知恵を求める人のためのブログです。

神は人間の進歩発展をどう見ているでしょうか?

神は人間の進歩発展を見越して、制限、つまり、限界を設けられたことは確かです。
人間はミクロからマクロ迄詳しく調べまた研究することで数々の「見えない事柄」を発見して来ました。
しかし、人間が決して知ることが出来ないことがあります。
それは、「なぜそうなのか」「なぜそうなっているのか」という点です。

これは創造者にしか分からないことです。

(勿論、進化論でも説明はつきません)

例えば、人間は原子核の中までその実態を実験と研究を繰り返しある程度までは分かって来ました。
昔は、原子核といえば陽子と中性子で成り立っていると考えられていました。
今は物質粒子(物質を構成する粒子=クォーク6個、レプトン6個)とゲージ粒子(力を伝える素粒子=光子、グルーオン、z粒子、w粒子=電磁力、弱い力、強い力)とビッグス粒子(素粒子に質量を与える素粒子)
などと更に詳しく分かっています。
この他に、ダークマターとダークエネルギーというものの存在も分かっています。

我々が通常目にする物質はこうした要素で成り立っているという説です。

現実世界では、こうした目には見えない物質の構造を考えることはありません。
知らなくても、各々の物質の目に見える形とその性質だけで物事を処理出来るからです。
つまり、見えない事柄はいわば「ブラックボックス」と見なし、それに対する「原因と結果」だけ分かれば物事は十分だということです。

この見える部分と見えない部分の境界線は、
例えれば、地球の重力圏内における部分と重力圏外の部分に分けられ、重力圏内は素粒子の世界で、重力圏外は我々が目にする物質の世界という区別です。

ロケットで宇宙に飛び出す時、地球の重力が突然無くなる時点があります。
つまり、無重力状態になる時です。
その状態になる地球からの距離ははっきりしています。
およそ地上から100㎞とされています。
なぜ、無重力になるのかと言えば、
万有引力および遠心力などの慣性力が互いに打ち消しあい、それらの合力が0ないしは0とみなしうる程度に小さくなっている状態となるからです。

しかもこの状態は、あたかも壁をつきやぶるかのように「突然」生じます。


いわば、引力が強く作用する領域を目に見えない素粒子の状態と見なし、その領域から外の領域を目に見える状態(物資の表面)ということです。

しかし、素粒子がなぜそうなのか迄は決して分からないのです。
科学が進歩し、現代になってやっと神の創造の一端が「微(かす)かに分かって来た」程度なのです。

人間に出来ることは観測と実験から「想像」することしかないのです。
つまり、こうだからこうに違いないという推測、憶測しか出来ないのです。
究極的にはこれ以外理解する方法はありません。

人間が「霊」の存在を分かっていても、それがどうなっているのか分からないのと同じことです。
「命」や「思考」という存在を分かっていても、それがどうなっているのか分からないのと同じことです。

どこかで書きましたが、人間は「神の手の平の中から決して出られない」のです。

例えば、人間は進歩発展し科学的業績を上げ、また、様々な機械、製品を作り、いわゆる文明を進歩させて来ました。
しかし、人間が近代的なものを作ると、必ず「公害」や様々な問題を生じさせて来たことは事実です。

この公害や問題を生じさせることで、神は「人間に限界」を教えているのです。
究極的には「神の存在を認め、神に依存する」しかないことを「人間に認めさせるため」でもあります。

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人間の進歩を考えて見ますと、
土台となるアイデアや発見は古代に遡りますが、基礎となる学問の発展は中世以後近代頃のことで、
急速な発展は産業革命以降、短期間で効率的に大量の製品を作ることが出来るようになってからのことです。
その結果、煤煙、大気汚染、環境汚染、公害、温暖化が生じました。
また、
冷蔵庫やクーラーなどにより快適な生活が出来るようになりましたが、
その結果、フロンガスによるオゾン層の破壊が生じ、地球温暖化の原因の一つともなりました。

人間が文明の「力」を利用し、より活動的になることで地球は熱を、つまり、ヒートアップしたのです。

人間は問題が発生する度にそれを解決する方法を考えますが、多くの場合政府による経済政策を優先させ公害や問題を矮小化し抜本的な対策を講じて来ませんでした

一部の人々はこうした状況に危機感を覚え環境破壊を無くす取り組みを様々な機会を利用し提言して来ました。
SDG’Sもその一環です。

しかし、政府が国の経済的保全や安定を維持したいがために、環境破壊を無くす取り組みを阻止しているのです。

人々がSDG’sを行っても、環境破壊を抑えることは出来ません
なぜなら、その殆どが焼け石に水であり、政府がそうした取り組みをないがしろにするようなことをしているからです。
もし、環境汚染の最大の原因を排除すれば国の経済は成り立たなくなってしまうのです。

他にも、人間が人間を支配することで「多くの人は迷惑(害)」を被っているのです。
人間は互いを助け合うことで安全を確保し一人では出来ない多くのことを成し遂げられるものです。
しかし、
人間が大勢集まると「必ず問題が生じます
その原因は「人は各々自分の考え、気持ち、感情」を持っており、それが他の人と対立するからです。
その対策として、法律を作りそれに従うことでこれを解消しようともして来ました。

しかし、その法律は完全ではないため、法律では規制出来ないことも少なくありませんし、時には、企業などが政治家にロビー活動を行い抜本的な規制をさせないということもあります。
更には、法律に従わない人間が現れ、いわゆる犯罪を犯す者も少なくないのです。

その原因の多くは「人間の欲」なのです。
自らの欲を抑えて、全体の平和と安全のために尽くすという人は殆どいないのです。

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人類の問題という点に焦点を当てればどこの国でも以下のような問題の幾つかが発生しています。

人間が大勢集まると、
大量に出るゴミの処理の問題、
下水処理の問題、
浄水、つまり、飲み水の問題、
食料を他人に依存するので食料を確保する問題、
物価の高騰の問題、
衣類や住宅を手に入れる問題、
結婚や生活や子育ての問題、
仕事や収入の問題、

環境汚染の他にこうした問題が生じています。

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人間が抱える問題のすべては「人間が作り出したもの」です。

その最たる問題戦争であり大量殺人兵器であり高性能兵器です。

人は相手より「強い武器」を持てば、有利になり戦いに勝てると思い込んでいます。
確かに、強力な武器を使用すれば、その戦いに勝てるかも知れません。

しかし、人間は更に強力な武器を製造するようになります。
高性能で強力な武器の製造競争に終わりはありません

今や世界はネットで繋がっています。
勿論、原子力発電施設や核ミサイルなどを管理コントロールするために、電気とコンピュータを使用しています。
誰かが、それを外部からネットで破壊することさえ可能なのです。

ネット、AI技術などはそれを可能にするのです。
つまり、原子力施設のコントロール設備がハッキングされると「非常に恐ろしい事態」になります。

プーチンが核兵器を使用すると脅していますが、
移動式の小さい兵器以外は電気とコンピュータ制御が必要です。
これを誰かに乗っ取られたら核兵器は「役に立たなくなる」のです。

つまり、世界中を停電にさせれば核ミサイルの使用も出来なくなるということです。

それを可能にする技術もあります。
例えば、
上空1万メートル以上のところで、あるいは、地球の大気圏外の近くで核爆発させれば、その影響はそこに近い地球のある地域に生じ、あらゆる電子機器が使用出来なくなります
自動車すら動かなくなると言われています。

核兵器を地上で使用させないため、それを宇宙空間で使用するという方法もあるということです。

これを止めることは誰にも出来ません。
つまり、核兵器を持っていいる国が、特定の国の上空で核爆発を起こせばその国のあらゆる電子機器が動かなくなってしまうのです。
そうすれば、一時的に地上で核兵器を使用出来ない状況を作ることが出来るのです

そうなれば、地上ではいわゆる通常兵器で戦うことになり、広島長崎のような酷い状態になることを防げるのです。

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神はこうした状況、状態を何時までも「見過ごされません
神は、初めから人間の行いを知っており、それに基づいて「事物の体制の終わり」つまり「人間の限界点」を定めておられるのです。

今が、その人間の限界点に限りなく近づいている「時」なのです。
単に、悪魔の影響による「人間の悪」を終わらせるという問題にとどまらないのです。

その「時」は、イエスの預言の通り「人々が普通の生活」をしている時に「突然やって来る」のです。
それゆえ、イエスは「油断なく見張っていなさい」と警告しているのです。

 

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あなたは人間の命に格差は存在すると思いますか?

聖書の中で、神に動物の犠牲を捧げるべき律法が示されています。

その殆どが「罪を贖う」ため、つまり、自分の犯した罪に関して「神に許しを請う」ための儀式です。

神の示された通りの犠牲を捧げれば、罪は許されました。

ただし、その犠牲は一度で済まされる場合と毎年行わなければならない場合とがありました。


動物の犠牲を捧げるということは「動物の命」を捧げるということです。
聖書に記述によりますと、この「命」に差別というか区別があります。
つまり、
人間の罪の程度により、
雄牛を犠牲として捧げるか、雌牛か子牛を捧げるか、山羊を、ハトをという具合に求められているものが異なります
これは罪に程度を設けている点(責任の重さを区別している)と捧げる動物に違いを設けることで「命」に差あるいは区別を設けていることになります

神は罪に応じてこれらのものを犠牲として要求したのです。

極端な話、「人間の命にも差や区別がある」と考えるのは道理です。

これは人間の考えですが、
軍隊で大将の死と一兵士の死ではその価値が異なることは明白です。

その権限や能力や働きには大きな違いがあるからです。


同じ人間(の命)でありながらこうした差はあるものです。

しかし、誰でも「人の命」は皆同じだと考えるものです。
小さい子供の命も一家を養う父親の命も同等だと考えるものです。

しかし、本当にそうでしょうか。
明らかに一家の生活を支える父親の命の方が重いし価値があることは明白です。

人間は思考では「理想」を、現実では「価値」を考えるのです。

言葉では「命」は皆同等の価値があると考えたり言ったりしますが、
現実には「命」に格差を付けるのです。

この差、区別はその「命」が宿る肉体が有する能力や立場によることを示しています。

有能な人に宿る「命」には価値があり、
ヤクザな人に宿る「命」は虫けら同然なのです。

聖書の中では、
イスラエル人の「命」には価値があり、
偶像崇拝者である諸国民の「命」は虫けら同然に扱われています。

人類のために贖いの犠牲となったイエス・キリストの場合もそうです。
最初の人間アダムの罪を贖うためには、イエス・キリストでなければならなかったと同じことです、
つまり、
アダムの「命」に対応するのはイエス・キリストの「命」だけだったのです。
他のどんな人間もこれに相当する者はいないからです。

つまり、「命」に価値の差があるということです。
この場合も、
神によって創造されたアダム(罪を犯す前の状態)と「命」を天からマリアの胎に移され生まれたイエスは神により創造された肉体という意味では同等ということです。
どちらも、文字通り神の霊によって形造られたのです。


ただ、イエスの場合はアダムのように地面の塵から創造されたのではなく、人間の胎(人間を形造る仕組みを持つ女の胎)を利用したという違いがあるだけのことです。(神による奇跡)

他のすべての人間は、罪を犯したアダムから受け継いだ命ですから、罪を犯す前のアダムと同等の価値のある「命」を持つ者は一人もいません。

律法によれば罪を贖うにはその罪に対応する贖いが要求されていました。

「命」は「命」が宿る肉体によって価値が決まるということです。

これは聖書の中の次の言葉と合致します。
「死ぬ日は生まれる日に勝る」-伝道の書7:1
つまり、生まれた赤ん坊の命よりも人生でなにがしかのことを成し遂げて来た人の命の方が価値があるということです。

 

(参考:イエスの家系に関しては、イエスが預言されていたメシアであることの証の一つであり、「贖いの犠牲の価値」とは異なるものです。

 イエスの贖いの犠牲の価値は、家系や立場によるものではありません

 特に家系に関しては、ユダヤ人の王の家系に生まれたことを、つまり、ユダどダビデの直系の子孫

 であることを裏付けるものです。)

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例えば、
」は電化製品の「電気」に相当するものです。
物の価値はその製品の持つ機能(能力)によります。

もっとも、役割が異なるので差は付けられないという考えもありますが、
人間の場合は男女の区別以外は大人と子供の違いがある程度です。

電気そのものには「違い」はありません。
どの製品にも同じ電気で動くのです。

日本では東西で周波数が異なり、外国とは電圧が異なりますが、
電気という性質そのものは全く変わらないものです。

そのため、
日本製品を外国に持って行っても電圧を調整するだけで使えます。

人間の「」は電気と同じであり、
人間の能力、立場は電化製品の機能と同じなのです。

ですから、
人間の能力により格差が生じるのは当然のことなのです。
」の格差とは、「人間の能力」による格差のことです。

 

おそらく、これに異論を唱える人は多いと思います。

しかし、格差は現実なのです。

人は能力により、人を区別しているのです。

 

その良い例が、スポーツ選手です。

能力の高い人が選手になり能力のない人は選手に選ばれることはないのです。

 

人の能力人の命の価値は別だと考えますか?

本当に、赤ん坊の命親の命は同じですか?

