オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

隅田川の花火をニュースで観た。

江戸時代、八代将軍徳川吉宗の命で行われた「両国・川開き花火」が起源と言われるが、隅田川河畔のライオン東京本店ビルがオフィスだった私には懐かしい夏の風物詩である。

殺風景なビルの屋上、ただ、隅田川の花火には貴賓席と言えなくもない。

気心の知れた仲間と花火見物をしながら冷えたビールを酌み交わし、夕涼みを楽しんだ記憶が今も残っているが、それが墨田区両国の下町情緒に感じられたものだ。

あれから40年…

ニュースでは熱中症対策で多くの花火大会が9月に変更されていると報道されていた。

大相撲名古屋場所は平幕の琴勝峰の初優勝で幕を閉じた。

シドニーからNHKBSのダイジェストを楽しんでいるが、新入幕力士の活躍もあり、私には実に面白い場所だったし、特に小兵力士の活躍には目を見張るものがあった。

相撲にはラグビーに通じる要素が多く、特に「小よく大を制す」と指導された私にとって、小兵力士の鋭い当たりや機敏な動きにどうしても心が躍ってしまうのだ。

 

実は、9月にオーストラリアのハイスクール・ラグビーチームを連れて日本遠征を実施するが、大相撲9月場所の観戦を旅程に加えている。

もちろん、日本の伝統的なスポーツ文化に触れさせたいという大前提はあるが、私はオーストラリアのラグビーボーイズに小兵力士の当りや俊敏な動きを目の当たりにさせたいのだ。

このツアーのリーダーであるタイ監督は、小柄ながら元ワラビーズの経歴を持ち、日本のトップチームでコーチを歴任したことから、ボーイズの大相撲観戦の機会を切望している。

この5月、9月の日本ツアーの下見や準備を兼ねて訪日した。

85年にオープンした今の両国国技館、80年にライオンに入社した私は、東京本店ビルの目前で工事が始まった頃から知っているが、オープン後には得意先招待会で何度かホスト役を任され、当時の体格から相撲協会のスタッフに間違えられたこともあった。

88年に退社、1ヶ月も経たない内にシドニーに移住、それ以降で両国界隈を訪れるのは、98年にオーストラリアの友人を国技館の相撲博物館に案内した時以来である。

今回の下見の目的は、取組終了後の状況を見ることだった。

宿泊先は錦糸町のホテル、取組終了後に一目散に会場を後にするのは可能だろうが、それでも、ボーイズにとって一生に一度かもしれないと思えば、弓取り式まで見せたい。

そうなると、一駅だが千葉方面への帰宅時間が重なるため、30名が乗車するのは厳しそうだ。

まあ、それも日本の日常を体験させるチャンスではあるのだが…

 

駅前のロータリーの角で国技館からわき出すように増えていく客の流れ(渋滞)をボンヤリ眺めながら、シドニーで見るラグビーのテストマッチ後の光景と一緒だなぁと考えていた。

まあ、いいや、最悪、歩いて帰るのもアリだよなぁ、裏道の途中には「北斎美術館」もあることだし、オーストラリアで北斎画Tシャツを着た奴をよく見掛けるし…

ロータリーにはタクシーが詰め、取り組みを終えた力士が相乗りして帰宅する(銀座にでも呑みに行くのかも?)のを眺めていると、今場所大活躍だったウクライナ出身安青錦の姿があった。

あのキリッとした笑わない端正な顔が印象的で、どことなくオーラが感じられた。

 

ほとんどの客が笑顔で通り過ぎていくのを眺めている内に喧騒は一気に消えた。

懐かしい両国の街並みと言いたいところだったが…

国技館の目の前にあったはずだった私の第二の故郷、ライオン東京本店ビルは建て替えられて、2Fにステーキ・レストランのあるオフィスビルになっていた。

何か喪失感のような寂しさを感じながら、隅田川の1km上流、厩(うまや)橋の袂にあるライオン本社ビルまで歩いてみたが、人通りもなく、暗さもあってか、更に寂しい気分になった。

何と、本社ビルも無くなっていた。

跡地の周囲には工事中の幕が張られ、内部を見ることさえ叶わなかった。

かつて、ラグビー部の仲間達と駐車場でパスの練習をし、最上階の会議室まで駆け上がった白亜の美しいビルは跡形も無くなっていた。

2019年、ラグビーW杯観戦を兼ねたハイスクールの日本遠征の際、スカイツリーから、スタッフとして参加した次男に私達夫婦がこのビルで出会ったことを話したのに…

 

ライオン本社や東京本店が2年前に川向うからグレードアップ移転したと聞いてはいたが…

私達の歴史と言うかランドマークを失ったようで、寂しさを通り越して涙が出そうだった。

後輩に私の気持ちを投げ掛けてみたが、こんな返事が戻って来た。

先日、錦糸町でライオンの同期会があり、ぼくも本社、本店ビルがなくなっていることを知り、愕然としました。故郷の喪失はやはり寂しいものですね。

昨年の10月、久しぶりに実家を訪ねた。

2016年に最寄のJR岡本駅に西口がオープンし、そこを使うのは初めてだった。

親不孝な私は、2013年に母が他界して以降、両親の墓参りもしていないのだ。

母が健在だった頃に始まった市の区画整理、最終段階となった今、実家の建屋や両親が愛した畑は跡形も無く、その跡地には草ぼうぼうの野ッ原が広がっていた。

私の両親は私達兄弟の友を愛し、我家を訪れた友は数知れず、オーストラリアの友も多数訪れ、その誰もが母の笑顔や心づくしの手料理、そして土産の手作り野菜を喜んだ。

そんな思い出の詰まった実家が跡形も無くなっている光景に言いようがない寂しさを感じた。

 

