オーストラリアから

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’88年移住!! まだまだ夢の途中・・・

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ここを歩くのは何年ぶりだろう?

東京滞在中に、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている巣鴨を訪れた。

年間900万人が訪れるというこの街は、江戸時代、日本橋を出発して、旧中山道の最初の休憩地として商業が発展したというが、この地蔵通り商店街にはどこかその名残が感じられる。

"ソメイヨシノ"発祥の地であり、秋には菊の名所として菊花盆景の展示が楽しめ、今も菊の花に因んだ俳句の会などが毎年営まれるそうだ。

江戸時代、各街道の入り口に建てられたという江戸六地蔵の一つが眞性寺門前に鎮座している。

明治24年には、"とげぬき地蔵尊"高岩寺が上野から巣鴨に移転し、その地蔵が延命地蔵として病や心のトゲを抜くと言われたことから、巣鴨はおばあちゃんの聖地となったようだ。

確かに、原宿の竹下通りの少女たちをおばあちゃんたちに置き換えたのが巣鴨地蔵通り商店街と言えなくもない。可愛いファッションを扱うお洒落なショップの代わりに、店先に分厚い真っ赤なメリヤスのパンツをぶら下げた専門店、スイーツ・ショップの代わりに、甘酒、せんべい、塩大福を売る店が軒を連ねる。

江戸時代創業の店も多く残っているようだが・・・

総じて古くも新しくも見える昭和の商店街という感じがする。

昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で巣鴨周辺は焼け野原となり、古い街並みは軒並み焼失した。眞性寺も焼け落ちたそうだが、江戸六地蔵のお地蔵さんだけは焼け残ったそうだ。

私の母は宇都宮に疎開していたが、生まれ育った巣鴨にほど近い文京区の家はその空襲で焼失したと聞いた。巣鴨周辺にはこの空襲で被災された人々を焼いて葬るための大きな穴が数多く掘られていたと母から聞いた記憶があった。

巣鴨地蔵通り商店街の入り口付近に昭和27年(1952年)創業の巣鴨萬盛堂薬局がある。

昭和31年度の経済白書の序文に「もはや戦後ではない」と記載されたようだが・・・

その意味からすれば、昭和27年はまだ戦後間もない時代であり、昭和30年生まれの私も戦後間もない時代の生まれに属するようだ。

大震災から8年弱の東北の現状を観て、設備も資材も今のように恵まれていない昭和20年代を想像すれば、終戦から7年後の昭和27年にはまだ戦争(東京大空襲)の爪痕が残っていたことだろう。

そんな最中に巣鴨萬盛堂は創業し、70年近く地域住民の健康な生活を見守って来たことだろう。

実は、この薬局には私にとって忘れられない思い出があった。

 

昭和55年(1980年)、私はライオン株式会社に就職し、東京23区の小売店を対象としたSP(セールス・プロモーション/販促)と言われる部署に配属された。

入社間もない私にとって、日用品市場を知るためには、うってつけの部署だった。

私は練馬区と板橋区が担当だったが、仕事に慣れた頃に池袋のある激戦区の豊島区が加わった。

巣鴨地蔵通り商店街にも幾つかのお得意先があり、萬盛堂も私の担当する小売店の一つだった。

その頃は、まだ大型ドラッグストアのようなチェーンは無く、萬盛堂はいつも店頭に様々なメーカーの日用品等を山積みし、値引きを目玉に集客を狙う大型ドラッグストアの先駆けのような薬局だった。

日用品メーカーのセールスとして、自社製品をどこの店にも置いてもらえる商品に育てることは理想だったが、言うほどに簡単ではなく、例えば小売り店間の価格競争が商品価値を下落させ、小売店の販売意欲はもちろん、取扱い意欲まで失わせてしまうことがあった。

店頭での日用品の安売りを目玉に集客力を高め、利益率の良い薬や化粧品の販売を目論むドラッグストア(薬局)は多く、一般の雑貨屋など個人経営の小売店には大きな脅威だった。それは、例えば獰猛なブラックバスの繁殖で川や湖の生態系が変り、他の魚がいなくなってしまうような現象に似ていた。

独占禁止法という法律のため、メーカー側は小売店に対する販売価格の強制や指導は許されず、安売りを断行する販売店に丁重にお願いして配慮を求める以外に無かった。

 

安売店が"消費者の味方"であることは間違いない!

しかし、メーカーにとって、競合店同士の価格競争の結末を考えれば、黙って見過ごせない問題だった。

新人セールスの私は、まずその原理原則や流通機構、対処法等を脳裏に叩き込まれた。

妻は安売店で嬉しそうに大量の買い物をするが、私はライオンのセールス時代がトラウマになっており、今も安売店内に入る際に気が引けてしまう。

 

巣鴨萬盛堂はこの地域ダントツのリーダー店だった。

この地区の担当になった頃、いつも店頭を横目で窺(うかが)いながらそそくさと通り過ぎた。

あの頃流行っていた「仁義なき戦い」に例えて、店の前を通り過ぎる際は、正直、組の事務所の前を通るような気持ちで、まともに店内を見ることさえ出来なかった。

見て見ぬふりをして適当にゴマかしていれば、周辺の競合店が何も言わなくなるのは知っていた。

嘆いてもどうにもならないことを彼ら自身が一番良く知っているのだ。そして、1年もすれば担当地区は変わり、次の担当者にこの地区の問題を放り投げてしまうことも出来たのだが・・・

バブルが膨らみ始めた時代で、大きい資本が小さい資本を土足で踏みにじっていた時代だった。

「新しくこの地区の担当になりましたライオンの加藤と申します」 丁寧に名刺を渡した。

「珍しいね、ライオンさんのセールスがうちに来たのは初めてだよ」 店主はそう言って笑った。

一瞬、原理原則、対処法を大仰に語っていた先輩方の顔が浮かんだ。彼らは誰一人、この店とまともに向き合わなかったのだ!彼らもきっと行くべきか悩んだに違いないが、何なんだよ!とガッカリした。

 

予想以上に平穏に会話は続いたが、「弊社の主力商品を店頭で安売りするのを止めて頂く訳にはいかないでしょうか?」 と私が切り出した瞬間、顔色が変わった。

ただ、彼は私がそう切り出すのを予想していたに違いなかった。

そして、リーダー店の主人として、彼が巣鴨地蔵通り商店街全体の繁栄を考えないはずは無かった。

 

「この地蔵通りには日本中からおじいちゃんやおばあちゃんがやって来るのを君は知っているよね。みんな高い電車賃を払ってこの地を訪れ、虎の子の金で家族にお土産を買って帰る。それを楽しみにしているんだよ。我々は、それにお応えするために、良い商品をこうして利益を削って提供しているんだよ」

その真剣な眼差しから、その言葉に私を調子よくあしらおうという心は感じられなかった。

 

「御社のような値段で販売出来ない小売店はたくさんあります。そんな小売店はお客様から何もかもが高いというイメージを持たれ、これからの経営も心配な状況になってしまうと思うんです」

「日用品ですから誰にとっても必需品ですし、適正な利益を確保しながら販売して頂けないでしょうか」

私は、まるで先輩から指導されたままを棒読みしているようだったに違いなかった。

 

「君はこの地区をどれだけ知っているんだい?どんな歴史を知っているんだい?」

「この商店街は、江戸の昔から続く店と戦後間もない頃に出店した店が上手に共存共栄して発展して来たんだよ。それぞれの役割があって、うちはこの通りに客を寄せる役割を担っているだよ」

「企業努力をしない店は、これから何がどうあっても生き残れないだろうね!」

「当たって砕けろ!」の精神だけで、地蔵通りの由来も東京大空襲の歴史も何も知らずに不勉強のまま、私が店を訪問していたのを完全に見抜かれていた。

「・・・・」

「よし、分かった!この店を一日君に任せるから、君が全部値付けをして売ってみるといい。君がいつもと同じだけ売り上げたら、うちはその値段で売ることにするよ」 その口調は厳しくキッパリとしていた。

「・・・・」 私に言い返す言葉は無かった。

お客様が引っ切り無しに出入する店頭にも関わらず、情けなくて不覚にも涙がこぼれて来た。

 

セールスの原点と言うかその基本や厳しさを教えられたのだ。

私は豊島区を担当した時代、近くを通る度に、必ずこの巣鴨萬盛堂に立ち寄った。

そして、徐々にメーカー側の立場として話す私の要望も聞き入れてもらえるようになった。

「電車でおいでよ」と言われ、近くの古い焼き鳥屋でご馳走になったこともあった。

勇気を出し、ノコノコと現れたドン臭い不器用なメーカーのセールスを店主は評価してくれていた。

今回、久しぶりに巣鴨地蔵通り商店街を訪れたが、巣鴨萬盛堂薬局は3店舗に増えていた。

また、その周辺の小売店は便利さを売りにするコンビニに変り、当時いつもお茶をご馳走になった個人経営の雑貨屋はお年寄りが好む趣味の店として生き残っていた。見るからに老舗のボンボンという風貌だった旦那さんは亡くなり、いつもお茶を入れてくれた高齢の奥さんが私の再訪を喜んでくれた。

原点を顧みることの大切さを感じた小さな旅だった。


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2015年7月15日~18日、ARU(オーストラリア・ラグビー協会)スタッフによる2019年ラグビーW杯キャンプ地視察が実施された。視察最終日の18日には、視察への感謝の気持ちとして、ARUスタッフによる地元の少年少女向けのコーチング・プログラム(トレーニング講習会)が開催された。

キャンプ地として決まれば、地元少年少女のために、ワラビーズによるこのような夢のコーチングが実現するに違いない・・・ そんな期待感が私にも地元のラグビー関係者にもあった。

 

現地到着後、県ラグビー協会の心温まる歓迎会が催され、ARUスタッフたちは、ラグビー仲間のフレンドリーな "おもてなし" にポジティブな気持ちになったはずだ。

そして、翌朝は知事表敬、表敬の証として、ARUからオーストラリア代表メンバー(ワラビーズ)のサイン入り公式ジャージ(額入)が贈られた。今も知事室の壁に飾られているのを期待したいが・・・

知事表敬終了後、視察は県北から県南までくまなく行われた。それまでやり取りをして来た県庁の若手職員(3名)がその視察の案内役だった。オーストラリアでは、よく "well organized" という言葉が使われるが、綿密に準備された案内だった。直接担当ではない管理職の後輩君も帯同してくれた。

