知恵を求める人のためのぶろぐです。
わたしのブログにようこそ!
初めに申し上げたいことがあります。
「真理」を探究したい人に継続して読んで頂きたいと思っています。
「聖書の真理」を探究する人たちに継続して読んで頂くことがわたしの願いです。
ものみの塔の信者たちへ。
このブログを読んでも[聖書]に対する背教にはなりません。
ものみの塔の教えに偏るのではなく、聖書の正しい理解に努めましょう。
※ あなたの疑問にお答えします。
コメントではなくプロフィールからメッセージを下されば誰にも知られず質問出来ます。
誰でも無償で質問出来ます。
ただし、議論には対応できかねますので、当方からの返答をよく吟味して頂きたいと思います。
クリスチャンではない人たちへ。
聖書に対する思い込みや偏見をなくし実際に読んでみて下さい。
聖書は歴史の書でもあり物語風に書かれているので、例えば、創世記、出エジプト記、裁き人、ルツ記、などは興味深く読めます。
法律に関心のある人なら、申命記やレビ記などから律法の内容とその精神を知ることが出来ます。
また、これらを通じて神の考えも少なからず理解することも出来ます。
試練や苦難に直面している人ならヨブ記からヨブの精神とその報いについて知ることが出来ます。
知恵に関心のある人なら、箴言、伝道の書から多くの事を学ぶことが出来ます。
ダビデについて関心のある人なら、サムエル記第一と第二の書からゴリアテを倒すことから始まりイスラエルの2代目の王となる経緯や王としての活動やバテシバとの罪、ソロモンの誕生、ソロモンが3代目の王になった経緯などを知ることが出来ます。
世界の趨勢、特に強国と言われる覇権を持つ国の歴史に関心のある人なら、ダニエル書から実名によりその変遷を知ることが出来ます。
イエス・キリストの活動や発言に関心のある人なら、四福音書と言われる、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる書から、四人による記録から知ることが出来ます。
イエスが亡くなった後の弟子たちの活動に関心がある人なら使徒たちの活動から知ることが出来ます。この書は医師でもあったルカが記したものです。
ちなみに、このルカはイエスの十二使徒の一人ではありません。
マタイ、マルコ、ヨハネはイエスの十二使徒の一人です。
クリスチャンとしての振る舞いや助言に関心のある人ならローマ人への手紙からユダの手紙までの21通の手紙から多くのことを学ぶことが出来ます。
いきなり全体を、すべてを理解しようとするのではなく、関心のあるテーマについてのみに読んでも「価値のある内容」です。
また、聖書は預言の書でもあります。
神の預言は聖書全体を貫いているので、初めから理解することは難しいことです。
しかし、イエスが言われたご自身の「臨在」と「事物の体制の終わり」についてのしるしに、つまり、今の世の終わりに関心のある人なら、マタイ24章以降とヨハネへの啓示の書(最後の書)から知ることが出来ます。
人間としての道徳、生き方に関心のある人なら、マタイ5章から7章の、いわゆる山上の垂訓から学ぶことが出来ます。
聖書を読む時には、初めは言葉じりに捕らわれることなく、文脈から内容の意図を理解する必要があります。
そうしないと正しい理解、偏見のない知識にはなりません。
更に、聖書全体に精通し理解したいと思うなら、聖書の読み方に関する、わたしのブログ、
1 「聖書を読むべき理由」-2024年2月25日
2 「聖書のコラム-34(なぜ聖書の理解が深まらないのでしょうか)」-23年9月19日
の二つの記事を参考にして下さい。
きっと、役に立ちます。
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今回は、悪魔の仕業はこのように行われるという話です。
いきなり聖書の話から入ります。
この手の話は普通の人が殆ど経験したことのない話なので具体的な例を挙げることが出来ないからです。
悪魔や悪霊の話は、実感がないので普通の人には分かりにくくまた説明も難しいものです。
例え、こうした話を聞いたとしても何となくそういう気がする程度で聖書の知識がない人にとっては殆ど理解することはありません。
悪魔は神のように人の心を動かすことは出来ません。
出来るのは、人の心を誘惑することです。
しかも、それとは分からずに行うのです。
つまり、人はそれに気が付かないことも多いのです。
また、力で人間を襲うことも神に許されていません。
ヨブに起きた出来事は神がサタンが自分の言うことを確かめさせることを許したので起きた特別な出来事なのです。
イエスの時代、悪霊たちが人に憑りついていた記録がありますが、おそらく、現代はないと考えています。
少なくても現代ではそのような事例は聞いたことがありません。
イエスは悪魔の誘惑を受けるために霊によって荒野に導かれたことがあります。
悪魔は直接イエスに語り掛けています。
丁度、エデンでエバに話しかけたように。
しかし、普通の人間の場合、悪魔や悪霊の声を聞くことは出来ません。
つまり、人間は普通は神の使いたちと会話が出来るようにはされていないのです。
神の使いとして人間の前に現れた時特別に聞こえるようにされるのです。
それ以外は夢か幻で「神のご意志」が人に伝えられるのです。
悪魔はこうしたことも許されてはいないのです。
つまり、悪魔は直接人間に働き掛けることは許されてはいないし出来ないのです。
それでも悪魔は策略を用いて人を誘惑することも人をサタン(神の考えと反対のことをしたりさせたりする行為)的にすることも出来るのです。
悪魔の目的は人を真の神から引き離すことです。
人が神とイエスを信じ信仰を持っているとしても、その行いや振る舞いが悪魔的サタン的なことをする場合もあるのです。
人はこの点特に注意する必要があります。
悪魔的とは神を冒涜したり中傷したり呪ったりすることであり、
サタン的とは神の考えや目的に反したり敵対するようなことの行いのすべてです。
人が悪霊に憑りつかれると「てんかん」のように体を硬直させ倒れるようなことがあると昔から言われていたことがあります。
それでも、
確かに「てんかん」は昔からあり今でもありますがその人たちに悪霊が憑りついていたという話は現代では聞いたことがありません。
実際、「てんかん」は今では脳の病気の一つとされています。
その治療法も薬もあります。
聖書の中ではこの二つは分けられています。-マタイ4:24
