俺達のプロレスラーDX
第311回 欧州最高のレスラーが紡ぐ魂の伝承/マーティ・ジョーンズ【俺達のプロレスラーDX】
「プロレスラーにとって、最も重要な『五感』とは何だろうか?」
強靭な肉体を躍動させるための触覚。観客の大歓声を浴びるための聴覚。試合の流れを嗅ぎ分けるための嗅覚。 だが、対峙する相手の僅かな重心のブレを見極め、次の一手を瞬時に見出すためには、何よりも「視覚(眼)」が必要不可欠であるはずだ。
四方八方から飛び交う技の数々。超高速で展開される空中戦、ミリ単位のコントロールが要求されるスープレックスの攻防。
もし、その「片方の眼」の光を、幼い頃に完全に失ってしまったとしたら――。
多くの者は、格闘のリングに上がることすら諦めるだろう。いや、それが常識的な判断というものだ。
だが、その過酷極まりない運命の悪戯を、自らの肉体に宿る「本物の格闘技術」と、不屈の魂でねじ伏せた一人の男がいた。
彼の名は、マーティ・ジョーンズ。
またの名を、「ランカシャーのライオン」、あるいは**「ザ・ナンバーワン(No. 1)」。
1970年代から90年代にかけて、プロレスの母国・イギリスのマット界において絶大な支持を集め、中量級(ライトヘビー級、ミッドヘビー級)の絶対的なトップとして君臨した伝説のテクニシャン。
日本においては、初代タイガーマスク(佐山聡)のライバルとして、また旧UWFのリングで「キャッチ・レスリング」の凄みを見せつけた本物のシューターとして、今なおマニアの間で神格化されている。
なぜ、彼は片眼の光を失いながらも、世界のトップに立つことができたのか。
なぜ、ビル・ロビンソンは彼を「直弟子」として認め、自らの技術のすべてを授けたのか。 そして、彼が現代のマット界に残した、あまりにも巨大な「遺産」とは何なのか。
今回の「静かなる闘将」の知られざる生涯と、魂の技術の伝承の軌跡を紐解いていきたい。
★片眼の少年と『蛇の穴』の門番――ビル・ロビンソンの鉄拳制裁と、掴み取った『本物の技術』
ロバート・マーティン・ジョーンズ(のちにリングネームとなるマーティ・ジョーンズ)は、1953年12月13日、イングランドのグレーター・マンチェスターにある工業都市、オールダムに生を受けた。
当時のオールダムは、産業革命の面影を残すタフで実直な労働者たちが暮らす、典型的なイギリスの工業地帯だった。
幼いマーティを襲った最初の試練は、わずか6歳の時だった。
近所で自転車に乗って遊んでいたマーティは、不注意からレンガの壁に激突。その際、運悪く突き出ていた金属ワイヤーが彼の左眼を直撃してしまったのである。 懸命な治療も虚しく、彼の左目の視力は完全に失われた。
「片目の光を失ったことは、確かに大きなショックだった。遠近感が掴めず、最初はまっすぐ歩くことすら難しかった。だが、私は下を向くのが嫌いだったんだ。だから、他人より体を動かし、他人より感覚を研ぎ澄ます方法を、子供ながらに必死に模索したんだ」
片眼のハンディキャップを克服するため、マーティが12歳の頃に扉を叩いたのが、マンチェスターのフェイルズワーズにあるレスリング・ジムだった。
そこは、イギリス伝統の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」が息づく、美しくも過酷な格闘の聖域だった。
そこで少年マーティを待っていたのが、後にプロレス界の「人間風車」として世界を震撼させることになる怪物、ビル・ロビンソンであった。
当時のロビンソンは、イギリス国内で敵なしの強さを誇り、若手を容赦なく叩き潰す「蛇の穴(スネークピット)」の鬼コーチでもあった。
1967年にイギリスのグラナダテレビが制作したドキュメンタリー番組『The Wrestlers』には、まだあどけなさが残る10代前半のマーティ・ジョーンズが、ロビンソンから過酷極まりないスパーリングと、徹底的なグラウンドの基礎を叩き込まれている貴重な映像が残されている。