この里帰り中に、私は木村の願いを電話で知らせてくれた友人に会うつもりでいた。

彼は医療学会のために東京で宿泊予定だったのをキャンセルして宇都宮に戻って来てくれた。

高校時代から、彼にはどこかほのぼのとした温かさがあった。

ラグビー部員ではなかった彼とはなぜか馬が合い、修学旅行先の京都では、自由行動中に二人で岩船寺から浄瑠璃寺までの"石仏の道"を歩いた。

今は名医と言われる存在だが、それに驕ることなく、彼は高校時代と何も変わらない。

そんな彼との会話の中で、私は木村が永眠したのを知った。

心配をよそにメールのやり取りは続いたが、返信がプッツリ途絶え、その後もメールやメッセージを送ったが、返信は無く、最悪の事態を想像しながらも、私には為す術もなかった。

「冷たい奴!」と言われるかもしれないが…

母のいない故郷に10年以上も足を向けられなかったのは、正直に言えば、母との思い出に真っ向から向き合う自信や勇気が無かったからなのだ。

木村への思いもそれに通じるものであり、数年前、共に励まし合って青春を駆けたラグビー部の同期が立て続けに他界した時も同じだった。

 

彼は木村の葬儀について話してくれた。

喪主である奥様の挨拶に皆が涙したと言う。

「主人は、毎日のように『アラビアのロレンス』と『海の上のピアニスト』を観ながら、穏やかな気持ちのままに息を引き取りました」

それを聞いて、思わず目頭が熱くなった。

「アラビアのロレンス」は元より木村と私の友情を培った映画であり、「海の上のピアニスト」は、"永遠の友情" がテーマに思えたからこそ、私は彼に薦めたのだ。

貧困生活に喘ぎ、愛するトランペットを手放そうと訪れた楽器屋の主人に「最後に一回吹かせろ!」と言い放ち、かつて友がピアノで奏でた曲を吹くところから物語が始まる。

この2つの映画の主人公、ロレンスにも"1900" という風変わりな名前を持つピアニストにも、友の存在を欠かすことはできなかった。

もし、木村が私をそのような存在と思ってくれていたのなら、私は嬉しい。

 

2023年1月26日、木村からのメールにこんなことが書かれていた。

友人から電話がありました。加藤君と連絡が取れ、私は加藤君が私を覚えているかどうか心配でしたが、私のことをよく覚えていると聞いた瞬間、私は人生で初めて号泣してしまいました。

死に至るノーサイドの最後に加藤君の言葉としてあったように僕も人前で流す涙はどんな時でも恥ずかしいと思っていたのに。言葉にならない涙とは、こういう瞬間なんだと知りました。

女房もびっくりしたと思いますが電話の間中、ずっと背中を擦ってくれていました。電話が終わってからも女房は何も言わず、僕も恥ずかしいという気持ちはまったくありませんでした。

 

2023年2月20日、木村宛にメールを書いていた時に呼び鈴が鳴った。

国際小包が届き、木村から私宛にローリングストーンズのTシャツと吉田拓郎のCDが届いた。

私は書き掛けのメールを急遽お礼のメールに書き直して送信したが…

2023年2月12日に届いたメールを最後に、彼からのメールは途切れたままで、2月20日に私が送信したお礼のメールへの返信も届かなかった。

 

彼のメールには、家族のことや学生時代や社会人時代のことが実名入りで書かれ、妻や家族にも話したことが無かったので、家族にも読ませることにしたと書かれていた。

息子が野球をプレーし、木村自身がコーチをしたことが嬉しそうに書かれ、横浜に住んでいた彼や家族は、孫の代までDeNA横浜ベイスターズの大ファンだったようだ。 

あれから2年以上も経って、なぜ木村のことを書こうとしたのだろう?

4月に日本ツアーを実施したオーストラリアのハイスクール・ラグビーチームを横浜スタジアムで開催された「ベイスターズvスワローズ」戦に連れて行った。

そして、先月、9月に日本ツアーを実施するチームのために、"横浜みなとみらいエリア" の下見を兼ねて、桜木町駅から帆船日本丸、汽車道、ワールドポーターズ、赤レンガ倉庫、大さん橋、日大通り、横浜スタジアム、中華街、石川町駅…

亡き友を想いながら、気が付けばその全行程を歩いていた。 

そして今、彼のフェイスブックに残されたカバー写真を見ながら、彼の冥福を祈るばかりだ。

余命宣告を受け、50有余年ぶりに私に会いたいと言ってくれた友…

木村、ありがとう。

シドニーの6月は、一年中で一番寒く感じる。

この歳になり、寒そうな外を眺めていると、なぜか物思いにふけることが多くなる。

あの電話から2年半、もっともっと木村と話したかった。

心配する気持ちに反し、木村は元気そうで、私の電話を手放しで喜んだ。

今思えば、私を気遣って元気そうに振舞ってくれたのかもしれないが、50年の歳月を超えた会話には、彼の心に今も私の言動がどっかりと鎮座しているのが手に取るように窺えた。

 

