オーストラリアから

オーストラリアから

’88年移住!! まだまだ夢の途中・・・


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「県庁おもてなし課」という映画を観た。

朝ドラを2時間に縮めたような作品だが、数年前の私の実体験と重なり、ちょっぴり笑える映画だった。

2015年、県庁に勤務するラグビー部の後輩からメールが届いた。

「2019年ラグビーワールドカップ、2020年東京オリンピック開催に向け、オーストラリア代表の事前キャンプ地誘致」に関する協力依頼と問い合せだった。

端的に用件だけが書かれた文面に、先輩後輩の御無沙汰の意は一切感じられず、その面白みの無い文面から、長年県庁で働いた男の"遊び心"の無さが感じられた。

ともあれ、長年オーストラリアのスポーツ界に関りを持ってきた私は、後輩からの協力要請をそっけなく断るようなことはしない。

 

セミナー開催のため、私は毎年3月に訪日するが、その開催に合わせて県庁を訪問、総合政策部総合企画課を訪ね、部長を筆頭に課長、担当者数名から、事前キャンプ地誘致に関する説明を聴いた。

このプロジェクトを担当する数名の若手職員は選り抜きの精鋭に違いないが、リーダーは大手旅行代理店からの出向職員であり、大きなイベントの開催に向け、抜かりのないタイアップの実態を垣間見た。

私をそんな職員たちに結び付けた後輩も、オブザーバーとしてこのミーティングに参加した。

海の物とも山の物ともつかない案件に、案の定、後輩を含め若手職員たちの説明を聴きながら、ワクワクするような感覚が湧き上がって来ることはなかった。

映画「県庁おもてなし課」は、正にあの日、私が県庁で感じたままを再現するような作品だった。

物語には、過去に突拍子も無い企画を提案し、県庁の誰からも相手にされず、結局県庁を去る元県庁職員が登場するが・・・ それと同じ企画を他県が採用し、その大成功が日本中から脚光を浴びる。

片や、その企画に目を背けたこの県は可もなく不可も無く、職員には気概も無く、気が付けば、何年も時は過ぎ、そんな企画の提案があったことすら知る職員はいなくなっている。

退庁した元県庁職員は、退庁後に独立、民宿経営の傍ら、観光大使のような仕事を続けている。

 

日本とオーストラリア、観光とラグビーという違いはあれど、突拍子も無い企画の提案者として県庁の誰からも相手にされなかった元職員が持ち続けた信念は私に通じるものであり、そして、彼の言葉はあの県庁でのミーティングで私が言いたかったそのままだった。

「自分が感動せんで、誰が感動するんじゃ !?」

「自分が好きにならんで、どうやって好きにさせるんじゃ !?」

任された一定の仕事をこなせば任務の終わる職員が感じる達成感や満足感・・・

「そんなもの、県民置き去りの単なる自己満足じゃ!」と彼なら言うだろうが、波風立てず、問題を起こさず、退庁の時を迎えるのが "出来る県庁さん"・・・ 以前どこかでそんな言葉を聴いたことがあった。

現在も含め、人生の4分の3を県外で暮らす私に何の不都合も権利も無いが、言うことだけは言った。

「英文の小冊子を作成しましたので、オーストラリアのスポーツ関係者に配っていただけますか」

私は手渡された小冊子のページを捲った。

精鋭たちが一生懸命作成した小冊子、彼らの並々ならぬ努力は私にも理解できる。

コーチやアスリートたちが最も興味を持つはずのスポーツ関連施設は、「FACILITIES General Sports Zone」として、イラストで未来予想図が掲載されている。

「この施設は、いつ頃完成予定ですか?」

「平成31年の完成を目指していますが、たぶん、7年後の国体開催までには確実に・・・」

「では、4年後のラグビーワールドカップには間に合わない可能性があるということですか?」

「・・・」

「そのような不確定な状況で事前キャンプ地誘致を目指されているのですか?」

「・・・」

「サッカーJ2のチームが使っているフィールドがありますので、そこを借りれば・・・」

職員たちの苦し紛れの返答に、正直、私自身どう対応すれば良いか困ってしまった。

取りあえず、私は1年早く開催されるラグビーW杯のキャンプ地誘致に絞って考えることにした。

初回ミーティングの結論として、私は「代表コーチや選手に影響力を持つARU(オーストラリア・ラグビー協会)の然るべきスタッフに現地視察をさせてしまうのが一番手っ取り速い!」と職員たちに提案した。

正直、キャンプ地選定には時期尚早の感があり、ARUに対する何の方策も確証も持っていなかったが、動き出さなければ何も進みそうにない職員たちを鼓舞するつもりでそのような提案を投げ掛けた。

「本当にそんなことが出来るんだったら素晴らしいと思いますが、ただ・・・」

「県庁として出せる予算が限られていると思いますので・・・」

「滞在費も交通費も出ないと思いますが・・・」

思いますが、思いますが、思いますが・・・ のオンパレード。

「キャンプ地誘致」という大きなアドバルーンを揚げたのは良いが、それを進める彼らに欠けているのは、夢であり、それを楽しむ遊び心であり、そして、俺たちが県を動かしてみよう!という意欲であろう。

 

「我々は仕事をしている」という証として小冊子を作り、そこに紹介されているのは完成予定も確定していない未来予想図。それを配って欲しいと言うが、オーストラリアのスポーツ関係者と言うだけで、どのスポーツ関連機関のどのレベルの誰にどれだけ配布するかという計画も下調べも無い。

置いておくだけで、また、渡しただけで読んでくれるほど、オーストラリア人は甘くない。

日本人はよく名刺を配るが、会議が終わった後に、その多くが机の上に置かれたままになっている光景をよく目にする。彼らにとって大切なのは、会社でも肩書でもなく、その人本人なのだ。

「予想で描かれた小冊子なんて!」と思ったが、彼らの努力を考え、私はその言葉を飲み込んだ。

 

映画では、元職員の斬新なアイデアや厳しい言葉に若手職員たちが反応し、少しずつ変わっていく。

実際に現場に立ち、県民と語り合い、試行錯誤を重ねながらも、県民の求めるものに目を向けるようになる。また、若手職員たちの変化に伴って、上司の姿勢や職場の環境も少しずつ変化していく。

まあ、それは映画の脚色かもしれないが、私はそんな現実が実際にあって欲しいと願う。

 

何のために誘致するのか?

子供からお年寄りまで、誘致することにより県民が利することは?

そして、それによる経済効果は?

やはり、原点に立ち戻って動き出すことが大切なのだろう。

動き出した以上、私も真剣にならざるを得なかった。

ARUにW杯日本大会の事前キャンプ地について提案し、そのための視察を実現すること・・・

予算的な課題を克服するため、ARU主催のセミナー開催を企画、然るべきARUスタッフやコーチの帯同、通訳やサポート・スタッフの手配、スポンサーの発掘・・・ その他にも、日程の調整やセミナーの参加者募集、多岐に渡る手配や予約など様々な準備を開始しなければならなかった。

そして、その年の7月、ARU National Coach Development Managerを筆頭に、ARUハイパフォーマンス部門やコーチ教育部門のスタッフを帯同し、事前キャンプ地視察を実施することになった。  つづく


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日本から、この7月~8月に4人の留学生がオーストラリアを訪れた。

私自身はシドニーに住んでいるが、4人の留学先は約850km北のゴールドコーストである。

私のサポートの基本は、留学生に対し手取り足取り世話をしないことだ。それをすれば、留学の目的や醍醐味が半減してしまうからである。留学を開始する際の準備さえしっかりしておけば、彼らは自ら動き出そうとするし、自ら異文化に向き合い、それを自らつかみ取ろうとする。

もちろん、信頼出来るガーディアン(身元保証人/日本語の出来ないオーストラリア人)を彼らの身近(ゴールドコースト)に置き、オーストラリア人の視点や感覚で彼らを見守る体制は整えている。

ホームステイや語学学校、スポーツクラブ他のスタッフとのコミュニケーションもガーディアンに任せているが、それは留学生に対し可能な限り英語でアドバイス出来るよう考えてのことだ。加えて、例えばラグビーが留学の主目的ならラグビーに精通したガーディアンが望ましい。更に、私の最低条件は子供に対する溢れるような愛情を持つガーディアンでなければならない。
親友のグラント(QLDプレミアリーグBOND大学ラグビークラブ1軍ヘッドコーチ)は最高のガーディアンだ。

私は、留学生の様子をガーディアン "グラント" とのやり取りでほぼ完璧に理解できる。

 

一般的に言えば、日本人は自己主張の苦手な国民である。

片やオーストラリア人はその真逆の国民性を有している。基本は気楽でラブリー、陰口や悪口の類はほとんど無い。それでも、幼い頃から自己主張するのが当たり前に育つため、自己主張しない者への気遣い(思いやり)のようなものは期待しない方が良い。例えば、ホームステイで何も主張しなければ、何の問題も無く、全て満足して生活していると思われてしまう。更に" YES or NO" のハッキリした国民性がそれに輪を掛け、NOと言えない日本人は、黙ったまま「思いやりがない!」とか「冷たい!」などと思い込み、ストレスを溜めることはよくあるパターンである。

 

先日、ガーディアン "グラント" から留学生A君に関する連絡があった。

「夜になると毎日のようにどこかに出掛け、家に戻るのも遅いようだとホストファミリーから聞いたが・・・」

それは告げ口ではなく、純粋にA君を心配する連絡だった。

ラグビーと英語を学ぶ目的でオーストラリアにやって来た留学生A君(24歳)・・・

「死ぬ気で頑張ります!」という彼に、「もっと肩の力を抜いて、ラグビーやオーストラリアをエンジョイするような気持ちでやれば・・・」と声を掛けた。私自身、日本の体育会経験者であり、自分自身を鼓舞しようとする彼の気持ちはよく理解できる。しかし、30年間オーストラリアで暮らし、ラグビーや様々なスポーツをプレーした2人の息子を育てた私には、オーストラリアまで来て、日本を背負ったままラグビーをプレーして欲しくなかった。

