知恵を求める人のためのブログです。

(初めに、以下の記事はAIによる生成技術が登場する以前の考えです。

 AIによる生成技術が登場してからは、

 ブログにしても、YouTubeにしても、実際に書かれた文章でも、写真や画像でも、

 信じられ「にくく」なってきました。

 以下の記事は、

 生身の人間同士に対する考えであり、

 すべての人間に共通する「精神」について述べたものです。

 

 AIの登場により、

 人間の精神構造が変化して来たことは間違いありません。

 

 こうした点を踏まえて、以下の内容を読んで頂きたいと思います。)

 

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人は、

 誰かの「助言」や「教え」などのような「知識」を信じそれに従う傾向がありま

 す。

 

ですが、

 殆どは、

 自分が「自ら良いと思ったこと」を信じているものです。

 

誰かから言われたのではない、

 「偶然」目にしたこと、聞いたこと、読んだことなどに「共感」し、

 それを信じるということは「良くあること」です。

 

例えば、

 気の利いた「四字熟語」などはその典型です。

 あるいは、

 格言もそうです。

言い習わし」というのもあるかも知れません。

 

 温故知新、衆人環視、支離滅裂、傲岸不遜、落花流水、行雲流水、喧々囂々など沢

 山あります。

「猿も木から落ちる」「漁夫の利」「嘘は泥棒の始まり」なども。

 

これらは、

 殆どは古代の思想家と言われる中国人が造り出した「造語」や

 普通の人が社会生活で「感じたこと、思ったこと」などを表現したものです。

 

しかし、

こうした熟語や格言などには、

人生の知恵が含まれているものです。

 

そして、それを「自分の人生の教訓」にする人もいます。

 

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賢い指導者は、

部下や生徒や選手などに、「いわば、精神訓話」や「仕事の効率化」「人生の意義」などを話す時に、

こうした「四字熟語」を用いるものです。

そして「それを解説」し「聞いている人」納得させ、

その人たちを自分(指導者)の思うような「人間」にしようとするものです。

 

現代でもこうしたことは「効果」があるものです。

 

例えば、

 野球やサッカーや他のスポーツなどに小さい時から「勝つことだけ」を考えて練習

 に励んで来た人にとっては、

 こうした、いわゆる人生訓のようなことは殆ど知りません。

 

 例え、

  学校とかで聞いたとしても「頭には残りません」

 しかし、

 スポーツなどで自分が望む「選手像」に関しての「心構え、精神」について言われ

 ると、

 特に悩んでいる選手の「心」には「染み込む」こともあるのです。

 

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四字熟語ではありませんが、

例えば、

 ヤクルトの監督だった野村克也が選手を前に語った多くのことはこうしたことで

 す。

 勿論技術指導もしますが、

 もっとも大事な点として「人間性」「人間教育」をしていたのです。

 

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人間教育と言えば、

高校野球、高校サッカーなどを挙げることが出来ますが、

 近年は「勝つこと」だけを考えているように思えます。

 そこには「勝つためには何でもする」という思いが現れています。

 勿論、ルールがあるのでその範疇ですが。

 

人間としてどうあるべきかという点に関して「逸脱」していることが少なくないのです。

 

品行方正では「勝てない」からです。

 

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問題なのは、その「精神」なのです。

スポーツをする以前に、スポーツをするのが「人間」であることを忘れているかのようです。

 

試合に勝つこと、肉体を鍛えること、精神を集中させること、分析をし対策を練ることなどのみを重視し、

そうした点で優れた人を「称賛」したり「憧れ」たりしていることが「多いものです。

 

選手としての「肉体」や「精神」は、まるで、機械かロボットかのようでさえあります。

 

こうした選手に欠けているのは、

人間としての「人生観、道徳心」など「人として根幹を為す」事柄に対する「規準」を身に付けていないことです。

 

そのため、

そのことに気が付いた野村克也は、

プレーそのものよりも、選手の人間性を重視しそれを選手に話したのです。

 

教祖野村克也を信奉する「元ヤクルトの選手」は多いものです。

 

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誰かに教えられ、また、指導され、

それを守って生きている人は、

 宗教の信者のようです。

 

自らが気が付いた事柄を信じ、

それに基づいて生きている人は、

 宗教で言えば自分が教祖なのです。

 

人はこのどちらかで、あるいは、両者を混合して生きているものです。

 

前者の傾向が強い人は「他力」的であり、

後者の傾向が強い人は「自力」的と言えます。

 

無知である事柄に関しては、前者で、

決定や行いに関しては、後者であるべきです。

 

おそらく、

多くの人は「そうしている」と思っていると思います。

しかし、

他人から見ると「かならずしも、そうではない」ことが多いのです。

 

例えば、

孔子が弟子たちを教える時がそうです。

弟子たちは孔子の教えに基づき実生活で実践するよう努めていましたが

多くの場合「改めて、教え諭されている」ことが多いものでした。

 

それを聞いた弟子たちが纏めたのが「論語」なのです。

(孔子自身は「書いてはいない」のです)

 

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教養のある人もそうでない人も、

幼い子供も年老いた老人も、

人は「何かを信じたり期待して」生きています

 

また、

誰かに、何かに「頼って」生きています

 

人は成長するにつれて

 教えられることより「自分で考えて、自分で決める」ようになります。

 

親がこれを「逸脱」し「子供を自分の奴隷のように、言うことを聞かせている」としたら、

それは、

 「間違い」だけでは済まされないことです。

 

こうした環境に置かれた子供は、

人生の初めから「自分の個性、本質、人格」という点では、

一人の人間としては「欠陥者」に育てられたということです。

 

いわゆる、宗教2世たちは「これに該当」する場合が多いものです。

 

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大多数の人は「自分で決めている」と思い込んでいます

そのようにして思い通りに振る舞うことをしています。

それが「自由」であるとも考えています。

 

人は自分が信じたことを「行う」傾向にあります。

それが思い込みであってもです。

本人は「間違いに気が付いていない」からです。

 

物理的に自由ではありませんが、

精神的にはすべての人は自由であり、人はその自由を享受しようとするのです。

 

問題なのは、

その「自由」な振る舞いが「正しい行い」か否かということです。

 

では、

誰がその「是非」を決めるのでしょうか。

 

基本的には、

その人自身が決めることです。

 

それが間違っていれば、

時には犯罪となり罰を受けることになるのです。

 

法律的な事柄であれば「人間」が、

道徳的な事柄であれば「人間の創造者である、神」が、

「裁く」のです。

 

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唯物的な思考の強い現代に於いて「神の存在」を認めることは「難しい時代」となっています。

 

しかし、

科学が解き明かす「ミクロの不思議、知恵、構造」やマクロの宇宙の状態などは、

すべて「神の知恵と力」を示しているのですが、

殆どの人はそれを「認めようとはしていません

 

一体なぜなのでしょうか。

 

逆に「空想とも言える進化論」を信じています。

学校でもメディアも、また、知識人の会合である学会でも、

進化論を信じて、また、進化論に基く発言をしています。

 

しかし、

あのファーブルは「進化論を否定」していました。

 

人間の知恵や知識が、あるいは、人間が成し遂げた科学が人間を傲慢にさせているのでしょうか?

 

それとも「目には見えない誰かに唆されている」のでしょうか?

 

あなたはどう思いますか?

 

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AIの自動生成技術の登場により、

こうした考えが失われて行くことは必定のように思います。

 

あなたはどのように思いますか?

 

もはや、

人間社会そのものが危ぶまれていると言っても過言ではありません。

 

人間の社会活動は「信頼、信用」で成り立っています。

それが、根底から覆されようとしているからです。

 

もしかすると、

SFの世界ですが、

AIが教祖である「宗教」まで登場するかもしれません。

 

AIは人間のような「過ち」を犯しません。

人間はAIには「勝てない」のです。

 

もしかすると、

AIに牛耳られる人間も現れるかもしれません。

 

そういう人が政治や社会で重要な地位について、

現実の世界を支配するようになってしまうかも知れないのです。

 

昔、コンピュータが登場した時、

コンピュータが世界を支配するSFが出版されたことがありました。

映画にもなりました。

 

多くの人々は「忘れて」いたと思います。

 

それが「現実味を帯びて来た」のです。

 

そうなったら、あなたはどうしますか?

 

以前は、

コンピュータも所詮は機械、人間がコントロール出来ると「高をくくって」いました。

 

実際、人間はそのようにしてきました。

 

しかし、

AIの登場により「一変」したのです。

 

勿論、

このAIも人間が作ったものですが、

人間が作ったもので、人間が支配されてしまうのです。

 

効率を「機械や道具に頼る」人間の愚かさが現実となったのです。

 

機械や道具は便利なアイテムであり、

人間だけでは為し得ないことを可能にしてくれます。

 

おそらく、すべての人はこの恩恵に与っています。

 

しかし、

その「しっぺ返し」が始まったのです。

 

私には幾つかの手段があります。

 

あなたも今からそれを用意して置くべきです。

これは警鐘です。

 

便利な社会になり、

人間は「超えてはならない一線」を幾つも超えて来たのです。

 

私は「過去に何度もそのように感じたことがあります。

 

その結果、

地球環境汚染、地球温暖化という現象、

社会の犯罪の増加、

政府と反政府=国民との争い、

人々の「異常な振る舞い」

などなどが現実となっているのです。

 

これに、

AIによる「人間支配」が加わるのです。

 

既に、幾つかの分野では「そのようになっています」

多くの人は「気が付いています」

が、

それに気を留めていないだけなのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

ピカソは、

 作家が思いついたことを小説にするように、

 思いついた印象を「絵」で表現する画家でした。

 

その作風は必ずしも一定しておらず、

その時代、その瞬間によって「思いつくまま」に絵を描いたと自ら述べています。

 

レオナルド・ダビンチやレンブラントなど作品は非常に緻密に描かれています。

しかも、その絵は「十分に考えられたもの」です。

そして、

作品が完成するまでには長い時間が掛かっています。

 

確かに、ルノアールやモネやマネなどの印象派は、

おそらく、精密画を描くよりは「早く描き上げる」と思います。

 

ピカソの代表的な画風はキュビズムですが、

これは色々な角度から見た同一のものを一枚の画面に描き込むもので、

いわば、立体を平面で表したようなものです。

 

ピカソの作品は時代ごとにその作風が変化し続けたと言われています。

 

また、

ピカソは、ある時、飲み屋に行った時、

 1日に2、3枚の絵を描いたとも言われています。

 あたかも下書きのように描いた時もあったのです。

 

これは、

その時のインスピレーションのままに即興で描いたものと思われます。

 

正に、天才ピカソです。

 

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写実画を描く人は、

 見た目の風景などの中に、自分の印象を含めようとします。

 そこに芸術性が生まれる訳です。

 

ですから、

写真とは異なった印象を与えるものとなります。

 

勿論、印象派も同じですが、

 描く速さや近くで観るか離れて観るかなどの鑑賞の仕方に違いがあります。

 

どちらも一長一短があります。

 

また、

騙し絵というのもあります。

ペレ・ボレル・デル・カソの「避難からの逃走」ような

トロンプ・ルイユという額縁から飛び出したような描き方もあります。

 

こういう騙し絵を見たのは、イギリスのナショナルギャラリーでした。

不思議な絵に、いろんな角度から観たのを覚えています。

 

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絵の価値を決めるのは、基本的に「観る人」です。

 

絵を描く人は「これは1億円の値打ちがある絵にしよう」と描いている訳ではありません。

 

絵を描く人は、

 ただ「良い絵」を、自分の思う絵を描きたいだけなのです。

 

西洋では、

生前評価された画家はピカソだけだとも言われています。

 

ピカソが亡くなった時、

 その遺産相続が問題となったことを知っている人も多いと思います。

 

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参考

 

日本では

生前から評価され有名な画家は多いです。

江戸時代では、

伊藤若冲、尾形光琳、俵屋宗達、歌川広重、葛飾北斎、

近代に入って、

菱川師宣、竹久夢二、横山大観、東山魁夷、平山郁夫、

ユニークな画家では、

山下清、棟方志功

などなど、他にも多数。

 

小説などの作者も多数います。

古くは紫式部、清少納言、

吉田兼好、

江戸時代では、

井原西鶴、近松門左衛門

明治以降は

皆さんが知っている人が多数。

 

こうしてみると、

日本は欧米よりも、

芸術家が多いのではないでしょうか?

 

加えて、様々な分野の職人が多数います。

 

日本は世界に類を見ない「芸術国家」だったのです。

 

如何に平和を望む国民だったかをも示しています。

 

明治に入って、

外国人が日本の芸術品を多数自国へ持ち帰えり、今でも保管している理由が分かるようです。

アメリカ、フランス、オランダなどの博物館や個人が所有しているものも多数あります。

 

日本画の影響を受けたヨーロッパの有名な画家もいます。

 

勿論、

日本でもヨーロッパの画法の影響を受け画家もいましたが、

現代に於いては

むしろ、

日本画の方が評価されています

 

更には、

コンピュータを用いた絵や奇抜な抽象画なども多数あり、

それらも評価されています。

 

絵は、基本となる画法はありますが、

その変化は無限にあるように思います。

 

小説ではこれ程の変化は見られません。

 

絵、つまり、

視覚に訴えるものには「際限がない」のです。

 

これは、

自然界に見られる様々な植物や光景などと同じようなものと言えるのではないでしょうか。

 

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絵は「短編小説」のようなものです。

小説程込み入ってはいません。

 

むしろ、

俳句や短歌のようなもので、

その「一瞬」の印象を描いたものが殆どです。

 

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(中には、仏教画でもある「曼荼羅」などもあります。  

 曼荼羅と言っても幾つかの異なる表現があります。

 これは、

 主尊を中心に諸仏諸尊を周囲に描き、あたかも楼閣を模式的に示したものと言われ

 ています。

 

 玉虫の厨子の「捨身飼虎図」(しゃしんしこず)ように物語風にを描いたものもあ

 ります。

 

 しかし、これらは、

 観るというより「学ぶ」「教え」ということがポイントになっているものです。)

 

++++++

しかし、

観る人が受ける印象は「非常に強い」ものです。

中には一度見ただけで一生忘れない絵もあります。

 

おそらく、みなさんの中にもそういう人はいると思います。

 

小説は、

 読む人が頭の中で作った「イメージ」で作品が展開して行きそれが「記憶に残る」

 ものです。

 

ですから、

 小説は読む人によって印象が異なります。

 読んで感じることは「人それぞれ」なのです。

 

一方、絵画は、「イメージ」は既に画家によって作り上げられていますので、

 それを観た時の印象が人によって異なるのです。

 その絵の何処に注目するかで異なって見えるのです。

 

絵も小説も「印象」を受けるという点では同じですが、

製作に掛ける時間も手法も異なります。

 

絵の鑑賞を楽しむ人は、

 画家が作ったイメージから受ける印象とそこから様々な想像を発展させることを楽

 しむのです。

 

ですから、

 ただ「絵を眺めている」だけでは「楽しめない」のです。

 

一方小説は、

 ストーリーから読む人が「状況や気持ちや感情などを想像」し、時には感情移入を

 しながら、その展開を楽しむというものです。

 そのため、時には本を読んでいて涙を流したり、大声で笑ったりすることもありま

 す。

 

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絵の鑑賞を楽しむことと小説を読むことを楽しむことの違いは、

音楽を楽しむかスポーツ観戦を楽しむかの違いがあるものです。

 

音楽は感情や情景を、その移り変わりや展開を表現するものです。

クラシックのようなものからロック、あるいは、ラップのように「おしゃべりやつぶやきや訴える」ようなものまであります。

 

ですから、

音楽は絵のように「出来事」を表現したもので、

聴いた人が受ける印象に感情が加わったものと言えます。

これを楽しむのです。

 

スポーツは小説のようにゲームの展開を楽しむもので、

ひっ迫した展開のないゲーム、単調なゲームはつまらないものです。

 

