知恵を求める人のためのブログです。
エホバの証人の親は、子供を教え諭すことなくムチを振るっていることが多い。
例えば、
集会中であれば、ムチを打つ前に、
「どうして言うことを聞かないの」
「静かにしてなさいと言ったでしょ」
「ちゃんとノートを取りなさいと言ったでしょ」
「居眠りをしないでと言ったでしょ」
「○○しないと約束したでしょ」
などと言うことが多いものです。
こう理由で、
ムチを打つようにとは「聖書の何処にも書いてはいません」
単に、
親の言うことを「聞かない」ということだけで、
子供のお尻を叩いているのです。
児童虐待です。
大抵、子供をムチ打つ親は、
子供に対して「禁止行為」を伝え、守らせることには「熱心」ですが、
それ以前に、
子供に教え諭すことは「余りしていない」ことが多いものです。
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親が子供に対する教えをすることに関しては、
例えば、
初めは「わたしの聖書物語の本」
「偉大な教え手に聞き従う」
「偉大な教え手から学ぶ」
古くは「あなたの若い時代、それから最善のものを得る」
1990年ごろからは、
「若い人が尋ねる質問-実際に役立つ答え」
更には、
「わたしの追随者になりなさい」
「最も偉大な人」
大きくなると、
「あなたの家族生活を幸福なものにする」
「幸せな家庭を築く秘訣」
「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」
こうした「ものみの塔の書籍」を通して、
聖書に対する「ものみの塔」の見解を学ばさせているものです。
これも、
ものみの塔による「指示」「指導」です。
こうして、
エホバの証人の子供たち(2世たち)は、
幼い時から「強制的に、聖書」を、
ものみの塔の「考え」を教え込まれているのです。
これも、一見して問題がなさそうにみえます。
問題は、
親は子供にその本を学ばせたことで「十分」だと思っている点にあります。
こうしたことは、
学校で「教科書」を学ぶようなもので、
殆ど「心に届いていない」ことが多いものです。
つまり、
単に形式的に行っているだけで、
本当に、子供を「教え諭してはいない」のです。
聖書では、
教え諭すよう命じでいます。
確かに、教えることはしています。
しかし、
諭してはいないことは「明白」です。
子供たちも、
単に「知識」を学んでいるに過ぎないのです。
これでは、
本当の「教え」とは言えません。
であれば、
一体どのようにして「子供を躾ける」のでしょうか。
一般的には、
誰もが行うように(世の中の普通の人も含めて)
子供がした「悪い」ことに対する「小言」「叱る」ことによってです。
そうです、
知識と現実は異なるのです。
ですから、
エホバの証人の子供たちに、
いくら「教えても」それは、単なる「知識」でしかないのです。
却って、
それが記憶に留まり、
成長期に「葛藤」や「反抗」となって現れるのです。
おそらく、
こうしたことは、
誰でも「理解」出来るはずです。
私が、
エホバの証人の親が「子供にムチ」を与える時に、
「子供を教え諭していない」
というのは、
こういうことなのです。
つまり、
現実的な「教え」と「諭し」をしていないのです。
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ものみの塔について、更に付け加えるなら、
これらに加えて、
ものみの塔が指定する書籍を
小さなグループ(群れと称している)で、毎週1回集まって学び、
更には、
「ものみの塔」という雑誌の中に示されている「研究」と題する記事を、
会衆単位で、毎週1回集まって学び、
その直前には、
講演が行われ、聖書に基く話しを、
メモを取りながら学ぶということをしています。
これらには「予習」をすることが求められています。
なぜなら、
本の一節を誰かに読ませ、
そして、脚注にある質問をし、それに答えるという形式で学んで行くからです。
こうして、
ものみの塔は、
エホバの証人たちの「思考」「注意」を、
「意図的に、特定の方向へと向かう」ように仕向けているのです。
いわゆる「洗脳」です。
神権宣教学校と称して、
すべてのエホバの証人に、
ものみの塔に指定された聖書の一部を「割り当て」と称して、
短い5分程度の「話し」を作らせ、
その実演をさせます。
これは、
伝道活動の時の、
各家庭で、各々関心ある人に、
聖書の内容を正しく伝える「訓練」です。
監督と言われる長老の一人が、
その「話し」をその場で「講評」します。
奉仕会と称して、
ものみの塔による「伝道活動」に対する「指示」が、
長老もしくは奉仕の僕(現在の援助奉仕者)などによって、
会衆全員に示されます。
これらに、加えて、
週2回の「群れ」による伝道活動が行われ、
毎週日曜日には、会衆全体による伝道活動が行われ、
(この時、
子供たちも一緒に連れて行かれることが多いのです。
まだ、信者になっていないにも拘わらずです。
家に、
一人で、子供たちだけを残しては伝道活動が出来ないというのが、
その理由とされています。)
(これは、子供たちを伝道活動に慣れさせるための「口実」です)
他の日には、個別に伝道活動が行われ、
特に関心のある人には、
その人の家に訪問して、
ものみの塔が発行した書籍などを用いて、
いわゆる「聖書研究」を司会します。
奉仕活動全般は、
奉仕監督により「監督」され、
それを「群れ」の、いわゆる司会者と呼ばれる代表者が、
監督の指示と割当区域を、
一軒一軒訪問して伝道活動(勧誘活動)をすることになります。
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ものみの塔の活動の目的は、