 

グラントの連絡に、私は何の疑いも無く、パブやスポーツクラブにでも出掛けているのだろうと考えた。

24歳の彼にとって、それはそれで意義あることであり、ビール1杯でパブが無料の英会話教室に変わる。そして、それは30年前に私が実際に経験したことなのだ。33歳で移住、家族を守るため語学学校に通う時間や経済的な余裕は無く、仕事が終わった帰宅前のパブが私の恰好の英会話教室だった。

顔を出す度に同じ顔に出会う。毎日同じ席に座り、日課のように夕方のひと時をそこで楽しむ老人がいる。そのほとんどがスポーツや音楽好きなのだ。ビールをチビチビ飲みながら大画面でスポーツ観戦を楽しみ、週末には生バンドの演奏を楽しんでいる。そんな彼らは同じ匂いのする仲間を大切にし、決まって陽気でフレンドリーなのだ。勇気を出して挨拶をしてみる。次に会う時は「ヘイユー・ゴーイング・マイト」(How are you going mate? / 調子はどうだい?) てな具合になる。そうなればしめたものだ。

 

良いか悪いかは別にして、今はSNSで直ぐに連絡が出来る。

私は何の心配もしなかったが、今までサポートした留学生を思い出せば、留学の成功か否かは、規則正しい生活をするかしないかに懸かっているという信念があるため、グラントから聞いたままをA君に投げ掛けた。パブやスポーツバーに出掛けるのは反対しないが、規則正しい生活に支障を来たすことのないよう、以前の留学生の例なども書き添えた。A君からは直ぐに返信があった。

私の予想は外れ、アルコールは一滴も飲んでいないと言う。彼が言うには、食事に関する問題が・・・

それはホームステイでよく起こる問題であり、限られた予算から完璧な食事を出してもらうことは不可能に近い課題なのだ。ただ、問題ならやはり解決しなければならない。

私は、苦情としてではなく、どのような状況なのかをホストファミリーに打診したが、直ぐに返信があった。そして、その返信には写真も添付されていた。

A君は将来フィットネスに関わる仕事を目指している。英語の習得も最先端のラグビーやストレングス&コンディショニングを体験することも、彼は将来のための布石と捉えているようだ。彼にとって重要な項目の一つにニュートリション(栄養学)も含まれているようで、彼はファッティフードやファストフードを極力避けたいという思いがあったようだ。

そんなA君は脂肪を燃やすために歩き、時にはたんぱく質の補給に出掛けていたようだ。

 

24歳の大人の対応を求めるなら、事前に自分の事情を説明しておくべきだったろう。

それから、上手に自己主張すれば、ホストファミリーのママさんは何の問題も無く食事の内容を改善してくれていたと思うが・・・ やはりセンシティブな問題であり、このホストファミリーの日本人顔負けの "おもてなし" を考えれば、不用意に「自己主張すれば良かったのに・・・」 とは正直言えなかった。

朝晩の食事が基本なのに、毎日ではないにしても、語学学校で食べるランチボックスを持たせ、家から語学学校、ラグビーのトレーニングへの送迎もホストファミリーがしてくれているようだった。

ホストファミリーやグラント、そして私の心配は杞憂(取り越し苦労)だったようだが、A君のちょっとしたトラブルから私も学んだ出来事だった。

 

留学の後半戦、A君は自立の道を選択し、シェアハウスで自炊生活を開始した。

それは彼の自己主張であり、私はそんな彼を応援したい!

ガーディアン "グラント" はシェアメイト(OZ)にも直接会い、A君を見守り続けている。

オーストラリアでは15人制ラグビーシーズンが終了し、7sラグビーシーズンが開始されている。

大学時代に7s大会の代表メンバーとしてプレーしたA君の活躍の場であり、思う存分プレーし、この留学の証として何かをつかんで欲しいものだ!


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ウソのようなホントの話である。
結婚したての頃、私達夫婦は習志野に住み、私は妻と一緒に津田沼駅近くにある少林寺拳法の道場に通ったことがあった。まだ、会社のラグビー部で現役を続けていた頃で、なぜ通ったのか? 私には一切記憶が無く、妻も覚えていない。それでも、半年間ほど2人で通った記憶は残っている。

天地拳・調息法・鶴立拳など、古く少林寺から伝えられたという作法?(鍛錬法?)を習った記憶はかすかに体が覚えているが、35年前の確かな記憶は、正直、妻も私も師範代の所作の美しさやカッコ良さ、そして、拳を打つ時に出る"ヒュッ"という音への感動や憧れだけなのだ。

つい先日、FOX World Moviesで 「Birth of the Dragon」 という映画を観る機会があった。

2016年に製作され、今年日本で公開されたようだが、あのブルース・リーがメジャーになる以前、1960年代半ばのサンフランシスコでの苦難の時代を描いた実話(?)という想定のようだ。ブルース・リー役のフィリップ・ンが登場する場面で、「Nine years before Enter the Dragon (燃えよドラゴンの9年前)」 というサブタイトル(字幕)が出る。私の世代から更に20年ほど遡(さかのぼ)った世代までなら、このサブタイトルを読んだ瞬間、きっとこの映画を観てみたいと思うに違いない。

それにしても、43年の時を経て、どうしてブルース・リーを描いた映画が製作されたのだろう?

ストーリーの展開は、正直、実話というよりフィクションに近いのかもしれないが・・・

顔や物腰が、伏見工業(現京都工学院)ラグビー部の高崎監督と桐蔭学園ラグビー部の藤原監督(日体大コンビ)を足して2で割ったように思えてならない少林寺の修行僧ウォン。

映画は、彼が少林寺の流派間で闘う場面(立会い評価法/少林寺拳法では試合をそう呼ぶらしい)から始まるが、この闘いに勝ったウォンは、この時点で少林寺を代表するカンフーの達人となる。このシーンは、あの「燃えよドラゴン」の最初のシーンをイメージして脚本が描かれたに違いない。

本家少林寺の評価法(競技会)を勝ち抜いたウォンはサンフランシスコに派遣される訳だが・・・

その頃ブルース・リーは武道家としても映画俳優としても上手く行っていなかったようで、中国発祥の武術を中国系以外のコーケイジャン(白人に対する呼称)にまで広めようとしていたことから、彼は言わば裏切り者として中国系コミュニティから反感を持たれていたようだ。

ウォンは、その現状を視察し、状況次第では刺客という立場でサンフランシスコに派遣された訳で、ブルース・リーは、本家少林寺の伝統や精神を尊重するウォンの来訪に危機感を抱き、 闘いを挑む。

その2人の狭間にアメリカ人青年が登場する。彼は元々ブルース・リーの弟子だったが、少林寺の修行僧ウォンの清廉な心やカンフーの神髄・精神に惹かれブルース・リーの元を去る。

 

一匹狼のブルース・リーの境遇に、どこか私が辿った昔日のおもかげを感じたが・・・

私がシドニーで今の会社を起業した後、同じような会社がまるで雨後の竹の子のように誕生し、仕事の邪魔をされたり、横槍を入れられたりすることもあった。また、日本の有名なラグビー関係者や大手旅行代理店が後押しする会社も現れた。今、そのような会社は一切生き残っていない。

カンフーの人気が出始めた時代のアメリカにも様々な流派や道場が乱立したに違いない。政治やマフィア、ビッグネームの介入もあったことだろう。その渦中で、きっとブルース・リーはモガいていたはずだ。

可愛がっていた弟子や親しかった友人が、例え一人でも離れて行く時の寂しさ、ビッグな競争相手が現れた時の不安・・・ 正直、私はそんなブルース・リーの立場に共感したいと思いを馳せたのだが・・・

この映画にはそんな繊細な人間模様は描かれていない。結局、アクロバティックなカンフーの闘いがメインの娯楽映画に仕上げられていることが残念でならない。

私の高校時代(1973年)に公開された「燃えよドラゴン」は、カンフー映画の最高傑作であろう。

観終わった後に、誰もがちょっと斜めに顎(あご)を上げて、「どこからでも掛かってこいや」と言わんばかりの顔で映画館から出てくるのが愉快だった。もちろん、私もそんな一人だったのだが。

その1、2年後の大学時代、新宿でケンカに巻き込まれたことがあり、その場で私は完全にブルース・リーになり切っていた。今にして思えば、若さ故とは言え馬鹿な行為であり、反省しきりであるが、あの頃は諸先輩方の武勇伝なども耳にし、田舎者の私はさぞイキがっていたに違いない。

この後に続く「仁義なき戦い」シリーズで、私は更にイキがって映画館を出るようになるのだが・・・

そのイキがる気持ちを日々の練習や試合に活かすことができていれば、もっといい選手になっていたことだろうが、今更悔やんでもあの時代には戻れない。

 

ブルース・リーは、1970年に公開された「ドラゴン危機一髪」の大ヒットで一躍大スターへと駆け上がり、「ドラゴン怒りの鉄拳」 「ドラゴンへの道」とヒットが続き、1973年の「燃えよドラゴン」で世界的大スターの地位を揺るぎないものにする。しかし、「燃えよドラゴン」の空前の大ヒットを知らないまま、その年の7月に彼はこの世を去ってしまう。死因は謎に包まれたままのようだ。