 

「生き物」としてや「生きる」ことに関しては同等です。

 

しかし、「命」が生かしている「肉体」には、おのおの価値に違いがあるのです。

 

一般的に、人は何かを成し遂げると「評価=価値」が上がるのです。

 

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世の中では、すべての人間に共通な「」は皆同じと考えています。
しかし、
その「」が「命が宿る肉体の能力」に「格差」を生じさせているのです。

例えば、
世の中では、ある人の銅像を作ったり、讃えたりすることは日常的にしていることです。

人間の欲望に、
科学者であればノーベル賞を受けたいとか、
高校生であれば国立の有名大学に入学したいとか、
有名企業、大企業に就職したいとか、

官僚になりたいとか、
つまり、
自分の能力を高め認められたいという思いがあります。
自然なことです。

人間は本能的に他と比較することで「争っている」のです。
それは、その人の自尊心がそうさせるのです。

そのため、人は「他の人に勝つ」ことに「人間の価値」を見出しているです。

こうしたことは身体障害者についても同じです。
身体障害者は肉体の運動機能では幼い子供にも劣るものです。
しかし、
脳の働きについては、脳に障害がない限り普通の人と同じです。
IT技術を用いれば、普通の人と同じ仕事が出来る場合もあります。
(参考:この場合は、製品の一部が機能していないのと同じと見なします)


心の病気は、いわば、脳に障害がある人のことです。
人は脳に障害があるとすべてのことを普通に出来ません。
いわば、欠陥製品なのです。
ですから、人間としての「価値」は下がります。

(参考:この場合は、製品そのものの欠陥を意味します)

聖書の中でも、そうした身体障害者は神に近づくことが出来ませんでした

身体障害者は「汚れた者」と扱われていたのです。
例えば、
身体障害者は幕屋(いわゆる神殿)での奉仕に携わることが許されていませんでした。

神殿での行事や崇拝行為の時には、神の前に立つことすら許されていませんでした。

神殿の聖なる器具に触れることも許されていませんでした。
それは、おそらく、示された手順を滞ることなく行うことが出来ないためだとも考えられます。

ですが、繰り返しになりますが、
あらゆる電化製品に対して、電気は「共通」なものです。
同じようにすべての人を生かしている「」はすべての人に対し「共通」のものです。
これに区別はありません

しかし、電化製品に差や区別や分類があるように、人にも同じことが言えるのです。

人は平等だと考えていますから、こうしたことを普通は余り意識はしませんが、
現実には、学校の成績や、入学試験や、入社試験や、資格試験などで人選が行われています。
これは、人を能力で差別していることなのです。

 

更に、ものみの塔の会衆で、長老や奉仕の僕(援助奉仕者)なども、もし、神やイエスが任命したのなら、他の信者よりは「価値のある人」です。

モーセが他のイスラエル人より価値があったように。

誤解をしないで頂きたい点があります。
価値がある=偉いとは異なるという点です。

ですから、長老は偉い訳ではありません
長老は信者に対する奴隷の立場なのです。

 

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参考:

神の王国の人々の価値は地上で生きる人々より価値があるのです。

イエスは群衆に対して、

「 あなた方に真実に言いますが,女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません。しかし,天の王国において小さいほうの者も彼よりは偉大です。」-マタイ11:11

と言われました。

 

この後、イエスは犠牲の死を遂げる前日に新しい契約を11人の弟子たちと結んでいます。

 

神の王国の一員である14万4000人は、天に霊者として復活させられ神の養子とされるのです。

-エフェソス1:3-6

 

人間として生まれてこれ程の価値と誉れがあるでしょうか?

神の養子となり、神のみ使いたちのように天で神の組織の一員となれるのです。

 

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初めに、この投稿は少し長いです。
このコラムを読むと分かりますが、

「命」というと分かっているようでありながらはっきりしないテーマです。

 

それは、生物学的な「命」と精神的な「命」これに宗教的な「命」などが含まれているからです。

これらが入り混じって説明していますので、少し分かりにくくなっています。

そのため、時間を掛けて何度も推敲しました。
結論から言えば、すべての命は「神のもの」です。
人間の命は、最初の人間アダムとエバに与えられ、後の子孫は二人から命を継承しているだけなので、すべての人間の命は神から与えられたものなのです。

あなたはこのような考えをどう思いますか?

それとも進化論のように「無作為の偶然の産物」(生物学的な命)と考えますか?
もし、そうであれば人類に、あるいは、個々の人間に生きる目的が存在せず、皆が皆好き勝手に生きることになります。
人間だけが持っている「高度な理知」の存在理由も「善悪」もないことになります。

しかし、すべての人間は「理知」を持っており、また、善悪を判断する良心も道徳心も持っています。

社会に法というものが存在する以前からこうした特質を人間は持っていたのです。

 

例えば、放送などでホモサピエンスや原始人などについて説明する時に、人間にはこうした特質あることが示されています。

決して野蛮人のようには説明していないのです。


これをどのように説明するのでしょうか?

こうしたことは普通に考えても、決して偶然には存在しないことは誰にでも分かることです。

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次に、漠然としていますが「命」とはなにか、という問いにあなたはどう答えますか?

人は誰でも「生きている」ことを実感しています。
それは、美味しいものを食べたり、好きなことをしたり、仕事をしたり、親しい友達と仲良くしたり、ケンカしたり、争ったり、悩んだりといろいろ「生きている」ことを実感しています。

人は「命」があるから「生きている」と考えています。

では、人を生かしている「命」とは何でしょうか?

それは、例えれば、電化製品とそれを動かす電気(エネルギー)に例えることが出来ます。
電化製品を人間の体に、電気を「命」と考えれば、
電化製品を動かしているのは電気であるように、人間の体を動かしているのは「命」です。
電気が目に見えないように、「命」も目には見えません。
電気は測定器を用いればそれを数値で見ることが出来ますが、
「命」はそれが宿す生き物が「活動」しているのを見て「生きている=命がある」ことを知ることが出来ます。

「命」とは「生きること」「生きていること」を指す別の言葉です。
「生きている」ことは活動していることで分かりますが、「生きる」という言葉は抽象的な言葉です。
つまり、「生きる」ということの「表象」は活動すること(目に見えること)であり、「生きる」ということの側面や性質は「抽象」(目に見えないこと)なのです。

 

「命」ということに関しても同様であると言えます。(哲学的な説明ですが)

また、一般的に「命」と「血」は結び付けられています。
「血」と「生きる」も結び付けられています。
ですから、
「命」「血」「生きる」これらは同義語なのです。

 

聖書の中でも、「血」と「命」と関連付けられている個所は沢山あります。

「命」のことを「生命」と言ったりもします。
「命」とは、生物の生きてゆく原動力、生命力と定義されています。
「生命」とは、生物として存在する本源(みなもと)、生活現象から抽象(表面上の具体的な事柄を除いたもの)される一般的概念と定義されています。

この説明から分かるように、「命」「生命」とはエネルギーの一つでもあると定義されます。
したがって、「命」の実体は「見えません」が「確かめる」ことは出来ます。

また、「命や生命」というとどうしても、「生きることや生殖」について考えることになります。
その実体は、何かと問われると具体的には説明しにくいものなのです。
そのため、電化製品を肉体に、それを動かす原動力である電気エネルギーを命に例えて説明するのです。
この電気も存在は明確ですが、その実体は「見えないもの」です。
配線の中の銅線の中を流れているということは分かりますし、コンセントであれば触れると感電するのではっきりします。
検電計で確認するということも出来ます。
あるいは、配線の周囲の磁界を測定することで確認することも出来ます。
この磁界も直接は見ることは出来ません。
鉄粉などを用いると、磁界は目ではっきりと見ることが出来ます。
電気は電流計やオシロスコープが無ければその大きさや性質などを確認することが出来ません。

「命」に関しては、電流計のような測定器は、存在していないのです。

人は、活動を通して「命」の存在を確認しているだけなのです。

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この実体の見えないものに関して、
聖書でも、「(アダム)の鼻孔に命の息を吹き入れた。すると人は生きた魂になった」と記されています。
つまり、「命と生きること、生きていること」と結び付けられているということです。
また、「生きることは呼吸によって支えられている」という点も分かります。

神は人間の創造者であり、命の与え主であるということに疑いはありません。

タイトルにあるように「命は誰のもの」かという問いの意味は、「命」の用い方に対する問いでもあります。

そのため、「生きること」あるいは「人生」ということを考える人もいれば、「誰のために生きるのか」ということを考える人もいます。

 

もし、この質問を誰かにすると、「自分のもの」と答えると思います。

自分で「自由にすることが出来るもの」と考えていることが分かります。

これは、「自由に生きる」という意味でもあります。


神は何のために、人に「命」を与えたのでしょうか。
それは、地(地球とその中のあらゆる生き物)を従わせ(管理し)、子を生んで子らを従わせるためでした。
-創世記1:26-28
そのために、人は神のように、「理知ある者」として創造されたのです。

初めは、「他の生き物」の中から探しましたが「人の助け手」になるものは見出されませんでした。
そのため、新たに「女」を、「男の助け手」として創造されました。
子を産んだり家族の世話をするために女は創造されたのです。

 

単に「命」「生きる」ということだけを考えると以上のようになりますが、

人間が持っている「理知」「良心」「道徳心」「善悪の判断」「思考」「信仰心」「生きる意義」などについてはどのように説明するのでしょうか。

 

これら精神的要素も「生きる」ことの一環であり「命の用い方=どのように生きるか」の中心的要素であることに異論を唱える人はいないと思います。

この点に関する説明は「抽象」ですが、活動を通して確認することが出来ます。

 

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しかし、親がクリスチャンでない限り、生まれて来た子供は何のために生まれて来たのか(真の目的)を知りません。

実際、殆どの人は自分の存在理由を知りません。
そのため、各々自分で好きなように生きている訳です。
それゆえ、地には争いが絶えず、犯罪も多いのです。

殆どの人は「自分の存在理由」と「生きる目的」を知らないのです。
今多くの人が抱いている「存在理由」や「生きる目的」は、各々の人間が生きている過程の中で「生きる意義」を見出すために「後天的に付け加えたもの」です。

これは「理知」という精神作用の働きです。

ある子供は次のように言ったことがあります。
「産んでくれと頼んだ覚えはない」とか、「勝手に産んでおいて」などと。
「思い通りにならない苛立ち」に対してこのようなことを言ったり思ったりする場合があります。
あなたもそのように思ったり感じたことはありませんか?

しかし、大人であれ、子供であれ、「真理」を求めている人にとって「命は誰のものか」ということは重要な質問となります。
その答えで「人生が変わる」かも知れないからです。

あなたは親から受け継いだ「命」は「誰のものだ」と思いますか?
自分のもので自分の自由に出来ると思っていますか?
「命」が神から与えられたものであると知ってもそのように思いますか?
神が人間を創造した目的や存在理由を知っても同じ考えですか?
これらの問いに対する返答と実際の行動、振る舞いによって神のご加護、憐み、祝福などを受けられるか否かが決まると言われても同じ考えですか?

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1 まず「命」の源、その初めである生殖(生物学的)に関して考えてみたいと思います。

父親の精子と母親の卵子は凍結保存すると100年先でも解凍し受精させると人間が誕生します。
まるで、植物の種のようです。

植物の種は、乾燥状態を維持すれば何千年経っても、土に植えれば再び芽を出します。

人間の精子と卵子は逆に凍結しなければなりませんが、同じようなことが出来ることが分かっています。

実際に、行われてもいます。

 

しかし、一度受精するとその「命」は限られたものとなってしまいます。

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卵子と精子は幾つもの細胞から出来ている人間の胎内で作られた「個体」です。

精子は頭部(先体と精核)と中片(中心体とミトコンドリア)と尾部(微小管)という構造をしたオタマジャクシのような「生き物」です。
自分で動くことが出来ます。

卵子の構造は卵核・表層粒・卵膜・ゼリー層という構造をした鶏の卵のような(ただし、卵の殻はありません)「生き物」です。
卵子は人間の細胞の中で最も大きい細胞です。

卵子のゼリー層は精子が1匹だけ卵子の中に入れるようにし流産を防ぐ役割をしています。

いわゆる、それぞれ1個の単細胞が合体して人間が誕生する訳ではありません。

卵子は鶏の卵の中身のようであり、受精するとこの卵子が細胞分裂し最終的には約60兆個の細胞でなる人間になるのです。

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受精した卵子は細胞分裂を繰り返し、神が定めた時程表に従って、体を構成する様々な臓器や骨などを形成して行きます。

女性の体内には卵巣という器官があり、そこには出生時点で約100万個の卵子が格納されていますが、この中から、一生の間に約400~500個の卵子が成熟し、排卵されることになります。

精子が作られるのは、精巣のなかにミカンの房のような形で納まっている精細管(せいさいかん)という部分です。卵子と同じように、原始生殖細胞である精細胞が分裂して精子になります。

精巣の中で平均74日かけて作られ、毎日1億2000万個も作られます。
一回の射精で射出された2~4mlの精液中に約3億個あると言われています。
受精するのはこの内の1個だけなのです。

卵細胞は分裂しても1つの卵子しか成熟しないのに対し、
精子は分裂した細胞がほぼすべて成熟した精子になるという特徴があります。

この卵子1個に精子が1個侵入することで、二つの命が一つの細胞で合体し、「一個の命」となるのです。
この「1個の命」が細胞分裂により、最終的に約60兆個の、各々の命となる訳です。

しかし、体は「新陳代謝」を繰り返し、常に、細胞が生まれ変わっています。
つまり、約60兆個の細胞の大部分が毎日のように生まれ変わっているということです。
死んだ細胞はいわゆる「垢」となったり、老廃物として体外に排泄されます。

「細胞の新陳代謝」の周期は部位によって異なり、
 胃腸の細胞は約5日周期
 心臓は約22日周期
 肌の細胞は約28日周期
 筋肉や肝臓などは約2ヶ月間の周期
 骨の細胞は約3ヶ月周期
細胞の新陳代謝が正常であれば身体は3ヶ月で新しく生まれ変わると言われています。

このように新陳代謝は生命維持には欠かせない仕組みです。

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2 次に、身体の機能的な点に関して述べてみたいと思います。

命の継承は複雑で、単に卵子と精子が受精して細胞分裂を繰り返して人間が誕生するという単純なものではないということが分かります。

初めは1個の細胞の「1個の命」がやがては60兆個の「命」の合体となるのです。
つまり、細胞分裂により、「命」もいわば分裂し増加していくのです。

その中で骨や各臓器や皮膚や目や耳や口や手や足や脳などがグループとして形成し、各々一つの機能を有するようになり、すべての機能が連携した人間が誕生するのです。

また、人間の活動は脳からの体の肢体への指令と連携により行われています。
これは、脳で形成される「意思」の働きによるものです。

幾つかの細胞が集まって脳を形成し、大脳(終脳)、間脳(視床、視床下部)、脳幹(間脳、中脳、橋、延髄)、小脳に区分されています。

大脳皮質の役割は中心溝(ローランド溝)を境にして、前頭葉では運動や創造などの出力に関係し、頭頂葉、後頭葉、側頭葉は視覚や聴覚など受容器からの入力を担っています。
運動機能にかかわる運動野、身体のどこかに何がしらの感覚を感じる体性感覚野、物体を見る視覚野、音を聞く聴覚野のほかに、広い領域を占める運動性言語野(ブローカ中枢)、感覚性言語野(ウェルニッケ中枢)、視覚性言語野などがあります。

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脳が最も複雑な部位で、各部分によってそれぞれの機能が異なります。
これらが「意思により」思い通りに働くので人間は活動が出来ます。

しかし、いわゆる五感は物理的反応ですが、意思や思考や記憶や言葉を話すことなどの「実体」は何処にあるかは不明です。

例えば、足をどこかにぶつけると脳は痛みを感じますが、実際、痛い箇所は足なので、その痛い箇所を手でさすったりします。

意思や思考と言った類のものは、脳の中に発生する「電磁波やある種雲のようなもやもや」とした存在なのです。

神経の中を微弱な電流が流れて脳からの指令が体の各肢体に伝達されたり、五感などの刺激が脳に伝わっていることは知られているところです。
そのため、いわゆる脳波(電磁波)を調べることが可能となっています。

