オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

「お久しぶりです。私がオーストラリアでコーチングコースに参加した際、私を実の弟のように可愛がって下さった方の名前がどうしても思い出せないのですが、名簿とかは残っていますか? 当時、日本のどこかの大学でコーチをされていたと記憶しています」

*写真は02年の「第2回豪州コーチングコース」/シドニー・フットボールスタジアムにて

 

心温まるメッセージに、「何とか見つけてあげたい」という思いが募る。

そうだ、写真なら一目瞭然だろう! 

写真箱をひっくり返し、古い写真を一枚一枚確認したが、彼が参加した01年の「第1回豪州コーチングコース」の写真は見つからなかった。

初めての開催だったため、写真を撮る余裕が無かったのかもしれない。

 

99年W杯で2度目の優勝を果たしたオーストラリア(ワラビーズ)、そのコーチングコースはAIS(豪州スポーツ研究所)とARU(豪州ラグビー協会)によってプログラムされ、世界が注目する優れたコースであり、日本からも熱心なコーチがシドニーを訪れた。

01年~03年/シドニーで4回開催、レベル1/3回、レベル2/1回

04年~15年/日本で14回開催、レベル1/10回、レベル2/4回

 

メッセージをくれたのは、鹿児島県大崎町でピーマン農園をやりながら、昨年、大崎町ラグビーフットボール協会とジュニア向けのラグビークラブ "Beach Wave Osaki" を起ち上げ、ラグビーの発展やラグビー人口の増加を目指す若きコーチである。

彼は2001年にシドニーで開催した「豪州レベル1コーチングコース」に10代で参加、試験やコーチングレポートの審査をパスし、オーストラリアの公式コーチ資格を取得した。

昨年5月、「来月は大崎町ラグビー元年のこけら落としが出来そうです」と彼からメッセージが届いたが、オーストラリア政府公認の "コーチ認定書" が添付され、「オーストラリアで公式なコーチ資格が取得できた事は最高の財産です」と書かれていた。

彼にとってコーチやコーチングの原点となった「豪州コーチングコース」、最年少の参加だった彼を何くれとなく実の弟のように面倒を見たコーチへの感謝をずっと忘れていないようだ。

 

私の最近のブログ「17年ぶりの嬉しい再会」から、私が遠征やセミナーに関する古いデータを大切に保管しているのを知って、彼が私に連絡をくれたのなら嬉しい限りだ。

さて、今回は23年前のデータであり、古いパソコンから検索して返信を書き始めたが・・・

 

申し訳ありません。

参加者名簿は残っているのですが、個人情報ですのでそのまま送ることはできません。

 

と、書いたものの、正直、私は彼の純粋な心や切なる願いを裏切りたくなかった。

01年の豪州コーチングコースへの参加者は29名だったが、その内大学関係のコーチは8名、私は彼への返信に8つの大学名だけを列記した。

 

彼から直ぐに返信があり、23年前の会話を思い出したかのように大学名が記されていた。

特定されたコーチは私にとって歳の離れた弟のような存在で、なるほど、かつてオーストラリア留学も経験した〇〇君なら最年少で参加した10代の若者の面倒を見たに違いなかった。

感激家の〇〇君ならきっと喜ぶだろうと考え、名前と所属先だけを彼に知らせた。

個人情報のため連絡先等は知らせず、本気なら彼自身が探すはずだと考えたのだ。

新手の詐欺や勧誘が横行する昨今、嫌な時代になったものだ。

 

思い出しました。〇〇さんです。
所属先のホームページを見ると、お顔もそのままでした。

本当にありがとうございます。嬉しくて涙が出そうになりました。

 

〇〇さんに連絡が取れました。

〇〇さんも私を覚えて下さっており、今後も連絡が取れる状況になりました。

本当にありがとうございました。

 

23年前の体験や感動、それと感謝の気持ちをしっかり心に秘めて原点回帰しながら、少年少女にラグビーの魅力を伝えようとする若きコーチ、そんな彼の努力を垣間見れば、かつてオーストラリアの進んだコーチングを日本に伝えようとした頃の私自身に重なるのだ。

 

そんな彼の作るピーマンは、ふるさと納税の返礼品として人気アイテムになっているようだ。

いつか、彼の作ったピーマンを食べてみたいものだ。

*写真は彼のFacebookより

 

再会から1週間の昨日、彼は日本に帰任するためメルボルンを出発したはずだ。

オーストラリアはイースター(復活祭)のホリデー中であり、彼もまさに日本での仕事への復帰(復活)の時であり、更なる活躍を期待したいものだ。

思い出を辿るために、彼はメルボルンからシドニーまでの約900kmを車でやって来た。

午後5時、仕事を終えてからメルボルンを出発、途中、ヒュームハイウェイに隣接するトラックドライバーなどが休憩するRESTエリアで車中泊を試みたようだ。

"やっぱり若いんだなぁ" と考えればその通りかもしれないが・・・ 

私の持つ日本企業の駐在員のイメージからすれば、途中それなりのホテルに一泊と考えてしまうのだが、仕事とプライベートを区別する彼の生真面目さがそうさせたのだろう。

待ち合わせしたホテルに17年ぶりの宿泊を勧めたが、シドニーに何度も出張しているという彼から返信は無く、きっとシドニー中心街に会社御用達の定宿があるのだろうと考えた。

後日、日本で言えば郊外のビジホ・クラス、私が勧めたホテルを予約したと連絡があった。

 

正直、私は彼の人となりや性格までは知らない。

彼本人との何回かのやり取り、中でも「日本への帰任前に17年前の思い出の地を訪ね、記憶に残していきたい」という言葉、彼の一連の真摯な姿勢に触れ、彼と会うのが楽しみだった。

 

私には彼の顔つきや堂々たる体躯に確かな記憶があった。

もちろん、そう聞けば誰もが「そんなのウソだろう!」と笑うに違いない。

実際、1998年から2019年までに100以上のチームの遠征を請け負い、日本で数十回のセミナー等も開催し、その間に出会った選手の数はゆうに5,000人を超える。

 