最後をどう締め括ればよいか迷っていたが・・・

私の部屋の壁には学生時代の写真が一枚だけ飾られている。

引き締まった筋肉質の足、手は指先まで神経を尖らせ、目は正面を見据え、そして闘う顔をしている。

私にも「ドラゴン」のような時代があったのだという証として、その魂はいつまでも残していたい。

 


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仕事のために年に何度かゴールドコーストを訪れるが、車で往復することが多い。

我が家からTweed Head/NSW(ニューサウスウェールズ)州とQLD(クイーンズランド)州のボーダー(州境)までは約850km。航空機を使えば、我が家からシドニー空港までは1時間、手続きや待ち時間/シドニー空港からゴールドコースト空港までのフライトで更に2時間、合計で3時間ほど掛かる。

車で行けばその3倍の時間は掛かるが、私はこの長距離ドライブを結構気に入っている。

まあ、残念なことと言えば、日本と異なり「道の駅」のようなレストエリアが無いことだ。長いドライブなので出来るだけ休憩を取るようにしているが、精々あるのは「マック」か「KFC」ぐらい。その地方(町)独特の料理や産物を提供する店は無いに等しい。

それでも、私のお気に入りが一ヶ所だけある。美しいバイロンベイ近くにあるマカダミア城。

*写真はマカダミア城近辺の高台からバイロンベイを写したもの
この一帯はマカダミアナッツの産地で、マカダミア城は40年の歴史を持つドライブインのようなレストエリアである。旧パシフィックハイウェイ沿いにあるため、新ハイウェイの完成後は、その存在を知らなければスルーしてしまう。私はゴールドコーストからの帰り道に必ず立ち寄り、バイロンベイコーヒーとボリュームたっぷりのパンケーキ(朝食)を楽しみ、ローストしたマカダミアナッツ(ハニー味、わさび味、ガーリック味他)を購入してからシドニーに向かう。

さて、今回もドライブ中に幾度となくレストエリアに立ち寄ったが、至る所に「LITTER!」という立て看板を見掛けた。「Report Littering from Vehicles」と書かれているが、簡単に言えば「車からのゴミのポイ捨てを知らせてください」ということだろう。

「Don't be a Tosser Campaign !」と言われるこのキャンペーン、「Tosser」を直訳すれば「トスする人、放り投げる人」なのだろうが、俗語に「馬鹿なやつ、ろくでなし、嫌なやつ」という意味もある。

「ろくでなしになるな!キャンペーン」の方がどこか説得力がある。

偶然ポイ捨てに遭遇したり発見してから14時間以内に車のナンバーや場所・時間他を所定の連絡先に報告すると、通報された者には最低A$250(2万4千円ほど)の罰金が科せられるようだ。

キャンペーンの概要では、「Hey Tosser !」と声を掛けるアプローチから開始し、ゴミを捨てた者に個人の責任を理解させることや会話の中で言い訳や反論を引き出すことも勧めている。
日本なら、そんなことをすれば、レストエリアを出発した途端、"煽り運転"の目に遇いそうだが・・・

マック・カフェで休憩しながら、何気なくテーブル前の立て看板を眺めていたが・・・

ふと、「日本でもこのようなキャンペーンって行われているのだろうか?」と考えた。

ここ数年、日本を旅する際にレンタカーを利用することが多い。

日本の運転免許証は随分前に失効してしまい、私は国際免許で運転している。

ドライブ中、「道の駅」が見えてくると必ず立ち寄ってしまうのだが、このような告知を見掛けたことは無いし、レンタカーを借りる際にスタッフから注意されたことも無い。

立て看板の内容を読みながら、ドライバーのマナーという観点から考えれば、周囲が目を光らせることはとても重要なことかもしれないなぁと思えて来た。

 

昨日のニュースで、藤沢市が海や海岸のゴミを集め、それをモニュメントにして展示し、訪れた人にクリーンな町づくりをアピールする試みが伝えられていたが、きっと人の良心に訴えることで効果を狙っているのだろう。片やオーストラリアでは、「ゴミを捨てる者を絶たなければ効果は望めない !」という視点から、もっと直接的にコミュニケーションや通報を奨励している。

物事を荒立てることや密告などを嫌う(悪く言えば事なかれ主義ともいえる)日本人の国民性、良いことは良い、悪いことは悪いとキッパリ発信するオーストラリア人の国民性、そんな国民性の違いから、オーストラリアではこのようなキャンペーンが成り立つのかもしれない。

賛否両論、どちらが正しいとは言えないが・・・

そろそろ日本人も誰かがやってくれるという第三者的な目(参画)ではなく、自分の健全な生活を守ることにもっと積極的に足を踏み入れるべきではないだろうか?クリーンで健全な生活を守るために警察や交通局に通報するのは、密告でも"チクリ"でも無く、そこで生活する者の当たり前の権利と言うか義務ではないだろうか?

幸いにも、今のところ日本でゴミのポイ捨てなどを目撃する機会は無いが、例えば北海道の真っ直ぐな道を制限速度の50kmで走行していると、パッシングされたり幅寄せをされることはある。元々、パッシングには「先に行きたいから道を譲って欲しい」という意味があるそうだが、決してそのようなソフトさは感じられない。もちろん、私は「どうぞ追い越して下さい」という姿勢を貫いている。

日本では "煽り運転" が社会問題になっているようで、大きな事故に繋がったケースも耳にする。

日本では、電話機能が搭載された車も多いと思われ、また、助手席の者が警察に通報することも出来るのではないか?と考えるのだが・・・

 

日本を旅する際、私達の借りるレンタカーにカメラが搭載されている訳も無く、何かの場合に助手席の妻が動画を残す意識を共有している。言ってみれば自分達の安全を守る準備のようなものだ。

幸いにも、そのようなケースには遭っていない。

とにかく、私自身が「ろくでなしになるな!キャンペーン」を心掛けたいものだ。


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先週、土曜朝7時のNHKニュースおはよう日本で、"築地の魂次世代に 市場移転前に町が団結"という特集が放送された。築地(場内)の豊洲への移転を前に、場外の店主たちが築地の祭りを次世代に引き継ごうと努力する姿が特集されていた。*簡単に説明すれば、場内はプロの買い付け人向けの卸が並び、場外は一般向けの小売店やレストランが軒を連ねている。

訪日の際、私は必ずと言っていいほど、築地界隈に1泊して空港に向かう。成田からの出発なら、上野まで地下鉄日比谷線で近いし、羽田の出発も東銀座から1本、その便利さもあって、日本での仕事を終え、出発の前日に築地に1泊するのが楽しみになっている。

銀座から歩けるのに、探せばリーズナブルなビジネスホテルもあり、シドニーへの土産はほとんど築地で買い揃えることにしている。もちろん、贅沢品を買う訳ではなく、定番は"さつまあげ"、"かまぼこ"、"しらす"、"煮魚パック"、"煮豆"、"サバの干物"など、我が家の食卓のおかずばかり。最近は築地でも、サバの干物はノルウェー産やフィンランド産が多くなったが、それでも日本向けに加工されたものと思えば、シドニーで手に入るものとは、味のランクが違う。

 

それと築地の楽しみは、何と言っても朝早く土産を買い揃えながら食べる朝食である。

慶大ラグビー部元監督の故上田さんは、ブログによく築地の寿司屋で食べる朝食をアップされていたが、私のお気に入りは、おにぎり屋なのだ。小さな店だが、6、7人のおばちゃんたちが朝早くから握っているおにぎりは絶品であり、上質の米とたっぷり入った具が私の早朝の空腹を満たしてくれる。

絶対外せないのは"親子" 、焼き鮭とイクラがたっぷり入って238円・・・

ほお張った瞬間、必ず「きのうは、やっぱり締めのラーメンを我慢して良かったぁ!」と思う。

それと、素通りできないのが、そのおにぎり屋から20mほど離れた玉子焼きの「山長」、鰹だしのたっぷり効いた1串100円の玉子焼きにありつくため、私は例え行列が出来ていても、大人しく並ぶ。

 

かつて、土産を買うために必ず立ち寄る店があった。

甘さ控えめの大福を売る「築地ひさまつ」、この店を訪れる度に、私は、塩大福(こしあん)30個、よもぎ大福20個、ごま大福20個、と大量に購入する。それをシドニーの持ち帰り、冷凍し、それが約半年間のお茶菓子になる。それがシドニーで暮らす中年夫婦のささやかな楽しみなのだ。

冷凍しても、半年経っても、モチモチ感や味は変わらない。

確か2度目にその店を訪れた時だった。

「おじさん、冷凍のやつくれる」

「前にもいっぱい買ってくれたよな、そんなにどこに持って行くんだい?」

「オーストラリア・・・ 女房がここのこしあんが大好きなもんで」

おじさんはお茶を出してくれ、何個かおまけしてくれた。

次に訪れたのは確か夏の暑い日、「おじさん、暑いから体に気を付けなよ」と言うと、「俺、あんまり調子良くねーんだよ!あそこにちょっと入院してたんだ」 指差した先は築地の癌研のビルディングだった。

私の訪日は半年に一度ぐらいだが、次に立ち寄った際には店が閉まっていた。

「今日は休みなのかなぁ?」 「おじさんの体調が良くないのかなぁ?」 「待てよ、閉店しちゃったのかなぁ?」 などと思いながら、「築地ひさまつ」の看板の前を通り過ぎることが続いたが・・・

何度目かに、見知らぬおばさんがこの店の開店の準備をしていたので、「あれ、おじさんは?」と尋ねると、おばさんは沈んだ声で「実は、主人はつい先日亡くなったんです・・・」と言った。

言葉に詰まっていた私に、「私、主人から聞いてましたよ。オーストラリアに住んでるお客さんが、いつもたくさん買ってくれるんだって・・・」 「 お客さんだったんですねぇ・・・」