彼は矢継ぎ早に半世紀前の思い出を口にした。

一緒に観た「アラビアのロレンス」、あの映画を彼は今もずっと観続けていると言う。

何度も映画館に通い、いつか一緒にアラビアに行こうと私は彼を誘ったらしい。

「俺はシェリフ・アリが好きだったけど、加藤は、悩み苦しむロレンスに一緒へ砂漠に帰ろうと誘ったアウダ・アブ・タイが好きだと言ってたよなぁ」

私の影響と言えばおこがましいが、彼は今もローリング・ストーンズの曲を聴き続けている。

私の実家を訪れた時の思い出もしっかり記憶にあるらしく、私の両親や兄のこと、その時に食べたつきたての餅や採れたての野菜が美味しかったことも彼は口にした。

そして、私の大学時代のラグビー、新聞や雑誌に載った写真や記事を彼は集めてくれていた。

ただ、なぜか釣りに関しては話題にならなかった。

 

友人からの電話で聞いた医師の余命宣告が気になっていたが…

彼が口火を切った。

「医者に余命1年と言われ、正直途方に暮れたよ… ただ、家族に恵まれたことが俺にとっては救いだったし、それが一番だったよ。でも、俺が辿った人生を振り返ってみて、この50年間に、加藤に連絡をしなかったことが残念に思えてならなかったんだ。新聞や雑誌で加藤を見た時に、何度も連絡しようと思ったんだけど…」

私が一方的に彼との距離を置いた経緯を思えば、彼に返す言葉はなかったが、この期に及んで、過去の言い訳や歯の浮くような慰めの言葉だけは掛けたくなかった。

崖っぷちに立つ彼の言葉から感じたのは、友情に長短は関係なく、例えそれが一瞬でも、互いに感動を分かち合えた喜びや夢が、長い年月を超えて今も生き続けているということだった。

 

「俺の人生の中で、あんな風にワクワクしたのは加藤と一緒の時だけだったよ」

60数年生きたほんの一瞬とも言える短い期間、15歳の少年二人が互いに純粋に向き合い、彼も私自身もその出会いを大切にした証であり、彼にとっては正に「一期一会」だったのだろう。

そんな彼の言葉を重く受け止めたが、その後の私は、ラグビー、そしてオーストラリア移住という巨大な挑戦や感動の渦に翻弄され続けていたのだ。

今なら言えるのは、私にとっても友は皆「一期一会」、かけがえのない宝物なのだ。

 

今は、彼に元気や生きる勇気を与えたい!

そう思えば、私は彼と距離を置いた訳を話さなければならなかった。

あの時点で、もし私に決断や転機が無ければ、今ある自分は無かったかもしれない。

紙一重の浪人生活、それも中学浪人、あのまま流されてしまえば、高校も大学も、そしてラグビーも、オーストラリア移住さえ、夢のまた夢で終わっていたかもしれなかった。

「俺だって同じだよ、加藤のお母さんは本当にいい人だったよなぁ」と彼は言った。

3年前の私や彼と同年代で他界した私の父、医師の余命宣告から8年生きた父の生きることへの前向きな姿勢や努力、諦めなかった面影もありのまま彼に伝えた。

 

その電話を境に、彼とのメールでのやり取りが始まった。

2022年12月29日から2023年2月12日までに、互いに16回、計32回の送受信がなされた。

早い段階で、兄が私を描いた「死に至るノーサイド」について知らせたが、彼は即刻アマゾンから取り寄せ、読んだ後には感想も送ってくれた。

また、少年だった息子達の私への誕生日プレゼント「アラビアのロレンス」のDVDを今も観続けていることも伝えたが、イギリス政府の植民地政策の片棒を担がされたロレンスへの感動が多少薄れていることも正直に彼に伝えた。

その代わり、私は「海の上のピアニスト」(The Legend of 1900)を彼に薦めた。

 

つづく

2022年の年末、日本の友人から突然電話があった。

高校時代の友人で、シドニー移住後に出会った記憶は一度だけ、それも随分前のことだ。

「加藤、木村って覚えてるかい?」

長いご無沙汰を告げようともせず、彼は藪から棒にそう話し始めた。

木村という名の友人は何人か思い当たるが、宇都宮を拠点とした古い友人は一人だけだった。

50年前、中学浪人時代に共に予備校で学んだ男だったが、私にはかすかな記憶があった。

「木村って、志学の時の?」 *予備校名の"志学館"を仲間内ではそう呼んでいた。

「そうそう、その木村のことなんだけどさ…」

砂を噛むよな味気ない浪人生活にも慣れた頃、なぜか木村とは急速に親しくなった。

ただ、親しかったのはほんの短い期間で、翌年の春、彼と私は別々の高校に進学し、50年以上、会ったことも話したことも彼を思い浮かべたことすら無かったのだが… なぜ?

「木村って、旭中出身で確か釣りが好きだった奴だよなぁ?」

覚えているのはその程度だったが、短期間で疎遠になってしまったことには理由があった。

浪人中にも関わらず予備校の授業をサボり、よく映画を観に行ったし、親が共稼ぎだったのを良いことに、親の目を盗んで釣好きの彼とよく近くの鬼怒川に釣りにも行った。

ただ、たまたま家の用事で帰宅した母親に、私のそんな"だらけた日常"が露見することに。

母は震えるほどの怒りだったに違いないが、私に対する失望感からか、声を殺して泣き出した。

元々涙もろい母だったが、あの時の母の涙を私は忘れない。

夢を叶えるため、私が着々と翌年の準備を重ねていると信じて疑わなかった母。

私も親になってみて理解できるが、母は私以上に悩み苦しんでいたに違いなかったし、その上で、不満一つ言わず、家事を全うし、朝早くから夕方遅くまで町の工場で働いていた。

一日立ちっ放しで働いて、薄給から私の予備校の費用を払うのは大きな負担だったはずだ。

あの時以来、木村とは疎遠になってしまった。 

 

「そうそう、その木村が加藤に会いたがっているんだよ」

電話をくれた友人も共に志学で学んだ仲間だったが、現在は宇都宮市で開業医を営んでいる。

生まれ育った町の町医者として住民から絶大な信頼を得ているようだ。

「実は、彼は前立腺がんで、医師から余命1年と告知されたようなんだよ」

医師らしい彼の優しい語り口に聞き耳を立てながらも… でも、なぜ俺なんかに?