視察には県が専用バスを用意してくれたため、道中、日本語を理解出来ないARUスタッフの前で、私は忌憚なく堂々と若手職員や後輩君と会話をすることが出来た。

「やはり、最終的には、キャンプ地側が何をしてくれるかが決め手になると思うよ」

ARUスタッフたちは、日本中どこをキャンプ地にしても、スポーツ施設は整備され、リラックス出来る環境(保養スポット他)もあり、美味しい食事にもありつけるのを知っている。となれば、結局、彼らの思惑は、何をどれだけサポートしてくれるか?を具体的に引き出すことになるに違いない。

 

「県としては来るなら面倒を見ますが、例えば金の掛かるサポートなどは一切出来ませんので・・・」

県庁の方針にストレートで杓子定規な管理職・後輩君の言葉に、「おいおい、天下のワラビーズを呼ぼうとしているんじゃないの !?」と喉まで出掛かったが、私はその言葉を飲み込んだ。

彼の言葉にはワールドラグビーや日本協会の方針があるのかもしれないと考えたからだ。

ただ、直接担当では無いものの、キャンプ地招致計画のサポートを私に依頼した張本人である後輩君の「来るなら面倒みますよ」という上から目線の言葉に、私のワクワク感は消えた。

そして、その後の視察は、私にはまるで県内の地理や歴史(名所旧跡)の視察のようだった。

もとより、県庁の方針から、この視察自体、私の運営するNPO法人が6名分の交通費や宿泊費を全額負担し、ARU側が自主的に視察をするという位置付けで行われた視察だった。

だから、私は自由にものが言えるのだが・・・

後輩君の言葉を、私はARUスタッフたちに伝えることはなかった。

 

今年の9月下旬にワラビーズのキャンプ地は小田原市に決定した。

ネットの情報には「"ヒルトン小田原リゾート・ホテル"が滞在費を云々・・・」と書かれていた記憶がある。それが確かな情報かは不明だが、なるほど「来るなら面倒見ましょう」では、無理なのは明白だった。

 

話は視察に戻るが・・・

県内各地を訪問し、その場所場所で市長や担当者と話す内に、私は若手職員たちのキャンプ地招致に対する本気度が増しているのを感じた。

それは、ARUスタッフたちの真剣且つ真摯な態度や真面目な姿勢が影響していたはずだ。そこに、若手職員たちの熱意が相まって、同じ目標を目指すチームワーク(友情)のようなものが芽生えていた。

主な視察を終えた晩、若手職員たちの所属する総合政策部の部長が、オフィシャルではなくプライベートなパーティー(お疲れさん会)を開いてくれた。実に楽しく、和やかなパーティーだった。

 

視察最終日には、キャンプ候補地の一つである市の少年少女のために、ARUスタッフたちによるコーチング・プログラムが開催された。ARUスタッフたちのこの視察への感謝の気持ちは強く、オーストラリアではあり得ない砂や泥のグラウンドにも何のこだわりも無く、一生懸命な指導が行われた。

自らデモンストレーターを買って出たARUスタッフの泥だらけの膝からは血が流れていたほどだ。

訪問した先々でTVクルーや新聞記者が待ち構え、視察やセミナーの様子が撮影され、新聞記者の取材も多く行われた。視察の様子は地方向けのニュース枠や県内向けのケーブルTVで放映され、その記事も大手新聞の県内版や地元の新聞紙面で紹介されたようだ。

ただ、残念ながら、私に映像や新聞記事は届いていない。もちろん、ARUにも届いていない訳で、折角のARUへのアピールのチャンスを失ってしまった。

県庁の管理職である後輩君から視察に関する感謝(?)のメールが届いたが・・・

ワラビーズのキャンプ地になるかならないかは別として、テレビや新聞で我々が努力しているのを県民に知ってもらえたことは大きな成果です。今後ともご協力のほど、よろしくお願いします。

長年"県庁さん"を続けて来た定年間近の管理職である後輩君にとって 「お!、県庁頑張ってるじゃないか」と県民から評価されること・・・ もしかすると、最初から、そんな風に "やってる感" を評価されることが目的だったのではないだろうか? 私にはそう思えてならなかった。

TVや新聞で大きな話題になっていることをARUにアピールしようともしない招致委員会や県庁自体が、その程度の姿勢だったのかもしれない。

 

それでも、県庁の若手職員たちの一生懸命な姿勢に応えるべく、私はオーストラリアに戻ってからも、ARUはもちろん、オーストラリアの全スポーツを取り仕切るキャンベラのASC(スポーツ委員会)やAIS(オーストラリア国立スポーツ研究所)を訪問し、彼らが作成したパンフレットや視察の際に撮影した写真を基に私が作成した視察レポートを手渡し、可能な限り、主要な人物への説明も忘れなかった。
因みにシドニー/キャンベラ間は片道300kmである。

視察直後から翌年の年度末ぐらいまで、若手職員とのメールによるやり取りは続いたが・・・

その中で最も熱心だった職員から「担当部署が農政部に変り、今後この仕事には携われなくなりました。残念です・・・」というメールが届いた。彼は若手職員3名の中で最年少と思われ、ミーティングなどでもほとんど口を出さなかったが、私が関係者全員に状況報告をする度に、必ず近況や彼個人の意見を添えた丁寧な返信があった。ある意味、彼が移動前に送って来た「ホストタウン構想」があったからこそ、私はモチベーションを持ち続けられたのだ。

新年度になってからは、誰からも一切経過報告は無かった。

 

2016年12月21日、12時11分、地元の友人から、突然新聞記事のコピーがSNSで送られて来た。

記事の見出しには「XX県、ラグビーW杯、キャンプ地県内招致断念」と書かれ、視察したARU側の決定を待たずに県が断念するという内容だった。記事にはその断念の理由も書かれていたが、「サッカーJ3チームのトレーニング・スケジュールと重なり、スタジアムが確保できないため」ということだった。

その事情が県や住民にとってどれほど重大なことなのか私には分からないが・・・

そもそも、ラグビーW杯で2度の優勝経験のあるワラビーズがどのようなチームなのかを理解してから、招致などと言い出すべきだったのではないだろうか。

ともあれ、キャンプ地招致断念は、様々な事情があっての決断と思われ、仕方の無いことだろう。

ただ、ARUスタッフを含む私達は、経費や時間を工面して視察を実施し、その後オーストラリアに戻ってからも、招致に向けた働き掛けのボランティアを続けていたのだ。

友人から新聞記事の届いた15分後、リーダーである若手職員から8ヶ月ぶりにメールが届いた。

断念に至った簡単な経緯が書かれ、「東京オリンピック・パラリンピックについては、積極的に取り組んで参ります。またお会いできる機会がございましたら、その際は何卒よろしくお願い申し上げます」と締め括られていた。上からの流れに乗らなければならない彼も悔しいのかもしれないが・・・

ただ、突然梯子を外された私は、ずっとオーストラリアで招致に向けたボランティア活動を続けていたのに、それに対する労いの言葉も今後の対処についても何も記されていなかった。

我々が断念した以上、後処理はご自分で・・・

私は、それが "県庁さんの常識" なのかと思うしかなかった。

 

梯子を外され、やり場の無い私は、長期間、何も知らされずに招致に関するボランティア活動を継続していたことへの虚しさや今後のオーストラリア側への対処の難しさなどを書き連ね、私に招致のサポートを依頼した後輩君にメールを送り、何らかの説明を求めようとした。

"やってる感" のメール以来、後輩君からも一度も連絡は無かったが、直ぐに短い返信が届いた。

 

御無沙汰しておりました。

昨日の新聞に記事があり、「あれ?」と思いましたが、仕方のないところです。

それはさておき、加藤さんに節目ごとに経過報告をしていなかったということは、まったく遺憾です。

身内のことですから、重ね重ねお詫びいたします。

担当には前にも一度注意しておいたのですが、懲りていないようなので、近々上役に「信頼関係が損ねて何ができる」と厳重に抗議しておきます。

以上、取り急ぎ

 

その後、県庁の誰からも連絡はない。

私はこの視察に関係した全員宛に、「知事表敬で、県に贈らせて頂いた貴重なワラビーズ・ジャージが、埃を被り県庁の倉庫に置かれているようなことだけは無いようにしていただきたい」とメールを送った。


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「県庁おもてなし課」という映画を観た。

朝ドラを2時間に縮めたような作品だが、数年前の私の実体験と重なり、ちょっぴり笑える映画だった。

2015年、県庁に勤務するラグビー部の後輩からメールが届いた。

「2019年ラグビーワールドカップ、2020年東京オリンピック開催に向け、オーストラリア代表の事前キャンプ地誘致」に関する協力依頼と問い合せだった。

端的に用件だけが書かれた文面に、先輩後輩の御無沙汰の意は一切感じられず、その面白みの無い文面から、長年県庁で働いた男の"遊び心"の無さが感じられた。

ともあれ、長年オーストラリアのスポーツ界に関りを持ってきた私は、後輩からの協力要請をそっけなく断るようなことはしない。

 

セミナー開催のため、私は毎年3月に訪日するが、その開催に合わせて県庁を訪問、総合政策部総合企画課を訪ね、部長を筆頭に課長、担当者数名から、事前キャンプ地誘致に関する説明を聴いた。

このプロジェクトを担当する数名の若手職員は選り抜きの精鋭に違いないが、リーダーは大手旅行代理店からの出向職員であり、大きなイベントの開催に向け、抜かりのないタイアップの実態を垣間見た。

私をそんな職員たちに結び付けた後輩も、オブザーバーとしてこのミーティングに参加した。

海の物とも山の物ともつかない案件に、案の定、後輩を含め若手職員たちの説明を聴きながら、ワクワクするような感覚が湧き上がって来ることはなかった。

映画「県庁おもてなし課」は、正にあの日、私が県庁で感じたままを再現するような作品だった。

物語には、過去に突拍子も無い企画を提案し、県庁の誰からも相手にされず、結局県庁を去る元県庁職員が登場するが・・・ それと同じ企画を他県が採用し、その大成功が日本中から脚光を浴びる。

片や、その企画に目を背けたこの県は可もなく不可も無く、職員には気概も無く、気が付けば、何年も時は過ぎ、そんな企画の提案があったことすら知る職員はいなくなっている。

退庁した元県庁職員は、退庁後に独立、民宿経営の傍ら、観光大使のような仕事を続けている。

 

