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ジャスト日本のプロレス考察日誌

プロレスやエンタメ関係の記事を執筆しているライターのブログ

 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。





(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん、事務所ブレーンとして関わった猪木さん、猪木さんとの別離、そして今現在、率直に感じる猪木さんへの想い…。


元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!








私とプロレス 木村光一さんの場合「第4回(最終回) シン・INOKIプロジェクト」


 「燃える闘魂」アントニオ猪木さんの訃報


──2022年10月1日、アントニオ猪木さんが79年の生涯に幕を閉じました。木村さんはその訃報にどのような形で接したのでしょうか?

木村さん 前回話したような経緯があって、それからはずっと猪木さんの動向を距離をおいて見ていたんですけど、昨年の春「猪木危篤」の未確認情報が流れましたよね。あの時は動揺してしまって、和田良覚さんにお願いして真偽をたしかめてもらったんです。和田さんからは「大丈夫、持ち直したということなので安心してください。でも、覚悟はしておいた方がいいみたいです…」という返事をいただいて心の準備はしていたつもりでした。ところが、それから半年して、いざその時が訪れたら取り乱してしまって…。いや、自分がどういう状態になったのか、どういう形で訃報に触れたのかも記憶が飛んでいて憶えてないんです。

──相当なショックを受けられたんですね。

木村さん しばらくいろんな感情が込み上げて頭が混乱してたのですが、ふと我に返った瞬間、「猪木さん、やっと楽になれたんだな。苦しみから解放されたんだな」と悲しいより安堵したのは憶えてます。でも時間が経つにつれて「どうしてもういちど自分から猪木さんに会いに行こうとしなかったのか」「自分にやれることが何かあったんじゃないのか」という後悔や自責の念にかられて、しばらくは何も手につきませんでした…。  



木村さんを奮い立たせた友人からの言葉



──それほど大きな喪失感から、どのようにして立ち直られたんですか?

木村さん 猪木さんへの思いを整理しきれないで鬱々としていたら、ある友人から「木村の中にはさ、まだ誰にも伝えてないアントニオ猪木のいろんな記憶や情報が眠ってるんだろ? それを自分だけの思い出にしたまま墓場まで持っていくのか? お前も物書きならそれを世に出せよ。それが仕事だろ!」と言われたんです。

──ものすごく胸に刺さる言葉ですね。

木村さん 僕は猪木事務所解散のゴタゴタに巻き込まれてよくわからないまま猪木さんと袂を分かって以来、プロレスに関しては旧い付き合いの編集者からたまに依頼されて雑誌に記事を書くくらいしかしてこなかったので、たしかに、猪木さんに関する情報が眠ったままになっていました。海外に同行した際のビデオ映像の大半は誰にも見せていませんし、数十時間はある膨大なインタビューの録音テープの中には活字にしていない言葉もまだたくさんあります。ただ、昨年春の危篤報道をきっかけに自分の著作の内容などをブログにアップしてたのですがとくに反応もなかったため、どうしようか考えあぐねてたんです。そしたらさっきの友人がTwitter(X)を勧めてくれて。じゃあとりあえずブログ記事の紹介からやってみようとツイートを始めてみたんです。


Twitter(X)開設の反響  


──そういう経緯があったんですね。実際にTwitter(X)を始めて、反響はいかがでしたか?

木村さん 驚きました! 僕が自分の名前で本を出してからもう20年以上経っていましたし、これといってプロレスや格闘技関連の仕事もしてきませんでしたから、とっくに忘れられてると思ってたんです。それが、Twitter(X)を始めた途端、昔、僕の本を読んでくれていたという皆さんが一斉にフォロワーになってくれて…。本当に感激でした!

──Twitter(X)をされて大正解でしたね!

木村さん はい。猪木さんへの思いを共有する皆さんと交流できるようになって、すごく元気をいただきました。そしてフォロワーの皆さんから新しい猪木さんの本を書いてほしいという要望をいただき、それが何よりの力になりました。

──猪木さんは色々な編集者やライターが関わった印象がありますが、木村さんのように何冊も書籍を出したり、深掘りしたインタビューをした方は少ないかもしれませんね。

木村さん だと思います。当初、僕にできるせめてものこととして、現在入手困難になっている過去の著作の中から主な情報をブログにまとめ、ファンの誰もがいつでも自由に読めるライブラリーを残そうと考えていたんです。Twitter(X)ではそれを伝えていけばいいかと。ところが何人ものフォロワーさんから「木村さんはまだ書いていないことがあるはず。新しい本を読ませてほしい」といった叱咤激励をいただいて…。 


YouTubeチャンネル『男のロマンLIVE』出演


──フォロワーさんに火をつけられたのですね!

木村さん そうです。で、そんな矢先にTwitter(X)のDMにYouTubeチャンネル『男のロマンLIVE!』のTERUさんから連絡を受けまして。

──プロレスマニアなら誰もが知っているあの有名YouTube番組ですね。どういった内容だったんですか?

木村さん とにかく直接お会いしましょうということになり、昨年の暮れに初めてお目にかかったのですが、その場で「申し訳ありません。実は無断で木村さんの本にインスパイアされた番組を作りました。たいへんな反響をいただいているのですが、皆さんから絶賛されればされるほど心苦しくて。そこで、お詫びも兼ねてこの元ネタは木村さんの著作だということを説明する番組を作りたいのですがご出演願えないでしょうか」という謝罪と出演オファーをいただいたんです。

──それが『男のロマンLIVE!』の特別対談番組になったんですね。       

木村さん はい。実際のところ、僕は連絡をいただく前にTERUさんが制作した「アントニオ猪木・格闘技術の源流」というシリーズを偶然拝見し、番組のクオリティの高さやとことん真面目な姿勢に感服していたのでクレームをつけるつもりはなかったんです。むしろ、僕が四半世紀前に猪木さんから聞き出した話をさらに深掘りし、10万人以上の視聴者に届けてもらえたことに感謝してました。そのうえスタジオまで用意して対談番組を作っていただいて。昔、僕も広告の仕事に携わってましたから、「こんなに制作費にかけたら絶対赤字だ」とすぐに気付いたんです。


『シン・INOKIプロジェクト』とは?


──木村さんとTERUさんの対談はとても見応えがありました。それで、番組の中で発表された『シン・INOKIプロジェクト』についてあらためて聞かせていただきたのですが。

木村さん TERUさんと色々話してるうちに、「アントニオ猪木・格闘技術の源流」のベースになった僕の『闘魂戦記』や『アントニオ猪木の証明』といった著作が絶版になったまま現在入手困難になっているという話になり、じゃあそれを復活させるプロジェクトを立ち上げようということになったんですよ。というより「この2冊は猪木さんがプロレスや格闘技に関してかなり深いところまで語っている唯一無二の本。もう一度世に出して後世に残したいので協力してもらえませんか」と僕の方からお願いしたところ、TERUさんが二つ返事でプロデュースを快諾してくれた。それが真相です。

──なるほど、アントニオ猪木への熱い思いが木村さんとTERUさんを結びつけたわけですね。現在『シン・INOKIプロジェクト』の進捗状況はどうなっていますか?   

木村さん 年が明けてすぐ、第1弾として『闘魂戦記・格闘家猪木の真実』の復刻に取り掛かったのですが、問題が発生して当初の予定より大幅に進行が遅れています。

──問題といいますと?

木村さん 猪木さん自身が語った格闘技論の内容はまったく色褪せていません。それどころか、時を経てますます重みを増している感があります。ところが、『闘魂戦記』が書かれた時代とは格闘技界の情勢や常識が激変しているのと、当時の資料を参考にした解説文などが、今あらためてチェックすると間違いや誤解だらけだったことがわかったんです。たとえばアンドレ・ザ・ジャイアントは〝木こり〟だったとか(笑)。それらのプロレス的ファンタジーの要素をアップデートせず、あえて時代感を残したまま復刻するという手もありました。が、そのやり方だと単なるノスタルジー本と捉えられて本来訴えたいテーマがぼやけてしまうと判断し、猪木さんの言葉や関係者インタビューはそのまま残し、それ以外は現在の視点に立ってすべて書き直すことにしたんです。そもそもオリジナルを今でも読み返してくださっているという読者の皆さんからすれば、単に焼き直しの復刻版では手に取る意味もありませんから。

──では復刻版ではなく新作がリリースされるわけですね!

木村さん はい。年月を経て発掘された事実や僕の中で総括できた事柄、これまでにない視点の提示や技術分析も加えました。さらに、猪木さんと縁の深い方の特別インタビューも行って歴史的に重要な証言も得ています。そういったものすべてを今回の本に注ぎ込んでいます。

──それはめちゃめちゃ興味深いです! ちなみに本のタイトルは決まっているんでしょうか?

木村 『格闘家 アントニオ猪木 〜ファイティングアーツを極めた男』です。近々、『男のロマンLIVE!』やTwitter(X)にて詳細を発表します。関連イベントなどの企画も考えておりますのでご期待ください!


木村さんが選ぶ猪木さんの名勝負



──ありがとうございます! 続きまして木村さんの好きな猪木の名勝負を3試合、選んでいただけますか?

木村さん アントニオ猪木の名勝負の中から3試合だけ選ぶのは不可能です(笑)。いくつかの基準をもとに「これは外せない」という試合をピックアップさせていただくということでいいですか?

──分かりました!よろしくお願いいたします!

木村さん まず〝記憶に残る名勝負〟をかなり大雑把に選んで時系列で並べると──アントニオ猪木VS大木金太郎(1974年10月10日・蔵前国技館/NWF世界ヘビー級選手権試合)、アントニオ猪木VSビル・ロビンソン(1975年12月11日・蔵前国技館/NWF世界ヘビー級選手権試合)、アントニオ猪木VSウィリエム・ルスカ(1976年2月6日・日本武道館/格闘技世界一決定戦)、アントニオ猪木VSモハメド・アリ(1976年6月26日・日本武道館/格闘技世界一決定戦)、アントニオ猪木VSザ・モンスターマン(1977年8月2日・日本武道館/格闘技世界一決定戦)、アントニオ猪木VSラッシャー木村(1981年11月5日・蔵前国技館/ランバージャックデスマッチ)の6試合になります。

──素晴らしいセレクトです!
 
木村さん 次に、自分が生観戦した試合の中から強いて選べば、アントニオ猪木VS藤波辰巳(1985年9月19日・東京体育館)、アントニオ猪木VS藤原喜明(1986年2月6日・両国国技館)、アントニオ猪木&藤波辰巳&木村健吾&星野勘太郎&上田馬之助VS前田日明&藤原喜明&木戸修&高田伸彦&山崎一夫(1986年3月26日・東京体育館/新日本VSUWFイリミネーションマッチ)の3試合かと。


     
──ひとつ気になったんですが、アントニオ猪木VSラッシャー木村のランバージャックデスマッチを選んだのはどのような理由からですか? 


木村さん 僕が猪木さんにインタビューを行った際、「国際軍団との1対3といい、ラッシャー木村選手に対する仕打ちがあまりにも非情だったように思えてならないのですが、なぜ、あそこまで彼を蹂躙する必要があったんでしょうか?」と訊いたことがあったんですよ。それに対して「あれはイジメだった」ときっぱり猪木さんは答えた。鉄拳制裁、延髄斬り、顔面蹴りをまともに食らったラッシャー木村選手がたまらずリング下にエスケープしてもセコンドに戻されてまたボコボコにされる──延々それが繰り返されるあの試合はたしかに凄絶なイジメでした。でも、よくよく考えてみると、不器用で華のないラッシャー木村選手を光らせるにはあれしか方法がなかったんですよ。

  
   
──ラッシャー木村さんは「金網デスマッチの鬼」と呼ばれた国際プロレスのエースで、受けの強さがものすごくて、尋常じゃないほどタフネスなレスラーでした。


木村さん そうなんです。猪木さんはその一点にテーマを絞った。そして一連のラッシャー木村戦で見せた猪木さんの怒りの表情はどれも絶品! とくにランバージャックデスマッチにおける猪木さんのブチ切れ方は最上級の怒りの表現でした。それもこれも、殴る蹴るをどんなにエスカレートさせても耐えられるラッシャー木村選手のタフネスさがあってこそ成立していたわけで、そこには見た目の非情さとは裏腹に、あの二人にしかわからない信頼関係のようなものが感じられて僕は観るたびにゾクゾクしてしまうんです。

──本来、猪木さんはイジメが大嫌いな方なんですよね。

木村さん おっしゃる通りです。でも猪木さんは、本来、絶対的ヒーローであるべきアントニオ猪木がそのイメージに反する行為をおこなうことへの批判も引き受ける覚悟であえてそれをやって見せた。実は猪木さんも見えないリスクを背負ってたわけで必ずしも一方的なイジメではなかったんですよ。

──やっぱり猪木さんは凄いです。人間・猪木寛至とプロレスラー・アントニオ猪木は別人格であり、別々の感性の持ち主なんですね。

木村さん 猪木さんはベビーフェースの立場にこだわる選手を嫌っていましたが、おそらく、そういうレスラーはプロとしての覚悟が足りないと腹を立てていたんだと思います。

──アントニオ猪木VSラッシャー木村のランバージャックデスマッチは『新日本プロレスワールド』でもアップされていますので、リンクを貼らせていただきます。まさしく初心者からマニアまで多くの皆さんにご覧いただきたい凄い試合です。

木村さん ラッシャー木村に対する猪木流の〝もてなし〟から何かを感じてもらえると嬉しいですね。






──では、アントニオ猪木のベストバウトとして語られることの多い猪木VSロビンソンですが、木村さんはこの試合をどのように捉えているのでしょう?

木村さん これはCACC(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)の攻防をテーマにしたプロレス。どちらがキャッチレスラーとして上かというプライドを賭けた一戦で、CACCの技術に関しては冷静に見てロビンソンに一日の長があったのは間違いないです。ただ、このインタビューの初めの方(第2回 アントニオ猪木の強さとは!?)でも話した通り、アントニオ猪木の格闘技術には柔術や高専柔道も含まれており、必ずしもCACCがすべてではなかった。にもかかわらず、猪木さんはCACCの名手であるロビンソンとCACCのテクニックでほぼ互角に渡り合った。そこに価値があると思うんです。それとあの試合は猪木さんがチャンピオンだったでしょう?        

──猪木VSロビンソンはNWF世界ヘビー級選手権試合。猪木さんは王者、ロビンソンは挑戦者でした。

木村さん 猪木さんはチャンピオンとして相手の土俵で闘ってみせた。おそらく、それをやればロビンソンの方が強く見えるのもわかってたんじゃないでしょうか。しかし、猪木さんがそういう闘い方を選択したことによって、あの一戦は20世紀最高のストロングスタイルの名勝負になった。試合内容でベルトの価値を高めようとしていた猪木さんとしてはそれで本望だったんだと思います。

──ロビンソンは翌1976年に全日本プロレスに移籍します。それからヒザや腰が悪化してコンディションが落ちていきましたよね。もし、仮に全日本時代のロビンソンがもう一度猪木さんと試合したとして、あそこまでの名勝負になったと思いますか?    

木村さん ならなかったでしょう。両者のコンディションの巡り合わせから見ても、あのタイミングで行われた猪木・ロビンソン戦は20世紀のプロレス史における特異点。二度と起きない奇跡だったんですよ。




猪木さんの格闘技術は一代限りで終わってしまった。1980年半ばまで新日本道場に伝わっていたのは猪木イズムではなくゴッチイズム


──では、木村さんの今後の活動についてお聞かせください。

木村さん ようやく形になりつつある『シン・INOKIプロジェクト』では2冊の本のリリースと関連イベントの開催を考えています。まず、さきほどお話しした『格闘家アントニオ猪木 〜ファイティングアーツを極めた男』を猪木さんの一周忌を目処に出版し、次に時期は未定ですが第2弾としてこれも絶版になっている『アントニオ猪木の証明』という丸ごと1冊、猪木さんがプロレス、ライバル、格闘技について語っているインタビュー集の〝完全版〟を世に出す予定です。プロジェクトの他にも1冊、昭和のプロレスに関する書籍の出版計画が進行してます。




──素晴らしい!!大いに期待したいです!『シン・INOKIプロジェクト』は猪木さんへの供養になりますね!

木村さん 猪木さんが亡くなられて、残された僕らにできることは語り継ぐことしかありません。このプロジェクトの目的はそれが全て。これから数十年、アントニオ猪木を語り継ぐための根拠の一つを提示できればと思ってます。

──アントニオ猪木の強さの本質を追求することが木村さんのテーマですものね。

木村さん 結局、アントニオ猪木の強さの核心部分を、猪木さん本人も含めてこれまで誰も説明できていないんです。後継者が現れなかったのもそのため。これは僕の持論なんですが、新日本道場で培われた猪木イズム云々みたいな言われ方がありますけど、そこで80年代半ばまで伝わっていたのは猪木イズムではなくてゴッチイズムだった。アントニオ猪木の格闘技術は、実のところ一代限りで終わってたんですよ。

──それは、どうしてそんなことになってしまったんですか?

木村さん 若き日の猪木さんが日本プロレスの道場で無意識のうちに身に付けた柔術や高専柔道の技術は肌感覚で身に付けた独自のものですから、当の猪木さんがスパーリングという直接的な方法によって後進に伝えるしかなかったんです。ところが新日本プロレスの旗揚げ以降、多忙すぎる猪木さんはそれができなくなってしまった。そして、元々新日道場のトレーニングは猪木さんがゴッチから学んだ方法論をベースにしていましたし、理論的にも完成されていて曖昧さがなかったのでやがてあらゆる面でそちらが主流になったわけです。したがって、ある時期から新日本道場に伝わる技術はゴッチ流一辺倒になり、猪木さんが身に付けていた柔術や高専柔道の技術の存在は忘れられてしまった。ゴッチ流は完成度が高くシュートにも対応可能だったため、おそらくあえて日本プロレス道場由来の技術を思い出す必要もなくなったのだと思います。


プロレスは時代を映す鏡。その時代のプロレスは、その時代のプロレスラーとファンのもの。時代の要請に従ってどんどん姿を変わっていくのは当然。


──だからグレイシー柔術が台頭した時、「面白い」と反応できたのは猪木さんだけだったんですね?

木村さん だと思います。ただ、猪木さんは自分の技術の特異性もあまり自覚してなかったようなので意識的にそれを伝えようともしていなかった。グレイシー柔術やUFCが出現してから猪木さんもそのことに気付いたわけですが時すでに遅し。新日本は格闘技と一線を画す方向へ路線を転換し、ゴッチ流さえ排除された新日本には何も残らなかったんですよ。今でも時折〝闘魂伝承〟〝猪木イズム〟といった言葉が使われることがあるようですが、それは単なるブランド戦略でしかないと僕は思ってます。

──それは寂しすぎる話です。

木村さん ただ、僕は、だからといって今の新日本プロレスを否定する気はないんですよ。プロレスは時代を映す鏡。その時代のプロレスは、その時代のプロレスラーとファンのもの。時代の要請に従ってどんどん姿を変えていくのは当然だと思ってます。僕らの世代は自分たちの時代にアントニオ猪木のプロレスに熱狂することができた幸福に感謝すればいい。「あの頃のプロレスと違う」と今のプロレスを否定する気は全然ないんです。

──今のプロレスについて木村さんにお伺いしようかなと思ってましたが、そのお言葉を聞けただけで十分です。素晴らしいです。

木村さん 誤解を恐れずに言わせてもらえば、これは猪木さんの言葉なんですけど、「プロの格闘技は全てプロレス。俺たちの仕事は夢を売る商売」なんですよ。



木村さんにとってプロレスとは?


──猪木さんのレスラー人生が凝縮されたコメントですね。では、最後の質問です。木村さんにとってプロレスとは何ですか?

木村さん アントニオ猪木です!

──やはり、答えはそれしかないと思ってました(笑)。 

木村さん 僕にとってはアントニオ猪木という世界の中にプロレスがある。枠組みとしてはアントニオ猪木の方がプロレスよりスケールが大きいんです。今回の僕の話も、それが前提だと思っていただければわかっていただけるかと(笑)。

──今回、木村さんにインタビューさせていただき、これまで猪木さんに対して抱いていた漠然とした疑問や謎というものが、ハッキリと解けたような気がしました。  

木村さん 僕の話で何かしら腑に落ちたのでしたら嬉しい限りです。

──インタビューは以上となります。木村さん、長時間お付き合いいただき本当にありがとうございます!今後のご活躍を心よりお祈りしています。

木村さん こちらこそありがとうございました!