悪霊に憑りつかれると、狂暴になったり口がきけなくなったり、時には食べることをしなかったり盲目にしたり気が狂ったように振る舞ったり、あるいは予言をさせたり、
あるいは、サタンとなり自分をいつも光の使いに変様させたり、
悪霊の霊感による表現として、人を惑わす霊感のことばや悪霊の教え(間違ったことや断食など)などに注意を寄せるようになると記されています。
小説や妄想の中での話を誰かが信じたり、暗闇や人影のない屋外の自然のざわめきを恐れそこに目には見えない誰かがいて悪さをしていると思い込んでいる場合もあります。
もし、こうした恐恐の中で何かが起きたとしたら暗闇の中で活動する野生の動物などのせいか自分自身の気のせいか風に吹かれて枝葉などが自分に触れたとかあるいは誰か人間が故意に何かをした時です。
確かに悪魔の人に対する挑戦は続いていることは確かです。
ただ、人間がそれに気が付かないだけなのです。
人間に分かることは起きた事柄だけです。
例えば、トルーマンが日本への原爆投下の命令を下したことは、原爆投下された日本人が神を呪うことを意図した、人を神から引き離すことを目的をとした悪魔の誘惑あるいは悪魔の仕業と考えられるかも知れません。
しかしながら、終わりの時代のこれ程の大事件について聖書が直接悪魔の仕業だと述べていません。
間接的に、別の野獣が龍から権威を受けた野獣の権威をこの野獣が人類の前で火を天から地に下らせることさえすると聖書には記されているだけです。-啓示13:11-13
日本への原爆投下で世界中で起きた事柄は原爆禁止運動であり反核運動です。
被害に遭った日本人は原爆を悪魔のせいだと考える人は一人もいなかったのです。
そう思った人もいたかも知れませんが、アメリカがしたという認識の方が強かったのす。
日本人も世界の人々も現実的だったのです。
ヒトラーのホロコースト、ソ連によるポーランド人虐殺、日本軍による南京虐殺などなどが有名ですがこれらも人間の仕業であり悪魔の仕業だと言う人は一人もいません。
他にも歴史上大勢の人を虐殺した例は沢山あると思いますがそれらは殆ど公にはされていません。
聖書の中でも、1日に数万人が神によって殺された例が幾つか出て来ますが、それはその人たちが「悪」を行ったからであり、人間の虐殺とは真逆の出来事です。
世の中には一人を殺せば犯罪者だが大勢を殺すとヒーローだなどと言う人さえいます。
チャップリンの映画[殺人狂時代」の中の台詞です。
「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。」
これは当時のナチスドイツのヒットラーに対して発せられたチャップリンの痛烈な批判の言葉です。
被害者数のあまりの多さと、事の重大さは、犯罪という言葉自体すらをも凌駕してしまうようだと述べているのです。
ましてや、その怪物のような人物が対抗すべき力を金の力で抑えつけた時にはなおさらだとも。
最も、現代では上に挙げた大量虐殺は直ぐに世界中に知れ渡り非難と暴動が起こるに違いありません。
しかし、現実に起きた事柄なのです。
そして、大量虐殺の犯罪ではすべての事例は殆ど立証されず大抵は1、2件の犯罪を立証するに留まることが多いのです。
加えて、戦争による殺人は犯罪とはみなされないのが一般的です。
ですから、極東軍事裁判は異例の裁判だったのです。
もし戦争による殺人を犯罪と見なせば、スターリンもヒトラーもトルーマンもプーチンもトランプも、更には兵士として人を殺したことのある人は皆当然死刑です。
しかし、現実には彼らは未だに殺人を行い続けているのです。
こうした仕業は元を正せば悪魔のせいですが、実際に行うのは人間なのです。
悪魔は原因を作ったり誘惑するだけなのです。
それに屈するか否かはその人個人の領域であり責任なのです。
悪魔の別の姿である龍は自分の力と座と大きな権威を野獣に与えただけで、後は野獣がどのように振る舞うかに関しては「野獣がすること」を見ているだけなのです。-啓示13章以降
こうした出来事は悪魔とその使いたち(悪霊たち)が天から投げ落とされた後の出来事です。-啓示12章
しかしながら、繰り返しになりますが悪い事柄はすべて悪魔のせいにするというのは正しくはありません。
特に、聖書的なことではないことについてはなおさらです。
ヨハネ8章でイエスは次のように語っているからです。
23 それで[イエス]はさらに彼らに言われた,「あなた方は下の領域からの者ですが,わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが,わたしはこの世からの者ではありません。
24 それゆえわたしは,あなた方は自分の罪のうちに死ぬと言ったのです。わたしが[その者]であることを信じないなら,あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになるのです」。
ある時、ペテロに向かってイエスは「サタンよ離れ去れ」と言ったことがありますが、この時ペテロが悪魔になったとか、ペテロに悪魔が乗り移ったとかそのような意味ではありませんでした。
マタイ16:22
21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。
22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。
23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。
つまり、どんなに善いと思われることでも「神のご意志に反するすべてのこと」はサタン的であり人間の考えなのです。
ユダ・イスカリオテがイエスを裏切る時にやはりサタンが入ったという記録があります。
ヨハネ13:1-2、21-30
13章
さてイエスは,過ぎ越しの祭りの前に,自分がこの世を出て父のもとに行くべき時が来たことを知ったので,[それまでも]世にあるご自分の者たちを愛してこられたのであるが,彼らを最後まで愛された。
2 それで,晩さんが進んでいる間に,悪魔はそのときすでにシモンの子ユダ・イスカリオテの心に彼を裏切る[考え]を入れていたのであるが,
・・・
21 これらのことを言ったのち,イエスは霊において苦しまれ,証しをして言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,あなた方のうちの一人がわたしを裏切るでしょう」。
22 弟子たちは,だれについて[そう]言っておられるのかと戸惑いながら互いを見まわした。
