002年7月24日、モーガンはデビッド・フレアー(リック・フレアーの息子)とタッグを組み、ダグ・バシャム&ダマジャ組を相手にプロレスラーとしての本格デビューを果たす。


同年12月には、BJペインとのタッグチーム「ペインキラーズ」を結成し、ヒールとしての凄みを磨いていった。


当時のOVWは、ジョン・シナ、バティスタ、ランディ・オートン、ブロック・レスナーといった「OVW4人衆」が巣立った直後であり、ネクタイを締めたジム・コルネット監督のもと、次代のメガスター候補としてモーガンに対する期待は、異様なほどに高まっていた。



「俺はバスケのコートで頂点に立てなかった。だが、この四角いジャングルなら、神がくれたこの身体を使って、世界の頂点に立てるはずだ」



若き日のモーガンは、自らの肉体に絶対の自信を持ち、プロレスというビジネスの頂点を見据えていた。しかし、彼を待ち受けていたのは、世界最大のプロレス帝国が持つ、光と影の洗礼であった。


★帝国の迷走と残酷なギミック〜チーム・レスナーからの降格、そして吃音症の悲劇〜


デビューからわずか1年余りが経過した2003年11月、モーガンは早くも一軍の舞台である『SmackDown!』への昇格を果たす。


当時のWWEは、絶対的な若き王者であったブロック・レスナーを中心としたヘビー級のパワー抗争が勃発していた。


モーガンは、レスナーが結成した巨漢ユニット「チーム・レスナー」の最終兵器としてファンの前に姿を現したのである。そのメンバーの顔ぶれは、恐るべきものだった。



ブロック・レスナー(リーダー・当時のWWE王者)

ビッグ・ショー(213cmの大巨人)

Aトレイン(巨漢パワーファイター)

ネイサン・ジョーンズ(オーストラリアのメガ・コロッサス)

マット・モーガン(期待の大型ルーキー)




この、総体重が700kgを遥かに超えるモンスター軍団の一員として、モーガンは秋の祭典『サバイバー・シリーズ2003』の10人タッグマッチに出場。さらに翌2004年1月25日の『ロイヤルランブル2004』では、伝統のランブルマッチにエントリーされ、リング上でその圧倒的な存在感をアピールした。


しかし、当時のモーガンはまだキャリア2年目。レスリングの基礎や、メジャーのリングで観客をコントロールする「間」が圧倒的に不足していた。


ネイサン・ジョーンズの突然の退団なども重なり、ユニットは瓦解。WWEのフロントは「モーガンにはまだ英才教育が必要だ」と判断し、彼を再びOVWへと降格させた。


OVWに戻ったモーガンは、ニック・ディンスモアやイライジャ・バークといった、技術の確かな職人たちと泥にまみれて抗争を展開。2004年後半にはOVW南部ヘビー級王座を2度にわたって獲得し、大巨人としての「プロの技術」を確実に自らのものにしていった。


そして2005年4月、満を持して再び『SmackDown!』への再昇格を果たす。ファンや関係者は、今度こそモーガンがシングルのモンスターとして、シナやバティスタの対角線に立つ男になるだろうと期待した。



しかし、WWEのクリエイティブ・チームが彼に与えたのは、あまりにも残酷で、モーガンのポテンシャルを真っ向から否定するような歪なギミックであった。


「吃音症(どもり)のキャラクター」


213cmの完璧な肉体を持つ男が、マイクを持たされると、自分の名前やセリフをまともに喋ることができず、言葉を詰まらせてしまう。それを見て観客が嘲笑し、激昂したモーガンがリング上で相手をボコボコにするという、コミカルでありながら、一人のアスリートとしての尊厳を傷つけるようなキャラクターだった。


モーガンはこのキャラクターをプロフェッショナルとして演じきろうとした。マイクを向けられた際の見事な「どもり演技」は、彼の器用さを証明するものではあったが、一度ついた「お笑い・色物」のイメージは、彼が本来持っているシリアスな大巨人としての凄みを完全に希薄化させてしまった。