日本とオーストラリア、観光とラグビーという違いはあれど、突拍子も無い企画の提案者として県庁の誰からも相手にされなかった元職員が持ち続けた信念は私に通じるものであり、そして、彼の言葉はあの県庁でのミーティングで私が言いたかったそのままだった。

「自分が感動せんで、誰が感動するんじゃ !?」

「自分が好きにならんで、どうやって好きにさせるんじゃ !?」

任された一定の仕事をこなせば任務の終わる職員が感じる達成感や満足感・・・

「そんなもの、県民置き去りの単なる自己満足じゃ!」と彼なら言うだろうが、波風立てず、問題を起こさず、退庁の時を迎えるのが "出来る県庁さん"・・・ 以前どこかでそんな言葉を聴いたことがあった。

現在も含め、人生の4分の3を県外で暮らす私に何の不都合も権利も無いが、言うことだけは言った。

「英文の小冊子を作成しましたので、オーストラリアのスポーツ関係者に配っていただけますか」

私は手渡された小冊子のページを捲った。

精鋭たちが一生懸命作成した小冊子、彼らの並々ならぬ努力は私にも理解できる。

コーチやアスリートたちが最も興味を持つはずのスポーツ関連施設は、「FACILITIES General Sports Zone」として、イラストで未来予想図が掲載されている。

「この施設は、いつ頃完成予定ですか?」

「平成31年の完成を目指していますが、たぶん、7年後の国体開催までには確実に・・・」

「では、4年後のラグビーワールドカップには間に合わない可能性があるということですか?」

「・・・」

「そのような不確定な状況で事前キャンプ地誘致を目指されているのですか?」

「・・・」

「サッカーJ2のチームが使っているフィールドがありますので、そこを借りれば・・・」

職員たちの苦し紛れの返答に、正直、私自身どう対応すれば良いか困ってしまった。

取りあえず、私は1年早く開催されるラグビーW杯のキャンプ地誘致に絞って考えることにした。

初回ミーティングの結論として、私は「代表コーチや選手に影響力を持つARU(オーストラリア・ラグビー協会)の然るべきスタッフに現地視察をさせてしまうのが一番手っ取り速い!」と職員たちに提案した。

正直、キャンプ地選定には時期尚早の感があり、ARUに対する何の方策も確証も持っていなかったが、動き出さなければ何も進みそうにない職員たちを鼓舞するつもりでそのような提案を投げ掛けた。

「本当にそんなことが出来るんだったら素晴らしいと思いますが、ただ・・・」

「県庁として出せる予算が限られていると思いますので・・・」

「滞在費も交通費も出ないと思いますが・・・」

思いますが、思いますが、思いますが・・・ のオンパレード。

「キャンプ地誘致」という大きなアドバルーンを揚げたのは良いが、それを進める彼らに欠けているのは、夢であり、それを楽しむ遊び心であり、そして、俺たちが県を動かしてみよう!という意欲であろう。

 

「我々は仕事をしている」という証として小冊子を作り、そこに紹介されているのは完成予定も確定していない未来予想図。それを配って欲しいと言うが、オーストラリアのスポーツ関係者と言うだけで、どのスポーツ関連機関のどのレベルの誰にどれだけ配布するかという計画も下調べも無い。

置いておくだけで、また、渡しただけで読んでくれるほど、オーストラリア人は甘くない。

日本人はよく名刺を配るが、会議が終わった後に、その多くが机の上に置かれたままになっている光景をよく目にする。彼らにとって大切なのは、会社でも肩書でもなく、その人本人なのだ。

「予想で描かれた小冊子なんて!」と思ったが、彼らの努力を考え、私はその言葉を飲み込んだ。

 

映画では、元職員の斬新なアイデアや厳しい言葉に若手職員たちが反応し、少しずつ変わっていく。

実際に現場に立ち、県民と語り合い、試行錯誤を重ねながらも、県民の求めるものに目を向けるようになる。また、若手職員たちの変化に伴って、上司の姿勢や職場の環境も少しずつ変化していく。

まあ、それは映画の脚色かもしれないが、私はそんな現実が実際にあって欲しいと願う。

 

何のために誘致するのか?

子供からお年寄りまで、誘致することにより県民が利することは?

そして、それによる経済効果は?

やはり、原点に立ち戻って動き出すことが大切なのだろう。

動き出した以上、私も真剣にならざるを得なかった。

ARUにW杯日本大会の事前キャンプ地について提案し、そのための視察を実現すること・・・

予算的な課題を克服するため、ARU主催のセミナー開催を企画、然るべきARUスタッフやコーチの帯同、通訳やサポート・スタッフの手配、スポンサーの発掘・・・ その他にも、日程の調整やセミナーの参加者募集、多岐に渡る手配や予約など様々な準備を開始しなければならなかった。

そして、その年の7月、ARU National Coach Development Managerを筆頭に、ARUハイパフォーマンス部門やコーチ教育部門のスタッフを帯同し、事前キャンプ地視察を実施することになった。  つづく


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日本から、この7月~8月に4人の留学生がオーストラリアを訪れた。

私自身はシドニーに住んでいるが、4人の留学先は約850km北のゴールドコーストである。

私のサポートの基本は、留学生に対し手取り足取り世話をしないことだ。それをすれば、留学の目的や醍醐味が半減してしまうからである。留学を開始する際の準備さえしっかりしておけば、彼らは自ら動き出そうとするし、自ら異文化に向き合い、それを自らつかみ取ろうとする。

もちろん、信頼出来るガーディアン(身元保証人/日本語の出来ないオーストラリア人)を彼らの身近(ゴールドコースト)に置き、オーストラリア人の視点や感覚で彼らを見守る体制は整えている。

ホームステイや語学学校、スポーツクラブ他のスタッフとのコミュニケーションもガーディアンに任せているが、それは留学生に対し可能な限り英語でアドバイス出来るよう考えてのことだ。加えて、例えばラグビーが留学の主目的ならラグビーに精通したガーディアンが望ましい。更に、私の最低条件は子供に対する溢れるような愛情を持つガーディアンでなければならない。
親友のグラント(QLDプレミアリーグBOND大学ラグビークラブ1軍ヘッドコーチ)は最高のガーディアンだ。

私は、留学生の様子をガーディアン "グラント" とのやり取りでほぼ完璧に理解できる。

 

一般的に言えば、日本人は自己主張の苦手な国民である。

片やオーストラリア人はその真逆の国民性を有している。基本は気楽でラブリー、陰口や悪口の類はほとんど無い。それでも、幼い頃から自己主張するのが当たり前に育つため、自己主張しない者への気遣い(思いやり)のようなものは期待しない方が良い。例えば、ホームステイで何も主張しなければ、何の問題も無く、全て満足して生活していると思われてしまう。更に" YES or NO" のハッキリした国民性がそれに輪を掛け、NOと言えない日本人は、黙ったまま「思いやりがない!」とか「冷たい!」などと思い込み、ストレスを溜めることはよくあるパターンである。

 

先日、ガーディアン "グラント" から留学生A君に関する連絡があった。

「夜になると毎日のようにどこかに出掛け、家に戻るのも遅いようだとホストファミリーから聞いたが・・・」

それは告げ口ではなく、純粋にA君を心配する連絡だった。

ラグビーと英語を学ぶ目的でオーストラリアにやって来た留学生A君(24歳)・・・

「死ぬ気で頑張ります!」という彼に、「もっと肩の力を抜いて、ラグビーやオーストラリアをエンジョイするような気持ちでやれば・・・」と声を掛けた。私自身、日本の体育会経験者であり、自分自身を鼓舞しようとする彼の気持ちはよく理解できる。しかし、30年間オーストラリアで暮らし、ラグビーや様々なスポーツをプレーした2人の息子を育てた私には、オーストラリアまで来て、日本を背負ったままラグビーをプレーして欲しくなかった。

 

グラントの連絡に、私は何の疑いも無く、パブやスポーツクラブにでも出掛けているのだろうと考えた。

24歳の彼にとって、それはそれで意義あることであり、ビール1杯でパブが無料の英会話教室に変わる。そして、それは30年前に私が実際に経験したことなのだ。33歳で移住、家族を守るため語学学校に通う時間や経済的な余裕は無く、仕事が終わった帰宅前のパブが私の恰好の英会話教室だった。

顔を出す度に同じ顔に出会う。毎日同じ席に座り、日課のように夕方のひと時をそこで楽しむ老人がいる。そのほとんどがスポーツや音楽好きなのだ。ビールをチビチビ飲みながら大画面でスポーツ観戦を楽しみ、週末には生バンドの演奏を楽しんでいる。そんな彼らは同じ匂いのする仲間を大切にし、決まって陽気でフレンドリーなのだ。勇気を出して挨拶をしてみる。次に会う時は「ヘイユー・ゴーイング・マイト」(How are you going mate? / 調子はどうだい?) てな具合になる。そうなればしめたものだ。

 

良いか悪いかは別にして、今はSNSで直ぐに連絡が出来る。

私は何の心配もしなかったが、今までサポートした留学生を思い出せば、留学の成功か否かは、規則正しい生活をするかしないかに懸かっているという信念があるため、グラントから聞いたままをA君に投げ掛けた。パブやスポーツバーに出掛けるのは反対しないが、規則正しい生活に支障を来たすことのないよう、以前の留学生の例なども書き添えた。A君からは直ぐに返信があった。

私の予想は外れ、アルコールは一滴も飲んでいないと言う。彼が言うには、食事に関する問題が・・・

それはホームステイでよく起こる問題であり、限られた予算から完璧な食事を出してもらうことは不可能に近い課題なのだ。ただ、問題ならやはり解決しなければならない。

私は、苦情としてではなく、どのような状況なのかをホストファミリーに打診したが、直ぐに返信があった。そして、その返信には写真も添付されていた。

A君は将来フィットネスに関わる仕事を目指している。英語の習得も最先端のラグビーやストレングス&コンディショニングを体験することも、彼は将来のための布石と捉えているようだ。彼にとって重要な項目の一つにニュートリション(栄養学)も含まれているようで、彼はファッティフードやファストフードを極力避けたいという思いがあったようだ。

そんなA君は脂肪を燃やすために歩き、時にはたんぱく質の補給に出掛けていたようだ。

 

24歳の大人の対応を求めるなら、事前に自分の事情を説明しておくべきだったろう。

それから、上手に自己主張すれば、ホストファミリーのママさんは何の問題も無く食事の内容を改善してくれていたと思うが・・・ やはりセンシティブな問題であり、このホストファミリーの日本人顔負けの "おもてなし" を考えれば、不用意に「自己主張すれば良かったのに・・・」 とは正直言えなかった。

朝晩の食事が基本なのに、毎日ではないにしても、語学学校で食べるランチボックスを持たせ、家から語学学校、ラグビーのトレーニングへの送迎もホストファミリーがしてくれているようだった。

ホストファミリーやグラント、そして私の心配は杞憂(取り越し苦労)だったようだが、A君のちょっとしたトラブルから私も学んだ出来事だった。

 

留学の後半戦、A君は自立の道を選択し、シェアハウスで自炊生活を開始した。

それは彼の自己主張であり、私はそんな彼を応援したい!

