梓 みちよ(あづさ みちよ/本名:林 美千代[はやし みちよ]/1943年6月4日~2020年1月29日)は、日本の歌手、女優。

 

 

 

日本統治下の朝鮮釜山市生まれ。福岡県福岡市博多区出身。

福岡女学院中学校から、同高等学校へ進学。

 

1960年、福岡女学院高校を2年で中退し、宝塚音楽学校に入学。

宝塚音楽学校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募して合格、同校を中退して上京し、契約を結ぶ。約1年間のレッスンを受ける。

 

1962年11月、ポール・アンカのヒット曲“ボサ・ノヴァでキッス~ボサ・ノヴァNo.1”(Eso Beso [That Kiss])の日本語カヴァー“ボッサ・ノバでキッス”(元作詞:Unknown/訳詞:水島哲/作曲:SHERMAN JOE・SHERMAN NOEL)でキングレコードよりデビューし、歌手として本格的に活動を始める。キャッチフレーズは「ボサノバ娘」。

 

 

1963年6月、田辺靖雄とのデュエットでシングル“ヘイ・ポーラ”(作詞・作曲:レイ・ヒルデブランド/訳詞:みナみカズみ)を発売し、大ヒット。また、田辺とはこの後、デュエットソングを多数発表する。なお、訳詞者の「みナみカズみ」とは、後の安井かずみ。

 

同6月、田辺とのデュエット第二弾“けんかでデイト”を発売。

 

7月、1stアルバム『Michiyo Azusa/梓みちよ第一集』を発売。大ヒットした“ヘイ・ポーラ”などの洋楽カヴァー曲集。

 

7月6日、テレビ番組『夢であいましょう』で「今月の歌」として発表された “こんにちは赤ちゃん” (作詞:永六輔/作曲:中村八大)が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得た。

 

 

1964年1月、アルバム『こんにちは赤ちゃん/梓みちよ第二集』を発売。

3月、第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に“こんにちは赤ちゃん”が採用された。

3月20日、東宝映画『こんにちは赤ちゃん』が公開、梓は「会田道代」役で主演し、梓歌唱の“こんにちは赤ちゃん”が主題歌として使われた。

同年5月、東京都文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前で“こんにちは赤ちゃん”を披露した。明治時代以降において日本芸能界初の天覧歌謡曲となる。

10月、シングル“リンデンバウムの歌”を発売。

12月31日、『第15回NHK紅白歌合戦』に出場、“リンデンバウムの歌”を歌唱。

 

 

1965年4月、シングル“忘れな草をあなたに”(作詞:木下龍太郎/作曲:江口浩司)を発売、同曲は1963年に女声コーラス・グループ「ヴォーチェ・アンジェリカ」が最初にシングルをリリースした楽曲のカヴァーで、1971年に倍賞千恵子と、菅原洋一によるシングルが各々ヒットした。

 

1966年3月、皇太子妃(当時)美智子殿下 御作詞の“ねむの木の子守唄”をシングル発売、

 

同年4月、シングル“ポカン・ポカン”(作詞・曲:三木トリロー)を発売。

 

 

しかしその後は歌手として人気が一時低迷、1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』まで7年連続出場していた紅白歌合戦も翌1970年に落選、1973年まで4年間出演出来なかった。

 

 

1970年、アルバム『退職願い―ナツコの結婚―』を発売。

 

 

 

1971年に俳優の和田浩治と結婚したが、翌1972年に離婚している。

1971年7月~1978年2月、テレビ番組『新婚さんいらっしゃい!』(司会・桂三枝[現:6代目桂文枝])の2代目アシスタントを務めた。

 

1972年7月、シングル“愛はルフラン”を発売、長期間に渡り『新婚さんいらっしゃい!』のオープニングテーマとして歌唱した。

 

1974年3月、シングル“二人でお酒を”(作詞:山上路夫/作曲:平尾昌晃)を発売、それまでの清純派のイメージを覆す歌詞の内容や床に座り込んで歌う姿が話題になり大ヒット。同曲で第5回日本歌謡大賞・放送音楽賞、同年末の第16回日本レコード大賞・大衆賞をそれぞれ受賞し、また『第25回NHK紅白歌合戦』にも5年ぶり8回目の復帰出場を果たし、イメージ・チェンジを成功させた。

 

同年9月、シングル“淋しがりや”を発売。

 

 