結果として、このキャラクターは長続きせず、WWEのトップ戦線に絡むこともないまま、2005年7月、モーガンはWWEから電撃的に解雇されてしまう。


「あの時の悔しさは、今でも忘れない。俺の身体を見てくれ。俺はピエロになるためにプロレスラーになったんじゃない。本物の闘いを見せるために、ここに来たんだ」



帝国からの理不尽な通告。しかし、この挫折こそが、マット・モーガンという大巨人の「外の世界」への目を向けさせ、新たな旅路へと誘うきっかけとなったのである。


★極東の混沌をサバイブせよ〜ハッスルの「ゴモラ」と全日本RO&Dの戦力外通告〜


WWEを解雇されたモーガンが、その巨大な肉体を引っ提げて上陸したのが、海の向こうの国・日本であった。


当時の日本マット界は、従来のストロングスタイルだけでなく、エンターテインメント要素を前面に押し出した新しいプロレスの形が、ファンの間で爆発的な支持を得ていた。


その象徴が、高田総統率いる「高田モンスター軍」と、それに対抗するハッスル軍の闘いを描いたファイティングオペラ「ハッスル」である。



2005年後半、モーガンは高田モンスター軍の最高顧問であるインリン様(インリン・オブ・ジョイトイ)の「番犬」として、ハッスルのリングに電撃参戦を果たす。


しかも、単なるマット・モーガンとしてではない。同じく元WWEのライバルであり、抜群の動ける身体能力を誇ったマーク・ジンドラック(のちのマルコ・コルレオーネ)を引き連れ、旧約聖書に登場する悪徳の街から名を取った、恐るべきダブル・タワーを結成したのだ。



全身を黒とシルバーを基調とした禍々しいコスチュームで包み、スタッズ付きのマスクを被ってリングに乱入するソドム(ジンドラック)とゴモラ(モーガン)。モーガン扮する「ゴモラ」は、日本のプロレスファンに対し、WWE時代には見せることのなかった驚異的なパフォーマンスを披露した。



213cmの巨体で金村キンタローや田中将斗、黒田哲広といったハードコアの猛者たちをパワーで圧倒。


さらには、当時ハッスルに参戦していた本家・チーム3D(ブラザー・レイ&ディーボン)と、ハッスルスーパータッグ王座を巡って激しい3WAYマッチを展開した。


日本のファンは、コミカルな世界観の中で、圧倒的な「本物のプロレスの迫力」を提示するゴモラの動きに、驚嘆の声を上げた。



ハッスルでの成功に手応えを掴んだモーガンは、続いて日本の伝統ある王道団体、全日本プロレスのリングへと足を踏み入れる。



2006年3月、モーガンは全日本の「Hold Out Tour 2006」に参戦。当時、全日本で爆発的な人気を誇っていたTAKAみちのく率いる外国人ヒールユニット「RO&D(ブキャナン、ディーロ・ブラウン、リカコなど)」に、新たな最終兵器としてメンバー入りを果たす。



彼は全日本の歴史あるシングルリーグ戦『チャンピオン・カーニバル2006』にエントリー。だが、1勝4敗のブロック最下位で終わり、王道のプロレスの奥深さと厳しさを身をもって体感することになる。



しかし、この全日本プロレスでの滞在も、唐突な結末を迎える。 同年5月のシリーズ開幕戦。リング上でマイクを握ったボスのTAKAみちのくから、モーガンに対し、「戦力外通告*が言い渡されたのだ。


ユニットの若返りや方針転換もあったが、モーガンはまたしても、自らの価値を100%発揮し切る前に、日本のメジャー舞台からフェードアウトすることを余儀なくされた。


日本での約1年間にわたる闘いは、モーガンにとって「混沌」そのものであったかもしれない。しかし、日本のファンからの純粋なリスペクトと、ストロングスタイルや王道プロレスが持つ「技術へのこだわり」に触れたことは、彼の中に眠っていた「プロレスラーとしての真のプライド」を完全に目覚めさせることになった。


★TNAでの大覚醒〜「ブループリント」という名の理想の設計図〜


2007年、アメリカへと帰国したマット・モーガンは、当時、WWEの唯一無二の対抗馬として、独自のクリエイティブと豪華なメンバーで勢力を拡大していた団体「TNA」との契約を締結する。



このTNAのリングこそが、マット・モーガンというレスラーの人生における最大の黄金期であり、彼がプロレス界の歴史にその名を刻む決定的な聖地となった。



TNAのフロントは、モーガンの過去の失敗(WWEでの吃音症キャラクターなど)をすべて削ぎ落とし、彼の持つ「素材の素晴らしさ」をストレートに伝えるための精緻なプランを用意した。



当初、モーガンはリングで闘うレスラーではなく、TNAの管理責任者(ディレクター・オブ・オーソリティ)であったジム・コルネットの「バックアップ(公認ボディーガード)」として姿を現した。


高級なブラックスーツに身を包み、コルネットの後ろに微動だにせず佇む213cmの巨体。その圧倒的な威圧感と、知的な佇まいは、かつての「どもる大巨人」の面影を完全に消し去っていた。