ガーディアン "グラント" はシェアメイト(OZ)にも直接会い、A君を見守り続けている。

オーストラリアでは15人制ラグビーシーズンが終了し、7sラグビーシーズンが開始されている。

大学時代に7s大会の代表メンバーとしてプレーしたA君の活躍の場であり、思う存分プレーし、この留学の証として何かをつかんで欲しいものだ!


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ウソのようなホントの話である。
結婚したての頃、私達夫婦は習志野に住み、私は妻と一緒に津田沼駅近くにある少林寺拳法の道場に通ったことがあった。まだ、会社のラグビー部で現役を続けていた頃で、なぜ通ったのか? 私には一切記憶が無く、妻も覚えていない。それでも、半年間ほど2人で通った記憶は残っている。

天地拳・調息法・鶴立拳など、古く少林寺から伝えられたという作法?(鍛錬法?)を習った記憶はかすかに体が覚えているが、35年前の確かな記憶は、正直、妻も私も師範代の所作の美しさやカッコ良さ、そして、拳を打つ時に出る"ヒュッ"という音への感動や憧れだけなのだ。

つい先日、FOX World Moviesで 「Birth of the Dragon」 という映画を観る機会があった。

2016年に製作され、今年日本で公開されたようだが、あのブルース・リーがメジャーになる以前、1960年代半ばのサンフランシスコでの苦難の時代を描いた実話(?)という想定のようだ。ブルース・リー役のフィリップ・ンが登場する場面で、「Nine years before Enter the Dragon (燃えよドラゴンの9年前)」 というサブタイトル(字幕)が出る。私の世代から更に20年ほど遡(さかのぼ)った世代までなら、このサブタイトルを読んだ瞬間、きっとこの映画を観てみたいと思うに違いない。

それにしても、43年の時を経て、どうしてブルース・リーを描いた映画が製作されたのだろう?

ストーリーの展開は、正直、実話というよりフィクションに近いのかもしれないが・・・

顔や物腰が、伏見工業(現京都工学院)ラグビー部の高崎監督と桐蔭学園ラグビー部の藤原監督(日体大コンビ)を足して2で割ったように思えてならない少林寺の修行僧ウォン。

映画は、彼が少林寺の流派間で闘う場面(立会い評価法/少林寺拳法では試合をそう呼ぶらしい)から始まるが、この闘いに勝ったウォンは、この時点で少林寺を代表するカンフーの達人となる。このシーンは、あの「燃えよドラゴン」の最初のシーンをイメージして脚本が描かれたに違いない。

本家少林寺の評価法(競技会)を勝ち抜いたウォンはサンフランシスコに派遣される訳だが・・・

その頃ブルース・リーは武道家としても映画俳優としても上手く行っていなかったようで、中国発祥の武術を中国系以外のコーケイジャン(白人に対する呼称)にまで広めようとしていたことから、彼は言わば裏切り者として中国系コミュニティから反感を持たれていたようだ。

ウォンは、その現状を視察し、状況次第では刺客という立場でサンフランシスコに派遣された訳で、ブルース・リーは、本家少林寺の伝統や精神を尊重するウォンの来訪に危機感を抱き、 闘いを挑む。

その2人の狭間にアメリカ人青年が登場する。彼は元々ブルース・リーの弟子だったが、少林寺の修行僧ウォンの清廉な心やカンフーの神髄・精神に惹かれブルース・リーの元を去る。

 

一匹狼のブルース・リーの境遇に、どこか私が辿った昔日のおもかげを感じたが・・・

私がシドニーで今の会社を起業した後、同じような会社がまるで雨後の竹の子のように誕生し、仕事の邪魔をされたり、横槍を入れられたりすることもあった。また、日本の有名なラグビー関係者や大手旅行代理店が後押しする会社も現れた。今、そのような会社は一切生き残っていない。

カンフーの人気が出始めた時代のアメリカにも様々な流派や道場が乱立したに違いない。政治やマフィア、ビッグネームの介入もあったことだろう。その渦中で、きっとブルース・リーはモガいていたはずだ。

可愛がっていた弟子や親しかった友人が、例え一人でも離れて行く時の寂しさ、ビッグな競争相手が現れた時の不安・・・ 正直、私はそんなブルース・リーの立場に共感したいと思いを馳せたのだが・・・

この映画にはそんな繊細な人間模様は描かれていない。結局、アクロバティックなカンフーの闘いがメインの娯楽映画に仕上げられていることが残念でならない。

私の高校時代(1973年)に公開された「燃えよドラゴン」は、カンフー映画の最高傑作であろう。

観終わった後に、誰もがちょっと斜めに顎(あご)を上げて、「どこからでも掛かってこいや」と言わんばかりの顔で映画館から出てくるのが愉快だった。もちろん、私もそんな一人だったのだが。

その1、2年後の大学時代、新宿でケンカに巻き込まれたことがあり、その場で私は完全にブルース・リーになり切っていた。今にして思えば、若さ故とは言え馬鹿な行為であり、反省しきりであるが、あの頃は諸先輩方の武勇伝なども耳にし、田舎者の私はさぞイキがっていたに違いない。

この後に続く「仁義なき戦い」シリーズで、私は更にイキがって映画館を出るようになるのだが・・・

そのイキがる気持ちを日々の練習や試合に活かすことができていれば、もっといい選手になっていたことだろうが、今更悔やんでもあの時代には戻れない。

 

ブルース・リーは、1970年に公開された「ドラゴン危機一髪」の大ヒットで一躍大スターへと駆け上がり、「ドラゴン怒りの鉄拳」 「ドラゴンへの道」とヒットが続き、1973年の「燃えよドラゴン」で世界的大スターの地位を揺るぎないものにする。しかし、「燃えよドラゴン」の空前の大ヒットを知らないまま、その年の7月に彼はこの世を去ってしまう。死因は謎に包まれたままのようだ。

最後をどう締め括ればよいか迷っていたが・・・

私の部屋の壁には学生時代の写真が一枚だけ飾られている。

引き締まった筋肉質の足、手は指先まで神経を尖らせ、目は正面を見据え、そして闘う顔をしている。

私にも「ドラゴン」のような時代があったのだという証として、その魂はいつまでも残していたい。

 


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仕事のために年に何度かゴールドコーストを訪れるが、車で往復することが多い。

我が家からTweed Head/NSW(ニューサウスウェールズ)州とQLD(クイーンズランド)州のボーダー(州境)までは約850km。航空機を使えば、我が家からシドニー空港までは1時間、手続きや待ち時間/シドニー空港からゴールドコースト空港までのフライトで更に2時間、合計で3時間ほど掛かる。

車で行けばその3倍の時間は掛かるが、私はこの長距離ドライブを結構気に入っている。

まあ、残念なことと言えば、日本と異なり「道の駅」のようなレストエリアが無いことだ。長いドライブなので出来るだけ休憩を取るようにしているが、精々あるのは「マック」か「KFC」ぐらい。その地方(町)独特の料理や産物を提供する店は無いに等しい。

それでも、私のお気に入りが一ヶ所だけある。美しいバイロンベイ近くにあるマカダミア城。

*写真はマカダミア城近辺の高台からバイロンベイを写したもの
この一帯はマカダミアナッツの産地で、マカダミア城は40年の歴史を持つドライブインのようなレストエリアである。旧パシフィックハイウェイ沿いにあるため、新ハイウェイの完成後は、その存在を知らなければスルーしてしまう。私はゴールドコーストからの帰り道に必ず立ち寄り、バイロンベイコーヒーとボリュームたっぷりのパンケーキ(朝食)を楽しみ、ローストしたマカダミアナッツ(ハニー味、わさび味、ガーリック味他)を購入してからシドニーに向かう。

さて、今回もドライブ中に幾度となくレストエリアに立ち寄ったが、至る所に「LITTER!」という立て看板を見掛けた。「Report Littering from Vehicles」と書かれているが、簡単に言えば「車からのゴミのポイ捨てを知らせてください」ということだろう。

「Don't be a Tosser Campaign !」と言われるこのキャンペーン、「Tosser」を直訳すれば「トスする人、放り投げる人」なのだろうが、俗語に「馬鹿なやつ、ろくでなし、嫌なやつ」という意味もある。

「ろくでなしになるな!キャンペーン」の方がどこか説得力がある。

偶然ポイ捨てに遭遇したり発見してから14時間以内に車のナンバーや場所・時間他を所定の連絡先に報告すると、通報された者には最低A$250(2万4千円ほど)の罰金が科せられるようだ。

キャンペーンの概要では、「Hey Tosser !」と声を掛けるアプローチから開始し、ゴミを捨てた者に個人の責任を理解させることや会話の中で言い訳や反論を引き出すことも勧めている。
日本なら、そんなことをすれば、レストエリアを出発した途端、"煽り運転"の目に遇いそうだが・・・

マック・カフェで休憩しながら、何気なくテーブル前の立て看板を眺めていたが・・・

ふと、「日本でもこのようなキャンペーンって行われているのだろうか?」と考えた。

ここ数年、日本を旅する際にレンタカーを利用することが多い。

日本の運転免許証は随分前に失効してしまい、私は国際免許で運転している。

ドライブ中、「道の駅」が見えてくると必ず立ち寄ってしまうのだが、このような告知を見掛けたことは無いし、レンタカーを借りる際にスタッフから注意されたことも無い。

立て看板の内容を読みながら、ドライバーのマナーという観点から考えれば、周囲が目を光らせることはとても重要なことかもしれないなぁと思えて来た。

 

昨日のニュースで、藤沢市が海や海岸のゴミを集め、それをモニュメントにして展示し、訪れた人にクリーンな町づくりをアピールする試みが伝えられていたが、きっと人の良心に訴えることで効果を狙っているのだろう。片やオーストラリアでは、「ゴミを捨てる者を絶たなければ効果は望めない !」という視点から、もっと直接的にコミュニケーションや通報を奨励している。

物事を荒立てることや密告などを嫌う(悪く言えば事なかれ主義ともいえる)日本人の国民性、良いことは良い、悪いことは悪いとキッパリ発信するオーストラリア人の国民性、そんな国民性の違いから、オーストラリアではこのようなキャンペーンが成り立つのかもしれない。

賛否両論、どちらが正しいとは言えないが・・・

そろそろ日本人も誰かがやってくれるという第三者的な目(参画)ではなく、自分の健全な生活を守ることにもっと積極的に足を踏み入れるべきではないだろうか?クリーンで健全な生活を守るために警察や交通局に通報するのは、密告でも"チクリ"でも無く、そこで生活する者の当たり前の権利と言うか義務ではないだろうか?