普通電磁波は金属に誘因し電流を生じさせたり磁界を生じさせますが、脳の場合は非金属でそれが起こるのです。

この仕組みは誰にも分かっていません。

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私がここで最も言いたいのは、
始めは1個の細胞だったものが細胞分裂を繰り返し、時程表に従って体の各部分が形成されていきますが、
ある臓器が完成すると、あたかも1個の完成品のように機能し始めるということです。

 

心臓は血液の循環を、

胃や十二指腸やすい臓や胆嚢や小腸や大腸などは消化と吸収を、

肝臓は消化器官から吸収された栄養を分解貯蔵し、

腎臓は血管内を流れる細胞の老廃物を取り除き排泄させ、

肺は血液から二酸化炭素を取り酸素を入れるという、いわゆる交換が行なわれ、血液はヘモグロビンを介して細胞に酸素を供給する

と言ったことなどを機能ごとに各々独自に行っているという点です。
 

脳はすべてを意識的に、また、無意識の内に(自律的に)コントロールし、
人間の活動は意識的に、生命維持活動は自律的に作用しています。

しかし、体の各器官は、体内で「おのおの小さい電化製品」が作られ、完成すると機能も各々独自に開始しているのです。

 

このように動き出すと言う物理的な点は理解出来ても、

意識、思考、思い、感情、記憶などはその実体がどこにどのように存在しているかははっきりしていないのです。ただし、これらの働き(活動)は分かっています。

人は集団でいると、そこにある種の空気感が生まれます。
この空気感がいわば集団の思い、感情のようなものです。

あるいは、ある装置を作った時、その装置があたかも人間の意思を持っているかのような動き、反応などをすることがあります。

これに似たようなことが脳の中で起きていると考えられるのです。

このブログを読んでいるあなたも、読んで理解したり考えたりしていると思いますが、それが脳の中でどのようになされているかははっきりしていないのです。

人間の意識、思考、思い、感情、記憶などは脳の働きであることを知っていますが、その実体がどのようなものかが分かっていませんが、こうしたことは、胎内で脳が形成された時から始まっているです。

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この「命」は、例えれば電気製品の電気エネルギーであり、電気が供給されなくなるとその電気製品が動かなくなるように、人間も「命」を失うと体の機能を維持出来なくなり死んでしまいます。
それは、電化製品がそうであるように直ちに動かなくなります。

電化製品は様々な部品の集合体です。
その部品の各々に「適切な電流や電圧」が加わり、全体が正常に動作して初めてその製品が稼働するわけです。

また、様々な電気製品があるように、人間も様々な能力を持つ人が大勢います。
しかし、電気製品を動かしている電気エネルギーはすべて同じもの「共通」しているように「命」も同じなのです。

それゆえ、臓器移植が可能になるのです。

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細胞一つひとつに、いわば、超小型発電機を持っているようなものです。
その働きをするのがミトコンドリアと言われています。
細胞分裂の時に、これも分裂、もしくは、分割していくのです。

細胞内におけるミトコンドリアの重要な役割としては、エネルギー(アデノシン三リン酸;ATP)の産生です。
それ以外にも、細胞内カルシウムイオン濃度の調節や脂質の酸化、また近年は免疫反応においても不可欠な働きをしていることが明らかになっています。

細胞の活動を支えているのは、酸素や様々な栄養素です。
つまり、
呼吸と食物によって支えられているのです。

呼吸は自発的、また、自律的なものです。
食物は人間の意思によるもので、体外から与えられるものです。

物理的には、細胞のミトコンドリアが人を生かしていると言えます。
人間の活動エネルギー、つまり、「命」はミトコンドリアの働きによるものであり、それは呼吸や食物(栄養)によって支えられているのです。

創世記2:7-9には次のように記されています。
「7 それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。

8 さらに,エホバ神はエデンに,その東のほうに園を設け,ご自分が形造った人をそこに置かれた。
9 そうしてエホバ神は,見て好ましく食物として良いあらゆる木を地面から生えさせ・・・」

聖書には、人類が最近分かったことが、その初めから記されていたのです。
正(まさ)しく、聖書が神による書であることの証明の一つとなるのではありませんか?

一言で「命」と言いますが、
実際は、活動するためのエネルギーであり、それはおよそ60兆個の個々の細胞の中で「生み出されている」のです。

そういう仕組みを作られたのは神であり、細胞を活動させるために「命の息」を鼻孔から吹き入れられたのは神なのです。

以後、人間は精巧に作られた機械仕掛けのように、神の仕組みによって「自立的に活動する生き物」になったのです。

理知という点を除けば、他の動物も同じです。

簡単に言えば、神は人間の一つひとつの細胞の中に「エネルギー発生装置」を作られたということです。

これは、「動力源」としての「命」です。

それは、親から遺伝的に継承されて行くものです。
それを活動させるために、神は人間の鼻孔から命の息を吹き入れられたのです。

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以上のことを考慮すると、
人間の「命」は約60兆個の「命」の集合体でありながら、人間の活動を支配しているのは「脳」です。
人間の「命」を支えているのは、いわゆる自律神経系であり、これらは、神の創造の仕組みで「自動的に働いています」
従がって、人間の「命」は、受精後胎内で脳が形成され意識、思考、思い、感情、記憶などが活動し始めた時から、その人自身が支配していると言えます。
しかし、この時はまだ胎内のため「命」は母体に依存しています。
誕生から自分の意思をはっきり持つ10歳位までは、自分の命を自分でコントロールしてはいません。

いわゆる自我が芽生えて、初めて人間は自分の「命」をコントロールしていると言えるのです。

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3 では、「自分の命はだれのものか」ということについて述べてみたいと思います。

細胞一つひとつの「命」は親から受け継いだものであり、それは最初に神がアダムに与えたものなのです。
その集合体をコントロールしているのが「脳」であり、人間の活動をコントロールしているのは、人間の「意思」です。

従って、「自分の意思」で自分の活動をコントロールし始めてからは、「自分の命に対する責任は自分自身にある」と言えます。

そして、人間には「この命を守るべき責任がある」のす。
なぜなら、
神は人間に、地上のあらゆる生き物と子孫を従わせよと命じられたからです。
人間は生きている限りこの責任を果たさなければならないのです。

繰り返しになりますが、
命には二系統があります。
1 体全体を支配し活動させている「命」
2 およそ60兆個の個々の細胞を活動させている「命」

1は2によって支えられています。

体全体の活動は「脳」によって行われます。
意識的な活動、無意識の活動、体の生命維持機能などなど。

 

個々の細胞の活動は、自分の意思とは無関係に自律したものです。
ただし、体の仕組みの中で、各臓器などが「ホルモン」というメッセージ物質を放出し互いに連携していることが分かっています。
時には、精神(気持ちや感情など)がそれらに影響を与えることも知られています。

また、脳が死んでも体が生きているという場合もあります。
いわゆる脳死状態です。

普通、脳が死ぬと体の活動(意識的な)が停止するので、自力で食べたり排泄したりすることが出来なくなるので、いわば、飢餓状態になって体の個々の細胞が死に体の機能が停止し死ぬことになります。

今では、脳の活動が停止しても(脳死状態)人工的に栄養を与えたり排泄を処理させることで体を生き続けさせることが出来ています。
あるいは人工心肺装置(自立呼吸が出来ない場合)で「生かされている」場合もあります。
これを、植物状態と言います。
これにより、臓器移植を可能にしました。

他方、体の肢体、つまり、ある部分だけの機能を失うこともあります。

手や足を失ったり、視覚や聴覚などを失ったりすることがあります。

また、腫瘍により細胞が死に、何かの臓器の機能が破壊される場合などもあります。
がんの場合は細胞事体は生きていますが、正常な状態での活動ではないので、その部位の機能が破壊されます。

これらにより失った臓器などの機能が、いわゆる生命維持のどれかの機能を失わせると体全体の活動も停止することになります。
つまり、死ぬ訳です。

 

脳死状態における「命」は誰のものでしょうか。

脳が活動していないので「自分」というものが存在していません。

しかし、体そのものはまだ死んでいないのです。

 

自分というものが存在しないその体の命は一体だれのものか、様々な論議を呼ぶところです。

自分という意思が存在しなくても、その体はその人のものだと考える人もいると思います。

 

しかし、臓器移植をする時には、本人の遺言や親族の意思で提供される場合もあります。

臓器は「生きている」「命がある」のからです。

 

脳だけが、いわゆる死んでいるのです。

 

臓器移植は、他人に自分の臓器、ある意味「命」を提供することです。

つまり、文字通り「命」のやり取りをすることです。

自分の「命」の一部を誰かに提供することです。

 

この点、聖書の原則は、

「3 生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わた 

 しはそれを皆あなた方に確かに与える。

4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。

5 さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求 

 める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。

6 だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからであ 

 る。」-創世記9:3-6

 

動物の血だけでなく人の血に関しても付け加えています。

ただ食べるだけでなく流すことに対しても「血の返済」(これは死を求めることを意味しています)を求めると述べています。

人の血を流すということは殺すということであり、人を殺したら自分の血も流させられる=殺されるということです。

 

臓器移植は「命のやり取り」です。

この「命のやり取り」をあなたはどう思いますか?

 

誰かの命を救うためには臓器移植をしても「血の返済」を免れると考えますか?

 

「血の返済」を求めるのは神です。

「血」=「命」の返済を求めるのは神なのです。

 

つまり、神は罪の代償としてご自分のものである「命」を「人」に求めるのです。

神がアダムから「永遠の命」を、いわば、取り去ったのと同じことです。

 

これは、「命」が神から貸与されたということの証とも言えます。

 

単に「命」の代償を求めるだけではないのです。


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「人間の人間たる所以」は、神によって付与された「理知」という能力によります。
人間活動は主に精神作用で行われるます。

精神作用により体を動かすには脳から発する微弱な電気が必要です。
その電気=信号が神経を介して体の各部分に伝わることで行われています。

つまり、
脳の中にも「発電機能」があるということです。
この発電も基本的にはミトコンドリアと同じく「呼吸や食物」で支えられています。

ですが、脳の場合は、他の細胞や臓器とは異なり、脳全体に様々な部位が沢山存在しています。
脳の信号の伝達経路や仕組みは分かっていますが、神経を通る信号=微弱な電気の発生の仕方は以下の通りかも知れません。

局部的には、
“出力装置”である軸索の末端は「シナプス」と呼ばれ、このシナプスには数万分の1mmほどのすき間「シナプス間隙」があり、軸索を伝わってきた電気信号は、このすき間を飛び越えることはできないため、電気信号が伝わってくると、シナプスにある小胞から「神経伝達物質」という化学物質が、シナプス間隙に分泌され、神経伝達物質が、次のニューロンの細胞膜にある受容体に結合すると、電気信号が生まれ情報が伝達されるとされています。

脳の全体では、
前頭葉では、司る領域によってさらに「前頭連合野」「ブローカ野」「運動前野」「補足運動野」「前頭眼野」「一次運動野」が、
側頭葉では,聴覚認知,言語の受容,視覚的な記憶,言語的な記憶,および感情に関わる野が、
後頭葉では、一次視覚野、視覚連合野が、
島では内臓からの感覚および自律神経情報を統合し、
辺縁葉(辺縁系)では,脳の様々な領域から入力を受け取る構造や,相互に関連する複雑な機能(例,記憶,学習,感情)に関与する領域が
あることが知られており、
これらの各々から、電気信号が発生されそれが神経細胞を経由して体の細部に伝達されていくのです。
電気信号の発生メカニズムは脳にある「化学物質」によります。

ですから、例えば、脳梗塞になり脳の一部が破壊されると手や足を動かせなくなるのは、この化学物質を生じさせる事が出来なくなるからです。

脳の中に不要な化学物質が蓄積されると、アルツハイマーが生じると言われています。
その物質が脳の活動を制限させたり異常を生じさせるからです。

脳の活動は、運動のみならず精神などについても同様に活動します。

特に、精神的活動(思考、記憶、感情、気持ち、思いなど)というものはどのようになされているのか物理的には分かっていません。

ただ、表面上現れる精神活動を分析したり脳の活動分野を確認することで、これらの作用を確かめているだけなのです。

人は上記のような「人間の仕組み」については殆ど意識しません。
意識するのは、呼吸と食物位のものです。

したがって、
人間が「命」ということばを意識する時には、
人間の精神作用による、体全体の活動を指すことが殆どなのです。

人が人として、最も重要な点は、思想、活動、振る舞い、人格や性質などです。
これらの活動を称して、時に、「命の用い方」などと言うことがあります。

聖書の中で「命」に関連して述べられているのはこの点に関してのみです。

神が人間に責任を追及するのはこの点なのです。

しかし、その活動の「土台」を据えたのは、つまり、文字通りの「命、生命」を付与されたのは神です。

したがって、
人間は、精神によって自分の行動に責任を持つことで、つまり、肉体の活動をコントロールすることで、自分の行いに責任を持つことになるのです。

その肉体の活動を支えているのが個々の細胞の中のエネルギー源であるミトコンドリアであり、
こうしたことは親から受け継いだものであり、そのような仕組みを作られたのは神なのです。

人は神によって創造されたので、いわば、人間は神のものと言えます。
人間活動を支えるエネルギーつまり命は神から与えられたものですが、
それは、いわば、神が人に貸与したものなのです。

ですから、人は「命」を身勝手に用いてはならないのです。

命は神のものなのです。

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動物を生かしている「命」も、人間を生かしている「命」も「同じもの」です。

その良い例が、

豚の肝臓を人間に移植しても人間は生きていることからも分かります。

電気が「目に見えない」ように「命(エネルギー)」も「見ることは出来ません」
しかし、その働きによって、その存在ははっきりしています。

この観点から考えた「人の死」は二種類あることになります。
1 命である電気エネルギーを失った時、つまり、神が命を取り去った時
  例えば、エノク、モーセ、エリヤなどは肉体的には生き続けられたのに、神が命を取り去ったの

  です。(殺した訳ではありません。いわば、存在そのものを隠したようなものです)
2 電気製品が故障した時、つまり、体の機能を維持出来なくなった時(病気、事故、ケガ、暴力、

  自殺、他殺、老衰など)
  電気エネルギーは失ってはいませんが、製品そのものが動かなくなった場合です。
  体の機能を失い、それと共に脳の機能も失うと体の活動を停止することになります。

神に対し罪を犯した人の命は取り去られ死ぬことになります。
実際、すべての人は罪を犯したのですべての人は必ず死ぬことになるということです。

これに逆らうことの出来る人は一人もいません。

すべての人は必ず死ぬのです。

「命」は神の元に帰るのです。

創世記3:16-19には次のように記されています。
「16 女に対してはこう言われた。「わたしはあなたの妊娠の苦痛を大いに増す。あなたは産みの苦しみをもって子を産む。あなたが慕い求めるのはあなたの夫であり,彼はあなたを支配するであろう」。
17 また,アダムに対してこう言われた。「あなたが妻の声に従い,わたしが命じて,『それから食べてはならない』と言っておいたその木から食べるようになったため,地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは,命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。
18 そして,それはいばらとあざみをあなたのために生えさせ,あなたは野の草木を食べなければならない。
19 あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」。