そして2008年、モーガンはついにスーツを脱ぎ捨て、待望のリング復帰を果たす。 彼は自らをこう呼び始めた。


「ザ・ブループリント」



ブループリントとは、建築や工業における「設計図」、転じて「人類の理想像」を意味する。 


「見よ、この213cmの体躯を。この厚い胸板を、この動ける脚を。神がプロレスラーを創造しようとした時、その設計図として描いたのが、この俺、マット・モーガンだ」という、究極の自信に満ちあふれたニックネームであった。



この時期のモーガンのファイトは、まさにニックネームに恥じない、完璧なクオリティへと進化を遂げていた。 


巨漢アビスとの、TNAの歴史に残るモンスター同士の壮絶な抗争。お互いの肉体が壊れるほどの激しいぶつかり合いの中で、モーガンは単なる「デカいだけの男」から、観客の感情を爆発させることのできる「真のメインイベンター」へと脱皮した。


さらに、テキサス出身のパワーファイター、ショーン・ヘルナンデスとのタッグを結成すると、その実力は一気に開花。



2010年1月には、TNA世界タッグ王座を奪取する。 のちにヘルナンデスが怪我で戦線離脱した際、モーガンは「俺一人で十分だ」と言い放ち、なんと「一人で2本のタッグベルトを保持して防衛戦を行う」という、前代未聞のワンマン・タッグ王者としての防衛ロードを突き進んだ。この破天荒なエピソードは、当時のTNAファンの間で伝説となっている。



TNAにおいて、クリムゾンとのタッグで2度目の世界タッグ王座を獲得。シングルでも、AJスタイルズ、スティング、ジェフ・ハーディ、カート・アングルといった、マット界の至宝たちと世界ヘビー級王座を巡って幾度となくメインイベントで激突した。彼は名実ともに、アメリカン・プロレス界を代表する「動ける大巨人」としての地位を不動のものにしたのである。


★リングシューズを脱いで〜ネクタイを締めた大巨人の第二の人生、ロングウッド「市長」への転身〜


2014年、マット・モーガンは多くのファンに惜しまれながらも、プロレスの第一線から退くことを決意する(その後、2015年や2017年にTNAのリングにスポット参戦を果たすものの、フルタイムのレスラーとしての活動には終止符を打った)。



彼が30代後半という、レスラーとして最も脂が乗る時期に引退を選んだ最大の理由。


それは、2004年に結婚した最愛の妻ラリッサとの間に生まれた、愛息の存在であった。息子の自閉症という現実に向き合い、父親として、家族としての時間を最優先にするために、年間何百日もツアーに出るレスラーの生活を捨てることを決めたのである。ここにも、彼の「人生の設計図」に対する強い意志が垣間見える。



しかし、リングを去った大巨人が選んだ「次の戦場」は、誰もが予想だにしない場所であった。 彼は、自らが居を構えていたフロリダ州の地方都市、ロングウッドの政治の舞台へと足を踏み入れたのだ。



2017年11月、モーガンはロングウッドの市議会議員(地区4)の選挙に立候補する。


元有名プロレスラーという知名度だけに頼るのではなく、彼はトレードマークだった黒のタイツをスマートなビジネススーツに替え、213cmの巨体を屈めて市民一人ひとりの声に耳を傾け、地域の教育問題やインフラ整備、福祉の充実を訴え続けた。 その誠実な姿勢は市民の心を動かし、見事に当選を果たす。



さらに、彼の政治家としての手腕は、同僚の議員たちからも高く評価されることになる。 2019年5月、市議会の互選により、マット・モーガンはなんと**ロングウッド市の「市長」に就任したのである。  



「かつて俺はリングの上で、ファンを熱狂させるために身体を張ってきた。これからは、ロングウッドの市民たちの生活を守り、彼らの未来をより良くするために、この命を懸けて闘う」



かつてブロック・レスナーの後ろで吼え、ハッスルのリングで暴れ回っていたモンスターが、今や市の行政のトップとして、議事進行のハンマーを叩き、地域社会をリードする存在となった。この驚くべき転身は、日米のプロレスファンだけでなく、アメリカの一般メディアでも大きな話題として取り上げられた。


2022年にも再び市長に選出され、2026年現在の現在にいたるまで、モーガンはロングウッド市の「地区4・市議会議員」として、現職の政治家として精力的に活動を続けている。 


SNSや地域の集会で、白い歯を覗かせながら市民と笑顔で握手を交わす彼の姿には、かつてマット界の濁流に翻弄された「未完の大器」の面影はない。そこにあるのは、地域住民から絶大な信頼を寄せられる、一人の立派な公僕(リーダー)の姿である。



