天の声を聴く 中村天風師のインドでの悟り | Yokoi Hideaki

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前回の続きです。
ピータードラッカーが禅画やと山水画などの日本画と向き合う事で取り戻そうとした「正気」の正体とは何か、これを中村天風師の教えから考えるのが、今回のテーマです。

それにはまず天風師の事を語らねばなりません。以下はウィキぺディア風に私がまとめたものです。

中村 天風(なかむらてんぷう、1876~1968年)は日本の思想家、実業家。日本初のヨガの覚者。本名、中村三郎。

天風師

九州の大名家の一族の出身。生来の乱暴者で、青年期、手を焼いた親によって玄洋社の頭山満に預けられる。その後、軍事探偵(諜報員)として大陸で活躍するも、30代になって死の病であった結核に罹患、医師から見放される。不治の病を得て、不安動揺する心を立て直し、病を克服しようと単身米国、欧州と医学界、思想界の偉人を訪ねる旅に出る。数年の流浪を経て、救いを得ること叶わず、死期を悟った三郎は帰国の旅につく。
その途上、エジプトでヨガの覚者、カリアッパ師に出合い、薦められるまま、インド北部の山村で修業を行い、三年を経て悟りを得、病も完治させた。その後帰国し、実業家として活躍するも、ある日、本然と自らの使命に気づき、それまでの資産や生活を投げ打って、東京、上野公園で辻説法を始めた。
それが評判を呼び、次第に思想家として世に知られるようになった。その後、天風会を創始し自身の心身統一法を広め、門下から著名な政治家、経営者、文筆家、科学者などを輩出した。


成功三部作
天風師の著作では先ず読むべきは世にいう「成功三部作」、師の講演集です。
天風哲学を知るための書物はご自身の著作も含めて、お弟子さんなども沢山出版されていますが、何といってもこの「成功三部作」がお薦めです。
成功三部作

「成功の実現」
「盛大な人生」
「心に成功の炎を」
の三部作は、いずれも天風師の語り口が文章に活き活きとして、ご自身の得られた真理や悟りを平易に示して下さっています。

しかし、三冊はいずれも高価で、購入に躊躇される人もいるでしょう。
そんな人にはお弟子である堀尾正樹氏が天風会の夏期修練会での師の講話を15年かけてまとめあげられたという「運命を拓く」がお薦めです。
文庫本でも出ています。おそばにおられたお弟子さんがまとめられた本なので、師の活き活きとした語り口や内容は三部作にも劣りません。

運命を拓く

さて、本題に戻りますが、「正気」とは何かです。
上のプロフィールにあるように、勇気があり余り、乱暴に過ぎて親を困らせたほどの中村三郎が病を得て、「あの頃の半分ほどにも自分を取り戻したい」と欧米の著名な学者、医師に教えを乞うため単身、密航します。

数年の流転を経て救いを得ることが出来ず、病状が進行し、「日本の地で死にたい」との失意の帰国途上、三郎を待っていたのがカリアッパ師との運命の出会いでした。

カリアッパ師との運命の出会い
これについては「成功の実現」の73p~にご自身が活写されていますので、是非読んでほしいのですが、私なりに要約するとそれは以下のようなものです。

三郎の乗った貨物船はエジプトのアレクサンドリアに入港しましたが、ある事情で五日間の停泊を余儀なくされます。船底の船室で病に伏している三郎を心配した船乗りの一人が、何も食べないのは体に毒だと、上陸して食事をするように薦めます。

食欲の全くない三郎は断るのですが、船員は親切に三郎を抱え上げて食堂に連れて行きます。
拒絶したい気持ちより、申し訳ない気持ちが勝ち、言われるままにスープに口をつけ、一口、二口飲んでいると食堂の反対側の浅黒い肌の紳士が目に入りました。

召使にかしずかれた紳士のところにはボーイが最敬礼で食物を運んできます。
三郎は「どこかの王族かいな?」と思ったそうです。

そして不思議な光景を目にします。
当時のエジプトには親指の先ほどの大きなハエがいました。その大きなハエを紳士が指さすとハエが動かなくなり、それを召使が長い箸で捕まえて灰皿に投げ入れています。

