知恵を求める人のためのブログです。
初めに、この投稿は少し長いです。
このコラムを読むと分かりますが、
「命」というと分かっているようでありながらはっきりしないテーマです。
それは、生物学的な「命」と精神的な「命」これに宗教的な「命」などが含まれているからです。
これらが入り混じって説明していますので、少し分かりにくくなっています。
そのため、時間を掛けて何度も推敲しました。
結論から言えば、すべての命は「神のもの」です。
人間の命は、最初の人間アダムとエバに与えられ、後の子孫は二人から命を継承しているだけなので、すべての人間の命は神から与えられたものなのです。
あなたはこのような考えをどう思いますか?
それとも進化論のように「無作為の偶然の産物」(生物学的な命)と考えますか?
もし、そうであれば人類に、あるいは、個々の人間に生きる目的が存在せず、皆が皆好き勝手に生きることになります。
人間だけが持っている「高度な理知」の存在理由も「善悪」もないことになります。
しかし、すべての人間は「理知」を持っており、また、善悪を判断する良心も道徳心も持っています。
社会に法というものが存在する以前からこうした特質を人間は持っていたのです。
例えば、放送などでホモサピエンスや原始人などについて説明する時に、人間にはこうした特質あることが示されています。
決して野蛮人のようには説明していないのです。
これをどのように説明するのでしょうか?
こうしたことは普通に考えても、決して偶然には存在しないことは誰にでも分かることです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
次に、漠然としていますが「命」とはなにか、という問いにあなたはどう答えますか?
人は誰でも「生きている」ことを実感しています。
それは、美味しいものを食べたり、好きなことをしたり、仕事をしたり、親しい友達と仲良くしたり、ケンカしたり、争ったり、悩んだりといろいろ「生きている」ことを実感しています。
人は「命」があるから「生きている」と考えています。
では、人を生かしている「命」とは何でしょうか?
それは、例えれば、電化製品とそれを動かす電気(エネルギー)に例えることが出来ます。
電化製品を人間の体に、電気を「命」と考えれば、
電化製品を動かしているのは電気であるように、人間の体を動かしているのは「命」です。
電気が目に見えないように、「命」も目には見えません。
電気は測定器を用いればそれを数値で見ることが出来ますが、
「命」はそれが宿す生き物が「活動」しているのを見て「生きている=命がある」ことを知ることが出来ます。
「命」とは「生きること」「生きていること」を指す別の言葉です。
「生きている」ことは活動していることで分かりますが、「生きる」という言葉は抽象的な言葉です。
つまり、「生きる」ということの「表象」は活動すること(目に見えること)であり、「生きる」ということの側面や性質は「抽象」(目に見えないこと)なのです。
「命」ということに関しても同様であると言えます。(哲学的な説明ですが)
また、一般的に「命」と「血」は結び付けられています。
「血」と「生きる」も結び付けられています。
ですから、
「命」「血」「生きる」これらは同義語なのです。
聖書の中でも、「血」と「命」と関連付けられている個所は沢山あります。
「命」のことを「生命」と言ったりもします。
「命」とは、生物の生きてゆく原動力、生命力と定義されています。
「生命」とは、生物として存在する本源(みなもと)、生活現象から抽象(表面上の具体的な事柄を除いたもの)される一般的概念と定義されています。
この説明から分かるように、「命」「生命」とはエネルギーの一つでもあると定義されます。
したがって、「命」の実体は「見えません」が「確かめる」ことは出来ます。
また、「命や生命」というとどうしても、「生きることや生殖」について考えることになります。
その実体は、何かと問われると具体的には説明しにくいものなのです。
そのため、電化製品を肉体に、それを動かす原動力である電気エネルギーを命に例えて説明するのです。
この電気も存在は明確ですが、その実体は「見えないもの」です。
配線の中の銅線の中を流れているということは分かりますし、コンセントであれば触れると感電するのではっきりします。
検電計で確認するということも出来ます。
あるいは、配線の周囲の磁界を測定することで確認することも出来ます。
この磁界も直接は見ることは出来ません。
鉄粉などを用いると、磁界は目ではっきりと見ることが出来ます。
電気は電流計やオシロスコープが無ければその大きさや性質などを確認することが出来ません。
「命」に関しては、電流計のような測定器は、存在していないのです。
人は、活動を通して「命」の存在を確認しているだけなのです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この実体の見えないものに関して、
聖書でも、「(アダム)の鼻孔に命の息を吹き入れた。すると人は生きた魂になった」と記されています。
つまり、「命と生きること、生きていること」と結び付けられているということです。
また、「生きることは呼吸によって支えられている」という点も分かります。
神は人間の創造者であり、命の与え主であるということに疑いはありません。
タイトルにあるように「命は誰のもの」かという問いの意味は、「命」の用い方に対する問いでもあります。
そのため、「生きること」あるいは「人生」ということを考える人もいれば、「誰のために生きるのか」ということを考える人もいます。
もし、この質問を誰かにすると、「自分のもの」と答えると思います。
自分で「自由にすることが出来るもの」と考えていることが分かります。
これは、「自由に生きる」という意味でもあります。
神は何のために、人に「命」を与えたのでしょうか。
それは、地(地球とその中のあらゆる生き物)を従わせ(管理し)、子を生んで子らを従わせるためでした。
-創世記1:26-28
そのために、人は神のように、「理知ある者」として創造されたのです。
初めは、「他の生き物」の中から探しましたが「人の助け手」になるものは見出されませんでした。
そのため、新たに「女」を、「男の助け手」として創造されました。
子を産んだり家族の世話をするために女は創造されたのです。
単に「命」「生きる」ということだけを考えると以上のようになりますが、
人間が持っている「理知」「良心」「道徳心」「善悪の判断」「思考」「信仰心」「生きる意義」などについてはどのように説明するのでしょうか。
これら精神的要素も「生きる」ことの一環であり「命の用い方=どのように生きるか」の中心的要素であることに異論を唱える人はいないと思います。
この点に関する説明は「抽象」ですが、活動を通して確認することが出来ます。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
しかし、親がクリスチャンでない限り、生まれて来た子供は何のために生まれて来たのか(真の目的)を知りません。
実際、殆どの人は自分の存在理由を知りません。
そのため、各々自分で好きなように生きている訳です。
それゆえ、地には争いが絶えず、犯罪も多いのです。
殆どの人は「自分の存在理由」と「生きる目的」を知らないのです。
今多くの人が抱いている「存在理由」や「生きる目的」は、各々の人間が生きている過程の中で「生きる意義」を見出すために「後天的に付け加えたもの」です。
これは「理知」という精神作用の働きです。
ある子供は次のように言ったことがあります。
「産んでくれと頼んだ覚えはない」とか、「勝手に産んでおいて」などと。
「思い通りにならない苛立ち」に対してこのようなことを言ったり思ったりする場合があります。
あなたもそのように思ったり感じたことはありませんか?
