レーガン大統領暗殺未遂事件 | 戦車兵のブログ

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1981年3月30日にロナルド・レーガン大統領が銃撃された事件が起きた日。

 

 

レーガン大統領暗殺未遂事件は、1981年3月30日に、アメリカのワシントンD.C.で、アメリカのロナルド・レーガン大統領が銃撃された事件である。

 

 

ロナルド・ウィルソン・レーガン(1911年2月6日 - 2004年6月5日)は、アメリカ合衆国の俳優、政治家。カリフォルニア州知事、第40代大統領を歴任。

 

 

歴代2番目の高齢(69歳349日)で選出されたアメリカ大統領であった。

 

身長6フィート1インチ(約185cm)。

 

なお、大統領就任頃までのレーガンに関するかつての日本語の文献・報道では「リーガン」と表記されていた。

 

対日関係上の愛称は「ロン」

 

 

映画俳優からカリフォルニア州知事に転じ、その後1980年に大統領に就任した。1期目はアメリカ経済の回復を政策目標に掲げ、「レーガノミックス」に代表される大幅減税と積極的財政政策を実施し、経済の回復とともに双子の赤字をもたらした。

 

外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命やニカラグアでのサンディニスタ政権成立によって親米独裁政権が失われており、この失地を挽回すべく、レーガンは外交に関しては殊、強硬策を貫き、ベトナム戦争以来の本格的な外国への武力侵攻をグレナダに対して行う等、「強いアメリカ」を印象づけた。

 

 

2期目はイラン・コントラ事件に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に対して各方面から辛辣な批判が目立ったものの、レーガンはデタントを否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判。

 

「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗する一方、「レーガン・ドクトリン」を標榜し、イギリスのマーガレット・サッチャー首相や日本の中曽根康弘首相、西ドイツのヘルムート・コール首相などの同盟国の首脳と密接な関係を結び世界中の反共主義運動を支援し、自らの任期終了直後に起きた冷戦の終結に貢献した。

 

 

2期目の大統領に就任した時点で73歳11月の高齢であり、また暗殺未遂事件にも遭ったが、2期8年の任期満了によりウィリアム・ハリソンの当選した1840年以降の「20で割り切れる年に当選した大統領は在任中に死去する」という、いわゆる「テカムセの呪い」にも終止符が打たれた。

 

 

テキサス工科大学の学生だったジョン・ヒンクリーは、1976年に公開された映画「タクシードライバー」を繰り返し観る中で、12歳の売春婦「アイリス」役を演じたジョディ・フォスターへの偏執的な憧れを抱く。

 

 

その後フォスターがイェール大学に入学したとき、ヒンクリーはフォスターに近づくためにコネチカット州ニューヘブンに転居し、フォスターの自宅のドアの下に自作の詩を書いたメッセージを挟み込んだり、繰り返し電話をかけるなどした。

 

 

しかしフォスターとの接触に失敗したヒンクリーは、旅客機をハイジャックし、フォスターの前で自殺して注意を引こうとする計画を考えた。

 

しかし結局ヒンクリーは「歴史上の人物としてフォスターと同等の立場になるため」に大統領の暗殺を企てる。

 

 

計画実行のためヒンクリーはジミー・カーター大統領を州から州へと追いかけたが、その結果テネシー州ナッシュヴィルで重火器不法所持の罪で逮捕された。

 

 

釈放されたものの無一文になったヒンクリーは、家に帰った後に神経衰弱となり、精神療法を受けたが改善しなかった。

 

その後1981年になると、カーターを選挙で破り新たに大統領となったロナルド・レーガンをつけ狙い始めた。

 

 

その後ヒンクリーは、レーガンを銃撃するために3月29日にワシントンD.C.に向かい、ワシントン・ポスト紙で翌30日のレーガンの予定を確認した。

 

ヒンクリーはレーガンが30日の午後にワシントンD.Cのヒルトンホテルの会議場でAFL-CIO会議で講演することを確認し、この際に銃撃することを決定した。

 

 

銃撃に先立ちヒンクリーはフォスターへの手紙を2通したためた後、宿泊していたホテルを後にしヒルトンホテルへ向かったものの、レーガン以外にもカナダのピエール・トルドー首相などが参列していたために会場内の警備が厳しく、会場内での銃撃をあきらめ、多くの群衆が取り巻く会場外で銃撃することにした。

 

 

午後2時30分前に会議場での講演を終えたレーガンは、シークレットサービスや警護の警官らとともにT通りの出口から出て、大統領専用車(リンカーン・タウンカー)へと向かおうとした際に、警備の隙を見てヒンクリーは回転式拳銃(ロームRG14 .22LR、いわゆるサタデーナイトスペシャル)から6発全弾発砲した。

 

 

銃弾は専用車の車体に当たって跳ね返りレーガンの左胸部に命中し、他にもジェイムズ・ブレイディ大統領報道官とワシントンD.C.首都警察のトマス・デラハンティ巡査、シークレットサービスのティモシー・マッカーシーに命中した。

 

ヒンクリーはシークレットサービスや警官に取り押さえられ、逃亡しようともせずその場で身柄を拘束された。

 

 

この一連の出来事は複数のテレビカメラによってその一部始終が生中継されており(中にはヒンクリーの銃自体が写っていた)、その後世界中にレーガンらが銃撃されるシーンが放送されることとなった。

 

 

