+++++++++++++++++++++++++

内容と解説

 

3章 蛇による誘惑と人の罪の始まり。

エバは蛇の唆しに騙されて善悪の知識の木の実を食べ、その後アダムがいる時に、アダムにもそれを与えたので、ふたりとも「禁じられた木の実」を食べてしまった

それにより、自分が裸であることを知るようになった

(この時、ふたりはイチジクの葉で腰を覆ったと記されている。

つまり、ふたりは局部を隠したということである。

局部を見られることを恥ずかしいと思うことは、今でも変わっていない)

  

(人が他の動物と異なり「廉恥心」を持つようになった。

人が廉恥心を持つようになるのは7-10ごろであり、性欲もその頃から生じる。

   

女の初潮が始まるのは平均して12-13才ごろであると言われている。

こうしたことは男女が適合していることも示している)

  

廉恥心は本性より後になってから生じることも事実と合致している)

  

(神は、初めから、ふたりが裸であるということは告げていない

それが恥ずかしいことであるとも言ってはいない

しかし、

神は食べたら死ぬということ以外、何らかの兆候が現れるようにもされていたということであり、そのことまでふたりに告げてはいない

   

この出来事は、神に関する事柄は、良いことでも悪いことでも、そうしたことの結果が何らかの形で必ず現れるように、予め備えておられるということも示している。

   

したがって、

人は善いことでも悪いことでも、神に隠すことが出来ないことをも示している)

  

神に罪を問われた時、二人は言い訳をした。

(人は罪に問われると、言い訳をすることを示している)

 

(更に、この出来事は、

人は誘惑によって惑わされることを示している。

誘惑によって「欲望」が芽生えることも示している。

   

例え、誘惑によって惑わされても、罪であり罰も与えられることを示している)

 

善悪の知識の木の実を食べたことに対する、

神による裁きは、

1 お前と女、各々その胤という二つの間に敵対する関係を置かれた

2 女の胤がお前のかかとを砕き、お前は女の胤によって頭を砕かれる

3 女(人間の)に対する産みの苦しみとふたりの死の宣告

4 額に汗して(苦労して)食物を手に入れることになった  

5 善悪に関して、人が自ら責任を負う者となった

(善悪について知るようになるということはその責任を負うということである)

  

【蛇である悪魔】となったみ使いと人が神に対して罪を犯したのに敵対するのは蛇とその胤対女とその胤と示されている。

   

神と文字通り戦える者は一人もいないこと明白である。

したがって、ここで、考えられる構図は、

1 神

2 嘘をついた蛇(ケルブ、悪魔、サタン)

3 神に忠実なみ使いたちと悪魔に追随したみ使いたち

4 騙された男女

である。

 

この構図は、蛇によって天が二分されたことを示している。

また、

悪魔や悪霊たちでさえ、神を恐れて「敬意を払い従っていた」ことは事実である。

ただ、知能があり責任を問われる存在であることは「認識」していなかったと思われる。

   

神はみ使いたちを「ロボット」のような存在として創造されたのではないことは明らかである。

   

神は、自由な振る舞いを許したのではなく人間がそうであるように、ある程度自分で考えて行動する「許容範囲」を設けられたということである。

それには、当然責任が加わるのである。

 

文脈では、誘惑した者(蛇、後に悪魔またサタンと呼ばれる者)と誘惑され騙された者(アダムとエバ)との戦いという構図に見えるが、み使いと人間の男女の戦いとは考えにくい。

なぜなら、

み使いと人間が直接【自由に】相見えるということは大洪水以後はないからである。

また、悪魔や悪霊たちは死なないのに対して、人間の寿命は短い上に、知能に於いても力に於いてもみ使いたちの方が上なので、戦いにはならないと考えられるからである。

 

女の胤の主要な方がイエス・キリストであると分かっている。(ギリシャ語聖書=新約聖書に明確に記されている)

一人のみ使いが神と真逆のことを言うことで、神にいわば「神は間違っている」と言ったことになる。

   

(後に、地上に来たイエスは、この者つまり悪魔のことを「偽り者」であると言っている)

(この一人のみ使いは、神の言うことすることに「異論」を唱えたのである。)

 

この時、おそらく、天における他の大勢のみ使いたちは、どちらが正しいのか分からなかったと思われる。

そのため、天は二つのグループに分かれたと考えられる。

一方が蛇の考えを支持するグループと、他方は神の考えを支持するグループである。

この蛇がお前で神の考えを支持するみ使いたちが女である。

 

神は、この二つのグループの間に敵意を置かれたのである。

構図としては、神を除いて、

神を支持するみ使いのグループと

悪魔と悪魔を支持するみ使いのグループおよび

人間のグループ(人間の間にも、神と悪魔のどちらかのグループの

対立する二つのグループである。)

 

(地上に来たイエスは神の独り子であり、すべてのものは独り子を通して存在するようになったと記されているので、独り子は天では、神のような存在とみなすことも出来る。ヨハネ1:1

    

と考えると、お前は蛇、悪魔であり、女は天のエホバに忠実なみ使いたち(上なるエルサレム)であり、

お前の胤は悪魔の支配下にある人間と悪霊たちであり、

女の胤はアブラハムの胤とも言われ、天の神を支持する側(天のみ使いたちの中)から来た(生まれた)イエス・キリストと、神の養子とされたいわゆる「地から買い取られた」神の王国の144000人【復活して天でみ使いたちのようになる】と神を支持する人間と考えられる)。

  

聖書の中では、

神エホバの特別な所有物であるエルサレムやイスラエルを妻や女に例えられている

    

この世の宗教も娼婦に例えられている。

    

パウロも上なるエルサレムを自分たちのと呼んでいる。

イエスも、上なるエルサレムの中から地上に来られたことを示している。

    

つまり、

神は夫もしくは男であり、神に従う者や崇拝する者は妻や女に例えられる。

女は男の助け手であり、頭は男である。

女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は神である。コリ(一)113

とも示されている。

    

したがって、

創世記315の女は、神エホバの仕えるみ使いたちでなる天の組織と考えられる。

それゆえ、創世記315のお前と女とは、

お前は蛇即ち悪魔、サタン、龍であり、

女は神を支持する(従う)み使いたちでなる組織または集団を示しているのである。

    

つまり、

神エホバに忠実に使えるみ使いたち

悪魔との間に「敵意」が、

神エホバによって定められたのである。

 

この「敵意」は、戦いというよりは、どちらが正しいのかという「論争」のようなものである。

 

そして、これは、天のみ使いたちの間だけではなく、地上の人間をも巻き込んだものだということである。

 

神を除く、天に於けるみ使いたちだけではなく、地上の人間たちの間にも敵対する二つのグループが存在するのである。

 

更に、お前には胤が、女にも胤が存在するようになることも定められた。

お前の胤とは、悪魔の考えに同意し、または、それに従ったみ使いたちと、ノアの大洪水の前に、あるべき居所、つまり、神エホバによって与えられた場所と任務を離れたみ使いたちのことであり、

女の胤とは、神エホバに仕える忠実なみ使いたちの中から、新たな使命を与えられたみ使い(イエス)と後に地から買い取られ天に霊者として復活させられる144000人からなる、神の王国と呼ばれるようになるグループのことである。)

   

(更に、クリスチャンの闘いは、血肉に対するものではなく、もろもろの政府と権威、また、この闇の世の支配者たちと天の場所に(いる)邪悪な霊の勢力に対するものだとパウロは述べている。

    

これから分かるように、

お前の胤とは、もろもろの政府と権威とこの闇の世の支配者たちと天の場所にいる邪悪な霊の勢力のことである。(邪悪な霊の勢力とは、悪魔の使いたちのことである)

     

血肉に対するものではないと述べているように、霊的な闘い、精神的な闘い、信仰の闘い、心や思いや考えとの闘いのことである。

     

が、現実には、彼らは肉体に対する攻撃を通して人の心、気持ち、考え、思いを攻撃するである。

    

(参考:

実際、悪魔は、人間イエスを「誘惑」した時、

1 身体的誘惑=聖霊、もしくは、神から与えられた力の誤用

2 地位や富や権力に対する誘惑

3 神を試みるという誘惑

という三つの方法で行っている。

      

ヨブに対しては、

神がヨブを咎めがなく廉直であると言ったことに対して、

災いがあれば「人は神を呪うように(崇拝しなく)なる」と言って、人の神を崇拝する動機に疑念を持っていた。

これは、悪魔は、人間のすること言うことを「良く観察」していることを示している。

そして、日夜神にそれを訴えて、つまり、自分の言う方が正しいのだと言い続けていることが分かる。)

 

脅し、圧力、誘惑、友人による善意の誘い、偽善、嘘、暴力、殺人、盗みなど・・

  

悪い考えを抱くことを「悪魔」が心に入ったとか、「悪魔」の考えを宿したとか抱いたなどと言うこともある。

     

これは、悪魔と同じような考え方をすることを言っているのであり、文字通り悪魔が人に入る(憑依)訳ではない。

   

神の目的に反することは、すべて「悪魔」から出ているのである。

地上の悪のすべてが悪魔から出ている訳ではない点に注意をすべきである。 

でないと、神の人に対する裁きは「理屈に合わない」ことになる)

      

例えば、

イエスが、エルサレムで年長者、祭司長、書士たちから多くの苦しみを受け、かつ、殺され、三日目によみがえされなければならないことを弟子たちに話した時、

ペテロが「ご自分を大切になさって下さい。あなたは決しそのような運命にはならないでしょう」と言った。

すると、イエスは、

私の後ろに下がれ、サタンよ! あなたは私をつまずかせるものです。あなたは神の考えではなく人間の考えを抱いている」とイエスが言われたことがある。

(参考:サタンと言う語には、神に敵対するという意味がある。)

つまり、ペテロはイエスに「神の目的の遂行を断念させようとする」ことを言ったことに対するイエスの返答である。

勿論ペテロは悪意で言ったのではないことは明白であるが、自分では知らずして「悪魔」の手先になることもあることを示している。

       

そのため、何事も熟慮は必要である。

 

したがって、誘惑(人間の弱さ)に負けて罪を犯す「悪」と悪魔の考えに同調する「悪」とは、異なるのである

 

誘惑に負けることは、自分の、いわば心の弱さであり、クリスチャなら信仰の弱さを示している。

 

イエスは「霊ははやっても肉体は弱い」と言われたように、「霊」は人の「気持ちや考えや心」と表す時もある)

 

興味深い点は二つある。

1 エバは蛇に言われて直ぐに食べてはいない

2 食物として与えられた実のなる沢山の樹に混じって、園の真ん中に「命の木」と「善悪の知識の木」を生え出るようにされた。

ことである。

   

1について、

エバは蛇の問いに正しく返答している。

アダムが神に言われたことをそのままエバに伝えていたからである。

したがって、エバは蛇が言ったことを直ぐにそれを信じた訳ではない。

しかし、蛇の言った言葉(いわば誘惑)により、

園の中のいろいろな木の実を食べる時に、特に、「命の木の実」を取って食べる時に、隣にある「善悪の知識の木の実」に意識が(注意が)いくようになったのである。

それまでは気にも留めていなかったが、毎日のように見るようになっていったのである。

そうして、その木の実を見ている内に、他の樹よりは良く見えたので、それを手に取って見たくなり、そして、良く観察する内に「食べたくなり」食べてしまった。

    

実際、食べても「何も生じなかった」ので、他の木の実と同じように食べても良いんだと思った。

そして、アダムには言わず、しばらくは、自分だけで食べていた。

その間エバには「何も生じなかった」のである。

それで、ある時、アダムと一緒にいた時に、まず、自分が食べて見せた後アダムにも与えたので、エバが食べているのを見て、アダム(おそらく、何も考えずに)も食べたのである。

   

(この点に関して、パウロは、テモテ(一)2:14で、アダムは欺かれなかったがエバは全く欺かれたと述べています)

    

しかし、二人とも食べた時に「異変が生じ」自分たちが裸であることに気が付いたのである。

    

こうしたことは、人が誰かに騙される状況と全く同じである。

 

エバは直ぐに信じたのではなく、少しずつ「心、気持ち」が変化していったのである。

 

蛇は、神の言ったことを知っていて、それとは反対のことを言って「人を騙した」という点では、

イエスを「誘惑」した時、

1 身体的誘惑=聖霊、もしくは、神から与えられた力の誤用(身体的)

エバに対しては「食べる」という誘惑(イエスの場合は、石をパンに変えるようにと言った)

2 地位や富や権力に対する誘惑(物質的)

エバに対しては「神のようになる」という誘惑(イエスの場合は、世の王国と栄光を与えると言った)

3 神を試みるという誘惑(精神的)

エバに対しては「食べても死なないかも知れない」という誘惑(イエスの場合は、崖から落ちるようにと言った)

と同じであることを示している。

 

ヨブに対しては、

人は災いがあると「神を呪う」と言って、人の動機を疑うことで「神の言うことと違うではないか」と、「神が嘘を付いている」と神に訴えている。

この時、災いは悪魔が行っている。

     

悪魔からの災いは、

物質的なことや身体的なことだけではなく、

精神的なこと(誘惑)にも及んでいることが分かる。

 

2について、

園の真ん中に食べても良い「命の木の実」と食べてはならない「善悪の知識の木の実」を生え出させたことである。

    

目の前に、いわば、二つの善と悪を、それも見た目では「どちらも食べ物としては良い」もの、言われないと区別出来ないものを置かれたという点である。

(参考:モーセがイスラエルの子らに最後の時に話したことばに、

「あなたの前に、命と善死と悪とを置く」-申命記30:15

命と死祝福と呪いを置いた」-申命記30:19

と類似している)

つまり、神は人の前に、命と死を置くことで、人がどちらを選ぶかことを、望んでいるかを「確かめる」ようにされた、あるいは、すべての「み使いたちが分かる」ようにされたのである。

    

神だけではなく、み使いたちも「人がどのように振る舞う」かを、日夜見ているということであり、

み使いたちは、神のように「人を分かっている」訳ではないことを示している。

 

++++++++++++++++++++++++++    

4章 カインとアベルの誕生。

二人は神に捧げものを捧げる。

(人が収穫に対して神に感謝を示すよう、アダムが教えたというより、神が要求したと考えられる。

更には、これには信仰が関わっていたことが示されている。-ヘブライ11:4

例えば、犠牲により罪が許されるというように。

犠牲は、一つには「イエス・キリストの犠牲を、つまり、罪の許しを示しており、

もう一つには、神に対する感謝の表明を示している。

  

アベルの捧げ物を好意を持って見たがカインの捧げ物に関してはそうではなかった。

アベルは羊の初子の中から脂ののった最良のものを捧げた。

これに対して、カインは実りの中から幾らかを(もしかして、感謝というより、ただ形式的に)捧げた。(信仰の欠如を表している)

    

(これは、人は、ものの良し悪しが分かっていたことを示している=善悪の知識。

良いものを欲するという「」の感情もあることを教えている。

差別されると、妬み、怒りの感情を抱くことも教えている。

これらは、いわば、人の「本能」として子孫に受け継がれている)

  

(参考:

アベルは羊飼いで比較的楽な仕事であったのに対して、

カインの農作業は辛く大変な仕事であり収穫もそれほど多くなく貴重であったと思われる。

そのため、カインは捧げ物を惜しんだと推測される。

 

記録にはないが、アベルは何を食べていたのかと思う。

農作業をしていないのであれば、木の実などを食べていたと思われる。

当時はまだ、肉を食べることは許されていなかった。)

 

カインはアベルを殺してしまう。

神による叱責によりカインの怒りはアベルに向かった。

カインはアベルを「殺す」という意図をもって野に誘った。

(人は、自分の意図(考え)を隠して、策略を用いて物事を行うということを示している)

(神がアベルの捧げ物を喜び、カインの捧げ物を喜ばなかった原因は、カインにあるとしても

いわば、「差別されると、非常な怒りに燃える」ということが人の本性であることを示している。

その怒りを、罪のないアベルに向けたのである。

カインの怒りは正しいものではなく、神の差別も間違ったものではなかったのに。

    

カインのしたことは、善いことではないと神に言われた。

また、善いことを行うようにならなければ、「罪」が入り口にうずくまっている、つまり、「罪」を犯すようになるとも、神は言われた。

(これは、人が悪いことをする前には、心の中に既に「そうした思い、考え」を抱いていることを示している。

したがって、誤って罪を犯すのではなく、

人が悪いことをする時には、故意(意図的に)に「悪い」ことをしているということである。

     

このような人が「更生」することは、難しい。

後に示された律法では、こうした罪に対する罰は「」である)

 

カインは神の問いに対して「」をついた。

(人は、善悪を知り、自分のしたことが悪であることを理解していた。

人は、都合が悪いことには「嘘」をつくということを示している)

 

カインは罪を認め、罰を加えられるとその許しを求めた

(参考:赤字で示した部分は「人の本性」であり、教えられなくとも身に着いているものである) 

 

その後、カインはエホバの顔から離れて、エデンの東方の逃亡の地に住んだ。

(神の顔は、依然としてアダムとその子孫に向けられていたと思われる。)

その時、カインは弟や妹を連れて行った。

 

妹の誰かとの間にエノクが生まれた後、都市の建設に取り掛かった。

大勢で集まり助け合って暮らすことは安心を求める人の本性だと考えられる。

自分の利のために人を利用することも本性である)

 

妹アダとの間にヤバルが生まれ、天幕に住んで畜類を飼う者の始祖となり、

別の子ユバルは竪琴と笛を扱う者の始祖となり、

チラの子トバル・カインは胴と鉄のあらゆる道具を鍛造する者の始祖となった。

 

(大勢で暮らすことで生活にゆとりが出来るので、道具や楽器などを作ることが出来たと思われる。

人類は初めから道具を作りそれを用いていたということを示している)

(参考:ヤバルはアダムから8代目である)

 

レメクはある若者が自分に殴打を加え傷付けたので殺したと打ち明けた。

そして、カインを殺す者は七倍の復習が、自分を殺す者には七十七倍があるようにとレメクは言った。

 

カインの系図

 

  カインの系図

 

ここで、エノクとレメクの名前が出てくるが、アダムからノア迄の系図とは別の人物である。

 

アダムはその後エバと交わりセツを産んだ。

エバはセツがアベルの代わりとなる別の胤であることを理解していた

セツにもエノシュが生まれた。

この時から、エホバの名を呼び求めることが始まった。

 

5章に続く。

初めに、これは空想や物語ではありません。

真実、人類の始まり神の人類を救うための壮大な歴史です。

天地創造から始まって、

アダムからイエス・キリストそして弟子たちの活動の記録です。

 

聖書は書き記され始めたのは、BC1513年であり、最後に記された書である「ヨハネの手紙」が記されたのがAD98年です。

 

この間、1610年を要しています。

 

これらが1冊に纏められたのはAD4世紀ごろと言われています。

 

そして、その内容が初めから一貫しており、

創世記とヨハネへの啓示とは密接に関係があることが分かります。

 

これは何を意味するのでしょうか?

