知恵を求める人のためのブログです。

ものみの塔とエホバの証人が「社会から多くの批判」を受けたり、政府からの調査報告を求められていることは、

いわゆる「弾圧」「迫害」に相当するのでしょうか。

 

結論から言えば、

 そうではありません

 

すべて、

 児童虐待や人権侵害などは、

 ものみの塔の言うことを「真に受けた親=エホバの証人たち」がしてきたこと

 す。

 

ものみの塔は人々に「良いたより」と称して、自分たちの解釈で聖書を教え、

 それを受け入れた人々を「エホバの証人」にし、

 多くの人々を信者にして来ました。

 

これは、「勧誘」です。

救われるためには「エホバの証人」になる必要があると。

 

そして、

信者に様々な活動や振る舞いに関して「制限」を設けても来ました。

 信者は、それを「真に受けて」従って来ました。

 

その結果が、

 いわゆる、社会通念上、多くの人々に受け入れられない

 児童虐待、輸血拒否、高等教育の否定、学校での様々な活動の制限、

 に加えて、

 宣教活動のノルマ、集会や大会への出席、

などが行われて来たのです。

 

信者の活動を制限したり、活動させる部分は、

旧統一教会と殆ど同じと言えます。

 

ですが、

信者に教え、従わせて来たという点では、

ものみの塔の責任は「重いのです。

 

自分で従わないことが出来るという点では、

強制はしてはいませんが、

 

「滅ぼされる」「裁かれる」「永遠の命を失う」などという「ことば」を用いて

信者をものみの塔や、会衆の長老たちに「従わせて来た」ことは事実です。

 

実際に、従わない信者を「排斥」または「助言=訓戒」をして来ました。

 

一般的に、

宗教と言うのは「こうしたもの」です

 

しかし、

大抵の宗教では、

 殆どは、その教えを聞いた人自身がそれを受け入れるか否かを決めています。

 

ものみの塔は、

これを「逸脱」し、

 神とイエス・キリストに従うことは「絶対」だと言って、

 自分たちの教えに従うことを「誘導」して来たのです。

 

ですが、

社会問題にまで発展した今となっては、

ものみの塔はこの責任から「逃れる」ことは出来ないのです。

 

一方で、

信者になったものの、

一部の冷静な人々は、

 神とイエス・キリストに信仰を抱きつつ「離れた」者もいます

あるいは、

 排斥された人、断絶した人もいます。

 

更には、

信者として、会衆に留まっているものの、

 懐疑的な人もいます

 

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具体的には、以下の通りです。

 

現実に、

 信者になったものの、

  途中から、

  従って来なかったエホバの証人も少なくありません。

  私たち家族もその一人です。

 

 家族全員が大学に行き、

 子供に対するムチも、

  本当に悪いことをした時1回限りです。

 

 それでも、

 開拓奉仕をし、未割当区域で伝道活動をし、

 会衆では長老であり、大会で司会や祈りや実演を行っていました。

 

 当時は、私もしくは家族を影で悪く言う」人がいたと思います。

 直接批判されたことはありません。

 

 子供たちも、

 エホバの証人になりましたが、

 今では、皆、離れて

  思い思いの人生を送っています。

 

 私以外、信仰を継続しているかどうかまでは「分かりません」

 

 離れて「正解」だったと今でも思っています。

 

私たち家族は、

 誰一人、排斥はされていません

 ある日「突然

  皆、自発的に「断絶」したのです。

 

 もし、不在のまま、そのための審理委員会が開かれたとしたら、

  それは「偽り」「虚偽」です。

 

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以前にも書きましたが、

ものみの塔に、

 従うか否かは基本的には個人の責任」です。

 

しかし、

ものみの塔にも責任はあります

なぜなら、

実際に「行われていた通り」の「指導」をしていたからです。

それは、

 ものみの塔は、

  出版した冊子や書籍で、

 あるいは、

  より大きな「大会」で、

 会衆では教える立場にある長老

  信者にそのように「助言=指導」をして来たからです。

 