「余命1年と告知され、木村が一番会いたがっているのは加藤だって言ってるそうなんだ」

そう投げ掛けられ、それは何かの間違いで、きっと加藤違いなのではないかと思ったが、正直、私はそれをどう受け止めればよいか戸惑うばかりだった。

「とにかく、彼に電話をしてもらえないかな?」

私はどう取り繕えば良いかも分からず、友人から告げられた番号に電話を掛けた。

木村の声に張りは無かったが・・・

それでも声も話し方も昔のままで、彼のクシャっと笑う顔が浮かんで来るようだった。

 

つづく

先週の金曜日に私は69歳になったが、昨日、妻と息子達夫婦、孫3人が祝ってくれた。

さあ、60代最後の一年をどうエンジョイしようか?

まあ、これと言って何かアイデアがある訳では無いが、まずベースになるのは健康維持であり、とにかくストレスフリーな規則正しい生活を心掛けなければならない。

 

36年前の1988年にシドニーに移住し、1993年に起業してから31年…

これと言った大病を患うこともなく、それでも、妻と自分以外に誰も守ってくれる人のいなかった私達の心得として、定期的な検診だけは心掛けて来た。

 

この9月末にも受診したが、ここ数年の結果に比べると劇的な変化があった。

135/85前後だった血圧が、125/75に下がったのだ。

腎臓学のプロフェッサー(教授)であり、高血圧に関する権威でもある"セバストス先生"による計測なので、その数値に間違いはないはずだ。

私の父が今の私より2歳若くして腎臓がんで他界したため、10年以上、私は腎臓の専門医セバストス先生を受診しているが、A4用紙数枚になるほどの血液検査や尿検査の結果を検査項目毎に丁寧に説明、他にバイタル(脈拍、呼吸、血圧、体温)も丹念に診てくれている。

私の年齢や身体の変化を熟知する彼は、今回の診察中「40代の血圧だぜ」と羨ましがった。

残り10分はいつもラグビー(ワラビーズやジャパン)の話題で盛り上がるが、フレンドリーな彼の笑顔と「See you my friend」という言葉にいつも励まされる。

 

更に、私はこの10年来、緑内障に関する専門医の検査も続けているが、両目とも眼圧の値が10を超えていたのに、9月末の検査では左眼が8、右眼が9だった。

血圧も眼圧も、運動や食生活等、ちょっとした生活習慣の変化で簡単に変わる数値ではない。

 

正直、医学的要因や因果関係は分からないが…

思い当たるのは、7年間続けて来た3日に1回のトレーニング・メニューを替えたことだ。

2017年6月、日本出張から戻り、97kgと表示された体重計を目の当たりにして、「このままなら3桁突入よ!」 妻のそんな言葉にほだされ、一念発起してトレーニングを開始した。

今年の6月末で7年続いたが、日数は年間の3分の1を優に超え、当初の目標も達成出来た。

 

ジョギング&ウォーキング 80%/筋トレ(腕立伏せ・腹筋)20%だったトレーニング・メニューを、今年の5月から真逆の筋トレ中心のメニューに替えた。

オーストラリア生まれの新しいトレーニング・ツール「パワーフレックス・バトルバー」を使った最新の筋トレ・メニューに替え、この5ヶ月間で約50回続けている。

今年、オーストラリアからヨーロッパ・アメリカ・日本を含むアジア諸国向けに発売開始されたツールで、元々は、アスリート向けに身体全体の筋力や筋肉量、筋肉の柔軟性やバランス、更に瞬発力や加速パワー、インパクトパワーを高めることを目的に考案された。

 

発売前の5月から、私はこの「バトルバー/戦闘バー」を使い始めた。

正直に言えば、私はこのバトルバーの日本向けディストリビューター(販売代理店)を任され、その責任を担うには、まず自ら試してみなければ、人に薦めることはできないと考えたのだ。

年齢を考えれば、私はアスリートの対象からは外れるが…

「筋肉量の増加を促進、基礎代謝を高め脂肪燃焼を促進▶健康やダイエット効果 !」を豪語するオーストラリアのCEOの説明に刺激を受け、自ら率先して試さない手は無いと考えた。

 

ジムやスポーツクラブでよく見掛けるロープ・トレーニングに似ているが、コンパクトでポータブルなため、いつでもどこででもトレーニングが可能なのだ。

雨の日でも、我家のベランダで十分トレーニングが出来るのが嬉しい。

単に振り回すだけでなく、スクワットやランジ、ジャンプなどを併行すれば、全身の筋肉に筋トレ効果が伝わり、寝たまま、座りながら行えば、更なる効果も期待できる。

繰り返す内に、筋トレ・メニューが数限りなく浮かんで来る。

そう、アイデアは無限で、私は頭に浮かんだメニューを書き残し、25種x2セットをノルマにしているが、例えば、身体や脳裏に染み付いて今でも身体が自然に動くラジオ体操にバトルバーを加えれば、立派な筋トレに変わるのが嬉しい。