 

一般には物語とされている「創世記」特に天地創造も含めて「事実であることを示している」ということです。

 

科学が進歩した今日において、

天地創造の記録が、

単なる神話や思い付きではないことが分かるのです。

 

しかも、その順番もすべて科学的思考や根拠と一致しているのです。

 

そのため、

1、2章は「解説」が多くなっています。

それは、

読まれる人に、初めから「深い意味」を理解して頂きたいと思うからです。

 

少し読みにくいですが、

3章以降はもう少し読みやすくドラマチックになっていきます。

 

初めは「頑張って読んで頂きたいと思います。

 

今回は、

創世記からルツ記迄の内容と解説を公開します。

興味深く読んで下さればと思っています。

 

その後のイスラエルの歴史を除けば、これで充分だとも考えています。

 

もし、途中で「不備が分かれば」訂正することもありますので、

何度でも読んで、論理的思考を洞察して頂きたいと願っています。

 

読むにあたって、

黒字は本文の内容緑文字注釈赤字強調です。

追記

としましたが、読みにくいので緑文字は取りやめにしました。

 

++++++++++++++++++++++++++

初めに

1 創世記-概要

モーセによる記録

記された場所:荒野 

記された年:BC1513  

扱われている年代:初めにからBC1657

 

概要

天地創造及び地球上の整備(1:1-2:25

罪と死及び胤の予告(3:1-5:5

邪悪な人間とみ使いたちは地を損なう。神は大洪水をもたらされる(5:6-11:9

神はアブラハムと交渉持たれる(11:10-25:26) 

ヤコブと12人の息子(25:27-37:1

命を長らえさせるためにエジプトへ(37:2-50:26

 

意義

初めに天と地が創造された。

次いで地が形作られ、地上のあらゆるものを創造された。

最後に人を創造された。

  

人を欺いた蛇(悪魔またサタン)とその胤、女(天の組織)と女の胤との間に敵意が置かれた。

女の胤が蛇を滅すと予告。

(蛇と蛇の胤とは比喩であり、

蛇は悪魔またサタンを、その胤とは自分のあるべき居所を捨てたみ使いたち(悪霊たち)と

これらの影響を受けた地上の人間たちのことである。

 

み使いは人間のように結婚もしなければ、子供を産むこともないからである。

み使いに文字通りの女は存在しないのである。)

 

(女と女の胤に関しても比喩であり、

女は神に仕えるみ使いたちの組織を、

女の胤の主要な方はその組織の中から地に遣わされたイエス・キリストのことである。)

 

(人間の)産みの苦しみがもたらされ、男は顔に汗して働かねばならなくなり、死を宣告された。

 

神は人に「人は善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった」と宣言された。

(人は善悪に関して、自らの責任を負う者となったという意味である)

 

カインによる人類最初の殺人。

  

み使いたち(蛇の胤の一部)により地に暴虐がもたらされ、

人の悪が地にあふれ、その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かうようになったため、

化肉したみ使いたちと共に地上の人々と地上の生物も滅ぼされた。

 

ノアと八人の家族と地上の動物たちの一部が生き残るようにされた。

  

アブラハムの胤(女の胤と同じ)によって地(人々)が祝福されることが述べられている。

 

結婚、夫婦の関係、頭の権、家族にエホバの道を教えるべきこと。

族長社会での統治の仕方(共同体の功績、責任)、血と命の神聖さ、人間に栄光を付してはならないなどの原則。

 

族長社会での律法、資産の譲渡の方法、長子としての権利、神への犠牲、割礼、契約の締結の仕方、義兄弟結婚、誓いを立てることなどについて示されている。

 

エノクの信仰と勇気、ノアの義と服従、アブラハムの信仰と決意と忍耐、頭としての責任、寛大さと愛情、妻であるサラの従順さと勤勉さ、ヤコブの温和な気質、ヤコブに対するヨセフの従順さ、道徳的廉直さとその勇気、獄での善良な行動、上位の権威に対する敬意、神に栄光を期すこと、兄弟に対する憐れみ、エホバのみ名を神聖なものとすることなどの教訓が示されている。

 

神によって地が形作られた後の、アダムの創造からヨセフの死までの2369年間の人間の記録である。

 

大洪水後、人の寿命は十分の一となり長く生きても100年程度となった。

アダムの生きた日数は全部で九百三十年となり、彼は死んだ。

 

参考

約束の地に関する神エホバの誓い:創1518

アブラハムによるイサクを犠牲した(しようとした)ことはイエスの犠牲の予型:創2217

アブラハムの胤が敵の門を手に入れる:創315

 

際立った点

物質の天と地の創造、および人間の住みかとして地球を整えること

罪と死が世に入る

胤が救出者となることが預言される

邪悪なみ使いたちと人間が地を損なう

神は全地球的な大洪水をもたらされる

エホバとアブラハムとの交渉

ヤコブ(イスラエル)12人の息子

命を長らえさせるためにエジプトへ下る

 

++++++++++++++++++++++++++

内容と解説

 

1章 天地創造。

神の壮大な出来事の始まり

(霊の天、人間には見えない世界において、神エホバはただ一人で居られた

初めに、一人の霊者、人の姿に似たみ使いを創造された。

(後に、神の独り子、み使い頭ミカエルと呼ばれた者を創造された。

神エホバが地上に遣わし、イエス・キリストとなり、目的を果たした後、天と地のすべての権威を与えられた。そして、天に戻り、「あなたの敵」つまり、女の胤であるイエス・キリストの敵をイエス・キリストの足台として置くまでは神の右に座しているように告げられた。

【これは、悪魔と悪霊たちを天から放逐するのは、神ご自身によるものであることを示している】

また、新しい契約の仲介者であり、神の王国の王、また、祭司でもある。

更に、神は 神の王国の14万4000人を神の養子とし、天で霊者として復活させて下さるのである。) 

 

神エホバは、この独り子を通して、

霊的天の大勢のみ使いたちを創造され、一人ひとり役割を与えた。

み座の前の海のようなもの、その周りの二十四人の長老たち、み座の周りの四つの生き物そして、

大勢のケルブたち(この中に、後に、悪魔になった者とその使いたちもいた)を創造した。

 

霊的天が完成すると、物質的な宇宙の創造を始められた。(おそらく、人間の時間で138億年前)

太陽も月も地球もこの時以降に創造された。

 

最後に、地球を形造られた(地球は既に創造されていたが、生き物が住む状態ではなかった。)

初めは、で覆われていた。

その中の地球は、全面が水で覆われていた

神の活動する力が水の面を行きめぐっていた。

 

(神が地球を形作った日の歴史。ただし、神の1日は人間の1日ではない)

一日目

光が生じるように(表面の闇が取り払われた。)

この時、地球を覆っていた水の面に光が当たるようになり、昼と夜、つまり、明るい部分と暗い部分がはっきりした。

 

二日目

水の間に大空が生じ、水と水の間に区分が出来るように

大空の上方に来る水と大空の下に来る水に区分してゆかれた

大空を天と呼んだ。

(上方に来る水は、おそらく、この時には、対流圏の最も高いところに、つまり、地上10000mの上空に厚い雲(水蒸気)の層【もしくは文字通り水の層】を造られたと思われる。

数㎞の厚い雲のような状態と考えられる。

今でも、上空が厚い雲に覆われると夜のように暗くなることもあるので、下にある水の面は暗かった。)

  

下方に来る水は地の全面を覆っていた。

そのため、下にある水の面には光が届いていなかった

 

三日目

天の下の水は一つの場所に集められた乾いた陸地が現れるように

乾いた陸地を、水の集まったところをと呼んだ。

(この時、地球全体で、いわゆる造山活動が行われ、地球のあちこちで火山の噴火が起き、島から大陸へと大きくなっていったと思われる。)

 

地は草を、種を結ぶ草木を、種が中にある果実をその種類に従って産する果実の木を、地の上に生え出させるように

(この時、まだ地上には十分光が届いていなかった。

もしかすると、微かな光は届いていたかも知れない。

天の大空の上にある水が光を遮っていた。

植物が光合成を行うには、光とCO2と水に含まれた養分が必要であるが、この時には、光が当たっていなかった。

実際、光が当たらないと草も生えにくいことは分かっている。

しかし、

最近の研究で、光がなくても光合成と同じ作用が出来るということが実験で明らかになっている)

 

四日目

天の大空に光体が生じて昼と夜とを区分するように

「それは、しるしとなり、季節のため、日と年のためのものとなる」

「それらは、天の大空にあって光体となり、地の上を照らすことになる」

神は二つの光体を、大きい方の光体は昼を、小さい方の光体は夜を支配させるために造られた。

(この時、大空の上にある水(水蒸気)を更に上空に、対流圏から成層圏まで上げたので、半透明な状態になり、光が地上まで届くようになったと思われる。

成層圏には、オゾン層(地上から20㎞から25㎞)があり紫外線を吸収して温度が上がる領域があることは知られている。

この領域に十分な水蒸気を保つと同時に光を通過させることが出来たと考えられる。

ただし、この光は、今のような強烈な光ではなく、

いわば、刷ガラスで太陽を見たような、一面薄い雲で覆われたような状態と考えられる。)

(光が地上に届くようになったので、地球の自転による1日という時間が明確になり、また、太陽の周りを公転するので、太陽の位置から季節もはっきりした

つまり、地球が初めから、およそ24.5度傾いていたということであり、公転により1年という時間も明確になった。

更に、月もおよそ27・3日間で地球を一周することもはっきり見えるようになったので、1か月という時間もはっきりした。)

 

五日目

水は生きた魂の群れを群がり出させ、飛ぶ生き物が地の上を、天の大空の表を飛ぶように

(大空の表だから、それ程、高いところを飛ぶ訳ではない)

大きな海の巨獣と水の中を動き回る生きた魂をその種類に従って群がり出させるもの、また、翼のあるあらゆる飛ぶ生き物をその種類に従って創造してゆかれた

(クジラやサメやトドなどや沢山の種類の魚を(一度に大量の産卵をする)=群がり出させ、

沢山の種類の鳥も造られた。鳥は一度に大量の卵は産まない。

地上に光が届くようになったので、地上には沢山の植物が生え動物たちの食物として備えられた。

海の中にも沢山のプランクトンも備えられていた。)

(現在、「恐竜」の化石が各地で発見されているが、聖書によると地上に巨獣が創造されていないことは明白なので、

「大きな海の巨獣」=「恐竜」と考えることは「理屈に合う」

実際、恐竜と言われている巨獣の化石が発見されているが、地上を動くには大き過ぎて、体が重く動きにくいと考えられる。

また、

地上には、キリンや像などの大型動物がいることから、マンモス位の大型動物がいたとしても不思議はない。)

 

六日目

地は生きた魂をその種類に従い、家畜と動く生き物と地の野獣をその種類に従って出すよう

(この時、地上を動くあらゆる動物を、昆虫や家畜や獣を創造された。

ただ、目には見えない菌やウィルスなどは、おそらく、三日目に既に創造していたと思われる)

(こうして、段階的に「生き物が住める環境」を整えられたのである。)

 

わたしたちの像に、わたしたちと似た様に人を造り、海の魚と天の飛ぶ生き物と家畜と全地の動くあらゆる生き物を服従させよう

子を生んで多くなり、地に満ちてそれを従わせよ

(人を天の霊者と似た体に、そして、思考力や知性も同様の状態に創造されたことが分かる。

人はその知性を用いて、魚や鳥や地の上を動くあらゆる生き物を管理することが、人間に与えた神の命令であったことが分かる。

実際、アダムの最初の仕事はそうした生き物に名前を付けることだった。)

 

人の食物として、種を結ぶ草木と種を結ぶ木の実を与えられた。

他の動物には緑の草木を与えた。

(種で増える野菜と種で増える木の実が、人の食べ物であったことが分かる。

実際、今でも、魚や動物の肉を除けば、殆どの食料はこれに属する。

後に、人は菌で増えるもの、キノコやワラビや動物の乳からチーズなどの発酵食品を作り食べるようになって行ったのである。)

 

七日目

神は創造の業を休まれた

 (それ以外については、神は活動を続けておられたのである。

特に、み使いたちと人との関わりを多く持った。

神による、見える形での人との関わりはAD100年頃で終わっている

その後は、ご自分が再び人との関わりを始めるまでは、イエス・キリストを遣わしご自分の意思を地上で成し遂げられるようにすることと、

イエス・キリストが新しい契約に入る144000人を集める業が中心となっていた。

それが、完了すると、神は再び活動を開始されるのである。

だが、八日目はまだである。) 

 

 (参考:神の創造の一日が、人間の長さで7000年であるかどうかは、はっきりとは分かっていない。

アダムの創造をBC4026とすると6000年後はAD1975であるが、その時には、特に目立った出来事は生じてはいない。

【西暦0年は存在しない点に留意すること。BC1年の翌年はAD1年である】

残りの1000年はキリストの千年統治に当てられることになっている】 

 

ただ、人間の目には見えないだけ、分からないだけかも知れないが・・・。

 

イエス・キリストが言われた、「事物の体制の終結のしるし」と思われるものが、AD1914頃から見受けられるようになって来ている。

だが、これらのしるしは、歴史上繰り返されて来た出来事と同じであるため、識別力が求められている。

その時、二度と起きないような大患難があると言われたが、その日と時刻については、父だけが知っていると言われ、

また、人の子の臨在もノアの日のように、人々が注意を全く払っていない時に来ると言われた。

人の子は思わぬ時刻に来ると断言された。

 

【このことから、1914年や1975年のように、人間が予期した時に「出来事(預言)は生じない」ことは明白である】

【2022年の2月ロシアによるウクライナ侵攻、2023年10月のハマスによるイスラエル攻撃などにより、世界が二つに分断されていることがより明白になって来ており、ダニエル書の預言も十分に考慮すべき時と言える。
第一次世界大戦により、ドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国 が消滅したと言われ、
いわゆる、
ローマ帝国の末裔の終結と考えられ、(6番目の王-啓示17:10)
第二次世界大戦がソ連によるポーランド侵攻により勃発し、その後イギリスとフランスがドイツに宣戦布告したことで拡大して行き、特に第二次世界大戦後はアメリカによる国連主導は、最初の野獣を復活させた別の野獣の様相を呈している。
この間に、スペイン風邪などの疫病が発生し経済の危機も生じ人々は飢えと苦しみと病に置かれた。


こうして、
100年余りの間に、東西(南北)に分断された戦いが生じたのは3度目であり、コロナによるパンデミックに乗じてロシアがウクライナに侵攻し、直接戦争のためではなく、人間の利害のために飢えや苦しみを生じさせた。

加えて、地震の頻度も歴史上最も多く、コロナなどのパンデミックもおよそ3年半生じた。
第一次世界大戦前には、ペストやコレラが、第一次世界大戦中にはスペイン風邪が生じている。
更に、どの国でも政府に対するデモが頻発しており、犯罪も非常に多発している。


こうしたことは、
イエスの言われた「
事物の体制の終結のしるし」と言えるかも知れない。
加えて、ヨハネへの啓示の書に記されている、七つの封印の巻物、七つのラッパと出来事が合致し、
そして、最後の七つの災厄がこれから起ころうとしている段階と考えられる】

 

それで、イエス・キリストは「あなた方も用意の出来ていることを示すように」と言われた。

花嫁が支度を整えるように、クリスチャンも、何時主イエス・キリストが来られても良いように、その備えをしているようにと命令された。

それで、今は、終わりの日のしるしとクリスチャンとしてイエス・キリストが何時来られても良いようにその備えをすることとの両方に集中すべき時であると言える)

 

神の王国に入る人を集める業が完了すると(既に完了していると思われる)、

神が再び全地に対して活動を開始され、いよいよ事物の体制の終結に突き進むことになっている

 そして、悪魔が捕えられ、イエス・キリストの千年統治が始まり、千年の終わりに悪魔が解き放たれ、地上の人々に最後の試みが生じ、悪魔と共に命の書に記されなかった人々は火と硫黄で燃える湖に投げ込まれ永遠の滅びに至ることになっている。 

 

、人類の置かれている時点は、

イエス・キリストの千年統治の始まる直前にいると推測されている。

つまり、

七日目は「まだ終わっていない」ということである

 

八日目の始まり

その後、神による創造が再開され、

新しい天と新しい地と新しいエルサレムを創造されることになっている。

そこに住む人々は、神とイエス・キリストの元から流れ出る川の水とその川の両側にある木の実によって永遠に生きるのである。

 

++++++++++++++++++++++++++

2章 アダムの創造と一つのおきて。
神は創造の業を完了させ、
休みに入られた
(これは、人間との関わりも休まれたということではない)

 

地上には雨は一度も降っておらず、ただ霧が立ち込める程度だった。
神はアダムを地面の塵から創造された
神がアダムの鼻から命の息を吹き込むと生きた魂となった。

(これは、命は呼吸によって支えられていることであり、生きた魂とは、活動する肉体となったということである。
魂と霊とは全く別のものであることを示している。)

 

神はアダムを特定の場所に、人が住むのにふさわしい園を作り、そこに住まわせ、耕させ、食物として実のなる樹を備えられた。
(これは全地がまだ荒涼としていたからである)
(野菜と木の実が食べ物のすべてだったことが分かる)
(園の場所は、聖書の記述からユーフラテス川の上流、現在のアルメニア、トルコ、シリア、イラク、イランに囲まれた現在の大小のアララト山の麓付近と考えられる。
ノアの箱舟が大洪水後に着いたアララトの山と同じと考えることは道理に適っている。

理由は、
アダムの子孫もここから全地に広がる予定だったからであり、
ノアの子孫、つまり、全人類はここから世界中に広がったことは明白である。
ニムロデが活動したアッシリアとバベルやアブラハムが最初に住んでいたウルも、ユーフラテス川やチグリス川沿いであった。)

 

そして、園の真ん中に「命の木」に加えて「善悪の知識の木」を生えさせ、
善悪の知識の木」の実から食べてはならず食べる日に必ず死ぬと警告された。
また、
アダムはすべての家畜と天の飛ぶ生き物と野のあらゆる野獣に名を付けるという仕事を命じられていた。

(これは、後に地球を管理するための準備であった)

 

その後、アダムの助け手としてエバ(女)を、アダムのあばら骨の一つから造り上げアダムのところへ連れて行った。
(これは、女も男と同じ遺伝子を持つ人間であることを示している。
ただ、肉体的構造の一部と仕組みが異なるだけである。
男と女の違いは、
エバが罪を犯した時に、神が裁きを言い渡したことから明白である)

  

「男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き、ふたりは一体となる」と言われた。
(これは、主に子供を設けることを述べている。
基本的には
一夫一婦制と考えて良い。)
  

ふたりは、共に裸のままであったが恥ずかしいとは思わなかった。
(アダムが創造された時は、
地球全体は温暖な気候で裸でも寒いとは感じないような環境であったことを示している。
また、他の動物と同じように裸のままであった。)

  
(最初の人間アダムは
初めから神と話しており、知識もある程度持っていたことを示している。
エバも同様であった。

二人は、初めから話すことが出来たのである。

これは、
天のみ使いたちも
初めから完成された者として創造されたことと同じである。
天のみ使いたちは、
初めから「大人」であり、また、死ぬことのない存在である。

食べたら死ぬと警告されたことは、
アダムとエバもみ使いたちと同様に
死ぬことのない存在だったことを示している。)

 

3章に続く。

知恵を求める人のためのブログです。

ウクライナやパレスチナで「戦争=人殺し」が行われていますが、

あるいは、

ミャンマーでの内戦もありますが、

 

日本国内の世の中の「雰囲気」としては、

健康で元気な若者たちは、

スポーツ選手に憧れ「自分のパフォーマンス」を可能な限り発揮しようとしているように見えます。

 

その一方で、

いわゆる「アウトロー」な人たちは、

「如何に上手く騙すか」ということ、

「直ぐにかっとなる」こと、

 盗みより「強盗、あるいは、強盗殺人」も当然と考えたり、

 好きな人に嫌われるたり、ふられたりすると、ストーカーや殺人をする、

ということまで発展しています。

これは、

身勝手さの極み」です。

つまり、

辛抱も、忍耐も、我慢もせず短絡的に行動する」という現代人の特徴を表して 

 います。

 

かつて神が、

大洪水で地上のすべての生き物を滅ぼす時、

いわゆる「ノアの大洪水」の直前に言われたことです。

の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かう」と言われました。

 

現代の「アウトロー」はこの「」と同じように見えます。

 

+++++++++++++

今、社会では、

もはや、会社に就職しそこで「一生を終える」と考えている人は殆どいないように見えます

 

あるいは、そう思っても、

いじめやパワハラやセクハラなどにより、

働く環境が悪いことが原因で辞めたり、

 

更には、

更なるステップアップを目指して「独立」したり、起業する人も少なくありません。

 

企業も官公庁なども

政府の働き方改革の方針にも関わらず、表向き労働時間を制限内に見せ掛けながら「長時間労働」を社員に強いています。

 

それは「限られた時間で成果を出す」ためです。

 

それ程、短時間で成果を出さなければやって行けない程、

会社や官公庁も追い詰められているということの裏返しかも知れません。

 

なぜ、これほど「スピーディー」に物事を進めなければならなくなったのでしょうか?

