知恵を求める人のためのブログです。
あなたは人の不完全さをどのように見なしますか。
完全な人は一人もいないことを誰でも知っています。
では、なぜ人の不完全さが問題となるのでしょうか?
それは、物事が思い通りに上手く行かないからです。
不完全という言葉は、
失敗や過ちや罪や欠点などネガティブなことに対して用いられるものです。
逆に、完全という言葉は、
すべてにおいて欠点のないことと定義されています。
参考:完璧という言葉は、
欠点がなく優れて善いことと定義されています。
完全という言葉は、人に対してであれば、その人「全体」に対して用いるのに対して、
完璧という言葉は、部分的に用いられるということです。
ですから、部分的に完璧に行うことが出来る人は「存在」しますが、
すべてにおいて欠点のない人は存在しないのです。
したがって、
人間すべては不完全であり、すべての人はこれを認めているので、この言葉を用いる理由はないことになります。
なぜなら、それは「当然」のことだからです。
どんな人にも欠点や過ちはあるもの。
ところが、その欠点や過ちを悪評にすることも少なくないものです。
しかし、エホバの証人やものみの塔に対する批判(悪評)の数々(欠点や過ち)は、表面的にはすべて事実です。
エホバの証人にとっては「耳の痛い」ことです。
ただし、ものみの塔やエホバの証人に対する過大評価が批判を歪めている面も少なくありません。
批判している相手は、
「失敗や過ちを犯す人間」であること。
知識や経験も限られていること。
極端な思考や考えに陥っていること。
人間の性質や個性に関しては、人それぞれであること。
などの不完全要素を沢山持っている「普通の人間」なのです。
ただ、信じていることと行いが「普通の人とは異なる」だけなのです。
だからと言って、批判すべきではないとは言いません。
彼らに対する批判はすべきです。
彼らには「完全」を求めるべきです。
なぜなら、神の組織を「名乗っている」からであり、彼らは神の民であると主張しているからです。
ですから、
彼らが過ちを犯したら、当然批判すべきで「言い訳をさせない」ことです。
そのようにして、自称神の組織、神の民に「汚名」を着せることです。
こうして、ものみの塔が「偽り者」であることを「世」に示すべきなのです。
加えて、
エホバの証人の会衆内で、もし審理委員会が開かれたら、審理される人は、「審理する人」を批判するべきです。
「立場」については自ら望んだものではないので、この点は批判すべきではありません。
しかし、
そうした長老たちの「人格、振る舞い」などを「公に批判」すべきです。
彼らにはそれを受け入れる必要が「立場上課せられている」からです。
信者を裁くだけで、自分には「罪」も「何も生じない」ということは有り得ません。
裁く長老たちも「裁かれるべき」なのです。
こうして、彼らの中で生じている「偽りの真理」を暴露するのです。
審理される人々は、犯した事実からは逃れられないとしても、不必要に、また、不当に裁かれるべきではありません。
現代の、長老たちに「人を裁く資格も権利もがないことは明白」です。
人を裁くということは、不完全な人に対して「完全性」を求めていることになり、人の過ちを認めず罰を与えるということなのです。
彼らは、こうして「人に対して完全性」を求めながら、自らは「不完全」を「言い訳にしている」のです。
イエスは、いわゆる山上の垂訓の中で弟子たちを含め群衆にも次のように言いました。
マタイ7:1-2
「自分が裁かれないために,[人を]裁くのをやめなさい。
あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。
そして,あなた方が量り出しているその量りで人はあなた方に量り出すでしょう。」
この言葉は、会衆内の長老たちにも言えることです。
彼らはこうした「矛盾」に気が付いているのでしょうか?
もし、気が付いていて、尚組織に留まっているなら、その人の救いは何処にあるのでしょうか?
裁く権利があるのは「神とキリスト」のみです。
今、裁いている長老たちすべては、やがては自分たちの罪に関して「神とキリスト」に裁かれる日が来るのです。
その日は、事物の体制の終わりの日かも知れません。
おそらく、生き残ることはないでしょう。
彼らは「偽預言者」もしくは「偽預言者の手先」だからです。
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参考:
人を裁くとは、
その人のある種の行いを「罪に定め、罰を与える」ことです。
必要なことは、
人を裁くことではなく、人を善い方向へと導くことです。
それは、
罪を犯した人の罪を自覚させ、悔い改めることを「促し」それを助けることなのです。
長老たちの役割は、
罪を犯した人を「裁き」、ある種の特権を剥奪したり会衆から追放することではないのです。
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個人的なことですが、
私が長老だった時、一度も「人を裁いたことはありません」
裁くより「励ます」ことを優先させたからです。
勿論、思いの中では「批判は数知れません」
ですが、決して公にはしませんでした。
なぜなら、完全な人間は一人もいないからです。
ですから、現存するものみの塔の「奉仕の僕(以前の言い方)、長老たち」という考えには「違和感」をその最初から覚えたものです。
自分が長老になってからも同様でした。
一体、長老とは何ぞということです。
信者を導く彼らは、「ものみの塔の手先」であり、「信仰の主人ではない」のです。
本来なら、長老たちは、信者の世話をする「奴隷」なのです。
上に立って命令、指導、助言する「者」ではないのです。
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参考:
召し使いは、時として主人の名代として振る舞うことがありますので、主人に代わって「指示や命令」「誰かの世話」などをすることがあります。
しかし、
奴隷はそうではありません。
常に、身を粉にして「誰か」のために無報酬で働く者です。
現代の、ものみの塔の「長老たち」は、いわば、この奴隷なのです。
しかし、
現実には、彼らはこれを「逸脱」し、人の上に立ち「命令や指示」をしているのです。
マタイ24:48-51の「忠実で思慮深い奴隷」はものみの塔や「統治体」が好む聖句です。
しかし、
イエスの考えは、もっと現実的なのです。
マタイ25:34-40の,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』と
マタイ25:41-46の『あなた方に真実に言いますが,これら最も小さな者の一人にしなかったのは,それだけわたしに対してしなかったのです』を比較して下さい。
これは、イエスはご自分を信じる「小さい者」に対する振る舞いをご自分に対するのと同じように見なされているということです。
イエスは、この言葉を事物の体制の終結のしるしに付け加えて言われたのです。
つまり、
いわゆる終わりの日の今日の出来事として言われたということです。
時として、小さい者は「軽んじられる」ものです。
すると、イエスもその軽んじた者を軽んじるのです。
これは、小さいことではありません。
一方は、王国を受け継ぐ者、永遠の命に入る者となり、他方は、永遠の火、永遠の切断に入る者となるからです。
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ものみの塔の長老たちは、単なる、組織の手先に成り下がった「愚か者」に過ぎず、そして、その立場を利用した振る舞いは「必ず裁き」を受けるのです。
これは断言出来ます。
会衆に交わるエホバの証人はこうした「愚か者」に従っているのです。
あなたにそのような自覚はありますか?
無ければ、あなたの「命」に対する保証もないことになります。
これは「警告」です。
知らない人、自覚しない人には「裁き=脅し」です。
しかし、
理解している人に対しては「警告」です。
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参考:
ものみの塔のエホバの証人たちは「不完全」という言葉を、自らや他人の悪の「言い訳」に用いています。
人間は不完全ですが、それを「言い訳にする」ことは「自らの責任逃れ」「責任転嫁」だということです。
エホバの証人たちはこれを自覚していません。
ただ、言い訳と責任転嫁に用いているだけなのです。
信仰を持っているという人の「愚かな行為」です。
偽りの信仰と言っても過言ではありません。
あなたはどう思いますか?