知恵を求める人のためのブログです。

エホバの証人の親は、子供を教え諭すことなくムチを振るっていることが多い。

 

例えば、

 集会中であれば、ムチを打つ前に、

 「どうして言うことを聞かないの」

 「静かにしてなさいと言ったでしょ」

 「ちゃんとノートを取りなさいと言ったでしょ」

 「居眠りをしないでと言ったでしょ」

 「○○しないと約束したでしょ」

 などと言うことが多いものです。

 

こう理由で、

 ムチを打つようにとは「聖書の何処にも書いてはいません

 単に、

 親の言うことを「聞かない」ということだけで、

  子供のお尻を叩いているのです。

 

  児童虐待です。

 

大抵、子供をムチ打つ親は、

 子供に対して「禁止行為」を伝え、守らせることには「熱心」ですが、

 それ以前に、

  子供に教え諭すことは「余りしていない」ことが多いものです。

 

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親が子供に対する教えをすることに関しては、

例えば、

 初めは「わたしの聖書物語の本」

 「偉大な教え手に聞き従う」

 「偉大な教え手から学ぶ」

 古くは「あなたの若い時代、それから最善のものを得る」

 1990年ごろからは、

  「若い人が尋ねる質問-実際に役立つ答え」

 更には、

  「わたしの追随者になりなさい」

  「最も偉大な人」

 

 大きくなると、

  「あなたの家族生活を幸福なものにする」

  「幸せな家庭を築く秘訣」

  「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」

 

こうした「ものみの塔の書籍」を通して、

 聖書に対する「ものみの塔」の見解を学ばさせているものです。

 

これも、

ものみの塔による「指示」「指導」です。

 

こうして、

エホバの証人の子供たち(2世たち)は、

幼い時から「強制的に、聖書」を、

 ものみの塔の「考え」を教え込まれているのです。

 

これも、一見して問題がなさそうにみえます。

 

問題は、

 親は子供にその本を学ばせたことで「十分」だと思っている点にあります。

 

 こうしたことは、

 学校で「教科書」を学ぶようなもので、

  殆ど「心に届いていない」ことが多いものです。

 

 つまり、

 単に形式的に行っているだけで、

 本当に、子供を「教え諭してはいない」のです。

 

聖書では、

 教え諭すよう命じでいます

 

確かに、教えることはしています。

しかし、

 諭してはいないことは「明白」です。

 

子供たちも、

 単に「知識」を学んでいるに過ぎないのです。

 

これでは、

 本当の「教え」とは言えません

 

であれば、

一体どのようにして「子供を躾ける」のでしょうか

 

一般的には、

 誰もが行うように(世の中の普通の人も含めて)

 子供がした「悪い」ことに対する「小言」「叱る」ことによってです。

 

そうです、

 知識と現実は異なるのです。

 

ですから、

 エホバの証人の子供たちに、

 いくら「教えても」それは、単なる「知識」でしかないのです。

 

却って、

それが記憶に留まり、

 成長期に「葛藤」や「反抗」となって現れるのです。

 

おそらく、

こうしたことは、

誰でも「理解」出来るはずです。

 

私が、

 エホバの証人の親が「子供にムチ」を与える時に、

 「子供を教え諭していない

 というのは、

 こういうことなのです。

 

つまり、

 現実的な「教え」と「諭し」をしていないのです。

 

**************

ものみの塔について、更に付け加えるなら、

これらに加えて、

 ものみの塔が指定する書籍を

  小さなグループ(群れと称している)で、毎週1回集まって学び、

 更には、

 「ものみの塔」という雑誌の中に示されている「研究」と題する記事を、

  会衆単位で、毎週1回集まって学び、

  その直前には、

   講演が行われ、聖書に基く話しを、

   メモを取りながら学ぶということをしています。

 

  これらには「予習」をすることが求められています。

  なぜなら、

  本の一節を誰かに読ませ

  そして、脚注にある質問をし、それに答えるという形式で学んで行くからです。

 

  こうして、

  ものみの塔は、

  エホバの証人たちの「思考」「注意」を、

  「意図的に、特定の方向へと向かう」ように仕向けているのです。

  いわゆる「洗脳」です。

  

神権宣教学校と称して、

 すべてのエホバの証人に、

  ものみの塔に指定された聖書の一部を「割り当て」と称して、

  短い5分程度の「話し」を作らせ、

  その実演をさせます。

  これは、

  伝道活動の時の、

   各家庭で、各々関心ある人に、 

   聖書の内容を正しく伝える「訓練」です。

   監督と言われる長老の一人が、

   その「話し」をその場で「講評」します。

奉仕会と称して、

 ものみの塔による「伝道活動」に対する「指示」が、

 長老もしくは奉仕の僕(現在の援助奉仕者)などによって、 

 会衆全員に示されます

 

これらに、加えて、

 週2回の「群れ」による伝道活動が行われ、

 毎週日曜日には、会衆全体による伝道活動が行われ、

 (この時、

  子供たちも一緒に連れて行かれることが多いのです。

  まだ、信者になっていないにも拘わらずです。

  家に、

  一人で、子供たちだけを残しては伝道活動が出来ないというのが、

  その理由とされています。)

 (これは、子供たちを伝道活動に慣れさせるための「口実」です)

 他の日には、個別に伝道活動が行われ、

  特に関心のある人には、

  その人の家に訪問して、

  ものみの塔が発行した書籍などを用いて、

  いわゆる「聖書研究」を司会します。

 

奉仕活動全般は、

 奉仕監督により「監督」され、

 それを「群れ」の、いわゆる司会者と呼ばれる代表者が、

 監督の指示と割当区域を、

  一軒一軒訪問して伝道活動(勧誘活動)をすることになります。

 

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ものみの塔の活動の目的は、

 基本的には、

  聖書の音信を伝えるという宣教活動、伝道活動が中心です。

 他のすべての事柄は、

  伝道活動を「補う」ものです。

 

こうしたことを、

 ものみの塔の「世界本部」にいる、

 いわゆる「統治体」による決定と指示で、

 世界的に行われているのです。

 

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寄付に関しては、

 基本的に求められることはありません。

 しかし、

 各会衆からは、

  毎月集まった寄付の中から、

  支部に送金され、

 また、各支部からは、

  毎月集まった寄付の中から、

  世界本部へ送金される仕組みになっています。

 

こうして集められた寄付で、

 地元の王国会館の建設、

 地域ごとの「大会ホール」の建設、

 支部の建物(宿泊施設、居住施設、集会場所、食道、図書室、ロビーなど)と

 印刷工場と場合によっては農場など、

 支部で働く人々(すべてエホバの証人)のための生活費用、

 地域を巡回して回る監督(大抵は夫婦)のための費用、

 特別開拓者と言われる「全時間奉仕者」に対する毎月の手当、

 その他、

 これらの人々の年金や健康保険などの税金や医療費など、

 (法人税は宗教法人なので「免除」されています。

  このため、

  各会衆は独立した法人扱い、もしくは、ものみの塔日本支部の傘下に置いて、

  税金が免除されています)

 などを行っています。

 

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繰り返しますが、

これらすべては「聖書の音信」を伝え、信者を作るために行われています。

これは、

 イエス・キリストの命令に基づくものとして「ものみの塔」が、

 ものみの塔の設立創始者のラッセルが始めたことです。

 

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これに加え、 

ラッセル以降、

 聖書に忠実であるために、

  三位一体、クリスマス、誕生日の祝い、偶像崇拝(国旗に対する敬礼、お辞儀、

  国家を歌うことを含む)、幼児洗礼、

  血を避けること(輸血拒否、血を食べることを含む)

  などを

 聖書に基づかないものとして「否定」し、信者には「忌避」させて来ました。

 

 さらには、

  世は、事物の体制は「悪魔の支配下にある」と言って、

 「世のものとならない」ようにと教えています。

  つまり、「世の精神」を示すものすべてを「忌避」させています。

  これらに加えて、

  肉の業と称する様々な「悪行」も「忌避」させています。

  

  これらの中に、

  子供に対する「懲らしめのむち棒」も含まれているのです。

 

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今、社会で問題になっているのは、

 こうした「忌避」などなのです。

 

おそらく、世間の人は、

こうした「ものみの塔全般」がどのような組織かを殆ど知りません

 

ただ、表面だけを見て「批判」していることは「明白」です。

 

ですが、

ものみの塔を「擁護」するつもりはありません

 

ただ、

ものみの塔の「実体」を公表しただけなのです。

 

誤解しないで頂きたいと思います。

 

活動全般は、

 非常に組織化され、一見して「問題」はないように思います。

 

問題となる点は、

「忌避」が社会通念上、受け入れられていないことです。

 

ただ、こうしたことは、

 宗教では「良くあること」であるということです。

 

どんな宗教でも、

 「忌避」はあるものです。

 

例えば、

イスラム教の「ハラル=禁止行為」などがそうです。

 

ヒンズー教の人々は、

 牛や豚を食べません。

あるいは、

 アルコールも飲まないこともあります。

 

しかし、

普通は、こうした「忌避」は世の中で受け入れられています

それは、

 暴力、虐待、命などと直接関わりないからです。

 

エホバの証人が、

社会から批判されているのは、

 児童虐待、輸血拒否など、暴力と命が関わっているからです。

加えて、

 信者の子供たちの、

  主に、学校での行事に参加しないという「拒絶した態度」や

  世や世の人々に対する「関心」を禁じているための「精神的苦痛」が、

問題視されているからです。

 

**************

子供たちを「教え諭す」ことに関して、

聖書には次のように記されています。

 

「イスラエルよ,聴きなさい。

 わたしたちのエホバはただひとりのエホバである。

 ゆえにあなたは,心をつくし,魂をつくし,活力をつくしてあなたのエホバを愛さね

 ばならない。

 そして,わたしが今日命じているこれらの言葉をあなたの心に置かねばならない

 あなたはそれを自分の子に教え込み,家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,

 起きるときもそれについて話さねばならない

 また,それをしるしとしてあなたの手にくくり,それはあなたの目の間の額帯とされ

 なければならない。

 それをあなたの家の戸口の柱と門に書き記すように。」

 -申命記6:4-9

 

「それであなた方は,これらわたしの言葉を自分の心と魂に置き,それをしるしとして

 手に結び,それをあなた方の目の間の額帯としなければならない

 あなた方はまたそれを自分の子に教えて,家で座るときも,道を歩くときも,寝るとき

 も,起きるときもそれについて話さなければならない

 またそれを,あなたの家の戸口の柱と門に書き記すように。」

 -申命記11:18-20

 

「少年をその行くべき道にしたがって育て上げよ

 彼は年老いても,それから離れないであろう」

 -箴言22:6

 

 「また,父たちよ,あなた方の子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神

 の規整とをもって育ててゆきなさい

 -エフェソス6:4

 

上記の聖句にあるように、

親、特に父親は、

 子供たちに「エホバの道」を24時間いつでも教え諭すよう求められているので 

 す

 

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例えば、集会中子供がぐずったりするのは、

 子供は仕方がなく連れて行かれている場合が多いものです。

 

 大抵の子供は集会に行きたいとは思っていないのです。

 そのため、

  言うことを聞かない、落ち着きのない、うるさい子供はいるものです。

 

従って、

 集会で子供がぐずるのは「当たり前」のことなのに、

 言うことを聞かないというだけで「子供にムチ」をしている場合が多いものです。

 

+++++++++++++

懲らしめのむち棒が必要な時は、

 非行に走ったり聖書で「非」としている「悪行」を行った時などに限られるので

 す。

 

その場合でも、

 親が正しく「教え諭す」ことが出来れば「ムチ」は必要ないのです。

 

口で言っても分からないから」とか「親の苛立ち」で子供をムチ打つのは、

 虐待以外の何物でもありません

 

また、

懲らしめのむち棒」とあっても、

 必ずしも「ムチ」で叩く必要はないのです。

 

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親は、いわば子供に「切諫(せっかん)」をする以前に、

親は「自分を教え諭している」のでしょうか?

 

子供の過ちや振る舞いや躾などの方法を「深く考えて」いますか

ただ、親の基準や思いだけで「子供にムチ」をしていることが多いのではありませんか?

 

聖書を正しく理解した規準で行っていますか

 

ただ、集会に行って「聞いているだけ」で、

 深く考えることをしていないのではないでしょうか?

ただ、ものみの塔の「言う」ことに従っているだけではありませんか?

 

本当に、十分理解するよう努力していますか?

ただ、聴いたことを、

 感じたことだけで「学んでいるつもり」になっているだけではありませんか?

