知恵を求める人のためのブログです。
普通は、宗教は「自ら探し求める」ものです。
人が自ら宗教に足を踏み入れるのは、
大抵、問題や悩みを抱え、
自分ではどうにもならなくなった時に、
「自ら」救いを求めて門を叩く場合が多いものです。
この場合、日本では、
高野山や比叡山などの仏教施設や禅などに行くことがあります。
キリスト教の教会に向かうこともあります。
神社に行き、神に救いを求め祈ることもあります。
公に受け入れられている「宗教」です。
ですが、
仏教や禅などでは、
「心のやすらぎ」「いやし」「落ち着き」などが得られることもあります。
一方、神社で祈りをする人は大勢いますが、
大抵「願いが叶わない」ことが多いものです。
にも拘らず、大勢の人が祈願をしに神社に行っています。
祈りが聞かれないのは、
キリスト教も同じです。
カトリックやプロテスタントなどの教会は、
日本の寺と同じように、
救いや癒しの場となってることが多いものです。
今、世界中の人が「祈り」「願い」を神に祈っています。
しかし、
現実はどうでしょうか?
大勢の人が祈っているのに、
それが叶わないのはなぜでしょうか?
その「神」は一体何をしているのでしょうか?
もしかして、その神社には「神」はいないのでは?
あるいは、神そのものが「存在していない」のでは?
あるいは「存在してはいるが、理由があって聞かない」のでしょうか?
寺社では、大抵「宗派」を意識し、
誰が建立したかなどを尋ねたりします。
これは、
その宗派の考え、教えを意識している訳で、
日本人はとりわけ「有名な開祖」が「好き」です。
一方、神社では、
神より、
○○にご利益があるということで参拝することが殆どです。
大抵は、
利己的な祈り、願いです。
家内安全、五穀豊穣、交通安全、健康長寿などは代表的な「祈願」です。
コロナの時には「疫病退治」などもあったかも知れません。
現実は、どれも「叶わない」のです。
日本では、
仏教、つまり、寺には「救いを求めて」
神社には「願いを求めて」
参拝することが多く、
その殆どが、
それらの宗教の信者ではありません。
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空海は、
高野山に真言宗の、いわば「聖地」を作り、
大乗仏教の密教を極め、それを真言密教として完成させました。
空海は語学にも才能があり、加えて、持ち前の努力で、
唐での修行で、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ねた時、
初めて会ったにも拘らず、
即座に密教の奥義伝授され、大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界の灌頂を受けたことは有
名です。
いわば、いきなり弟子のトップに指名されたのです。
おそらく、空海に関しての情報は恵果和尚に伝えられていたと思われます。
空海と会うなり、
ずっと空海が来るのを待っていたとさえ言われたようです。
(穿った見方をしますと、
恵果和尚は、
空海に会うまでは死ねない、死なないと考えていたようにも伝えられています。
これは、
イエスの誕生を神殿で待っていた、
シメオンと女預言者アンナ
と類似しています。-ルカ2:25-38)
空海はいわば、仏教を極めた「天才」であり、
高野山の表参道には、
戦国武将の墓が多く見受けられます。
これは、
弥勒菩薩は、釈迦(しゃか)が滅した56億7千万年後に仏となりこの世に現れ、
釈迦の教えで救われなかった人々を救済する
という考えに基づくもので、
空海(弘法大師)は入定に際し、「われ、閉目ののちは兜率天に往生し、弥勒慈尊
の御前に仕え、五十億余年ののち、必す慈尊とともに下生せん」と弟子たちに遺言
したことに由来します。
戦国武将たちは56億7千万年後のこの日のために、弘法大師御廟前の参道で
いわば、席取りをしているのだと言う人もいます。
密教の分野に限っては、
当時の仏教の頂点に君臨していたと言われる最澄でさえ、空海に対して弟子としての礼を取っていました。
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他にも、
仏陀の誕生やイスラム教のモハンマドについていも、
イエスの誕生に、似たような記述があります。
(もしかすると、
これも、聖書に記されている、神に敵対する悪魔の策略かも知れません)
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禅の門を叩いた例として、
スティーブ・ジョブズと川上哲治は有名です。
スティーブ・ジョブズが熾烈な開発競争の中で、
