シドニーは日を追うごとに春らしさを感じるようになってきた。
近所のオバールからはサッカーゴールやラグビーのゴールポストが撤去され、真ん中にあるクリケットピッチがロープで囲われ、丁寧に整備が開始されている。
ラグビーシーズンは終了し、今年のNSW(ニューサウスウェールズ州)ラグビー・クラブチャンピオンシップは、イースタンサバーブズが1969年以来55年ぶりに優勝した。
この十数年、クラブラグビーから遠のいていた私だが、なぜか率直に嬉しい!
私は1988年12月に単身でシドニーに到着、翌89年4月に妻と息子二人が到着する前に家族の生活の場を準備しておかなければならなかったが、数年後に息子二人がラグビーをプレー出来る環境やそんなエリアに住むことが私の大前提だった。
息子達はそれぞれ6歳からこのイースタンサバーブズ・ジュニアチームでラグビーを開始したが、その後は、このクラブハウスやグラウンドが私達家族の"元気の園"となった。
そんなボンダイの住居を斡旋してくれた不動産会社のスピード氏はイースタンサバーブズのOBだったが、彼は1969年の優勝メンバーの一人だった。*後列右から2人目
そんな偶然の出逢いから、私達家族は20年この家に住み、車で5分のイースタンサバーブズ・ラグビークラブのファミリーメンバーとして、オーストラリアの友人も増えた。
移住したての私にとって、家族を大切に考え懸命に働くことは当然だが、仕事も含め、これからどう生きていくべきかを地に足を着けてしっかり考えなければならなかった。
当時、私にあったのは、丈夫な身体と日本での8年半の営業経験、そして何より経験値だけなら胸を張れたのは「ラグビー」だった。と言うか、それしか無かったのだ。
その意味からすれば、どれだけこのクラブが私の心の支えになったか分からない。
息子達の活躍はもちろん、私自身、コーチングの面白さや奥の深さを知り、私に探求心のようなものを目覚めさせ、得意な分野に分け入るしかない!と私を導いたのは間違いない。
そんな私の決意の中、このクラブでプレーした日本人ラグビー留学生は何人いたのだろう?
その誰もがイースタンサバーブズのジャージがとても似合っていた。
日本チームの豪州遠征のサポートを手掛けてきたが、このクラブは何度もフレンドリーゲームやアフターゲーム・ファンクションの開催を快く引き受けてくれた。
日本から訪れた友人や知人を必ずこのクラブに案内し、オーストラリアのスポーツ文化や歴史、そのメンバーのフレンドリーさにも触れてもらった。
そうそう、コンタクトスーツを見つけたのもこのクラブのグラウンドだった。
私にとって、何も分からずに初めて手掛ける事業だったが、グッズの製造元との取引きに関する契約をこのクラブ関係の弁護士が何くれとなくサポートしてくれた。
55年前の優勝の際、イースタンサバーブズ・クラブは日本遠征を行ったが、九州・関西・東京を訪ね、全日本(当時JAPANはそう呼ばれていた)を含む6試合を戦っている。
1969年の優勝・日本遠征メンバーだったスピード氏と共に2度、日本遠征の足跡を辿った。
八幡製鉄と戦った北九州の鞘ヶ谷グラウンドを訪ねた時のスピード氏の涙を私は忘れない。
様々な画像や言葉が添付され、55年ぶりの優勝がSNS上で踊っているが、ふと見ると、息子達や日本の留学生の名で「いいね」が付けられている。
彼らもこの優勝を喜び、きっと懐旧の念に包まれているに違いない。