23 イエスの懐の前に弟子の一人が横になっており,イエスはこれを愛しておられた。
24 それゆえ,シモン・ペテロはこの者にうなずいて合図をしながら言った,「だれのことを言っておられるのか話しなさい」。
25 それで,その者はイエスの胸もとにそり返って言った,「主よ,それはだれですか」。
26 それゆえイエスは答えられた,「わたしが一口の食物を浸して与えるのがその人です」。そうして彼は,一口の食物を浸してから,それを取ってシモン・イスカリオテの子ユダに与えた。
27 すると,その一口の食物[を受けた]あとすぐ,サタンがその者に入った。
つまり、悪魔は時として人の心に入ることが出来ることを示しています。
文字通り人の心に入ったのかあるいは神に敵対する、あるいは、神のご意志に反する言動や行動に対してサタンという言葉を使ったのかは分かりません。
もっと言えば、悪魔は自分が思うことを「人の心」にも仕向けることが出来るのかも知れません。
この場合、悪魔が人の心に入るとは心の中で「悪魔の考え」を抱くようになるということです。
もっと別の言い方をしますと、
わたしたちは心の中で葛藤をすることがあることを知っています。
こうすれば正しいことだが、こうもしたいという悪い思いが交錯する時です。
いわば心の中で善悪の問答をしている訳です。
これは、もし悪魔の考えが心に入ったとしても人はこれを退けることが出来ることをも示しているということです。
ここが肝心な点です。
悪魔の誘惑をそのまま受け入れてしまうかそれを退けるかはその人の心の中で生じているという点です。
これは神以外誰にも見えないことですがそれは外見や振る舞いや行動に現れることは事実です。
ある意味、人は外見で判断することも出来るということでもあります。
それゆえ、人は自分に荷を、つまり責任を負うことになり神といえどもそこには介入しないのです。
そのようにしないと神は人を裁くことが出来ないことになってしまいます。
ペテロの場合はイエスに対する善意から出た言葉ですがその言葉は神の目的を阻むという点ではサタンと言わざるを得ないのです。
つまり、ペテロは一時でもサタン的な考えを抱いたということであり、必ずしも悪魔がペテロの心に入った訳ではないのです。
ユダの場合は、ユダはお金を管理していましたからお金に対する執着心が他の弟子たちよりは強かったことは確かです。-ヨハネ12:5
そのためお金の誘惑に負けてイエスを裏切ることになってしまいました。
ユダにサタンが入ったというのはこの誘惑に負けたことを示しています。
そしてそれを現実なものにして大罪を犯してしまったのです。
後悔先に立たずで、かつ、自殺するという更なる罪を重ねて死んでしまったのです。-マタイ27:3-5
イエスはユダのことを生まれて来なかった方が良かったとさえ述べています。-マタイ26:24
つまり、人の心にサタンが入るとは「神に敵対する、あるいは、反抗する考えを心に抱く」ことを指しているものと思われるということです。
それは悪魔からのものである場合や自分自身からのものである場合もあるということです。
例えば、悪魔はこの世の支配者と言われていますが、現実の世界を見て人間は直接その実体を感じることすらありません。-参考ヨハネ12:31、16:11
悪い事柄すべてを悪魔に起因することも出来るかも知れませんが人はそれを退けることも出来るのです。
悪魔は外からだけではなく人間の心に誘惑を仕掛けることが出来るという点も良く覚えておくべき事柄です。
パウロは悪魔の策略の備えをするようにと述べています。
エフェソス6:10-17
10 終わりに,主にあって,またその力の強大さによって強くなってゆきなさい。
11 悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい。
12 わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。
13 このゆえに,完全にそろった,神からの武具を取りなさい。あなた方が,邪悪な日にあって抵抗できるように,また,すべての事を徹底的に行なった後,しっかりと立てるようにするためです。
14 それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,
15 平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。
16 何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます。
17 また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神の言葉を受け取りなさい。
18 それと共に,あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい。そのために,決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい。
要約すると、真理、義、宣教、信仰、救い、神の言葉=聖書、祈りと祈願ということになります。
つまり、悪魔の策略に立ち向かうにはこれらを身に付ける必要があることを教えています。
これらを行うのは人の心です。
ですから、箴言には次のように記されています。
箴言4:20-27
20 我が子よ,わたしの言葉に注意を払え。わたしのことばに耳を傾けよ。
21 それがあなたの目から離れ去ることのないように。それをあなたの心の中に保て。
22 それは,これを見いだす者たちにとっての命であり,その全身に健康[を保たせるもの]だからである。
23 守るべき他のすべてのものに勝ってあなたの心を守れ。命はそこに源を発しているからである。
24 曲がった話し方を自分から取り除き,ねじくれた唇を自分から遠ざけよ。
25 あなたの目はまっすぐ前方を見るべきである。あなたの輝く目は自分の前をまっすぐ見つめるべきである。
26 あなたの足の行路を平らにせよ。あなたのすべての道が堅く据えられるように。
27 右にも左にも傾いてはならない。あなたの足を悪いことから遠ざけよ。
イエスは次のようにも述べています。
マタイ15:18
18 しかし,口から出るものは心から出て来るのであり,それが人を汚します。
19 たとえば,心から,邪悪な推論,殺人,姦淫,淫行,盗み,偽証,冒とくが出て来ます。