長老に従わない者を、

 不従順な者として扱い、

 そういう人の「霊的特権」を剥奪したり、

 活動を制限してきたのは、

 会衆の長老であり、ものみの塔なのです。

 

決定的なのは、

 ものみの塔の書籍に記されていることや会衆の長老に「従わない者」を、

 自分の思い、考えで行動、振る舞う者を、

 霊性の低い者と見なしたことです。

 

真実を言うなら

 彼らに従うことが「霊性が高い」訳ではないのです。

 

また、そのような権威は、

 ものみの塔にも会衆の長老たちにも「無い」のです。

 

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ものみの塔がしていることは、

 イエス・キリストの時代の書士やパリサイ人」がして来たこと同じなのです。

 

当時、

 サンヘドリンに集まっていた大祭司に加えて「書士やパリサイ人」や「サドカイ

 人」たちの考えや決定に「従わない」者を、

 異端者扱いをし、文字通り「迫害」をし、

  ある者を獄に入れたり処刑したりしました。

 

若い時のサウロ(後のパウロ)は、

 そうしたことを「善いこと」だと考えて、

 エルサレム以外の土地にまで追いかけては獄に入れて来たのです。

 

サウロは律法をガマリエルという「民のすべてから重んじられていた律法教師」から学んで、

 律法に精通していました。-使徒5:34、22:3

 

つまり、聖書に無知だった訳ではなかったのです。

 

聖書に精通しているものみの塔は、

 現代の律法に精通した書士やパリサイ人」なのです。

 

+++++++++++++

以前は、個人が社会に訴えることは「」でしたが、

旧統一教会の寄付問題、政治との関わりなどの問題が表沙汰になって以降、

 

エホバの証人の2世問題を支援して来た弁護士による団体が、

一層、声を上げ、

 法律で対処するようにと政府や社会に訴え始めました

 

弁護士などによる「訴え」は、

 児童虐待(子供に対するムチ)

 娯楽の制限(世との交わりの禁止)

 教育を受ける権利の侵害(高等教育を制限)

 適切な医療を受けさせない(輸血拒否、保護責任遺棄、輸血拒否カードの携帯)

 学校行事への不参加(クリスマス、誕生会、国歌を歌わない、国旗に礼をしない、 

 クラブ、部活に参加しないなど)

 伝道活動に対するノルマ(伝道活動の強制)

などなどです。

 

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法律上

健康状態を損なうほどの不適切な養育、あるいは子どもの危険について重大な不注意を犯すこと、をネグレクトと言います。

 

2世たちの「心を蝕ん出来た親の「は、

 彼らの健康状態を損なって来たことは確かです。

 

親権を持つ親の、子供への輸血拒否問題は、

 子供に対する「人権侵害」に当たります。

 

ただし、

 当の「本人」がそう望むのであれば

 これを退ける権限のある人は「一人もいないことは明らかです。

 

例えば、

 自殺をしようとする人を周囲の人は「止めようとします」

 しかし、

 自分の命に対する権限の行使はその人自身にあるのです。

 

これは、

 人が物事を決定する権利を有しているのと同じことです。

 

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エホバの証人の中で行われている事柄に対する、

ものみの塔日本支部の返答は、

 児童虐待は容認していない、

 一部の人たちの声である、

として、

 批判は正当なものでないと主張しています。

 

子供に対する「躾と称して鞭」をすることを「虐待」と見なしていない、ということです。

 

従うか否かは個人の決定であり、

 そのような信仰は自由だと主張しているのです。

 

教えは教え、それを守るか否かは、

 個人の自由個人の責任

という考えです。

 

基本的には間違ってはいません

教えに従わない者に対する

 ものみの塔からの批判、圧力、会衆の長老たちの対応が、

 自分たちの指導に、あるいは、聖書に従うよう

 信者に「強要」しているのと同じであるという事実、

これを、

 支部は「無視」しているのです。

 