 

エホバの命令」に従って子供を「教え諭している」点で、

 親たちは、いわば「手抜き」をしているのです。

 

こういう状態で、

親は正しく子供を躾けることが出来るはずがありません

 

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繰り返しますが、

 ものみの塔の書籍や冊子に書いてあることを、

 あるいは、

 集会で、

 子供と一緒に「学んでいる」だけで、

 親は十分理解しておらず、また、子供を「教え諭す」ことが出来ていないのです。

 

+++++++++++++

親は子供に、

 ものみの塔の書籍を通して「聖書の教義」を教えることがあります。

この時、

 親は親としての「権威」を意識し、

  子供の意思ではなく、

  親の考えを子供に押し付けている場合も少なくないのです。

 

会衆では、

 長老たちは自分の立場を「利用」し、

 上位の立場としての長老の「権威」を振りかざし

 自分たちの考えを親たちに押し付けている場合もあるのです。

 

+++++++++++++

こうした「ムチ」は、

 子供にとっては「痛さ」と「恐怖」でしかなく、

 「言うことを聞かない」という理不尽さだけで叩かれている場合が多く、

 逆に、

 親は、そのムチが「殆ど意味をなしていない」ことを理解せず、

 ただ、子供を叩いているのです。

 

 ただ、奴隷をムチ打つようにお尻を叩いているだけなのです。

 

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ある意味、

 親の体裁で「子供が被害に遭っている」場合もあるのです。

 

そのため、

 親は、

 子供の気持ちや考えを「分かろうとも、また、聞こうともしない」のです。

 

もし、

親が、ものみの塔が言うことではなく

聖書に書いてあるように

 いつでも「子供を教え諭している」なら、

 ムチは殆ど「必要」ないのです。

 

更に、

子供を教え諭しても

 身体的、精神的変化などにより、

 反抗期や子供の性質などが表面化する時もあります。

 

そうした事情も考慮することなく、子供を鞭打うことは「愚かなこと」です。

 

+++++++++++++

あなたがエホバの証人の親なら、

 子供を正しく「教え諭す」ようにというエホバの命令を、

 良く考えて従うべきです。

  忍耐強く教えるなら、

  鞭など必要はないのです。

 

子供を鞭打ったことのある親は、

 まず、

 自分自身を教え諭す必要があるのです。

 

大抵の親は、

 ものみの塔や会衆の長老たちに従うことを、

 従順と捉えていることが多く、

 彼らの言うことを「一つひとつ」十分考えて行っている訳ではないのです。

 

まさに、

盲目的な従順なのです。

 

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彼らが批判している「他の宗教」と「同じことをしている」ことに気が付いていないのです。

 

私には、

神に滅ぼされた古代イスラエル人たち」と、

 現代のエホバの証人同じように見えます

 

古代に於いて、

 北の王国と南の王国の人々が、

 それぞれ滅ぼされた時、

  なぜ、自分たちにそのようなことが起こったのかを理解していなかったと思いま

  す。

 

同じことが、

 現代のものみの塔とエホバの証人たち「臨む」ことになるのです。

 

その日は「突然」やって来て「逃れる」ことは出来ないのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

ものみの塔とエホバの証人が「社会から多くの批判」を受けたり、政府からの調査報告を求められていることは、

いわゆる「弾圧」「迫害」に相当するのでしょうか。

 

結論から言えば、

 そうではありません

 

すべて、

 児童虐待や人権侵害などは、

 ものみの塔の言うことを「真に受けた親=エホバの証人たち」がしてきたこと

 す。

 

ものみの塔は人々に「良いたより」と称して、自分たちの解釈で聖書を教え、

 それを受け入れた人々を「エホバの証人」にし、

 多くの人々を信者にして来ました。

 

これは、「勧誘」です。

救われるためには「エホバの証人」になる必要があると。

 

そして、

信者に様々な活動や振る舞いに関して「制限」を設けても来ました。

 信者は、それを「真に受けて」従って来ました。

 

その結果が、

 いわゆる、社会通念上、多くの人々に受け入れられない

 児童虐待、輸血拒否、高等教育の否定、学校での様々な活動の制限、

 に加えて、

 宣教活動のノルマ、集会や大会への出席、

などが行われて来たのです。

 

信者の活動を制限したり、活動させる部分は、

旧統一教会と殆ど同じと言えます。

 

ですが、

信者に教え、従わせて来たという点では、

ものみの塔の責任は「重いのです。

 

自分で従わないことが出来るという点では、

強制はしてはいませんが、

 

「滅ぼされる」「裁かれる」「永遠の命を失う」などという「ことば」を用いて

信者をものみの塔や、会衆の長老たちに「従わせて来た」ことは事実です。

 

実際に、従わない信者を「排斥」または「助言=訓戒」をして来ました。

 

一般的に、

宗教と言うのは「こうしたもの」です

 

しかし、

大抵の宗教では、

 殆どは、その教えを聞いた人自身がそれを受け入れるか否かを決めています。

 

ものみの塔は、

これを「逸脱」し、

 神とイエス・キリストに従うことは「絶対」だと言って、

 自分たちの教えに従うことを「誘導」して来たのです。

 

ですが、

社会問題にまで発展した今となっては、

ものみの塔はこの責任から「逃れる」ことは出来ないのです。

 

一方で、

信者になったものの、

一部の冷静な人々は、

 神とイエス・キリストに信仰を抱きつつ「離れた」者もいます

あるいは、

 排斥された人、断絶した人もいます。

 

更には、

信者として、会衆に留まっているものの、

 懐疑的な人もいます

 

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具体的には、以下の通りです。

 

現実に、

 信者になったものの、

  途中から、

  従って来なかったエホバの証人も少なくありません。

  私たち家族もその一人です。

 

 家族全員が大学に行き、

 子供に対するムチも、

  本当に悪いことをした時1回限りです。

 

 それでも、

 開拓奉仕をし、未割当区域で伝道活動をし、

 会衆では長老であり、大会で司会や祈りや実演を行っていました。

 

 当時は、私もしくは家族を影で悪く言う」人がいたと思います。

 直接批判されたことはありません。

 

 子供たちも、

 エホバの証人になりましたが、

 今では、皆、離れて

  思い思いの人生を送っています。

 

 私以外、信仰を継続しているかどうかまでは「分かりません」

 

 離れて「正解」だったと今でも思っています。

 

私たち家族は、

 誰一人、排斥はされていません

 ある日「突然

  皆、自発的に「断絶」したのです。

 

 もし、不在のまま、そのための審理委員会が開かれたとしたら、

  それは「偽り」「虚偽」です。

 

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以前にも書きましたが、

ものみの塔に、

 従うか否かは基本的には個人の責任」です。

 

しかし、

ものみの塔にも責任はあります

なぜなら、

実際に「行われていた通り」の「指導」をしていたからです。

それは、

 ものみの塔は、

  出版した冊子や書籍で、

 あるいは、

  より大きな「大会」で、

 会衆では教える立場にある長老

  信者にそのように「助言=指導」をして来たからです。

 

長老に従わない者を、

 不従順な者として扱い、

 そういう人の「霊的特権」を剥奪したり、

 活動を制限してきたのは、

 会衆の長老であり、ものみの塔なのです。

 

決定的なのは、

 ものみの塔の書籍に記されていることや会衆の長老に「従わない者」を、

 自分の思い、考えで行動、振る舞う者を、

 霊性の低い者と見なしたことです。

 

真実を言うなら

 彼らに従うことが「霊性が高い」訳ではないのです。

 

また、そのような権威は、

 ものみの塔にも会衆の長老たちにも「無い」のです。

 

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ものみの塔がしていることは、

 イエス・キリストの時代の書士やパリサイ人」がして来たこと同じなのです。

 

当時、

 サンヘドリンに集まっていた大祭司に加えて「書士やパリサイ人」や「サドカイ

 人」たちの考えや決定に「従わない」者を、

 異端者扱いをし、文字通り「迫害」をし、

  ある者を獄に入れたり処刑したりしました。

 

若い時のサウロ(後のパウロ)は、

 そうしたことを「善いこと」だと考えて、

 エルサレム以外の土地にまで追いかけては獄に入れて来たのです。

 

サウロは律法をガマリエルという「民のすべてから重んじられていた律法教師」から学んで、

 律法に精通していました。-使徒5:34、22:3

 

つまり、聖書に無知だった訳ではなかったのです。

 

聖書に精通しているものみの塔は、

 現代の律法に精通した書士やパリサイ人」なのです。

 

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以前は、個人が社会に訴えることは「」でしたが、

旧統一教会の寄付問題、政治との関わりなどの問題が表沙汰になって以降、

 

エホバの証人の2世問題を支援して来た弁護士による団体が、

一層、声を上げ、

 法律で対処するようにと政府や社会に訴え始めました

 

弁護士などによる「訴え」は、

 児童虐待(子供に対するムチ)

 娯楽の制限(世との交わりの禁止)

 教育を受ける権利の侵害(高等教育を制限)

 適切な医療を受けさせない(輸血拒否、保護責任遺棄、輸血拒否カードの携帯)

 学校行事への不参加(クリスマス、誕生会、国歌を歌わない、国旗に礼をしない、 

 クラブ、部活に参加しないなど)

 伝道活動に対するノルマ(伝道活動の強制)

などなどです。

 

+++++++++++++

法律上

健康状態を損なうほどの不適切な養育、あるいは子どもの危険について重大な不注意を犯すこと、をネグレクトと言います。

 

2世たちの「心を蝕ん出来た親の「は、

 彼らの健康状態を損なって来たことは確かです。

 

親権を持つ親の、子供への輸血拒否問題は、

 子供に対する「人権侵害」に当たります。

 

ただし、

 当の「本人」がそう望むのであれば

 これを退ける権限のある人は「一人もいないことは明らかです。

 

例えば、

 自殺をしようとする人を周囲の人は「止めようとします」

 しかし、

 自分の命に対する権限の行使はその人自身にあるのです。

 

これは、

 人が物事を決定する権利を有しているのと同じことです。

 

+++++++++++++

エホバの証人の中で行われている事柄に対する、

ものみの塔日本支部の返答は、

 児童虐待は容認していない、

 一部の人たちの声である、

として、

 批判は正当なものでないと主張しています。

 

子供に対する「躾と称して鞭」をすることを「虐待」と見なしていない、ということです。

 

従うか否かは個人の決定であり、

 そのような信仰は自由だと主張しているのです。

 

教えは教え、それを守るか否かは、

 個人の自由個人の責任

という考えです。

 

基本的には間違ってはいません

教えに従わない者に対する

 ものみの塔からの批判、圧力、会衆の長老たちの対応が、

 自分たちの指導に、あるいは、聖書に従うよう

 信者に「強要」しているのと同じであるという事実、

これを、

 支部は「無視」しているのです。

 

なぜ、「強要」に相当するのかと言えば、

 従わなければという前置きの後の「ことば」に、

 1 信仰を否定することになる

 2 滅ぼされる

 3 永遠の命を失うことになる

 4 権威に対する不従順である

 5 死んだ時、復活はない

 6 悪魔に従うことになる

 ・

 ・

 などを付け加えているからです。

 

ある人々は、これを「脅し」と言っています。

(個人的には、

  「脅し」ではなく「警告」と理解しています。)

 

ものみの塔と会衆の長老たちは、

 こうした「ことば」を用いて、

 信者を従わせているのは「明白」であり「事実」なのです。

 

こうした実態を、

 支部は「熟知しています」。

 

それを前述のような「コメント」をするということは、

いわば、自己矛盾なのです。

 

言い逃れ責任の放棄をしているのです。

 

**************

以前、ものみの塔は、「指導力のない組織である」ということを書きましたが、

信者に教える資格がない」ことの明確な証拠です。

 

子供にムチをするように「教えて」いながら、

それを「否定する」発言をすることは、

 教える資格のない証拠です。

 

信仰は個人の責任だと言いながら、

 教えている張本人が責任を回避していることは、

 教える資格のない証拠です。

 

しかし、

現行法上

 ものみの塔や会衆の長老やエホバの証人の「罪」を問うことは出来ません。

 直接「手を下していない」からです。

 

 ただ、

 「言っただけ」なのです。

 

それでも、

 指導、監督責任はあります。

 

親が子供にムチをしたことなどは、

 児童虐待に当たり、犯罪として検挙出来ます。

 他にも、

  様々な点に於ける「人権侵害」で訴えることも出来ます。

 

つまり、

ものみの塔ではなく、

 自分の「親」を訴えることは出来るということです。

 

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会衆内で起きた「性的虐待」や「パワハラ」などに関しては、

あるいは、

個人的にエホバの証人から同様のことをされた場合には、

 

被害者がその当事者個人その会衆の長老たちの「監督不行き届き」

裁判に訴えることが出来ます。

 

残念ながら「ものみの塔」を訴えることは「困難」です。

訴えを認めさせるには多大な時間が掛かるからです。

 

会衆の長老たちの責任は「ものみの塔の責任」でもあります。

この点も訴えることは出来ます。

 

被害者にとって、

いわば、その告白は「思い出したくない」程「辛い」ことですが、

訴えるなら、

 その事実を「証明」する必要があります。

 

例えば、

 性的被害であれば「診断書」を提出するとか、

 その時の「精液」のDNAなどを鑑定してもらうなどが必要でしょう。

 

 しかし、

 訴える当事者としては「辛い」ことになってしまいます。

 

「悪」は、裁かれなければなりませんが、

 訴える場合、

  証拠や証人という「高いハードル」があることを「承知」していなければなりま 

  せん。

 

そのため、

 訴えることを「控える」人が多いものです。

 

 被害者は、ある意味、

 二度「被害に遭う」ようなものだからです。

 

「勇気」が必要なのです。

 

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すべては

 統治体から派遣され日本支部に来た「アメリカ人」による監督の「指導=強制」が

 問題なのです。

 

日本人は「いい加減、アメリカ人の言いなりになるのを止めなければならないのです。

 

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参考

 旧統一教会の寄付などにより、

 貧困に陥り進学などが出来なくなった原因も、

 

 基本的には「寄付をした親」にあります。

 

 教団も、

 ものみの塔と同じく、

 「ことば」による「脅し」で、

 信者に寄付をさせたり布教活動をさせていたのです。

 

果たして、

裁判所」は、

 この「ことば」による「誘導」を、

 罪に問えるのでしょうか?