(第4回終了/『私とプロレス 木村光一さんの場合』完)




ジャスト日本です。 


1990年代のプロレス界を検証する新企画『世紀末バトル・アーカイブス』。これは激動と波乱の1990年代のプロレス界を、90年代系YouTuberゴクさんと漫画家ペンダフさんと共に一年ごと振り返りながら、深掘りしていく対談コーナーです。




 



【ゴク】



Twitter、Instagram、YouTube、電子書籍で「90年代プロレス」の魅力を発信し続けている。

自称“ジャイアント馬場さんの実家から最も近いプロレスファン”

◆1978生

◆新潟在住

◆Youtube(2022年4月開設)→ https://youtube.com/channel/UCW5uAINrEyC3DKb061O6dZg 

◆Kindle本「昭和53年生まれによるプロレスの思い出1~5巻」📕カテゴリ別ランキング1位著者。4コマ漫画が挿絵のプヲタ自伝。Kindle unlimited会員様は全5冊が無料でお読み頂けます→https://amazon.co.jp/%E3%82%B4%E3%82%AF/e/B09L6LMM3J/ref=dp_byline_cont_pop_ebooks_1


【ペンダフ】



漫画イラスト講師、漫画描き、イラストレーター

専門学校卒業後、アパレル勤務をしながらイラスト(イベントのフライヤーやメインヴィジュアル、Tシャツのデザイン、書籍の表紙など)と漫画の創作を中心に活動し、自作のプロレスファン漫画がジャンプルーキー受賞作としてジャンププラスに掲載。

現在、サブカルチャーイベントの出演、イラストレーター、専門学校の講師と活躍中。


2016年6月 ジャンプルーキーにてブロンズルーキー賞獲得

https://rookie.shonenjump.com/series/FlR8CfEGNkI


現、掲載作品

https://rookie.shonenjump.com/series/FlR8CfEXwww




【画像はゴクさん作成】






今回は1991年のプロレス界を振り返ります。




1991年のプロレス界


【参考文献】

・『平成スポーツ史 永久保存版 プロレス』(ベースボール・マガジン社)

・『日本プロレス52年史〜あの時、日本マット界は揺れ動いた〜』(日本スポーツ出版社)



【1991年】

新世代台頭の 芽吹きと 多団体時代の予兆



UWFが3派分裂し、さらにFMWから派生する形でWINGも旗揚げ。団体数が増加するなか、新日本では「G1 CLIMAX」を初開催し、 闘魂三銃士が躍進。全日本では三沢光晴、川田利明らが存在感を強め、 新世代が台頭していった。



【東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞】

1991年の受賞者 

最優秀選手賞(MVP):ジャンボ鶴田(全日本) 

年間最高試合賞(ベストバウト):天龍源一郎×ハルク・ホーガン(12月12日/SWS・東京ドーム)

 最優秀タッグチーム賞:三沢光晴&川田利明(超世代軍/全日本) 

殊勲賞:大仁田厚(FMW) 

敢闘賞:蝶野正洋(新日本)

 技能賞:馳浩(新日本)

 新人賞:折原昌夫(SWS)



1月4日 東京スポーツ新聞社制定『1990プロレス大賞』授賞式&パーティーは大仁田厚がMVPとベストバウトを独占した事を各団体が批判したためか、例年になく選手・関係者の出席が悪かった。

1月7日〈UWF〉選手会合の席上、 前田日明が団体の解散を宣言。 3派に分裂。     1月9日 前田が都内でクリス・ドールマンと会談。ドールマンは新日本出場を白紙に戻し、前田に協力すると意思を表明。

1月17日〈新日本〉横浜。ビッグバン・ベイダーが藤波辰爾を破り、IWGPヘビー級王座奪還。 

1月19日〈全日本〉松本。ジャンボ鶴田がスタン・ハンセンを破り、三冠ヘビー級王座奪還。

1月29日〈パイオニア戦志〉休業を宣言し、そのまま消滅。


2月4日 〈藤原組〉 都内ホテルで藤原喜明、船木誠勝、鈴木みのるらが「新UWF藤原組」設立を発表 。 

2月6日〈新日本〉札幌中島体育センター。橋本真也がトニー・ホームとの異種格闘技戦に連敗。この敗戦後、橋本は右膝悪化のため長期欠場することに。    

2月15日 〈新日本〉長州力を初代グレーテスト18クラブ王者に認定。

2月20日 〈UWFインター〉 高田延彦、山崎一夫らが 「UWFインターナショナ ル」の設立を発表 。

2月27日〈FMW〉後楽園。世界マーシャルアーツ王座決定戦で、ソウル五輪柔道銀メダリストのグリゴリー・ベリチェフが大仁田厚を破り、初代王者となる。  


3月1日 〈新日本〉諏訪湖。 来日予定のなかったタイガー・ジェット・シンが馳浩の乗用車をバットで襲撃。〈全日本〉ジャイアント馬場が退院。

3月4日 〈藤原組〉 後楽園。 旗揚げ興行を開催。エースに推された船木誠勝はバート・ベイルに快勝。またカール・ゴッチが最高顧問としてあいさつ 。

3月13日 〈SWS・藤原組〉 両団体の業務提携を発表。

3月14日 〈リングス〉 都内ホテルで設立を発表。

3月21日 〈新日本〉東京ドーム。 「91スターケードIN闘強導夢」を開催。 IWGPヘビー級王者・藤波辰爾がNWA 世界王者リック・フレアーとのダブ ルタイトル戦に勝利。 しか し試合後、裁定にクレームがつき、フ レアーはベルトを持って翌日帰国。 スタイナーブラザーズが馳&佐々木健介組を破り、IWGPタッグ王座を奪取。長州力がタイガー・ジェット・シンとのグレーテスト18クラブ指定試合に勝利。

3月24日 〈WWF〉 カリフォルニア。 「レ レッスルマニア7」に天龍源一郎、北尾光司が出場。  

3月29日〈藤原組〉団体名を「プロフェッショナル・レスリング藤原組」に改称。  3月30日 〈SWS〉東京ドーム。 WWF共催「レッスルフェストIN東京ドーム」を開催。 リージョン・オブ・ドゥームが 天龍&ハルク・ホーガン組に勝利。また維新力が日本デビュー。


4月1日 〈SWS〉 神戸ワールド記念ホール。 北尾が対戦相手のジョン・テンタに「八百長野郎!」の暴言。藤原組・鈴木みのると対戦のアポロ菅原が試合放棄。 

4月4日 〈SWS〉 北尾の解雇を発表。 

4月16日 〈全日本〉 愛知県体育館。ジャンボ鶴田がスタン・ハンセンを破り、11年ぶり2度目のチャンピオン・カーニバル制覇。

4月18日〈全日本〉日本武道館。鶴田が三沢を破り、三冠ヘビー級王座防衛。スタン・ハンセン&ダニー・スパイビーがテリー・ゴーディ&スティーブ・ウィリアムスを破り、世界タッグ王座獲得。

4月30日〈新日本〉両国国技館。保永昇男が獣神サンダー・ライガーを破り、トップ・オブ・ザ・スーパージュニアを優勝。さらに第14代IWGPジュニアヘビー級王者となる。


5月6日 〈FMW〉大阪万博お祭り広場 にて、 有刺鉄線バリケードマット地雷爆破デスマッチが行われ、大仁田厚がミスター・ポーゴに勝利。

5月10日 〈Uインター〉 後楽園。旗揚げ戦を開催。エース髙田延彦がトム・バートンに勝利。

5月11日 〈リングス〉横浜アリーナで、 旗揚げ戦を開催。エース前田日明はオランダ軍団のディック・フライを破る。日本人選手は前田ただひとりの船出となった。

5月31日〈新日本〉大阪城ホール。藤波辰爾デビュー20周年記念試合が行われ、蝶野正洋を下し、IWGPヘビー級王座防衛。橋本真也が約3ヶ月半振りにカムバック。


6月1日〈全日本〉 日本武道館。ジャイアント馬場が183日ぶりに復帰。ファンの熱狂的な歓迎を受けて6人タッグ戦に出場。

6月16日 ミスター・ポーゴとビクター・キニョネスが「キャピタル・スポーツ・プロモーション」日本支部設立を発表。

6月21日〈W★ING〉都内ホテルにて大迫和義社長らが記者会見を開き、世界格闘技連盟立

「W★ING」設立を発表。「キャピタル・スポーツ・プロモーション」日本支部はこの新団体に吸収。



7月4日〈新日本〉福岡国際センター。獣神サンダー・ライガーがペガサス・キッドをマスク剝ぎマッチで勝利。敗れたペガサスはマスクを脱ぎ、正体が元新日本留学生クリス・ベノワと判明。

7月6日〈全日本〉横須賀。ゴーディ&ウィリアムスがハンセン&スパイビーを破り、世界タッグ王座奪還。

7月19日〈SWS〉天龍がSWS社長に就任。

7月23日 〈SWS〉「レボリューション」伊豆合宿で、阿修羅・原の入団を発表。

7月24日〈全日本〉金沢。三沢光晴&川田利明がゴーディ&ウィリアムスを破り、世界タッグ王座を初戴冠。



8月1日〈リングス〉大阪府立体育会館。前田が左膝負傷を押して出場するも、ディック・フライにTKO負け。長井満也がデビュー。

8月4日 〈SWS〉長岡大会。阿修羅・原が2年9カ月ぶりにリング復帰。翌5日の高崎大会で天龍との龍原砲が復活。

8月7日〈新日本〉 愛知県体育館。第1回G1CLIMAXが開幕。〈W★ING〉後楽園。旗揚げ戦を開催。

8月11日〈新日本〉両国国技館。G1CLIMAX決勝戦。蝶野正洋が武藤敬司を下して初優勝。 

8月17日〈FMW〉JR九州・鳥栖駅東隣接地でロックとジョイントイベントを開催し、4万8000人の観客を動員。ノーロープ有刺鉄線電流爆破トーナメント決勝で大仁田がサンボ浅子を破り優勝。      

8月25日 〈新日本〉 よみうりランド。佐々木健介が試合中に左腓骨骨折・左側関節靭帯断裂の重傷。 長期欠場へ。


9月4日〈全日本〉日本武道館。三沢光晴&川田利明組がジャンボ鶴田& 田上明組を相手に世界タッグ王座防衛。三沢が鶴田から日本人のギブアップ勝ち。

9月23日 〈新日本〉横浜アリーナ。橋本真也がトニー・ホームに雪辱。メインイベントでグレート・ムタが藤波辰爾に勝利。〈FMW〉川崎球場に初進出。大仁田厚がターザン後藤とのノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチで勝利。

9月26日〈Uインター〉札幌中島体育センター。メインイベントで髙田がボブ・バックランドに75秒KO勝ち。その試合内容にファンが暴動寸前となる。〈SWS〉メキシコEMLL(現CMLL)との提携を発表。     


10月17日 〈新日本〉福岡国際センター。 藤波&ビッグ バン・ベイダー組がSGタッグリーグ戦に優勝。10月18日〈ユニバーサル〉浅井嘉浩が CMLLに移籍し、マスクマンのウルテイモ・ドラゴンになる。 

10月24日〈SWS〉浅井嘉浩との契約を発表。   

11月5日〈新日本〉日本武道館。スコット・スタイナーの負傷返上によるIWGPタッグ王座決定戦が行われ、武藤敬司&馳浩がスコット・ノートン&リック・スタイナーを破り、新王者となる。

11月19日〈W★ING〉団体の解散を発表。 

11月20日〈FMW〉ザ・シークが10年ぶりに来日し、甥のサブゥーと組んで活躍する。



12月4日 〈新日本〉馳が永田町の参議院会館でアントニオ猪木と会談。1992年1.4東京ドーム大会でT・J・シン戦が予定されていた猪木に自身との対戦を要求し、承諾される。

12月6日 〈全日本〉 日本武道館。 テリー・ゴー ディ&スティーブ・ウィリアムスが三沢&川田を破って最強タッグ2連覇達成。

12月10日 〈W★INGプロモーション〉後楽園。旧W★ING所属選手の大半が参戦して、旗揚げ戦を開催。

12月12日 〈SWS〉東京ドーム。「スーパ レッスルIN東京ドーム」 開催。天龍がホーガンに敗北。浅井はウルティモ・ドラゴンに変身、日本デビュー戦を飾る。

12月18日 〈新日本〉巌流島。 馳が猪木との対極を懸けた一騎打ちで、シンにKO勝ち。 12月22日 〈Uインター〉 両国。高田がボクシング元ヘビー級王者のトレバー・バービックとの格闘技世界一決定戦に勝利。

12月25日〈WCW〉アトランタ。獣神サンダー・ライガーがブライアン・ピルマンを破り、第2代WCW世界ライトヘビー級王者となる。

それでは皆さんを1990年代のプロレス界にお連れいたします!



──ゴクさん、ペンダフさん。1990年代のプロレス界を振り返る企画『世紀末バトル・アーカイブス』にご協力いただきありがとうございます!今回は1991年のプロレス界について大いに語っていただきたいと思います。よろしくお願いいたします!

ゴクさん よろしくお願いいたします!
ペンダフさん よろしくお願いいたします!


──1991年のプロレス界は、UWFが解散しまして三派(藤原組、UWFインターナショナル、リングス)に分裂し、新団体W★ING旗揚げ、新日本では『G1 CLIMAX』が開催され、闘魂三銃士が台頭します。全日本では『チャンピオン・カーニバル』でリーグ戦が復活してジャンボ鶴田さんが優勝。また超世代軍が大躍進していくのがこの年でした。また1991年の東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞についていかがですか。


ゴクさん 新人賞が折原さんなんですね。

──折原選手はSWSジュニア戦線で佐野直喜さんや北原光騎さんといった先輩レスラー相手に健闘して、いい試合が多かったんです。この当時から場外へのケプラーダとかやっているんです。

ペンダフさん この頃から無鉄砲だったんですか?


──そうですね。ガムシャラファイトと空中殺法を得意にしてました。


ペンダフさん 後に折原さんはWAR代表として新日本と対抗戦やってから知るようになったので、その時期はあまり意識してなかったですね。山本小鉄さんの著書によると折原さんはプロレスラーになる前に、新日本道場に見学したことがあって、グラン浜田さんがスパーリングで相手して、「子供だから、何してもいいよ」と浜田さんは下になって寝転がると、なんと彼はコーナーに登ってダイビング・ニードロップをしたらしいですよ(笑)。それで浜田さんがブチ切れて、折原さんをボコボコにしたと。


──ハハハ(笑)。


ゴクさん  天性のトンパチですね(笑)。

ペンダフさん 寝技とか打撃じゃなくて、そこでニードロップを選ぶなんて凄いじゃないですか!


──折原選手は結構、強い選手なんですよね。レスリングで実業団で活躍してますから。

ペンダフさん キングダムにも出てましたね。


──1991年は激動の一年だったんですけど、1月4日に1990年のプロレス大賞授賞式があったんですけど、大仁田厚選手がMVPとベストバウトの二冠を達成したのが理由なのか、各団体がこの結果に対して批判をするためか例年になく関係者の出席が少なかったそうです。


ゴクさん そうだったんですね。
 

ペンダフさん 今でこそデスマッチなんか当たり前ですけど、当時はスーパー邪道やと思うんすよね。僕は大仁田さんのデスマッチは別物として見てました。


──1991年がそもそも波乱の幕開けをしていて、その数日後の1月7日にUWFが解散するんですよ。前田さんの自宅に選手が集まって会合をして、解散という流れになるわけですが、その二日後に前田さんはオランダのサンボ世界王者クリス・ドールマンと会談をしてますね。実はドールマンは新日本参戦が内定していたんですけど、白紙にして前田さんを選んで後にリングス旗揚げに協力するようになるんですよ。



ペンダフさん 実は前田さんは先手を打ってたんですね。あと前田さんは藤原喜明さんが藤原組、高田延彦さんがUWFインターナショナルを旗揚げして、色々と疑心暗鬼になっていたのかもしれません。


──それはあると思いますね。

ペンダフさん あと1991年といえば橋本真也VSトニー・ホームですね。まだこの頃は新日本を中心に見ていて、橋本に連勝したトニー・ホームが印象深かったですね。新日本にはビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバンビガロ、スコット・ノートンといった怪物外国人レスラーが勢ぞろいしていて、それが面白かったですよ。

 

──ベイダー、ビガロ、ノートン、ホームの新日本外国人四天王。わきを固めるのが、グレート・コキーナ、ワイルド・サモアンのサモアン・スワットチーム。

ペンダフさん ハハハ(笑)。全日本に負けず、新日本も外国人レスラーが揃ってましたね。


──ゴクさんは1991年のプロレス界で印象に残っていることはありますか?

ゴクさん  僕は1992年からプロレスファンになったんですけど、プロレスを見てから、古本屋で投げ売りで、週刊プロレスが1冊50円で売られていて、それを持てるだけ買うと、やたらと1991年のものが多かったんです。紙面を見ると衝撃的なSWSからの取材拒否という表紙の週刊プロレスがあったんですよ。



──SWS社長・田中八郎さんからFAXで取材拒否の文面が送られてきたことをそのまま表紙にしたんですよね。


ゴクさん  そうです。あの時の週刊プロレスを読むと、取材拒否に対する読者のFAXでの熱量が凄すぎて、「プロレスはこうでなくちゃ!」と思いましたよ。ターザン山本さんと読者があらゆることに揚げ足取りをしている文章が多くて(笑)。


ペンダフさん 全盛期の週刊プロレスにおけるターザン山本さんが良くも悪くも神がかっていましたね。僕は当時は週刊ゴング派で、フラットで中立に取り上げて、冷静に分析するスタンスが好きで、資料性が高かったんです。

ゴクさん  その通りですね。

ペンダフさん 週刊プロレスだと、SWS、新日本に取材拒否されているから抜けている時期があるじゃないですか。そうなると資料としてはゴングのほうが優秀かなと。


ゴクさん  僕はプロレスファンなりたてだってので、分かりやすい週刊プロレスを買ったという感じですね。

ペンダフさん 山本さんは文章に色気があったんですよ。映画畑の人やから例え話とかうまくて。
ゴクさん  ゴングは特集号とか技の解説とか、資料として魅力的でしたね。

ペンダフさん  そうなんですよ。ゴングは冷静に書いていて、週プロはエモーショナル。

ゴクさん  週プロは色を付けすぎくらいやりますよね(笑)。ペンダフさんは1995年4月2日の『夢の懸け橋』(東京ドームで開催されたベースボールマガジン社主催の13団体参加プロレスオールスター戦)とWAR後楽園ホール大会なら、WARの方を選んだんじゃないですか?

ペンダフさん  うーん、迷いますけど。WARに行くかな。今となるとターザン山本さんのポップなセンスは評価されるべきかもしれませんね。でも学生時代は硬派なゴングが好きでした。


ゴクさん  その気持ち、分かります!



ペンダフさん  あとゲームの『ファイプロ』の存在は大きかったです。あれでUWFの凄さを知りましたから!冴刃明、桧垣誠、梶原丈がとにかく強かった!

──冴刃明の大車輪キックは恐ろしい打撃技でしたから!



ゴクさん  冴刃明の大車輪キックは結構、流血率が高かったですね。

ペンダフさん  そうですよね。あと桧垣誠の掌底が凄くて。ここで骨法の恐ろしさを知りましたね。


──骨法を我々に洗脳させたのはターザン山本さんですからね。


ペンダフさん  そうですよ!


──山本さんはカルト宗教の教祖のような感じなんですよ。



ペンダフさん  もしかしたら別分野でも大物になっていたかもですね!



──我々はターザン山本さんと堀辺正史さんに洗脳されましたね(笑)。


ペンダフさん  ジャン斎藤さんも自身のサイトで似たようなことを言ってたんですけど、ファイプロ経由でUWFを知って、そこから後追いでゴングで調べて、過去のVTRを見まくってUWFの凄さを認識していくという感じでした。ビデオは当時、配達レンタルビデオというのが流行っていて、それでプロレスやUWFを借りまくってましたよ。


──ありがとうございます!あとSWSの北尾光司八百長発言事件も1991年なんですよ。


ペンダフさん  ああ、そうだった!


ゴクさん  僕もこの印象が強いですね。


ペンダフさん  SWSはメガネスーパーがバックにいて、WWEと共闘したりして、花道を初めて導入したり、資本主義プロレスとかエンタメ寄りの思想のイメージがあったんですけど、割とこういう事件が多かったですね。あと数年前のSWSを特集したムック本で若松市政さんのインタビューが掲載されていて、当時のSWSでは若手同士の試合はほとんどこれ(シュート)だったらしくて。これが本当かどうかはわかりませんが。


──おおおお!!それはなかなか興味深い証言ですね。


ペンダフさん  だから折原さんや北原さんが台頭したのは納得なんです。


──SWSで個人的に印象に残っているのは、キング・ハクが天龍源一郎さんをビール瓶で殴ったんですけど、それが中身入りだったという話ですね。それが原因で天龍が脳の後遺症を患ったそうです。


ゴクさん  えええ!

ペンダフさん  それはヤバいですね!


──あと阿修羅・原さんとキング・ハクが会場全体に響き渡るほどの頭突きやチョップの打撃戦を展開していて、トップクラスの攻防もSWSはかなりハードヒットだったんです。


ペンダフさん  なるほど!


──ありがとうございます!ちなみに1991年で語りたい試合はありますか?


ゴクさん  これはウケ狙いとかではないのですが、1991年9月30日に日本テレビ系で放送された『第7回ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』で行われた格闘字読みクイズですね。


──ありましたね!