なぜ、「強要」に相当するのかと言えば、

 従わなければという前置きの後の「ことば」に、

 1 信仰を否定することになる

 2 滅ぼされる

 3 永遠の命を失うことになる

 4 権威に対する不従順である

 5 死んだ時、復活はない

 6 悪魔に従うことになる

 ・

 ・

 などを付け加えているからです。

 

ある人々は、これを「脅し」と言っています。

(個人的には、

  「脅し」ではなく「警告」と理解しています。)

 

ものみの塔と会衆の長老たちは、

 こうした「ことば」を用いて、

 信者を従わせているのは「明白」であり「事実」なのです。

 

こうした実態を、

 支部は「熟知しています」。

 

それを前述のような「コメント」をするということは、

いわば、自己矛盾なのです。

 

言い逃れ責任の放棄をしているのです。

 

**************

以前、ものみの塔は、「指導力のない組織である」ということを書きましたが、

信者に教える資格がない」ことの明確な証拠です。

 

子供にムチをするように「教えて」いながら、

それを「否定する」発言をすることは、

 教える資格のない証拠です。

 

信仰は個人の責任だと言いながら、

 教えている張本人が責任を回避していることは、

 教える資格のない証拠です。

 

しかし、

現行法上

 ものみの塔や会衆の長老やエホバの証人の「罪」を問うことは出来ません。

 直接「手を下していない」からです。

 

 ただ、

 「言っただけ」なのです。

 

それでも、

 指導、監督責任はあります。

 

親が子供にムチをしたことなどは、

 児童虐待に当たり、犯罪として検挙出来ます。

 他にも、

  様々な点に於ける「人権侵害」で訴えることも出来ます。

 

つまり、

ものみの塔ではなく、

 自分の「親」を訴えることは出来るということです。

 

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会衆内で起きた「性的虐待」や「パワハラ」などに関しては、

あるいは、

個人的にエホバの証人から同様のことをされた場合には、

 

被害者がその当事者個人その会衆の長老たちの「監督不行き届き」

裁判に訴えることが出来ます。

 

残念ながら「ものみの塔」を訴えることは「困難」です。

訴えを認めさせるには多大な時間が掛かるからです。

 

会衆の長老たちの責任は「ものみの塔の責任」でもあります。

この点も訴えることは出来ます。

 

被害者にとって、

いわば、その告白は「思い出したくない」程「辛い」ことですが、

訴えるなら、

 その事実を「証明」する必要があります。

 

例えば、

 性的被害であれば「診断書」を提出するとか、

 その時の「精液」のDNAなどを鑑定してもらうなどが必要でしょう。

 

 しかし、

 訴える当事者としては「辛い」ことになってしまいます。

 

「悪」は、裁かれなければなりませんが、

 訴える場合、

  証拠や証人という「高いハードル」があることを「承知」していなければなりま 

  せん。

 

そのため、

 訴えることを「控える」人が多いものです。

 

 被害者は、ある意味、

 二度「被害に遭う」ようなものだからです。

 

「勇気」が必要なのです。

 

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すべては

 統治体から派遣され日本支部に来た「アメリカ人」による監督の「指導=強制」が

 問題なのです。

 

日本人は「いい加減、アメリカ人の言いなりになるのを止めなければならないのです。

 

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参考

 旧統一教会の寄付などにより、

 貧困に陥り進学などが出来なくなった原因も、

 

 基本的には「寄付をした親」にあります。

 

 教団も、

 ものみの塔と同じく、

 「ことば」による「脅し」で、

 信者に寄付をさせたり布教活動をさせていたのです。

 

果たして、

裁判所」は、

 この「ことば」による「誘導」を、

 罪に問えるのでしょうか?