旭丘高校ラグビー部が遠征に訪れた当時、私は訪日の度に慶應義塾大学BYBラグビークラブのコーチングをサポートしていたが、その遠征の翌年、BYBクラブのクリニックで彼に再会し、「慶應に入学し、BYBでラグビーを続けていたんだね !?」と声を掛けた記憶があったのだ。

遠征中、彼は一番目立っていたし、端正な顔立ちで体格も一番良かった。

 

BYBクラブは、旭丘高校ラグビー部と同じ2007年7月にシドニー遠征を行い、双方の遠征の記憶が冷めやらぬ内だったこともあり、彼に声を掛けた記憶が私の脳裏に残ったのだろう。
BYBクラブの遠征中の写真を見ると、彼が私に送ってくれた旭丘高校ラグビー部の写真と同様シドニー・ラグビークラブで歓迎セレモニーを開催したのが分かる。

旭丘高校ラグビー部はBYBクラブの半月後に到着、同じホテルに宿泊し、同じコーチ陣が同じグラウンドやビーチでセッションを行った。

偶然なのか? 必然なのか? それとも、何かに導かれているのか?

いずれにしても、私の記憶に残る彼が17年ぶりに連絡をくれ、やって来るという。

私は "一期一会" を大切にしているが、今回の再会はまるでボーナスのようで本当に嬉しい。

 

話題を彼の "17年目の思い出巡り" に戻そう。

高校ラグビー部のほとんどは日本の夏休みを利用して遠征にやって来るが、日本に戻れば、間髪を入れずに菅平や地方の高原等での夏合宿が待っている。

私は、そんな選手達に夏休みらしい体験をさせたくて、シドニー最北のパームビーチ近くにあるカラウォング・ビーチ・キャンプ場(コテージ)での一泊を遠征日程に加えていた。

バーベキューやキャンプファイアーを囲み、選手達にありのままのオーストラリアの文化を学び楽しんでもらいたかったし、庭先に飛び出してくる野生のワラビーも見せたかった。

そのキャンプ場には、ピッツウォーターと呼ばれる大きな湾を超えて対岸までボートで渡らなければならなかったため、今回は遠く眺めるだけだったが・・・

「覚えてます! とても寒かったのですが、全員、ショートスピーチをさせられましたよね」

コーチとして参加したクレイグやエディーの発案だったが、それは正にオーストラリアならではの教育プログラムであり、自分をしっかり主張するためのカリキュラムだった。

それが彼だったのかどうかまでは定かではないが、素晴らしいスピーチをした選手がいた記憶があり、彼にその話を振ってみたが、彼は謙虚に笑うばかりだった。

 

その少し先にあるパームビーチまで私は彼を連れて行った。

キャンプ場に向かう日の午前、しっかり2時間のセッションを行った "地獄のビーチ" なのだ。

「うわー! あの坂登りは一生忘れませんよ!」

ビーチ北端の丘の下に見える砂のスロープは、泣く子も黙る "坂登りセッション" の場であり、過去にはトヨタ、東海大学、桐蔭学園・・・ の選手達が音を挙げたスロープだった。
写真では分からないが、その場に立てば、斜度と砂に足を取られて上に進めないほどなのだ。

パームビーチに別れを告げ、途中、この地域で人気のある日本レストラン「もなか」に寄った。

帰任を間近に、家族は先に日本に戻ったようで、ちょっと日本食に飢えているだろうと考えた。

「美味しいです! こういうのを食べたかったんです!」

私は一生懸命食べる人を好むタイプで、食事中に仕事や自己中の話題を語り続けたり、最近は、スマホを片手に食事をするような輩とは同席するのも嫌になるのだ。

私の注文した "からあげ" を勧めると、嬉しそうに「頂きます!」と言って美味そうに食べる彼を見ているだけで、何かこの日が更に良い一日だったように感じられた。

3月7日、私のFacebookのメッセンジャーに一通のメッセージが届いた。

突然のご連絡申し訳ありません。
2007年冬、愛知県旭丘高校がシドニーにラグビー遠征をした際にお世話になった者です。

現在メルボルンに駐在中ですが、今月末に帰任となります。

日本に戻る前にどうしても思い出の地を訪ねていきたいと考えていますが、遠征中にどこで練習や試合をしたかご記憶にあるでしょうか?

メッセージには、シドニー・ラグビークラブを訪問した際の写真が添付されていた。

写真を見ながら、17年前の記憶が私の脳裏に蘇って来る。

私は日本から到着したばかりの遠征チームを、いわばオーストラリアのラグビー博物館のような古いクラブハウスに案内し、歓迎レセプションを行うのを恒例にしていたのだ。

 

私は1998年に正式な仕事として日本チームのオーストラリア遠征のプランニングやコーディネートを開始したが、旭丘高校ラグビー部は、開始から10年、50番目の遠征チームだった。

全ての遠征記録はデータとして保管しており、私は日程表を添えて彼に返信をしたが、何回かのやり取りで、3月23日に、当時彼らが宿泊したホテルで待ち合せをすることになった。

このホテルで彼に会うのは17年ぶりだった。

シドニー北部地区に在するこのホテル、彼に出会った2007年当時は「Travelodge Manly Warringah」だったが、2022年7月に「Mercure Hotel」にリブランドされたようだ。

2000年頃からこのホテルを数十回使ったが、外観はほとんど変わっていない。

 

このホテルはもちろんだが、トレーニングを行ったグラウンド(ルーブハドソン・オバール)、ビーチセッションを行ったカールカール・ビーチ、巨大なショッピングセンター(ワリンガモール)、ラグビーリーグ「マンリー・シーイーグルス」のスタジアムやリーグスクラブ・・・ 

それらを懐かしく思う日本のラグビー選手(今はほとんどがOB)やコーチは多いはずだ。

ホテルからグラウンド(ルーブバドソン・オバール)までは徒歩10分、今はクリケットのシーズンであり、ラグビー場が3面とれるフィールドにはゴールポストが立っていない。

