オーストラリアから

オーストラリアから

’88年移住!! まだまだ夢の途中・・・

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2019年は、やたらと「レガシー」という言葉が気になった年である。

「レガシー」とは、過去に築かれた精神的、物理的遺産の意であるが、かつて私は私自身の人生の分岐点となるようなものとして捉えていた。しかし、近年はもっぱら若者たちの心に残したいものと考えるようになった。

「レガシー(遺産)なんて、そんな大袈裟な」と言う人もいるかも知れないが・・・

35年前にラグビーの海外遠征に参加したことから、私は人生の半分をオーストラリアで暮らしている訳で、あの時の異文化体験は私の人生に大きな影響を与えたポジティブレガシーの実例なのだ。だから、私は若者たちにそのような体験をして欲しいと願う。

 

12月初め、私は日本の高校の修学旅行(スタッフ/生徒85名)におけるオーストラリア側のコーディネートを任されたが、9月のTSSの日本遠征に習い、今回は日本の高校生たちの心にレガシーを残すことを目指して準備を開始した。

私は成功体験を大切にするタイプで、敢えてこの旅程をTSS訪問から始めることにした。

TSSの日本遠征については、前回のブログに記している。

夏のオーストラリアの魅力は?何と言っても「動」である。

となれば、アクティブ(活動的に)、エンジョイ(楽しみながら)、フレンドリー(友好的に)、そして「No Worries mate」(心配するなよ、気楽に)の似合うお国柄に合わせ、誰もが参加出来るような旅程にしたかった。

「若者はタフであって欲しい!」と願う私は、フライトや移動で疲れているのを承知で、頭と身体をフルに働かせなければならないようなアクティビティを組み入れる。

もちろん、生徒たちの体調管理は最優先で、ペースには気を配る。

ただ、私は〈至れり尽くせり〉の世話をしない。自ら感じなければ意味が無いからだ。

まずはほんの些細なこと、例えば「あッ、私の英語が通じた!」「もっともっと英語が話せたらいいのになぁ」と感じてもらいたい。

そして、この場所で、この時に聴いたことをいつか思い出すようなオーストラリアの文化や歴史のレクチャー(スピーチ)なども旅程に加えるようにする。

そのようなコーディネートには、互いに気心の知れた信頼できるオーストラリアの仲間(友人)たちのサポートが必要不可欠である。

そう、クレイグが彼自身の実体験を伝えるために駆け付けてくれた。

ボンド大学ラグビークラブヘッドコーチであるアンドーことグラントも、地の利を活かした手放しの後方支援と〈オーストラリアのスポーツ文化論〉のレクチャーも担ってくれた。

私も、何かに取りつかれたように探し歩いた「ブロウ」(日系人ワラビーズ)の数奇な運命を話したが、生徒たちの食い入るような視線と一生懸命メモを取る姿勢を忘れない。

極めつけは、日本からやって来た高校生たちを歓迎するために、9月の日本遠征に参加したTSS RUGBY CLUBの選手たちやスタッフが駆け付けてくれたことだ。

スタッフとして日本遠征に参加した教師のグレッグはきっぱりと言う。

「日本から高校生たちがやって来るのを伝えたけど、選手たちが集まるかどうかを私たちがコントロールすることはできないんだよ」

グレッグは全員集まらなかったことを詫びるように続けた。

「選手たちは日本の高校やホームステイから受けた心のおもてなし” を純粋に感謝しているし、あの日本での喜びや感動を少しでもお返しをしたいと思っているんだよ」

この時期、TSSはすでにクリスマスホリデーに入っていたが、選手たちは仲間同士声掛けあって、自主的に集まってくれたのだ。特定の高校や誰彼のために・・・ ではなく、純粋に日本で感じた友情への感謝の気持ちを籠めて集まってくれていた。

それは正に私の目指す国際交流の形だった。

「ハイ、Toshi!」イケメンBOYS一人一人と笑顔で握手を交わしながら、一緒にエンジョイした日本遠征の様々な場面が浮かん来る。

そして、何よりも嬉しかったことは、同じジェネレーションの日豪の若者たちが普通に会話し、一緒に写真を撮り合い、タッチラグビーなどに興じている光景だった。

 

そんな交流の機会を予測してか?

日本の高校生たちも素晴らしいプレゼントを用意していた。

男子は日本古来の剣道の形を披露。

静けさの中で剣の道を志す日本独特の気合のようなものを伝えることができたはずだ。

女子は日本舞踏で人気の長唄「藤娘」を披露。

日本人であるにも関わらず、その舞踏の意味を説明するのは難しかったが・・・

江戸時代ならこの女生徒たちと同じ世代の女性、いわゆる子供ではない大人の女性の女心を描いたものと私は理解するが、彼女たちは顔の表情やその仕草でそれらを上手に表現し、その無垢な心が伝わって来るようだった。

そして、それはきっとTSSのイケメンBOYSたちの心を魅了したに違いない。

最後は藤の花を花笠に見立てた花の付いた扇に持ち替えて「花笠踊り」の披露。

軽快な花笠音頭と会場を埋めた全員による手拍子に併せて踊る女生徒たちは実に艶やかで、唄の途中の囃子ことば「やっしょう、まかしょ」を男子生徒たちが大合唱・・・

ゴールドコーストでの午後のひと時・・・

日本の祭の雰囲気で一気に盛り上がり、それは間も無く真夏のクリスマスを迎えるオーストラリアの人々への最高のクリスマスプレゼントだった。

4年前を思い出す。

当時、せっせとブログの更新に精を出していたが、日本代表が南アを破り、万が一にも信じていなかったことが現実に起きてしまったのを目の当たりにして、現実の前では私の稚拙な文章など何の意味も持たないと思えてしまい、ブログの更新への熱意が冷めてしまった。

もちろん、ラグビーだけがブログネタでは無かったが、シドニーに30年住み、南半球最高峰のラグビーを観続けて来た私にはそれほどの衝撃だったのだ。

 

「奇跡なんて続かないさ!」

内心そう思いながら、今年9月、日本でW杯が開幕となった。

開幕後は「ホントなの?」と思いながら、ジャパンはアイルランド、スコットランドを撃破して堂々のベスト8入り、準々決勝の南ア戦にも大健闘、なんと大会開催中の世界ランキングはオーストラリアを抜いて日本は世界6位になった。サモア戦やスコットランド戦では、不安や驚きを感じることはなく勝って当たり前のような気持ちで観戦できた。

ほとんどイージーミスを犯さない選手たち、リロードの早さから見える選手たちのフィットネスの充実、先を予測した選手たちのアタックやディフェンスへの対応・・・

それは、まるで世界有数のチーム同士のテストマッチを観戦しているようだった。

ラグビー日本代表は本当に強くなったのだ!

 

W杯開催に併せて、私はオーストラリア・クイーンズランド州・ゴールドコーストに在するハイスクールThe Southport School (TSS) ラグビークラブ(総勢50人)から日本遠征のコーディネートを任された。

1901年に開校されたTSSは小中高一貫の名門校であり、文武両道、スポーツ分野では、ワラビーズはもちろん、様々なスポーツ競技に多数オーストラリア代表を輩出している。

 

北海道の札幌ドームで「オーストラリアVフィジー」と「イングランドVトンガ」、東京スタジアムでは「オーストラリアVウェールズ」を観戦した。

オーストラリアの試合を観戦する際のドレスコードがゴールド(ワラビーズ・カラー)なのは当然だが、面白かったのは「イングランドVトンガ」のドレスコードがレッドだったことだ。南半球の同胞を応援するためなのか?TSSにもトンガ出身の留学生(選手)がいるからなのか?それとも、イングランドまたは監督のエディ・ジョーンズを嫌っているのか?

まあ、真相は知らないことにしておこう。

 

W杯の雰囲気をスタジアムで直に感じ、海外で地元ワラビーズを応援できたことは生涯忘れられない体験となったはずだが、この遠征の真の目的はあくまで44人の少年たち(1417歳)が日本の文化や習慣、歴史や自然に触れること、そして日本に友人を作ることにあり、私に求められたことは少年たちの将来にレガシーを作るための努力だった。

最初の訪問先の札幌では、山の手高校と合同練習、親善試合、ファンクション、ホームステイが行われ、遠征の出発点として、最高のスタートを切ることができた。

日本代表キャプテン「リーチ・マイケル選手」の日本の父親的存在である佐藤先生が全てを快く引き受けてくれ、コーチングコース参加から20年に及ぶ変わらぬ友情に感謝だった。
親善試合は北海道ラグビー協会の田尻会長をはじめ多くのスタッフが関わってくれていた。そして、TSSのスタッフたちが世界一と絶賛したグラウンドを提供してくれたバーバリアンズクラブの皆様にも感謝しなければならない。


バーバリアンズクラブのクラブキャプテン上坂さんから、「加藤さん、昭和53年の早稲田の北海道遠征に参加されていませんでしたか?」と尋ねられ、「はい、参加していました」と答えると、「あの試合に、私も出ていたんですよ」と古いプログラムを手渡された。

40年前の懐かしい記憶が蘇り、北海道の皆様の温かいおもてなしを思い出した。あれから40年経ち、オーストラリアの少年たちを連れて北海道を再訪し、変わらぬ心のおもてなしに触れた私は、レガシーを作ることの意味が理解できた。