 

脅し」「強迫観念」は「罪」に問うことは出来ます

 この場合は、刑事責任となります。

 被害届を警察に提出する必要があります。

 

 いわば、

 親告罪に当たるからです。

 

厚労省が、

 裁判所に訴えているのは、

 「教団の解散命令」に関してです。

 

 いわば、

 民事訴訟なのです。

 刑事訴訟なら、被害届などにより「検察」が犯罪行為に基いて起訴するからです。

 

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こうして考えて見ると、

 ものみの塔はアメリカ発祥

 旧統一教会は韓国発祥

 

引いては、

 仏教(インド発祥)や

 キリスト教(カトリックやプロテスタントなどヨーロッパ発祥)なども。

 

 ちなみに、

 聖書はイスラエル発祥です。

 

仏教は、

 日本自ら取り入れたものですが、

 他は、外国からやって「来た」ものです。

 

日本古来からあるのは、

 神話に基く神道」だけかも知れません。

 

今もそうですが、

 日本人は外国に「弱い」と言わざるを得ません。

 

もっと、

精錬された「自分」というものを持って貰いたいと思います。

 

しがし、

グローバル化された現代では、

 もはや「手遅れ」かも知れません。

 

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これに加えて、

 日本では古来から

 親の子供に対する「暴力」は日常のことだったこともあります。

 

つまり、

 親が躾と称して子供に暴力を振るうことは、

 昔からあったことなのです。

 

日本人の意識の中に、

 子供を叩くことは「当然のことだ」と考えている人が根強く残っているのです。

 「根性を叩き直す」などと言ったものです。

 

例えば、

 漫画「巨人の星」では、

 父、一徹は、子、飛雄馬に「鉄拳」を加えたり「怒鳴ったり」することがしばしば

 でした。

 また、

 怒って「ちゃぶ台」をひっくり返すこともです。

 さすがに、

 姉の明子には手を出しませんでしたが、

 こういうことは、

 一般家庭でも、普通に行われていたのです。

 

 父親の権威、傲慢の「見本」のような漫画でした。

 

 そうした中で、

 子供である飛雄馬は、

 言われた通り「懸命」に頑張って、トップ選手にまで登り詰めました。

 

これは、

 幼い時からの「英才教育」が、

  天才を作り上げるということを印象付けるものでもありました。

 

僕らはマンガで強くなった」というNHKの番組の「はしり」です。

 

躾や訓練と称して、子供に厳しくするということは、

 江戸時代より以前から既にあったことです。

 

それが、

 明治時代の富国強兵という政策の下、

 一層厳しくなって行きました。

 

当時の社会の風潮として、

根性、辛抱、忍耐、努力、必死などは「当然」のことだったのです。

女々しいことは「弱い者、臆病な者、だらしない者、腑抜け」などと言われたものです。

 

子供の躾は、当然親の責任です。

そのため、

 子供が少しでも「悪さ」「不名誉」なことをすると、

 子供は、直ぐに説教をされたり、

 少しでも口答えをすると「殴られた」ものです。

 

こういうことは、

日本全国どこでも行われていたのです。

 

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イギリスでも同様のことがあったため、

 子供に対する児童虐待を禁止する法律を作り、

 加えて、

 親の子供に対する躾の仕方を示した冊子本を各家庭に配布し徹底しました。

 

私がイギリスでホームステイした時、

 その家にその冊子がありました。

 

そのため、

 今では、DVや児童虐待は殆どなくなっています。

 

イギリスでは、

 1870年ころから、日本の明治時代初期に、

 既に、児童虐待や児童保護に「取り組んできました

 

(詳細なページにリンクを張れませんでした)

「イギリスの児童保護の現状と課題」と題するページを参照にして下さい。

 

**************

欧米では、

 人権が優先されるため、

 行き過ぎた「躾=暴力」は殆どありませんが、

 

 勿論、事故や事件はあります

 

日本では、

 感情的になった親

 「行き過ぎた躾=暴力、虐待、食事制限、(家や部屋に)閉じ込め」

 をすることが珍しくはありませんでした。

 

