オーストラリア移住日記

オーストラリア移住日記

憧れから、移住決行、移住後の生活、起業、子育て、そして今・・・

シドニーは日を追うごとに春らしさを感じるようになってきた。

近所のオバールからはサッカーゴールやラグビーのゴールポストが撤去され、真ん中にあるクリケットピッチがロープで囲われ、丁寧に整備が開始されている。

ラグビーシーズンは終了し、今年のNSW(ニューサウスウェールズ州)ラグビー・クラブチャンピオンシップは、イースタンサバーブズが1969年以来55年ぶりに優勝した。

この十数年、クラブラグビーから遠のいていた私だが、なぜか率直に嬉しい!

私は1988年12月に単身でシドニーに到着、翌89年4月に妻と息子二人が到着する前に家族の生活の場を準備しておかなければならなかったが、数年後に息子二人がラグビーをプレー出来る環境やそんなエリアに住むことが私の大前提だった。

息子達はそれぞれ6歳からこのイースタンサバーブズ・ジュニアチームでラグビーを開始したが、その後は、このクラブハウスやグラウンドが私達家族の"元気の園"となった。

 

そんなボンダイの住居を斡旋してくれた不動産会社のスピード氏はイースタンサバーブズのOBだったが、彼は1969年の優勝メンバーの一人だった。*後列右から2人目

そんな偶然の出逢いから、私達家族は20年この家に住み、車で5分のイースタンサバーブズ・ラグビークラブのファミリーメンバーとして、オーストラリアの友人も増えた。

移住したての私にとって、家族を大切に考え懸命に働くことは当然だが、仕事も含め、これからどう生きていくべきかを地に足を着けてしっかり考えなければならなかった。

当時、私にあったのは、丈夫な身体と日本での8年半の営業経験、そして何より経験値だけなら胸を張れたのは「ラグビー」だった。と言うか、それしか無かったのだ。

 

その意味からすれば、どれだけこのクラブが私の心の支えになったか分からない。

息子達の活躍はもちろん、私自身、コーチングの面白さや奥の深さを知り、私に探求心のようなものを目覚めさせ、得意な分野に分け入るしかない!と私を導いたのは間違いない。

そんな私の決意の中、このクラブでプレーした日本人ラグビー留学生は何人いたのだろう? 

その誰もがイースタンサバーブズのジャージがとても似合っていた。

日本チームの豪州遠征のサポートを手掛けてきたが、このクラブは何度もフレンドリーゲームやアフターゲーム・ファンクションの開催を快く引き受けてくれた。 

日本から訪れた友人や知人を必ずこのクラブに案内し、オーストラリアのスポーツ文化や歴史、そのメンバーのフレンドリーさにも触れてもらった。

 

そうそう、コンタクトスーツを見つけたのもこのクラブのグラウンドだった。

私にとって、何も分からずに初めて手掛ける事業だったが、グッズの製造元との取引きに関する契約をこのクラブ関係の弁護士が何くれとなくサポートしてくれた。 

55年前の優勝の際、イースタンサバーブズ・クラブは日本遠征を行ったが、九州・関西・東京を訪ね、全日本(当時JAPANはそう呼ばれていた)を含む6試合を戦っている。

1969年の優勝・日本遠征メンバーだったスピード氏と共に2度、日本遠征の足跡を辿った。

八幡製鉄と戦った北九州の鞘ヶ谷グラウンドを訪ねた時のスピード氏の涙を私は忘れない。

 

様々な画像や言葉が添付され、55年ぶりの優勝がSNS上で踊っているが、ふと見ると、息子達や日本の留学生の名で「いいね」が付けられている。

彼らもこの優勝を喜び、きっと懐旧の念に包まれているに違いない。

今、話題の中心は、やはり「パリオリンピック」だろう。

長年シドニーに住んでいる私は日本とオーストラリア双方を応援しているため、日本のTV放送とオーストラリアのチャンネル9を交互に観戦しながらオリンピックを楽しんでいる。

 

私には馴染みの無かった競技「BMXレーシング」でオーストラリアのSaya Sakakibara(榊原 爽)選手が金メダルを獲得した。

日本の新聞やTVなどでも報道されているようで、彼女の快挙はすでに日本でも知るところかもしれないが、私なりにパリオリンピック感動の一コマとして記しておきたい。

オーストラリアでは彼女の金メダルが国民の感動を呼び起こすほど大きく報じられている。

〈バイシクル・モトクロス・レーシング〉と呼ばれる競技、自然の起伏を活かしたコースを使うオートバイのモトクロスを真似てアメリカの少年達がマウンテンバイクのような自転車で競ったことが発祥らしいが、そう聞けば、映画「ET」の中で、少年達が操る自転車が空に飛び上がるシーンが私の脳裏には浮かんで来る。

BMXレーシングには日本からも畠山紗英選手が出場していたようだが、準決勝で敗退、どちらかと言えば力や駆け引きの勝負であり、日本人には苦手なスポーツなのかもしれない。

 