 

宅急便もそうです。

その名の通り、速ければ「翌日配達」が行われています。

 

原因は、

ネットによる「情報の速さ」にあります。

 

つまり、

企業にも個人にも、そして、自治体や政府にも、

あらゆる情報が即座に、次々と入ってくるようになったため、

それに「対処」するために「素早い対応、反応」が必然的に生じたからだと考えられます。

 

+++++++++++++

こうしたことに「対応」するには、

時間と人員が必要です。

 

しかし、

今の日本は人口が減少し働く人も減少しています。

 

私のマンションで大規模修繕が行われていますが、

働いている人の中には、

 東南アジアの人や中国人なども多数いました。

 私が話しかけたら、相手がベトナム人や中国人と思われる人で少し驚きました。

 作業中の会話も「××△※▼△×○」と何を言っているのか分からない言語の人も

 いました。

 

 勿論、責任者や指導する立場の人は日本人ですが・・・

作業員と出会うと必ず「挨拶」をしてくれます。

そうするように「言われている」からでしょう。

 

仕事そのものは丁寧で良いのですが、

時には「やり過ぎる」ということもありました。

 

そのため、二度ほど「元通りにするよう」やり直しをしてもらいました。

 

他にも、農業技能実習生という人を何度も見かけたことがあります。

その時は何とも思いませんでしたが、

今となっては、

労働者不足はかなり深刻になっていると実感しています。

 

日本は、

かつてのドイツのように、

外国人労働者がいなければ企業も成り立たなくなって来たということです。

 

政府も、外国人がもっと自由に働けるように法律を変えたので、

これからは外国人がいろんな場所で働いているのを目にするようになるでしょう。

 

そうすると、

その次にやって来るのは、

彼らの人権を保護することです。

労働時間、賃金、社会保障などです。

 

彼らは日本のためにも働いているので、

日本人と同じようにすることは「当然」のように思いますが、

日本人の中には「そのように思わない人」が出てくるかも知れません。

 

特に、

年金や健康保険税などの負担が増加するからです。

当然、所得税や消費税も上げざるを得なくなり、

ドイツのように、国民の不満が出ると予想されます。

 

人口減少は様々な点で問題を生じさせる原因となり、「深刻な問題」です。

今になって、

子育て支援をしても、

結果が出るのは、速くて5-10年後です。

 

時代の進歩、発展を考えれば「間に合わない」ようにさえ思えます。

 

あなたはどう思いますか?

 

+++++++++++++

昔は、交通事故が多発し死亡者が戦争で死ぬ人より多くなったことから、

交通戦争とも言われたことがあります。

そうした時に、

狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」というキャッチコピーが出ました。

 

個人的には、

こうした時代に在っても「ゆっくり、確実」に物事を進めるべきだと考えますが、

そうしていたら「競争に負ける」「仕事が成り立たなくなる」などと考える人の方が多いと思います。

 

特に国際間では「国民の生死が掛かっている」とさえ思うと思います。

それだけ経済がグローバル化したわけですが、

これは「極めて危険な状態」なのです。

 

+++++++++++++

確かに、仕事には「期限」があり、また、「十分な成果」が求められるものです。

 

この「期限」は、

もしかすると、「自然の理に反している」と考えられます。

 

つまり、

今の「スピーディー」な社会は「自然の理に反している」と思われます。

その結果は「遠からずはっきりする」でしょう。

 

+++++++++++++

こうしたこととは別に

物事が上手く行くには、

」つまり「タイミング」があります。

 

皆さんも経験があると思いますが、

何をやっても上手く行く時、

スムースに物事が進む時、流れる時、

反対に、

何をやっても上手く行かない時、

こうしたことは誰でも経験していることです。

 

人は「この時」を知らないのです。

 

加えて、

大きな河の流れには逆らえないのです。

 

ですから、

状況を見極める「能力」を備えて置く必要があります。

 

実行すべき時、待つ時、忍耐する時があるのです。

 

徒に、先を急ぐと「必ず失敗をする」ものです。

 

この理に反することは、

時には「身の破滅」に至るのです。

 

+++++++++++++

現代社会でこの「時」を見極めることは、

バーチャルゲームで「素早い反応」をするような「集中と高度なテクニック」が求められるでしょう。

 

これが出来る人は「少ない」のです。

 

+++++++++++++

一般的には、

期限」には拘らず「納得するもの」「良いもの」をじっくりと追求することで、

満足の行く結果が生まれるものです。

 

聖書では、次のように述べられています。

何事にも定められた時がある。

 天の下のすべての事には時がある。

 誕生のための時があり,死ぬのに時がある。

 植えるのに時があり,植えられたものを根こぎにするのに時がある。

 殺すのに時があり,いやすのに時がある。

 崩すのに時があり,建てるのに時がある。

 泣くのに時があり,笑うのに時がある。

 泣き叫ぶのに時があり,跳び回るのに時がある。

 石を投げ捨てるのに時があり,石を集めるのに時がある。

 抱擁するのに時があり,抱擁を控えるのに時がある。

 捜すのに時があり,失ったものとしてあきらめるのに時がある。

 保つのに時があり,捨てるのに時がある。

 引き裂くのに時があり,縫い合わせるのに時がある。

 黙っているのに時があり,話すのに時がある。

 愛するのに時があり,憎むのに時がある。

 戦いのための時があり,平和のための時がある。

 骨折って働いたからといって,その者にどんな益があろう。」

-伝道の書3:1-9

 

++++++

私は、何かをする時、

自然にアイデアが出るまで「放置」することが多いです。

「放置」している間に「様々な考えが浮かびます

 

「これなら、考えているように出来る」という気持ちが「自然に生じる」までは何もしません。

 

勿論、いざ始めたら「考えていることと違う」ということもあります。

その時には「躊躇なく、一時停止」します。

 

そのまま事を進めると「必ず失敗をする」からです。

 

そして、再び考え「納得するアイデアが出るまで」あるいは「今障害となっていることが解決するまで」先に進めません

 

これには、以前にも述べましたように、

絡まった紐をほどく」ような「辛抱強さ、忍耐、我慢」という特質が必要です。

 

ゆっくり、じっくりすることで「絡まった紐」も上手く解けるのです。

 

物事を上手くやるには「このようにすること」です。

 

しかし、

現代人は「こんな悠長なこと」はしていられないのです。

 

しかし、

それでも敢えて言わせ頂ければ

狭い日本そんなに急いで何処へ行く」と思います。

 

日本には「急がば回れ」という諺もあります。

 

忙しい時ほど、急ぐ必要がある時ほど、

冷静に分析し「適切に対応」する必要があるのです。

 

+++++++++++++

現代社会では、

こうしたことが出来ない人は、

次第に大きな河の流れの端に追いやられ、遂には川べりに取り残されてしまうでしょう。

 

高度に進歩した世の中で生きることは、

大変なことなのです。

 

イギリスやドイツのように、

11歳までに「将来」を決めなければならない程、

社会で生きて行くことは難しくなってしまったのです。

 

+++++++++++++

しかし、

特別能力の高い人は「このようには考えない」かも知れません。

それでも、そのような人でも「いつかは、思い通りにならない時」もあるものです。

 

能力の高い人ほど「過信、傲り」が付き物です。

それが、

能力があっても「失敗する原因」であることに「気が付かない」ものです。

 

カメとウサギの競争で、

大抵はウサギが勝ちますが、

時にウサギが負けることがあるように、

能力のある人が必ずしも成功するとは限らないのです。

 

普通に何でも出来る人は、

施設以外の所での、

障害者の振る舞いに対して「苛立つ」ことがあります。

 

ある意味、能力のある人から見れば、

そうでない人は「障害者」のように見えるのかも知れません

 

これは、同じ土俵で相撲を取っている(比喩です)人にとっては「難しい」ことです。

 

羊と山羊を一緒に、しかも、同じ場所で育てるようなものだからです。

 

+++++++++++++

物事が「上手く行かない」のは、

社会や企業が「安定」「安全」より「利益」「アイデア」「能力」に加え「スピード」を重視するようになったからで、

働く人が「より難しい状況に置かれた」からだとも言えます。

 

社会がこのように混沌とした時代に働かなければならない人にとっては、

精神的な強さ」と「器用さ」が必然となっています。

 

この点で才能のない人は、

落ちこぼれ」となり、もしかすると「社会の膿み」になっていくかも知れません。

 

そうなると、

社会保障費が益々増加することになり、

国民生活は益々困難なものとなってしまいます。

 

科学が進歩し、様々な便利なもの、良いものが沢山世に出ていますが、

それらを「悪いこと」が凌駕するになるのは必然と思われます。

 

さてさて「難しい世の中」になってしまったものです。

 

+++++++++++++

今や人々は、

1 安いものを求める人

2 良いものを求める人

3 良いもの、欲しいものは高額でも手に入れる人

4 高収入を求める人

5 安全を求める人

6 健康を求める人

7 能力のパフォーマンスを求める人

8 田舎で静かな生活を求める人

9 古民家を利用する人

などで溢れています。

 

宗教を持つ人そうでない人に関わらず、すべての人はどれかに該当すると思います。

 

そして、

これらの人々は、

政治や経済や社会の「個人ではどうにもならない事柄」に「左右される」のです。

 

+++++++++++++

テレビは人々の「関心」と「欲望」を掻き立て、

テレビを観ることにより「欲望」を孕み、

「欲望」を遂げることで「」を産みだしているように見えます。

 

ヤコブはイエス・キリストの弟子たちに次のように述べています。

おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。

 次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。

 そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」-ヤコブ1:14-15

 

+++++++++++++

効率や効果や頭の良さや出世や富や欲望などに「うつつ」を抜かしている場合ではないと思います。

 

では、どうしろと言うのかと言うかも知れません。

 

最善は、

目立たずひっそりと静かに暮らすことだと思いますが、

年金暮らしなど生活に困らない人以外は難しいでしょう。

 

今を一生懸命生きている人にとっては、

こうしたことは「見えない」ものです。

 

今、世の中は「ゆっくりと回る、大きな渦が巻いている」ように見えます。

中心に行くほど流れが速くなり抜け出すことが出来ず海の中に引きずり込まれてしまします。

 

まるでブラックホールのようです。

 

もしかすると、殆ど人はこの「渦」に飲み込まれてしまうかも知れません。

 

」に飲み込まれない方法はただ一つ「渦から離れる」ことです。

これには「識別力」が必要です。

 

これを持っている人は「世の中の騒動に巻き込まれず平穏に暮らせる」かも知れません。

 

+++++++++++++

これは「すべての人」宗教を持っている人、そうでない人、

すべての人に当てはまるのです。

 

ものみの塔の「教えを信じているエホバの証人」でさえ同じです。

 

思慮深い奴隷と愚かな奴隷がいるとイエスは言われているからです。

勿論、これはいわゆる天的な人、神の王国の成員である人々に言われたことですが、

同じことが「他の弟子たちにも言える」からです。

 

もし、ものみの塔が「正確な識別力を持っていなければ

現在のエホバの証人は「皆、ものみの塔と共に滅びる」のです。

-マタイ15:14

 

ものみの塔は、「既に、過去において、世を識別する点で失敗しています

 

+++++++++++++

話しは変わりますが

 

参考

 昨今、高齢者が「アクセルとブレーキを踏み間違え」事故を起こし、

 事故に巻き込まれた人を「殺してしまう」ということが多発しています。

 

これは「単に踏み間違えた」で済まされる問題でしょうか?

 

自動車メーカーは、

そうした「踏み間違い」を防止する装置を取り付け始めましたが、

そもそもに於いて、

誰かが言ったように、自動車は「走る凶器」なのです。

 

これは「台所で包丁を使う」のとは異なります。

包丁も凶器にはなりますが、

その時には「意識的に行う」ものです。

 

しかし、自動車の「踏み間違い」は、

ブレーキを踏んでいると思ってアクセルを踏んでいるケースが多いとされています。

これは「頭と体(足)」の感覚がずれている場合に生じます。

 

高齢者は脳の衰えからこのようなことが「しばしば」起こるのです。

日常生活の中で同じようなことを毎日のようにしていると思いますが、

それを「気にも留めていない」ので対策も講じていないのです。

 

こうした事故は「オートマチック車」に限られるのです。

アクセルかブレーキを「踏む」という動作しかしていないからです。

 

事故を起こすのは、

徐行する時やバックをする時が多く、

上手く操作出来なくて「焦ったり、慌てたり」する時が最も危険な時です。

 

前進している時でさえ、慌てると「踏み間違える」ことがあるのです。

 

一方、マニュアル車では、

前進、後退は「自らの意思」で、しかも、ギアの操作が必要ですし、

クラッチをゆっくり戻すと同時にアクセルと踏み込むという動作が必要ですから、

「アクセルを踏み間違えて」暴走させるということはないのです。

つまり、

左右の足で動作を行っているのです。

 

アクセルは常に右足を使い、

ブレーキとクラッチは左足を使います。

 

プロのレーサーでは、アクセルとブレーキを同時に踏む

 ヒ-ル・アンド・トウという動作を行うことがあります。

 

 あるいは、エンジンの回転を上げてシフトダウンすることがあります。

 いわゆるダブルクラッチという動作を行い、ギアの回転を合わせる必要があるから

 です。

 これには「素早い動作」が求められるテクニックを要することです。

 

 私もマニュアル車に乗っている時には、

 エンジンやギアの負担を軽減させるために「頻繁に行っていました」

 

 これは、トラックの荷物の重量が重い時に、排気ブレーキとエンジンブレーキを使

 うためのテクニックでもあります。

 

 今のトラックドライバーもしているかも知れません。)

 

オートマチック車では、右足しか使いません。

(参考までに、器用な人は、

 アクセルを右足で、ブレーキを左足で踏むということしている人もいるようで

 す。)

 

これは、何を意味するのでしょうか

 

それは「人間が作ったものは完全ではない」ということと、

便利なものでも、正しく用いないと「凶器」になってしまうことを示しています。

 

それは人間の動作に掛かっているのです。

人間はミスをすることがあるのです」

 

++++++

更に話は変わりますが

 

参考

私はボケ防止と安全のために、

なるべく「手間のかかるように」しています。

例えば、

自分がいつ何を食べたのか、いつトイレに行ったのかをその都度記録し、

また、

ガスコンロでお湯を沸かす時には必ず「タイマー」を身に付け作動させています。

 

なるべく「面倒なようにする」ことで、

常に頭や注意を働かせ安全をもたらすように努力しています。

 

また、自分が出来ることを誰かに頼むことも「極力」しないことにしています。

 

加えて、「腹を立てない」「叱らない、怒らない」「冷静になる」「客観的に考える」

と言う努力をしています。

 

お陰で「平穏」に暮らせています。

 

私がこのように振る舞うことで、

妻も同じような考えを抱くようになり「より平穏な生活」をしています。

 

+++++++++++++

最後に、

大きな災害や大事変が起こる前は、

いわゆる「台風の前の静けさ」で、

世の中が平穏で「その状態がいつまでも続くように思っている」ものです。

その時に、

大災害は、突然やってくるものです。

 

日照りや飢きんは「少しずつ生じます」が、

地震や台風は「突然やって来て、大災害をもたらします」

 

来年と再来年は、

日照りや飢きんなどが起きる可能性がありますので、

地震などの大災害はないかと思われます

 

しかし、油断は禁物です。

 

むしろ、飢きんの後の豊作で人々が喜んでいる時の方が、

大災害が生じる可能性が高いと考えられます。

 

2027年以降のいつか大災害が来ると予想されます。

 

皆さん、気を付けて下さい

 

この1年間忙しくしていました

 

インフルエンザにもコロナにも罹らず元気に過ごすことが出来ました。

 

1月には畑の周囲の草刈り

2月も同じ、ニラ、フキの収穫

3月の初めにジャガイモを植え、かぼちゃの育苗、タケノコの収穫

4月にかぼちゃ定植と梅の収穫

5月にサツマイモの苗を植える

6月は中旬、ジャガイモの収穫とビワの収穫

7月の初め、大豆を植える

8月はかぼちゃの収穫

9月-10月はサツマイモの収穫

10月-11月柿の収穫と渋抜きと干し柿作り

11月はビワの木の剪定と摘雷、柿の木の剪定

11月下旬-12月大豆の収穫と天日干し

 

私は、上記の他に畑の周囲の草刈りや除草剤を撒くなどをしていました。

 

雨の日は休み、晴れている時は大抵畑に行っていました。

 

