霊性心開発の方法⑤ 「潜在意識の大掃除」 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 | Yokoi Hideaki

Yokoi Hideaki

http://institute.jpn.com/

このブログでは、五井先生と天風師、このお二人の思想、教えを軸として「霊性心」「霊性開発」をテーマに、書きつないできました。

歴史には近世、近代、現代という大まかな時代の区分がありますが、一説には1917年のロシア革命以降、また1945年の第2次世界大戦以降を現代とするようです。

 

であれば、お二人は現代を生きた思想家、宗教家です。実際、私の父は天風師の講義を二度受講していました。

そのことを知ったのは天風師の「盛大な人生」を入院中の父に差し入れたことからでした。その「盛大な人生」は父の死後、手元に戻ってきたのですが、後日その裏表紙に父の手書きメモを発見しました。

 

そこには父の名前と共に、こうありました。

「警察大学で二回の講義を受けた時は三十二歳という経験不足もあって、良い話(自己暗示)としか受け取れなかったが、改めて本書に接し、多くの病を得た体験とゆとりから、全く共鳴した。よい著書をありがとう。」

 

私は父を心から尊敬していたので、父への親孝行の一つになったと天風師に深く感謝しています。

父は天風師から病と向き合う勇気を得たと思うからです。

 

残念なことに、五井先生の教えを父に話す機会はありませんでしたが、現代を生きた天風師、五井先生に残された書籍や講話(録音、録画)を通して出会えたことは私にとって生涯の幸運でした。

 

釈迦、イエス、老子を始めとして、いつの世にも優れた方、偉人、覚者はいらっしゃいます。しかし、いずれも昔で、しかもインドやユダヤ、中国の話ですから、時代環境は大きく異なります。仏典やコーラン、老子道徳経などを理解することは優れた解説書なしには不可能でしょう。

 

その意味で、現代にこのお二人がいらしたことは、同時代を生きているわれわれ日本人にとって特別な幸運であると、私には思えるのです。

 

お二人の教えの共通点と相違点

このブログをある程度読まれた方は、お二人とも凡人、一般の人でもできる霊性(心)開発の方法を説かれたということはお判りだと思います。

偉大な覚者のみが経験するものと思われている「悟り」とか「正覚」、「覚醒体験」は実際には誰にでも経験可能なもので、我々が考えるような難しいものでないことをお二人は示されています。

 

お二人の教えには共通点が多くあります。このブログで度々紹介してきたように、人間の本質はこの肉体やこころ(想念)ではなく、霊性(心)、魂(たましい)であり、霊性(心)で生きるということが人間本来の生き方で、より幸せに、より健康に人生を生きる秘訣であるということです。

 

ただ、お二人の語り口やアプローチには随分違いがあります。お二人とも難しいことを平易にお話しされましたが、天風師は出来るだけ「科学的」であろうとなさったと思います。

であるがゆえに、死後の生命、生命の永遠性については語られることがありませんでした。

私は知って敢えて語られなかったと思っていますが、師の講演会では「人生は一度きり」ということを毎回お話になったようです。

 

現在は過去世や来世の存在をなんとなく理解している人は増えていますが、天風師のご生前、戦前戦後の時代は、今以上に「迷信」「非科学的」と受け止める人が多かったのでしょう。であるが故に大衆の状況に応じて「法を説かれた」という面があったと思います。

 

また、霊性心開発の方法として「現在」「今」に集中させようとする意図もあったのでないか、と思います。

過去世や来世は普通の人には知りえません。知りえないものを種々説明するより、「今の生に集中する」ことの方が断じて有意義であり、実効性があるというお考えがあったのではないかと拝察しています。

 

これに対して、五井先生は死後の生命や生命の永遠性を前提としてお話しなさっています。

かと言って五井先生が科学性を無視されたのかというとそうではありません。

見えない、聞こえないから「無い」というのは短絡です。科学がまだ追いついていないのです。

ちなみに、死後の生命や生命の永遠性が信じられない方は以下を読んでみてください。
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12218387226.html

 

