エックハルト・トールの説く空観
前回のつづきです。このブログでは中村天風師と五井昌久先生の説かれる「霊性心開発の方法」について紹介、解説してきました。
これに関するお二人の教えの共通点は、繰り返し述べてきたように「雑念、妄念を心から離し、無念無想の境地=空観を得ること」です。
以前紹介した「現代に生きる西洋の叡智の人」とも言えるエックハルト・トールも、無意識的な思考を止めた時に自分の本質(霊性心)が顕れる(あらわれる)ということを、彼の最初の著作で詳しく述べています。
このさとりをひらくためのエッセンスが以下のブログで述べた「思考を止める」そして「今に在る」という二つの要素です。
霊性心開発の方法 ② 「The Power Of Now」エックハルト・トール
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12227396633.html
霊性心開発の方法 ③ エックハルトトールと中村天風師
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12314501838.html
エックハルト・トールはデカルトの名文句「われ思う故にわれ在り」、すなわち「思考活動によって自分のアイデンティティーが確立する」というのは人間とは何かを考える際の最も初歩的なあやまりである、といっています。
そして、さとりをひらくための、一番肝心のステップは「思考を本当の自分とみなすのをやめること」であると述べています。
エックハルト・トールは頭脳が絶え間なく続けている無意識的思考に「すきま」をつくることで、「意識の光が輝きだす」ともいっています。
この「意識の光」が五井先生、天風師が言われる、霊性心、霊性意識で、無意識的思考を止めることが「意識の光が輝きだす『すきま』作ること」=「霊性心開発の第一歩である」である、と言っているのです。
彼は、この霊性心開発のための第一歩、無意識的思考を止める方法の一つとして「思考を客観的にながめる」ことを上げています。
思考を客観的にながめるというのは、頭の中を駆け巡っている種々の想いを「本当の自分ではない」と観ずることです。
わたしたちの頭のなかを占めている思考は、たいていの場合、経験に対する反応のパターンでしかありません。
別の言い方をすれば、「わたし」=「こころ」とは誕生以来のいろいろな経験から蓄積された一種の習慣化した(または前世から持ち越した)思考パターンで、考え方のくせのようなもの、若しくは単なる思い込みによる幻想でしかない、ということでしょう。
そして、この単なる習慣化した反応パターンや思い込みを「自分である」と考えることが人生を難しくしている、というのがエックハルト・トールがいわんとするところです。
彼はこのような習慣化された思考パターンや思い込みによって生み出された偽物の自分を「エゴ」と呼んでいます。
「大いなる存在」(Something Great)が本当の自分
そして、この「エゴ=偽物の自分」に対する「本当の自分」とはなにか、についてこう述べます。
「大いなる存在」こそが、「人間の本質」で、わたしたちは、それをじかに感じられるのです。「わたしは、いま、ここに、こうして、存在する!」という感覚がそれです。
「わたしはOO(名前、職業など)です」という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。
「大いなる存在」という言葉のほんとうの意味を理解すれば、「大いなる存在」を経験する日は、もう目の前です。
ここで述べられていることは、われわれが自分であると認識しているものは、エゴであって、偽物である、と気づく、または見抜くことが「大いなる存在」を経験する為の入口の認識であるということです。
さらに「大いなる存在とは何か」について、こう述べています。
「大いなる存在」とは、死を運命づけられた無数の生命形態を超える、唯一の「不滅の生命」です。しかも、「大いなる存在」はあらゆる生命の奥深くに、目には見えず、絶対に滅びることのない本質として、宿っているのです。
つまり、「大いなる存在」は、人間のもっとも深いところに「ほんとうの自分」として存在しており、わたしたちはそれに「つながる」ことができるのです。
ここで述べられていることは五井先生が「神」と呼ばれ、天風師が「造物主」「宇宙霊」と呼ばれた概念への普遍的な説明です。
そしてそこに確実につながることができ、そのための方法がある、ということです。
それが先に述べた「思考を客観的にながめる」ことです。
エゴを客観的にながめている存在が本当の自分であるということです。
上に上げた以前のブログ、霊性心開発の方法②で、エックハルト・トールが「頭のおかしい、わけのわからない独り言をしゃべり続ける女性」に地下鉄で出会ったことから、彼自身が「自分である」と思っていたものが単なる「無意識的な思考の連続」でしかなかったことに気づき、そしてこれを契機に覚醒を体験したことを紹介しました。
さらにこの覚醒体験は禅でいうところの身心脱落と同じもの、すなわち「さとり」であり、これがどのようなものかを説明しました。
「思考を客観的にながめる」ということは、頭脳に去来する種々の思考を客観的にながめている別の自分=本心、本当の自分がいる、ということです。そして、「客観的にながめている」瞬間は無意識的思考が止まった無心の状態にあるということでもあります。
彼はこの無心の状態が、心の平安の場であり、普段は思考の雑音によってかき消されている「大いなる存在」との一体感なのだ、と述べています。
天風師のインドでの悟り
既に読まれた方もいらっしゃると思いますが、天風師がインドで悟りを得られた体験を紹介した以前のブログがあります。
ここで、エックハルト・トールが語っているのと同じことを天風師の師であるカリアッパ師が語っておられます。
天の声を聴く 中村天風師のインドでの悟り
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12156858036.html
インドの山中での「天の声を聴く」修行(無念無想になる修行)で、若き日の天風師(中村三郎)は苦心の末に「大いなる存在」と一瞬、つながる体験をします。
一瞬とはいえ、無念無想になったことを天風師は、「天の声は相変わらず聞こえませんが、無念無想にはなったようです。」と山中の修行場からの帰り際、師であるカリアッパ師に、「本日の修業結果」を報告されます。
以下、少々長くなりますが、その部分を引用、再掲します。
三郎)工夫しても、工夫しても天の声が聞こえず、やけになって、雲を見ていたら、フーと無心でいることに気がついたんですけれど、無心にはなれたようですが天の声は聞こえませんでした。
カ師)ハッハッハ、聞こえているのに聞こえていないのかい?