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他の生き物と人間との違いとしては、
「生理現象などから生じる欲求」などは基本的には「動物と同じ」ですが、
「基本的な道徳理念や良心」などは初めから(生まれた時から)すべての人間に共通して付与されているという点が異なり、そのため、人間が他の生き物や人を殺したり暴力を振るったり暴言や卑猥な言動などをした場合、各々にこの道徳や良心が作用するのです。

加えて、人間は「神と似た様に創造されている」ので、他の動物のような本能ではなく、人間は活動すべてにおいて、自ら考えて活動をしなければならないのです。

人間に付与された理知は、物事の善し悪しの判断だったり、欲を含め物事を成し遂げる時の知恵だったりする時に働きます。

アダムは「善悪の知識の木の実」を食べてはならないという「規制(法)」も与えられました。
これは、人間を試すためでもありました。
神の命令に従うか否かは自分で決め、その責任を果たすかどうかを試されたのです。
当初アダムは、これだけ、たった一つのおきてを守るだけで良かったのですが「失敗」してしまったのです。
そのため、アダムから受け継いだ罪は全人類に及び、そのためすべて人の「命」は取り去られる(死ぬ)のです。

参考:この点、神は、み使いが自分に反抗したり、人間がおきてを守らなくなることを「見越して」しばらく様子を見ていたかも知れません。

そうでなければ、試す意味がないからです。

勿論、それは、悪の容認ではなく、み使いや人間が神に逆らう様を、他のみ使いたちに示すためでもあり、その後、彼らに与える「罰」が正当なものであることを理解させるためだったのです。

(参考:こうして神はご自分が「高慢で恐ろしい神である」ということを払拭しているのです。)

神にとって、人間の責任を追及し罰することは「容易」なことです。

加えて、人間に地球の管理という仕事を与え、また、子孫を増やすように命じられました。
また、その子孫を従わせよという命令も付与されました。

当然ですが、神から与えられた命令を実行するために、神は人間に理知を付与されたのです。

自分の欲望を満たすため、神から与えられたこの理知を用いることは「悪用」なのです。
「悪用」とは、神のご意思に反した行為のことです。

しかし、人間は「善悪の知識の実」を食べることに関しても、地球を管理することに関しても、子孫を従わせよということに関しても、すべて「失敗」しました。

この責任の一端は、「一人のみ使い、悪魔となったみ使い」にあることは明白であり、
神はこの者を特定の期間自由にさせることで、神から離反したその後の人間(アダムの子孫)の本心を見極め、人々を区別することにしたのです。

また、
離反した人類を救う手立て(イエス・キリストの犠牲)を設けられたのは「神の人に対する愛情」であり、それを実行されました。

その後、天地のすべての権威をその手立て、つまり、人間として遣わされた一人のみ使い、人間イエス・キリストに委ねられたのです。
それは、イエスが死に至るまで神に忠実だったからであり、すべての活動に於いて「神に誉れと栄光を帰したから」です。
神が唯一最も信頼できる「被造物」が神の初子、人間イエス・キリストとなった「神の独り子」なのです。
そして、そのイエスは「神性、もしくは、神聖」を備えているので、基本的に神と異なる点がありません。

ヨハネはこれを称して、イエスは「神(a god)であった」と記しているのです。

イエス・キリストは天に戻られ霊者として以前の「体(霊の体)」を復活させられ、神から与えられた権威を行使するのです。
その権威が地上に及ぶのは、神が地上から現在の体制を、悪のすべて滅ぼされてからのことです。

神にとって「人の命は軽いもの」です。
悪人を虫けらのように「殺す」ことは「容易(たやす)い」ことであり、当然の報いと考えていることは明らかです。

人間のように「命は地球より重い」などとは考えないのです。
人間が考えている程、神は人間の命を重要なものとは考えてはいないということです。

神にとって、人間の命を「復活」させることも「容易なこと」だからです。

神にとって、最も重要なことは「ご自分に従うか否か」という、この1点なのです。
これは、今でも「変わってはいません」。
ただ、多くの人はこのことを知らないだけです。

真の神について人々に教え、そのおきてを守らせる点でも人は失敗したのです。

人類を救う神の手立てである人間イエス・キリストの命に関しては、これは「ご自分が定めたルール」に従ったもので「特別なもの」でした。
いわば、神は「人間の命」を「人間の命」で買い戻す(取り戻した)ために利用されたのです。
買戻しは、対等の価値のあるものでなければならないことは、神に捧げる犠牲を見れば明らかです。

他の人間のどんな「命」に関しても、神にとっては軽いものです。
ただ、その人間の神に対する振る舞いにより「憐み」を示されることはあります。
いわば、「恵まれた人」です。

その初めがアダムから七代目のエノクであり、ノアの大洪水の時のノアであり(家族は人類を増やすために残されたのです)アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、サムエル、エリヤ、エズラ、ネヘミヤ、エゼキエル、バプテストのヨハネなどです。
これらは皆「神=エホバの模範的な崇拝者」でした。

イエス・キリストにすべての権威を付与された後は、その憐みはイエス・キリストにより「イエス・キリストの弟子たち」に向けられることになりました。

従って、この憐みは、
キリスト以前は神により、キリスト以後はイエスにより示されるのです。
聖書には、キリストは二種類の人々に憐みを示すことが記されています。
「囲いの中の羊」と「囲いの外の羊」です。
囲いの中の羊は、囲いが示すように特別な存在として取り分けられた者たちでその門番はイエスで、その数は限定されたものですが、囲いの外の羊の数は限定されていないません。
つまり、どれだけの人々が「救われる」かは分からないということです。

この囲いの中の羊は、人間として生まれ霊者として天に復活しイエス・キリスト共に「地を支配」する「神の王国」の一員となる特別な人々です。
そのため、イエス・キリストはその者たちを良く知っており、その資格のある者たちを集めることを「ご自分のみ使い」たちに命じられました。

人間に命じられたのではありません。

人間的に考えれば、神とイエスを信じ「バプテスマを受けたキリストの弟子」となる人々と考えられますが、
イエスは、この弟子たちをご自分の左右に分けられて、一方を永遠の命へと、他方を永遠の切断に入ると言われました。

ですから、キリストの弟子=クリスチャンすべてが「救われる」訳ではないことも明白です。

更に、このこととは「別」に弟子たちに「何をすべきかを命じられました。」

イエス・キリストが弟子たちに命じられたのは、
「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。
19 それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,
20 わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。
-マタイ28:18-20

いわゆる宣教について命じていますが、彼らに教えられバプテスマを受けたとしても、その人々の救いに関しては述べていない点を注目すべきです。

いわば、宣教はクリスチャンの使命ですが、それによって、神とキリストが栄光を受けるとしても、
それは、神とキリストの業であり、人間の業ではないので、
宣教をしたから、あるいは、熱心に宣教をしたからと言って、それだけで「命が保証」されるものではないのです。

イエスのこの命令に従わなくても「救われる人はいる」のです。

この点をものみの塔とエホバの証人たちは「誤解」しています。
「誤解」というより、ものみの塔は、その初めから、信者に宣教をするよう促して新しい信者を増やすことを意図的に画策したのです。

繰り返しますが、宣教はクリスチャンの「使命」なのです。
「命を保証するものではない」のです。

教えを受け、イエスの命令を守り行う人々だけが、上に述べたように更に「分けられ」、それらの人々を刈り取るのは、人間ではなく、イエスご自身とイエスの指示に従う「み使いたち」なのです。

救いに関しては、イエスは弟子たちだけに「終わりまで耐え忍んだ者が救われる者」であるとはっきりと述べています。

またその資質は啓示2章と3章の七つの手紙の中に示されています。

これらは、主に天でキリストと共になる人々、つまり、囲いの中の羊のことです。

囲いの外の数の限定されない人々は、キリストの千年王国の間に「地上で生きることを許された者たち」だと考えられます。
その数が限定されていないことから、
いわゆる、事物の体制の滅びを生き残る人々の数は「未定」であると考えられます。
つまり、
今生きている人々には、「生き残る人々」に含まれる「可能性」があるということです。

この囲いの外の羊たちは、囲いの中の羊のような「堅い信仰」を求められたり「厳しい試練に遭遇」するとは限りません。
生きている間に「試練が自分の身に生じるとは限らない」のです。

ただ、両者に共通しているのは「羊」であることです。
この「羊」は人間の「特質」「性質」を示しています。

例えば、
「羊」は大人しい性質であるのに対し「山羊」は攻撃的な性質を表しています。
イエスの指示に従って「集める」み使いたちは、その性質によって「見分ける」のです。

その「特質」は言葉や行動によって反映され、彼らを刈り取る天のみ使いにも「明らかに見える」のです。

その特質とは、
「14 自分の長い衣を洗って,命の木に[行く]権限を自分のものとし,その門から都市の中に入れるようになる者たちは幸いである。
15 その外にいるのは,犬,心霊術を行なう者,淫行の者,殺人をする者,偶像を礼拝する者,また,すべて偽りを好んでそれを行ないつづける者である」-啓示22:14-15
と示されています。

ここで示されている外にいる存在は、神の憐みも恵みも受けられない者たちのことです。

これに先駆けて、パウロは、
19 さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。-ガラテア5:19-23

これらの特質によって、人は見分けられるのです。

この特質は、現在の世でも、キリストの世でも変わりありません。
したがって、
キリストの世になっても、「悪を行う者は存在する」ということです。

ただ、支配の仕方が異なると共に、地上に住む人間の中で「肉の業」を習わしにする者たちは、おそらく、速やかに除き去られるということだけなのです。

今の裁判のような遅々としたことはないのです。

すべては、天から見て知っているからです。

おそらく、キリストの千年統治の終わりに至っても、文字通りの悪を行わないにしても、支配の仕方などに不満を持つ人々が大勢いると思われます。
悪魔が底知れぬ深みから解き放たれた時に「悪魔の惑わし(誘惑)」により、神とキリストに反抗し、聖なる者たちや神に愛される人々と戦う人々が海辺の砂粒程もいることが示されているからです。

神は、悪魔に自分の主張の正しさを立証させるために6000年も与えました。

勿論、この間に人類を救う手立てを備えることも含まれてはいましたが長い期間でした。

しかし、神の支配の正しさを立証するのに僅か1000年だけしか設けませんでした。

これで、十分なのです。

 

そして、これらはすべて「神の休息の1日」の内に完了するのです。


命は神のもの、従って、その神が人間の命をどのようにも扱うことが出来るのです。
また、その権限の一部あるいはすべてをイエス・キリストに付与されました。

例えば、
アブラハム、モーセなどは既に「死んでいます」
しかし、
神にとっては「生きている」のです。
これは何を意味するのでしょうか。
それは、
必ずしも、将来キリストの世になった時に地上に復活してくるという意味ではありません。
勿論、天にも行きません。
神の「記憶」の中にご自分の立派な崇拝者として「永遠に刻まれた」ことを意味しているのです。
いわゆる「神の記念」となったのです。

命は神のものですから、彼らに再び「命」を付与するか否かは「神が決める」ことであり、
それは、決して「憐み」ではなく、当然の「報い」として与えられるものなのです。

キリストの世で復活し、聖なる者(神によって取り分けられた人々)が存在することは啓示の書に記されているので、彼らが古代と同じように地上で「指導的立場」に付くかも知れません。

人間の命は神から付与されたもので、その命の用い方に人間には責任が伴うのです。
命は神から貰ったものではなく、貸与されたものなのです。

それゆえ、聖書では「霊は神のもとに帰る」と記されています。
「7 そのとき,塵はかつてそうであったように地に帰り,霊もこれをお与えになった[まことの]神のもとに帰る。」
-伝道の書12:7
塵とは肉体のこと、霊とは「人を生かしているもの(いわゆる霊魂という幻のようなものではない)」のことです。

この聖句から分かることは、
肉体は地面の諸要素から作られ、霊=人間の原動力は物理的な肉体とは異なるものであるということです。

人間の活動力は物理的には細胞のミトコンドリアで作られますが、それを支えているのは呼吸と食物です。
ですが、人を生かしているのは「神が人に与えた霊」なのです。

この霊を「命」と置き換えることが出来るのです。

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参考(霊の体について)

 

天のみ使いたちは霊の体(人間の目には見えない)を持っていますが人間のような肉体を持っていないのに、見たり話したりすることが出来ます。
一体どのようにして見たり話したり、あるいは、空中を飛んでいるのでしょうか。

 

イエスは天の「命」を地上の人間の胎に移され人間として誕生しました。

 

ですから、

み使いの「命」も人間の「命」も同じものと考えることが出来ます。

この「命」を霊と言ったりするのはこのためかも知れません。
 

復活したイエスが天に戻る前に部屋に集まっていた弟子たちのところへ来た時、鍵のかかった戸をすり抜けて入っています。

(復活したイエスは肉体で復活したのではなく、元の状態の霊者として復活したので、

 弟子たちの前に現れた時には、服を着替えるように別の姿(肉体)で現れています。)
 

一体、どのようにして入ったのでしょうか。
弟子たちがこれを疑ったという記録はありません。
実際、トマスは戸をすり抜けて入って来たイエスの体に触っています。
つまり、すり抜けた時は「亡霊」のようであり、すり抜けた後は実際に肉体として存在したのです。
-ヨハネ20:24-29

 

どのようにして、このようなことが起きたのでしょうか?
少なくとも、人間は誰一人これを理解していません。

 

(参考:霊の体は、強い太陽の日差しの下では存在出来ません。

 そのため、霊の体を保護するために、地上では肉体を身に付ける必要があるのです。

 み使いたちがいる天には、太陽のように強烈な熱を発するものは存在していません。

 実際、み使いたちが地上に降りて来た時には肉体を着けて現れています。

 それは、上記の理由の他に、人間に見えるようにするためでもあるのです。

 そして、このことは、人間も霊=命と魂=肉体で成り立っていることを推測させる例ともなりま 

 す。)
 

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最後に、
聖書に通じたければ、何度も聖書を読み、すべての内容を記憶し、その上で様々な考えをする中で、聖書が述べていることと照らし合わせ深く考えることです。