 

脅し」「強迫観念」は「罪」に問うことは出来ます

 この場合は、刑事責任となります。

 被害届を警察に提出する必要があります。

 

 いわば、

 親告罪に当たるからです。

 

厚労省が、

 裁判所に訴えているのは、

 「教団の解散命令」に関してです。

 

 いわば、

 民事訴訟なのです。

 刑事訴訟なら、被害届などにより「検察」が犯罪行為に基いて起訴するからです。

 

+++++++++++++

こうして考えて見ると、

 ものみの塔はアメリカ発祥

 旧統一教会は韓国発祥

 

引いては、

 仏教(インド発祥)や

 キリスト教(カトリックやプロテスタントなどヨーロッパ発祥)なども。

 

 ちなみに、

 聖書はイスラエル発祥です。

 

仏教は、

 日本自ら取り入れたものですが、

 他は、外国からやって「来た」ものです。

 

日本古来からあるのは、

 神話に基く神道」だけかも知れません。

 

今もそうですが、

 日本人は外国に「弱い」と言わざるを得ません。

 

もっと、

精錬された「自分」というものを持って貰いたいと思います。

 

しがし、

グローバル化された現代では、

 もはや「手遅れ」かも知れません。

 

**************

これに加えて、

 日本では古来から

 親の子供に対する「暴力」は日常のことだったこともあります。

 

つまり、

 親が躾と称して子供に暴力を振るうことは、

 昔からあったことなのです。

 

日本人の意識の中に、

 子供を叩くことは「当然のことだ」と考えている人が根強く残っているのです。

 「根性を叩き直す」などと言ったものです。

 

例えば、

 漫画「巨人の星」では、

 父、一徹は、子、飛雄馬に「鉄拳」を加えたり「怒鳴ったり」することがしばしば

 でした。

 また、

 怒って「ちゃぶ台」をひっくり返すこともです。

 さすがに、

 姉の明子には手を出しませんでしたが、

 こういうことは、

 一般家庭でも、普通に行われていたのです。

 

 父親の権威、傲慢の「見本」のような漫画でした。

 

 そうした中で、

 子供である飛雄馬は、

 言われた通り「懸命」に頑張って、トップ選手にまで登り詰めました。

 

これは、

 幼い時からの「英才教育」が、

  天才を作り上げるということを印象付けるものでもありました。

 

僕らはマンガで強くなった」というNHKの番組の「はしり」です。

 

躾や訓練と称して、子供に厳しくするということは、

 江戸時代より以前から既にあったことです。

 

それが、

 明治時代の富国強兵という政策の下、

 一層厳しくなって行きました。

 

当時の社会の風潮として、

根性、辛抱、忍耐、努力、必死などは「当然」のことだったのです。

女々しいことは「弱い者、臆病な者、だらしない者、腑抜け」などと言われたものです。

 

子供の躾は、当然親の責任です。

そのため、

 子供が少しでも「悪さ」「不名誉」なことをすると、

 子供は、直ぐに説教をされたり、

 少しでも口答えをすると「殴られた」ものです。

 

こういうことは、

日本全国どこでも行われていたのです。

 

+++++++++++++

イギリスでも同様のことがあったため、

 子供に対する児童虐待を禁止する法律を作り、

 加えて、

 親の子供に対する躾の仕方を示した冊子本を各家庭に配布し徹底しました。

 

私がイギリスでホームステイした時、

 その家にその冊子がありました。

 

そのため、

 今では、DVや児童虐待は殆どなくなっています。

 

イギリスでは、

 1870年ころから、日本の明治時代初期に、

 既に、児童虐待や児童保護に「取り組んできました

 

(詳細なページにリンクを張れませんでした)

「イギリスの児童保護の現状と課題」と題するページを参照にして下さい。

 

**************

欧米では、

 人権が優先されるため、

 行き過ぎた「躾=暴力」は殆どありませんが、

 

 勿論、事故や事件はあります

 

日本では、

 感情的になった親

 「行き過ぎた躾=暴力、虐待、食事制限、(家や部屋に)閉じ込め」

 をすることが珍しくはありませんでした。

 

 子供が自分の考えを言うと、

口答えするな」「生意気に」などと言って、余計殴られたものです。

 時には、

 勘当したり、家から追放することさえあったのです。

 

当時は、それが「当たり前」として、

 親も子も「認識」していたのです。

 

**************

ところが、

戦後、いや、特に21世紀に入ってから

 一層アメリカナイズされた若者が増え

 自由な振る舞いと同時に、

 自分の意見を発言する人が増えてきました。

 

子供が自分の考え、意見を発言することは「良いこと」なのです。

それが「間違い」でもです。

 

それによって、

子供が何を考えているか分かるからです。

 

その後の「躾や指導」の「元」になるのです。

 

冷静で賢い親なら、

 子供の言うことを「聞く」でしょう。

 

+++++++++++++

一番良いのは

子供が何かをしても、

 直ぐに反応しないことです。

 

世間体を「気にしない」覚悟が必要ですが。

 

+++++++++++++

教えは教え、指導は指導としても、

 子供自身が自ら「考える時間」は必要であり、

 子供自身が「自ら過ちに気が付く」ことが重要なのです。

+++++++++++++

 

それを、いきなり「ムチ」打つなら、

 子供の人権は何処にあるのでしょうか?

 

親の教えや云い付け」であってはならないのです。

 

こうして、

子供自身「常識」「マナー」「責任感」というものを培わせていくのです。

 

こうしたことは、

一重に「親の指導力」に依存しています。

つまり、

親が無知だと

 ものみの塔の言いなりになってしまうということです。

 

これでは、

 信仰があるとか強いなどと言えるレベルの話ではないのです。

 

単なる「愚かな行為」なのです。

 

ものみの塔とエホバの証人の失敗の根本原因は、

 子供自身が自分で考え、行動するように「促さず」

 親が「そうさせて来た」ことにあります。

 

実に愚かなことです。

 

良くある例が、

 集会中、子供がうるさくしたり言うことを聞かない時に、

 親が子供を別室に連れて行き、

  他の人が聞こえているにも関わらず、

  子供にムチ打ったことです。

 

 家庭内でも、

 親の言うことを「聞かない=従わない」ことがあると、

 ムチ打って来たのです。

 

子供を「教え諭す」べきで、

 ムチは「行き過ぎた」ことなのです。

 

実に愚かなことです。

 

**************

私はこうしたことは、

 大人になり子供を持つようになってからは

 親の無知だと考えていました

 

こうした人々は、

 家訓がないため

 目標とする「人格」も持っていなかったのです。

 

 つまり、

 生まれつきの人

 こうした点で何の教育もなされないまま「大人になった」人なのです。

 

この点、武士の家系では、

 必ず家訓というものがあって、

 伝統的に受け継がれて来たものです。

 

そのため、

 いわゆる名家の生まれの人は、

 社会的な立場に立つことも多かったのです。

 

私は、若い時から、

 家庭での問題が社会化する度に、

 家に家訓のないことが原因であると発言し続けて来ました。

 

この考えは今でも変わりません。

 

我が家では、

その家訓が「聖書」に変わっただけです。

 

+++++++++++++

私自身は、

 親に叩かれたことは一度もありません。

 子供を叩いたこともありません。

(子供を懲らしめたのは、1回だけで、それは妻がしました。

 理由は、女の子だったからです)

 

 常に「話し」をして来ました。

そのため、

 子供が苛立ち不機嫌になることもしばしばでした。

 子供が口を利かなくなったこともありました。

しかし、それでも、

 子供に何かを制限したり暴力を振るったりしたことはありません

 

今でも、

 子供たちは(いわゆる、エホバの証人の2世ですが)「自分の考え」で、

 人生を生きています。

 

 今でも、殆ど親の言うことを聞きません

 

しかし、

 親離れという点では「成功」しました。

 子供たちは、それぞれ「自立」しているからです。

 

 結婚もし子供もいます。

 

私たち夫婦は、

 今は元気ですが、

 老後の介護などを「子供に依存」していませんし、しません。

 

 子供たちも「するとは考えていない」と思います。

 

+++++++++++++

幼い時に、親からされたことを、

 今になって

誰かに「訴える」、あるいは、「愚痴る」、

 というのは、

 

彼ら(宗教2世たち)は、

 精神的に自立しておらず

 いわゆる「親離れ」が出来なかった人たちなのです。

 

ある意味、

 精神的に「弱い」人間だったのです。

 

親に問題があると、

 子供にもそれが「遺伝」するかのようです。

 

実に「愚か」で「むなしい」ことです。

 

+++++++++++++

最近、

幼い時に、

 親から性的虐待を受け、その後精神的苦痛を受けたとして損害賠償を求めた裁判が

 ありました。

 

 1審、2審とも、

 被害を認めたものの、賠償は却下されました。

 

 被害があってから年数が(20年程)経ち過ぎており

  その間に訴える機会があったというのが理由でした。

 

 被害者は最高裁へ上告しました。

 さて、

 結末はどうなるのでしょうか?

 

加えて、

 最近は、

 殺人に対する「時効」は無くなりましたが、

 他の事件や民事訴訟では「時効」が存在しています。

 

 これを無くそうとする「動き」があることも「事実」です。

 

個人的には、

 これは「良いこと」だと考えています。

 

 是非とも、そうなって欲しいと思っています。

 

 そうすれば、

 罪を犯した人は「生涯」心に負担を感じて生きて行かなければならないからです。

 それが、

 犯罪抑止につながるからです。

 

あなたはどう思いますか?

 

**************

ですが、

 社会問題化された今となっては

 「愚か」「むなしい」では済まされなくなるところまで来ました

 

さて、

 ものみの塔も世間も

 この問題をどのように「対処」するのでしょうか?

 

私は「注視」したいと思います。

 

いずれにしろ、

今ものみの塔とエホバの証人に対して、世間で起きていることは、

 宗教に対する「弾圧」でも「迫害」でもありません

 

**************

私は今のこうした状況は、

次の聖書の預言の一部ではないかと思うようになって来ています。

 

「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,[もろもろの]民と群衆と国民と国語を

 表わしている。

 

 そして,あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸に

 し,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くすであろう

 

 は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。

 すなわち,彼らの王国を野獣に与えて[彼らの]一つの考えを遂行し,の言葉の成し

 遂げられるに至ることである。

 そして,あなたの見た女は,地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市を表わしてい

 る」。

 -啓示17:15-18

 

この預言のポイントは次の点です。

1 娼婦が座っているところは,[もろもろの]民と群衆と国民と国語を表わしている

2 十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつ

  くし,彼女を火で焼き尽くす

3 は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れた

 

ここで「地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市」とは、

宗教組織であることは「明白」です。

 

ポイントは、

大いなるバビロン=娼婦を滅ぼすのは、政府機関であるという点と、

その考えを神が政府機関にそうするように考えさせるという点です。

 

つまり、

大いなるバビロンの滅びは、

 神の仕業だということです。

 

更に、

「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望

 まないなら,彼女から出なさい

 

 彼女の罪は重なり加わって天に達し,は彼女の[数々の]不正な行為を思い出され

 たのである。

 彼女自身が返したとおりに彼女に返し,二倍を,つまり,彼女が行なったことの二倍を

 彼女に行ないなさい。

 彼女が混ぜ物を入れた杯に,二倍の混ぜ物を彼女のために入れなさい。

 彼女が自分に栄光を帰し,恥知らずのおごりのうちに暮らしたその分だけ,彼女に責

 め苦と嘆きを与えなさい。

 

 彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。

 やもめなどではない。

 嘆きを見ることは決してない』と言いつづけているからである。

 