五井先生の老子講義の第六講にはこうあります。

自分の行為が正しくて、相手の行為が悪いのだから、自分が怒るのは当然だというような場合が随分ありますが、私のようにその人その人の過去世からの想念所業の判るものからみれば、その時には、確かにその人の方が正しく、相手方が100%悪いとしても、過去世からのお互いのやりとりを通算してみれば、正しいと思っている方にも、悪いところが沢山あったので、相手方がその人に悪しく当ってくる理由も随分とあるわけなのです。

 

個人同志のやりとりも、国家や民族同志の争いなどでも、その場その時だけのものではなく、過去或いは過去世の歴史的な諸事情の下に、今日の争いも生れてくるのであって、現在正しいからといって現在正しい方が全面的に正しく、現在悪い方が全面的に悪いとはいえないのです。

 

同様の事を五井先生は聖書講義でマタイ伝の「すべて善き樹は善き果をむすび、悪しき樹は悪しき果をむすぶ」の譬えを解説され、こう述べておられます。

 

人間世界をこの世だけと想っていますと、誰がどこからみても、善い行為をしつづけているような人が、意外と悪いことばかりつづき、その反対の悪いことを平気でやっているような人が善いことづくめの生活で、大きな顔をして、この世をのし歩いているようなことが随分とありますのが、理に合わぬことのように思われてきます。


ここに、人生観のむずかしさがあります。私か常に申しておりますように、人生というのぱ、この現世ばかりではないので、あの世もあれげ、前生もあり、来生もあるという工合に、誰も彼も、はじめてこの世に生れてきて、死んでしまったら、もうその人が無に帰してしまったり、あるいは神と一体になって、人間でなくなったりするような、そんな単純なものではないのです。
 

人間とは生命そのものでもって、神のみ心をこの地球界に実現するために、多くの人間と分れて生れてきて、生れかわり死にかわりして、しだいに自己を天地一体のものにしてゆき、同時に神の国をこの世に創設してゆくようにできているものなのであります。
そこで人類というものは、神の生命においてすべて兄弟姉妹である、といわれるのでありまして、この世だけの生命だと思っている限りは、イエスのいう真理も釈尊の説く道もわかりようがないのです。

 

ここで五井先生がおっしゃっているのは「原因があって結果が生じる」という因果律が厳然と存在するということで、それは科学性の重要な要素なのです。

確かに、世の中にはこの因果律が間違っていると思えるような理不尽なことが起こりがちです。

実際テレビのニュースなどでは「なぜこんなことが起こるのか!」「神さまはいらっしゃらないのか!」と思うようなことが随分あります。

しかし透徹した覚者の目には理不尽はありません。如何に理不尽に見えようとも、この五井先生のお言葉のように必ず相応の原因が存在します。

 

消えてゆく姿の意味

五井先生の教えの三本柱は①「世界平和の祈り」②「消えていく姿」③「守護の神霊への感謝」です。

この中の②消えてゆく姿の実践が重要なのは、人間の運命を創っていくのは各々の潜在意識だからです。

 

五井先生はこうおっしゃいます。

思っているのが現われている。これは顕在意識です。自分では思っていないけれど、以前思ったとことが知らないで溜っている、それが潜在意識です。(中略)顕在意識の心の現われているものは、僅かしか現われていない。その僅か現われているものだけで、人間は生活しているんです。しかし作用するものは、現われている心ではなくて、現われていない潜んでいる心の方で、それが人間の運命を創ってゆくわけです。

 

こうもおっしゃっています。

この現界は潜在意識と顕在意識とがぐるぐる廻っているので、顕在意識(普通いう心)に想ったことは、すべてそのまま潜在意識(幽体に属する心)に記録され、その記録された想いが、表面の心、顕在意識に記憶として浮びあがり、ある時は、直接行動として、言動に現われる。そして、その現われた言動がまた再び潜在意識に録音される。こうした、ぐるぐる廻わりが、その人、その人の運命となって現われている。

 