聖書の内容は「矛盾」したところ、つまり、意味や内容が他の部分と異なるという点が全くありませんので、
この点安心して聖書を読むことが出来ます。

確かに、聖書は、人が「神の霊感」によって記したものです。
およそ1600年掛けて。
それが現在のような形に編纂されたのは、1世紀から5世紀ごろにかけてです。

神の霊感を受けたものというと、あたかも「奇跡」が生じたかのような印象を与えますが、
実際、聖書を記す時の「思考」に「神の考え」が示された(入れられた)ということもありますが、
モーセが書いた、いわゆるモーセ五書がすべての始まりで、後の人々はこれを忠実に写本し、また、神の考えを理解するように努めた結果とも言えます。

ヨシュア記以降は殆どは実際の出来事の記録であり、その中に、神との関わりを書き表すことで、神の考えが正しく継承されて来たとも言えるのです。

そして、イエスの誕生と生涯の出来事の記録、弟子たちの記録、弟子たちに対するペテロやヤコブやパウロやヨハネの助言を記したものです。
彼らも、それ以前の聖書に通じ、神の考えを理解した上で、イエスの行われたこと言われたことを記したのです。

唯一、霊感と言えるのは「ヨハネへの啓示」の書、つまり、最後に置かれている書です。
これは、ヨハネに幻で与えられていますので、完全に霊感による書と言えます。

他にも部分的には、特に「預言」に関する事柄は霊感によるものです。
例えば、ダニエルに与えられた「北の王と南の王」の幻などです。
このような書は聖書の中の他の部分には、例えば、エゼキエルやイザヤに与えられた幻などがあります。

初めは、ヘブライ語、アラム語、そして、ギリシャ語で、その後現在の形に編纂されたころはラテン語で記されました。
ラテン語で記された聖書を用いることで、聖書を他とは区別して特別なものとして扱ったということです。
これは、人間が意図したことです。
つまり、
聖書を特別なものとして、いわゆる、聖典として扱ったということです。
中世の異端審問がそれを良く示しています。

その後、カトリックとプロテスタントが分離することで、
様々な宗派が、つまり、聖書の解釈の違うグループが「雨後の竹の子」のように出現して来て今日があるのです。

問題の、ものみの塔もそのグループの一つなのです。

西暦1世までの聖書筆者がそうであったように、聖書の記録から神の考えを正しく理解することは不可能ではありません。

ものみの塔は当初の思惑から、人間の考えが多く取り入れられている点で、カトリックやプロテスタントと変わりません。

ものみの塔は「間違いながらも聖書に忠実であろうとしている」だけで、聖書筆者たちのように、必ずしも、神の考えを正しく理解している訳ではないのです。

現代のように、あらゆる国の言語に翻訳されたのは、最近のことです。
したがって、世界中の誰でも読み書きが出来る人なら、自国語の聖書を読むことが出来る状態にあるのです。

聖書の読み方は、既に示してありますので、その通りに読めば記憶や理解が早まります。
参考にして下さい。

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追記
上記には、犯罪、戦争、事故、病気、老衰などで失われた「命」に関しては含まれていません。
これらに関しては、各々誰に責任があるかを考慮しなければ、その「命」に対する責任などについては語れません。

正常な妊娠出産でないなどの場合もあります。
例えば、婦女暴行、強姦、不倫などで出産した子供の命。
あるいは、正常な夫婦関係で誕生しても、育児放棄された子供の命。
更には、妊婦を肉体的精神的に傷付け、それが原因で胎児の命が失われた場合。
その責任が本人の場合と他人の場合があります。

あるいは、障害児として生まれた子供の命。
などもあり、これらの場合の「命」の扱いは難しいものがあります。

非常に憎むべき例として次のことを挙げることが出来ます。
8月28日、NHKクローズアップ現代で「終戦時ソ連兵に強姦された人の妊娠中絶」などに関しての放送がありました。

戦後、貧しさからアメリカ兵に体を売った女性が多数妊娠し、中には中絶した人もいます。
戦後、沖縄ではアメリカ兵による強姦が多数行われて来ました。
この憎むべき「犯罪」による妊娠と中絶をどのように考えるべきでしょうか?

聖書では、強姦や不倫は死刑です。
しかし、これらによって妊娠した場合その胎児をどのように扱うかに関しても明確な記述はありません。

基本的に生まれてくる子供に親の責任は無関係なので、親については責任を追及しますが子供をどうすべきかという法は存在しないのです。

暴行などで流産させた場合、その子が死ねば死刑です。出エジプト21:22-25
中絶は殺人なので、神の考えからすれば死刑です。

神の考えからすれば、例え強姦によって妊娠しても子供は産むべきです。
中絶で殺してはならないのです。

しかし、産んだ子供は養子や里子に出し自分で育てさせるべきではありません。
生まれて来た子供には出生について話す必要もないと考えます。

その子が成人して、自分の父母について知りたいと言っても、事情を話し教える訳にはいかないと話すべきです。
父もしくは母は神の目から見て犯罪者だからです。

あなたはどのように考えますか?

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余談(脳の不思議)

私は時々、フリーセルというトランプカードゲームやルービックキューブ(3×3、4×4、5×5、6×6、7×7すべて完成させられます。それ以上は高価なので手に入れていませんが多分完成させられます)やナンプレ(9×9)などをすることがあります。
無論、数が多くなればそれだけ時間は掛かります。
ルービックキューブは3×3で5分以内で、7×7でおよそ40分から1時間で、
ナンプレは早くて3時間位掛かります。
が、どちらも完成させることが出来ます。
ただし、ナンプレは絶対完成しないものもあります。

不思議というか、確認出来ないのは、これらを完成させる時、自分の脳はどうなっているのかという点です。
何度試しても分かりません。
考えなくても、状態を見ているだけで「素早く出来る」のです。
なぜ、考えなくても出来るのか考えましたが分かりません。
勿論、考える時もありますが、殆どは「瞬間的な判断」だけで行っているのです。
時には、その判断すらしているのか「自覚がない」時もあるのです。
つまり、
何をどうすれば良いかということは知っていますので、後は、見て判断し行うだけなのです。
ですから、殆ど考えなくても出来てしまうのです。

脳は不思議な存在です。

また、
何かを計量したり、移し替えたり、必要な物をそろえたりする時、「偶然にもピッタリ」する時が良くあります。
いわば、感が良いとでもいうのでしょうか。

自分でも驚いています。

元数学の教師でもありましたから、数字には強いです。
特に、数字を覚えるのが得意です。
それは、習慣的に目の前の数字を覚えるという点に関してです。
例えば、無理数のπとか自然数のeなどは覚え切れませんが、車のナンバーを瞬間的に覚えるとか買い物中のお金の計算を暗算でしているとか誰かの年齢とか年々に何が起きたかなどを覚えるのは得意です。

20歳ぐらいの時、カレンダーが28年周期で繰り返されていることに気が付き、その中で、ある数字の並びを発見したのです。
それを基に万年カレンダーを作りました。
円盤の形で作りました。

年と日付から曜日が分かる程度のものですが、私にとっては画期的なものでした。
しかし、他の人は余り価値のあるもののようには感じていないようでした。

私としてはカレンダーというより知恵を感じて欲しかったのですが、そのような人は誰もいませんでした。
今でも、このカレンダーは有効で、正確です。
うるう年も計算されているからです。
全く、狂いがありません。
自慢の一つです。
ただし、西暦1世紀の1月1日から以降のことです。
それ以前のことまでは試していません。
もし、確認出来れば、神が太陽をおよそ1日地球の回転を停止させたという聖書の記述を証明出来るかも知れません。
天文学的には証明されているようですが。

こうした特技は誰でも持っていると思います。

以心伝心という言葉があります。
この点でも時々、近くにいる誰かのことを瞬間的に思いを向けるとその人が「くしゃみをする」ということも度々ありました。
もしかすると「気功」の「気」と関係があるのかもしれません。
最近は、余り人と接していませんのでありませんが。

また、自分がこうなれば良いなと思うことが実際に起こることもたまにあります。
天気であれ、試合であれ、誰か特定の人であれ起こることがあるのです。

おそらく、他の人も同じ経験を持つ人はいると思います。

特にサバン症候群やギフテッドなどの人を目にすると脳の不思議を強く感じます。
ただ、これらの人々は万能ではなく、むしろ、他の普通の人が出来ることが出来ないということが多いものです。
いわゆる、言葉は悪いですが、一種の「カタワ(片端)」なのです。
しかし、ある事柄に関しては、天才以上のことが出来ます。
これは、一般的には脳の障害が生じさせていると言われています。

しかし、どうしても身に付けたいことで何度試しても未だに出来ないことがあります。
それは「気功」です。
何をしても何を試してもどうしても「気」を感じないのです。
今でも諦めてはいません。

人間の脳は実に不思議なものです。
不可解と言っても良いでしょう。
人間の脳には計り知れない程の能力があるということです。

あなたにも何か特別の才能があるかも知れません。

知恵を求める人のためのブログです。

道徳心は何処で育まれると思いますか?


道徳心は学校教育などで育まれるのではありません。
学校教育では、知識として教えられるものであり、それを実践する「授業」はないのです。
ですから、
学校で道徳心が育まれることはないのです

学校では道徳に反して、むしろ「競争社会」を形成しているのです。

では、道徳心は何処で育まれるのでしょうか?
一般的には、

道徳心は家庭と地域社会で育まれるのです。

しかし、家庭内で親が正しい道徳心を持っていなければ子供たちに道徳心を育ませることは出来ません。

また、宗教には、ある種の戒律というものがあります。

この戒律は、いわば、道徳なので、

宗教に入っている人、信仰を実践している人などは、カルト教以外、普通、道徳心を持っているものです。

 

ただし、

社会から逸脱している宗教は、必ずしも道徳的とは言えません

例えば、

ものみの塔とエホバの証人です。

彼らの信条や慣行の一部は社会、世間に受け入れられていないからです。


道徳とは、

一般的に、社会の善悪を判断する基準として人々に承認されている規範の総体で、

法律のような強制力の伴うものではなく、個人の内面的な原理とされています。

 

これに反することは、道徳を踏みにじる行為なのです。

 

正直であるとか、盗みや殺人などの犯罪を犯さない、人に対して悪行を行わないなどということだけではありません。

 

社会の不公平も道徳を踏みにじることの一つです。


生活保護、教育無償化などは社会の不公平の顕著なものです。

これも、道徳を踏みにじることの一つなのです。


皆さんは、貧しい人や困っている人を助ける制度は当然だと考えているかも知れません

私は不公平だというのは
本人が努力して公的支援を受けないように「頑張っている」とは思えない人が多いからです。

こうしたことは、

人の踏み行うべき道、人間のあるべき態度に「反している」と思うからです。

つまり、

道徳に反しているのです。

 

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参考:

個人的な考えとして、道徳とは、良心のように「明文化されていない規則」だと思っています。

大学で、道徳について学んだ時にそのように思いました。

 

以後、

道徳=規則と考えるようになりました。
 

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人は、支援を受けず自立することで「一人前」と言えます。
公的支援を受けている人や企業や団体は「一人前」とは言えません

「一人前」ではないということは、「責任ある大人と見なされない」ということです。

人々の雰囲気として、いわゆる「弱者救済」は当然という考えが浸透しています。
本当に、当然でしょうか

まず、自分が最大限の努力をしているでしょうか
能力の格差は自然なことです。
人はこの格差を打ち破るように努力する必要があるのです。

また、
競争における勝ち負けは当然のことです。
負けた者に手を差し伸べることは「自然に反しています」。

自然界は弱肉強食です。
誰も弱いものを助けたりはしないものです。

従って、人間がする弱者救済は「自然に反する」ことなのです。

こうした「歪(いびつ)」な社会では、どんなに望んでも健全で平和で安全な社会を築くことが出来るはずはありません
断言します

人々の誤り「困った時の援助」や「善行」を当然と見なし「社会や政府に要求」していることです。

私に言わせれば「甘えるな」です。

何事も自己責任を果たし自立してこそ一人前」なのです。

例えば、コロナが流行り大勢の人が感染し中には亡くなった人も少なくありません。
政府は治療費やワクチンを無償にし莫大な支援をしました。
国民もこれを当然と見なし、感染が収まらないと政府を批判しました

個人的には、なんて身勝手な国民だと思いました。

この身勝手は、つまりは、道徳に反しているということです。

私も妻も、ワクチンを打ってもいませんし、コロナにも感染していません。
何もしていないのです。
ただ、予防に努めただけです。
インフルエンザの予防接種も、現役で仕事をしている時でさえしていませんでしたし、感染もしませんでした。
予防に努めたからです。

予防という努力で感染を防げるのです。
その努力を棚に上げて感染し重症化し後遺症で悩んでいる人もいます。

私のようにワクチンも打たず感染もしなかった人は大勢いると思います。

感染した人を支援するのは当然という考えが普通ですが、感染しないように努力し感染しなかった人の方が立派だと思いませんか

感染しなかった人は政府の支援も受けないし病院の世話にもなっていないのです。

つまりは、お金(税金)を無駄に使っていないのです。

こうしたことは国民健康保険や介護保険でも言えることです。

必要な人だけが加入すべきで、必要ないと考え自分で何とかするという人は加入しなくても良いようにすべきなのです。

こうした税金の殆どは「無駄」な部分が多いのです。

あなたもそう思いませんか?

 

道徳心は家庭と社会で育まれるものなのですが、

その家庭も社会も、身勝手なことをして道徳心を「無視」しているのです。

 

これでは、永久に「良い家庭、良い社会」にはならないということです。

現代の家庭や社会はこうした状態にあるのです。

 

残念ながら、これを改めようとする政治家は皆無です。

 

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参考:

これは、私個人のことですが、

ある時から、小麦粉や米を食べることを止め、野菜と肉(ウィンナーや肉団子程度のもの、ハンバーグ、ステーキ、ロースやヒレと言った肉は食べません)中心に変えました。

 

無論、健康維持のためです。

 

私は中肉中背です。

身長が約170㎝、体重が(今は)57㎏(目標は55㎏)、体脂肪率はレベル6-7(かつては、0-1という時もありました)

この夏の暑さにも負けずに、毎日のように畑で作業をしています。

勿論、年が年なので休み休みで、ハーハー言いながら作業しています。

傍から見れば無謀に見えると思います。

 

しかし、そのお陰でこの暑さを凌ぐことが出来ています。

家では、私の部屋や寝室でエアコンを1度も使いませんでした

 

暑さで具合が悪くなるかと思いきや、健康で元気そのものです。

朝早く畑に行くので、暑さ寒さ涼しさが良く感じられます。

まだ日中は暑いですが、少しづつ涼しくなって来たのを感じることが出来ています。

 

畑から帰ったら、水でシャワーをし水風呂で体を冷やしていますが、すっきりとして気持ちが良いものです。

 

ただし、西日が入ると暑さがぶり返して来ます。

それでも、日没を過ぎると少し涼しく感じています。

 

エアコンの代わりに扇風機は使っています。

 

畑には、塩やレモン水を入れた水を沢山持って行って飲んでいます。

春に取った梅で、梅シロップジュースを作ってありましたので、毎日水にこれを少し加えて畑に持って行っています。

 

熱中症の人が沢山出ているのに、この暑さの中畑で作業をし元気で過ごせています。

自分の努力の成果だと思っています。

勿論、それでも何時かは病気になり死にますが。

不死身ではないので。

 

若い時から健康志向でした。

 

自慢するために書いたのではありません

良く考えて努力すれば公的支援も受けずに済みますし病院にもかからずに済むということです。

こうしたことは「道徳的」なのです。

 

あなたはどのように思いますか?