「心」に悩みを抱え禅の「無心」の境地に達することで、
いわば、自分をリセットし様々なアイデアを生み出そうとしたことは有名です。
また、
川上哲治は、野球の試合で勝つために、
監督として選手との向き合い方や自身の野球観などを、
いわば、アイデアを生み出す境地として、
更には、「常に冷静」に、「心の落ち着き」のために、
「無心」という禅の境地を求めて禅を行ったことも有名です。
「無心」になるということは、
いわば、あらゆる「欲望」「思い煩い」などを「心から払い除け、心を空っぽ、無の状態」にすることで、
物事の「本質」のみに「思考を集中」させることにあります。
ですから、完全に心の中が「空っぽ」になる訳ではありませんし、
実際、有り得ないことです。
もし、いると言う人がいれば、
その人は「眠っている人」です。
スティーブ・ジョブズも川上哲治も、
こうした「境地」を求めて「禅」の門を叩いたのです。
今「禅」の門を叩く人は「悩み」を抱えた人が殆どです。
外国人は興味本位で、禅を体験するということもあります。
何か「新しい発見」を求めて、そうした体験をするのです。
今、世界では、
東洋思想というより、
日本の思想、伝統などが注目されていることは、
日本人の歴史から見る「精神性」に「価値がある」と考える人が多くなったためな
のです。
禅とは宗教というより、
深い「黙想」「瞑想=目を閉じて静かに考えること」なのです。
ですから、文字通り「心を無にする」訳ではありません。
「欲望」や「思い煩い」を心から「取り除く」というのは、
聖書の掲げる精神と合致するものです。
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聖書では、
イエスが例え話しの一つとして、
「汚れた霊は,人から出て来ると,休み場を捜し求めて乾ききった所を通りますが,どこ
にも見いだせません。(参考:悪霊は水を嫌う)
そこで,『出て来た自分の家に戻ろう』と言います。
そして,着いてみると,それは空いていますが,きれいに掃かれ,飾りつけられていま
す。
そこで,出かけて行って,自分より邪悪な七つの異なった霊を連れて行き,彼らは中に
入ってそこに住みつきます。
こうして,その人の最終的なありさまは最初より悪くなります。
この邪悪な世代もそのようになるでしょう」-マタイ12:43-45
と言われました。
ものみの塔は、この聖句を用いて、
禅を否定しています。
しかし、
これは「心を無にする」ということを「表面的に捉えた」もので、
正しく「理解」していません。
「心を無にする」のではなく、心を「霊的な事柄で満たす」ことで「汚れた霊」が再
び住むことがないようにと言う「解釈を付け加えています」
「心を無にする」つまり、本当に「空っぽ」にするなら、
ものみの塔の主張は正しいかも知れません。
ですが、
ものみの塔でも、
思いを集中させ、真理を理解するために、
黙想したり、物事を深く考えることを推奨しています。
これは、
禅と同じことなのです。
ですから、
ものみの塔の言うことは「矛盾」しているのです。
というより、
「理解」していないのです。
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禅では「心を無にする」というのは、
「欲望や思い煩い」を打ち払うことを指しており、
文字通り無にしている訳ではないのです。
禅は「思考を明敏」にさせる一つの手段なのです。
それには、「欲望や思い煩い」を除くことで「心の安寧」をもたらす効果もありま
す。
ですから、
禅は、必ずしも聖書の考えに反している訳ではありません。
思いを集中させる効果もあるのです。
ただ、
禅が行われている場所が、
寺であるという点が問題なだけなのです。
ですから、
寺などの宗教施設以外の場所で、
例えば、
家で「禅」を行うことは、むしろ「推奨」されることなのです。
ヨガも似たようなものですが、
ヨガを行う時使われる「ことば」が仏教用語もしくは仏教の思想に起因しているものもあり、
また、
ヨガの「姿勢や呼吸」などの説明が、言葉が仏教的であること、
これらを別の「言い方」に「変えれば」、
禅と同じように「益、効果」のあるものです。
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話しを宗教に戻しますと、
日本人は神と仏を上手く使い分けていると言えるかも知れません。
結婚式は神前で、葬式は寺で、
願い事は神に、救いは寺に、と言う具合にです。
他の形で宗教に足を踏み入れることもあります。
旧統一教会やものみの塔は、
勧誘により「導かれる」のです。
つまり、