20 これらは人を汚すものです。
人に罪を加えたのは神です。
人はその罪のために多くの過ちや悪いことを行います。
その一方で義や多くの善いことも行います。
それはその人の心の問題なのです。
神が人間をこのような状況に置いたのは、エデンの蛇のせいです。
蛇による神への、いわば、挑戦とも思える発言のため、人は善悪に対する決定をせざるを得なくなったのです。
-創世記3章
では、イエスの次の出来事は何を教えているでしょうか。
ヨハネ8章
しかしイエスはオリーブ山に行かれた。
2 それでも,夜明けには再び神殿に姿を現わされ,民はみなそのもとに来るのであった。そして[イエス]は腰を下ろして彼らに教えはじめられた。
3 そこへ,書士とパリサイ人たちが,姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来た。そして,彼女を自分たちの真ん中に立たせてから,
4 彼にこう言った。「師よ,この女は現に姦淫を犯しているところを捕らえられました。
5 モーセは律法の中で,このような女を石打ちにすることをわたしたちに規定しました。あなたはいったい何と言われますか」。
6 もとより彼らは,[イエス]を試して,訴える手がかりを得ようとしてこれを言っていたのである。しかしイエスは身をかがめ,指で地面に[何か]書きはじめられた。
7 彼らが執ように尋ねると,[イエス]は身をまっすぐに起こして彼らに言われた,「あなた方の中で罪のない人が,彼女に対して最初に石を投げなさい」。
8 そしてもう一度かがんで,地面に[何か]書きつづけておられた。
9 ところが,これを聞いた者たちは,年長者たちから始めて一人ずつ出て行き,やがて彼ひとり,そして彼らの真ん中にいた女だけが残った。
10 イエスは身をまっすぐに起こして彼女に言われた,「女よ,彼らはどこにいるのですか。だれもあなたを罪に定めなかったのですか」。
11 彼女は言った,「だれも,だんな様」。イエスは言われた,「わたしもあなたを罪には定めません。行きなさい。今からは,もう罪を習わしにしてはなりません」。
12 それゆえ,イエスは彼らに再び話してこう言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく,命の光を持つようになります」。
13 ゆえにパリサイ人たちは彼に言った,「あなたは自分自身について証しをしています。あなたの証しは真実ではありません」。
14 それに答えてイエスは彼らに言われた,「たとえわたしが自分自身について証しするとしても,わたしの証しは真実です。わたしは,自分がどこから来たか,そしてどこへ行こうとしているかを知っているからです。しかしあなた方は,わたしがどこから来たか,そしてどこへ行こうとしているかを知りません。
15 あなた方は肉にしたがって裁きます。わたしはだれをも裁きません。
16 ですが,もしわたしが裁くとすれば,わたしの裁きは真実です。わたしは独りではなく,わたしを遣わした父が共におられるからです。
17 また,あなた方自身の律法の中に,『二人の証しは真実である』と書いてあります。
18 わたしは,自分について証しする者であり,わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」。
19 それゆえ彼らはさらに言った,「あなたの父とはどこにいるのですか」。イエスは答えられた,「あなた方はわたしも,わたしの父も知りません。もしあなた方がわたしを知っているとすれば,わたしの父をも知っているはずです」。
20 [イエス]はこれらのことばを,神殿で教えていた際,宝物庫の所で話された。しかしだれも彼を捕まえなかった。彼の時はまだ来ていなかったからである。
21 そこで[イエス]は再び彼らに言われた,「わたしは去って行こうとしています。そしてあなた方はわたしを捜すことでしょう。それでも,あなた方は自分の罪のうちに死にます。わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができません」。
(これは彼らはすなわち神の王国の一人となれないということ断言したものです。
神の王国の144000人を選ぶのはイエスご自身だからでもあります)
22 それゆえ,ユダヤ人たちは言いはじめた,「彼は自殺するつもりなのではあるまい。『わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができない』と言っているが」。
(おそらく、ユダヤ人たちはイエスが死んで墓に行くという意味で捉えたことも明らかです)
23 それで[イエス]はさらに彼らに言われた,「あなた方は下の領域からの者ですが,わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが,わたしはこの世からの者ではありません。
24 それゆえわたしは,あなた方は自分の罪のうちに死ぬと言ったのです。わたしが[その者]であることを信じないなら,あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになるのです」。
25 そこで彼らは,「あなたはだれなのですか」と言いだした。イエスは彼らに言われた,「一体なぜわたしはあえてあなた方に話しているのでしょうか。
26 わたしには,あなた方について話すべきこと,また裁きを下すべきことがたくさんあります。実際のところ,わたしを遣わした方は真実な方であり,その方から聞いたこと,それをわたしは世で話しているのです」。
27 [イエス]が父について話しておられることを,彼らは会得しなかった。
28 それゆえイエスは言われた,「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしが[その者]であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです。
29 そして,わたしを遣わした方は共にいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでした。わたしは常に,その方の喜ばれることを行なうからです」。
(これはイエスに関する神の預言のことを言っています)
30 これらのことを話しておられる間に,多くの者が彼に信仰を持った。