しかし、大人であれ、子供であれ、「真理」を求めている人にとって「命は誰のものか」ということは重要な質問となります。
その答えで「人生が変わる」かも知れないからです。
あなたは親から受け継いだ「命」は「誰のものだ」と思いますか?
自分のもので自分の自由に出来ると思っていますか?
「命」が神から与えられたものであると知ってもそのように思いますか?
神が人間を創造した目的や存在理由を知っても同じ考えですか?
これらの問いに対する返答と実際の行動、振る舞いによって神のご加護、憐み、祝福などを受けられるか否かが決まると言われても同じ考えですか?
***************************************
1 まず「命」の源、その初めである生殖(生物学的)に関して考えてみたいと思います。
父親の精子と母親の卵子は凍結保存すると100年先でも解凍し受精させると人間が誕生します。
まるで、植物の種のようです。
植物の種は、乾燥状態を維持すれば何千年経っても、土に植えれば再び芽を出します。
人間の精子と卵子は逆に凍結しなければなりませんが、同じようなことが出来ることが分かっています。
実際に、行われてもいます。
しかし、一度受精するとその「命」は限られたものとなってしまいます。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
卵子と精子は幾つもの細胞から出来ている人間の胎内で作られた「個体」です。
精子は頭部(先体と精核)と中片(中心体とミトコンドリア)と尾部(微小管)という構造をしたオタマジャクシのような「生き物」です。
自分で動くことが出来ます。
卵子の構造は卵核・表層粒・卵膜・ゼリー層という構造をした鶏の卵のような(ただし、卵の殻はありません)「生き物」です。
卵子は人間の細胞の中で最も大きい細胞です。
卵子のゼリー層は精子が1匹だけ卵子の中に入れるようにし流産を防ぐ役割をしています。
いわゆる、それぞれ1個の単細胞が合体して人間が誕生する訳ではありません。
卵子は鶏の卵の中身のようであり、受精するとこの卵子が細胞分裂し最終的には約60兆個の細胞でなる人間になるのです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
受精した卵子は細胞分裂を繰り返し、神が定めた時程表に従って、体を構成する様々な臓器や骨などを形成して行きます。
女性の体内には卵巣という器官があり、そこには出生時点で約100万個の卵子が格納されていますが、この中から、一生の間に約400~500個の卵子が成熟し、排卵されることになります。
精子が作られるのは、精巣のなかにミカンの房のような形で納まっている精細管(せいさいかん)という部分です。卵子と同じように、原始生殖細胞である精細胞が分裂して精子になります。
精巣の中で平均74日かけて作られ、毎日1億2000万個も作られます。
一回の射精で射出された2~4mlの精液中に約3億個あると言われています。
受精するのはこの内の1個だけなのです。
卵細胞は分裂しても1つの卵子しか成熟しないのに対し、
精子は分裂した細胞がほぼすべて成熟した精子になるという特徴があります。
この卵子1個に精子が1個侵入することで、二つの命が一つの細胞で合体し、「一個の命」となるのです。
この「1個の命」が細胞分裂により、最終的に約60兆個の、各々の命となる訳です。
しかし、体は「新陳代謝」を繰り返し、常に、細胞が生まれ変わっています。
つまり、約60兆個の細胞の大部分が毎日のように生まれ変わっているということです。
死んだ細胞はいわゆる「垢」となったり、老廃物として体外に排泄されます。
「細胞の新陳代謝」の周期は部位によって異なり、
胃腸の細胞は約5日周期
心臓は約22日周期
肌の細胞は約28日周期
筋肉や肝臓などは約2ヶ月間の周期
骨の細胞は約3ヶ月周期
細胞の新陳代謝が正常であれば身体は3ヶ月で新しく生まれ変わると言われています。
このように新陳代謝は生命維持には欠かせない仕組みです。
***************************************
2 次に、身体の機能的な点に関して述べてみたいと思います。
命の継承は複雑で、単に卵子と精子が受精して細胞分裂を繰り返して人間が誕生するという単純なものではないということが分かります。
初めは1個の細胞の「1個の命」がやがては60兆個の「命」の合体となるのです。
つまり、細胞分裂により、「命」もいわば分裂し増加していくのです。
その中で骨や各臓器や皮膚や目や耳や口や手や足や脳などがグループとして形成し、各々一つの機能を有するようになり、すべての機能が連携した人間が誕生するのです。
また、人間の活動は脳からの体の肢体への指令と連携により行われています。
これは、脳で形成される「意思」の働きによるものです。
幾つかの細胞が集まって脳を形成し、大脳(終脳)、間脳(視床、視床下部)、脳幹(間脳、中脳、橋、延髄)、小脳に区分されています。
大脳皮質の役割は中心溝(ローランド溝)を境にして、前頭葉では運動や創造などの出力に関係し、頭頂葉、後頭葉、側頭葉は視覚や聴覚など受容器からの入力を担っています。
運動機能にかかわる運動野、身体のどこかに何がしらの感覚を感じる体性感覚野、物体を見る視覚野、音を聞く聴覚野のほかに、広い領域を占める運動性言語野(ブローカ中枢)、感覚性言語野(ウェルニッケ中枢)、視覚性言語野などがあります。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
脳が最も複雑な部位で、各部分によってそれぞれの機能が異なります。
これらが「意思により」思い通りに働くので人間は活動が出来ます。
しかし、いわゆる五感は物理的反応ですが、意思や思考や記憶や言葉を話すことなどの「実体」は何処にあるかは不明です。
例えば、足をどこかにぶつけると脳は痛みを感じますが、実際、痛い箇所は足なので、その痛い箇所を手でさすったりします。
意思や思考と言った類のものは、脳の中に発生する「電磁波やある種雲のようなもやもや」とした存在なのです。
神経の中を微弱な電流が流れて脳からの指令が体の各肢体に伝達されたり、五感などの刺激が脳に伝わっていることは知られているところです。
そのため、いわゆる脳波(電磁波)を調べることが可能となっています。
普通電磁波は金属に誘因し電流を生じさせたり磁界を生じさせますが、脳の場合は非金属でそれが起こるのです。
この仕組みは誰にも分かっていません。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
私がここで最も言いたいのは、
始めは1個の細胞だったものが細胞分裂を繰り返し、時程表に従って体の各部分が形成されていきますが、
ある臓器が完成すると、あたかも1個の完成品のように機能し始めるということです。
心臓は血液の循環を、
胃や十二指腸やすい臓や胆嚢や小腸や大腸などは消化と吸収を、
肝臓は消化器官から吸収された栄養を分解貯蔵し、
腎臓は血管内を流れる細胞の老廃物を取り除き排泄させ、
肺は血液から二酸化炭素を取り酸素を入れるという、いわゆる交換が行なわれ、血液はヘモグロビンを介して細胞に酸素を供給する
と言ったことなどを機能ごとに各々独自に行っているという点です。