ゴクさん  その字読みクイズに藤波辰爾さん、橋本真也さん、獣神サンダー・ライガーさんが出演していたんですよ。宴会場に突如、リングが出現するという感じでした。最初は解説席にいた藤波さん、橋本さん、ライガーさんがテーマ曲に乗って入場してくるんですよ。鈴木修先生が手掛けた藤波さんの『RISING』、橋本さんの『爆勝宣言』がとにかくかっこよかったのを覚えています。



ペンダフさん  プロレスラーにとってバラエティー番組に出るのは大事ですよね。大仁田さんだって、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんがずっとものまねをしていたことによって知名度が上がりましたよね。


ゴクさん  それはありますね!僕は当時プロレスを見てなかったので、なんで上島という芸人はずっと泣いているんだろうと疑問でした(笑)。

ペンダフさん  ハハハ(笑)。


ゴクさん  その字読みクイズでは橋本さんとライガーさんの相手を最初はたけし軍団が務めて、どんどんハードヒットを食らうんですけど、後半になると井手らっきょさん、春一番さん、ダチョウ倶楽部さんがお笑いという武器を使いながら互角に渡り合うような策を使うんですけど(笑)。


──最高ですね(笑)。


ゴクさん  それで途中で藤波さんを春一番さんが呼び込むシーンがあって、藤波さんがサスペンダーとタキシードを脱ぐと黒のショートタイツを履いていて、ロープ越しで春さんをビンタするんですよ。あの飛竜革命の再現をやったんですけど、僕は当時よく分からなかったんです。もう本当、お笑い番組の一つの企画の中にいろんな元ネタが散りばめられてる。ただ、そんなことを知らなくても、もう本当にプロレスは面白いなという一つのきっかけでしたね。

ペンダフさん  今の『アメトーーク』のように意味は分からなくても面白いという感じですよね!これは後で気がついたんですけど、1992年から始まったWARと新日本の抗争も、会社同士で決めたことかもしれませんが、きっかけはテレビ番組やったらしいですね。

──その通りです。『プレステージ』という深夜番組に越中詩郎さんと木村健悟さんがゲスト出演していたんです。

ペンダフさん そこにWARの北原光騎さんが途中に電話で割り込んで、互いに口喧嘩になったという件ですね。

ゴクさん 確か週プロの記事でそれありますね。

──週プロはそのやり取りを文字起こしをしているんですよ。口喧嘩が終わった後に、馳浩さんやライガーさんに感想を求める光景があって、馳さんが北原さんの言動に「社会人としてどうかと思う」と感想を述べていますね。

ペンダフさん 北原さんは後に「向こうから喧嘩を売ってほしいと言われたのに」と言っていたような気がします。

──何かとテレビがきっかけになることがプロレスにはあったんですね。

ペンダフさん あとはこれは思い出したのですが、1991年にペガサス・キッドがマスクを脱いでいるんですよね。ライガーさんとの敗者マスク剥ぎマッチで。

──新日本の7月4日福岡国際センター大会ですね。

ペンダフさん これは衝撃でしたよ。マスクを取った方がかっこいい(笑)。めっちゃ男前やんけみたいな。ペガサス・キッドというリングネームも、坂口征二さんが当時ペガサスというパチンコにハマっていて、そこにちなんで命名されたという話ですね。

──実はペガサス・キッドは日本ではライガーさんに敗れてマスクを脱ぎましたが、メキシコではビシャノ3号と抗争をしていて、彼に敗れてマスクを脱いでいるんです。だからキッドは2回マスクを脱いでいるということになりますね。


ペンダフさん ペガサス、好きやったですね。僕は初代タイガーマスクは幼稚園の時にリアルタイムで見ていたんですけど、そこまで乗れなかったんですよ。あのマスクがどこか特撮すぎて、その一方がミル・マスカラスの無駄のないデザインのマスクがめちゃめちゃ好きだったんです。入場テーマ『スカイ・ハイ』、彫刻のような筋肉もカッコよくて。

──はい。

ペンダフさん その流れでペガサス・キッドも無駄のないマスクのデザインで、しかもあの筋肉隆々。やっぱり僕はヒーローのライバルキャラが結構好きなんですよね。初代タイガーマスクよりはライバルのダイナマイト・キッドが好きでしたから。

──なるほど!

ペンダフさん 超世代軍でも三沢さんも好きでしたけど、心のなかでは川田さんを応援していたり。鶴龍対決だと天龍さんを支持したり。



──鶴龍対決は、天龍さんの方が支持率が高かったような気がしますね。

ペンダフさん なんか反体制にやっぱ憧れちゃうんすよね。民衆で革命を起こしたい人にシンパシーを感じてしまうんです。どちらかというと追いかけるキャラが結構好きだったりするんだよね。


ゴクさん 孫悟空よりもベジータっていう感じですね。


ペンダフさん そうです!わかりやすい例えをありがとうございます!

ゴクさん わかりますね。


ペンダフさん それでペガサス・キッドの正体がかつて新日本で留学していたクリス・ベノワという若手のレスラーだったわけですよね。後に世界のスーパースターになりますが。

──キッドがマスクを脱いだ時に、解説の山本小鉄さんが「昔、新日本道場で留学していた選手」と言ってましたね。

ペンダフさん そうだったんですね。小鉄さんやマサ斎藤さんの解説は勇み足的なところありますよね。

──小鉄さんの勇み足はなんか可愛げがあるんですけど、マサさんの勇み足解説がすごくてヒヤヒヤしますよね。

ペンダフさん グレートOZの正体も「バスケットボール選手だったんですよ」と平気で言いますからね(笑)。オズの魔法使いキャラなのに、そんな経歴を言われちゃうと幻滅するじゃないですか。

──2代目ブラック・タイガーに「エディ(ゲレロ)」って言いますからね。

ペンダフさん あれはひどかったですね(笑)。


──ニックネームのことをホーリーネームとか(笑)。

ペンダフさん ハハハ(笑)。

ゴクさん ハハハ(笑)。


ペンダフさん 1991年といえば阿修羅・原さんの復帰戦ですね。

──原さんが1988年に全日本を解雇になって、1991年に復帰するまでの物語はほとんど演歌の世界観ですよ。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』でおなじみですね。


──最高ですね。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』は最高ですよね。ゴクさんは読まれたことはありますか?

ゴクさん 持っているかもしれませんけど読んでないかもです。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』の漫画は『プロレススーパースター列伝』の原田久仁彦先生が描かれているんですよ。宝島社から出ていて、WJの黒い話とか暴露系のネタが多くて、「原田先生にこれは書いてほしくなかったな」とショックを受けたんです。でも原さんの回はめちゃくちゃかっこよかったんです。原さんが借金してトンズラして、紆余曲折の末に天龍さんが原さんを迎えに行くという話で。

ゴクさん 原さん、寿司屋で下宿していたんですよね。


ペンダフさん そうです!北海道の寿司屋!

ゴクさん 別冊宝島のプロレスムックで、阿修羅・原さん最後のインタビューという企画があって、東京から来た記者に「長崎に来たんだから、いいもん食わせてやる」といって、リンガーハットでおごったそうです(笑)。



──ハハハ(笑)。

ペンダフさん 『プロレス地獄変』は別冊宝島の漫画の部分だけを単行本にまとめたもので、かなり分厚くて、最初は原さんのエピソード目当てで買って読んだんですけど全部めちゃくちゃ面白かったんですよ。元新日本取締役でWJを立ち上げた永島勝司さんの回が全部面白かった!

ゴクさん 「カ、カテェ!」は有名ですね。


ペンダフさん 『プロレス地獄変』を読むと原田先生のワードセンスが凄くて、梶原一騎先生と組んでいた時期もあるから、梶原一騎イズムを吸収したのかもしれませんね。


──『プロレス地獄変』はラッシャー木村さんの回とか感動しますよね。原さんと木村さんの回はドラマ化してほしいなと思うほどクオリティーが高いです。



ペンダフさん  『プロレス地獄変』は多くの皆さんに読んでほしいです。


──ちなみに1991年の年表を見ると、12月にライガーさんがブライアン・ピルマンを破り、第2WCW世界ライトヘビー級王者になったというニュースがあるんですよ。


ペンダフさん それはゴングの記事で見ましたね。


──あとは第1回の『G1 CLIMAX』が1991年開催ですね。


ペンダフさん  第1回のリーグ戦にエントリーした選手は全員優勝候補でしたね。



──長州力、藤波辰爾、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、ビッグバン・ベイダー、クラッシャー・バンバンビガロ、スコット・ノートンという豪華なメンツでした。


ペンダフさん  今の『G1 CLIMAX』とは全然違いますよ。まさか蝶野さんが優勝して、その決まり手がパワーボムとは…。あと翌年の『G1 CLIMAX』も印象深くて、アメリカンプロレスの選手が大挙来日するじゃないですか。



──1992年の『G1 CLIMAX』はWCWからリック・ルード、バリー・ウィンダム、スティーブ・オースチン、アーん・アンダーソン、テリー・テイラー、ザ・バーバリアン、ジム・ナイドハートが来日しています。今思えば結構渋い人選ですよ。

ペンダフさん  そのトーナメント決勝戦が蝶野さんとリック・ルード。ルードのプロレスなんて僕みたいな子供にはなかなか理解できないじゃないですか。でもいざ試合を見るとルードはうまいですよ。ちゃんとヒールをやってくれていて。



──ルードはランディ・サベージのような試合巧者ですから。


ペンダフさん  ルードとサベージは似ているかもですね。互いに女性マネージャーを引き連れてますから。ルードといえば1994年3月の馳浩戦もよかったですね。


──ルードは1991年の全日本『サマーアクションシリーズ』で来日しているんですよ。殺人魚雷コンビとトリオを組んでましたね。


ゴクさん  そうなんですね!

ペンダフさん 全然覚えてないです。あとスタイナー兄弟も1991年に新日本に来日しているんですよね。

──その通りです!


 
ペンダフさん スタイナー兄弟、好きやったなぁ。アマレスのムーブを出す全面的に選手は地味な印象が強かったんですよ。サルマン・ハシミコフ、谷津嘉章さんとか。その流れをスタイナー兄弟が変えましたね。とにかくド派手でしたね。スタジャンとかかっこよかったし。

ゴクさん  確かに!

──実際にスタイナー兄弟は強いんですよね。

ペンダフさん 特に兄貴のリック・スタイナーは喧嘩が強かったそうですね。


──これは後年の話ですけど、新人時代の真壁刀義選手が先輩から理不尽ないじめを受けた時に、慰めてくれたのはリック・スタイナーだったという話を聞いたことあります。


ペンダフさん そうらしいですね。


──あと橋本さんが真壁選手が理不尽ないじめに遭っているときに「いい加減にしろ!」と一喝したというエピソードもありますね。

ペンダフさん 橋本さんも大概ないたずら好きですけどね。



──橋本さんはいたずら好きですけど、いじめは嫌いなんですよ。


ペンダフさん そこは橋本さんのいいところなんですよ。



(『世紀末バトル・アーカイブス 1991年のプロレス編』終了)



 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。




(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん、事務所ブレーンとして関わった猪木さん、そして今率直に感じる猪木さんへの想い…。

元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!




私とプロレス 木村光一さんの場合「第3回 蜜月と別離」


 


取材対象としての魅力は猪木さんがダントツだった

 
──ここからは木村さんには取材対象として猪木さんについてお聞きします。実際に取材をしてみて猪木さんの印象はいかがでしたか?

木村さん 僕はプロレスライターでもスポーツライターでもないので、これまでプロレスラーや格闘家だけじゃなく、アスリート、芸能人、芸術家、作家、学者、政治家等々あらゆるジャンルの有名人や著名人に会ってきました。これはその経験をふまえた上での結論なのですが、取材対象としての魅力は猪木さんがダントツ。オーラが桁違いでした。自分の憧れの人という特別な感情を大幅に差し引いても、他の方々とは比較になりません。

──さすが、「20世紀のスーパースター」アントニオ猪木さんですね!

木村さん 猪木さんとは取材以外の世間話やビジネスに関する会話までトータルすれば数百時間話をしているにもかかわらず嫌な思いを味わったことは皆無でした。

──どの辺が他の取材対象とは違いましたか?

木村さん 猪木さんのインタビューはテーマによってはかなりハードルが高かったんです。とくにプロレスの話。事業や環境問題のことならいくらでも雄弁に話してくれるんですが、それがプロレスや格闘技についての質問になると短い答えが返ってくるだけですぐ別の話題に変えられてしまう。猪木さんに何度かインタビューした記者や編集者にもたしかめましたが、みんなそれで困ったと言ってました。

──猪木さんはプロレスや格闘技に関してはあまり話をしたがらないというイメージはありますね。

木村さん これは私の推測ですが、猪木さんはアリ戦のあとの苦い経験から「どうせ話をしてもわかんねぇだろう」とその点についてはずっと心を閉ざしていたのではないかと。なにしろ全世界から一斉にバッシングを受けたんですから。最近になって猪木・アリ戦の評価は手のひらを返したように一変しましたが、僕が取材していた95年から2005年の頃でもあの一戦の評価は定まっていませんでした。それに相変わらずプロレス八百長論も根強かったので、もう話すものいいかげんめんどくさかったんだと思います。


なぜ、木村さんは猪木さんからプロレスや格闘技の深い話を聞き出すことができたのか?


──しかし、木村さんはその時期に猪木さんからプロレスや格闘技に関するかなり深い話を聞き出されています。いったいどうやったんですか?

木村さん プロレス記者やマスコミの取材者は、その後の猪木さんとの付き合いもありますから空気を読んで話題を変えるしかなかったんだと思います。猪木さんが話を逸らしたらそれ以上は訊かないという暗黙の了解があったようです。しかし、僕はそもそもプロレス業界でもなければマスコミの人間でもなかった。いわば部外者。しかも猪木さんにインタビューするというそのためだけにいきなりライターに転身したという〝どこの馬の骨かわからない奴〟でした。したがって「この後、二度と話を聞く機会はないかもしれない」という思いもあって引き下がれなかったんですよ。

──危機感があったからこそ踏み込んで質問されたのですね。

木村さん だから僕も最初ははぐらかされましたが、それでもしつこくプロレスや格闘技に関する質問をし続けていくうち、さすがの猪木さんも呆れたんでしょうね、重い口を開いてくれるようになったんです。会う度に根掘り葉掘り質問するものだから、一度、「これはインタビューじゃなくて検察の取り調べだな」と苦笑いされたこともありました(笑)。

──ハハハ。事情聴取をされた気分だったんですね!

木村さん いま思えば、たしかに相当しつこかったし、あの猪木さんの言葉は警告だったのかもしれません(笑)。

──でも、木村さんはプロレス村の部外者だから暗黙の了解も関係なかったと。

木村さん はい。多分、僕の質問の大半はタブーだったんじゃないかと思います。一度、猪木さんがその場にいた新日本の永島(勝司)企画部長に「これ、どこまで答えていいのかなぁ」とあきらかに困った素振りを見せたこともありました。でも、そのうち「なるほど、そう来たか」と面白くなってきたみたいで。猪木さんはプロレス界の象徴として絶対に夢を壊すような発言はしない方でしたが、それでもギリギリの答えを返してくれるようになりました。



蜜月期だからこそ味わうことができた猪木さんのフェイスロック


──猪木さんに技をかけてほしいとリクエストしたこともあったそうですね?

木村さん フェイスロックのことですね。一時期まで新日本の試合で必ず使われていた基本技の一つで顔面の急所を手首の硬い骨で痛めつける技です。この技の話になったとき「理屈ではわかるんですが、どういう痛みなのかイメージできないんです」と僕が言ったところ「ちょっとそこに座って」と猪木さんが立ち上がり、背後に回って僕の頬骨に手首の内側をあてて軽く顎を頭のてっぺんにのせた。そしたら何が起こったと思います?

──わかりません、いったいどうなったんですか? 

木村さん 僕の上顎と下顎が逆方向に捻じれて外れそうになったんです。

──そうなんですか!!

木村さん しかも猪木さんはまったく力を入れていなかった。もし、ちょっとでも力を込めていたら完全に僕の顎関節は破壊されてました。あれは人生で初めて味わった痛みでした。

──フェイスロックって本当はそんなにすごい技なんですか…。

木村さん それ以来、プロレスを見る度にフェイスロックに注目するようになりましたが、でも、猪木さんのそれとはあきらかに別モノなんですよ。多分、ほとんどのレスラーは形だけで本当のかけ方を知らないんじゃないでしょうか。

──貴重な体験をされましたね。

木村さん ええ。僕は自分の中のケジメとして猪木さんからサインも貰ったことはないんですよ。でも、あのときのフェイスロックの痛み。あれが僕にとってはいちばんの宝になってます。



猪木さんに取材すると元気になる!?

        
──ところで木村さんは『闘魂転生』という書籍を出されていますが、その版元のKKベストセラーズさんは不定期に発売していたプロレス雑誌『プロレス王国』の発売元でしたよね。

木村さん はい。平子保雄編集長にはずいぶんお世話になりました。

──確か1996年発売の『新日本プロレスSUPER BOOK プロレス王国特別編集』の企画で猪木さんと橋本真也さんのスパーリングが行われていました。木村さんはそれも実際にご覧になられたんですか?

木村さん いえ、その企画には関わってなかったので一読者として記事を拝見しました。

──猪木さんが上になって掌底を見舞ったり、猪木・アリ状態で橋本さんがヒザ十字固めに移行したり、途中から猪木さんが「ポイントがズレている」とヒザ十字を橋本さんに指導したり、「髙田延彦には極まったかもしれないが、俺には極まらないぞ」と三角絞めをかけさせたり、魔性のスリーパーを伝授したりと、スパーリングと技の伝承も兼ねた内容でした。最後まで猪木さんが元気だったのに対し、橋本さんは鼻血を出して疲弊している印象を受けました。

木村さん 現場にいた平子編集長によると、橋本選手はスパーリングが終わってから「あのおっさん何考えてんだ。何、本気になってんだよ」と怒ってたとか。


──それは橋本さんらしいコメントですね!


木村さん ですね。でも、そのあたりの受け止め方が橋本真也選手の甘さだったんじゃないでしょうか。猪木さんの方はスパーリングの前からコンディションも調整して準備していたそうですから。


──他に猪木さんの取材をしていて印象に残っていることはありますか?


木村さん いろいろありすぎてどれを話したらいいか(笑)。そう、猪木さんの取材をすると大抵の場合、終わった後は元気になるんですよ。でも、猪木さんの調子が悪い時にあたると、どうやらこちらの元気を吸い取られてしまうみたいで、体調を崩してしまうことがありました。


──えええ!


木村さん 自分だけなのかと思って『プロレス王国』の平子編集長に聞いてみたら、やっぱり猪木さんの取材後に具合が悪くなって寝込んだことがあると言ってました。


──つまり、逆に猪木さんはどんなに調子が悪くても人に会うことによって元気を取り戻してたと。


木村さん どうもそうみたいで。ただこちらはたまったものじゃないですよ。気を吸い取られるんですから(笑)。まあ、何度か海外などで猪木さんと数日間一緒に過ごす機会がありましたが、そういうときの猪木さんはまたエネルギッシュで、こっちまで元気を注入してもらってましたけどね。 
       

   
──「猪木が笑えば、世界が笑う!」「元気があれば何でもできる!」を体現してますね!



木村さん まさにそう。だから猪木さんにはいつでも元気でいてもらわなきゃいけなかったんです。 

──猪木さんにはスピリチュアルな力があったんでしょうか?
 
木村さん どうなんでしょう。でも、たしかに猪木さんの引退試合前の沖縄合宿に同行させてもらったときにも不思議なことがありました。タクシーに乗っているとき、隣の猪木さんに「ちょっと手を出してみな」と言われたんで手を出したんです。そしたら猪木さんが僕の手の甲の上に手をかざしたとたんに体の内側が熱くなって。「何か感じる?」と聞かれて「熱いです」と答えると「そうだろ」と。信じられないかもしれませんが、これは本当の話です。
 

海外同行時の猪木さんとのエピソード


──さきほど木村さんは海外にも同行されていたという話がありましたが、そのときのエピソードをお聞かせください。

木村さん 猪木さんとはロサンゼルス、グアム、タイ、バングラデシュにご一緒させていただいたんですが、世界中どこへ行っても必ず誰かが寄ってくるのには驚きました。日本人だけでなく、あらゆる人種の外国人が握手やサインを求めてくる。また猪木さんはそれを絶対に断らない。なのでずいぶん僕が記念写真の撮影係をやらされました(笑)。

──猪木さんはファンサービスにも定評があります!

木村さん ロサンゼルスで取材中、通りすがりのアメリカ人から「彼は何者だ?ムービースターか?」と聞かれたこともありました。バーのラウンジでも。猪木さんを知らない外国人でも、どうやら尋常じゃないオーラを感じたんでしょうね。そのときは「モハメド・アリと闘って引き分けた日本の有名なプロレスラーだ」と説明したんですが、アリの名前を出すとあきらかに態度が変わるのがわかりました。



現代版にアップデートした「格闘技世界一決定戦」を構想していたUFOの設立趣意書を作成!


──やはり猪木さんにとってモハメド・アリとの世紀の一戦は大きな財産だったんですね。そういえば木村さんは猪木さんに密着取材する一方、猪木事務所のブレーンとして、UFO(世界格闘技連盟)旗揚げにも携わったと聞いています。 

木村さん はい。UFOの設立趣意書は僕が作成しました。

──えええ!本当ですか!それは驚愕の事実です!    