彼女の名前が日本的だったこともあり、予選から決勝まで応援してしまったが、全レースを通じスタートからトップに踊り出てゴールまで突っ走るブッチギリの金メダルだった。

日本人の母親とイギリス人の父親というルーツを持ち、ゴールドコーストで生まれ、2歳から6歳まで日本で育ったそうで、BMXは日本滞在中に始めたそうだ。

表彰台に上がる前にお辞儀をしたり、顔にもどこか日本的な部分を感じるが、あのレース運びを観れば間違いなくオージー女性独特の強さや主張が感じられた。

 

柔道混合団体を観戦しながら、もちろん、素人の私の勝手な物言いと断っておくが、正直「勝っても負けてもいいから、もっと積極的に技を掛けろよ!」とフラストレーションが溜まっていた後だったため、彼女のキップの良い積極的な走りっぷりに私は感動するばかりだった。

 

やはり、勝利の涙の方が美しいなぁと感じながら表彰式を眺めていたが、今朝のSNSの新聞記事を読みながら、昨日のレース映像で観た以上の金メダルまでの道のりを知ることができた。

表彰台を降りた彼女は、大会関係者や報道陣を掻き分け、一人の男性の元へ・・・

その男性は彼女の兄カイだった。

カイも同じBMXレーシングを志し、東京オリンピックを目指して努力していたという。

直前にキャンベラで行われた世界選手権で転倒、カイの選手生命はそこでストップし、脳損傷を負った彼は2ヶ月近く昏睡状態、命の危険に晒されながら8ヶ月の入院を余儀なくされた。

 

サヤ自身も2020年東京オリンピックでクラッシュに見舞われ、競技への復帰を決意した後には、恐怖心や脳震盪のトラブルと闘いながらパリオリンピックを目指して努力を重ねたようだ。

「東京オリンピックの後、精神的に不安定になり、競技に復帰できないと考えた時期もありましたが、挑戦を諦めたらきっと自分に失望していたでしょう。私は今も兄も分まで走っているし、今大会は兄の背番号だった77を着けて走りました」と彼女はインタビューに答えた。

 

敗れた妹の無念さを背負って兄が金メダル連覇に輝いた阿部兄妹、日本では様々な反応があったようだが、Sakakibara(榊原)兄妹へのオーストラリア国民の反応は称賛一色だったようだ。

いずれにしても、様々な楽しみを犠牲にして努力したアスリート一人一人が積み重ねてきた日々を考える時、私にはメダルや結果だけで評価することができないのだ。

昔、「クソジジー」と呼んだ口うるさい老人がいたが、私自身がそんな老人になりつつある。

数日前、トム・ハンクス主演の映画「オットーと呼ばれた男」を観た。

日本でこの映画が話題になったかどうかは知らないが、ヒット作の多いトム・ハンクスの映画にしてはインパクトが弱いようにも思え、ネットの評価もそれ程高くはない。

公開から早々デジタル配信が始まったことからも、ヒット作にはならなかったことが覗えるが、私には、何度も観た大好きな秀作「フォレストガンプ」の続編のように思えなくもなく、トム・ハンクス独特の飄々とした演技に私は魅かれ、観終わった後に、感動の名作という類ではないが、「いい映画だったなあ」「こんな映画が観たかったんだ」という気持ちにさせられた。

 

主人公の名は、上から読(呼)んでもOTTO、下から読(呼)んでもOTTO。

正義感が強く、周囲に溶け込もうとしない彼はその町一番の嫌われ者という人物設定。

彼の毎朝の日課は、その地域の管理者でもリーダーでもないのに、私有地の路上に駐車している地域住民以外の車のチェックと公共のごみ箱に捨てられた分別ごみのチェックなのだ。

ガンコで口うるさい彼は、それがどうしても許せないのだ。

 

1956年7月9日生まれのトム・ハンクス、今日は彼の68歳の誕生日らしいが、同じ68歳の私は、映画の役柄とは言え、そんなOTTOにどこか通じるものを感じてしまうのだ。

そう言えば、つい最近も、マンションの地下駐車場にある来客用駐車スペースや洗車スペースに自家用車を停めている住人がいるのが癪に障っていたところだった。

「日本人の美徳」と検索すると、「謙虚さ」「謙遜」「反省」が最初にアップされる。

"YES or NO" をハッキリ主張するオーストラリアに40年近く住んで、あのまま日本に住み続けていたら、私の性格からして、どれだけストレスまみれになっていたかを想像すると怖い。

オージーのイージー・ゴーイングさにイライラすることはあっても、自分の言いたいことを言わない、いや "言えない" のは、精神衛生上良くないのを通り越し不幸だ!と考えてしまう。

 

私達夫婦は《事なかれ主義》というか、差しさわりの無い第三者的な振舞いを嫌い、仕事も人付き合いも家族との絆さえも、いつだって当事者意識を持って生きて来た。

そんな過去を振り返れば、口うるさくもなりガンコにならざるを得ない時も多々あった。

敢えて言ってしまうが、私の妻は私なんかよりはるかに正義感が強く、周囲に溶け込もうとするよりも自分の世界を好み、OTTOのように結構口うるさい。

この映画を観始めた時、おっと、女房にそっくり!と感じながら、思わず笑ってしまった。

ただ、OTTOの歩んだ境遇が次第に見えて来るにしたがって、男の幸せとは?老後の幸せとは? と考えるようになり、ここで女房次第とノロケるのはやめるが、敢えて言うなら妻子との固い絆なのだろうと思えてしまうのだ。