三郎)わかりません。何のことです?
カ師)それが天の声だよ。
三郎)えぇ!
カ師)天の声とは声なき声(absolute stillness=完全なる静寂)よ
更にカリアッパ氏はこう続けます。
「考えてみたらどうだい。お前はちゃんとした教育も受けているようだから、わかるだろ。この地面は秒速20マイルで動いているんだ。音でも光でも波長の長いのや短いのは人間には感覚できない。だから何も聞こえない音域がある。見えない光がある。その聞こえない音の中に天の声があるんだ。天がその音をみんな持って行ってしまっているから聞こえないんだ。」
少し難しい話なので、私なりの理解でこのカリアッパ師の言葉を解説すれば、こういう事だと思います。
「この大地はどっしり揺るぎないように思えるが、地球は猛スピードで動いている(太陽の周りを公転している)。地上の人には感じられないだけだ。同じように、ここには人間の感覚では見えない光があり、聞こえない声(音)が実在する。紫外線や赤外線は目に見えない光、超音波は耳に聞こえない音だ。光も音も全ては波動だ。それらは人の目には見えない、耳には聞こえない周波数なんだ。そして、人の感覚だけでなく、機械も覚知、計測出来ない光、声がある。その光、声のある場、そこが全てを生み出す空(くう)なる次元なんだ。」
それを理解したのでしょう。しかし、三郎にはまだわからないことがありました。そこで師に再び尋ねます。
三郎)それはわかりましたが、それで一体どうなるんです?天の声が聴けたら。
カ師)(じーっと三郎を見て)、それがわからないほどの馬鹿だとは思わなかった。わからないなら教えてやろう。何も聞こえない、天の声を聴いたときに、人の命の中の本然の力が湧き出るんだ。
師の言葉の意味が良く理解できずに驚く三郎にカリアッパ師は笑いながらこのように続けられたそうです。
カ師)難しいことは後でゆっくり、考えなくてもわかる時がくる。事実がおまえにわからせてくれるだろう。どうだった?その雲を見てうっとりした時、ふだん、おまえの心に張りついている死に対する恐怖や、病からの苦痛、いつもおまえが訴えている息苦しいの、息がとまりそうだの、やるせない寂しさなどのことを心に考えたかい?
三郎)それは、ぜんぜん考えません。
カ師)そうだろうなぁ。すると、その雲のなかに心が溶けこんでいるあいだは、おまえは肉体に病があっても、ないと同様に命は生活をしてるということだな。
三郎)そうです。
カ師)それがわかったら、これからできるだけ心を、病からもあらゆるものからも離すんだ。
三郎)それで病が治りますか?
この三郎の質問に師はこのように答えます……
治る、治らないなんてことを考えちゃ駄目だ。そう言ったらもとに戻ってしまうだろ。そうして生きるのが人間の本当の生き方だから、そう生きろと言ってるんだ。それよりほか、おまえの生きる道はないんだよ。それを他に求めたのがいけないんだ。
考えてもみろ。病なり運命から心が離れたときは、病があっても、その人は病人じゃない。
運命が悪くても、その人は運の悪い人じゃない。よーく寝ている人間は何にも知らない。何にも知らない人間に病があるか。目がさめて、あぁ、病がある、と思うんじゃないか。そのくらいのことがわからないか?