木村さん といっても、佐山(聡)さんの頭の中で出来上がっていたイメージを引き出して、それを僕が文書やフローチャートにしてまとめていくという流れなので、あくまで補佐的な関わり方です。佐山さんはアマチュアの下部組織を世界中に作り、そこから何段階かレベル別のステージを設け、その中から選ばれたトップクラスの選手たちが実力を競う最高峰の舞台にUFOのリングを位置付けるという構想を思い描いていました。ルールはほぼ総合格闘技寄り。「ファイティングアーツ(格闘芸術)」というコンセプト・ワードは僕の猪木さんへのインタビューの中で自然発生的に生まれたフレーズを使いました。ちなみにそのUFOの設立趣意書は、英訳されてアメリカのメディア王ルパート・マードック氏に送られたと後で事務所のスタッフから聞いてます。はっきりしませんが、たしかマードック氏がテレビ朝日を買収しようとしていた時期だったような憶えがあります。     


(画像は本人提供です)

──ということは、UFOはマードック氏が所有している全米のテレビネットワークでの放送を目論んでいたわけですね。

木村さん おそらくそうだと思います。猪木さんはUFOの設立当初から世界市場を視野に入れていて、オランダのウィリエム・ルスカ、アメリカのウィリー・ウィリアムスといった異種格闘技戦で闘ったライバルたちを各拠点のリーダーにしようとも考えていました。


猪木事務所のブレーンとして


──めちゃめちゃ面白い話です!猪木さんの「格闘技世界一決定戦」を現在版にアップデートして、組織化していくという構想だったのですね。そういった壮大なプランニングにスタッフとして参加されていた時代をいま振り返るとどんな思いが蘇りますか?

木村さん いや、刺激的で楽しかったですよ! 佐山さんも猪木さんもズバ抜けた天才。そんな人たちと一緒に仕事ができる機会なんて普通ありませんから毎日わくわくし通しでした。ただ、周りの人たちは大変そうに見えました。一応誤解のないよう説明しますが、僕はあくまで猪木事務所とは対等な立場の外部スタッフで社員になったことはありません。仕事は成功報酬。主として運営がうまくいってなかった「公式ウェブサイト」やオリジナルグッズ販売の「イノキイズムストア」のリニューアルなどを頼まれてそのプロデュースを手掛けたり、実現には至らなかった「アントニオ猪木記念館/格闘技アリーナ」の企画立案やさまざまな商品開発に携わったりしていました。ところが、ある日、突然、猪木さんが事務所を解散してそれまで進めていたプロジェクトのすべてが水泡に帰してしまったんです。

──猪木事務所はどうして解散になってしまったんですか?

木村さん いろいろ憶測が流れていたようですが、そのあたりの経緯についてはまったくわかりません。事前に何の連絡もありませんでしたし、いまだに何があったのか誰からも聞かされていないんです。プロレス業界に詳しいマニアファンの間では一方的に猪木事務所が悪の巣窟のように語られているみたいですが、僕の見た限り、スタッフはみんな猪木さんのために体を張って頑張ってましたよ。正直、僕はもともと猪木事務所の倍賞(鉄夫)社長が新日本プロレスの役員時代に揉めたことがあって関係はあまりよくなかったんです。それでも、事務所に出入りしても倍賞さんから嫌な顔をされたことはありませんでした。が、肝心の猪木さんと倍賞さんの間には何かあったようで…。どうやら猪木さんにネガティブな情報を吹き込んでいる人たちもいたようでした。そう、さっきは猪木事務所の仕事は楽しかったと言いましたが、僕は猪木さんの周りでそういう不信感が渦巻いている状況には辟易してました。というのも、猪木さん関連の仕事の窓口は猪木事務所だけじゃなく、他にいくつも派閥があってつねに牽制し合ってたんです。僕は中立の立場でいずれの派閥とも仕事をしていたので冷静に全体の状況が見えていたんですが、よくよく考えてみると、猪木さんを独占したいというそれぞれの派閥の思いを利用して綱引きをさせていたのは他でもない猪木さんだったんです…。

──今の話を聞くと猪木さんは現役引退後も周囲に緊張感をふりまいていたんですね。

木村さん 猪木さんはリング上でそうだったように馴れ合いがいちばん嫌いだったんでしょうね。でも、プロレスならレスラー同士の不信感も闘いのドラマへと転じてプラスに作用する可能性もありますが、通常のビジネスの現場にそのやり方を持ち込んでも足の引っ張り合いにしかならないのにと僕は思ってました。


猪木さんとの別離


──猪木事務所が解散した翌2007年、猪木さんは新団体IGFを旗揚げします。木村さんはIGFには関わることはなかったのですか?

木村さん 関わりませんでした。というのも、猪木事務所が解散してIGFが旗揚げするまでの間に、モハメド・アリの娘レイラ・アリと猪木さんの娘・寛子さんに異種格闘技戦をやらせるというプランが持ち上がったんですが憶えてますか。

──ありましたね!2006年8月に、アントニオ猪木vsモハメド・アリ30周年を記念したイベントを日本武道館で開催して、アリの娘VS猪木さんの娘が行われる計画だと当時の東京スポーツで報じられました。結果的に実現はしませんでしたが。

木村さん ちょうどその時期、猪木さんの元・側近の方から会議に参加してくれないかという連絡があったんです。猪木さんからのご指名だと。でも僕は「申し訳ありませんがアリの娘と寛子さんの試合の件なら参加できません。もし猪木さんがそれを本気でやろうとしているのなら、猪木さんが御自身の歴史を否定することになります」とお断りしました。アリの娘は正真正銘プロボクサーなのに対し、寛子さんは格闘技経験ゼロのズブの素人。いくらなんでもそんなマッチメイクはあり得ない。強力な話題性が必要なのはもちろんわかっていましたが、そんなことを猪木さんがやってしまったらこれまでのアントニオ猪木の歴史までもがすべて嘘になってしまうと訴えたんです。それ以来、猪木さんサイドからの連絡はなくなりました。

──ちなみに2007年6月29日・両国国技館で行われたIGF旗揚げ戦はご覧になられましたか?

木村さん テレビで見ました。見事でしたね。あの旗揚げ戦のクオリティーが維持できればIGFは凄い団体になったと思います。しかし、続きませんでした。原因ははっきりしてます。メインイベントのカート・アングルVSブロック・レスナーがあまりにも凄すぎたんです。

──カート・アングルVSブロック・レスナーは、WWE『レッスルマニア』でもメインイベントとなったドル箱カードですからね! でも、なぜそれがIGFの続かなかった原因だと?

木村さん おそらく、あの試合はIGF旗揚げ当時の猪木さんの理想でありメッセージだったと思うんです。「こういうプロレスをおまえらやれよ。俺はこういうプロレスが見たいんだ」という。けれども、僕は残念ながら日本人選手には絶対真似できないプロレスだと感じていました。かといってアングルやレスナー級の選手を毎回呼ぶことはできないし、そもそもあの2人の他にああいう試合がやれる選手がアメリカにいるかどうかもわからなかったわけで…。つまり、その先、尻すぼみになるのは最初から見えていたんです。

(第3回 終了)





 ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。




(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん…。

元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!




私とプロレス 木村光一さんの場合「第2回 アントニオ猪木の強さとは!?」


 

学生時代に格闘技研究をしていたからこそ分かるアントニオ猪木の強さ

──木村光一さんは〝格闘家・アントニオ猪木〟という視点から長年取材されてきたわけですが、なぜ〝プロレスラー・アントニオ猪木〟ではなかったのでしょう?

木村さん 前回も話しましたが、僕は子供の頃からプロレスラーの中でアントニオ猪木だけが違って見えるのはなぜなんだろうってずっと思い続けてたんですよ。そもそもルールの全く違う格闘技の超一流の選手たちとどうしてあんな凄い試合ができたんだろうと。それは〝プロレスだから〟の一言で済まされるほど簡単なことじゃない。その証拠に、猪木さんの他に、異種格闘技戦であれだけ多くの名勝負を残したレスラーは存在しないわけですから。

──確かにそうですね!

木村さん しかし、それについて考えようにも、僕が猪木さんの『格闘技世界一決定戦』に衝撃を受けた70年代半ば頃はビデオもなければ専門誌もほとんどなかった時代で、自分の記憶以外には手がかりがまったくなかったんです。そんなわけで、これは実践して身体で確かめてみるしかないと、少林寺拳法や柔道をやってる友だちを集めて公園で格闘技研究会みたいなことを勝手にやり始めたわけです。

──どなたかの指導を受けたわけではないんですか?

木村さん もともと僕は『空手バカ一代』とブルース・リーの影響を受けて、中学1年から知り合いにマンツーマンで空手を教わってたんです。伝統派空手の3段を持っていた人だったのですが寸止めに飽きたらなくなってキックボクシングのリングに上がったり、ストリートファイトで5人を相手にKOしたり、とにかく武闘派だったんですよ。ある日、その僕の師匠がなにを思ったか自動販売機に正拳突きを入れたところカップヌードルがドサドサッと無限に出てきて、それを山ほどおみやげにもらったなんてこともありました(笑)。



(写真は本人提供)

──ハハハ。ものすごい師匠ですね!

木村さん そんな調子なので教わったことといえば複数の相手との喧嘩の仕方みたいな、そういうことばかりで(苦笑)。そのうち師匠から「道場に行ってちゃんとした空手を教われ」と言われて町の道場に通うようになったんですが、なにしろ最初に教わったのがそういう空手だったのでさっぱり熱が入らなくて…。そんな時期に猪木さんの『格闘技世界一決定戦』を見て『空手バカ一代』『燃えよドラゴン』に続く第三の衝撃を受け、それをきっかけに中学高校の頃、同志を集めて格闘技研究みたいなことを始めたんです。

──具体的にはどんなことをやってたんですか?

木村さん まずはフルコンタクトに憧れがあったので、打たれ強さと防御を身につけようとひたすら打撃を受け続けるという練習を考案しました。反撃は許されない、一方的にボコボコにされるという(笑)。ほかにはVS柔道特訓もやりましたね。梶原一騎先生の『空手バカ一代』には〝柔道家は相手を掴まなければ技をかけられない。掴んできたら一撃を加えればいい〟と書いてあったんですが、実際、黒帯の柔道部員と道場で異種格闘技戦ごっこをやってみたらそんなに簡単にはいかず、結構投げられたんです。たしかに面白いように蹴りは入ったんですけどね。で、猪木・ルスカ戦後の「路上のストリートファイトなら猪木は投げでKOされていた」というカール・ゴッチのコメントをプロレス雑誌で読んで、確かにそうだと思って、地べたの上で柔道部員に投げてもらって受け身をとる特訓をやったんです。

──マットも敷かないで地面に投げられたんですか!?

木村 はい。いまにして思えばほんとバカですよね。受け身さえとれれば投げられた直後に必ず反撃のチャンスが生じる! なんて根拠のない理屈を念じながら「もう一丁!」(笑)。しばらくは全身打撲と擦り傷の痛みで寝られませんでした。

──かなり危ないことをやってたんですね。

木村さん 誰も大きな怪我をしなかったのはラッキーだったとしかいいようがありません。それに、実際、受け身特訓のおかげで助かったんです。夜、急な下り坂を自転車で走っているとき、 ライトをつけようと発電機に足を伸ばしたら爪先を前輪に突っ込んじゃって、前方に一回転してアスファルトに背中から叩きつけられたことがあったんですよ。上から自転車が落ちてくるのがスローモーションで見えました(笑)。ところがかすり傷ひとつ負わずに済んだんです。

──それは一歩間違ったら大変な事故でした…。

木村さん ええ、他にも笑い事では済まされないこともいくつかありました。いずれにせよ、ちょっと間違った方法論ではありましたが、格闘技についての情報や知識不足をとりあえず〝痛みという絶対的感覚〟を通して身体に叩き込んだわけです。結果、子供ながらにリアルとフェイクの違いが直感的にわかるようになったというか。その時点でレスリングや関節技についての知識は皆無でしたが、アントニオ猪木は本物であるという確信がどんどん固まっていったんです。すみません、また前置きが長くなってしまって。


アントニオ猪木と石澤常光の゙スパーリング

──いえ、すごく面白いです! 木村さんの場合、つねに感じたら即行動されるんですね。

木村さん やってみて納得できることがあれば、その先、理屈はどうあれ直感が働くようになりますよね。その直感から入っていったほうがより深いところに辿り着ける。僕にとってのアントニオ猪木を探究する旅がまさにそれでした。

──猪木さんにスパーリングを見せてもらったこともあるそうですね?

木村さん はい。猪木さんにお願いして新日本の道場で。1996年の夏頃です。スパーリングパートナーは当時付き人を務めていた石澤常光選手でした。

──すごい! めちゃめちゃ貴重な体験ですね!

木村さん 実はその前に『闘魂戦記 格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)という本の取材で、佐山聡さんや藤原喜明さんに「アントニオ猪木がセメントのスパーリングで使っていた本当のフィニッシュ技は何なのか」という質問に答えていただいていて、それを直に自分の目で確認したかったんです。

──実際に見た猪木さんのスパーリングはどのようなものでしたか?

木村さん 想像していたよりずっと静かで淡々としていて、すごく柔らかい印象でした。猪木さんは終始受け身なんですが、身体の柔軟性をうまく使っていつの間にか形勢を逆転させて下になった状態から三角絞めで一本取ってしまったり。UWFや橋本真也選手はキックで倒してから三角絞めというのが必殺フルコースでしたから、猪木さんの技の入り方を目の当たりにした瞬間は鳥肌が立ちましたね。



(写真は本人提供)


アントニオ猪木の本当の得意技とは? 

──恐らく、当時パンクラスの船木誠勝選手が下からの三角絞めを実戦でも使っていたくらいで、プロレスの試合で使っている人はいなかったです。あと猪木さんの三角絞めは試合ではあまり見たことなかったですね。

木村さん おっしゃる通りです。でも、僕がそのスパーリングで本当に見たかったのは、実は〝フィギュア・フォー・ボディーシザース〟だったんですよ。

──フィギュア・フォー・ボディーシザース? 要は胴絞めのことですよね? 

木村さん 佐山さんが「猪木さんの本当の必殺技はボディーシザースですよ。とくにフィギュア・フォーが巧かった」と語っていたんです。ある時期まで、猪木さんは試合でもよく使っていたんですが、あくまで繋ぎ技の一つという印象しかなかったので意外に思ったんですね。フィギュア・フォー・ボディーシザースは二種類あって、相手をうつ伏せにしてから上からのしかかるように胴を絞めるのと、仰向けあるいは身体が起きた状態のまま背中側から胴を絞めるパターンがある。スパーリングの最後に猪木さんが見せてくれたのは後者で、技に入った瞬間に石澤選手がタップしてました。

──恐らくその技は2001年のPRIDEで〝柔術マジシャン〟アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラがヒース・ヒーリングとの初代PRIDEヘビー級王座決定戦で使ったあれですよね。ヒーリングの意識が朦朧となっていった場面をおぼえています。

木村さん そうです。僕も『Number』の猪木インタビューで、ノゲイラの胴絞めから猪木のフィギュア・フォー・ボディーシザースを想起したという一文を書いています。


アントニオ猪木にとってタックルを取られるのはそれほど重要じゃなかった


──猪木さんのスパーリングパートナーを務めた石澤選手はレスリング全日本選手権を制したレスリングエリートで、スパーリングではダントツに強かった選手です。新日本の道場で彼からタックルでテイクダウンを取った人はひとりもいなくて、藤原組やシューティングのジムにも出稽古にも出向いて強さを磨いた猛者で、当時「新日本道場最強の男」と呼ばれていたんですよ。その石澤さん相手でも猪木さんは強かったんですね。

木村さん 最近よく接待スパーリングが云々とか言う人たちがいますけど、僕が見た時点での寝技における両者の技術にはかなり開きがありました。石澤選手にも話を聞いたんですが「(猪木)会長の関節をとっても全然極まらないんですよ」と首を捻っていました。そうそう、あとは「猪木はタックルできない説」みたいなのが流布されてますけど、僕が思うに、アントニオ猪木にとってタックルはそれほど重要じゃなかったんじゃないかと。なぜなら猪木さんは下からいくらでも極められたわけですから。自分からテイクダウンを取りに行く必要はなかった。

──猪木さんからすると下のポジションから寝技に引き込めばいいと。発想としては柔術的ですね。

木村さん ええ。実際にスパーリングを見て感じた猪木さんの強さはレスリングとは異質な感じがしました。佐山さんはそれを〝柔らかさとしなやかさ〟と表現してましたし、藤原さんも「猪木さんは体全体が柔らかくて、いくら技をかけても効いてんのか効いてないのかわかんない。本人は意識してないんだろうけど、技を逃しちゃう感じがあるんだ」とその独特のニュアンスを語っていました。

──う〜ん、深い! 他に木村さんが感じられたことは?

木村さん 猪木さんは観客の前ではつねに感情の動きを表現してましたが、さっきも言った通り、スパーリングのときは終始淡々としていて表情がない。相手を理詰めで追い込んでいく感じというか。その冷静さが冷徹に変わったとき、アクラム・ペールワン戦のような悲劇が起きたんじゃないか…。そんなことも考えてしまいましたね。  

──猪木さんがダブルリストロックでペールワンの腕をへし折った伝説の一戦ですね。

木村さん 猪木さんがそういうモードに入ってしまったときは顔が青ざめて無表情になるんですよ。表情があるうちはまだプロレスモードだけど、表情が消えたときの猪木さんは…。その中間にあるスパーリングを生で目撃して、ようやくアントニオ猪木のプロレスがわかった気がしたんです。つまり、プロレスの場合、強さを〝生〟のまま観客に見せてもしょうがないのだと。でも、じゃあ、猪木さんはその強さを何に使っていたのか? そこにアントニオ猪木のレスラーとしての本当の凄さが凝縮されていたわけです。


アントニオ猪木は格闘技の強さをどこに使っていたのか?

──その気になる答えを教えていただいてもよろしいですか。

木村さん 猪木さんは格闘技のテクニックを使って相手をコントロールし、自在に試合を展開させていたんです。いわゆる攻撃と受けを段取りや型として見せていたのではなく、技術を背景とした理詰めの動きの中で相手を捕まえたり、リリースしたりを繰り返しながら、相手の出方や観客の反応によってときに技の掛け方をシビアにしたりしていた。ある新日本のレスラーは僕に「猪木さんはそういうところがイヤらしい」と言っていましたが、相手は追い詰められて本当に痛みや恐怖を感じているから反応もリアルで真に迫っていたわけです。だから猪木さんの試合はつねに緊張感があり、派手な大技を見せなくても観客をぐいぐい試合に引き込むことができたのだと僕は分析しています。

──プロレスにおいて相手をコントロールして試合を組み立てていく選手は今の時代もいますけど、皆さんプロレスの中の技術や手法で実行されてます。猪木さんはそれを格闘技の技術で実行していった。そんな芸当をやれたレスラーは猪木さんしかいなかったんじゃないですか。

木村さん プロレスを完全なる約束事として捉えていなかったという意味でアントニオ猪木は稀有な存在だったのではないでしょうか。もちろん猪木さんも試合の中に観客にカタルシスを与えるための技やパフォーマンスも織り交ぜてはいますが、基本的に格闘技として矛盾する動きはしていなかった。それもリアリティにつながっていたんです。

──なるほど、だから猪木さんのような試合運びは他の選手には真似できないわけですね。

木村さん 真似なんてできないですよ。プロレスラーである前に格闘家でなければできないプロレスなんですから。じゃあ格闘家なら真似できるかというとそれも違う。格闘家が持っている技術は相手に勝つための合理的手法であって、それを使って試合を作っていくという逆の発想やセンスをあとから身につけるのはおそらく相当難しいでしょう。それを高い次元で両立させていたことがアントニオ猪木の凄さだったんです。


アントニオ猪木の格闘技術の源流


──ちなみに猪木さんの格闘技術の源流はどこにあったとお考えですか?

木村さん それは間違いなく力道山時代の日本プロレス道場でしょうね。

──日本プロレス時代の話はどうしても聞きたかったんです。俗に言う「極めっこ」(サブミッションを取り合うスパーリング)ですよね。当時の日本プロレスで行われていた「極めっこ」では猪木さんの強さが群を抜いていたといわれています。取材をされて、そのあたりの確証のようなものは掴めましたか?