 

畑に関しては、後日またブログに書く予定です。

いろいろありました。

 

知恵を求める人のためのブログです。

あなたは人の不完全さをどのように見なしますか。

完全な人は一人もいないことを誰でも知っています。

 

では、なぜ人の不完全さが問題となるのでしょうか?

それは、物事が思い通りに上手く行かないからです。

 

不完全という言葉は、

失敗や過ちや罪や欠点などネガティブなことに対して用いられるものです。

 

逆に、完全という言葉は、

すべてにおいて欠点のないことと定義されています。

 

参考:完璧という言葉は、

欠点がなく優れて善いことと定義されています。

 

完全という言葉は、人に対してであれば、その人「全体」に対して用いるのに対して、

完璧という言葉は、部分的に用いられるということです。

 

ですから、部分的に完璧に行うことが出来る人は「存在」しますが、

すべてにおいて欠点のない人は存在しないのです。

したがって、

人間すべては不完全であり、すべての人はこれを認めているので、この言葉を用いる理由はないことになります。

なぜなら、それは「当然」のことだからです。

 

どんな人にも欠点や過ちはあるもの。
ところが、その欠点や過ち悪評にすることも少なくないものです。

しかし、エホバの証人やものみの塔に対する批判(悪評)の数々(欠点や過ち)は、表面的にはすべて事実です。

エホバの証人にとっては「耳の痛い」ことです。


ただし、ものみの塔やエホバの証人に対する過大評価が批判を歪めている面も少なくありません。

批判している相手は、

失敗や過ちを犯す人間」であること。
知識や経験も限られていること。
極端な思考や考えに陥っていること。

人間の性質や個性に関しては、人それぞれであること。
などの不完全要素を沢山持っている「普通の人間」なのです。

ただ、信じていることと行いが「普通の人とは異なる」だけなのです。

だからと言って、批判すべきではないとは言いません。
彼らに対する批判はすべきです
彼らには「完全」を求めるべきです。
なぜなら、神の組織を「名乗っている」からであり、彼らは神の民であると主張しているからです。

 

ですから、

彼らが過ちを犯したら、当然批判すべきで「言い訳をさせない」ことです。

そのようにして、自称神の組織、神の民に「汚名」を着せることです。

こうして、ものみの塔が「偽り者」であることを「世」に示すべきなのです。

加えて、

エホバの証人の会衆内で、もし審理委員会が開かれたら、審理される人は、「審理する人」を批判するべきです。
「立場」については自ら望んだものではないので、この点は批判すべきではありません。
しかし、
そうした長老たちの「人格、振る舞い」などを「公に批判」すべきです
彼らにはそれを受け入れる必要が「立場上課せられている」からです。

信者を裁くだけで、自分には「罪」も「何も生じない」ということは有り得ません
裁く長老たちも「裁かれるべき」なのです。

こうして、彼らの中で生じている「偽りの真理」を暴露するのです。

審理される人々は、犯した事実からは逃れられないとしても、不必要に、また、不当に裁かれるべきではありません

 

現代の、長老たちに「人を裁く資格も権利もがないことは明白」です。

 

人を裁くということは、不完全な人に対して「完全性」を求めていることになり、人の過ちを認めず罰を与えるということなのです。


彼らは、こうして「人に対して完全性」を求めながら、自らは「不完全」を「言い訳にしている」のです。

 

イエスは、いわゆる山上の垂訓の中で弟子たちを含め群衆にも次のように言いました。
マタイ7:1-2
「自分が裁かれないために,[人を]裁くのをやめなさい。
あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。
そして,あなた方が量り出しているその量りで人はあなた方に量り出すでしょう。」

この言葉は、会衆内の長老たちにも言えることです。

 

彼らはこうした矛盾」に気が付いているのでしょうか

 

もし、気が付いていて、尚組織に留まっているなら、その人の救いは何処にあるのでしょうか


裁く権利があるのは「神とキリスト」のみです。

今、裁いている長老たちすべては、やがては自分たちの罪に関して「神とキリスト」に裁かれる日が来るのです。
その日は、事物の体制の終わりの日かも知れません。
おそらく、生き残ることはないでしょう

彼らは「偽預言者」もしくは「偽預言者の手先」だからです。

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++

参考:

人を裁くとは、

その人のある種の行いを「罪に定め、罰を与える」ことです。

 

必要なことは

人を裁くことではなく、人を善い方向へと導くことです。

それは、

罪を犯した人の罪を自覚させ、悔い改めることを「促し」それを助けることなのです。

 

長老たちの役割は、

罪を犯した人を「裁き」、ある種の特権を剥奪したり会衆から追放することではないのです。


++++++++++++++++++++++++++++++++++
個人的なことですが、
私が長老だった時、一度も「人を裁いたことはありません
裁くより「励ます」ことを優先させたからです。
勿論、思いの中では「批判は数知れません」
ですが、決して公にはしませんでした。

なぜなら、完全な人間は一人もいないからです。

ですから、現存するものみの塔の「奉仕の僕(以前の言い方)、長老たち」という考えには「違和感」をその最初から覚えたものです。
自分が長老になってからも同様でした。
一体、長老とは何ぞということです。
信者を導く彼らは、「ものみの塔の手先」であり、「信仰の主人ではない」のです。

 

本来なら、長老たちは、信者の世話をする「奴隷」なのです。

上に立って命令、指導、助言する「者」ではないのです。

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++

参考:

召し使いは、時として主人の名代として振る舞うことがありますので、主人に代わって「指示や命令」「誰かの世話」などをすることがあります。

 

しかし、

奴隷はそうではありません。

常に、身を粉にして「誰か」のために無報酬で働く者です。

 

現代の、ものみの塔の「長老たち」は、いわば、この奴隷なのです。

しかし、

現実には、彼らはこれを「逸脱」し、人の上に立ち「命令や指示」をしているのです。

 

マタイ24:48-51の「忠実で思慮深い奴隷」はものみの塔や「統治体」が好む聖句です。

しかし、

イエスの考えは、もっと現実的なのです。

マタイ25:34-40の,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』と

マタイ25:41-46の『あなた方に真実に言いますが,これら最も小さな者の一人にしなかったのは,それだけわたしに対してしなかったのです』を比較して下さい。

 

これは、イエスはご自分を信じる「小さい者」に対する振る舞いをご自分に対するのと同じように見なされているということです。

 

イエスは、この言葉を事物の体制の終結のしるしに付け加えて言われたのです。

つまり、

いわゆる終わりの日の今日の出来事として言われたということです。

 

時として、小さい者は「軽んじられる」ものです。

すると、イエスもその軽んじた者を軽んじるのです。

 

これは、小さいことではありません

一方は、王国を受け継ぐ者、永遠の命に入る者となり、他方は、永遠の火、永遠の切断に入る者となるからです。

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++
ものみの塔の長老たちは、単なる、組織の手先に成り下がった「愚か者」に過ぎず、そして、その立場を利用した振る舞いは「必ず裁き」を受けるのです。
これは断言出来ます

会衆に交わるエホバの証人はこうした「愚か者」に従っているのです。

あなたにそのような自覚はありますか?
無ければ、あなたの「命」に対する保証もないことになります。

これは「警告」です。
知らない人、自覚しない人には「裁き=脅し」です。
しかし、
理解している人に対しては「警告」です。

+++++++++++++++++++++++++++++++
参考:
ものみの塔のエホバの証人たちは「不完全」という言葉を、自らや他人の悪の「言い訳」に用いています。

人間は不完全ですが、それを「言い訳にする」ことは「自らの責任逃れ」「責任転嫁」だということです。

エホバの証人たちはこれを自覚していません。
ただ、言い訳と責任転嫁に用いているだけなのです。

信仰を持っているという人の「愚かな行為です。

偽りの信仰と言っても過言ではありません。

 

あなたはどう思いますか?

 

知恵を求める人のためのブログです。

私は、以前は1日に何度も祈りをしていましたが、今では殆ど祈りをしていません。
それは次の理由からによります。
1 身勝手な祈りが多いことに気が付いたからです。
  ○○して下さいとか××になりますようになどというのは「身勝手な祈り」だと気が付いたからで

  す。
  こうしたことは、大抵自分が注意したり努力することで済むことが多いものです。
  自分が努力すれば達成できることでいちいち「神に頼る」ことは間違っていると思うのです。
  
こうした祈りをしないことは「神に対する敬意の表れでもある」とさえ考えます。
  神は全能ですからすべての人の祈りに応える能力はあります。
  しかし、個人的なことで「神を煩わせる」ことは「如何なものか」と思う訳です(日本人的です

  が)。
  

身勝手な祈りは、当然「聞かれない」ことを私は知っています
  実際、祈りの多くは「聞かれていない」と思います。

  エホバの証人は朝な夕なに祈ります。

  しかし、その多くが個人的なことであり、真の崇拝に関することではないのです。

 

  また、伝道で「良い人に会えますように」などと祈る人が少なくないと思いますが、

  正に、身勝手な祈りと言わざるを得ません。

  更に、自分の健康、「パン」、仕事などについて祈る人もいると思います。

  こうしたことは、神が定めたルールがある訳で、こうした点で神は誰かを優遇することは決して

  ないのです。

  神は不公平な方ではないからです。

  こうしたことも身勝手な祈りの一つなのです。

 

イエスが、「あなたたちが自分の名によって願い求めることが何であっても、私はそれを行います。

父が子に関して称賛を受けるためです。あなたたちが私の名によって何かを願い求めるなら、私はそれを行います。」-ヨハネ14:13-14

と言いました。

 

これは、いわゆる最後の晩さん、主の記念式を行い裏切り者のユダが出て行き、残った11人の弟子たちに新しいおきてを与えた後、話した言葉です。

 

この後、イエスが何度も「わたしの名によって」という言葉を繰り返しています。

つまり、イエスが言われた「何でも」というのは、大勢の弟子たちにではなく11人の使徒たちだけに言われたことです。

加えて、その内容は、ご自分が亡くなった後弟子たちに生じる様々な困難に立ち向かえるように強めるためだったのです。

 

弟子たちの個人的な身勝手な求めや願いではないことは明らかです

 

この記述を拡大解釈して、ものみの塔はエホバの証人たちに「何でも祈り求めることが出来る」と教えているのです。

これは、間違った考えです

  

これは、この世の人々の例ですが、
  合格祈願した人すべてが合格した訳ではないことは誰でも知っているように、
  毎年、五穀豊穣や家内安全を祈っても、不作になったり病気になったり災難に遭遇するもので

  す。
  安全を祈願しながら無謀なことをしたら命を失うことは当然のことです。

 

同じことがエホバの証人にも言えるのです。
  
更に言えば、
  例えば、人間が起こした戦争に対して「神に責任はありません」
  それゆえ、
  戦禍で「命を助けて下さい」とか「無事でありますように」と祈っても「聞かれることはない」

  のです。
  失われる命は失われるのです。
  このことを嘆き悲しむなら、戦争を引き起こした人々に対する「裁き」を「神に祈る」ことで

  す。
  これなら何時の日か「神は必ず聞いて下さる」のです。


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参考:死の直前に関して。
  戦争でも事故でも人は死ぬ直前の「一瞬、死を意識し、死ぬ」と思うのです、誰でも。
  銃で撃たれたり爆撃で死ぬにしてもです。
  「その瞬間に銃弾や大砲の等の弾が飛んでくる音が自分に向かってくるのが聞こえる」のです。
  その音が頭ではなく「心」に到達した瞬間「命」は失われるのです。

 

  交通事故の衝撃に関しても同様です。
  事故に遭遇しても「この感覚が生じない人は死なない」のです。
  
  しかし、
  脳卒中や心筋梗塞などで死ぬ場合は、おそらく、何も感じないと思います。
  病気の場合は「生き続けたいという思いのまま、意識が無くなっていく」のです。
  病気による死は、
  すべての人が犯す罪の報いでもあるからであり、人は「本来は、永遠に生きるはずだったから」

  でもあります。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
2 感謝について。
  日々の食事の感謝については、神は人間だけではなくすべての生き物が食物を食べて生きるよう

  に創造されました。
  ですから、神にすべての生き物に食物を与える責任があると考えています。

 

  しかし、神は人間に子供を設け従わせたり、地を(動物、植物、他の生き物すべてを含む)管理

  するようにと命じられたので、

  人間を含め家畜や野生動物に対する管理責任は人間に付与されたということです。

  それゆえ、例えば、貧困に喘ぐ貧しい人に対する責任は、その人を管理する人々の責任というこ

  とになります。
  

イエス・キリストは弟子たちに次のように言いました。
「このゆえにあなた方に言いますが,何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい
魂は食物より,体は衣服より大切ではありませんか。
天の鳥をよく観察しなさい。種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。
それでも,あなた方の天の父はこれを養っておられます。
あなた方はそれらより価値のあるものではありませんか。
あなた方のうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビトを加えることができるでしょうか。
また,衣服のことで,なぜ思い煩っているのですか。野のゆりから,それがどのように育っているか,教訓を得なさい。
労したり,紡いだりはしません。
しかしあなた方に言いますが,栄光を極めたソロモンでさえ,これらの一つほどにも装ってはいませんでした。
では,神が,今日ここにあって明日かまどに投げ込まれる野の草木にこのように衣を与えておられるなら,ましてあなた方に衣を与えてくださらないことがあるでしょうか。
信仰の少ない人たちよ。
それで,思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。
これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。
あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。
「ですから,王国と[神]の義をいつも第一に求めなさい。
そうすれば,これら[ほかの]ものはみなあなた方に加えられるのです。
それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません
次の日には[次の日]の思い煩いがあるのです。
一日の悪いことはその日だけで十分です。-マタイ6:25-34

ここでイエスは、衣食に関して思い煩っても、また、先のことで思い煩ってもなりませんと述べています。
これも、ある意味、弟子たちにも悪いことが生じるということを示唆しています。