W杯やスポーツ関連施設等の視察のために北海道を訪れたスポーツ庁の鈴木長官が、忙しいスケジュールの中、わざわざ定山渓グラウンドを訪れ、日豪双方の選手たちを激励してくれた。世界中を飛び回りスポーツ発展に力を注ぐ鈴木長官、マスコミ報道もされないこのようなローカルな試合にも熱心に目を向け「少年たちの心にレガシーを残したいから」と笑う。選手たちもそれに応えて、鈴木長官の言葉に身を乗り出して熱心に耳を傾けた。

 

たった3泊の滞在だったが、抱え切れないほどの思い出を胸に北海道から関東に移動した。

関東でもラグビー仲間のサポートで素晴らしい遠征を続けることができた。

 

週中にも関わらず、國學院久我山高校では日本の学園生活を体験させてもらうことができた。大学の後輩でラグビー部監督である土屋先生が中心となり、教職員並びに生徒の皆さんのおもてなしは予想していたものではなく、とても新鮮な体験となった。

TSSの選手1人に対し久我山高校の生徒1人がバディ(相棒)となり、それぞれの生徒が自分の授業に連れて行くのである。
もちろん、参加する授業はバラバラで、ある生徒は数学の授業だったり、ある生徒は剣道やバレーボールの授業だったり、面白かったのは調理実習の授業に参加した選手や化学の授業に教員として参加したスタッフ(TSS教員)もいた。

授業終了後には一緒にランチを食べながらのコミュニケーションタイム、TSSの選手たちはもちろん、久我山高校の生徒達にとっても忘れ難い体験となったことだろう。

そして、放課後には親善試合が行われ、ファンクション後にそのまま生徒の家にホームステイというスケジュールが組まれていた。

学校や生徒との交流の他にも、日本の歴史や文化、美しい自然を体感してもらうためのスケジュールを組み入れた。

オーストラリア代表ワラビーズが事前キャンプ地に選んだ小田原市の小田原城を訪問、箱根では温泉体験、富士山を間近に見る機会にも恵まれた。

オーストラリアに戻ってから箱根の台風被災を知ることとなったが、とても他人事のように思えず、TSSのスタッフからも私の元に心配のメッセージが相次いだ。

毎日移動するバラエティに富んだスケジュールだったが、選手もスタッフも元気そのものであり、それは誰もが遠征を楽しんでいるバロメーターに違いなく、私たち日本側スタッフのモチベーションをアップさせた。

 

学校交流の締めは東海大相模高校、ワラビーズカラーのシャツを身に纏ったラグビー部の選手たちがエスコート役を担い、そのフレンドリーな対応に、TSSのスタッフ(教員達)は、普段の教育やマナーの指導の徹底について驚きを口にした。その選手たちの姿勢の裏には、今回の交流を快く引き受けてくれたラグビー部監督三木先生やスタッフの日々の努力があるのは間違いない。そして、この日も忘れられない時間となった。

日本文化の体験として書道部のパフォーマンスを鑑賞、そしてTSSのスタッフや選手たちも書道を体験する機会に恵まれた。

書道体験では書道部の顧問である後藤先生が書道について説明、そして日本語の例文を提示、パフォーマンスを披露した女子部員、ラグビー部の選手たちも加わってTSSの選手たちをサポート、日本での学校体験を締め括る素晴らしい機会となった。

それぞれの作品は団扇(うちわ)としてオーストラリアの家族への最高の土産となった。

書道体験に引き続き、親善試合、ファンクションが行われたが・・・

ファンクションの途中から、W杯「ジャパンVアイルランド戦」のTV中継を観戦、共にジャパンを応援し、ジャパンの勝利が決まった瞬間には食堂が揺れるほど歓声で沸き上がった。

その興奮の冷めぬまま、選手たちはホームステイへと出掛けて行った。

 

TSSラグビークラブはラグビーW杯開催に併せて海外遠征を行っているが、その度に翌シーズンには素晴らしい結果を残している。

今回の遠征を終えて、スタッフたちは「過去最高の海外遠征!」と手放しで評価した。

ラグビーW杯のホスト国の役目を立派に果たした日本、決勝戦から3週間経った今も、連日W杯の成功やその感動がSNSなどから発信されている。そして、それは日本だけに限らず、きっと世界中が同じように評価しているに違いない。

たった50人かもしれない、それでも、ホスト国日本、そしてホストスクールやホームステイのホストファミリーの心からのおもてなしはTSSのスタッフや選手たちを感動させ、それが今TSS関係者や家族を通じて更に大きく広がっている。

 

私自身、この遠征の成功は嬉しかったが、出発から帰国まで何の事故もトラブルもなく、全メンバーが元気に遠征を終えることができたことが最高の喜びだった。

オーストラリア代表ワラビーズが早々と姿を消したのは残念だったが、遠征を終え,シドニーに戻ってからノンビリTV観戦した決勝リーグは素晴らしい試合の連続だった。

試合終了後に幼い子供たちがピッチに降り立ち、闘う男たちが優しい父親に変わっているのが何とも微笑ましい光景に思えたのだが・・・

その光景を観ながら、私はTSSのスタッフの多くが、書道体験の際に、数多くの例文の中から「家族」を選んで描いていたのを思い出した。

わが友アンドーの達筆ぶり!には驚きだった。

NHKBSプレミアムで放映された 「君に最後の別れを~永遠なれラグビーの青春」を観た。

太平洋戦争の戦時下、開戦当初は政府が積極的にスポーツを奨励するが、戦局が厳しくなるに連れ、スポーツ選手達は理不尽な扱いをされるようになる。ラグビーに関して言えば、大学同士の対抗試合は公式戦や定期戦が全面的に禁止されたり自粛を迫られるようになった。

その後、学徒出陣へと突き進む訳だが、そんな時代に在って、このドラマは東京大学ラグビー部の部員達のラグビーへの情熱や破天荒な学生(若者)らしい発想や行動を描いたノンフィクションである。

国家の意向に翻弄されても、学生達の誰もが出征する前に一度でいいから試合がしたいと願う。

そして、毎年定期戦を繰り返して来た京大(京都大学)に秘密裏に試合をしようと持ち掛け、双方の意見が纏まる。しかし、時は戦時下であり、官憲の目や移動手段など様々な面で障害は多く、学生達はOBの力も借りてその試合の実現に向けて懸命に努力する。

"少年をいちはやく大人にし、大人にいつまでも少年の心を抱かせる"

そんなラグビーを表す言葉通り、見つかれば逮捕に至るかもしれない戦時下の緊迫した時代に在って、学生達は出征という大人としての覚悟を決めながらも少年のような心を抱いていたに違いない。

 

第二次世界大戦中にシンガポールに駐留していたオーストラリアとイギリス双方の兵士達が、テストマッチ(国同士の対抗試合)さながらのラグビーの試合を行っていた史実やその記録を追い駆けたことがあったが、日本にもそれに近い歴史の片鱗があったのかと思うと、なんとも嬉しい驚きだった。

それでも、その嬉しい驚きが、私の心の中で徐々にやりきれない気持ちに変っていく。

戦地でさえも真剣にラグビーの試合をプレーしたオーストラリアやイギリスの若い兵士達のほとんどが、シンガポール陥落と同時に日本軍の捕虜となり、泰緬鉄道(タイとビルマを結ぶ鉄道)建設という地獄の労役に駆り出され、その多くが病気や栄養失調で命を落とす。

写真は1938年のワラビーズであるが、この中の3名がシンガポールに赴任し、泰緬鉄道に送られた。中段左から2番目は、日本人の血を引くブロウ井手選手である。彼は日本軍の捕虜となり、日本への移送中に命を落とす。彼の数奇な運命は著作 「死に至るノーサイド」 に詳しく記されている。

学徒出陣で出征する学生兵士達の多くが、南方などの激戦地に送られたと耳にしたことがあり、ラグビーに青春を燃やした彼らの行く末は・・・ そう思うと、本当にやり切れなかった。 

ただ、幸いにも東大ラグビー部員は全員無事に日本に帰還したことをこのドラマの最後に知る。

 

1889年、慶応大学で日本で初めてラグビーがプレーされたのを知る人は多いが、慶応に次いで、1910年に京都大学(旧制第三高等学校)でラグビーがプレーされたのを知る人は少ない。その後、1911年に同志社大学、1918年に早稲田大学、件(くだん)の東京大学は5番目の1921年、そして、1922年に明治大学と続く。日本ラグビーフットボール協会が設立されたのは1926年だった。

 

京都での試合が決定し、東大の選手達は、官憲の目を避け、バラバラに京都入りを試みるが・・・

移動中の列車の中で、2人の東大ラグビー部員の前の座席に官憲と思わしき軍服を身に着けた鋭い眼差しの軍人が座る。そして、怪訝そうに2人を見て、行き先を尋ねるシーンがあった。