単なる通りすがりの客である私をおじさんは覚えていてくれた。そして、おじさんは私のことを奥さんにまで話してくれていた。それだけで私は泣きそうだったが・・・

おばさんがお茶を出してくれた。毎日一人で重い大福を運び入れ、一人で販売し、一人で片付けもする、それは女性には重労働であり、考えるだけで大変そうだった。決して贅沢な暮らしをしているとは思えなかったし、以前おじさんから、埼玉か千葉から毎日朝早く通っているんだよと聞いた記憶があった。

もちろん、私は店主がおばさんに変わっても、訪日の度に土産としてこの大福を大量に買い続け、その度にシドニーで私の帰りを待つ女房を喜ばせた。

 

いつも私が買いに行くのは朝早く、おばさんが懸命に開店の準備をしている頃で、まだ一般客は少ない時間帯だった。店先でお茶をご馳走になっていると、隣のシュウマイ屋のおじさんが必ず顔を出し、気さくに話し掛けてくる。おばさんの話では、重い荷物を運びこんだり、男手が必要な時にはいつもこのおじさんが快く手伝ってくれるそうだ。

それは、きっと「築地の人情」っていうやつなんだろう。

それからも半年に一度は大福を買うためにおばさんの「ひさまつ」に寄ったが、その度に隣のおじさんと話し込み、いつの間にか、おじさんは私を「加藤さん」と呼ぶようになった。

私はこのおじさんに自分の名前を名乗った記憶は無かった。話してみると、おじさんの親族に早稲田実業のラグビー部員がいて、おじさんは随分昔から早大ラグビー部を応援しているということだった。

「フォワードの加藤さんだろ。加藤さんは確か主将をした橋本や金澤と同じ頃だったよね」

確かに橋本も金澤も同じ時代にプレーした仲間であり、2人は1年違いの主将、共に早実の出身だった。

正直その言葉には驚いたが、悪いことは出来ないものだと思った。

 

つい2年ほど前、大福屋の「築地ひさまつ」は、突然閉店してしまった。

隣のシュウマイ屋のおじさんの話では、ひさまつのおばさんは一生懸命一人で切り盛りしていたけれど、厳しい仕事が祟って腰を悪くし、仕事を続けるのを諦めたということだった。

今も築地を訪れる度に、必ずその前を通るが、もうそこに「築地ひさまつ」の看板は無い。

それでも、シュウマイ屋のおじさんが人懐こい笑顔で私を見掛けると喜んでくれる。

「オーストラリアは肉類の持ち込みが禁止されてるから、シュウマイは持って帰れないんだよ」

「そんなことはどうでもいいから、1個食べなよ」と言って、ホカホカのジャンボ・シュウマイをご馳走してくれる。私も「セミナーで使った残りなんだけど・・・」と言ってワラビーズのラグビーキャップを渡す。

 

NHKの築地特集では、先祖代々大切に保管されてきた神輿(みこし)を築地場外で働く人たちが代わるがわる担ぎ、場内外を練り歩く映像が映し出されていた。法被(はっぴ)姿の勇壮な男たちに混じって近隣ホテルの女性スタッフも制服のまま神輿を担ぎ、その誰もが肩を寄せ合い、この祭りの目的だった団結しようという心意気が画面から伝わって来るようだった。

築地の祭りは大成功に終わるが、企画の段階から準備、実施まで中心となり奔走した確か点心を売る店の店主の涙は実に感動的だった。

彼は「築地の魅力は"人情"」と言っていた。

 

日本を出発する前に築地に寄り始めてから10年を超える。

2010年にたまたま購入し、私の部屋の本棚に置かれていた"大人の週末"という雑誌を久しぶりで開いてみたが、なんとそこに「築地ひさまつ」の紹介が載っていた。たぶん、お金を払って載せてもらった広告に違いないが、その小さな写真の中にあのおじさんが映っていた。

人情とは、「人の持つありのままの心」とか「人に対する思いやり」を意味するが、築地の人情には、「食に対する心意気」というか、食に対する「粋(いき)」や「粋(すい)」が感じられる。

これみよがしの主張はせず、そこには本物を扱う自信というか、まずは黙って食ってみなよ!というような "さっぱりした気立て" のようなものをいつも私は感じるのだ。

時代が変わり、外国人観光客が団体で押し寄せ、ピーク時には普通に歩くこともままならないテーマパークのような築地場外、そんな中にも築地の魂を残そうとする人たちがいる。

そんな彼らが私を「次回も築地に行こう!」という気持ちにさせるのだ。


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日本ではカジノを含むIR (Integrated Resort/総合型リゾート)法案が取り沙汰されているが・・・

私の住むオーストラリアは、カジノはあるし、世界でもギャンブル(賭け事)の盛んな国の一つと言える。

ほとんどのスポーツがベット(賭け)の対象となっており、一般向けのTV番組の合間に、「スポーツベット」の愉快なコマーシャルが普通に登場する。

もちろん、ラグビーもその対象であり、勝敗だけでなく、「最初にトライする選手は誰か」「最初のトライはキックオフから何分以内か」等々、ベットの細かいカテゴリーがあるようだ。

それがスマホで簡単にベット出来るのはアナログ世代の私には驚きである。

 

スーパーラグビー「サンウルブズVワラタス」戦が、先週末シドニー・フットボールスタジアムで開催されたが、息子から「最初のトライ、アキに5ドルベットするよ!」と電話があった。

サンウルブズやジャパンの代表として活躍するアキこと山田選手、慶大時代を含め2度のラグビー留学の際に、ガーディアン(身元保証人)を担った縁から、彼は私達家族の一員となり、同世代の息子達とは兄弟のような関係を保っている。

今回もシドニー到着後に直ぐ連絡をくれ、息子達とはトレーニングやミーティングの合間にカフェで再会を果たしたようだ。サンウルブズは惨敗だったが、その中でアキは2トライの活躍、それもあのワラビーズの正FBファラオを抜き去ってのトライは、彼の世界レベルを証明するトライだった。その結果、彼は先週のスパーラグビー・ベスト15に選出された。ただ、残念だったのは、彼のトライはその試合の2番目だったため、息子はベットに勝てなかったはずだ。もちろん、そのベットに勝っても負けても、私達家族がアキの活躍を願ったことに変わりはなく、オーストラリアではこんなベットが家族の楽しみの一つなのだ。

 

「ギャンブル等依存症対策基本法案」の概要が政府のウェブにPDFで記載されているが、その文章からは、どのような対策がなされるのか?具体的対策の内容が私には見えて来ない。

今週月曜日の新聞記事に、元関脇「貴闘力」親方のインタビュー記事が記載されていた。

彼自身、ギャンブルで今までに5億円は負けたという。また、自殺者も何人か知っているという。

「お金を稼ぐ云々よりもギャンブルそのものが目的となる」 「入場制限があっても依存症対策にはならない」 「韓国人が入場できない韓国のカジノ」 「日本に1万軒あるというパチンコ屋には営業時間があるが、カジノは24時間営業」 「レジャーランドにカジノをくっ付ければ手っ取り早いと考える国会議員」 「依存症の気持ちなど政府には分からない」 「日本のお金持ちは日本のカジノには行かない、マイナンバーカードの提示で履歴が残るし、大負けすればうわさになる」・・・

ギャンブル事情に詳しく、実体験を踏まえた貴闘力親方のインタビューへの回答は実に面白い。

では、親方は行きませんか?という質問に、「そりゃ、行きますよ」と締め括っているのが笑える。

訪日の際に彼の経営する東京江東区の「焼肉ドラゴ」を何度か訪れたことがあるが、客と気さくに会話する親方の姿勢が客を呼ぶのか、とても繁盛しているようだ。奥のテーブルでは、TVなどでよく見掛けるお笑い芸人のグループが大騒ぎをし、きっと彼らは常連客なのだろう。

「相撲協会をクビになったのはギャンブルのため!」と公言する彼は、ギャンブルの怖さを伝えることが私の義務と胸を張る。*写真は焼肉ドラゴにて

ロシアで開催されているサッカーW杯も終盤を迎えているが、日本戦で退場になったコロンビア選手に対する「暗殺予告」がネット上で話題になった。かつて、コロンビアではW杯でオウンゴールした選手が暗殺される事件があった。私は今回のレッドカード(退場)を観た瞬間、「また、同じ事件が繰り返されるかもしれない」と考えた。画面に映し出された監督の表情も、そのような状況を連想させた。

オウンゴール選手の暗殺事件を、私は「自国のサッカーを愛するあまり」とか「国の名誉を失墜させたから」など、熱烈ファンの行き過ぎた行動と能天気に考えていたが、その真相は勝敗の裏に隠された金銭的なやり取りだったのではないだろうか?もちろん、単なる私の推測に過ぎないが・・・ 麻薬大国コロンビアで、例えば麻薬組織は「ローリスク、ローリターン」の試合に大金を賭け、小さな配当でも結果として合法的に大金を手にしようとする。W杯の全ての試合が賭けの対象となる中で、コロンビア国内の下馬評は、第一戦目の日本戦は楽勝間違いなしだったはずで、大金を賭ければ間違いなく合法的に大きなリターンがあると踏んでいたはずだ。しかし、その的が外れたことで、その矛先は、当然その原因を作った者に向けられる。「暗殺予告」は、そんな流れだったのかもしれない。オーストラリアでは、よくポリスの水際作戦で大量の麻薬(末端価格で数十億ドル規模)が摘発されるが、私はそんなニュースを観る度に、この摘発で何人が殺されるのだろう?といつも考えてしまう。麻薬組織にしてみれば、サッカー選手は国の誇りなどではなく、単なる賭けのコマに過ぎないのかもしれない。

日本にカジノがオープンすれば、間違いなくスポーツベットなどのギャンブルにも波及するだろう。その場合、日本では麻薬大国のような事件までは進展しないかもしれないが、"八百長試合" などが蔓延(はびこ)る可能性は否定できない。

 

つい先日、FOXクラシックムービーで「ゴッドファーザー」パート1~3までを観賞する機会があった。パート1を観たのは中学生の頃だったが、巷で大騒ぎされていた割に退屈な映画というイメージだけが残っていた。今、この歳になって観てみると、なるほど凄い映画である。特にパート2では、初代ゴッドファーザー 「ビトー・コルレオーネ」の後を継いだ若き「マイケル・コルレオーネ「(アル・パシーノ)が、父親の歴史を辿りながら、徐々に頭角を現して行くストーリーで、マイアミやキューバへのカジノ事業の利権拡大も描かれている。利権争いの中で、多くの登場人物が無残に殺し殺される。1900年代前半の話であり、もちろん、時代背景は今とは全く異なる世界なのかもしれないが、ネットの情報等を拾い読みすると、日本のカジノ・オープンにはトランプ大統領の肝いりでアメリカのカジノ業界の参入が確かなようで、表裏全てにクリーン且つ安全性が保たれるのかどうか?