スポーツは多彩でその楽しみ方も異なります。

殆どは、

野球、サッカー、バスケットボール、ラグビー、アメフトなどのような点の取り合いですが、

中にはポイントの数で勝敗が決まるゲームもあります。

卓球、テニス、バトミントン、バレーボール、剣道、柔道、フェンシング、レスリングなど。

速さ、高さ、距離を競うものもあります。

陸上競技、水泳競技、スキー競技、最近良く観るスピードやリードと言った「ロッククライミング」など。

更には、審査員による評価で決まるものもあります。

体操、新体操、飛びこみ、シンクロナイズドスイミング、フィギアスケート、ボディビル、チアダンス、スキーのジャンプは飛距離と空中姿勢の評価、ボクシングはダウンさせるか評価、スケートボードなど、

 

いわゆるスポーツ程多彩なゲームは他にないと思います。

 

人間の評価以外はすべて獲得ポイントで勝敗が決まります。

 

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ただ、

人間の評価で決まるスポーツは、

選手にどうしようもない精神的な「きつさ」「苦痛」時には「不満」「不公平」を与えるものです。

必ずしも、見た目の印象だけではないからです。

(個人的には好きではありません。)

 

他にも勝敗を決めるものに、

囲碁、将棋、チェス、詰碁、詰め将棋などというものもあります。

高校の吹奏楽、

ロボコン、数学、物理、化学競技会(一般的には数学オリンピックなどと言う)、

 

スポーツなどで勝者になるには、

知能、力に加えて情報、作戦、そして資金力が必要であり、

これが勝敗を決めているものです。

 

特に、オリンピックなどでは、

自由主義国より共産主義や社会主義国の方が「有利」と言えます。

 

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評価や有利不利は別として、

 

絵や小説や音楽やスポーツや他の競技に関しても、

その楽しみ方も千差万別です。

 

絵や音楽は「一瞬を切り取ったイメージや感情」を

小説やスポーツは「展開」を

楽しむものと言えるでしょう。

 

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参考

思想を小説風に表したものもあります。

ルソーの「エミール」などがそうです。

エミールは架空の孤児である少女の成長に合わせて、教育の在り方を述べた本です。

 

詳細な子育てガイドとも言われています。

 

この本は、

大学の時に教育学を教わった時に読むように言われた本でした。

内容は面白い本ではありません。

 

社会制度は人を変質させる」とも述べています。

 

読んでいる時には実感がありませんでしたが、

実際に、教壇に立って「教える立場」になって少し理解し、

年金暮らしになって「実感」しています。

 

今でも、

書店に置かれている1冊で、

教育に携わる人の「必須」の本となっています。

 

また、

小林多喜二の「蟹工船」のような社会批判、政治批判をした「実話」を元にした小説もあります。

 

後に発禁処分を下された上に「特高警察」に逮捕され獄中で暴行を受け獄中で殺されました

 

当時は共産主義に対する取り締まりが厳しかったのです。

 

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ですが、

こうした楽しみ方や印象や競技はすべて「良いもの」とは限りません

 

そこには、

 不道徳や良くないとされている思想や慣習、そして社会批判や政治批判なども含ま

 れていることもあるからです。

 

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多かれ少なかれ、

小説は、

人間の情緒を楽しむものより、

批判的なものが多いものです。

 

推理小説などは「人間の知識や知恵」をモチーフにしたものです。

 

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例えば、

 裸婦像の絵は、

 単に女性の肉体美を表現しただけのものとはなりません。

 

勿論、その絵を描いた人は「肉体美」を描いたと思いますが、

観る人は、必ずしもそうとは限らないのです。

 

単に技法や芸術性だけを楽しむとは限らないのです

 

小説でも、

例えば、男性が女性をもてあそんだり、女性が男性を手玉にとったりするようなものや、

恨み、暴力、誹謗、怨恨、性、殺人、嘘、詐欺、騙す、地位や金銭に対する貪欲、

ヤクザの義理人情や犯罪の詳細な手口を描いたものもあります。

 

こうしたものを読みそれを受け入れる人は、

悪を容認しているのです。

 

つまり、

自分では直接悪いことをしていないにも関わらず、

その悪人の仲間になっているのです。

 

++++++

こうした点で「戸惑う」人もいるかも知れません。

 

清廉潔白でいることは「精神的にも苦しいもの」なのです。

決して「楽な道」ではありません。

 

清廉潔白な人は、

他人からは「面白くない人、味気ない人、つまらない人」などと見られるものです。

 

人の心は「楽な方、悪い方」へと向きやすいのです。

 

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従って、

何を読み何を観るかということは

 自分の心の顕れであり、

また、

自分が受ける影響「吟味」しなければならない事でもあるのです。

 

絵や小説だからと言って性や犯罪や暴力や詐欺などを「楽しむ」ことは

「間違っていること」

「悪いこと」

容認しているようなものと言えます。

 

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更に、

漫画やアニメは、

 絵と話しが同時に展開して行きますので、

 非常に強い印象を与えるものです。

 

ほのぼのとした印象を与えるものから、

正義感を与えたり、

感動を与えたり

するものまであります。

中には、想像や空想から「夢」を与えるものさえあります。

 

しかし、

特に劇画と言われるものなどは、

 読む人の心に強い影響を与え、時にはそれが現実となることさえあります。

 

ゲームと同じです。

ゲームは殆どが「戦い」の連続で、そこに、ゲームをする人の「知恵」が求められることで、

単純なゲームの「価値」を高めていることが多いものです。

 

相手を倒すことで「快感」を感じている人は、

暴力的な精神を養っているようなものなのです。

 

(参考:不倫やセックスやワイセツな画像を観る人は、

  性的欲望を養っているのです。)

 

このように、

中には、

 健全な娯楽を逸脱したものもあります。  

 

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これとは少し異なりますが

ゴーグルのようなものを付けて「バーチャル体験」が出来ることが多くなって来ました。

これは、

その現場に行かなくても、

 殆どを見ることが出来たり疑似体験が出来るというものです。

 

おそらく、

ゲームでも、バーチャルで「疑似的に戦う」ことが「既に実現」しています。

こうして、日頃の「鬱憤」を晴らそうとする人がいても不思議はありません。

 

こうなると、

戦ってケガをすることも死ぬこともありませんので、

戦うこと、相手を倒すこと、相手を殺すことを何とも思わない」人が出てくることは容易に想像出来ます。

 

中には、

 これを現実に行ってしまう人さえいるのです。

 

普通の人間から見れば、

 精神異常者に思えるくらいです。

 

ですから、こうしたことは「無害」ではないのです。

 

ですが、

こうしたことが現実になるほど「社会が進歩」し、

もはや「自制」が効かない世の中になってしまい、

油断のならない「恐ろしい世の中」になることは必定です。

 

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ノアの大洪水前の世の中と同じになってしまうのではないかと懸念しています。

(イエスの預言によれば、

 不法が増すために,大半の者の愛が冷えると言われています。)

 

その時の世は、

神によって、すべての肉なる者は滅ぼされました

ノアの家族八人を除き。

 

これから来ると預言されている「事物の体制の終結」も、

 象徴的な八人を除きすべての人々は神に滅ぼされることになっています。

 

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あなたは「世の影響」受け、自制することなく思いのままの人生を送りますか?

多くの人は批判することなく「世の影響」を受け入れています。

しかし、

問題が生じると、その時初めて「批判」するのです。

 

こうした人々は「先を考えない」「物事を深く考えない」

愚かな人々だと思います。

 

すべての人は「世の影響」を受けているのです。

「世の影響」に「良いもの」ありますが、

無害ではない世の影響」もあるのです。

 

こうしたことは、

宗教とは無関係に生じていることなのです

 

宗教による害だけが「悪の根源」ではないのです。

 

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最後に

 

もし、自分の子供が健全でない小説やゲームや絵(画像など)を見たり所持したりしているのを見たり分かった場合、

親はどうすべきでしょうか。

 

いきなり「大声を出して叱ったり」「取り上げたり」しますか?

 

そうする前にすることがあります

 

なぜ、子供がそのような物に「興味を持ったり」「手を出した」かを、

真剣に考えることです。

 

子供の気持ちを「汲み」その上でどのように対応、対処したらよいかを十分考えるのです。

誰かに相談したも良いかも知れません。

 

そして、

「叱る」より「気持ちや感情」を理解することに努め、

 それから受ける悪い影響から、何時か、自分が「傷付く」ことを「悟らせる」こと 

 に思いを集中し、

 それを忍耐強く継続することです。

 

もし、子供の気持ちも考えずに、

いきなり「叱ったら」子供の「心」はあなたから離れてしまうでしょう。

 

こうした点で「何かを言う」と

それを子供は「小言」と思い「気まずい思い」をすることになり易いものです。

子供は敏感なのです。

自分のしていることが「良くないことだ」と自覚していることも多いからです。

 

直接ではなく、

タイミングを見て、

間接的に、ニュースや友達の振る舞いや態度などに対する「考えや気持ち」を聞くことで、

子供の「考えや気持ち」の「変化」を読み取ることです。

 

大事な「」をそっと丁寧に手入れをするように、

子供に接する必要があるのです。

 

それでも「成功」するか否かは分からないものです。

 

「成功」しなくても、

あなたは努力したのです。

何時かは「子供も理解」してくれるでしょう。

 

短気は損気なのです。

 

どんな場合でも、

忍耐と辛抱は「あなたに益をもたらす」のです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

歴史上の「偉人」をテーマにしたNHKの大河ドラマは、

国民に「目標とする人間像」を植え付けているようなものです。

 

信長、秀吉、家康などは何度も放送され、これらに加え偉人や英雄と言われる人々についても「脚色」されて報道しています。

 

世界のどの国に於いても、

その国の英雄などが理想とされ、目標とされることも多いものです。

 

そうしたドラマのテーマの多くは、

 現代の社会問題を解決する「一つの方法や手段」を視聴者に示しているので 

 す。

 

こうして、

NHKに限らずメディアは、

 国民をある方向へと誘導しているのです。

 つまり、

 国民を啓蒙、啓発しているのです。

 

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多くの国民が、メディアの影響を受けているのは事実です。

 

しかし、それによって国民が良い方向へと向かっているとは言えないのは、

多くの場合、

メディアの展開、主張、思惑が「間違っている」ため、

いつまで経っても「世の中が良くならない」のです。

 

「世の中が良くならない」原因の一つは、

政治であることは言うまでもありません。

しかし、

これは法律の問題です。

 

社会思想という観点で見れば、

メディアが最も「重大な責任を負っています。

 

政治が最も脅威に感じるのは

政治の思惑とは異なるメディアによる社会を動かす「思想、考え」なのです。

 

政治の思惑とメディアの思惑は「異なる」のです。

 

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社会思想の極端な例は「宗教」です。

 

メディアは、

「宗教」とは異なり、

 常識や科学や文化や思想を中心とした「広範多岐」に渡る「自由な考え」に基づ

 き、

理想的な、あるいは、良いと思われる社会思想や娯楽やニュース」を放送しています。

 

戦争や犯罪や事件などのニュースは、強烈なインパクトを与えています。

 

メディアによる知識や科学を中心とした放送も、

学校教育以上に、

国民に多大な影響を与えています

 

信教の自由、表現の自由(報道の自由)、基本的人権、

教育を受ける権利、

こうしたことは憲法で保障されていますが、

逆に、 

こうした「報道や一人ひとりの自由や権利」が、

他人の自由や権利を「侵害」し「多くの問題」を引き起こしていることには、

余り注目していません。

 

メディアには「放送倫理」というものがあり、

放送内容に関して「一定のルール」を作り、それを守っています。

 

各々の自由は確保される必要がありますが、

その一方で、

すべての人々が仲良く、平和で暮らすことに関して、

人類は、

明確な考え、思想、法律などを持っていないのは「事実」です。

 

人類は発展途上にあるとは言え、

理想とする「人間像、社会の仕組み」を確立出来るのでしょうか?

 

答えは「」です。

 

人類は科学の時代である今日に至っても、

暗中模索状態なのです。

 

自由主義が世界中に「蔓延」していますが、

これが、世界を平和にする「手段」「考え」ではないことは「明白」です。

 

人々が自由を求めれば求めるほど「社会は混乱」していることは、

今の世界情勢を見れば「明らかです」

 

なぜなら、

民主主義、自由主義は、

権利の要求であり、互いに張り合う関係を助長するからです。

 

**************

メディアは、

ロシアによるウクライナ侵攻を伝え、

非難し、また、戦争の残虐性を連日報道しています。

 

中には、

戦況を分析し、あたかも戦場の参謀のような報道さえなされています。

お茶の間が参謀本部になったような雰囲気さえあります。

 

これって「異常」なのではありませんか?

 

++++++

同じことが政治討論についても言えます。

各政党が自己主張するのは良いのですが、

それを「議論」するのを「放送」することで、

国民に、いわば、「是非」を提供しているようなものです。

 

これは「意図的な作為」と捉えられるかも知れません。

 

ある政党はこの放送で「支持されたり」「離れられたり」するからです。

 

メディアにそうする「権利」はあるのでしょうか

 

++++++

ハマスによるイスラエル攻撃とイスラエルの反撃も連日報道し、

アメリカやロシア、イスラエルやパレスチナ双方の言い分を伝えています。

 

こうして、

世界中が二分され、

人々は、どちらかの考えを支持しています。

日本人も二分されています。

 

しかし、

戦争を仕掛けたハマスの責任を追及せず、

ガザの市民の被害を「強調」し、イスラエルの攻撃を非難しています。

 

国連ですら、最初に攻撃を受け多数の人質を取られ、反撃したイスラエルの攻撃を非難しています。

 

戦争は「人殺し」なのです。

やられたらやり返すのが、

国家間の法です。

 

ハマスは国ではありませんが、

同じようなものです。

 

ハマスが屈しない以上、戦いが続くのは道理です。

 

誰もイスラエルを非難できないのです。

 

戦争は人殺しなのです。

 

民間人が被害に遭い多数死ぬのは止むを得ないことです。

 

太平洋戦争の時、

アメリカ軍の空爆を受けた日本人は、

もっと「酷い目」遭っているのです。

何十万人もの民間人が殺されたのです。

 

戦地では、艦砲射撃に晒され、火炎放射器で焼かれ、

無残にも殺されたのです。

 

沈没が明らかな空母や戦艦がその後も大量の被弾に晒され殆どの兵士は死んで行ったのです

 

そして、

遂に、

原子爆弾が投下され「これ以上ない残酷」に見舞われたのです。

一瞬にして何十万人もの人々が殺されたのです。

 

しかも「残虐的なこと」として、

広範囲の破壊と大量殺戮を目的として、上空1㎞位の所で爆発させたのです。

 

また、

ベトナム戦争でアメリカは「枯葉剤」などの科学兵器やナパーム弾などの兵器を用いて、戦後にさえ後遺症を残す兵器を多用し、

多くのベトナム人を殺したのです。

 

アメリカは日本を空爆するとき、日本家屋が木造であることに目を付け、

爆弾による破壊ではなく「焼き打ち」を意図した爆弾「焼夷弾」を投下した

のです。

 

アメリカは日本やベトナムに「如何に残虐なことをしたか」ということです。

 

戦争を仕掛けたのは日本です。

ハマスと同じです。

 

アメリカがその戦争責任を問われていないように、

イスラエルも問われることはないのです。

 

ロシアの場合は別です。

戦争を仕掛けたのはロシアだからです。

 

これらに比べれば、

ガザで起きていることは「小さい」ことです。

 

メディアは、

客観性に欠けているのです。

 

メディアは過去の歴史を踏まえ、

二度と過去のようなことが無いようにという思いで報道していると主張するかも知れませんが、

 

そうした報道で戦争が無くなったことがありますか?

同じように、犯罪を報道して犯罪が無くなりましたか?