2人は、親族の「葬儀のため」 「法事のため」 とあたかも用意していたその場しのぎの返事を返す。

そんな付け焼刃の言葉が憲兵に通用するはずは無い。

「お前達、東大ラグビー部の選手か? 襟元にスイカジャージが見えているぞ!」

東大ラグビー部の公式ユニフォームは、昔も今も伝統的にスイカのような色合いだった。

身に着けていれば調べられないと思ったことが裏目に出た。

襟のホックを外した学生服の襟元から、スイカ色のジャージが見えているのに気付いた時は遅かった。

「対外試合は禁止のはずだが・・・」

観ている私にまで緊張感が走り、あ~あ、万事休す!と思えて来る。

対戦相手を聞かれ、東大の2人は頑なにその返答を拒む。迷惑が掛かるのを危惧したに違いない。

「さしづめ、対戦相手は京都大学だな」

「・・・・」

憲兵の目力と尋問のような言葉の威圧感に、テレビの前の私まで押し潰されそうになったその時、

「俺はタイガージャージだ、慶応大学ラグビー部だ」

その一言で、私の肩の力は抜け、こわばった顔がホッと緩むようだった。

そして、憲兵は 「思い切りやってこい!」 と2人に声を掛け、静かに目を閉じる。

そのような事実があったかどうかは別として、ラグビー仲間の良さを感じさせる"泣けるシーン"だった。

私の記憶のままに書いたので、ドラマとは多少相違があると思うが・・・

その憲兵役を演じていたのが鍛冶直人君という早大ラグビー部の後輩だったことは驚きだった。

 

そのシーンを観ながら、早大ラグビー部に入部して間もない頃の思い出が蘇って来た。

私は昭和50年に早大ラグビー部に入部したが、当時、OB会を動かしていた中心人物は小林忠郎先輩だったのではないだろうか。日本協会や関東協会でも強い権限を有しており、誰もが "コバチューさん" と愛称で呼んでいたが、私達現役にとっては泣く子も黙るような存在だった。

先輩方からの言い伝えであるが、コバチューさんは、早大卒業後に陸軍中野学校に進み、極めて高等な厳しい教育を受け、戦時下には官憲に属されていたと聞いていた。

私の祖父は、終戦まで、今も東大の近くに在る元富士警察署に奉職する特高刑事だったため、幼い頃、母からよく特高刑事や憲兵の怖さを聞かされたことがあった。また、私が入学する前年(昭和49年)、ルバング島から小野田少尉が日本に帰還し、その際に陸軍中野学校が取り上げられたことで、その高等且つ厳格な教育、そして優秀な卒業生をたくさん輩出しているのを私は知っていた。

ただ、入部したばかりの私がコバチューさんと面と向かって話す機会などあるはずもなく、私は "コバチューさん像" を頭の中で膨らませているだけだった。

 

東伏見の早大ラグビー部寮には玄関の隅に一台だけ公衆電話があった。

上級生を中心に、練習以外の時間はいつも決まって誰かが "たぶん" 女性と長電話をしていた。

電話代の管理を4年生の委員がしており、月に一度、鍵を開け、当時は10円玉ばかりだったと思うが、それを布袋に入れてOB会本部に届ける。なぜか、その届ける役目を1年生の私が任された。

4年生からその場所を聞いたが、行き先は銀座、当時監督だった日比野さんの経営する「陶雅堂」ビルの2階、確か読売広告社だったような気がするが、その記憶は定かではない。

西武新宿線で高田馬場まで出て、東西線で日本橋まで行き、銀座線に乗り換えて・・・

栃木の田舎者の私でも何とか辿り着けたが、ドアを開けると、そこにはコバチューさんが待っていた。

コバチューさんと直に向き合うのは初めてだったが、私はドキドキして落ち着かなかった。

そして、それにはある理由があった。

 

4年生は「行って来い」と言うだけで、電車賃もくれなかったし、コバチューさんのことも話さなかった。

高田馬場までは定期券があったが、私は勝手に布袋の10円玉を使い銀座までの切符を買った。

昭和50年当時、きっと60円ぐらいだったはずだ。

何も言わずに電話代の入った布袋をコバチューさんに渡したが、私の勝手な切符購入がコバチューさんにバレて、その尋問をされるのではないか?と思うと、気が気でなかった。

とにかく、先輩方から伝え聞いた陸軍中野学校、憲兵という先入観があり、笑っていても、コバチューさんの目の鋭さや声の調子が、私を固まらせていた。正に、あの東大生2人と一緒だった。

コバチューさんは布袋を机の上に置き、「おお、宇都宮の加藤、ご苦労だったな」 と私を労った。 

私の同期にはもう一人の加藤がおり、彼はコバチューさんと同じ大分の出身だったため、私を宇都宮の加藤と呼んだのだろう。宇都宮出身のOBは意外に多く、コバチューさんは宇都宮を話題にすることで、緊張する私をリラックスさせようとしてくれたのだと思うが・・・ 私のドキドキは治まらなかった。

思わず、私は 「その袋から電車賃を使いました!すいません!」 と言って頭を下げた。

私の挙動不審にきっと何かあると見抜いていたはずのコバチューさんは、「そうか、そうか、それでお前は緊張していたんだな・・・」と大声で笑った。

「帰りの電車賃とラーメンでも食って帰れ!」と言って1000円札を1枚渡された。

 

憲兵と東大ラグビー部の選手2人の遭遇シーンから、私には懐かしい思い出が蘇った。

2018年、日本では「スポーツとパワハラ問題」の嵐が吹き荒れた。

長年、私はオーストラリアのコーチを伴い日本でラグビーのコーチングイベントを開催しているが、実際にパワハラの現場に遭遇する機会は決して少なくない。それらは、殴る蹴るの暴力ばかりでなく、例えばケガをした選手を十把一絡げに 「ポンコツ」 という呼称で呼ぶような言葉の暴力も含まれる。

30年間オーストラリアに住み、息子二人の成長に伴いスポーツに接する機会は極めて多かったが・・・

パワハラの類に遭遇したことは一度も無い。それは、指導者も常に学ぶ努力を続け、マナーやルールを守り、選手と同じ立場でリスペクトし合う関係が存在しているからだと思う。

息子達の親しい友人である伊藤華英さん。

オリンピック北京大会やロンドン大会に出場し、現在はラグビーワールドカップ2019ドリームサポーターなど、スポーツ普及に尽力されているが、彼女のコラムに 「オーストラリアがスポーツ強国である理由」 と題し、オーストラリアのスポーツの日常が取り上げられている。

コラムには、オーストラリア滞在中に彼女自身が感じたオーストラリア国民のスポーツに対するオープンな姿勢が描かれている。アスリートが心地良く感じられる環境や周囲のフレンドリーな対応からは、長年シドニーに住む私まで、スポーツ大国オーストラリアの素晴らしさを感じるほどだ。

「朝から運動する文化」 「カフェ文化」 という彼女の視点はとても面白く、その爽やかな光景が読者にまで伝わって来るようだ。彼女の視点は、アスリートに限られたことではなく、オーストラリア国民にスポーツの無い日常は考えられないと言っているように思える。そして、そんな文化を日本にも・・・

ラグビー・イングランド代表ヘッドコーチ、エディ・ジョーンズ氏。

母国オーストラリアはもちろん、ラグビー・ジャパンを劇的に進化させたのは記憶に新しい。

スポーツ文化・育成&総合ニュースサイトに 「日本のパワハラ知ってますか エディヘッドコーチに問う、日本スポーツ界の"病"」 というインタビュー企画が掲載されている。

彼の経歴や日本ラグビー界への貢献は、今更ここで取り上げるまでも無いが・・・

試合の分析や選手の分析に長けた日本通のエディが、日本で起きているスポーツ界の問題にもしっかり目を向けているのが窺(うかが)える。

日本のスポーツとパワハラの問題について問われたエディは、

私は自分がやらないことは選手に『やれ』とは言わない。ルール違反がそのいい例だ。

そういう原理原則のもとに接していけば、大丈夫なはず。

にも関わらず、信頼、リスペクトが崩れ、それぞれのルールを壊すと、こういうことが起こる。

日本ではコーチが権力を持ち、腕組みしている姿が象徴的だ。「指導者はみんなより上だ」 というのが、傾向として日本にはあるだろう。私もよくエディの言葉と同じことを感じる。

更にエディは続け、「時には厳しくなる必要はある。しかし、厳しさと暴力は異なるものだ」、暴力がスポーツ指導でプラスになることは「ない」と断言している。

選手がスキルを学ぶように、指導者も学び続け、改善しないといけない。

 

インタビューに対する非の打ちどころの無いエディの受け答えを読みながら、オーストラリアのスポーツ文化や私自身が肌で感じて来た生活習慣に通じるものを感じ、やはりエディの価値観や世界観を含む幅広い行動様式はオーストラリアが起源なのだと思えて仕方が無かった。

 

インタビューの終盤、彼は終わった過去がどうだったのかではなく、これからの未来にどう反応していくかの重要性を指摘している。そして、次のように結んでいる。

スポーツにとって大切なことは、何より健康的な部分だ。レクリエーションの延長。英語の『recreation』は『もう一度、作り直す(re-create=レ・クリエイト)』という意味もあり、自分をよりどれだけいい人間に高められるかにも繋がる。それは、日本を知り尽くしたエディ独特の説得力のある言葉だ。

私はコーチではないが、日本でのコーチングセミナーの開催やNPO法人「日豪スポーツプロジェクト」の運営など、スポーツ・マネージメントに関わる者として、このインタビューのエディの言葉から学ぶものは極めて多い。もちろん、それはエディの見解であり、私自身のものにしなければ意味は無いのだが。

もしコーチとしてスポーツの指導に関わるのであれば、例えジュニア(幼い年代)の指導を担当する父母でさえ、エディが提唱するような一つ一つを常に頭の片隅に置いておくべきであろう。

ある母親からこんなメールが届いた。

先日、エディさんのセミナーを見学しました。

遅れてはいけないと思い早めに家を出ましたが、開始の時間が10分以上遅れました。

グランドは吹きさらしで、寒い中で待たされる子供達は本当に可哀想でした。

司会の方が、「今日はエディさんに何を教わりたいですか?」という質問をしていましたが・・・

マイクを向けられ逃げる選手も多く、しっかり自分の意見を答えられる選手はほとんどいませんでした。

エディさんのことは知っていても、やっぱり最近の子なんですね。今日何が学びたいのかも、何が学べるのかも知らず、先生に言われたから来たという選手も多かったように思います。

それから、エディさんは 「ダメ」 という言葉をよく使いますが、私達は普段、親として子供達にその言葉を出来るだけ使わないようにしていましたので・・・

世界中、父親とは違い、忖度(そんたく)しない母親の目は厳しい!

