日本共産党の会議の問題点のひとつとして、同調圧力が高いというものがあります。

 

つまり、反対意見は言えても抑制的な表現になり、賛成意見には過剰な修飾表現が多くつく傾向があります。

幹部は必要以上に「不規則発言」を恐れています。本当は「不規則発言」こそが会議を活性化させるわけなのですが、分派に繋がりうる脅威と見做しているのか、幹部は嬉しい顔をしません。

 

これによる問題点は2つあると考えています。

 

1つ目に、討論では方針に沿った前向きな発言ばかりで新しい学びがありません。無論、発言者個人は頑張っているわけですが、内容の先が読めてしまうので次第に退屈するわけです。長く活動すればするほど、どこかで聞いた話の焼き直しばかり。弁証法という言葉が好きな党員がいますが、実態は違うのです。

別の言い方もしましょう。内側の良いことしか話さず、しかも内容が似通っている集団は、実は外から見てあまり魅力的に見えないのだということです。

 

2つ目に、こちらの方がより重要な問題ですが、会議で方針を絶賛する発言があっても、「あなた、それどこまで本気で言ってるの?」と内心思ってしまうのです。

 

一例として結構前のことですが、某イベントに参加した時、参加者の1人が「2010年代に民主連合政府をつくれるよう頑張ります!!」と締めくくっていました。「おおお!凄い!」みたいな反応が周りから出ましたが、場の空気に乗せられて勢いで言っているんだろうな、と私は白けた目で見てましたね。

これは極端な例ですが、前向き・積極的な発言をされても、「その本心、裏があるのではないか?」と心のどこかで思ってしまうわけです。冷めた目で見てしまう。暗い話でも地に足のついた発言の方がよほど信頼できるのです。

 

党大会に参加した代議員や中央委員はこういう思考に至ることはないのでしょうか?少なからず同様のことを思っているのではないですか?


同調圧力が高いというのは、党会議に参加したことがある方であれば、程度の差はあれど実感しているはずです。それでも地区党会議レベルであればまだしもですが、専従率が一気に高まる都道府県党会議レベルになると発言は相当勇気がいると思います。

とりわけ「純度」の高い全国大会の場において、除名問題で反対討論を行った大山県議の勇気は凄いと思っています。

 

ただし、大山県議の発言内容は(赤旗には全文が載っていないということもあるでしょうが)中央批判としては明らかに弱いとも思います。

 

「攻撃の理由を与えてしまったのは党の判断」とありますが、具体的にどの判断が誤りなのかがわからない。これは党中央の言う通りです。例えば分派の基準が恣意的だったり、反共勢力との結託云々のカルト的なこじつけだったり、結社の自由のメチャクチャな解釈だったり、私はそういった点をこれまで批判的に言ってきましたが、そうした点を具体的に、明示的に批判すべきだったと思います。

 

以下、大山代議員の発言要旨。

横浜市港北区選出で県議3期目です。地域に見える共産党にしようと、地方選のさなかには1カ月で33時間の宣伝活動を行い、党への信頼につながっていることを感じています。軒並み訪問と「折り入って」作戦を組み合わせた活動もしています。アパートも飛ばさずに訪ね、若者とも出会うことができ、仲間の喜びとなっています。対象者を絞らず、今の世の中を何とかしたいと思っている人全員を包摂する党活動が大事です。

 次に、松竹氏の除名問題で顕在化した党内民主主義の課題についてです。昨年地方選前に松竹氏の著作が発刊され、その後まもなく彼は除名処分となりました。私は本を読んでいませんが、何人もの人から「やっぱり共産党は怖い」「除名はだめだ」と言われました。将来共産党が政権をとったら、国民をこんなふうに統制すると思えてしまうと。問題は出版したことよりも除名処分ではないでしょうか。一時期人気を博した「希望の党」から人心が急速に離れたきっかけは、小池百合子都知事の「排除します」という発言でした。あのときに国民が感じた失意が、いま共産党に向けられています。

 異論を唱えたから除名したのではないと繰り返しわが党の見解が報じられていますが、そのあとには松竹氏の論の中身が熱心に展開されますので、やはり「異論だから排除された」と思わせてしまうんです。

 この問題でメディアによる攻撃論が訴えられますが、攻撃の理由を与えてしまったのは党の判断である以上、党の判断に間違いがないというのであれば、わが党が民主的である証左として、松竹氏による再審査請求を適切に受け止めて、国民の疑念を晴らすべく透明性をもって対処することを要望します。「除名」は対話の拒否にほかなりません。排除の論理ではなく包摂の論理を尊重することは、政党運営にも求められています。