木村さん はい。キーマンは大坪清隆さん。96年に『闘魂戦記』の取材をした際、猪木さん自身が「寝技の技術は大坪さんから教わった」と言ってました。

──大坪さんは柔道5段で実業団でも活躍され、木村政彦さんのプロ柔道にも参加された柔道家でした。元々は高専柔道出身の方なんですよね。

木村さん 増田俊也さんの著書『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)にも登場してます。他に猪木さんは「日本プロレス時代、基本的なことは最初にレフェリーの沖識名さんから教わった」とも語っていたのですが、最近になって、プロレス史家の皆さんの調査によって、その沖識名さんが〝檀山流柔術〟(ハワイアン柔術)やCACC(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)を修得していた達人だったことがわかってきています。ちなみに力道山もアメリカに渡る前に沖識名さんにコーチを受けていたというのは有名な話です。つまり、順を追って説明すると、猪木さんはまず沖識名さんから柔術やCACCの基礎を教わり、その後、徹底的に大坪さんから高専柔道の寝技を、さらに吉原功さん(後の国際プロレス代表で、早稲田大学レスリング出身の元プロレスラー)からアマレスの技術を伝授されていた。それらの格闘技術のすべてがプロレスラー・アントニオ猪木のバックボーンになっていたんですよ。

──なるほど! めちゃくちゃディープな話です! まさに日本プロレス道場は「虎の穴」だったんですね。

木村さん でも、猪木さんはもともと陸上競技の投擲種目の選手で、日本プロレスに入ってから格闘技を始めた人ですから「この技術は柔術」とか「この技術は高専柔道」とかいう認識はまったくなかった。教える側もいちいちそんな説明はしませんから、先輩方とのセメントのスパーリングを通して痛みと共に無意識のうちに身体で技術を吸収していった。猪木さんにとってはそれが最初に叩き込まれたプロレスそのものだったわけです。


53歳のアントニオ猪木は「まだ寝技なら誰にも負けない」と言っていた


──これはどうしても聞きたかったんですけど、日本のプロレスや格闘技の世界での足関節技の源流がちょっと分かりにくかったりするんですよ。ヒザ十字固めやアキレス腱固めは昔からあったという話があったり。ヒザ十字は古流柔術で存在したとも言われているんですけど、ヒール・ホールドの源流はどこになるのですか?

木村さん 75年から76年にかけて新日本にプロレス留学していたバーリトゥード王者のイワン・ゴメスです。ヒール・ホールドの技術がゴメスによってもたらされたことは、猪木さん、佐山さん、藤原さんの3人から証言を得ています。アンクル・ホールドについてはさまざまな格闘技に古くからある技なので確かめていませんが。

──実は以前、Twitter内で足関節技サミットを開催して、日本のプロレスや格闘技の世界における足関節技の源流を掘ってほしいという話題があったんですよ(笑)。

木村さん じゃあ堂々と「ヒール・ホールドのルーツはイワン・ゴメスだ」と断言してください(笑)。

──ありがとうございます。では、このテーマの最後の質問です。木村さんは、アントニオ猪木はいつ頃までその強さを維持していたとお考えですか?

木村さん 40代以降の猪木さんは糖尿病やさまざまな怪我の影響で決して良好なコンディションを保てていたとはいえません。それでも、スパーリングを見せてもらったとき、猪木さんは「まだ寝技だったら誰にも負けない」と断言してました。53歳の頃ですね。そういえば石澤選手がスパーリングの合間、オレッグ・タクタロフ(元UFCファイター、元世界サンボ選手権2度優勝)の膝の極め方を猪木さんから教わってました。確か、タクタロフと猪木さんはその年(1996年)にアメリカ・ロサンゼルスで行われた『平和の祭典』で対戦(オレッグ・タクタロフ、藤原喜明組VSアントニオ猪木、ダン・スバーン組)しています。ということは、現役引退の2年前の時点でも猪木さんはまだいろんな選手の格闘技術を貪欲に吸収していたわけです。そういうことも踏まえた上で猪木さんの「寝技なら負けない」という言葉について考えてみると、こと技術面では本当にそうだったのかもしれないと思えてくる。それだけの説得力が猪木さんの技にはありました。

(第2回終了)


 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 

今回のゲストは、数々のアントニオ猪木さんの書籍を出された作家の木村光一さんです。




(画像は本人提供です) 




木村光一

1962年、福島県生まれ。東京造形大学デザイン学科映像専攻卒。広告企画制作会社勤務(デザイナー、プランナー、プロデューサー)を経て、'95年、書籍『闘魂転生〜激白 裏猪木史の真実』(KKベストセラーズ)企画を機に編集者・ライターへ転身。'98〜'00年、ルー出版、いれぶん出版編集長就任。プロレス、格闘技、芸能に関する多数の書籍・写真集の出版に携わる一方、猪木事務所のブレーンとしてU.F.O.(世界格闘技連盟)旗揚げにも協力。

企画・編著書に『闘魂戦記〜格闘家・猪木の真実』(KKベストセラーズ)、『アントニオ猪木の証明』(アートン)、『INOKI ROCK』(百瀬博教、村松友視、堀口マモル、木村光一共著/ソニーマガジンズ)、『INOKI アントニオ猪木引退記念公式写真集』(原悦生・全撮/ルー出版)、『ファイター 藤田和之自伝』(藤田和之・木村光一共著/文春ネスコ)、Numberにて連載された小説『ふたりのジョー』(梶原一騎・真樹日佐夫 原案、木村光一著/文春ネスコ)等がある






YouTubeチャンネル「男のロマンLIVE」木村光一さんとTERUさんの特別対談


https://youtu.be/XYMTUqLqK0U 



https://youtu.be/FLjGlvy_jes 



https://youtu.be/YRr2NkgiZZY 



https://youtu.be/Xro0-P4BVC8 


 

最高に面白くて学びが多い約3時間のインタビューとなりました。木村さんのお話を聞いて「猪木さんって深いなぁ」「猪木さんってやっぱり唯一無二なんだなぁ」と認識しました。

プロレスとの出会い、アントニオ猪木さんの凄さと魅力、格闘技者としての猪木さんの強さ、取材対象としての猪木さん…。

元週刊プロレス編集長のターザン山本さんは自身のTwitterで木村さんについてこのように言及しています。

「木村光一さんは史上最強の猪木研究家だ。猪木のある試合。コマ送り。10万8千コマ。なんと全て見終わるのに1週間かかった」
「アントニオ猪木はインタビュアーの質問を全てすかす、はずす、そらす。だから対話にならない。ただ自分が言いたいことを一方的にいうだけの人。唯一、木村光一さんは例外。絶対に逃がさなかった」


これは、偉大なプロレス界のカリスマ・アントニオ猪木さんの真の実像を追い求め続けた闘魂作家・木村光一さんの物語です!

是非ご覧ください!


私とプロレス 木村光一さんの場合「第1回 真の猪木を追い求める闘魂作家、登場!」


 
実在する猪木と漫画アニメのキャラクターとしての猪木。両方のカッコよさに魅了されてプロレスが好きになった

 
──木村さん、このような企画にご協力いただきありがとうございます! 今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。

木村さん よろしくお願いします!


──まず最初に木村さんがプロレスを好きになったきっかけからお聞かせください。

木村さん 小学校1年の時に、『ぼくら』(講談社)という漫画雑誌で『タイガーマスク』(辻なおき、原作・梶原一騎)を読んでプロレスに夢中になったんです。ところが、その劇中に登場するアントニオ猪木が主役のタイガーマスクより強いことに衝撃を受けまして(笑)。もっとも、漫画を読む前からテレビのプロレス中継を観ながら、スピード、テクニック、ルックスのすべてにおいてアントニオ猪木が群を抜いていると子供心に感じていましたので、タイガーマスクより強いというのも納得でした。つまり、実在する猪木と漫画アニメのキャラクターとして戯画化された猪木の両方のカッコよさに魅了されてプロレスが好きになったんです。

──なるほど。でも、ということは猪木さん以外のレスラーとも同じような出会いがあったはずですよね? とくにジャイアント馬場さんはジン・キニスキーやブルーノ・サンマルチノともやりあっていた全盛期で、『タイガーマスク』の劇中でも猪木さんより活躍してたと思うんですが?

木村さん 1960年代の終わりですから全盛期はちょっと過ぎてましたね。それでも、いま、昔のビデオを確認すると、馬場さんや大木金太郎さんもそんなに悪い動きじゃないし、たしかに漫画やアニメでもかなりカッコよく描かれてました。でもプロレス中継を観ると、なんだやっぱり漫画と全然違うじゃんと(笑)。

──ハハハ。今のお話を聞く限り、木村さんが初めて好きになったレスラーは猪木さんということで間違いないですね(笑)。

木村さん はい。100パーセントその通りです(笑)。



母から「プロレスは生で見るもんじゃない」とずっと言われていた


──では、プロレスをはじめて会場で観戦したのはいつですか?

木村さん それはだいぶ後になります。1985年8月1日の新日本プロレス・両国国技館大会でのアントニオ猪木VSブルーザー・ブロディが最初ですね。それから猪木さんの引退まで、後楽園ホールと両国で行われた試合はほとんど生で観てます。

──ということは、初観戦は社会人になってから?

木村さん はい。なんでそんなに遅かったのかっていうと…。ちょっと長い話になりますがいいですか?

──ぜひ聞かせてください。

木村さん 子供の頃から母に「プロレスは生で見るもんじゃない」とずっと言われてたんですよ。

──どういうことでしょう?

木村さん 隠す必要もないし、半世紀以上前のことなので話します。実は私が5歳の時に亡くなった父は、いわゆる地元の興行全般を取り仕切るその筋の関係者だったんです。なので僕の実家には父と芸能人のツーショット写真が山のようにありました。

──プロレスに限らず、興行全般が裏社会との関わりを避けて通れなかった時代ですね。

木村さん ええ。そういう特殊な家庭環境で育ったせいか、僕は田舎育ちですが、テレビの向こうの世界をそれほど別世界とは感じてなかったんですよ。すみません、すこし話が脱線しましたね。で、話を戻しますと、母が言うには、その父が生前に手がけた日本プロレスの興行がでたらめで酷かったと。昔から、プロレスは地方に行くと手を抜くとか言われていましたが、その最たるものだったそうです。

──そうだったんですか! それはいつ頃のことですか?

木村さん 馬場さんや猪木さんの姿は見かけなかったという話なので、豊登さんが社長だった頃じゃないかと。ちなみに僕の母は大の猪木ファン。元々プロレス好きの母が言うんだから、よほど酷かったんだろうと思います(笑)。それからずいぶん経って、僕が高校生の頃に新日本の興行が地元であったんですが、やはり同じことを言われて観に行くのをやめました。で、大学入学を機に上京してからは仕送りがなくて生活費を奨学金とアルバイトで賄う生活をしていましたから、正直、プロレスを会場まで観に行こうという発想すら浮かびませんでした。


大学の学園祭で開催した伝説の格闘技大会

──プロレス観戦の時間もないほどお忙しかったんですね。

木村さん しかも僕が入学したのは美術大学でしたので、課題や作品の制作にもけっこうお金が掛かったんです。しかし、よくよく振り返ってみると、あの頃は新日本プロレスの黄金時代だったんですよね…。

──1981年~1984年の新日本は猪木さんを始め、長州力さん、藤波辰巳さん、初代タイガーマスク、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン…時代を彩ったスーパースターが勢揃いしていた時代でした。

木村さん そうなんですよ。いま思えば、どんなに無理をしてでも行くべきだったとずっと後悔してるんです…。そうそう、プロレス観戦には行けませんでしたが、大学3年の学園祭で格闘技大会があって、そこで異種格闘技戦をやったことがあるんですよ。

──本当ですか!

木村さん すこしばかり空手をかじっていたので、アントニオ猪木VSウィリー・ウィリアムスへのオマージュとして、空手VSプロレスをやったんですよ。中学、高校と8ミリフィルムのアクション映画をいっしょに作っていた仲間の1人を呼んでね。ところが、試合途中にアクシデントがあって僕の方が流血しちゃったんですよ。

──えええ!!

木村さん 唇を3針縫う程度の大した怪我じゃなかったんですが、なにしろ本物の血を流してしまったでしょう、会場が異様な雰囲気になってしまって。当時、大学は高尾の山奥にあったので学園祭はオールナイト。格闘技大会が行われたのも真夜中で観客のほとんどが酔っ払ってテンションが上がってる。そんな状況で流血ですからもうすごい騒ぎでした(笑)。僕も興奮して没入しちゃってたんでしょうね、セコンドがタオルで血を拭こうとしてくれたんですが「せっかく血を出したんだから余計なことすんな!」って怒鳴ってました。




(木村さんが大学の学園祭で行った異種格闘技戦)


──凄い!完全にファイターモードに入ってるじゃないですか(笑)。

木村さん その時、ちょっとだけプロレスラーの気持ちがわかったような気がしましたね(笑)。

──ちなみにその異種格闘技戦はどのようなルールだったんですか?

木村さん ルールも何もよくわからない状態のまんま闘ってました(笑)。

──アントニオ猪木VSマサ斎藤の「巌流島の戦い」のようにお互いのプライドがルールみたいな感じですか。

木村さん そんなカッコいいものじゃないですけど、たしかフォールはなかったと思います。

──今の時代にそのような大会を配信とかでやったら、絶対に見ますよ!

木村さん いやいや、若気の至りでお恥ずかしい限りなんですが、学園祭が終わってからもしばらくは学内で知らない人からよく声をかけられて「感動して本当に涙が出ました」と握手を求められた時もありました。いや、僕のやったことは真似事にすぎなかったんですが、それでもそんなふうに人の心に訴えることができたんですから、プロレスって凄いと思いましたね。あれ、すみません、なんの話をしてたんでしたっけ?(笑)


坂口征二、高野俊二、ブルーザー・ブロディ…3人のデカさに圧倒された

──はい、では話を戻します(笑)。プロレスを実際に会場で生観戦した時はどのような印象を受けましたか?

木村さん まず坂口征二選手の大きさにびっくり。あとは高野俊二(拳磁)選手、ブルーザー・ブロディ。この3人のでかさに圧倒されました。

──3人とも2mクラスですね。(坂口:196cm 130kg、高野:200cm 120kg、ブロディ:198cm 135kg)

木村さん 坂口さんは馬場さんとは違ってバランスの取れた体型の人を骨太にして大きくした感じじゃないですか。それまでああいう人を見たことがなかったので驚きました。きっと坂口さんは相当強かったと思いますよ。

──実際に異種格闘技戦になると坂口さんはやっぱり強いですよね。

木村さん UWFとの抗争の時だって、坂口さんだけちょっと別格って感じでしたよね。前田(日明)選手がアキレス腱固めをかけてもスッと立ち上がってしまうし、蹴られまくっても平然としてるのを見て「この人、すごい!」と鳥肌が立ちましたよ。


1970年代から1980年代初頭の新日本プロレスはフィクションを超えていた


──ありましたね! それだけの強者が新日本のエースにならずに猪木さんを支える女房役であり続けたんですよね。ここで木村さんが当時お感じになった新日本の凄さと魅力について語っていただいてもよろしいですか。

木村さん 僕が夢中になっていた1970年代から1980年代初頭の新日本プロレスはフィクションを超えていたんですよ。それはどういうことかというと、1960年代から長い間、日本のプロレス、ボクシング、キックボクシング、空手といった格闘技は1人の作家が創作した『チャンピオン太』『ジャイアント台風』『あしたのジョー』『タイガーマスク』『キックの鬼』『空手バカ一代』といった作品にリードされていたわけです。

──梶原一騎さんの時代ですね。

木村さん はい。その梶原先生が世に広めた虚実ない交ぜのファンタジーをアントニオ猪木の『格闘技世界一決定戦』のリアリティが超えてしまった。それまでフィクションの世界の中でしかありえなかった世界最強の男たちを集めて雌雄を決するリングが現実に目の前に出現して、そこで猪木が、世界最強の柔道家、世界最強のプロボクサー、世界最強の空手家と闘ってみせた。あの時、僕らは紛れもなくリアルがフィクションを凌駕してしまった瞬間を目撃してしまったんです。

──まさに歴史的瞬間だったんですね! 

木村さん プロレスに限らず、そんな壮大な夢を実現してみせてくれたのは、アントニオ猪木が率いる新日本プロレスが初めてでしたし独壇場でした。


格闘技ブームを生んだ梶原一騎VSアントニオ猪木


──梶原一騎さんは『格闘技世界一決定戦』に呼応するように『四角いジャングル』を手掛けていますよね。

木村さん そう、ある段階から今度は梶原先生が『格闘技世界一決定戦』を利用し、さらに虚実ない交ぜのファンタジーを増幅させていった。ウイリー・ウイリアムスの〝熊殺し〟という演出もそうだし、実際、そのウイリーと猪木の試合をプロデュースしたのも梶原先生でしたからね。結局、1970年代後半の格闘技ブームというのは大きなフレームでいえば梶原一騎VSアントニオ猪木だったわけです。フィクションとリアルの戦い。このしのぎ合いがあのブームをどんどん加速させていったんですよ。

──クリエイターとプロレスラーによる虚々実々の駆け引きがあったんですね。

木村さん リングの中だけでなく、リングの外でも2人の天才の闘いがあったわけです。そして、梶原先生を超えたのは猪木さんだけでした。馬場さんも『ジャイアント台風』という作品によってつくられた幻想を少なからず利用していましたが、現実にそれを超えようとはしなかった。

──極真会館の大山倍達総裁もそこには挑まなかったですよね。

木村さん はい。いまや格闘技漫画ではスタンダードな設定になってますが、当時はたとえフィクションでも世界最強の男たちが一堂に集結して闘うというシチュエーションは荒唐無稽でした。だからもしかすると、アントニオ猪木が梶原作品の幻想を超えてしまったことがフィクションの側の世界観にもビッグバンを起こし、そして現在に至っているのかもしれません。


昭和の新日本はアントニオ猪木のリアリティーショーだった


──今の話をお聞きすると猪木さんはプロレスだけじゃなくて、あらゆる方面に影響を与えるような革命的なイベントをやってのけたんですね! そう考えると猪木さんの偉大さがよく分かります! では、木村さんが初めて好きになったプロレスラーであるアントニオ猪木の凄さと魅力について。改めて語っていただけますか。

木村さん いまも話した通り、アントニオ猪木はフィクションを超えた存在なんです。フィクションを超えた存在だからこそ「猪木に不可能はない」と信じさせてくれた。また、実際のところは身も蓋もない選手同士の感情のもつれや人間関係も、猪木さんの手にかかればたちまちドキュメンタリータッチの緊張感漲るエンターテイメントに化けてしまったんですよ。小手先の表面的な演出じゃなく、そこには人間の生の感情も含まれているからリアルに迫ってきた。観る者を芯から熱くしたんですよ。

──今の話を聞いて、1970~1980年代の新日本というのは、猪木さんのリアリティーショーだったのではないかという気がしてきました。

木村さん そうです! まさにリアリティーショーという表現が的を射ていると思います。猪木さんにとってはリング内外で起こる出来事のすべてが繋がっていた。そしてそのクライマックスの一つが新宿伊勢丹前襲撃事件(1973年11月5日、東京・新宿伊勢丹百貨店前において、タイガー・ジェット・シンら数人が妻の倍賞美津子と買物途中だった猪木に殴りかかり流血に追い込んだ事件)でした。

──新宿三丁目の路上で勃発したシンの襲撃が通行人の通報によって警察沙汰にまで発展して物議を醸したという事件ですね。なるほど、そういう視点で捉え直してみるとまた別の面白さがあります。ところで、はじめて生観戦した時の猪木さんの印象はどうだったのでしょう?

木村さん コンディションがよくないのが一目瞭然でしたし、一方的にやられてばかりの展開にもフラストレーションが溜まりました。後年、ブロディ戦について直接話を聞いたのですが、やはり、猪木さんにとってのテーマはどこまで攻撃を受けきれるかにあったと語っていました。

──ブロディは猪木戦で色々な技にチャレンジしてましたね。ジャイアントスイングとか、ジャックハマー気味のブレーンバスターとか。

木村さん キングコング・ニードロップの落とし方も猪木さんに対してはえげつなかった。まあ、それも猪木さんとブロディが闘いの中で無言のうちに決めたテーマだったようです。でも、僕としてはそういう我慢大会みたいなプロレスではなくて、もっとアントニオ猪木らしい攻防が見たかった。なので不満ばかりが残りました。

──1986年10月9日の両国国技館大会で猪木さんは元プロボクシング世界ヘビー級王者レオン・スピンクスと異種格闘技戦を行いました。この試合はご覧になられましたか?

木村さん リングサイドで観ました。猪木さんの試合はどんな相手とでも何かしら見所があるのですが、残念ながらスピンクス戦だけはそれを見つけられませんでした。

──セミファイナル・前田日明VSドン・中矢・ニールセンの異種格闘技戦が名勝負だったので、メインイベントの猪木VSスピンクスが凡戦に終わり、観客からブーイングが飛び交ったんですよね。

木村さん 僕としては前田VSニールセンとの比較云々というより、それまで自分が生きていく上で大きな支えにしていた『格闘技世界一決定戦』を闘っていた頃のアントニオ猪木のイメージが音を立てて崩れてしまったことがショックで、もう、目の前が真っ暗になっていましたね…。

(第1回終了)
















ジャスト日本です。


有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレス好きの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画「私とプロレス」。

 

 

 

 

今回のゲストは、MCバトルや音源でも活躍中のラッパーのミステリオさんです!