★自らの手で描き、完成させた完璧な「設計図」



マット・モーガンは世界最大の団体から理不尽に解雇されようとも、決して自分自身の価値を見失わなかった。


TNAのリングで「ザ・ブループリント」と名乗ったあの瞬間、彼はプロレス界のあらゆる既存の価値観を飛び越え、「自分自身の理想像」を完璧に具現化してみせたのだ。


そして何より、多くのレスラーが現役引退後の生活に困窮し、あるいは過去の栄光にしがみついて生きる中で、モーガンは「家族を守る」という大義のためにリングを去り、政治家という全く別の分野で「市長」にまで上り詰めた。


213cmの巨体に宿った、繊細で、スマートで、どこまでも実直な魂。 彼は、神が与えた肉体という設計図をベースにしながら、プロレスラーとしての栄光も、その後の社会人としての成功も、すべて「自らの意志と努力」という絵の具で、完璧な人生の設計図へと描き直してみせたのである。



四角いリングを飛び出し、現実の社会という名のより大きなリングで、今も市民のために闘い続ける未完の大巨人。 マット・モーガン。 彼の歩んだ激動と栄光の道のりは、プロレスというジャンルが持つ「人間の可能性の広さ」を、我々にこれ以上ない説得力で教えてくれる。









俺達のプロレスラーDX
第302
回  知性を隠す赤い処刑マシンの「消えない炎」/ケイン【俺達のプロレスラーDX】





プロレスにおける「怪物(モンスター)」とは、一体どのような存在を指すのだろうか。


常人を遥かに凌駕する巨体を誇り、恐怖のギミックを身にまとい、圧倒的なパワーで対峙する者を文字通り噛み砕く。


だが、アメリカンプロレスの歴史を振り返れば、そうした怪物の大半は「一過性の嵐」として消費されてきた。


あまりにも強烈すぎるキャラクターは、観客の目が慣れるとともにその神秘性を失い、団体のストーリーラインの変更とともに、いつの間にか歴史の闇へと消え去っていくのが日常の残酷なサイクルであった。



しかし、もしその「モンスターの宿命」を完全に跳ね除け、四半世紀近くにわたって世界最大団体WWEの最前線に君臨し続け、ある時は世界を恐怖の底に突き落とし、ある時はコミカルなキャラクターでアリーナを爆笑させ、そして最後には誰からもリスペクトされる「生ける伝説」となった男がいるとすれば、私たちはそのプロレス人生をどう称えればいいのだろう。



男の名は、ケイン。 またの名を、「ビッグ・レッド・マシーン(赤い処刑機械)」。


213cm、147kgという、動く山脈のような巨体。顔面を覆う赤と黒の不気味なマスク。リングの四方から一斉に噴き出す地獄の業火。ジ・アンダーテイカーの「異母弟」という、アメプロ史上最も完成されたダーク・ファンタジーの主人公として世界を震撼させた男である。


だが、この怪物の真の凄みは、その異形の姿の裏側に、プロレス界随一と呼ばれる「圧倒的な知性と柔軟性」、そして誰よりも団体を愛し、仲間の引き立て役に徹することを厭わなかった「至高の職人魂」を隠し持っていたことにある。


フルタイムのレスラーを引退し、テネシー州ノックス郡の郡長(メイヤー)として政治の世界で手腕を振るい、WWE名誉殿堂の住人として歴史の神座に収まった現在のマット界において、ケインという存在が遺した足跡は、すべての「大型レスラーの教科書」として燦然と輝いている。





不遇に満ちた売れない前史、1997年の衝撃的なデビュー、マスク剥ぎという最大のギャンブル、「チーム・ヘル・ノー」で見せた新境地、そしてリバタリアン(自由至上主義)としての政治思想――。 今回は、世界を燃え上がらせた「地獄の使者」でありながら、誰よりもプロレスの深淵を理解していた知性の怪物、ケインのあまりにも濃密なプロレス人生を、深く考察していきたい。




★放浪の巨人と暗黒のギミック地獄――グレン・ジェイコブズの爪牙



1967年4月26日、スペインのマドリード。米軍基地に勤務するアメリカ人の両親のもとに、後に世界を震撼させる巨漢、グレン・トーマス・ジェイコブズは生まれた。


ミズーリ州で育った彼は、幼少期からその骨格が周囲とは明らかに異なっていた。大学時代にはバスケットボールとアメリカンフットボールでその類稀なる巨体と身体能力を発揮し、スポーツ特待生として活躍。