 

最近のネットの記事で、偉い先生の「高齢になると頑固になり、口うるさくなる」というレポートを読んだが、極ありきたりの文言で何の参考にもならなかった。

私は他人にガンコになるよりも、どちらかと言えば自分にガンコな高齢者になりたい。

周囲と交わる機会も稀有であり、他人のおせっかいよりも、3日に1回のウォーキングやジョギング、筋トレ(約2時間)を続けながら、ガンコな性分を自分に向けようとしている。

この6月末で丸7年続けたことになり、1021回、目標の3日に1回のペースは達成できた。

訪日や仕事、最近は孫の子守もある中で、私にとってはそれがチッポケな誇りなのだ。

ただ、雨の多い今年のシドニー、「洗濯物が乾かない!」という妻の言葉が背中に刺さるのだ。

終わりに再び映画の話題に戻るが・・・

OTTOは、向かいに住む陽気な夫婦と娘(女児)二人の影響で徐々に心の扉を開いていく。

夫婦から幼い娘二人の世話を頼まれ、フィギュア(人形)で遊ぶシーンが登場するが、あのフィギュアがトイストーリーのウッディやバズだったら良かったのに・・・

そう感じた人がいたら、きっと私と同じトム・ハンクスのファンに違いない。

Happy Birthday !! Tom

シドニー移住を果たしてから、仲間や友人と仕事帰りにちょっと一杯という楽しみはなくなってしまったが、意外に寂しさを感じることはなかった。

70歳間近の今の暮らしを考えれば、私の場合はそれが正解だったのかもしれない。

何のことは無い、家族がいて、普通に生活できて、友人は多く、いつでも会える訳ではないが、再会した時にはこの上ない喜びを感じることができるのだ。

今月、一年半ぶりに日本を訪ねたが、ちょいの間の訪日だった。

それでも、移動距離は長く、シドニー▶羽田▶大阪▶京都▶名古屋▶岐阜▶名古屋▶京都▶東京▶千葉(勝浦)▶仙台▶函館▶東京▶シドニー 9日間でこれだけ移動したことになる。

さすがに "疲れた" というのが本音だが、訪問先での友との再会が疲れを忘れさせてくれた。

何年会わなくても、やはり友は宝物なのだ!

 

訪日の目的は?

来年、Japanツアーを計画しているオーストラリアのRUGBYチームがあり、その下見と10年間販売を手掛けて来たフィットネスグッズ新製品の紹介とその反応を直に感じることだった。

リタイアして、仕事に追われることなくノンビリ暮らそうと決めていたが、どういう訳か?また真剣に挑戦することになったようで、困ったことに、それなりに意気込みを感じているのだ。

「よく、そんなチッポケな会社や仕事を続けているね」と笑われそうだが・・・

それでも、40年近くスポーツ先進国オーストラリアに住んで、それまで日本に存在しなかったトレーニングやエクササイズグッズを日本に導入、それらが正に、今も盛んに使われているのを観れば、自画自賛かもしれないが、多少の誇りを感じないでもない。

もちろん、グッズに限らず、例えばオーストラリアのコーチングコースやアドバンストセミナーも然り、日本のラグビー界を刺激して、昨今の日本のコーチ資格制度やプロコーチ出現の有様、勢力図にも多少の影響を与えることができたと私は胸を張りたい。

チッポケながらも、私なりに "イノベーション" を意識しながら突っ走って来たのだ。

ただ、一番の喜びは、それらの地道な努力の副産物として、一生の仲間や友が増えたことだ。

日本よりもシドニーでの生活が長くなった私は、感じたままをそのまま表現するからか、私から離れて行った人もいるが、おべんちゃらを言ったり、ウソはつきたくなく、人のうわさ(無責任な言葉)にも「片口聞いて公事を分くるな」を心掛けるようにしている。

 

ある用件もあって、10月末~11月中旬に再度訪日を計画しているが、今回のようなバタバタとした訪日にはしたくないものだ。

願わくは、多少寒くなっていて、紅葉や温泉を楽しむことができたら最高なのだが・・・

今回の訪日は、梅雨時なのに暑くて温泉どころではなかった。

秋のススキの季節もそれなりに情緒があって悪くはないのだが・・・

やはり、望むところはこのような情景の中で、ぶるぶるっとしながら温泉を楽しみたいものだ。

実は、11月の訪日に向けて、すでにこの温泉宿を予約している。

ちょっと気になっているのは、何かに挑戦しようとすればアッと言う間に時が過ぎてしまい、益々歳をとってしまうことが気になる年齢に達してしまったことだ。

まあ、ひとつの楽しみとしての挑戦、これからを楽しむための挑戦と考えたいものだ。

その意味からも、友との再会を楽しめる訪日にしたいものだ。

「お久しぶりです。私がオーストラリアでコーチングコースに参加した際、私を実の弟のように可愛がって下さった方の名前がどうしても思い出せないのですが、名簿とかは残っていますか? 当時、日本のどこかの大学でコーチをされていたと記憶しています」

*写真は02年の「第2回豪州コーチングコース」/シドニー・フットボールスタジアムにて

 

心温まるメッセージに、「何とか見つけてあげたい」という思いが募る。

そうだ、写真なら一目瞭然だろう! 

