「病や不幸とどう向き合えばよいのか」① 中村天風師と五井昌久先生の教え | Yokoi Hideaki

Yokoi Hideaki

http://institute.jpn.com/

.......知人が難病で苦しんでいることを知ったり、このブログの読者にもそういう方がいらっしゃったりして、改めてこのタイトルで書いてみることにします。

天風師の病克服法
過去のブログでも書きましたが、天風師のおっしゃっている「病の対処法」の結論は「病の時は病を忘れよ」です。
そうおっしゃる天風師も、「奔馬性結核」という質の悪い結核に冒され、悩み、苦しまれました。
しかし、カリアッパ師との出会いとその後のインドでの修行で病から心を離し、克服、真理を体得されたことは過去のブログに書きました。
ご覧でない方は下のリンクから一読ください。
こちら⇒

既に過去のブログでこの「天風流、病と不幸の対処法」についてある程度書いたつもりですが、冒頭のようなことがあり、ここで今少し書いてみたいと思います。

天風師はインドでの修行で、病気が回復しないのは、妄念、雑念が始終心の中で葛藤を起こしており、そのせいで自分の中にある天与の自然良能力(免疫力や本来の生命力)が働けずにいることに気づかれます。
そして師は「天の声を聞く」=無念無想の修業を通じて、病から心を離し、病を忘れ、自らの自然良能の力を発動し、病を克服されました。そのことを天風師はこのようにおっしゃっています。

煩悶なき、無念無想が病を癒す
人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。

さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。

もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。
それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。

ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。

とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。

ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。


この天風思想の中核である無念無想という事、それによって現れる霊性心、霊性意識ついては過去のブログに書きました。
こちら⇒

とはいえ病の直接の原因は食などの生活習慣や遺伝など文字通りの肉体的問題もありますから、それに対する対処は勿論大事です。しかし本質的には病への対処法は「生き方」の修正であり、更に本質的には生きる上での「態度」や「想いの習慣」を改める事にあります。

病とは原因、理由のハッキリわかるものであれ、そうでないものであれ、最終的には「生き方」「考え方」の修正を私たちに促してくれているものだ、と考えるのがまず正しい病との「向き合い方」ではないでしょうか。これは病を不幸と置き換えても同じことです。

天風師も病を得、インドでの修行を通じて「生き方」「考え方」「想いの習慣」を改めることで克服されました。
そういう意味では病や不幸の原因は「生き方」「考え方」「想いの習慣」にあり、その対処法もそこにあると考えるのが、論理的で、まっとうな考え方だと言えるでしょう。

天風師の講話で私が特に好きな話があります。天風師が聞いてうれしい「お礼の言葉」という話です。

「ありがたいことに、私の話を聞いた人なんかが、お礼をよく言いにきてくれます。「先生、おかげさまでもって、ほんとうに家じゅう健康になりました、ありがとうございます」とか、「商売もおかげさまで繁盛いたしまして、この頃は娘も息子もほんとうによく私の言うことを聞くようになって、うちじゅう、もうほんとうに平和です」とか、こういう礼を言う人をみると、私はね、この人、いったい何を聞いてたんだろう、と思うんです。

そういうときはいつも「あなた、私の話をほんとうに聞いてたの?間違って聞いてるなあ。まっ、お礼の言い方、2,3日考えてから、言い直しにいらっしゃい」と、相手の身分が高ければ、身分の高いほど、きつく言いますよ。」

天風師の教えを奉じて病気も治り、不幸も修正され、すっかり幸せになりました、有難うございます、というような礼を聞いてもちっともうれしくない、という事です。天風師が聞きたいお礼の言葉はそうじゃない、本来、天風門下のあるべき態度はこれだ、と次のようにおっしゃいます。

「これに対して、私が涙がでるほどうれしいお礼の言葉は、もう1つ上にあるはずなんだ。
「先生、ありがとうございました」、そのあと何を言うかと思って、私はじいっと聞いています。