31 そこでイエスは,自分を信じたユダヤ人たちにさらにこう言われた。「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,
32 また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」。
(イエスに信仰を持つ者すべてをイエスが受け入れるのではないことを示しています)
33 彼らは答えた,「わたしたちはアブラハムの子孫であって,だれにも奴隷になったことなどありません。『あなた方は自由になるでしょう』と言われるのはどうしてですか」。
34 イエスは彼らに答えられた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,すべて罪を行なう者は罪の奴隷です。
35 そして,奴隷は家の者たちの中にいつまでもとどまっているわけではありません。子はいつまでもとどまっています。
(これはユダヤ人たちが神から捨てられることを述べています)
36 それゆえ,もし子があなた方を自由にするならば,あなた方は本当に自由になるのです。
37 わたしは,あなた方がアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなた方はわたしを殺そうとしています。それは,わたしの言葉があなた方の間で進んでゆかないからです。
38 わたしは,自分の父のもとで見た事柄を話します。それであなた方は,[自分たちの]父から聞いた事柄を行なうのです」。
39 彼らは答えて言った,「わたしたちの父はアブラハムです」。イエスは彼らに言われた,「アブラハムの子供であるというなら,アブラハムの業を行ないなさい。
40 しかし今,あなた方は,わたしを,神から聞いた真理をあなた方に告げた者を殺そうとしています。アブラハムはそのようなことを行ないませんでした。
41 あなた方は自分たちの父の業を行なっているのです」。彼らは言った,「わたしたちは淫行によって生まれたのではありません。わたしたちには一人の父,神がいるのです」。
42 イエスは彼らに言われた,「もし神があなた方の父であるならば,あなた方はわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから出てここにいるからです。そしてわたしは決して自分の考えで来ているのではありません。その方がわたしを遣わされたのです。
43 わたしの話している事柄があなた方に分からないのはなぜでしょうか。それは,あなた方がわたしの言葉を聴くことができないからです。
44 あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であって,[偽り]の父だからです。
45 他方,わたしは真理を告げるので,あなた方はわたし[のことば]を信じません。
46 あなた方のうちのだれが,わたしに罪があると証明するのですか。わたしが真実を話しているなら,あなた方がわたし[のことば]を信じないのはどうしてですか。
47 神からの者は神の言われることを聴きます。あなた方が聴かないのはこのため,つまり,神からの者ではないからです」。
48 それに答えてユダヤ人たちは彼に言った,「わたしたちが,あなたはサマリア人で,悪霊につかれている,と言うのは正しいのではありませんか」。
49 イエスは答えられた,「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしの父を尊んでいるのであり,あなた方はそのわたしを辱めています。
50 といっても,わたしは自分のために栄光を求めているのではありません。求め,かつ裁いておられる方がいます。
51 きわめて真実にあなた方に言いますが,だれでもわたしの言葉を守り行なうなら,その人は決して死を見ることがありません」。
52 ユダヤ人たちは彼に言った,「今わたしたちは,あなたが悪霊につかれていることがはっきり分かります。アブラハムは死にましたし,預言者たちもそうです。それなのにあなたは,『だれでもわたしの言葉を守り行なうなら,その人は決して死を味わうことがない』と言っています。
53 あなたは,死んだわたしたちの父アブラハムよりも偉いわけではないでしょう。そして,預言者たちも死んだのです。あなたは,自分が何者であると唱えるのですか」。
(ユダヤ人たちはイエスの言ったことを素直に受け止めず、いわば難癖をつけて信じようとはしません
でした。
こうした傾向は現代の人々にもありがちなことです。
人は聖書を読む時にこの点を注視して読まなければ、神は決してその人の心を動かすことはないので
す。
例えば、天地人の創造の記述を素直に信じて受け入れますか、それとも有り得ないことだとして退
けますか?)
54 イエスは答えられた,「わたしが自分に栄光を付すのであれば,わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父,あなた方が自分たちの神であると言うその方です。
55 それでいて,あなた方はその方を知っていません。しかし,わたしはその方を知っています。そして,その方を知らないと言えば,わたしはあなた方のように,つまり偽り者になります。しかしわたしは確かにその方を知っており,その方の言葉を守り行なっています。
56 あなた方の父アブラハムは,わたしの日を見ることを見越して大いに歓び,それを見て歓んだのです」。
57 それゆえユダヤ人たちは彼に言った,「あなたはまだ五十歳になってもいないのに,アブラハムを見たことがあるのですか」。
58 イエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。
59 そのため彼らは,[イエス]に投げつけようとして石を拾った。しかしイエスは隠れ,神殿から出て行かれた。
(ユダヤ人たちはイエスを神から遣わされた者であることを全く理解していなかったのです。
そのためイエスを受け入れなかったのです。
理解していないから罪にはならないという訳ではないこともイエスは示しています。
知らないではなく理解していないのは理解しようとはしない心の頑なさを表わしています)
9章
さて,進んで行かれる際,[イエス]は生まれた時から盲目の人をご覧になった。
2 そこで,弟子たちが彼に尋ねた,「ラビ,この人が盲人として生まれたのは,だれが罪をおかしたためですか。当人ですか,それともその親たちですか」。
