明治人は総力をあげて戦った。
明治37年(1904年)2月、日露戦争が勃発しました。日本海軍は旅順口外、黄海、蔚山沖の海戦でロシア旅順艦隊、ウラジオ艦隊を撃滅。そしてロシアは10月15日バルト海のリバウ港からバルチック艦隊を出航させました。
バルチック艦隊は戦艦8隻を含む38隻の威容です。この大艦隊をウラジオストックに入れてしまえば制海権を奪われてしまい、満州の陸軍が孤立してしまいます。世界がこのバルチック艦隊の動向を見守っていました。
バルチック艦隊は12月中旬にはアフリカ大陸の南端、希望岬を通過。翌年1月9日にマダガスカル島(フランス領)のノシベに錨をおろしました。ここで第三艦隊と合流するために約2か月間滞在することになります。
天草出身の赤崎伝三郎は家業に失敗して借金を返済するため、マダガスカルでホテル経営をしていました。そこにバルチック艦隊がやってきたのです。赤崎は「一大事!」と、すぐさま艦船の種類や数、艦隊が積み込んだ石炭や水、食料の量を極秘に調査し、急ぎインドのボンベイ日本領事館に電報を打ちました。ロシア側では「昨日貿易商人に装いたる一人の日本人間諜、スワロフに載り込みたり」という記録もあるくらいで、まったく命がけの行動でした。しかもマダガスカルはロシアの同盟国フランス領です。
マダガスカルの「からゆきさん」(日本人娼婦)も大艦隊の到着に驚愕し「このままでは、お国が滅ぼされる」と叫び、日本の商船を訪ねては情報を知らせてきました。
”からゆきさん”は逆情報を流し、心理戦を仕掛けたと言われています。「日本の巡洋艦がインド洋で待ち伏せしている」というものです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によるとマダガスカル到着以前から日本の水雷艇に怯えた乗組員が信号を誤読したり、怪艦四隻に追尾されたと報告する艦もあったので、もともとの噂かもしれませんが、シンガポールでは現地の日本領事館に貯金や着物、簪(かんざし)を「お国のために使ってください」と差し出す”からゆきさん”がいたと言いますから、彼女らなりに日本国家を案じて必死だったのは間違いないでしょう。
三井物産の社員・津田弘視は石炭販売を行っており、その情報網を使って、バルチック艦隊がスマトラ島に出現するとその情報を海軍に打電しました。イスタンブールで事業を行っていた実業家・山田寅次郎(宗有)はトルコ人ら20人と24時間体制でボスポラス海峡を見張り、ロシアの黒海艦隊の動きを日本に伝えました。山田寅次郎は日本とトルコの友好親善の礎を築いた人物としても知られています。
バルチック艦隊は5月19日にバシー海峡(台湾の南)を通過。26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に寄せられました。これで燃料から考えて太平洋ルートではなく、対馬ルートが確定しました。
5月26日早朝、沖縄の青年漁師二人が宮古島沖の海上でバルチック艦隊を発見。「坂の上の雲」によると奥浜牛という29歳の青年です。奥浜青年は宮古島での役場に報告しました。ところが、宮古島には電信局が未設置で軍に連絡することができなかったため他に若者3人を集め船で15時間かけて120キロ先の八重山島に行って報せました。バルチック艦隊発見第一号の奥浜青年は宮古島の警察署の調書に印を押すためにわざわざそこで印鑑を作りました。奥浜青年は後にこの印鑑は名誉の記念として末代まで大切にするよう遺言したといいます。
商人も”からゆきさん”も、実業家も漁師も国家の危機に際して出来る限りのこと、ときには命の危険も顧みずに行動しました。この明治の時代というもの、明治人の姿が見えてきます。
そして5月27日午前4時45分、信濃丸がバルチック艦隊を発見し、打電します。
「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」
4時50分
「敵、第二艦隊見ユ」
そして5時5分、連合艦隊に出撃が下令されました。
参考文献
PHP「歴史街道」2011.12『祖国のために・・・敵艦隊の動向を報せた世界各地の日本人たち』平間洋一
文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
徳間書店「東郷平八郎と乃木稀典」
添付画像
リバウ軍港のロシア第三太平洋艦隊
国立公文書館 日露戦争写真館より http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
お手数ですがこちらもよろしくお願いします。
日本海海戦 http://www.youtube.com/watch?v=VVtzIQDE5tg