脳はすべてを意識的に、また、無意識の内に(自律的に)コントロールし、
人間の活動は意識的に、生命維持活動は自律的に作用しています。
しかし、体の各器官は、体内で「おのおの小さい電化製品」が作られ、完成すると機能も各々独自に開始しているのです。
このように動き出すと言う物理的な点は理解出来ても、
意識、思考、思い、感情、記憶などはその実体がどこにどのように存在しているかははっきりしていないのです。ただし、これらの働き(活動)は分かっています。
人は集団でいると、そこにある種の空気感が生まれます。
この空気感がいわば集団の思い、感情のようなものです。
あるいは、ある装置を作った時、その装置があたかも人間の意思を持っているかのような動き、反応などをすることがあります。
これに似たようなことが脳の中で起きていると考えられるのです。
このブログを読んでいるあなたも、読んで理解したり考えたりしていると思いますが、それが脳の中でどのようになされているかははっきりしていないのです。
人間の意識、思考、思い、感情、記憶などは脳の働きであることを知っていますが、その実体がどのようなものかが分かっていませんが、こうしたことは、胎内で脳が形成された時から始まっているです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この「命」は、例えれば電気製品の電気エネルギーであり、電気が供給されなくなるとその電気製品が動かなくなるように、人間も「命」を失うと体の機能を維持出来なくなり死んでしまいます。
それは、電化製品がそうであるように直ちに動かなくなります。
電化製品は様々な部品の集合体です。
その部品の各々に「適切な電流や電圧」が加わり、全体が正常に動作して初めてその製品が稼働するわけです。
また、様々な電気製品があるように、人間も様々な能力を持つ人が大勢います。
しかし、電気製品を動かしている電気エネルギーはすべて同じもの「共通」しているように「命」も同じなのです。
それゆえ、臓器移植が可能になるのです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
細胞一つひとつに、いわば、超小型発電機を持っているようなものです。
その働きをするのがミトコンドリアと言われています。
細胞分裂の時に、これも分裂、もしくは、分割していくのです。
細胞内におけるミトコンドリアの重要な役割としては、エネルギー(アデノシン三リン酸;ATP)の産生です。
それ以外にも、細胞内カルシウムイオン濃度の調節や脂質の酸化、また近年は免疫反応においても不可欠な働きをしていることが明らかになっています。
細胞の活動を支えているのは、酸素や様々な栄養素です。
つまり、
呼吸と食物によって支えられているのです。
呼吸は自発的、また、自律的なものです。
食物は人間の意思によるもので、体外から与えられるものです。
物理的には、細胞のミトコンドリアが人を生かしていると言えます。
人間の活動エネルギー、つまり、「命」はミトコンドリアの働きによるものであり、それは呼吸や食物(栄養)によって支えられているのです。
創世記2:7-9には次のように記されています。
「7 それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。
8 さらに,エホバ神はエデンに,その東のほうに園を設け,ご自分が形造った人をそこに置かれた。
9 そうしてエホバ神は,見て好ましく食物として良いあらゆる木を地面から生えさせ・・・」
聖書には、人類が最近分かったことが、その初めから記されていたのです。
正(まさ)しく、聖書が神による書であることの証明の一つとなるのではありませんか?
一言で「命」と言いますが、
実際は、活動するためのエネルギーであり、それはおよそ60兆個の個々の細胞の中で「生み出されている」のです。
そういう仕組みを作られたのは神であり、細胞を活動させるために「命の息」を鼻孔から吹き入れられたのは神なのです。
以後、人間は精巧に作られた機械仕掛けのように、神の仕組みによって「自立的に活動する生き物」になったのです。
理知という点を除けば、他の動物も同じです。
簡単に言えば、神は人間の一つひとつの細胞の中に「エネルギー発生装置」を作られたということです。
これは、「動力源」としての「命」です。
それは、親から遺伝的に継承されて行くものです。
それを活動させるために、神は人間の鼻孔から命の息を吹き入れられたのです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
以上のことを考慮すると、
人間の「命」は約60兆個の「命」の集合体でありながら、人間の活動を支配しているのは「脳」です。
人間の「命」を支えているのは、いわゆる自律神経系であり、これらは、神の創造の仕組みで「自動的に働いています」
従がって、人間の「命」は、受精後胎内で脳が形成され意識、思考、思い、感情、記憶などが活動し始めた時から、その人自身が支配していると言えます。
しかし、この時はまだ胎内のため「命」は母体に依存しています。
誕生から自分の意思をはっきり持つ10歳位までは、自分の命を自分でコントロールしてはいません。
いわゆる自我が芽生えて、初めて人間は自分の「命」をコントロールしていると言えるのです。
***************************************
3 では、「自分の命はだれのものか」ということについて述べてみたいと思います。
細胞一つひとつの「命」は親から受け継いだものであり、それは最初に神がアダムに与えたものなのです。
その集合体をコントロールしているのが「脳」であり、人間の活動をコントロールしているのは、人間の「意思」です。
従って、「自分の意思」で自分の活動をコントロールし始めてからは、「自分の命に対する責任は自分自身にある」と言えます。
そして、人間には「この命を守るべき責任がある」のす。
なぜなら、
神は人間に、地上のあらゆる生き物と子孫を従わせよと命じられたからです。
人間は生きている限りこの責任を果たさなければならないのです。
繰り返しになりますが、
命には二系統があります。
1 体全体を支配し活動させている「命」
2 およそ60兆個の個々の細胞を活動させている「命」
1は2によって支えられています。
体全体の活動は「脳」によって行われます。
意識的な活動、無意識の活動、体の生命維持機能などなど。
個々の細胞の活動は、自分の意思とは無関係に自律したものです。
ただし、体の仕組みの中で、各臓器などが「ホルモン」というメッセージ物質を放出し互いに連携していることが分かっています。
時には、精神(気持ちや感情など)がそれらに影響を与えることも知られています。
また、脳が死んでも体が生きているという場合もあります。
いわゆる脳死状態です。
普通、脳が死ぬと体の活動(意識的な)が停止するので、自力で食べたり排泄したりすることが出来なくなるので、いわば、飢餓状態になって体の個々の細胞が死に体の機能が停止し死ぬことになります。
今では、脳の活動が停止しても(脳死状態)人工的に栄養を与えたり排泄を処理させることで体を生き続けさせることが出来ています。