このシーンを登用して報道した新興ニュース専門放送局のCNNは、以降ニュース専門放送局としての地歩を固めた。

 

なお、アメリカ大統領が狙撃され、弾丸が命中したのは1963年11月のケネディ大統領暗殺事件以来のことである。

 

 

銃撃直後にレーガンはシークレットサービスによって大統領専用車に押し込まれ、その直後は無傷と思われたために即座にホワイトハウスへ向かった。

 

 

しかし、その後に大統領専用車内でレーガンが吐血し併せて胸部に出血を認めたために、シークレットサービスの機転により大統領専用車は近隣のジョージ・ワシントン大学病院に急行し、その後即座に緊急手術を受けた。

 

 

なお、弾丸はレーガンの心臓をかすめて肺の奥深くで止まっており、かなりの内出血を起していた。

 

 

冷戦下における「国家の安全上の理由」から(実際に、銃撃事件の直後にソ連の潜水艦がアメリカの大西洋沿岸に集結するなどの不穏な動きが見られた)、レーガンの詳しい様態が、同じく狙撃され重傷を負ったブレイディ大統領報道官の代理であるラリー・スピークス副報道官からマスコミに明らかにされたのは、レーガンが退院してからのことである。

 

 

また、レーガンとともに銃撃を受けたマッカーシーとデラハンティは幸いにも軽傷で済んだものの、ブレイディ大統領報道官は頭部に弾丸を受けたために、一命こそ取りとめたものの回復不能な障害が残った。

 

ブレイディ大統領報道官は2014年に、この時の傷が原因で死亡している。

 

 

レーガンは出血を伴う重傷を負っていたにもかかわらず意識ははっきりしており、自らの胸から弾丸を取り除く手術の前には執刀外科医に対して、「諸君がみな共和党員だといいんだがねぇ」とジョークを飛ばす余裕さえ見せた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみな共和党員です」と答え、レーガンを喜ばせている。

 

 

また、事件の知らせを受け病院に直行した妻のナンシーに対しては「ハニー、僕は避けるのを忘れていたよ(Honey, I forgot to duck)」と冗談を言った。

 

 

これは1926年のボクシング・ヘビー級選手権でジャック・デンプシーの敗戦のコメントを引用したものであった(デンプシーはジーン・タニーに負けた後、「何が起こったの」と尋ねる妻のエステレ・テーラーに対し、「ハニー、僕は避けるのを忘れていた」と応えた)。

 

 

レーガンのこのような機知は事件後に公にされ、「危機の際にもユーモアを忘れない」という、指導者のあるべき姿を体現したものとして称賛の対象となった。

 

その後、レーガンは高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約3週間後には公務に復帰している。

 

 

後にレーガンは共和党大会での演説中、飾りつけの風船が破裂し周囲が銃撃があったのかと勘違いし騒然とすると「奴(ヒンクリー)は、またしくじった」とジョークを飛ばし、聴衆を大いに沸かせた。

 

 

ヒンクリーは1982年に行われた事件に対する裁判では13の罪で起訴されたが、6月21日に精神異常が理由で無罪となった。

 

弁護側の精神医学上の報告書では「ヒンクリーが精神異常」であると報告したが、検察当局の報告書はヒンクリーを法律上健全であると宣言した。

 

 

ヒンクリーの無罪判決は広範囲の狼狽を引き起こし、下院および多くの州で精神異常者の犯罪に対する法律改正につながった。

 

その結果3つの州が弁護を全て廃止した。

 

ヒンクリーの事件に先立つ連邦裁判所での裁判では、死刑裁判の2%未満で精神異常での免罪が使用され、その80%が敗訴した。

 

 

この判決を受けて、ヒンクリーはワシントンD.C.のセント・エリザベス病院で拘束された。

 

その後ヒンクリーは両親の監督下に1999年に退院を許可され、2000年には監督なしでの釈放が許可された。

 

しかしこれらの権利はヒンクリーがフォスターに関する資料を密かに病院に持ち込んでいたことが判明し無効となった。

 

その後2016年7月釈放が許可された。

 

 

この銃撃事件とその後のレーガンの対応は、レーガンの支持率に大きな影響を与えた。

 

事件が起こる前のレーガンは、俳優時代やカリフォルニア州知事時代の言動を元に、多くのリベラル層や知識層などから「ポピュリストかつ右傾的」だとして否定的に思われていた。

 

 

しかし、このような事態においても余裕を失わない精神的な強靭さや、機知に富んだ人格が評価され支持率が大きく上がった。

 

後の一連の政策を行えたのはこの事件なくしては無理だったとする意見もある。

 

 

この事件で頭部に銃弾を受け障害が残ったブレイディは、大統領報道官としての任務の遂行が不可能となったものの、1989年にレーガンがその任期を全うするまでの間、正規の大統領報道官として留任を続けることとなった。

 

 

事件後はブレイディの部下となる大統領副報道官が実質的に正報道官としての任務を行い、ブレイディは回復に向けてのリハビリテーションに専念した。

 

 

なお、この事件を受けて制定されたのが、米国民の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」である。

 

しかしこの法律は2005年にNRAなどの抵抗により効力延長手続きがされず失効した。

 

 

ブレイディは2014年8月4日に73歳で死去したが、バージニア州検視当局はその死因をこの事件による負傷によるものとして、ブレイディの死を殺人事件と断定し、警察により再捜査が行われることとなった。