映画の影響かもしれないが、私はそんないらぬ心配をしてしまうのだ。

 

10年も前のことだが、息子が大学院生時代に、親友の父親が支配人をしていた「べネロング」というシドニー・オペラハウス内にあるレストランでウェイターのアルバイトをしたことがある。その支配人がヘッドハンティングでシドニーのカジノ「スターシティ」(現在のザ・スター)レストランの支配人として鞍替えすることになり、息子も一緒にそのレストランに引き抜かれた。

ウェイターとしてフロアに立った初日、あのタイガー・ウッズが客として現れたそうだ。シドニーで開催された大会に出場し、リラックスやリフレッシュのために訪れたのだろう。

働き始めた頃、息子は「チップが凄いんだよ、給料よりも多いことだってあるんだ」とはしゃいでいたが、息子が自分で決めたアルバイトであり、年齢的なことも考え、私はアルバイトの件で息子に一切口を出さなかった。

働き出してから数週間後、「僕、あのレストランで働くの辞めたよ」と電話があった。

一晩に大金(時には1億円以上)をスッた客が、そのレストランにやって来て、彼らは何を飲んでも食べても良いらしく、レミーマルタン・ルイ13世をがぶ飲みし、ロブスターを何尾か食べて帰る・・・
「僕、毎日のようにそんなの見てたら、そこで働いているのが嫌になっちゃって・・・」

まあ、息子にとってその経験は良い社会勉強の機会だったのかもしれない。
息子は大学院卒業後に教員となり、幸せな結婚もして、一歩一歩確かな道を歩んでいる。

 

私は日本にカジノがオープンすることに賛成でも反対の立場でもない。

30年間日本を離れているため、政治には口出しをしないことも決めている。

私自身は、ギャンブル(賭け事)を一切やらないという訳ではなく、ゴールドコーストなどを訪れる際には、有名なコンラッド・ジュピターズ・カジノ(最近、GCハイウェイ沿いに新たなビルが建設され、名前も資本も変わったようだ)を訪れることもある。ただ、ルールを覚えないため、出来るゲームが限られているし、タイトな日程の合間だったり、使う金額の上限を決めているため、いつも「ちょい勝ち or ちょい負け」というのが関の山だ。

仕事柄、私は日本からオーストラリアを訪れる方々と接する機会が多いが・・・

時には彼らを案内してカジノを訪れることもある。

「日本に戻ったら、直ぐに送金するので、5,000ドル貸してくれないか?」と言われたことがある。滞在中、彼がカジノに入り浸りだったのを私は知っていた。団体のリーダーであり、彼は私が断れない立場と知って無理を言ったに違いなかった。それを貸せば、戻ってこないのは目に見えている。彼とは別人だが、かつて同じようなことがあり、不覚にも私は現金を渡し、その後何度連絡をしても送金は無く、最終的に知人を介し、貸した金を返してもらうのに1年以上掛かった。そんな彼らが、別世界の人たちかというとそうではなく、高学歴、家族もあり、一見誰からも尊敬されるような人物なのである。

私は「日本に戻って直ぐに送って頂けるのでしたら、日本から5,000ドル私の口座に送ってもらって下さい。それをそのままお渡ししますので」と言って口座番号を渡した。送金されてくることは無かったが、彼は仲間から金を借りまくっていたようだ。そんな彼らとの関係は、その時を境にプツンと切れてしまった。

正に「金の切れ目は縁の切れ目」なのだ。

日本にカジノがオープンすれば、家族や親戚縁者、友人から金を無心する連中が増えるかもしれない。そして、それが犯罪に発展するかもしれない。また、今ですらパチンコ屋の駐車場に子供を置き去りにしたまま車を施錠し、尊い命が失われるニュースをよく目にする。

そのような状況の日本で、24時間不夜城のカジノがオープンすれば・・・

 

日本を訪れる旅行者を増やすため、国益のため、地域の活性化のため・・・
取ってつければ、大義名分は幾らでもあるだろう。

ただ、本当に日本の一般市民は日本にカジノがオープンすることなんて望んでいるのだろうか?

カジノを訪れる度に私が感じることは、生活とはかけ離れた旅行気分のような高揚感なのだ。それはそれでリフレッシュにはなるが、5ドル安いランチを選んで食べ、20ドル、熱くなれば50ドルが秒単位で吸い込まれていくのを見ながら、「俺はいったい何をやっているんだ!」と思うことがある。ちょっとでも勝てば良いが、上限を決めていても財布がスッカラカンになった時のショックは結構尾を引くものだ。そんな時、自分に対する言い訳をどこかに探している自分が嫌になる。

貴闘力親方は、「相撲だって、負けても次は勝てると思うから続けられる。次も負けると思えばもうやらない訳で、次は勝てると思うか、負けると思ってやめるかは、その人の性格・・・」と、インタビューに答えている。それは、次は勝てると思い続けた勝負師の言い訳なのかもしれない。

 

正直に言えば、私は日本にカジノは似合わないと思う。

長年オーストラリアに住み、私は日本に住んでいた頃よりも日本を良い国だと思うようになった。日本を訪れたことのあるオーストラリアの仲間達の誰もが日本を絶賛し、また行きたいと言う。

歴史に培われた落ち着いたお国柄や季節毎に変る自然の美しさ、クリーンさや安全性、そして何と言っても世界に誇れるのは日本人の"おもてなしの心"だ。

日本には土地土地に美味しい食材があり、そして土地土地の料理がある。生鮮市場や美味しいコンビニ、安売り品やお値打ち品が揃うショップ、更に質の良い高級品を揃えるショップなどがどこにでもある。
それから、どの地方を訪ねても、そこには地元の祭りや文化、そして素晴らしい温泉がある。

 

日本にカジノがオープンしても、私が行くことは無いだろう。

なぜなら、私には日本に行きたいところがいっぱいあるからだ。

私と同様、どう考えても日本を目指す一般の外国人がカジノを目的に日本に向かうとは思えない。そして、カジノがオープンしたからといって、外国からのツアー客が増えるとも思えない。

彼らが日本に魅力を感じるのは日本の温かさなのだ。


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昨年、シドニーで行われた長男の結婚式に日本から兄夫婦が出席した。

「何か欲しいものはないか?」

日本を出発する数日前に、兄からそんな電話が掛かって来た。

「そうだなぁ、やっぱり、きんとん饅頭かなぁ・・・」

そんな私の返事に、電話の向こうで兄と義姉の笑い声が聞こえて来た。

栃木県塩谷郡高根沢町、東北本線宝積寺駅近くの朝日屋という和菓子屋で販売されているもので、その饅頭は大正時代から手作りされ、製法や味は変わっていないと言う。

栃木県人のローカルスイーツであり、私に言わせればソウルスイーツ(魂のスイーツ)なのだ。

おせち料理のきんとんを独特の柔らかい生地で包んだ饅頭で、味は確かに幼い頃の記憶と変わらぬ美味しさだ。包装紙も独特で、私が記憶している50年以上は変わっていないはずだ。宇都宮の駅デパート(呼び名は色々変わったが、私は今も駅デパートというのがぴったり来る)や駅の売店には、その包装紙に包まれた大小の箱がうず高く積まれている。

福島の薄皮饅頭、広島のもみじ饅頭、どこそこの温泉で売られている温泉饅頭・・・

日本中にご当地饅頭は数々あれど、私にとってのソウル饅頭は、やはり「きんとん饅頭」なのだ。

 

私の父は高根沢町中阿久津(宝積寺駅が最寄駅)で生まれ育ち、その界隈に親戚も多く、行き来の際に、いつもこの「きんとん饅頭」が挨拶代わりの土産として使われた。私はこの饅頭が大好きだったが、高校生になると、部活の後に「餃子」や「駅蕎麦(えきそば)」(駅にある立食い蕎麦をそう呼んだ)を食べて帰ることが多くなり、その後大学生になり地元を離れるとほとんど食べる機会はなくなった。

 

シドニーに移住して30年、仕事の関係で訪日する機会は多く、父や母が健在だった頃はよく実家に足が向いた。私の実家は東北本線宇都宮駅と宝積寺駅の間の岡本駅近くにあるが、今も田畑が残る閑静な田舎町で、実家の前には父や母が愛し、現在も義姉が耕す野菜畑が広がっている。シドニーに住む私には、実家で食べる炊き立てのご飯や畑から取って来たばかりの野菜は、世界中、何処の日本食レストランでも味わうことのできないご馳走である。