たとえ病がないときでも、病のことを心が考えりや、病があるのと同じだ。運命が良くとも、運命が悪いときのことを考えてりや、その人は運命が悪いのと同じだ。そのくらいのこと、もうわかってるはずだ。人の事じゃないぞ。自分のことだ。すべてが心だ。
だから、肉体の病は肉体のものにして、心にまで迷惑をかけるな。心に迷惑をかけたくなければ、時にふれ、折にふれて、心に天の声を聞かすようにしろ。つまり、声なき声のあるところこそ、心の本当のやすらぎの場所だ。
たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。わかったか?
以上 引用終わり
ここでカリアッパ師が述べられたのとちょうど同じことをエックハルト・トールはこう述べています。
思考を客観的にながめていると、その行為をしている「ほんとうの自分」の存在に気づきます。ほんとうの自分」に気づくと、意識は新たなレベルに到達します。
勝手気ままに活動していた思考はパワーを失い、「ほんとうの自分」の「しもべ」になります。これが、無意識的な思考活動を終わらせる、第一歩です。
思考がおしゃべりをやめると、「無心状態」が生まれます。最初のうちは、無心状態は、ほんの数秒間しかつづかないかもしれませんが、心がけ次第で、だんだんと、長くつづくようになります。
無心状態の時には「心の平安」を実感するはずです。これが、ふだんは思考の雑音によってかき消されている、「大いなる存在」との一体感なのです。
上の後半「思考がおしゃべりをやめると〜」以下の部分が、先のカリアッパ師の「時にふれ、折にふれて、心に天の声を聞かすようにしろ。つまり、声なき声のあるところこそ、心の本当のやすらぎの場所だ。たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。」という言葉と同じことを言っているということがわかるでしょうか。
更にエックハルト・トールは続けます。
この状態は、本来人間にとって、ごく自然な状態であるはずなのです。経験をつめばつむほど、平安の度合いは、よりいっそう深まっていきます。この度合いには、限界がありません。しかも、同時に自分の内奥から、魂の喜びがわき上がるのを感じるでしょう。これが「在ること」の喜びなのです。
「大いなる存在」とつなかった状態を、意識を失った、恍惚状態だと思いこんでいる人もいるでしょう。でも、この状態では意識がしっかりしていますから、まったく違うものです。心の平安とひきかえに、注意力が弱まって、覚醒レベルが低下するなら、あまり得る価値はありません。
「大いなる存在」とつながっている時には、思考と一体となっている時よりも、意識はずっと鋭敏だし、きちんと覚醒しているものです。この時のわたしたちは、完全に「在る」のです。エネルギーの波動は高まり、生命力も旺盛です。東洋では、これを「無心状態」と呼んでいますが、「無心状態」にさらに深くはいると、「まったき意識」になります。
このレベルに到達すると、「自分」の存在を、強烈に、しかも喜びとともに感じるので、思考、感情、肉体、外界など、あらゆるものの重要性が薄れてしまうくらいです。でも、自己中心的になるという意味ではありません。自我のない状態、つまり「無我の境地」なのです。
この状態に到達すると、それまでの「自分」の認識を超え、より壮大な「自分」の認識を持つようになります。より壮大な「自分」である、「大いなる存在」も、本質的には、わたしたちであることに変わりないのですが、それは同時に、途方もないほどわたしたちより偉大なのです。
わたしがみなさんに言っていることは、矛盾、もしくは荒唐無稽と受けとられかねませんが、これ以外には、表現のしようがないのです。
ここで彼、エックハルト・トールが語っていることは天風師、カリアッパ師だけでなく、釈迦やイエス、また五井先生が説かれた人が修行や信仰によって目指すべき境地、人間の本来の在り方と同じことでしょう。
そして、これら先哲、覚者方もこのことを大衆に何とかわからせようと工夫をされたに違いありません。エックハルト・トールの「これ以外には表現しようがない」という述懐もそのように理解することができます。
そして、エックハルト・トールはこう述べます。
ただし、このことについて「頭」(脳)を使って「考えよう」とは、しないでください。「頭」で理解できることには、限界があります。
あなたの「思考」がピタリと止まっている時にこそ、わたしの言葉の意味がわかるはずです。
あなたが「いまに在る」時、言いかえれば、あなたが完全に、強烈に「いま」という時に集中していれば、「大いなる存在」を感じることができるでしょう。それは、人間の頭では、理解することはできません。「大いなる存在が自分とともにある」という感覚を保ちつづけることが「さとり」なのです。
ここでエックハルト・トールは「思考を止め、大いなる存在とつながる」ことが「さとり」であるとしているわけです。
そしてそのための方法が先の「思考を客観的にながめる」ということなのですが、彼はこれ以外のもう一つの方法として上の「いまに在る」、「いま」に集中するということを上げています。