 子供が自分の考えを言うと、

口答えするな」「生意気に」などと言って、余計殴られたものです。

 時には、

 勘当したり、家から追放することさえあったのです。

 

当時は、それが「当たり前」として、

 親も子も「認識」していたのです。

 

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ところが、

戦後、いや、特に21世紀に入ってから

 一層アメリカナイズされた若者が増え

 自由な振る舞いと同時に、

 自分の意見を発言する人が増えてきました。

 

子供が自分の考え、意見を発言することは「良いこと」なのです。

それが「間違い」でもです。

 

それによって、

子供が何を考えているか分かるからです。

 

その後の「躾や指導」の「元」になるのです。

 

冷静で賢い親なら、

 子供の言うことを「聞く」でしょう。

 

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一番良いのは

子供が何かをしても、

 直ぐに反応しないことです。

 

世間体を「気にしない」覚悟が必要ですが。

 

+++++++++++++

教えは教え、指導は指導としても、

 子供自身が自ら「考える時間」は必要であり、

 子供自身が「自ら過ちに気が付く」ことが重要なのです。

+++++++++++++

 

それを、いきなり「ムチ」打つなら、

 子供の人権は何処にあるのでしょうか?

 

親の教えや云い付け」であってはならないのです。

 

こうして、

子供自身「常識」「マナー」「責任感」というものを培わせていくのです。

 

こうしたことは、

一重に「親の指導力」に依存しています。

つまり、

親が無知だと

 ものみの塔の言いなりになってしまうということです。

 

これでは、

 信仰があるとか強いなどと言えるレベルの話ではないのです。

 

単なる「愚かな行為」なのです。

 

ものみの塔とエホバの証人の失敗の根本原因は、

 子供自身が自分で考え、行動するように「促さず」

 親が「そうさせて来た」ことにあります。

 

実に愚かなことです。

 

良くある例が、

 集会中、子供がうるさくしたり言うことを聞かない時に、

 親が子供を別室に連れて行き、

  他の人が聞こえているにも関わらず、

  子供にムチ打ったことです。

 

 家庭内でも、

 親の言うことを「聞かない=従わない」ことがあると、

 ムチ打って来たのです。

 

子供を「教え諭す」べきで、

 ムチは「行き過ぎた」ことなのです。

 

実に愚かなことです。

 

**************

私はこうしたことは、

 大人になり子供を持つようになってからは

 親の無知だと考えていました

 

こうした人々は、

 家訓がないため

 目標とする「人格」も持っていなかったのです。

 

 つまり、

 生まれつきの人

 こうした点で何の教育もなされないまま「大人になった」人なのです。

 

この点、武士の家系では、

 必ず家訓というものがあって、

 伝統的に受け継がれて来たものです。

 

そのため、

 いわゆる名家の生まれの人は、

 社会的な立場に立つことも多かったのです。

 

私は、若い時から、

 家庭での問題が社会化する度に、

 家に家訓のないことが原因であると発言し続けて来ました。

 

この考えは今でも変わりません。

 

我が家では、

その家訓が「聖書」に変わっただけです。

 

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私自身は、

 親に叩かれたことは一度もありません。

 子供を叩いたこともありません。

(子供を懲らしめたのは、1回だけで、それは妻がしました。

 理由は、女の子だったからです)

 

 常に「話し」をして来ました。

そのため、

 子供が苛立ち不機嫌になることもしばしばでした。

 子供が口を利かなくなったこともありました。

しかし、それでも、

 子供に何かを制限したり暴力を振るったりしたことはありません

 

今でも、

 子供たちは(いわゆる、エホバの証人の2世ですが)「自分の考え」で、

 人生を生きています。

 

 今でも、殆ど親の言うことを聞きません

 

しかし、

 親離れという点では「成功」しました。

 子供たちは、それぞれ「自立」しているからです。

 

 結婚もし子供もいます。

 