写真箱をひっくり返し、古い写真を一枚一枚確認したが、彼が参加した01年の「第1回豪州コーチングコース」の写真は見つからなかった。

初めての開催だったため、写真を撮る余裕が無かったのかもしれない。

 

99年W杯で2度目の優勝を果たしたオーストラリア(ワラビーズ)、そのコーチングコースはAIS(豪州スポーツ研究所)とARU(豪州ラグビー協会)によってプログラムされ、世界が注目する優れたコースであり、日本からも熱心なコーチがシドニーを訪れた。

01年~03年/シドニーで4回開催、レベル1/3回、レベル2/1回

04年~15年/日本で14回開催、レベル1/10回、レベル2/4回

 

メッセージをくれたのは、鹿児島県大崎町でピーマン農園をやりながら、昨年、大崎町ラグビーフットボール協会とジュニア向けのラグビークラブ "Beach Wave Osaki" を起ち上げ、ラグビーの発展やラグビー人口の増加を目指す若きコーチである。

彼は2001年にシドニーで開催した「豪州レベル1コーチングコース」に10代で参加、試験やコーチングレポートの審査をパスし、オーストラリアの公式コーチ資格を取得した。

昨年5月、「来月は大崎町ラグビー元年のこけら落としが出来そうです」と彼からメッセージが届いたが、オーストラリア政府公認の "コーチ認定書" が添付され、「オーストラリアで公式なコーチ資格が取得できた事は最高の財産です」と書かれていた。

彼にとってコーチやコーチングの原点となった「豪州コーチングコース」、最年少の参加だった彼を何くれとなく実の弟のように面倒を見たコーチへの感謝をずっと忘れていないようだ。

 

私の最近のブログ「17年ぶりの嬉しい再会」から、私が遠征やセミナーに関する古いデータを大切に保管しているのを知って、彼が私に連絡をくれたのなら嬉しい限りだ。

さて、今回は23年前のデータであり、古いパソコンから検索して返信を書き始めたが・・・

 

申し訳ありません。

参加者名簿は残っているのですが、個人情報ですのでそのまま送ることはできません。

 

と、書いたものの、正直、私は彼の純粋な心や切なる願いを裏切りたくなかった。

01年の豪州コーチングコースへの参加者は29名だったが、その内大学関係のコーチは8名、私は彼への返信に8つの大学名だけを列記した。

 

彼から直ぐに返信があり、23年前の会話を思い出したかのように大学名が記されていた。

特定されたコーチは私にとって歳の離れた弟のような存在で、なるほど、かつてオーストラリア留学も経験した〇〇君なら最年少で参加した10代の若者の面倒を見たに違いなかった。

感激家の〇〇君ならきっと喜ぶだろうと考え、名前と所属先だけを彼に知らせた。

個人情報のため連絡先等は知らせず、本気なら彼自身が探すはずだと考えたのだ。

新手の詐欺や勧誘が横行する昨今、嫌な時代になったものだ。

 

思い出しました。〇〇さんです。
所属先のホームページを見ると、お顔もそのままでした。

本当にありがとうございます。嬉しくて涙が出そうになりました。

 

〇〇さんに連絡が取れました。

〇〇さんも私を覚えて下さっており、今後も連絡が取れる状況になりました。

本当にありがとうございました。

 

23年前の体験や感動、それと感謝の気持ちをしっかり心に秘めて原点回帰しながら、少年少女にラグビーの魅力を伝えようとする若きコーチ、そんな彼の努力を垣間見れば、かつてオーストラリアの進んだコーチングを日本に伝えようとした頃の私自身に重なるのだ。

 

そんな彼の作るピーマンは、ふるさと納税の返礼品として人気アイテムになっているようだ。

いつか、彼の作ったピーマンを食べてみたいものだ。

*写真は彼のFacebookより

 

再会から1週間の昨日、彼は日本に帰任するためメルボルンを出発したはずだ。

オーストラリアはイースター(復活祭)のホリデー中であり、彼もまさに日本での仕事への復帰(復活)の時であり、更なる活躍を期待したいものだ。

思い出を辿るために、彼はメルボルンからシドニーまでの約900kmを車でやって来た。

午後5時、仕事を終えてからメルボルンを出発、途中、ヒュームハイウェイに隣接するトラックドライバーなどが休憩するRESTエリアで車中泊を試みたようだ。

"やっぱり若いんだなぁ" と考えればその通りかもしれないが・・・ 

私の持つ日本企業の駐在員のイメージからすれば、途中それなりのホテルに一泊と考えてしまうのだが、仕事とプライベートを区別する彼の生真面目さがそうさせたのだろう。

待ち合わせしたホテルに17年ぶりの宿泊を勧めたが、シドニーに何度も出張しているという彼から返信は無く、きっとシドニー中心街に会社御用達の定宿があるのだろうと考えた。

