この世には三要素あると昔から言う。天命(運命、宿命)、偶然、選択(因果応報)。
しかし、科学者と呼ばれる人に、この世は全て因果律であると思い込んでいる方が少なからずいる気がする。
天命というのは、変えられない出来事。過ぎ去った出来事は全て天命といえるかもしれないし、そもそも、自分が存在するのか、この世が存在するのかという哲学的問題は、存在するという天命を前提としないと、全ての出来事の意味が無くなる。
病気にしても奇形や先天性疾患なんてのはある意味天命と言えるだろう。不可逆的な疾患もある意味天命と割り切らなければならないかもしれない。
人間が老化する、歳をとるというのもある意味天命かもしれない。いくらアンチエイジングだと抗っても見た目を多少ごまかせたところで、体の機能低下は避けられない。耐糖能は下がるし、肺は気腫化するし、骨関節は変形してくる。何とかなるのは筋肉ぐらい。
こういう天命は、いくら因果律で何とかしようと思ってもどうしようもない。しかし、現代医学はどうしようもない天命に抗って、切ったり貼ったり変な薬投与して、変えてやろうとしている。
性別変えようなんてのもこの類だ。
いくら見た目を変えたって、天命は変えられない。
偶然というのは、比較的新しい科学の話だったりする。
これは、ニュートンが物理学で、数値的に動きを正確に予測するということがある程度可能であることを証明した後、初期状態と法則さえ分かれば全てが分かるはずというラプラスの魔という考え方が出てきた
しかし、この考え方は、私たちがどう思考するかというのも脳の物質の初期状態と物理法則のみに影響を受けて、自我を否定することになる。
実際、心の存在の局在なんてまだ分かっていないわけですし、思考に法則があるのかどうかは分からないだろう。
で、複雑系と言われる、偶然の現象が実際にあることが分かっている。
有名なのが地震で、初期条件が同じでも大震災になるか震度1になるかは大震災になる確率は低いと言えても予測は不可能というものだ。
震度1になるか大震災になるかは偶然で変わる。
同じことをしても結果が変わるものがあるというのが偶然だ。
人間の失敗する確率も同様に、大失敗になるか小さなミスをするか、大失敗の方が確率は低いと言えても、予測は不可能だ。
人間が病気になるのも同じようなもので、同じ生活していても、小さな症状で済むか死ぬような病気になるかも恐らく、予測は不能だろう。
こういった偶然が事故による怪我や病気にも関わるので、いくら安全対策や健康的な生活をしていても、怪我や病気になることはあるだろうし、死ぬことだってあるだろう。
で、最後が因果律、自分たちの選択でなんとかなるもの。
結局、医療が本当に介入できるのってここだけじゃないかなと思ったりする。
因果律で代表的なのは、生活習慣病と呼ばれるものだったりするわけで、日々の習慣が大事だったりする。
しかし、現代医学は意外と因果律の生活習慣を放置して、薬や手術といった暴力的な手法で何とかしようという傾向が強い。
1回の暴飲暴食や運動で、病気になったり怪我することはほぼ無い。習慣的な積み重ねが因果律の病気を引き起こすと、生活習慣病は言われている。
なので、習慣の大切さ、良い習慣を医療は示していかなければならないと思うが、新しい手術や薬にばかりに目が行っているのが現状だったりする。
と、科学もこの三要素から演繹していかなければならないと思うわけだが、現代科学は次元の違う細胞がどうのこうの、物質がどうのこうのといった因果律ですべてを語ろうとする傾向に感じるな。