+++++++++++++++++++++++++
内容と解説
3章 蛇による誘惑と人の罪の始まり。
エバは蛇の唆しに騙されて善悪の知識の木の実を食べ、その後アダムがいる時に、アダムにもそれを与えたので、ふたりとも「禁じられた木の実」を食べてしまった。
それにより、自分が裸であることを知るようになった。
(この時、ふたりはイチジクの葉で腰を覆ったと記されている。
つまり、ふたりは局部を隠したということである。
局部を見られることを恥ずかしいと思うことは、今でも変わっていない)
(人が他の動物と異なり「廉恥心」を持つようになった。
人が廉恥心を持つようになるのは7-10才ごろであり、性欲もその頃から生じる。
女の初潮が始まるのは平均して12-13才ごろであると言われている。
こうしたことは男女が適合していることも示している)
(廉恥心は本性より後になってから生じることも事実と合致している)
(神は、初めから、ふたりが裸であるということは告げていない。
それが恥ずかしいことであるとも言ってはいない。
しかし、
神は食べたら死ぬということ以外、何らかの兆候が現れるようにもされていたということであり、そのことまでふたりに告げてはいない。
この出来事は、神に関する事柄は、良いことでも悪いことでも、そうしたことの結果が何らかの形で必ず現れるように、予め備えておられるということも示している。
したがって、
人は善いことでも悪いことでも、神に隠すことが出来ないことをも示している)
神に罪を問われた時、二人は言い訳をした。
(人は罪に問われると、言い訳をすることを示している)
(更に、この出来事は、
人は誘惑によって惑わされることを示している。
誘惑によって「欲望」が芽生えることも示している。
例え、誘惑によって惑わされても、罪であり罰も与えられることを示している)
善悪の知識の木の実を食べたことに対する、
神による裁きは、
1 お前と女、各々その胤という二つの間に敵対する関係を置かれた
2 女の胤がお前のかかとを砕き、お前は女の胤によって頭を砕かれる
3 女(人間の)に対する産みの苦しみとふたりの死の宣告
4 額に汗して(苦労して)食物を手に入れることになった
5 善悪に関して、人が自ら責任を負う者となった
(善悪について知るようになるということはその責任を負うということである)
【蛇である悪魔】となったみ使いと人が神に対して罪を犯したのに、敵対するのは蛇とその胤対女とその胤と示されている。
神と文字通り戦える者は一人もいないこと明白である。
したがって、ここで、考えられる構図は、
1 神
2 嘘をついた蛇(ケルブ、悪魔、サタン)
3 神に忠実なみ使いたちと悪魔に追随したみ使いたち
4 騙された男女
である。
この構図は、蛇によって天が二分されたことを示している。
また、
悪魔や悪霊たちでさえ、神を恐れて「敬意を払い従っていた」ことは事実である。
ただ、知能があり責任を問われる存在であることは「認識」していなかったと思われる。
神はみ使いたちを「ロボット」のような存在として創造されたのではないことは明らかである。
神は、自由な振る舞いを許したのではなく、人間がそうであるように、ある程度自分で考えて行動する「許容範囲」を設けられたということである。
それには、当然責任が加わるのである。
文脈では、誘惑した者(蛇、後に悪魔またサタンと呼ばれる者)と誘惑され騙された者(アダムとエバ)との戦いという構図に見えるが、み使いと人間の男女の戦いとは考えにくい。
なぜなら、
み使いと人間が直接【自由に】相見えるということは大洪水以後はないからである。
また、悪魔や悪霊たちは死なないのに対して、人間の寿命は短い上に、知能に於いても力に於いてもみ使いたちの方が上なので、戦いにはならないと考えられるからである。
女の胤の主要な方がイエス・キリストであると分かっている。(ギリシャ語聖書=新約聖書に明確に記されている)
一人のみ使いが神と真逆のことを言うことで、神にいわば「神は間違っている」と言ったことになる。
(後に、地上に来たイエスは、この者つまり悪魔のことを「偽り者」であると言っている)
(この一人のみ使いは、神の言うことすることに「異論」を唱えたのである。)
この時、おそらく、天における他の大勢のみ使いたちは、どちらが正しいのか分からなかったと思われる。
そのため、天は二つのグループに分かれたと考えられる。
一方が蛇の考えを支持するグループと、他方は神の考えを支持するグループである。
この蛇がお前で神の考えを支持するみ使いたちが女である。
神は、この二つのグループの間に敵意を置かれたのである。
構図としては、神を除いて、
神を支持するみ使いのグループと
悪魔と悪魔を支持するみ使いのグループおよび