幸いにも、今のところ日本でゴミのポイ捨てなどを目撃する機会は無いが、例えば北海道の真っ直ぐな道を制限速度の50kmで走行していると、パッシングされたり幅寄せをされることはある。元々、パッシングには「先に行きたいから道を譲って欲しい」という意味があるそうだが、決してそのようなソフトさは感じられない。もちろん、私は「どうぞ追い越して下さい」という姿勢を貫いている。

日本では "煽り運転" が社会問題になっているようで、大きな事故に繋がったケースも耳にする。

日本では、電話機能が搭載された車も多いと思われ、また、助手席の者が警察に通報することも出来るのではないか?と考えるのだが・・・

 

日本を旅する際、私達の借りるレンタカーにカメラが搭載されている訳も無く、何かの場合に助手席の妻が動画を残す意識を共有している。言ってみれば自分達の安全を守る準備のようなものだ。

幸いにも、そのようなケースには遭っていない。

とにかく、私自身が「ろくでなしになるな!キャンペーン」を心掛けたいものだ。


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先週、土曜朝7時のNHKニュースおはよう日本で、"築地の魂次世代に 市場移転前に町が団結"という特集が放送された。築地(場内)の豊洲への移転を前に、場外の店主たちが築地の祭りを次世代に引き継ごうと努力する姿が特集されていた。*簡単に説明すれば、場内はプロの買い付け人向けの卸が並び、場外は一般向けの小売店やレストランが軒を連ねている。

訪日の際、私は必ずと言っていいほど、築地界隈に1泊して空港に向かう。成田からの出発なら、上野まで地下鉄日比谷線で近いし、羽田の出発も東銀座から1本、その便利さもあって、日本での仕事を終え、出発の前日に築地に1泊するのが楽しみになっている。

銀座から歩けるのに、探せばリーズナブルなビジネスホテルもあり、シドニーへの土産はほとんど築地で買い揃えることにしている。もちろん、贅沢品を買う訳ではなく、定番は"さつまあげ"、"かまぼこ"、"しらす"、"煮魚パック"、"煮豆"、"サバの干物"など、我が家の食卓のおかずばかり。最近は築地でも、サバの干物はノルウェー産やフィンランド産が多くなったが、それでも日本向けに加工されたものと思えば、シドニーで手に入るものとは、味のランクが違う。

 

それと築地の楽しみは、何と言っても朝早く土産を買い揃えながら食べる朝食である。

慶大ラグビー部元監督の故上田さんは、ブログによく築地の寿司屋で食べる朝食をアップされていたが、私のお気に入りは、おにぎり屋なのだ。小さな店だが、6、7人のおばちゃんたちが朝早くから握っているおにぎりは絶品であり、上質の米とたっぷり入った具が私の早朝の空腹を満たしてくれる。

絶対外せないのは"親子" 、焼き鮭とイクラがたっぷり入って238円・・・

ほお張った瞬間、必ず「きのうは、やっぱり締めのラーメンを我慢して良かったぁ!」と思う。

それと、素通りできないのが、そのおにぎり屋から20mほど離れた玉子焼きの「山長」、鰹だしのたっぷり効いた1串100円の玉子焼きにありつくため、私は例え行列が出来ていても、大人しく並ぶ。

 

かつて、土産を買うために必ず立ち寄る店があった。

甘さ控えめの大福を売る「築地ひさまつ」、この店を訪れる度に、私は、塩大福(こしあん)30個、よもぎ大福20個、ごま大福20個、と大量に購入する。それをシドニーの持ち帰り、冷凍し、それが約半年間のお茶菓子になる。それがシドニーで暮らす中年夫婦のささやかな楽しみなのだ。

冷凍しても、半年経っても、モチモチ感や味は変わらない。

確か2度目にその店を訪れた時だった。

「おじさん、冷凍のやつくれる」

「前にもいっぱい買ってくれたよな、そんなにどこに持って行くんだい?」

「オーストラリア・・・ 女房がここのこしあんが大好きなもんで」

おじさんはお茶を出してくれ、何個かおまけしてくれた。

次に訪れたのは確か夏の暑い日、「おじさん、暑いから体に気を付けなよ」と言うと、「俺、あんまり調子良くねーんだよ!あそこにちょっと入院してたんだ」 指差した先は築地の癌研のビルディングだった。

私の訪日は半年に一度ぐらいだが、次に立ち寄った際には店が閉まっていた。

「今日は休みなのかなぁ?」 「おじさんの体調が良くないのかなぁ?」 「待てよ、閉店しちゃったのかなぁ?」 などと思いながら、「築地ひさまつ」の看板の前を通り過ぎることが続いたが・・・

何度目かに、見知らぬおばさんがこの店の開店の準備をしていたので、「あれ、おじさんは?」と尋ねると、おばさんは沈んだ声で「実は、主人はつい先日亡くなったんです・・・」と言った。

言葉に詰まっていた私に、「私、主人から聞いてましたよ。オーストラリアに住んでるお客さんが、いつもたくさん買ってくれるんだって・・・」 「 お客さんだったんですねぇ・・・」

単なる通りすがりの客である私をおじさんは覚えていてくれた。そして、おじさんは私のことを奥さんにまで話してくれていた。それだけで私は泣きそうだったが・・・

おばさんがお茶を出してくれた。毎日一人で重い大福を運び入れ、一人で販売し、一人で片付けもする、それは女性には重労働であり、考えるだけで大変そうだった。決して贅沢な暮らしをしているとは思えなかったし、以前おじさんから、埼玉か千葉から毎日朝早く通っているんだよと聞いた記憶があった。

もちろん、私は店主がおばさんに変わっても、訪日の度に土産としてこの大福を大量に買い続け、その度にシドニーで私の帰りを待つ女房を喜ばせた。

 

いつも私が買いに行くのは朝早く、おばさんが懸命に開店の準備をしている頃で、まだ一般客は少ない時間帯だった。店先でお茶をご馳走になっていると、隣のシュウマイ屋のおじさんが必ず顔を出し、気さくに話し掛けてくる。おばさんの話では、重い荷物を運びこんだり、男手が必要な時にはいつもこのおじさんが快く手伝ってくれるそうだ。

それは、きっと「築地の人情」っていうやつなんだろう。

それからも半年に一度は大福を買うためにおばさんの「ひさまつ」に寄ったが、その度に隣のおじさんと話し込み、いつの間にか、おじさんは私を「加藤さん」と呼ぶようになった。

私はこのおじさんに自分の名前を名乗った記憶は無かった。話してみると、おじさんの親族に早稲田実業のラグビー部員がいて、おじさんは随分昔から早大ラグビー部を応援しているということだった。

「フォワードの加藤さんだろ。加藤さんは確か主将をした橋本や金澤と同じ頃だったよね」

確かに橋本も金澤も同じ時代にプレーした仲間であり、2人は1年違いの主将、共に早実の出身だった。

正直その言葉には驚いたが、悪いことは出来ないものだと思った。

 

つい2年ほど前、大福屋の「築地ひさまつ」は、突然閉店してしまった。

隣のシュウマイ屋のおじさんの話では、ひさまつのおばさんは一生懸命一人で切り盛りしていたけれど、厳しい仕事が祟って腰を悪くし、仕事を続けるのを諦めたということだった。

今も築地を訪れる度に、必ずその前を通るが、もうそこに「築地ひさまつ」の看板は無い。

それでも、シュウマイ屋のおじさんが人懐こい笑顔で私を見掛けると喜んでくれる。

「オーストラリアは肉類の持ち込みが禁止されてるから、シュウマイは持って帰れないんだよ」

「そんなことはどうでもいいから、1個食べなよ」と言って、ホカホカのジャンボ・シュウマイをご馳走してくれる。私も「セミナーで使った残りなんだけど・・・」と言ってワラビーズのラグビーキャップを渡す。

 

NHKの築地特集では、先祖代々大切に保管されてきた神輿(みこし)を築地場外で働く人たちが代わるがわる担ぎ、場内外を練り歩く映像が映し出されていた。法被(はっぴ)姿の勇壮な男たちに混じって近隣ホテルの女性スタッフも制服のまま神輿を担ぎ、その誰もが肩を寄せ合い、この祭りの目的だった団結しようという心意気が画面から伝わって来るようだった。

築地の祭りは大成功に終わるが、企画の段階から準備、実施まで中心となり奔走した確か点心を売る店の店主の涙は実に感動的だった。

彼は「築地の魅力は"人情"」と言っていた。

 

日本を出発する前に築地に寄り始めてから10年を超える。

2010年にたまたま購入し、私の部屋の本棚に置かれていた"大人の週末"という雑誌を久しぶりで開いてみたが、なんとそこに「築地ひさまつ」の紹介が載っていた。たぶん、お金を払って載せてもらった広告に違いないが、その小さな写真の中にあのおじさんが映っていた。

人情とは、「人の持つありのままの心」とか「人に対する思いやり」を意味するが、築地の人情には、「食に対する心意気」というか、食に対する「粋(いき)」や「粋(すい)」が感じられる。

これみよがしの主張はせず、そこには本物を扱う自信というか、まずは黙って食ってみなよ!というような "さっぱりした気立て" のようなものをいつも私は感じるのだ。

時代が変わり、外国人観光客が団体で押し寄せ、ピーク時には普通に歩くこともままならないテーマパークのような築地場外、そんな中にも築地の魂を残そうとする人たちがいる。