反対、迫害、誹謗中傷、暴力、嘘などに直面することを予期し宣教活動に恐れをなすことが無いように弟子たちにその備えをさせたたとも言えるのです。

パウロも次のように言っています。
今あるもので満足しなさい
「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。
また結婚の床は汚れのないものとすべきです。
神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです。
[あなた方の]生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい
そして,今あるもので満足しなさい
「わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」と言っておられるからです」と。

 

ここで、パウロは「今あるもので満足しなさい」と2度く繰り返しています。
  
このように言ったパウロ自身はローマ人によって「処刑」されました。
「処刑」はある意味「最悪」の出来事です。
パウロが「神が見捨てない」と言ったのは、地上での悪に関してではなく「救いに関して」です。
つまり、「真の命」に関して述べたのです。
  
更に、イエス・キリストは次のようにも言っています。
「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。
むしろ,魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
すずめ二羽はわずかな価の硬貨ひとつで売っているではありませんか。
それでも,あなた方の父の[知ること]なくしては,その一羽も地面に落ちません。
ところが,あなた方の頭の毛までがすべて数えられているのです。
それゆえ,恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです」と。

私はイエス・キリストやパウロの言ったことを信じています。
ですから、思い煩うことはありませんし、今あるもので満足していますし、神は全てのことを見ておられることも知っています。

衣食住などに関して「当然」とは考えていません。
神は「人の手の業」を祝福しこれらのものを与えて下さるということです。
何もしなくても与えられるというものではないことも知っています。

繰り返しますが、
イエス・キリストが言っているのは「思い煩うな」ということです。

農作物を作っていて、人が勤勉である必要が良く分かります
いい加減にやっていても作物は育つものですが、良く手入れをするとそれなりの収穫が得られるものです。

下手に考えて、あれこれやってみる場合もありますが、人間の浅知恵では大抵は上手く行かないものです。

むしろ、畑に種を撒いたら何もしない方が上手く行く場合もあるのです。


勿論、冷害、干ばつなどがある時もありますが、それは全ての人に臨むことです。
個人的なことではありません。

 

思い煩うことをしなくても、勤勉さは必要なのです

3 神の預言について。
  いわゆる「しるし」に関しては、預言の通りに必ずなります
  誰もこれを「阻止」出来ません。
  ただ、それを人間が正しく解釈や認識が出来るかどうかが問題となるだけです。
  
イエス・キリストが弟子たちに教えた祈りの仕方について。
「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。
「『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。
あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように。
今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください。
また,わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許しましたように,わたしたちの負い目をもお許しください。 そして,わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください』。
と弟子たちに教えられました。

 

1 神のお名前が神聖なものとされますように。
  神の名を語る者が神の名に不名誉なことをしてはならないことです。
  神に信仰を働かせる個人としてはその心がけを常にしておくべき事柄です。
  他の事柄に関しては個人の域を超えています。
2 神の王国は既に完了していると考えています。
3 神のご意思は天と地において必ず成し遂げられます。
  疑問の余地はありません。
  ただ、それがどの程度の範疇かは誰も知らないのです。
  もしかすると個人の願いを聞いて下さる場合も「あるかも知れません
  しかし、
  そのことは誰も天のみ使いさえも知らないのです。
4 将来のためではなく、今日1日のための食物を与えて下さるようにと言っています。
  これは、思い煩いと関係があるのです。
  人は、現在は、殆どが人工的に加工された製品を食べています。
  野菜や山菜などを除き。
  それでも、農作物を作っている人以外は皆お金で買って手に入れています。
  この「お金」に関しては、個人的な事柄であり「神は関与しません
  ですから、この祈りは「お金でパンを買えるようにして下さい」ということではないのです。
  自分で作物を作ったり野草や山菜などを手に入れることなのです。
  しかも、その日1日分だけです。
  もし、お金でパンを買うという意味も含まれているとしたら、それは「将来の備え」という意味

  になるのです。
5 人は罪を犯すものです。
  ですから「罪の負い目」から逃れられる人は一人もいません。
  人間ではなく、天から神が見ているということを常に意識し、他人を許す気持ちを持つことは重

  要であり、他人に対して謙虚であることです。
 

イエス・キリストはべテロの問いかけに対して、77回まで、つまり、完全に許しなさいとも述べています。
傲慢であったり他人を許さない人は「すべてを取り上げられる」ことになるとさえイエスは言っています。

 

6 邪悪な者からの誘惑は日々生じています。
  特に、テレビやネット上では人々は24時間誘惑に晒されています。
  
  誘惑に陥る状況に身を置くか否かは個人的なことです。
  避けることは自分の努力で出来ます。
  基本的には祈るまでもない事柄ですが、人の心は何事にも勝って不実であると示されているよう

  に、自分の願いや努力だけでは誘惑を避けることが困難です。
  

神はかつてエレミヤに「心はほかの何物にも勝って不実であり、必死になる。誰がこれを知りえようか。
「わたしエホバは心を探り、腎(むらと)を調べている。各々にその道にしたがって、その行いの実にしたがって与えるためである」と言われたことがあります。
  

神は人間の心に介入しないことを基本としています。
つまり、自らの責任は自ら負うべきものとされています。
誘惑に関しても同様です。
  
それでも、邪悪な者の影響に陥ってしまった時には神の救い」が必要となります。
聖書には「エホバのみ名は強固な塔。義なる者はその中に走り込んで保護される」と示されています。
誘惑に陥った時に「頭ではエホバの名」を思い出しても、「エホバに救い」を求めても、「心でそう願わない限り」誘惑を退けることは出来ません。
  

これには思い切った踏ん切りとある種の勇気、決断を必要とします。
それは、目の前に自分の大好物のケーキがある時、それを食べないことに似ています。
つまり、我慢が必要なのです。
しかし、
我慢は一時出来ても再び芽を出すものです。
心から完全に払拭することは困難です。
  

一つの方法は、
常に、誰か自分を監視する人を身の周りにいて貰うか、熱中できることに集中するか、あるいは、深く瞑想し絶対誘惑に負けない精神を培うかなどしかありません。
それでも、油断していると「必ず、再び芽が出て来る」のです。
そうです、心は何物にも勝って不実なのです。

こうしたことを忘れず頑なに誘惑を退けることが「神が与えて下さる命」を得ることを可能とするのです。
  

イエス・キリストは「狭い門を通って入りなさい。…命に至る門は狭く、その道は狭められており、それを見いだす人は少ないのです」と言われた通りなのです。
これには思慮深さと注意深さと絶え間ない努力が必要なのです。

それ程、人間にとって「誘惑」を退けることは「困難」なのです。

完全な人間であったエバとアダムでさえ欺かれたからです。

個人的には、いくら祈っても「心」が誘惑に負けたら「意味はない」とさえ考えています。

先ず、祈る前にすること、努力することがあるからです。

あなたはこうした考えをどう思いますか?

同意されますかそれとも異を唱えますか?

良きに付け悪しきにつけ、それは、あなたの「心の反映」であることも知らねばなりません。

常に心を正しく持つことは難しいことなのです。

昔程ではありませんが、今でも時々「悪」に対する怒りの感情を抑える「心」を必要としています。
個人的な事柄に関して他の人に「悪い感情」を抱かないように思慮深くあるよう努力しています。
食べ物に関しても何にしても「誘惑」を退ける努力もしています。
殆ど、我慢の領域を超えていますので、忘れるだけで済んでいます。

以前のブログで言ったように「必然」を「必定」を行うだけで事は済むからでもあります。

 

知恵を求める人のためのブログです。

日本人とフランス人の「人に対する考え方」の違い。

日本人の監督は、映画にしろスポーツにしろプロデュースにしろ、すべてを監督の思い通り、イメージ通りに「させようとする
いわば、ロボットのように演じさせようとさせ、スポーツでは思い通りの作戦やプレーが出来ることを求め、監督のイメージ通りに振る舞うことを求めるものです。

普通、日本人監督は俳優に「監督の考えた演技」を求めるのです。
つまり、監督以下はすべて「駒」扱いしたがるということです。

すべてにおいて、「監督の指示や命令に従え」というものです。

その典型的な例が、黒澤明です。

その態度から、黒澤天皇と言われたこともあります。

 

しかし、日米合作の映画を作成する時には、アメリカ人監督などと考えが合わなかったことは有名な話しです。

 

しかし、日本では、黒澤明のような考えが常態化しています。

これに対し、フランス人の監督は、俳優や選手や関係者などの「個性、能力」を「活用」しようとするものです。
つまり、両者で共に物事を成し遂げようとするということです。

監督は、指示を出すだけで、それに対して演技をしたりプレーをする選手や関係者が各々自分の考え、自分のイメージで振る舞うことを求めるのです。
その作品が素晴らしい作品になるか否かは、「俳優の考えた演技力」に掛かっているのです。
こうしたことは、俳優の自尊心を高めます。

日本人俳優が自尊心を持つのは、「俳優としての地位や容姿や個性」などであり、「演技力」ではありません
経験を積んで、俳優とは何かということを理解して、初めて「自分の演技」ができるのです。

この点、俳優と歌手では「大きな違い」があります。

しかし、
日本では俳優対して、監督は「指示通りに演技することを求める」ので、確かに、演技力は必要ですが、それはあくまでも「監督のイメージ」であり、「俳優のイメージ」ではありません。

日本人は何でも、「上の指示通りにすること」を求めるものです。
親は子供に対して、野球の監督は選手に対して、上司は部下に対して、自分の言う通りにすることを求めるのです。
つまり「ロボットになる」ことを求めているのです。

これに対してフランス人や、特に欧米人は、
指示したり規則などは設けますが、その中でどのように振る舞うか行動するかは子供や選手や部下の「自由」にさせるものです。
決して、「あーしろこーしろ」などと「命令」は普通はしません
もし命令するとすれば、その命令に従ってする行いすべてに責任を持つということになります。

勿論、欧米式に考えますと、例え命令されても「道義的に反する」ことには、異論を唱えたり、従わないということをしますが、
日本人は「何が何でも、絶対服従」を求めるのです。

「黙って言うことを聞け」とか「言うことが聞けないのか」などと言うことが少なくないのです。

相手を「人間として尊重」しているのはフランス人や欧米人であることが分かります。
日本人は相手を「奴隷のように動かそうとする」ので、相手を尊重してはいないのです。

繰り返しますが、
日本映画に於いて、例えば、主演男優賞がありますが、確かに主役の演技力が評価されたものですが、それは「監督がさせた演技」であるのに対して、
欧米の場合は、監督ではなく「役者の演技力そのものが評価」されたものなのです。
監督は、その俳優の演技を「評価し作品に取り入れた」だけなのです。

こうした考えの違いが日本人の親子関係を「歪」なものにしていることは明らかです。
「人間として対等ではない」にしても、「相手を尊重する」ということの「意味」を日本人は認識していないのです。
日本の社会では、それが、伝統的に「社会の空気感」となっていて常識化しているのです。

欧米人の「相手を尊重する」考えは、そのまま「社会の常識化」となっています。

日本人の考え、やり方は、
プーチンや習近平のような「独裁者」と同じなのです。
つまり、
日本人の考え、社会に「遺伝子」として「封建主義」が根付いているということです。
日本人の多くは、これを「認識」していません。

だから、子供が親に従わないと「怒鳴ったり、ぶったり」するのです。

こうしたことは、その民族の長い歴史が関係していて、その中で民族の性格、考えが常識化して今日があることは明らかです。

しかし、思いや感情面で「解放された日本の若者たち」の多くは、日本社会の常識に「反発」し、
時には暴力的になったり、厭世的なったり、自分の気持ちや考えが他の人に理解されず「ひきこもったり」しているのです。

つまり、日本の封建主義的な遺伝的な思考と、欧米のより自由な思考とが「ぶつかりあい」社会に歪を生じさせているのです。

この原因の殆どが、ネットでのSNSによる影響であることは疑いの余地はありません。

日本人の生活の中で、意見の違いがあると「直ぐに、口論」になり、時には感情的になり「ケンカ」に発展したり、口もきかないという事態になることは「めずらしくはありません」

相手を尊重していないからです。

加えて、「思考の鈍さ」があり、疑問や問題点に「何となく気が付いていても」それを「口に出すことが殆どない」のです。

この「思考の鈍さ」とは、「思ったことや感情」を、相手を尊重しながら「巧みな言い方」をする点での鈍さです。

欧米人はこの点が優れていて、何でも、誰に対しても自分の思ったことを言うものです。

これは、食習慣による影響が大きいと考えられています。

肉食中心の人は「口達者」になる傾向にあり、菜食中心の人は「物事を深く考える」傾向にあり、

日本人の食事の多くは菜食中心に近いものがあり、そのため「直ぐには、返答しない」ことが多いのです。

意見の違いは、互いの人格を否定するものではありません
しかし、
日本人は意見が違うと相手の人格を否定することが多いものです。

これは、自分が「絶対正しいと思い込んでいたり、傲慢な性格」がそのようにさせているのです。

日本人はこれに気が付き改めようとは「殆どしない」のです。

日本人で、欧米的な「相手を尊重する考え」に至るのは、大抵、人生でいろいろ経験して来た人だけなのです。

日本人は時に「気遣い」を示すことがあります。
これは、相手を尊重する行為だと考えている日本人がいると思いますが、そうではありません

相手を「気遣う」ことと、相手を「尊重する」こととは全く異なるのです。

日本人の「気遣い」は、問題を避ける行為の一つである場合や、遠慮や親切と言った「独善的な考え」によるものです。

 

これでは、物事は解決しません

こうした点、日本人は欧米人に「劣る」のです。
偏見ではなく「現実」なのです。

*********************************************
これは、逸話ですが、
ビル・ゲイツが韓国を訪問し、公の前、メディアの前で韓国人の要人と話す時、片方の手をポケットに入れて話したことがあります。

その数日後、日本に来たビル・ゲイツは日本人の要人と話す時には、ほぼ直立でした。

これは、あのステーブ・ジョブズも同じことをしました

こうして「何気ない、ちょっとした仕草」に気が付いた人がいるかも知れません。

これは、相手を尊重していることの「仕草、態度」の表れなのです。

二人とも、日本人を尊重していたのに対して、韓国人に対してはそうではなかったのです。

ステーブ・ジョブズの「日本びいき」は良く知られたところです。

加えて、
こうした態度を、自国のアメリカ人も見ていますから、彼らに対する「メッセージ」でもあるのです。
アメリカ人の自尊心や自社製品の売り上げに影響しますから。

*********************************************
こうした点は、エホバの証人の世界でも同様です。

日本とアメリカ、イギリス、フランスなどとは「同じ教義を学んでいながら、各人の考え方が異なる」のです。

日本では封建的な考えが根強く残っており、
例えば、長老の指示を絶対的なものであり、信者はこれに意を唱えることが許されません。
おそらく、欧米では同じエホバの証人でも対応が異なるのです。

欧米では個人を尊重しますし、相手の言うことの理を認めますが、日本では個人を尊重しないばかりか反論や疑問などを言うことを全く認めないのです。

疑問を率直に長老に話すと「反抗的だ」とか「不信仰」だなどと言いだし「問題化」するのに対して、
欧米などでは、「疑問や意見」を「聞き」、それが間違っていれば「正し」、正しければ「そうだ」と認め、調べてみるとか研究して見ましょうなどと言うものです。
勿論、その長老の知識、経験、霊性などが関係していますが。

日本人の長老のように、あからさまに「否定」しないのです。
これは、世界本部から派遣され日本支部に来て指導しているアメリカ人が「日本人を尊重」していないことや、
日本人が彼らに対して「迎合」しているからでもあります。
日本人は彼らの言うことは「絶対」だと考えているのです。
これは、間違った行い、考えです。

これが同じ宗教内で行われているのです。

日本のエホバの証人は外国の会衆、特に、イギリス、フランスなどの会衆に交わって、こうした実体を知るべきです。

外国人は「言うべきことははっきりと言います」しかし、日本人は「言うべきことを言うとその行為に対して反抗」と見なします。
こうした違いが同じ宗教内に於いてあって良いものでしょうか。

答えは「」です。

知恵を求める人のためのブログです。

1941年、今から83年前、なぜ日本は戦争に突入したのでしょうか?

