乃木将軍愚将論は間違い。
$かつて日本は美しかった


 明治37年(1904年)~明治38年の日露戦争の旅順攻防は有名な話で司馬遼太郎の「坂の上の雲」で乃木将軍を戦下手に描いていましたが、本当はそうではありません。

 旅順はロシアがコンクリートを用いて徹底的に要塞化しており、諸国はこのことを知っていたので永久要塞とみていました。しかし、日本は情報不足によりこのことを知りませんでした。日本軍は日清戦争の旅順攻略戦旅団長だった乃木希典を司令官として第三軍として送り込みますが、攻撃してみると要害堅固さにすぐに気付きます。

 明治37年8月19日、第一次総攻撃開始。旅順要塞が強固なのに気づいた乃木将軍は9月1日には塹壕を掘って接近する「築城攻撃」に切り替えました。これは要塞戦では極めて有効であることを世界に先駆けて示すものでした。
 海軍はこの前の8月10日、黄海海戦で旅順艦隊の一部を取り逃がしてしまい、同艦隊は旅順港に篭ってしまいます。バルチック艦隊を迎え撃つには旅順艦隊と挟み撃ちになる危険があります。海軍は陸から山越えに旅順港にいる旅順艦隊を砲撃しなければならないと考え、陸軍に旅順攻略を早めるように矢の催促をしたのです。それで乃木将軍は無理な作戦でもやらなければならなくなったのです。

 乃木将軍は海軍の要請により旅順港を見下ろし砲撃可能な203高地をターゲットに切り替えていますが、既に第一次総攻撃後に攻撃目標にしており、大損害を強いられています。評論家の福田恆存(ふくだつねあり)氏は昭和17年(1942年)に203高地に訪れ、斜面の急峻さに衝撃を受けており、昭和45年(1970年)に乃木愚将論は間違いと指摘しています。
 10月15日、バルチック艦隊がバルト海リバウ軍港を出発。10月26日、乃木将軍は第二次総攻撃開始の命令を発します。塹壕作戦と砲撃により損害は最小限に止めることができました。大本営が主攻撃目標を203高地に切り替えるよう決定したのは11月14日のことで、11月26日から第三次総攻撃を開始し、白襷隊ほか各師団は苦戦を強いられ、11月27日、乃木将軍は主攻撃目標を203高地に切り替えました。203高地への攻撃は203高地後方の堡塁を砲撃するとともに、ロシア軍の逆襲を阻止すべく、味方撃ちも辞さず砲撃を加える非情なものでした。この第三次総攻撃の死傷者は1万7千でしたが、うち1万は203高地においてでした。

 12月5日、203高地を占領します。ここに海軍は観測地を儲け、旅順艦隊を砲撃しますが、実は既に旅順艦隊は廃艦となっていたのでした。海軍はこの情報をつかめていなかったのです。
 203高地を落としても旅順要塞は健在です。乃木将軍は坑道を掘って堡塁を爆破する正攻法で各堡塁を次々に占領し、明治38年1月1日に最高所の望台を奪い、ロシア軍司令官ステッセルはついに降伏しました。

 旅順攻防は1万5千の死者、4万4千の戦傷者を出しましたが、日本軍の士気は衰えることなかったため、ロシア兵は恐怖を抱いたといいます。兵士が乃木将軍を有能な司令官として信頼し、敬愛していたということでしょう。また、乃木将軍の息子二人は危地の部署においたため戦死しています。この点でも日本兵士は乃木将軍の心を知り奮闘したのだと思います。「坂の上の雲」ではそう書いていません。「ひどい作戦指導」「将官級のなかの一、ニの中にはわざと病気になり後方に送られる者すらでてきた」などと書き、一部の将官の旅順戦後の講義から引用し、「(乃木将軍は)まさに死を決っせんとしているとの風説が前線に伝わったことがある。しかしその風説は、少しも第一線部隊の督励にもならなかった」「将軍の子供が二人戦死したごときも・・・第一師団方面は知らぬこと、第十一師団方面では当然ぐらいに考えたに過ぎなかった」と乃木将軍をこき下ろしています。

 難攻不落の旅順要塞を陥落させた乃木将軍は世界中から賞賛されました。「水師営の会見」で見せた武士道精神に対するだけでなく、近代的大要塞を過小な兵力でしかも短期間に陥落させた「奇跡を起こした将軍」として讃えられたのです。

 現在、歴史教科書で乃木将軍がどのように書かれているか自由社の教科書(H21年版)を見てみましたが・・・乃木将軍の名前はありません。東郷平八郎は1ページカラー使ってます。東京裁判史観の延長上にある「坂の上の雲」の呪縛から逃れられないのでしょうか。極めて困難な条件下で目的を達し、人間的にも優れていた人ですから載せてもらいたいものです。




参考文献
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 ワック出版「歴史通」WiLL10月号『私を"転向”させた坂の上の雲』藤岡信勝
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「歴史街道」2011.11
  『世界に先駆ける合理的な戦法と敢闘が永久要塞を攻略した』原剛
  『旅順攻略の奇跡を起こした第三軍が語る”日本人の真価”とは何か』中西輝政
参考サイト
 WikiPedia「日露戦争」
添付画像
 1列目左から4人目東郷平八郎、5人目乃木希典、2列目左から6人目秋山真之 アジア歴史資料センター http://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm

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明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編
http://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o






本記事は平成21年11月26日記事「旅順攻略の乃木将軍」を再編集したものです。