天風師もこうおっしゃいます。

そもそも心というものの行う思考の直接の源は意識です。その意識には実在と潜在の二つがあるという事は知っていますね。実在意識は思考の源をなし、潜在意識は力の源と言う役割をしている。即ち実在意識は思ったり考えたりする働きを行う力を持ち、潜在意識はその思考を更に現実化する力の源と言う役割を持っているんです。

 

「消えてゆく姿」とは、「生命の永遠性」を前提に自分の人生に現われる身に覚えのない、理不尽な不運、不幸に対しても、因果応報の理法によって生じたもの、すなわち自分が過去において為した「想念行為」が原因で起こっているのだから、今、結果として現れたということは、生ぜしめた原因も消えていくのだ、そう観じて(思って)、喜び、感謝を以て受け止める、ということです。

 

生命の永遠性や因果の理法を知らない人、理解できない人は、突然の不幸、不運を悲しみ、それが理不尽であればあるほど、そこに執着して、自身の運命を呪い、表面的に原因と見える人なり、事物に対して憎しみを深めるでしょう。

 

そして、その悲しみや憎しみの想念、行為が新たなる不幸、不運の原因となるという悪循環を生んでしまうのです。

 

このような不幸や不運の連鎖を脱するためには、それらを「消えてゆく姿」と観じ(観て)、この悪循環から抜け出さねばなりません。

 

だから、五井先生の定められた教義にはこうあります。

この世の中のすべての苦悩は人間の過去世から現在に至る誤てる想念がその運命と表れて消えてゆくときに起こる姿である。いかなる苦悩といえど、現われれば、必ず消えるものであるから、消え去るのである、という強い信念と今から良くなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心を常に思い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである。

 

この五井先生の教えは因果律に基づいた立派な科学であると私は思います。

 

潜在意識の大掃除

改めて考えてみれば、五井先生の教えも天風師の教えも、その目的は潜在意識の大掃除にあります。

この方法として、五井先生は「消えてゆく姿」と教えて下さり、天風師は「観念要素の更改法」を教えて下さっています。これも潜在意識にたまっているごみ(消極的なマイナス観念)を掃除するための方法論です。

 

観念要素の更改のための実践的な誦句(唱え言)が有名な「力の誦句」です。

 

これもまた有名な「吾らの誓い」も同様に観念要素の更改のための心構えを説いたものでしょう。

五井先生の上の教義にある「いかなる苦悩といえど、現われれば、必ず消えるものであるから、消え去るのである、という強い信念と今から良くなるのであるという善念を起こし、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづける」という言葉は天風師の観念要素の更改法と同じことをおっしゃっていると考えてよいと思います。

 

人生に起こる不幸や不運を消えてゆく姿と観じることで、マイナス観念を二度と掴まないように手放し、「今から良くなる」という善念(積極的なプラス思考)に置き換えていく、これは潜在意識の大掃除のための重要な要素です。

 

しかしこれは顕在意識からのアプローチです。もちろん、これらを繰り返し宣言する、思い、念じることで、潜在意識へ刷り込む効果はありますが、これだけでは潜在意識の頑固な汚れを落とすことは出来ないのでないかと思えます。

 

五井先生はこうおっしゃっています。

個人の運命とはまず幽体(潜在意識)に各自の想念が記録され、その記録された想念を現界に実現さすべき、各種の材料(環境)が自然に整い、幽界に一応原形ができあがり、やがて時を経て、この幽界の運命がその人の現実の環境に浮び出てくるのであって、その想念の誤りは、誤りのままに現界の運命として現われる。(中略)

 

その人の想念のままの環境が現象に現われるので浄まった想念の人は浄まった環境、汚れた想念の人は汚れた環境、憎しみに充ちた想念の人は憎しみに充ちた世界を、盗み心の想念は盗み盗まれる世界を、淋しい想念の人は淋しい環境を、それぞれその人の運命として現わしてゆくのである。

 

これは一回の肉体世界、即ち、五十年や六十年だけの想念をいうのではなく、三回、五回、十回と生まれ変わった数百年、数千年、数万年間の想念の蓄積が順次縁となり、果となり、また因となり縁を生じ果となって現われているので、この現在の肉体の想念だけを自己の想念と思って、”私はそんな悪いことを思わないのに、こんなに悪いことばかりある”という人がある。(中略)しかしこの法則は、自然の法則の、物は上から下へ落ちる、ということや、電流の法則と同じように、絶対なる法則なのである。

