父・藤原為時が娘に授けたもの
父・藤原為時が娘に授けたもの
如何にして「源氏物語」を後世に残したか
1.紫式部が育った家庭。幼いころに母を亡くし、父・藤原為時に育てられた。為時は漢籍や和歌などの学識は高かったが、不器用で処世術には長けおらず、貴族の家庭環境としては恵まれていなかった。紫式部の内省的な性格は、その影響を受けている。ドラマでも、父為時(岸谷五朗)がいかに不遇であったか、繰り返し描かれている。為時は安和元年(968)に播磨権少掾(ごんのしょうじょう)に任ぜられ、播磨国(兵庫県南西部)の三等官だから、たいした官職ではないが、4年の任期が終わってからは、無官の六位として過ごしていた。六位とは、当時の貴族社会において正一位から少初位下まで30階級に分かれていた位階のうち、15番目以下だった。
2.ぎりぎり貴族と認められる地位ではあったが、無官になると収入が途絶えて生活は苦しかった。紫式部が生まれたのは、為時がちょうど播磨権少掾の任期を終え、無官になった前後だ。そこで「光る君へ」では、為時は除目(天皇が臨席する貴族たちの任官のための行事)に際し、式部丞(大学寮と散位寮を管轄する式部省の三等官)に任ぜられるように、自己推薦書を上程して必死に訴えていた。残念ながら、それは叶わなかったが、右大臣の藤原兼家(段田安則)が、正式な官職ではないものの、東宮の師貞(もろさだ)親王(本郷奏多、のちの花山天皇)の漢文の指南役に為時を推挙してくれた。
3.それまで為時の任官を神仏に祈願していた妻のちはや(国仲涼子)は、やっと夫が仕事を得られたので、娘のまひろ(子役は落井実結子、紫式部のこと)を連れてお礼参りに行ったが、帰途、竹林で馬に乗った藤原道兼(玉置玲央)に遭遇。飛び出したまひろに驚いて落馬した道兼は、割って入ったちはやを刺し殺してしまった。紫式部が幼いころに母親を失ったのは記録からも確認できるが、死因はわからない。従って、道兼が彼女の母を殺したのは脚本家の創作だが、父親が不遇であったことが、紫式部の人格形成に影響を与えたという視点は、的を射ている。尤も、為時の血筋はけっして悪くなく、四家ある藤原氏の中でも特に栄えた北家に属し、5代遡ると、正二位左大臣にまで昇った藤原冬嗣(ふゆつぐ)であり、その次男が皇族以外の人臣ではじめて摂政に就いた藤原良房である。為時の祖父の兼輔も、従三位権中納言にまでは出世している。
4.とはいえ、同じ藤原北家でも、代を重ねるごとに明暗が分かれ、一旦その他大勢になると、這い上がれないのが現実だった。 為時は、菅原道真の孫で大学寮(官僚育成機関)に属して、詩文や歴史を教授した文章博士であった菅原文時の門下で、とりわけ逸材だったと伝えられる。しかし、いくら大学寮での成績が優秀でも、高位高官に結びつくものではなかった。公卿の子弟などは父祖の蔭位(父祖の位階によって子孫も位階を叙される制度)によって元服直後に位階を叙され、官人に任じられたので、はなから大学などには行かなかった(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。大学に行かざるをえない身分では、たいした出世は望めなかった。
5.ドラマでは、為時がやんちゃな東宮師貞親王を指南し、苦労する様子が描かれたが、史実においても師貞と関わったことは、史料から確認できる。事実、その縁がもとで運がめぐってきている。貞元2年(977)3月、為時は師貞親王の読書始で、講師を補佐して復唱する役である尚復(しょうふく)を務めており、それを機に、師貞を指南する機会が他にも得られたのかもしれない。永観2年(984)8月27日、円融天皇が退位し、師貞親王が花山天皇として即位すると、為時は六位蔵人に任ぜられた。律令制のもとでは、六位は法的には貴族と認められない下級貴族だったが、蔵人は天皇の秘書的な職務なので、為時は六位ながらも殿上人として天皇の側近くに仕えるようになった。