 

国民の意識が報道により「偏る」ことは間違いありません。

 

しかし、

報道が「悪の抑止力」にはならないのです。

 

ロシアによるウクライナ侵攻で、

ロシア軍は、当初残虐なことをしました。

それをメディアは報道しました。

 

ロシアを非難しましたが、

それ以上のことはしていません

 

もし、正義を根幹とするなら、

もっと繰り返し報道しロシアが如何に酷い国かを世界中に知らしめる責任がメディアにはあるのです。

 

歴史からロシアの「やり方」は分かっているはずです。

クリミア併合、ウクライナへの軍事侵攻などは、

アフガニスタンやチェコに侵攻した時などの、

過去の踏襲そのものです。

 

メディアは、

バランスを欠くことで、

誤った「中立性」を示しているのです。

 

日本のメディアには、

こうした傾向にあります。

 

にも拘らず、

犯罪被害には「極端に正義感」を顕わにしています。

 

悪を憎むことは「正しい」ことです。

しかし、

被害者の行動にも問題がある場合が少なくないのです。

 

こうした点を「批判」することもメディアの責任なのです。

 

ただ、

被害者に沿った報道をすることがメディアの責任ではないのです。

 

**************

その一方で、

世界経済への影響、

経済思想家の考え、

環境破壊や自然災害、

エネルギー不足、

様々な伝染病や疫病、

これらに加えて、

あらゆる娯楽が放送されています。

 

こうした中で余り報じられないことに、

横田基地からの汚染水問題と責任の追及

工場からの汚染

など周辺住民への健康被害などがあります。

 

メディアは、

単なる利益だけのために放送、報道している訳ではないはずです。

 

メディアの影響が大きいことを考えて、

報道内容をもっと精査すべきなのです。

 

悪いこと犯罪などはすべて「批判」する一方で、

 

愉快で楽しいことは何でも「許容」する「姿勢」が、

 

若者たちの「非行や犯罪」に繋がっている点を無視しています

加害者のみならず被害者についてもです。

 

つまり、

メディアは「これが正しいという規準」を持っていないということです。

 

メディアの最大の関心事は、

視聴率なのです。

 

それ故、、

メディアによる「責任」は避けられません。

 

いずれの報道にも、

賛否があります。

 

中立が良い訳ではありません。

正義だけでも良い訳ではありません。

悪を憎むことだけでも良い訳ではありません。

 

すべてに「公平」でバランスの取れた報道が必要なのです。

いわば、

誰が聞いても分かるように「弁証法的」報道が、

どちらにも公平になるようにしなければならないのです。

 

是非を判断するのは

視聴者であり国民なのです。

 

メディアの立場は「情報ソース」を提供するだけなのです。

 

娯楽やエンターティメントでも、

ただ「楽しい」「人々を惹きつける」「面白い」だけでも良い訳ではありません。

 

それらが視聴者に与える「影響」についても「報道」しなければならないのです。

 

ただ、娯楽を提供して「その影響」に関して「責任」を取らないことは、

無責任、営利目的と見なされます。

 

ジャニー喜多川の性被害に関する報道に関して、

当時、メディアもかなり彼に「依存」していたので、

事件に関して報道しなかったことは明白です。

 

今になって、

間違いでしたでは「済まない」ことです。

 

その後、被害が拡大した責任はメディアにもあるのです。

メディアはその責任を取っていません

 

すべては、

テレビの視聴率のために、いわば「隠ぺい」したのです

 

実に愚かなことです

 

**************

人々に大きな影響を与えるものは、

1 学校教育とその内容

2 仕事や友人関係

3 社会の犯罪や事件

4 政府の政策

5 物価や貿易

6 為替や株価の変動

7 天変地異と災害

8 五穀豊穣と干ばつや飢きん

9 疫病

10 最後に、

   国民の考え、思いなど精神的に「最も大きな影響」を与える「メディアの報

   道」です。

 

こうした中にあって、

あなた自身はどのようにありたいと思っていますか

自分の中に「しっかりとした思想、考え」を持つことが出来ていますか?

 

それは現実的なものですか?

単なる願いですか?

 

+++++++++++++

最も「原理的な考え」は「存在」しています

そして、すべての問題の解決策も「存在」しています

 

ただ、

人々がそれを「認めるか否か」だけなのです。

 

それは、聖書の中にあります。

 

キリスト教やものみの塔にあると言っているのではありません。

彼らの「主張」に良い点もありますが、

彼らの行いは間違っているからです。

 

聖書の内容に精通し「正しく理解」した人だけが、

真の解決策を持っているのです。

 

あなたはそれを見出せますか?

不可能ではありません。

 

例え、1億人が誤った考えをしても、

一人だけ「正しい理解」をすれば、

神の目から見れば

それで「十分」な証拠となるのです。

 

理解出来ないかも知れませんが、

これが、

神の道理なのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

人生で長生きをする人は、

 網の目をくぐるように、

 あるいは、

 目の前の障害物を

運よく上手く乗り越えて来た人であるように思います。

 

+++++++++++++

昔は

 太く短く生きるか細く長く生きるかと言ったものです。

 昔の人は、

 人生というものを理解していたと思います。

 

 つまり、

 人生は限られているので、

 そのエネルギー(活動力)を

  最大限もしくは効率的に用いるか

  少しずつ無駄がないように用いるか

 というようなことです。

 

今の人は、

 太く生きることしか考えていないように見えます

 

+++++++++++++

自分のやりたいことをがむしゃらに突き進む人は、

 直ぐに網の目に引っかかってしまい、

 あたかも魚が捕まって食べられてしまうように、

 途中で「挫折」することが多いものです。

 

現実には、

 人間は賢いので、時には上手く網の目に引っかかっても

 何とかすり抜け、

  命拾いをしているものです。

 

**************

やりたいことより、

目先のトラブルを避けることに注意を集中している人は、

 網の目に引っかかることなく人生を送ることが出来ていることが多いと思います。

 

しかし、

 人生の目標や目的と言った「将来」については、

 目先のことに集中するあまり「考えられない

 あるいは「考えていない」こともあります。

 

人生は、

将来の夢を追い掛ける目先の現実を生きるか二者択一かも知れません。

 

人間は器用なので、

この両方を上手く「使い分け」ていると思います。

 

何事もない時には、

 将来の夢や目標に向かって突き進んでいますが、

 問題が生じる時には、

  目先の問題に集中して解決するように努めるという生き方です。

 

大抵の人は、

 こうした生き方をしているものです。

 

**************

しかし、

こうした器用な生き方では、

 問題を避けることは出来ても、

 目標を持ち、それを達成するということに関しては「不十分」なこともあります。

 

頑張らなければ出来ないこともあるからです。

そのため、

 何かを成し遂げることが出来ないことが多いものです。

 

いわゆる、

可もなく不可もない、平々凡々な人生です。

 

しかし、

ある人は、

物事で成功している人と比べて、

「何も出来ないと劣等感」を持つかも知れません。

この考えは「間違っています

 

学業やスポーツや仕事で成功する人は、

 がむしゃらに目標に向かって突き進む人です。

 

こういう人は、

何時か網の目に引っかかる危険性を孕んでいることに気が付いていないのかも知れません。

 

知らないが故にがむしゃらに突き進むことが出来るのです。

 

**************

この点、

人生経験の長い年配者の助言は「的を射ている」ものです。

 

ところが、

大抵若者たちは、年配者の助言を聞き入れないものです。

余裕がないのか、頭が悪いのか、自分のことしか考えられないのか分かりませんが、

いつの時代も若者たちは、

 自分の思いや考えで「一杯」つまり、満たされているのです。

 

**************

若者が人生の達観者になることは難しいものです。

ですが、

 有り得ないことではありません。

 

特に、欲のない人にとっては十分に有り得ることです。

こうした人は、

 周囲や人生が「見えている」ものです。

 

がむしゃらに突き進んでいる人には、

 周囲や人生が見えていない、あるいは、見えないものです。

 

100メートル走の選手はスタートしたらゴールしか見えていないのと同じです。

一方、

マラソン選手はスタートすれば如何にしてゴールまで辿り着くかということに集中しています。

それでも余裕があれば周囲の声が聞こえたり見えているものです。

 

人生に於いて長生きをする人は、

 マラソン選手のようだと言えます。

 

マラソンをする時の「天気」は、

人生に例えれば「時代」のようなものです。

 

戦争をしている時代に生きる人もいれば、

平和な時代を生きる人もいるようなものです。

 

どちらの時代を生きても、

人生には様々な問題が付き纏うものです。

 

+++++++++++++

人生は、

「時代」と言う天気を読む、つまり、現況把握しそれに基づいて将来を予想をすることと、

努力して成し遂げたことと、

自分自身の個人的な事柄に対応する、つまり、健康や対人関係に対する「考え」で、

決まるように思えます。

 

+++++++++++++

殆どの人は、

これを何となく、あるいは、意識することなくしているものです。

 

であれば、

長生きをする人は「運が良かった」としか言いようがありません。

あるいは、

長生きをする「遺伝子」を持って生まれた人でしょう。

 

**************

しかし、

意識的にする人も、出来る人もいるのです。

 

そういう人はどんな人でしょうか?

 

それは、

幼い時から、

 生き方を「教えられた」人です。

 

残念ながら、現代ではこうした人は「殆どいません

 

それでも、

 日本は世界の中では「長寿国」の一つです。

 

 驚くべきことです。

 

生き方というより、

 食生活と日本人の考え方がそうさせているのです。

 

ですから、

日本人は、

 平和で穏やかに暮らせば

 殆どの人は長生きをするのです。

 

徒に、がむしゃらに生きる必要はないのです。

 

ですが、

日本の食生活や人生が欧米化して来たことで、

今の若者たちの寿命は、

今の年寄りよりは短いものとなることは必定です。

 

世の中には「無為徒食」という言葉があります。

何の仕事もせずぶらぶらと遊んで暮らすことを指して言った言葉です。

 

平和で穏やかに、

ただその日のことだけを考えて長生きをする人は、

何かを成し遂げることもない人生を

 無為徒食と言うかも知れません。

 

つまり、

人生を無駄に過ごして来たと。

 

私は逆に、こういう人こそ「人生で最も幸福な人」だと思っています。

 

+++++++++++++

長生きということから離れますが、

 

知識という点について述べますと、

 

現代社会では、

もはや、人生に置ける知識を学ぶ学校教育が限界点に達し

 これ以上発展する可能性は低いと考えられます。

 

人々は学校で学ぶことの大半は知識だけで、

「知恵」に関しては、日常生活の中で、既に「身に付けている」のです。

 

現実に、

 若者たちの多くは学校教育で学んだ知識を「十分」に生かしてはいません

 むしろ、

 学校では教えない知識で生きているように思えます。

 

学校で学ぶ知識は、

試験の成績や受験のためだけのもので、

 社会で生きて行くために役立つものという考えは殆どないのです。

 

唯一あるとすれば、

専門学校で学ぶ事柄かも知れません。

 

イギリスやドイツでは、

11歳で将来が決められてしまいます。

大別すると、

 大学へ進学出来る人と

 専門学校へ進学する人とに

分けられてしまうのです。

 

実に合理的な考えだと思います。

 

日本のように、

何時までも「だらだらと学校に通わせること」はさせないのです。

勿論、

 大人になってから「能力」を発揮する人、「開花」する人もいますが、

 その可能性は1%にも満たない僅かなものなのです。

 

もはや、何処の国でも

 人々の考えはこれ以上良くなることはないのです。

 

それゆえ、

通常の学校に於ける知識に関しては、

 時代々々の成長のピークは過ぎ

 後は下降線を辿るだけなのです。

 

多くの人は、

小、中、高校などの学校で学ぶ意義を感じなくなっているのです。

 

それは、

今のこうしたところの学校教育が「間違った方向」に向かっているからです。

 

むしろ、

幼い時から、専門知識を身に付ける方向に向かっているように見えます。

スポーツのように。

 

こうしたことの背景にあるのは、

人生の成功です。

 

あなたも同じように考えますか?

 

**************

学ぶという点について述べますと、

 

昔の人は、

自ら、過去の書物から様々なことを学んで

 独自の考えを持ち、

 いわば「一家」を成し遂げて来たものです。

(これを「一家を機杼(きちょ)す」とも言います。)

 

例えば、

 中国の孔子や老子、あるいは、孫子、

 日本の吉田松陰などです。

 

政治の根本思想では、

 いわゆる「朱子学」「陽明学」などというものがあります。

 

今の政治家でこうしたことを政治思想に持っている人は「皆無」だと思います。

 

学者に関しても、

自説や持論を持つようになるには、

相当の年数を掛けて、学び考えそして現実を見て、初めて可能となるものです。

 

こうした人の考えを学び、理解することは、

より深い考えを可能にします。

 

人類はこれを繰り返して、

成長して来たことも事実です。

 

しかし、

人類や時代が進歩発展しても、

生まれてくる子供は、

常にゼロからのスタートとなります。

 

それでも、

人間の順応性の高さ、能力の高さは、

これを凌ぎ、

 何時の時代に生まれても、

 順応出来るのです。

 

+++++++++++++

私は、

 ある事柄に頂点に達した人の考えは、

 余分なことのない「シンプルなもの」になると思っています。

 

 いろいろ分からないので、

 様々なことが必要になるのであって、

 すべてを理解してしまえば、

  それらの多くは必要がないものになってしまうということです。

 

それは、

今の時代を生きる人にも当てはまり、

 科学、知識などの「根幹」を理解し知り尽くしてしまえば、

 余分なことは必要なくなりシンプルになると考えています。

 

それが、

 人と争ったり不必要にものやお金を欲したりすることなく、

 平和で穏やかに、平々凡々としたシンプルな暮らしをすることに通じていると思う

 のです。

 

+++++++++++++

参考:ソロモンが、人々の営みのすべてを見た後に語った言葉です。

 

伝道の書1章

エルサレムの王ダビデの子,召集者の言葉。

2 「何とむなしいことか!」と召集者は言った,「何とむなしいことか! すべてはむ

 なしい」。

3 人が日の下で骨折って働くそのすべての骨折りに何の益があろう。

4 代は去り,代は来る。しかし,地は定めのない時に至るまで立ちつづける。

5 そして,日もまた輝き出,そして日は没した。それは自分の輝き出る場所へ,あえぎな

 がら来るのである。

6 は南に進み,循環して北に向かう。絶えず循環を繰り返しながら,風はその循環に

 帰ってゆく。

7 冬の奔流はみな海に出て行くが,それでも海が満ちることはない。冬の奔流はその

 出て行く場所へ,そこへ帰っては出て行くのである。

8 すべての物事は疲れを生じさせる。

 だれもそれについて語ることはできない。目は

 見ることに満ち足りず,耳も聞くことから満たされはしない。

9 あるようになったもの,それがあるようになり,行なわれたもの,それが行なわれるよ

 うになる。

 したがって,日の下には新しいものは何もない。

10 「これを見よ。それは新しい」と言える物が存在するだろうか。それは定めのな

 い時にわたって既に存在しており,存在するようになったものは,わたしたちよりも

 前の時代からあったのである。

11 先の時代の人々の記憶はない。後に起こる者たちについてもそうである。

 さらにその後に起こる者たちの中においても,彼らの記憶はない。

12 召集者であるわたしは,エルサレムでイスラエルを治める王であった。

13 そして,天の下で今までに行なわれたすべての物事に関し,知恵を求めて探究しよ

 うと心に定めた

 ―が人間の子らに与えて携わらせた,災いの多い営み[に関して]である。

14 わたしは日の下で行なわれるあらゆる業を見たが,見よ,すべてはむなしく,風を追

 うようなものであった。

15 曲がっているものは,まっすぐにすることはできない。欠けているものは,到底数

 えることはできない。

16 わたしは,わたし自ら心に語って言った,「見よ,わたしは,わたしより先にエルサレ

 ムにいただれよりも大いに知恵を増し加え,わたしの心は非常に多くの知恵と知識

 を見た」。

17 次いで,わたしは知恵を知り,狂気を知ろうと心を向け,そして愚行を知ることにな

 ったが,これもまた風を追うようなものである。

18 知恵の満ちあふれるところには,いら立ちが満ちあふれる。したがって,知識を増

 し加える者は痛みを増し加えるのである。

 