そんな彼らが私を「次回も築地に行こう!」という気持ちにさせるのだ。


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日本ではカジノを含むIR (Integrated Resort/総合型リゾート)法案が取り沙汰されているが・・・

私の住むオーストラリアは、カジノはあるし、世界でもギャンブル(賭け事)の盛んな国の一つと言える。

ほとんどのスポーツがベット(賭け)の対象となっており、一般向けのTV番組の合間に、「スポーツベット」の愉快なコマーシャルが普通に登場する。

もちろん、ラグビーもその対象であり、勝敗だけでなく、「最初にトライする選手は誰か」「最初のトライはキックオフから何分以内か」等々、ベットの細かいカテゴリーがあるようだ。

それがスマホで簡単にベット出来るのはアナログ世代の私には驚きである。

 

スーパーラグビー「サンウルブズVワラタス」戦が、先週末シドニー・フットボールスタジアムで開催されたが、息子から「最初のトライ、アキに5ドルベットするよ!」と電話があった。

サンウルブズやジャパンの代表として活躍するアキこと山田選手、慶大時代を含め2度のラグビー留学の際に、ガーディアン(身元保証人)を担った縁から、彼は私達家族の一員となり、同世代の息子達とは兄弟のような関係を保っている。

今回もシドニー到着後に直ぐ連絡をくれ、息子達とはトレーニングやミーティングの合間にカフェで再会を果たしたようだ。サンウルブズは惨敗だったが、その中でアキは2トライの活躍、それもあのワラビーズの正FBファラオを抜き去ってのトライは、彼の世界レベルを証明するトライだった。その結果、彼は先週のスパーラグビー・ベスト15に選出された。ただ、残念だったのは、彼のトライはその試合の2番目だったため、息子はベットに勝てなかったはずだ。もちろん、そのベットに勝っても負けても、私達家族がアキの活躍を願ったことに変わりはなく、オーストラリアではこんなベットが家族の楽しみの一つなのだ。

 

「ギャンブル等依存症対策基本法案」の概要が政府のウェブにPDFで記載されているが、その文章からは、どのような対策がなされるのか?具体的対策の内容が私には見えて来ない。

今週月曜日の新聞記事に、元関脇「貴闘力」親方のインタビュー記事が記載されていた。

彼自身、ギャンブルで今までに5億円は負けたという。また、自殺者も何人か知っているという。

「お金を稼ぐ云々よりもギャンブルそのものが目的となる」 「入場制限があっても依存症対策にはならない」 「韓国人が入場できない韓国のカジノ」 「日本に1万軒あるというパチンコ屋には営業時間があるが、カジノは24時間営業」 「レジャーランドにカジノをくっ付ければ手っ取り早いと考える国会議員」 「依存症の気持ちなど政府には分からない」 「日本のお金持ちは日本のカジノには行かない、マイナンバーカードの提示で履歴が残るし、大負けすればうわさになる」・・・

ギャンブル事情に詳しく、実体験を踏まえた貴闘力親方のインタビューへの回答は実に面白い。

では、親方は行きませんか?という質問に、「そりゃ、行きますよ」と締め括っているのが笑える。

訪日の際に彼の経営する東京江東区の「焼肉ドラゴ」を何度か訪れたことがあるが、客と気さくに会話する親方の姿勢が客を呼ぶのか、とても繁盛しているようだ。奥のテーブルでは、TVなどでよく見掛けるお笑い芸人のグループが大騒ぎをし、きっと彼らは常連客なのだろう。

「相撲協会をクビになったのはギャンブルのため!」と公言する彼は、ギャンブルの怖さを伝えることが私の義務と胸を張る。*写真は焼肉ドラゴにて

ロシアで開催されているサッカーW杯も終盤を迎えているが、日本戦で退場になったコロンビア選手に対する「暗殺予告」がネット上で話題になった。かつて、コロンビアではW杯でオウンゴールした選手が暗殺される事件があった。私は今回のレッドカード(退場)を観た瞬間、「また、同じ事件が繰り返されるかもしれない」と考えた。画面に映し出された監督の表情も、そのような状況を連想させた。

オウンゴール選手の暗殺事件を、私は「自国のサッカーを愛するあまり」とか「国の名誉を失墜させたから」など、熱烈ファンの行き過ぎた行動と能天気に考えていたが、その真相は勝敗の裏に隠された金銭的なやり取りだったのではないだろうか?もちろん、単なる私の推測に過ぎないが・・・ 麻薬大国コロンビアで、例えば麻薬組織は「ローリスク、ローリターン」の試合に大金を賭け、小さな配当でも結果として合法的に大金を手にしようとする。W杯の全ての試合が賭けの対象となる中で、コロンビア国内の下馬評は、第一戦目の日本戦は楽勝間違いなしだったはずで、大金を賭ければ間違いなく合法的に大きなリターンがあると踏んでいたはずだ。しかし、その的が外れたことで、その矛先は、当然その原因を作った者に向けられる。「暗殺予告」は、そんな流れだったのかもしれない。オーストラリアでは、よくポリスの水際作戦で大量の麻薬(末端価格で数十億ドル規模)が摘発されるが、私はそんなニュースを観る度に、この摘発で何人が殺されるのだろう?といつも考えてしまう。麻薬組織にしてみれば、サッカー選手は国の誇りなどではなく、単なる賭けのコマに過ぎないのかもしれない。

日本にカジノがオープンすれば、間違いなくスポーツベットなどのギャンブルにも波及するだろう。その場合、日本では麻薬大国のような事件までは進展しないかもしれないが、"八百長試合" などが蔓延(はびこ)る可能性は否定できない。

 

つい先日、FOXクラシックムービーで「ゴッドファーザー」パート1~3までを観賞する機会があった。パート1を観たのは中学生の頃だったが、巷で大騒ぎされていた割に退屈な映画というイメージだけが残っていた。今、この歳になって観てみると、なるほど凄い映画である。特にパート2では、初代ゴッドファーザー 「ビトー・コルレオーネ」の後を継いだ若き「マイケル・コルレオーネ「(アル・パシーノ)が、父親の歴史を辿りながら、徐々に頭角を現して行くストーリーで、マイアミやキューバへのカジノ事業の利権拡大も描かれている。利権争いの中で、多くの登場人物が無残に殺し殺される。1900年代前半の話であり、もちろん、時代背景は今とは全く異なる世界なのかもしれないが、ネットの情報等を拾い読みすると、日本のカジノ・オープンにはトランプ大統領の肝いりでアメリカのカジノ業界の参入が確かなようで、表裏全てにクリーン且つ安全性が保たれるのかどうか?

映画の影響かもしれないが、私はそんないらぬ心配をしてしまうのだ。

 

10年も前のことだが、息子が大学院生時代に、親友の父親が支配人をしていた「べネロング」というシドニー・オペラハウス内にあるレストランでウェイターのアルバイトをしたことがある。その支配人がヘッドハンティングでシドニーのカジノ「スターシティ」(現在のザ・スター)レストランの支配人として鞍替えすることになり、息子も一緒にそのレストランに引き抜かれた。

ウェイターとしてフロアに立った初日、あのタイガー・ウッズが客として現れたそうだ。シドニーで開催された大会に出場し、リラックスやリフレッシュのために訪れたのだろう。

働き始めた頃、息子は「チップが凄いんだよ、給料よりも多いことだってあるんだ」とはしゃいでいたが、息子が自分で決めたアルバイトであり、年齢的なことも考え、私はアルバイトの件で息子に一切口を出さなかった。

働き出してから数週間後、「僕、あのレストランで働くの辞めたよ」と電話があった。

一晩に大金(時には1億円以上)をスッた客が、そのレストランにやって来て、彼らは何を飲んでも食べても良いらしく、レミーマルタン・ルイ13世をがぶ飲みし、ロブスターを何尾か食べて帰る・・・
「僕、毎日のようにそんなの見てたら、そこで働いているのが嫌になっちゃって・・・」

まあ、息子にとってその経験は良い社会勉強の機会だったのかもしれない。
息子は大学院卒業後に教員となり、幸せな結婚もして、一歩一歩確かな道を歩んでいる。

 

私は日本にカジノがオープンすることに賛成でも反対の立場でもない。

30年間日本を離れているため、政治には口出しをしないことも決めている。

私自身は、ギャンブル(賭け事)を一切やらないという訳ではなく、ゴールドコーストなどを訪れる際には、有名なコンラッド・ジュピターズ・カジノ(最近、GCハイウェイ沿いに新たなビルが建設され、名前も資本も変わったようだ)を訪れることもある。ただ、ルールを覚えないため、出来るゲームが限られているし、タイトな日程の合間だったり、使う金額の上限を決めているため、いつも「ちょい勝ち or ちょい負け」というのが関の山だ。

仕事柄、私は日本からオーストラリアを訪れる方々と接する機会が多いが・・・

時には彼らを案内してカジノを訪れることもある。

「日本に戻ったら、直ぐに送金するので、5,000ドル貸してくれないか?」と言われたことがある。滞在中、彼がカジノに入り浸りだったのを私は知っていた。団体のリーダーであり、彼は私が断れない立場と知って無理を言ったに違いなかった。それを貸せば、戻ってこないのは目に見えている。彼とは別人だが、かつて同じようなことがあり、不覚にも私は現金を渡し、その後何度連絡をしても送金は無く、最終的に知人を介し、貸した金を返してもらうのに1年以上掛かった。そんな彼らが、別世界の人たちかというとそうではなく、高学歴、家族もあり、一見誰からも尊敬されるような人物なのである。

私は「日本に戻って直ぐに送って頂けるのでしたら、日本から5,000ドル私の口座に送ってもらって下さい。それをそのままお渡ししますので」と言って口座番号を渡した。送金されてくることは無かったが、彼は仲間から金を借りまくっていたようだ。そんな彼らとの関係は、その時を境にプツンと切れてしまった。

正に「金の切れ目は縁の切れ目」なのだ。

日本にカジノがオープンすれば、家族や親戚縁者、友人から金を無心する連中が増えるかもしれない。そして、それが犯罪に発展するかもしれない。また、今ですらパチンコ屋の駐車場に子供を置き去りにしたまま車を施錠し、尊い命が失われるニュースをよく目にする。

そのような状況の日本で、24時間不夜城のカジノがオープンすれば・・・

 

日本を訪れる旅行者を増やすため、国益のため、地域の活性化のため・・・
取ってつければ、大義名分は幾らでもあるだろう。

ただ、本当に日本の一般市民は日本にカジノがオープンすることなんて望んでいるのだろうか?