後日、日本で言えば郊外のビジホ・クラス、私が勧めたホテルを予約したと連絡があった。

 

正直、私は彼の人となりや性格までは知らない。

彼本人との何回かのやり取り、中でも「日本への帰任前に17年前の思い出の地を訪ね、記憶に残していきたい」という言葉、彼の一連の真摯な姿勢に触れ、彼と会うのが楽しみだった。

 

私には彼の顔つきや堂々たる体躯に確かな記憶があった。

もちろん、そう聞けば誰もが「そんなのウソだろう!」と笑うに違いない。

実際、1998年から2019年までに100以上のチームの遠征を請け負い、日本で数十回のセミナー等も開催し、その間に出会った選手の数はゆうに5,000人を超える。

 

旭丘高校ラグビー部が遠征に訪れた当時、私は訪日の度に慶應義塾大学BYBラグビークラブのコーチングをサポートしていたが、その遠征の翌年、BYBクラブのクリニックで彼に再会し、「慶應に入学し、BYBでラグビーを続けていたんだね !?」と声を掛けた記憶があったのだ。

遠征中、彼は一番目立っていたし、端正な顔立ちで体格も一番良かった。

 

BYBクラブは、旭丘高校ラグビー部と同じ2007年7月にシドニー遠征を行い、双方の遠征の記憶が冷めやらぬ内だったこともあり、彼に声を掛けた記憶が私の脳裏に残ったのだろう。
BYBクラブの遠征中の写真を見ると、彼が私に送ってくれた旭丘高校ラグビー部の写真と同様シドニー・ラグビークラブで歓迎セレモニーを開催したのが分かる。

旭丘高校ラグビー部はBYBクラブの半月後に到着、同じホテルに宿泊し、同じコーチ陣が同じグラウンドやビーチでセッションを行った。

偶然なのか? 必然なのか? それとも、何かに導かれているのか?

いずれにしても、私の記憶に残る彼が17年ぶりに連絡をくれ、やって来るという。

私は "一期一会" を大切にしているが、今回の再会はまるでボーナスのようで本当に嬉しい。

 

話題を彼の "17年目の思い出巡り" に戻そう。

高校ラグビー部のほとんどは日本の夏休みを利用して遠征にやって来るが、日本に戻れば、間髪を入れずに菅平や地方の高原等での夏合宿が待っている。

私は、そんな選手達に夏休みらしい体験をさせたくて、シドニー最北のパームビーチ近くにあるカラウォング・ビーチ・キャンプ場(コテージ)での一泊を遠征日程に加えていた。

バーベキューやキャンプファイアーを囲み、選手達にありのままのオーストラリアの文化を学び楽しんでもらいたかったし、庭先に飛び出してくる野生のワラビーも見せたかった。

そのキャンプ場には、ピッツウォーターと呼ばれる大きな湾を超えて対岸までボートで渡らなければならなかったため、今回は遠く眺めるだけだったが・・・

「覚えてます! とても寒かったのですが、全員、ショートスピーチをさせられましたよね」

コーチとして参加したクレイグやエディーの発案だったが、それは正にオーストラリアならではの教育プログラムであり、自分をしっかり主張するためのカリキュラムだった。

それが彼だったのかどうかまでは定かではないが、素晴らしいスピーチをした選手がいた記憶があり、彼にその話を振ってみたが、彼は謙虚に笑うばかりだった。

 

その少し先にあるパームビーチまで私は彼を連れて行った。

キャンプ場に向かう日の午前、しっかり2時間のセッションを行った "地獄のビーチ" なのだ。

「うわー! あの坂登りは一生忘れませんよ!」

ビーチ北端の丘の下に見える砂のスロープは、泣く子も黙る "坂登りセッション" の場であり、過去にはトヨタ、東海大学、桐蔭学園・・・ の選手達が音を挙げたスロープだった。
写真では分からないが、その場に立てば、斜度と砂に足を取られて上に進めないほどなのだ。

パームビーチに別れを告げ、途中、この地域で人気のある日本レストラン「もなか」に寄った。

帰任を間近に、家族は先に日本に戻ったようで、ちょっと日本食に飢えているだろうと考えた。

「美味しいです! こういうのを食べたかったんです!」

私は一生懸命食べる人を好むタイプで、食事中に仕事や自己中の話題を語り続けたり、最近は、スマホを片手に食事をするような輩とは同席するのも嫌になるのだ。

私の注文した "からあげ" を勧めると、嬉しそうに「頂きます!」と言って美味そうに食べる彼を見ているだけで、何かこの日が更に良い一日だったように感じられた。

3月7日、私のFacebookのメッセンジャーに一通のメッセージが届いた。

突然のご連絡申し訳ありません。
2007年冬、愛知県旭丘高校がシドニーにラグビー遠征をした際にお世話になった者です。

現在メルボルンに駐在中ですが、今月末に帰任となります。

日本に戻る前にどうしても思い出の地を訪ねていきたいと考えていますが、遠征中にどこで練習や試合をしたかご記憶にあるでしょうか?