ロビンソンの指導は、現代の基準から見れば「虐待」とすら言われかねない、凄惨なものだった。
技が少しでも緩ければ容赦なく平手打ちが飛び、関節を容赦なく極められ、マットに這いつくばらされる。
だが、ロビンソンはマーティが「左眼が見えない」という事実を知りながら、あえて特別扱いを一切しなかった。
「ビル(ロビンソン)は私にこう言った。『リングの上では、相手はお前の左眼が見えないことなどお構いなしに襲ってくる。だったら、右眼だけで相手の動きを察知するだけでなく、触れ合った皮膚の感覚だけで相手の重心の移動を読み取れるようになれ』とね。あの地獄のような日々が、私のレスリングの背骨を作ったんだ」
触覚で相手を視る。 皮膚から伝わる僅かな圧力、筋肉の緊張、息遣い。それらを瞬時に脳内で処理し、相手の次の動きを「先読み」する。
片眼のハンディがあったからこそ、マーティ・ジョーンズのキャッチ技術は、他のどのレスラーよりも繊細で、狂いのない「精密機械」の領域へと達したのである。
1972年、17歳(一部資料では18歳)になったマーティは、ついにプロレスラーとしてのデビューを果たす。 ビル・ロビンソン、そして名トレーナーのテッド・ベトリーから授かった「本物の技術」を胸に、若きライオンはイギリスのマット界へと解き放たれた。
★『ランカシャーのライオン』と『ローラーボール』――マーク・ロコという、生涯のライバル
1970年代のイギリスマット界は、「ジョイント・プロモーションズ」を中心に、地上波テレビ局ITVの人気番組『World of Sport』枠で毎週土曜日の午後にプロレスが全国放送され、お茶の間の爆発的な人気を博していた。
そこで頭角を現したのが、伝統的なキャッチ・レスリングの技術をベースに、スピーディーかつアグレッシブなファイトを展開したマーティ・ジョーンズだった。
彼はその実直でクリーンなファイトスタイルから「ランカシャーのライオン」と称され、ファンから絶大なベビーフェイスとしての支持を集めるようになる。
そして、このマーティの前に立ち塞がり、彼のプロレス人生を語る上で絶対に切り離せない「生涯のライバル」となったのが、「ローラーボール」マーク・ロコ(後の初代ブラック・タイガー)であった。
1976年11月12日、ウルヴァーハンプトンで行われた英国ライトヘビー級王座決定戦。 マーティは、当時すでに同階級のトップヒールとして君臨していたマーク・ロコを激闘の末に破り、自身初のシングル王座を獲得する。
ここから、ジョーンズとロコの「イギリス中量級ドル箱黄金カード」としての、果てしなき抗争劇の幕が開いた。
この二人の対決は、水と油のようでいて、その実は「お互いの技術を100%信頼しきった、極限のシンフォニー」であった。
テレビ放送の枠内で展開される彼らの2/3フォールズマッチ(3本勝負)は、目まぐるしく変わる関節の極め合い、目にも留まらぬスピードでのロープワーク、そして観客を巻き込むドラマ性において、当時のヨーロッパプロレスの最高峰と評された。
「ロコとの試合は、いつも戦場だった。お互いに一歩も引かない。だが、彼が私を投げるとき、あるいは私が彼を極めるとき、言葉は要らなかった。お互いの呼吸だけで、次の展開がすべて分かったんだ。ロコがいたからこそ、私は『ランカシャーのライオン』になれたんだ」
ヘビー級において「欧州最強」と恐れられたのがアマレス五輪代表のローラン・ボックや、師匠であるビル・ロビンソンだったとすれば、中量級(ライトヘビー級・ミッドヘビー級)において「技術と凄みで欧州最高のレスラー」と呼ばれたのがマーティ・ジョーンズだった。