その不思議な光景に見とれていると、「こっちへ来い」とその紳士が流ちょうな英語で三郎に話しかけてきました。
一人で食堂まで来ることもできなかった三郎が、言われるままにフラフラとその人の脇まで歩いて行ったそうです。

以下は天風師が語られたその時の会話です。
紳士)お前はどこへ行くんだい?
三郎)日本です。
紳士)墓場をこしらえに行くのかい?
三郎)万やむをえず、そうなります。
紳士)そうかい、ところで、お前は右の胸に大きな病を持っているね?
三郎)何故わかるのですか?
紳士)インスピレーションだよ。でも、何の用があって墓場を掘りに行くんだね?誰かに言われたのかい?
三郎)そうではないですが、やるべきことをやっての果てです。
紳士)お前はこの世界にあるすべての事をやってみたのかい?
三郎)そうではありませんが、良いと思うことは全てやってみました。
紳士)だけど大事なことでやっていないことが一つあるぞ。とにかく理屈は抜きだ。俺についてくるかい?


ここで普通の人なら「貴方はどなたですか?」とか「どこへ行くのですか?」とか聞くのが当たり前ですが、三郎は直ちに「サーテンリー(かしこまりました)」と即答したといいます。

この紳士がカリアッパ師でした。師を天風師は「ヨガの大聖者」とされていますが、近年、チベット仏教カギュー派の最大支派「カルマ・カギュー派」の管長であった第十五世カルマパ・カキャブ・ドルジェとの説があるそうです。いずれにせよ高い悟りを得た人であったことは疑いありません。

そして、行先も聞かないまま旅を続けること数ヶ月、カリアッパ師一行は北インドのある村に着きます。そこで三郎の修業が始まりました。

北インドでの修業
このインドでの修行については成功三部作の中に多くの興味深い、また愉快なエピソードが語られていますが、今日のテーマの「正気」の正体を考えるヒントになるものが「盛大なる人生」にありますので、これを紹介します。

それは天風師がインドで得た最初の「悟り」にまつわるもので、インドに行って半年ほどの最初の頃の話です。
そのころカリアッパ師は三郎に山中でのディヤーナ(瞑想)の修業を命じていました。
即ち、心を静かに、安定させ、無念無想に至る修行です。

三郎が修行を命じられたのは大きな滝の前での瞑想です。そこは轟轟たる水音しか聞こえるものはない場所でした。修行が始まり何日目かのある日、三郎は修行の帰途、ロバに乗るカリアッパ師に質問します。

三郎)ディヤーナの第一条件は心静かに安定させるんですよね?
カ師)勿論、そうだ。
三郎)ならなぜもっと静かな場所で修行させて下さらないんです?
カ師)あの場所で心が静まらないか?
三郎)あんな場所で心が静まるはずがありません。のべつ、耳が張り裂けそうです。こうして歩いていてもまだ耳にあの音が残っているくらいです。
カ師)あの場所で心が静まらないようなお前ならどこへ行っても駄目だな。
三郎)そうおっしゃっても、あの音じゃ・・・・
カ師】そんなに水の音がうるさいかい?おまえの為にあの場所を選んだんだが、そのことが良く分かっていないようだな。
三郎)あんなうるさいところをですか?どういうわけですか?