 そのために,彼女の災厄は一日のうちに来る。

 それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされるであろう。

 彼女を裁いたエホバは強い方だからである。」

-啓示18:4-8

 

この預言のポイントは以下の通りです。

1 彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい

2 彼女の[数々の]不正な行為を思い出された

3 彼女が自分に栄光を帰し,恥知らずのおごりのうちに暮らしたその分だけ,彼女に

  責め苦と嘆きを与えなさい

 (彼らの行いを批判し、その責任を追及し、それによって裁かれることを彼らは嘆

  くということです)

4 彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。やもめなどではない。

 (これは、そうなっても【夫である】神に見捨てられないと思い込んでいることを

  示しています)

5 彼女の災厄は一日のうちに来る。

  それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされる。

 (信者たちは、

  「霊的」に殺され、その無活動状態を嘆き、霊的に神の言葉に飢えた状態にされ

   た上に、

   彼らが崇拝していた場所は、

  「火で焼き尽くされ」灰になり、跡形もなくなってしまうことを示していま 

   す。)

 

参考

 丁度、古代イスラエルに於いて、

 北の王国十部族がアッシリアによって、滅ぼされ「各地に散らされました」

  【彼らはサマリア人と呼ばれ】サマリア、レバノン、シリアなどに点在して暮ら 

   すことになったのです。

   AD500年頃以降、彼らのある者はイスラム教を崇拝していると考えられま

   す。

 南の王国二部族がバビロニアによって、滅ぼされ「バビロンに流刑にされまし

   た」

  【彼らはユダヤ人あるいはヘブライ人と呼ばれています。】流刑後、ユダヤ人は

   エルサレムへの帰還が許されています。

   そして、ソロモンが建てた神殿の再建もしています。

   この神殿は、AD70年にローマ軍によって破壊され、今日に至っています。

   同時に、

   北の王国と同じく、国を失ってしまいました。

   イエス・キリストをメシアと認めないユダヤ人ユダヤ教の下で暮らしていま

   す。

 こうして、

 古代の「神の民」が「神により裁かれた」ように、

 「自称、神の民」と称するものみの塔とエホバの証人」も裁かれるのです。

 

 同時に、他のキリスト教や宗教。)

 

「彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。

 やもめなどではない。

 嘆きを見ることは決してない』と言いつづけている」

 と記されているように、

 彼らは

  最後まで自分は正しいのだと思い込み、正しいと主張していることを示してい

  ます。

 

こうして、

大いなるバビロンは「滅んで、跡形もなくなって行く」のです。

 

**************

最後に、

 宗教が政治に関与することを、いわば、禁止すること「政教分離」が、

 民主主義国家では当然とされています。

 

ところが、

 逆のことが行われようとしています

 

つまり、

 政治が宗教に立ち入って規制」をすることが行われようとしています。

 

オーム真理教に解散命令を出された例もあります。

旧統一教会はその最中にあります。

 

場合によっては、

 ものみの塔もそうなるかも知れません

 

これは、宗教法人に対してであり、

 個人が信仰を続けることまでは「規制」出来ないということです。

 

個人的な思いとしては、

ものみの塔も「解散命令」により「解散」され、

 個人で宗教、信仰を行うことの方が、

 正しい、崇拝形式だと考えています。

 

是非とも、そうなることを願っています

 

ヤコブは次のように述べています。

自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても,自分の舌にくつわをかけず,自らの心を欺いている人がいれば,その人の崇拝の方式は無益です。

わたしたちのまたから見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。

すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」

-ヤコブ1:26-27

 

ものみの塔とエホバの証人は、

自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても,自分の舌にくつわをかけ

 ず,自らの心を欺いている人

 であり、

「自分を世から汚点のない状態に保つこと」に失敗した人々です。

 

 これは、

 世間から批判を受けないということではなく

 霊的に、つまり、崇拝に於いて「汚点」がないという意味です。

 

ものみの塔とエホバの証人はこの点でも汚点を残しているのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

長年歴史も伝統も人気のあった宝塚歌劇団で、

 労災と認定された事件が「表沙汰」になりました。

 

 過労死と認定されましたが、

 本質は「いじめ、パワハラによる自殺」です。

 

 これはいじめた人たちが「直接手を下した」訳ではないので、

 刑法では「いじめ」に対する処罰のみです。

 

 ですがその人たちが公表されていませんし、

 いじめとして「警察も調査や取り調べ」を行っていません。

 

 遺族としては納得の行かないことです。

 

社長の辞任だけで済ませようとしていますが、

それだけでは収まらないでしょう。

 

これは、「氷山の一角」です。

 

先輩による「いじめ」は伝統的に行われて来たもので、

 今回もそれに倣って行われたことなのです。

つまり、

 先輩は「後輩いじめ」をすることで、

 後輩を指導していたつもりなのです。

 

(参考:

  私も学生時代、先輩による「個別指導」を経験したことがあります。

  私自身はその指導を直接受けたことはありませんが、

   伝統的に行われていたことです。

  

  怒鳴る、罵声を浴びせる、小言を言う、

  びんた、腕立て伏せ、ランニング、

  作業のやり直しと繰り返しなどなど。

 

  学校で教師をしていた時、

  学年主任に「パワハラ」をされたことがありましたが、

  それが陰湿ないじめに発展することはありませんでしたし、

  その学年主任が「大人げない」人格に劣る人と見なしていましたので、

  特に問題として学校や大学に訴えることはしませんでした

  しかし、

  その人とは二度と口を利きませんでした。

  

  同じころ、

  同じ学校の社会科の若い女性教師が教頭からパワハラのような言動をされ、

  一時期職場に来られなくなり、その後、その教頭が注意処分を受けたこともあり 

  ました。

  1年後に女性教師も職場復帰しました。

  残念だったのは、その教頭はもうすぐ校長になる人材だったのに、それを棒に振

  ったことでした。

  悪い先生ではなかったのですが、魔が差したのかも知れません)

 

そのため、

 調査に対しても「誰がしたか」などが全く公表されませんでした。

 

団員を守るためだったと思われます。

 

もし、公表したら、

 110年という長い間、

 数え切れない位の人が、「いじめやパワハラ」をして来たに違いないので、

 発表出来なかったと言った方が正しいと思います。

 

実際、

いじめをした人が、一人ではなく複数人いたと考えるのが筋の通ったことです。

 

誰がしたにしろ

 今回の事件で、

「いじめやパワハラ」をした人は「生涯心に負担」を抱えることになったのです。

 

今、正直に名乗り出れば「少しが懺悔」になります。

しかし、

名乗り出ないのであれば「生涯、隠して生きて行く」ことになるのです。

 

そして、「悔いの残る人生とその終わりを嘆いて死んで行くのです」

 

実に、自分の人生を「惨めな人生」にした「取り返しの付かない」ことをしたのです。

 

今、名乗り出ない限り、

例え将来懺悔しても「手遅れ」で、

 誰一人「かばう者」はいないでしょう。

 

憎むべき「社会の出来事」です。

 

戦争は、個人ではどうにもなりませんが、

いじめは「個人間で行われる」ことです。

 

防ごうと思えば出来ることです。

それだけ「罪は重い」のです。

 

おそらく、世間の人々はこうした考えと「同じ思い」を持っていると思います。

 

宝塚歌劇団は「終わった」のです。

 

この先、劇団として改善しても、

 どんなに演技しても

「皆、冷ややかな目で見る」のです。

 ファンも離れて行くことも必定です。

 

公演の「チケット不買運動」をしても良いのではないかと思います。

もはや、

団員を見る「世間の目は」以前とは異なるのです。

 

団員であるなら「これに耐えられますか?」

 

正常な精神なら「耐えなられなくなり」退団するのが普通です。

 

**************

既に、退団した俳優や引退した人たちは、

 劇団に所属していた当時のことを、

 経験として公表することも、

 「社会貢献」になるのではないでしょうか?

 

11月17日に、ある人が自分が所属していた当時のことを語っていますが、

もっと、大勢の元劇団員が「発言」することで、

宝塚歌劇団は「必然的に変わらざるを得なくなる」のです。

 

こうして、

次の犠牲者を防ぐことが出来るのです。

 

特に、引退した人などは後日談として、「匿名」で公表しても良いのではないでしょうか。

あるいは、劇団出身者として「公表する責任」があるのではないでしょうか?

 

**************

 

知恵を求める人のためのブログです。

社会問題が発生すると、

 その問題を解決するための「法律」が、その都度つくられます。

 

政府や国会議員は、

 こうして、国民の不都合、不幸せを、

  少しでも幸福に近づけようとします。

 

これが議員の「仕事」であり、国民に寄与することです。

 

1 子育て支援

  出産支援、育児支援、就学支援、児童扶養支援

2 低所得世帯支援

  生活費補助支援金、

3 介護支援

  介護をする人の賃金、介護保険の活用、介護保険割合

4 技能習得支援

  受け入れ企業への補助金、

5 高額医療費支援

  一定限度額以上の補助、保険料適用割合、保険割合

6 犯罪被害者支援、交通事故被害者支援

7 犯罪者の社会復帰支援

8 就業支援

  ハローワーク、職業訓練、

  労災、過重労働(過労)、

9 望まない妊娠とその出産支援

10 DV、ストーカー対策支援

11 公害保障、薬害保障、疫病支援、

12 原爆保障、

13 税制改革による減税

などなど、

他にも沢山あります。

 消費者、金融、財政、外交、防衛、災害、農業、漁業、林業、

 地球温暖化、再生エネルギー、・・・

 

こうしたことは、

どの国でも同様に行っています。

 

つまり、

これが政治ということです。

皆さんが知っての通りです。

 

**************

当然の成り行きのように思えますが、

果たしてそうでしょうか?

 

社会問題の中で、

 行き過ぎた「支援」が行われていると思うことはないでしょうか?

 

 その支援のために、

 毎年国家財政が「赤字」になっていることは、

 誰もが知っていることです。

 

政府は「国民の不安や不満」を「お金で解消」するために、

多額の補正予算を用いています。

 

いわゆる「対症療法」です。

一時凌ぎです。

 

中には、

その法律の制定に「乗じて」利益を貪ったり立場を利用したりする者がいるのも事実です。

法案を制定する段階で「既に、こういう貪欲な者」の画策が始まっているのです。

 

例えば、

安倍政権の時の、

「森友・加計学園問題」
「桜を見る会」

 などがあったことを覚えていると思います。

 

 いわゆる「忖度」という言葉が、

 政治の世界で飛び交ったものです。

 

コロナ渦中での緊急支援を「悪用」したケースも多々ありました。

 

**************

そもそもに於いて、

特に、国内の社会問題が発生する原因はどこにあるのでしょうか?

 

進学問題、人口問題、就職問題、経済問題、賃金問題、健康・医療問題、

災害問題、老朽化問題、

などその時々、その時代ごとに解決を要する様々な問題が発生します。

 

その原因は、

外交、防衛、金融、財政、災害などを除くと、

 

1 法律が不完全である。

2 国民の「道徳」や「風紀」が乱れている

 

この二つの点に要約されるのではないでしょうか?

 

**************

1 法律に関して

 

どの国の法律も、

自国や国民の利益のみを重視したものとなっており、

そのために、

あらゆる点での不備が生じている」ということです。

 

1 政府と法律の在り方

2 犯罪の取り締まりと罰則の在り方

3 体制や社会に反発する態度

4 行き過ぎた自由な態度(他に対する敬意の欠如)

5 裕福な人々の傲りや誇りのために思い上がる人々の態度

6 社会の「空気感」

などなど。

 

国会では、

 国のため、国土強靭化、国民のため、

 などということが、

 法律の根幹になっていることが分かります。

 

+++++++++++++

法律は、

 国や国民の「利益」のためにあるのではなく、

 国民の平和と安全、安寧のためにあるのです。

 

 国民を縛ったりコントロールするためのものではないのです。

 

「利益」と「規制」と「公正、公平」を期するするために、

「歪められた」不備な法律が出来るのです。

 

ということに気が付いている政治家は「殆どいません」

 

**************

2 国民の「道徳」や「風紀」について。

 

おそらく、イスラム教やヒンズー教を信仰している国以外では、

 社会の「風紀」を取り締まっている国はないと思います。

 

イスラム教やヒンズー教が「善い」と言っているわけではありません。

が、

社会に「法律以外」でも一定の秩序が必要であることは、

皆が周知していることです。

 

むしろ、

抜本的に社会の「風紀」を取り締まる法律がないことの方が問題なのではない

でしょうか?