あるいは人工心肺装置(自立呼吸が出来ない場合)で「生かされている」場合もあります。
これを、植物状態と言います。
これにより、臓器移植を可能にしました。
他方、体の肢体、つまり、ある部分だけの機能を失うこともあります。
手や足を失ったり、視覚や聴覚などを失ったりすることがあります。
また、腫瘍により細胞が死に、何かの臓器の機能が破壊される場合などもあります。
がんの場合は細胞事体は生きていますが、正常な状態での活動ではないので、その部位の機能が破壊されます。
これらにより失った臓器などの機能が、いわゆる生命維持のどれかの機能を失わせると体全体の活動も停止することになります。
つまり、死ぬ訳です。
脳死状態における「命」は誰のものでしょうか。
脳が活動していないので「自分」というものが存在していません。
しかし、体そのものはまだ死んでいないのです。
自分というものが存在しないその体の命は一体だれのものか、様々な論議を呼ぶところです。
自分という意思が存在しなくても、その体はその人のものだと考える人もいると思います。
しかし、臓器移植をする時には、本人の遺言や親族の意思で提供される場合もあります。
臓器は「生きている」「命がある」のからです。
脳だけが、いわゆる死んでいるのです。
臓器移植は、他人に自分の臓器、ある意味「命」を提供することです。
つまり、文字通り「命」のやり取りをすることです。
自分の「命」の一部を誰かに提供することです。
この点、聖書の原則は、
「3 生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わた
しはそれを皆あなた方に確かに与える。
4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。
5 さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求
める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。
6 だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからであ
る。」-創世記9:3-6
動物の血だけでなく人の血に関しても付け加えています。
ただ食べるだけでなく流すことに対しても「血の返済」(これは死を求めることを意味しています)を求めると述べています。
人の血を流すということは殺すということであり、人を殺したら自分の血も流させられる=殺されるということです。
臓器移植は「命のやり取り」です。
この「命のやり取り」をあなたはどう思いますか?
誰かの命を救うためには臓器移植をしても「血の返済」を免れると考えますか?
「血の返済」を求めるのは神です。
「血」=「命」の返済を求めるのは神なのです。
つまり、神は罪の代償としてご自分のものである「命」を「人」に求めるのです。
神がアダムから「永遠の命」を、いわば、取り去ったのと同じことです。
これは、「命」が神から貸与されたということの証とも言えます。
単に「命」の代償を求めるだけではないのです。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「人間の人間たる所以」は、神によって付与された「理知」という能力によります。
人間活動は主に精神作用で行われるます。
精神作用により体を動かすには脳から発する微弱な電気が必要です。
その電気=信号が神経を介して体の各部分に伝わることで行われています。
つまり、
脳の中にも「発電機能」があるということです。
この発電も基本的にはミトコンドリアと同じく「呼吸や食物」で支えられています。
ですが、脳の場合は、他の細胞や臓器とは異なり、脳全体に様々な部位が沢山存在しています。
脳の信号の伝達経路や仕組みは分かっていますが、神経を通る信号=微弱な電気の発生の仕方は以下の通りかも知れません。
局部的には、
“出力装置”である軸索の末端は「シナプス」と呼ばれ、このシナプスには数万分の1mmほどのすき間「シナプス間隙」があり、軸索を伝わってきた電気信号は、このすき間を飛び越えることはできないため、電気信号が伝わってくると、シナプスにある小胞から「神経伝達物質」という化学物質が、シナプス間隙に分泌され、神経伝達物質が、次のニューロンの細胞膜にある受容体に結合すると、電気信号が生まれ情報が伝達されるとされています。
脳の全体では、
前頭葉では、司る領域によってさらに「前頭連合野」「ブローカ野」「運動前野」「補足運動野」「前頭眼野」「一次運動野」が、
側頭葉では,聴覚認知,言語の受容,視覚的な記憶,言語的な記憶,および感情に関わる野が、
後頭葉では、一次視覚野、視覚連合野が、
島では内臓からの感覚および自律神経情報を統合し、
辺縁葉(辺縁系)では,脳の様々な領域から入力を受け取る構造や,相互に関連する複雑な機能(例,記憶,学習,感情)に関与する領域が
あることが知られており、
これらの各々から、電気信号が発生されそれが神経細胞を経由して体の細部に伝達されていくのです。
電気信号の発生メカニズムは脳にある「化学物質」によります。
ですから、例えば、脳梗塞になり脳の一部が破壊されると手や足を動かせなくなるのは、この化学物質を生じさせる事が出来なくなるからです。
脳の中に不要な化学物質が蓄積されると、アルツハイマーが生じると言われています。
その物質が脳の活動を制限させたり異常を生じさせるからです。
脳の活動は、運動のみならず精神などについても同様に活動します。
特に、精神的活動(思考、記憶、感情、気持ち、思いなど)というものはどのようになされているのか物理的には分かっていません。
ただ、表面上現れる精神活動を分析したり脳の活動分野を確認することで、これらの作用を確かめているだけなのです。
人は上記のような「人間の仕組み」については殆ど意識しません。
意識するのは、呼吸と食物位のものです。
したがって、
人間が「命」ということばを意識する時には、
人間の精神作用による、体全体の活動を指すことが殆どなのです。
人が人として、最も重要な点は、思想、活動、振る舞い、人格や性質などです。
これらの活動を称して、時に、「命の用い方」などと言うことがあります。
聖書の中で「命」に関連して述べられているのはこの点に関してのみです。
神が人間に責任を追及するのはこの点なのです。
しかし、その活動の「土台」を据えたのは、つまり、文字通りの「命、生命」を付与されたのは神です。
したがって、
人間は、精神によって自分の行動に責任を持つことで、つまり、肉体の活動をコントロールすることで、自分の行いに責任を持つことになるのです。
その肉体の活動を支えているのが個々の細胞の中のエネルギー源であるミトコンドリアであり、
こうしたことは親から受け継いだものであり、そのような仕組みを作られたのは神なのです。
人は神によって創造されたので、いわば、人間は神のものと言えます。
人間活動を支えるエネルギーつまり命は神から与えられたものですが、
それは、いわば、神が人に貸与したものなのです。
ですから、人は「命」を身勝手に用いてはならないのです。
命は神のものなのです。
***************************************
動物を生かしている「命」も、人間を生かしている「命」も「同じもの」です。