それまで、笑顔で答えていたカリアッパ師が急に厳しい顔になり、こういったそうです。
カ師)一口で言えばお前に天の声を聞かせてやろうと思ったんだ。
三郎)(驚いて)何ですか?天の声??天に声があるんですか?
カ師)ある。
三郎】初めて聞きました。天の声。知りません。
カ師)そうだろうな。知らなきゃ初めてだろうな。
三郎)しかし先生、それを先生は聞いておられるのですか?
カ師)いつも聞いてるよ。私は。
三郎)エー いつもですか?
カ師)そうだ。こうしてお前と話している間も聞いている。
三郎)その声はどこの言葉でしょうか?
カ師)どこの国の言葉とかいうものじゃない、声だよ。声。
三郎)言葉の声じゃない、何ですか?一体。
カ師)音だよ。しかし今のお前じゃ、天の声どころか、地の声も聞こえないだろ?
三郎)ありゃ、今度は地の声ですか?地の声もあるんですか?
カ師)ある、ある。当たり前だ。
三郎)何です、それは?
カ師)わからないかい?獣の声や鳥の声、また風で木の葉が騒ぐ音もそうだ。聞こえないか?
三郎)そんな声は滝の音がうるさくて聞こえません。
カ師)そう思えば聞こえないな。先ず明日から瞑想の合間に鳥や獣の声を聴こうと思って、その音を捕まえる気持ちで座ってごらん。それからだ天の声は。


天の声を聴く
このようなやり取りの後、三郎は滝の前で地の声を聴く瞑想を始めます。
最初は何も聞こえないのが、数時間でかすかな鳥の鳴き声や獣の咆哮が聞こえるようになります。更に数日後には滝の音を聞きながら、同時に周囲の音を聞き取れるようになったといいます。そして、地の音が聞こえるようになったと同時に、天の声を聴きたいという強い欲が出てきたそうです。

以来、天の声を聴くための瞑想が始まります。何日も何日も「天の声」「天の声」とこれに心を向け、耳を澄ます毎日を送ります。しかし、そんな声を聴くことはできません。
半月後、カリアッパ師に「地の声は聴こえるようになりましたが、天の声は相変わらず聴くことが出来ません」と訴えます。

そこでのやりとりです。
カ師)天の声、聞こえないかい?地の声が聞こえるなら天の声も聞こえるはずだ。聴こうとしていないんだろう。
三郎)しています。自分でも驚くほど一生懸命にしています。
カ師)ほうー、そうかい。じゃー、その時に、真剣に天の声を聴こうとしている時に、お前さんは地の声は聞こえているかい?どうだい?
三郎)それは気が付きませんでした。
カ師)本当はね。どんな音がしても、心がそれを相手にしないと、天の声がわかってくるんだよ。
三郎)なるほど、心が相手にしないと聞こえるんですね。明日またやってみます。
カ師)やってごらん。


早速翌日から、三郎は一切の音を相手にしない、心を向けないようにやってみますが、これが難しいことを知ります。心を向けまいとすると、そこに心をとらわれて、逆効果になるのです。
滝の音も、鳥の声も、獣の声も一切を聞くまいとすればするほど、明瞭に聞こえてきます。「実際これには大いに困らされた」というのがのちの天風師の述懐です。

そして悪戦苦闘を続けることさらに三か月余り。もう降参といった心境で、カリアッパ師にもう一度尋ねます。

三郎)先生、心と耳を別々に使い分けるのは難しいです。
カ師)おまえのように考えりゃ難しいだろうね。だけど、難しいと言えば難しいけれど、易しいと言えば易しいんだよ。まともに使い分けようとするから難しい。それをやめてごらん。
三郎)まともに使い分ける、というのはどういう意味です?
カ師)ここで私と話をしている時に周りの音も聞こえているだろう。でもお前さんは私と話している時は、周りの音の相手をしないで、私の話に取り組んでいないかい?
三郎)ええ、まあ。
カ師)そこだよ。それと同じ心持になればいいんだ。まともに使い分けない、というのはそのことだよ。


三郎は正確にその意味を分かったわけではありませんでしたが、何かをつかんだように感じて、「わかりました。もう一工夫やってみます」と答えたと言います。

あくる朝、また天の声を聴く修業が始まります。しかし、千思万考、どうしても出来ません。何としても天の声は聴こえません。
根も辛抱も尽き果てた気持ち、やけくそになった三郎は修行場であおむけにひっくり返り、天を仰ぎました。

天に漂う雲の様々な形の変化に見入っているうちに、鳥、獣、風、土などの音が聞こえていても、心がそれらから離れ、雲の漂いの中で無心でいる一瞬の自分に気がつきます。
三郎は刹那に「これだ!」と悟りというべきものを心に感じました。