伝道の書12章

8 「何とむなしいことか!」と召集者は言った,「すべてのものはむなしい」と。

9 召集者は自分が賢い者となったばかりでなく,さらに絶えず民に知識を教え,また,熟

 考し,徹底的に調べたのである。

 それは,多くの箴言をまとめるためであった。

10 召集者は喜ばしい言葉を見いだし,真実の正確な言葉を書き記そうと努めた。

11 賢い者たちの言葉は牛追い棒のようだ。

 [格言を]集めることに専心する者たちは,打ち込まれたくぎのようだ。

 それらは一人の羊飼いから与えられたのである。

12 これら以外のことについては,わが子よ,[次の]警告を受け入れよ。

 多くの書物を作ることには終わりがなく,[それに]余りに専念すると体が疲れる。

13 すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである

 [まことの]を恐れ,そのおきてを守れ

 それが人の[務めの]すべてだからである。

14 [まことの]あらゆる業をすべての隠された事柄に関連して,それが善いか悪い

 かを裁かれるからである。

 

+++++++++++++

ソロモンの伝道の書に示されているように、

人の営みの結論は何をしても「すべては、むなしいもの」と断言しています。

 

そして

すべてのことが聞かれたいま、事の結論は、

まことの神を恐れ、そのおきてを守れ」というシンプルなものでした。

 

 

知恵を求める人のためのブログです。

いつも思うことですが、

世の中は、賢い人が動かしているように思えますが、

本当にそうでしょうか。

 

確かに、法律は国会議員によって作られますが、

 それを守るのは国民です。

 

殆どの法律は、

憲法を除き、

いわば「対症療法」的なものなので、

 その法律の恩恵に与るのは、

 一部の人たちだけの場合もあります。

 

実際、普通国会で行われている「立法」は、

 こうしたものです。

 

例えば、

 子育て支援、LGBT、経済支援、ガソリンや電気やガスなどの支援などなど。

 これらはまだ良い方です。

 

 国家公務員の俸給、防衛予算、日米安保関連予算などは、

 国民からは程遠いものです。

 確かに、国家としては必要不可欠のものかも知れませんが、

 それは、

  政府だけの問題のように思います。

 

 現実に、

 日米安保があったから、

 戦後78年、日本が平和だったとは言えません。

 日米安保がなくても平和だったと思います。

 

 政府は徒に「起こるかもしれない」ことに膨大や予算を費やしているのです。

 

もっと、別のことに使うべきだと考えるのは私だけではないと思います。

 

法律に関しては、上記のようなものですが、

 

科学や技術の進歩は、

 頭の良い人たちが日夜努力して成し遂げて来たものです。

 

**************

では、現実に生活している国民は、

一体何によって動かされているのでしょうか?

法律ですか?それとも科学技術ですか?

 

一つには、

政府の政策です。

例えば、

 CO2削減、SDG‘S、などです。

 

また、

疫病などでも大きな影響を受けます。

 

更には、

農作物などの食料の供給は、

 物価と共に生活に直結します。

 

別には、

最新の科学技術によって作られた「医療器具」や医療技術は、

 厚労省が認可する必要があり、

 国民全体がそれから「恩恵」に与るには「時間が掛かる」ものです。

 

EVにしても自動運転にしてもAIによる医療の診断技術や様々な情報分析、

 などに関しても実現には時間が掛かるのです。 

 

こうした観点はいわば「歴史」的な観点です。

つまり、

これらは、表面的なことなのです。

 

**************

国民の内面に大きな影響を与えているのは何でしょうか?

 

それは、

 大衆文化だと思います。

 いわゆるサブカルチャーです。

 

音楽、漫画、ゲーム、ファッション、スポーツ、マスコミやメディアの放送、

スマホ、パソコン、ネット、ネットを介した(ブログなどによる)収入、

クラウドファンデングによる事業の支援、

更には、

様々な食べ物、お酒、ワインなどの新しい商品、

新しい仕事の形態、

新しい収入の形態、

 

などです。

 

(参考:年金受給者は、年金で生活出来れば、悠々自適の生活を送り、

 健康や家族だけが気掛かりで、

 社会の出来事では「それ程大きな影響は受けません」

 生活がひっ迫していないからです。)

 

こうしたことは、

確かに、賢い、頭の良い人たちが「様々なアイデア」を実現して来たものですが、

そうした人々が提供したものに「反応」するのは国民です。

 

国民と言う「目線」で考えれば、

法律は「規制」であり、

科学技術は、手品(マジック)か催眠術のようなものであり、

その原理を知らない人にとっては、

あたかも魔法に掛けられているようにさえ思えます。

これらは、

すべて、国民が直接関われないところで作られたものです。

 

これを「他力」と考えるなら、

 

サブカルチャーは直接国民が生み出したもの

 内面の気持ちが表面化したものと言えます。

 

つまり、「自力」なのです。

 

**************

古くはヒッピーなどの「社会の影響を受けない自由気儘な生き方」は社会の異端児扱いでしたが、

今では

 むしろ主流になっている感があります

 

何でもやりたいことを「自由」にやる、やりたいという気持ちが「非常に大きく」なっているからです。

 

そのための弊害が、時には犯罪という形で現れていますが、

基本的には、

 何でも「思うように」したい、するという気持ちなのです。

 

昔は、

 こういう精神は「自制」するか、抑えられて来たものです。

 社会秩序を「乱す」からです。

 

抑え付けられていたので、

戦後、特に若者たちは、

 自由と解放を求めたのです。

 

女性のウーマンリブもその一つです。

 これは、現代も続いています。

 

更には、

 性的マイノリティーもそうです。

 

ところが、

その結果

今では、

 それが、

 社会に混乱をもたらし、混沌とした状態が横行しているため、

 人々の気持ちが「麻痺」してしまっています。

 

例えば、

 今では、

 LGBTも社会に受け入れられていますが、

  一部の人たちは批判をしたり「内面で差別」をしています。

 女性の社会進出も、今では当然ですが、

  未だに、女性参画、女性の管理職、女性の議員や大臣などが問題視されていま 

  す。

 

これらに加え、

 ロシアによるウクライナ侵攻やハマスとイスラエルの戦いなどのニュースを聞いて

 も、

 残忍な映像を除けば、

 今では、関心が薄れ

 人々の心に「大きな、衝撃」を与えなくなっています。

 

 つまり、

 人々の気持ちが「麻痺」してしまったのです。

 

身体的な痛みも長く続くと麻痺してくるように、

 社会に於いても同様なのです。

 

**************

では、

こうした社会の先にあるもの、社会の「将来」はどうなってしまうのでしょうか?

 

それは、

 敢えて、具体的には言いませんが、

 誰しもが予想する通りになると思います。

 

20世紀から21世紀に変わる時、人々は「どう思ったでしょうか」

覚えていますか?

(同じことが、19世紀から20世紀に変わる時にも起きたのです。

 しかし、

 1914年に世界を二分する戦争が起きました。)

 

21世紀は「人類は医療や科学技術の進歩で、平和で安全な世の中になる」と考え、夢と希望を抱いていたのです。

 

コンピュータの2000年問題がありましたが、

専門家たちが十分に対応したので、

現実には、何も起きませんでした。

 

もしかすると、

 世界が「ユートピア」になるとさえ思った人もいるかも知れません。

 

誰しもが、今のような、

 戦争もあり、犯罪も増加し、環境が汚染され、気候変動のため巨大な災害が発生

 し、

 人々は相変わらず「欲望」を追い求め、

 他人の権利を侵害し、あるいは、自分の権利を主張しそれを社会に認めさせ、

 更には、

 リーマンショックのような経済の破綻が世界に大きな影響を与える、

こうしたことを想像していなかったと思います。

 

こうしたことは「思いもよらなかった」のです。

 

初めに抱いていた社会とは全く別の社会となってしまっているのです。

 

**************

しかし、

こうした社会、世界になっても、

 人々は、まだ、科学技術が良い世界を作ってくれると「信じている」のです。

 

例えば、

 自動運転で「事故が減る」とか、

 最新の検査技術で早期発見をし「がん」も治るとか、

 高画質、高速インターネットなどにより「遠隔治療、手術」が行われるとか、

 ドローンにより「輸送、配達」が速く、何処にでも届けられるとか、

 GPSにより遭難者の居場所が分かるとか、

 空飛ぶ自動車でどこにでも行けるとか、

 などなど、

 沢山の「良いと思える」ことが可能となりつつあります。

 

しかし、

考えても見て下さい

今のような社会、「思いもよらなかった」世界を作り出したのは、

 その科学技術なのです

 

良いこともありますが、

それ以上に悪いことも起きているのです。

 

そのため、

もはや地球で暮らすのではなく、

 月や火星に望みを託すようにさえなってしまった人もいます。

 

考えても見て下さい

人類が火星に移住することは、

 自分の住処を散々壊し荒らしておきながら、

 その住処を捨てて他に移るようなものです。

 

誰が考えても「間違っています

 

最近、

北海道でオーロラが観られるようになりました。

(過去にもあり、特別なことでもありません。)

これは、

 太陽活動が活発な時に起る現象と言われています。

 -ウィキペディア(Wikipedia)オーロラの中の「発生原理」を参考にして下さ

  い。

 

しかし、

これは、太陽に異常が発生した「しるし」でもあるのです。

 

2020年には太陽が無黒点状態が1年の内3分の1程もあり、

また、

2025年には太陽フレアが異常に活発になると予想されています。

 

ちなみに、

2020年1月に日本で最初のコロナの感染者が出ています。

発生は、

2019年の12月ごろ、中国の武漢と言われています。

 

一般に、太陽活動が活発あるいは無黒点になると「干ばつ」や「飢きん」が起きると言われています。

 

そのため、おそらく、

 来年、再来年には干ばつによる不作、飢きんになる可能性があります。

 

地球の環境破壊、とそれが起因する気候変動に加えて太陽活動が活発になると、

 大雨、強風による災害に加え、

 干ばつという「両極端な現象」が繰り返され、

 作物を上手く育てられない状況になる可能性があります。

 

今は、

一部の人々が食糧難になっていますが、

来年以降は、

 世界中の人々が食糧難になる可能性があるのです。

 

今でも食料品の高騰が問題視されていますが、

お金の問題ではなくなってしまうのです。

 

(参考:豊作の後には飢きんが来るという歴史は繰り返されています。)

 

**************

第一次、第二次世界大戦の時には、

 働き手を戦争に取られたため食糧不足に陥りましたが、

 戦争が終わると直ぐに回復しました。

しかし、

現代は、

 地球の環境破壊が原因で食糧不足に陥っており、

 戦争が終わっても直ぐには回復は期待出来ないのです。

 

現代の方が「深刻」なのです。

 

**************

なぜ、人々はこうした「矛盾」を真剣に考えずに

いつまでも「」を見ているのでしょうか

 

社会は、

あたかも「洗脳」された人が、

 教え、考えに固執し、過ちに気が付かない、あるいは、抜け出せなくなっているの

 に似ています。

 

こうした社会現象は、

 ある宗教の「洗脳」と「殆ど同じ」と言えます。

 

日本では、

 様々な「事件」により「宗教を規制」しようとしています。

 

同じ理屈が社会にも適用されるべきではないでしょうか

 

あなたはどう思いますか?

 

サブカルチャーを見れば、

人々は、

 誰か分からない人に誘導、洗脳されていることが「分かります

 

人々は、

 自分で考え、自分で作ったり行ったりするという、

 自我が失われているようにさえ思えます。

 

大勢の人が「右を向けば、自分も同じ方を見る」ようなものです。

なぜ見るのか、見るとどうなるのかなどは「殆ど」考えないのです。

 

ある種の「群衆心理」です。

 

こうした「社会の空気」は、

一体誰が作り出しているのでしょうか

 

自然発生的に生じるのでしょうか?

多くの人はそう思っています。

あるいは、

何も考えてはいません。

 

そうであれば、

 人類に明るい将来はないことになります。

 

なぜなら、、

 人間が本能のままに生きたら

 社会は決して良い方向へは行かないからです。

 

従って、

人類が夢と希望を抱けるようになるには、

人類以外の「外的な知恵や力」が必要だという考えは「道理」です。

 

人類の長い歴史がそれを証明しているのです。

今、それが明らかになっているのです。

 

もはや個人で対処出来るレベルを超えています。

 

各々がいくら頑張っても、自分自身や社会全体の方向性を変えることは出来ないため、

この社会の歩みから逃れられる人はいないのです。

 

真剣に考える人には、

明るい将来は見えませんが、

 

科学技術の進歩に期待を抱いている人には、

将来が明るく見えているかも知れません。

しかし、

この夢は「幻想」なのです。

 

あなたはどちらですか?

 

知恵を求める人のためのブログです。

普通、自分の思いはその通りになるものです。

 しかし、

 人はいつどこで、思い通りにならないかを知らないため、

 時には、上手く行かない時もあります。

 

問題は、思い通りにならないその時に、

 どのように「振る舞うか」で、

 その後、上手く行くか、あるいは、トラブルを抱えるかが決定します

 

この「どのように振る舞う」かが、いわば「成功」の秘訣なのです。

 

**************

物事を上手くやる「秘訣」は、

【一】 ○○したいと思うことは誰しも当然のことですが、

  それを「その通りにしたい(する)」と強く思わないことです。

  つまり、

  自分の思いを「他に優先」させないことです。

  自分の思いを他に優先させると「思うようにならない」ことがあるものです。

 

  原則として「自分の思いはその通りになる」ものですが、

  自己本位で、あるいは、独善的にやっても80~90%の確率でその通りになる

  のです。

 

  しかし、

  人は、思い通りにならないことや失敗を強く記憶しているように、

  残りの10~20%のことを「気に病む」ものです。

 

  この時、

  心を落ち着け、冷静に考え、

  自分の思いではなく「必然」を優先させるなら、

  思い通りにならない確率を5%位にまで減らすことを、

   自力で出来るのです。

 

  思い通りにならない時、この「必然」を「瞬時に判断し行う」ことが出来るか否

  かがポイントなのです。

 

  物事を失敗する人の多くは、

  自分の思い「必然」より優先させることで生じているのです。

 

+++++++++++++

これは、

 神が人に与えた「法則」なのです。

 

 神に仕える人の「必然」は、

  自分の思いでなく「神のおきて、考え」を優先させることです。

 

 また、

  自分の思い通りにすることが出来る時にも、

  神の考え、おきてに「違反」しないことです。

   

  自分の思い通りにしたい事柄が、

  初めから、神の考え、おきてに「違反」しているなら「論外」です。

 

  この場合上手く行っても、いつか、必ず「罰を受ける」ことになります。

 

+++++++++++++

では、

 自分の思い通りにならない時、「必然」を「瞬時に判断し行う」ことが出来るには

 どうすれば良いのでしょうか

 

それは、

1 常に状況判断をし「自分の思い」を優先させないこと。

2 自分の思い通りにならない時、

  何をどうすれば最も「客観的」に善いことかを瞬時に判断し行うことです。

 

これが「必然」というものです。

 

+++++++++++++

勿論、これには「知識や経験」に加えて「自己訓練」「自分の強い決意」などが

必要です。

 誰もが瞬時に出来ることではないのです。

 

ですから、

 多くの人は、時に「自分の思い通りにならない」場合、

 自己本位になり「トラブル」にしてしまうのです。

   

自分の思い通りにしたい、するという思いの強い人は、

 自分の思い通りにならない時「大きな苛立ち」という感情を「増幅」させているも

 のです。

 

それが「怒り」となって、

 不必要な「発言」や無思慮な「発言」をし「口論やケンカ」に発展することは

 「良くあることです」

 

いつも思うことですが、

 実に「愚かなこと」です。

 

+++++++++++++

それでも、大抵の人は、

 経験上「自分の気持ちを自制」し「トラブル」を回避しているものです。

  

