7月26日の赤旗記事で、赤旗は、「民主主義を守る公共財」、「日本社会の健全な発展と民主主義にとってなくてはならない大事な公共財」であると書かれています。

 

これは意味がわかりません。

 

公共財とは、「非競合性」と「排除不可能性」の2つの性質を持ちます。

非競合性とは、ある人の消費によって他の人の消費が妨げられないということです。これは当てはまるでしょうが、排除不可能性、つまり料金を支払わない人を財やサービスの消費から排除することが出来ない、これは当てはまりません。当然、しんぶん購読料を支払わない人には配達、配信は停止せざるを得ないわけです。

 

いや、このような経済学的な意味ではなく、広く社会一般の利害に関わるものとして「比喩」として書いたものだと考えられるのかもしれません。

 

ところが、今年3月12日の赤旗に載った「中北浩爾中央大教授への回答」では以下の通り書かれています。

 

あなたがとりあげている裁判は、サンケイ新聞(当時)の掲載された自民党の意見広告によって、わが党の名誉を深く傷つける誹謗中傷を受けたことに対し、サンケイ新聞が多大な影響力と公共性をもつ一般新聞であること、サンケイ新聞も加盟する日本新聞協会の「新聞倫理綱領」が公正・公平の原則をうたっていることなどをふまえ、わが党の対抗措置を認めるよう求めたものです。こうした一般新聞とは、まったく性格の異なる政党の機関紙を同列において、反論掲載を求めることは成り立つものではありません。

 

つまり、政党機関紙であるしんぶん赤旗には、産経新聞のような公共性はないと言っているのです。

この意味だと解すると、赤旗は「公共性のない公共財」ということになってしまいます。大阪府委員長や赤旗編集部だけの認識かと思いきや、7月27日の赤旗には、山下芳生2中総決定推進本部長代理の訴えがあり、そこには以下のようにあります。

 

「赤旗」を守るのは私たち----この気概をすべての地方議員のみなさんが発揮され、支部とともに行動することで、危機を克服し、「公共財」としての役割をより大きく果たせるようにしようではありませんか。

 

理論委員会にはぜひとも公共財の定義を明らかにして頂きたいと思います。

民主集中制をめぐる文脈で、「日本共産党はポスト争いとは無縁」と多くの党員が口々に言います。むしろ、ポスト争いを嫌う人たちの集団であると。

 

29回党大会の動画でも、参加者がそのように言っているところがあります(下記動画01:02)。

 

 

これは私も一部同感で、「俺が俺が」という我が強い人はかなり少ないと思いますし、自分がのし上がるために時に他者を蹴落とす、といった意味でのソシオパス的な人間は殆どいないでしょう。

(別に構いませんが)議員になりたくて党員になったというような小池めぐみ杉並区議の様な事例は全国的にもレアだと思います。議員にならないか?と打診されたが最初は断った、という話は珍しくありません。立身出世には興味がない人が殆どです。

 

しかし、異論を持つ者を排除する排他性・閉鎖性は目立ちます。

最近でも、鈴木元氏のフェイスブックによると、福岡県党にて、中央や内田委員長のやり方に批判的意見を述べてきた3名の現職県委員が推薦名簿から外されたとのこと。

また、神奈川県党会議では、県議団長を務める大山奈々子氏が県役員には選ばれませんでした。いったいどのように県政と向き合うのでしょうか?

 

自らの地位・立場を守るために異論者はポストから排除するか、無視する。

「個人による、ポストにつくための争い」はないが、「集団による、ポストにつかせない争い」はあるといっていいかと思います。

 

既存幹部の立場や権威を脅かすものは許さない。そうした動きがここ1年で顕著になっています。

日本共産党の組織体質はなぜ批判されるのでしょうか?

 

その一つの要因としては、建前と実態の大きな乖離があること、加えてそのことを認めない姿勢にあると考えています。

 

・異論を許さない党ではないと言いながら、異論を封殺する党規約とその運用。

 →松竹氏、鈴木氏に対する分派の認定方法は極めて恣意的なものでした。また、草加市のハラスメント問題をめぐっては、会議以外の場では意見をすることができない、という解釈運用が示されました。

・民主的な党と言いながら、事実上は中央による集団独裁。

 →松竹氏の除名処分再審査請求は、ごく一部の大会幹部団によって却下と判断され、代議員はその拍手承認という形でした。

・ハラスメント根絶を大会決議でも掲げながら、ハラスメントを放置しても無反省。

 →富田林の事例が典型です。

・科学の党と言いながら、主観的観念論の様な精神主義的な方針。

 →党勢拡大で前進が長年つくれていないことについて客観的な原因分析をせず、下級に対し既存通りの努力を求め続けています。

 

多くの批判的意見は、実態に着目したものです。それに対し、中央は建前で返すことが多い傾向にあると感じています。

 

「党外で発言するな。党内で言え」と言われます。しかし、討論集で、あるいはこの間、中央宛てに様々な手紙やメールが届いているはずです。それに対し回答しないことに中央は後ろめたさを持っていないのでしょうか。そういう様を見て、党の方針が民主的に練り上げられているんだな、とどれだけの人が感じているのでしょうか。結果として最高機関の党大会にしろ、党中央の意向通りに全体の意思を統一する場であると感じます。

 

当たり前ですが、言っていることではなく、やっていることが問われているのです。しかし党中央はここを理解しているのかしていないのか、話をずらしています。