1970年代後半、マーティは世界へとその視野を広げる。 1975年にはメキシコのEMLL(現在のCMLL)に遠征し、あの伝説の「白い猛獣」ペロ・アグアヨと、メキシコ伝統の髪切りマッチ(カベジェラ・コントラ・カベジェラ)を行うなど、ラテンの地でもその実力を遺憾なく発揮した。
また、カナダ・カルガリーの「スタンピード・レスリング」にも遠征し、北米のタフなスタイルのなかでも技術の重要性を証明し続けた。
マーティ・ジョーンズの技術は、もはやイギリス国内に留まるものではなかった。 そしてその名は、極東のプロレス大国・日本へと届くことになる。
★『黄金の虎』と奏でた究極のポリフォニー――1982年・新日本プロレスでの『奇跡の14分
マーティ・ジョーンズの日本初来日は1977年10月、新日本プロレスの「闘魂シリーズ第2弾」だった。
翌1978年4月の「第1回MSGシリーズ」にも連続して来日。
しかし、この時期の新日本プロレスは、アントニオ猪木の異種格闘技戦や、藤波辰巳のドラゴン・ブームの黎明期であり、ジュニアヘビー級という階級そのものが、まだ発展途上の段階にあった。
マーティの持ち味である「イギリス流の緻密なグラウンド・レスリング」は、当時のスピーディーなファイトを求める日本のファンの目には、やや「地味」と映ってしまったことは否めない。
だが、1981年、日本プロレス界に「一頭の革命児」が誕生したことで、すべてが変わる。
初代タイガーマスク(佐山聡)の出現である。
タイガーマスクの登場によって、日本のジュニアヘビー級は一躍、メインイベントを喰うほどの超人気コンテンツへと変貌した。
そして1982年10月、3度目の来日を果たしたマーティ・ジョーンズは、ついにその「黄金の虎」の首を狙うコンテンダーとして、リングの中央に立つことになる。
1982年10月8日、後楽園ホール。
初代タイガーマスクとジョーンズのシングルマッチが実現。 この試合は、当時の日本のジュニア戦線における「空中戦の極致」とは、まったく異なるベクトルの「奇跡」を提示することとなった。
タイガーマスクが放つ、目にも留まらぬスピードのローリングソバットや、華麗なサマーソルトキック。 これに対し、マーティは一切動じることなく、ずっしりとした佇まいでタイガーの足を払い、グラウンドへと引きずり込んだ。
そこから展開されたのは、ビル・ロビンソン直伝の「密着型キャッチ・レスリング」だった。
タイガーがどれだけ素早く動こうとしても、マーティは片目しか見えないハンディを感じさせない完璧なポジショニングで、タイガーの背後を奪い、首を極め、腕をコントロールしていく。
タイガーマスクの華麗な空中戦を封じ込め、自らの土俵である「蛇の穴のグラウンド」で完全に相手を支配するその姿は、後楽園ホールのうるさ型のファンを大いに唸らせた。
「サトル・サヤマは天才だった。だが、彼は私のレスリングを非常にリスペクトしてくれた。あの試合は、彼が持つ『日本のストロングスタイル』と、私が持つ『イギリスのキャッチ・レスリング』の、最高峰の対話だったんだ」
試合は、タイガーが何とかマーティの牙城を崩し、勝利したものの、マーティ・ジョーンズというレスラーが持つ「底知れぬ実力」と「格闘技としての説得力」は、日本のプロレスファン、そして関係者の脳裏に「本物」として深く刻まれたのである。
このシリーズ中、マーティは単なるジュニアレスラーの枠を超え、ヘビー級の怪物たちとも渡り合った。いかなる体格差があろうとも、自らの「キャッチ技術」があれば対等以上に闘えることを自らの肉体で証明してみせたのである。
★旧UWF、後楽園ホールの『暗闇の中の結晶』――スーパータイガーとの『キャッチの交歓』
1984年、日本のプロレス界に激震が走る。 新日本プロレスを離脱した前田日明、藤原喜明、そして佐山聡らが中心となり、プロレスを「真剣勝負としての格闘技」へ近づけることを提唱した新団体「UWF(ユニバーサル・プロレスリング)」が誕生したのだ。