人間のグループ(人間の間にも、神と悪魔のどちらかのグループの
対立する二つのグループである。)
(地上に来たイエスは神の独り子であり、すべてのものは独り子を通して存在するようになったと記されているので、独り子は天では、神のような存在とみなすことも出来る。-ヨハネ1:1
と考えると、お前は蛇、悪魔であり、女は天のエホバに忠実なみ使いたち(上なるエルサレム)であり、
お前の胤は悪魔の支配下にある人間と悪霊たちであり、
女の胤はアブラハムの胤とも言われ、天の神を支持する側(天のみ使いたちの中)から来た(生まれた)イエス・キリストと、神の養子とされたいわゆる「地から買い取られた」神の王国の14万4000人【復活して天でみ使いたちのようになる】と神を支持する人間と考えられる)。
(聖書の中では、
神エホバの特別な所有物であるエルサレムやイスラエルを妻や女に例えられている。
この世の宗教も娼婦に例えられている。
パウロも上なるエルサレムを自分たちの母と呼んでいる。
イエスも、上なるエルサレムの中から地上に来られたことを示している。
つまり、
神は夫もしくは男であり、神に従う者や崇拝する者は妻や女に例えられる。
女は男の助け手であり、頭は男である。
女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は神である。コリ(一)11:3
とも示されている。
したがって、
創世記3:15の女は、神エホバの仕えるみ使いたちでなる天の組織と考えられる。
それゆえ、創世記3:15のお前と女とは、
お前は蛇即ち悪魔、サタン、龍であり、
女は神を支持する(従う)み使いたちでなる組織または集団を示しているのである。
つまり、
神エホバに忠実に使えるみ使いたちと
悪魔との間に「敵意」が、
神エホバによって定められたのである。
この「敵意」は、戦いというよりは、どちらが正しいのかという「論争」のようなものである。
そして、これは、天のみ使いたちの間だけではなく、地上の人間をも巻き込んだものだということである。
神を除く、天に於けるみ使いたちだけではなく、地上の人間たちの間にも敵対する二つのグループが存在するのである。
更に、お前には胤が、女にも胤が存在するようになることも定められた。
お前の胤とは、悪魔の考えに同意し、または、それに従ったみ使いたちと、ノアの大洪水の前に、あるべき居所、つまり、神エホバによって与えられた場所と任務を離れたみ使いたちのことであり、
女の胤とは、神エホバに仕える忠実なみ使いたちの中から、新たな使命を与えられたみ使い(イエス)と後に地から買い取られ天に霊者として復活させられる14万4000人からなる、神の王国と呼ばれるようになるグループのことである。)
(更に、クリスチャンの闘いは、血肉に対するものではなく、もろもろの政府と権威、また、この闇の世の支配者たちと天の場所に(いる)邪悪な霊の勢力に対するものだとパウロは述べている。
これから分かるように、
お前の胤とは、もろもろの政府と権威とこの闇の世の支配者たちと天の場所にいる邪悪な霊の勢力のことである。(邪悪な霊の勢力とは、悪魔の使いたちのことである)
血肉に対するものではないと述べているように、霊的な闘い、精神的な闘い、信仰の闘い、心や思いや考えとの闘いのことである。
が、現実には、彼らは肉体に対する攻撃を通して人の心、気持ち、考え、思いを攻撃するのである。
(参考:
実際、悪魔は、人間イエスを「誘惑」した時、
1 身体的誘惑=聖霊、もしくは、神から与えられた力の誤用
2 地位や富や権力に対する誘惑
3 神を試みるという誘惑
という三つの方法で行っている。
ヨブに対しては、
神がヨブを咎めがなく廉直であると言ったことに対して、
災いがあれば「人は神を呪うように(崇拝しなく)なる」と言って、人の神を崇拝する動機に疑念を持っていた。
これは、悪魔は、人間のすること言うことを「良く観察」していることを示している。
そして、日夜神にそれを訴えて、つまり、自分の言う方が正しいのだと言い続けていることが分かる。)
脅し、圧力、誘惑、友人による善意の誘い、偽善、嘘、暴力、殺人、盗みなど・・
悪い考えを抱くことを「悪魔」が心に入ったとか、「悪魔」の考えを宿したとか抱いたなどと言うこともある。
これは、悪魔と同じような考え方をすることを言っているのであり、文字通り悪魔が人に入る(憑依)訳ではない。
神の目的に反することは、すべて「悪魔」から出ているのである。
(地上の悪のすべてが悪魔から出ている訳ではない点に注意をすべきである。
でないと、神の人に対する裁きは「理屈に合わない」ことになる)
例えば、