「いえねえ、おかげでこの頃は、先生、うちにどんなに病人ができても、どんな運命的なことができましても、以前とぜんぜん心持ちが違うんです。ぜんぜん心持ちがいたぶられないんですよ。それはもうほんとうに、天風会の誓いの言葉どおり、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に、力と勇気と信念をもって…。ほんとうですよ、先生。どんなに私の心を乱すようなことを仕向けられても、断然、私の心は始終、平和です。憎い人は一人もいません。私の心の中は愛で満ちています。ほんとうにありがとうございます」

こういうお礼を言われると、私ねえ、もう抱きしめてやりたいようなうれしさを感じます。

つまり、どんな大事に直面しても、どんな危険な場合に直面しても、心がいささかもそれによってあわてたり、あるいはそれを恐れたり、あがったりしない、いわゆる平然自若として、ふだんの気持ちと同じようにこれに対処することができる状態。どんな目にあっても、どんな苦しい目、どんな思いがけない大事にあっても、日常と少しも違わない、平然としてこれに対処する、これが私のいう積極的精神なんであります。「晴れてよし、曇りてよし、富士の山」なんです。


ここで取り組むべき本当の問題は「病」でなく、「生き方」「考え方」「想いの習慣」の方にあるのだ、という事をおっしゃっています。だからこれに続けて、このように話されているのです。

とにかく、信念が大事なんだ。病気一つを考えてもそうだ。京都に去年死にかけた偉いやつがいる。「どうだい元気か」と言われて「はい」と答える。「もうどうにもないかい」と言ったら「初めから何もありません」と返事した。これは偉い答えだ。去年死にそうになったやつなんだ。「偉い!」って言ってやった。

以前のブログで紹介しましたが、もう一つ私の好きな天風講話です。

一難去ってまた一難、さてどうする?
ある日インドで山に修行に行く道すがらカリアッパ師からこういう質問がでたそうです。

「野原を歩いているときに後ろをひょっと見たら虎が追いかけてきた。そこでたまらぬと逃げ出して、どこか安全なところはないかと遙か向こうを見ると大きな松の木が天に向かってそびえている。これだ!と言うんで松の木に登って、チョイと下を見ると、その末の木の枝のでている先は千尋の谷になっている。

ここなら虎も来まいと安心していると、ひょいとみた頭の上から大蛇がお前を飲もうとして、近寄ってきた。上に大蛇、下に虎、困ってひょいと足元を見るとツタが谷に向かってぶら下がっている。これだ、これだ、これにぶら下がれば虎も大蛇も近寄れまい、と思い、ツタにぶら下がった。これでやれ安心と思ったのもつかぬ間、手元に何か怪しい響きが伝わってくる。ひょいと上を見るとその捕まっているツタの根をリスがポリポリかじっているが見えた。」

「さあ、どうする?」というのがカリアッパ師の質問です。

天風師は自身が何度も生死の中をくぐり抜けた経験があったので、こう考えたそうです。
何も慌てることはないじゃないか。切れるまでは生きているんだから、切れて落っこちてからのことは、落っこちて後から考えればよい、そこでにっこり笑って「落っこちるまでは生きていますから、そのまま安住しています」と答えたと言います。

これに対してカリアッパ師は「偉い!それなら先々見込みがあるぞ。それが人間の世の本当の有様じゃ」と言ってくれたそうです。

天風師はこのカリアッパ師の言葉を紹介し、「これが人間の世の有様なんです。気づかないために安住しているんではなく、気づいたときでも安心ができるようでないと本物じゃないわけだね。」とおっしゃっています。


ここで紹介した講話にあるような心境に至ること、これを目標に人生を歩むことが生まれてきた目的の一つといっても良いのではないでしょうか。

若いころ読んだ吉川英治の「宮本武蔵」の中に旅をする武蔵が美しい富士の見える峠で同行している剣術修行を志す少年に修行の目的を問うシーンがあります。

少年の答えは「柳生但馬守のような偉い剣術使いになりたい」というものでした。柳生はいうまでもなく徳川将軍家の剣術指南役です。
これに対して、武蔵はこう諭します。「あれになろう、これになろうと焦るより、あの富士のように、どっしりと動かない自分を作り上げる。それが修行の目的だ。そうすれば世間から仰がれるようにもなる。自然と自分の値うちが決まってくる。」