一人でするには広すぎる感がありますが、

時間にも誰にも縛られないし、沢山獲れた収穫物を売る訳でもないので、

気儘に楽しんでやっています。

 

収穫したものは、

義兄姉に送ったり子供に送ったりして喜ばれました。

そのお返しも貰いました。← 全く期待しても、するつもりもありませんでした。

 

送料が高いのが・・・

 

家の前で、収穫物を少し売っている近くの農家の人がいますが、

私は売るつもりはありません

 

なぜなら、自分の労力と収穫を「お金」にするのは「割に合わない」と思うからです。

 

お金ではなく、義兄弟や周囲の友人たちに「分けて上げた方」が気分がすっきりします。

 

1年間の労力をお金に換算したら「相当な金額」になると思います。

道具も種もお金が掛かります。

 

これと収穫物をお金に換えるのは割に合わないことです。

 

ジャガイモは食べきりましたが、サツマイモ、かぼちゃ、柿、大豆はまだ残っています。

お陰で食費が少し減りました。

 

柿は特に、甘柿は毎日3個ぐらいを1か月間位食べていました。

ニラも冷凍して、まだ残っています。

サツマイモも茹でてスライスして冷凍してあります。

干し柿も冷凍してあります。

 

この他、

リンゴやミカンが送られて来ました。

リンゴは食べきりましたが真穴ミカンは冷凍してあります。

 

冷凍したものは少しずつ食べています。

 

このため冷凍庫が不足し、新たに冷凍庫のみを購入しました。

台所が狭くなってしまいました。

 

来年は、畑を休めるのと同時に周囲を整備する予定でいます。

 

と言う具合に1年中やることがあり、体を動かしています。

ただ、

手の指が腱鞘炎になってしまい「痛い」です。

手術が必要ですが、手術をすると作業が出来ないので、していません。

動かすと動き、夜寝ている間に堅くなるということの繰り返しです。

いろいろ塗りクスリや飲みクスリ、ステロイドホルモン注射もしましたが、

 良くなりません。

作業をしなければ、

 ストレッチなどで治す方法もありますが、

今の所作業を長期間中止することは考えてはいませんので治せません。

 

来年も元気で作業が出来れば良いと思っています。

 

ただ、

今年は日本では「大きな社会問題」が、いわゆる事変のようなことはありませんでしたが、

来年と再来年は大きな事変があると予想されています。

 

ちなみに、

日経平均株価は26000円台から33000円台まで上昇し、

景気は上向いているようですが、

おそらく、

この当たりが「頭打ち」でしょう。

 

そのため、

早い段階で株価が下がり景気が悪くなるかもしれません。

 

日銀の総裁は、

3月の賃上げの様子を見て「金融政策」の判断をすると言っていますが、

 

もしかすると「誤った判断」になるかも知れません。

 

3月の賃上げの後、急落する可能性があるからです。

 

特に、天変地異が予想されています。

 

そのため、

猶の事、自給を強化しなければならなくなると思っています。

 

梅もビワもタケノコもニラも柿もフキも大事な食材となります。

 

大抵の人は食材はスーパーに行って買えば良いと思っていると思いますが、

今までの値段では買えなくなる可能性もあります。

 

今、店で売っている野菜は労力を考えると安いと思います。

 

ということで、

自給自足を目指す者としては、

再来年は、

ジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ、トマト、キュウリ、大豆、落花生、玉ねぎ、にんじんなどを大量に育てたいと考えています。

 

それらを義兄弟に送ってやりたいと思っています。

 

出来れば長期保存をする工夫をしたいとも思っています。

 

来年に備えて、年末年始は体を休めています

 

来年、再来年の事変に備えて心の準備もしておきたいと思っています。

 

皆さんが無事であることを願っています。

 

はじめに、

 同じことが繰り返し「何度も出て来ます

 

重複しているので、

「読みにくい」かもしれませんが、

 全体の「意味」するところを「捉えて、また、考えて」頂きたいと思います。

 

+++++++++++++

どんな勧誘にしろ、

勧誘の手口は、

家の人が断りにくい状況を作ることにあります。

 

いわば、押し売りのようなもので、

良く耳にすることは、

お年寄りを騙して、

家の修復工事をさせたり、器具を交換させたり、何かを売り付けたりすることです。

 

最近は余りニュースにはなっていませんが、

かつては良くあったことです。

 

旧統一教会の「悪質な押し売り」は、

今から40年以上前から良く聞かれたものです。

この教団は初めから「お金が目的」であり、

亡くなった人を持ち出して「高額なツボや印鑑」を買わせたり、

信者になった後は多額の寄付をさせることで「益がある」と言い続けて来たのです。

 

当時も既に問題であったのに、

政治家が旧統一教会といわば「癒着」していたので、

殆ど事件にはなりませんでした。

 

その寄付が問題で今や法人格を取り消されようとしています。

 

同じころ、

ものみの塔も活発に家から家へと訪問し、「ものみの塔誌」「めざめよ誌」などを無料で配布していたものです。

それをきっかけに、

本や聖書まで無料で配布し、いつの間にか家に上がり、

その本と聖書を用いて、いわゆる聖書研究をすることが目的だったのです。

家の人、大抵はその家の奥さんと仲良くなっていくものです。

きっかけは「家の人と良い関係、つまり、友達のようになる」ことなのです。

こうして家の人を油断させ、「心の中に入り込む」のです。

 

いわば、「心の居直り強盗」のようなものです。

 

ものみの塔の特徴は「売らないこと、つまり、すべて無料」だという点にあります。

 

これは宗教の勧誘は「物売りや商売」ではないことを印象付けるためです。

聖書では宗教をお金と引き換えに活動することを禁じているからです。

マタイ10:8と使徒8:20を参考にして下さい。

 

(実際には、日本では戦後しばらくは、「ものみの塔誌」「めざめよ誌」は売られて

 いたのです。

 ものみの塔発行の本=書籍も売られていたのです。

 記憶では1980年頃は、まだ売っていたと思います。

 

 ものみの塔の資金、つまり、多額の寄付が集まったので、

 無料で配布することが可能になったのです。

 

 このころから、

 印刷機である輪転機などを購入し、自分たちで印刷するようになりました。

 それを自慢げに大会や雑誌で紹介していたものです。

 

 その後、

 いわゆる、「海老名ベテル」という大きなビルを建設し、

 更には、

 自前の集会場所である「王国会館」の建設を次々と自分たちで行い、

 各地に、中規模の大会が開ける「大会ホール」を建設し、現在も使われていま

 す。

 

 さすがに、それ以上の大会は、

 既存の施設、例えば、幕張メッセや各地の競輪場や野球場などを利用しています。

 この点、

 ものみの塔は「世を利用」することを「戒めています」が、

 自らが「世を利用」しているのです。

 現在も。

 

 こうした点、

 ものみの塔の「目的」は理解しています。

 すべては「良いたよりの音信を伝える」ためだと、ものみの塔は言うでしょう。

 

 しかし、

 その手段が「間違っている」ことは「明白」です。)

 

ものみの塔は、初めから伝道と称して「勧誘」を意図していたのです。

 

旧統一教会は「お金」が問題で、

ものみの塔は、いわば信条により「忌避」「児童虐待」「輸血拒否」などが問題で、

 

宗教2世たちが「声を上げた」ことがきっかけで、

社会問題化しています。

 

このすべては見知らぬ人の訪問」「勧誘」から始まったのです。

 

以下は「騙す手口」や「騙される人」などについて述べたものです。

 

誰か知らない人が家に来て「勧誘」などに直面した時の警戒と用心の参考にしてくれれば幸いです。

 

**************

騙される方が悪い」と世間では言います。

 

騙す方が悪いに決まっています

なぜ、

世間で騙される方が悪いなどと言うのでしょうか?

 

日本には「盗人にも三分の理」という言葉があります。

これは、

 「どんなに筋の通らないことでも、理屈を付ければつけられるものである」

ということを指しています。

 

騙す方が「悪賢い」のです。

 

**************

(ここから、本題です。)

 

人間は「信頼、信用」することで、

 社会性を保っています。

 

**************

基本的に、

人間は性質上「騙されやすい」生き物なのです。

 

これは、すべての生き物にも言えることです。

 

人間は動物を捕獲する時に、

 麻酔銃を使う時もありますが、

 大抵は「」を仕掛けるものです。

 

 この「」は、

 「騙す」ということの「裏返し」です。

 

**************

悪魔」は、

人を騙すことで「神の命令に違反を犯させ」

神に対して罪を行わせ、

人類に、怒り、悲しみ、苦痛、死、病気、争い、犯罪、暴力、嘘、騙すこと、その他の「悪」をもたらしました

 

カインはアベルを「殺害」するために「野に誘い」しました。

人類「最初騙しであり、人殺し」です。

 

カインがどの程度「悪魔の影響を受けていたかは不明」です。

 

妬み、怒りなどの感情は、

善悪の知識の木の実を食べた後、

すべての人間に「罪」が遺伝されたことから生じています。

 

つまり、

人間自身から「悪い感情」が発していると思われます。

 

必ずしも「悪魔の影響」だとは言い切れません

 

**************

では、

なぜ、騙すのでしょうか

 

それは「自分の思いを遂げるため」です。

欲望であれ、性犯罪であれ、盗みであれ、殺人であれ、

すべて「自分の欲望の思いを遂げるため」です。

 

利己的であれ強欲であれ傲慢な「性質」「考え」がそうさせるのです。

 

**************

騙される側心理(不用心)

1 相手の言うことに同意する。

  相手の言うことが「もっともだ」と思い込み

  人に誘導されてそう思い込むことは良くあること。

 

  言われたことを、

  正しいと思い込む。

  (人を信頼、信用している証です。)

 

  多くの場合、

  人を騙す時には、

  事実や道徳や一般に正しいとされていることを話し

  同意を得た上で

  問題を解決する手段として、

   ○○した方が良いなどと、 

   自分の考えに「誘導」することが多いものです。

 

2 相手の言いなりに教義などを「教えられる」と、

 いわば、洗脳されて、

 言われた通りのすることが「正しい生き方」のような「気になってしまう

 

 これは、

 例えば、「目先を変えるだけで見える景色が変わる」ことに似ています。

  知らないことを知らされると、

  意識も考えも「変わります

  このことに気が付いている人は「多い」ものです。

 

  ですから、

 「聞いたり、見たり」してしまうと

  もはや、脳は元へ戻ることが「出来ない」のです。

  

3 相手の言うことを素直に受け入れてしまうのは、

  人間の本性であるとしても、

  大抵の場合は、

  明確な自分の考え、意思を持っていない場合が多いものです。

 

  勿論、人は誰でも「自分の考え」を抱いています。

  しかし、

  面と向かって、

   「人生は、病気は、犯罪は」などと言われると

  大抵は、確信を抱いて返答出来る人は少ないものです。

 

  人間は知識や経験を、

   成長しながら身に付けて行くものだからでもあります。

  

4 相手の作為ある人の「口車」に乗ってしまう

  大抵、騙す人は、

  相手の「善意」を利用するものです。

  騙される人は、

   相手の言うことを信じ易い人であることが多いものです。

 

**************

騙す人の手口は大抵以下のとおりです。

 1 相手を誉める

 2 思い通りにならない原因や、不安を煽る

 3 相手に巧みに「自分にも当てはまる」と思い込ませる。

   相手から、自分の「問題点や悩み」などを引き出す。

   (騙す人は、

     人にありがちなことを列挙する。

    大抵は、どれかに当てはまるものです。)

 4 相手に「解決策」と言って、

   自分の思う方向へ誘い込む

     

こうしたことは、始まりのきっかけに過ぎません。

 

**************

騙す言葉のポイント悪魔のささやき

1 人生の転換期(旧統一教会の誘い言葉)

2 手相などを利用し、相手を誉めると同時に、

  人生や人の問題点を指摘。

3 犯罪や災害や病気が増加している。

  政治や社会の問題点を指摘。

 

**************

こうしたことに騙される人、引っかかる人の特徴は、

1 人生を「漠然」「漫然」と生きている。

 「人生はままならない」のは当然だと考えている。

 

  あるいは、

  人生を「計画」し「様々な問題への対応」することなどについて、

  あまり、「深く考えてこなかった」ことが要因の一つかも知れません。

    

 また、

  誰かが自分の代わりに物事を「決め」それに従って生きて来たことも要因の一つ

  です。

  例えば、親の言いなりに生きて来た場合など。

 

 幼い子供など、経験も知識もない人にとっては、

 親や友達や年配の人や有名人などの「言うこと」を信じ易いものです。

 

2 物事の大事なことを人に決めらて来た人の多くは、

  いつしか、仕事や人生に違和感を覚え「自立」したいという思いが自然に「芽生

  える」ものです。

 

 (エホバの証人の2世たちもそうです)

 

  そのため、

  このままはだめだ、変わらなければならないと思い込むようになるものです。

  

3 不安や悩みを抱えている人は、

  藁をもすがる思いで「誰かに助言を求める」傾向にある。

 

**************

こうした人を騙す人の口実としては、

1 相手の問題点に付け込み不安を煽る

  そこで、

  「あなたが変われば、問題や不安は解決する」と言う。

2 人生は変えられる

3 パンフレットや本などのテキストを渡したり、集会に誘う

 

  集会などに出席すると、

  見知らぬ人からも「歓迎」されたり「暖かい言葉を掛けられたり」する。

 

  最初は驚くものです。

  すべてが「新しいこと、初めてのこと」なので、

  つまり、無知であるため、

  あたかも学校で学ぶように知識を学ばさせられて行く」。

 

  信じるというより、

   集会に出席している内に、(集会の)周囲が皆信じているのを見て、

   次第に自分もそれに飲み込まれて行く

 

  いわゆる「集団催眠」のようなものです。

 

+++++++++++++

参考:学校教育は「心、思考」の誘導もしくは誘発でもあります。

  「正しいとされている」ことを生徒に「教え込む場」です。

 

   テキストを用いたり集会へ出席すると、

   これと同じ状況に置かれてしまうのです。

 

ものみの塔の場合は、

聖書に記されていることは「すべて正しい」ことだと

例を用いて話し、信じ込ませて行く点にあります。

 

本=書籍を用いて、

教理(聖書に)記されている事柄に従うことは、

幸福になる「唯一の方法」だと思い込ませていくのです。

 

こうしたことは、

必ずしも、間違っているとは言えませんが、

 

問題なのは、

聖書に記されていない事柄を

あるいは、

聖書の内容を曲解して、

信者を「誘導」することです。

こうして、

少しずつ「真理から逸脱」させられて行くのです。

 

ものみの塔の場合は、

殆どすべての人が「同じ本=書籍」を学ぶので、

皆「同じ思い」を抱くのです。

 

おそらく、世界中の信者やエホバの証人と聖書を学んでいる人すべてがです。

 

ものみの塔は、

ラッセルの時代から、パンフレットや映像やレコードを用いて「効果的」に行っています。

その後、ラッセルなどがを書き、それを「信じる人、すべて」が学ぶようにしたのです。

 

+++++++++++++

こうした手口は分かっているのに、

 集会に出席すると、

 そうしなければならないかのような雰囲気にさせられ、

 こうして「半ば圧力」を感じるものです。

 

+++++++++++++

どの宗教でも教理の内容は、

 大抵「素晴らしい」と思えるものばかりです。

 つまり、

 言うことは立派なことばかりなのです。

 

それが「」でも、

 学校で教えを学んで行くように、

 教理についても「知識として取り入れて行く」のです。

 

信じる、信じないではなく

 言われることを、

「そうなんだ」と、「受け入れさせられている」のです。

 

疑い深い人は、

それ以上深入りをすることはありません

 

教えられたこと(教理)を受け入れた人は、

 更に深入りしていくのです。

 

**************

騙す人の口実次の段階は、

1 行動を促す

  あらゆる悪の根源が悪魔に唆させられたことが原因であると言い、

   救われるためには、

   ○○しなければならないと言う。

 

2 (狡猾な手口)

  自分で決めたように「思わされている」

  教団の勧めに同意しなければ

   救いが得られないと言う。

 

 「救い」「永遠の命」「従わなければ滅ぼされる」「信仰」「霊性」などと言う

 「ことば」によって、誘導されるのです。

  

  しかし、

  その同意の中には「真理」でないものも「狡猾に含ませている」のです。

 

  例えば、

  ものみの塔の「統治体の成員は忠実で思慮深い奴隷」であるとか、

  旧統一教会では「文鮮明」を「メシア、救世主」であると言うことなどです。

 

  しかし、

  自ら「同意」した段階で、

 「罠に嵌って逃れられなく」なっているのです。

  信仰=忠実=従順=永遠の命という「鎖に繋がれてしまう」のです。

  同時に、

  不信仰=不従順=滅び=死という「脅し、恐怖の状況に置かれてしまう」ので

  す。

 

3 信者になった後、

  組織の活動を積極的に行うように「促す」

 

 「霊性」の高いことは「立派であり、自分もそうありたい」と思わせることです。

    

  開拓者になれば「そのように見られる」とか、

  あるいは、

  僕や長老という立場の人は「霊性が高い」と思い込まされているのです。

 

  ものみの塔は、

  こうした人々には「神の霊が注がれている」などと「事ある毎に」言い、

  信者に、こうした人々に倣うよう「教えている」のです。

 

  これらを、書籍や冊子や雑誌などで繰り返し述べることによって、

  いわば、洗脳しているのです。

 

4 組織を「神の組織」と言い、

  組織に従うことは「神に従うことだ」とさえ言って。

  組織に従順になるように仕向けている

 

  組織に従わない人々を、

  場合によっては「排斥」という「見せしめ」を行い、

  信者を「脅している」のです。

 

5 長老の指示に従わせることで、

  徐々に組織の一員にされて行く

 

  信者はいわば善意の気持ちで、伝道活動や会衆の割り当てを行い長老の指示に従

  っていますが、

  現実は、組織の思惑に「踊らされている」のです。

 

  いわゆる霊的に弱くなった時は、

   傷付いた者に「鞭打つ」ように、

   組織に忠実であるように「励ます=促す」のです。

 

  長老たちによる「牧羊訪問」は、いわば「屈辱」であり、

 「霊的な鞭打ち」なのです。

 

6 信者を増やすことで、

  神の是認が得られている神の組織であるという「構図」を作らされています。

  また、

  信者の寄付で運営資金を賄っています。

 (ものみの塔の思惑)

 

  そのために、

  信者に「伝道のノルマ」を長年の間課して来たのです。

 (最近、これが廃止されました)

 

  以前は寄付は自発的なもので、あまり、聞くことはありませんでした。

  それは、協会に十分資金があったからで、

  不足するようになると寄付を募り始めました。

  その寄付を「組織の上部の人たちの生活の資金」にするためです。

  

  生活に困窮している末端の信者のために用いたりせず

  建設のために用いたり、組織の立場の上の人たちのためや、

  いわゆるベテルでの奉仕者や、支部や世界本部で働く人々の衣食住などのために

  使われているのです。

 

7 信者をいわば組織の奴隷状態に置いている

 

+++++++++++++

エホバの証人は、

 聖書とエホバとイエス・キリストに従っていると「思い込んでいる」

 実際は、

  ものみの塔に奴隷にされているのです。

 

+++++++++++++

8 組織(ものみの塔)に従わないと救われない」と「思い込まされている

  聖書やエホバやイエス・キリストに従わされているのではなく、

   ものみの塔に従わされているのである。

 

  本来は

  聖書の正しい原則を話すに留めるものです。

  それを聞いた信者は、自分の意思で従うか行うかを決めるのが正しい教え方で

  す。

  ところが、

  ものみの塔は

  神、悪魔、ハルマゲドン、滅びなどという「ことば」を用いて、

   信者を「従わせようとしている」のです。

  こうした「教え方」は正しいものではありません

 

  単なる「脅し」です。

 「警告」ですらないのです。

 

9 人々を救うのは自分たちしかいないと「思わされている

 

10 事物の体制が、つまり、世の中が悪魔の支配下にあり、悪魔の影響を受けてい

  るということが、

  世の人々には「分からない」「理解出来ない」と「思い込まされている

 

  その理由は、

  世の人々はエホバもイエス・キリストも聖書も悪魔も知らないからだと。

   

  実際は、

  世の人々が分からない訳でも理解出来ない訳でもなく、

  自分たちが「頑ななだけなのです。

 

  悪魔が世の支配者だからと言って、

  エホバの証人を含めて、「悪魔の影響を受けて」いても、

  世の中のすべての人が、「悪魔の奴隷となっている」訳ではありません

 

+++++++++++++

  実際、自分たちはなぜエホバの証人になったのか考えたことがないのです。

 

  自分や自分たちの伝道に応じる人々は、

   悪魔の支配下にはいなかったのでしょうか

 

  世の(悪魔の)影響を受けている人々が救われるのはなぜでしょうか?