そのメールは母親の視点で率直に感じたままが書かれ、実に教えられることが多かった。

日本側のコーチ陣とのミーティングのために開始が遅れたという説明があったようだが・・・

それがエディの責任なのか?主催者側の責任なのか?は別として、ラグビーはキックオフや試合時間が決められた時間に厳格なスポーツであり、益してや吹きさらしの寒いグラウンドに選手を放置した行為は、常々エディが提唱する信頼やリスペクトを欠く行為ではあるまいか!

また、どのような指導を希望するか?という質問に、高校生の選手達が答えられないのは、指導者(コーチ)が、選手達に何も指導していないからであろう。

実際、セミナー開始前の短い時間にコーチ陣とミーティングをすること自体、私には信じられない。

結局、主催者側がエディも含め日本側のコーチ陣との事前の準備を怠った結果が、開始時間の遅れや 「何を教えて欲しいか?」 という選手の意欲の欠落に結びついているのであろう。

 

私は、「先生から言われるままに・・・」 という日本のスポーツ界の悪習が全ての根源と考える。

私なら、選手に「何を教わりたいですか?」と聞くよりも、まずは、先生(指導者)に「エディから、何を教わりたいですか?」と聞いてみたい。

確かに、世界的なコーチから指導を受けることは夢のような体験かもしれない。

しかし、その素晴らしい体験を選手達と共有せず、「時間に遅れるなよ!」 とだけ指示する先生の姿が私には想像出来る。更に、先生自身に学ぼうとする意志や選手に学ばせようとする具体的指針が無いのも想像出来る。まあ、日本の先生には様々な面で余裕が無いのかもしれないが・・・

全国高校ラグビー大会中、最先端とも言えるラグビーを見せたチームの監督のインタビュー記事を読む機会があった。海外のコーチングも学び、それまで自分達がやって来たコーチングではダメだと率直に認め、自分達のコーチングを構築することや選手達に考えさせる努力を重ねたと記されている。

指導者が学ばなければ、結局それが安易な指導に繋がり、その最悪の結果がパワハラなのだろう。

 

外国人コーチはどうしても発音し易い言葉を使いたがる。エディの 「ダメ」 もその一つだろう。

私はコーディネーターとして、コーチ達に使って欲しくない言葉(例えば、信頼やリスペクトを欠いた言葉)に気付いた時には、必ずストレートに彼らに指摘するようにしている。

誰かがエディに伝えなければ、ジュニアの選手にさえも、彼はいつまでも 「ダメ」 と繰り返すだろう。

例え悪いことでも、誰も指摘しない姿勢・・・ それもパワハラを一掃出来ない要因の一つに違いない。

昨年11月25日に「早大ラグビー部創部100周年記念式典」が東京で開催された。

1,200名が一同に会し、早稲田ラグビーの歴史やその時代時代の先人の努力、そして、そこに培われた早稲田ファミリーの結束・・・ 式典に関しては、新聞や雑誌、またSNSでも数多く紹介されている。

OBの一人として、私は歴史的な場面に立てたことを嬉しく感じている。

ジャーナリストのようには描けないが、私は私なりの視点で感じたままを書き残しておきたい。

参加してまず私が感じたのは、予想に反して特別に脚光を浴びる主役がいないことだった。

早大ラグビー部には、勝てた世代(日本一になった世代も多い)/勝てなかった世代、試合に出た選手/出なかった選手、また、時代時代に寵児(スター)と言われた選手が多くいたし、卒業後も様々な世界で活躍するOBも数多く存在するが・・・ あの日は会場にいる誰もが主役だった。

私の63年の人生で、あれだけ多くの握手をしたのは初めてだったし、きっとこれからも無いだろう。

それぞれの握手に、懐かしさや尊敬、再会の嬉しさや今後もよろしく・・・ 様々な気持ちが籠っていた。

昼の12時に式典が開会、その後、同期との2次会、先輩との3次会、先輩後輩が入り乱れて4次会・・・

水道橋駅界隈は、どこの飲み屋もあのブレザーを身に纏ったちょっと体格の良い男達ばかりだった。

他愛もない会話に酔いしれただけだったのかもしれないが、それでも私には至福の時間だった。

*鏡割の写真は、早大ラグビー部のサイトより

100年という歴史の1ページに立った証として、創部以来、8割以上の勝率を誇る輝かしい歴史、先人の卓越した理論や日本のラグビー界をリードして来た頭脳、そのような ラグビーの "早稲田ブランド" を改めて凄いと感じ、その一員であることの重さや喜びを感じることは出来たが・・・

握手をする度に蘇る仲間達と共に東伏見のグラウンドを駆け抜けた思い出の方が、私にはずっとずっと貴重だった。仲間達(先輩、同期、後輩)の手の温もりや何の忖度も必要としない笑いや会話が、式典のために用意されたプログラムを単なるバックグラウンド(背景)に変えていた。

もちろん、準備委員会のご苦労や完璧な準備があればこそ、この式典が成功したのは言うまでもない。

再会を心待ちにしていた先輩が、杯を酌み交わしながら、何気なく小声で言った。

「久しぶりに顔や体つきを見ると、その人がどのような生き方をして来たか分かるよなぁ・・・」

故郷を思い出すこの先輩の言葉は、私にとって特別な響きがある。

時代は流れ、今は宇都宮市だが、大学進学のために故郷を離れた当時は、先輩も私も栃木県河内郡、宇都宮高校の先輩であり、学生時代も社会人になってからも、そして今も、実の兄以上の存在なのだ。

業界のトップとして多くの人物と接して来た先輩の言葉は、それが私に向けた言葉なのか?褒めているのか?貶(けな)しているのか?その真意を聞かなかったが・・・ 

「お前も結構まともに生きて来たんだなぁ・・・」 と、褒められたようで嬉しかった。

日本酒の似合う先輩・・・ 盃の持ち方も何もかもが学生の頃から憧れだった。

数多くの仲間達と再会し、私は率直に "カッコいい中年から老年" を目指したいと思った。

仲間達(先輩・同期・後輩)の誰もが本当にカッコ良かった。そして、話せば、ユーモアに富み、とても愉快で洗練されている。それは、さながらオーストラリアのラグビー仲間と一緒の時に感じる感覚に似ており、やはりラグビーというスポーツの持つ独特のキャラクターなのかもしれない。

私は手遅れかもしれないが・・・ この式典でもらった多くの刺激を大切にしたいものだ。

 

元旦に、後輩からメールが届いた。

その文面には、「私も10キロ歩を開始しました」と書かれている。

式典の際に私が10キロ歩を続けていることを話したことに端を発するが、後輩からのメールは、私にとって 「Welcome to our Healthy Life member」 である。

60歳を機に、私は3日に1回のペースを目標に、早歩き+(部分的)スロージョギングを続けている。

仕事や訪日で長期間空いてしまうこともあるが、その分はどこかで埋め合わせをし、昨年は合計で124回実施、3日に1回の目標は達成出来た。結果、体重は15kg減り、学生時代とほぼ同じになった。

写真の私は太めに見えるが、還暦を記念してプレゼントされたOBブレザーはブカブカなのだ。

後輩は12月に還暦を越えたばかり、まだ現役で仕事を続けているが、それでも、これからの人生を楽しむには健康でいることが一番という結論に達したのだろう。

私は偉そうに返信を送った。

最も大切なことは、継続すること!

そのために、体育会のノリで続けないこと!

キツくすれば効果が益すという考えを排除し、無理をしないこと! 

そして、補足として、時間が無いと言うのは自分への言い訳であり、付き合いや酒を飲む時間を削れば、1時間や2時間は簡単に作れるはず!