天風師の講話は「宮本武蔵」のこのくだりを思い起こさせてくれます。
そしてこのような人生態度を持つことが病の克服法なのです。
しかしそれが簡単でないことも事実です。

私自身もこの天風師の教えから、大変勇気を頂きましたし、病や不幸に対処するための「心構え」や「考え方」を改めることもできたとは思いますが、常時このような心境でいるのかというと決してそうではありません。

天風師の「心身統一法」によって病や不幸を克服された方は少なくないと思います。
私にとっても、人生の節目、節目で天風師の教えは大きな助けを頂きました。
しかし、より大きな気づきや救いを私に与えて下さったのは五井昌久先生でした。
前に書きましたが、どちらかというと天風師の教えは「自力行」で五井先生は「他力業」です。自力で自らを救える人はいらっしゃいますが、そう多くはありません。私も自力で自分を救えるほど立派な人間ではありません。天風師の教えは素晴らしいのですが、凡夫にはなかなか実行が難しいのです。

五井先生の病克服法
そこで現在、病で苦しまれている方、不幸で悲嘆のふちにいらっしゃる方の力になることを願って五井先生の「病と不幸の対処法」をここで改めて紹介したいと思います。
それを知る良いエピソードが五井先生の講話集2「みんな救われている」に掲載されています。



それは塚本清子さんという方の体験談です。塚本さんは悪性腫瘍に罹患され、医者からも見放されていたようです。
藁をもすがる思いで五井先生におすがりした塚本さんは五井先生から「病気を治す秘訣」を教えられます。そして塚本さんはその実行を五井先生と約束されます。

それは
①いつも気になって心配して触っている患部の腫瘍(おにぎり大)を決して触ってはいけない
②何かにつけて病気の事ばかり考えている習慣を改め、明日から決して病気だと思ってはいけない
③自分の寿命をいつも気にしているが、毎日今日一日の命だ、と思って三か月先、半年先の心配はしない
の3つでした。

これは「病の時は病を忘れよ」という天風師の教えを更に具体的な約束事項にしたと言えます。
しかし、この「病を忘れる」ということが簡単ではありません。
天風師がしばしば引用される江戸時代の僧、沢庵の言葉「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな」のように心のコントロールが至難の業だからです。

病を忘れることが良いと思っても、思うように忘れることが出来ない=コントロールできないのが心です。
先の塚本さんの五井先生との3つの約束も実行はそう簡単ではありません。「明日から決して病気だと思ってはいけない」と約束しても、ついつい病気の事ばかり考えてしまうのが凡夫の常です。

にもかかわらず、塚本さんは3つの約束の実行に努力した結果、劇的に病魔を克服されます。
その時、病に心を向けがちな塚本さんの習慣克服の大きな力になったのが五井先生が提唱された「世界平和の祈り」でした。
いわば心の置き所、預け先を「世界平和の祈り」に見つけ、「世界平和の祈り」に心を委ね、病から心を離せた、と言えば良いでしょうか。

この塚本さんの死病克服の体験には興味深いエピソードが多いので、詳しくは一読をお勧めします。

五井先生は塚本さんのような病や不幸に苦しむ多くの人に向き合い、そしてお救いになられました。そういった人々に五井先生がなさったお話を講話録のなかから選び、以下に紹介したいと思います。
少々長くなりますが、五井先生のご講話からの抜粋引用です。

「消えてゆく姿の行じ方、徹頭徹尾、消えてゆく姿」
人間は病気を恐れてはいけません。貧乏も恐れてはいけません。病気になる、貧乏になる、ということは過去世の業の想いがなるのです。その過去世の業因縁が現われて消えてゆくのです。

恐怖心が毒素になりはしないか、不幸の種になりはしないか、という想いも、業で、消えてゆく姿なのです。いろいろな形でもって、神様が消してゆくのです。

病気になった、過去世の因縁が消えてゆく姿だ。貧乏になった、ああこれは過去世の因縁が消えてゆく姿なんだ。怪我をした、それは大きなものが出てくるのを、小さく消してくださったんだ、というふうに思う。
思いながら、いや、しかしまたなりゃしないか、また今度はひどくなりゃしないか、とこう思う。