しかし、彼の心を本当に捉えていたのは、フットボールのクォーターバックを叩き潰すことではなく、四角いリングの中で観客の感情を爆発させるプロレスの世界だった。



1992年、25歳でプロレスラーとしてデビューを果たしたグレン。だが、彼を待っていたのは、大男ゆえの「キャラクターの迷走」という名の暗黒の泥濘であった。



最初は「アンガス・キング」としてインディー界を這いずり回り、後にテネシーのSMW(スモーキー・マウンテン・レスリング)では、全身を黒いタイツで覆った「クリスマス・クリーチャー」という、お世辞にも洗練されているとは言えない不気味な季節限定ギミックを押し付けられた。


USWAでは「ドゥームズデイ」の名で活動し、その圧倒的なパワーで一部のマニアからは注目されたものの、メジャーへの道は遠く霞んでいた。



1995年、ついに世界最大団体WWF(現WWE)との契約を勝ち取る。


しかし、ビンス・マクマホンがこの213cmの巨漢に用意した最初の舞台は、あまりにも奇妙で、あまりにも残酷なものだった。 


その名も「アイザック・ヤンセム」。マッドサイエンティストならぬ、マッドサイエンティスト風の「狂った歯科医」というギミックである。


黄色く濁った歯を剥き出しにし、不気味な笑みを浮かべながら、対戦相手の口内に指を突っ込むという、コミックリリーフ(お笑い担当)一歩手前の悪役。


グレンはこの馬鹿げたキャラクターを、与えられたプロの仕事として黙々と、そして完璧に演じきった。リング上での動きのキレは、当時のWWFの大型レスラーの中でも群を抜いていたが、いかんせんギミックの限界が彼の出世を阻んだ。


さらに翌1996年、彼にさらなる試練が訪れる。ケビン・ナッシュ(ディーゼル)とスコット・ホール(レーザー・ラモン)がライバル団体WCWへ電撃移籍した際、WWF上層部は観客を皮肉るために「偽ディーゼル」「偽レイザー・ラモン」というキャラクターを登場させた。グレンに与えられたのは、「偽ディーゼル」の役回りであった。



本物のディーゼルのコスチュームを身にまとい、本物のモーションを真似る。会場からは容赦ない「偽物(フェイク)!」の大ブーイングが飛び交う。プロレスラーとしてのプライドを粉々に打ち砕かれかねないこの屈辱的な状況にあっても、グレンは一切の不満を漏らさず、リング上で黙々とディーゼルの技を繰り出し続けた。



「どんなクソみたいなギミックであっても、リング上で完璧な仕事をすれば、いつか必ず本物のチャンスが来る」



その圧倒的な忍耐力と、巨体に似合わぬ確かなレスリング技術。バックステージで誰一人として悪口を言わないその誠実な人柄を、WWFのクリエイティブ・チーム、そして「大ボス」ビンス・マクマホンは見逃していなかった。 


1997年、WWFの歴史を塗り替える壮大なダーク・ファンタジーの主役として、グレン・ジェイコブズに「地獄の鍵」が手渡されることになる。


★1997年10月5日、地獄の扉が開いた日――赤い処刑マシンの神話


1997年、WWFのリングでは、怪奇派の頂点であるジ・アンダーテイカーと、その元マネージャーであるポール・ベアラーとの間で、恐るべき「過去の秘密」を巡る抗争が展開されていた。 


ベアラーは、アンダーテイカーが幼少期に自らの実家に火を放ち、両親を焼き殺したという衝撃的な過去を暴露。そして、その火災によって全身に大火傷を負いながらも、奇跡的に生き延びたアンダーテイカーの異母弟が存在することを告げた。 


その弟の名こそが、「ケイン」であった。


数ヶ月に及ぶ壮大な前振りの後、その瞬間は訪れる。 1997年10月5日、ミズーリ州セントルイスで開催されたPPV『Badd Blood: In Your House』。 アンダーテイカーとショーン・マイケルズによる、プロレス史上初の「ヘル・イン・ア・セル(地獄の細胞檻)」マッチ。


凄絶な死闘の末、満身創痍のアンダーテイカーが勝利を収めようとしたその時、アリーナの照明が突如として漆黒に染まり、不気味なオルガンの音色とともに、会場が血のような赤色に染まった。

ポール・ベアラーに率いられ、花道を進んでくる巨大な影。 赤と黒の禍々しいマスク。


右腕だけを露出した非対称のコスチューム。その動く山脈のような男が檻の頑丈な扉の前に立つと、信じられないことに、素手で鉄製のチェーンを力任せに引き千切り、檻の内部へと侵入したのだ。