「体調管理はカッコいい中年の第一歩!」と付け加えた。

企業の役員である後輩・・・ 幾つになっても実の弟のように思えてならないのだ。

かくして、12時間飲み続けたが、記憶が飛ぶことも無く、不案内な地下鉄を乗り継いで郊外のホテルに辿り着けたのも普段の体調管理のお陰かもしれない。

参加か否かで悩んだが、参加して本当に良かった。

この「早大ラグビー部創部100周年記念式典」が、私はもちろん、老いも若きもOB各位、そして、復活を目指す現役諸君に大きな刺激を与えたことは間違いない。

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。

 

オーストラリアに移住して30年。

山あり谷ありの30年だったが、私達家族の移住を一度も後悔したことは無い。

3歳と1歳の息子二人を抱え、移住当時25歳、聖子ちゃんカットだった妻は、日本で暮らした年月よりもオーストラリアでの生活の方が随分長くなった。私自身、間も無くオーストラリアの生活が日本で暮らした年月を越えるが、年末、妻と二人、どちらからともなくこの30年を振り返る機会があった。

「一番良かったのは、オーストラリアで子育てが出来たことかな・・・」

シドニーに到着した翌日から、妻は次男をベビーカーに乗せ、長男をボンダイビーチ近くのキンダガーデンに送り届け、ボンダイビーチを望む公園で次男を遊ばせることが日課となった。

それから、プライマリー・スクール(小学校)、ハイスクール(中高)、ユニバーシティ(大学)・・・

教科書に書かれた諸々を詰め込むのではなく、生きるための教育というか、自分で考え、切開く能力を身に着けさせる教育、スポーツやアスリートが愛され、明るく、フェアな精神が重んじられる国民性・・・ 

二人はそんな環境にどんどん溶け込んでいく。私や妻は活発になっていく二人を心から応援した。

そんな息子達の成長に、妻は自分自身がどれだけ励まされたか分からないと言う。

山あり谷ありの30年・・・ 
過去を振り返ると、必ず話題になるのは、"最大の谷"の記憶「永住権申請」の時期である。

移住から4年後の92年に申請、93年にオーストラリア政府移民局から申請却下の通知が届くが、私達家族は有無を言わずオーストラリア国外退去を求められる事態に陥ったのだ。

志半ばで、今まで積み上げて来たものが一気に崩れ落ちるような気持ちだった。

ただ、私や妻にとって最も気に懸かったのは、息子二人の将来だった。

到着から5年が経過、オーストラリアの少年として育ち、数多くの多国籍友人に囲まれ、息子二人の会話は、私達夫婦以外とは完全に英語になっていた。

もし、日本に戻れば、「帰国子女」として新たな道を歩むことになったと思うが・・・

私は、息子達にとって、この5年間を、両親(実際は私)の勝手な夢や突飛な行動に巻き込まれた回り道にはしたくなかったし、単なる幼い頃の記憶にもしたくなかった。

そうは言うものの、オーストラリア政府を相手に、結果を待つだけの先が見通せない中途半端な状況が重くのしかかり、何の努力もアプローチも出来ない状態は本当に辛かった。

「あの黄色い封筒が届いた時は悲しかったよね。 涙が止まらなくて・・・」

移民局から届いた永住権申請却下の通知・・・ 一字一句を辞書で訳しながら注意深く読み進む内に、妻の顔がどんどん変わっていったのを私は忘れない。

「でも、私達、そんなことで諦めなかったよね!」

確かに、妻の方が切り替えが早かった。

必ずどこかに光が見出せるはず! 私達はそれを信じて疑わなかった。

そして、私達は移民局へのアピール(明確な理由を基にした主張)の権利をポジティブに捉え、日本からも様々な書類を取り寄せ、通常なら滅多に体験することの出来ない裁判所の証言台にも立った。

 

とても長く感じたが、最終的に何とか谷から抜け出すことは出来た。

不思議なことに、移民局から永住許可の通知が届いた時の記憶は残っていない。

ただ、警察だったか?健康診断の病院だったか? どこかのオフィスで全指(10本)のフィンガープリント(指紋)を取られた時に、なぜか何とも言えない嬉しさが込み上げて来たのが心に残っている。

オーストラリアという新しい世界にワクワクしながらも、いつもどこかに不安な気持ちを抱え、それが私や妻の目に見えないストレスになっていたが、その日を境にそのストレスは消えた。

例えどれだけ巨大な壁であっても、いかなる難題であっても、自分自身が諦めないこと、信じること、正しい主張をすること・・・ を私は心に刻んだ。また、励ましてくれた仲間の大切さも私は絶対に忘れない。

 

「子供達をオーストラリアで育てて本当に良かったね」 妻は何度も繰り返す。

私達のストレスを知ってか知らずか、そんなことにはお構い無しに息子二人はオーストラリアの教育やスポーツ環境にどっぷり浸かりながら成長した。

私は英語で上手に言い聞かせることが出来ない代わりに、挑戦することや諦めないこと、真面目に生きることを自ら彼らに見せるしかなかった。妻はそんな私の心や生き方を息子達に言い聞かせていた。

 

息子二人は、共に一昨年結婚した。

妻の言う「オーストラリアで子育てが出来たこと」に私も賛同するが・・・

私にとって一番良かったことは、家族が家族らしく暮らして来れたこと、そして、30年経った今も、私達はもちろん、それぞれが家族を大切にしながら家族らしく暮らしていることだと思う。

"家族らしく" とは・・・ 「きっと、いいことあるよね」と共に小さな夢を信じ、些細な喜びや悲しみ(不安や悩み)を共有し、一緒に喜び、一緒に解決への努力をすることだと思う。

 

毎年、大晦日には我が家に家族が集まるが、2017年末は息子達の結婚で二人増え、昨年12月に孫が誕生し、2018年末は更に一人増えた。言ってみれば、日系一世から日系三世・・・

今ではそのような呼称を滅多に耳にしないが、四世、五世となり、私達の子孫が、オーストラリアに住むルーツを調べ、私達夫婦の足跡を辿るかもしれない。

感謝されるかどうかは分からないが、きっとその頃には日本語が絶えてしまっているかもしれない。

「Hanaと一緒の時は、絶対に日本語しか使わないぞ!」

Hanaの初笑いの写真を見ながら、いつの間にか妻と私は将来の作戦を練っていた。

ここを歩くのは何年ぶりだろう?

東京滞在中に、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている巣鴨を訪れた。

年間900万人が訪れるというこの街は、江戸時代、日本橋を出発して、旧中山道の最初の休憩地として商業が発展したというが、この地蔵通り商店街にはどこかその名残が感じられる。

"ソメイヨシノ"発祥の地であり、秋には菊の名所として菊花盆景の展示が楽しめ、今も菊の花に因んだ俳句の会などが毎年営まれるそうだ。

江戸時代、各街道の入り口に建てられたという江戸六地蔵の一つが眞性寺門前に鎮座している。

明治24年には、"とげぬき地蔵尊"高岩寺が上野から巣鴨に移転し、その地蔵が延命地蔵として病や心のトゲを抜くと言われたことから、巣鴨はおばあちゃんの聖地となったようだ。

確かに、原宿の竹下通りの少女たちをおばあちゃんたちに置き換えたのが巣鴨地蔵通り商店街と言えなくもない。可愛いファッションを扱うお洒落なショップの代わりに、店先に分厚い真っ赤なメリヤスのパンツをぶら下げた専門店、スイーツ・ショップの代わりに、甘酒、せんべい、塩大福を売る店が軒を連ねる。

江戸時代創業の店も多く残っているようだが・・・

総じて古くも新しくも見える昭和の商店街という感じがする。

昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で巣鴨周辺は焼け野原となり、古い街並みは軒並み焼失した。眞性寺も焼け落ちたそうだが、江戸六地蔵のお地蔵さんだけは焼け残ったそうだ。

私の母は宇都宮に疎開していたが、生まれ育った巣鴨にほど近い文京区の家はその空襲で焼失したと聞いた。巣鴨周辺にはこの空襲で被災された人々を焼いて葬るための大きな穴が数多く掘られていたと母から聞いた記憶があった。

巣鴨地蔵通り商店街の入り口付近に昭和27年(1952年)創業の巣鴨萬盛堂薬局がある。

昭和31年度の経済白書の序文に「もはや戦後ではない」と記載されたようだが・・・

その意味からすれば、昭和27年はまだ戦後間もない時代であり、昭和30年生まれの私も戦後間もない時代の生まれに属するようだ。

大震災から8年弱の東北の現状を観て、設備も資材も今のように恵まれていない昭和20年代を想像すれば、終戦から7年後の昭和27年にはまだ戦争(東京大空襲)の爪痕が残っていたことだろう。

そんな最中に巣鴨萬盛堂は創業し、70年近く地域住民の健康な生活を見守って来たことだろう。

実は、この薬局には私にとって忘れられない思い出があった。

 

昭和55年(1980年)、私はライオン株式会社に就職し、東京23区の小売店を対象としたSP(セールス・プロモーション/販促)と言われる部署に配属された。

入社間もない私にとって、日用品市場を知るためには、うってつけの部署だった。

私は練馬区と板橋区が担当だったが、仕事に慣れた頃に池袋のある激戦区の豊島区が加わった。

巣鴨地蔵通り商店街にも幾つかのお得意先があり、萬盛堂も私の担当する販売店の一つだった。

その頃は、まだ大型ドラッグストアのようなチェーンは無く、萬盛堂はいつも店頭に様々なメーカーの日用品等を山積みし、値引きを目玉に集客を狙う大型ドラッグストアの先駆けのような薬局だった。

日用品メーカーのセールスとして、自社製品をどこの店にも置いてもらえる商品に育てることは理想だったが、言うほどに簡単ではなく、例えば販売店間の価格競争が商品価値を下落させ、小売店の販売意欲はもちろん、取扱い意欲まで失わせてしまうことがあった。

店頭での日用品の安売りを目玉に集客力を高め、利益率の良い薬や化粧品の販売を目論むドラッグストア(薬局)は多く、一般の雑貨屋など個人経営の小売店には大きな脅威だった。そして、それが例えば獰猛なブラックバスの繁殖で川や湖の生態系が変り、他の魚がいなくなってしまうのと同じような現象に繋がり兼ねなかった。実際、商品の取り扱いを止めたり、最悪は廃業する小売店もあった。

独占禁止法という法律のため、メーカー側は販売店に対する販売価格の強制や指導は許されず、安売りを断行する販売店に丁重にお願いして配慮を求める以外に無かった。

 

安売店が"消費者の味方"であることは間違いない!