明治37年(1904年)2月、日露戦争が勃発しました。日本海軍は旅順口外、黄海、蔚山沖の海戦でロシア旅順艦隊、ウラジオ艦隊を撃滅。そしてロシアは10月15日バルト海のリバウ港からバルチック艦隊を出航させました。
バルチック艦隊は戦艦8隻を含む38隻の威容です。この大艦隊をウラジオストックに入れてしまえば制海権を奪われてしまい、満州の陸軍が孤立してしまいます。世界がこのバルチック艦隊の動向を見守っていました。
バルチック艦隊は12月中旬にはアフリカ大陸の南端、希望岬を通過。翌年1月9日にマダガスカル島(フランス領)のノシベに錨をおろしました。ここで第三艦隊と合流するために約2か月間滞在することになります。
天草出身の赤崎伝三郎は家業に失敗して借金を返済するため、マダガスカルでホテル経営をしていました。そこにバルチック艦隊がやってきたのです。赤崎は「一大事!」と、すぐさま艦船の種類や数、艦隊が積み込んだ石炭や水、食料の量を極秘に調査し、急ぎインドのボンベイ日本領事館に電報を打ちました。ロシア側では「昨日貿易商人に装いたる一人の日本人間諜、スワロフに載り込みたり」という記録もあるくらいで、まったく命がけの行動でした。しかもマダガスカルはロシアの同盟国フランス領です。
マダガスカルの「からゆきさん」(日本人娼婦)も大艦隊の到着に驚愕し「このままでは、お国が滅ぼされる」と叫び、日本の商船を訪ねては情報を知らせてきました。
”からゆきさん”は逆情報を流し、心理戦を仕掛けたと言われています。「日本の巡洋艦がインド洋で待ち伏せしている」というものです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」によるとマダガスカル到着以前から日本の水雷艇に怯えた乗組員が信号を誤読したり、怪艦四隻に追尾されたと報告する艦もあったので、もともとの噂かもしれませんが、シンガポールでは現地の日本領事館に貯金や着物、簪(かんざし)を「お国のために使ってください」と差し出す”からゆきさん”がいたと言いますから、彼女らなりに日本国家を案じて必死だったのは間違いないでしょう。
三井物産の社員・津田弘視は石炭販売を行っており、その情報網を使って、バルチック艦隊がスマトラ島に出現するとその情報を海軍に打電しました。イスタンブールで事業を行っていた実業家・山田寅次郎(宗有)はトルコ人ら20人と24時間体制でボスポラス海峡を見張り、ロシアの黒海艦隊の動きを日本に伝えました。山田寅次郎は日本とトルコの友好親善の礎を築いた人物としても知られています。
バルチック艦隊は5月19日にバシー海峡(台湾の南)を通過。26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に寄せられました。これで燃料から考えて太平洋ルートではなく、対馬ルートが確定しました。
5月26日早朝、沖縄の青年漁師二人が宮古島沖の海上でバルチック艦隊を発見。「坂の上の雲」によると奥浜牛という29歳の青年です。奥浜青年は宮古島での役場に報告しました。ところが、宮古島には電信局が未設置で軍に連絡することができなかったため他に若者3人を集め船で15時間かけて120キロ先の八重山島に行って報せました。バルチック艦隊発見第一号の奥浜青年は宮古島の警察署の調書に印を押すためにわざわざそこで印鑑を作りました。奥浜青年は後にこの印鑑は名誉の記念として末代まで大切にするよう遺言したといいます。
商人も”からゆきさん”も、実業家も漁師も国家の危機に際して出来る限りのこと、ときには命の危険も顧みずに行動しました。この明治の時代というもの、明治人の姿が見えてきます。
そして5月27日午前4時45分、信濃丸がバルチック艦隊を発見し、打電します。
「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」
4時50分
「敵、第二艦隊見ユ」
そして5時5分、連合艦隊に出撃が下令されました。
参考文献
PHP「歴史街道」2011.12『祖国のために・・・敵艦隊の動向を報せた世界各地の日本人たち』平間洋一
文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一(監修)
徳間書店「東郷平八郎と乃木稀典」
添付画像
リバウ軍港のロシア第三太平洋艦隊
国立公文書館 日露戦争写真館より http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm
にほんブログ村 クリックで応援お願いします。
お手数ですがこちらもよろしくお願いします。
日本海海戦 http://www.youtube.com/watch?v=VVtzIQDE5tg