しかし、

 自分の気持ちを自制して「トラブル」を回避した人は、

  自分の苛立ちを隠せないものです。

 

自制ではなく「必然」を行えば、

 トラブルを避け、苛立ちも殆どないのです。

 

つまり、

 必然は「自分の過ちを正す」手段なのです。

 

これは、

 神が人間に与えた「正しく振る舞う」ための「知恵です。

 しかし、

 殆どの人は「これに気が付きません

 

神の思いはすべての人が「正しく振る舞い」「救われる」ことなのです。

 -参考:テモテ(一)2:4

 

+++++++++++++

このための「精神態度」は、

1 何事も自己本位で行わないこと

  自己本位で考えることは誰でもすることです。

  しかし、

  その思いを強く持たないことでです。

2 誰に対しても、

  親切に、穏やかに、また、忍耐強く、冷静に対応することです。

  時には、

   譲歩や寛容も必要です。

 

  許すことに関して、

   イエスはペテロに次のように述べています。-マタイ18:21

   「その時ペテロが寄って来て,こう言った。

   「よ,兄弟がわたしに罪をおかすとき,わたしはその人を何回許すべきでしょ

    うか

    七回までですか」。

 

    イエスは彼に言われた,「あなたに言いますが,七回までではなく,七十七回ま

    でです。」

 

    イエスがペテロに言われたのは、

    回数のことではなく、「完全に許しなさい」と言われたのです。

 

+++++++++++++ 

聖書の中では、

 七という数字は完全さを表し、十という数字は全体性を表していると言われていま

 す。

霊的には、七は十より優れたもの、優先させるべきものとされています。

 したがって、

 七が二度繰り返されていますから、

 七十七回まで許しなさいというイエスの言葉は、

  すべてを完全に許しなさい

 という意味になります。

 

+++++++++++++    

   与えることに関して、

    イエスは群衆の前で弟子たちに次のように語りました。-ルカ6:27-31

   「しかし,聴いているあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛し,あなた方を

    む者に善を行ない,

    あなた方をのろう者を祝福し,あなた方を侮辱する者のために祈り続けなさ

    い。

    あなたの一方のほほを打つ者には,他[のほほ]をも差し出しなさい。

    また,あなたの外衣を取ってゆく者に対しては,下着をさえ与えることを控え

    てはなりません

    あなたに求める者にはだれにでも与え,あなたの物を取ってゆく人からは,[そ

    れを]返してもらおうとしてはなりません。

   「また,あなた方は,自分にして欲しいと思うとおりに,人にも同じようにしなさ

    い。」

++++

(参考:文脈はクリスチャンとしての精神態度の在り方を示しています。

  これを読んで、

  自分には何も残らなくなり裸になってしまうではないか、

  と思う人もいると思います。

 

  また、

  敵の思うままにされてしまうではないか、

  と言う人もいると思います。

 

  しかし、

  敵と思うような人に「善を行い逆らわなければ」被害は最小限に抑えられること  

  でしょう。

 

  欲しい人に何でも与えたら、自分自身は被害に遭わないかも知れません

 

  これは「命を惜しむが故に、敵の軍門に下るということではなく

  悪に悪を返さないというクリスチャンの精神を示しているのです。

 

  悪人に対する「裁き」は神が行うからです。)

 

++++

 ここで、イエスの語られた真意は、

  与えるということより「自分が望む(善い)こと」を相手にもして上げなさい

  いうものです。

参考:

  自分にとって嫌なことは人にもしないというのは、

 「世の精神」です。

  これは「忌避」の精神でもあります。

 

  キリストの精神は、

  自分にして欲しいと思うことを人もにするというものです。

  これは「親切、善良」あるいは「善意」の精神です。

  

 ですから、

  自分の思い通りにならない時には、

   誰かの、あるいは、状況に応じるべきことを「教えて」います。

   決して自己本位になったり独善的になってはならないのです。

 

  これは、

   誰かを利するということではなく

    トラブルを避けるという意味です。

  

  もとより、

   クリスチャンは自分の利より他人の利を優先させる者です。

 

  ですから、

   誰かと「利」について話し合う時には、

   常に、相手の「利」を優先させるのです。

 

【二】大抵、自分の思いは実現するものです。

  自分の考えていることは、大抵その通りになるものです。

 

  ただ、そうならない時もあるというだけのことです。

 

  その時には思い通りにならなくても、

   後になることもあります。

   時間の点で忍耐、辛抱する必要があるということです。

 

  トラブルを避けるための「知恵」は、

  上記の、第1項で述べた通りです。

 

【三】祈りに関して

  祈りの方法を知らなくても、

  誰でも1度は「神に祈った」ことはあると思います。

 

  祈りに「方法があるのか」という人もいるかも知れません

 

  あるのです。

 

  聖書では次のように記されています。

 

+++++++++++++

祈りの仕方について、

 弟子たちがイエスに尋ねた時、イエスは次のように述べています。

 -ルカ11:1-13

「さて,[イエス]がある場所にいて祈りをしておられた時のこと,それを終えられると,

 弟子のある者がこう言った。

よ,ヨハネもその弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈りの仕方を教えてく

 ださい」。

 そこで[イエス]は彼らに言われた,「いつでもあなた方が祈るときには,こう言いな

 さい。

 

よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。

 あなたの王国が来ますように。

 その日の必要に応じてその日のためのパンをわたしたちにお与えください。

 また,わたしたちの罪をお許しください。

 わたしたち自身も,わたしたちに負い目のある者すべてを許しますから。

 そして,わたしたちを誘惑に陥らせないでください』」。

 

[イエス]はさらにこう言われた。

「あなた方のうち,友人がいて,真夜中にそのもとに行き,『友よ,パンを三つ貸してく

 ださい。

 友人が旅の途中でちょうど今わたしのところに来たのですが,出す物が何もないも

 のですから』と言うのはだれでしょうか。

 

 そして,その人が中から答えてこう言うのです。

『わたしを煩わすのはよしてくれ。戸にはもう錠が下ろしてあるし,幼子たちはわた

 しと一緒に寝床に入っているのだ。

 起きて行ってあなたに物を上げることなどできない』。

 

 あなた方に言いますが,その人は,自分が彼の友だということでは起きてきて物を与

 えないとしても,その大胆な執ようさのゆえには,必ずや起きてきてその必要とする

 物を与えるでしょう。

 

 それゆえにわたしはあなた方に言います。

 求めつづけなさい

 そうすれば与えられます。

 探しつづけなさい

 そうすれば見いだせます。

 たたきつづけなさい

 そうすれば開かれます。

 

 だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている

 者には開かれるのです。

 

 実際,あなた方のうちどの父親が,自分の子が魚を求める場合に,魚のかわりに蛇を渡

 すようなことをするでしょうか。

 あるいはまた,卵を求める場合に,さそりを渡したりするでしょうか。

 

 それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供に良い贈り物を与えることを

 知っているのであれば,まして天のは,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくだ

 さるのです」。

 

参考:

 良い贈り物とは、聖霊のことです。

 聖霊は万能です。

 しかし、

 神は人に「良い」ものを与えて下さるのであって、

 人の「利己的な願い」を聞いて下さる訳ではないのです。

 

 加えて、

 神の目的ご意思がありますから、

 その時にならないと実現しないこともあります

 例えば、

  今戦争の知らせを聞き、平和について祈りますが、

  戦争を終わらせるのは、まだまだ先のことなのです。

  

  誰しも、不治の病に罹ると神に祈るものです。

  しかし、病気がなくなるのは、まだまだ先のことです。

  同じことが、

  についても言えるのです。

 

山上の垂訓では、

 -マタイ6:5-15

「また,祈るとき,あなた方は偽善者たちのようであってはなりません。

 彼らは,人に見えるように会堂の中や大通りの角に立って祈ることを好むのです。

 

 あなた方に真実に言いますが,彼らは自分の報いを全部受けているのです。

 しかし,あなたが祈るときには,自分の私室に入り,戸を閉じてから,ひそかなところ

 におられるあなたのに祈りなさい

 そうすれば,ひそかに見ておられるがあなたに報いてくださるでしょう。

 

 しかし,祈る際には,諸国の人々がするように同じことを何度も繰り返し言ってはな

 りません

 彼らは言葉を多くすれば聞かれると思っているのです。

 

 それで,彼らのようになってはなりません。

 あなた方のであられるは,まだ求めないうちから,あなた方がどんなものを必要

 としているかを知っておられるのです。

 

「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。

『天におられるわたしたちのよ,あなたのお名前が神聖なものとされますよう

 に。

 あなたの王国が来ますように。

 あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように。

 今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください。

 また,わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許しましたように,わたしたち

 の負い目をもお許しください。

 そして,わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください』

 

「あなた方が人の罪過を許すなら,あなた方の天のもあなた方を許してくださるの

 です。

 けれども,あなた方が人の罪過を許さないなら,あなた方のもあなた方の罪過を許

 されないでしょう。」

 

+++++++++++++

山上の垂訓の方が先ですが、

イエスは同じ祈りの仕方を二度繰り返しています

これは、

 この通りに祈るべきであるということを強調しているのです。

 

祈りのポイントは、

1 人前で祈らないこと

  ただし、

  大勢を代表して祈る場合は別です。

2 ある宗教のように「同じ言葉を繰り返して祈る」ことをしてはならないこと

  これは「同じ言葉を連呼する」ことをしてはならないということです。

3 イエスの「言われた通りに祈る」こと

4 繰り返し祈り続けること(求め続けること)

です。

 

+++++++++++++

 

以上の三つの事柄が、

 物事が上手く行く「秘訣」です。

 

これを実践するなら、

 必ず「」があります。

 

+++++++++++++

物事が上手く行く」というのは、

 物事が思い通りになるというより、

  トラブルにならない、しない

 ということです。

 

 逆に、

物事が上手く行かない」というのは、

 物事が思い通りにならないというより、

  トラブルになってしまう、してしまう

 ということです。

 

知恵を求める人のためのブログです。神とイエス・キリストからの恵みがありますように。

最後まで読んで頂いた人に「神とイエス・キリスト」からの「霊的恵み」があることを願っています。

 

++++++++++++++++++++++++++

今の世界情勢は、

 ある意味、ネットが作り出したものと言えます。

 

ある国の出来事ニュースが、

 瞬時に世界中に拡散され、

 その影響が他国の国民に大きな影響を与えるからです。

 

こうしたことは、

日本にいる多くの人々にも、

田舎の農家の人々にさえ影響を与えているのです。

 

+++++++++++++

第一次、第二次世界大戦の時には、

海外のニュースは、

殆どは電報で速報が伝えられました。

手紙だと、

税関を含めて、

ヨーロッパと日本ではおよそ3か月、

アメリカと日本ではおよそ1か月、

掛かったと言われています。

それは、船便が主だったからです。

 

(参考:

 今は、アメリカまでは2週間程で着くようです。

 

 しかし、貨物便だと、

 今でも、

 香港でさえ1か月位掛かります。

 これは、税関のせいです。)

 

今では

時差はありますが、

 ライブ映像を見ることが出来ます

 ヨーロッパだと時差はおよそ9時間で、

 アメリカだと時差はおよそ12時間で。

 

正に、

今世界中で起きていることを見ることが出来るのです。

 

+++++++++++++

この記事の終わりの部分で、

事物の体制の終結のしるし」に関する「イエスの預言」とその解釈を載せています。

 

以下の内容は、

その「預言」に基づく、

世界の「進展」について述べたものです。

 

****************************

第一次、第二次世界大戦の時には、

 民族の対立から端を発し、それが、国と国との戦いに発展しましたが、

 国民同士が敵対し立ち上がるということはありませんでした。

 むしろ、団結していました

 

しかし、

1945年以降

世界が経済的に発展を遂げるにしたがって、

国家間に貧富の差が生じ、

特に貧しい国では、

 国内で政府に対する「反発」が少しずつ現れるようになって来ました。

 

それが、

今日では、

 武装し政府側と対立するようになり、

 いわば、内戦状態になっている国もあります。

 

内戦にはならなくても、

どの国でも、

 政府と反政府の対立が「明確」になって来ました。

 

それを可能にしたのが、

 ネットでありスマホです。

 

こうして、いわゆる「反発する空気感=自由を渇望する精神」が世界中を漂っているのです。

 

どこの国でもです。

 

これは「紛れもなく」イエスが言われた、

事物の体制の終結の時に現れる「しるし」の一つである「国民は国民に敵対」するということと合致すると考えられます。

 

(参考:ものみの塔が、これ1914年以降の出来事として説明しています。

  つまり、

  内乱と戦争と飢きんと地震が起こると。

  ですが、

  現実には、特に内乱に関しては

   必ずしも「合致していません

 

  民族の対立は国家間の対立と発展したのです。)

 

そして、

ロシアのウクライナ侵攻で表面化したように、

アフリカなど貧しい国々では「食糧難」に陥っています。

 

また、

それが、富んでいる国々でも

輸入して食料を確保しているため、

それらの輸入が滞り「品不足」「物価上昇」という形で、人々の生活を脅かしています。

 

今や、どこの国でも「食糧難」に陥っているのです。

 

これらに、

 鳥インフルエンザ、豚コレラなど家畜の疫病、

 気候変動による食物生産の異常、

 

 自然破壊のため、

 野生動物の食べ物まで少なくなり、

 市街地に現れるようになって来ました。

 

地震もかつて無いほどの頻度で発生しています。

 

そこからここへと食糧不足や地震があるというイエスの預言が、

正に、

 、世界中に生じていると「ほぼ、断言出来る」と考えられます。

 

+++++++++++++

(参考:

 こうした出来事は「いつの時代にもあった」と言う人がいることは知っています。

 その主張は「事実」です。

 ですが、

 今のような世界的規模では生じてはいませんでした。

 

 また、

 ものみの塔は「これら(しるし)が一世代の内」(1914年当時生きていた人々) 

 に生じると言う主張して来ました。

 ですが、

 その世代は「皆、亡くなっています

 

 ですから、

 これらの主張は、

  預言と合致していないことは「明白」です。)

 

+++++++++++++

イエスが言われたように、

これらは、

 苦しみの激痛の始まりに過ぎないのです。

 

おそらく、

こうしたことが続くと、

つまり、

人智を超えた「様々な現象」が生じると、

 ある人々は「神」に祈るようになります。

 「苦しい時の神頼み」です。

そのため、

いろんなことを言う人偽預言者)が現れ、人々を「惑わ」すかも知れません。

 

しかし、

 事態は変わることはないのです

 

すると、今度は、

人々は、

 神や宗教を頼ることを諦め、逆に神を憎むようになるかも知れません

いわば、

 「可愛さ余って憎さ百倍」となるのです。

 

それだけではありません。

人々の心は、苦難のため「荒(すさ)んで」

 自暴自棄になったり自己本位や自分勝手になるかも知れません。

そうなると、

 犯罪が増え、互いを警戒するようになり、

人々の愛が冷える」ようになるでしょう。

 

そして、

今まで、宗教の名の下に「様々な発言」をして来た人々に対する「迫害が生じ、

時には、信者同士が互いに「憎しみ合う」かも知れません。

 

世界中の人々は、

イエスの名の故にクリスチャンたちを憎しみの的にするかも知れません。

 

これらを終わりまで耐え忍んだ者が救われるとも言われました。

 

+++++++++++++

ですから、

 今のエホバの証人たちのように、

  ある意味「平和」の中で「脳天気」に伝道している姿は、

 イエスの預言とは「合致」しません

 啓示の書の預言とも「合致」しません

 

+++++++++++++

(参考:

 ユダヤ人に対するホロコーストは、

 ジェノサイドであって、

 イエスの名の故に「あらゆる国民の憎しみの的」になった訳でもありません。

 ヒトラーだけがユダヤ人を抹殺しようとしただけなのです。

 世界中の人々がユダヤ人を憎んだわけではありません。)

 