しかし、メーカーにとって、競合店同士の価格競争の結末を考えれば、黙って見過ごせない問題だった。

新人セールスの私は、まずその原理原則や流通機構、対処法等を脳裏に叩き込まれた。

妻は安売店で嬉しそうに大量の買い物をするが、私はライオンのセールス時代がトラウマになっており、今も安売店内に入る際に気が引けてしまう。

 

巣鴨萬盛堂はこの地域ダントツのリーダー店だった。

この地区の担当になった頃、いつも店頭を横目で窺(うかが)いながらそそくさと通り過ぎた。

あの頃流行っていた「仁義なき戦い」に例えて、店の前を通り過ぎる際は、正直、組の事務所の前を通るような気持ちで、まともに店内を見ることさえ出来なかった。

見て見ぬふりをして適当にゴマかしていれば、周辺の競合店が何も言わなくなるのは知っていた。

嘆いてもどうにもならないことを彼ら自身が一番良く知っているのだ。そして、1年もすれば担当地区は変わり、次の担当者にこの地区の問題を放り投げてしまうことも出来たのだが・・・

バブルが膨らみ始めた時代で、大きい資本が小さい資本を土足で踏みにじっていた時代だった。

「新しくこの地区の担当になりましたライオンの加藤と申します」 丁寧に名刺を渡した。

「珍しいね、ライオンさんのセールスがうちに来たのは初めてだよ」 店主はそう言って笑った。

一瞬、原理原則、対処法を大仰に語っていた先輩方の顔が浮かんだ。彼らは誰一人、この店とまともに向き合わなかったのだ!彼らもきっと行くべきか悩んだに違いないが、何なんだよ!とガッカリした。

 

予想以上に平穏に会話は続いたが、「弊社の主力商品を店頭で安売りするのを止めて頂く訳にはいかないでしょうか?」 と私が切り出した瞬間、顔色が変わった。

ただ、彼は私がそう切り出すのを予想していたに違いなかった。

それでも、リーダー店の主人として、彼が巣鴨地蔵通り商店街全体の繁栄を考えないはずは無かった。

 

「この地蔵通りには日本中からおじいちゃんやおばあちゃんがやって来るのを君は知っているよね。みんな高い電車賃を払ってこの地を訪れ、虎の子の金で家族にお土産を買って帰る。それを楽しみにしているんだよ。我々は、それにお応えするために、良い商品をこうして利益を削って提供しているんだよ」

その真剣な眼差しから、その言葉に私を調子よくあしらおうという心は感じられなかった。

 

「御社のような値段で販売出来ない小売店はたくさんあります。そんな小売店はお客様から何もかもが高いというイメージを持たれ、これからの経営も心配な状況になってしまうと思うんです」

「日用品ですから誰にとっても必需品ですし、適正な利益を確保しながら販売して頂けないでしょうか」

私は、まるで先輩から指導されたままを棒読みしているようだったに違いなかった。

 

「君はこの地区をどれだけ知っているんだい?どんな歴史を知っているんだい?」

「この商店街は、江戸の昔から続く店と戦後間もない頃に出店した店が上手に共存共栄して発展して来たんだよ。それぞれの役割があって、うちはこの通りに客を寄せる役割を担っているだよ」

「企業努力をしない店は、これから何がどうあっても生き残れないだろうね!」

「当たって砕けろ!」の精神だけで、地蔵通りの由来も東京大空襲の歴史も何も知らずに不勉強のまま、私が店を訪問していたのを完全に見抜かれていた。

「・・・・」

「よし、分かった!この店を一日君に任せるから、君が全部値付けをして売ってみるといい。君がいつもと同じだけ売り上げたら、うちはその値段で売ることにするよ」 その口調は厳しくキッパリとしていた。

「・・・・」 私に言い返す言葉は無かった。

お客様が引っ切り無しに出入する店頭にも関わらず、情けなくて不覚にも涙がこぼれて来た。

 

セールスの原点と言うかその基本や厳しさを教えられたのだ。

私は豊島区を担当した時代、近くを通る度に、必ずこの巣鴨萬盛堂に立ち寄った。

そして、徐々にメーカー側の立場として話す私の要望も聞き入れてもらえるようになった。

「電車でおいでよ」と言われ、近くの古い焼き鳥屋でご馳走になったこともあった。

勇気を出し、ノコノコと現れたドン臭い不器用なメーカーのセールスを店主は評価してくれていた。

今回、久しぶりに巣鴨地蔵通り商店街を訪れたが、巣鴨萬盛堂薬局は3店舗に増えていた。

また、その周辺の小売店は便利さを売りにするコンビニに変り、当時いつもお茶をご馳走になった個人経営の雑貨屋はお年寄りが好む趣味の店として生き残っていた。見るからに老舗のボンボンという風貌だった旦那さんは亡くなり、いつもお茶を入れてくれた高齢の奥さんが私の再訪を喜んでくれた。

原点を顧みることの大切さを感じた小さな旅だった。

2015年7月15日~18日、ARU(オーストラリア・ラグビー協会)スタッフによる2019年ラグビーW杯キャンプ地視察が実施された。視察最終日の18日には、視察への感謝の気持ちとして、ARUスタッフによる地元の少年少女向けのコーチング・プログラム(トレーニング講習会)が開催された。

キャンプ地として決まれば、地元少年少女のために、ワラビーズによるこのような夢のコーチングが実現するに違いない・・・ そんな期待感が私にも地元のラグビー関係者にもあった。

 

現地到着後、県ラグビー協会の心温まる歓迎会が催され、ARUスタッフたちは、ラグビー仲間のフレンドリーな "おもてなし" にポジティブな気持ちになったはずだ。

そして、翌朝は知事表敬、表敬の証として、ARUからオーストラリア代表メンバー(ワラビーズ)のサイン入り公式ジャージ(額入)が贈られた。今も知事室の壁に飾られているのを期待したいが・・・

知事表敬終了後、視察は県北から県南までくまなく行われた。それまでやり取りをして来た県庁の若手職員(3名)がその視察の案内役だった。オーストラリアでは、よく "well organized" という言葉が使われるが、綿密に準備された案内だった。直接担当ではない管理職の後輩君も帯同してくれた。

視察には県が専用バスを用意してくれたため、道中、日本語を理解出来ないARUスタッフの前で、私は忌憚なく堂々と若手職員や後輩君と会話をすることが出来た。

「やはり、最終的には、キャンプ地側が何をしてくれるかが決め手になると思うよ」

ARUスタッフたちは、日本中どこをキャンプ地にしても、スポーツ施設は整備され、リラックス出来る環境(保養スポット他)もあり、美味しい食事にもありつけるのを知っている。となれば、結局、彼らの思惑は、何をどれだけサポートしてくれるか?を具体的に引き出すことになるに違いない。

 

「県としては来るなら面倒を見ますが、例えば金の掛かるサポートなどは一切出来ませんので・・・」

県庁の方針にストレートで杓子定規な管理職・後輩君の言葉に、「おいおい、天下のワラビーズを呼ぼうとしているんじゃないの !?」と喉まで出掛かったが、私はその言葉を飲み込んだ。

彼の言葉にはワールドラグビーや日本協会の方針があるのかもしれないと考えたからだ。

ただ、直接担当では無いものの、キャンプ地招致計画のサポートを私に依頼した張本人である後輩君の「来るなら面倒みますよ」という上から目線の言葉に、私のワクワク感は消えた。

そして、その後の視察は、私にはまるで県内の地理や歴史(名所旧跡)の視察のようだった。

もとより、県庁の方針から、この視察自体、県庁側は6名分の交通費や宿泊費を一切負担せず、ARU側が自主的に視察をするという位置付けで行われた視察だった。

だから、私は自由にものが言えるのだが・・・

後輩君の言葉を、私はARUスタッフたちに伝えることはなかった。

 

今年の9月下旬にワラビーズのキャンプ地は小田原市に決定した。

ネットの情報には「"ヒルトン小田原リゾート・ホテル"が滞在費を云々・・・」と書かれていた記憶がある。それが確かな情報かは不明だが、なるほど「来るなら面倒見ましょう」では、無理なのは明白だった。

 

話は視察に戻るが・・・

県内各地を訪問し、その場所場所で市長や担当者と話す内に、私は若手職員たちのキャンプ地招致に対する本気度が増しているのを感じた。

それは、ARUスタッフたちの真剣且つ真摯な態度や真面目な姿勢が影響していたはずだ。そこに、若手職員たちの熱意が相まって、同じ目標を目指すチームワーク(友情)のようなものが芽生えていた。

主な視察を終えた晩、若手職員たちの所属する総合政策部の部長が、オフィシャルではなくプライベートなパーティー(お疲れさん会)を開いてくれた。実に楽しく、和やかなパーティーだった。

 

視察最終日には、キャンプ候補地の一つである市の少年少女のために、ARUスタッフたちによるコーチング・プログラムが開催された。ARUスタッフたちのこの視察への感謝の気持ちは強く、オーストラリアではあり得ない砂や泥のグラウンドにも何のこだわりも無く、一生懸命な指導が行われた。

自らデモンストレーターを買って出たARUスタッフの泥だらけの膝からは血が流れていたほどだ。

訪問した先々でTVクルーや新聞記者が待ち構え、視察やセミナーの様子が撮影され、新聞記者の取材も多く行われた。視察の様子は地方向けのニュース枠や県内向けのケーブルTVで放映され、その記事も大手新聞の県内版や地元の新聞紙面で紹介されたようだ。