1975年末の『第26回NHK紅白歌合戦』は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲“リリー・マルレーン”を日本語詞で歌唱。

 

 

1976年、“メランコリー”(作詞:喜多条忠/作曲:吉田拓郎)が翌1977年にかけてロングヒット。同曲で1976年末に第18回日本レコード大賞・編曲賞(編曲・萩田光雄)を受賞し、『第27回NHK紅白歌合戦』に3年連続で出演した。同曲は翌1977年のアルバム『ぷらいべぇと』にて拓郎自身によりセルフカヴァーされた。

 

 

1978年1月、シングル“銀河系まで飛んで行け!”を発売。当時の渡辺プロ所属の後輩であったキャンディーズのカヴァー。

 

11月、シングル“信天翁”(あほうどり)を発売。

 

 

1979年、レコード会社をCBS・ソニーに移籍。

同年、日本専売公社「パートナー」のCMソングに採用された“よろしかったら”(作詞:阿木燿子/作曲:筒美京平)がスマッシュヒット。

 

 

1981年10月、シングル“いま、親友を”発売、「ロベルト」イメージ・ソング。

 

1982年3月、前年の1981年5月に37歳の若さで急逝したシンガーソングライター・大塚博堂の“トマトジュースで追いかえすのかい”(作詞:阿久悠/作曲:大塚博堂)をカヴァーした。

 

 

1983年5月、TBSテレビ系『愛の劇場』のOPテーマ曲で、『家族づくり』(主演:藤田弓子)ではED主題歌として、テレビでオンエアされた“もっと人生を下さい”をシングル発売。

 

 

1988年11月、25周年記念作品としてシングル“横恋慕/シャンペンでこんや破産”(両面 作詞:阿久悠作詞/作曲 A面;吉田拓郎・B面:かしぶち哲郎)を発売。

 

 

1992年6月、作曲家・中村八大が亡くなる。

12月、シングル“FOREVER FRIENDS/TOKYOシンドローム”を東芝EMIから発売。 

12月31日、紅白歌合戦に出場し、中村を偲んで“こんにちは赤ちゃん”を歌唱した。 自身の持ち歌である“こんにちは赤ちゃん”を長年コンサートで自ら封印し歌わなかった(テレビ番組などではその限りではなかった)。その理由は「この歌は今、私にとって重すぎる」、「いまさらこの歌は私には似合わない」などというものだった。

 

晩年は「良い歌は古い歌でも後輩の歌でも関係なく歌っていきたい」とJポップ、歌謡曲からタンゴ、シャンソンなど幅広いジャンルの歌を歌っていた。


1997年4月、シングル“愛の落書き/紫のバラ”をバンダイ・ミュージックから発売。

 

2002年、シングル“Rain愛しくて/まだまだ世の中捨てたものじゃない”を発売。

 

lこの年、40周年記念コンサートでのアンコールの際に「初めて、心からこの歌の素晴らしさを理解することが出来た。こんな良い歌を今まで歌わなかったのか、情けない」と言い、自身のコンサートで歌わずにいた“こんにちは赤ちゃん”の封印を解き歌唱。

 

2006年には、「この曲は私にとって世に出してもらうきっかけであり、一番の宝物だから、大切にしよう。40年かかって、そんな気持ちになれたから、アンコールの最後に、やっと歌えたんです」と明かした。以後はステージでも必ず歌うようになった。「こんにちは赤ちゃん」の封印を解いた理由について、梓自身は「米国で日系の一世、二世の方々の前で(「こんにちは赤ちゃん」を)歌った時に皆さんが涙を流しているのを見て後悔したから」とも語っていた。

 

 

2016年7月11日、“こんにちは赤ちゃん”の作詞家・永六輔が同年7月7日に83歳で逝去の報道を受け、梓は永への感謝と追悼のコメントを発表した。

 

 

2017年2月、ベストアルバム『梓みちよ ベスト50』をキング・レコードから発売。

 

 

2019年12月、エスとアルバム『決定版2020』をキング・レコードから発売。

 

 

2020年1月29日、出演番組の打ちあわせで訪れたマネージャーが、ベッドの上で亡くなっていた梓を発見、警察に通報したが事件性はなく、その場で死亡が確認された。76歳没。

2月3日、梓の死亡が公表された。

2月9日、BSテレ東で『緊急特番 ありがとう!梓みちよさん』が放送された。司会は合田道人と水原恵理。


 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「梓みちよ」「こんにちは赤ちゃん」