フィットネス・トレーナーに指導を仰げば、より効果的なメニューも加わるに違いないが、近年SNS上に激増している筋トレ専門の動画を閲覧する度に、この動きにバトルバーを使えば、飛躍的に効果が増すのになぁと考えてしまうのだ。

そして、それらの動画が私のメニューの参考書になっているのだが。

 

69歳、身長183cm、《日本製オムロン体重計》のデータは、体重/83kg(学生時代と同じ)、基礎代謝/1800超え、体脂肪・体内脂肪/やや肥満、BMI(身長に対する体重範囲)/ぎりぎり健康的、骨格筋率/やや低い、体内年齢/60歳…

項目別の参考データをSNSで検索すれば、私は更なる努力が必要なようだ。

ただ、この7年間、何もやって来なかったら… と考えると怖ろしくなる。

 

血圧や眼圧の変化を手放しで喜ぶのは時期尚早であり、今後の定期的な経過を見なければ胸を張って効果を謳うことは出来ないが、SNS上の様々なデータやドクターのコメントから、私は筋トレの効果が間違いなく影響していると信じるようになっている。

健康維持のために、高齢者にとって筋トレや有酸素運動は重要と言われ、バトルバーには有酸素運動的な要素も含まれ、ちょっとした時間さえあれば、どこでも出来るところが最高なのだ。

それと私自身がトレーニングの考案者となり、楽しく頭を使うところも気に入っている。

毎回楽しそうに公園に向かう私を見て、妻もやろうかなという気持ちが芽生えているようだ。

アスリートはもちろん、高齢者でも女性でも思い立ったら簡単に始められるところが良い。

コストパフォーマンス(費用対効果)の感じ方は人それぞれだが、青空の下、無料のオウンジムで気楽に楽しめること、5ヶ月続けて体感した効果を考えれば、決して悪くはない。

 

シドニーは今日からサマータイム、朝から晴天、緑に染まり始めた芝生の公園(クリケット場)で、誰にも邪魔されず自由にトレーニングするは、私にとってこの上ない喜びなのだ。

どこかの東洋人が変な棒を振り回しているなぁ…

そんな視線を感じながらも、スポーツ好きのオージーが寄って来て、「ちょっとやらせて !」「凄い !」「これいいなぁ ! 」「どこで売っているの !?」… 

誰もがフレンドリーだが、一般に男性はシャイで、女性は積極的なのがオージーらしい。

 

興味があれば…

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シドニーでは日に日に春らしさが増している。

我家の近所にあるオバール(円形のグラウンド)からサッカーゴールやラグビーのゴールポストが撤去され、その真ん中にあるクリケットピッチがロープで囲われ、シーズン開幕に向けて着々と整備が開始されている。

 

ラグビーシーズンは終了し、今年のNSW(ニューサウスウェールズ州)ラグビー・クラブチャンピオンシップは、イースタンサバーブズが1969年以来55年ぶりに優勝した。

この十数年、クラブラグビーから遠のいていた私だったが、なぜか率直に嬉しい!

私は1988年12月に単身シドニーに到着した。

到着後、まず最初にやるべきことは、翌年4月に妻と息子二人が到着する前に家族の生活の場を確保することだったが、数年後に息子二人がラグビーをプレー出来る環境やそんなエリアに住むことが私の大前提だった。

私の目論見は叶い、息子達はそれぞれ6歳からラグビーを開始するが、同時にイースタンサバーブズのクラブハウスやグラウンドが私達家族の"元気の園"となった。

 

そんなボンダイ・エリアの住居を斡旋してくれた不動産会社のスピード氏はイースタンサバーブズのOBだったが、彼は1969年の優勝メンバーの一人だった。*後列右から2人目

彼との偶然の出逢いから、私達家族は20年間この家に住み、車で5分のイースタンサバーブズ・ラグビークラブのファミリーメンバーとして、オーストラリア人の友人も増えた。

移住したての私にとって、家族のために懸命に働くことは当然だが、仕事も含め、地に足を着けてこれからどう生きていくべきかをしっかり考えなければならなかった。

当時、私にあったのは、丈夫な身体と日本での8年半の営業経験、そして何より経験値だけなら胸を張れたのは「ラグビー」だった。と言うか、それしか無かったのだ。

 

その意味からすれば、どれだけこのクラブが私の心の支えになったか分からない。

息子達の活躍はもちろん、私自身がコーチングの面白さや奥の深さを知り、探求心のようなものに目覚め、得意な分野で生きるしかない!と私を導いたのは間違いない。

そんな私の実体験もあり、多くの日本人ラグビー留学生にこのクラブでプレーするよう勧めた。 

息子達もジュニアからシニアに成長しながら留学生達と一緒にプレーしたが、その誰もがイースタンサバーブズのジャージがとても似合っていた。

多くの日本チームの豪州遠征のサポートを手掛けてきたが、このクラブは何度もフレンドリーゲームやアフターゲーム・ファンクションを快く引き受けてくれた。 

私は日本から訪れた友人や知人を必ずこのクラブハウスに案内し、オーストラリアのスポーツ文化や歴史、そのメンバー達のフレンドリーさに触れる機会を作ってきた。

 

トレーニンググッズのコンタクトスーツを見つけたのもこのクラブのグラウンドだった。

私にとって、何も分からずに初めて手掛ける事業だったが、グッズの製造元との取引きに関する契約をこのクラブ関係の弁護士が何くれとなくサポートしてくれた。 

55年前の優勝の際、イースタンサバーブズ・クラブは日本遠征を行ったが、九州・関西・東京を訪ね、全日本(当時JAPANはそう呼ばれていた)を含む6試合を戦っている。