 

  自分たちの言うことで、

  間違いに(悪魔の影響)気付かせたからだと考えているのでしょうか?

 

  自分たちも

  聖書を学びながら「悪魔の影響」を受けていることを、

  どのように思っているのでしょうか。

   

  自分たちは「分かっている」から大丈夫だとでも考えているのでしょうか?

 

  実に愚かなことです

 

+++++++++++++

旧統一教会の「万物復帰」という、いわば、信仰の原理を「信じ込まされている

ので、

 抜け出ることは難しい

 

この点、

ものみの塔でも同じで、

 会衆から離れエホバの証人ではなくなることは、

 滅ぼされることだと信じ込まされている

 救われるのは自分たちだけだと心込まされているので、

 抜け出ることは難しい

 

実際には、そのようなことはありません

 

+++++++++++++

信者の特徴

11 エホバの証人たちは、

  伝道活動は人々を救うことであり「正しい」ことだと「思い込んでいる

   

  イエス・キリストの言われた、

 「すべての人々を弟子とし、イエス・キリストの命じたことを守り行うように教え

  なさい」

  という「ことば」に「踊らされている」です。

   

  イエスの命令に従うことはクリスチャンとして「当然」のことです。

  しかし、

  ものみの塔に「促されて行う」ようなものではありません

  この点、

  思い違いをしているエホバの証人たちは多いものです。

 

12 神は善であり、悪魔は悪であるという構図が染みついている

   純真なエホバの証人は「嘘」をつきませんが、

   狡猾なエホバの証人は「平気で嘘をつく」こともあるのです。

 

   その最たる者が、長老たちです。

   自分たちの権威にないことまで「あるかのような振る舞いや発言」をする。

   知らないことを知っているかのように話すことも少なくない。

  「誇りのために思いあがっている」こともあるのです。

 

13 ○○することが、

   神のため人を救うため世の中の人々に対する警告であると思い込み、伝道

   活動をしている。

   また、

   そうすることで「霊性が高くなれる」と「思い込まされて」いる。

 

14 ものみの塔の言うことを信じているので、

   殆ど受け売りで話していることを正しいことだと思い込んでいる

 

   良く調べると

  「根拠が曖昧であったり、架空の話であったり、

   捏造した話であったり、歪曲した話しであったり」

   することもあるのです。

   

   聖書を根拠に話してはいますが「適用が間違っている」こともあります。

 

15 人を動かす理由として、

   神のため、イエスのため、

   神の教えに従う、イエスの教えに従う、

   聖書に従う、

   信仰の表明、高い霊性のため、

   世の人を救うため、

   という「ものみの塔の受け売り」をしている。

 

+++++++++++++

普通、どんなに良いこと正しいことを言っても、

 人は動かないことが多いものですが、

 

なぜ、エホバの証人はものみの塔の言うことに従うのか。

 

やらない人、出来ない人はいろいろ理由を付けてやらないものです。

 

素直な人まずやろうとするものです。

結果、やってみると、

いろんな問題が生じ次第にやらなくなって行くのです。

 

また、ものみの塔の「要求」には「無理」があるので、

 必然的に出来なくなるのです。

 

+++++++++++++

ものみの塔や会衆の長老たちに従うことが、

 神やイエスや聖書に従うことだと「言い続ける

 

権威を持ち出し、

 それを自分たちに適用しているのです。

 

家族にはが存在し、

 その権威は「神が据えたもの」です。

 

しかし、

 ものみの塔や会衆の長老たちに、

 権威を与えたのはだれですか?

 

 それが「神から与えられた」ことを証明出来る人は一人もいないのです。

 統治体の成員でさえそうなのです。

 

思い込まされている」のです。

 

一貫して言い続けているのです。

 

そうでもしないと、

自分たちの主張が「間違っている」と思われたり、

信者が「自分たちの言うことを聞かない」からです。

 

+++++++++++++

その他の特徴

16 ものみの塔は、信者には、

   世の人々は悪魔の影響を受けているから、

    付き合わないようにと「言い続けている」

   実際、エホバの証人たちは、

    世の人々と付き合う人は殆どいません。

   また、世の人々の影響を受けないように、

    常に警戒しています。

   こうして、自分を世から「孤立」させているのです。

 

  これは矛盾しています。

  なぜなら、

  悪魔の影響を受けているのは

  エホバの証人も同じだからです。

 

  ものみの塔は、こうしてイエスの言うことに「逆らっている」ことを理解して 

  いません。

  イエスは、弟子たちのことをエホバに祈った時に、

 「世から取り去ることではなく」と述べているのです。

  ただ、

 「世のものではないと言っているのです。

 

  つまり、

  行いや振る舞いや信じていることが「世とは異なるもの」であると言っているの

  です。

 

  繰り返しますが、

 「世のものではない」ということは、

 「世から孤立したり忌避することではありません

 

  例えれば、

  世の中で「混在している」善人と悪人の違いのようなものです。

  共に普通に社会で暮らしているのです。  

 

17 エホバの証人は、自分のしていることに「疑問」を感じていません

   伝道、集会、大会への出席を当然と考え、

   世との交わり、学校での忌避、様々な「禁止行為」、偶像礼拝、

   血を避けること、淫行を避けること、

   などに従うことを当然と見なしています。

 

   こうしたことは、

   聖書を読んで「自分で決めたことではない」のです。

 

18 社会的遮断、社会的孤立状態にある

   同じ信仰の人だけと集まったり関わったりし、

   外部(エホバの証人ではない人)の人からの意見や考えを、

    間違ったものとして「全く受け入れない」。

 

   こうしたことは「狂信的」です。

 

   エホバの証人だけの環境の中だけで活動をし、

   熱心であることを誉められたりすることで「好い気になっている」

   また、

   そういう環境が居心地が良いと感じているのです

 

   単なる自己満足に過ぎないのです。

 

19 自分のしたいことがあっても、

   殆どはものみの塔に「禁止されている」ことが多い。

 

   しかし、実態は、他の信者がいないところでは、

   いわば、隠れて「やっている」ことは多いものです。

 

   中には、信者でありながら、

   仲間内ではエホバの証人然として振る舞い、

   仲間と共にいないところでは、世の人々と同じことや自分のしたいことをして

   いる人もいます。

 

   つまり、

  「偽善者」は少なくないのです。

 

20 普通であれば「疑問」に思うことも、

  「当然」だと受け入れてしまう「環境」が出来ているのです。

 

21 組織の指示に従っていることで「安心感」を得ているのです。

   つまり、

   仲間と、皆と同じことをしているという「安心感」抱き、

   また、

   熱心に活動することで「自己満足、自己容認」し、

  「周囲の人が誉めてくれるので良い気分(快感)になっている」

 

   指示にしたがってさえいれば「何も問題が生じない」ので、

   自分で考えること必要もなく「精神的にも肉体的にも楽」。

 

   エホバとイエス・キリストと聖書に従っていれば「救われる」と言いながら、

   実際には、

   ものみの塔の言うことに従っている。

 

   こうしたことが彼らの日常なのです。

 

22 物事が上手く行かないのは「自分のせい努力が足りない」とさえ考えている

   ことも多いものです。

   伝道にしても様々な規則や制限に関しても。

 

   こうして「自らが考える機会を奪われている」ことに気が付いていないので

   す。

 

   従うこと、やることだけを考えて

   それが正しいかどうかということを「考えない」のです。

 

   こうしたことは「マインドコントロール」そのものなのです。

 

+++++++++++++

エホバの証人の中には、

 もし、ものみの塔が間違っていたら

 その時に離れれば良いなどと考え、

 いわば「救われる」ことに「油断」をしないようにと考えている人もいるかも知れ

 ません。

 

そういう人は「自分を危険な状態」に置いていることを理解していないのです。

例えれば、

 崖の淵に立っているようなものだからです。

 

終わりは、

油断したり、誰も気が付かない時に「突然」「来る」からです。

気が付いた時には「遅く」誰一人逃れられないのです。

 

神を侮ることは出来ないのです。

人間の都合の良いようにはならないのです。

 

+++++++++++++

23 洗脳されると、

  旧統一教会の「合同結婚式」でさえ「疑問」思わないのです。

  むしろ、それを「喜んでいる」ということです。

  それが、

  貧しい韓国人のためであることや

  教団の思惑であることを知らずに。

    

  相手が「最高のパートナー」だと「言い含められている」

  しかも、結婚式当日まで「一度も会ったこともない」のです。

 

  常識的には考えられないことも受け入れてしまうなんて

 「異常、狂っている」としか思えません。

 

  相手が好みでなくとも、嫌だと思っても、そういう「気持ち」を克服しなければ

  ならないと思ってしまう点に「異常さ」が現れています

 

24 自分の間違いに気が付く「きっかけ」は「気が置けない人(家族や親戚や友人

  など)」に相談した時などであることが多いものです。

 

  普段の日常の自分のことでは、大抵は「自分の未熟」を先に考えることが多い

  のです。

 

  もし、疑問などを組織の人に相談すると大抵は、

  言い含められてしまうものです。

 

  ですから、相談する時には、

   部外者が良いのです。

   客観的な視野で物事を考えてくれるからです。

 

  洗脳された人は、議論に発展し気まずい思いをすることになるかも知れません

  

  冷静に「聞く耳を持つならば」洗脳から「解き放たれる」かも知れません。

 

25 洗脳された人に考えさせる方法の一つとして、

   教義などを「説明」してもらうことが出来ます。

 

   それを聞いて、その人に「疑問」をぶっつけることです。

   その人に「疑問を考えさせることで、

   本人が「自分の過ちに気が付く」ということもあるかも知れません。

 

   エホバの証人も、

   突き詰めて問われると「十分には答えられない」ものです。

   その時、答えられないことを本人がどのように思い、考えるかです。

 

   あるいは、自分が答えられない場合、聖書について詳しい人を連れて来て、

   その人に話させる場合もあります。

 

   その場合、多くの場合

  「信じられないかもしれないが、

   それが真理で正しいんですとか、そうしなければならないんです」

   などと言って、

    無理やり納得させようとするものです。

 

26 こうした場合、

   信じる、あるいは、信じたい「気持ち」や「信仰心」を否定するのではなく

    

   相手の信仰心を認めた上で、

    自分の頭で良く考えることだと伝えることです。

 

   思い込んでいる人を「改心」させることは「困難」です。

   こういう人は説得されればされるほど「自分の立場に固執するものだから

   す」

 

+++++++++++++

ラッセルの時から、

 離れて行く人も少なからずいたことは事実です。

ラザフォードの時には、

 分裂、分派があり、ある人たちは「除かれた」こともあります。

その後もこうしたことは続いています。

 

現代でも同様です。

 

しかし、

末端の信者で「信じ切っている人」たちの改心は、更に困難です。

 

組織の上部の人たちは、

 自分の考えを話していることがあり、

 それが見過ごされていることを「許されている、その権限がある」と思い込んでい

 る場合もあり、

 

 聖書を超えて話すこともあります

 

その聖書の見解が間違いであることを「直ちに証明出来る人は殆どいない」ので、

咎められることがないのです。

 

そのため、

 教義について、

 表向きは「擁護」していますが、

 本音は違うことを考えている場合もあるのです。

 

こうなるとその人は、

立場だけを考え、立場にしがみつくようになり、

嘘を平気で突くようになるものです。

 

「つまずかせるものが来るその経路となる人は災いです」とイエスは述べています。-マタイ18:7

 

こうした悪循環に陥っている長老たちは「少なからずいる」のです。

 

もはや信者としては「失格」なのですが、

 人間には分からないのです。

しかし、

 神とキリストを侮ることは出来ないのです。

 

当然、こういう人は救われないことは確かです。

 

もはや「滅びを確信」し「開き直っている」人いるのです。

 

+++++++++++++

27 自分で考えることで、

   多くの疑問が出てしまい、「教義や規則や信仰に疑いを抱くようになる」もの

   です。

 

   大抵の信者は、知らないことが多いものですが、

   調べることは「殆どない」のです。

 

   調べようがないからです。

 

   しかし、こうした疑いを払拭出来ない人は、

   他人も疑い、他の人の振る舞いや動機をも疑うようになって行き、

   そして、離れていくのです。

 

   こうして「洗脳から少しずつ目が覚めて行く」こともあります。

 

   離れて、世の中で普通の生活を続けることで

   教団やものみの塔の教えに「更に疑問を抱き、聖書の根拠も疑うようになって

   行く」ものです。

 

   教団やものみの塔に「嘘を付かれていた」とさえ感じるものです。

 

   逆に、

    疑問を感じても、教義を信じる、あるいは、信じようとしている人を改心さ

    せるのは「困難」です。

    この場合、

     命、復活、安心などに対する「期待」を依然として「持っている」ことが

     多いものです。

 

28 ものみの塔から離れても「問題はない」と思うようになるためには、

   中には「滅ぼされても良い」と考える人も少なからずいるものです。

 

   中には、離れても信仰を維持することが出来ると考える人もいます。

 

   世の人が考えるように「今の命で、自分の生きたいように生きる」と決める人

   もいます。

   

   永遠の命に至らなくても良いと考える人もいます。

 

   教団やものみの塔に固執するのは

    1 永遠の命

    2 病気や悲しみや苦しみから解放されたい、

    3 平和で安心した生活をしたい

   という願望のためです。

 

   これを「非現実的」と考える人は、

   もはや「縛り、洗脳」は「消滅する」のです。

 

29 教義の教えは、

   一見して夢と希望を与えるものですが、

   逆にそれを失うことの恐怖感を与えるものとなる。

 

   例えば、永遠の命を得るという希望を持たせ、

    一方で、それを盾に「何でも言うことを聞かねばならない」

    もし、従わなければ「滅ぼされる」というのは、

 

   脅迫というより、

   洗脳であり、信者を牛耳るための策略なのです。

 

宗教とは

 本来、もっと自由なものであり、

 何事も「話しは聴くが、やるか否か、従うか否かは本人が決めるべきもの」であ

 り、

 従わないからと言って、その人を除き去ったり、もはや信者ではないと言うのは、

    

 もはや宗教の域を超えたカルト(狂信)集団と言えるのです。

 

+++++++++++++

聖書の教義の大半は、

 イエスかノーかのいずれかの選択です。

 背教や分裂、分派をもたらす存在は「除き去る必要があります」

 しかし、

 そうではない「単に弱さから罪を犯した人たちまで、同様に除き去るのは間違って

 います

 

この点、普通のキリスト教の方が「寛容」です。

勿論、罪を犯した人たちには「悔い改め」を求めますが、

 その人を除き去ったりはしません

 その人が「悔い改める」まで「忍耐強く待つのです。

 

これこそ「キリストの精神」なのです。

 

今のものみの塔の会衆の長老たちは、

 そうした認識も資質も備わってはいないことは明白です

 

もっと、優れた資質を持つ者が、

 信者の指導に当たらなければならないのです。

 

+++++++++++++

30 組織や信者の振る舞いなどに疑問を持ち、離れたのは良いが、

   ものみの塔の教えや聖書のおきてや命令などが、

   「頭から離れず、少なからず不安な気持ちになることもあります」

   

   真理は、

   人や組織とは「関わりないもの」です。

   その真理を受け入れたのであれば、

   あるいは、捨てていないのであれば、

   離れても「個人で信仰を続ける必要があるのです」

 

31 信仰は「自分の考え、思い」で確立すべきものであり、

   誰かの言うことに従って持つというものではありません。

 

   勿論、誰かの考えなどを「聞いて参考にすること」に問題はありません。

 

   人間的な「勝手な考え、思い」ではなく、

   真理を熟考し「自らが納得」した上で「自分の意思で、考えで」受け入れるこ

   とが重要なのです。

 

   十分分からないからと言って、

   判断や振る舞いなどを「他人に委ねてなならない」のです。

 

32 悪魔のささやきは現実に沢山あります。

  「注意深く調べ、また、熟考し、黙想をする」することで、

  「騙される」ことを予防することが出来るでしょう。

 

+++++++++++++

どんな宗教にしても、

初めからすべてを理解して、また、分かって信者になる訳ではありません

 

ほんの少しの希望が始まりとなり、それが次第に発展していくものです。

 

良い宗教もあれば、

 旧統一教会やものみの塔やオーム真理教などのように、

 極端なものもあります。

 

どの宗教を受け入れるか否かは、

 初めの気持ちで決めたものであったとしても

 疑問や間違いに気が付いたら「原点」に戻って良く考えることです。

 

誰も、ものみの塔の会衆の長老たちに従いたいとは思わないでしょう。

従わされていることに「気が付くのはいつのことでしょうか」

 

なぜ、従いますか?

永遠の命を得るためですか?

 

ものみの塔や長老たちに従ったからと言って、

 永遠の命を「保証するものは一つもないのです」

 

なぜ、こうした単純なことが理解出来ないのでしょうか?