その良い例が、
豚の肝臓を人間に移植しても人間は生きていることからも分かります。
電気が「目に見えない」ように「命(エネルギー)」も「見ることは出来ません」
しかし、その働きによって、その存在ははっきりしています。
この観点から考えた「人の死」は二種類あることになります。
1 命である電気エネルギーを失った時、つまり、神が命を取り去った時
例えば、エノク、モーセ、エリヤなどは肉体的には生き続けられたのに、神が命を取り去ったの
です。(殺した訳ではありません。いわば、存在そのものを隠したようなものです)
2 電気製品が故障した時、つまり、体の機能を維持出来なくなった時(病気、事故、ケガ、暴力、
自殺、他殺、老衰など)
電気エネルギーは失ってはいませんが、製品そのものが動かなくなった場合です。
体の機能を失い、それと共に脳の機能も失うと体の活動を停止することになります。
神に対し罪を犯した人の命は取り去られ死ぬことになります。
実際、すべての人は罪を犯したのですべての人は必ず死ぬことになるということです。
これに逆らうことの出来る人は一人もいません。
すべての人は必ず死ぬのです。
「命」は神の元に帰るのです。
創世記3:16-19には次のように記されています。
「16 女に対してはこう言われた。「わたしはあなたの妊娠の苦痛を大いに増す。あなたは産みの苦しみをもって子を産む。あなたが慕い求めるのはあなたの夫であり,彼はあなたを支配するであろう」。
17 また,アダムに対してこう言われた。「あなたが妻の声に従い,わたしが命じて,『それから食べてはならない』と言っておいたその木から食べるようになったため,地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは,命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。
18 そして,それはいばらとあざみをあなたのために生えさせ,あなたは野の草木を食べなければならない。
19 あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」。
***************************************
他の生き物と人間との違いとしては、
「生理現象などから生じる欲求」などは基本的には「動物と同じ」ですが、
「基本的な道徳理念や良心」などは初めから(生まれた時から)すべての人間に共通して付与されているという点が異なり、そのため、人間が他の生き物や人を殺したり暴力を振るったり暴言や卑猥な言動などをした場合、各々にこの道徳や良心が作用するのです。
加えて、人間は「神と似た様に創造されている」ので、他の動物のような本能ではなく、人間は活動すべてにおいて、自ら考えて活動をしなければならないのです。
人間に付与された理知は、物事の善し悪しの判断だったり、欲を含め物事を成し遂げる時の知恵だったりする時に働きます。
アダムは「善悪の知識の木の実」を食べてはならないという「規制(法)」も与えられました。
これは、人間を試すためでもありました。
神の命令に従うか否かは自分で決め、その責任を果たすかどうかを試されたのです。
当初アダムは、これだけ、たった一つのおきてを守るだけで良かったのですが「失敗」してしまったのです。
そのため、アダムから受け継いだ罪は全人類に及び、そのためすべて人の「命」は取り去られる(死ぬ)のです。
参考:この点、神は、み使いが自分に反抗したり、人間がおきてを守らなくなることを「見越して」しばらく様子を見ていたかも知れません。
そうでなければ、試す意味がないからです。
勿論、それは、悪の容認ではなく、み使いや人間が神に逆らう様を、他のみ使いたちに示すためでもあり、その後、彼らに与える「罰」が正当なものであることを理解させるためだったのです。
(参考:こうして神はご自分が「高慢で恐ろしい神である」ということを払拭しているのです。)
神にとって、人間の責任を追及し罰することは「容易」なことです。
加えて、人間に地球の管理という仕事を与え、また、子孫を増やすように命じられました。
また、その子孫を従わせよという命令も付与されました。
当然ですが、神から与えられた命令を実行するために、神は人間に理知を付与されたのです。
自分の欲望を満たすため、神から与えられたこの理知を用いることは「悪用」なのです。
「悪用」とは、神のご意思に反した行為のことです。
しかし、人間は「善悪の知識の実」を食べることに関しても、地球を管理することに関しても、子孫を従わせよということに関しても、すべて「失敗」しました。
この責任の一端は、「一人のみ使い、悪魔となったみ使い」にあることは明白であり、
神はこの者を特定の期間自由にさせることで、神から離反したその後の人間(アダムの子孫)の本心を見極め、人々を区別することにしたのです。
また、
離反した人類を救う手立て(イエス・キリストの犠牲)を設けられたのは「神の人に対する愛情」であり、それを実行されました。
その後、天地のすべての権威をその手立て、つまり、人間として遣わされた一人のみ使い、人間イエス・キリストに委ねられたのです。
それは、イエスが死に至るまで神に忠実だったからであり、すべての活動に於いて「神に誉れと栄光を帰したから」です。
神が唯一最も信頼できる「被造物」が神の初子、人間イエス・キリストとなった「神の独り子」なのです。
そして、そのイエスは「神性、もしくは、神聖」を備えているので、基本的に神と異なる点がありません。
ヨハネはこれを称して、イエスは「神(a god)であった」と記しているのです。
イエス・キリストは天に戻られ霊者として以前の「体(霊の体)」を復活させられ、神から与えられた権威を行使するのです。
その権威が地上に及ぶのは、神が地上から現在の体制を、悪のすべて滅ぼされてからのことです。
神にとって「人の命は軽いもの」です。
悪人を虫けらのように「殺す」ことは「容易(たやす)い」ことであり、当然の報いと考えていることは明らかです。
人間のように「命は地球より重い」などとは考えないのです。
人間が考えている程、神は人間の命を重要なものとは考えてはいないということです。
神にとって、人間の命を「復活」させることも「容易なこと」だからです。
神にとって、最も重要なことは「ご自分に従うか否か」という、この1点なのです。
これは、今でも「変わってはいません」。
ただ、多くの人はこのことを知らないだけです。
真の神について人々に教え、そのおきてを守らせる点でも人は失敗したのです。
人類を救う神の手立てである人間イエス・キリストの命に関しては、これは「ご自分が定めたルール」に従ったもので「特別なもの」でした。
いわば、神は「人間の命」を「人間の命」で買い戻す(取り戻した)ために利用されたのです。
買戻しは、対等の価値のあるものでなければならないことは、神に捧げる犠牲を見れば明らかです。
他の人間のどんな「命」に関しても、神にとっては軽いものです。
ただ、その人間の神に対する振る舞いにより「憐み」を示されることはあります。
いわば、「恵まれた人」です。