私には、里帰りをする度に、私に会うために必ず顔を出してくれる親友がいた。

彼は、私が連絡を入れる前に、必ず私の帰郷をどこかから聞きつけてやって来る。

まるで田舎の温かさを描いたドラマや映画のようだが、彼はいつもそんな感じでひょっこり現れた。

菅又佳郎 ー 地元を愛し、家族を愛し、仕事を愛し、母校を愛し、そして友を愛し・・・

自分に関わる全てを大切にする男であり、保険代理店や旅行代理店を経営していたが、社長自ら足繁く顧客を訪問し、心のこもった仕事を心掛けるナイスガイだった。そんな彼の人柄や仕事ぶりは地元住民からも高く評価され、彼は高根沢町会議員を務めた。

そんな彼が、10年ほど前に突然亡くなった。

彼の人柄を愛し、信頼していた母や兄、そして友人からシドニーの私に彼の悲報が届いた。

里帰りすれば必ず会えると思っていた彼はもういない・・・ そう思うと本当に悲しかった。

私が里帰りし、実家を出発する朝、彼は必ず「きんとん饅頭」を手に実家に顔を出し、私を見送ってくれた。私を「とっちゃん」と呼び、「とっちゃん、次はいつ来んだ?体に気をつけろよな!」という飾らない彼の栃木弁に、私はいつも心癒される思いだった。

 

彼は宇高(宇都宮高校)の1年先輩だった。

全校生1,000名ほどの高校で、学年が違えば話す機会はほとんど無い。増してや部活などが違えば尚更である。私は「ラグビー部」、彼は「生物部」、動と静とで二人が交わる可能性は極めて低かった。しかし、私は彼が運動部員以上の「アクティブ生物部員」であることを知ることになる。

 

彼が3年生、私は2年生、共に伝統の宇高弁論大会に出場する機会があった。

私の題目は、「このペットブーム、母にとってのペット僕たち」。

親離れしない我ら若者たちと子離れしない親たちがテーマだった。

今考えれば、私たちが高校生だった時代よりも、むしろ今の時代に論じられるべきテーマかもしれない。

その中で、私は歴史的人物の親子の別れをいくつか取り上げた。

吉田松陰と家族の別れの場面。死を覚悟し、腰縄をかけられ唐丸籠で護送される松陰、気丈な母は涙一つ見せず息子を見送ったと言われており、松陰は萩の街を見渡せる松並木の端から「帰らじと思いさだめし旅なれば、ひとしおぬるる涙松かな」という歌を詠んだという。

また、「桜井の訣別(別れ)」として戦前の教育に使われた楠木正成と正行親子の別れの場面。死を覚悟の上で足利尊氏との戦いに臨む正成(父)は、伴に戦う意志に燃える息子正行に別れを告げる。正行は泣く泣く父の言葉に従い、後々、後醍醐天皇を助け「南北朝時代」への道を切り開く。

この親子の別れは「桜井の別れ」として歌に残され、昭和一桁世代なら知らない人はいない。私は、その歴史、そして、歌詞や旋律を母に教えられた。

弁論大会に戻るが、100有余年の歴史を誇る講堂の壇上で、私はこの歌を高らかに歌い上げ、「獅子は我が子を戦陣の谷へ突き落すという、もし、我が父が我が母がそれをしないなら、我々は自ら戦陣の谷へと落ちようではないか!」と締め括った。

それを歌ったために規定時間を大幅にオーバーし、大きく減点されてしまった。 

 

菅又の題目は忘れてしまったが、テーマは明確に覚えている。

「こしひかり」についてだった。彼の実家は塩谷郡高根沢町の農家である。1956年(昭和31年)に、「こしひかり」と命名登録され、1970年代後半から日本の作付面積の1位を独占した銘柄米について、彼は熱く論じた。生物部の彼は、「こしひかり」の学術的分析結果を基に、過去と現在、将来をしっかり見据えた見地から論点をまとめていた。そして、「こしひかり」は、あれから半世紀以上経つ今も高いブランド力を維持している。私が1年生だった前年の弁論大会でも、彼は「こしひかり」について論じ、2年目は前年の続編と言うか完結編としてまとめていた。菅又が惚れ込んだ「こしひかり」の研究発表(弁論)を今振り返ってみても、半世紀前の彼の展望は正しかったのだろう。

弁論大会には10数名がエントリーしたが、私と菅又が3位以下を大きく引き離す結果だった。

ただ、規定時間を越えた減点により、僅差で菅又が優勝、私は2位だった。

思い起こせば、双方のテーマは今の時代につながる内容であり、きっと質の高い弁論大会だったに違いない。正直、今になって私は彼とあの弁論大会の思い出を語り合ってみたかった。

先日、沖縄「慰霊の日」に行われた中学生(14歳)の詩の朗読を観ながら、中学生?という驚きと共に、深く感銘を受け、平和への願いを新たにする思いだった。史実をしっかり見つめた彼女の朗読、14歳の中学生がどのようにあの詩を描き、朗読の草案を準備したのだろう?など考えながら、私は若き日の良き思い出である弁論大会を思い出していた。

 

弁論大会の後、同じ東北本線や日光線で通う菅又と、どちらからともなく話すようになった。

きっと彼の育った環境や性格からなのだろう、彼の言葉や振舞いには1学年下の私に対しても敬意が感じられ、それまでスポーツ系の仲間の多かった私には、彼との会話がとても新鮮だった。

ただ、彼との友情が深まる前に彼は私より1年先に卒業し、大学、社会人、88年に私はオーストラリアに移住・・・ その間、彼と話す機会は無く、そのまま縁が途絶えてしまっても不思議は無かった。しかし、彼は私の母や兄と親しい縁を続けていてくれた。

98年に私は海外遠征のコーディネートの仕事を開始したが、遠征チームの保険を彼に依頼したことから、再び彼とのやり取りが始まった。その頃から私の訪日の機会が増えるようになり、その後の10年間、私は里帰りの度に彼と再会するのが楽しみだった。

 

その頃、私はオーストラリアの進んだコーチングを日本に広めるプロジェクトを手掛けていたが、彼は真面目に私の夢に向き合ってくれた。ラグビーの世界を知らない分、彼の言葉はいつも客観的であり誠実だった。ヒートする私を抑えながらも熱い心が感じられた。

彼が愛した母校「武蔵大学」、私はラグビー部をコーチングする機会に恵まれ、偶然にもOB会の重鎮から菅又がどれだけ母校の発展に寄与しているかを耳にした。菅又自身から直接聞くことは無く、彼の努力は全てが「草の根の努力」だった。

 

私は彼ともっともっと人生について語り合いたかったし、教えて欲しかった。

そして、誠実な彼が町会議員から県会議員、国会議員へと活躍の場を広げるのが私の夢だった。

もちろん、彼は私の心の中で生き続けているが・・・

彼に会いたい!

植物を何よりも愛した彼の言葉や振舞いには、いつも物事に対する「草の根の心や精神」が感じられた。よく彼は、「大事なのは、根っこなんだよ!」と私に言った。

日本では猛暑日のようだが、シドニーの今朝の最低気温は2℃。朝焼けが美しかった。

そして、今日7月1日は私の父の命日である。

父の写真の前に父が愛した日本酒を供え、父と同郷の菅又の思い出を辿っている。

そして、二人の故郷の銘菓「きんとん饅頭」があればいいのに・・・ と思いながらお茶を飲んでいる。


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「唐突に連絡を入れて申し訳ありません」

3月にこんな書き出しのメールが届いた。

そのメールは、2016年のオーストラリア遠征の際に、入院という貴重な(?)体験をした選手M君からだった。父親とはメールのやり取りがあり、その文面にはM君が大学に進学したことやラグビー部に所属したことなどが書かれており、M君が元気にキャンパスライフをエンジョイしているのが想像出来た。

M君から届いたメールには、短期留学のため再びオーストラリアを訪れるという報告が書かれ、「今回は怪我などしないよう気を付けながら、頑張りたいと思います。加藤さんにお会い出来たら嬉しいです」と書き添えられていた。

M君が大学に進んでからもラグビーを続け、たぶん彼には辛い思い出の残るオーストラリアを再び目指してくれたことが私には嬉しかった。

彼の遠征中の入院はトレーニングや試合での怪我ではなく、日本で害虫に刺され、化膿したまま遠征に参加し、それが日本と異なる環境で更に悪化した結果だった。両足に数え切れないほどの虫刺されによる傷が残り、足全体が腫れあがっていた。

 

キャンプ中はオーストラリアのコーチ陣がコーチングを担当し、完璧にプログラムされたセッションが繰り返される。選手達は通訳の指示に従ってプレーを重ね、個人スキルやチームスキルを高めて行く。日本側のコーチ陣は、選手以上に熱心にメモを取る。海外遠征の目的は国際交流など様々だが、限られた期間(時間)の中で、グラウンドはコーチや選手達が共に集中して学ぶ場として、誰もが真剣そのものなのだ。

私の役割は、多岐に渡る事前準備や問題点を見つけて素早く改善することであるが、取り分け私が気にするのは選手達のコンディションである。トレーニング前のグラウンドで、まず私は選手全体を見渡し、少しでも気になる時は私から声を掛ける。

その朝、トレーニング開始前のM君とトレーナーとのやり取りが気になったが、結局、M君はその朝のトレーニングには参加せず、水汲みなどのサポート要員に回ることになった。