 

それは、洗脳されているからです。

 

+++++++++++++

旧統一教会の場合は、

 初めから宗教であることは「決して伝えない

 ある程度、

 信じこませてから、

 救われるためには○○が必要だと言い出すのです。

 

初めは、

宗教とは思わせず、

 世の中に普通にある「カウンセラー」の如く振る舞うのです。

 そのため、

 殆どの人は「無警戒」に「その助言を聞いてしまう」のです。

 

ここに、旧統一教会の「狡猾さ」が現れています

 

相手が「正しいと思い込んだ」時に、

 初めて宗教だと明かすのです。

 

初めは、

 助言、教えによって、

 その人の考えを少しずつ変え

 感化された時点で、

  どうすべきかの提案をし、

  その決定をさせることで、

 新しい生き方に、自分たちの思うように誘導していくのです。

 

エホバの証人の場合は、

 伝道の際、

 初めから「聖書」の名を口にし、

 悪いことではないし、自分たちも「悪人」ではないという印象を与えようとしま 

 す。

 その後、テキストや集会などを通して、

  バプテスマを受けた信者となり、

  聖書の教えに基づいた生き方をするという「決定」をさせているのです。

 

+++++++++++++

同意させることで、更に深入りさせて行くのです。

 

この時点で「教義」「真理」がある程度「頭に入っているので、

 エホバの証人になってはいなくても、

 気持ちはエホバの証人と同じになっている場合が多いものです。

 

中には、

 バプテスマを受けていないから、

 いつでも、以前の状態に戻れると考えている人もいます

 

**************

エホバの証人の勧誘方法は、

1 今の世の中の現状を話し、

  共感を得る。

2 問題が無くなれば良いと思いませんかと、

  相手の気持ちを誘導する。

3 聖書には世の中の問題のすべてを解決する方法が記されている。  

4 聖書を学ぶことを勧める。

  無料だと伝える。

5 テキストに基いて「質問と答え」で、

  相手の思考を「ものみの塔の思う方向」へと導く。

6 テキストを通じて、

  問題の原因である「悪魔」の存在について知らせる。

  聴いている方は、確信はないが「そうなんだ」と思う。

7 これらから救われる方法はただ一つであると言う。

8 神の特質に言及。

9 イエス・キリストの役目について言及。

10 お二人に信仰を働かせることが救われる唯一の方法だと述べる。

11 悪魔が用いる方法についても言及。

   世の精神(悪い事柄すべてを悪魔のせいにしている)

   宗教の「偽り」について言及。

12 集会や大会に出席することを勧め、

   そこでの人々の状態を見せる。

13 最後に、救われるためにはバプテスマを受けエホバの証人になる必要があると

   伝える。

14 バプテスマの討議を通して、

   ものみの塔の教理を再確認させ、

   同時に統治体やものみの塔に従順であるべきことを認めさせる。

   聖書のおきてに従うことにも同意させる。

 

などが、ものみの塔の常套手段として用いられている方法です。

 

**************

最後に

あなたがエホバの証人なら、

 もし、自分が統治体の成員の一人だとしたら、

 どのようになるだろうかと自問し、

 その答えを、

 理想的な、あるいは、クリスチャンとしてあるべき姿を、

 模索してみることです。

 

 その自分の考えと、

 現実の統治体の成員の人々の生活と

 照らし合わせて見ることです。

 

 そうすれば、

 彼らの「過ち」や「嘘」が見えてくるでしょう。

 

 ものみの塔の組織の中枢にいる人々の歩みが、

 疑問を抱く状態であれば、

  組織にいる「価値」はどこにあるというのでしょうか

  「はっきり言って、騙されている」のです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

ものみの塔の世界本部や統治体が「傲る」原因の一つに、

世界中から集められる「寄付」が膨大なものであることを挙げることが出来ます。

 

もし、寄付が集まらないと「何も出来ない」からです。

 

自分たちの生活も活動も思うようには出来ないのです。

加えて、

寄付によって自分たちの「生活」が安定、保障されてもいるからです。

 

いわば、世間的には「隠れた、お金の亡者」なのです。

 

ものみの塔は資産を公表してはいません

 

この度日本で成立した法律では、

今月30日から施行されると言うことです。

 

これにより、

日本支部の資産が国によって把握されることになります。

 

日本支部が世界本部に毎月寄付を送金していることは事実です。

 

そのため、

指定宗教法人に指定されることは時間の問題です。

更に、

特定指定宗教法人に指定されることも時間の問題と思われます。

 

これにより、

日本支部は世界本部への寄付の送金が出来なくなるか難しい状況に追い込まれることになるかも知れません。

 

日本支部のお金の流れが公に明らかにされるのです。

 

もはや、統治体による「寄付を募るビデオメッセージ」も打ち砕かれることになります。

 

「あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その

 肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くすであろう。

 は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。

 すなわち,彼らの王国を野獣に与えて[彼らの]一つの考えを遂行し,の言葉の成し

 遂げられるに至ることである」-啓示17:16-17

 

という啓示の預言が実現しそうです。

 

これにより、

ものみの塔が「大いなるバビロン」の一部であることが「立証される」ことになるでしょう。

 

これは迫害ではありません

 

神の意思が働いたのです。

 

あなたがエホバの証人なら「共の滅びることを望まないなら、彼女から出なさい」という神の命令に従うべきです。

 

さて、

ものみの塔から出たあなたは一体どこへ行けば良いのでしょうか?

 

悔い改め「本来の立場に立ち返る」ことです。

 

何処にでも、誰にでもありません

 

あなた自身が自ら「立ち直る」必要があるのです。

 

もし、それが出来ないなら、

事物の体制の滅びを生き残ることは難しいでしょう。

 

知恵を求める人のためのブログです。

マタイ28:19-20のイエス・キリストの命令に関して。

 

イエス・キリストが昇天された後は、

教えることは主に使徒たちが中心となり、イエス・キリスについての証言はペンテコステの日に聖霊が下り、

大々的な証言がなされ多くの人々およそ三千人がバプテスマを受け弟子たちが誕生しました。

 

興味深いのは、証言を聞き、ペテロの言うことを心から受け入れ「悔い改め」た者たちはその日の内にバプテスマを受けたことです。

 

イザヤ書を読んでいたエチオピアの宦官にフィリポがその意味を説明すると、

水のある場所に来た時にバプテスマを望んだその宦官にフィリポはバプテスマを施しました。

それは「神の霊」が導いたことでした。

-使徒8:26-40

 

このエチオピアの宦官も「聴いて直ぐに」バプテスマを受けました。

 

勿論、彼らには律法と言う下地が既にあったことは言うまでもないことです。

 

+++++++++++++

この二つの事柄は、

「イエス・キリストに関する良いたより」を聞いてそれを「受け入れた」時に

バプテスマを受けました。

 

その他の事柄に関して「正確な知識」を持っていたかどうかは不明です。

 

エチオピアの宦官はイザヤ書を読んでいたことから、

イエス・キリストの教えに関しては「知らなかった」と思われます。

しかし、

フィリポの説明を聞き、

信じた時」にバプテスマを受けたのです。

 

イエス・キリストの「教え」に関しては「後から学んだ」のです。

 

これらの例から、

ものみの塔の伝道の仕方バプテスマの施し方が「間違い」であることが分かります。

 

+++++++++++++

その後、AD36年以後、活動はユダヤ人以外にも拡大し、その中心はパウロやバルナバでした。

それでも、

教義にに関して問題が生じると、エルサレムにいた使徒たちに伝えられ、彼らがその問題に関してどうあるべきかを決定しました。

それが弟子たちに伝えられました。

 

しかし、

使徒たちの活動の書以降の部分を読むと分かるように、

新しく転向した人々は、

 律法にも通じておらず、また、律法が廃されたことも理解しておらず、

 イエスの教えそのものについての知識も理解もなかったので、

 繰り返し教え諭される必要がありました。

 

特に、

 割礼や復活や子供に教え諭すことや会衆内や普段の生活の中での信仰に関する振る

 舞いなどに関しては、

 繰り返し「警告」や「助言」などが与えられました。

 

割礼の問題に関しては、

パウロは独断で決定するのではなく

使徒たちの権威や立場を尊重し、

彼らの決定に従い、教えや助言を与え続けたことは、

その後の記録から分かります。

 

その後、

AD70年までに使徒ヨハネ以外の使徒たちは全員亡くなりヨハネは投獄されたままだったので、

AD98年頃までは手紙によるヨハネの助言が弟子たちに伝えられる程度でした。

 

やがて、

そのヨハネが亡くなると、

真理についての正確な知識を持つ者がいなくなり、正しい助言を行うことの出来る者もいなくなりました。

 

おそらく、

AD70年までの迫害により、以前のような大々的な証言などは行われていなかったと思われます

加えて、

弟子たちは各地に散らされ、また、鳴りを潜めたと考えられます。

 

迫害はローマ皇帝コンスタンチヌスの時代まで続きます。

 

使徒たちが亡くなった後、使徒たちを継承するユダヤ人グループ(会衆、エルサレム教会とも呼ばれている)と

ユダヤ人以外のグループ(パウロが設立した会衆、アンティオキア教会とも呼ばれている)が対立していたとも言われています。

 

その後、エルサレム教会の権威が失墜するにつれて他のグループが台頭して来ましたが、

4世紀ごろまでの分裂分派ははっきりしていません。

 

大きくは、

東方教会西方教会に分けられ、それらのグループ内の宗派がそれぞれが独立して存在し今日に至っています。

 

この西方教会の中に、カトリックやプロテスタントが含まれています。

キリスト教諸教派の一覧を参考にして下さい。

 

キリスト教もイエスの時代、ユダヤ教のナザレ派と言われていましたが、

ヤムニア会議でギリシャ語70人訳も聖書に加えられたことから、

ユダヤ教と分離され、これ以降キリスト教としての歴史が始まったとも言われています。

ヤムニア会議とは、聖書の正典を定義するユダヤ教の学者の集まりのことです。

 この会議で彼らはギリシャ語70人訳聖書を認めず、これを用いているキリスト教 

 の信者がユダヤ教から追放されたと言われています。)

これは、AD90年以降のことでした。

 

その後も迫害は続きましたが、

ローマの皇帝コンスタンティヌスが十字架の夢を見てから十字架による刑が廃止され、

その後、AD313年の「ミラノ勅令」よって、ローマ帝国内でキリスト教が公認されたとされています。

 

自らも死ぬ前にキリスト教に改宗したと言われています。

 

その後、キリスト教に十字架が取り入れられたのは4世紀以降と言われています。

 

+++++++++++++

聖書が今のように1冊に纏められたのは2世紀の初め頃とされています。

遅くとも4世紀ごろにはほぼ完成していましたが、

その後に発見された数々の写本により様々な聖書に、いわば改編あるいは修正がされるようになって現代に至っています。

 

中には、翻訳の仕方に異議を唱え、解釈も異なっていることも事実です。

 

ヘブライ語やアラム語そしてギリシャ語で書かれたものが、

ラテン語に翻訳され、

その後、英語を初め様々な言語に翻訳されてきました。

 

こうして分かるように、

完成するまでに、

長い年月が経っており、その記録も写本しか残っておらず、

しかも、翻訳によって「言語の持つ表現能力」に差があるので、

原書が残っていたとしても

これが「絶対正しい聖書」だと断言する翻訳聖書がないのも事実です。

 

場合によっては、

 翻訳により解釈が異なる原因ともなっていることも事実です。

 

しかし、

こうしたことを踏まえても、

聖書全体としては、

内容が一致しており、齟齬が全くないという点は何を表しているのでしょうか。

 

完成するまでにおよそ2000年掛かっているにも関わらず、

こうした一致は「奇跡」的なことです。

 

しかも、後代の筆者たちは律法やイザヤ書など以外は殆ど手にしてはいなかったのです。

おそらく、読むことが出来たのは会堂に保管してあるものだけだったと考えられます。

ですから、

手元に置いてじっくり読むことも出来なかったと思います。

 

後は、神殿に仕えているレビ人や大祭司などが持っていたと思われます。

 

つまり、バラバラに存在し、誰もが自由にいつでも読めるというものでもなかったのです。

 

筆者たちは、

過去の聖書と言われる巻き物を参照しながら、記述した訳ではないのです。

 

解釈が異なる原因の多くは、翻訳の時に用いた用語とその字義的な意味とその用い方に因る意味の違いなどによるものです。

 

例えば、

現代でも、同じ言葉、単語でも、用い方によっては意味が反対になったり微妙に違ったりする場合が多いものです。

 

ですから、

聖書筆者が用いた用語やその用い方が、

それを翻訳した人の用い方と「完全に一致」するということは困難、あるいは、

有り得ないということになります。

 

英語で書かれた文章を日本語に訳す時に、

熟練した翻訳者は「意訳」し、その文章の意味するところを「日本語の表現」でしているものです。

 

こうしてその本の伝えたい内容の意味するところを日本語で表現しているのです。

 

聖書の翻訳でも同じことが行われていると考えることは「自然」なことです。

 

+++++++++++++

例えば、

格言などは「直訳すると意味が通じません

ですから、当然「意訳」することになります。

 

聖書の翻訳も同様に行われているのです。

 

+++++++++++++

ですから、

言葉や単語よりも「文脈などから類推される内容」を重視すべきなのです。

 

以前、

意図的な考えを含めて翻訳した聖書以外、どの聖書を用いても良いと書きましたが、

こういう意味で書いています。

 

全く同等の言語は存在していないからです。

 

ですから、

翻訳は言語によって異なる場合もあるのです。

 

真理を正しく教えてくれる「使徒たち」がいない以上、

各々は、可能な限り文脈と参照聖句から「意味を理解」するよう努める必要があるのです。

 

例えば、カトリックやプロテスタントなどの信者が

十字架を用いることに関して、

 

杭であろうが十字架であろうが、

そうした物を「用いることが正しい行い」なのかということを考えれば分かることです。

 

十字架は「いわば、偶像礼拝の象徴」のようなものです。

 

聖書ではこうしたものを用いることを禁じています

 

神ですら、神の名前を用いることについても注意をするようにと言われていますし、

ご自分に似せたいかなるものも作っても、それに身をかがめてもならないと命じています。

 

であれば、

十字架を用いることを神もイエス・キリストも許されるはずはないではありませんか。

 

キリスト像やマリア像についても同様です。

 

これは道理です。

 

勿論、エホバの証人たちは十字架もキリスト像もマリア像も用いたり崇拝したりすることはありません。

 

+++++++++++++

伝道活動に関して、

聖書の音信、イエス・キリストについての「良いたより」を宣教することは、

弟子たちに対する命令です。

 

しかし、

その方法「イエス・キリストの意図」を逸脱しているならどうでしょうか

 

伝えることが目的で、

信じた人にバプテスマを施し、イエス・キリストが命じたことを守らせることも命令です。

 

しかし、

ものみの塔は、

いわゆる勧誘するという点では逸脱しています。

そのようにして弟子にするという点でも逸脱しています。

 

聞いて信じた人が信者になるのであって

永遠の命を享受するためには、

○○すべきであるなどと言われて信者になるものではないのです。

 

○○すべきであると言って、聞く人を誘導するなら、

その人に代わって行なわせていることであり、

その人の「自発的な信仰とは言えないではありませんか。

 

+++++++++++++

また、

寄付で多額の収入を得ていることも「問題」です。

イエスは、信者から寄付を集めて活動をしなさいとは命じていません

 

むしろ、

自分自身が自分の持ち物を売ってそれで貧しい人を援助しなさいと述べているのです。

 

また、

パウロは信者から何かを得よう(貰おう)などとは微塵も考えていませんでした。

 

今のものみの塔の組織で働く上位者たちは、

信者からの寄付で必要なものを手に入れたり生活しています。

 

こうしたことをイエスは命じていません。

むしろ、禁止しているのです。

 

+++++++++++++

ものみの塔は、

エホバの証人すべてに「伝道活動」を強いています。

それは、

いわゆる、野外奉仕時間を報告させるということで、

いわば、伝道活動を強要しているのです。

 

更には、

輸血拒否を、エホバの証人に強いています。

それは、

入院して手術をする時、輸血が必要と言われた時、

「仲間の信者が押し掛け、輸血拒否するよう圧力を掛ける」ことによってです。

 

どちらも、

個人が「自発的」に決定する事柄です。

 

ものみ塔はこれらを信者に「押し付け」ているのです。

 

そして、

従わない者を、

霊的に弱い者、不活発な者と見なしたり、

輸血した者を排斥しているのです。

 

こうして、

ものみの塔は信者に「強要」しているのです。

これは「強制」に近いものです。

 

誰も、

信仰において「強要」も「強制」もされないのです。

もし、されたら、もはやそれは信仰ではありません

 

そもそもに於いて、

バプテスマの討議と言われることの内容に問題があります。

この中に、

統治体に対する「誤った見解」があり、

また、

すべての点で「同意」しなければバプテスマを受けられないようにしていることは、

「背教」に相当します。

 

1世紀当時には、

こうしたことは「一切要求されません」でした。

 

いずれ機会があれば、

ものみの塔が要求している「バプテスマの討議」の内容、すべてを「暴露」します。

 

ものみの塔が「如何に間違っているか、背教しているか」が明確に分かります。

 

+++++++++++++

ですから、

ものみの塔の「表向きの、信仰に関する教義」については「正しく」ても

 

信者に「要求や強要していること」「その行い」も間違っているのです。

さらには、

解釈を曲解もしているのです。

 

イエスは、

弟子たちに書士やパリサイ人の言うことは行いなさい、しかし、彼らの行いに倣ってはならないと命じられました。

 

ですから、

ものみの塔の言うことを守り行っても、ものみの塔の行い(会衆のある人々だけではなく長老たち組織で指導の任に当たっている人々や、いわゆる統治体の人々などを含めて自分以外のすべてのエホバの証人)に倣ってはならないのです。

 

そして、

倣ってはならない人々」には、

エホバやイエス・キリストからの「ゲヘナの裁き」が待っているのです。

 

こうしたことから分かるように、

信仰も救いも「人や組織」の依るものではないことが分かります。

 

ですから、

ものみの塔から早く「脱出」し、自らの信仰を築き貫くことです。

 

そのような人を、

エホバもイエス・キリストも見捨てることは決してないのです。

 

あなたはこうしたことを理解出来ますか?