メッセージには、シドニー・ラグビークラブを訪問した際の写真が添付されていた。

写真を見ながら、17年前の記憶が私の脳裏に蘇って来る。

私は日本から到着したばかりの遠征チームを、いわばオーストラリアのラグビー博物館のような古いクラブハウスに案内し、歓迎レセプションを行うのを恒例にしていたのだ。

 

私は1998年に正式な仕事として日本チームのオーストラリア遠征のプランニングやコーディネートを開始したが、旭丘高校ラグビー部は、開始から10年、50番目の遠征チームだった。

全ての遠征記録はデータとして保管しており、私は日程表を添えて彼に返信をしたが、何回かのやり取りで、3月23日に、当時彼らが宿泊したホテルで待ち合せをすることになった。

このホテルで彼に会うのは17年ぶりだった。

シドニー北部地区に在するこのホテル、彼に出会った2007年当時は「Travelodge Manly Warringah」だったが、2022年7月に「Mercure Hotel」にリブランドされたようだ。

2000年頃からこのホテルを数十回使ったが、外観はほとんど変わっていない。

 

このホテルはもちろんだが、トレーニングを行ったグラウンド(ルーブハドソン・オバール)、ビーチセッションを行ったカールカール・ビーチ、巨大なショッピングセンター(ワリンガモール)、ラグビーリーグ「マンリー・シーイーグルス」のスタジアムやリーグスクラブ・・・ 

それらを懐かしく思う日本のラグビー選手(今はほとんどがOB)やコーチは多いはずだ。

ホテルからグラウンド(ルーブバドソン・オバール)までは徒歩10分、今はクリケットのシーズンであり、ラグビー場が3面とれるフィールドにはゴールポストが立っていない。

それでも、芝の匂いを嗅ぎながら、彼の脳裏に17年前のセッションがハッキリ蘇ったはずだ。

「Toshiさん、こんな環境が日本にも欲しいですね」

住宅地の目の前にある整備の行き届いた広大な芝生のフィールドやそれを囲む緑の木々を暫く眺めながら、彼の言葉には将来を担う子供達への心が感じられた。

 

彼はメルボルンに3年間駐在したようだが、地球環境への負荷を低減し、SDGs(持続可能な開発目標)、いわゆる人類が安定して暮らし続けることのできる世界を築くための製品開発を目指す企業の駐在員として、彼の言葉にはどこか実感が籠っていた。

 

途中、ビーチセッションを行った美しいカールカール・ビーチに立ち寄り、その後は17年前に試合やファンクションが行われた名門「ワリンガ・クラブ」に向かった。

シーズン前のメインフィールドは、まるでぶ厚い緑の絨毯が敷かれているようだった。

サブグラウンドでは、2024年シーズン開幕を前に「ワリンガ VS ノース」のトライアル・ゲーム(選手選考試合)が行われており、私自身、久々に実戦を目の当たりにした。

共にNSWクラブ選手権(シュートシールドカップ)の優勝を狙えるチームであり、オープン戦とは言え、レベルの高い試合に彼は興奮を隠さず、大きな刺激を受けたようだ。

「やっぱり、ラグビーはいいですね。僕自身、もう少しプレーを続けようと思います!」

彼はメルボルンでラグビーを続けていたようだが、高校時代の思い出の地を再訪し、本格的な試合を目の当たりにして、彼のラグビーへの熱き思いに更なる炎が点火されたようだ。

ワリンガクラブのキャップを購入し、身を乗り出して観戦する彼を眺めながら、私自身がオーストラリアを訪れた頃を思い出したが、あの頃の私はちょうど今の彼と同年代だった。

ここに彼を連れて来て本当に良かった!

W杯の結果を基準に、オーストラリアでは今後のラグビーユニオンの衰退が懸念されているが、それでもこの日、この場所にそんな不安や心配はどこにも感じられなかった。

地元のラグビーを愛する老若男女がグラウンドを囲み、良いプレーに歓声を挙げる様子を観ながら、土曜日のラグビー文化が何ら変わっていないのを感じるばかりだった。

そう、匂いに誘われて、ソーセージサンドにかぶり付いたが、正に変わらぬ土曜日の味だった。

「息子二人が地元のクラブやハイスクールでラグビーをプレーし、私達家族の土曜日は、いつもこんな生活が当たり前だったんだよ、やはりそれが文化なんだろうね」

つづく


 

高齢者の運転による事故が日本では大きな社会問題になっているようだ。

オーストラリアにおける高齢者の運転による交通事故については、私の理解不足かもしれないが、例えば日本のように、取り立てて社会問題になっているような実感はない。

ストレスの少ないオーストラリアで、高齢者は極めて元気に見えるし、よくトロトロ走る高齢者の運転する車と遭遇するが、彼らのマイペースで動じない姿勢は驚くばかりだ。

 

日本では高齢者の免許返納が増えていると聞く。

オーストラリアなら単に次の更新をしないということになるのだろうが、私のドライバーズライセンスは2026年1月まで有効であり、その時点で70歳、更に5年の更新は間違いないとしても、それから先は? 更新するかどうかは、その時点で考えることにしよう。