 

ここにあるように、潜在意識の汚れは数百年、数千年、また数万年間の想念、行為の蓄積です。「消えてゆく姿」や「観念要素の更改」は重要ではありますが、それだけで、潜在意識の大掃除がすんなり完了するというわけにはいきません。

そこで、この大掃除の決め手になるのが、このブログのテーマの霊性心開発、霊性心の発現なのです。

 

五井先生の最初のご著作の「神と人間」には下のような図が掲載されています。

 

これは五井先生が人間とは何かを判りやすく図説されたものです。

 ここにあるように人間は大きく分ければ、4つの体で、4つの世界(次元)に同時に存在していおり、それぞれを神体(界)、霊体(界)、幽体(界)、肉体(界)と呼びます。

 

これらは神智学でエーテル体、アストラル体•••などと呼んでいるものとほぼ同じ考え方です。

 

五井先生はこう述べられています。

人間というものは、実に不可思議なる存在でありまして、ここに肉体として存在しており、種々と想い巡らしているこの人間だけが全存在ではありません。全存在どころか、ほんの先端の現れでしかありません。凡夫というものは、この肉体人間だけを人間の全存在だと思いこんでいるのですから、眼先の事柄だけしか判りようがありません。

 

ところが真実の人間というものは、 この肉体より数等倍も秀れた機能をもつ体が幾層にも奥に奥に存在しておりまして、奥にゆくにつれて、徴妙この上ないものになってくるのであります。そしてその一番奥の存在が宇宙神のみ心の中心にある直霊(なおび)ということになるので、この直霊が神そのものということになるのであります。

 

ですから人間心の一番奥深いところは神そのものとなるのです。そしてそうした神そのものの働き場所を神界というのであり、次第に霊界、幽界、肉体界と、その働きのひびき(波動)が遅鈍になってくるのであります。(老子講義より)

 

更に、こうも述べられています。

肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。

 

そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。

 

一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。(同)

 

ここで五井先生が述べられていることを上の図に基づいて、私なりの理解で整理すると下の図のようになります。

 

幽界(潜在意識)に長年溜まった汚れを落とす、大掃除には顕在意識からの働きかけでは充分でなく、その決め手になるのが、神性、霊性の光による浄化だということです。

 

よって、不幸、不運、病などの問題の根本解決の決め手になるのが霊性(心)開発であり、これを更に進めると一層高い神性開発につながっていくということなのです。

 

この霊性開発、神性開発について天風師は「神人冥合」(しんじんめいごう)というタイトルでお話になっています。

 

神人冥合(神我一体)とその方法

天風師はこのお話の中で、神とは宇宙の根本主体、永遠の生命を有する造物主の事であるとされ、同時に宇宙に遍満しているブリル(宇宙霊、宇宙エネルギー)であり、これを実人生の中で充分に自分のものとすることが「神人冥合」(神我一体)であると、述べられています。(以下は私の要約です。)

 

神人冥合とは大自然のもつ神秘の力を充分に自分のものとして、人間の心の働きを超特的に向上せしめ、自己の人生を万物の霊長として、如何なく確保することにある。

 

人間の心と宇宙霊は自然と結びつくようにできている。自然と結びつかせるためには雑念、妄念を心に持たせないということが肝要なんだ。

 

何故なら、人間にとって最も重要な、この神人冥合を妨げる一大障害物が、始終、脳裏に去来する雑念、妄念だからだ。

 

古来、悟りというものは何も考えていない時に生じるというが、これはまったくその通りで、雑念、妄念が出ていない時に人間の本心である、霊性意識、神性意識が出てくる。

このことをインドの深山幽谷、滝の前での座禅瞑想の修行を通じてハッキリと認識することが出来たんだ。

 