 

戦前にはありました。

 警察官の「独断」である場合もありましたが、

 取り締まりは行われていたのです。

 

 特に、男女間の交際、つまり、デートは、戦後になって初めて許されたのです。

 

学校教育でも、

 日本では、明治以降終戦まで、幼稚園や小学校を除いて、男女別学が主流でした。 

 これは、1891年(明治24年)に出された「学級編成等ニ関スル規則」に基づい

 て、当時の尋常小学校の1、2年だけを共学として、

 3年生以降は男女別学としていからです。

 男子と女子では、授業内容も教科書も全く別とすることが、公立、私立問わず義務

 付けられていました。

 

戦後、アメリカからいわば「解放された自由」が日本社会に入り込み、

 アメリカナイズされた「若者たち」が、

 立場や所を構わず「好き勝手」に振る舞うような社会が出来てしまいました。

 

これを十分取り締まることが出来ないため、

遂に、今日では、

 新宿でいわば若い女の子の「闇売春」が横行するようになり、

 そこに男たちが「群がっている」のも事実です。

 

つまり、

「若者の自由」が社会を悪くしたと言っても過言ではありません。

 

職業の自由や自由な発想と、

 風紀や道徳の自由とは「全く、異なることを理解していなかった」のです。

 社会も若者も。

 

ただ、

アメリカに倣って、ただ何でも「自由、自由」と叫んで「好き勝手に、我が物顔」で、横柄に振る舞って来たのです。

 

この自由を抑えたり批判すると、

 人権侵害、抑圧、権利の乱用、などと主張し反発して来ました。

 

それが元で、

 法律の規制も「緩く」なり、

 様々な「変な法律」が出来ています。

  LGBT、男でありながら女であるという性別、

  セクハラ、パワハラ、ストーカー、DV、

  差別発言、

  男性の育児休暇、

  過労、労災、男女平等(人権以外での)

 など。

 

+++++++++++++

性犯罪は「世界的な傾向」です。

 

(参考:これは、

  ノアの大洪水前の、

  悪霊たちがその発端となっていることを誰も知りません。

  殆どの人は、

  単に、「人間の性向」だとしか考えていません)

 

婚外関係による「性的交わり」も、

(戦前は、いわゆるが社会的に認められていました)

戦後増加し、

 恋人同士の「セックス」は、今や当然のように思われています。

 その結果、望まない妊娠をする女性が急増していることは、

 殆どの人は知っています。

 

そして、多くの場合、身内以外の誰もそれを「咎め」たりはしないのです。

 

これら以外の「」も、

すべて「人々が享受している自由」が根本原因なのです。

 

+++++++++++++

その一方で

 望まない妊娠をした女性やその子供を支援することが行われています。

 

こうしたことは、

 いわゆる「弱者救済」で、

 社会通念として「善いこと」のように思えます。

 

(参考:弱者救済は社会を滅ぼすと言った人がいます。

    これは理屈に合った発言です。

    あなたにはその理屈が分かりますか?

 

    単に、貧しい人や病人を助けるということ以上のことは、

    社会に取って有害となるのです)

 

そもそもに於いて、

 当事者が「悪いことをした」のに、国や自治体がその人を支援をするということ

 は、

 道理に合いません

 当事者に「責任」を負わせるべきなのです。

 

国が犯罪者あどの更生のために「多額の税金」を使うことは「道理」に合いません

 

+++++++++++++

また、

政府や自治体が「このような問題に対応」するに「新しい法律」を作り、支援をしていたのでは、

国や自治体の「税金の投入が底なしに増加」することは「目に見えています」

 

**************

なぜ、

どの国もこうした「愚か」なことをするのでしょうか?

 

+++++++++++++

それは、

古代イスラエルの「律法」のような完全な法律」がないからです。

その精神である「公正と憐みと忠実」が「法律に反映されていない」からです。

また、律法を遵守するために、

 一人ひとりの、「清い心と正しい良心と偽善のない心(信仰)」が不可欠なので

 す。

-マタイ23:23、テモテ(一)1:5

 

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つまり、

どの国も、

 法律それを守る国民も「両方に問題がある」ということです。

 

**************

こうしたことのために、

人々の人生がむなしいものとなっています。

 

聖書には次のように記されています。

 

「実にすべての事に時と裁きがあるからである。

 

なぜなら,人に臨む災いは非常に多いからである。

何があるようになるかを知る者はだれもいないからである。

 

なぜなら,何が起こるかを,一体だれがこれに告げることができよう。

霊をとどめる力を霊に対して持っている人はだれもいない。

 

また,死の日には何の支配の力もありえない。

また,その戦いには放免もない。

そして,邪悪さもこれにふける者たちを逃れさせはしない。

 

わたしはこのすべてを見た。

そして,人が人を支配してこれに害を及ぼした時[の間に],日の下で行なわれたすべての業に心を用いるのであった。

 

しかし,そうではあっても,わたしは邪悪な者たちが葬られるのを,彼らが入って来ては聖なる場所から去って行き,彼らがそのように行動した都市で忘れ去られるのを見た。

これもまたむなしいことである。

 

悪い業に対する刑の宣告が速やかに執行されなかったため,それゆえに人の子らの心はその中で悪を行なうよう凝り固まってしまった。

 

罪人が百回悪を行ない,その思いのままに長らえようとも,

 

わたしは[まことの]を恐れる者たちが[]を恐れていたために良い結果になることに気づいてもいる。

 

しかし,邪悪な者は決して良い結果を[見る]ことなく,影のようなその日々を長くすることもない。

彼はを恐れていないからである。

 

地上で行なわれているむなしいことがある。

邪悪な者たちの業に[生じる]かのような事態が自分の身に生じている義なる者たちがいる。

義なる者たちの業に[生じる]かのような事態が自分の身に生じている邪悪な者たちがいる。 

 

わたしはこれもまたむなしいと言った。」-伝道の書8:6-14

 

**************

では、

真の幸福な人生は「存在」するのでしょうか?

それとも、「存在」しないのでしょうか?

 

あるいは、

幸福は「一瞬の出来事」でしかないのでしょうか?

 

イスラム教やキリスト教や仏教などでは、

 死んで「天国」に、あるいは、生まれ変わって「幸せになる」などと教えていま 

 す。

 

あなたもそう思いますか?

 

これらの、教えでは、

もしかすると、「地獄に行く」こともあるのです。

 

聖書では

 天の王国に入れる人は限られた人だけです。

 生き残る人や復活する人は、

 地上で生きることになっています。

 最後には

  死も嘆きも叫びも苦痛も、当然、犯罪や悪もない世界で。-啓示21:4

 

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イエス・キリストを信じる者は救われると述べられています。

 -ヨハネ6:47、使徒13:39、

 

 「の知恵によることでしたが,世はその知恵を通してを知るに至らなかったので, 

 宣べ伝えられる事柄の愚かさを通して,信じる者を救うことをよしとされた

 です」

 -コリント(一)1:21

 

 神の力、神の知恵とは、

  イエス・キリストのことです。-コリント(一)1:24

 

 神は「世の知恵」を愚かなものとされたともあります。

  世の賢人たちの知恵、知能のたけた者たちの聡明さ、弁論家、

  などを愚かなものとされたのです。-コリント(一)1:19-20 

 

 神は、

 イエス・キリストを通して「神を知るようにされた」のに、

 世の人々はそうならなかったので、

 宣べ伝えられる事柄の愚かさを通して、ご自分を信じる者を救うことをよし

 とされたということです。

 

 神の愚かな事柄は人間より賢いと述べられています。-コリント(一)1:25

 

 つまり、

 キリストに代わる者を用意して下さったということです。

 それは、使徒たちでありクリスチャンたちのことです。

 

あなたは、

 何に「期待」を抱いて、何を「信じ」ますか?

 

知恵を求める人のためのブログです。この記事を読むあなたに神の導きがあるようにと願っています。

エホバの証人の会衆内で生じている「エホバのみ名を汚す出来事」に触れる度に「悲しい思い」をするのは私だけではないと思います。

 

 性的暴行や強要、セクハラ、淫行、

 子供に対する鞭、

 無知で傲慢な長老たちの振る舞い、パワハラ、

 脅し、誤った権威の行使、

 「教義の押し付け」「教義の誤った解釈と適用」

 高等教育の否定、

 寄付の誤った用い方、税金逃れ、

 生活保護の受給、世の法律の利用(適用は当然のことです)、

 富を求めること(これは信仰の否定を意味します)

 ・

 ・

 などなど。

 

被害の当事者にとっては「憤り」の何ものでもないと思います。

 

しかし、

こうした悪事と「真の崇拝」とは「分けて考える必要」があります。

 

**************

信仰は個人のことです。

他の人の影響を受けることは「止むを得ない」としても、

 決定するのは「個人の責任」なのです。

 

性的被害を「我慢」するのも「自分の責任」と考えることが出来ます。

例え、幼くともです。

 小さい子供でも「嫌なものは嫌」とはっきり言います。

 ですから、

 出来ないことはないのです。

 

 厳しい言い方ですが、

  もし、これが出来ないと「人間としての尊厳を失う」ことになるからです。

 

勿論、悪事を働いたエホバの証人たちは、

 間違いなく「火と硫黄で燃える湖に投げ込まれる」ことになります。

 

**************

かつて、

神の民であったイスラエル国民の間でも「同様の悪事」が行われていました。

そして、

遂に、神は彼らを「滅ぼした」のです。

 

しかし、

人類を救うイエス・キリストの到来までは、

 存続を許されました。

 

しかし、

イエス・キリストが役割を終えると、

AD70年に、遂に、完全にユダヤ人は、

 諸国民の間に散らされ、

 国を持たない国民にされてしまったのです。

 

+++++++++++++

ユダヤ人を滅ぼす「エホバの剣」となったローマ帝国の末裔が「滅んだ」後、

第二次世界大戦後、

イギリスとアメリカが、

 イスラエル人(ユダヤ人、主に南の二部族の末裔)たちが、

 パレスチナ人たち(イスラム教を信仰するアラブ人)を押し退け「国」を持つよう

 にしたのです。

(参考:もしかすると、パレスチナ人の中に、

  北の十部族の末裔が含まれているかも知れません。

  彼らは、サマリアやレバノンやヨルダン川の東側の住んでいたので。

  境目は、概ねエルサレムの北と南です。

  ソロモンの次の王、レハベアムの時から、

  南北の部族は争っていました。)

(更には、

  十字軍(キリスト教)とイスラム教徒との戦いも関係しているかも知れません。

  が、聖書的には根拠に乏しいものです。

  なぜなら、

  神が十字軍を用いるとは考えられないからです。

  また、

  ユダヤ人が失った土地を再び回復するという預言もありません)

  

いわば、悪魔が、そのように仕向けたのかも知れません。

(悪魔が自分の力と座と権威を与えた野獣の前でその権威を行使する二本の角のある

 野獣による仕業と考えることも出来ます。)

 

しかし、

イスラエルの建国が、神のご意思ではなかったことは

その後に生じた数々の出来事が証しています

 

この時の遺恨は現代まで続き、

 つい先日も、ハマスとイスラエルの戦いが生じています。

 こうした争いは、

 戦後ずっと続いて来たのです。

 

この戦いに終わりはないでしょう。

 事物の体制が終わる時に「終わる」のです。

 

**************

ユダヤ人つまりイスラエル国民は、

 古代に於いては「神の目的」がありましたから、

 罪を犯しても、神の民でいられましたが、

 

 イエス・キリスト以後は、

 もはや神の民ではなくなったのです。

 

**************

ものみの塔は、

 自らエホバとイエスの名を語り「神の組織」と言っているだけで、

 本当の「神の組織」あるいは「神の民」ではないのです。

 

**************

したがって、

 ものみの塔、つまり、会衆内で起きている「エホバのみ名を汚す」ことに関して

 も、

 事物の体制の滅びまで

 神の裁きは「待たなければならない」のです。

 

被害に遭った人たちは、

 運が悪かったとしか言いようがありません。

 交通事故に遭ったようなものです。

 

**************

更に、

エホバの証人たちの間に、

 事物の体制が存続している現在、

 自分の裕福な生活を「神の祝福」と考えること自体「有り得ない」ことなのに、

 そうしたことを「公言」している人は、

 それが「信仰の欠如」であることに「気が付かないのはなぜなのでしょうか?」

 

この終わりの時代にあっても、

 自分たちは「特別」なのだと思っているのでしょうか?

