バイオリズム的になのか、ある対象に対する距離感の成熟によるもののなのか、内向時期と外向時期が繰り返されている感覚がある。
例えば、新たに興味関心のあることが出てきたとして、最初の頃はインプットの喜びで、本も読むし話も聞く。もう乾いたスポンジ状態。元々外向的ではないにも関わらず、そのインプットのために外向性を発揮する。結構簡単に遠方に入ったりする。
また、そのインプットした情報を紹介したり、表現したりすることも間もなく行うようになる。今まで自分の考えていたことにある種の解が与えられたからだ。これまで自分がなんとなく思っていたことをようやく表現することができた喜びはなにものにも替え難かった。
しかしそうこうしているうちに、その外向性が弱まっていく。その対象に関心が無くなったのかというとそうでもない。関心の方向性が次第にインプットからアウトプット(実践の場)に切り替わるというか。この知識をインプットした私がどのような行為をするかに切り替わる。
そうなるとインプット時代の社交性がなくなり、引きこもって思索することになる。
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昨日某所で政治と文学の話を聞いていたとき、私は浜崎洋介編者福田恆存「保守とは何か」を片手に聞いていた。
西部邁氏の政治と文学の切り分けの実践の話を聞いたときは、まさに政治の文学の役割を会得しているように感じた。
政治は今のこの場を進めるために、リスク管理を行いながら決断を行う。拙速であっても落としどころを決めなくてはならない。
文学(言論)は対症療法的にことを進める問いよりは、じっくりと自分の考えを磨いて一生かけて筋を通すような営みのように思う。言論で今日の飯は食えないが、もしかしたら100年後の誰かの心に風を吹かせているかもしれない。
界隈でよく引用される、カール・レーヴィットの一節。
(日本人は)二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では日本的に考えたり感じたりするし、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そして、ヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下を往き来する梯子はどこにあるのだろうかと、疑問に思う。
私ほど、1階と2階の感覚に敏感な人もいないように思う。
と書きだしたところで、脳内の私が考える。名言ほど引用するのに躊躇する。――果たして私の理解の枠内で参照することで原著をけがしてしまわないだろうか?筆者の思惑とは違った形で理解していないだろうか?カールレーヴィットの本を読まなくてはならない…
思考を深めるには抽象的な概念や、2階の経験・知識が私の場合は必要不可欠だった。元々1階の世界はあまり居心地がよくなかった。そんな時2階には体系化された世界があり、学べば学ぶほど先があって、しかも2階にいる間は1階の居心地の悪さから逃れられた。
しかしずっと2階にいて1階に戻ってくると、私が2階で学んだことが全く1階の世界には必要とされていないことに気づく。
私を救ってくれた2階の世界で1階にいる人を救うことはできないし、2階の世界で救われたい人もさほどないと気づく。
そこからさらに思索が続く。
2階の世界で2階の世界にいる人に通じる話をするだけでは足りないと感じる。
大きな概念や体系を示すことは2階の世界。
なんとなく大枠でとらえていることを、現実の世界に当てはめてみることは1階の世界。
個人的な体験から、視座を高めて物事を語ることに優れている方々が大勢いる中で、私の方は逆に、そのうえで、目の前のこの事態にどうやって折り合いをつけるのか、ことを進めるかという個人的な実践の段階いる。
この状態だとなかなか表現が難しい。かなり個人的な具体的な実践ゆえに一般論として語りにくくなってしまう。表現するなら他人の役に立つものを、という、有用性の価値観に縛られてしまう。
だとすると、エッセイというジャンルはなぜ一定の地位を確立できているのだろうか。
ここに男性性と女性性の問題も少し絡むのだろうか。
表現は難しい。
特に対話による表現が難しい。物理的に声が大きい人、理路整然としている人、言語優位な人(視覚や聴覚優位と対比して)の方が圧倒的によい。
このように様々な思索が巡るが、どれにも答えを出さず、しかもインプットもせずに、目の前の人間たちの様子を俯瞰している。