帰路、カリアッパ師に尋ねます。
三郎)工夫しても、工夫しても天の声が聞こえず、やけになって、雲を見ていたら、フーと無心でいることに気がついたんですけれど、無心にはなれたようですが天の声は聞こえませんでした。
カ師)ハッハッハ、聞こえているのに聞こえていないのかい?
三郎)わかりません。何のことです?
カ師)それが天の声だよ。
三郎)えぇ!
カ師)天の声とは声なき声(absolute stillness=完全なる静寂)よ


更にカリアッパ氏はこう続けます。
「考えてみたらどうだい。お前はちゃんとした教育も受けているようだから、わかるだろ。この地面は秒速20マイルで動いているんだ。音でも光でも波長の長いのや短いのは人間には感覚できない。だから何も聞こえない音域がある。見えない光がある。その聞こえない音の中に天の声があるんだ。天がその音をみんな持って行ってしまっているから聞こえないんだ。」

少し難しい話なので、私なりの理解でこのカリアッパ師の言葉を解説すれば、こういう事だと思います。

「この大地はどっしり揺るぎないように思えるが、地球は猛スピードで動いている(太陽の周りを公転している)。地上の人には感じられないだけだ。
同じように、ここには人間の感覚では見えない光があり、聞こえない声(音)が実在する。紫外線や赤外線は目に見えない光、超音波は耳に聞こえない音だ。光も音も全ては波動だ。それらは人の目には見えない、耳には聞こえない周波数なんだ。そして、人の感覚だけでなく、機械も覚知、計測出来ない光、声がある。その光、声のある場、そこが全てを生み出す空(くう)なる次元なんだ。」

それを理解したのでしょう。しかし、三郎にはまだわからないことがありました。そこで師に再び尋ねます。

三郎)それはわかりましたが、それで一体どうなるんです?天の声が聴けたら。
カ師)(じーっと三郎を見て)、それがわからないほどの馬鹿だとは思わなかった。わからないなら教えてやろう。何も聞こえない、天の声を聴いたときに、人の命の中の本然の力が湧き出るんだ。


師の言葉の意味が良く理解できずに驚く三郎にカリアッパ師は笑いながらこのように続けられたそうです。

カ師)難しいことは後でゆっくり、考えなくてもわかる時がくる。事実がおまえにわからせてくれるだろう。どうだった?その雲を見てうっとりした時、ふだん、おまえの心に張りついている死に対する恐怖や、病からの苦痛、いつもおまえが訴えている息苦しいの、息がとまりそうだの、やるせない寂しさなどのことを心に考えたかい?
三郎)それは、ぜんぜん考えません。
カ師)そうだろうなぁ。すると、その雲のなかに心が溶けこんでいるあいだは、おまえは肉体に病があっても、ないと同様に命は生活をしてるということだな。
三郎)そうです。
カ師)それがわかったら、これからできるだけ心を、病からもあらゆるものからも離すんだ。
三郎)それで病が治りますか?


この三郎の質問に師はこのように答えます……
「治る、治らないなんてことを考えちゃ駄目だ。そう言ったらもとに戻ってしまうだろ。そうして生きるのが人間の本当の生き方だから、そう生きろと言ってるんだ。それよりほか、おまえの生きる道はないんだよ。それを他に求めたのがいけないんだ。
考えてもみろ。病なり運命から心が離れたときは、病があっても、その人は病人じゃない。
運命が悪くても、その人は運の悪い人じゃない。よーく寝ている人間は何にも知らない。何にも知らない人間に病があるか。目がさめて、あぁ、病がある、と思うんじゃないか。そのくらいのことがわからないか?
たとえ病がないときでも、病のことを心が考えりや、病があるのと同じだ。運命が良くとも、運命が悪いときのことを考えてりや、その人は運命が悪いのと同じだ。そのくらいのこと、もうわかってるはずだ。人の事じゃないぞ。自分のことだ。すべてが心だ。
だから、肉体の病は肉体のものにして、心にまで迷惑をかけるな。心に迷惑をかけたくなければ、時にふれ、折にふれて、心に天の声を聞かすようにしろ。つまり、声なき声のあるところこそ、心の本当のやすらぎの場所だ。
たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。わかったか?」