そして、これをさらにこうも述べています。
「思考を客観的にながめる」以外にも、無心状態をつくる方法が、いくつかあります。意識を100パーセント「いま」に集中させて、思考活動を遮断するのも、そのひとつです。
意識のすべてを「いま、この瞬間」に向けてみましょう。そうすれば思考活動をストップでき、意識が鋭敏であると同時に、考えごとをしていない「無念無想の状態」になれます。
このエクササイズは、満足のいく結果をもたらすはずです。また、これが瞑想の極意でもあるのです。
私は、これらのエックハルト・トールの言葉をよく理解できます。
なるほど、その通りだ、とも思います。ニュアンスは違いますが、天風師のおっしゃっていること共通しているからです。
しかし、理解はできるのですが、これによって空観を得る、ということ=実行(常住坐臥の継続的実行)が私には難しいと思えるのです。
エックハルト・トールや天風師の説かれている空観に至る方法は、仏教でいえば、自力行、座禅観法にあたるのではないでしょうか。
「只管打座」の本格的な座禅修行とは、違うことをエックハルト・トールは言っているのですが、それでも「いま」に意識を集中させて、思考活動を遮断するという「無念無想の状態」になるためのエクササイズには、相当な意識的努力が必要です。
前回のブログで紹介した天風師の「安生座打法」は、インド山中での「天の声を聴く」瞑想修行を普段の日常生活でも簡単に実行できるようにしたもので、エックハルト・トールのいうところの「意識の光が輝きだす『すきま』作ること」でもあります。
しかし天風師に叱られそうですが、これを日常的に行う、実行することも、これはこれで相当な意識的努力が必要であり、なかなか難しそうです。
何故、「神」と呼ばないのかという理由
エックハルト・トールが本当の自分を「大いなる存在」(Something Great)と呼んでいる同じ対象を釈迦は仏陀、仏性、イエスは「父なる神」、天風師は「造物主」や「宇宙霊」と、そして五井先生は「神」「宇宙神」と呼ばれています。
エックハルト・トールは「大いなる存在」に対して「神」という言葉をあまり使わない理由について、こう述べています。
「神」という言葉は、長い歴史の中で、ずっと誤解されつづけてきたため、いまではその意味がほとんどわからなくなってきていますので、わたしは、ひんぱんには使いません。
多くの人々は、この言葉の背後にある、「広大無辺の果てしなさ」に気づかないのに、あたかも「神」を知りつくしているかのように、この言葉を使っています。
「神」の存在を、思いこみから否定しているのも、これまた誤解です。このような誤解が、「わたしたちの神はほんもので、あなたの神はにせものです」といった発言や、ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」などを生むもとになっているのです。
「神」という言葉は、固定観念を抱かせる、きゅうくつな言葉になってしまいました。この言葉を口にした瞬間、イメ―ジが浮かんできませんか?「白いひげを生やした老人」とまではいかなくても、「自分以外の誰か」という発想の域を出ません。しかも、その存在は、決まって男性なのです。
「神」だけではありません。「大いなる存在」も、「その実体」を表現しきれていないところは、「神」と同じです。しかし、「大いなる存在」は、「神」に比べて柔軟性がある、というメリットがあります。
目で確かめることのできない「無限の存在」にレッテルを貼って、限られた存在にしてしまわないからです。「大いなる存在」という言葉から、特定のイメージを描くのは、難しいでしょう。しかも、誰も、それをひとり占めにできません。
ここでエックハルト・トールがのべていることは本当によく理解でき、同意できます。
彼が「神」という言葉を頻繁に使わないのは、天風師が同じ様に「神」という言葉をあまり使われず、「造物主」や「宇宙霊」といった表現を多用されているのとよく似ています。
天風師もエックハルト・トールが述べているのとほぼ同じような理由で、「神」という表現を使うことをあえて避けられたのでしょう。
また、世の中には「神」という言葉、概念に抵抗を感じる人も少なくないでしょうから、その人たちへの配慮からも、「大いなる存在」という表現を使うという工夫はよく理解できます。
すこし意味が違いますが、老子がここでいう「大いなる存在」を「道」と表現したのも、そのようなことを含んでのことと拝察することができます。
しかし、ここには一つ落とし穴があるように思えます。
「神」という言葉から距離を置くことで、「祈り」という悟りへのより容易な、また最も重要な方法からも距離を置くことになってしまっているのではないか、という点です。
少し長くなりましたので、次回はこの続き、「祈り」とは何かについて書きたいと思います。
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続き 無念無想の空観と祈り(2)
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