私たち夫婦は、

 今は元気ですが、

 老後の介護などを「子供に依存」していませんし、しません。

 

 子供たちも「するとは考えていない」と思います。

 

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幼い時に、親からされたことを、

 今になって

誰かに「訴える」、あるいは、「愚痴る」、

 というのは、

 

彼ら(宗教2世たち)は、

 精神的に自立しておらず

 いわゆる「親離れ」が出来なかった人たちなのです。

 

ある意味、

 精神的に「弱い」人間だったのです。

 

親に問題があると、

 子供にもそれが「遺伝」するかのようです。

 

実に「愚か」で「むなしい」ことです。

 

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最近、

幼い時に、

 親から性的虐待を受け、その後精神的苦痛を受けたとして損害賠償を求めた裁判が

 ありました。

 

 1審、2審とも、

 被害を認めたものの、賠償は却下されました。

 

 被害があってから年数が(20年程)経ち過ぎており

  その間に訴える機会があったというのが理由でした。

 

 被害者は最高裁へ上告しました。

 さて、

 結末はどうなるのでしょうか?

 

加えて、

 最近は、

 殺人に対する「時効」は無くなりましたが、

 他の事件や民事訴訟では「時効」が存在しています。

 

 これを無くそうとする「動き」があることも「事実」です。

 

個人的には、

 これは「良いこと」だと考えています。

 

 是非とも、そうなって欲しいと思っています。

 

 そうすれば、

 罪を犯した人は「生涯」心に負担を感じて生きて行かなければならないからです。

 それが、

 犯罪抑止につながるからです。

 

あなたはどう思いますか?

 

**************

ですが、

 社会問題化された今となっては

 「愚か」「むなしい」では済まされなくなるところまで来ました

 

さて、

 ものみの塔も世間も

 この問題をどのように「対処」するのでしょうか?

 

私は「注視」したいと思います。

 

いずれにしろ、

今ものみの塔とエホバの証人に対して、世間で起きていることは、

 宗教に対する「弾圧」でも「迫害」でもありません

 

**************

私は今のこうした状況は、

次の聖書の預言の一部ではないかと思うようになって来ています。

 

「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,[もろもろの]民と群衆と国民と国語を

 表わしている。

 

 そして,あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸に

 し,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くすであろう

 

 は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。

 すなわち,彼らの王国を野獣に与えて[彼らの]一つの考えを遂行し,の言葉の成し

 遂げられるに至ることである。

 そして,あなたの見た女は,地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市を表わしてい

 る」。

 -啓示17:15-18

 

この預言のポイントは次の点です。

1 娼婦が座っているところは,[もろもろの]民と群衆と国民と国語を表わしている

2 十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつ

  くし,彼女を火で焼き尽くす

3 は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れた

 

ここで「地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市」とは、

宗教組織であることは「明白」です。

 

ポイントは、

大いなるバビロン=娼婦を滅ぼすのは、政府機関であるという点と、

その考えを神が政府機関にそうするように考えさせるという点です。

 

つまり、

大いなるバビロンの滅びは、

 神の仕業だということです。

 

更に、

「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望

 まないなら,彼女から出なさい

 

 彼女の罪は重なり加わって天に達し,は彼女の[数々の]不正な行為を思い出され

 たのである。

 彼女自身が返したとおりに彼女に返し,二倍を,つまり,彼女が行なったことの二倍を

 彼女に行ないなさい。

 彼女が混ぜ物を入れた杯に,二倍の混ぜ物を彼女のために入れなさい。

 彼女が自分に栄光を帰し,恥知らずのおごりのうちに暮らしたその分だけ,彼女に責

 め苦と嘆きを与えなさい。

 

 彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。

 やもめなどではない。

 嘆きを見ることは決してない』と言いつづけているからである。

 

 そのために,彼女の災厄は一日のうちに来る。

 それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされるであろう。

 彼女を裁いたエホバは強い方だからである。」

-啓示18:4-8

 