学生時代、「三味線を弾くな!」という言葉がよく使われた。大した怪我でもないのに、大げさに痛がり、練習を抜けるような選手に向けて発せられる言葉だった。M君がそのような選手なのか?私には分からない。私はそれが気になりM君の背中を追った。M君はサポート役の仕事をこなしていたが、コーチ陣がトレーニングに集中し、彼を見ていない状況でも、彼は時折かがんでは足をさすり、その仕草は見るからに辛そうだった。顔も赤く、熱があるようだった。

「病院に行こう!」私は声を掛けたが、M君は明らかにコーチ陣の様子を気にしていた。そこには何を言われても盲目的に従わざるを得ない空気が感じられたが、私は無理やりM君を車に乗せ、コーチ陣には一方的に「病院に連れて行きます!」とだけ伝え、グラウンドを離れた。

 

医師の診断は・・・ この地域で症例がなく、検査が必要ということだった。取りあえず、知り合いの看護師に彼の面倒を依頼し、私はグラウンドに戻った。

*知り合いの看護師は看護師長で、前年の4月に私の紹介で新潟の高校に留学したオーストラリア人選手の母親であり、父親も麻酔科の医師だった。

私の稚拙な語学力で、医師の診断を間違えて解釈してはいけないと思い、トレーニング終了後に通訳(私の息子30歳/3歳からシドニーで育ち、日本のトップリーグで6年間の通訳経験を持つ)を連れ、再度病院に向かった。その際、私からアシスタントコーチにお願いして病院に同行してもらった。
選手の安全が最優先のオーストラリアのスポーツ界にどっぷり浸かっている私には、トレーニング開始前のトレーナーのM君に対する言葉も含め、選手の怪我や病気への対応は、30年以上も前に私が日本でプレーした頃とあまり変わっていないように感じられた。

病院はサンシャインコースト地域で有数の大きな総合病院だったが、長男(通訳)の聴き取りから、医師や看護師は症例についてあちこちに確認してくれているようだった。いずれにしても、余談を許さない一刻を争う状況であり、M君は入院を余儀なくされた。

その後の詳細は省略するが・・・

医師が下した診断の概要は、あの時点で病院に連れて行かなければ、最悪の事態にもなり兼ねなかったようで、私はM君を無理やり病院に連れて行き、胸を撫で降ろす思いだった。

本隊は、彼を残し日程通りに遠征終了後に日本に向け出発し、日本から両親が駆け付け、症状に落ち着きが見えた頃に、30km離れたこの地域最大の総合病院に転院した。

私に出来ることは限られていたが、午前・午後のトレーニングの前後に病院を訪れ、訪問の度に、特別のキャップ、マスク、エプロン、ゴム手袋を装着して病室に入り、直接彼を励ますことを欠かさなかった。必要に応じて、通訳(息子)を連れて、医師や看護師から症状について確認することも忘れなかった。

この遠征を受け入れたラグビークラブの責任者も、何度も病院を訪れ、チョコレートなどを持参し、ジョークを言ってM君を励ました。きっとそれは選手の不安を緩和させるためのオーストラリア流のマナー(文化)に違いなかった。

 

監督は日本側(学校長や保険会社、父母)との電話連絡に忙しく、時折私に話す言葉には、学校という組織の一員としての責任の重さや大変さを感じさせた。

トラブルは重なるもので、最終の交流試合で2人の選手が怪我を負い、私が付き添って彼らを病院に搬送した。6時半頃に病院に向かい、検査や応急処置を終えてホテルの戻ったのは午前0時を過ぎていた。出発前の空港で、膝を怪我した選手のために、航空会社の地上スタッフに頼み込み、ウィルチェア(車椅子)の手配や足の伸ばせる非常口前の座席を確保してもらった。

 

フライト・チェックインを終え、私は選手一人一人と握手をして空港内の手荷物検査場へと送り出すことを恒例にしている。もちろん、この遠征でも、そのように選手達を送り出したが・・・

監督やコーチ陣は言葉少なに空港内へと進み、私は寂しく彼らの背中を見送るしかなかった。

本隊の出発後、私には別の遠征のコーディネートが待っていたが、その遠征終了後に通訳(息子)を連れて空港から150km離れた転院先の病院に向かい、M君と両親を見舞った。

すでに保険会社がサポートを開始していたが、それでもそのまま彼らを残し、シドニーに向け出発する気持ちにはどうしてもなれなかった。病室のTVでリオ・オリンピックを笑顔で楽しむM君を見て、私は心からホッとすることが出来た。

 

M君からメールをもらい、私は2年前の遠征の記録(備忘録)ややり取りをすべて読み返してみた。

「加藤さんは、余裕がありませんでしたね」と書かれた監督からのメール・・・

私にはその言葉をどう捉えれば良いか分からなかったが、私自身、ゆっくりラグビーの新しい流れなどについて語り合いたかった。ただ、M君から始まり、他にも怪我をした複数の選手のために休む間も無く走り回っていたため、そのような余裕は無かった。予算面での制約もあり、怪我人発生に伴い急遽スタッフを増やすことも無理であり、私自身が走り回るしかなかった。

何事も無く無難に進んでいれば、結果オーライで終わっていたのかもしれない。

あの場でもっと話すことが出来たら・・・ 

いずれにしても、私には色々な意味で学ぶことの多かった遠征であり、忘れ難い機会だった。

 

チームは、押しも押されもせぬ立派なチームに成長し、結果も出している。

長年コーチングを手掛けて来たオーストラリアのコーチ達も、与えられるものは全て出し尽くしたと笑う。私達のサポートが発展の一助になっているとすれば、それはこの上ない喜びである。

何はともあれ、本隊(チームメイト)が出発した後も長期間入院しなければならなかったM君が、卒業後に再び留学のためにオーストラリアを戻って来てくれたことが何より嬉しい。そして、M君が連絡をくれたことは、私にはボーナスであり、率直に嬉しかった。これからも彼の応援団でいたい!

 

日本では、「日大アメフト部問題」が社会問題化している。

「日本のスポーツ界の悪しき伝統や習慣」について、新進気鋭の日本人ジャーナリストと話す機会があったが、パワハラや暴力に対する意識改革の必要性について随分語り合った。

日本のスポーツ界には、至る所に同じような問題が噴出しそうな火種が隠れているに違いない。

オーストラリアでも問題は生じるが、解決は早く、日本のように長く尾を引くことはない。事件や問題を起こした選手が数か月後には試合に出場し、時にはTVのショーに何事も無かったように登場する。

その善し悪しは別にして、オーストラリアでは日本に比べ、スポーツ界に於ける個人の独立や責任、義務、権限委譲が明確であり、選手の安全や権利がしっかり守られているようだ。

 

 


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どこかで誰かがコントロールしているのではないか?と思える時がある。

「そんなの単なる偶然だよ」 と一笑に付されるかもれないし、実際、その通り偶然なのかもしれないが・・・

それでも人や物との出逢いの中に、私は「エ!?」 と思うことが時々ある。

 

1993年に兄の著作「死に至るノーサイド」が出版され、その直後に母が日本から20冊送ってくれた。

日本人の血を引くワラビーズ(ラグビー・オーストラリア代表)が存在したことに衝撃を受け、その足跡を追い駆けたストーリーだが、私が主人公の本が日本で売られているなんて、まるで夢のようだった。

2人しかいない兄弟、弟の体験を兄が描き、それが文学賞を受賞した。

母にとっては、さぞ嬉しかったに違いない。残念だったのは、父が受賞の3ヶ月前に他界したことだ。

母はいつも感情をむき出しにした。大いに喜び、また泣き・・・ 私が試合のメンバーとして名前が載っているだけで、わざわざ駅前の新聞屋に駆け込み、大量の新聞を買い込んで来た。

兄の描いた作品を、ノンフィクション作家"山際淳司氏"が週刊誌の1頁に上手に纏めてくれた。

彼はプロ野球などの著作を数多く残し、徹底的な取材を通じ、通り一遍の根性論などで片づける傾向の強かったスポーツジャーナリズムに一石を投じた。このコラムを書いた2年後に47歳の若さで他界。

この週刊誌も母が大量に買い込み、シドニーの私に送ってくれた。

 

さて、貴重な20冊・・・ 私は"この人に読んで欲しい"と思う人に、表紙の裏に「贈 (姓名)様」、日付と私の名前を書き入れ、直接その本人に手渡した。ラグビー関係者が多く、"ワラビーズに日本人が居た" と書かれた新聞記事に私が衝撃を受けたように、私の説明を聞いて、誰もが驚きと共に本を喜んだ。
結局、自分の分を残すのを忘れ、私は20冊全部を手渡してしまった。

この本にも描かれているが、当時、私はシドニーに寄港する船舶(主に日本船)に食糧や土産品を供給する仕事をしていた。入港時に食料や土産品の注文を取り、出港までに商品を調達する仕事で、時間に追われる仕事だったが、日本で培った営業の仕事が役に立った。

商談の相手は、主に司厨長(厨房を預かるコック長)が中心だったが・・・ コンテナ船、巨大なタンカーや車両運搬船など、日本とオーストラリアの経済活動(貿易)の根幹を担う船舶事業、その船員達から聞く生の話は、知らなかった世界を垣間見るようでとても興味深かった。また、あの頃数多く入港したマグロ船の船員達とはよく飲みに出掛けた。「板子一枚下は地獄」と言われる世界で生きる男達、荒々しさの反面、家族や子供への掛け値ない心のミスマッチに人間的な原点が感じられた。豪華客船「飛鳥」では、厳選された最高級の食材を調達しなければならない緊張感の裏で、何度も"まかない食"をご馳走になり、料理のレシピを習ったりした。時には船内のエンターテインメント・セクションを覗かせてもらった。