天風師はこのカリアッパ師の言葉を聞いた時の心境をこのように語っています……
涙がボロボ口でたんだ、私、ここにきて。あぁ、外国の大学まで出て、しかも成績が首席で、こんなありがたいことがわからず今まで来た。なんて俺はたわけの大ばかだったろう。こんなたわけの大ばかでも天はそれでも救ってくださろうとして、今月今日、ただいまこの時、この人の口からこういう尊いことを私の心にささやかれるのかと思ったら、涙がボロボロでたんだ。
それから以後は、心をただ天の声と同化させることだけを、折あるごとに、時あるごとにやった。とにかく私が今日あるに至った命の転機、パーッと命のなかのすべてが取りかえられた、いわゆるコンバーション(転換)は、静かに考えてみると、まさにこの心のもち方、現代語でいうと、現実に心機転換を行えるようになってから以後です。


霊性心が正気の正体
さて、本題に戻ります。天風師が天の声を聴いた刹那に、心に本然と湧き上がってきたものがドラッカーの取り戻そうとした「正気の正体」です。
と言ってもすぐには理解できない方も多いでしょうから、もう少し判り易くその正体を探ってみます。
天風師は心には5つの種類があると仰っています。
物質心、植物心、本能心、理性心、霊性心の5つの心です。そしてドラッカーの求めた正気、カリアッパ師が「命の中の本然の力を湧き出させるもの」と仰ったのは「霊性心」の事を言っています。

先のブログで書いた私の部屋の高士観曝図はまさしく滝の前で天の声を聴かんとする天風師の姿をほうふつとさせてくれます。ドラッカーを通じてこの絵を手に入れたことにも何かの因縁を感じます。

長くなりましたので、5つの心と霊性心の説明は次の機会に譲ります。

(2018年6月の追記 このブログ記事の後、「霊性(心)開発」をテーマに一連の記事を書きつないできました。よってこれを読み継いで欲しいのですが、ここで結論的な事を言えば霊性(心)開発とは「宇宙本体と繋がり、そこから本来人間が持っている内なる叡智、エネルギーを実生活に引き出す」ことを意味します。

カリアッパ師は「たまには心をやすめてやれ。そこに心をやすませると、いっさいの迷惑が心にかからなくなる。すると、心の本然の力が命のなかで働きだすようになるんだ。わかったか?」
とおっしゃり、さらに

「無念無想になれば、そこに人間が本来持っている内なるエネルギーが泉のごとく湧き出すんだ。日頃は雑念、妄念の類がその出口を塞いでいるから出ないんだ。」
とおっしゃっています。

そして内なるエネルギー、叡智につながる方法が、天風師が取り組まれた「天の声を聴く」こと、すなわち無念無想、空観なのです。

師は、インドでの「天の声を聴く」瞑想修行で無念無想の空観に至り、その時の体験をもとに「神人冥合(しんじんみょうごう)」法を打ち立てられました。そして、これを天風哲学の大学院とおっしゃっています。

 

師を「積極思考、ポジティブシンキングを説いた人」とする世間の見方がありますが、私はやや浅薄に思います。師は傑出した禅師に匹敵する空観の達人で、空観を得る為のコツを教える事が天風哲学の本質だからです。


といっても空観を得ることはそう簡単ではありません。ここで書いたように天風師ですらインドの山奥という特別な環境で、苦心惨憺(くしんさんたん)し、ようやく無念無想になることが出来ました。

その難しい無念無想、空観の境地に、凡人が容易に至る方法(私にとってそれは五井昌久先生の提唱された世界平和の祈りでしたが)を以降のブログで書きつないできました。以下のシリーズです。


霊性心開発の方法①五井先生の易行道


霊性心開発の方法②「The Power Of Now」エックハルト・トール

霊性心開発の方法③エックハルトトールと中村天風師

霊性心開発の方法④五井昌久先生「老子講義」より

霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」

霊性心開発の方法⑥ 「無念無想の空観」と「祈り」(1)