消えても消えても出てくるんじゃないかなあ、なんて思う。いつになったら善くなるんだろう、とこう思う。これは恐怖の想いでしょ。その恐怖の想いも出てきたら、それも消えてゆく姿なんです。

何が出てきても、自分の神性、完全円満性を否定する想いは全部消えてゆく姿なのです。高慢の想いも消えてゆく姿、卑下慢、卑下して自分はだめだと思う想いも消えてゆく姿、みんな消えてゆく姿でして、消してくれるのは誰かというと、守護霊守護神さんです。

守護霊守護神さんがそういう想いを幽体からみんな消してくれているんだから、ああ守護霊さん守護神さん有難うございます、と思いなさい。それで、世界人類が平和でありますように、と祈りが始まってもいいのです。

天風師の教え、五井先生の教えには共通点が少なくありません。お二人とも心の去来する妄念、雑念が、神性に通じ、人間本来の力の源である「霊性心」へのアクセスを妨げ、「霊性心」を出なくしている、と断じられています。

上に述べられている「消えてゆく姿」も、天風師は同様のお話をされています。天風師は心に去来する様々な思いは丁度、新幹線の車窓を流れていく景色のようにものであるとおっしゃっています。
特定の車窓の景色に注意を向けなければ、ドンドン景色は流れてゆく、同様に心に浮かぶ様々な思いも、そこに注意を向けなければ(とらわれなければ)車窓の景色のように流れて行ってしまうのだと。

また上の五井先生のお話にある「幽体」とは言い換えれば潜在意識の事で、この潜在意識にため込まれた種々の想いが病の原因であるというのは五井先生、天風師のお二人に共通する認識です。

このように共通点は多いのですが、決定的な違いはここで五井先生が触れられている守護霊、守護神の働きです。

守護霊、守護神の働きについては過去のブログで私の体験も含めて書きましたので、以下を参考にしてください。
⇒守護の神霊の存在を確信した山本印店との出会い
⇒守護の神霊の働き「人間万事塞翁が馬」とその後


前述の塚本さんの死病克服の過程でも塚本さんの守護霊、守護神の働きがあり、そのことを五井先生は解説なさっています。
私は自身の体験からも守護の神霊の存在を確信するようになりましたが、これが私自身の霊性心開発の大きな助けになりました。
さて、五井先生のお話の続きです。世界平和の祈りの効果、守護の神霊の働きが述べられます。

「完全円満な姿が現われてくる」
どこから始まっても、後先はどうでもかまいませんから、世界平和を祈るような思いにさえなれば、禍変じて福となります。
病気になったために世界平和の祈りをする。すると病気は消えていって、完全円満な自分の姿がそこに現われてくる。禍を転じて福と為すというか、パッとひっくりかえるのです。

たとえば相撲で、向こうから押してくる。上手な人は押してくる力を利用して、相手を投げると、相手はひっくりかえってしまう。合気道がそうですね。消えてゆく姿という想い方はそれと同じなのです。病気は無い、肉体は心の影である、といっても、みんな達人ではないのだから「無い」ではわからない。

いっぺんは現われてくるのだから「無い」と言えるのはお釈迦様のようにならなければ言えない。私も「無い」ということはよくわかるのです。無いのです。この肉体は影なんです。ここに現われているのは、みんな過去世の因縁の影です。本当は真実は光り輝いている。光体です。あの霊光写真のような光なのです。(※霊光写真とは五井先生を姿を映したところ、霊光になっていたというもの)

ところが考えてごらんなさい。私がここにいて、光だけがあって、光の中から言葉が出てきたら、こわくて一般の人は近づけませんね。やっぱり肉体の世界にいる場合には、肉体の姿をしていなければね。

観世音菩薩というのは、相手が女の人なら女の人、男の人なら男の人、老人には老人、芸者さんには芸者さんの姿をして現われる、というお経がありますね。そのように、神様はいつでも説法するのに、説法される人にふさわしい姿をして現われるわけです。

