渡辺 晋(わたなべ しん/正式表記:渡邊 晋/1927年3月2日~1987年1月31日)は、日本の実業家、芸能プロモーター、ベーシスト。日本の芸能事務所の草分け的存在にあたる渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。

 

 

 

1927年3月2日、渡邊晋は、東京市滝野川区(現:東京都北区)に生まれた。だが、媒体によっては福岡県生まれとされることもある。渡邊家は福岡市の出で、渡辺通一帯の大地主であった。晋は日本銀行勤務の父親の転勤で東京(第二延山尋常小学校、現・品川区立第二延山小学校)から門司(清美尋常小学校)、松本(源地尋常小学校)、そして東京へと移り住む。

旧制立正中学校(現・立正大学付属高等学校)を卒業。

 

1944年、早稲田大学専門部法律科に入学。

 

1951年、同校在学中に松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、猪俣猛(ドラム)らと『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。渡辺自身当初音楽はど素人であったが、日本銀行に勤務していた実父が公職追放に遭い学費が払えなくなり、月謝や生活費を稼ぐために大学の先輩の薦めでベースを始める。リーダーとしてベースを担当して人気を集めたものの、最終的に学費が払えず、単位も取れず、1948年に大学は中退。

やがてジャズミュージシャンの収入の不安定さや仕事のきつさ、福利厚生の薄さ等を目の当たりにしたことなどからプロダクション経営を考え始める。

 

1955年4月、妻・美佐、松下治夫とともに「渡辺プロダクション」を設立した。

同年、「ハナ肇とクレージーキャッツ」結成時、資金を出したのが渡辺晋であり、そのため、結成当初から渡辺プロダクションに所属。

 

 

当時、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、金銭の支払い等に不明朗なことも多かった。渡辺は、タレントを抱えたプロダクション自身が興行全体に携わることで、興行からもたらされる全利益と権利を確保しようとした。タレントのマネジメントでは、それまでレコード会社の「専属抱え」としてレコード会社と専属契約していた歌手・作詞家・作曲家を、渡辺プロとの専属契約として集結させ、芸能界初の月給制を導入した。商用音楽における権利関係にも踏み込み、レコード会社で行われていた「原盤制作」を系列の渡辺音楽出版でおこなうことで、著作隣接権の一つである「原盤権」を所有できるようにした。プロダクション業態を、興行だけでなく、著作権の一部に常に携わり印税からの収入を得られるよう改革したことにより、プロダクションには莫大な利益が得られるようになった。こうして巨大化した渡辺プロはナベプロ帝国と呼ばれ、渡辺夫妻は芸能界のドンとして君臨するようになった。


1959年2月11日、ザ・ピーナッツ『第2回 日劇コーラスパレード』で歌手デビュー。

4月、“可愛い花”でザ・ピーナッツがレコードデビュー。デビューより引退まで16年間一貫して渡辺プロダクションに所属。同社の専属タレント第1号であった。

 

 

 

1961年、芸能活動を休止していた伊東ゆかりが渡辺プロに移籍、ポップス路線で活動を再開し“恋のしずく”などヒットを飛ばすが、1970年に他事務所に移籍。

 

4月に渡辺プロに入社した園まりは、翌1962年5月“鍛冶屋のルンバ”でレコードデビュー後、同年7月フジテレビ『レッツゴー三人娘』で中尾ミエ、伊東ゆかりと「スパーク3人娘」を結成、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)などに出演。

 

 

1962年5月、中尾ミエがシングル“可愛いいベビー”(日本語詞:漣健児)を発売して16歳でデビュー。100万枚を超える売上を記録する大ヒットとなった。中尾は現在もワタナベエンターテインメントに所属している。

 

同年、「ボサノバ娘」のキャッチフレーズでキングレコードより“ボッサ・ノバでキッス”でデビュー、歌手として本格的に活動を始めた梓みちよの名付け親は渡辺である。

 

 

1965年、フジテレビ系の素人参加歌番組『リズム歌合戦』に出場して優勝。チャーリー石黒にその才能を見出された森進一も、ナベプロに所属した。芸名の名付け親は事務所の先輩であるハナ肇であり、本名の「森内」と「一寛」から1字ずつ取り、渡辺晋のシンを進と読み替えて合成した氏名であった。1974年1月15日の大ヒットシングル“襟裳岬”(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎/編曲:馬飼野俊一)もナベプロ所属時のものだった。

 

同年、“君に涙とほほえみを”でキングレコードからデビューした布施明もナベプロ所属。その後も“恋”、“霧の摩周湖”、“愛は不死鳥”、“積木の部屋”等のヒット曲を連発するも賞レースと長らく縁が無い「無冠の帝王」であったが、1975年にシンガーソングライター・小椋佳より提供された“シクラメンのかほり”の大ヒット・ミリオンセラー達成により、第17回日本レコード大賞・第6回日本歌謡大賞・FNS歌謡祭での最優秀グランプリなど、数多の賞を総なめにしたこの曲は、渡辺自らも手掛けた。

 

 

1967年2月、ザ・タイガースが“僕のマリー”でデビュー。その後、“モナリザの微笑”、“君だけに愛を”など、多くのヒット曲を放つ。

 

 

1970年に左の頬に皮膚癌を発症。一度は根治したかに見えたが、後に再発する。

同年、伊東ゆかりが独立。

12月に渡辺プロ所属が内定した天地真理が翌1971年10月1日、“水色の恋”(作詞:田上えり/作曲:田上みどり/編曲:森岡賢一郎)でデビュー、オリコン3位。

 