1969年の優勝・日本遠征メンバーだったスピード氏と共に2度、日本遠征の足跡を辿った。

八幡製鉄と戦った北九州の鞘ヶ谷グラウンドを訪ねた時のスピード氏の涙を私は忘れない。

 

様々な画像や祝福の言葉が添えられて55年ぶりの優勝がSNS上で踊っているが、ふと見ると、「いいね」に息子達や留学生の名がアップされている。

彼らもこの優勝を喜び、きっと懐旧の念に包まれているに違いない。

今、話題の中心は、やはり「パリオリンピック」だろう。

長年シドニーに住んでいる私は日本とオーストラリア双方を応援しているため、日本のTV放送とオーストラリアのチャンネル9を交互に観戦しながらオリンピックを楽しんでいる。

 

私には馴染みの無かった競技「BMXレーシング」でオーストラリアのSaya Sakakibara(榊原 爽)選手が金メダルを獲得した。

日本の新聞やTVなどでも報道されているようで、彼女の快挙はすでに日本でも知るところかもしれないが、私なりにパリオリンピック感動の一コマとして記しておきたい。

オーストラリアでは彼女の金メダルが国民の感動を呼び起こすほど大きく報じられている。

〈バイシクル・モトクロス・レーシング〉と呼ばれる競技、自然の起伏を活かしたコースを使うオートバイのモトクロスを真似てアメリカの少年達がマウンテンバイクのような自転車で競ったことが発祥らしいが、そう聞けば、映画「ET」の中で、少年達が操る自転車が空に飛び上がるシーンが私の脳裏には浮かんで来る。

BMXレーシングには日本からも畠山紗英選手が出場していたようだが、準決勝で敗退、どちらかと言えば力や駆け引きの勝負であり、日本人には苦手なスポーツなのかもしれない。

 

彼女の名前が日本的だったこともあり、予選から決勝まで応援してしまったが、全レースを通じスタートからトップに踊り出てゴールまで突っ走るブッチギリの金メダルだった。

日本人の母親とイギリス人の父親というルーツを持ち、ゴールドコーストで生まれ、2歳から6歳まで日本で育ったそうで、BMXは日本滞在中に始めたそうだ。

表彰台に上がる前にお辞儀をしたり、顔にもどこか日本的な部分を感じるが、あのレース運びを観れば間違いなくオージー女性独特の強さや主張が感じられた。

 

柔道混合団体を観戦しながら、もちろん、素人の私の勝手な物言いと断っておくが、正直「勝っても負けてもいいから、もっと積極的に技を掛けろよ!」とフラストレーションが溜まっていた後だったため、彼女のキップの良い積極的な走りっぷりに私は感動するばかりだった。

 

やはり、勝利の涙の方が美しいなぁと感じながら表彰式を眺めていたが、今朝のSNSの新聞記事を読みながら、昨日のレース映像で観た以上の金メダルまでの道のりを知ることができた。

表彰台を降りた彼女は、大会関係者や報道陣を掻き分け、一人の男性の元へ・・・

その男性は彼女の兄カイだった。

カイも同じBMXレーシングを志し、東京オリンピックを目指して努力していたという。

直前にキャンベラで行われた世界選手権で転倒、カイの選手生命はそこでストップし、脳損傷を負った彼は2ヶ月近く昏睡状態、命の危険に晒されながら8ヶ月の入院を余儀なくされた。

 

サヤ自身も2020年東京オリンピックでクラッシュに見舞われ、競技への復帰を決意した後には、恐怖心や脳震盪のトラブルと闘いながらパリオリンピックを目指して努力を重ねたようだ。

「東京オリンピックの後、精神的に不安定になり、競技に復帰できないと考えた時期もありましたが、挑戦を諦めたらきっと自分に失望していたでしょう。私は今も兄も分まで走っているし、今大会は兄の背番号だった77を着けて走りました」と彼女はインタビューに答えた。

 

敗れた妹の無念さを背負って兄が金メダル連覇に輝いた阿部兄妹、日本では様々な反応があったようだが、Sakakibara(榊原)兄妹へのオーストラリア国民の反応は称賛一色だったようだ。

いずれにしても、様々な楽しみを犠牲にして努力したアスリート一人一人が積み重ねてきた日々を考える時、私にはメダルや結果だけで評価することができないのだ。

昔、「クソジジー」と呼んだ口うるさい老人がいたが、私自身がそんな老人になりつつある。

数日前、トム・ハンクス主演の映画「オットーと呼ばれた男」を観た。

日本でこの映画が話題になったかどうかは知らないが、ヒット作の多いトム・ハンクスの映画にしてはインパクトが弱いようにも思え、ネットの評価もそれ程高くはない。

公開から早々デジタル配信が始まったことからも、ヒット作にはならなかったことが覗えるが、私には、何度も観た大好きな秀作「フォレストガンプ」の続編のように思えなくもなく、トム・ハンクス独特の飄々とした演技に私は魅かれ、観終わった後に、感動の名作という類ではないが、「いい映画だったなあ」「こんな映画が観たかったんだ」という気持ちにさせられた。

 

主人公の名は、上から読(呼)んでもOTTO、下から読(呼)んでもOTTO。

正義感が強く、周囲に溶け込もうとしない彼はその町一番の嫌われ者という人物設定。

彼の毎朝の日課は、その地域の管理者でもリーダーでもないのに、私有地の路上に駐車している地域住民以外の車のチェックと公共のごみ箱に捨てられた分別ごみのチェックなのだ。