それでも、芝の匂いを嗅ぎながら、彼の脳裏に17年前のセッションがハッキリ蘇ったはずだ。

「Toshiさん、こんな環境が日本にも欲しいですね」

住宅地の目の前にある整備の行き届いた広大な芝生のフィールドやそれを囲む緑の木々を暫く眺めながら、彼の言葉には将来を担う子供達への心が感じられた。

 

彼はメルボルンに3年間駐在したようだが、地球環境への負荷を低減し、SDGs(持続可能な開発目標)、いわゆる人類が安定して暮らし続けることのできる世界を築くための製品開発を目指す企業の駐在員として、彼の言葉にはどこか実感が籠っていた。

 

途中、ビーチセッションを行った美しいカールカール・ビーチに立ち寄り、その後は17年前に試合やファンクションが行われた名門「ワリンガ・クラブ」に向かった。

シーズン前のメインフィールドは、まるでぶ厚い緑の絨毯が敷かれているようだった。

サブグラウンドでは、2024年シーズン開幕を前に「ワリンガ VS ノース」のトライアル・ゲーム(選手選考試合)が行われており、私自身、久々に実戦を目の当たりにした。

共にNSWクラブ選手権(シュートシールドカップ)の優勝を狙えるチームであり、オープン戦とは言え、レベルの高い試合に彼は興奮を隠さず、大きな刺激を受けたようだ。

「やっぱり、ラグビーはいいですね。僕自身、もう少しプレーを続けようと思います!」

彼はメルボルンでラグビーを続けていたようだが、高校時代の思い出の地を再訪し、本格的な試合を目の当たりにして、彼のラグビーへの熱き思いに更なる炎が点火されたようだ。

ワリンガクラブのキャップを購入し、身を乗り出して観戦する彼を眺めながら、私自身がオーストラリアを訪れた頃を思い出したが、あの頃の私はちょうど今の彼と同年代だった。

ここに彼を連れて来て本当に良かった!

W杯の結果を基準に、オーストラリアでは今後のラグビーユニオンの衰退が懸念されているが、それでもこの日、この場所にそんな不安や心配はどこにも感じられなかった。

地元のラグビーを愛する老若男女がグラウンドを囲み、良いプレーに歓声を挙げる様子を観ながら、土曜日のラグビー文化が何ら変わっていないのを感じるばかりだった。

そう、匂いに誘われて、ソーセージサンドにかぶり付いたが、正に変わらぬ土曜日の味だった。

「息子二人が地元のクラブやハイスクールでラグビーをプレーし、私達家族の土曜日は、いつもこんな生活が当たり前だったんだよ、やはりそれが文化なんだろうね」

つづく


 

高齢者の運転による事故が日本では大きな社会問題になっているようだ。

オーストラリアにおける高齢者の運転による交通事故については、私の理解不足かもしれないが、例えば日本のように、取り立てて社会問題になっているような実感はない。

ストレスの少ないオーストラリアで、高齢者は極めて元気に見えるし、よくトロトロ走る高齢者の運転する車と遭遇するが、彼らのマイペースで動じない姿勢は驚くばかりだ。

 

日本では高齢者の免許返納が増えていると聞く。

オーストラリアなら単に次の更新をしないということになるのだろうが、私のドライバーズライセンスは2026年1月まで有効であり、その時点で70歳、更に5年の更新は間違いないとしても、それから先は? 更新するかどうかは、その時点で考えることにしよう。

 

ただ、2年前に住み始めた我家から駅が近いため、最近は列車を使うことが多くなっている。

その際に役に立つのが、このシニア・オパールカードなのだ。

セントラル駅(日本なら東京駅)まで、20個の駅をゆっくり走る各駅停車なら約1時間掛かるが、途中3駅しか停まらない列車に乗れば30分で到着できる。

車の運転では気付けなかった景色を楽しめるし、私はその気楽さを割と気に入っているのだ。

目に優しい木々の緑の中に点在するレンガ造りの家並みや公園、そしてラグビー場・・・

ゆっくり走る各駅停車の窓からぼんやり眺め、ハーバーブリッジに差し掛かればオペラハウスを臨む景色は素晴らしく、先月末もオペラハウス前の客船埠頭には豪華客船 "Queen Mary 2" が停泊しているのが見え、そんな1時間の列車の旅がとても贅沢に思えてならない。

シドニーのダウンタウンにはトラム(路面電車)が整備され、とても良い環境になった。

車や人の多い繁華街を走る緊張感や駐車場不足の上に高額な駐車料金、駐車違反の取り締まりの厳しさもあって、正直私は車でシドニーのダウンタウンに出掛けるのが嫌いだった。

トラムは日本で言えば銀座通りのようなジョージ・ストリートを走るが、ビルの谷間が続いていても、懐かしさを感じる建物やショップも多く、それらを眺めているだけで十分楽しめるのだ。

オパールカードは日本のスイカのようなものだが、シニア世代(60歳以上)は、シニア・オパールカードが取得でき、列車やトラム、バス、フェリーを乗り継ぎ、それらに何回乗り降りしても、また、どこまで乗っても、1日$2.50(250円程)以上は取られない。

列車なら、ちょっと一杯も問題無く、最近は日本からやって来る友人との再会も列車で出掛け、シニア同士、市内観光よりも会話を楽しむようになった。

 

我家の周辺にはクリケット場を兼ねた大きな公園があるが、朝早くから多くのシニア世代がカップルで、または家族や友人と談笑しながらウォーキングを楽しんでいる。

犬と散歩するシニア世代、歩行器を押しながら歩くシニア世代、杖を突きながら歩くシニア世代・・・ その誰もがフレンドリーで、すれ違う際には必ず挨拶を交わす。

近所のショッピングセンターに行けば、カフェで会話を楽しんでいるのはシニア世代ばかり。

 