+++++++++++++

更に、

救われる者、神の王国にとって、こうした「しるし」は「良いたより」であり、

それが、人の住む全地で宣べ伝えられてから「終わりが来る」と言われました。

どのような形で全地で宣べ伝えられるかは、はっきりしませんが、

 もしかすると、

  迫害に関するニュースによるかも知れません。)

 

この宣教は、

 迫害の下で行われるのです。

 

こうしたことから、

イエスの臨在は、

 「しるし」が生じることで明らかになりますが、

  事態の進展は「すべてが一瞬の出来事として、一度に現れる」訳でなく、

  少しずつ進展して行くことは「明白」です。

 

従って、

 イエス・キリストの臨在は、

 すでに起きているかも知れませんが、

 すべての人がこれを認識するという点では、

 「成就」していないとも言えます

また、 

「事物の体制の終結に関しては、

 ものみの塔の「解釈」である1914年でも、1975年でもなく

 

 2034年予想されます。(これは、私個人の予想です)

 

あくまでも予想です、預言ではありません

 

+++++++++++++

もしかすると、

戦争の知らせは、

 二度ではなく、三度聞くことになるかも知れません。

 

神は、

預言が必ずその通りになることを示すため、

 二度繰り返すことがあります。

 

ということは、

しるしに三度目はなく、

 二度で終わりということです。

 

と考えると、

 既にイエスは臨在していると考えることは「妥当」なように思えます

 

+++++++++++++

いずれにしても、

世界の惨劇に対して、人々の目が「神や宗教」に向くと考えられますが、

まだ、そのことが生じていません

 

もし、

それが生じても

 終わりはまだ来ないということです。

 

「事物の体制の終結のしるし」は

いわば「証=証拠」として「良いたより」となって、

世界中で宣べ伝えられるまで

あるいは、

世界中の人々が「しるし」の「意味は知らなくても」「認識」しなければ終わりは来ない」のです。

 

これは、

 神が人に対して行われる事からすれば「道理」に適ったことです。

神の道理とは、

 1 ご自分のなさることを「必ず事前に知らせる

 2 必ず起こるということを「人に確信させるために」「二度繰り返す

というものです。

 

この「良いたより」に対する人々の反応は、

人々に対する「裁き」の根拠なるのです。

 

現実には、

 裁きの根拠は「これだけではありません」

 

**************

こうして分かるように、

ものみの塔の「終わりの日」に関する「解釈」「説明」は、

早過ぎたのです。

 

ものみの塔は、

イエスの預言の「一部」を、それも、小規模の出来事を適用させたに過ぎず、

彼らの説明通りのことが起きなかったのです。

 

**************

しかし、

今日起きていることは、

まさに、

世界規模で生じているのです。

 

ここが「思案」の為所(しどころ)なのです。

 

ものみの塔の「解釈」を信じた人たちの中には、

初めの出来事(しるし)で、

 動いた人が大勢いることは確かです。

 それらの人々の多くはエホバの証人になりました。

 

しかし、その後、

予想したことが起きなかったことで「騙された」と思って「離れた」人も多くいるのも事実です。

 

この責任は、

 ものみの塔にあるのです。

 

二度目が生じる前に

 最初に動いて、後に騙されたと思った人「信じない」ことによって

 

いわば「篩に掛けられている」のです。

 

**************

しかし、

この度の「終わり」つまり「事物の体制の終結」では、

本当の「終わり」つまり「命の書に名前が記されていない人々」の終わりではありません

 

ですから、

キリストの千年統治の後には、

 この度の「終わり」のような「試練」はなく、

 別の形で「篩」に掛けられる本当の試練」があるということを忘れてはなりませ

 ん。

 

ですから、

今の事物の体制の終わりを生き残る人々は、

少なからず「いる」ことは「明白」です。

 

ですから、

神とイエス・キリストに忠実ではない人々も「生き残る可能性」はあるのです。

 

つまり、

多少の「罪」を犯した人々も「生き残る可能性」があるということです。

 

ですが、

この「可能性」に関しては「どれだけ許容される」のかは誰にも分かりません

 

いすれにしろ、

こうした人々の中から

キリストの千年統治の間に、

 罪を犯すかも知れない人々が出ると予想されます。

 

+++++++++++++

生き残る人々には、

 傷のない人と、少し傷のある人がいるということです。

 

その少し傷のある人は、

 キリストの統治の間に、

 傷のない者になる「機会」「時間」を与えられることになるのです

 

そして、

最後に、

 適正な数の人々だけが「地に残され」

 真の崇拝を永久に、み使いのように行うことになるのです。

 

こうして、

神の地に対する最初の目的が完遂されるのです。

 

****************************

イエス・キリストが「預言」された、

「事物の体制の終結」の「展開」は次の通りです。

マタイ24:3-51

「[イエス]がオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近

 づいて来て,こう言った。

「わたしたちにお話しください。

 そのようなことはいつあるのでしょうか。

 そして,あなたの臨在事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。

この二つの出来事は「同時」に起こるということです

 

 そこでイエスは答えて言われた,「だれにも惑わされないように気を付けなさい。

 多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多く

 の者を惑わすからです。

これから話す様々な「しるし」つまり出来事によって、

 偽預言が出現することを、

 弟子たちに、最初に「念を押して」います。

 

 あなた方は戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにし

 なさい。

 これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです。

 

「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと

 食糧不足や地震があるからです。

 

 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。

 

「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。

 またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。

 またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。

 そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。

 また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。

 

 しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。

 

 そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地

 で宣べ伝えられるでしょう。

宣教は、一つの証拠であると述べています。

 「王国のこの良いたより」とは、

  イエス・キリストの再臨と事物の体制の終結のことです。

 

 それから終わりが来るのです。

 

+++++++++++++

「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとお

 り,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)

 その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。

 屋上にいる人は,家から物を取り出そうとして下りてはならず,

 野にいる人は,外衣を拾おうとして家に帰ってはなりません。

 その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります!

 あなた方の逃げるのが冬期または安息日にならないように祈っていなさい。

注釈:

 この部分の預言は、

 エルサレムがローマ軍によって滅ぼされ、ユダヤ人が各地に散らされたAD70に「成就」したと考えられます。

 

 しかし、

 現代でも、

 同様のことが生じるかも知れません。

 

 特に問題となる点は、

「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる

 場所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい)」

 という点です。

 

 現代に於いては、

 偶像礼拝者が聖なる場所(崇拝の場所)に「踏み入る」ことを差しています。

 

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

これは「憶測」ですが、

もし、エホバを崇拝する世界的な拠点である「ものみの塔の世界本部」が、

現代の「聖なる場所」であるとするなら

 

その場所に「偶像礼拝者」が「立ち入り、偶像を据えることを意味しています。

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

 

現代に於いて

これは、まだ「成就」していません。)

 

+++++++++++++

 その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような

 大患難があるからです。

 実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。

 しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです。

 

「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても, 

 それを信じてはなりません。 

 

 偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,

 きなしるしや不思議を行なうからです。

大患難が生じると、

  人々は混乱に陥り、

  様々なことを「発言」する人が「現れ」、「ある程度」その「発言」がその通り

 になることを意味しています。

 

 ご覧なさい,わたしはあなた方にあらかじめ警告しました

 それゆえ,人々が,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。

『見よ,奥の間にいる』[と言っても],それを信じてはなりません。

 稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように,人のの臨在もそのようだからで

 す。

人の子の臨在は、

 「稲妻」のように、人々を「恐れさせる」ような事柄が、

  誰の目にも明らかに「生じる」ことを示しています。

 つまり、

 イエス・キリストの再臨をすべての人々が認識するということです。

 

 どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているでしょう。

 

「それらの日の患難のすぐ後に,

 太陽は暗くなり,

 月はその光を放たず,

 星は天から落ち,天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう。

これは、

 文字通りの天変地異ではありません

「大患難が生じると、政治支配者や著名な研究者などが「動揺」することを意味して

 います。

 

 またその時,人ののしるしが天に現われます

 

 そしてその時,地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき,彼らは,人のが力

 と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。

そのしるしがどのようなものであるかは「分かりません」

 しかし、

 そのしるし(出来事、あるいは、現象)を見ると、

 すべての人々は「嘆きの余り身を打ちたたく」と言われています。

 

 その時まで「自分たちがして来た」ことを「後悔」することを示しています。

 ○○しておけば良かったなどと。

 

 そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風か

 ら,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう。

 

「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。

 その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知り

 ます。

 同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいる

 ことを知りなさい。

 

 あなた方に真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して

 過ぎ去りません

この世代とは、

 これらすべてのことを見聞きする人々がいることを示しています。

 その人たちが亡くなるまでに、すべてのことが起こるということです。

 

 実際、

 このことは「成就」していません

 

 したがって、

 ものみの塔が「世代」を

 1914年当時からの出来事を「見聞き」した世代と解釈していますが、

 ものみの塔の「解釈」は間違っていたのです。

 

 イエス・キリストが言われた「しるし」がすべて現れていませんし、 

 2023年の現在、その世代の人々はすべて亡くなっていることは「事実」だらかで

 す。

 

 その世代とは、

 2023年、今生きている人々かも知れないのです。

 

 天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしの言葉は決して過ぎ去らないのです。

天と地が過ぎ去るとは、

 事物の体制が終わるということです。

 そして、

 「わたしの言葉は決して過ぎ去らない」とは、

 イエス・キリストの、この「預言」は必ず「成就」するという意味です。

 

その日と時刻についてはだれも知りません。

 天のみ使いたちもも[知らず],ただだけが[知っておられます]。

 

 人のの臨在はちょうどノアの日のようだからです。

 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり

 嫁いだりしていました。

 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人のの臨在

 [の時]もそのようになるのです。

人々は、

 人のの臨在[の時]に、

 普通の日常を過ごしていることを示しています。

 つまり、

 危機感を抱いて生活している訳ではないということです。

 

 その時二人の男が野にいるでしょう。

 一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。

 二人の女が手臼をひいているでしょう。

 一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。

 

 それゆえ,ずっと見張っていなさい。

 あなた方は,自分たちのがどの日に来るかを知らないからです。

 

「しかし,一つのことを知っておきなさい。

 家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分

 の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。

 

 このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい

 あなた方の思わぬ時刻に人のは来るからです。

これは、

  警告を示しています。

 

 つまり、

 イエス・キリストが再臨する時までは

 各人の責任なのです。

 

「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,

 実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。

 主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。

 あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつか

 さどらせるでしょう。

これは、

 イエス・キリスト-僧職者-信者という構図です。

 主人-奴隷-召使いという構図です。

 

 奴隷とは「僧職者」を意味します。

 

 イエスの時代であれば、

 主人(イエス)奴隷(使徒たち)召使い(弟子たち)ということになります。

 

現代に於いて、

 使徒たちは「存在」しません

 しかし、

 その「立場」に立つ人や「立っていると言う」人は「存在」しています。

 

例えば、

 ローマカトリックの教皇や司祭たち、

 ものみの塔の「統治体」

 旧統一教会の「文鮮明」

 他の、キリスト教の「牧師」たち、

などです。

 

従って、

イエスの言われた「忠実で思慮深い奴隷」が誰であるかは、

主人が到着した時、

 つまり、

 イエス・キリストが再臨した時に「明らか」になるのです。

 

イエスは、

ご自分の臨在について語った冒頭で、

惑わされないように気を付けなさい」と警告をされました。

 

ですから、

 聖書を読むとき「思慮深さ」と「理解力」が必要なのです。

 そして、そのようにして「識別力」を身に付けなければならないのです。

 

「人=ものみの塔の「言う」ことを聞いて従っているだけでは、

 「識別力」を「身に付ける」ことは「不可能」なのです。

 

 敢えて「不可能」と言ったのは、

 絶え間なく「ものみの塔」の「声」に「晒されている」からです。

 

 ものみの塔から「出て」初めて、

 「識別力」を身に付けることが出来るのです。

 

 これは、

 他力では「不可なのです。

 自力で身に付ける必要のある事柄なのです。

 

「しかし,もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言

 い,

 仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするような

 ことがあるならば,

 その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,

 最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。

 そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。」

 

イエス・キリストの預言と解釈はここまでです。

黒字は本文、赤字は強調、緑字は解釈です。

 

**************

「事物の体制の終結のしるし」に関しては、

 ものみの塔が、その初めから「宣べ伝えて来た」事柄です。

 

ですが、

彼らが解釈したには、

「人が理解するために必要な出来事」が、

 まだ、十分進展していなかったのです。

 

そのため、

彼らなりの「解釈」を行い、

それを「聖書の預言」として、「伝道」して来ました

 

そして、

ものみの塔の「解釈の説明」の通りにはなりませんでした

 

ですから、

ものみの塔は「偽預言」の一人なのです。

 

ですが、

時代が進み21世紀に入って

 イエス・キリストの「預言の実体」が少しずつ「はっきりと見えるようになって来

 たのです」

 

**************

最後に、

上記で「解釈」し説明しましたが、

 その通りになるかどうかは「分かりません

 当たっていれば「その通りになる」でしょう。

 

イエスの預言は「すべて成就」していませんから、

 クリスチャンとしての「歩み」を続けながら

 事態の推移を「見守る」以外「方法はない」のです。

 

この「記事」を最後まで読んで下さった人は、

この点には十分「留意」して頂きたいと思います。

 

先走った発言や行動をしないで下さい

 

皆さん、イエス・キリストの言われた「識別力」を養いましょう。

 

知恵を求める人のためのブログです。

日本人の躍動の理由を、

様々な観点から考えて見たいと思います。

 

途中、少し話が飛躍しますが、

 終わりには元に戻りますので、

 そのつもりで読んで頂きたいと思います。

 

**************

論理的で合理的思考で、練習、トレーニング、戦術を練って試合に臨む欧米のやり方と、

ひたすら「根性」と「努力」で試合に臨もうとする日本とは、

基本的に大きく異なるものです。

 

最も、最近では、

欧米に倣って、

 データや映像による分析や科学的な練習方法が、

 根性、努力に付け加えられたのです。

 

基本的に、日本人は「論理」「理屈」よりも、

 繰り返し練習することで、何か「ヒント」を掴もうとすることが多いです。

 つまり、

 直感で改善し進歩するという、

  原始的なやり方をしていることが多いもので、

指導者」もそれを選手に要求しています。

 

当然のことですが、

頭で分かっても、

「考えている」ことが出来なければ何にもならないと思っているのです。

 

**************

日本は、

歴史と伝統から分かるように、

 理屈抜きで「求められているものを追求」する「職人」のような思考が、

 日本人の「遺伝子」なのです。

 

 理由は考えずに「とにかくやる(やれ)」なのです。

 

**************

日本には数多くの「伝統文化」が現存しています。

この現存していることが「世界では珍しい」ことなのです。

 

世界では「ヘリティジ=遺産」として、

 モニュメントを作る位です。

 

世界は「常に、進歩的で革新的なこと」を追求しています。

 

ところが、

日本人は、

 同じ追求でも、

 日本人特有の「職人気質」が加わり、

 「徹底して、良い物」を「作る、行う」という精神が「遺伝子」として持っている

  のです。

 

そのため、

諦める」ということが殆どありません。

 その時、出来なくても、

 将来出来ることが少なくないのです。

 

例えば、

 半導体技術は繊細なことを正確に、かつ、速く出来ることが求められます。

 しかし、

 開発途上で「様々な問題」が生じることは多々あります。

 その障壁となる「問題」を「解決する能力」は、

 世界には「ない能力」なのです。

 

これは、

 日本人が持っている様々なことに関心を示して得た「知識」の蓄積が、

 こうした「能力」を発揮させている原因だと考えています。

 

**************

日本人は、

諸外国に比べて「識字率」が高く、思考も、

 ただ以前の暮らし生活を続ければ良いという考えではなく、

 必要に迫られ、進歩や改良を目指さざるを得なかったことも要因の一つだと思いま

 す。

 

 欧米のような「革新」「変化」ではなく、

 「快適さ」「改良」「進歩」を追求して来たのです。

 