6.それからは、藤原実資の記した『小右記』にも、蔵人としての為時が花山天皇の意向により、各所で働くさまが記されており、久方ぶりの官職の仕事を順調に果たしていた様子が伺える。然し花山天皇の時代は2年足らずしか続かず、花山の退位と伴に為時の運命もまた暗転してしまう。右大臣の藤原兼家、道長の父は、入内させた次女の詮子が円融天皇とのあいだにもうけた懐仁(やすひと)親王を一刻も早く即位させ、天皇の外祖父として権力を握ることを望んでいた。すでに58歳になっており、焦りもあった、寛和2年(986)6月23日、兼家は花山天皇を強引に出家させ、懐仁を一条天皇として即位させた。すると為時は不遇の身に転落。天皇が替わるやいなや蔵人の官職を解かれ、それからは10年ものあいだ、無官の状態が続く。
7.その後について、詩会や内宴も含め、一切の史料に姿を現さない。あまりに花山やその側近に接近しすぎたことが、兼家に疎んじられたようだ。学識はあっても、不器用で処世術には長けていなかった。こうして為時は再び、貧しい暮らしの中で学問や詩作に専念することになった。そうする他になかった。この為時の性格や生活態度が、幼年時の紫式部に少なからぬ影響を与えたようだ。ドラマでその影響がどう描かれるか、脚本家の腕の見せどころであり、視聴者にとっては楽しみが膨らむところだ。紫式部は藤原宣孝と結婚したとき20代も後半で当時としては晩婚で、それも為時が無官だったことと関係がある。当時の結婚は、男性が婿として妻の家に入るものだったので、為時が無官で後見を期待できない以上、その娘と結婚したがる男もいなかった。
8.為時が再度任官するのは、藤原道長が政権を奪取してからだった。長徳元年(995)、疫病が流行して、関白の道隆、道隆から関白を継いだ道兼の兄弟が相次いで死去した。このため弟の道長は急遽、5月11日に、太政官が天皇に上げた文書や天皇が下す文書を事前にみる内覧に任命され、続いて右大臣に任じられた。すると翌長徳2年(996)正月25日、はじめて道長が主導した除目で、為時は従五位下淡路守に任じられた。ただし、淡路(兵庫県淡路島、沼島)は当時、下国(四等級に分けられていた国のうち最下級のもの)とされていたが、その3日後、あらためて越前守に任じられている。漢詩文に通じる為時を、前年秋に来日し、日本との交易を求めていた宋国人と折衝させる目的だったと考えられている。
9.こうしてその年の秋、為時は越前(福井県北部)に赴任し、紫式部も同行している。ただし、紫式部は長徳4年(998)に帰京して藤原宣孝と結婚。一方、為時は長保3年(1001)までの任期いっぱい、越前守を勤め上げた。しかし、帰京した為時を待っていたのは、あらたな任官ではなく、再び無官の日々だった。その後も、為時が和歌や詩を献じた記録は沢山あるので、詩人としての評価は高かったようだが、不器用が災いしてか、官職には恵まれなかった。
10.次に官職を得るまでには8年を要し、寛弘6年(1009)に左少弁(太政官左弁官局の三等官)に、続いて寛弘8年(1011)、越後守に任ぜられている。しかし、為時は既に60歳を超えており、越後まで赴くのは大変だったと思われる。紫式部が同行するわけにはいかず、ちょうど無官になった長男の惟規(のぶのり/これのぶ)が妻とともに同行した。そして長和3年(1014)6月、任期を残して越後守を辞任し、長和5年(1016)4月に三井寺(滋賀県大津市)で出家した。この時、もう70歳に近く、当時としては長生きだったが、藤原北家の人物としては、学識や詩才は評価されても、出世が命の貴族社会においては最後まで不遇だった。 その後、寛仁2年(1018)に藤原頼通邸に詩を献じた記録を最後に、消息は分かっていない。また、紫式部も没年は分っておらず、為時が出家した後、どのくらい生きたのか分からない。
11.だが、いずれにせよ、為時に学識があったおかげで紫式部は当代一の教養人となり、為時が不遇だったおかげで、内省的な性格が醸成され、するどい観察眼が育まれたと考えられる。そうだとすれば、為時が出世できなければこそ、我々の手もとに最高の文学が遺されたといえる。
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