基本的には、
聖書の音信を伝えるという宣教活動、伝道活動が中心です。
他のすべての事柄は、
伝道活動を「補う」ものです。
こうしたことを、
ものみの塔の「世界本部」にいる、
いわゆる「統治体」による決定と指示で、
世界的に行われているのです。
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寄付に関しては、
基本的に求められることはありません。
しかし、
各会衆からは、
毎月集まった寄付の中から、
支部に送金され、
また、各支部からは、
毎月集まった寄付の中から、
世界本部へ送金される仕組みになっています。
こうして集められた寄付で、
地元の王国会館の建設、
地域ごとの「大会ホール」の建設、
支部の建物(宿泊施設、居住施設、集会場所、食道、図書室、ロビーなど)と
印刷工場と場合によっては農場など、
支部で働く人々(すべてエホバの証人)のための生活費用、
地域を巡回して回る監督(大抵は夫婦)のための費用、
特別開拓者と言われる「全時間奉仕者」に対する毎月の手当、
その他、
これらの人々の年金や健康保険などの税金や医療費など、
(法人税は宗教法人なので「免除」されています。
このため、
各会衆は独立した法人扱い、もしくは、ものみの塔日本支部の傘下に置いて、
税金が免除されています)
などを行っています。
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繰り返しますが、
これらすべては「聖書の音信」を伝え、信者を作るために行われています。
これは、
イエス・キリストの命令に基づくものとして「ものみの塔」が、
ものみの塔の設立創始者のラッセルが始めたことです。
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これに加え、
ラッセル以降、
聖書に忠実であるために、
三位一体、クリスマス、誕生日の祝い、偶像崇拝(国旗に対する敬礼、お辞儀、
国家を歌うことを含む)、幼児洗礼、
血を避けること(輸血拒否、血を食べることを含む)
などを
聖書に基づかないものとして「否定」し、信者には「忌避」させて来ました。
さらには、
世は、事物の体制は「悪魔の支配下にある」と言って、
「世のものとならない」ようにと教えています。
つまり、「世の精神」を示すものすべてを「忌避」させています。
これらに加えて、
肉の業と称する様々な「悪行」も「忌避」させています。
これらの中に、
子供に対する「懲らしめのむち棒」も含まれているのです。
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今、社会で問題になっているのは、
こうした「忌避」などなのです。
おそらく、世間の人は、
こうした「ものみの塔全般」がどのような組織かを殆ど知りません。
ただ、表面だけを見て「批判」していることは「明白」です。
ですが、
ものみの塔を「擁護」するつもりはありません。
ただ、
ものみの塔の「実体」を公表しただけなのです。
誤解しないで頂きたいと思います。
活動全般は、
非常に組織化され、一見して「問題」はないように思います。
問題となる点は、
「忌避」が社会通念上、受け入れられていないことです。
ただ、こうしたことは、
宗教では「良くあること」であるということです。
どんな宗教でも、
「忌避」はあるものです。
例えば、
イスラム教の「ハラル=禁止行為」などがそうです。
ヒンズー教の人々は、
牛や豚を食べません。
あるいは、
アルコールも飲まないこともあります。
しかし、
普通は、こうした「忌避」は世の中で受け入れられています。
それは、
暴力、虐待、命などと直接関わりないからです。
エホバの証人が、
社会から批判されているのは、
児童虐待、輸血拒否など、暴力と命が関わっているからです。
加えて、
信者の子供たちの、
主に、学校での行事に参加しないという「拒絶した態度」や
世や世の人々に対する「関心」を禁じているための「精神的苦痛」が、
問題視されているからです。
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子供たちを「教え諭す」ことに関して、
聖書には次のように記されています。
「イスラエルよ,聴きなさい。
わたしたちの神エホバはただひとりのエホバである。
ゆえにあなたは,心をつくし,魂をつくし,活力をつくしてあなたの神エホバを愛さね
ばならない。
そして,わたしが今日命じているこれらの言葉をあなたの心に置かねばならない。
あなたはそれを自分の子に教え込み,家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,
起きるときもそれについて話さねばならない。
また,それをしるしとしてあなたの手にくくり,それはあなたの目の間の額帯とされ
なければならない。
それをあなたの家の戸口の柱と門に書き記すように。」
-申命記6:4-9
「それであなた方は,これらわたしの言葉を自分の心と魂に置き,それをしるしとして
手に結び,それをあなた方の目の間の額帯としなければならない。
あなた方はまたそれを自分の子に教えて,家で座るときも,道を歩くときも,寝るとき
も,起きるときもそれについて話さなければならない。
またそれを,あなたの家の戸口の柱と門に書き記すように。」
-申命記11:18-20
「少年をその行くべき道にしたがって育て上げよ。
彼は年老いても,それから離れないであろう」
-箴言22:6
「また,父たちよ,あなた方の子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神