ガンコで口うるさい彼は、それがどうしても許せないのだ。

 

1956年7月9日生まれのトム・ハンクス、今日は彼の68歳の誕生日らしいが、同じ68歳の私は、映画の役柄とは言え、そんなOTTOにどこか通じるものを感じてしまうのだ。

そう言えば、つい最近も、マンションの地下駐車場にある来客用駐車スペースや洗車スペースに自家用車を停めている住人がいるのが癪に障っていたところだった。

「日本人の美徳」と検索すると、「謙虚さ」「謙遜」「反省」が最初にアップされる。

"YES or NO" をハッキリ主張するオーストラリアに40年近く住んで、あのまま日本に住み続けていたら、私の性格からして、どれだけストレスまみれになっていたかを想像すると怖い。

オージーのイージー・ゴーイングさにイライラすることはあっても、自分の言いたいことを言わない、いや "言えない" のは、精神衛生上良くないのを通り越し不幸だ!と考えてしまう。

 

私達夫婦は《事なかれ主義》というか、差しさわりの無い第三者的な振舞いを嫌い、仕事も人付き合いも家族との絆さえも、いつだって当事者意識を持って生きて来た。

そんな過去を振り返れば、口うるさくもなりガンコにならざるを得ない時も多々あった。

敢えて言ってしまうが、私の妻は私なんかよりはるかに正義感が強く、周囲に溶け込もうとするよりも自分の世界を好み、OTTOのように結構口うるさい。

この映画を観始めた時、おっと、女房にそっくり!と感じながら、思わず笑ってしまった。

ただ、OTTOの歩んだ境遇が次第に見えて来るにしたがって、男の幸せとは?老後の幸せとは? と考えるようになり、ここで女房次第とノロケるのはやめるが、敢えて言うなら妻子との固い絆なのだろうと思えてしまうのだ。

 

最近のネットの記事で、偉い先生の「高齢になると頑固になり、口うるさくなる」というレポートを読んだが、極ありきたりの文言で何の参考にもならなかった。

私は他人にガンコになるよりも、どちらかと言えば自分にガンコな高齢者になりたい。

周囲と交わる機会も稀有であり、他人のおせっかいよりも、3日に1回のウォーキングやジョギング、筋トレ(約2時間)を続けながら、ガンコな性分を自分に向けようとしている。

この6月末で丸7年続けたことになり、1021回、目標の3日に1回のペースは達成できた。

訪日や仕事、最近は孫の子守もある中で、私にとってはそれがチッポケな誇りなのだ。

ただ、雨の多い今年のシドニー、「洗濯物が乾かない!」という妻の言葉が背中に刺さるのだ。

終わりに再び映画の話題に戻るが・・・

OTTOは、向かいに住む陽気な夫婦と娘(女児)二人の影響で徐々に心の扉を開いていく。

夫婦から幼い娘二人の世話を頼まれ、フィギュア(人形)で遊ぶシーンが登場するが、あのフィギュアがトイストーリーのウッディやバズだったら良かったのに・・・

そう感じた人がいたら、きっと私と同じトム・ハンクスのファンに違いない。

Happy Birthday !! Tom

シドニー移住を果たしてから、仲間や友人と仕事帰りにちょっと一杯という楽しみはなくなってしまったが、意外に寂しさを感じることはなかった。

70歳間近の今の暮らしを考えれば、私の場合はそれが正解だったのかもしれない。

何のことは無い、家族がいて、普通に生活できて、友人は多く、いつでも会える訳ではないが、再会した時にはこの上ない喜びを感じることができるのだ。

今月、一年半ぶりに日本を訪ねたが、ちょいの間の訪日だった。

それでも、移動距離は長く、シドニー▶羽田▶大阪▶京都▶名古屋▶岐阜▶名古屋▶京都▶東京▶千葉(勝浦)▶仙台▶函館▶東京▶シドニー 9日間でこれだけ移動したことになる。

さすがに "疲れた" というのが本音だが、訪問先での友との再会が疲れを忘れさせてくれた。

何年会わなくても、やはり友は宝物なのだ!

 

訪日の目的は?

来年、Japanツアーを計画しているオーストラリアのRUGBYチームがあり、その下見と10年間販売を手掛けて来たフィットネスグッズ新製品の紹介とその反応を直に感じることだった。

リタイアして、仕事に追われることなくノンビリ暮らそうと決めていたが、どういう訳か?また真剣に挑戦することになったようで、困ったことに、それなりに意気込みを感じているのだ。

「よく、そんなチッポケな会社や仕事を続けているね」と笑われそうだが・・・

それでも、40年近くスポーツ先進国オーストラリアに住んで、それまで日本に存在しなかったトレーニングやエクササイズグッズを日本に導入、それらが正に、今も盛んに使われているのを観れば、自画自賛かもしれないが、多少の誇りを感じないでもない。

もちろん、グッズに限らず、例えばオーストラリアのコーチングコースやアドバンストセミナーも然り、日本のラグビー界を刺激して、昨今の日本のコーチ資格制度やプロコーチ出現の有様、勢力図にも多少の影響を与えることができたと私は胸を張りたい。

チッポケながらも、私なりに "イノベーション" を意識しながら突っ走って来たのだ。

ただ、一番の喜びは、それらの地道な努力の副産物として、一生の仲間や友が増えたことだ。

日本よりもシドニーでの生活が長くなった私は、感じたままをそのまま表現するからか、私から離れて行った人もいるが、おべんちゃらを言ったり、ウソはつきたくなく、人のうわさ(無責任な言葉)にも「片口聞いて公事を分くるな」を心掛けるようにしている。