宇宙の実相とは普通の感覚、すなわち目で見えたり、耳で聞いたりして得ているものとは違う。

水一つとってもそうだろう。雨になったり、雪になったり、水蒸気になって雲になったりと姿を変える。

その実態はH₂Oなのだが、人間の目にはそう見えない。この仮相(けそう=仮の姿)への執着が、雑念、妄念を生じせしめる。

 

この仮相への執着を離れるとき、また心からこれを離すとき、本来の人間の力の源泉である霊性意識、神性意識が発現するんだ。

 

インドの山中でシーンとした声の無い声を聞く修業で得た霊性意識、神性意識の感覚が、死病を克服し、まったく新しい自分、霊感に満たされた人間として生まれ変わる土台になったんだ。

 

このインドの深山幽谷の中での三年の瞑想修行がこれを可能にしたのだけれど、深山幽谷での修行でしかこれを成しえないか、もっと普段の日常の中で「神人冥合」に至る方法がありはしないか、と工夫して、帰国後に見つけた方法がある。

 

宇宙を創造したこの万能力を自己の生命に出来るだけ多く受け入れる方法を今日は伝授しよう。

 

これによって普段の生活の中でも、心をこの無声の境涯に入れることが出来る。

耳を拠り所として、無念無想の境涯、神人冥合の境涯に入る容易な方法がこれなんだ。

 

この容易な方法が安生座打法と呼ばれるもので、ブザーの音を利用したものです。

天風師はやや耳障りなブザーの音を会場で鳴らされます。そしてそれを切ります。一瞬の静寂がそこに現われます。その静寂に意識を集中します。

 

会場で天風師はお話をされつつ、同じことを何度か繰り返し行います。ブザーを鳴らし、そして切ります。一瞬の静寂に意識を集中する・・・・。

 

たしかにこの方法は有効なのです。私がやってみても、そこに無念無想、空の境地の入口に容易に達することが出来ます。初めての人でも何度か繰り返せば、その感覚をつかむことが出来るでしょう。(ブザーも良いのですが、更に良いと思えるのは仏具の鈴(りん)です。)

 

上に書いたことは私の要約ですが、ネットに天風師の講演録がアップされており、一層わかりやすいので、興味のある方はご覧ください。

http://www.tempu-online.com/part3/stable.html

 

天風師の肉声の講演は以下のCDで聞けます。

 

 

 

 

このお話は冒頭紹介した「盛大な人生」の第六章にも収録されています。

 

 

五井先生の世界平和の祈り

この安生座打法も勿論、素晴らしいのですが、それ以上に容易に無念無想の境地に至る方法が五井先生の教えて下さっている「世界平和の祈り」です。

 

 

五井先生はこうおっしゃっています。

 肉体人間の頭脳を駈け巡る全想念を無くした時には、神のみ心そのままが、光明燦然とその人の頭脳に入ってきます。神のみ心そのままが入ってくれば、その人の肉体はそのまま神の器であります。業想念の器ではなくなります。

 

そこで私は、肉体頭脳にでてくる想念のすべてを消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて神のみ心のひびきとしての行為としてしまうことを教えているのであります。

 

一度に空になるのを、消えてゆく姿として、徐々に空の状態と同じように、業波動と光明波動との入れかえをしてしまうのであります。これが凡夫にできる聖人の道なのであります。

 

同じことをこうもおっしゃっています。

(人間が本来持っている)智慧を一 番奥深いところ、神体より伝わるようにするためには、やはり祈りの中に自分の想念を一度全部投入してしまうことがよいのであります。そしてその智慧も世界人類の完全平和に役立つ智慧であり、そして力であるためには、世界平和の祈りのような、そのものずばりの唱え言が適当なのであります。言は即ち神なりきでありまして、こうした祈り言の中からでてきた智慧であり行為であるものが、無為にして為せというところとぴったり一つのものになってくるのであります。老子の(説く宇宙の本体、大自然の大元の法則である)道に至る方法は世界平和の祈りなのであります。

 

実際のところ、私の体験からも、このブログで種々書いてきたように「世界平和の祈りは凡夫にできる聖人への道である」と思います。

 