1971年4月25日に作曲家平尾昌晃がプロデュースする“わたしの城下町”で歌手デビュー、160万枚を売り上げた小柳ルミ子もナベプロ所属、1971年のオリコン年間シングル売上チャートで第1位を記録し、第13回日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得。翌1972年には“瀬戸の花嫁”で第3回日本歌謡大賞を受賞。他に“お祭りの夜”、“京のにわか雨”、“漁火恋唄”、“春のおとずれ”など大ヒットを連発、天地真理や南沙織らとともに「三人娘」(のち「新三人娘」と称された)として、1970年代前半を代表する女性アイドル歌手に挙げられた。

 

11月1日発売のシングル“君をのせて”でソロ・デビューした沢田研二も1984年までナベプロに所属。“勝手にしやがれ”など数々のヒットを世に送り出した。

 

 

1972年11月25日、香港でロングの衣装を着てギター弾き語りフォークシンガーとして活動していたアグネス・チャンを"ひなげしの花”(作詞:山上路夫/作曲:森田公一/編曲:馬飼野俊一)でミニ・スカートをはいたアイドル歌手としてデビューさせ、オリコン5位おヒット、以降もトップ・アイドルとしてヒットを連発する。

 

 

1973年9月1日、“あなたに夢中”で歌手デビューし、1978年4月4日、後楽園球場に当時空前であった5万5千人を集め、「歌謡界史上最大のショー」と呼ばれ、4年半の活動に終止符を打ったキャンディーズもナベプロ所属だった。

 

12月、NETテレビのオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』に出て優勝した太田裕美が渡辺プロと新人養成契約を結び、西銀座のライヴハウス「メイツ」でピアノ弾き語りを始め、後に大きく羽ばたいてゆく。

 


渡辺は政財界にも強力なコネクションを持ち、マスメディアがナベプロを批判することはタブーとなった。面倒見がいいことで知られ、中尾ミエや梓みちよも渡辺の家に住まわせていた時期があった他、学生タレントの学費や家の建築費等も事務所が負担した事もあったという。一方で仕事に対しては非常に厳格な事で知られ、重役会議等でもタレントの売り出し方や曲の詞やタイトルの意味、楽曲の曲調、コンセプトにいたるまで厳しく詰問する事が多かったという。

また先見の明も優れており、自身の出自であるジャズだけでなく、当時異端視されていたロカビリー、ソウルミュージック、ゴスペル等を当初から高く評価、何れも自社の若手歌手に歌唱させ流行させたばかりでなく、その後の長きに渡り定着させる礎を築いた。

自身の持説は「自社のタレントには音楽性、芸術性を高めるよりも大衆受けを高めろ」というものであったといい、自社の歌手やアイドルにも「ステージ上では常に背筋を伸ばし、笑顔を振り撒け。」と指図していたという。また「タレントは偶像であるべし。」という思考をもっており、当時喜劇俳優として全盛期であった植木等が恩師と対面する番組に出演するというオファーがあった際は、植木の真面目な地が出て無責任男のイメージが崩れるという理由で固辞させたという。また一部の女性アイドルの恋愛遍歴等も今日と異なり明かさせず、天地真理やキャンディーズ等は、雑誌の対談企画などで処女である事を強調させ、純潔なイメージを死守させた。

 

 

1974年、癌が再発。その後は死去するまで癌との闘病を強いられることとなった。コバルト治療の副作用で左目の視力を失い、晋自身が「ものを考えられない」とこぼすほどの激しい頭痛にも悩まされた。最晩年はやせ衰え、本来経営者として盛りである五十代であるのにもかかわらず、老人のように痛々しく衰弱していた。それでも、病身を押して死の間際までゴルフやパーティーに出席するなどプロダクション経営の一線に立ち続けた。

 

 

1979年2月、森進一が独立。

 

 

しかし、日本テレビ系列で始まったオーディション番組『スター誕生!』によるホリプロや、数年間提携していたジャニーズ事務所、さらに吉本興業、バーニングプロダクションなどの台頭、伊東ゆかり、森進一、木の実ナナ、布施明など人気タレントの相次ぐ独立もあり、1970年代後半から徐々にナベプロ帝国の影響力にかげりが見え始めた。また自身の体調悪化(後述)に加え、ワンマン体制が長期化した事や、時流の変化に自身がついていけなくなり、大里洋吉(後にアミューズを創業)や松下等が運営方針の食い違いで対立し社を去るなど、社内においても人事面等での対立等もあり次第に孤立していった。

 

 

1983年、吉川晃司がナベプロに手紙を送ってきたことをきっかけに所属、吉川はシングルレコード“モニカ”と主演映画『すかんぴんウォーク』の両方で芸能界デビュー。1988年に活動休止後に独立するまで所属した。

 

だが、ここに例示した以外にも渡辺は、実に多くの歌手をデビューさせ、ヒット曲を送り出した、日本の音楽界において類例ない人物であることに間違いはない。

 

 

 

 

1987年1月31日、渡辺晋が59歳で急死した。臨終の際、ジャズシンガーの勉強中であった娘のミキに“スターダスト”を枕元で歌うように乞い、『シャボン玉ホリデー』のエンディング曲であり渡辺プロの象徴的メロディともいえる、このスタンダードナンバーが口ずさまれる中で永眠したといわれる。

 

 

 

 

その後は妻の美佐が事業を引き継ぎ、現在は渡辺プロダクショングループ代表兼渡辺プロダクション名誉会長。また、ワタナベエンターテインメント代表取締役社長、渡辺プロダクション代表取締役会長の渡辺ミキは長女。

 

 

2024年2月17日、オムニバス・アルバム『至福の歌謡曲 ザヒットパレード 渡辺プロ黄金時代』がCD5枚組で発売。

2月19日、オムニバス・アルバム『CDキラッ星 渡辺プロのスター群像』がCD3枚組で発売。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「渡辺晋」「渡辺プロダクション」

 

 

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