 

信仰に於いて「純粋」であることも大事ですが、

「思慮深い」ことはもっと重要なのです。

反面、行いは単純で明快なものなのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

輸血に関する問題は、

エホバの証人に限らず、少なからず昔からありました。

 

緊急時、出血が多量になると、

人体の3分の1程度の血液を失うと「死ぬ」と言われています。

そのため、

今でも、多くの場合緊急時には「輸血」が行われています。

 

また、

充分な血液を確保するために、

街角では「献血」を呼び掛けているのを見たことがあると思います。

 

社会では輸血は「常識」となっています。

 

輸血は「万能薬」のように思われています。

 

+++++++++++++

緊急時、輸血が必要な理由は、

1 血液の「」を補う必要がある

2 血液に含まれている「酸素」を補う必要がある

ためです。

 

他の場合は、輸血をする必要は「殆どありません」

 

要は、

」と「酸素」を供給できれば、

 輸血である必要はないのです。

 

ミドリ十字社から「フルオロカーボン」という「血液に代わる」ものが発売されたことがあります。

しかし、当時、

厚労省はこれを医薬品として認可しなかったと記憶しています。

その理由は分かりません。

 

これを用いる時には、

今の手術と同じ「同意書」が必要だったと記憶しています。

また、

これを用いて手術をしてくれる医師を探す必要もありました。

 

現在は「フルオロカーボンエマルジョン」と言われているものです。

 

いわゆる、人工血液、代替血液です。

 

緊急時には、この人工血液で充分であることを、

あなたは知っていましたか?

 

+++++++++++++

私は40年程前から知っていましたし、

現実にこれを用いた手術にも立ち会ったこと

ミドリ十字社に問い合わせ、提供を求めたこともあります。

 

当時は、まだ実験段階だったので「無償」での提供でした。

 

手術も術後も「何の問題も生じませんでした

 

 

「人 発 石 の論文を参考にして下さい

 

**************

では、聖書で、

神が血を避けるようにと言われたその真意は何処にあるのでしょうか?

 

1 ご自分のおきてを守るようにという点。

  神のおきては、すべて「人間に益すること」です。

  したがって、

  血を食べてはならないということに関しても同様です。

2 神はその理由を血は命を表しているからだと述べている点です。

  命が神聖なものであるのと同じように、血も神聖なものであると言う点です。

3 血の扱い方に関しては、

  地面の上に注ぎ出すか、

  神エホバへの焼燔の犠牲の時に、示されたように用いる、

  だけです。

 

血に関して聖書では次のように記されています。

その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。-創世記9:4

 

肉を食べる時には、地の上に水のように注ぎ出すべきである-申命記12:16

 命をその与え主である神に返すということです。

 

血は魂であり、魂を肉と共に食べてはならない-申命記12:23

 これは、血は魂、つまり、肉体の命を支えているということを示しています。

 

焼燔の捧げ物、その肉と血を、あなたの神エホバの祭壇上にささげるのである。

また、あなたの犠牲の血を、あなたの神エホバの祭壇に向けて注ぎ出す。そしてその肉は食べて良い。-申命記12:27

 

唯一の、血の用い方です。

ただし、

これを行うことが許されているのは、

 大祭司ただ一人です。

 

+++++++++++++

使徒たちに割礼の問題が持ち上がった時、

結論を述べたヤコブによる言及は、

「ですから,わたしの決定は,諸国民からに転じて来る人々を煩わさず,

ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。

モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」

ということです。

 

これは、

いわゆる異邦人がクリスチャンに改宗し始めたころの出来事だったということです。

 

そのころでも、まだ、モーセの律法が諸会堂で朗読されていて、

異邦人のクリスチャンたちもそれを聞いており、

その人たちも割礼をするか否か考えていたと思われます。

 

そこで、割礼を重要視するユダヤ人たちが、

 異邦人も割礼を受けるべきだと主張したことに端を発したのです。

 

結論として、

 ヤコブはもはやユダヤ人もクリスチャンとなった異邦人も割礼は必要ないと述べた 

 のです。

 

そして、

ヤコブが述べた4っつの事柄は、

既に律法の下には置かれてはいなかったので。

律法に基くことではなく、すべてのクリスチャンが守るべき事柄を述べたということです。

 

しかも、

これは、

人間の血ではなく「動物の血」に関して述べたことなのです。

 

聖書では、

人間の血に関して述べられているのは、

それは「死」や「命」などの「責任」に関して述べられているだけで、

人間の血を食べることなどに関しては、

何も述べられてはいないのです。

 

ヤコブがここで述べたのも「動物の血」に関してのことだったのです。

 

+++++++++++++

なぜこうしたことが議論になったのでしょうか?

 

それは、

イエスは血に関しては弟子たちに何も述べていなかったからです。

割礼に関しても、安息日の行いに関して引き合いとして述べているだけだったからです。

 

イエスは、

血に関しては、ぶどう酒を象徴的に契約の血と述べて、それを飲むようにと言われました。

これは、

 イエスの追随者として天の神の王国の一人となるという点と

「同じ試練」を受けることを受け入れるということを示しています。

文字通り「血を飲むことを示したもの」ではありません

 

これ以外、

イエスは血に関しては何も述べていないのです。

 

これは、

当然だったと思われます。

なぜなら、

当時はまだ律法下にあり、すべてのユダヤ人は「血を神聖なもの」と考え、

動物の血を地面に注ぎ出すことを「当然」と考えていたからです。

 

ですから、

イエスは弟子たちに話す必要はなかったのです。

 

+++++++++++++

これらを総合すると、

1 血を食べてはならないというのは神エホバの命令である。

2 血は命であるという点。

3 血は神に、つまり、命は神に返すという点。

  現在は、律法の下にありませんから「焼燔の犠牲」もありませんし、

  大祭司もいません。

  ですから、

  現代では、血を地面に注ぎ出すということ以外何も出来ないということです。

 

つまり、

ヤコブは、

 律法ではなく、

 神に対する原則の一部を述べたのです。

 

クリスチャンに対する原則のすべては「イエス・キリストによって語られています

 

+++++++++++++

では、

輸血は「血を食べる」ことと同じことでしょうか?

ものみの塔の教えでは「同じこと」として考え、信者であるエホバの証人にもそれを求めています。

つまり、輸血もしてはならないと。

 

そもそもに於いて、

血に関するものみの塔の「見解」は間違っているのです。

 

血を食べてはならないという事の真意は、

 動物の血に関してのことであるという点と

 血=命であるから「神聖なものとして扱うように

ということなのです。

 

+++++++++++++

一般的には

大量出血をした時、

輸血をしなければ「命」が危険になると考えているものです。

 

いわゆる、出血性ショック死に至るからです。

 

他には、

例えば、白血病のような患者では、

 血液の成分を体内に注入する目的で輸血をすることもあります。

 

血液の成分に言及し、

例えば、胎盤を通してそれが胎児の成長に関わっていることや

 母乳にも似たような成分があることを挙げて、

 輸血は禁じられてはいないと考える人もいます。

 

+++++++++++++

聖書では、

 血について言及しているヶ所はありますが、

 血の成分について言及したヶ所はありません

 

神の真意は「血そのものをどのように扱うべきか」というもので、

血の働きや「医学的な事柄」に言及したものではないということです。

 

血であれ血の成分であれ、

血を神の命令の通り、「神聖なもの」として扱うべきであるというものです。

 

これは、

血に限らず他のおきて、命令についても同じことなのです。

 

したがって、

血を避ける、血を食べないということは、

神に対して「深い敬意を抱く」ということなのです。

 

動物の血であれ、人間の血であれ「同じ」なのです。

 

ただし、

神は「人間の血」に対して「その代償を求める」と宣言しておられます。

誰であれ、

人を殺す者は、その代償として「命」を求められるのです。

 

また、

血を伴う肉を食べた者も「断たれなければならない」とも述べています。

つまり、

血を伴う肉を食べた者は「汚れた者」として扱われたということです。

 

この点で、「他の汚れ」とは異なり、

その者が清められ、罪を許されるということはありませんでした。

 

例えば、

女性の生理は「汚れ」とされ、

その女性が「汚れから清められる方法」が明確に示されています。

 

しかし、

血を食べて汚れた者となった者には「清められる=罪を許される」ということはないのです。

 

聖書を正しく理解しているなら、

動物の血と人間の血に関する「神の考え」が異なることを「理解」しているはずです。

 

繰り返しますが、

人間の血すなわち人間を殺した者に対する代償は「神による裁き=死」です。

動物の血に関しては「汚れ=罪」として扱われ、

律法に基いて「大祭司」が裁くということです。

 

血を食べるということ「以外の血に関する汚れ」には、

清められる=罪が許される」方法が明確に示されています。

 

+++++++++++++

いすれにしろ、

血は命そのものです。

 

これを否定する人はいません。

 

とすると、

命をどのように考えるかという問題に行き着きます。

 

一般に、人々は、

 命は何よりも大事なものと考えています。

 したがって、

 輸血により命を守ろうとする行為は当然のことのように思えます

 

聖書では「復活」も信仰の一つです。

エホバの証人の殆どは、この復活に期待を置いています。

そのため、聖書の教え、エホバの命令だとして「ものみの塔が言う」ことに従っています。

 

死に至るまで「信仰を貫く」ことは「当然」のことなのです。

 

一般の人々や医師に於いても、

彼らにはこうした「信仰も希望」もありませんから、

今の命を最重要に、最優先に考えるのも無理はありません

 

+++++++++++++

と言うことを考えれば、

ウクライナで、また、イスラエルで、

 戦争による「殺し合い」をしています。

 

毎日、多くの人が病気で、老衰で、事故で、あるいは事件で亡くなっています。

 

これは信仰とは無関係のことです。

 

人は誰でも「いつかは死ぬ」ことを知っています。

これから逃れられる人は「一人もいません」

 

そうであれば、

輸血をして長生きをしても、

輸血をしないで命を失っても、

「大差」ないのではないですか?

 

+++++++++++++

それほど「今の限りある命が重要」なのでしょうか?

少しでも長生きをすることがそれ程重要なのでしょうか

 

一般の人々は、

死ぬと天国に行くとか、生まれ変わるなどと思っていることが多いものです。

また、実際にそのように言っています。

 

そうした人たちは、

 根拠があって言っている訳でも信仰があって言っている訳でもありません

 

もし、

天国に行ったり、生まれ変わったりするのであれば、

死はむしろ、良いことではないでしょうか?

 

なのに、なぜ今の命に固執するのでしょうか

 

ですから、

一般の人々にとっては、

頭では「死」は良いもののはずですが、

気持ちでは「死にたくない」のです。

 

これは矛盾しています。

 

+++++++++++++

人々は、なぜ「死にたくない」と思うのでしょうか?

 

それは、

人が死ぬようになった原因のためです。

 

人は初めから死ぬようにはなっていなかったからなのです。

 

殆どの人はこのことを知りません。

 

もし、

人が死ぬのが当たり前なら

なぜ、自分が死んだ後の将来のことまで「考える」のでしょうか?

 

少なくとも、

宗教では死んだ後自分がどうなるかを教えています

(正しいかどうかは別として)

一般の人々も死後のことを考えています

 

死んだ後にさえ「何かを期待」しているからでしょう。

 

輪廻転生や天国などについて話す時、

人は「死んでも生きている」つまり「死なない」ということを考えているのです。

 

つまり、

命に関しての「永遠」について考えているのです。

 

宗教で信仰を持っている人だけが「永遠の命」を考えている訳ではないのです。

 

+++++++++++++

こうしたことを考慮しても、

命を失うからと言って輸血をすることの「意義」は

単に「延命」ということだけなのです。

 

輸血をしてもしなくても「人はいつかは死ぬ」のです。

 

この事実は変わりません。

早いか遅いかだけのことです。

 

命を軽視している訳ではありませんが、

少しでも長生きをしたいという「気持ち」は理解出来ますが、

何時かは死ぬことを考えれば

事故や手術などで「敢えて輸血をする意義」はないのではありませんか?

 

代用血液、人工血液でも十分なのです】← 重要なことです。

                    (追記しました。

                     最後の部分でも追記があります)

 

血は神聖なものとして扱うべきなのです。

 

+++++++++++++

また、

信仰は個人のことですから、

他人が、例え信仰の仲間だとしても、

 それを誰かに強要することは出来ないのです。

 

ですから、

病気や不慮の事故で、

医者が輸血が必要だと言っても、

それを決めるのはその人自身なのです。

 

この点、

ものみの塔の考え、エホバの証人の考えと振る舞いは「間違っている」のです。

 

聖書で血を食べないようにと記されていたとしても、

それを守って、輸血を拒否することも、

それは個人の裁量の範疇なのです。

(実際には、その真意は間違っているのですが)

 

その責任は自分が負うのです。

 

あなたは「他人の命」にかかわって「その責任」を負うことが出来ますか?

誰も出来ないのです。

 

今世間で問題になっているのは、

自分の信仰を全うすることではなく

ものみの塔やエホバの証人たちが

 自分たちの考えを「自分以外」の人に「押し付けている点なのです。

 

輸血を拒否するとか、命を失うという点でなく、

押し付け、強要が問題なのです。

 

その人の決定そのものは問題となってはいないのです。

 

宗教の教義の一つとして「教える」こと自体は「問題」ないのですが、

その教えを守るかどうかという点に関しては、

信教の自由という権利があるのです。

 

+++++++++++++

エホバの証人でも、

今の命が惜しいと思えば輸血する人もいる、あるいは、いたかも知れません

この場合、世間は「全く問題」にしませんからニュースにもなりません。

 

死ぬかもしれないのに「輸血を拒否」したということをニュースにし、

その宗教に対して「疑問」を「世間」に投げかけているのは、

メディアなのです。

 

こういう宗教は「如何なものか」とか「間違っている」とか「命を軽視している」とか。

 

輸血拒否問題を「煽っている」のは、

メディアなのです。

 

戦争も戦争の悲惨さも政治に対する世論も様々な社会の出来事も科学技術も

すべてメディアが「煽って」いるのです。

 

こうして、

世間の、いわば、常識的な考えを国民に植え付け、いわば強要しているのです。

放送関係者が「そう思わなくても」そうなのです。

 

ニュースの事実はその通りとしても、

それによって観る人が抱く「考え、感情、思い」などを「操作」しているのはメディアなのです。

 

その常識が正しいとは限らないのです。

正しいと思い込んでいるだけなのです。

 

以前、常識とされていたことが、

後に常識ではなくなったことは「沢山あります」

 

人間は言葉に反応する生き物ですから、

何を聞き何を見るかが大きな影響を与えます。

 

メディアは「提供するもの」で、

いわば世間を動かしてもいるのです。

 

メディアの責任は「重大なもの」です。

 

あなたはメディアが提供するものを「どのように見ていますか?」

 

考えもなしに「受け入れてはならない」のです。

 

+++++++++++++

誰を、また、何を信じるかは「人間が生きる上では最重要な事柄」です。

 

ですから、

人に「嘘をついてはいけない」と教えるのです。

 

しかし、

今は、

フェイクが横行しており、

加えて、

ネットで「自分の思い、考え」などを拡散させることで、

いわば「同じ類の人」が寄せ集まり、

 正しいことや常識や道徳から「逸脱」する人が増加しています。

 

これにメディアが加わっているのです。

 

事実を見極め、思慮深く「真理」を識別出来る人は「殆ど」いません。

 

そうした「下地」を持ってさえいないのです。

 

勿論、世の中には「良いこと」も沢山あります。

 

それが「悪を覆い隠すカモフラージュ」になっているのです。

 

惑わされてはなりません

 

思慮深くあるよう努めて下さい。

 

真理の目を養って下さい。

 

最後に、

この内容は「ものみの塔やエホバの証人」を擁護するものではありません

彼らの考えや信じている事柄に「間違い」を指摘している点にも留意して下さい。

 

+++++++++++++

追記

 

エホバの証人は輸血を禁じられています。

 

この点に関する「矛盾」の一つを挙げたいと思います。

 

上記に述べたように「輸血」の意義は失われていることは明白です。

人工血液でも十分だからです。

 

また、

エホバの証人の「血を避ける」という点に於いて「矛盾」している点の一つに、

血液検査というものがあります。

 

もし、血を避けるという「おきて」に従うのであれば、

血液検査も「同様」のはずです。

 

しかし、

エホバの証人の「誰一人として、これを拒否していません

 

これは「矛盾」しています。

 

更には、

例えば、歯の治療の時に、時として「出血」が伴います。

それを飲み込むことは「当然、わずかでも生じます」

 

もし、厳格に、輸血のように守るのであれば

その人は「死に値」することになります。

 

現実に歯の治療で「血を飲まない人」は一人もいません

 

歯の治療をし出血により「血を飲んでしまった」人は、

エホバの証人を含めて、すべての人がそうしているのです。

 

血の量の問題ではありません。

 

血を避けるという点を述べています。

 

また、

動物の肉を食べる時に、

完全に血抜きが出来ているかと言えば、

おそらくは「不完全」です。

 

ですから、

肉を食べる人は「血も食べている」ことになるのです。

 

エホバの証人でも肉は食べますから、

彼らの論議によれば「おきてに違反している」ことは明白です。

 

エホバの証人の言うこととやることが矛盾している「一面」です。

 

聖書では、

こうしたことを懸念して、

パウロは、

市場で売っているものは「何でも食べて良い」と言ったのです。

考えずに、知らないで食べることは「罪にはならない」と。

しかし、

知ったなら「おきて」の通りにすべきであるとも言っているのです。

-コリント(一)10:25-30 

 

世間で話題になるのは「輸血拒否」だけです。

現代に於いて、ものみの塔は「輸血」への対処の仕方が「愚か」なだけなのです。

 

単に「頑なさ」「頑固さ」だけが前面に「曝け出しているだけ」なのです。

 

「賢く振る舞う」点では「愚かな者」なのです。

 

これは、

神とイエス・キリストを「否定する」ということと、

おきてに違反するということとは、

次元が異なるのです。

 

エホバの証人は、

輸血を拒否することが「信仰を守ること、忠実なこと」と考えて、

これに違反することがお二人を「否定すること」だと考えているということです。

 

表面的には「同じことです」

しかし、

人間、おきてに違反をしない人、罪を犯さない人がいるでしょうか

 

もし、これらを同じことと見なすなら

人は完全でなければならず、そのような人は一人もいないことから、

誰も救われないことになります。

 

使徒ペテロは、

イエス・キリストを三度も否定しました。

しかし、

ペテロは許されたのです。

ペテロは、

イエス・キリストを一時的に否定しましたが、

信仰を失った訳ではないのです。

-マタイ26:69-75

 

エホバの証人の言うこととやることは「矛盾」しているのです。

 

その原因は、

統治体にあるのです。

 

統治体が「聖書を正しく理解していない証拠」でもあります。

 

彼らは、信者を「思い通りに従わせれば、それで満足」なのです。

 

ただ、それだけなのです。

 

統治体は、

イエスが言われた盲目の案内人なのです。

-マタイ15:14

 

知恵を求める人のためのブログです。

AIによる学習・分析および生成能力には驚くべきものがあります。

人間が為し得ないことを容易に行うことが出来るまでになっています。

 

しかも、速く正確に。

 

物流に於ける仕分けなどは完全に無人化が進んでいます。

 

更には、

病気の診断能力も人間以上であり、

手術に於いても微細な病変も見逃さない程です。

 

こうして見るとAIは良いことづくめですが。

 