このことを図で説明するとこうです。

 

 

われわれの本質、実体は神性であり、光です。

それが肉体界に充分現れれば、我々は思い通りの人生を生きれるのですが、途中の幽界(潜在意識)は過去の神から離れた分離の想いや自分だけが良ければいいという個我の欲望想念の黒雲で汚れてしまっており、これが神性、霊性の光をさえぎっています。

 

 

世界平和の祈りは神性、霊性の光でこの黒雲を払い、幽体(潜在意識)を浄める祈りです。そうして幽体が浄まれば、神性の光に照らされて思い通りの運命を肉体界のスクリーンに映し出すことが出来るようになります。

 

このことを五井先生は「この祈りは、祈ろうという想いを肉体側が出せば、それは即座に、神界側への通路の扉が開き、神界の光明が直ちにその人の肉体に伝わってくる、という神界と私の約束事になっている」ともおっしゃっています。

 

また、五井先生は世界平和の祈りの2つの利点を上げられています。これについて以下のブログに書きましたので、宜しければこちらも覧ください。

 

世界平和の祈り 二つの利点 個人 人類同時成道 「救世の大光明」の働き
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12457237507.html


老子道徳経、第三講に「(道は)淵(えん)として万物の宗に似たり、(中略)湛(たん)てして存する或るに似たり」という言葉があります。ここで老子は道(万物の根源、すべてを生み出す空、虚の次元、世界)の説明として淵と湛の二つの文字を使っています。

 

五井先生はこの部分を老子講義で、「万物の根源たる、道の、計り知れない深淵さ(淵)と、深い静けさ(湛)とを現し、その深さ、静かさの先にある偉大なる力を感じさせるという意味が書かれているのです。」と解説されています。

 

ここにある深さ(広がり、奥行き)と静けさは、すべてを生み出す、虚の世界、空なる世界の入口、またそこに踏み込んだ感覚の表現です。なぜそう言えるかといえば、それが私の経験からの実感でもあるからです。

 

カリアッパ師が、深い瞑想によって聞くことが出来る天の声を「完全なる静寂」とされ、天風師が「シーンとした声のない声」と言われたのも、この感覚の事を言っています。

 

確かに、心を鎮め、世界平和の祈りに集中、統一するとこの深さ(広がり、奥行き)と静寂の感覚に容易に至ることが出来ます。その先に神我一体の境地があるということも確信できます。「空」とはまさにそこにあります。

 

般若心経の「色即是空」「空即是色」は仏教の極意と言って良いですが、色即是空とは「全ては空(天の声の在るところ=高次元、本体)より生ず」という存在論、「空即是色」とは空観によって全てを生じせしめる本体、本心で生きよ、という実践論を説いているというのが、世界平和の祈りで得た空観体験からの私の理解です。

 

私が世界平和の祈りを通じて得た空観はまだまだ浅いものかもしれませんが、天風師の師、カリアッパ師が言われた「完全なる静寂」、天風師自身が「シーンとした声のない声」とおっしゃるものが確かに実存することが実感でき、そこに神性の光が輝いていることも実感できます。そしてそこから「インスピレーション」と「力」が湧き出します。

これは単なる精神的充足でありません。実生活に極めて有効な実利があるのです。

 

この実利について、五井先生はこうおっしゃっています。

自分の本体の中に入ってしまうと、さあ今度は何が出てくるかというと、自分が思いもしないのに、自然に物事が出来てくる。自分が考えもしないのに、パッといい智恵が出てくる。自分が書こうと思わないのに、スッといいものが書けてくる。いおうと思わないのに、いい言葉が出てくる、というふうに、自然法爾に、ひとりでに、神さまの智恵、自分の本心の能力が出てくる。そしていろんなことが出来る。それが空即是色なんです。

 

これは全くその通りで、わたしのこのブログも書き出すと文章がどこからか湧いて来て、繋がって、後から読んで、「これホント自分が書いたのかしら」と思うことが少なくありません。

 