カジノを訪れる度に私が感じることは、生活とはかけ離れた旅行気分のような高揚感なのだ。それはそれでリフレッシュにはなるが、5ドル安いランチを選んで食べ、20ドル、熱くなれば50ドルが秒単位で吸い込まれていくのを見ながら、「俺はいったい何をやっているんだ!」と思うことがある。ちょっとでも勝てば良いが、上限を決めていても財布がスッカラカンになった時のショックは結構尾を引くものだ。そんな時、自分に対する言い訳をどこかに探している自分が嫌になる。

貴闘力親方は、「相撲だって、負けても次は勝てると思うから続けられる。次も負けると思えばもうやらない訳で、次は勝てると思うか、負けると思ってやめるかは、その人の性格・・・」と、インタビューに答えている。それは、次は勝てると思い続けた勝負師の言い訳なのかもしれない。

 

正直に言えば、私は日本にカジノは似合わないと思う。

長年オーストラリアに住み、私は日本に住んでいた頃よりも日本を良い国だと思うようになった。日本を訪れたことのあるオーストラリアの仲間達の誰もが日本を絶賛し、また行きたいと言う。

歴史に培われた落ち着いたお国柄や季節毎に変る自然の美しさ、クリーンさや安全性、そして何と言っても世界に誇れるのは日本人の"おもてなしの心"だ。

日本には土地土地に美味しい食材があり、そして土地土地の料理がある。生鮮市場や美味しいコンビニ、安売り品やお値打ち品が揃うショップ、更に質の良い高級品を揃えるショップなどがどこにでもある。
それから、どの地方を訪ねても、そこには地元の祭りや文化、そして素晴らしい温泉がある。

 

日本にカジノがオープンしても、私が行くことは無いだろう。

なぜなら、私には日本に行きたいところがいっぱいあるからだ。

私と同様、どう考えても日本を目指す一般の外国人がカジノを目的に日本に向かうとは思えない。そして、カジノがオープンしたからといって、外国からのツアー客が増えるとも思えない。

彼らが日本に魅力を感じるのは日本の温かさなのだ。


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昨年、シドニーで行われた長男の結婚式に日本から兄夫婦が出席した。

「何か欲しいものはないか?」

日本を出発する数日前に、兄からそんな電話が掛かって来た。

「そうだなぁ、やっぱり、きんとん饅頭かなぁ・・・」

そんな私の返事に、電話の向こうで兄と義姉の笑い声が聞こえて来た。

栃木県塩谷郡高根沢町、東北本線宝積寺駅近くの朝日屋という和菓子屋で販売されているもので、その饅頭は大正時代から手作りされ、製法や味は変わっていないと言う。

栃木県人のローカルスイーツであり、私に言わせればソウルスイーツ(魂のスイーツ)なのだ。

おせち料理のきんとんを独特の柔らかい生地で包んだ饅頭で、味は確かに幼い頃の記憶と変わらぬ美味しさだ。包装紙も独特で、私が記憶している50年以上は変わっていないはずだ。宇都宮の駅デパート(呼び名は色々変わったが、私は今も駅デパートというのがぴったり来る)や駅の売店には、その包装紙に包まれた大小の箱がうず高く積まれている。

福島の薄皮饅頭、広島のもみじ饅頭、どこそこの温泉で売られている温泉饅頭・・・

日本中にご当地饅頭は数々あれど、私にとってのソウル饅頭は、やはり「きんとん饅頭」なのだ。

 

私の父は高根沢町中阿久津(宝積寺駅が最寄駅)で生まれ育ち、その界隈に親戚も多く、行き来の際に、いつもこの「きんとん饅頭」が挨拶代わりの土産として使われた。私はこの饅頭が大好きだったが、高校生になると、部活の後に「餃子」や「駅蕎麦(えきそば)」(駅にある立食い蕎麦をそう呼んだ)を食べて帰ることが多くなり、その後大学生になり地元を離れるとほとんど食べる機会はなくなった。

 

シドニーに移住して30年、仕事の関係で訪日する機会は多く、父や母が健在だった頃はよく実家に足が向いた。私の実家は東北本線宇都宮駅と宝積寺駅の間の岡本駅近くにあるが、今も田畑が残る閑静な田舎町で、実家の前には父や母が愛し、現在も義姉が耕す野菜畑が広がっている。シドニーに住む私には、実家で食べる炊き立てのご飯や畑から取って来たばかりの野菜は、世界中、何処の日本食レストランでも味わうことのできないご馳走である。

私には、里帰りをする度に、私に会うために必ず顔を出してくれる親友がいた。

彼は、私が連絡を入れる前に、必ず私の帰郷をどこかから聞きつけてやって来る。

まるで田舎の温かさを描いたドラマや映画のようだが、彼はいつもそんな感じでひょっこり現れた。

菅又佳郎 ー 地元を愛し、家族を愛し、仕事を愛し、母校を愛し、そして友を愛し・・・

自分に関わる全てを大切にする男であり、保険代理店や旅行代理店を経営していたが、社長自ら足繁く顧客を訪問し、心のこもった仕事を心掛けるナイスガイだった。そんな彼の人柄や仕事ぶりは地元住民からも高く評価され、彼は高根沢町会議員を務めた。

そんな彼が、10年ほど前に突然亡くなった。

彼の人柄を愛し、信頼していた母や兄、そして友人からシドニーの私に彼の悲報が届いた。

里帰りすれば必ず会えると思っていた彼はもういない・・・ そう思うと本当に悲しかった。

私が里帰りし、実家を出発する朝、彼は必ず「きんとん饅頭」を手に実家に顔を出し、私を見送ってくれた。私を「とっちゃん」と呼び、「とっちゃん、次はいつ来んだ?体に気をつけろよな!」という飾らない彼の栃木弁に、私はいつも心癒される思いだった。

 

彼は宇高(宇都宮高校)の1年先輩だった。

全校生1,000名ほどの高校で、学年が違えば話す機会はほとんど無い。増してや部活などが違えば尚更である。私は「ラグビー部」、彼は「生物部」、動と静とで二人が交わる可能性は極めて低かった。しかし、私は彼が運動部員以上の「アクティブ生物部員」であることを知ることになる。

 

彼が3年生、私は2年生、共に伝統の宇高弁論大会に出場する機会があった。

私の題目は、「このペットブーム、母にとってのペット僕たち」。

親離れしない我ら若者たちと子離れしない親たちがテーマだった。

今考えれば、私たちが高校生だった時代よりも、むしろ今の時代に論じられるべきテーマかもしれない。

その中で、私は歴史的人物の親子の別れをいくつか取り上げた。

吉田松陰と家族の別れの場面。死を覚悟し、腰縄をかけられ唐丸籠で護送される松陰、気丈な母は涙一つ見せず息子を見送ったと言われており、松陰は萩の街を見渡せる松並木の端から「帰らじと思いさだめし旅なれば、ひとしおぬるる涙松かな」という歌を詠んだという。

また、「桜井の訣別(別れ)」として戦前の教育に使われた楠木正成と正行親子の別れの場面。死を覚悟の上で足利尊氏との戦いに臨む正成(父)は、伴に戦う意志に燃える息子正行に別れを告げる。正行は泣く泣く父の言葉に従い、後々、後醍醐天皇を助け「南北朝時代」への道を切り開く。

この親子の別れは「桜井の別れ」として歌に残され、昭和一桁世代なら知らない人はいない。私は、その歴史、そして、歌詞や旋律を母に教えられた。

弁論大会に戻るが、100有余年の歴史を誇る講堂の壇上で、私はこの歌を高らかに歌い上げ、「獅子は我が子を戦陣の谷へ突き落すという、もし、我が父が我が母がそれをしないなら、我々は自ら戦陣の谷へと落ちようではないか!」と締め括った。

それを歌ったために規定時間を大幅にオーバーし、大きく減点されてしまった。 

 

菅又の題目は忘れてしまったが、テーマは明確に覚えている。

「こしひかり」についてだった。彼の実家は塩谷郡高根沢町の農家である。1956年(昭和31年)に、「こしひかり」と命名登録され、1970年代後半から日本の作付面積の1位を独占した銘柄米について、彼は熱く論じた。生物部の彼は、「こしひかり」の学術的分析結果を基に、過去と現在、将来をしっかり見据えた見地から論点をまとめていた。そして、「こしひかり」は、あれから半世紀以上経つ今も高いブランド力を維持している。私が1年生だった前年の弁論大会でも、彼は「こしひかり」について論じ、2年目は前年の続編と言うか完結編としてまとめていた。菅又が惚れ込んだ「こしひかり」の研究発表(弁論)を今振り返ってみても、半世紀前の彼の展望は正しかったのだろう。

弁論大会には10数名がエントリーしたが、私と菅又が3位以下を大きく引き離す結果だった。

ただ、規定時間を越えた減点により、僅差で菅又が優勝、私は2位だった。

思い起こせば、双方のテーマは今の時代につながる内容であり、きっと質の高い弁論大会だったに違いない。正直、今になって私は彼とあの弁論大会の思い出を語り合ってみたかった。

先日、沖縄「慰霊の日」に行われた中学生(14歳)の詩の朗読を観ながら、中学生?という驚きと共に、深く感銘を受け、平和への願いを新たにする思いだった。史実をしっかり見つめた彼女の朗読、14歳の中学生がどのようにあの詩を描き、朗読の草案を準備したのだろう?など考えながら、私は若き日の良き思い出である弁論大会を思い出していた。

 

弁論大会の後、同じ東北本線や日光線で通う菅又と、どちらからともなく話すようになった。

きっと彼の育った環境や性格からなのだろう、彼の言葉や振舞いには1学年下の私に対しても敬意が感じられ、それまでスポーツ系の仲間の多かった私には、彼との会話がとても新鮮だった。

ただ、彼との友情が深まる前に彼は私より1年先に卒業し、大学、社会人、88年に私はオーストラリアに移住・・・ その間、彼と話す機会は無く、そのまま縁が途絶えてしまっても不思議は無かった。しかし、彼は私の母や兄と親しい縁を続けていてくれた。

98年に私は海外遠征のコーディネートの仕事を開始したが、遠征チームの保険を彼に依頼したことから、再び彼とのやり取りが始まった。その頃から私の訪日の機会が増えるようになり、その後の10年間、私は里帰りの度に彼と再会するのが楽しみだった。

 

その頃、私はオーストラリアの進んだコーチングを日本に広めるプロジェクトを手掛けていたが、彼は真面目に私の夢に向き合ってくれた。ラグビーの世界を知らない分、彼の言葉はいつも客観的であり誠実だった。ヒートする私を抑えながらも熱い心が感じられた。

彼が愛した母校「武蔵大学」、私はラグビー部をコーチングする機会に恵まれ、偶然にもOB会の重鎮から菅又がどれだけ母校の発展に寄与しているかを耳にした。菅又自身から直接聞くことは無く、彼の努力は全てが「草の根の努力」だった。

 

私は彼ともっともっと人生について語り合いたかったし、教えて欲しかった。

そして、誠実な彼が町会議員から県会議員、国会議員へと活躍の場を広げるのが私の夢だった。

もちろん、彼は私の心の中で生き続けているが・・・

彼に会いたい!