霊性心開発の方法⑦ 「無念無想の空観」と「祈り」(2)

「引き寄せの法則」とは何か ①

世界平和の祈りの行じ方

世界平和の祈りによって得た私の空観体験は、カリアッパ師が言われたように「完全なる静寂」であり、付け加えれば「無限の深さ、また広がり」でした。

実際、天風師が体験されたようにそこから「インスピレーション」と「力」が湧き出し、それは実生活に極めて有効です。

老子道徳経、第三講に「(道は)淵(えん)として万物の宗に似たり、(中略)湛(たん)てして存する或るに似たり」という言葉があります。ここで老子は道(万物の根源、すべてを生み出す空、虚の次元、世界)の説明として淵と湛の二つの文字を使っています。

五井昌久先生はこの部分を老子講義で、「万物の根源たる、道の、計り知れない深淵さ(淵)と、深い静けさ(湛)とを現し、その深さ、静かさの先にある偉大なる力を感じさせるという意味が書かれているのです。」と解説されています。

ここにある深さ(広がり)と静けさは、すべてを生み出す、虚の世界、空なる世界の入口、またそこに踏み込んだ感覚の表現です。
なぜそう言えるかといえば、それが私の経験からの実感でもあるからです。

カリアッパ師が、深い瞑想によって聞くことが出来る天の声を「完全なる静寂」とされたのも、この感覚の事を言っています。

確かに、心を鎮め、世界平和の祈りに集中、統一するとこの深さ(広がり)と静寂の感覚に至ることが出来ます。そして、そこからインスピレーションや「力」が湧き出します。その先に神我一体の境地があるということも確信できました。

般若心経の「色即是空」「空即是色」は仏教の極意と言って良いですが、色即是空とは「全ては空(天の声の在るところ=高次元、本体)より生ず」という存在論、「空即是色」とは空観によって全てを生じせしめる本体、本心で生きよ、という実践論を説いているといえば分かりやすいでしょう。

空即是色について五井先生はこうおっしゃっています。

「自分の本体の中に入ってしまうと、さあ今度は何が出てくるかというと、自分が思いもしないのに、自然に物事が出来てくる。自分が考えもしないのに、パッといい智恵が出てくる。自分が書こうと思わないのに、スッといいものが書けてくる。いおうと思わないのに、いい言葉が出てくる、というふうに、自然法爾に、ひとりでに、神さまの智恵、自分の本心の能力が出てくる。そしていろんなことが出来る。それが空即是色なんです。」


これは全くその通りで、わたしのこのブログも書き出すと文章がどこからか湧いて来て、繋がって、後から読んで、「これホント自分が書いたのかしら」と思うことが少なくありません。

主催する企業などの勉強会での話も、言葉がどんどん湧いて来る、そして時間通りにピッタリ話の区切り良いところで収まる、などの体験が頻繁に起こります。
これが世界平和の祈りから得た私の空観の効用体験です。

だから心を鎮め、雑念妄念から心を離す、空観の実践、天風師流に言えば「病の時は病を忘れる」「不幸の時は不幸を忘れる」ことが人間にとっての真の健康や幸福の鍵なのだと断言できるのです。

にもかかわらず、この内なる無限のエネルギーや叡智を引き出さねばならない病や不幸の人生の岐路にある人ほど、これらに心をとらわれ、ますます内なるエネルギーや叡智から遠ざかることになりがちです。

天風師はこの事をこのように述べられています。

「人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。

さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。
もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。

それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。

ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。

とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。

ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。

ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。」

私は「世界平和の祈り」で、ここで天風師がおっしゃっているトランス状態に容易に入り、その先の霊性境地に自然に至ることが出来るということを実感しました。

世界平和平和の祈りは空観を得る易行道で、私にとって天風師のおっしゃる人間と神、造物主を結びつけるスイッチがこの祈りだったのです。

このことを念頭に、上の記事や下の関連記事をお読み頂ければ幸いです。追記 終わり)

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