この預言のポイントは以下の通りです。

1 彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい

2 彼女の[数々の]不正な行為を思い出された

3 彼女が自分に栄光を帰し,恥知らずのおごりのうちに暮らしたその分だけ,彼女に

  責め苦と嘆きを与えなさい

 (彼らの行いを批判し、その責任を追及し、それによって裁かれることを彼らは嘆

  くということです)

4 彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。やもめなどではない。

 (これは、そうなっても【夫である】神に見捨てられないと思い込んでいることを

  示しています)

5 彼女の災厄は一日のうちに来る。

  それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされる。

 (信者たちは、

  「霊的」に殺され、その無活動状態を嘆き、霊的に神の言葉に飢えた状態にされ

   た上に、

   彼らが崇拝していた場所は、

  「火で焼き尽くされ」灰になり、跡形もなくなってしまうことを示していま 

   す。)

 

参考

 丁度、古代イスラエルに於いて、

 北の王国十部族がアッシリアによって、滅ぼされ「各地に散らされました」

  【彼らはサマリア人と呼ばれ】サマリア、レバノン、シリアなどに点在して暮ら 

   すことになったのです。

   AD500年頃以降、彼らのある者はイスラム教を崇拝していると考えられま

   す。

 南の王国二部族がバビロニアによって、滅ぼされ「バビロンに流刑にされまし

   た」

  【彼らはユダヤ人あるいはヘブライ人と呼ばれています。】流刑後、ユダヤ人は

   エルサレムへの帰還が許されています。

   そして、ソロモンが建てた神殿の再建もしています。

   この神殿は、AD70年にローマ軍によって破壊され、今日に至っています。

   同時に、

   北の王国と同じく、国を失ってしまいました。

   イエス・キリストをメシアと認めないユダヤ人ユダヤ教の下で暮らしていま

   す。

 こうして、

 古代の「神の民」が「神により裁かれた」ように、

 「自称、神の民」と称するものみの塔とエホバの証人」も裁かれるのです。

 

 同時に、他のキリスト教や宗教。)

 

「彼女は心の中で,『わたしは女王として座す。

 やもめなどではない。

 嘆きを見ることは決してない』と言いつづけている」

 と記されているように、

 彼らは

  最後まで自分は正しいのだと思い込み、正しいと主張していることを示してい

  ます。

 

こうして、

大いなるバビロンは「滅んで、跡形もなくなって行く」のです。

 

**************

最後に、

 宗教が政治に関与することを、いわば、禁止すること「政教分離」が、

 民主主義国家では当然とされています。

 

ところが、

 逆のことが行われようとしています

 

つまり、

 政治が宗教に立ち入って規制」をすることが行われようとしています。

 

オーム真理教に解散命令を出された例もあります。

旧統一教会はその最中にあります。

 

場合によっては、

 ものみの塔もそうなるかも知れません

 

これは、宗教法人に対してであり、

 個人が信仰を続けることまでは「規制」出来ないということです。

 

個人的な思いとしては、

ものみの塔も「解散命令」により「解散」され、

 個人で宗教、信仰を行うことの方が、

 正しい、崇拝形式だと考えています。

 

是非とも、そうなることを願っています

 

ヤコブは次のように述べています。

自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても,自分の舌にくつわをかけず,自らの心を欺いている人がいれば,その人の崇拝の方式は無益です。

わたしたちのまたから見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。

すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」

-ヤコブ1:26-27

 

ものみの塔とエホバの証人は、

自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても,自分の舌にくつわをかけ

 ず,自らの心を欺いている人

 であり、

「自分を世から汚点のない状態に保つこと」に失敗した人々です。

 

 これは、

 世間から批判を受けないということではなく

 霊的に、つまり、崇拝に於いて「汚点」がないという意味です。

 

ものみの塔とエホバの証人はこの点でも汚点を残しているのです。