その初めがアダムから七代目のエノクであり、ノアの大洪水の時のノアであり(家族は人類を増やすために残されたのです)アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、サムエル、エリヤ、エズラ、ネヘミヤ、エゼキエル、バプテストのヨハネなどです。
これらは皆「神=エホバの模範的な崇拝者」でした。
イエス・キリストにすべての権威を付与された後は、その憐みはイエス・キリストにより「イエス・キリストの弟子たち」に向けられることになりました。
従って、この憐みは、
キリスト以前は神により、キリスト以後はイエスにより示されるのです。
聖書には、キリストは二種類の人々に憐みを示すことが記されています。
「囲いの中の羊」と「囲いの外の羊」です。
囲いの中の羊は、囲いが示すように特別な存在として取り分けられた者たちでその門番はイエスで、その数は限定されたものですが、囲いの外の羊の数は限定されていないません。
つまり、どれだけの人々が「救われる」かは分からないということです。
この囲いの中の羊は、人間として生まれ霊者として天に復活しイエス・キリスト共に「地を支配」する「神の王国」の一員となる特別な人々です。
そのため、イエス・キリストはその者たちを良く知っており、その資格のある者たちを集めることを「ご自分のみ使い」たちに命じられました。
人間に命じられたのではありません。
人間的に考えれば、神とイエスを信じ「バプテスマを受けたキリストの弟子」となる人々と考えられますが、
イエスは、この弟子たちをご自分の左右に分けられて、一方を永遠の命へと、他方を永遠の切断に入ると言われました。
ですから、キリストの弟子=クリスチャンすべてが「救われる」訳ではないことも明白です。
更に、このこととは「別」に弟子たちに「何をすべきかを命じられました。」
イエス・キリストが弟子たちに命じられたのは、
「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。
-マタイ28:18-20
いわゆる宣教について命じていますが、彼らに教えられバプテスマを受けたとしても、その人々の救いに関しては述べていない点を注目すべきです。
いわば、宣教はクリスチャンの使命ですが、それによって、神とキリストが栄光を受けるとしても、
それは、神とキリストの業であり、人間の業ではないので、
宣教をしたから、あるいは、熱心に宣教をしたからと言って、それだけで「命が保証」されるものではないのです。
イエスのこの命令に従わなくても「救われる人はいる」のです。
この点をものみの塔とエホバの証人たちは「誤解」しています。
「誤解」というより、ものみの塔は、その初めから、信者に宣教をするよう促して新しい信者を増やすことを意図的に画策したのです。
繰り返しますが、宣教はクリスチャンの「使命」なのです。
「命を保証するものではない」のです。
教えを受け、イエスの命令を守り行う人々だけが、上に述べたように更に「分けられ」、それらの人々を刈り取るのは、人間ではなく、イエスご自身とイエスの指示に従う「み使いたち」なのです。
救いに関しては、イエスは弟子たちだけに「終わりまで耐え忍んだ者が救われる者」であるとはっきりと述べています。
またその資質は啓示2章と3章の七つの手紙の中に示されています。
これらは、主に天でキリストと共になる人々、つまり、囲いの中の羊のことです。
囲いの外の数の限定されない人々は、キリストの千年王国の間に「地上で生きることを許された者たち」だと考えられます。
その数が限定されていないことから、
いわゆる、事物の体制の滅びを生き残る人々の数は「未定」であると考えられます。
つまり、
今生きている人々には、「生き残る人々」に含まれる「可能性」があるということです。
この囲いの外の羊たちは、囲いの中の羊のような「堅い信仰」を求められたり「厳しい試練に遭遇」するとは限りません。
生きている間に「試練が自分の身に生じるとは限らない」のです。
ただ、両者に共通しているのは「羊」であることです。
この「羊」は人間の「特質」「性質」を示しています。
例えば、
「羊」は大人しい性質であるのに対し「山羊」は攻撃的な性質を表しています。
イエスの指示に従って「集める」み使いたちは、その性質によって「見分ける」のです。
その「特質」は言葉や行動によって反映され、彼らを刈り取る天のみ使いにも「明らかに見える」のです。
その特質とは、
「14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。
15 その外にいるのは,犬,心霊術を行なう者,淫行の者,殺人をする者,偶像を礼拝する者,また,すべて偽りを好んでそれを行ないつづける者である」-啓示22:14-15
と示されています。
ここで示されている外にいる存在は、神の憐みも恵みも受けられない者たちのことです。
これに先駆けて、パウロは、
19 さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。-ガラテア5:19-23
これらの特質によって、人は見分けられるのです。
この特質は、現在の世でも、キリストの世でも変わりありません。
したがって、
キリストの世になっても、「悪を行う者は存在する」ということです。
ただ、支配の仕方が異なると共に、地上に住む人間の中で「肉の業」を習わしにする者たちは、おそらく、速やかに除き去られるということだけなのです。
今の裁判のような遅々としたことはないのです。
すべては、天から見て知っているからです。
おそらく、キリストの千年統治の終わりに至っても、文字通りの悪を行わないにしても、支配の仕方などに不満を持つ人々が大勢いると思われます。
悪魔が底知れぬ深みから解き放たれた時に「悪魔の惑わし(誘惑)」により、神とキリストに反抗し、聖なる者たちや神に愛される人々と戦う人々が海辺の砂粒程もいることが示されているからです。
神は、悪魔に自分の主張の正しさを立証させるために6000年も与えました。
勿論、この間に人類を救う手立てを備えることも含まれてはいましたが長い期間でした。
しかし、神の支配の正しさを立証するのに僅か1000年だけしか設けませんでした。
これで、十分なのです。
そして、これらはすべて「神の休息の1日」の内に完了するのです。
命は神のもの、従って、その神が人間の命をどのようにも扱うことが出来るのです。
また、その権限の一部あるいはすべてをイエス・キリストに付与されました。
例えば、
アブラハム、モーセなどは既に「死んでいます」
しかし、
神にとっては「生きている」のです。
これは何を意味するのでしょうか。
それは、
必ずしも、将来キリストの世になった時に地上に復活してくるという意味ではありません。
勿論、天にも行きません。
神の「記憶」の中にご自分の立派な崇拝者として「永遠に刻まれた」ことを意味しているのです。
いわゆる「神の記念」となったのです。
命は神のものですから、彼らに再び「命」を付与するか否かは「神が決める」ことであり、
それは、決して「憐み」ではなく、当然の「報い」として与えられるものなのです。
キリストの世で復活し、聖なる者(神によって取り分けられた人々)が存在することは啓示の書に記されているので、彼らが古代と同じように地上で「指導的立場」に付くかも知れません。