UWFが求めたのは、ロープに飛んでの攻防や、派手なボディスラムといった「プロレスの予定調和」の排除。
グラウンドでの緻密な極め合い、鋭いキックと関節技の応酬。 その思想を実現するために、海外から招聘すべき「本物のシューター」として、真っ先に名前が挙がったのが、マーティ・ジョーンズであった。
1985年2月、マーティは「旧UWF」への参戦を果たす。 そこは、新日本時代の華やかなライトアップや、大観衆の狂乱とは一線を画す、一種の殺気と緊張感が支配する実験室のようなリングだった。
1985年3月2日、後楽園ホール。 マーティ・ジョーンズは、タイガーマスクのマスクを脱ぎ、より格闘技色を強めたスタイルに変貌を遂げたスーパータイガー(佐山聡)と対峙する。
この一戦は、かつての新日本プロレスでの試合とは全く異なる、骨の軋み合うような緊迫感に満ちていた。 佐山が放つ鋭いミドルキックに対し、マーティは的確なブロッキングで対抗。グラウンドになれば、お互いが一瞬の隙を突いてアームロック、レッグロック、アキレス腱固めを狙い合う。
「あの時のUWFのリングは、まるで『蛇の穴』の道場そのものだった。観客は声を潜め、私たちの指先の僅かな動き、関節が極まる音に集中していた。サヤマとは、お互いの手の内をすべて知っていたが、あの試合はさらにその先、お互いの『格闘家としてのプライド』の削り合いだった」
試合時間は14分28秒。 最後は、スーパータイガーが放った芸術的な「クルック・ヘッドシザース」の前にジョーンズはギブアップを喫したものの、試合後の二人の表情には、清々しいほどの「リスペクト」が満ち溢れていた。
UWFという、日本のプロレス界が生み出した最大の「格闘幻想」。 その幻想をリアルな「現実」として支えたのは、日本側の選手たちだけではない。
マーティ・ジョーンズのような、幼い頃から片目のハンディを抱え、冷徹なイギリスのジムで鍛え上げられた「本物のキャッチ・レスラー」が、その高い技術で受けて立ったからこそ、UWFの輝きは本物足り得たのである。
★『No.1』の真実――ウィリアム・リーガルからゲイブ・キッドへ繋ぐ、偉大なる『魂の伝承』
1990年代に入り、イギリスのマット界はテレビ放送の打ち切りなどもあり、かつての黄金期から衰退期へと向かっていく。 しかし、マーティ・ジョーンズのプロレスラーとしてのプライドが衰えることはなかった。
彼は主戦場を「オールスター・レスリング」へと移し、そこで自身のキャリアの中でも画期的な転換を遂げる。
長年のベビーフェイスとしての活動から、狡猾で自信に満ち溢れたトップヒール「ナンバーワン(No. 1)」へと変貌を遂げたのである。
マイクを握れば、その卓越したトークスキルで観客の憎悪を一身に浴び、リングに上がれば、ビル・ロビンソン仕込みの容赦のない関節技でベビーフェイスの若手たちを絶望の淵へと叩き落とす。
1996年には、イギリス伝統の至宝である英国ヘビー級王座をトニー・セント・クレアーから奪取。「欧州最高のレスラー」 ジョーンズは、時代の変化に合わせ、自らのスタイルを最も効果的な形へとアップデートし続けたのである。
そして、彼が2000年代初頭に静かにリングを降りた後、プロレス界における彼の「本当の役割」が本格的に始動することとなる。
マーティはイギリスのオールダム、そしてマンチェスターにおいて「マーティ・ジョーンズ・プロフェッショナル・レスリング・アカデミー」を設立。
彼が「蛇の穴」でロビンソンから受け継ぎ、世界のリングで磨き上げてきた「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」の灯火を、未来の世代へと繋ぐための活動を開始したのだ。