 

ただ、2年前に住み始めた我家から駅が近いため、最近は列車を使うことが多くなっている。

その際に役に立つのが、このシニア・オパールカードなのだ。

セントラル駅(日本なら東京駅)まで、20個の駅をゆっくり走る各駅停車なら約1時間掛かるが、途中3駅しか停まらない列車に乗れば30分で到着できる。

車の運転では気付けなかった景色を楽しめるし、私はその気楽さを割と気に入っているのだ。

目に優しい木々の緑の中に点在するレンガ造りの家並みや公園、そしてラグビー場・・・

ゆっくり走る各駅停車の窓からぼんやり眺め、ハーバーブリッジに差し掛かればオペラハウスを臨む景色は素晴らしく、先月末もオペラハウス前の客船埠頭には豪華客船 "Queen Mary 2" が停泊しているのが見え、そんな1時間の列車の旅がとても贅沢に思えてならない。

シドニーのダウンタウンにはトラム(路面電車)が整備され、とても良い環境になった。

車や人の多い繁華街を走る緊張感や駐車場不足の上に高額な駐車料金、駐車違反の取り締まりの厳しさもあって、正直私は車でシドニーのダウンタウンに出掛けるのが嫌いだった。

トラムは日本で言えば銀座通りのようなジョージ・ストリートを走るが、ビルの谷間が続いていても、懐かしさを感じる建物やショップも多く、それらを眺めているだけで十分楽しめるのだ。

オパールカードは日本のスイカのようなものだが、シニア世代(60歳以上)は、シニア・オパールカードが取得でき、列車やトラム、バス、フェリーを乗り継ぎ、それらに何回乗り降りしても、また、どこまで乗っても、1日$2.50(250円程)以上は取られない。

列車なら、ちょっと一杯も問題無く、最近は日本からやって来る友人との再会も列車で出掛け、シニア同士、市内観光よりも会話を楽しむようになった。

 

我家の周辺にはクリケット場を兼ねた大きな公園があるが、朝早くから多くのシニア世代がカップルで、または家族や友人と談笑しながらウォーキングを楽しんでいる。

犬と散歩するシニア世代、歩行器を押しながら歩くシニア世代、杖を突きながら歩くシニア世代・・・ その誰もがフレンドリーで、すれ違う際には必ず挨拶を交わす。

近所のショッピングセンターに行けば、カフェで会話を楽しんでいるのはシニア世代ばかり。

 

オーストラリアではクラブライフが定着し、ほとんどのクラブは誰でも利用できる。

スポーツ系のクラブが多く、中でもポピュラーなのはラグビー・リーグス・クラブだが、我家の周辺にも、退役軍人(RSL)クラブやローンボーリング・クラブがある。

そのほとんどに本格的なバーやレストランがあり、ラウンジには大型のスクリーンが設置され、スポーツのライブ観戦を楽しむことができ、週末には生バンドのライブ演奏も楽しめる。

また、スロットマシーンが置かれ、ちょっとしたカジノ気分も堪能できる。

私もメンバーになっているが、ほとんどのクラブのメンバーフィーはタダ。

客は老若男女様々であり、レストランでは家族連れがテーブルを囲んで食事を楽しんでいる。

オーストラリアのシニア世代(高齢者)のほとんどが、若い頃からいずれかのクラブのメンバーとなり、シニア世代になっても、そのまま家族や友人とクラブライフを楽しんでいるのだ。

 

移住したての頃、私はラグビークラブのバーで常連のシニアメンバーに英会話を習ったものだ。

そんな高齢者の楽しめる環境が高齢者の交通事故を減らしているのかもしれない。

朝、机の前の窓からぼんやり外を眺めると、木々の緑が朝陽に映えて輝いて見える。

遠くに見えるのは常緑樹のユーカリ、手前にある木の名前は知らないが、正に今、一番緑の濃い季節であり、3月末には紅葉し、冬になればすっかり葉を落としてしまう。

2年前、よく知らずにこの街に住み始めたが、私はこの季節感を結構気に入っている。

昨年8月、窓の前に立つこの木が葉を落として丸裸の枯れ木となり、死んでしまったのではないかと考えていたが、植物の生命力はそんな簡単にはなくならないのだ。

そして、四季折々、たくさんの種類の鳥類がこの木で羽を休め、時にはオーストラリア独特の有袋類ポッサムが二つに分かれた幹の間で昼寝をしているが、そんな光景に心が癒される。

1年目は何も気付かなかったのだが・・・

この2年、日々そんな光景を目にしながら、この家を終の棲家に決めたのは正しい選択だった。

この写真は、冬枯れの枝にとまった仲睦まじいインコにフォーカスして写したものだが、同じ枝付近を狙った写真なのに、今は緑が溢れ、朝の私にいっぱい元気をくれる。

ただ、冬枯れの枝にもどこか心温まるものを感じてしまうのだが・・・

 

シドニーで暮らす私に、これといった不満は無いし、今の暮らしを気に入っているが・・・

日本で暮らす同年代の仲間達は、毎日いったいどんな生活を送っているのだろう?