(画像は本人提供です) 



ミステリオ

大阪で活動してるラッパー。フリースタイルMCバトルでその名を轟かせている韻踏合組合のhidaddyが経営するお店「一二三屋」で日々修行中



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【プロフィール】

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かつてテレビ朝日系で放映された人気番組『フリースタイルダンジョン』に出演し、脚光を浴びたミステリオさん。プロレスファンならお気づきかもしれませんが、彼のラッパーネームは、WWEのレジェンドレスラーであるレイ・ミステリオにちなんでいます。

これまでさまざまなメディアでインタビューを受けてきたミステリオさんですが、プロレスをテーマにインタビューを受けたことはほとんどありませんでした。


そこで今回は、ラッパー・ミステリオさんのプロレス話をお届けします!
是非ご覧ください!


私とプロレス ミステリオさんの場合「第2回(最終回) 困難に打ち勝つ」



 

 プロレスもMCバトルもお客さんありき


ーーラッパーとして活躍されているミステリオさんにお聞きします。プロレスとヒップホップは結構似ていて親和性があるんじゃないかと思うんですけど、ミステリオさんはどのようにお考えですか?

ミステリオさん ヒップホップというよりラップのMCバトルに絞って話しますけど、プロレスもMCバトルもお客さんありきやと思うんですよ。どれだけお客さんを盛り上げるのか。ヒップホップの根源はエンターテイメントなので、そういうところがプロレスと似ている気がします。


ーー以前、コロナ禍の時に無観客のMCバトルを動画で拝見したことがあるのですが、あおれはなかなか厳しくて、やっぱりお客さんがいないと場が盛り上がりにくいんですね。

ミステリオさん 盛り上がりにくいです。あれは地獄でした。やっぱり歓声がないと。


ーーラッパーの皆さんや主催者側も無観客のMCバトルは大変だったんだろうとなと思いました。

ミステリオさん 今はMCバトルも歓声ありになりましたので大丈夫ですよ。


ラッパー・ミステリオの名前の由来


ーーここでミステリオさんの名前の由来についてお聞かせいただいてもよろしいですか?

ミステリオさん 実はレイ・ミステリオはそこまで詳しくなかったんです。今でこそ勉強しましたけど。いざラップを始めるときにラッパーネームをつけることになって、どうせつけるなら好きなものにちなんだ名前にしたいなと思って、そうなるとWWEだったんです。最初はジョン・シナが好きだったので、MCジョンとかMCシナにしようかなと思ったんですけど、それだとWWE好きだなと分かりにくい。「こいつはWWE好きだ」と思ってもらえるラッパーネームとして浮かんだのがミステリオだったんです。

ーーなるほど!その名前だとWWE好きだと伝わりやすいですね。恐らくプロレスが好きで、MCバトルも見ている人は一発でピンと来ますよ。

ミステリオさん そうなんですよ。ミステリオと言いますと名乗ると周りから「プロレス好きなん?俺も好きやで」と声をかけられることが多かったので、この名前をつけて正解でした。

ーー私もそのラッパーネームが気になって、ミステリオさんの存在を知りましたよ。2016年のKOK最終予選でプロレスマニアのサイプレス上野さんと対戦して、ミステリオさんの名前に触れてましたよね。

ミステリオさん サ上さん、バトルの中で619って言ってくれたんですよ。ああいうのは嬉しくて。
ーーファンだけじゃなくて、ラッパーさんにとってもミステリオさんの名前はフックになるんですね。

ミステリオさん ありがとうございます。勝手ながら、さまざまな困難に打ち勝ってきたレイ・ミステリオの生き方に自分を重ねていますね。

ーーMCバトルでのミステリオさんの闘い方を見ると、のらりくらりしていてプロレスラーっぽいなと感じましたよ。

ミステリオさん ほんまですか(笑)。


ーー特にアメリカのプロレスラーで多いんですけど、相手の攻撃を受け流す選手のタイプだなと。アメリカンプロレスの試合の間はゆっくりじゃないですか。ミステリオさんはゆっくりの間を使いながら、時折カウンターをぶちこんでいくタイプだなと思いましたよ。

ミステリオさん ありがとうございます!


ギリギリだけど一二三屋とラッパーで生活できています!


ーーちなみにミステリオさんはアパレルショップの一二三屋さんでのお仕事とラッパーとしてのお仕事で生活ができているんですか?

ミステリオさん はい、なんとか(笑)。最近はライブのオファーが多くて、ありがたいです。打合せとかもあって、かなりバタバタしていてローマン・レインズのようないい感じのスケジュールでやってますよ(笑)。


ーー以前は別のお仕事もされていましたよね。

ミステリオさん 今年(2023年)の2月まで工場で働いてました。ギリギリなんですけど、今はラッパーと一二三屋の仕事で生活できています。WWEで例えると今はNXTにいてると思うので、早くRAWやSMACK DOWNに行けるように頑張りたいですね。


ラッパー・HARDYさんの名付け親はなんとミステリオさん!


ーーラッパー界隈でプロレスの話とかできた方はいましたか?

ミステリオさん 梅田サイファーのKBDさんとか、サイプレス上野さん、Lick-Gくん、あとレゲエのJ-REXXXさんですね。あとビートメーカーのhokutoさんは僕よりプロレス好きですよ。

ーー結構、ラッパー界隈の皆さんはプロレス好きが多いという印象があるんですよ。

ミステリオさん あと思い出しました。梅田サイファーのKennyDoesさんも詳しいです。あと一緒に一二三屋で働いているHARDYもプロレス好きですね。

ーーHARDYさんの名前は、ジェフ・ハーディーからきてるんですか?


ミステリオさん 実はHARDYって名前が僕がつけたんですよ。

ーーそうだったんですね!

ミステリオさん ジェフ・ハーディーは破天荒なハイフライヤーじゃないですか。そのスタイルからHARDYという名前をつけたんですよ。


『フリースタイルダンジョン』での経験


ーー最高に合ってますよ!ここでお聞きしたいことがあって、ミステリオさんは以前、『フリースタイルダンジョン』に出られたことがあったじゃないですか。この番組での経験はミステリオさんにとってどのようなものでしたか?

ミステリオさん 『フリースタイルダンジョン』は僕の人生を変えてくれましたね。

ーー2018年に初めて『フリースタイルダンジョン』に登場したミステリオさんは輪入道さん、裂固さん、FORKさんを破り、4thバトルで呂布カルマさんに惜しくも敗戦しました。


ミステリオさん あの時、紹介VTRを撮ったんですけど、ジョン・シナの『You Can't See Me(見えっこねぇ)』のポーズをやりましたよ。


ーー細かいところでプロレスネタを入れてたんですね!『フリースタイルダンジョン』の1stバトルが輪入道さんでした。まさかあのような物議を呼ぶ闘いになるとは思わなかったですよ。

ミステリオさん あの時、輪入道さんがヒールみたいになって、それが逆に自分のほうに追い風になったのかもしれませんね。


ーー1stバトルで輪入道さん、2ndバトルで裂固さんを撃破。3rdバトルはFORKさんと対戦して勝利されました。


ミステリオさん 正直、まさかFORKさんに勝てるとは思わなかったですよ。本当に何があるかは分からないですよね。


ーーラッパーとしての仕事量も変わったんじゃないですか?

ミステリオさん 変わりました。色々なイベントに呼ばれましたね。でも『フリースタイルダンジョン』は今思うとラッキーパンチだったのかなと。そこからコロナ禍に突入していくので、『フリースタイルダンジョン』での成功は失敗の始まりだったと思います。一日の成功体験を味わっても、それがずっと続くわけじゃないですから。

ーー確かにそうですよね。

ミステリオさん 『フリースタイルダンジョン』での成功以降に、徐々に下降線を辿って行いって、今は登っていく途中。その山あり谷ありの生活が、僕はコーディ・ローデスに重ねてしまったんですよね。もし今、ラッパーを始めるならば、ローデスとつけて、『ジャパニーズ・ナイトメア』という曲を出しているかも(笑)。


ミステリオさんが選ぶプロレス名勝負


ーーありがとうございます。では今まで見てきた中で好きな名勝負を3試合、教えてください。


ミステリオさん まずは2008年の『アルマゲドン』で行われたトリプルH VS エッジ VS ジェフ・ハーディーのWWE王座をかけたトリプルスレットマッチです。ジェフ・ハーディーが初めてWWE王者になった試合で、よく見返しますね。 
 
ーージェフ・ハーディーは割と好不調の波が激しくて、WWEを離れて戻ったりを繰り替えてしていじゃないですか。その中でようやくWWEの頂点に立った試合ですよね。

ミステリオさん そうですね。あとはやっぱりリックフレアーの引退試合ですね。

 
ーー2008年の『レッスルマニア』でのリック・フレアーVSショーン・マイケルズ。あの試合は珠玉の名勝負でしたね。

ミステリオさん 僕が見た時のフレアーは大ベテランで年齢も50を超えていたんですよ。引退のストーリーから見てフレアーの偉大さを感じましたね。


ーーあともう1試合はどの名勝負ですか?

ミステリオさん 2014年の『レッスルマニア』で行われたアンダーテイカーVSブロック・レスナー。レスナーに敗れたアンダーテイカーのレッスルマニア無敗記録は途絶えたんですよ。アンダーテイカーが負けるんやと驚きましたね。

ーーちなみにアンダーテイカーはどんな印象がありますか?

ミステリオさん めっちゃ素人の俺でもこの人、プロレスめっちゃうまいなと思いました。あと結構動けるし、チョークスラムもかなり痛そうなんですよ。

ーーあとアンダーテイカーはMMAの動きも見せますし、万能なんですよね。名勝負のセレクトもミステリオさんらしくていいなと思いますよ。

ミステリオさん ありがとうございます!


今後について


ーーではラッパーとしてのミステリオさんの今後についてお聞かせください。

ミステリオさん ラッパーとしての僕の動きとして、唯一たいていないのがヒット曲なんですよ。そこにトライはしてるんですけど、なかなか日本のシーンを巻き込めるようなヒット曲ってのは出てないんで、狙いたいですね。

ーーituneのヒップホップランキングの上位に入るようなヒット曲を出せるかどうかですね。

ミステリオさん そうですね。あとMCバトルもビッグタイトルを取ったことがないので、そこも狙いたいですね。ちょっとしたちっちゃい規模の大会の優勝経験は何度かあるんですけど。KOKやUMBとかメジャーな大会を制して、ヒット曲というのが一番いい流れなのかなと思います。

ーーKOKだと優勝賞金は300万円なので、その大金を手にしてから音源制作していくというのがMCバトルで名をはせたミステリオさんらしい生き方なのかなと思いますよ。

ミステリオさん あとはWWEを生観戦したいです!


あなたにとってプロレスとは?

ーーありがとうございます!では最後にミステリオさんにお聞きします。あなたにとってプロレスとは何ですか?

ミステリオさん 僕にとってプロレスは恩人ですね。プロレスに出逢ってなければラップをやってないですし。プロレスを見てラップを始めたわけではないですけど、プロレスを見たからこそよりクラスで人より目立ちたいという気持ちが強くなったんです。何もなかった自分をエンターテイナーにしてくれて、ラッパー・ミステリオにしてくれたのはプロレスがあったからこそです。


ーーこれでインタビューは以上となります。ミステリオさん、今回取材を受けていただきありがとうございました。今後のご活躍を心よりお祈りしています。

ミステリオさん こちらこそありがとうございました!

(第2回終了/『私とプロレス ミステリオさんの場合』完)



 ジャスト日本です。

 

プロレスの見方は多種多様、千差万別だと私は考えています。

 

 

かつて落語家・立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を残しています。

 

プロレスもまた色々とあって人間の業を肯定してしまうジャンルなのかなとよく思うのです。

 

プロレスとは何か?

その答えは人間の指紋の数ほど違うものだと私は考えています。

 

そんなプロレスを愛する皆さんにスポットを当て、プロレスへの想いをお伺いして、記事としてまとめてみたいと思うようになりました。

 

有名無名問わず、さまざまな分野から私、ジャスト日本が「この人の話を聞きたい」と強く思う個人的に気になるプロレスファンの方に、プロレスをテーマに色々とお聞きするインタビュー企画。

 

それが「私とプロレス」です。

 

 

 

 

今回のゲストは、MCバトルや音源でも活躍中のラッパーのミステリオさんです!




(画像は本人提供です) 



ミステリオ

大阪で活動してるラッパー。フリースタイルMCバトルでその名を轟かせている韻踏合組合のhidaddyが経営するお店「一二三屋」で日々修行中



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【プロフィール】
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かつてテレビ朝日系で放映された人気番組『フリースタイルダンジョン』に出演し、脚光を浴びたミステリオさん。プロレスファンならお気づきかもしれませんが、彼のラッパーネームは、WWEのレジェンドレスラーであるレイ・ミステリオにちなんでいます。

これまでさまざまなメディアでインタビューを受けてきたミステリオさんですが、プロレスをテーマにインタビューを受けたことはほとんどありませんでした。


そこで今回は、ラッパー・ミステリオさんのプロレス話をお届けします!
是非ご覧ください!


私とプロレス ミステリオさんの場合「第1回 プロレスとの出逢い」


 


ドナルド・トランプとビンス・マクマホンのリングでの言い合いがプロレスとの出逢い

 
ーーミステリオさん、このような企画にご協力いただきありがとうございます!今回は「私とプロレス」というテーマで色々とお伺いしますので、よろしくお願いいたします。

ミステリオさん よろしくお願いします!

ーーまず、ミステリオさんがプロレスを好きになったきっかけを教えてください。

ミステリオさん 僕が小学校6年生の時の話なんですけど、元々、洋画を字幕で見るのが好きで、その流れで家にケーブルテレビがあったんです。ちょうどJスポーツっていうチャンネルがあって、そこでなんでか知らないんですけど、海外のダーツの世界大会を毎週日曜日に見てたんですよ。その中継を楽しみにしていたんですけど、ある日いつものようにJスポーツを見ると、プロレスのリングでおじさん二人がマイクで言い合いしてるんですよ(笑)。それがビンス・マクマホンとドナルド・トランプでした。

ーーありましたね!

ミステリオさん 2007年の『レッスルマニア』でボビー・ラシュリー(トランプの代理レスラー)とウマガ(ビンスの代理レスラー)が戦ったんですけど、10分くらいで終わったんですよね。それが来週見てみようと思ったのがプロレスとの出逢いです。

ーーJスポーツがきっかけでWWEを見るようになったんですね!

ミステリオさん そうなんです。当時、全然プロレスに興味がなかったんですけど、レスラーも試合も面白くて、お客さんも盛り上がっていて、引き込まれるようにハマりました。もっと彼らのストーリーが知りたくなって。「エッジって誰?なんでこんなに嫌われているんだろう」とか。


ーーエッジは当時、R指定のスーパースターで大ヒールでした。

ミステリオさん あとジョン・シナが結構、WWEでプッシュされまくっていて、シナの一強時代でした。


ーーJスポーツはダーツもそうですし、野球やサッカーとかさまざまな世界のスポーツが放送されていて、ミステリオさんのようにJスポーツを経由してWWEに出逢ってプロレスファンになられた方が多いんですよ。


ミステリオさん そうなんですね!Jスポーツは優秀なチャンネルですから!


「賛否両論の男」ジョン・シナの凄さと魅力とは?


ーーちなみに初めて好きになったプロレスラーは誰だったんですか?

ミステリオさん これはやっぱりジョン・シナです。

ーーシナですか!どこら辺が好きになったんですか?

ミステリオさん 僕が見始めた頃のJスポーツのWWE番組にはPPVが見てなくて、「この続きは来週の『バックラッシュ』で!」とか言ってみても見れない。小学6年生だった2008年の『ロイヤルランブル』でスカパーのPPV、4000円くらい払って夜中の12時くらいから見ました。その『ロイヤルランブル』の30選手参加のランブル戦で30番目に登場したのがシナだったんです。

ーー確かシナは前年に右胸筋断裂という大怪我を負って欠場中で、サプライズ復活で、しかもランブル戦を優勝したんですよ!

ミステリオさん そうなんですよ!今まで生きてきた中で、あのシナの復活劇ほど興奮したことはないです。大人になれば本当か嘘かはわかりませんけど、色々とネットから情報がチラホラ聞こえてきたりするじゃないですか。でも当時、ほんまに右も左もわからなくて、ただ面白いと思って、見てただけなんで、あのときのシナの復活は全て持ってかれましたね。あれで一気にシナのファンになりました。


ーーちなみにミステリオさんが考えるシナの凄さや魅力はどこにあるとお考えですか。

ミステリオさん やっぱりエンターテイメントに全振りしていて、いつでも正義のヒーローであり続けているところですね。よくチャットで女性と子供が「レッツゴー、シナ!」、男性が「シナ、サックス!」と言っているじゃないですか。プロレスファンからするとそんなに好きじゃない人も多いかもしれませんが、僕はシナに惹かれるものがあって、兄貴みたいな感じで凄くついていきたいと思えるカリスマなんです。野球少年が大谷翔平に憧れるように僕はシナのような人間に憧れたんです。


ーーシナは評価が二分する選手なんですけど、”白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーは「あの独自のスタイルはグッド。レスリングもできる」とシナを讃えていて、レジェンドレスラーからも評価されているんです。

ミステリオさん ええ!そうなんですね。でもそれは嬉しいです!

ーーあとシナはリング外もほとんど問題も起こさない優等生なので、団体内の評価も高かったですよね。だから長年WWEのエースとして活躍したのかなと思います。

ミステリオさん 本当にプロですよね!



ーーありがとうございます。ちなみにミステリオさんはプロレスを観戦されたことはありますか?

ミステリオさん それが申し訳ないのですけど、ないんですよ。しかもWWEで毎週のように見ていたのが19歳までで、そこからラップを始めてからラップ以外のことをシャットダウンしたんですよ。

ーーそうだったんですね。プロレス観戦したことはないけど、映像やネットニュースを中心にプロレスを追っている方もいますし、色々なファンのあり方があっていいと思いますよ。

ミステリオさん ありがとうございます。いつか生観戦したいなと思っているんですよ。


ーーコロナ禍が明けてくるとWWE日本公演だったまたあるかもしれませんから。

ミステリオさん 一時期、WWEが大阪公演をやっていたんですけど、ライブとかイベントとかあってなかなかスケジュールが合わないんですよね。でもWWEを生観戦することを今後の目標にしたいです。


「ミスター619」レイ・ミステリオの凄さと魅力とは?


ーーわかりました。ではミステリオさんが好きなレスラーとして上げているレイ・ミステリオ。自らのラッパーネームの由来となった選手ですね。ミステリオの凄さと魅力についてお聞かせください。

ミステリオさん 唯一無二なところじゃないですか。後にシン・カラとか出てきましたが、WWEのマスクマンといえば、やっぱりレイ・ミステリオですよ。その地位を確立させたのが彼の凄さだと思います。2006年の『ロイヤルランブル』で60分以上闘い続けて、最後まで生き残って優勝したじゃないですか。身長とか体重とか関係なく、グレート・カリのような大巨人が対戦相手でも立ち向かっていくところが魅力ですね。あと今年、ミステリオの試合も見たんですけど、年齢も重ねているんですけどまだ動けるんですよ。


ーービンス・マクマホンは本来はマスクマン嫌いという話があったんですけど、それを覆したのがレイ・ミステリオだったんですよ。だから彼は世界ヘビー級王者にもなって、本当に凄いと思いますよ。

ミステリオさん 最近は息子のドミニク・ミステリオと親子で抗争していて、なかなかエモいんですよ。

「アメリカン・ナイトメア」コーディ・ローデスの凄さと魅力とは?