人間の命は神から付与されたもので、その命の用い方に人間には責任が伴うのです。
命は神から貰ったものではなく、貸与されたものなのです。
それゆえ、聖書では「霊は神のもとに帰る」と記されています。
「7 そのとき,塵はかつてそうであったように地に帰り,霊もこれをお与えになった[まことの]神のもとに帰る。」
-伝道の書12:7
塵とは肉体のこと、霊とは「人を生かしているもの(いわゆる霊魂という幻のようなものではない)」のことです。
この聖句から分かることは、
肉体は地面の諸要素から作られ、霊=人間の原動力は物理的な肉体とは異なるものであるということです。
人間の活動力は物理的には細胞のミトコンドリアで作られますが、それを支えているのは呼吸と食物です。
ですが、人を生かしているのは「神が人に与えた霊」なのです。
この霊を「命」と置き換えることが出来るのです。
***************************************
参考(霊の体について)
天のみ使いたちは霊の体(人間の目には見えない)を持っていますが人間のような肉体を持っていないのに、見たり話したりすることが出来ます。
一体どのようにして見たり話したり、あるいは、空中を飛んでいるのでしょうか。
イエスは天の「命」を地上の人間の胎に移され人間として誕生しました。
ですから、
み使いの「命」も人間の「命」も同じものと考えることが出来ます。
この「命」を霊と言ったりするのはこのためかも知れません。
復活したイエスが天に戻る前に部屋に集まっていた弟子たちのところへ来た時、鍵のかかった戸をすり抜けて入っています。
(復活したイエスは肉体で復活したのではなく、元の状態の霊者として復活したので、
弟子たちの前に現れた時には、服を着替えるように別の姿(肉体)で現れています。)
一体、どのようにして入ったのでしょうか。
弟子たちがこれを疑ったという記録はありません。
実際、トマスは戸をすり抜けて入って来たイエスの体に触っています。
つまり、すり抜けた時は「亡霊」のようであり、すり抜けた後は実際に肉体として存在したのです。
-ヨハネ20:24-29
どのようにして、このようなことが起きたのでしょうか?
少なくとも、人間は誰一人これを理解していません。
(参考:霊の体は、強い太陽の日差しの下では存在出来ません。
そのため、霊の体を保護するために、地上では肉体を身に付ける必要があるのです。
み使いたちがいる天には、太陽のように強烈な熱を発するものは存在していません。
実際、み使いたちが地上に降りて来た時には肉体を着けて現れています。
それは、上記の理由の他に、人間に見えるようにするためでもあるのです。
そして、このことは、人間も霊=命と魂=肉体で成り立っていることを推測させる例ともなりま
す。)
***************************************
最後に、
聖書に通じたければ、何度も聖書を読み、すべての内容を記憶し、その上で様々な考えをする中で、聖書が述べていることと照らし合わせ深く考えることです。
聖書の内容は「矛盾」したところ、つまり、意味や内容が他の部分と異なるという点が全くありませんので、
この点安心して聖書を読むことが出来ます。
確かに、聖書は、人が「神の霊感」によって記したものです。
およそ1600年掛けて。
それが現在のような形に編纂されたのは、1世紀から5世紀ごろにかけてです。
神の霊感を受けたものというと、あたかも「奇跡」が生じたかのような印象を与えますが、
実際、聖書を記す時の「思考」に「神の考え」が示された(入れられた)ということもありますが、
モーセが書いた、いわゆるモーセ五書がすべての始まりで、後の人々はこれを忠実に写本し、また、神の考えを理解するように努めた結果とも言えます。
ヨシュア記以降は殆どは実際の出来事の記録であり、その中に、神との関わりを書き表すことで、神の考えが正しく継承されて来たとも言えるのです。
そして、イエスの誕生と生涯の出来事の記録、弟子たちの記録、弟子たちに対するペテロやヤコブやパウロやヨハネの助言を記したものです。
彼らも、それ以前の聖書に通じ、神の考えを理解した上で、イエスの行われたこと言われたことを記したのです。
唯一、霊感と言えるのは「ヨハネへの啓示」の書、つまり、最後に置かれている書です。
これは、ヨハネに幻で与えられていますので、完全に霊感による書と言えます。
他にも部分的には、特に「預言」に関する事柄は霊感によるものです。
例えば、ダニエルに与えられた「北の王と南の王」の幻などです。
このような書は聖書の中の他の部分には、例えば、エゼキエルやイザヤに与えられた幻などがあります。
初めは、ヘブライ語、アラム語、そして、ギリシャ語で、その後現在の形に編纂されたころはラテン語で記されました。
ラテン語で記された聖書を用いることで、聖書を他とは区別して特別なものとして扱ったということです。
これは、人間が意図したことです。
つまり、
聖書を特別なものとして、いわゆる、聖典として扱ったということです。
中世の異端審問がそれを良く示しています。
その後、カトリックとプロテスタントが分離することで、
様々な宗派が、つまり、聖書の解釈の違うグループが「雨後の竹の子」のように出現して来て今日があるのです。
問題の、ものみの塔もそのグループの一つなのです。
西暦1世までの聖書筆者がそうであったように、聖書の記録から神の考えを正しく理解することは不可能ではありません。
ものみの塔は当初の思惑から、人間の考えが多く取り入れられている点で、カトリックやプロテスタントと変わりません。
ものみの塔は「間違いながらも聖書に忠実であろうとしている」だけで、聖書筆者たちのように、必ずしも、神の考えを正しく理解している訳ではないのです。
現代のように、あらゆる国の言語に翻訳されたのは、最近のことです。
したがって、世界中の誰でも読み書きが出来る人なら、自国語の聖書を読むことが出来る状態にあるのです。
聖書の読み方は、既に示してありますので、その通りに読めば記憶や理解が早まります。
参考にして下さい。
***************************************
追記
上記には、犯罪、戦争、事故、病気、老衰などで失われた「命」に関しては含まれていません。
これらに関しては、各々誰に責任があるかを考慮しなければ、その「命」に対する責任などについては語れません。
正常な妊娠出産でないなどの場合もあります。
例えば、婦女暴行、強姦、不倫などで出産した子供の命。
あるいは、正常な夫婦関係で誕生しても、育児放棄された子供の命。
更には、妊婦を肉体的精神的に傷付け、それが原因で胎児の命が失われた場合。
その責任が本人の場合と他人の場合があります。
あるいは、障害児として生まれた子供の命。
などもあり、これらの場合の「命」の扱いは難しいものがあります。
非常に憎むべき例として次のことを挙げることが出来ます。
8月28日、NHKクローズアップ現代で「終戦時ソ連兵に強姦された人の妊娠中絶」などに関しての放送がありました。
戦後、貧しさからアメリカ兵に体を売った女性が多数妊娠し、中には中絶した人もいます。
戦後、沖縄ではアメリカ兵による強姦が多数行われて来ました。
この憎むべき「犯罪」による妊娠と中絶をどのように考えるべきでしょうか?