2年後にはアラセブン(古希)の私、近頃、いつも思うのは "なにかいいことないかなぁ !?" 

そんな私の憧れは、Netflixで観る「深夜食堂」の客 "不破万作" さんのような生活なのだ。

毎晩店を訪れ、周りの客としみじみ語り合い、一緒に笑い、時には真剣に悩みを聞き、気持ちを荒立てることも無く、ストリッパーのマリリンと仲良しで・・・

ドラマの舞台は、学生時代、そして社会人になってからも何度も足を踏み入れた場所なのだ。

今、シドニー郊外に住む私にとって、仲間や友人達と呑みニケーションするのは簡単ではないが、いつか、2、3ヶ月日本に滞在して、あんな生活を送ってみるのもいいかも・・・

毎週土曜の夜は、今まで買い集めたワインを妻と二人で楽しむことにしているが、昔日の思い出と一緒に、そんな私の冗談ともつかない(多少本気の)憧れを話す良い機会なのだ。

「あいよ、出来るもんなら何でも作るよ」が、マスター小林 薫さんの決まり文句である。

私も料理が好きで、このドラマに登場するような料理なら、何でも作ってしまうが・・・

「あいよ!」妻のリクエストに応え、それがワインのつまみになることも多いのだ。

 

先日、NHKBSの「ゆったり温泉一人旅」という番組で秋田の乳頭温泉郷が紹介されていた。

訪日の際、何度も訪ねた私達夫婦のお気に入りの温泉なのだ。

「折角日本に行くなら、私はやっぱり温泉がいいなぁ」と妻は言う。

 

私に言わせれば、それは願ったり叶ったり!

「深夜食堂に夫婦は似合わないさ、 男一人カウンターで呑むのが俺の憧れなんだよ!」

そう、「深夜食堂」の不破万作さんの魅力は、どこにでもいるようなオジサンの魅力というか、過去の栄光や肩書なんかどうでもいいよと感じるところなのだ。

私には、それが何ともカッコよく見えるのだ。

 

その昔 "違いの分かる男" なんていうキャッチコピーがあったが、33歳で日本を離れた私は、そんな男になれた(かもしれない)年代に日本にいなかったのだ。

残念ながら、"違いが分かるかどうかも分からない男の世代" になってしまったが・・・

男には、幾つになってもそんなふうにカッコつけたい気持ちがどこかあるもんなのだ。

 

どこかの店でお会いすることがあったら、共に呑み、語り合いましょう。

孫たちの成長が私に元気をくれる。

お兄ちゃんになったLeo(3歳)は、弟Noa誕生に伴い、数カ月間日本で暮らし、ぎこちなさはあるものの日本語がかなり上達したように感じる。

子供は1~2歳ぐらいから話し始めると言われるが、2~4歳は語彙を増やすのに大切な時期、そう考えると、日本で暮らしたことはLeoにとって実に貴重な体験だったのだろう。

私たちは1988年に渡豪、長男隼人はLeoと同じ3歳、弟竜太(Leoの父親)は1歳だった。

隼人は到着の翌日から地元の幼稚園に通い始めたが、我が家では私も妻も日本語だけで子育てをした。正直に言えば、息子たちの将来に役立つきちんとした英語が話せなかったのだ。

徐々に息子たちの母国語は英語になったが、彼らは今もしっかりとした日本語で会話ができる。

嫁の美麗はLeoの英語の上達が気になるようだが、私たち夫婦は何の心配もしていない。

父親の竜太や伯父の隼人がLeoやNoaの未来予想図をしっかり証明しているからだ。

バーバとなった妻は「家では日本語だけで育てなさい!」とハッパを掛ける。

ちょっと時期外れになってしまったが、クリスマスの話題である。

Leoとこんな会話があった。

私 「レオ、クリスマスにサンタさん来た?」

Leo「うん、サンタさんがぼくのおうちに来たんだよ!」

私 「サンタさんが来たのがどうして分かったの?」

Leo「だって、おうちにサンタさんの足跡があったんだよ」

私 「それは良かったねぇ、ジージのところには来なかったよ」

Leo「ぼくはサンタさんにクッキーと牛乳を置いてあげたんだよ」

美麗「トナカイさんにもニンジンを置いてあげたんだよね」

私 「そうだったのかぁ、ジージはケーキと豆乳を置いちゃったんだよ」
周りの大人たちには大ウケだったが、Leoは豆乳なんて知る由もない。

Leo「ダメだよ、ジージ!、クッキーと牛乳じゃなければサンタさんは来てくれないんだよ!」

たどたどしい日本語だったが、真面目な顔で私はLeoに叱られた。

クリスマスイブ、Leoが眠った後に、竜太と美麗はベランダのドアからツリーまで、まるでサンタが入って来たような足跡をリビングの床に残した、それも雪の中を歩いて来たように。

幼い子供の純粋な心を裏切らない二人の演出は、豪華なプレゼントや食事よりもどれだけLeoに夢や喜びを与えたことだろう。

私 「来年は、ジージのところにもサンタさんが来るといいなぁ」

Leo「ぼくが、ちゃんとジージにおしえてあげるからね」