リング上で愕然と立ち尽くす、兄・アンダーテイカー。 ケインは兄の目の前に立つと、炎を起こすポーズとともに両腕を振り下ろした。その瞬間、リングの四方のコーナーポストから、激しい爆音とともに本物の業火が噴き上がった。 


言葉を失う兄の髪を掴み、ケインは兄の代名詞である「トゥームストーン・パイルドライバー」を完璧な形で炸裂させた。


ショーン・マイケルズが這いつくばってカバーし、カウント3。アンダーテイカーは実の弟の裏切りによって敗北を喫した。



この「ケインのデビュー劇」は、モダン・プロレスの歴史において、今なお「史上最高のデビューシーン」として語り継がれている。 グレン・ジェイコブズという放浪の巨人が、ついに自らの肉体と魂に完璧にフィットする「終着駅」を見つけた瞬間であった。



ここから、アンダーテイカーとケインによる、果てなき「兄弟抗争」が幕を開ける。


「実の弟とは戦えない」と拒絶する兄に対し、ケインは容赦ない襲撃を繰り返し、時には兄を棺桶に入れて火を放つという、文字通り地獄の業火のような非道を見せた。 1998年の『WrestleMania XIV(14)』での兄弟初対決では、アンダーテイカーのツームストン・パイルドライバーを2度までもカウント2でキックアウトし、3度目の猛撃でようやく沈むという、怪物としての圧倒的な格付けを完了。


さらに、彼らの関係は単なる敵対にとどまらなかった。時に憎み合い、時に血の絆によって結託する彼らは、タッグチーム「破壊兄弟」を結成。2人の巨漢が並び立ち、同時に右手を突き上げて対戦相手をマットへ叩き落とすダブル・チョークスラムの破壊力は、アティチュード路線に沸く。


WWFのタッグ戦線を完全に恐怖で支配した。ケインは、アンダーテイカーという偉大な太陽の横に並び立つ、決して消えることのない「最強の影」となったのである。




ケインというレスラーの凄みを技術論の観点から分析するとき、最も驚くべきは、その213cm、147kgという規格外の巨体を持ちながら、リング上でのミスが極めて少なく、対戦相手を怪我させない「世界最高峰の安全設計(セーフティ)」に尽きる。



巨漢レスラーの多くは、その自重とパワーゆえに、技のコントロールを誤れば相手の首や腰を破壊してしまう危険性を常に孕んでいる。しかし、ケインのプロレスにおいて、そうした事故はほとんど起きなかった。


彼の代名詞である「チョークスラム(のど輪落とし)」。 相手の喉元を右手で掴み、左手で相手のタイツを引き上げて宙へ高く掲げる。ケインのチョークスラムの美しさは、その「滞空時間の長さ」と「落とす瞬間のコントロール」にある。


相手をただ力任せに叩きつけるのではなく、自らの巨大な体躯で相手の落下軌道を保護し、キャンバスへ最も安全かつ、最も派手な音が鳴る角度でリリースする。受ける側のレスラーからすれば、ケインのチョークスラムほど「高く舞い上がり、安心して身を委ねられる技はない」と絶賛されるほどの職人技であった。


さらに、彼の隠れた名技として挙げられるのが、トップロープからの「フライング・クローズライン(ダイビング・ラリアット)」である。


 2メートルを超える怪物が、コーナーの最上段に立ち、まるで若手ジュニアヘビー級レスラーのように美しい放物線を描いて宙を舞い、相手の胸元を打ち抜く。


その跳躍力と着地のバランス感覚は、グレン・ジェイコブズがいかに基礎体力の塊であり、自らの肉体を極限までコントロールできていたかの証明であった。


兄・アンダーテイカーから受け継いだ「ツームストン・パイルドライバー」にしてもそうだ。相手の頭部がキャンバスに激突する瞬間、自らの膝を的確にマットへ着地させ、相手の頭部とマットの間に数センチの安全な空間を必ず確保する。


この「圧倒的な破壊力と、完璧な安全性の両立」があるからこそ、ストーンコールド・スティーブ・オースチン、ザ・ロック、トリプルH、ミック・フォーリー(マンカインド)といった当時のトップスターたちは、何の躊躇もなく自らの肉体をケインに預け、極上のドラマを紡ぐことができたのだ。ケインは、メジャーの最前線を走るスターたちにとって、最も信頼できる「究極の対戦相手(ワークホース)」であった。


★仮面を脱いだ怪物と、狂気のディープ・ナラティブ


プロレスのキャラクタービジネスにおいて、マスクマンがそのマスクを脱ぐという行為は、一刃の諸刃の剣である。素顔を晒すことで神秘性が失われ、キャラクターの寿命が尽きてしまうケースは枚挙にいとまがない。