3 イエスは答えられた,「この人が罪をおかしたのでも,その親たちでもなく,神のみ業がこの人の場合に明らかにされるためだったのです。
4 わたしたちは,わたしを遣わした方の業を昼のうちに行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ようとしています。
5 わたしが世にいる間,わたしは世の光なのです」。
(つまり、イエスはユダヤ人にとっての救いと希望となる存在であることを示しています)
6 これらのことを言ってから,[イエス]は地面につばを吐いて,だ液で粘土を作り,その[人の]両目にその粘土を当てて,
7 こう言われた。「行って,シロアムの池で洗いなさい」([シロアム]とは,『送り出された』と訳される)。それで彼は去って行って洗い,見えるようになって戻って来た。
8 それゆえ,隣人たちや,彼がこじきであるのを以前に見ていた人々は,「これは,いつも座って物ごいをしていた男ではないか」と言いはじめた。
9 ある者たちは,「これはその人だ」と言い,ほかの者たちは,「いや,違う,ただ似ているだけだ」と言った。当人は,「わたしは[その者]です」と言うのであった。
10 そこで彼らはその人に言いだした,「では,どうしてあなたの目は開いたのか」。
11 彼は答えた,「イエスという人が粘土を作ってわたしの両目になすりつけ,『シロアムに行って洗いなさい』と言いました。それで,行って洗いましたところ,見えるようになったのです」。
(この素直さが神が心を開いてくれるという証にもなります)
12 すると彼らは言った,「その[人]はどこにいるのか」。彼は言った,「知りません」。
13 彼らは,以前に盲目であったその人をパリサイ人たちのところに連れて行った。
14 なお,イエスが粘土を作って彼の目を開けたのは安息日であった。
15 それで,今度はパリサイ人たちが,どのようにして見えるようになったのかと彼に尋ねはじめた。彼は言った,「その人が粘土をわたしの両目に当てました。そしてわたしが洗いましたところ,今は見えるのです」。
16 それで,パリサイ人のある者たちが言いはじめた,「これは神からの人ではない。安息日を守っていないからだ」。ほかの者たちは言いだした,「罪人である人が,どうしてこのようなしるしを行なえるだろうか」。こうして,彼らの間には分裂があった。
17 そのため,彼らはその盲人に再び言った,「彼があなたの目を開けたことからして,あなたは彼について何と言うか」。その[人]は言った,「彼は預言者です」。
18 しかしユダヤ人たちは,この人に関して,つまりこの人が盲目であったのに見えるようになったということを信じず,見えるようになったその人の親たちを呼ぶことになった。
19 そして彼らにこう尋ねた。「これは,生まれつき目が見えなかったという,あなた方の息子か。では,現在見えるのはどうしてなのか」。
20 すると,彼の親たちは答えて言った,「これがわたしどもの息子で,生まれつき目が見えなかったことは知っております。
21 でも,今見えるのがどうしてかは知りませんし,だれがその目を開けたのかも知りません。彼にお聞きください。彼は大人です。自分で話すはずです」。
22 彼の親たちはユダヤ人を恐れていたので,こうしたことを言った。ユダヤ人たちはすでに,だれでも[イエス]をキリストと告白する者がいれば,その者は会堂から追放するとの合意に達していたからである。
23 そのために親たちは,「彼は大人です。彼に尋ねてください」と言ったのである。
24 それゆえ彼らは,盲目であった人を二度目に呼んで,こう言った。「神に栄光をささげなさい。わたしたちはこの人が罪人であることを知っているのだ」。
25 これに対して彼は答えた,「その人が罪人かどうかわたしは知りません。一つのことは知っています。わたしは目が見えませんでしたが,現在は見えるということです」。
26 それゆえ彼らは言った,「彼はあなたに何をしたのか。どのようにしてあなたの目を開けたのか」。
27 彼は答えた,「わたしはもうお話ししましたのに,お聴きになりませんでした。なぜもう一度お聞きになりたいのですか。あなた方もあの人の弟子になりたいわけではないのでしょうに」。
28 すると彼らはその人をののしって言った,「お前はあの[男]の弟子だが,我々はモーセの弟子なのだ。
29 我々は,神がモーセに語られたことを知っている。だが,この[男]については,どこからの者か知らない」。
30 それに答えてその人は彼らに言った,「これはいかにも驚いたことです,あの人がどこからの者かをご存じないとは。わたしの目を開けた人ですのに。
31 神は罪人たちにはお聴きになりませんが,だれでも神を恐れてそのご意志を行なうなら,その者にはお聴きになることを,わたしたちは知っております。
32 昔から,盲人として生まれた者の目を開けたというようなことは聞いたためしがありません。
33 神からの人でないなら,この人は全く何もできないはずです」。
34 それに答えて彼らは言った,「お前は全く罪のうちに生まれながら,我々を教えるというのか」。こうして彼らは,その人を追い出してしまった。
(彼らの傲慢さがこの言葉に現れています)
35 イエスは,彼らがその人を追い出したことをお聞きになった。そして,彼を見つけると,こう言われた。「あなたは人の子に信仰を持っていますか」。
36 その[人]は答えた,「ですが,だんな様,それはどなたのことでしょうか。わたしがその方に信仰を持てますように」。
37 イエスは彼に言われた,「あなたはその者を見ました。しかも,あなたと話しているのがその者です」。
38 すると彼は言った,「わたしはほんとうに[その方に]信仰を持っています,主よ」。そして彼は[イエス]に敬意をささげた。
39 するとイエスは言われた,「[この]裁きのためにわたしはこの世に来ました。すなわち,見えない者が見えるようになり,見える者が盲目になるためです」。
(ユダ人たちを裁くために来たとも述べています)
40 パリサイ人のうち[イエス]と一緒にいた者たちがこれらのことを聞いて,彼に言った,「わたしたちも盲目であるというわけではないでしょうね」。
41 イエスは彼らに言われた,「あなた方が盲目であったなら,あなた方には罪がなかったでしょう。しかしあなた方は今,『わたしたちは見える』と言います。あなた方の罪は残るのです」。
(これを読み返して、なぜマタイにご自分についてくるようにと話したかが分かるようです。