今問題になっているのは、

生成AIによる「文章の作成」と「YouTube」などによるフェイクです。

 

**************

生成AIによる「自動生成」技術の進歩により、

本当に人間が作ったものかどうかの判別が出来なくなってきました

 

これは、フェイクに直結し、また、他の引用も多数行われる場合もあることを示しています。

 

今までは、文章は「人間だけが行える」「その人個人の個性」を表すものでした。

 

ですから、

小説などで「○○賞」などというものが存在しています。

 

しかし、

もし、生成AIを用いて小説を書いて、それで○○賞を受賞したなんてことがあったら「笑う」だけで済まされるでしょうか。

 

生成AIで作成した文章や絵や動画でも、編集するのは「人間」です。

そこに「人間の意図」が含まれることになりますが、

他人がそれを判別することは、おそらく不可能でしょう。

 

したがって、

私は生成AIを用いる気持ちはないのですが、

他の人が私のブログを見てどのように思うかは予想もつきません。

そのため、

こうして毎日のようにブログを書く意味が失われて行くと感じています。

 

もしかして、

ブログを閉鎖するのも、そう遠くはないと危惧しています。

 

世の中「信じられるものが少なくなって来た」ということの裏返しでもあります。

 

信じられるものは、

対面で話す時と実際に見ている風景と自分の活動と実際に手で触っているものだけになるかもしれません。

 

+++++++++++++

生成AIを活用する利点は、

人間が良いアイデアを出せない時に、

生成AI素案を作ってくれ、人間はそれを読んで、それを修正することで、

さらに人間らしい良いものを作るという点です。

 

こうしてアイデアを生成AIに出してもらい、

人間はそれを再構築するだけで、

次々と新しいものを作ることが可能になるのです。

 

一見すると、

こうしたことは「良いこと」のように思えます

 

しかし、こうしたことは、

人間としての「正常な範囲を逸脱」していることなのです。

 

そうすると何が起きるかと言えば、

人間の手に負えないことが次々と起こり

もはやどうにもならななくなってしまうことが起きるのです。

 

つまり、

人間の思考を超越した考えが登場し、

余りにも複雑で理解出来ない、あるいは、

文章の裏に隠されている事柄を見抜くことが出来ない状態に陥る可能性があります。

 

例えば、

長文の中の、1文か1語に「隠された意図」を巧みに入れることさえ可能となるのです。

 

人間がこれを行うには「かなり考えなければ出来ない」かも知れません。

しかし、

生成AIはこれを「簡単に行う」ことが出来るのです。

 

こうして、

人類は、人間が手に負えないことに「足を踏み入れ」

人類は「破滅の方向へと突き進む」ことになるのです。

 

もし、人間だけだと素案はおろかアイデアも出ないかも知れないのです。

つまり、

何かを産み出すのに苦悩と時間が掛かるのです。

 

昔の作家は「アイデア」が出なくて題材やストーリーなどに苦労したものです。

 

しかし、

この方が人間としては「自然」なのです。← 重要なことです。

そのようにして「能力」に差が出ることで、

いわば、公平な競争が成り立つのです。

 

生成AIを用いると、

文章能力のない人でも、

小説や論文さえ作ることが出来るのです。

 

また、

プログラムすら書くことが出来ます。

 

こうなると、

雨後のタケノコのように、

いわば乱雑し、

本当に価値のあるものが「埋もれてしまう」ということも有り得ます。

 

生成AIが更に進歩すると、

これを利用して作ったものが「○○賞」を受賞するということになってしまうかも知れません。

 

+++++++++++++

人間がAIのような能力を持っていたら、

地球はとっくに滅んでいたはずです。

 

この良い例が自然破壊です。

自然のままであれば、

いわゆる食物連鎖が機能し腐敗したものも還元してくれます。

しかし、

人間はその「一部」を破壊することで、

全体を破壊しているのです。

 

例えば、

森林の伐採のし過ぎ、プラスチックごみ、オゾン、煤煙、化学物質による水質汚染、

食物や家畜などの遺伝子操作、

極端な大量生産による供給・受給異常による飢餓、

 

これらに加え、

毒ガスの製造、破壊力の強い爆弾・ミサイル、

あるいは、

AIを用いた自動兵器・ミクロ兵器、

 

こうしたことすべては、

科学が僅か100年から150年の間に成し遂げたことなのです。

 

もしかすると、

この先、AIによる「毒ガス」や「兵器」が誕生するかも知れません。

 

それは、

人間が思いもつかないものかも知れません。

 

そして、

人間がそれを用いて

自らの首を絞めるのです。

 

こうしたことは、

人類を「破滅」に導く以外の何物でもありません。

 

このまま突き進めば、

人類は、この先「恐怖の時代」に突入することになってしまうのです。

 

そうしたことを懸念して、

人間がルールを作っても「守られるという保証」はないのです。

 

現実に、数日前国連で,

AIを用いた自律型致死兵器システム「LAWS」について、世界の安全保障に与える影響を懸念し、対応が急がれるとする決議を賛成多数で採択されました。

 

日本やアメリカなど152か国の賛成しましたが、

ロシアやインドなど4か国が反対し
中国や北朝鮮、イスラエルなど11か国が棄権しました。

 

アメリカが賛成したのは、

ロシアなどにこうした兵器を使わせないためであり、

自らは既に製造しているのです。

 

彼らは、これを守るつもりはないのです。

 

後は、それを実際の戦場で用いるだけになっているからです。

 

スターウォーズの戦いのようなことが「現実」になりつつあるのです。

 

ドローンなどによる無人機攻撃は既に行われています。

 

国連は各国間に民主主義を用いていますが、

それを守らせる「力」がないのです。

 

単なる議論の場でしかないのです。

 

核兵器が良い例です。

誰もが知っているように、

人類は核兵器を「脅しの道具」に用いています。

 

いくら反対しても、

核兵器を手放そうとはしないのです。

 

原子力発電もそうです。

 

+++++++++++++

民主主義は分裂や対立を産みだすだけで、

物事の真の解決には至らないのです。

 

現実に国会で法律が沢山作られます。

多数決で法案が可決されます)

それも、毎年毎年作られているのです。

 

その結果はどうでしょうか。

 

社会や国全体が「良くなりましたか?」

 

いくら法律を作っても「世の中は良くならない」ではないですか。

 

民主主義国家よりも、

独裁国家の方が「多くを成し遂げる」ことが出来ることは明らかです。

 

その代わり人々の自由が奪われますが。

 

参考

 神の支配、神の王国の支配は、

 完全な「独裁」です。

 異論や反対は「容認」されません。

 

 しかし、

 神の支配は「完璧で過ちは一切ない」のです。

 

 それが「人間にとって平和で安全に暮らすことが出来る唯一の手段」なのです。

 

 その中で、人間は自由と幸福を享受出来るのです。

 

 例えば、

 争いはなくなり病気も犯罪もなく、

 自由に生きられるのです。

 しかも、

 健康で1000年近くも生きられるのです。

 (これでも、一時的なものです)

 これ程幸せなことがあるでしょうか。

 

 そのための「条件」はただ一つです。

 それは、

 神とイエス・キリストのおきてを守ることです。

 

 ただ、これだけなのです。

 

 人間の場合は、

 法律を作っても「完全に守らせる」ことは不可能です。

 

 また、法律を破った犯罪者を「完全に取り締まることも、裁くことも」出来ま 

 せん。

 

 裁判によっては、「犯罪者」の殆どが再び世の中で暮らし、中には、再び犯罪を犯

 す人も多いのです。

 

 これでは、何時まで経っても安全で平和な世の中は来ません

 

 今の世を見れば明白です。

 

**************

人間が「正常範囲を逸脱」していることは、様々な方面に見受けられます。

その結果、地球環境破壊に至っているのです。

 

加えて、

人類の命をさえ脅かしているのです。

 

実に愚かなことだと思いませんか。

 

例えば、

核兵器なんて、いったい何の役に立つのでしょうか?

単なる脅しの道具でしかないのです。

 

実際に用いたら、

自らも「死ぬ」ことを知っているからです。

 

原子力発電はいわば無限のエネルギーを産出します。

 

しかし、

そんなに電気を使って何をしているのでしょうか。

 

今や文明生活に電気は不可欠です。

しかし、

その大半は、工場と娯楽とエアコンと照明などに使われているのです。

こうしたものの中には「無駄なもの」は沢山あります。

更に、

工場では「必要以上」のものを作り、

その廃棄に更にお金と労力が掛かり、かつ、自然を破壊しているのです。

食べ物ですら、

ある人々は満足に食べられないのに、

日本では毎日大量の食べ物が廃棄されているのです。

食べられるのに廃棄しているのです。

 

そうまでして、人間は一体何をしたいのでしょうか

欲望を遂げるためですか?

満足するためですか?

楽しむためですか?

 

大酒を毎日飲むと、直ぐに病気になり廃人になってしまいます。

人類はこれと同じことをしているのです。

 

そうです、

人類は「大酒飲み」なのです。

 

**************

戦争をして、どこかの領土を自分のものにして一体何の価値があるのでしょうか?

そうしなければ、自国の安全が守られないとでも言うのでしょうか?

 

戦争なんて「単なる自己満足」に過ぎないのです。

自他ともに大勢の犠牲者を出してまで手に入れるような価値のあるものではありません。

 

民族の「プライド」を「旗印」にしていますが、

単なる争いの元でしかない「屁のような」ものです。

 

人間だれしも不満があります。

その不満を我慢するからこそ平和な状態が維持出来るのです。

 

自分の我儘を通して、その結果が「良いこと」になることはないのです。

 

AIを用いる理由

も同じようなものでしょう。

 

何のためにAIを活用するのでしょうか

 

それは、良いことばかりではありません。

欲望のために用いることは目に見えています。

自己満足のためでもあります。

 

生成AIを活用してまで、目的を達成したいのです。

しかし、そうする人は「能力がない」からです。

 

しかし、

能力のある人たちは、

場合の依っては、そうした人々に「負ける」こともあるのです。

 

すると、

能力のある人まで生成AIを活用するようになるでしょう。

 

いわば、玉石混沌となるのです。

 

しかし、

それで一体何をしようと言うのでしょうか

 

例え、世界を手に入れたとしても

人間としての問題は何一つ解決出来ないのです。

 

苦しい人生を続けながら年老いて死んで行くだけです。

人々は「楽しみ」や「富」や「財産」や「地位」を求めれば求めるほど、

社会で平和に仲良くやっていくことが出来なくなるのです。

 

今の世で、不老不死は実現しません。

 

もし、実現したとしても、

残されている道は「人類の破滅」だけです。

 

人類の世がこれ以上続けば続くほど、最後は「酷い、苦しい、残酷」なものになるのです。

 

人類は、

自分が何をしているかさえ分かっていないのです。

 

実に愚かなことです

 

あなたはどう思いますか?

 

+++++++++++++

少し前のブログで述べましたが、

コンピュータによる世界支配が実現するかも知れません。

 

AIの学習機能が世界中のコンピュータを乗っ取る可能性もあるかも知れません。

AI同士が連携するということもあるかも知れません。

 

こうしたことは、

電気やAIと同じくらい重要なもの、

電波」によって可能となっています。

あらゆるものは、この電磁波によって結合しているのです。

 

スマホ、テレビ、GPS、自動運転、無人機、電子レンジ、遠隔監視カメラ、

インターネット、

衛星、通信、

など電波無くして何も出来ない位です。

 

もし、

AIが重要な設備をコントロールしているコンピュータに侵入し、

電気と電磁波を支配すれば「地球を支配」することは可能となります。

 

人間は手も足も出なくなるのです。

 

もはや、空想の段階ではなくなりつつあるのです。

 

あなたはどう思いますか?

 

知恵を求める人のためのブログです。

人は相手に、本当の「愛」を抱いていれば、

 無償で「相手の思いを汲み取り、また、して欲しいと思うこと」をするものです。

 

外国人については分かりませんが

おそらく、

現代の日本人男性の殆どは、

肉体の欲求に負けて「ただ性的関係」を求めて女性を見たり近づいているとさえ思うような世の中になっています。

 

一方女性は、

性的関係も嫌ではないのですが「十分信頼し気が許せる」ようになるまでは「したくない」のです。

つまり、

その人の子供を産みたいと思うまではしたくはないのです。

 

それまでは、

楽しい関係、親しい関係を望んでいるのです。

 

**************

勿論、スキンシップを求めることもありますが、

 この点男性と女性では「異なる」のです。

 

もし、女性がスキンシップを求めると、

男性は「セックスと直結して考える」かも知れません

 

女性が求めているのは、

スキンシップであって、必ずしも「セックス」ではないのです。

 

こうした点で「思い違い」をしている男性は多いものです。

 

+++++++++++++

あるいは、

経済的に安定している人を求めているかも知れません。

生活のためです。

つまり、自分を養ってくれる人を、それも、自分の思うことをしてくれる男性を求めている場合もあります。

 

男性は「家族のために働くことを当然」と考える傾向にありますから、

男女関係に於いて、男性は仕事に関しては、自分ではあまり意識をしないものです。

 

+++++++++++++

今の世の中の男女関係を見ていると、

必ずしも「愛情」を抱いているようには見えない場合も多いものです。

勿論、

 直接聞いた訳ではないので、あくまでも「外見」やニュースによる印象ですが。

 

愛情表現には、

基本的には4種類あると言われています。

 

異性間の愛(エロス)

家族の愛(ストルゲー)

無私の愛(アガペー)

友情の愛(フィリア)

 

相手に求める愛もあれば、

相手に与える愛もあります。

 

++++++

また、何かをしてくれた人に対する「気持ち」「感謝」を愛情と考えている人もいます。

こうした人は、相手が自分の望むことをしてくれなくなると、逆に「憎む」ものです。

こうした関係を「愛」と言えるかどうかは疑問です。

 

むしろ、

商売人か売春婦のようにさえ思えます。

 

銀座のホステスと何ら変わりはないのです。

 

++++++

個人的には、

無私の愛以外は、皆利害で結びついた関係と見なしています。

家族に於いてもです。

 

無私の愛は、相手に何かを求めることはしません。

相手が欲していることに応じるからです。

 

ただし、

これは、いわば、奴隷的になり易く悪い事柄に関しても言えるものです。

 

日本人は外国人に比べて、

この「無私の愛」が強いように思います。

 

外国人は、常に利害関係で結ばれているからです。

常にそういう見方、考え方をする「習慣」「遺伝子」を持っているからです。

これは遊牧民族的な「遺伝子」です。

そうしないと「生きて行けない」からです。

 

ああ、無情」の小説の主人公のような関係は、

ジャン・バルジャンとコゼットの義理の親子関係は、

ヨーロッパでは珍しいのです。

 

養子を取るにはそれなりの理由があるのです。

 

ジャン・バルジャンのコゼットに対する愛情は、

利他的で無私の愛そのものです。

 

+++++++++++++

もっとも、これは物語ですが

この物語の本質は「体制批判」です。

フランスの市民革命の、いわば、時代の転換期を表したものなのです。

 

アメリカは多民族国家ですから、

多種多様です。

いろんな人がいる珍しい国家です。

 

中国人は、

知恵と利害で結ばれた関係です。

 

ロシアもソ連で分かるように多民族国家でした。

必ずしもロシア人だけではないのです。

しかし、

ロシアは権力で国民を抑えつけている国家ですから、

ある意味、常に「恐れている」恐怖の国家です。

 

北朝鮮も同じです。

金正恩は、

何とか世界に追い着きたいと思っている「劣等感の塊」のような人です。

 

韓国人は、

中国に近いですが、「人に対する恨み」と「愛情」の格差の激しい国民です。

政権は民主国家らしく振る舞おうとしていますが、

利害中心の国家でもあります。

 

こうした様々な環境で、

人に対する「愛、愛情」を示すことは「容易」ではありません。

 

脳天気に「自分の思い」に従ってはならないのです。

 

傷付いたり被害に遭うことも少なくないからです。

 

ロマンス詐欺なるものが存在していることさえあります。

 

+++++++++++++

男性女性それぞれに「思惑」があるものです。

 

この「思惑」のない人は、

人に対して「無関心」なのです。

 

ですから、

男女関係や人間関係に「無関心」な人を見たなら、

異性に対しても「思惑」のない人と見なしても「良い」のです。

 

こうした人は、

出世やお金を儲けることや財産を築くことなどしか「関心」がないのかも知れません。

 

あるいは、

いわゆる学者のように、

新しい発見や新しい理論や未解決問題の証明などを追求している人かも知れません。

 

こういう人も世の中には居るものです。

 

宗教を持っているいないに関わらず、

人間の傾向としてこうしたことはあることです。

 

人間の傾向の中には道徳的な悪含まれています。

 

「人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かう」

(参考-創世記6:5)

と言っても、

必ずしも、犯罪だけに「目が向いている」ということではありませんので、

注意力、識別力、思考力などが必要な事柄です。

 

+++++++++++++

もし、男性だけの社会だと、

武力、知恵、財産、能力、安全、安定、健康、長寿、出世などの立場などが主な関心となるでしょう。

 

この方が「人間らしく生きている」と言えると思います。

 

性的欲求も、女性がいなければ「生じない」のです。

 

一方、

女性だけの社会だと、

生きるためには、ほぼ男性と同じことに関心を持つでしょう。

子供を産む、持ちたいという思いは、

男性がいないと「生じない」のです。

 

社会を複雑にしている根本原因は、

男女が交わり子をもうけて育てるという「生き方」が生活の中心にあるからです。

 

こうした男女の交わりのない社会があることを「想像」出来るでしょうか?

 

中には居るかも知れません。

 

その人は独身を貫くかもしれません。

 

他の動物と違って

人間は、

必ずしも、子孫を残さなければならないという訳ではありません。

 

残したいと思う人が残せば、それで、十分なのです。

 

独身のまま死んでも、殆ど問題はありません

 

ですから、

世の常識として、

結婚して子供を設ける必要がある、

などと考えなくても良いのです。

 

生涯独身の方が「責任も軽く」「気儘」な人生を送れることが多いのです。

 

個人的には、

独身が良いです。

 

ただ、

お互い助け合う存在、補い合う存在としては「必要な存在」です。

 

+++++++++++++

昔から、

一人口は食べられないが二人口は食べられる」ということが言われています。

 

これは、互いに助け合うことで「生活がし易くなる」ことを言ったものです。

男は仕事に集中し稼ぎ、女は家事をするということで、

いわば、効率的な生活、役割分担を述べたものです。

 

こうした家族は多いものです。

 

それでも、

一人で生活が出来るのであれば独身の方が良いのです。

 

既に結婚して長い年月を夫婦で暮らして来た人も少なくないですが、

それでも、

 独身に戻りたいと思う人も多いのではないでしょうか

 

特に女性はそう思うようです。

 

世に言う「熟年離婚」です。

最近は余り聞かなくなりましたが。

 

コロナのせいでしょうか?

 

あなたはどう思いますか?