だとしたら、

 ものみの塔の「教えが間違っている」証拠となります。

 

**************

真の信仰を実践することで「豊かになる」のは「霊的な事柄に関してのみ」なのです。

 

実生活に於いては、

 多くの苦難に遭遇するのです。

 

イエスは「終わりの日のしるし」として次のように言われました。

 「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへ

 と食糧不足や地震があるからです。

 

 これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。

 

「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。

 またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょ  

 う。

 またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。

 そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。

 また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。

 

 しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。

 

 そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地

 で宣べ伝えられるでしょう。

 それから終わりが来るのです。」-マタイ24:9-14

 

世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服 

 したのです」-ヨハネ16:33

 

王国のこの良いたより」とは、

  イエス・キリストの「臨在」と「事物の体制の終結とそのしるし」のことで 

  す。

  つまり、

  全世界の人々に、これが伝えられてから終わり来るということです。

  しるしは「証」となるのです。

 

  だれが、これを導くのでしょうか。

  それは、

  中天を飛ぶみ使いたちです。

  ヨハネへの啓示の中で、

  終わりの日の「一連の出来事」関して次のように記されているからです。

  

「また,わたしは別のみ使いが中天を飛んでいるのを見た。

 彼は,地に住む者たちに,またあらゆる国民・部族・国語・民に喜ばしいおとずれとし

 て宣明する永遠の良いたよりを携えており,

 大声でこう言った。「を恐れ,[]に栄光を帰せよ。

 []による裁きの時が到来したからである。

 それゆえ,天と地と海と水のわき出るところとを造られたを崇拝せよ」。

 

  また,別の,二人目のみ使いがそのあとに従って,こう言った。

「彼女は倒れた! 大いなるバビロン,あらゆる国民に自分の淫行の怒りのぶどう酒を

 飲ませた者は倒れた!」

 

  また,別のみ使い,三人目の者が彼らの後に従い,大声でこう言った。

野獣とその像を崇拝して,自分の額または手に印を受ける者がいれば,

 その者は,憤りの杯に薄めずに注がれたの怒りのぶどう酒を飲むことになり,聖な

 るみ使いたちの見るところで,また子羊の見るところで,火と硫黄による責め苦に遭

 わされるであろう。

 そして,彼らの責め苦の煙は限りなく永久に上り,彼ら,すなわち,野獣とその像を崇

 拝する者,まただれでもその名の印を受ける者には,昼も夜も休みがない。

 

 ここが,聖なる者たち,すなわちのおきてとイエスの信仰を守る者たちにとって,忍

 耐となるところである」-啓示14:6-12。

 

 

+++++++++++++

自らの欲望に関しての「悪い出来事」は、

 自らの責任です。

 

 悪魔がもたらしたものではありません

 

+++++++++++++

イエスは、

事物の体制の終わりのしるしに関連して、

終わりまで耐え忍んだ人が救われる者ですと言われました。-マタイ24:9-13

 

耐え忍ぶ生き方に、

 現在の、物質的な豊かさは「そぐわない」ものです。

 

イエスは、こうも言っています。

「さて,見よ,ある人が彼のところに来て,こう言った。

「師よ,永遠の命を得るために,わたしはどんな善いことを行なわなければならないで

 しょうか」。

 

 [イエス]は彼に言われた,「なぜあなたは善いことについてわたしに尋ねるのです

 か。

 善い方はお一人だけなのです。

 

 しかし,命に入りたいと思うならば,おきてを絶えず守り行ないなさい」。

 

 彼は言った,「どの[おきて]ですか」。

 

 イエスは言われた,「ほかでもない,あなたは殺人をしてはならない,姦淫を犯しては

 ならない,盗んではならない,偽りの証しをしてはならない,

 [あなたの]父と母を敬いなさい,そして,隣人を自分自身のように愛さねばならな

 い」。

 

 その青年は言った,「わたしはそれらをみな守ってきました

 まだ何が足りないのですか」。

 

 イエスは言われた,「完全でありたいと思うなら,行って,自分の持ち物を売り,貧し

 い人たちに与えなさい

 そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。

 それから,来て,わたしの追随者になりなさい」-マタイ19:16-21

 

この、イエスの言葉をどう思いますか?

 

、物質的に豊かになることが「神のご意思」だと思いますか?

有り得ないことです

(既に、持っているものは、なるとは言いません)

 

+++++++++++++

自分の家の者に「必要なもの」を備えるために、

 ある程度の豊かさは必要です。

 これは、

 人からの援助を必要とする程「貧しくない」ということも意味します。

 

当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人

 がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いので 

 す。」-テモテ(一)6:8

 

あなたが、真の信仰を抱いているなら、

 神もイエス・キリストも、あなたを見捨てることはありません。

 

イエス・キリストは次のように述べています。

これは、いわゆる「山上の垂訓」で弟子たちと群衆に語った言葉です。

 

「だれも二人の主人に奴隷として仕えることはできません。

 一方を憎んで他方を愛するか,一方に堅く付いて他方を侮るかのどちらかだからで

 す。

 

 あなた方はとに奴隷として仕えることはできません

 

「このゆえにあなた方に言いますが,何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂

 のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい

 魂は食物より,体は衣服より大切ではありませんか。

 

 天の鳥をよく観察しなさい。

 種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。

 

 それでも,あなた方の天のはこれを養っておられます。

 あなた方はそれらより価値のあるものではありませんか

 

 あなた方のうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビトを加える

 ことができるでしょうか。

 また,衣服のことで,なぜ思い煩っているのですか。

 野のゆりから,それがどのように育っているか,教訓を得なさい

 労したり,紡いだりはしません。

 

 しかしあなた方に言いますが,栄光を極めたソロモンでさえ,これらの一つほどにも

 装ってはいませんでした。

 

 では,が,今日ここにあって明日かまどに投げ込まれる野の草木にこのように衣を

 与えておられるなら,ましてあなた方に衣を与えてくださらないことがあるでしょ

 うか

 

 信仰の少ない人たちよ

 それで,思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身

 に着けるのか』などと言ってはなりません。

 

 これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。

 あなた方の天のは,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っ

 ておられるのです

 

「ですから,王国と[]の義をいつも第一に求めなさい

 そうすれば,これら[ほかの]ものはみなあなた方に加えられるのです

 

 それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。

 次の日には[次の日]の思い煩いがあるのです。

 一日の悪いことはその日だけで十分です。」

-マタイ6:24-34

 

人は、必要以上の豊かさを「得る」と、

 人は「傲慢」になるものです。

 そして、

 安定を求め更に豊かさを追求しようとするものです。

 

パウロはテモテに次のように書き送っています。

「わたしたちは世に何かを携えて来たわけではなく,また何かを運び出すこともでき

 ないからです。

 ですから,命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するので

 す。

 しかし,富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる

 欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます。

 金銭に対する愛はあらゆる有害な事柄の根であるからです。

 ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷い出,多くの苦痛で自分の全身を刺し

 たのです。

 しかし,の人よ,あなたはこうした事から逃げ去りなさい

 そして,義,敬虔な専心,信仰,愛,忍耐,温和な気質を追い求めなさい。」

-テモテ(一)6:7-11

 

+++++++++++++

更に言うなら、

組織の上の人たちや組織の中枢で働く人たちや統治体の人たちの「安穏とした生活」も、

神のご意思」では「有り得ない」ことです。

 

彼らは「間違っている」のです。

この間違いは「重い罪、意図的な罪」です。

 

彼らが、

イエス・キリストの言われた「ゲヘナの裁き」を免れることがあるでしょうか?

有り得ないことです。

「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです!

 あなた方は一人の改宗者を作るために海と陸を行き巡り,それができると,これを,

 分に倍してゲヘナに行くべき者とするからです」

-マタイ23:15

 

**************

ですから、

会衆内で起きている「悪事」を「憎むべき」です。

また、

他のエホバの証人たちのある者が恵まれているからと言って「羨むことがないように」しなければなりません。

じっと、こうした者たちの行く末を「見ている」だけで良いのです。

 

「あなたの心が罪人をうらやむことがあってはならない

 ただ,一日じゅうエホバへの恐れを抱いていよ。

 そうすれば将来があり,あなたの望みは断たれることがない

 -箴言23:17-18

 

そうすれば、

神のご意思が「何処にあるのかを理解出来るでしょう

 

**************

最後に、

 「終わり」は、

 イエスの弟子たち、真のクリスチャンたちに、

 まず、患難があり、その後、良いたよりが宣べ伝えられてから「終わり」が来ると 

 いうことです。-マタイ24:3-14

 

 ですが、終わりはまだです

 

 良いたよりの宣明に続き、

 大いなるバビロンが滅び、

 その後、

 野獣とその像を崇拝して,自分の額または手に印を受ける者が滅び、

 最後に、

 悪魔が底知れぬ深みに閉じ込められるのです。

 -啓示14:6-12、19:19-20、20:1-2

 

 このような段階を踏んで「終わりが来る」のです。

 

この一連の出来事の間に、

 真のクリスチャンが物質的に豊かになることは「ない」と考えて良いのです。

 むしろ、

 迫害を受け殺されるかも知れません

 

 また、

 会衆内で「悪さをしている者」たちに対する「神の裁き」も、

 事物の体制の終わりの時に行われるのです。

 

ですから、

 ものみの塔から「出る」ようにと言っているのです。

 その日は、突然、一日の内に来ると預言されているからです。

 

「これらのことの後,わたしは,別のみ使いが天から下って来るのを見た。

 彼は大いなる権威を持っており,地は彼の栄光によって明るく照らされた

 

 そして,彼は強い声で叫んで言った,「彼女は倒れた! 大いなるバビロンは倒れた

 そして,悪霊たちの住みか,あらゆる汚れた呼気のこもる場所,またあらゆる汚れた憎

 まれる鳥の潜む場所となった! 

 

 彼女の淫行の怒りのぶどう酒のためにあらゆる国民が[いけにえ]にされ,地の王た

 ちは彼女と淫行を犯し,地の旅商人たちは彼女の恥知らずのおごりの力で富を得た

 からである」

 

「また,わたしは天から出る別の声がこう言うのを聞いた。

「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望

 まないなら,彼女から出なさい

 

 彼女の罪は重なり加わって天に達し,は彼女の[数々の]不正な行為を思い出され

 たのである。

 

 彼女自身が返したとおりに彼女に返し,二倍を,つまり,彼女が行なったことの二倍を

 彼女に行ないなさい。

 

 彼女が混ぜ物を入れた杯に,二倍の混ぜ物を彼女のために入れなさい。

 

 彼女が自分に栄光を帰し,恥知らずのおごりのうちに暮らしたその分だけ,彼女に責

 め苦と嘆きを与えなさい。

 

 彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。

 やもめなどではない。

 嘆きを見ることは決してない』と言いつづけているからである。

 

 そのために,彼女の災厄は一日のうちに来る。

 

 それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされるであろう。

 彼女を裁いたエホバは強い方だからである」-啓示18:1-8

 

この「彼女=大いなるバビロン」は、

 1宗教ではありません。

 宗教という複合的な「集合体」なのです。

 

 単一の宗教と考えていると、

 見誤ることになります。

 

 預言は、この複合的な「集合体」のどれかに当てはまることなのです。

 単一の宗教だけに当てはまる訳ではありません。

 

 ですから、

 ものみの塔に当てはまっている事柄もあるのです。

 

 加えて、

 イエス・キリストの時代から今日までの「全期間」に生じた事柄を「総括」した  

 「預言」なのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

お金は「物々交換」の媒介手段です。

 

お金という媒体を通して、

 欲しいものを手に入れるというものです。

 

物→お金→物の繰り返しです。

時には

お金(円)→お金(ドルやポンド)もあります。

 

つまり、

日本だけではなく、

どの国に行っても、

 お金があれば欲しいものが手にはいるということのです。

 

**************

人類がお金を発明したことも画期的でしたが、

クレジットなど現金を使わないで、

 欲しいものが手に入れられるというのも画期的です。

これは、

 直接現金のやり取りをしないため、

 現金を持ち歩く必要がなく「強盗」に遭っても被害を防げる効果があります。

 

 もっとも、カードの暗証番号を「秘密」にするという条件付きですが。

 

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更に、近年、暗号資産(ビットコイン)という「新しいお金」が登場しました。

 暗号化技術により(素数を用いた)考えだされた仕組みですが、

 これは、お金というより「資産」と言えるものです。

勿論、

ネット上で「欲しいものを買う」ことも出来ます。

 現金と言えるものがなく、ただネット上で数字のやり取りをしているだけなので

 す。

 お金の代わりに「ビットコイン」のやり取りが暗号化されて行われているのです。

 

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ネット上で数字のやり取りをしていのはクレジットカードも同じです。

これも暗号技術の賜物です。

 

今度、日本では新しい紙幣を作り、以前の紙幣と入れ替えることが予定されています。

既に、新しい紙幣が造幣されており、その開始を待っているだけです。

 

このように、定期的に新しい紙幣、それも精巧な紙幣を発行する理由は何でしょうか?