植物を何よりも愛した彼の言葉や振舞いには、いつも物事に対する「草の根の心や精神」が感じられた。よく彼は、「大事なのは、根っこなんだよ!」と私に言った。

日本では猛暑日のようだが、シドニーの今朝の最低気温は2℃。朝焼けが美しかった。

そして、今日7月1日は私の父の命日である。

父の写真の前に父が愛した日本酒を供え、父と同郷の菅又の思い出を辿っている。

そして、二人の故郷の銘菓「きんとん饅頭」があればいいのに・・・ と思いながらお茶を飲んでいる。


テーマ:

「唐突に連絡を入れて申し訳ありません」

3月にこんな書き出しのメールが届いた。

そのメールは、2016年のオーストラリア遠征の際に、入院という貴重な(?)体験をした選手M君からだった。父親とはメールのやり取りがあり、その文面にはM君が大学に進学したことやラグビー部に所属したことなどが書かれており、M君が元気にキャンパスライフをエンジョイしているのが想像出来た。

M君から届いたメールには、短期留学のため再びオーストラリアを訪れるという報告が書かれ、「今回は怪我などしないよう気を付けながら、頑張りたいと思います。加藤さんにお会い出来たら嬉しいです」と書き添えられていた。

M君が大学に進んでからもラグビーを続け、たぶん彼には辛い思い出の残るオーストラリアを再び目指してくれたことが私には嬉しかった。

彼の遠征中の入院はトレーニングや試合での怪我ではなく、日本で害虫に刺され、化膿したまま遠征に参加し、それが日本と異なる環境で更に悪化した結果だった。両足に数え切れないほどの虫刺されによる傷が残り、足全体が腫れあがっていた。

 

キャンプ中はオーストラリアのコーチ陣がコーチングを担当し、完璧にプログラムされたセッションが繰り返される。選手達は通訳の指示に従ってプレーを重ね、個人スキルやチームスキルを高めて行く。日本側のコーチ陣は、選手以上に熱心にメモを取る。海外遠征の目的は国際交流など様々だが、限られた期間(時間)の中で、グラウンドはコーチや選手達が共に集中して学ぶ場として、誰もが真剣そのものなのだ。

私の役割は、多岐に渡る事前準備や問題点を見つけて素早く改善することであるが、取り分け私が気にするのは選手達のコンディションである。トレーニング前のグラウンドで、まず私は選手全体を見渡し、少しでも気になる時は私から声を掛ける。

その朝、トレーニング開始前のM君とトレーナーとのやり取りが気になったが、結局、M君はその朝のトレーニングには参加せず、水汲みなどのサポート要員に回ることになった。

学生時代、「三味線を弾くな!」という言葉がよく使われた。大した怪我でもないのに、大げさに痛がり、練習を抜けるような選手に向けて発せられる言葉だった。M君がそのような選手なのか?私には分からない。私はそれが気になりM君の背中を追った。M君はサポート役の仕事をこなしていたが、コーチ陣がトレーニングに集中し、彼を見ていない状況でも、彼は時折かがんでは足をさすり、その仕草は見るからに辛そうだった。顔も赤く、熱があるようだった。

「病院に行こう!」私は声を掛けたが、M君は明らかにコーチ陣の様子を気にしていた。そこには何を言われても盲目的に従わざるを得ない空気が感じられたが、私は無理やりM君を車に乗せ、コーチ陣には一方的に「病院に連れて行きます!」とだけ伝え、グラウンドを離れた。

 

医師の診断は・・・ この地域で症例がなく、検査が必要ということだった。取りあえず、知り合いの看護師に彼の面倒を依頼し、私はグラウンドに戻った。

*知り合いの看護師は看護師長で、前年の4月に私の紹介で新潟の高校に留学したオーストラリア人選手の母親であり、父親も麻酔科の医師だった。

私の稚拙な語学力で、医師の診断を間違えて解釈してはいけないと思い、トレーニング終了後に通訳(私の息子30歳/3歳からシドニーで育ち、日本のトップリーグで6年間の通訳経験を持つ)を連れ、再度病院に向かった。その際、私からアシスタントコーチにお願いして病院に同行してもらった。
選手の安全が最優先のオーストラリアのスポーツ界にどっぷり浸かっている私には、トレーニング開始前のトレーナーのM君に対する言葉も含め、選手の怪我や病気への対応は、30年以上も前に私が日本でプレーした頃とあまり変わっていないように感じられた。

病院はサンシャインコースト地域で有数の大きな総合病院だったが、長男(通訳)の聴き取りから、医師や看護師は症例についてあちこちに確認してくれているようだった。いずれにしても、余談を許さない一刻を争う状況であり、M君は入院を余儀なくされた。

その後の詳細は省略するが・・・

医師が下した診断の概要は、あの時点で病院に連れて行かなければ、最悪の事態にもなり兼ねなかったようで、私はM君を無理やり病院に連れて行き、胸を撫で降ろす思いだった。

本隊は、彼を残し日程通りに遠征終了後に日本に向け出発し、日本から両親が駆け付け、症状に落ち着きが見えた頃に、30km離れたこの地域最大の総合病院に転院した。

私に出来ることは限られていたが、午前・午後のトレーニングの前後に病院を訪れ、訪問の度に、特別のキャップ、マスク、エプロン、ゴム手袋を装着して病室に入り、直接彼を励ますことを欠かさなかった。必要に応じて、通訳(息子)を連れて、医師や看護師から症状について確認することも忘れなかった。

この遠征を受け入れたラグビークラブの責任者も、何度も病院を訪れ、チョコレートなどを持参し、ジョークを言ってM君を励ました。きっとそれは選手の不安を緩和させるためのオーストラリア流のマナー(文化)に違いなかった。

 

監督は日本側(学校長や保険会社、父母)との電話連絡に忙しく、時折私に話す言葉には、学校という組織の一員としての責任の重さや大変さを感じさせた。

トラブルは重なるもので、最終の交流試合で2人の選手が怪我を負い、私が付き添って彼らを病院に搬送した。6時半頃に病院に向かい、検査や応急処置を終えてホテルの戻ったのは午前0時を過ぎていた。出発前の空港で、膝を怪我した選手のために、航空会社の地上スタッフに頼み込み、ウィルチェア(車椅子)の手配や足の伸ばせる非常口前の座席を確保してもらった。

 

フライト・チェックインを終え、私は選手一人一人と握手をして空港内の手荷物検査場へと送り出すことを恒例にしている。もちろん、この遠征でも、そのように選手達を送り出したが・・・

監督やコーチ陣は言葉少なに空港内へと進み、私は寂しく彼らの背中を見送るしかなかった。

本隊の出発後、私には別の遠征のコーディネートが待っていたが、その遠征終了後に通訳(息子)を連れて空港から150km離れた転院先の病院に向かい、M君と両親を見舞った。

すでに保険会社がサポートを開始していたが、それでもそのまま彼らを残し、シドニーに向け出発する気持ちにはどうしてもなれなかった。病室のTVでリオ・オリンピックを笑顔で楽しむM君を見て、私は心からホッとすることが出来た。

 

M君からメールをもらい、私は2年前の遠征の記録(備忘録)ややり取りをすべて読み返してみた。

「加藤さんは、余裕がありませんでしたね」と書かれた監督からのメール・・・

私にはその言葉をどう捉えれば良いか分からなかったが、私自身、ゆっくりラグビーの新しい流れなどについて語り合いたかった。ただ、M君から始まり、他にも怪我をした複数の選手のために休む間も無く走り回っていたため、そのような余裕は無かった。予算面での制約もあり、怪我人発生に伴い急遽スタッフを増やすことも無理であり、私自身が走り回るしかなかった。

何事も無く無難に進んでいれば、結果オーライで終わっていたのかもしれない。

あの場でもっと話すことが出来たら・・・ 

いずれにしても、私には色々な意味で学ぶことの多かった遠征であり、忘れ難い機会だった。

 

チームは、押しも押されもせぬ立派なチームに成長し、結果も出している。

長年コーチングを手掛けて来たオーストラリアのコーチ達も、与えられるものは全て出し尽くしたと笑う。私達のサポートが発展の一助になっているとすれば、それはこの上ない喜びである。

何はともあれ、本隊(チームメイト)が出発した後も長期間入院しなければならなかったM君が、卒業後に再び留学のためにオーストラリアを戻って来てくれたことが何より嬉しい。そして、M君が連絡をくれたことは、私にはボーナスであり、率直に嬉しかった。これからも彼の応援団でいたい!

 

日本では、「日大アメフト部問題」が社会問題化している。

「日本のスポーツ界の悪しき伝統や習慣」について、新進気鋭の日本人ジャーナリストと話す機会があったが、パワハラや暴力に対する意識改革の必要性について随分語り合った。

日本のスポーツ界には、至る所に同じような問題が噴出しそうな火種が隠れているに違いない。

オーストラリアでも問題は生じるが、解決は早く、日本のように長く尾を引くことはない。事件や問題を起こした選手が数か月後には試合に出場し、時にはTVのショーに何事も無かったように登場する。

その善し悪しは別にして、オーストラリアでは日本に比べ、スポーツ界に於ける個人の独立や責任、義務、権限委譲が明確であり、選手の安全や権利がしっかり守られているようだ。

 

 

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