オーストラリアではクラブライフが定着し、ほとんどのクラブは誰でも利用できる。

スポーツ系のクラブが多く、中でもポピュラーなのはラグビー・リーグス・クラブだが、我家の周辺にも、退役軍人(RSL)クラブやローンボーリング・クラブがある。

そのほとんどに本格的なバーやレストランがあり、ラウンジには大型のスクリーンが設置され、スポーツのライブ観戦を楽しむことができ、週末には生バンドのライブ演奏も楽しめる。

また、スロットマシーンが置かれ、ちょっとしたカジノ気分も堪能できる。

私もメンバーになっているが、ほとんどのクラブのメンバーフィーはタダ。

客は老若男女様々であり、レストランでは家族連れがテーブルを囲んで食事を楽しんでいる。

オーストラリアのシニア世代(高齢者)のほとんどが、若い頃からいずれかのクラブのメンバーとなり、シニア世代になっても、そのまま家族や友人とクラブライフを楽しんでいるのだ。

 

移住したての頃、私はラグビークラブのバーで常連のシニアメンバーに英会話を習ったものだ。

そんな高齢者の楽しめる環境が高齢者の交通事故を減らしているのかもしれない。

朝、机の前の窓からぼんやり外を眺めると、木々の緑が朝陽に映えて輝いて見える。

遠くに見えるのは常緑樹のユーカリ、手前にある木の名前は知らないが、正に今、一番緑の濃い季節であり、3月末には紅葉し、冬になればすっかり葉を落としてしまう。

2年前、よく知らずにこの街に住み始めたが、私はこの季節感を結構気に入っている。

昨年8月、窓の前に立つこの木が葉を落として丸裸の枯れ木となり、死んでしまったのではないかと考えていたが、植物の生命力はそんな簡単にはなくならないのだ。

そして、四季折々、たくさんの種類の鳥類がこの木で羽を休め、時にはオーストラリア独特の有袋類ポッサムが二つに分かれた幹の間で昼寝をしているが、そんな光景に心が癒される。

1年目は何も気付かなかったのだが・・・

この2年、日々そんな光景を目にしながら、この家を終の棲家に決めたのは正しい選択だった。

この写真は、冬枯れの枝にとまった仲睦まじいインコにフォーカスして写したものだが、同じ枝付近を狙った写真なのに、今は緑が溢れ、朝の私にいっぱい元気をくれる。

ただ、冬枯れの枝にもどこか心温まるものを感じてしまうのだが・・・

 

シドニーで暮らす私に、これといった不満は無いし、今の暮らしを気に入っているが・・・

日本で暮らす同年代の仲間達は、毎日いったいどんな生活を送っているのだろう?

2年後にはアラセブン(古希)の私、近頃、いつも思うのは "なにかいいことないかなぁ !?" 

そんな私の憧れは、Netflixで観る「深夜食堂」の客 "不破万作" さんのような生活なのだ。

毎晩店を訪れ、周りの客としみじみ語り合い、一緒に笑い、時には真剣に悩みを聞き、気持ちを荒立てることも無く、ストリッパーのマリリンと仲良しで・・・

ドラマの舞台は、学生時代、そして社会人になってからも何度も足を踏み入れた場所なのだ。

今、シドニー郊外に住む私にとって、仲間や友人達と呑みニケーションするのは簡単ではないが、いつか、2、3ヶ月日本に滞在して、あんな生活を送ってみるのもいいかも・・・

毎週土曜の夜は、今まで買い集めたワインを妻と二人で楽しむことにしているが、昔日の思い出と一緒に、そんな私の冗談ともつかない(多少本気の)憧れを話す良い機会なのだ。

「あいよ、出来るもんなら何でも作るよ」が、マスター小林 薫さんの決まり文句である。

私も料理が好きで、このドラマに登場するような料理なら、何でも作ってしまうが・・・

「あいよ!」妻のリクエストに応え、それがワインのつまみになることも多いのだ。

 

先日、NHKBSの「ゆったり温泉一人旅」という番組で秋田の乳頭温泉郷が紹介されていた。

訪日の際、何度も訪ねた私達夫婦のお気に入りの温泉なのだ。

「折角日本に行くなら、私はやっぱり温泉がいいなぁ」と妻は言う。

 

私に言わせれば、それは願ったり叶ったり!

「深夜食堂に夫婦は似合わないさ、 男一人カウンターで呑むのが俺の憧れなんだよ!」

そう、「深夜食堂」の不破万作さんの魅力は、どこにでもいるようなオジサンの魅力というか、過去の栄光や肩書なんかどうでもいいよと感じるところなのだ。

私には、それが何ともカッコよく見えるのだ。

 

その昔 "違いの分かる男" なんていうキャッチコピーがあったが、33歳で日本を離れた私は、そんな男になれた(かもしれない)年代に日本にいなかったのだ。

残念ながら、"違いが分かるかどうかも分からない男の世代" になってしまったが・・・

男には、幾つになってもそんなふうにカッコつけたい気持ちがどこかあるもんなのだ。

 

どこかの店でお会いすることがあったら、共に呑み、語り合いましょう。

孫たちの成長が私に元気をくれる。

お兄ちゃんになったLeo(3歳)は、弟Noa誕生に伴い、数カ月間日本で暮らし、ぎこちなさはあるものの日本語がかなり上達したように感じる。

子供は1~2歳ぐらいから話し始めると言われるが、2~4歳は語彙を増やすのに大切な時期、そう考えると、日本で暮らしたことはLeoにとって実に貴重な体験だったのだろう。

私たちは1988年に渡豪、長男隼人はLeoと同じ3歳、弟竜太(Leoの父親)は1歳だった。

隼人は到着の翌日から地元の幼稚園に通い始めたが、我が家では私も妻も日本語だけで子育てをした。正直に言えば、息子たちの将来に役立つきちんとした英語が話せなかったのだ。