それは「偽造紙幣」を作らせないためです。

 

時代劇にあるように、

江戸時代には小判などの「金の量」を変えた「偽小判」が作られたことがありました。

 

偽札ではありませんが、

西南戦争の時、薩摩藩が発行した「西郷札」というものがありますが、

ただの紙切れで終わりました。

 

コピー機が世に出て、その性能が良くなった時、

紙幣をコピーして、それを使って捕まった人がいることを覚えている人は多いと思います。

 

外国でも偽造紙幣を作った例はあります。

洋画でもあったように思います。

 

誰でもお金は欲しいものです。

いくらあっても良いのです。

欲しいものを買えるからです。

大抵のものは買うことが出来ます。

 

金やプラチナや宝石なども買うことが出来ます。

 

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世界には、お金持ちは沢山います。

 

昔は億万長者と言いましたが、

今では、

 兆億万長者と言わなければならないかも知れません。

 

一生かかっても使い切れない程の金額です。

 

そのため、慈善団体に多額の寄付をすることがあります。

あるいは、

 慈善団体そのものを作ったり、図書館など作ったり、研究所を作ったりすることもあります。

アメリカのロックフェラーやビル・ゲイツなども知られています。

 

最近では、

大谷翔平選手が、全国の小学校へ6万個のグローブを寄付した例があります。

各学校3個で、右利き用が2個、左利き用が1個だそうです。

 

昔、大鵬が毎年自治体に救急車を寄付したことも有名です。

 

お金持ちは、大抵こうして社会に還元するものです。

 

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暗号化されたお金も、

 いつでも現金に、その国の貨幣に代えることが出来る必要はあります。

 その時には当然銀行が必要になります。

 持っている、ビットコインの種類に応じて現金化する必要があるのです。

 

最も口座があれば、通帳の数字だけとなり、

お金を使う時にはクレジットで現金を必要とはしませんから、

必ずしも、現金にする必要はありません。

 

こうなると、

いくらお金持ちでも、

 目の前に現金がないので「実感」がないかも知れません

 

単なる、数字の移動だけでしかないのです。

 

現金→銀行→暗号資産を取り扱うサイトの口座→ネット上で取引

という仕組みで動いており、

クレジットなどと同じく取引には現金を必要としません。

 ただ数字のやり取りをしているだけです。

 

しかし、クレジットなどの仕組みと異なるのは、

最初に現金が必要なだけで、後の取り引きには現金も銀行も全く必要ではなく、

 暗号資産を取り扱うサイトの繋がりで個人同士だけで、

 為替のように他のビットコインとの「いわゆる売り買い」だけで資産を増やせるの

 です。

 この時、

 銀行は全く関わらないのです。

 すべてサイト→サイトで決済されて行くと言う仕組みなのです。

 これを可能にした技術が「ブロックチェーン」という仕組みです。

(開発者はサトシ・ナカヤマという名の日本人のようですが誰だか未だに分かってい

 ません。

 彼は既に暗号資産の開発から手を引いているようです)

 

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偽造されにくい紙幣を作るには、

 高度な技術と時間が掛かります。

 殆ど安全ですが「完璧」ではありません。

 普通の人が偽造を見抜けず騙されてしまうこともあるからです。

 

加えて、今はキャッシュレスの時代ですから、

 新しい紙幣を作る意味が殆ど無くなって来たと言えます。

 

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以前、ベーシックインカムの記事を書きましたが、

例えば、

小さな自治体でベーシックインカムを実施する時に、

人々にお金を支給する時、

 現金である必要はないのです。

ある個人もしくは家族の口座に「数字」を付与するだけで良いということです。

お金を使う時にはクレジットにするのです。

こうすれば、

自治体がベーシックインカムを実施する時に、

わざわざ現金を用意したり紙幣を造る必要もないのです。

 

国民全体でベーシックインカムを実施する時にも同様にやれば良いので、

もはや紙幣を作る必要も用いる必要もなくなるのです。

 

ただし、暗号資産である必要はありません。

口座を管理する機関があれば、それで十分事足りるのです

自治体の中にそれがあっても良いのです。

例えば、

 以前の税金を管理、徴収している部署などがやれば良いのです。

 

こうすることのメリットは、

タンス預金が出来なくなるという点です。

現金がないので。

つまり、

すべての人の資産が「口座」の数字で明らかになるからです。

 

後は、不動産などの現物資産ということになります。

 

架空名義の口座も出来ませんので、

戸籍台帳を基にベーシックインカムを実施するからです。

不正も防げます。

 

この地域で暮らすすべての人は、

何らかの形で必ず仕事をすることになりますから、

 犯罪を犯すと大抵直ぐにバレることになります。

 

例えば、

 盗むという行為です。

 口座に支給された資金(数字)以上に資産を持っているとすると、

 不正が疑われることになります。

 

物の売り買いはすべてクレジットですから、

誰が何を買ったかもすべて分かっているのです。

 

また、

貧富の格差がなくなると予想されます。

加えて、

必要以上の資産を必要としなくなるのです。

 

生活は安定し、

自由を享受出来るようになります。

 

人々は幸福な人生を送ることが可能となるのです。

 

ただし、

派手な生活や、贅沢な生活も出来なくなると思います。

 

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あなたは、こうした現金のない社会を「想像」できますか?

 

すべての買い物をクレジットで決済している人には理解出来ると思います。

 

今では、

人員不足と不正防止の観点から、

 カードでの支払いが出来る店が増えています。

 

また、これの方が、

1日の収益を計算する手間が省けますし、しかも、正確に出来ることになります。

 

もはや、

現金を必要としない社会になりつつあるのです。

 

現金を持ち歩かないというのは「とても良いこと」だと思います。

 

ただ、使い過ぎには注意が必要ですが。

 

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知恵を求める人のためのブログです。この記事を読むあなたに神の導きがあることを願っています。

世の中の「」には二通りありますが、

あなたは、それがどのようなものか理解していますか?

 

それとも、

」を単なる悪い事柄

 もしくは、法律に違反した犯罪

と漠然と思っているだけですか?

 

もし、そうなら、

 世の中で起きている「」に関して

 「誤った考え」を抱いている場合もあります。

 

+++++++++++++

」とは、

 法律上の違反だけではなく、

 道徳上の悪さも含むのです。

 

例えば、

 嘘をつくことや、

 正当な理由のない反抗など。

 

その他に、

 誰かに見つかっていない「

 捕まっていないだけの「

というものもあります。

 

これらは、

誰しもが分かっている事柄です。

 

ですが、

人間には知られていない「悪」もあるのです。

 

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」に関しては次の二通りあります。

 

1 悪魔に起因しているもの

  例えば、

  政府や権力者の行い

   権力闘争、

   戦争、市民への弾圧、

  人間の行いの中で、次のもの。

   物事の職業的予告者、偽預言者、占い師、霊媒師、心霊術、

   敵意、闘争、妬み、激発的な怒り、口論、分裂分派、そねみ、酔酒、浮かれ騒

   ぎ、淫行、汚れ、みだらな行い、偶像礼拝、

   など。

   これに、暴力、殺人、誹謗中傷、人を騙して利益を得ること(詐欺)、

   更には、(正しい事柄に対する)疑念などを付け加えます。

 

  (参考:淫行の者、汚れた者、貪欲な者は偶像礼拝者であると聖書に記されて

      います。-エフェソス5:5

    強欲も偶像礼拝です。-コロサイ3:5)

 

   更には、

   真の神に反抗すること、敵対することはすべて悪魔が起因しているのです。

 

   つまり、

  「世の支配者=悪魔」の影響を受けてしている事柄の「すべて」が「」という

   ことです。

 

   殆どの人は「こうしたことを知りません

 

2 人間自身によるもの

  上記以外の、

  自分のしたことを隠すために嘘をつくこと、

  失敗を誰かのせいにすること、

  利己的な欲望や願望、

  過失、失敗、いわゆる危険な行為、暴走、

  環境汚染、自然破壊、

  など。

  こうした事柄は、

  必ずしも「悪魔」が起因であるとは限りません

  その人自身の

  「誤った考え」や「自己保身」や「欲望」や「隠ぺい」や「過信」や

  「思い上がり」や「慌てること」や「動揺」や「憎しみ」などから出たもので

  す。

  「憎しみ」は「腹立ち」「愛情の欠如」の別の表現です。

 

  勿論、こうしたことが起因して、何かをしたからと言って「すべてが悪いこと」

  と言う訳でもありません

 

+++++++++++++

ちなみに、

 殺人は、必ずしも「誰かにに対する敵意や憎しみ」」から行う訳でなないことを誰 

 でも知っています。

  戦争による殺人、交通事故による死亡、強盗殺人、自殺など。

 

 しかし、

 「敵意」や「妬み」、場合によっては「憎しみ」などによる殺人は、

  悪魔が起因しています。

 

  暴力は、大抵「敵意」によるものです。

  いじめも同類です。

  これには、悪魔が起因しているのです。

 

+++++++++++++

人間は、長い人生を経験することで、

 人間として何が正しいのかを「少しずつ理解する」ものであると同時に、

  こうした「世の中の悪にも精通して行く」ものです。

 

 勿論、人間の経験や知識のすべてが「悪い」訳ではありません

 

 人が「」を行う時には、

  大抵、それが「」であることを自覚しているものです。

 

+++++++++++++

反面、人間は、

善いことも沢山しています

  愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰、温和、自制、

  正直、優しさ、他人を信頼すること、(善い事柄に対する)様々な向上心など。

 更には、

  互いに助け合うこと、思いやりや気遣いを示すこと、勤勉さ、努力、忍耐など、

 これらに加えて、

  真の神の真理を実践することです。

 

しかし、

 殆どの人は、真の神の真理を知りません

 

+++++++++++++

上記に掲げた事柄は、

 絶対という訳ではありません

 別の考えを抱いている人もいるのも当然です。

 

悪魔が人間にもたらしたものに起因するものと、

不完全な人間としての性質に起因するものとは、

分けて考える必要を述べたものであることを「理解」して読んで頂きたいと思います。

 

+++++++++++++

人間は「悪いこと」を行うと、

 気分が悪くなったり、良心が痛みます。

 

反対に「善いこと」を行うと、

 気分が良くなったり、良心が喜びます。

 

こうして、

人間は、善悪を「知りつつ」「感じ取っている」のです。

 

**************

ですから、

「世の支配者」が悪魔だからと言って、

「世」のすべてを忌み嫌い、避けることは間違っています

 実際、そのような人はいませんが

 

現実には、誰もがしていることですが、

善悪の判断を、皆日常的にしているのです。

 

したがって、

人間には「善悪」に対する分別を働かせる必要があり、

 神は人間にその責任を問われるのです。

 

裁くのは、

 人間の法律ではありません、

神が直接、裁くのです。

 

+++++++++++++

人間の法律に違反すれば、

 人間が裁くことになります。

 

人間は「神」のようではありませんから

「悪」を取り締まる警察官、

 被疑者を起訴する検察官、

 被疑者を拘留する拘置所、

 被疑者を裁く裁判官、

 刑が確定した犯罪者に懲罰を加える刑務所、

などが必要となります。

 

**************

人類に「」をもたらしたのは「悪魔」であり、

 悪魔は、

 人に神の言うこととは真逆のこと、つまり、嘘を言うことで、

 人を騙しました。

 悪の始まりは、

  嘘、偽りなのです。

 -創世記3章、ヨハネ8:44

 

人が嘘をついたり人を騙したり人を殺したりすることは、

 悪魔に「倣うことなのです。

 悪魔が「直接」人間に言わせたりさせている訳ではないのです。

 

++++++++++++

悪魔がすることの一つに、

 世の空気、いわば、雰囲気を醸し出すことです。

 

 人間はこのことに「気が付かない」のです。

 

 つまり、

 裏で悪魔が、いわば煽動している「場合あるのです。

 

例えば、

 デモなどの時の群衆心理、教室内での空気感、社会の「雰囲気」、

 企業の社内や部署内の空気感、

 上司と部下の間の空気感、町会などの集まり、

 スポーツや競技会などの集まり、

 大学のサークル、

 イベントでの集まり、

 崇拝のための集まり、

 などがあります。

 

 これらが醸し出す「雰囲気、空気感」は、

 聖書の中では、時として」と言われているものです。

 

人は、どんな場合でも大勢集まると「独特の雰囲気が生じる」ものです。

 

 個人的には、

 これを「圧力」と感じています。

 文字通り、押し潰されそうな感じがします。

 

悪魔は、これを利用することあるのです。

狡猾さ」の一面です。

 

大勢集まった時の雰囲気がすべて「悪い」ものでもありません

 人々が「善いことのために」集まった時です。

 

例えば、

 レクレーションなどの時の楽しい雰囲気、

 家族の団らん、

 教会の礼拝堂や神社の儀式、寺での法要などでの雰囲気

 (これは、心理状態を述べたもので、教会や神社や寺を認めている訳ではありませ

  ん)(信仰心が強められる状態を言っています)

 祭りの時の雰囲気(これも、前項と同じです)、

 学校での集会、

 などなど。

 

+++++++++++++

興味深いことに、

日本には「嘘は泥棒の始まり」という言葉があります。

嘘、偽りは、悪を行う「最初」のことです。

 

**************

では、

なぜ、こうした「」が存在するようになったのでしょうか?