ルカは医者でしたから物事を論理的に見る傾向にありますが、マタイは収税人でしたから記録を正確に付ける能力に丈ていたのでイエスに誘われたのだと思います。
マタイも即座にイエスの追随者となったのもマタイの心を読んでのことだったと思います。
この点はペテロ兄弟なども同様だったと思います。
イエスが選んだ十二人にはそれぞれいわば特技や特質というものが備わっていて、その十二人で弟子としての、あるいは、使徒としての完成した一つの集団を形成することを意図したものと推測されます。
三人寄れば文殊の知恵という言葉がありますが、一人では能力に限りがありますが十二人で一つを形成する点は聖書的であると言えます。
イスラエルも十二部族で一つの国家を形成していることに倣ったものかも知れません。
ちなみに、ルカは十二使徒の一人ではありません。
ですが、後に聖書を編纂した人々はルカが書いた二つの本を聖書の一部として組み込みました)
ユダヤ人たちはイエスが言われたことを全く理解しようともイエスが行ったことが神からのものであることを信じようともしませんでした。
治された当事者にはイエスの言うことや振る舞いは良く理解出来ました。
しかし、周りで見ているユダヤ人たちはただその不思議(奇跡)に対してあれこれ言うだけです。
その理由はイエスをメシア、神の子との認識も信じることもせず絶えず疑いの目て見ていたからであり、イエスの行うことが自分たちから出ていないので、こうした傲慢な態度がユダヤ人たちの間に、そして、書士やパリサイ人、そして特にユダヤ人の最高法廷であるサンヘドリンの面々にもそうした態度がいわば伝染病のように広まっていたことが目に見えるようです。
彼らの傲慢さが目に見えるようです。
こうしたことは、例えば高い地位のある人が下のものから間違いを指摘されるとそれを受け入れないのに似ています。
彼らはイエスの行う奇跡を悪魔からのものだと言いましたが、こうした態度に関して、逆にイエスは、
「44 あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです。彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であって,[偽り]の父だからです。」
と言われたのです。
イエスはユダヤ人の人々に対して神により遣わされた者です。
それは、神がアブラハムと関係を持ってからのことでありそしてエデンでの宣言通り人類を救うための女の胤をイスラエルから興すため律法を与えその備えをさせたことはパウロの発言からもハッキリしています。-ローマ4章
しかし、多くのユダヤ人たちはイエスを信じませんでしたし、ついには、イエスを死に追いやったのです。
勿論、こうしたことは神の筋書き通りなのですが、ユダヤ人たちにはそれが分からず理解しようともしなかったのです。
この点初めにも書きましたが今の人間の方がイエスのことばを信じやすいのです。
その当時の当事者であるユダヤ人ではないからです。
今日多くの人は聖書の記述を神話のように見ていることは明らかです。
しかし、当時と同じようなことが今日まで世界で起き続けているのです。
イエスの時代からおよそ2000年経過しているため、イエスに関する聖書の記述は普通の人々には神話か伝説のようにしか見えないのです。
つまり、その当時の背景を知らず、また、その当時を生きていて見ていないので信じやすくなっているということです。
現実にユダヤ人のような期待や希望を持っていない世界中の普通の人々には、この神話のような話を現実としてではなくいわば美談として期待を抱き、ある人々は信仰心を抱いているのです。
もし、現代の人々がユダヤ人のような立場ならイエスを信じ信仰を持つ人が世界中に数億人から数十億人も存在することは有り得ないのです。
今世界中にこれ程のクリスチャンが存在するのは、いわば、悪魔からの者であり真実さが彼らの内にないからです。彼らが偽りを語るときには,自分の性向のままに語るからです。
つまり、真の神を信じていると言うかも知れませんが、世の支配者悪魔からのものであることを自らが示しているのです。
なぜなら、(ものみの塔を含めキリスト教の信者たち)彼らの信仰は聖書の真理に基づくものではなく、自分たちが作り上げたものの上に立っている信仰だからです。
悪魔の目的は一人でも多くの人を神から引き離すことです。
あなたはこれを理解していますか。
おそらく理解しておらず普通の生活を続けていることでしょう。
しかし、世の終わりが近づいていることは現実なのです。
物思いや空想や幻想に浸っている場合ではありません。
正に、ビルの屋上の隅に立っているような状況なのにそれを認識していないので、そのような危険な場所でも普通にしていられるのです。
しかし、そのビルの屋上から、いわば滑り落ちるのは時間の問題なのです。
もっとも、こうしたことを知らず「死を当たり前」という認識で生きている人にとっては「生き残る」ことはどうでも良いことです。
長生きをしたいとは思いますがいつかは死んでしまうことを全く受け入れてしまっているからです。
つまり、ビルの屋上から落ちて死ぬのは仕方がないことだと考えているのです。
おそらく、あなたもその一人かも知れません。
長生きをしたいとは思っても、今の世が終わることやその時を生き残ることなどは、丁度、イエスに対するユダヤ人のように信じることが出来ないのです。
イエスの弟子のうち直接イエスから指名されたのは十二人です。
その他の多くの弟子たちはイエスの行った奇跡を見たことによるものだと思われます。
更に、その弟子たちの言うことを信じた者たちが信者となって行きました。
それでも、イエスに信仰を持つ者すべてをイエスが受け入れる訳ではないことも示しています。
この点を殆どの人は気が付いていません。
もっと注意深く聖書を読むべきです。
最後の使徒ヨハネが亡くなった後、誰も「霊と真理」を持って神を崇拝することを指導出来る人がいなくなってしまいました。
そして、そこに悪魔が入り込んで今のキリスト教世界を作り上げたのです。
あなたにはこうしたことが理解出来ますか。
いわば、キリスト教の裏側の世界を見るようなものです。
それでもあなたはカトリックやプロテスタントなどの教会へ、ものみの塔の集会へ行きますか。
わたしなら決して行きません。
彼らに惑わされるだけだからです。
そうではなく、自分で聖書を読み神が心を開いて下さることを選びます。