の規整とをもって育ててゆきなさい」
-エフェソス6:4
上記の聖句にあるように、
親、特に父親は、
子供たちに「エホバの道」を24時間いつでも教え諭すよう求められているので
す。
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例えば、集会中子供がぐずったりするのは、
子供は仕方がなく連れて行かれている場合が多いものです。
大抵の子供は集会に行きたいとは思っていないのです。
そのため、
言うことを聞かない、落ち着きのない、うるさい子供はいるものです。
従って、
集会で子供がぐずるのは「当たり前」のことなのに、
言うことを聞かないというだけで「子供にムチ」をしている場合が多いものです。
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懲らしめのむち棒が必要な時は、
非行に走ったり聖書で「非」としている「悪行」を行った時などに限られるので
す。
その場合でも、
親が正しく「教え諭す」ことが出来れば「ムチ」は必要ないのです。
「口で言っても分からないから」とか「親の苛立ち」で子供をムチ打つのは、
虐待以外の何物でもありません。
また、
「懲らしめのむち棒」とあっても、
必ずしも「ムチ」で叩く必要はないのです。
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親は、いわば子供に「切諫(せっかん)」をする以前に、
親は「自分を教え諭している」のでしょうか?
子供の過ちや振る舞いや躾などの方法を「深く考えて」いますか?
ただ、親の基準や思いだけで「子供にムチ」をしていることが多いのではありませんか?
聖書を正しく理解した規準で行っていますか?
ただ、集会に行って「聞いているだけ」で、
深く考えることをしていないのではないでしょうか?
ただ、ものみの塔の「言う」ことに従っているだけではありませんか?
本当に、十分理解するよう努力していますか?
ただ、聴いたことを、
感じたことだけで「学んでいるつもり」になっているだけではありませんか?
「エホバの命令」に従って子供を「教え諭している」点で、
親たちは、いわば「手抜き」をしているのです。
こういう状態で、
親は正しく子供を躾けることが出来るはずがありません。
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繰り返しますが、
ものみの塔の書籍や冊子に書いてあることを、
あるいは、
集会で、
子供と一緒に「学んでいる」だけで、
親は十分理解しておらず、また、子供を「教え諭す」ことが出来ていないのです。
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親は子供に、
ものみの塔の書籍を通して「聖書の教義」を教えることがあります。
この時、
親は親としての「権威」を意識し、
子供の意思ではなく、
親の考えを子供に押し付けている場合も少なくないのです。
会衆では、
長老たちは自分の立場を「利用」し、
上位の立場としての長老の「権威」を振りかざし、
自分たちの考えを親たちに押し付けている場合もあるのです。
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こうした「ムチ」は、
子供にとっては「痛さ」と「恐怖」でしかなく、
「言うことを聞かない」という理不尽さだけで叩かれている場合が多く、
逆に、
親は、そのムチが「殆ど意味をなしていない」ことを理解せず、
ただ、子供を叩いているのです。
ただ、奴隷をムチ打つようにお尻を叩いているだけなのです。
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ある意味、
親の体裁で「子供が被害に遭っている」場合もあるのです。
そのため、
親は、
子供の気持ちや考えを「分かろうとも、また、聞こうともしない」のです。
もし、
親が、ものみの塔が言うことではなく、
聖書に書いてあるように、
いつでも「子供を教え諭している」なら、
ムチは殆ど「必要」ないのです。
更に、
子供を教え諭しても、
身体的、精神的変化などにより、
反抗期や子供の性質などが表面化する時もあります。
そうした事情も考慮することなく、子供を鞭打うことは「愚かなこと」です。
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あなたがエホバの証人の親なら、
子供を正しく「教え諭す」ようにというエホバの命令を、
良く考えて従うべきです。
忍耐強く教えるなら、
鞭など必要はないのです。
子供を鞭打ったことのある親は、
まず、
自分自身を教え諭す必要があるのです。
大抵の親は、
ものみの塔や会衆の長老たちに従うことを、
従順と捉えていることが多く、
彼らの言うことを「一つひとつ」十分考えて行っている訳ではないのです。
まさに、
盲目的な従順なのです。
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彼らが批判している「他の宗教」と「同じことをしている」ことに気が付いていないのです。
私には、
「神に滅ぼされた古代イスラエル人たち」と、
現代のエホバの証人が同じように見えます。
古代に於いて、
北の王国と南の王国の人々が、
それぞれ滅ぼされた時、
なぜ、自分たちにそのようなことが起こったのかを理解していなかったと思いま
す。
同じことが、
現代のものみの塔とエホバの証人たちに「臨む」ことになるのです。
その日は「突然」やって来て「逃れる」ことは出来ないのです。