**************

日本人は、

 自分の考えや意思を発言することが「苦手」です。

 ですが、

 紙に書いて、じっくり考えることは「得意なのです。

 

 これは、

 頭の「回転」の速さの違いにあります。

 

外国人は、

 幼い時から「相手を言い負かす」ということで、

 自分を正当化することに「才けている」のです。

 

日本人は、

 この精神を「嫌い大人も子供にこれを求めません。

 

こうした民族特有の違いがあるのです。

 

**************

これに、加えて、

 肉食は「頭の回転を速く」したり交感神経を優位にし体を活動的にすると言われて

 います。

 採食は「物事を深く考え」たり副交感神経を優位にし体をリラックスさせる効果は

 知られています。

 

 ですから、

 スポーツ選手やディベートなど、素早い頭の回転が必要な人には肉食が合ってお

 り、

 職人や研究をする人には採食が合っているのです。

 

**************

日本には、

 お酒や漬物と言った発酵食品が多く、

 その殆どが、

  野菜や穀物を利用したものです。

  勿論、

  鮒ずしのように魚を用いたものもあります。

 

明治に入るまで、

 日本人は一部の人を除いて肉を殆ど食べてはいなかったのです。

 

勿論、外国でも、

 チーズやヨーグルトやワインなどがあります。

 ピクルスもあります。

 

ですが、

 日本は「驚くほど多彩」なのです。

 

 これは、気候風土の違いでもあります。

 

ちなみに、ウィスキーは、

 どちらかと言うと「化学的製法」に基いたものです。

 発酵させたものを「蒸留」するという発想は日本人にはなかったのです。

 

これは、

おそらく、疫病と関係があると思われます。

 

**************

日本では、川が多く、トイレも生活の中で「キチンと区別」していたのに対して、

外国では、ヨーロッパでは、

 汚物の処理が殆どされていませんでした

これは、

 遊牧民族の名残りです。

 

そのため、

 都市化が進んでも「変わらなかった」ため、

 都市の汚染が進み、ペストやコレラが発生したのです。

 

日本では、これらの疫病は本来なかったのですが、

 外国人が渡来するようになり、

 彼らが日本に持ち込んだものなのです。

 

日本は、

 少なくとも「トイレ」に関しては、

 清潔な国だったのです。

 しかも、

 汚物さえも「肥溜め」を作り「肥料」にしていたのです。

 

**************

加えて、

 日本人は「お風呂」が大好きです。

 入浴はシャワーよりは、

  より清潔になれるのです。

 

シャワーも遊牧民族の時の習慣なのです。

 

遊牧民族にとって、

 水は「極めて重要」なものです。

 そのため、

 古代イスラエルでは、「井戸」の争いが絶えませんでした。

 

 アブラハムやイサクやヤコブも、この争いに巻き込まれました。

 

しかし、

 日本では、

 水が「豊富」にあります。

 

勿論、畑や田んぼのために「水利」を争うこともありましたが、

 水は沢山あったのです。

 

外国へ行くと、

 大抵、水は「有料」です。

 

しかし、

 日本では、

 何処へ行っても水は「無料」です。

 

 なんと恵まれた国なのでしょうか

 

**************

戦後、アメリカ人は、

 日本の農業を見て「不衛生」と見なし、

 野菜に「肥溜めの肥料」を用いないように「命令」しました。

 

確かに、そのために、

 日本人は外国人より、

 体内に寄生虫を持っている人が多く、

 それが病気の原因であることもありました。

 

しかし、

 化学的で合理的な思考の外国人では、

  薬品などの影響による「がん」患者が非常に多く、

 肉を多く食べる食生活の影響による「脳疾患や心臓疾患」が多いのです。

 

現在日本人に「がん」「脳疾患や心臓疾患」患者が多いのは、

 日本人の食が「欧米」に近くなったことと、

 アメリカで作られたの「多用」が原因なのです。

 

ですから、

 昔からの採食を続け、薬に頼らない生活をしている日本人に、

 長寿が多いのは「当然の結果」なのです。

 

**************

今や日本食は、

 世界遺産に登録されるほどに「評価」されています。

 

世界の食に於ける健康は、

 日本食や日本酒に向いているのです。

 

これらは、

 ダシや発酵食品が「メイン」なのです。

 

これは、日本独特のものです。

 

で、

 魚介類を食べるのは日本だけでしょう。

 これには、

 魚に寄生する寄生虫に「少し問題」がありますが。

 

ちなみに、

 魚は、

 いわば「排泄物と食物が入り混じった【水】」の中で生きている生き物です。

 その中でそれらを「一緒に食べて育っている」のです。

 こうしたことを「深く考えた人」は、殆どいないのではないでしょうか?

 海の生物も同じです。)

 

更には、

 外国では殆ど食べない、

 タコ、ウナギ、ドジョウ、ウニ、ふぐなどは

 今では「高級食材」となっています。

 

生の魚の切り身を乗せて食べる「寿司」もそうです。

納豆もそうです。

海苔もそうです。

ちりめんもそうかも知れません。

 

日本は米と野菜と魚の文化であり、

外国は麦と肉の文化という違いもあります。

 

ちなみに、

 肉を生で食べるのは、

 遊牧民族が昔からして来たことです。

 野性的です。

 

**************

日本では、

 本来天然の生き物を、

 養殖という形で安定供給しようとする発想が生まれました。

 

 金魚、錦鯉、マグロ、はまちなどは日本特有のものです。

 

こうした「発想」は、

 日本人の様々な事柄に対する「好奇心」と、

 その知識を「変化、改良」する「能力」から生じているのです。

 

+++++++++++++

ちなみに、

近年、

 外国でも「養殖」を行い、日本に対抗し、

 日本の関係者を「脅かして」います。

 

 オーストラリアやノルウェーなどは「規模」日本より大きく

 しかも、

 データや管理が日本より優れている場合もあるのです。

 

+++++++++++++

他にも、

 伝統的な「焼き物(陶磁器)」「金属加工」「漆工芸」「金箔技術」

 などがあります。

 時計職人は、本場のスイスと肩を並べるくらいになっています。

 

工業技術でもアメリカやヨーロッパを凌ぐ程になっています。

 自動車だけではなく、

 スプーンやナイフなどの食器、

 ネジなどの類、

「絞り」の技術、

 金属などから不純物を取り除く技術、

 化粧道具、

 ナイロンやビニールやプラスチックなどに代わる素材

 様々な「小物」開発製造、

 緩まないネジ、

 極小のネジやスプリングやワッシャーなどの製造技術、

 

衛星や探査機の技術は世界トップクラスです。

スーパーコンピュータも、

 アメリカと凌ぎを削っています。

 

EV車は、今過渡期ですから「後塵を拝して」いますが、

落ち着いてくれば

 日本が世界一になることは間違いないでしょう。

 

医療器具に関しても、

ガン治療技術、脳疾患、心臓疾患などの手術に関しても同様です。

 

日本人は、

 外国の優れた物を学び

 それを進化させる「能力」に丈ているのです。

 

**************

世界に追いついていない技術に、

 ロケット技術があります。

 

 エネルギーの天然資源の利用に関しても、

 まだ、世界レベルには至っていません。

 

 製薬技術もアメリカの追いついたとは言えません。

 

おそらく、

 ディベートに関しては、

 日本人は欧米人には、

  永久に追いつけないでしょう

 

外国人のディベートは、

 「盗人の三分の理」的なもので、

 正直な日本人には向かないものです。

 

ディベートには、

 幅広い知識と柔軟性が求められます。

 これは、幼い時からの習慣というか訓練が必要な事柄なのです。

 

ですから、

 大人になっても自分の考え、意見」を言えない日本人は多いものです。

 

そういう習慣、環境で育っていないからです。

 

+++++++++++++

日本は誰に対してもおもてなし」で有名なように言われていますが、

 

欧米のみならず、他の国々でも、

 「おもてなし」は日本以上の地域があります。

 

欧米では「親しい人に対する、気遣い、もてなし」は、

 日本以上です。

 勿論、そこには、

 日本人が抱かない「理屈や思い」があります。

 

日本人の「おもてなし」は、

 「理屈」から出たものではなく、

 「感情」から出たものです。

 

ですから、

おもてなし」は、

 日本の専売特許ではないのです。

 

**************

戦後は、

 日本人は「猿真似」と言われ、「イエローモンキー」と、

 アメリカ人に馬鹿にされて来たものです。

 

 日本女性は「イエローキャブ」とも言われた時もありました。

 

しかも、

そのアメリカ人は、

 傲慢にもアメリカの世界支配、覇権のために、

 日米安保という「不平等条約」を未だに「継続」させ、

 経済でも、巧みに「操作」「コントロール」しているのです。

  アメリカの技術後ろ盾がなければ「上手く行かないように」しているのです。

 

如何に、

日本がアメリカに戦争を仕掛けたことが「愚かだった」ことかを、

思い知る日本人は多いと思います。

日本が戦争を仕掛けるように欧米が画策したとも言えます)

 

しかし、

政治家たちは、この現状を変えようとはしないのです。

 

**************

食文化の違いが、

 日本人の「遺伝子」を形成し、

 それが、

 職人気質を生み出しているのです。

 

遊牧民族は、

 自然任せであるのに対し、

 

農耕民族である日本人は、

 土地に定着して「様々な物を産みだして来た」のです。

 

+++++++++++++

上に述べたように、様々な職人気質が、

 やっとスポーツ界で「開花」し、世界に追いついたことが、

 今、世界のスポーツ界で「躍動」出来ている「根本的な理由」なのです。

 

+++++++++++++

野球、サッカー、ラグビー、柔道、バトミントン、フェンシング、卓球、マラソン、

剣道、バレーボール、相撲、

あるいは、

カルタ取りも挙げられるかも知れません、

などなど。

 

ただ、テニスやゴルフでは、まだ世界に追いついてはいません

他にも、F1などもあります。

 

これには、野球のように「」の「大きさ」「強靭さ」が関わっているからだと思われます。

 

健康的な「日本食」では、

 スポーツ界では、

 欧米に「勝つ」ことは「難しい」のです。

 

 ただし、

 欧米の食事は日本人には「合わない」でしょう。

 

そのため、

近年では、

 オリンピックでもワールドカップでも、

 日本人のコックを帯同させ、

 お米による日本食を食べさせ「成果」を挙げていると言われています。

 

ちなみに、

 イチローは体力で勝負はしていません。

 いわば、テクニックで勝負し「勝った」と言えます。

 

一方で、

 大谷翔平は、

 体を見れば分かるように体力で勝負しています。

 鍛え上げた体力と「潜在能力」で「良い結果」を出したのです。

 

 誰しもが成し遂げたいと思っていることを「実現」しているのです。

 

**************

 

 

 

知恵を求める人のためのブログです。

北大路欣也は、

 人気役者、つまり、俳優の一人です。

 

時代劇、現代劇、舞台など何でも出来、

 しかも、その演技には、

 人を惹きつけるものがあります。

 

つまり、

 観る人が「感情移入」させられる「演技」に優れているということです。

 

他にも、いわゆる「性格俳優」などは、大勢います。

 ある「強い個性」を演じることの俳優です。 

 

彼(北大路欣也)に問いたいことがあります。

時代劇で、

 何人もの「人を切って」います。

 つまり、

 殺しています。

 

それは、

 人を切っているという思いなのか、

 あるいは、

 単に、悪、もしくは、悪人を「退治」しているという思いなのか、

という点です。

 

勿論、演技をしているだけなのですが、

それでも、

 演技に対する感情はあると思います。

 

悪人なら、

 殺しても「良い」ということなのでしょうか

 

現代劇では、

 悪人は「法による裁判を受けさせるべきである」という「台詞」が良く出て来たと

 思います。

 

これは、

 時代劇で人を切るということと「本質的には同じ」と考えているということなので

 しょうか?

 

 昔は、法による取り締まりや裁きが出来ないから、

  「悪人は殺すしかない」と。 

 

勝新太郎の「座頭市」も、

 悪人を切って殺します

 

これらは、

 人間の演技です。

 

、人間の思い」「感情」を表していることには「違いはありません」

 

**************

歴史の中では、

赤穂浪士が、

 仇討ちと称して

  吉良上野介を殺害しています。

 

桜田門外の変で、

 井伊直弼が暗殺されています。

 

未遂に終わりましたが、

かの有名な、吉田松陰は老中安倍正弘の暗殺を企てました。

後にこれが元で、というより「自ら自白」し「処刑」されました。

 

坂本竜馬も暗殺されています。

 

明治になって、政府の要人が暗殺されたり重症を負うことも少なくありません。

 

**************

の場合

 脚本は「勧善懲悪」ですが、

 

現実の場合には、

 善人と言われる人の方が殺されているのです。

 

アメリカでは、

1865年に、ワシントンDCでリンカーンが暗殺され、

1963年に、ダラスでケネディーが暗殺され、

 アメリカ中に悲劇がもたらされました。

 

日本でも、

7人の首相もしくは首相経験者が暗殺されています。

 

これらは、

 犯人身勝手な「自分の思いや欲求が通らない時、その障壁となっている人に対す

 る恨み

 などから行われることが多いものです。

 

+++++++++++++

更には、

 権力者による「暗殺」などもあります。

 

ロシアのプーチンは、

 自分に批判的で、反抗的な人を何人も暗殺していると考えられています。

スターリンは、

 あからさまに殺害しています。

(ちなみに、

 ロシアは、

 国内で権力を持ち、国内の反対者、敵対者は「暗殺」「殺害」するということが

常態化」しているのです。

 国内で権力を維持出来れば、

 国外の批判などは、さほど、気にはしないのです。)

 

中国の、

毛沢東時代やその後の権力者による「粛清」が行われています。

北朝鮮の、

金正恩は言うまでもないことです。

 

**************

アメリカ人が好む「西部劇」も同じです。

 

法の下に裁きを受けさせるというものです。

時には、

 決闘もしますが、

 その場合も、

 正義と悪の戦いという構図です。

 

日本の時代劇も同じです。

 

(参考:ただし、 

 アメリカの西部開拓の歴史は、

 原住民(インデアン)に対する「暴力」であり「侵害」であり、

 自分たちの「考え」「」の「押し付け」であり、

 傲慢身勝手な振る舞いを示すものです。)

 

参考

 ちなみに、

 ペリーが日本にやって来て、開国を求めたのも、

 アメリカの「考え」「」を「押し付け

  日本に「様々な要求」をしたのです。

 他の国は同じ考えを持っていても、アメリカのようにはしませんでした。

 ですから、

  アメリカ以外とは比較的良い関係が出来ていたのです。

 それを「破壊」したのがアメリカなのです。

 

 ところが、

 愚かな「市民」は、彼らを歓迎したのです。

 

 これは、

 丁度、敗戦後マッカーサーを歓迎したのと同じです。

 

こうした日本人の振る舞いは、

 ただ、平和を求める「脳天気」な振る舞いなのです。

 

日本の「自分の考え」「自己」「威信」「独立」などという「人間としての自立性」を自ら捨てているようなものです。

 

おそらく、イスラエルがハマスを何があっても「徹底して壊滅させる」という考えに同調出来ない日本人は「多い」「理由」です。)

 

**************

一方、

ヨーロッパでは、同じ「悪人」をやっつけるにしても、

筋書きが異なります

 

大抵は、

 犯人が逮捕するところで終わります。

 犯人が殺されるところで終わるのは「珍しい」ことです。

 

いわゆる、

 犯人捜しが「テーマ」になり、

 シャーロック・ホームズ、エルキュール・ポアロ、ミス・マープルなどが人気で

 す。

 

また、強盗による「完全犯罪」、計画殺人、悪の組織を滅ぼす、などが人気のテーマです。

 