主催、担当する企業などの勉強会でも、言葉がどんどん湧いて来る、そして時間通りにピッタリ話の区切り良いところで収まる、などの体験が頻繁に起こります。

これが世界平和の祈りから得た私の空観の効用体験です。

 

だから心を鎮め、雑念妄念から心を離す、空観の実践、天風師流に言えば「病の時は病を忘れる」「不幸の時は不幸を忘れる」ことが人間にとっての真の健康や幸福の鍵なのだと断言できるのです。

 

にもかかわらず、この内なる無限のエネルギーや叡智を引き出さねばならない病や不幸の人生の岐路にある人ほど、これらに心をとらわれ、ますます内なるエネルギーや叡智から遠ざかることになりがちです。

 

これまでも紹介してきましたが、天風師はこの事をこのように述べられています。

人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。

 

さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。

もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。

 

それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。

 

ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。

 

とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。

 

ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。

 

ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。

 

私は「世界平和の祈り」で、ここで天風師がおっしゃっているトランス状態に容易に入ることができ、霊性境地に至ることが出来るということを実感しました。

 

世界平和平和の祈りは正に空観を得る易行道で、私にとって天風師のおっしゃる人間と神、造物主を結びつけるスイッチだったのです。

 

天風師は「神人冥合」のお話しの最後でこうおっしゃっています。

折あるごとに安定打坐を実行しなさい。宗教的にいえば、神、仏の命のなかに自分の命をパッともっていくという勢いで、哲学的にいっても、宇宙本体の偉大なエネルギーのなかに自分の命をヒョイとつけるのだと考えて、安定打坐をやってごらん。そら驚くべき実績がある。自分でも、これがほんとかと思うほど甦ってくるから。

 

世界平和の祈りはここで天風師が言われた「神、仏のなかに自分の命をパッと入れてしまう」祈りなのです。

 

少々長くなりましたので、このつづきは次回にしますが、父について最後に付け加えたいことがあります。

冒頭のように父に五井先生の事を話す機会はなかったのですが、自宅の父の写真、実家の仏壇、またお墓で、手を合わせ、世界平和の祈りとともに父を思う時、霊性、神性の光が父のもとにも届いていることを感ずることがあります。

 

その意味では、五井先生に大感謝なのです。

なぜなら、日々折々に親孝行ができるからです。

 

五井先生、ありがとうございます。

そして、天風師、ありがとうございます。

 

世界平和の祈りの行い方
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12315473722.html

 

追記

今日の記事の参考まで以前書いた「消えてゆく姿」の体験例を以下に貼り付けます。

 

消えてゆく姿の行じ方
「消えてゆく姿」の教えは素晴らしいものですが、その実行はこれもまたなかなか容易ではありません。

 

天風師の「病の時は病を忘れよ」も真理ですが、その実行が容易でないのと同じ事です。湧き上がってくる雑念、妄念を消していくことは容易ではありませんが、つい最近、私が体験したことを紹介します。

私の実家は大阪府枚方市にあります。病気の母の見舞いに実家に帰った時のことです。私の習慣は朝の散歩で、その朝も近隣で小一時間の散歩を楽しんでいました。


その帰り際です。前を歩いていた四十歳くらいの男性からいきなりストーカー呼ばわりされたのです。
前を歩いていたと言っても、私は脇道から彼の歩いている道へ出たばかりで、ほとんど出合い頭に近い言いがかりでした。私は何のことかわからず、一瞬絶句しましたが、彼は「ずっとついてきている」「何かうらみがあるのか」「いい加減にしろ」などと一方的に罵声を浴びせかけてきます。


もちろん初めて会った男性でしたから、理不尽に対して反論しましたが、彼は聞き入れません。
その日は仕事があり、余り時間を取るわけにいかないので、どなる彼を振り切って、帰路につきました。幸い彼は追っては来ません。

帰宅するまでほんの5分ほどでしたが、男性を振り切った直後は理不尽な彼への怒りで頭に血が上り、心拍数も上がっていたのですが、家に着くころにはすっかり気持ちが穏やかになり、彼への感謝の気持ちすら湧いてきました。