船から一度も降りなかったピアニストを描いた「1900」 日本名"船上のピアニスト"は、私のお気に入りの映画だが・・・ 時代背景は全く異なるものの、私の「飛鳥」体験は、1900年に生まれた主人公が少年時代に垣間見た客船の世界を観るのと同じだった。

南極観測船「しらせ」は、南極までの往路はパースで食料等の物資を調達し、帰路はシドニーで不足していた新鮮な野菜や、日本への土産品などを調達する。任期を終え、日本に戻る途中の越冬隊員から聞く生の南極の話は、短く纏められたドキュメンタリーの裏側を垣間見るようで面白かった。

93年の「しらせ」に乗船していた越冬隊長(その年で退任)から、シドニー寄港時にテニスコートを探して欲しいという依頼があり、案内することになったが、彼は私の高校の先輩だった。

高校時代はテニス部員だったそうだが、ラグビー場の隣にあったテニスコートがプールになっているという話題から「僕の時代のラグビー部には・・・」という話題になり、「1年生の時に一緒にテニス部に入部したのに、途中からラグビー部に・・・」 と聞いたところで、私はそれが誰なのか理解できた。その同級生は私にはとても身近な人で、高校・大学のラグビー部の先輩だった。その先輩は92年の早大ラグビー部の監督を担ったが・・・ 南極昭和基地に越冬中だった彼は、93年1月の大学選手権決勝戦で、その先輩(同級生)が終了1分前まで優勝監督(大学日本一)になり掛けていたことを知らなかった。

テニスコートから「しらせ」に戻り、何千年も前に閉じ込められた空気がパチパチと音を立ててほとばしる "南極の氷" を入れたウイスキーのオンザロックをご馳走になった。話題は徐々にラグビー一色となり、旬な話題として、私は「死に至るノーサイド」について話すことになった。幻の日系人ワラビーズを追い駆けた体験から間もない頃で、私の話す内容は、研究者として確固たる肩書を持つ彼に大きなインパクトを与えたようだ。また、南極での長い越冬生活で、そのような話に飢えていたのかもしれない。

出港の際に、私は「死に至るノーサイド」を一冊彼に手渡した。

もちろん、表紙の裏には「贈 〇〇様」と書き入れ、日付も私の名前も書き入れた。

今後の交流も期し、彼に私の連絡先も渡した。日本までの航海中に読み終え、感想などを書いた研究者らしい丁寧な手紙が日本から私の元に届いた。

 

今回のブログに描きたかったのは、実は彼と出逢ったことではない。

シドニーには「本だらけ」という日本書籍を扱う古本屋がある。

一度だけ覗いたことがあるが、私の目的の本は、どうしても「死に至るノーサイド」になってしまう。

ただ、日本の古本屋でもそうだが、ほとんど見つけたためしは無い。

シドニーの古本屋、オーストラリアを描いた内容、ひょっとしたらという気持ちはあったのだが・・・

ハードカバー(単行本)が一冊置かれているのが私の目に飛び込んできた。

早速手に取り、表紙を開いてみたが・・・

「贈 〇〇様」 そして日付と私の名前が記されていた。

あの20冊の内の1冊が、シドニーの古本屋の棚に置かれていたのだ。

「エ!どうして?」と一瞬、私はきつねにつままれたような気持ちになったが、それは正に、あの南極観測船「しらせ」の出港時に渡した1冊だった。不可解な気持ちのまま、私はその1冊を購入したが・・・

 

本人の名誉のために記しておくが、きっとオーストラリアに留学する若者に「オーストラリアの文化や歴史を知ることの大切さ、そして、それらを知れば知るほど言葉や文化の壁を感じるに違いない」というメッセージを込めて、この本を手渡したはず・・・ と私は信じる。

私にはその1冊が愛おしかった。その1冊をいつでも手に取れる目の前に置いている。

この一冊は日本とオーストラリアの間を旅し、20年以上の歳月を経て私の元に戻って来たのだ。


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この時期になると、心なしか晩秋の日本が恋しくなる。

そして、この時期になるといつも思い浮かぶのは、「男はつらいよ」フーテンの寅さんの旅のシーン。

旅の途中、妹さくらの夫ひろしの実家に立ち寄り、ひろしの父親(大学教授/志村喬)から普段のなりわいを聞かれ、「年がら年中、旅暮らしでさぁ」、「寂しくはありませんか」、「寂しくなんかありゃしませんよ、慣れっこですから」・・・ 「寅次郎君、いつだったか旅をしていた時にね、暗くなりふと気が付けば、ポツンポツンと家の灯りが点灯し、息子を呼ぶ母親の声が聞こえる、 庭にはリンドウの花が咲き乱れている。 

ああ、あの家にも家族が暮らしているんだなぁ・・・ そんなことを思う内に涙が込み上げて来てね」

記憶のままを書いたため、実際の台詞(せりふ)とは異なるかもしれないが・・・

深まる日本の秋を思えば、私は無性にそんな旅がしたくなる。

田舎で生まれた私は田舎の景色に心惹かれ、訪日の際、誰にも知らせず暫しどこかに消えてしまう。

数年前に大分に消えた。いつの時代に誰が造ったか分からない道祖神、寅さんならきっとこの前で手を合わせ、葛飾柴又に住む家族の安寧を祈るに違いないが、ここでは自然にそんな気持ちになる。

そんな私の背中超しに、運動靴に制服姿の中学生が自転車で通り過ぎて行く。部活を終え、お腹をペコペコにした少年が坂道を一気に登り、家路を急いで行く。息子の帰りを待つ母親は、台所で夕ごはんの支度を急いでいるところだろう。まるで山田洋次の世界だが、どこか幼い頃の記憶に重なる。

何の変哲も無い日本の原風景・・・ そんな光景がどこにでもあった。

 

9月末に放送が終了したNHK朝ドラ「ひよっこ」は、 日本の原風景をちょっと感じさせてくれた.。

舞台は茨城県北部の"奥茨城村"。実在しない田舎の村だが・・・

昨年12月、その奥茨城村の玄関とも言える常陸太田市を訪れる機会に恵まれた。

太田第一高校教師、ラグビー部監督、そして、私にとって友人であり、コーチ仲間でもある菅井先生から講演の依頼があった。この訪問が、「ひよっこ」を更に楽しませてくれることになった。

菅井先生の住む茨城県北西部の町は、「ひよっこ」"奥茨城村"の舞台であり、その町で幾つかのシーンが撮影されたようだ。隣の栃木県で生まれ育った私にとって、その風景や方言はとても身近であり、菅井先生はもちろん、茨城の友人達を「ひよっこ」の登場人物になぞらえながらドラマを楽しんだ。

菅井先生は、優しい心で乗客を見守るバスの車掌"次郎さん"、出番は少なかったが、人を思いやる深いものが感じられた。「Mr.茨城」を感じるモダンでバンカラ、いつも前向きな宗男さんは飛田先生、みね子の高校の担任は木村先生、生徒達の将来をいつも心配している。茨城県人という設定では無かったが、みね子の集団就職先の寮の舎監さんは鈴木先生・・・ 英語教師の鈴木先生には、昨年12月の講演の際に出逢い、今年英語クラブのオーストラリア研修の際にはシドニーで再会できた。

クレイグの講演を鈴木先生や英語クラブの部員(生徒達)がサポートしてくれたが、日本の田舎暮らしを愛するクレイグにとって、茨城を訪ね、茨城の人々と触れ合えたことは、素敵な体験だったはずだ。

菅井先生、飛田先生、木村先生は、茨城県の高校ラグビー界を牽引するコーチ仲間だが、セミナーなどで再会する度に、彼らの熱心な姿勢に頭が下がる。それぞれの個性(あじ)は「ひよっこ」以上に濃く、たった2泊3日でも、クレイグや私は茨城のファンになった。

茨城県が「県別魅力度ランキング」で5年連続ワーストNo1だったそうだ。

県庁や県民は「ひよっこ」に大きな期待を寄せていたようだが・・・

ドラマの後半は、昭和40年代の「すずふり亭」周辺のシーンが多く、茨城のシーンなのに、それが茨城と特定されず、視聴者には単に主人公みね子の故郷としか映らなかったのかもしれない。

魅力度ランキングの基準は分からないし、それを真面目に捉える必要はないかもしれないが・・・

とにかく、原風景を残す茨城に魅力を感じる私にとって、あまり洗練されて欲しくないという気持ちがある。茨城は今のままで十分魅力があり、きっと投票する人達がそれを知らないだけなのだ!

宇都宮の餃子には浜松というライバルがあるが、水戸納豆に敵は無い!私はシドニーで水戸の"おかめ納豆"を食べている。さつまいもは鹿児島と思っていたが、干し芋は茨城産が全国の9割を占める!

こうなれば、稀勢の里や高安、そして女子ゴルフ界の新鋭"畑岡奈緒"の活躍に期待するしかない!

シドニーに移住したての約30年前、私は偶然に奈紗ちゃんの父親に出逢い、互いに励まし合いながら頑張った仲だった。奈紗ちゃんとは日本で何度か会ったことがあるが、真面目さや素直さ、礼儀正しさは親譲り、そして芯の強さも親譲りに違いない。彼女の活躍も私にとって茨城の魅力なのだ。

「晩秋の日本」に想いを馳せることからブログを書き始めたが、思わぬ方向に進んでしまった。

夏に向かっているのに、今年のシドニーは寒い日が続いており、カレンダーの残りを見ながら、春なのか秋なのか分からなくなってしまう。普通に暑ければ何も思わないのだろうが、朝晩の寒さが私の季節感を狂わせ、我が家の周りは新緑真っ盛りなのに、私を「晩秋の日本」へと誘うのかもしれない。

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