聖書を読み素直に受け入れることは人間の常識や自分の理解に頼っている訳ではないことを示すものともなるのです。
ユダヤ人たちの例にあるように疑って見ることは物事の本質を見失うことになる場合もあるのです。
特に、頭が良く知識と唱えられているものを良く知っている人に見られる特徴です。
パウロはテモテに次のように助言しています。
テモテ(一)6:20
20 テモテよ,あなたに託されているものを守り,聖なる事柄を汚すむだ話や,誤って「知識」ととなえられているものによる反対論から離れなさい。
21 ある人たちは,そうした[知識]を見せびらかそうとしたために信仰からそれて行きました。
ヤコブは次のように述べています。
ヤコブ1:5-8
5 それで,あなた方の中に知恵の欠けた人がいるなら,その人は神に求めつづけなさい。[神]はすべての人に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです。そのようにすれば,それは与えられます。
6 しかし,信仰のうちに求めつづけるべきであり,疑うようなことがあってはなりません。疑う人は,風に吹かれて揺れ動く海の波のようだからです。
7 実際,その人は自分がエホバから何かをいただけるなどと思ってはなりません。
8 その人は優柔不断であり,そのすべての道において不安定です。
人は自分の心をコントロールしなくてはなりません。
時として、自分の気持ち、感情、立場、誇りなどを考えもっと重要な点を見過ごしている場合は多いものです。
自分の思いが常に優先されているので気が付きにくいものです。
特に欲望や誘惑に関しては。
誰かに諭されて初めて気が付くという場合もあります。
人間の過ちの多くはこうしたことから生まれているのです。
実際、わたしも出来事を振り返るまでこの点に気が付かない場合も多々あります。
わたしの場合は何事においても物事を熟慮するので、遅れても最も重要な点を理解出来る場合が少なくありません。
これはわたしの能力と言っても良いかも知れません。
あなたにも同じ能力が備わっているのです。
後は、それを意識して活用することです。
そうすれば世界が違って見えるかも知れませんョ。
最後に、もう一度繰り返します。
ヨハネ8章
30 これらのことを話しておられる間に,多くの者が彼に信仰を持った。
しかし、彼らに次のようにも語っています。
44 あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです。
そして、そのユダヤ人たちはイエスと問答の上、イエスから離れて行きました。
つまり、イエスに信仰を持ってもイエスに受け入れられる訳ではないということです。
イエスに信仰を持ちそれが受け入れられる人は、
ヨハネ8章
31 そこでイエスは,自分を信じたユダヤ人たちにさらにこう言われた。「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,
32 また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」。
人は真理をすべて理解している訳でも出来る訳でもありません。
残された道はただ一つです。
神とイエスを信じることです。
そして、理由を知らなくても理解出来なくてもお二人に従うことです。
イエスの十二使徒のたちもそのようにしてきました。
これ以外に正しい生き方をすることは人には出来ないのです。
どんなに能力があっても傲慢になってはならずむしろ謙遜になる必要があるのです。
例えば、誰かに苦情などを言われたら、苦情のことを考えるのではなく相手を理解することです。
そうすれば相手がなぜ苦情を言ったのかを理解し自分を改めさせることを容易にするのです。
誰でも苦情を言うにはそれなりの理由があるのです。
その理由を探ることから始めるべきなのです。
決して、苦情を言われた不快な感情のままに口論をしてはならないのです。
人は賢くあるべきなのです。
わたしは自分の思いでこうしたことを書いています。
以前にも書きましたが、わたしは神とイエスに全幅の信頼を置いています。
そのため、聖書に関する事柄で理解や用語の用い方で誤りがあったとしても本質的な齟齬は殆どないと思っています。
それは聖書に齟齬が全くないからでもあります。
神の考えは初めから終わりまで一貫しています。
ですから、わたしも安心して自分の思いを書くことが出来ているのです。
例え、間違っていたとしてもそれはいつか神が正してくれるからです。
それはわたしが傲慢でも意地を張ることもしないからです。
あらゆる考えを神とイエスと一致するよう日々努力を続けています。
それでも時として正義感が強すぎて誰かを批判することも少なくありません。
そのような時でも聖書から正しい答えを見い出すことに努めています。
悪魔に誘惑されないためでもあります。
パウロはクリスチャンたちに次のように述べています。
エフェソス4:26-32
26 憤っても,罪を犯してはなりません。あなた方が怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい。
27 悪魔にすきを与えてもなりません。
28 盗む者はもう盗んではなりません。むしろ,骨折って働き,自分の手で良い業を行ない,窮乏している人に分け与えることができるようにしなさい。
29 腐ったことばをあなた方の口から出さないようにしなさい。むしろ,必要に応じ,どんなことにせよ築き上げるのに良いことばを[出して],聞く人たちに恵みとなるようにしなさい。
30 また,神の聖霊を悲しませることのないようにしなさい。贖いによる釈放の日のために,あなた方はそれをもって証印を押されたのです。
(聖霊を悲しませると述べて、聖霊に感情があるかのような表現になっていますが、これは聖霊の源で
ある神を悲しませることの無いようにという意味です。
聖霊は神の活動力、つまり、エネルギーのような存在であり感情を持っている訳ではありません)
31 すべて悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪と共にあなた方から除き去りなさい。
32 そして,互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなく許してくださったように,あなた方も互いに惜しみなく許し合いなさい。
世の中のすべての人にこのようにあるべきだと述べた訳ではありませんのでこの点誤解のないように。