私は皆さんにわかるように、わかりやすい話をするために現われている。一般大衆を相手にするのだから、大衆を相手にしてむずかしい学問の話をしても、哲学の話をしてもわかりません。

「これ以上のやさしい教えはない」
私のわかりやすい話というのは「消えてゆく姿」なんです。現われている状態、あなたが今たとえば、どんな悩みのどん底にあろうとも、どんな苦痛のどん底にあろうとも、それは過去世の因縁の消えてゆく姿、必ず消えてしまうんだ、全部消えてしまうんです。

消えてしまうということを認識して、守護霊さん守護神さん!ってつながりなさい。世界平和の祈りをやりなさい。そうしていさえすれば、消えてゆくんだ——ただそれだけなんです。実に楽なんですよ。

そんなこといったってやれません——やれませんという想いも消えてゆく姿。苦しくなると反抗してやらない人もあるかもしれない。しかし最後に苦しくなるとやりますよ。

私にはそんなむずかしいこと出来ません、出来ないですよ、という人がいます。それはまだ余裕があるからです。その時は出来ません、と言って離れていって一年か二年する。そうすると、どうにもならなくなってくる。そうすると今度はやるんです。いやが応でも「助けてください、先生」とやってくる。

「じゃ五井先生生と思いなさい、私が引き受けてやる」ということで、世界平和も抜かしてしまって、五井先生だけで結びついて、それからだんだん世界平和の祈りをするようになってくる人もあるのです。

「自分で消すのではない」
苦しくてどうしようもなくなれば、必ず守護霊さんが連れてくるんです。それで消えてゆく姿をやらせるんですよ。消えてゆく姿というのは、自分が消すのではないんですよ。

よく間違えて、自分がいき張って消すんだと思っている。コンチクショウと思って消そうと思うのですが、なかなか消えない。あれ邪魔だから消しちまえ、なんていうのではないのです。自分で消すのはそれは自我です。あるいは自力というのです。

自分で消せるようならば、みんな悟れて楽なもんですよ。自分で消せないところに、守護霊守護神がいて、神様の愛が本当にそこでわかるのです。
この世というものは、自分ではなんにも消せない。自分で消すものは一つもないです。みんな守護霊守護神が消してくれる。

たとえば短気の想いがあるとする。これを消さなきや消さなきや、消そうと思っても、思うそばから出てくる。恐怖でも同じです。恐れまい恐れまい、恐怖してはいけない、いけないと思っていると、よけいに恐ろしくなってくる。そういう経験がありますね。

それは自我なんです。力みというんです。よほど強い人をのぞいて、ふつう一般の人では消すことは出来ない。そこで私は、消してゆく姿ではなくて、消えてゆく姿というんです。
決して消してゆく姿とはいっていません。消えてゆく姿なのです。

「知らないうちに変わってゆく」
ただ黙っていれば消えるんですよ。恐怖心があるとしても、それを眺めていさえすれば消えるんだけれども、眺めていられない。恐怖の中にとりこまれてしまう。

とりこまれてもいいんですよ。恐怖が出て結構、出たらそのままにしておいて、かまわずひたむきに、世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように、とやるんですよ。それが間に合わなかったら、五井先生、五井先生、五井先生とやるんです。

そうすると、知らないうちに想いが、五井先生なら五井先生、世界平和なら世界平和のほうへ、神様のほうへ昇っていきます。そうすると恐怖がだんだん、だんだん薄れていって、消えてゆくのです。人間というのはそういうものなんですよ。

人間の生き方としては焦ってはいけません。世界平和の祈りを祈っている人の運命は決まっている。この祈りというのは最高の祈りなんだから、人類が平和になるということは、神様のみ心だから、世界平和の祈りの中に入ったら、その人は悪くなりようがないのです。必ずよくなるに決まっている。

だからもうよくなるに決まっていると思って、どんなことが現われても焦らないで、悪いことが現われたら消えてゆく姿と思って、一所懸命祈ってさえいれば、知らないうちに、現われてくるものがどんどんいいものに変わってゆくわけです。