ーーあともうひとり好きなレスラーとして上げてくださったのがコーディ・ローデスの凄さと魅力について教えてください。

ミステリオさん コーディが最初にWWEのリングに上がった頃はランディ・オートン、テッド・デビアスと共に「レガシー」というユニットのメンバーだったんですよ。そこから色々とやっていて、ナルシストキャラになったり、インターコンチネンタル王者になったり、スターダスト(コーディの異母兄ダスティン・ローデスの化身「ゴールダスト」を模倣したキャラクター)になったりとか。なんか色物というか、トップ戦線ではやれてなかったじゃないですか。


ーー確かにそうですね。

ミステリオさん 2022年の『レッスルマニア』でセス・ロリンズとのWWE復帰戦があったんです。その試合を見て感じたのは、コーディはプロレスはうまいと思うんですけど、あの色物をやっていた頃に比べて、すごい成長したように感じたんですよ。あんなに雑な扱いされてたけど、そこから約10年ぐらいたってトップレスラーになるって凄いと重いんですよ。自分もラップとかやってると、調子の波が激しくて、うまくいかなかった時期があったんですけど、2023年の『レッスルマニア』でのローマン・レインズとの試合とか見ると、みんなコーディを応援していて、その過程はすごい苦しかったんだろうなと思うとめちゃくちゃ感情移入してしまって。そこにコーディの魅力を感じました。

ーーコーディは2015年にWWEを退団してから新日本やROHに参戦したり、2019年にはAEW旗揚げに参加しているんですよ(コーディは団体の副社長に就任)。この新日本とROH、AEWでの経験が大きくて、レスラーとして幅を広げ、ステータスも上昇したんですよ。そこから『レッスルマニア』でのセス・ロリンズ戦やローマン・レインズ戦に繋がっていったと思うんです。

ミステリオさん プロレスっていうよりかはなんかエンターテイメント性にハマってるかもしれないですね。だからこの試合が面白かったっていうより、この人の背景がドラマチックでというストーリーが好きなんですよ。だから僕はコーディの地道に歩んでいったサクセスストーリーに心を震わされたのかもしれないです。

ーープロレスはどんなキャラクターをやったとしても最終的には人間性が出るジャンルと言われています。コーディのこれまでの歩みは壮大なドキュメンタリーなんですよね。

ミステリオさん 夢はやり続ければ、まだ有名の途中やと思うんですよ。今はコーディが次の世界王者になるというストーリーを目の当たりにしているのかなと。

WWEに出逢ってから、人前に出てお客さんを盛り上げたいという気持ちが強くなった


ーーコーディはキャリアを積み重ねていくに連れて、「アメリカン・ドリーム」と呼ばれた父ダスティ・ローデスのような「みんなの王者」になりつつあるのかもしれませんね。ではミステリオさんがプロレスを好きになるきっかけとなったWWEの凄さと魅力について方っていただいてもよろしいですか。

ミステリオさん 団体や興行の規模じゃないですか。僕はあまり痛いの好きじゃなくて、プロレスやりたいとは思わなかったんですけど、WWEに出逢ってから、人前に出てお客さんを盛り上げたいという気持ちになったんですよ。それが後にラッパーとして、2000人3000人、6000人の前に立ってラップをやることに生きているのかなと。僕が小学生や中学生の時にテレビ越しで見たWWEの歓声や景色と規模が自分の原点なんですよ。WWEの尋常じゃないエンターテインメント性にすごく惚れたんですよ。


ーーさすがにWWEレベルの興行は日本の団体にはとてもじゃないけど真似できないので、本当に唯一無二ですよ。

ミステリオさん そうですよね。僕はテレビっ子で、家でお留守番していることが多い子供だったんです。だからWWEとの出逢いは大きくて、ラッパーの活動に大きく活きていますよ。
(第1回終了)








恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回は59回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。




アナウンサー・清野茂樹による“プロレステーマ曲"本が登場!

プロレス実況でおなじみのアナウンサー・清野茂樹が、プロレスラーの入場曲である“プロレステーマ曲"について語り尽くす! 自身のプロレステーマ曲との出会いから現在にいたるまでの自伝的な部分から、各スター・レスラーたちが使う曲の解説、プロレステーマ曲の歴史と進化論、はたまた愛好者たちとの熱すぎる対談、1000枚を超える自身のコレクションの中からのディスクガイドなど、どこを切っても濃すぎるその内容には絶対に驚かされるはず! 清野茂樹のプロレステーマ曲に対する愛と情熱がひしひしと伝わってくる、“ストロングスタイル"な1冊です!

【CONTENTS】
1章 プロレステーマ曲BEST3(甲本ヒロト/ファンキー加藤/DJ JIN)
2章 清野茂樹のプロレステーマ青春狂想曲
3章 プロレステーマ曲進化論
4章 プロレステーマ曲スーパースター列伝
5章 清野茂樹十番勝負
6章 プロレステーマ曲未解決ファイル
7章 清野愛蔵プロレスディスクガイド

著者
清野 茂樹(きよの しげき)
1973年8月6日、兵庫県神戸市出身。プロレス世界3大メジャー団体を実況する、唯一のアナウンサーとして知られる。広島エフエム放送でアナウンサーを経験後、2006年よりフリーとなる。幼い頃からの夢であったプロレス実況を実現させ、2015年には新日本プロレス、WWE、UFCという世界3大メジャー団体の実況を史上初めて達成。その対象はリング上だけに留まらず、コンサートに出演直前のももいろクローバーZ、世界陸上でウォーミングアップをするウサイン・ボルト、日比谷野外音楽堂のステージに登場する細野晴臣など……何でも実況してしまう“特殊実況"を得意とする。







今回は2017年に立東舎さんから発売されました清野茂樹さんの『1000のプロレスレコードを持つ男 清野茂樹のプロレス音楽館』を紹介させていただきます。

実はこの本なのですが、以前「私とプロレス」でインタビューさせていただきました「伝説のテレビカメラマン」辻󠄀稔さんから「是非、ジャストさんに!」ということで自宅に送られた5箱のダンボールに入ったプロレスグッズの中にあった一冊。読み進めていくとめちゃくちゃ面白かったので、「おすすめプロレス本」シリーズで取り上げたいなと考えました。


今回はこの本を読んで感じた個人的な見どころをプレゼンしていきたいと思います!よろしくお願い致します!


★1.「プロレス実況のトップランナー」清野茂樹さんとは?

この本の著者である清野茂樹さんは、「プロレス実況のトップランナー」という異名を持つフリーアナウンサーです。

まず実況者としての清野さんの凄さは、「おーーーーーっと!」「掟破りの逆サソリ」「名勝負数え唄」「人間山脈」「風車の理論」「エリート・雑草逆転劇」などの独特な表現は「過激実況」と形容された古舘伊知郎さんイズムを感じるマシンガントークではないかと考えています。

プロレスだけではなくスポーツ実況を変えたとも言える古舘伊知郎さんのスタイルを未だに追い求めている第一人者は清野さんで、テレビ朝日のアナウンサーでさえ、古舘さんのスタイルをやる実況者はほぼいないと思います。

もうひとつの実況者・清野さんの凄さは、「能ある鷹は爪を隠す」といいますか、ご自身は相当なプロレスマニアにも関わらず、その知識を実況で表に出さずに解説者やゲストのコメントを引き出したり、冷静沈着に現場の状況を実況することに徹するセルフコントロールだと考えています。

熱さと冷静さの両面を併せ持ち、古舘伊知郎さんの系譜を感じる清野さんの実況スタイルで、実はオリジナルだったりします。

その一方で著書となるとガラッと変わります。

まずヤフーニュースや『もえプロ』(パルコ)という書籍の清野さんは、初心者やマニアにも届くようなめちゃくちゃ分かりやすい文章を書くように心がけている印象があります。熱さというより明るさを感じる文章の世界観はライターとしての清野さんの凄さであり、魅力だと思います。

そして清野さんの内面を潜むプロレスマニアとしての狂気の部分が文章では爆発するのが、自身の著書。昭和プロレステーマ曲研究家・コブラさんにも言えるのですが、好きなものに対する突き抜ける愛と情熱と知識が文章表現されているのがもうひとつのライター清野さんの凄さであり、魅力です。

つまり、清野さんは実況アナウンサーとして2つの顔を持ち、ライターとしても2つの顔を持つ。表舞台で分かる範囲でも清野さんは4つの顔を持つ男であるのです。

その清野さんの狂気性が遺憾なく発揮されているのがこの本なのです。

だから清野さんってめちゃくちゃ奥が深い方なんですよ。




★2.清野茂樹のプロレス音楽館へ、ようこそ!

この本では清野さんが保管されているプロレス関連のアルバムのジャケットが冒頭と最後にカラー写真で掲載されています。これのセレクトとかも含めていい意味でイカれている!

およそ1000枚のプロレスレコードの写真を見ていると「これは貴重」「永久保存版」だと思う一方で、「我々は何を見せられているんや(笑)」とこれまたいい意味で呆れてしまう。

でもこの本のメインタイトルは「1000のプロレスレコードを持つ男」。サブタイトルには「清野茂樹のプロレス音楽館」とあります。

その世界観をまず冒頭と最後のジャケット写真を見るときちんと表現されているように思います。ちなみにひとつひとつのプロレスレコードのジャケットには、清野さんの注釈が細かく記されていて、そこにはプロレスレコードマニアとしての清野さんの凄みを感じました。

ここから、この本の見どころを各章ごとに紹介していきましょう。

★3.ミュージシャンが選ぶテーマ曲名作BEST3

清野さんといえば、プロレステーマ曲マニア界でもトップランナーともいえる存在で、その界隈の猛者たちも清野さんには一目を置くほどです。何しろコブラさんが「全日本プロレスの木原文人さんと清野さんはテーマ曲マニアのレジェンド」と語っていたほどです。

そんな清野さんのアナウンサーとしてのバックボーンのひとつがラジオDJ。だからこそミュージシャンとの対談のキャストも豪華。 

伝説のロックミュージシャン・甲本ヒロトさん、プロレス中毒ミュージシャン・ファンキー加藤さん、ヒップホップユニットRHYMESTERのDJ JINさん。

ちなみにヒロトさんとの対談は清野さんが在籍していた広島FM時代に放送された『プロレスワンダーランド2005』という番組の内容の一部を再録したもの。

お三方のプロレステーマ曲BEST3のセレクト、なかなか渋いですね!ヒロトさんがアレクサンダー大塚選手『AO CORNER』を3位に選んだのは妙に嬉しかったですね!恐らくこの曲を歌っている青西高嗣さんは光栄に感じているかも!

あとミュージシャン目線の選曲理由がなかなか面白い!加藤さんが中邑真輔選手の『The Rising Sun』について「これがかかると、会場中のファンが一緒に声を出して歌うんですね。歌うそのメロディのトップの音階が『ラ』なんですよ。『ラ』というのは、男性がおもいっきり声を張って出る、ギリギリの音色の平均だと言われていて、おそらく会場に行っても男性ファンが多いと思うんですけど、歌っている側が一番熱く歌えるメロディラインになっているんです」という指摘は「そうだったのか!」とめちゃくちゃ唸りました!


ちなみにJINさんが「坂口征二さんは、『燃えよ荒鷲』の前にジョニー・ペイトの『シャフト・イン・アフリカ』(ヒップ・ホップやファンクミュージックのクラシック曲)をテーマ曲として使っていた」という情報が出た時が驚きました(笑)でも後でコブラさんの『昭和プロレステーマ曲大事典』を読み直すと邦題名『アフリカ作戦』という項目があり、映画『黒いジャガー アフリカ作戦』のサントラで、冒頭25秒をカットして使用していたようです!

JINさんとコブラさんの凄さを感じてしまいました(笑)



★4.清野茂樹の青春狂想曲

この章では清野さんがどのようにしてプロレステーマ曲コレクターになっていったのかの過程、ラジオ局時代の話、プロレス実況で勝負するためにフリーアナウンサーとして上京した頃の話などが書かれています。

山下達郎さんとのエピソードが最高です!恐らく達郎さんは音楽を探求する、コレクションしていくという点で清野さんにシンパシーを感じていたのかもしれません!


★5.プロレステーマ曲進化論

こちらの回は、清野さんが時系列で、プロレステーマ曲の歴史と変遷を綴られています。めちゃくちゃ分かりやすいです!

平成以降のテーマ曲史も書かれているのは、コブラさんとは違うポイントです!


★6.プロレステーマ・スーパースター列伝
 
こちらの章では20人のプロレスラーの代表的テーマ曲について綴られています。これも面白い!コラムになってくると清野さんの狂気性もチラついてます(笑)

個人的には橋本真也さんのエピソードが好きですね!橋本さんといえば、『爆勝宣言』。しかし、途中の3ヶ月ほどですか。テーマ曲が『闘魂伝承』に変えたことがあったんです。ここからまた『爆勝宣言』に戻すのですが、これが最高なんですよ!橋本さんらしい!!




★7.清野茂樹のプロレステーマ十番勝負

これでもかと本書でテーマ曲について掘り尽くしている清野さんですが、さらにその歩みを止めません。

11人のテーマ曲有識者との対談は、濃厚なとんこつラーメンを食している気分!こってりしています!

個人的には木原文人さんと共に1990年代の全日本プロレスのテーマ曲を支えた『SOLLUNA』の林雅弘さんのインタビューが読めたのはプレミア感がありました!  

そしてコブラさんとの対談もあります!あれはテーマ曲マニアの頂上対談でしたね!言っていることがついていけないかもしれませんが、でもめちゃくちゃ面白い!




★8.プロレステーマ 捜査ルポルタージュ

どうやらテーマ曲マニアの極みになると、探偵や捜査という感覚になるのかもしれません!

こちらの回はさまざまテーマ曲のミステリーを清野探偵が追っている捜査ファイル。

当時見つからなかったIWA世界タッグ選手権のテーマ曲(後に発 https://ameblo.jp/jumpwith44/entry-12691101732.html の記事を参照)について7ページ、1987年に開催されたコンサート『突然卍がためLIVE』について6ページに渡りとことん調査。

やっぱりコブラさんが清野さんをリスペクトしているのがわかります!いい意味で、イカれています(笑)

『もえプロ』を読んで清野さんを好きになった皆さんはついてこれているのでしょうか(笑)暴走捜査をする清野さんもなかなか面白い!


★9.おわりに

やよい軒で飯を何杯もおかわりして満腹になった気分に、さらに追加の唐揚げが来るかのようなあとがき。

そのあとがきは、時効になった事件を追い続ける老刑事と化した清野さんの独白。

最初はフリーアナウンサーの著書だなと思って読み進めると、最終的には「俺らは、刑事ドラマを見ていたのか?」と思える妙な気分になりました(笑)

なんなんだ、これは!

今まで味わったことがない感覚。最初は和食だと思って食べていると、実は出してくるメニューが和風イタリアンだったという感じでしょうか。この例えも違うかな(笑)


とにかく読了した後には、味わったことがない不思議な感覚ですが、妙に心地よかったのは間違いありません!



★10.『1000のプロレスレコードを持つ男』は執念の実況男が放つ狂気の特異作!


実は今、清野さん、ホリプロに所属されているんですよね!


清野さんのサイトには自身のキャッチコピーとして「執念の実況男」というのがあったんですよ。

本当にそうですよ!

でも清野さんはその執念を場の空気や状況に合わせてうまい具合に出したり、引いたりしてきていて、その「執念」が見えない時もあります。赤い炎と青い炎を使い分けているという感じでしょうか。

その清野さんの赤い炎と青い炎の両方が見れたのが本書だったと思います。特に後半になると情熱を超えた狂気が遺憾なく発揮されていて、まるで覚醒モードに入った飯伏幸太選手のようでした。


清野さんの『1000のプロレスレコードを持つ男』は特異(とくい)という言葉がよく似合います。

特別に他のものと異なる。特に優れている。

まさに唯一無二。   

読めば読み進めるほど、その特異な世界の魅力にハマると思います!

皆さん、チェックよろしくお願いいたします!




恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回は58回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。





「猪木戦記」シリーズとは?
かゆい所に手が届く猪木ヒストリーの決定版!
日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である流智美氏が猪木について書き下ろす渾身の書。全3巻。
第1巻には、日本プロレスの〝若獅子″としてスター街道を歩み始めた1967年(昭和42年)から、ジャイアント馬場とのBI砲で大人気を博すもクーデターの首謀者として日プロ追放の憂き目にあった1971年(昭和46年)までを掲載。

【目次】
1967年(昭和42年)
馬場の弟分、ゴッチの弟子として着々と爪を研ぐ

1968年(昭和43年)
“燃える闘魂”の片鱗を徐々に発揮し始める

1969年(昭和44年)
日プロ・NETの主役に躍り出る! 生涯忘れられない1年に

1970年(昭和45年)
猪木が“週2回地上波露出”で人気上昇! 馬場とほぼ並び立つ存在に

1971年(昭和46年)
天国と地獄! 栄光のUN王者が一転、団体追放の身に

【著者紹介】
流智美(ながれ・ともみ)
1957年11月16日、茨城県水戸市出身。80年、一橋大学経済学部卒。大学在学中にプロレス評論家の草分け、田鶴浜弘に弟子入りし、洋書翻訳の手伝いをしながら世界プロレス史の基本を習得。81年4月からベースボール・マガジン社のプロレス雑誌(『月刊プロレス』、『デラックス・プロレス』、『プロレス・アルバム』)にフリーライターとしてデビュー。以降、定期連載を持ちながらレトロ・プロレス関係のビデオ、DVDボックス監修&ナビゲーター、テレビ解説者、各種トークショー司会などで幅広く活躍。



今回は2023年にベースボール・マガジン社さんから発売されました流智美さんの『猪木戦記 第1巻 若獅子編』を紹介させていただきます。

2022年10月に逝去された「燃える闘魂」アントニオ猪木さん。プロレス界のカリスマである猪木さんを追悼する書籍や番組が世に出ましたが、遂にあの流智美さんによる猪木本が発売されました。いよいよ真打ちの登場!

その内容は「日本プロレス時代から新日本プロレス時代まで、不世出のプロレスラー・アントニオ猪木の戦い、一挙一動を超マニアックな視点で詳しく追う。プロレス史研究の第一人者である流智美氏が3巻に渡り、猪木について書き下ろす渾身の書」という内容。

流さんといえば、一時期「プロレス博士」「日本一プロレスに詳しい男」と呼ばれた重鎮プロレス評論家で、2018年7月にアメリカのアマレス&プロレス博物館「National Hall of Fame」ライター部門で殿堂入り、2023年3月にはアメリカのプロレスラーOB組織「Cauliflower Alley Club」最優秀ヒストリアン部門を受賞したプロレスマスコミ界のレジェンドなのです。


やはりこの本、面白かったです!

今回はこの本の各章ごとに個人的な見どころをプレゼンしていきたいと思います!よろしくお願い致します!


★1.真摯に猪木本に向き合う流さん
【1967年(昭和42年)馬場の弟分、ゴッチの弟子として着々と爪を研ぐ】

まずこの本の特徴としては猪木さんがデビューした1960年〜1966年までの歴史には触れていません。その理由は、その時期は流さんがプロレスに興味を持っていないから。1968年からプロレスを好きになった流さんは、「1967年の猪木に関しては、翌年ファンになってから収集したものや先輩記者から拝聴したことを元に書いている。実際に自分で見ていない猪木について書くのは筆者として引け目を感じるのだが、そこはあらかじめご了承いただきたい」と説明しています。

流さんとの知識があれば、1960年〜1966年の猪木さんについても書けると思うのですが、それを良しとしなかったのが、真摯に猪木本に向き合い、自分が見てきた猪木さんについて綴りたいという流さんの信念が伝わってきます。



★2.ネックブリーカー・ドロップをフィニッシャーにしていた猪木さん
【1967年(昭和42年)馬場の弟分、ゴッチの弟子として着々と爪を研ぐ】

これは勉強不足で申し訳ありません。この流さんの本を読んで、猪木さんが「コブラツイストに次ぐフィニッシュ技」としてネックブリーカー・ドロップを使っていたという事実を知りました。個人的には新発見。しかも若手時代に切り札として使っていたとのこと。

しかも猪木さんのネックブリーカー・ドロップは、ビル・ロビンソンがやっていたショルダー・ネックブリーカーに近い形なので、強烈だったんだろうなぁと感じました。

やっぱり流さんの本は学ぶべきことは多いです!




★3.猪木、試合欠場事件
【1968年(昭和43年)“燃える闘魂”の片鱗を徐々に発揮し始める】

実は猪木さん、1968年1月8日広島大会でジャイアント馬場さんと保持していたインタータッグ王座防衛戦を急遽欠場したのです。一体に何があったのか?流さんは、東京スポーツで長年、猪木番を務めてきた櫻井康雄さんから重要な証言を聞いていました。

「7日の大阪府立の試合で、このあと猪木は新幹線の最終便で東京の野毛の自宅に戻ったんです。試合前に大阪から電話をしたときに、自宅にいたダイアナさんが『今夜帰ってきてくれなければ、自殺する』みたいなことを口走ったらしい。一種のヒステリーですよ。確かダイアナさんと娘の文子ちゃんが、野毛に住み始めて間もない頃で、不安だったとは思います。しかし、8日の試合地は広島ですからね。交通機関が発達した今でも、前日に東京に戻ってしまうと、なかなか翌日広島に間に合わすのは大変ですよ」

猪木さんは空路や鉄道でなんとか広島に向かったのですが、広島に到着したのは夜10時過ぎ、試合には間に合いませんでした。この一件がきっかけで日本プロレス内での猪木の信頼度は暴落していくのです。

しかし、この一件で奮起した猪木さんは、2月3日の大田区体育館でのインター・タッグ王座戦で、獅子奮迅の大活躍。流さんはこの試合の猪木について「燃える闘魂の原型となった猪木の一人舞台」と評したのです。

悔しさや怒りをエネルギーにしてリングで燃え上がる。まさに燃える闘魂ですよね!





★4.ゴールデン・シリーズ中のオフショット
【1968年(昭和43年)“燃える闘魂”の片鱗を徐々に発揮し始める】


この本ではベースボール・マガジン社さんが所有している猪木さんのお宝写真がカラーやモノクロも含めて多数、掲載しています。

個人的に特に印象的だったのが、6月の岐阜で撮影された一枚。

めちゃくちゃカッコいいんです!野性的で勇敢で凛々しくて、どこか優しさもある。

この本の表紙の写真は「これ、選ぶの?もっと他にあるんじゃないのか」と少し疑問なところがあったのですが、やはり中をめくっていくといい写真が多かったです!


★5.卍固め、誕生!
【1969年(昭和44年)日プロ・NETの主役に躍り出る! 生涯忘れられない1年に】

猪木さんといえば、代名詞である卍固め。この卍固めという名称は、公募によって決まったものなのです。

「卍固め」「アントニオ・スペシャル」「カンジガラミ」「タコ固め」と候補が上がった中で「卍固め」が選ばれたそうです。ちなみに試合会場で猪木さんと隣でこの名称を発表したのが当時日本テレビの徳光和夫アナウンサーだったのです。馬場さんとの交流が深い印象がある徳光さんですが、実は猪木さんとも仲が良かったと言われています。

卍固め、改めて考えるとプロレス界の大発明ですよね!