ただ、残念ながら、私に映像や新聞記事は届いていない。もちろん、ARUにも届いていない訳で、折角のARUへのアピールのチャンスを失ってしまった。

県庁の管理職である後輩君から視察に関する感謝(?)のメールが届いたが・・・

ワラビーズのキャンプ地になるかならないかは別として、テレビや新聞で我々が努力しているのを県民に知ってもらえたことは大きな成果です。今後ともご協力のほど、よろしくお願いします。

長年"県庁さん"を続けて来た定年間近の管理職である後輩君にとって 「お!、県庁頑張ってるじゃないか」と県民から評価されること・・・ もしかすると、最初から、そんな風に "やってる感" を評価されることが目的だったのではないだろうか? 私にはそう思えてならなかった。

TVや新聞で大きな話題になっていることをARUにアピールしようともしない招致委員会や県庁自体が、その程度の姿勢だったのかもしれない。

 

それでも、県庁の若手職員たちの一生懸命な姿勢に応えるべく、私はオーストラリアに戻ってからも、ARUはもちろん、オーストラリアの全スポーツを取り仕切るキャンベラのASC(スポーツ委員会)やAIS(オーストラリア国立スポーツ研究所)を訪問し、彼らが作成したパンフレットや視察の際に撮影した写真を基に私が作成した視察レポートを手渡し、可能な限り、主要な人物への説明も忘れなかった。
因みにシドニー/キャンベラ間は片道300kmである。

視察直後から翌年の年度末ぐらいまで、若手職員とのメールによるやり取りは続いたが・・・

その中で最も熱心だった職員から「担当部署が農政部に変り、今後この仕事には携われなくなりました。残念です・・・」というメールが届いた。彼は若手職員3名の中で最年少と思われ、ミーティングなどでもほとんど口を出さなかったが、私が関係者全員に状況報告をする度に、必ず近況や彼個人の意見を添えた丁寧な返信をくれた。ある意味、彼が移動前に送ってくれた「ホストタウン構想」があったからこそ、私はモチベーションを持ち続けられたのだ。

新年度になってからは、誰からも一切経過報告は無かった。

 

2016年12月21日、12時11分、地元の友人から、突然新聞記事のコピーがSNSで送られて来た。

記事の見出しには「XX県、ラグビーW杯、キャンプ地県内招致断念」と書かれ、視察したARU側の決定を待たずに県が断念するという内容だった。記事にはその断念の理由も書かれていたが、「サッカーJ3チームのトレーニング・スケジュールと重なり、スタジアムが確保できないため」ということだった。

その事情が県や住民にとってどれほど重大なことなのか私には分からないが・・・

そもそも、ラグビーW杯で2度の優勝経験のあるワラビーズがどのようなチームなのかを理解してから、招致などと言い出すべきだったのではないだろうか。

ともあれ、キャンプ地招致断念は、様々な事情があっての決断と思われ、仕方の無いことだろう。

ただ、ARUスタッフを含む私達は、経費や時間を工面して視察を実施し、その後オーストラリアに戻ってからも、招致に向けた働き掛けのボランティアを続けていたのだ。

友人から新聞記事の届いた15分後、リーダーである若手職員から8ヶ月ぶりにメールが届いた。

断念に至った簡単な経緯が書かれ、「東京オリンピック・パラリンピックについては、積極的に取り組んで参ります。またお会いできる機会がございましたら、その際は何卒よろしくお願い申し上げます」と締め括られていた。上からの流れに乗らなければならない彼も悔しいのかもしれないが・・・

ただ、突然梯子を外された私は、ずっとオーストラリアで招致に向けたボランティア活動を続けていたのに、それに対する労いの言葉も今後の対処についても何も記されていなかった。

我々が断念した以上、後処理はご自分で・・・

私は、それが "県庁さんの常識" なのかと思うしかなかった。

 

梯子を外され、やり場の無い私は、長期間、何も知らされずに招致に関するボランティア活動を継続していたことへの虚しさや今後のオーストラリア側への対処の難しさなどを書き連ね、私に招致のサポートを依頼した後輩君にメールを送り、何らかの説明を求めようとした。

"やってる感" のメール以来、後輩君からも一度も連絡は無かったが、直ぐに短い返信が届いた。

 

御無沙汰しておりました。

昨日の新聞に記事があり、「あれ?」と思いましたが、仕方のないところです。

それはさておき、加藤さんに節目ごとに経過報告をしていなかったということは、まったく遺憾です。

身内のことですから、重ね重ねお詫びいたします。

担当には前にも一度注意しておいたのですが、懲りていないようなので、近々上役に「信頼関係が損ねて何ができる」と厳重に抗議しておきます。

以上、取り急ぎ

 

その後、県庁の誰からも連絡はない。

私はこの視察に関係した全員宛に、「知事表敬で、県に贈らせて頂いた貴重なワラビーズ・ジャージが、埃を被り県庁の倉庫に置かれているようなことだけは無いようにしていただきたい」とメールを送った。

「県庁おもてなし課」という映画を観た。

朝ドラを2時間に縮めたような作品だが、数年前の私の実体験と重なり、ちょっぴり笑える映画だった。

2015年、県庁に勤務するラグビー部の後輩からメールが届いた。

「2019年ラグビーワールドカップ、2020年東京オリンピック開催に向け、オーストラリア代表の事前キャンプ地誘致」に関する協力依頼と問い合せだった。

端的に用件だけが書かれた文面に、先輩後輩の御無沙汰の意は一切感じられず、その面白みの無い文面から、長年県庁で働いた男の"遊び心"の無さが感じられた。

ともあれ、長年オーストラリアのスポーツ界に関りを持ってきた私は、後輩からの協力要請をそっけなく断るようなことはしない。

 

セミナー開催のため、私は毎年3月に訪日するが、その開催に合わせて県庁を訪問、総合政策部総合企画課を訪ね、部長を筆頭に課長、担当者数名から、事前キャンプ地誘致に関する説明を聴いた。

このプロジェクトを担当する数名の若手職員は選り抜きの精鋭に違いないが、リーダーは大手旅行代理店からの出向職員であり、大きなイベントの開催に向け、抜かりのないタイアップの実態を垣間見た。

私をそんな職員たちに結び付けた後輩も、オブザーバーとしてこのミーティングに参加した。

海の物とも山の物ともつかない案件に、案の定、後輩を含め若手職員たちの説明を聴きながら、ワクワクするような感覚が湧き上がって来ることはなかった。

映画「県庁おもてなし課」は、正にあの日、私が県庁で感じたままを再現するような作品だった。

物語には、過去に突拍子も無い企画を提案し、県庁の誰からも相手にされず、結局県庁を去る元県庁職員が登場するが・・・ それと同じ企画を他県が採用し、その大成功が日本中から脚光を浴びる。

片や、その企画に目を背けたこの県は可もなく不可も無く、職員には気概も無く、気が付けば、何年も時は過ぎ、そんな企画の提案があったことすら知る職員はいなくなっている。

退庁した元県庁職員は、退庁後に独立、民宿経営の傍ら、観光大使のような仕事を続けている。

 

日本とオーストラリア、観光とラグビーという違いはあれど、突拍子も無い企画の提案者として県庁の誰からも相手にされなかった元職員が持ち続けた信念は私に通じるものであり、そして、彼の言葉はあの県庁でのミーティングで私が言いたかったそのままだった。

「自分が感動せんで、誰が感動するんじゃ !?」

「自分が好きにならんで、どうやって好きにさせるんじゃ !?」

任された一定の仕事をこなせば任務の終わる職員が感じる達成感や満足感・・・

「そんなもの、県民置き去りの単なる自己満足じゃ!」と彼なら言うだろうが、波風立てず、問題を起こさず、退庁の時を迎えるのが "出来る県庁さん"・・・ 以前どこかでそんな言葉を聴いたことがあった。

現在も含め、人生の4分の3を県外で暮らす私に何の不都合も権利も無いが、言うことだけは言った。

「英文の小冊子を作成しましたので、オーストラリアのスポーツ関係者に配っていただけますか」

私は手渡された小冊子のページを捲った。

精鋭たちが一生懸命作成した小冊子、彼らの並々ならぬ努力は私にも理解できる。

コーチやアスリートたちが最も興味を持つはずのスポーツ関連施設は、「FACILITIES General Sports Zone」として、イラストで未来予想図が掲載されている。

「この施設は、いつ頃完成予定ですか?」

「平成31年の完成を目指していますが、たぶん、7年後の国体開催までには確実に・・・」

「では、4年後のラグビーワールドカップには間に合わない可能性があるということですか?」

「・・・」

「そのような不確定な状況で事前キャンプ地誘致を目指されているのですか?」

「・・・」

「サッカーJ2のチームが使っているフィールドがありますので、そこを借りれば・・・」

職員たちの苦し紛れの返答に、正直、私自身どう対応すれば良いか困ってしまった。

取りあえず、私は1年早く開催されるラグビーW杯のキャンプ地誘致に絞って考えることにした。

初回ミーティングの結論として、私は「代表コーチや選手に影響力を持つARU(オーストラリア・ラグビー協会)の然るべきスタッフに現地視察をさせてしまうのが一番手っ取り速い!」と職員たちに提案した。