誰かに促されて入信する場合です。
この違いは明白です。
救いを求めて宗教に「すがる」のは、自発的、能動的であり、
「勧誘」により入信するのは、他力的、受動的です。
勧誘には、大抵「思惑」があるものです。
旧統一教会では、多額の寄付を集めることであり、その勧誘の仕方と寄付の問題が明らかにされています。
ものみの塔では、信者を獲得することであり、その指導に問題があることが明らかになっています。
これら二つの組織は、
(旧統一教会は宗教とは言えません。詐欺集団です)
共に、神と悪魔あるいはサタンという言葉を用いて、
信者を「いわば牛耳っています」
一度信者になると、
この二つの言葉が頭から離れず、
あたかも、
洗脳、あるいは、催眠術のように、
信者を「縛っている」のです。
そのため、
聖書に記されていても、その適用が間違っていても「従ってしまう」のです。
例えば、
寄付に使い方に関して明確に聖書に記されていますが、
ものみの塔の寄付の用い方は「聖書に反するもの」です。
寄付の使い方の原則はローマ15:26であり、自分たちのために用いるためのもの
ではありません。
宣教活動のためでもありません。
したがって、
寄付で王国会館を建設したり、
特別開拓者や巡回監督やそれ以上の立場の人や協会の支部で働く人や世界本部で働
く人や統治体などの人のためのものでもないのです。
ものみの塔は「自分たちの欲望を満たそうとしている」ことは明白です。
宣教活動に関しても、(最近ものみの塔はこれを一部修正しましたが)
イエスの命令があります。-マタイ28:18-20
イエスは宣教をするようにとは言っていますが「勧誘」するようにとは言っていま
せん。
加えて、
月に何時間奉仕(宣教活動)をしなさいなどとも言っていません。
旧統一教会やものみの塔の活動は、
宣教ではなく勧誘なのです。
「勧誘」には「すべて思惑」があるのです。
又、
神や悪魔という言葉を用いられた時、
それによって何をさせられようとしているのか「はっきりと自覚」しなければなりません。
これら二つの組織が、
悪魔という言葉と使う時には、
「自分たちの思惑と異なることをさせない」という意図があるのです。
この「自分たちの思惑」とは、
「自分たちの欲望」のことです。
「○○することは、神のためである」という言い方もします。
これも、同じです。
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人間がすることで、
神に喜んで貰うことは出来ますが、
神は人間に何かをしてもらう必要は「全くない」のです。
ですから、
人間がすることで、
「神のためになる」などということはないのです。
例えば、
信仰に於ける忠実、忠誠などは「自分自身」のことです。
宣教活動は「イエスの命令」に従っていることであり、特段誉められることでもあ
りません。
当然のことなのです。
ペテロが言ったように「クリスチャンが立派なことをする」ことで、
神が栄光を受けられるようにするということに関しても、-ペテロ(一)2:11-12
神はそれを必要としている訳ではありません。
そうすることは「クリスチャンの務め」なのです。
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勧誘の際、用いる手段の一つとして、
不安を煽る
ということをするものです。
旧統一教会もものみの塔(エホバの証人)も「同じ」です。
不安を煽っているので、
○○しないと「地獄に落ちる」「永遠の命を失う」「ハルマゲドンで滅ぼされる」「神に喜ばれない」
「信仰を否定する」
○○すると「悪魔の影響を受ける」「世の影響を受ける」「世のものとなる」「世の友となる」「悪魔に倣うことになる」
などという「ことば」に「踊らされる」のです。
このような「ことば」に踊らされた「信仰」は、
信仰の正しい「動機」ではありません。
ただ、「脅しに従ってだけ」と言えます。
以前にも、申し上げましたが、
「世のものとならない」ということを実践する方法として、
「世を避ける」のではなく、
「自分の信念を貫く」ことだと。
世の人々と同じ社会活動をしながら、
クリスチャンとしての立場、精神を示すことなのです。
世を避けることではないのです。
もし、
上記のような「ことば」で操られている人は、
そうではなく、
信じて確信している事柄について「自分の信念を貫く」ことです。
(確信していることが重要です。
確信するとは、論理的に説明出来るということです)
そうすれば、
「ことば」によって「不安にさせられたり」「踊らされる」ことも無くなるのです。
もし、あなたが、
「信仰を持っている」と言うなら、
このようにすべきです。