終戦の日である8月15日が近づくと、太平洋戦争に関する報道・ドキュメントが増えます。
その直前に原爆投下に関連した報道・ドキュメントがなされます。

こうした報道・ドキュメントを見ると、戦争の残虐さ、不合理、非情さなどが取りざたされるものです。
そして、
戦争を知らない多くの人たちに、戦争をどう思うかを尋ねたりします

誰しも戦争はしたくないし、行きたくないし、平和を望むものです。

ですから、
過去の戦争に関連して、多くの人から平和を望むコメントを引き出すことはナンセンスです。
愚かというかばかばかしいことです。

さらに、戦争の責任はすべて「東条英機」や軍部にあると言わんばかりの報道やドキュメントが放送されます。

本当に、軍だけが悪かったのでしょうか
なぜ、軍が暴走してしまったのでしょうか。

日本が戦争に突入した根本原因は
明治政府にあったのです。
明治政府の誤った考えが日清、日露戦争へと進ませ、朝鮮併合、満州国設立、中国への侵略、東南アジアへの進出を行ったのです。

日本の大陸進出は豊臣秀吉の念願であったことは知られた事実ですが、それをおよそ260~300年後に明治政府も同様の思いを抱いてそれを実行したなんて、日本政府の思い上がりも甚だしいと言わざるを得ません。
西郷隆盛の征韓論は有名な話しです。
これで敗れた西郷は参議と近衛都督を辞任し鹿児島へ帰ってしまいます。

その後、西南戦争で西郷は死んでいます。

 

1905年11月、伊藤博文(この時、伊藤は首相ではない)は特派大使として韓国に渡り、ポーツマス条約に基づいて第二次日韓協約(韓国保護条約)を締結。

1905年12月、韓国統監府が設置され、初代統監に伊藤博文が就任しています。

しかし、

1909年10月26日、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州、朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で(反発する)韓国民族運動家安重根(死刑)にハルピン駅で暗殺されました。(韓国では、伊藤博文を暗殺した人物を「英雄」として祀り上げています)

 

韓国併合(1910年韓国併合ニ関スル条約は公式には日本の独断


伊藤は明治政府の初代首相であることは周知の事実です。

一方、国内では、幕末から大勢の識者たちは、富国強兵を謳い文句に国民に対し国威発揚を掲げ軍国主義に突き進んで行きました

その背景には、
アメリカやイギリスと交わしたいわゆる不平等条約と、西洋の技術や文化や軍隊などで後れを取り、日本が国家として世界と対等に対峙出来ないことにあったことも良く知られたことです。

西洋に追い付き追い越せが「国民のスローガン」にさえなりました。

江戸末期に多くの思想家が出現し、また、西洋の技術、医術、政治、議会、さらには、文化において、いわば、日本の近代政治の黎明期となったことも日本を軍事大国、軍国主義国家へと進ませたと言えます。

政府の考えで行ったことに、軍が深入りし、独善的に振る舞うようになったことが戦争拡大の原因の一つでもありました。

明治政府の主要な人物は、いわゆる薩長の出身者でした。
伊藤博文、山県有朋、西郷従道、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望、大久保利通など多数です。

彼らの誤った国体論、大陸進出、東南アジアの植民地解放政策などが日本を戦争に駆り立てたのです。
いわゆる、大東亜共栄圏構想を政府が打ち出し、初めは軍を派遣しましたが、やがて軍が暴走を始めたのです。

その原因を作ったのが当時の日本国政府だったのです。

日本の軍国主義、戦争拡大には、こうした「驕った思想」に原因があったのです。

それが、今の政治にもつながっています

安倍晋三や麻生太郎などはその最たるものです。

こうした政治家がいる限り、日本は良い国、善い状態になることはありません。

もう一つ別の観点は、
日本人の技術、芸術などに対する職人肌的思考です。

日本人の優れた点でもありますが、日本人の製品の改善、改良、優れた製品の開発などに関する能力の高さが、自負と傲りを生じさせたとも言えます。

善いことが必ずしも良い結果となるとは限らないのです。

今、世界では日本製品やアニメやスポーツでも活躍などが注目されています。
日本人の「諦めない」「常に前向きな姿勢」「探究心」などが高い教育によって支えられています。

日本人は古来より、勤勉なのです。

こうした日本人の体質、考えなどが戦争に駆り立てたと言っても過言ではありません。

敗戦後、日本はいわば軍隊を持たない「手足」を縛られた状態で他国と対峙しなければなりませんでした。

それでも、
人々は戦後70年以上の戦争のない社会で、いわば、のびのびと成長し過ごして来ました
いわゆる、「平和ボケ」などという言葉が使われた時もあった位です。

日米安保のお陰ではありません
日米安保は、日本にとって重荷以外の何物でもないのです。

日本は地政学上、戦争が起きにくい場所、地理上に位置しています
太平洋戦争は例外だったのです。
日本がアメリカを攻撃しなければ決して攻められることのない場所なのです。

(参考:当時の世界最強の蒙古ですら日本を攻め切れませんでした。
 朝鮮人や中国人に日本を攻めるという考えの持ち主はいませんでした。
 無理なことが分かっているからです。

 ロシア極東にロシア海軍や空軍がありますが、

 欧州に比べて日本は重要ではないという点もありますが、
 彼らの戦力では日本を攻撃しても勝つことは出来ません。

 

 ウクライナのように陸続きではないので、戦車や歩兵などを大量に投入出来ないので、

 仮に局地戦に勝利しても占領出来ないのです。
 せいぜい、空爆やミサイルで破壊するぐらいが関の山です。)


多くの国では多くの問題を抱えています。
日本も例外ではありませんが、他国に比べれば平和な方です。

21世紀になって、国民に対する政治の限界から「独裁」的な政府、国民を抑制する政府が増えていることは確かです。

トランプ、プーチン、ミャンマーの軍事政権、習近平、金正恩、他にもベラルーシのような国も少なくありません。

インドネシア、ブラジル、メキシコなどのような国もあります。

世界は「混沌」としています。

少し前までは政府の力が強く国民を抑えつけることが出来ていましたが、
スマホの普及、SNSなどソーシャルメディアの発展が、国民の不満を高め、反政府的な考えをする人々が日増しに増えており、今や、国民のすべてが政治や政府に対して自分の考えを持つようになり、ある者たちが反政府活動に身を投じるようになって来ました。

反面、政治には全く無関心で、自分のしたいことだけに注意を向ける人も少なくありません。

ある意味、中間の人々がないかのようです。

おそらく、今後も日本では戦争は起きないでしょう
もし、起こるとすれば中国が尖閣諸島辺りで日本漁船などを拉致、あるいは、攻撃した時かも知れません。

あるいは、日本が北方領土を力づくで奪取しに行けばロシアと戦争になるかも知れません。

が、いずれにしろ局地戦で終わるでしょう。

 

ロシアが日本を核攻撃すれば、当然、アメリカがロシアに対して核攻撃で反撃すると考えられています。

いわゆる、アメリカの「核の傘」です。

 

仮に、日本が核攻撃されても、日本は壊滅状態にはなりませんし、ロシアに占領されることもありません

北朝鮮が日本を攻撃する理由はありません

自尊心やプライドのない日本人は、何があっても戦争反対を叫ぶかも知れません。
戦前、戦中であれば「非国民」と言われたような人々が多いことは間違いありません。

つまり、相手に殴られても黙っているような人が多いということです。

日本が真珠湾攻撃をした時、アメリカのエホバの証人たちはどのような態度を取ったでしょうか
おそらく、他のアメリカ人同様日本を敵視し非難したに違いありません。

戦後、一体どの顔をして日本にやって来たのでしょうか

彼らの考えは、マッカーサーやアメリカ軍と同じだったのです。

分かりますか、これは考え、気持ちの問題です。

アメリカ人は「日本人以上に傲慢」です。
当時のアメリカ人は日本人をアフリカの黒人と同じように見ていたのです。

当時のアメリカの「ものみの塔」は、「エホバの証人たち」は、進駐軍の占領に乗じて宣教のために日本にやって来たのです。

つまり、政治を利用したのです、アメリカの「ものみの塔」は。

知恵を求める人のためのブログです。

今や、AIは「無くてはならない存在」になりつつありまます。

あらゆる分野でAIが活用されているからです。

 

AIがあらゆることを「解決」してくれるようにさえ思えます

しかし、誰もが感じているように「懸念」が多いことも事実です。


AIは基本的に蓄積されたデータを基に様々な提案をしてくれるものです。
ディープラーニングを含め、ネットからの情報やデータも取り入れることが可能です。

AIと人間を比較した場合、人間の記憶力とAIが用いるデータ量を比較すれば、圧倒的にAIの方が多いものです。
この点からすれば、AIの方が人間より優れていることになります。

しかし、その他の判断、例えば、犯罪や暴力やフェイクや道徳などの面では、人間は各々自分の判断基準を持っています。
その判断基準で話すべきかどうかなどを決めますが、AIはこうした点が「プログラムを作った人の基準」で決まります。
もし、こうした判断基準が人間の常識程度にプログラムされていなければ、例えば、核兵器の製造方法や放射性物質の入手方法などを誰にでも教えてしまいます。
銃の製造に関しても同様です。
あるいは、殺人方法に関しても同様です。
あらゆる犯罪の方法を誰にでも教えてしまうのです。

逆に、善い提案も限りがありません。

要は、そのAIを活用する「人間の質」が問われるものとなるでしょう。

更には、AIが常識と道徳観を持つ人間と同等の判断をするように製造出来るか否かが問われることになります。

悪意のある人ならば、無差別殺人の提案を可能にするAIを作ってしまうかも知れません。
あるいはAI兵器の製造を可能にし、それを実際に用いるかも知れません。
この場合、当然、本人にはアリバイがある訳でAI兵器(ロボット)が殺人を実行した後、自らを自爆させたら証拠は何も残らないことになってしまいます。

今回のトランプ銃撃事件を、もし、AIロボットにさせたら「完璧にトランプは殺害されていた」でしょう。
容疑者にその「頭」が無かっただけだとも言えます。

こうしたことが容易に出来るようになったことは、
正に、人類の進歩が「更なる危険な状態」に入ったことを示しています

 

知恵を求める人のためのブログです。

旧ソ連の地域国家での、いわゆる親ロシア派と言われる人々は、ソ連時代の安定した生活を懐かしみ望んでいるのです。

いわゆる西側の我々からしてみれば、ソ連やロシアなどの独裁国家、社会主義国家であり共産主義が根深い地域での生活はとても考えられませんが、そこに住んでいた人々にとっては違うのです。

我々のような自由さはありませんが、政府に逆らわない限り、ある程度の生活は保障されます。

それは、国家を統治するロシア(ソ連)のやり方なのです。

ウクライナやベラルーシやいわゆるNATO諸国と接している旧ソ連邦の国で親ロシア派が多数存在するのはこのためです。
西側の人々には理解出来ないのです。

こうした考えはモスクワやウラジオストットクなどでも同じです。
中国と同じように、国家に逆らわなければ「それで良いのです」

人々の自由は制限されていますが、それで平和ならそれでも良いと考えるのです。
生まれた時からそのような環境で育ってきていますから

生まれた時から自由なアメリカや日本とは違います。
アメリカや日本は自由ですが自分のことは自分でしなければなりませんし、高い税金も支払わなければなりません。
しかし、自分の努力次第では億万長者にさえなれるのです。

ロシアではそうは行きません

すべては、国家のためであり、国家が必要に応じてサポートするのです。

オリンピックなどもそうです。

傍から見るとロシアは、ロシア人は「狂っているように見えます
独裁国家を容認し従っているからです(圧力を掛けた、強制的にですが)。

傍から見るとプーチンを歓迎しているのを見ると「異常」に見えます(そうせざるを得ない)。
しかし、彼らにとっては自分たちの生活を守ってくれる「神のような存在」なのです。

 

ヒトラーが当時のドイツ国民に熱狂的に支持されたように

 

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更に、親ロシア派の人々を保護するということを根拠にロシアに隣接する国々をロシアに取り込もうとする姿勢は、プーチンの「やり方」なのです。

 

しかし、こうした人々はその地域の少数派ですが、そこに「ロシアの工作員」を送り込み、人々を煽動し、また、議会を乗っ取ろうとするやり方がロシア、プーチンのやり方なのです。

 

クリミアでは成功しましたが、ウクライナでもそのようにしましたが失敗したので実力行使に出たのです。

 

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クリミアは昔から要衝の地であり、戦争も絶えませんでした。

かの有名なナイチンゲールが派遣されたのもこの地です。

 

この地域を占領することは、ロシアにとっては地中海方面の「海の出入り口」なので「非常に重要」なのです。

 

ウクライナが少なくとも、クリミアを奪取すれば、ロシア海軍は手足を縛られた状態となります。

 

もし、ウクライナが東部の地域を取られたとしても、クリミアを占拠すれば、ロシアに占領された東部地域を背後から攻撃出来るでしょう。

 

プーチンに圧力を掛け「核兵器」を使わせないように、モスクワのクレムリンやサンクトペテルブルグなどの主要都市にに狙いを付けた「巡航ミサイル」を多数配備して置くことです。

 

その上で、ロシアに占拠された地域を空爆しロシア軍の壊滅を計画することです。

そうすれば、ウクライナ東部も奪還出来るでしょう。

 

しかし、それでも「平和」は戻らない、来ないのです。