★6.猪木さん、ワールドリーグ戦優勝!
【1969年(昭和44年)日プロ・NETの主役に躍り出る! 生涯忘れられない1年に】

流さんはこの本の中で「日本プロレスが開催したシリーズの中で歴代のベストワンは1969年の第11回ワールドリーグ戦だった」と書いています。

オールドファンはご存知かもしれませんが、いざその内容を読んでいくと、めちゃくちゃスリリングなリーグ戦だったことが伝わります。馬場さん、ボボ・ブラジル、クリス・マルコフ、ゴリラ・モンスーンと強豪揃いの大会を当時27歳の猪木さんが制したことにより、「猪木時代の始まり」と書いたスポーツ新聞があったようです。



★7.「腕ひしぎ十字固め」か、「指固め」か
【1970年(昭和45年)猪木が“週2回地上波露出”で人気上昇! 馬場とほぼ並び立つ存在に】

ここで流さんらしさが爆発している一文を発見。猪木さんがインター・タッグ戦で「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックを相手に「腕ひしぎ十字固め」でギブアップ勝ちをしたというくだりがあるのですが、流さんは「決まり手は『腕十字固め』となって残ったが、当時私がテレビで見た限りでは『腕ひしぎ十字固め』ではなく、単なる『グラウンド状態でのフィンガーロック(エリックの右の指を3~4本、反るように折り曲げた)』だったと思う。つまり正確には『指固め』だったのだが、これが後年、『猪木がやった、初の腕ひしぎ十字固めによるフィニッシュ。相手はエリック』と書かれ現在に至っていることは違和感を覚える」と綴っています。

これでこそ流さん!!めちゃくちゃマニアックな指摘。しかも粘着質や陰湿ではなく、カラッと明瞭にマニアックなネタを持っていけるのが流さんの強み。長年プロレスマニアとして、マニアックな話もきちんと文章表現してきた流さんの芸当だと思います!

「かゆいところに手が届く猪木ヒストリーの決定版」と本の帯に書かれていましたが、それよりは「猪木論のスキマをマニアックな指摘で突いた猪木ヒストリーの決定版」という印象が強いです。「かゆいところに手が届く」という表現よりめちゃくちゃ凄くて、尊いことを流さんはされているということをプロレス考察家として、このレビューを通じてお伝えしておきます。


★8.スター誕生!
【1971年(昭和46年)天国と地獄! 栄光のUN王者が一転、団体追放の身に】

猪木さんは3月26日にアメリカ・ロサンゼルスでジョン・トロスを破り、UN王座を奪取。猪木さんは女優・倍賞美津子さんと共に凱旋し、2人は婚約を発表。東京スポーツには「猪木時代 華麗なる幕開け」という見出しが踊りました。

プロレス界のスターと、未来に担う女優の結婚って今の時代で例えてみると…なんていう話になることもありますが、例えようがありません(笑)今の時代に「世間で知られているような若きスターレスラーがいるのか?」というと疑問符ですから。

倍賞美津子さんとの出逢いが猪木さんをカリスマに押し上げていく要因のひとつとなったことは間違いないですね。
 

★9.猪木、日本プロレスから除名
【1971年(昭和46年)天国と地獄! 栄光のUN王者が一転、団体追放の身に】

1971年12月、日本プロレスは猪木さんが会社乗っ取りを画策したとして、除名処分を発表します。

この「猪木除名事件」について流さんが事の経緯に詳しく綴っていますが、その真相は今も謎。

猪木さんが馬場さんの対戦を要求したくだりから、じわりじわりと進んでいったと思われる「猪木除名事件」ですが、当時の心境も踏まえながら流さんが綴っていたのが印象的です。


★10.
【あとがき】

あとがきで、流さんは猪木さんの日本プロレス時代のシングル名勝負10試合を紹介しています。このセレクトは流さんらしく、なんと次点として4試合も紹介(笑)。もう「ベストバウト10とかじゃなくてベストバウト20でいいじゃないですか!流さん!」と言いたくなりました。

流さん曰く「猪木さんについて回顧するには時間が欲しかった」と書いていますが、それでも十分、あらゆるところからマニアックな指摘がされていて面白かったです。

あとこれは最初から最後まで感じたことですが、「猪木さんについて一冊、ガッツリ書けるんだ!」という流さんの喜びというものを感じ、読んでいて嬉しくなりました。流さんをリスペクトしている私からすると、「猪木さんをマニアック視点で綴るんだ!」「あの時の自分の境遇や想いを乗せるんだ!」という気概を感じた作品でした。

個人的には異種格闘技戦以前の猪木さんと異種格闘技戦以後の猪木さんってプロレスラーとしてのスタイルも結構変わった印象があったので、その部分についてのインプットには最適な参考文献だと思います!

ただ、個人的に感じたのは『猪木戦記』シリーズのクライマックスは第2巻、第3巻に待っているような気がします。ここからさらに熱量もクオリティーが上がっていく必要性があり、それは流さんにとっても、編集者である元週刊プロレス&格闘技通信の編集長である本多誠さんにとっては大きな宿題となった印象があります。

そこはプロレス本に一石を投じた『日本プロレス事件史』シリーズで編集者を務めた本多さんですし、優秀な編集者&記者である本多さんなら、やってくれると信じています!

思えば本多さんが編集長時代の格闘技通信を愛読していたが、全体的にめちゃくちゃ読みやすかった印象があって、『日本プロレス事件史』シリーズは記事や本を書く際に参考文献としてめちゃくちゃ役立ちました。



流さんと本多さんのプロレスマスコミ界のBIコンビが新日本プロレス時代の猪木さんについてどう踏み込んで書くのか。楽しみです!

この本、一冊だけでは判断すると、少し物足りない。それは「猪木さんについて回顧するには時間が欲しかった」という流さんの思いもよくわかります。

例えば流さんが猪木さんの日本プロレス時代のシングル名勝負10試合【次点が4試合】は、あとがきで紹介するのではなく、各章(年ごとに章は分かれていた)の最後に別枠で「極私的猪木名勝負」という形で組み込んで試合について詳しく紹介するのもありだったかなと。その方が個人的には読みやすいと感じます。試合に関しては本編で紹介しているのですが、きちんと別枠で読みたかったですね。

(例)
【1967年(昭和42年)馬場の弟分、ゴッチの弟子として着々と爪を研ぐ】
極私的猪木名勝負 3試合

【1968年(昭和43年)“燃える闘魂”の片鱗を徐々に発揮し始める】
極私的猪木名勝負 3試合

【1969年(昭和44年)日プロ・NETの主役に躍り出る! 生涯忘れられない1年に】
極私的猪木名勝負 3試合

【1970年(昭和45年)猪木が“週2回地上波露出”で人気上昇! 馬場とほぼ並び立つ存在に】
極私的猪木名勝負 3試合

【1971年(昭和46年)天国と地獄! 栄光のUN王者が一転、団体追放の身に】
極私的猪木名勝負 3試合


ただ、この本は3巻でひとつの歴史作品。第2巻、第3巻が世に出て『猪木戦記』シリーズが完結した時にこの第1巻の役割が変わるような気がします。

『猪木戦記 第1巻 若獅子編』が壮大な大河ドラマ読物の序章なのかもしれません。


 



 

 


皆さん、チェックのほどよろしくお願いいたします!


流智美さんの『猪木戦記』シリーズ、第2巻と第3巻に乞うご期待!!!




恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回は57回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。





いまや新日本プロレスに次ぐ第二の規模を持つプロレス団体にまで成長した「STARDOM(スターダム)」。
その躍進を支えているのが、同団体でエグゼクティブプロデューサーを務めるロッシー小川である。
ロッシー小川の人生は、まだに日本の女子プロレス史そのもの。カメラ少年を経て、全日本女子プロレスに入社。伝説的なスター、ビューティ・ペアのマネジメントに関わり、クラッシュ・ギャルズらを育成。1997年に独立し、新団体アルシオンを立ち上げると、従来にはなかった新しい女子プロレスのカタチを示した。 その後、雌伏の時を経て2011年にスターダムを創設。紫雷イオ、岩谷麻優、宝城カイリ(現KAIRI)らを輩出した。
業界歴45年、ロッシー小川はこれまで女子プロレスで何を見てきたのか。女子プロレス創成期から全日本女子プロレス、アルシオン、スターダムに至るまでの忘れられない名選手や名勝負を解説。秘蔵写真やお宝グッズも多数掲載した。
さらに、特別対談を3編収録。団体対抗戦時代をともに戦ったヤマモこと、元JWP代表の山本雅俊氏、アルシオンのエースだった大向美智子氏、さらにスターダムのジュリア選手と大いに語り合った。
本書を読めば、女子プロレスの過去と未来が分かる! ファン必携の一冊!

著者に
ロッシー小川(ろっしー・おがわ)
1957年5月1日、千葉県千葉市出身。東京写真専門学校在学中に全日本女子プロレスのオフィシャル・カメラマンとなり、78年1月に全女に正式入社。広報担当としてクラッシュギャルズの芸能マネージャーなどを経て、取締役企画広報部長に就任。90年代には団体対抗戦を仕切った。97年に全女を退社し理想を求めアルシオンを設立。以降、AtoZ、JDスターではマッチメイカーを務め、風香祭、ゆずポン祭りをプロデュース。11年1月に新団体スターダムを旗揚げ。現在は同団体のエグゼクティブ・プロデューサーを務める。これまでに多くのスターを育成した女子プロレス界の名伯楽である。





今回は2023年、彩図社さんから発売されましたロッシー小川さんの『秘蔵写真、お宝グッズ、エピソードで見る ロッシー小川 女子プロレス55年史』を紹介させていただきます。

ファン時代の10年、業界人時代の40人をあわせると実に55年間、女子プロレス界を見届け、携わってきたロッシー小川さん。彼こそ女子プロレスの生き証人であり、数々の興行や選手に関わってきた女子プロレスの仕掛人。

この本は関係者サイドから綴る女子プロレスの歴史本なのですが、めちゃくちゃ面白かったです!個人的には以前、斎藤文彦さんが出された『レジェンド100』(ベースボール・マガジン社)に近い印象がありました。



今回はこの本の各章ごとに個人的な見どころをプレゼンしていきたいと思います!よろしくお願い致します!


★1.はじめに

この本のまえがきでロッシーさんは、冒頭で自らの業界人としての歩みを回顧しています。

「女子プロレスに興味を持ってから現在まで55年間」をファンとして、関係者として見守り、携わってきたロッシーさんだからこそ書けるマニアックな話や裏ネタも織り込んでいることが何となく分かるまえがきとなっています。

何しろまえがきで「2021年より健康を害して毎週病院に通い治療を繰り返している」という表立って出ていない話をいきなりぶっ込んでくるのがロッシーさんの文体。

前置きもなく、実弾をぶっ放すロッシーさんの世界観は、まえがきから最後まで一貫している印象がありました。




★2.第1章 女子プロレス創成期の記憶

この本は、各章ごとに時代背景を2ページほど説明したあとに、女子プロレスの歴史を彩った名選手の物語をロッシーさん視点で書き綴っています。また各章ごとに、その時代の名勝負も紹介しています。ロッシーさんの回顧録でもあり、女子プロレスの歴史本なのです。
 
その手法が斎藤文彦さんの『レジェンド100』に似ています。斎藤さんの場合はライターとして史実と実像を客観的視点できれいなコラムとしてまとめていますが、ロッシーさんの場合は史実に裏ネタ、主観まで織り交ぜているので、どちらかというと元・新日本プロレスレフェリーのミスター高橋さんの『悪役レスラーの優しい素顔』(双葉社)に近い世界観かもしれません。

第1章で印象に残ったのは、星野美代子さん。この方は元FMWの中山香里さんのお母様なんですよ。星野さんの写真と経歴が掲載されているのはこの本くらいかなと思います。


   

★3.第2章 伝説になったスター、ビューティ・ペア

第2章はジャッキー佐藤さんとマキ上田さんのビューティ・ペアの時代。

ここからなのですが、ロッシーさんの秘蔵写真がこれでもかと掲載されています。ビューティ・ペアが乗馬を楽しむ写真やミュージカルに挑戦している写真とか、お宝ショットばかり。

あと大変勉強不足で申し訳ありません。ビューティ・ペアのライバルとして、池下ユミさんと阿蘇しのぶさんのブラック・ペアというコンビがいたことは知りませんでした。池下さんの得意技がバックドロップ・ホールドだったので、「まるでジャンボ鶴田のようだ!」と若林健治アナウンサーのような名文句が浮かんでしまいました(笑)。

あと意外と1960〜1970年代の女子プロレスラーはかなり体格がよくて、170センチ以上が多いのが印象的です。

第2章は歴史的視点として興味深く、目からウロコが落ちるようなエピソードや新発見が多く、この本の見どころです。



★4.第3章 クラッシュ・ギャルズという名の革命

第3章は、長与千種さんとライオネス飛鳥さんのクラッシュ・ギャルズの時代。

実はこれも知らなかったのですが、全日本女子プロレスは一時期、選手を2つに分けて興行を打っていたそうです。言わば2リーグ制。しかし、「売上2倍が赤字2倍」になったという理由で1年で消滅しました。プロレス界の2リーグ制、これは成功しにくいのだということは歴史が物語っていますね。

ロッシーさんはクラッシュ・ギャルズVS極悪同盟の歴史だけで本当は一冊書けるほどエピソードもあると思いますが、その想いを限られたページ内に抑えていて、次はロッシーさんのクラッシュ絡みの本を読みたいなと感じました。

名勝負だと1985年4月6日・後楽園ホールで行われたライオネス飛鳥VS長与千種が、ロッシーさん曰くキックやサブミッションで相手を牽制したUWFを意識した展開と大技の攻防が繰り広げたということなので、その試合が映像で見たいなと思いました。


★5.第4章 熱狂と狂乱の団体対抗戦時代

第4章は1990年代に勃発した団体対抗戦の時代。

団体対抗戦といえば、JWP、LLPW、FMWといった他団体と全日本女子プロレスの企画広報部長として交渉の矢面に立っていたロッシーさんの存在は欠かせません。

この章では、北斗晶さんが神取忍さんと横浜アリーナ大会で伝説の喧嘩マッチに勝利した後に、マイクで神取さんに「柔道かぶれ」と表現していましたが、本当は「柔道崩れ」と言いたかったのだと興味深いエピソードが印象に残りました。


★6.ロッシー小川 女子プロレスお宝コレクション

ロッシーさんがボジしている古今東西のプロレスグッズを掲載しているコーナー。

これは単行本ではなく、カラーのムック本一冊分でまとめてもいいほどのボリュームです!

このコーナーを読むと、ロッシーさんは関係者でありながら、ずっとプロレス少年なんだなと感じましたね。


★7.第5章 アルシオン、その理想と現実

この本で個人的に楽しみにしていたのがアルシオンの章。

アルシオンは今振り返ると女子プロレス史上唯一、UWF系団体に近づく可能性のあった団体なんですよ。

プロレスの基本に立ち返り、パンクラスやバトラーツといったUWF系団体で格闘技術を学び、ルチャ・リブレの空中戦やジャベも入れ込んだ「ハイパー・ビジュアル・ファイティング」と形容した新しいスタイルを開拓しようとしていた点は、「シューティング・プロレス」「格闘プロレス」と呼ばれていた第1次UWFに近いような気がします。

実はアルシオンには「張り手の応酬はしない」「場外乱闘禁止」「流血戦はNG」という裏ルールがあったそうです。

UWFの歴史は内ゲバを繰り返し、衝突していく軋轢の道程かもしれません。そしてロッシーさんが掲げた理想郷・アルシオンもUWFの歩みに近い。要は理想と現実は違い、選手やスタッフ全員が同じ方向を向いていなかったのです。

ロッシーさんが標榜する理想のプロレスをやりたい選手もいれば、従来型の女子プロレスをやりたい選手もいる。最初は目新しいので興行はうまくいっていたとしても、観客動員数が減少していくと、内部分裂していくという現実。そして最終的には団体が崩壊に繋がっていく。悲しい話です。

アルシオンは時代が早かった団体です。個人的にはスターダムの別ブランドとしてアルシオンが存在しても面白いと思います。肉体も研ぎ澄まし、階級もあって、ルールもきちんと整備し、打撃と関節技、投げ技に特化する「ハイパー・ビジュアル・ファイティング」って案外、今の時代向きかもしれません。



★8.第6章 スターダム、私が見た選手の素顔

第6章は、ロッシーさんが今も現場で辣腕をふるうスターダムの時代。   

これはなかなか面白い。愛川ゆず季さんが、高橋奈七永選手からプロレスを学んでいたので、業界用語で「カタイ」攻撃をやるレスラーだったようで、多くの選手が対戦を嫌がっていたとか、葉月選手が一度引退した時のエピソード、実は木村花さんVSジュリア選手の日本武道館大会での敗者髪切りマッチを考えていたとかなかなかディープな内部情報もぶっ放していて、さすがロッシーさんだなと思いました。  

個人的には舞華選手、ひめかさんが「桜井まいはウナギ・サヤカより強いメンタルの持ち主」だと語っていたというのが印象に残りました。
 

★9.第7章 ロッシー小川が選ぶスターダム名勝負23

第7章は、スターダムの名勝負23試合をロッシーさん視点で綴られています。  

面白かったです。その内容は是非、この本を読んで確認していただきたいです!


★10.特別対談

 

この本には、特別対談が3本収録されています。


元JWP女子プロレス代表・山本雅俊さん。

元女子プロレスラー・大向美智子さん。

スターダムの風雲児・ジュリア選手。


これが三者三様で面白かったです。その中で面白かった発言を一部、紹介します。


山本さん

「松永会長の言葉で忘れられないのは、『山本さん、世界中の物は全部、自分のもの』って言われて。『なんでですか?』って聞いたら『だって金出せば買えるんだから』って言われて」


実は松永兄弟らしいコメントやなと思います。でもその松永兄弟も資金売りに苦しくなって団体を潰しているので、世の中は甘くはありません。

 

大向さん

「ロックアップって全女にはなかったんですよ。逆にLLPWではロックアップありきだった」

「ボディスラムの投げ方でも右手を上にするか左手を上にするかで全女出身者とそのほかの団体出身者で分かれていたので、統一しようって話をしたんですよね。それに加えて吉田万里子さんはグラウンドが得意だし、一方でメキシコ選手もやってくる。すべてを練習しなくちゃいけないから、格闘技のジムに出稽古に行ったりとか、メキシコにルチャを習いに行ったりして。そういうのをミックスしているから今までになかった女子プロレスになったんじゃないかな?それがアルシオンだと思います」


アルシオンではエースやGMとして支えてきた大向さんの話はどれも興味深く、特に創世記の模索ぶりが垣間見えるエピソードが面白かったです。



ジュリア選手

「小川さんは、言葉一つとっても、普通のことを言っても面白くないということを教えてくれました。プロレスは自由で決まりはないから、お客さんの記憶の中に自分のことを残すにはどうすればいいのか、ということですよね。私がこう言ったらお客さんはこう思うだろうから、これはこう言った方がいいのか、やめたほうがいいのか…、そんな感じで迷っていたら、たぶん、今の私はいないと思うんです。小川さんはそんな感じで悩んでいると、『もっと気楽に言っちゃいなよ!』って手を差し伸べてくれるんですよね」


このジュリア選手の発言はロッシーさんの人間性を見事に表現していますね。ロッシーさんの人生って色々とあったわけですよ。浮き沈みが激しい、スターダムを旗揚げしてからも事件も多かった。それで最終的にはロッシーさんは飄々としている。その理由はロッシーさんは根本的に「気楽に行こう!」というスタイルで生きているからなんですよ。こういうタイプの人間は本当にしぶとく生き抜きますよね。ある種のサバイバル戦術に長けている方だと思います。   

     


この本を読んで感じたのはロッシーさんの証言にはオブラートに包んだ表現もあり、物事を誤魔化しる部分もあるかもしれません。しかし、その中に爆弾ネタを放ってくる唐突さがめちゃくちゃ面白いんですよ。起承転結もない、前触れもないし、ノーモーション。だから街を歩いていて、いきなり拳銃を取り出して実弾を打つヒットマンのような戦慄さがあるのがロッシーさんが打ち出す文章の世界観なんだろうなと感じました。


「女子プロレスの生き証人」「女子プロレスの仕掛人」であるロッシー小川さんが放つバレットを込めた証言には、なんとも形容し難い病みつきにさせる魅力が詰まっているのです。

 

ちなみにこの本を担当した編集者は、私の書籍『インディペンデント・ブルース』『プロレス喧嘩マッチ伝説』でタッグを組んだ名パートナーのGさんです。この本でもGさんの編集力が冴えていて、読みやすくまとまっていたと思います。だからこそより小川さんの実弾が際立つ効果があったのかも…。





 

面白いプロレス本でした!

皆さん、チェックのほどよろしくお願い致します!