イエスが、エルサレムで年長者、祭司長、書士たちから多くの苦しみを受け、かつ、殺され、三日目によみがえされなければならないことを弟子たちに話した時、
ペテロが「ご自分を大切になさって下さい。あなたは決しそのような運命にはならないでしょう」と言った。
すると、イエスは、
「私の後ろに下がれ、サタンよ! あなたは私をつまずかせるものです。あなたは神の考えではなく人間の考えを抱いている」とイエスが言われたことがある。
(参考:サタンと言う語には、神に敵対するという意味がある。)
つまり、ペテロはイエスに「神の目的の遂行を断念させようとする」ことを言ったことに対するイエスの返答である。
勿論ペテロは悪意で言ったのではないことは明白であるが、自分では知らずして「悪魔」の手先になることもあることを示している。
そのため、何事も熟慮は必要である。
したがって、誘惑(人間の弱さ)に負けて罪を犯す「悪」と悪魔の考えに同調する「悪」とは、異なるのである。
誘惑に負けることは、自分の、いわば心の弱さであり、クリスチャなら信仰の弱さを示している。
イエスは「霊ははやっても肉体は弱い」と言われたように、「霊」は人の「気持ちや考えや心」と表す時もある)
(興味深い点は二つある。
1 エバは蛇に言われて直ぐに食べてはいない。
2 食物として与えられた実のなる沢山の樹に混じって、園の真ん中に「命の木」と「善悪の知識の木」を生え出るようにされた。
ことである。
1について、
エバは蛇の問いに正しく返答している。
アダムが神に言われたことをそのままエバに伝えていたからである。
したがって、エバは蛇が言ったことを直ぐにそれを信じた訳ではない。
しかし、蛇の言った言葉(いわば誘惑)により、
園の中のいろいろな木の実を食べる時に、特に、「命の木の実」を取って食べる時に、隣にある「善悪の知識の木の実」に意識が(注意が)いくようになったのである。
それまでは気にも留めていなかったが、毎日のように見るようになっていったのである。
そうして、その木の実を見ている内に、他の樹よりは良く見えたので、それを手に取って見たくなり、そして、良く観察する内に「食べたくなり」食べてしまった。
実際、食べても「何も生じなかった」ので、他の木の実と同じように食べても良いんだと思った。
そして、アダムには言わず、しばらくは、自分だけで食べていた。
その間エバには「何も生じなかった」のである。
それで、ある時、アダムと一緒にいた時に、まず、自分が食べて見せた後アダムにも与えたので、エバが食べているのを見て、アダム(おそらく、何も考えずに)も食べたのである。
(この点に関して、パウロは、テモテ(一)2:14で、アダムは欺かれなかったがエバは全く欺かれたと述べています)
しかし、二人とも食べた時に「異変が生じ」自分たちが裸であることに気が付いたのである。
こうしたことは、人が誰かに騙される状況と全く同じである。
エバは直ぐに信じたのではなく、少しずつ「心、気持ち」が変化していったのである。
蛇は、神の言ったことを知っていて、それとは反対のことを言って「人を騙した」という点では、
イエスを「誘惑」した時、
1 身体的誘惑=聖霊、もしくは、神から与えられた力の誤用(身体的)
エバに対しては「食べる」という誘惑(イエスの場合は、石をパンに変えるようにと言った)
2 地位や富や権力に対する誘惑(物質的)
エバに対しては「神のようになる」という誘惑(イエスの場合は、世の王国と栄光を与えると言った)
3 神を試みるという誘惑(精神的)
エバに対しては「食べても死なないかも知れない」という誘惑(イエスの場合は、崖から落ちるようにと言った)
と同じであることを示している。
ヨブに対しては、
人は災いがあると「神を呪う」と言って、人の動機を疑うことで「神の言うことと違うではないか」と、「神が嘘を付いている」と神に訴えている。
この時、災いは悪魔が行っている。
悪魔からの災いは、
物質的なことや身体的なことだけではなく、
精神的なこと(誘惑)にも及んでいることが分かる。
2について、
園の真ん中に食べても良い「命の木の実」と食べてはならない「善悪の知識の木の実」を生え出させたことである。
目の前に、いわば、二つの善と悪を、それも見た目では「どちらも食べ物としては良い」もの、言われないと区別出来ないものを置かれたという点である。
(参考:モーセがイスラエルの子らに最後の時に話したことばに、
「あなたの前に、命と善、死と悪とを置く」-申命記30:15
「命と死、祝福と呪いを置いた」-申命記30:19
と類似している)
つまり、神は人の前に、命と死を置くことで、人がどちらを選ぶかことを、望んでいるかを「確かめる」ようにされた、あるいは、すべての「み使いたちが分かる」ようにされたのである。