 

それは、

創世記3章に示されているように、

 蛇(悪魔)が人間を欺き

 人間が神に対して「罪」を犯したからです。

 

この時、

神は人間をご自分の支配下から悪魔の支配下に置くことで

 悪魔の主張(人間を欺いたことに対する)の正しさを立証する機会を与えました。

 -創世記3章

 

神はなぜ、このような機会を悪魔に与えたのでしょうか?

 それは、

  神以外の「天のみ使いたちは、神と悪魔のどちらの主張が正しいかを理解してい

  なかったからです。

 

神は傲慢な方ではないので、

 悪魔の主張が偽りと分かっていても、

  それが正しいか否かを証明する機会を与えたのです。 

 

 それまで、

  天では「一つの悪も行われたことがなかった」からです。 

 

更に、、

 人間にも

 悪魔の主張が「嘘」であることを「証明する」機会与えたということでもあるの  

 です。

 -ヨブ記1-2章

 

こうして、

神は「将来、地上に住む人間の【選別】」をもしているのです

 

**************

ですから、

神と悪魔と人は、

 各々独立した存在だということです。

 

世(人類)が悪魔の支配下にあるので、

 すべての人間が「悪魔の影響」を受けてはいますが、

 

 すべての人間が悪魔の側にいる訳ではないということです。

 

神と悪魔と人間は、

 立場としては、

 各々自立しているのです。

 

**************

神と悪魔の立場は明確です。

 

しかし、

人の立場は、

各々人によって異なるのです。

 

別の言い方をすれば、

神の側にいるか、悪魔の側にいるかということです。

立場には「考え方」「行い」なども含みます。

 

神はアダム以降、

人類を悪魔の支配下に置きましたが、

 

ご自分の下に入る「機会」をも与えてくれたのです。

 

人は悪魔が「偽り者」であることを、

 証明する「機会」も与えられているのです。

 

神は人間が「正しい判断」「真理」を理解するために

 聖書という文字で書かれた書物と

 自然界の「目に見える」ものを与えてくれたのです。

 

人間の知恵や良心はこうしたことの判断のためでもあるのです。

 

**************

悪魔にも人にも因らないこともあります。

1 聖書、

2 キリスト、

3 人の存在、

4 命と病気と死、

5 良心、知恵、善悪を知ること、

6 宇宙と地球と環境(初めの状態と自然の法則など)、

7 子孫を設けること、

8 様々な動植物や食べ物や飲み物、

など、

これらは「神によってもたらされたもの」です。

 

**************

あなたは、

これらを明確に「区別」し、

また、自分の行いや発言などに於いて「分別」を働かせていますか?

 

世の中の状態をつぶさに観察すると、

殆どの人間は、

 これらを「混同」して考えているように見えます。

つまり、

 理解していないということです。

 

**************

興味深いことに、

神と悪魔と人に共通しているものもあります。

皆、ルールを持ちそれに従わせようとすることです。

 

これには、

権威、力、知識などが関係しています。

 

その目的は、

自分の思いや望みのものを叶えるためです。

 

つまり、

各々、異なる「意思」を持っているということです。

 

時には、

このルールによって、

 善いことも悪いこともします。

 人を何かに縛るのも、この「ルールです。

 

また、

ルール「人に何が善いことか、何が悪いことか」も教えてくれます

 

ルール、つまり、規則、法律などすべてが「悪いもの」ではありません

「すべてのルールが悪から出ている訳ではない」ということです。

 

ちなみに、

宗教の規則や律法などは、

 悪意から出ている場合もあります。

 

多くの人は、

宗教をしている人もそうでない人も、「こうしたことを理解しているように見えま

ただ、

それが、神からのものなのか、悪魔からのものなのか、人からのものなのかの「分別がない」だけなのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

苦しい時の神頼みというのは、

 救いを求める時であり、

 自分ではどうにもならなくなった時で、

神を信じるか否かということではなく、切羽詰まってのことです。

 

**************

神を信じるということは

 信仰について、

 合理的な説明が出来ることを意味しています。

 合理的な説明が出来ない人の信仰は「盲目的な信仰」です。

 

勿論、説明出来ないことや分からないこともありますが、

それでも、

 神を信じていることを、

 教えられたことの「受け売り」ではなく、

 理屈で合理的に説明出来るかどうかなのです。

 

**************

自分の信仰を確信するということは

聖書に記されている事柄について、

 道理や理屈で納得することであり、

 盲目的に、ただ救いを得るために「上辺で信じている(ふりをしている)」だ

 け」、

 確信を得ないで従うことではないということです。

 

真理を確信するために「日夜深く考える」ことです。

 

教えに従って行動するよりも

 真理を確信する方が「なのです。

 

ですから、

信仰を合理的に理屈で説明出来ない人は、

 本当の信仰を持っていない、

 確信のない信仰であり、

 盲目的な信仰なのです。

 

**************

勿論、初めからすべてを知っている人はいません。

しかし、

信じる事柄に関して

少なくとも道理で「確信」をしていることが重要なのです。

 

深い理解は、真理を日夜考えることが必要であり、

その結果、理解が少しずつ増して行くものです。-箴言4:18

それは、箴言にあるように、

 夜明けの「明るさ」のようなものなのです。

 

パウロは、適切にも次のように述べています。

「兄弟たち,理解力の点で幼子となってはなりません。

 しかし,悪に関してはみどりごでありなさい。

 そして,理解力の点では十分に成長した者となりなさい」-コリント(一)14:20

 

**************

神を信じると言っても、

自分の信仰に確信のない人は、

 単に、神に「期待」をしているだけです。

 

このような人はヤコブの次の言葉に耳を傾けるべきです。

「あなた方が持っていないのは求めないからです。

 なるほど求めはします。

 それでも受けていません。

 肉欲の快楽に対する自分の渇望のために用いようとして,まちがった目的のために

 求めているからです」

 -ヤコブ4:2-3

 

自分の信仰に確信のない人の神に対する「期待」は、

 いわば、資格のない人の「要求」のようなもので、

 誤った「期待」=「肉欲の快楽に対する自分の渇望」と成り得るのです。

 

このような人は、

神に何を求めても「得られるものはない」のです。

 

このような人は「自分が何者であるかを理解していない」のです。

 

神を信じても「正しく理解していない」なら一体何のための宗教なのでしょうか?

 

神は、「人の利己的な事柄には応じない」ことを理解していません。

 

**************

自分を見失う」とは、

 自分の頭で考え、すべてのことを自らの意思で、自らの責任で「決めていない」人

 のことでもあります。

 

例えば、

ものみの塔が、躾のために「子供を鞭打つべきである」と言っていますが、

 それを真に受けて、言うことを聞かない子供を鞭打っている親は、

 自分で決めてはいても(ものみの塔の言うことに従うこと)、自分で考えてしてい

 るのかは疑問です。

 

こういう人の信仰は、

一体どこにあると言うのでしょうか?

 

子供を鞭打つことを本当に正しいと思ってやっているのでしょうか

 ただ、言われているからやっているのか、

 考えもなしに従っているのか、

 常軌を逸しているとしか思えません。

 

鞭打たなければ躾が出来ないなんて考える方が間違っています

 

確かに、懲らしめのむち棒は「親の愛情」であると記されていますが、

-箴言13:24

 

なぜ躾とムチを直結させるのでしょうか?

 懲らしめ=むち棒と考えるということは、

 自分で考えていない証拠であり短絡的で軽薄な振る舞いと断言できます。

 

+++++++++++++

懲らしめのむち棒とは、

懲らしめるとは罰を加えるということであり、

むち棒とは痛みを感じさせるということです。

 罰を加えるために痛みを感じさせるという意味となります。

 

例えば、

 何かを制限するだけでも「同様の効果」はあるものです。

 説教をされるだけでも「心に痛み」を感じるものです。

 

ですから、

 子供が親の言うことを聞かないからと言って、

 文字通り「ムチ」打つ必要はないのです。

 

子供の「尻を鞭打つ」親は、

 単に、自分の「苛立ち」を子供にぶっつけているだけなのです。

 

+++++++++++++

実際に、子供の「尻を鞭打つ」親は、

ただ、ものみの塔に従っているだけであることに「どうして気が付かない」のでしょうか?

 

それは、

自分の頭で「信仰」はどうあるべきかということを考えていないからです。

ただ、従っているだけなのです。

 

つまり、自分を見失っているのです。

 

**************

エホバの証人は、

例えれば、

少年野球チームの監督と選手の関係のようなもので、

 監督の言うことを何でも聞くというのと同じなのです。

 子供たちは殆ど自分では考えてはいないのです。

 ただ、監督に言われたことを上手くやることしか考えていないのです。

 

あなたは「賢いエホバの証人」ですか、

それとも「愚かなエホバの証人」ですか?

 

誰しも「愚かなエホバの証人」になりたいと思っていないはずです。

 

今からでも遅くはありません、

賢いエホバの証人」になる時間はあります

 

しかし、

ゆっくりは出来ません。

終わりは直ぐそこなのです。

例えれば、

もうすぐ、冬が来ます

しかし、それが何月何日なのかは誰にも分からないのです。

 

ですから、

イエスが言われたように、

油断なく見張っている」必要があるのです。

 

知恵を求める人のためのブログです。

人は信仰を抱くと、

 すべて、神の言う通りにしなければならないとなぜ思うのでしょうか?

 

それは、

 神の言うことは「すべて正しい」と教えられ、

 救われるためには「神に従わなけれならない」と言われ、

それを信じるからです。

 

この「」にハマると「自分というのを見失い」

 誰かの、組織の「言いなり=奴隷状態」になってしまうのです。

 

**************

神の言うことは「すべて正しく」

 救われるためには「神に従わなけれならない

と言うことは、正しいことですが、

 

問題点は、

 誰かに言われて行うか、

 これを、自らの「意思」で行うか、

という点です。

 

誰かに言われて行う人にとっては「」となり、

自らの意思で行う人にとっては「信仰」「信念」となるのです。

 

旧統一教会やエホバの証人の多くは、この「」にハマっているのです。

 

**************

実際、

 真の神の言うこと(聖書の中の神の言葉)はすべて正しいものです。

しかし、

 組織=人間の言うこと(旧統一教会やものみの塔)は正しいとは限りません

 

にも拘らず、

 人間が神の名を語ったり

 悪魔や地獄と言った言葉を持ち出して、

  不安を抱かせ「思い通りにさせようとしている」のです。

 

 つまり、

 物事すべて、活動や生活全体を、

 自らの意思や考えではなく

 他人の(ものみの塔などの)考えで「行わせようとしている」のです。

 

 いわば、奴隷状態に置こうとしているのです。

 

**************

布教活動=勧誘に於いて、

 伝道を行う人は、

 純粋に聖書の教えと「称する」→「ものみの塔の教え、考え」を受け入れ活動をし

 ています。

 

ですから、

悪意」があって活動している訳ではありません。

 

ただし、

 旧統一教会は、最初から「悪意」を抱いて「人に近づく」のです。

 信者はその「手先」に使われているのです。

 

**************

人は、初めは誰も「懐疑的」なものです。

しかし、

話しをしている内に、

 「思考が誘導されて行く」のです。

 

この時、自分の考えに固執する人は、

 この誘導に欺かれることはありません。

 つまり、

 信者になることはないのです。

 

一方、伝道をする人の「ことば」に、同調したり信じると、

 少しずつ、テーマ毎に誘導されていくのです。

1 犯罪

2 病気

3 死

4 世の中の出来事

5 真の平和

6 真の平和を邪魔しているもの

  悪魔の存在と世の考え、人間の傾向と罪

6 神が事物の体制と悪魔を終わらせる「預言」

7 救いの希望

8 イエス・キリストの死の意義

9 イエス・キリストの生き方に倣うことの意義

10 救われるためにすべきこと

 

(有能な伝道者は、

 こうした点で、

 家の人(研究生)の考え、変化を「良く観察」し

 少しずつ「確信」に変わるように、繰り返し話すものです。

 加えて、

 聖書の希望を、誰かに話すように促すことで、

  「研究生」の考えを「確信」に変わるよう誘導するのです。

 一方、

 テキストを単純に用いている、いわゆる「聖書研究」を「司会」している人は、

 相手を誘導する方法については、

  無知であることが多いものです。

 

 また、信用させるために「集会」への出席を促す場合が多いです)

 

こうして、

少しずつ「洗脳」されて行き、

信じることで、洗脳されているという自覚が全くないのです)

 

すべてを「信じて」信仰=将来に対する期待を抱くと、

いわゆる「入信」し、

それと同時に、

 神、悪魔、滅びという「ことば」が「頭から離れない」状態の置かれるのです。

 

人や組織は、

信者を「これらの言葉」を用いて「信者を思い通りにさせている」のです。

つまり、

信者を「奴隷状態」に置いているのです。

 

こうして、

人は「自分」というものを見失って行くのです。

 

人や組織の言うことに従わない人や、

 自分の意思や考えを持っている人は、

 

 自分を見失っていない人です。

 

**************