聖書では、強姦や不倫は死刑です。
しかし、これらによって妊娠した場合その胎児をどのように扱うかに関しても明確な記述はありません。
基本的に生まれてくる子供に親の責任は無関係なので、親については責任を追及しますが子供をどうすべきかという法は存在しないのです。
暴行などで流産させた場合、その子が死ねば死刑です。出エジプト21:22-25
中絶は殺人なので、神の考えからすれば死刑です。
神の考えからすれば、例え強姦によって妊娠しても子供は産むべきです。
中絶で殺してはならないのです。
しかし、産んだ子供は養子や里子に出し自分で育てさせるべきではありません。
生まれて来た子供には出生について話す必要もないと考えます。
その子が成人して、自分の父母について知りたいと言っても、事情を話し教える訳にはいかないと話すべきです。
父もしくは母は神の目から見て犯罪者だからです。
あなたはどのように考えますか?
***************************************
余談(脳の不思議)
私は時々、フリーセルというトランプカードゲームやルービックキューブ(3×3、4×4、5×5、6×6、7×7すべて完成させられます。それ以上は高価なので手に入れていませんが多分完成させられます)やナンプレ(9×9)などをすることがあります。
無論、数が多くなればそれだけ時間は掛かります。
ルービックキューブは3×3で5分以内で、7×7でおよそ40分から1時間で、
ナンプレは早くて3時間位掛かります。
が、どちらも完成させることが出来ます。
ただし、ナンプレは絶対完成しないものもあります。
不思議というか、確認出来ないのは、これらを完成させる時、自分の脳はどうなっているのかという点です。
何度試しても分かりません。
考えなくても、状態を見ているだけで「素早く出来る」のです。
なぜ、考えなくても出来るのか考えましたが分かりません。
勿論、考える時もありますが、殆どは「瞬間的な判断」だけで行っているのです。
時には、その判断すらしているのか「自覚がない」時もあるのです。
つまり、
何をどうすれば良いかということは知っていますので、後は、見て判断し行うだけなのです。
ですから、殆ど考えなくても出来てしまうのです。
脳は不思議な存在です。
また、
何かを計量したり、移し替えたり、必要な物をそろえたりする時、「偶然にもピッタリ」する時が良くあります。
いわば、感が良いとでもいうのでしょうか。
自分でも驚いています。
元数学の教師でもありましたから、数字には強いです。
特に、数字を覚えるのが得意です。
それは、習慣的に目の前の数字を覚えるという点に関してです。
例えば、無理数のπとか自然数のeなどは覚え切れませんが、車のナンバーを瞬間的に覚えるとか買い物中のお金の計算を暗算でしているとか誰かの年齢とか年々に何が起きたかなどを覚えるのは得意です。
20歳ぐらいの時、カレンダーが28年周期で繰り返されていることに気が付き、その中で、ある数字の並びを発見したのです。
それを基に万年カレンダーを作りました。
円盤の形で作りました。
年と日付から曜日が分かる程度のものですが、私にとっては画期的なものでした。
しかし、他の人は余り価値のあるもののようには感じていないようでした。
私としてはカレンダーというより知恵を感じて欲しかったのですが、そのような人は誰もいませんでした。
今でも、このカレンダーは有効で、正確です。
うるう年も計算されているからです。
全く、狂いがありません。
自慢の一つです。
ただし、西暦1世紀の1月1日から以降のことです。
それ以前のことまでは試していません。
もし、確認出来れば、神が太陽をおよそ1日地球の回転を停止させたという聖書の記述を証明出来るかも知れません。
天文学的には証明されているようですが。
こうした特技は誰でも持っていると思います。
以心伝心という言葉があります。
この点でも時々、近くにいる誰かのことを瞬間的に思いを向けるとその人が「くしゃみをする」ということも度々ありました。
もしかすると「気功」の「気」と関係があるのかもしれません。
最近は、余り人と接していませんのでありませんが。
また、自分がこうなれば良いなと思うことが実際に起こることもたまにあります。
天気であれ、試合であれ、誰か特定の人であれ起こることがあるのです。
おそらく、他の人も同じ経験を持つ人はいると思います。
特にサバン症候群やギフテッドなどの人を目にすると脳の不思議を強く感じます。
ただ、これらの人々は万能ではなく、むしろ、他の普通の人が出来ることが出来ないということが多いものです。
いわゆる、言葉は悪いですが、一種の「カタワ(片端)」なのです。
しかし、ある事柄に関しては、天才以上のことが出来ます。
これは、一般的には脳の障害が生じさせていると言われています。
しかし、どうしても身に付けたいことで何度試しても未だに出来ないことがあります。
それは「気功」です。
何をしても何を試してもどうしても「気」を感じないのです。
今でも諦めてはいません。
人間の脳は実に不思議なものです。
不可解と言っても良いでしょう。
人間の脳には計り知れない程の能力があるということです。
あなたにも何か特別の才能があるかも知れません。