2003年6月23日、マディソン・スクエア・ガーデンで開催された『RAW』。 


ケインはトリプルHとの世界ヘビー級王座戦に敗れ、当時のストーリー上の公約として、ついにその仮面を脱ぐことを強制される。 


世界中のファンが息を呑んで見つめる中、ゆっくりとマスクが剥ぎ取られた。そこに現れたのは、大火傷の痕ではなく、乱れた髪と、どこか精神の均衡を失った男の「本物の狂気の素顔」であった。



ここから、ケインのキャラクターは「ダーク・ファンタジーの怪物」から、「現実世界に潜むサイコパス」へと見事なシフトチェンジを果たす。 


マスクを失ったことで自らの醜悪さと孤独を爆発させたケインは、実況アナウンサーのジム・ロスに火を放ち、当時のGMであったエリック・ビショフをステージから投げ落とし、さらには団体の最高権力者であるリンダ・マクマホンにまでツームストン・パイルドライバーを炸裂させるという、WWEの歴史上最も制御不能な「暴走モンスター」へと変貌した。



この素顔時代のケインの何が恐ろしかったかと言えば、グレン・ジェイコブズの「演技力の深さ(ナラティブ分析)」である。


 彼はただ暴れるだけでなく、自らの内に秘められた「愛されたかった少年」の歪んだ精神性を、その表情と眼光だけで表現してみせた。


映画『SEE NO EVIL(ネイビーシールズ:ローグ・ネイションのスタッフが手掛けたWWE映画)』に主演し、猟奇殺人鬼ジェイコブ・グッドナイト役を怪演したことも、彼のこの時期のサイコパス・キャラクターの説得力をさらに補強した。



しかし、この狂気の裏側で、ケインは常に団体のビジネスを最優先に考えていた。 若きスターたちが台頭してくれば、自らが喜んで悪役となり、彼らの引き立て役に回った。


エッジ、ジョン・シナ、ランディ・オートン、そしてバティスタ。2000年代のWWEを引っ張ったメガスターたちは全員、この素顔になったケインの「底なしの恐怖」を乗り越えることで、真のメインイベントの住人へと成長していったのだ。


自らの格を落とすことなく、相手の価値を最大限に高める。これこそが、グレン・ジェイコブズという男が持つ、プロレスラーとしての最高のインテリジェンスであった。


★チーム・ヘル・ノーと、変幻自在の職人魂――抱腹絶倒の「自己超越」  




2010年代に入ると、ケインのキャリアはさらなる成熟期を迎える。 2010年、PPV『Money in the Bank』で世界ヘビー級王座を獲得し、長期政権を築いていたレイ・ミステリオをわずか数分で葬って王座を奪取。その後、兄・アンダーテイカーとの「最後の兄弟抗争」を制し、再び世界の頂点へと返り咲いた。



だが、彼の四半世紀に及ぶキャリアの中で、最もファンの記憶に残り、彼の人間的魅力を爆発させたのは、2012年に結成された、あのダニエル・ブライアン(現ブライアン・ダニエルソン)との奇妙な名コンビ「チーム・ヘル・ノー」の時代であろう。



当時、生意気なヒールとして観客のヘイトを集めていたブライアンと、ベテランの怪物として恐れられていたケイン。


2人は度重なる抗争の末、当時のGMから「アンガーマネジメント(怒り抑制)セラピー」の受講を命じられる。 


白髪のセラピストの前に、213センチの巨漢の怪物と、小柄な髭面の青年が並んで座り、互いの不満をぶちまけるというコントのようなセグメント。ケインは自らの過去を振り返り、



「私はこれまで、実の兄に火を放ち、アナウンサーを焼き、人を奈落に突き落としてきた…」と、大真面目な顔でサイコパスな経歴を告白し、会場を大爆笑させた。



セラピーの成果(?)として、2人は反目し合いながらもタッグを結成。試合中にどちらがタッチするかで揉め合い、勝利した後も「俺がチャンピオンだ!」「いや、俺こそがチャンピオンだ!」とベルトを突き合わせながらハグをするその姿は、瞬く間にWWEで最も愛されるベビーフェイス・コンビとなった。



この時期のケインのプレイの幅広さは、全アメプロ関係者を唸らせた。 かつて世界を恐怖のどん底に陥れた「赤い処刑マシン」が、小柄なブライアンの引き立て役に完璧に徹し、コミカルな演技で観客の心を掴みながらも、いざゴングが鳴れば圧倒的なパワーでリングを一掃する。