正直、キャンプ地選定には時期尚早の感があり、ARUに対する何の方策も確証も持っていなかったが、動き出さなければ何も進みそうにない職員たちを鼓舞するつもりでそのような提案を投げ掛けた。

「本当にそんなことが出来るんだったら素晴らしいと思いますが、ただ・・・」

「県庁として出せる予算が限られていると思いますので・・・」

「滞在費も交通費も出ないと思いますが・・・」

思いますが、思いますが、思いますが・・・ のオンパレード。

「キャンプ地誘致」という大きなアドバルーンを揚げたのは良いが、それを進める彼らに欠けているのは、夢であり、それを楽しむ遊び心であり、そして、俺たちが県を動かしてみよう!という意欲であろう。

 

「我々は仕事をしている」という証として小冊子を作り、そこに紹介されているのは完成予定も確定していない未来予想図。それを配って欲しいと言うが、オーストラリアのスポーツ関係者と言うだけで、どのスポーツ関連機関のどのレベルの誰にどれだけ配布するかという計画も下調べも無い。

置いておくだけで、また、渡しただけで読んでくれるほど、オーストラリア人は甘くない。

日本人はよく名刺を配るが、会議が終わった後に、その多くが机の上に置かれたままになっている光景をよく目にする。彼らにとって大切なのは、会社でも肩書でもなく、その人本人なのだ。

「予想で描かれた小冊子なんて!」と思ったが、彼らの努力を考え、私はその言葉を飲み込んだ。

 

映画では、元職員の斬新なアイデアや厳しい言葉に若手職員たちが反応し、少しずつ変わっていく。

実際に現場に立ち、県民と語り合い、試行錯誤を重ねながらも、県民の求めるものに目を向けるようになる。また、若手職員たちの変化に伴って、上司の姿勢や職場の環境も少しずつ変化していく。

まあ、それは映画の脚色かもしれないが、私はそんな現実が実際にあって欲しいと願う。

 

何のために誘致するのか?

子供からお年寄りまで、誘致することにより県民が利することは?

そして、それによる経済効果は?

やはり、原点に立ち戻って動き出すことが大切なのだろう。

動き出した以上、私も真剣にならざるを得なかった。

ARUにW杯日本大会の事前キャンプ地について提案し、そのための視察を実現すること・・・

予算的な課題を克服するため、ARU主催のセミナー開催を企画、然るべきARUスタッフやコーチの帯同、通訳やサポート・スタッフの手配、スポンサーの発掘・・・ その他にも、日程の調整やセミナーの参加者募集、多岐に渡る手配や予約など様々な準備を開始しなければならなかった。

そして、その年の7月、ARU National Coach Development Managerを筆頭に、ARUハイパフォーマンス部門やコーチ教育部門のスタッフを帯同し、事前キャンプ地視察を実施することになった。  つづく

日本から、この7月~8月に4人の留学生がオーストラリアを訪れた。

私自身はシドニーに住んでいるが、4人の留学先は約850km北のゴールドコーストである。

私のサポートの基本は、留学生に対し手取り足取り世話をしないことだ。それをすれば、留学の目的や醍醐味が半減してしまうからである。留学を開始する際の準備さえしっかりしておけば、彼らは自ら動き出そうとするし、自ら異文化に向き合い、それを自らつかみ取ろうとする。

もちろん、信頼出来るガーディアン(身元保証人/日本語の出来ないオーストラリア人)を彼らの身近(ゴールドコースト)に置き、オーストラリア人の視点や感覚で彼らを見守る体制は整えている。

ホームステイや語学学校、スポーツクラブ他のスタッフとのコミュニケーションもガーディアンに任せているが、それは留学生に対し可能な限り英語でアドバイス出来るよう考えてのことだ。加えて、例えばラグビーが留学の主目的ならラグビーに精通したガーディアンが望ましい。更に、私の最低条件は子供に対する溢れるような愛情を持つガーディアンでなければならない。
親友のグラント(QLDプレミアリーグBOND大学ラグビークラブ1軍ヘッドコーチ)は最高のガーディアンだ。

私は、留学生の様子をガーディアン "グラント" とのやり取りでほぼ完璧に理解できる。

 

一般的に言えば、日本人は自己主張の苦手な国民である。

片やオーストラリア人はその真逆の国民性を有している。基本は気楽でラブリー、陰口や悪口の類はほとんど無い。それでも、幼い頃から自己主張するのが当たり前に育つため、自己主張しない者への気遣い(思いやり)のようなものは期待しない方が良い。例えば、ホームステイで何も主張しなければ、何の問題も無く、全て満足して生活していると思われてしまう。更に" YES or NO" のハッキリした国民性がそれに輪を掛け、NOと言えない日本人は、黙ったまま「思いやりがない!」とか「冷たい!」などと思い込み、ストレスを溜めることはよくあるパターンである。

 

先日、ガーディアン "グラント" から留学生A君に関する連絡があった。

「夜になると毎日のようにどこかに出掛け、家に戻るのも遅いようだとホストファミリーから聞いたが・・・」

それは告げ口ではなく、純粋にA君を心配する連絡だった。

ラグビーと英語を学ぶ目的でオーストラリアにやって来た留学生A君(24歳)・・・

「死ぬ気で頑張ります!」という彼に、「もっと肩の力を抜いて、ラグビーやオーストラリアをエンジョイするような気持ちでやれば・・・」と声を掛けた。私自身、日本の体育会経験者であり、自分自身を鼓舞しようとする彼の気持ちはよく理解できる。しかし、30年間オーストラリアで暮らし、ラグビーや様々なスポーツをプレーした2人の息子を育てた私には、オーストラリアまで来て、日本を背負ったままラグビーをプレーして欲しくなかった。

 

グラントの連絡に、私は何の疑いも無く、パブやスポーツクラブにでも出掛けているのだろうと考えた。

24歳の彼にとって、それはそれで意義あることであり、ビール1杯でパブが無料の英会話教室に変わる。そして、それは30年前に私が実際に経験したことなのだ。33歳で移住、家族を守るため語学学校に通う時間や経済的な余裕は無く、仕事が終わった帰宅前のパブが私の恰好の英会話教室だった。

顔を出す度に同じ顔に出会う。毎日同じ席に座り、日課のように夕方のひと時をそこで楽しむ老人がいる。そのほとんどがスポーツや音楽好きなのだ。ビールをチビチビ飲みながら大画面でスポーツ観戦を楽しみ、週末には生バンドの演奏を楽しんでいる。そんな彼らは同じ匂いのする仲間を大切にし、決まって陽気でフレンドリーなのだ。勇気を出して挨拶をしてみる。次に会う時は「ヘイユー・ゴーイング・マイト」(How are you going mate? / 調子はどうだい?) てな具合になる。そうなればしめたものだ。

 

良いか悪いかは別にして、今はSNSで直ぐに連絡が出来る。

私は何の心配もしなかったが、今までサポートした留学生を思い出せば、留学の成功か否かは、規則正しい生活をするかしないかに懸かっているという信念があるため、グラントから聞いたままをA君に投げ掛けた。パブやスポーツバーに出掛けるのは反対しないが、規則正しい生活に支障を来たすことのないよう、以前の留学生の例なども書き添えた。A君からは直ぐに返信があった。

私の予想は外れ、アルコールは一滴も飲んでいないと言う。彼が言うには、食事に関する問題が・・・

それはホームステイでよく起こる問題であり、限られた予算から完璧な食事を出してもらうことは不可能に近い課題なのだ。ただ、問題ならやはり解決しなければならない。

私は、苦情としてではなく、どのような状況なのかをホストファミリーに打診したが、直ぐに返信があった。そして、その返信には写真も添付されていた。

A君は将来フィットネスに関わる仕事を目指している。英語の習得も最先端のラグビーやストレングス&コンディショニングを体験することも、彼は将来のための布石と捉えているようだ。彼にとって重要な項目の一つにニュートリション(栄養学)も含まれているようで、彼はファッティフードやファストフードを極力避けたいという思いがあったようだ。

そんなA君は脂肪を燃やすために歩き、時にはたんぱく質の補給に出掛けていたようだ。

 

24歳の大人の対応を求めるなら、事前に自分の事情を説明しておくべきだったろう。

それから、上手に自己主張すれば、ホストファミリーのママさんは何の問題も無く食事の内容を改善してくれていたと思うが・・・ やはりセンシティブな問題であり、このホストファミリーの日本人顔負けの "おもてなし" を考えれば、不用意に「自己主張すれば良かったのに・・・」 とは正直言えなかった。

朝晩の食事が基本なのに、毎日ではないにしても、語学学校で食べるランチボックスを持たせ、家から語学学校、ラグビーのトレーニングへの送迎もホストファミリーがしてくれているようだった。

ホストファミリーやグラント、そして私の心配は杞憂(取り越し苦労)だったようだが、A君のちょっとしたトラブルから私も学んだ出来事だった。

 

留学の後半戦、A君は自立の道を選択し、シェアハウスで自炊生活を開始した。

それは彼の自己主張であり、私はそんな彼を応援したい!

ガーディアン "グラント" はシェアメイト(OZ)にも直接会い、A君を見守り続けている。

オーストラリアでは15人制ラグビーシーズンが終了し、7sラグビーシーズンが開始されている。

大学時代に7s大会の代表メンバーとしてプレーしたA君の活躍の場であり、思う存分プレーし、この留学の証として何かをつかんで欲しいものだ!