 

ある用件もあって、10月末~11月中旬に再度訪日を計画しているが、今回のようなバタバタとした訪日にはしたくないものだ。

願わくは、多少寒くなっていて、紅葉や温泉を楽しむことができたら最高なのだが・・・

今回の訪日は、梅雨時なのに暑くて温泉どころではなかった。

秋のススキの季節もそれなりに情緒があって悪くはないのだが・・・

やはり、望むところはこのような情景の中で、ぶるぶるっとしながら温泉を楽しみたいものだ。

実は、11月の訪日に向けて、すでにこの温泉宿を予約している。

ちょっと気になっているのは、何かに挑戦しようとすればアッと言う間に時が過ぎてしまい、益々歳をとってしまうことが気になる年齢に達してしまったことだ。

まあ、ひとつの楽しみとしての挑戦、これからを楽しむための挑戦と考えたいものだ。

その意味からも、友との再会を楽しめる訪日にしたいものだ。

「お久しぶりです。私がオーストラリアでコーチングコースに参加した際、私を実の弟のように可愛がって下さった方の名前がどうしても思い出せないのですが、名簿とかは残っていますか? 当時、日本のどこかの大学でコーチをされていたと記憶しています」

*写真は02年の「第2回豪州コーチングコース」/シドニー・フットボールスタジアムにて

 

心温まるメッセージに、「何とか見つけてあげたい」という思いが募る。

そうだ、写真なら一目瞭然だろう! 

写真箱をひっくり返し、古い写真を一枚一枚確認したが、彼が参加した01年の「第1回豪州コーチングコース」の写真は見つからなかった。

初めての開催だったため、写真を撮る余裕が無かったのかもしれない。

 

99年W杯で2度目の優勝を果たしたオーストラリア(ワラビーズ)、そのコーチングコースはAIS(豪州スポーツ研究所)とARU(豪州ラグビー協会)によってプログラムされ、ASC(豪州スポーツ・コミッション/豪州政府機関)が認定や資格の管理を行っている。

世界が注目する優れたコースであり、日本からも熱心なコーチが多数シドニーを訪れた。

01年~03年/シドニーで4回開催、レベル1/3回、レベル2/1回

04年~15年/日本で14回開催、レベル1/10回、レベル2/4回

 

メッセージをくれたのは、鹿児島県大崎町でピーマン農園をやりながら、昨年、大崎町ラグビーフットボール協会とジュニア向けのラグビークラブ "Beach Wave Osaki" を起ち上げ、ラグビーの発展やラグビー人口の増加を目指す若きコーチである。

彼は2001年にシドニーで開催した「豪州レベル1コーチングコース」に10代で参加、試験やコーチングレポートの審査をパスし、オーストラリアの公式コーチ資格を取得した。

昨年5月、「来月は大崎町ラグビー元年のこけら落としが出来そうです」と彼からメッセージが届いたが、オーストラリア政府公認の "コーチ認定書" が添付され、「オーストラリアで公式なコーチ資格が取得できた事は最高の財産です」と書かれていた。

彼にとってコーチやコーチングの原点となった「豪州コーチングコース」、最年少の参加だった彼を何くれとなく実の弟のように面倒を見たコーチへの感謝をずっと忘れていないようだ。

 

私の最近のブログ「17年ぶりの嬉しい再会」から、私が遠征やセミナーに関する古いデータを大切に保管しているのを知って、彼が私に連絡をくれたのなら嬉しい限りだ。

さて、今回は17年前よりも5年古い23年前のデータであり、正直彼のリクエストにどこまで応えられるか不安だったが、古いパソコンを引っ張り出し、返信を書き始めたが・・・

 

申し訳ありません。

参加者名簿は残っているのですが、個人情報ですのでそのまま送ることはできません。

 

と、書いたものの、正直、私は彼の純粋な心や切なる願いを裏切りたくなかった。

01年の豪州コーチングコースへの参加者は29名だったが、その内大学関係のコーチは8名、私は彼への返信に8つの大学名だけを列記した。

 

彼から直ぐに返信があり、23年前の会話を思い出したかのように大学名が記されていた。

特定されたコーチは私にとって歳の離れた弟のような存在で、なるほど、かつてオーストラリア留学も経験した〇〇君なら最年少で参加した10代の若者の面倒を見たに違いなかった。

感激家の〇〇君ならきっと喜ぶだろうと考え、名前と所属先だけを彼に知らせた。

個人情報のため連絡先等の詳細は知らせず、彼が本気なら彼自身が探すはずだと考えたのだ。

新手の詐欺や勧誘が横行する昨今、嫌な時代になったものだ。

 

思い出しました。〇〇さんです。
所属先のホームページを見ると、お顔もそのままでした。

本当にありがとうございます。嬉しくて涙が出そうになりました。

 

〇〇さんに連絡が取れました。

〇〇さんも私を覚えて下さっており、今後も連絡が取れる状況になりました。

本当にありがとうございました。

 

23年前の体験や感動、それと感謝の気持ちをしっかり心に秘めて原点回帰しながら、少年少女にラグビーの魅力を伝えようとする若きコーチ、そんな彼の努力を垣間見れば、かつてオーストラリアの進んだコーチングを日本に伝えようとした頃の私自身に重なるのだ。

 

そんな彼の作るピーマンは、ふるさと納税の返礼品として人気アイテムになっているようだ。

いつか、彼の作ったピーマンを食べてみたいものだ。

*写真は彼のFacebookより