徐々に息子たちの母国語は英語になったが、彼らは今もしっかりとした日本語で会話ができる。

嫁の美麗はLeoの英語の上達が気になるようだが、私たち夫婦は何の心配もしていない。

父親の竜太や伯父の隼人がLeoやNoaの未来予想図をしっかり証明しているからだ。

バーバとなった妻は「家では日本語だけで育てなさい!」とハッパを掛ける。

ちょっと時期外れになってしまったが、クリスマスの話題である。

Leoとこんな会話があった。

私 「レオ、クリスマスにサンタさん来た?」

Leo「うん、サンタさんがぼくのおうちに来たんだよ!」

私 「サンタさんが来たのがどうして分かったの?」

Leo「だって、おうちにサンタさんの足跡があったんだよ」

私 「それは良かったねぇ、ジージのところには来なかったよ」

Leo「ぼくはサンタさんにクッキーと牛乳を置いてあげたんだよ」

美麗「トナカイさんにもニンジンを置いてあげたんだよね」

私 「そうだったのかぁ、ジージはケーキと豆乳を置いちゃったんだよ」
周りの大人たちには大ウケだったが、Leoは豆乳なんて知る由もない。

Leo「ダメだよ、ジージ!、クッキーと牛乳じゃなければサンタさんは来てくれないんだよ!」

たどたどしい日本語だったが、真面目な顔で私はLeoに叱られた。

クリスマスイブ、Leoが眠った後に、竜太と美麗はベランダのドアからツリーまで、まるでサンタが入って来たような足跡をリビングの床に残した、それも雪の中を歩いて来たように。

幼い子供の純粋な心を裏切らない二人の演出は、豪華なプレゼントや食事よりもどれだけLeoに夢や喜びを与えたことだろう。

私 「来年は、ジージのところにもサンタさんが来るといいなぁ」

Leo「ぼくが、ちゃんとジージにおしえてあげるからね」

2019年12月に「修学旅行 レガシーを作る豪州への旅」というタイトルでブログを更新したが、コロナ禍を挟んで、4年ぶりに宮城県利府高校スポーツ科学科の生徒たち(60名)がオーストラリアのゴールドコーストに戻って来た。

私は現地でのプランニングやコーディネートを任されている。

「文武両道」をモットーとするこの高校、全国にも珍しい「スポーツ科学科」を持つ高校であり、そこで学ぶ生徒たちとの数日間は、高齢者の域に達している私を若返らせてくれる。

言わば、私にとっては願っても無い最高の仕事なのだ。

 

シドニーに住む私はシドニー~ゴールドコースト間(片道850km)を車で往復するが、ゴールドコースト・エリアでの移動距離を加えれば、今回は約2,000kmの旅だった。

航空機で向かいレンタカーでも事足りるのかもしれないが、様々なアクティビティに使う用具の運搬や限られた時間で帰国する生徒たちを考えれば、私たちスタッフは先回りして、生徒たちのバスが到着する前に準備を整えておきたい、やはり使い勝手の良い車が必要になるのだ。

 

スポーツ科学科の修学旅行として、私は現地校とのスポーツ交流やゴールドコーストならではのサーフレッスンやビーチセッション、更にチームビルディングやリーダーシップ養成セミナー、著名人のスポーツ講演会等をプランニング、そしてそのコーディネートを担う。

内容的には2019年とほぼ同様だが、4年間のブランクの影響は否めない。

コロナ禍の影響から施設の経営者やシステムが変わっていたり、その間の落ち込みを取り戻すために軒並み値上げという状況を目の当たりにしなければならなかった。

ただ、そのような状況下でモノを言うのは、やはり長年積み重ねて来たオーストラリア側スタッフたちとの友情や信頼関係、そして彼らのサポートなのだ。

季節は真逆、仙台を出発する時は雪がパラつていたそうだ。

30℃を超えるゴールドコースト到着と同時に、現地ハイスクールとのスポーツ交流が開始され、オージー流の笑い溢れるウォームアップから始まり、グループ毎にクリケットやタグラグビー、サッカー、バスケットボール、バレーボール他を元気いっぱいエンジョイ・・・

初めてのクリケット、ソフトボール部女子の力強いバッティングには驚きだったが、なるほど、ソフトボール部女子は宮城県新人大会で優勝し、来年3月の全国大会に出場するそうだ。

 

交流先のスクールはすでにクリスマスホリデー(ロング・サマーホリデー)に突入していたが、たくさんの生徒が集まってくれ、日豪の少年少女にとって素晴らしい交流の機会となった。

生徒たちの元気な笑顔は最高だったが、私の最優先は生徒たちの安全なのだ。

真夏のゴールドコースト、炎天下のアクティビティに欠かせないのは水分補給である。

生徒たちにはマイボトルの携帯を薦めているが、それでも私の車の荷台には常に大型のクーラーボックスに水ボトルが100本ほど用意されている。

天候に恵まれ(?)毎日35℃を超える日々、幸いにも体調を崩した生徒の情報は無かった。

 

2日目、3時間に及ぶビーチでのサーフレッスン&ビーチセッション(ビーチバレー、ビーチサッカー、ビーチフラッグ他)の後に昼食をお腹いっぱい食べ、1時間のスポーツ講演、本来なら誰もが眠気に誘われるはずだが、生徒一人ひとりの突き刺すような視線がとても印象的だった。

そんな彼らを見れば、「今時の若者も捨てたものでは無い!」と思えて来る。

メモなど取らなくたっていい、生徒たちの心に何か残ってくれればそれでいいのだ。

 

3日目の朝、こんな話を聞いた。

2日目の午前午後はゴールドコーストならではのマリンスポーツに集中し、夜のスケジュールは海外実習として自由行動、夕食は自分たちで食べるという体験プログラムだった。

門限時間が決められ、数名が少し遅れてホテルに到着、先生はその理由を問い質したようだ。

どんな罰が課せられるか? 何となくその場のシチュエーションが浮かんで来る。

 

彼らはホテル近くのレストランでOZステーキを楽しんだようだが、若い彼らは夜食用にと更にステーキのテイクアウェイ(お持ち帰り)を頼んだようだ。

*日本ではテイクアウトが一般的だが、オーストラリアではテイクアウェイが一般的である。

*写真はイメージ

オーダーして食べるまでは想定内だったようだが、食べ終わって、時間を見ると、門限の時間が迫っていたが、お持ち帰りのステーキがまだ用意されていない。

レストラン側は熱々のステーキを持ち帰ってもらおうと気を使ったようだが・・・

時計を指さして焦る彼らを尻目に、レストランのスタッフはこのジャパニーズ・ボーイズたちの言わんとすることが分からないのだ。

 