神だけではなく、み使いたちも「人がどのように振る舞う」かを、日夜見ているということであり、
み使いたちは、神のように「人を分かっている」訳ではないことを示している。
++++++++++++++++++++++++++
4章 カインとアベルの誕生。
二人は神に捧げものを捧げる。
(人が収穫に対して神に感謝を示すよう、アダムが教えたというより、神が要求したと考えられる。
更には、これには信仰が関わっていたことが示されている。-ヘブライ11:4
例えば、犠牲により罪が許されるというように。
犠牲は、一つには「イエス・キリストの犠牲を、つまり、罪の許しを示しており、
もう一つには、神に対する感謝の表明を示している。)
アベルの捧げ物を好意を持って見たがカインの捧げ物に関してはそうではなかった。
アベルは羊の初子の中から脂ののった最良のものを捧げた。
これに対して、カインは実りの中から幾らかを(もしかして、感謝というより、ただ形式的に)捧げた。(信仰の欠如を表している)
(これは、人は、ものの良し悪しが分かっていたことを示している=善悪の知識。
良いものを欲するという「欲」の感情もあることを教えている。
差別されると、妬み、怒りの感情を抱くことも教えている。
これらは、いわば、人の「本能」として子孫に受け継がれている)
(参考:
アベルは羊飼いで比較的楽な仕事であったのに対して、
カインの農作業は辛く大変な仕事であり収穫もそれほど多くなく貴重であったと思われる。
そのため、カインは捧げ物を惜しんだと推測される。
記録にはないが、アベルは何を食べていたのかと思う。
農作業をしていないのであれば、木の実などを食べていたと思われる。
当時はまだ、肉を食べることは許されていなかった。)
カインはアベルを殺してしまう。
神による叱責によりカインの怒りはアベルに向かった。
カインはアベルを「殺す」という意図をもって野に誘った。
(人は、自分の意図(考え)を隠して、策略を用いて物事を行うということを示している)
(神がアベルの捧げ物を喜び、カインの捧げ物を喜ばなかった原因は、カインにあるとしても、
いわば、「差別されると、非常な怒りに燃える」ということが人の本性であることを示している。
その怒りを、罪のないアベルに向けたのである。
カインの怒りは正しいものではなく、神の差別も間違ったものではなかったのに。
カインのしたことは、善いことではないと神に言われた。
また、善いことを行うようにならなければ、「罪」が入り口にうずくまっている、つまり、「罪」を犯すようになるとも、神は言われた。
(これは、人が悪いことをする前には、心の中に既に「そうした思い、考え」を抱いていることを示している。
したがって、誤って罪を犯すのではなく、
人が悪いことをする時には、故意(意図的に)に「悪い」ことをしているということである。
このような人が「更生」することは、難しい。
後に示された律法では、こうした罪に対する罰は「死」である)
カインは神の問いに対して「嘘」をついた。
(人は、善悪を知り、自分のしたことが悪であることを理解していた。
人は、都合が悪いことには「嘘」をつくということを示している)
カインは罪を認め、罰を加えられるとその許しを求めた。
(参考:赤字で示した部分は「人の本性」であり、教えられなくとも身に着いているものである)
その後、カインはエホバの顔から離れて、エデンの東方の逃亡の地に住んだ。
(神の顔は、依然としてアダムとその子孫に向けられていたと思われる。)
その時、カインは弟や妹を連れて行った。
妹の誰かとの間にエノクが生まれた後、都市の建設に取り掛かった。
(大勢で集まり助け合って暮らすことは安心を求める人の本性だと考えられる。
自分の利のために人を利用することも本性である)
妹アダとの間にヤバルが生まれ、天幕に住んで畜類を飼う者の始祖となり、
別の子ユバルは竪琴と笛を扱う者の始祖となり、
チラの子トバル・カインは胴と鉄のあらゆる道具を鍛造する者の始祖となった。
(大勢で暮らすことで生活にゆとりが出来るので、道具や楽器などを作ることが出来たと思われる。
人類は初めから道具を作りそれを用いていたということを示している)
(参考:ヤバルはアダムから8代目である)
レメクはある若者が自分に殴打を加え傷付けたので殺したと打ち明けた。
そして、カインを殺す者は七倍の復習が、自分を殺す者には七十七倍があるようにとレメクは言った。
カインの系図
ここで、エノクとレメクの名前が出てくるが、アダムからノア迄の系図とは別の人物である。
アダムはその後エバと交わりセツを産んだ。
エバはセツがアベルの代わりとなる別の胤であることを理解していた。
セツにもエノシュが生まれた。
この時から、エホバの名を呼び求めることが始まった。
5章に続く。