そのうちに、いいも悪いもそんなこと問題ではなくなってしまうのです。この世の現象のことは問題ではなくなって、いつも心が平安になることだけを目ざしてゆくようになるわけです。(五井昌久著 「内なる自分を開く——本心開発メソッド」以下リンク、より)
内なる自分を開く⇒

この最後の部分、「そのうちにいいも悪いもそんなこと問題でなくなってくるのです」というところは天風師のおっしゃっている「どんなことにも動じない自分を作ることこそ肝要だ」と同じ事です。前述の天風師の「病の時は病を忘れよ」というのは言うは易く行うは難しですが、その易しい実践法が五井先生の「消えていく姿で世界平和の祈り」であると言えると思います。

五井先生が教えて下さっているのは、本来の光(霊性心)を妨げている種々の想いを世界平和の祈りや五井先生に委ねてしまいなさい、という事なのです。

そうすれば、各人を守る守護の神霊が守り易くなり、結果として妄念、雑念の類をドンドン消してくれる、消えて行くという事になります。

天風師と五井先生、二人のおっしゃっていることは共通点は多いのですが、この守護の神霊の働きともう一つ違いがあるのは死後の生命や過去世に関する認識です。

五井先生は過去世、死後の生命の存在を当然の前提としてお話になっています。
これに対して天風師は正しい自己認識が重要であり、それは自分は肉体でも無く、心でも無く、霊魂であるということであるとおっしゃっています。そして霊魂の永遠性についても述べられていますが、どちらかといえば人生を生きる心構えは「人生一度キリ」、だから「無駄に生きるな」ということを繰り返しおっしゃっているように思えます。

私の知る限り天風師は死後の生命のあり方や輪廻転生については明確にお話になったという事はないようですが、師はそれらも認識されていらっしゃっいました。
敢えて踏み込まなかった理由は出来るだけ宗教的な説明をせず、科学的にお話されようとしたためであると私は拝察しています。

上の五井先生のお話の冒頭には「人間は病気を恐れてはいけません。貧乏も恐れてはいけません。病気になる、貧乏になる、ということは過去世の業の想いがなるのです。その過去世の業因縁が現われて消えてゆくのです。」とあります。

過去世や死後の生命の存在をどう考えるかは人間の生き方を決める前提になる重要な認識です。
そして、正しい人間認識、人間観があって初めて正しい人生が歩めます。

天風師の言われる通り、正しい自己認識こそ重要なのです。

ある調査で過去世、いわゆる前世の存在を信じている人の割合は34%になっています。
しかし信じている理由は根拠薄弱なものが多く、前世を知っている人や前世の存在を確信しているという人はそう多くはありません。以下のリンクがその調査結果です。
こちら⇒

世の不幸や誤りの原因の少なくない部分は「前世の存在を知らない」即ち「人は死んでしまえばおしまい」という自己認識の不完全にあるというのが、私の実感です。

「前世や来世があると信じるか?」と質問されたら、私は「あるに決まっている」「そう確信できないのは勉強不足」と答えます。
なぜそのように確信できるのか、その根拠について次回書いてみたいと思います。

この続きは以下をご覧ください。

「病や不幸とどう向き合えばよいのか」③ 病気の原因と対処法

「病や不幸とどう向き合えばよいのか」②甲田光雄先生と舩井幸雄先生、そして世界平和の祈り

死後の生命、魂の永遠を考える


関連参考記事
天風師が説く「5つの心」① 霊性心とは

天風師が説く「5つの心」② 霊性心とは

霊性心開発の方法


霊性心開発 つづき「The Power Of Now」エックハルト・トール

エックハルトトールと中村天風師

霊性心開発 つづき 五井昌久先生「老子講義」より

霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」

世界平和の祈りの行じ方

「病や不幸とどう向き合えばよいのか」② 甲田光雄先生と舩井幸雄先生、そして世界平和の祈り

「病や不幸とどう向き合えばよいのか」③ 病気の原因と対処法

講話集2