「ダイジョーブ?」

たまたま、そのレストランで家族と食事をしてた若者(オージー)が声を掛けた。

何と、彼は前日のスポーツ交流に参加していたハイスクールの生徒だったのだ。

日本語を習う彼はボーイズの状況を理解し、レストランのスタッフに説明、優先的に焼き上げるのを急いでくれたらしいが、それでも少し門限に遅れてしまったようだ。

 

彼らが何らかの罰を受けたかどうかは知らないが、私にその話をした教師の「本当の意味で素晴らしい国際交流ができました」という笑顔から、おとがめは無かったのだろうと推測する。

いずれにしても、そんな思い出こそが国際交流の目的であり醍醐味なのだろう。

 

最終日、朝早くブリスベン空港へと向かうバスを見送り、私もシドニーに向け出発した。

4年前には工事中の多かったパシフィック・ハイウェイ、そのほとんどが完成して、シドニー~ゴールドコースト間の所要時間が随分短縮された。

以前は、往路も復路もグラフトンのマクドナルドを休憩地点と決めていたが、バイパスのような高速道路の完成で、その田舎町を通過する必要がなくなり、ちょっと寂しかった。

かつてグラフトン~バリナ間をクラレンス川に沿ってサトウキビ畑の中をひたすら走らなければならなかったが、クラレンス川には新しい真直ぐな橋が架けられていた。


往路も復路も、私の10月の誕生日に息子からプレゼントされたローリングストーンズの最新アルバム「ハックニー・ダイアモンド」をずっと聴きっぱなしだった。

ミック・ジャガーは80歳を超えても衰えが感じられず、キースとロニーのいぶし銀のギター、彼らの変わらぬリズムやサウンドが私に「変わらずストレートに進め!」と迫って来る。

まだまだ元気、もう少し頑張るぞ!と再確認した1週間だった。

何年ぶりだろう? 

久しぶりに妻と一緒にオペラハウスのコンサートに出掛けた。

夕刻、辺りが薄暗くなり、この界隈を歩けばちょっとお洒落でロマンチックな気分になる。

シドニー・シンフォニー・オーケストラの定期公演、曲目はムソルグスキーの「展覧会の絵」。

コロナ禍を経て、オペラハウス界隈にも人々が戻っているのが感じられた。

サーキュラキーの客船埠頭には豪華客船が停泊し、シドニーらしい美しい景観も戻っている。

目前に広がる絵画のような景観も然ることながら、まるで十数階建てのマンションがそこに建っているかのような迫力に圧倒されながら、真っ白な美しい客船に暫し目を奪われた。

きっと出港間際なのだろう。

オペラハウス側の最上デッキには大勢の乗船客が立ち、こちらを眺めている。

この大きさなら世界をクルーズする客船に違いないが、これからどこに向かうのだろう?

映画「船の上のピアニスト」を愛する私は、ただ想像するだけで心がワクワクしてしまう。

出港の時刻には、きっとハーバーブリッジの向こう側が真っ赤な夕焼けに染まり、シドニー滞在の最後を飾る思い出として最高のロケーションとなるのは間違いない。

そして、今夜のコンサート「展覧会の絵」にも、申し分ないバックグラウンドになるはずだ。

圧倒的にカップルが多く、そのほとんどがオペラハウス内外にあるオープンエアのレストランやパブでワイングラスを傾けながらコンサート開演前のひと時を楽しんでいる。

そんな誰もが豊かな面持ちで、コンサートの前後も楽しむ西洋独特の文化が感じられる。

シドニーに35年も住んで、彼らのように高揚感を更に盛り上げる術を知らない私達は、開演前を楽しむ彼らを横目に、開場と同時にオペラハウス内の席に着いた。

着席してから撮った写真を見返せば、「これが私です!」と鏡に映った自分が見えるようだ。

「私達には、きっと客船の旅は楽しめないよね」

客船を眺めながら妻がポロリと言った一言、まさにその言葉通りかもしれない。

私達が着席してから開演まで延々1時間以上、開演前には前後左右の約2,700席が満席となったが、客の多くは開演ギリギリになってから席へと押し掛けた。

彼らはきっと、夕焼けに包まれた客船の出港を見送ったに違いない。

それでも、オーストラリアの良いところは、老若男女、客のほとんどがスマートカジュアルで、フレンドリーに挨拶を交わし、それぞれにその場の雰囲気を楽しんでいることだ。

まあ、楽しみ方云々はどうあれ、シドニーに住み、こうして洗練された音楽や質の高いスポーツを肩ひじ張らずに楽しむことが出来るのは本当に素晴らしいことだ。

 

数日前、シドニー・シンフォニー・オーケストラの2024年スケジュールが届いた。

来年10月に、日本が誇るピアニスト "辻井伸行氏" のコンサートが予定されている。

インフォメーションの演奏曲目には私の好きなラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が含まれ、予約すべきかどうか悩むところだ。

間も無く、フランス各地でラグビーW杯が開幕する。

音楽もスポーツも、現場で感じる感動や高揚感はやはり格別なのだ。

03年、07年、19年のW杯を現地で観戦する機会に恵まれたが、今回は、07年のフランスW杯を思い出しながら全試合をTV観戦するつもりでいる。

4年後の2027年、W杯の舞台は地元オーストラリアだが、日本からやって来る仲間達とスタジアムで観戦するのを考えれば、今からワクワクしてしまう。
ただ、これからも "たまには夫婦でお出掛け" を何より大切にしたいものだ。

テストマッチとは国と国の誇りを賭けたナショナルチーム同士の国際試合である。

イギリスは植民地政策の一環として英国発祥のスポーツを自治領に根付かせていくが、自治領はそのスポーツの発展段階において本国イギリスとの力の差を試すべく挑戦を試みようとした。