彼が育て、あるいは若き日に徹底的に鍛え上げた弟子たちの顔ぶれを見れば、マーティ・ジョーンズという男がいかに偉大な「教育者」であったかが分かる。
マーティ・ジョーンズが遺した『遺伝子』の結晶】
・ウィリアム・リーガル(ロード・スティーブン・リーガル)
イギリスからWCW、そしてWWEへと渡り、世界最高峰のテクニシャンとしてその名を馳せた名将。リーガルがリング上で見せた、相手を小馬鹿にするような首の極め方、泥臭くも精密な関節技の数々は、すべて若き日にマーティ・ジョーンズから叩き込まれたものだった。リーガルは今なお、マーティを「人生の恩師」として最大の敬意を払っている。
・ゲイブ・キッド
新日本プロレスやAEWにおいて、荒々しいヒールファイトと、卓越したレスリング技術を融合させ、トップへと駆け上がっている若き怪物。ゲイブの持つ、観客の憎悪を煽る「狂気」と、いざとなれば相手の関節をへし折るような「技術の裏付け」のハイブリッドスタイル。その原点には、マーティがマンチェスターで授けた「生き残るための格闘技術」が息づいている。
・ジョー・ヘンドリー
TNA、そしてWWEのNXTマットをその圧倒的な歌唱力とキャラクターで席巻しているエンターテイナー。彼もまた、アマチュアレスリングをバックボーンに持ち、マーティの道場でプロレスのイロハを学んだ一人である。派手なパフォーマンスの裏にある、確かなグラウンドの安定感は、マーティの教えの賜物だ。
「今の若い奴らは、すぐに空中を飛びたがる。だが、プロレスの基本は常に『大地に足をつけ、相手をいかにコントロールするか』だ。私は弟子たちに、技の派手さではなく、技の『意味』を教えている。私の左眼は見えなかったが、彼らの動きを見れば、その魂が本物かどうかはすぐに分かるんだよ」
マーティ・ジョーンズの教えは、決して古い時代のノスタルジーではない。 2026年現在、世界のプロレス界の最前線で闘い、リングをコントロールしている強者たちの肉体の中に、彼の失われた左目の代わりに研ぎ澄まされた「皮膚の感覚」と「キャッチの真髄」が、確かに受け継がれているのである。
★我々が『本物(リアル)』に魅せられる理由――マーティ・ジョーンズが現代に放つ、沈黙のメッセージ
2026年現在、マーティ・ジョーンズは72歳を迎えている。 リングを降りて久しいが、彼の佇まいは今なお、かつて「ランカシャーのライオン」として恐れられ、愛された当時の、頑強で知的な格闘家のままである。
かつて、彼と共にイギリス中量級の黄金時代を築き上げた終生のライバル、マーク・ロコ(初代ブラック・タイガー)は、2020年にこの世を去った。 恩師であるビル・ロビンソンも、2014年に日本でその生涯を閉じている。
仲間たちが一人、また一人とリングの彼方へと去っていく中、マーティは今なお、イギリスの地で静かに、しかし力強く、キャッチ・レスリングの伝統を守り続けている。
プロレスというジャンルは、時代と共にその姿を大きく変えてきた。 今や、CGのような空中戦や、SNSを使った高度なプロモーションが主流となり、リング上の「闘いのリアリティ」は、時として二の次にされがちである。
だが、ファンが本当に心を揺さぶられ、胸を熱く焦がす瞬間とは、いつの時代も同じではないだろうか。 それは、言葉によるギミックや派手な演出の奥底にある、「この男は、本物(リアル)だ」という、冷徹にして美しい説得力に触れた瞬間である。
6歳での失明という絶望を乗り越え、 「蛇の穴」の理不尽な暴力を自らの技術へと昇華し、 タイガーマスクの華麗な光の影で、冷酷なまでに美しい「闇の結晶」を紡ぎ出し、 最後は自らの遺伝子を次世代へと完璧に伝承してみせた男。
「欧州最高のレスラー」マーティ・ジョーンズ。 あなたが片眼の暗闇の中で見つめ続けたプロレスの「真実」は、今もなお、世界中のリングの上で、熱い光となって輝き続けている。