 この「チーム・ヘル・ノー」の大ヒットによって、ダニエル・ブライアンは後に「YES! ムーブメント」を起こすための大衆的ベースを獲得した。つまり、ブライアンを真のトップスターへと押し上げた影の立役者は、他でもない、このベテランの怪物ケインだったのだ。



その後も、スーツを身にまとって会社の権力側に魂を売った「コーポレート・ケイン」として活動するなど、時代の要求に応じて自らのスタイルをカメレオンのように変化させ続けたグレン。


彼は、ビンス・マクマホンから「困ったときはケインを投入しろ。あいつならどんな役割でも100%以上の結果を出す」と絶大な信頼を寄せられる、WWEの歴史上最も貴重な「万能の兵器」となったのである。


★政治家グレン・ジェイコブズ――リバタリアニズムの知性


プロレスのリングを降りたとき、多くのレスラーは過去の栄光にすがり、あるいは肉体の代償に苦しむ日々を送る。しかし、グレン・ジェイコブズという男の物語には、さらなる驚くべき「第二幕」が用意されていた。



彼はプロレス界きての「読書家」であり、経済学や政治学に極めて造詣が深いインテリジェンスの持ち主としてバックステージで知られていた。


特に、個人の自由を最優先し、政府の介入を最小限に抑えるべきだとする「リバタリアニズム(自由至上主義)」の熱烈な支持者であり、本名名義で政治ブログを執筆し、経済番組にコメンテーターとして出演することすらあった。



2018年、彼は大きな決断を下す。テネシー州ノックス郡の郡長(メイヤー)選挙に、共和党候補として出馬したのだ。


 対立候補たちは「プロレスの怪物のキャラクター」を揶揄し、彼をただの筋肉バカとして扱おうとした。


しかし、グレンはスーツに身を包み、洗練された経済理論と言語表現、そして地域住民の声に耳を傾ける実直な姿勢で選挙戦を圧倒。


見事に当選を果たし、ホンモノの「首長」となったのである。


2022年にも高い支持率を背景に見事再選を果たし、政治の世界での実績を着実に積み重ねてきた彼。2021年には、その偉大なプロレスキャリアを称え、兄・アンダーテイカーからのサプライズ発表という最高の演出のもと、WWE名誉殿堂入りを果たした。



フルタイムのリングから離れて時間が経過した、2026年現在のマット界。 


現在のグレン・ジェイコブズは、テネシー州の行政のトップとしての激務をこなしながら、時折、WWEの記念興行やチャリティイベントにその元気な姿を見せている。213cmの身体は今もなお頑健であり、スーツを着たその佇まいは、リング上の怪物時代とは異なる「気高き威厳」に満ちあふれている。



現在のプロレス界において、多くの大型レスラーたちが「第二のケイン」を目指しては、そのキャラクターの重圧に潰されていく。


なぜなら、彼らはケインの「仮面」と「炎」の派手さだけを真似ようとし、その下にあったグレン・ジェイコブズという男の「忍耐」と「知性」、そして「滅私奉公の精神」の本質に気づいていないからだ。



かつて暗黒の歯科医キャラクターを与えられても腐らず、偽物のディーゼルとしてブーイングを浴びてもリングを捨てず、ただひたすらに牙を磨き続けたあの5年間の前史があったからこそ、彼は「ケイン」という不滅の神話を手に入れ、それを四半世紀にわたって維持することができたのである。


★業火の彼方に消えた、最も気高き怪物の背中


プロレスラーの本当の「偉大さ」とは、巻いたベルトの数や、勝率の高さだけで測れるものではない。 そのレスラーが、どれだけジャンルに対して忠実であり、どれだけ多くの仲間たちを輝かせ、そしてどれだけ観客の記憶に「消えない炎」を灯すことができたか。それこそが、真のレジェンドの証明である。

 

ケイン――赤い処刑マシン。 圧倒的な知性を持ちながら、その特性をリング上では隠してきた彼は、地獄の使者という最も過激なキャラクターを生きながら、その実、誰よりもプロレスの本質を愛し、守り続けた、マット界の「気高き守護神」であった。



45歳を超え、50代を過ぎ、そして政治家としての地位を確立した今もなお、世界中のファンがアリーナの照明が赤く染まる瞬間を夢見ている。


オルガンの音が鳴り響き、四方から炎が噴き上がるあの歓喜の記憶は、私たちがプロレスという名の至高のエンターテインメントを愛し続ける限り、1ミリも色褪せることなく、歴史のキャンバスの中で永遠に、激しく燃え盛り続けるのだ。