それが "テストマッチ" の語源のようだ。

クリケットは日本で馴染みが薄いため、詳細の説明は避けるが、この写真は、つい先日行われたクリケットの「オーストラリアVSイングランド」のテストマッチ "Ashes" で、シリーズの敗戦または引分けが決まった翌朝、SNSに投稿されたイングランド首脳陣の表情である。

雨が勝敗を分け、2017年以来、トロフィーがイングランドに戻るチャンスが消えた。

 

*Ashesのトロフィーはほんの10cm強で、中にAshes(灰)が入っていると言われている。

私には顔を見るのも嫌な選手達だったが、彼らの飾らないありのままの表情は、国の代表として勝利を信じ、自身や家族、仲間、そしてイングランド国民のために戦った戦士の顔だった。

疑いなく、イングランド国民の多くが涙に暮れた一日だったであろう。

やり場の無い彼らの顔を眺めながら、私自身、オーストラリアの勝利を喜ぶよりも、純粋に勝利にこだわり続けたイングランドの選手達を勝たせてやりたかったという気持ちになった。

そう、それがテストマッチなのだ!

正々堂々と戦い、誇り高き勝者と敗者がいて、双方に感動を覚えるのがテストマッチなのだ。


話題をラグビーに置き換えよう。

ジャパンはオールブラックスXV戦の2連敗に続き、サモアとのテストマッチにも敗れた。

私はTV画像やSNSで感じることしかできないが、W杯に向けた課題等が話題の大勢を占め、テストマッチに敗れたという悲壮感はあまり感じられなかった。

日本ではテストマッチを単にW杯前のテスト試合、または選手選考のテストと考えているファンは多く、W杯で結果を出せばそれでいいんだ!という傾向が強いのかもしれない。

 

私は、このテストマッチでサモア代表SOクリスチャン・リアリーファノに注目していた。

オーストラリア代表(ワラビーズ)26キャップ、私は彼が出場した全てのテストマッチを観戦しているし、2019年W杯では彼をスタジアムから応援した。

国代表選考規定の変更により、彼は母国サモア代表としてのプレーが可能になり、ジャパンとのテストマッチがサモア代表としてのデビュー戦だった。

2016年、彼は白血病に罹患、妹から骨髄移植を受け約1年間の闘病生活を余儀なくされるが、諦めずに努力を重ねワラビーズに復帰、そして今、サモア代表としてジャパンとのテストマッチのピッチに立ち、「心が震えた」と彼は述べた。

サモア代表としてのデビュー戦を勝利で飾った彼は、インタビューの最後に「今の気持ちを言葉にするのは難しいかな、私にも家族にも特別な一日だったし、国の代表としてプレーできたことを心から誇りに思う」と目を潤ませた。

彼は35歳、司令塔として期待通りのプレーでサモアを勝利に導いた。

彼は若い選手達にテストマッチへの準備をどうすべきかを示し、マッチデーの過ごし方や自己の経験や知識をオープンマインドでシェアする姿勢を見せたと言われている。

 

私が見落としているだけかも知れないが、W杯でジャパンと再戦することに関するサモア側のコメントをどこにも見つけることができなかった。

リアリーファノの言葉から感じた私の勝手な推測だが、W杯では91年、95年大会で台風の目となった栄光(共に8強)の復活を目指す、そのためには今回のジャパンとのテストマッチが彼自身、サモア代表が自信を取り戻すためのテストと捉えていたのではなかろうか?

 

サモア戦の後、ジャパンはトンガとのテストマッチに辛勝したが、フィジーには完敗だった。

オーストラリア代表ワラビーズもW杯を目前に苦戦の真っ只中にいる。

それでも、メルボルンで開催された伝統のテストマッチ "ブレディスローカップ"「ワラビーズVSオールブラックス」には83,000人のファンが押し寄せた。

元々オージーボールが盛んな地域でありラグビー人気は今ひとつなのに、やはりW杯を前に国民はワラビーズに期待しているのだろうと一瞬思ったが、なぜかスタジアムが真っ黒だった。

公式発表ではないが、満席のスタジアムの半数以上がオールブラックスファンだったようだ。

オールブラックスは伝統のテストマッチに集中し、純粋にその勝利を喜んでいるように見えた。

ワラビーズ監督のエディー・ジョーンズは、2015年に南アを破ったジャパンの奇跡よろしく "ワラビーズ3度目のW杯優勝!" を虎視眈々と狙っていることだろう。

ただ、それに国民の心がついてきているかどうかは疑問である。

 

開催毎にW杯の規模は大きくなり、世界中にラグビーファンが増えることは素晴らしいことだ。

ただ、私はテストマッチがW杯の準備マッチのようになることに寂しさを感じている。

ローカルな話題で申し訳ないが、かつて早大の低迷期に明大の主将が、早大など眼中に無いと言わんばかりに「早明戦は通過点の一試合に過ぎませんから」と言ったのを記憶している。

私にとって「早明戦」は、正に "テストマッチ" だった。

ステイトシアターのコンサートは私にとって本当に良い機会だった。

コンサートの1部と2部の合間(約30分間)に隣の同世代夫婦と話に花が咲いた。

彼らはとてもフレンドリーで、私は1988年に日本で本家本元のピンクフロイドのコンサートを目の当たりにしたことを話したが、それを本気で羨ましがった。

「ピンクフロイドが日本に行ったなんて信じられないわ!」

2部の開始まで会話は尽きず、話題は私のオーストラリア移住やラグビーにまで及んだ。

「どうして日本からオーストラリアに移り住もうと思ったの?」

「うーん、ラグビーかな」

ラグビーに関する英語なら、何を聞かれても無難に返せると思い、私はそう答えた。

案の定、会話は私の予想通りに進んだ。

 