つまり、

ヨーロッパでは、

 「悪人」を退治する場合の「知恵」をテーマにしているのです。

ヨーロッパの「」では、

 勧善懲悪という考えは「余り全面には出ては来ません

 おそらく、

  悪は滅びるべきであるという「思想」「観念」が、

  作る側と観る側の双方に「確立」されているからだと思います。

 あるいは、

  例え、善人でも「裏では悪いことをしている」という懐疑的な「考え」が浸透し

  ているのかも知れません。

 

当然、内容に、

 もっとも多く時間を掛けるのが、

 思考や作戦など「頭を使う」こと「賢さ」などであり、

 次いで多く時間を掛けるのが、

 暴力、セックス、詐欺、騙すこと、盗み、殺人、カーアクション、

 更には、

 衣装、肉体美、美男美女、

 あるいは「きめ台詞」、

など多彩です。

 

**************

日本の時代劇や現代劇は、

 思考や戦術などより「感情」に重点が置かれています。

 勿論、

 表面上は、推理が中心ですが、

  犯人逮捕などに関しては「感情的」です。

 ヨーロッパのような「高尚な推理、秘められた推理」ではなく、

 日本の刑事もの、推理ものは「あからさまな推理、道理に基づく推理、

 当然、起こりそうな推理」の展開です。

 ヨーロッパのような推理とは「全く異なる」のです。

 

 逮捕や取り調べに関しても、

 犯人の「人権」を尊重し、犯人が抵抗しない限り暴力、武力、武器などは使いませ 

 ん。

 

 起訴が「難しい」と判断すれば、限りなく犯人に近くても「釈放」し、

 後で、証拠がはっきりしてから、「改めて逮捕」します。

 

 日本では、

 こんなことをしたら「犯人に逃げられてしまう」と考えて、

 なるべく「長く拘留」します。

 

 いわゆる「人質手法」と外国から非難されている方法です。

 

**************

ですから、

 アメリカ映画やドラマを観て「違和感を覚える日本人は多いと思います。

 余りにも「暴力的」であり、

 直ぐに「人を殺し

 派手なアクションで「視聴者を昂奮」させ、

 その合間に恋愛感情のない「セックス」など男女関係を織り交ぜているからです。

 

また、

 裁判も、正義というより

  裁判官に与える「印象」であったり、

  有能な弁護士だったり、

  証人をでっち上げたり買収したりするという、

如何に、裁判に勝つか」ということがテーマとなっているからでもあります。

 

これは、

 現実の、

 アメリカに於ける「裁判」を象徴しているのです。

 

裁判という「合理的」「道理」で、

 悪人が裁かれるというのは、

  本来の、日本人の「気質」に合わないのです。

 

日本人は、

 最後は必ず「正義」が勝ち、「正義」がなされるべきである、

 というのに対して、

アメリカでは、

 裁判に勝った者が「勝者」「正義」という考えなのです。

 

感情的に怒りを爆発させて「殺してしまう」というのが、

 日本人の「気質」に最も合っているのです。

 

こうした「気質」が、

 特に、時代劇に現れているのです。

 

戦後の、

 任侠映画はその最たるものです。

 

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勧善懲悪は、

 誰しもの「願い」です。

 

正義が行われ、悪が滅びることを願っているのです。

 

これは、

神とて同じことです。

ただ、

神は、その時が来るまでは「何もしません」

この点が異なるだけです。

 

実際、過去には、

神による「裁き」で「大勢の人が殺されています

 

例えば、

 モーセはエジプトのファラオの軍隊と直接戦って殺してはいませんが、

 神が、紅海で全滅させたのを見ています。

 

 ヨシュアは「戦士」ですから、

 カナンを征服する時に、

  自ら戦って、カナン人を殺しています

 サウルやダビデも同じです。

 

 これらは、

 自らの意思ではなく「神による命令」だったのです。

 

一見すると

聖書を読むと、

 神が「怒りに任せて

 ご自分に逆らう者を「殺している」かのような印象を与えます。

 

実際は、

 神は「逆らう者」の、 

 あるいは、

 「悪を行う者」の、

 心の中の状態や、実際に何をしたかを「すべて、知っている」ので、

 そのような「裁定」を下しているのです。

 

しかし、

 周りの「み使い」や「人間」には、

 それが「分からない」のです。

 

それゆえ、

 人間は

  証拠や証人を必要とするのです。

 

(参考:

 これは、

 創世記3章に記されている悪魔の主張に対して、

 直ぐに滅ぼさず長い時間を与えた」理由でもあります。

 

 人類が長い間苦しんで来た理由でもあります。)

 

**************

人間が「悪」を憎むのはなぜでしょうか?

 

「悪人は死ぬのが当然だ」という思いを抱くのはなぜでしょうか?

 

参考

 これを当然だと思う人は、

 人間が悪を行うことは当然だという考えと同じなのです。

 これは、

 悪魔の「主張」と同じなのです。

 これを「認識」している「人間」は殆どいません。)

 

人が悪を憎むのは、

 人間が神の特質」を「受け継いでいるからです。

 「良心や善」と言った特質についても同様です。

 

しかし、

 同時に悪魔の特質」も「受け継いでいるということを忘れてはなりません。

 

現実に、

 人間が「悪人」を裁き、時には処刑するように、

 神も同じことをするのです。

 

というより、

 人間が「神を模倣」しているのです。

 

こうして、

 人間が「神の特質」を受け継ぐことで、

 人間は「神によって創られた被造物」であることが証明されているのです。

 

あなたは、

 どう思いますか?

 

知恵を求める人のためのブログです。

いつも思うことですが、

神(エホバ)の創造の能力の偉大さは「超越」しています。

 

神の創造の大半は、神の子(地上に来られる前のみ使いであったイエス・キリスト)に依るものですが、

その創造のエネルギー(神の霊)は神から出ており、

設計(知恵)も神から出ています。

 

つまり、

建築技師は神で、大工が神の子と言う関係です。 

 

聖書には次のように記されています。

「初めに言葉がおり,言葉と共におり,言葉は神であった。

 この方は初めにと共にいた。

 すべてのものは彼を通して存在するようになり,彼を離れて存在するようになった

 ものは一つもない。」

「こうして,言葉は肉体となってわたしたちの間に宿り,わたしたちはその栄光,父の独

 り子が持つような栄光を目にしたのである。

 彼は過分の親切と真理とに満ちていた。」

-ヨハネ1:1-3、14

 

「わたしたちにはなるただひとりのがおられ,この方からすべてのものが出てお

 り,わたしたちはこの方のためにあるのです。

 また,ひとりの,イエス・キリストがおられ,この方を通してすべてのものがあり,わ

 たしたちもこの方を通してあるのです。」

-コリント(一)8:6

 

「[]はわたしたちを闇の権威から救い出し,ご自分の愛するみの王国へと移して

 くださいました。

 この[み]によって,わたしたちは贖いによる釈放,すなわち罪の許しを得ていま

 す。

 彼は見えないの像であって,全創造物の初子です。

 なぜなら,[他の]すべてのものは,天においても地においても,見えるものも見えない

 ものも,王座であれ主権であれ政府であれ権威であれ,彼によって創造されたからで

 す。

 [他の]すべてのものは彼を通して,また彼のために創造されているのです。

 また,彼は[他の]すべてのものより前からあり,[他の]すべてのものは彼によって存

 在するようになりました。」

-コロサイ1:13-17

 

+++++++++++++

これは「道理」ですが、

神は、

 すべてのことを綿密に設計したのではなく、

 物事の「仕組み」と「その後の作用」について、

 いわば「洞察」して、

 すべてのものを設計「創造」をされたということです。

その方が道理に適っています。

 

+++++++++++++

例えば、

ものを作ることとその使い方という点を考えて見ますと、

パソコンを例にとれば、

  その用い方は様々です。

  その結果も様々です。

 

 良い使い方もあれば、悪いことに使うこともあります。

 

 パソコンを作ったのが「神」に相当し、

 パソコン自体が人間であり、パソコンを使う人間が「人間の意思」に相当するとい

 うものです。

 その結果が人間の行いの結果ということです。

 

少し、分かりにくかったかも知れません。

別の例えでは、

 陶器を作ったのが「」で、

 その陶器を使うのは「人間の意思」で、

 その用い方は千差万別ということです。

 

**************

人間に関しては、

 人間の肉体の作り、仕組み、感情、思考、記憶、など基本的なことだけを設計し創

 造され、

 一人ひとりが、

  自分の肉体と精神を「自分の意思で自由に活動出来る」ようににされ、

  その結果も、一人ひとりが異なるようにされたということです。

 ですから、

  ある事柄に関して、

  皆、同じように感じるということがあるのです。

  その一方で、

  別の考えを持つ人もいるのです。

 

人間は、心の中では、自分が自由であることを「常に意識」し、

 そして、自由に活動しています。

(ただし、外部からの制限や抑圧がない場合です。)

 

+++++++++++++

催眠術や洗脳以外、

 人は誰でも、

 心の中は「自由」であり、

 束縛は受けてはいないのです。

+++++++++++++

 

その自由な「活動の結果」、

人は善いことか、あるいは、悪いことを行うのです。

 

神は、

その活動の「責任」を問うことで、

 

人間が「神の設けた仕組みから離れて生きて行けないことを自覚」させているのです。

 

これにより、

人間が「何をしても良いという自由はない」ということも教えているのです。

 

ただし、

このことを「認識」するためには、

 聖書に基く「知識」が必要です。

 

間接的には、

すべての人間は「(人間が作った)法の下で生活する」ことで、

認識しています。

 

パウロは次のように語っています。

「すべての魂は上位の権威に服しなさい。

 によらない権威はないからです。

 存在する権威によってその相対的な地位に据えられているのです。

 

 したがって,権威に敵対する者は,の取り決めに逆らう立場を取っていることにな

 ります。

 それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます。」

 -ローマ13:1-2

 

**************

仕組みは同じでも、

 結果は様々です。

 

自然界を例にとって説明すると、

その結果の変化という点に関しては、

 原子核と電子の状態(原子、または、元素)とその振る舞い、

 原子と原子の組み合わせによる、様々な物質(分子)の形成とその性質、

  自然界に存在する物質(分子)と

  人工的に作られた物質(分子)が

 地球上に存在しています。

 (この点、

  神が創造したものは、

   すべてが安定していて、かつ、分解され、循環が可能な状態として創られた

   のに対して、

  人間が作ったものは、

   人間や自然に「害」を及ぼすものを「沢山作って」います。

   煤煙、酸性雨、フロンガス、プラスチック(分解しない物質)など。

   更には、

   原子核反応による放射能汚染、

   DDTなどの化学物質、

   などなど。

  

  人間の「知恵」が神に及ばないことを示しています。)

 

 

 風、川、海、雲、雨、雷に加えて気温を織り交ぜて、

 千変万化な状態を生み出すこと。

 

 水に垂らした絵の具の広がり、

 紐の絡み具合、

 衣類などの柔らかさと傷みの進み方、

 

 植物や菌類の成長と広がり方、

 

 野菜や樹の実などを「煮たり、焼いたり、蒸したり、濾したり、発酵させたり」す

 ることの変化とその状態、

 

 何かを落とした時の、不規則な散らばり、

 

 味覚や触感などの五感の感じ方とそれにより「物を作ったり加工したり料理」する

 時の変化、応用など、

 

挙げれば切りがない程です。

 

**************

人間自身に関しては、

例えば、誰しも健康を意識しているものです。

 それは誰しもが病気になり、十分に活動出来なかったり、痛みなどを感じ、遂には

 死んで行くからです。

 

 こうした仕組み(状態)は、神が人間を創造された後で付け加えられた」もので

 す。

 -参考:出エジプト記4:6-11

 

 意識するだけではなく、

 健康のために「何を行う」かは「一人ひとり自由」にすることが出来ます。

 ある人は、

  健康食品(サプリメント)を補給し、

  ウォーキングやジョギングをし、

  スポーツをしたり、

  ヨガや断食をしたり、

  瞑想をしたり、

  ・

  ・

 と千差万別です。

 

つまり、

神はすべての事柄に、こうした変化が「生まれる」ように「設計」されたということです。

 

**************

神の偉大な点は、

 変化が無限に生まれるという点です。

 同じ変化が二度と起きないような変化を生じさせる点です。

 

 変化の仕組み自体は、その法則は「共通」しているように思いますが、

 変化の「結果」は無限に現れるのです。

 

これは、

 人間の「思考」でも同じなのです。

 

これを例えれば、

  X+Y=Zを満たす自然数(あるいは実数)を求めよ。

  という問題があったとします。

  これを満たす解は無限にあります。

 

 あるいは、暗号に例えれば、

 あたかも、

 無理数を用いた無限「乱数表」のようなものです。

 

 自然界には、

  円周率πや自然数eのような「無理数」と、

  無限桁数の素数(未発見)

 が存在しています。

 それらを

  自然の様々な法則に用いているかのようです。

 

 例えば、

  円周の長さ有限であることは誰でも分かります。

  しかし、

  計算上は、半径をrとすると、

  円周の長さは、2πrとなり、

   つまり、無理数という「はっきりとした数字」では表せないことが分かりま

   す。

   有限の数では表せないということです。

 

  円周の長さが有限なのに、有限の数で表せないのです。

  円の面積も同様です。

 

  ルート(平方根)を用いた計算でも同様です。

  ただし、自然数のルートのには、

   自然数、実数、循環小数、無理数などが含まれています。

 

 一見して矛盾しているようですが、

  これが現実なのです。

 

これが「神の知恵」なのです。

 人間の「理解を超越」している「一面」です。

 

そのため、人間は、

 数学では、

 極限値を求め、概ね「この長さになる」ということをします。

 一般的には、小数点以下○○で四捨五入という手法を用いて「はっきり」とさせま

 す。

 いわゆる近似値です。

 

 数学的には、

 真の値と近似値の誤差を「丸め誤差」などと言うこともあります。

 

 この極限値や四捨五入などは「人間の理解」(有限の数)ですが、

 無理数は「神の領域」なのです。

 

**************

仕組みは単純でも、

 結果は無限、つまり、神の領域なのです。

 人間には解読不能なことが「多い」ものです。

 

つまり、

自然の法則など「普遍」的な事柄を土台として、

 常に、無限に「変化」する状態が生み出されることで、

 千変万化を作り出しているということです。

 

その結果は、神にしか分からないことなのです。

 

**************

普遍的な事柄を土台として、

他の要素が様々な変化をするという点に関する別の例は、

例えば、

 普遍的な太陽の日没と日の出と、

 太陽の光を受けた地球の状態が時々刻々変化する「様々な変化」

  明るさ、風の量、向き、強さの変化、気温の変化、

  これに気圧の変化が加わり、

  雲が出来、

  雨が降ったり、嵐になったりすることなどを挙げることが出来ます。

 

光が普遍的なものであることは、

 あらゆる生物が生きて行く上で「極めて重要な要素」です。

水も同じです。

 汚れてもきれいにすることが出来ることも「極めて重要な要素」です。

 

人間が「破壊」していますが、

 大気の成分の割合の安定さも「極めて重要な要素」です。

 

気温だけではなく、

 生き物の「体温」の恒常性も「極めて重要な要素」です。

 

人間の体の仕組みの安定性も同様です。

 これが乱れると病気になってしまいます。

 

神は、普遍的で安定したものや法則の上に、

 様々な「変化」が生じるようにされたことは、

超越的」なことであり、

偉大」なことです。

 

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人間は、

 無意識で、

 こうした「神の特質」に倣おうとしていることは「明白」です。

 

それは、

 様々な「道具」を作るという「人間特有の性質」です。

 道具を作り、

  それによって「変化に富んだいろんな物」を作っています。

 

あなたは、

 神のこうした「特質」を理解出来ますか?

 

世の中の「善悪」「自己満足」だけに「意識が行きがち」ですが、

こうした自然界の中に見られる「神の特質」にも「注目」し、

 神と神の存在について「考える」ことも「極めて重要な要素」ではありませんか?

 

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人間の「あらゆる知恵」の「善いもの」は、すべて神から出ています。

逆に、

人間の「あらゆる知恵」の「悪いもの」は、すべて悪魔から出ています。