なぜそのように心境が変化したのかですが、それはこのように考えることが出来たからです。

人生で起こることには必ず原因や理由があります。さっきの理不尽なストーカー呼ばわりにも理由があるはずだと考えていたら、あれは「消えていく姿」だったという事に気がついたのです。


おそらく私には誰かと争い、もしかすると怪我でもするような因縁があったに違いありません。原因があれば必ず結果が生じます。

 

その現れるべき因縁をたまたま通りがかった少しおかしな男性からの言いがかりという形で表して、小さく、消してくださったに違いない、ということが理解できたからです。
「消してくださった」としたのはそこに守護の神霊の働きを感じたからでした。


私はこの事を真実そうであったと思っていますが、それを置いて物事をどう受け止めるかという事が大事だと言い換えても良いです。

バシャールと消えてゆく姿
チャネリングで有名なバシャールの言葉に「whole situation is neutral」(すべての状況は中立である)というものがあります。これは「ワクワクを追いかける」と共に初期のバシャールのチャネリングの中核的な概念です。


その意味するところは「起こっていることに意味はない」、「意味を与えるのはあなた自身だ」、という事です。バシャールは出来事にどういった意味を与えるかの「選択」が人生を豊かにもするし、貧しくもする、ということを教えてくれています。

これは出来事に常識、思い込み、習慣などで勝手な意味づけをしてはならない、という事ですが、消えてゆく姿の「消えてゆくものを再びつかんではならない」に通ずるものです。

いつもそんなことが出来るわけではありませんが、この朝、幸いにも私は怒りを感謝に置き換えることが出来ました。だから家に帰るまでの数分、ずっと心の中は神様、守護霊への感謝で満たされていました。

五井先生はこうおっしゃっています。

因縁因果の法則としても、この世において(あの世においても)現われてくることは、すべて原因、結果の法則によって現われてくるのであって、今生の自己としては、やったおぼえも、行なった記憶もないとしても、自己にあらわれてくる不幸災難も環境も、あらゆる出来事は、過去世において自己が想念し、行為したことの現われでないものはないのであります。
ですから、こちらが何もその人にたいして、悪いことも不為になることもしていないのに、あちら側で、こちらを怨んだり、叩いてきたりする場合もあるのです。ひどいのになると、愛情で親切に世話してやった人が、かえって仇してくる場合さえあります。
こんな場合には、たいてい怒りの想いが出てくるところですが、これも過去世において、自己がなしてきた報いが現われてきて、そこで帳消しになってゆこうとして現われてきたのです。その反対に人に善くされることも、やはり過去世から今日に至るまでの、その人の善徳の想念行為の現われてきたものに他ならないのです。(聖書講義)


「消えていく姿と観ずる」ということはこのようなことです。湧き上がってくる雑念妄念を「世界平和の祈り」や神霊への感謝に置き換えていく、それが今日のテーマの潜在意識の大掃除のための出来る一番簡単で、一番有効な方法なのです。

 

追記 終わり

 

マイプロフィール 

http://institute.jpn.com/profile.html

 

関連記事

霊性心開発の方法⑧ 甲田光雄先生の教え「一切の業障海は皆妄念より生ず」
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12433169147.html


天の声を聴く 中村天風師のインドでの悟り
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12156858036.html

 

霊性心開発の方法⑦ 「無念無想の空観」と「祈り」(2)
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12393307650.html

霊性心開発の方法⑥ 「無念無想の空観」と「祈り」(1)
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12392659660.html

霊性心開発の方法⑤ 五井昌久先生と中村天風師の教えの要諦 「潜在意識の大掃除」
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12387418341.html

霊性心開発の方法 ④五井昌久先生「老子講義」より
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12315054040.html

霊性心開発の方法 ③ エックハルトトールと中村天風師
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12314501838.html

霊性心開発の方法 ② 「The Power Of Now」エックハルト・トール
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12227396633.html

霊性心開発の方法 ① 五井先生の易行道
https://ameblo.jp/institutejpn/entry-12183107000.html

 

 

その他 当ブログ記事一覧 

https://ameblo.jp/institutejpn/entrylist.html