かつてラグビーのプレー経験があると言う夫、そして、父親は名のあるコーチだったと言う妻、父親の名前を聞いたが、第一回W杯以前のコーチの名前を私は誰も知らなかった。

「近年、ラグビーが変わってしまい面白くなくなったよ! 昔の方が絶対に面白かったな! ユニオンがまるでリーグのようになってしまって観る気がなくなったよ!」

*ユニオンは日本でプレーされているのと同じラグビー、リーグは13人制でプロスポーツとして発展し、端的に言えば、リーグはルールが単純で理解しやすく、展開よりも攻撃側が防御側への激しい当りを繰返しながらチャンスを作るのが一般的な戦法。

 

長くラグビーユニオンを愛して来たオージーのストレートな言葉が心に突き刺さるようだった。

私はワラビーズ全盛期の至宝 "キャンピージー" を日本に連れて行ったことを話した。

夫は隣の奥さん越しに私の顔を覗き込むようにして私の話に反応した。

「今でも最高のプレーだと思うシーンは・・・」

そう言ってから、彼はちょっと間を置いた。

ふと、私の脳裏に91年W杯準決勝のあのシーンが浮かんだ。

「オールブラックスを相手にキャンピージーのホランへのパスで取ったトライだった!」

おっと、俺も同感だぜ! 

私は肩越しにパスをする真似をしたが、それを見た2人は手を叩いて喜んだ。


たった一組のオージーカップルとの会話に過ぎなかったが、同世代のオーストラリア人ラグビーファンも私と同じことを考えているのを知り、なぜか嬉しかった。

まさか、ピンクフロイドの音楽の合間にそんな会話が出来るなんて・・・

やっぱりここはオーストラリアなんだ!と思う瞬間だった。

コンサートの後半を楽しみ、アンコールの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」を共に立ち上がって合唱し、「また、どこかで会おう!」と握手をして別れた。

 

最寄りの駅タウンホールからノーザンラインに乗り、各駅停車で約1時間弱、終電に近い列車はガラガラで、素敵な時間を思い返してみたが、バンドの演奏は一切浮かんで来なかった。

やっぱりコピーバンドのコンサートなのだと思いながらも、ほんの30分ほどだったが、同世代の夫婦との楽しい会話、特にラグビー談義だけはハッキリと私の記憶に残っていた。

 

確かにラグビーは随分変わってしまった。

長年コーチング・セミナー等を開催して来たが、当時の指導内容はもう時代遅れなのだ。

熱心にセミナーに参加してくれたコーチが、今も現役で頑張っている姿を見るのは実に嬉しいが、彼らが今も尚、新たなコーチングを学んでいるのかと思うと頭が下がる。

当時は最も進んだコーチングを自負していたが・・・

ジャパンが南アを撃破し、2019年W杯日本大会でも8強の結果を残し、最も進んだコーチングやトレーニングを具現化させているのは間違いなく "ジャパン" に違いない。

そう、世界中どの国を見ても、"ナショナルチーム・ファースト" は、あるべき姿なのだ。

ジャパンを応援するファンも激増していることだろう。

それは、スタジアムでジャパンのジャージーを身に着けたファンの数を見れば一目瞭然である。

その意味からも、1ヶ月に迫ったフランスW杯は重要な試金石になるだろう。

 

7月にオールブラックスXVとジャパンが対戦し、NZ代表予備軍とアナウンスされていたが、あのチームは "オールブラックスジュニア" ということなのだろうか?

1968年に全日本(ジャパン)は遠征先のニュージーランドでオールブラックスジュニアを23-19で破ったが、私にとってそれは伝説と言うか、ラグビーの神話のようなものだった。

あの試合で4トライを記録した坂田先生に出逢い、大西鐵之祐監督の下、選手全員の意思統一や集中力の結集等、直に聞いたその熱い話に私は興奮し魂を揺さぶられたことがあった。

結果、試合の画像や動画(フィルム)をNZやシドニーで本気で探したことがあった。

 

ジャパンが世界の強豪と肩を並べ互角に戦えるようになるのは素晴らしいことだ。

今やファンの意識はW杯8強以上が当り前となり、SNSではW杯優勝にまで飛躍したコメントも見掛けるが、客観的な見解として、それが今のジャパンの立ち位置なら、無論オールブラックスXVの2試合には勝たなければならなかったはずだ。

もちろん、ファンのジャパンへの期待や鼓舞激励の気持ちは分かるし、選手やスタッフの世界一厳しいと言われる虎の穴の努力も理解している。

ただ、W杯開幕を目前にして「課題が見えて来た」「まだ準備段階なので」・・・ 

そんなコメントを見て「縦縦横横」「145対17」の時代に逆戻りしないことを願うばかりだ。

 

もし、オールブラックスジュニアがオールブラックスXVと呼び名を替えただけなら、55年も前にジャパンは日本人だけのメンバー、それもアウェイであの強豪チームを倒しているのだ。

当時のジャパンとオールブラックスの実力差は、今とは比べ物にならないほどだったはずだ。

今こそ謙虚になり、55年前のメンバーに話を聞くのも一考に値するのではないだろうか?

 

映画「インビクタス」には、第3回W杯で南ア・スプリングボクスを優勝に導いたキャプテン "フランソワ・ピナール" が、大会の準備中にマンデラ大統領が収監されていたロベン島監獄にチーム全体を連れて行くシーンが描かれている。

どんな過酷な境遇にも負けることなく生き抜いたマンデラ大統領の足跡と不屈の精神、その現実を目の当たりにすることが、選手一人一人の心に火を点けた感動的なシーンだった。

そんなことを考えている内に、列車が終点の駅に到着した。

もしかすると、オールブラックスXV戦の前にそのような機会があったかもしれないし、あくまで列車で移動中に私が考えた想像の域であることを記しておく。

それと、パシフィックネーションズカップについては次回書きたいと思う。

 

我家の最寄駅はこの一つ先の駅なのだ。

午前0時を過ぎており、次の列車までは随分待たなければならないし、バスはもうない。

タクシーが何台も並んでいたが、私は3kmの夜道を歩くことにした。

忘れていた訳ではないが・・・

もう前日になってしまっていたが、この良き日は父の33回目の命日だった。

今年、私は父の享年を超えた。