ハナ 肇(ハナ はじめ/本名:野々山 定夫[ののやま さだお]/1930年2月9日~1993年9月10日)は、日本のドラマー、コメディアン、俳優。コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーであり、ドラマー。

 

 

 

1930年2月9日、野々山定夫は、東京府北豊島郡(現:東京都豊島区)長崎町東三丁目で、水道局鉛管工の息子として生まれる。父は愛知県知多郡武豊町出身。

 

長崎第二国民学校卒業後、家業を継ぐため旧制中学校の工学院土木科に通ったが1945年に戦災で学校が焼失した。この頃母の実家がある秋田県横手市に米を担ぎに行ったが、帰郷後に急性肺炎となって1945年12月から1946年2月頃まで入院生活を送る。

 

1946年、最初はギタリストを志していた定夫だが、退院後から「刀根勝美楽団」でドラマーに転向し、松井八郎に目をかけられる。後の盟友・植木等はこの頃にハナ肇と知り合っていたことを、晩年に出演した『スーダラ伝説 植木等 夢を食べ続けた男』(NHKハイビジョン 2005年11月1日放送)のインタビューで明かしている。

同年、「内藤タンゴ・アンサンブル」に所属。

 

1947年に「伊沢一郎カルテット」に所属。

 

1948年に「南里文雄とホットペッパーズ」に所属。

 

1949年に「萩原哲晶とデューク・オクテット」に所属。

 

1952年に「アフロ・クパーノ・ジュニア」に所属するなどのバンド遍歴を経る。

 

その後、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」のバンドボーイ、「浜口庫之助とアフロキューバノ」のジュニアバンドを経験。

 


1955年4月1日、クレージーキャッツの前身となる「ハナ肇とキューバン・キャッツ」を結成。結成当初のメンバーは、ハナ肇、犬塚弘、萩原哲晶、橋本光雄、柴田昌彦、南晴子、筑波礼子。同年1月に設立されたばかりの渡辺プロダクションに所属する。

「ハナ肇」の芸名は、興奮すると鼻の穴が大きく開くクセから姓が「ハナ」、敬愛するジャズピアニスト・和田肇(俳優・和田浩治の実父、歌手・淡谷のり子の元夫)に由来して名を「肇」とした。

 

 

1956年2月、谷啓が加入。

3月、世良譲の紹介で石橋エータローが加入。

3〜6月の間に、「ハナ肇とクレージーキャッツ」へ改称。きっかけは、在日米軍のキャンプ回りをしていた際、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが大受けし、「You're crazy!」と言われたことから「クレージーキャッツ」に改名したとされている。なお、「ハナ肇とクレイジーキャッツ」の表記もある。略称は「クレージー」。

ハナは強力なリーダーシップを発揮したことで知られている。クレージーのみならず渡辺プロダクション・グループ全体の大番頭的存在となり、創業者の渡辺晋・美佐夫妻もハナには全幅の信頼を寄せ、また、ハナも生涯渡辺夫妻を裏切ることなく尽くした。ただし渡辺プロダクション黎明期には、給料の前借りを繰り返すハナに美佐が手を焼いたこともあったという。
 

 

1957年3月、植木等が加入。

9月、石橋エータローの紹介で安田伸が加入。
 

 

1958年10月公開の小林桂樹主演『裸の大将』(東宝)でグループとして初の映画出演。
 

 

1959年3月2日、初のレギュラー番組『おとなの漫画』(フジテレビ)が放送開始。
 

 

1960年6月に石橋エータローが結核で倒れ一時休養。

7月には代役として、植木等の紹介により桜井センリが加入。

これにより、ラインナップは、ハナ肇(1930年2月9日-1993年9月10日/Ds)、植木等(1926年12月25日[戸籍上は1927年2月25日]-2007年3月27日/Vo,G)、谷啓(1932年2月22日-2010年9月11日/Vo,Trb)、犬塚弘(1929年3月23日-2023年10月26日/B)、安田伸(1932年9月19日-1996年11月5日/四代目T-sax)、この時点では休養中だった石橋エータロー(1927年9月30日-1994年6月22日/三代目Pf)、桜井センリ(1926年3月20日[公称は1930年3月20日]-2012年11月10日/四代目Pf)。

8月、ハナ肇が『足にさわった女』(大映)で映画初主演。
 

 

1961年6月4日、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)が放送開始。こうしたテレビのバラエティ番組や映画にクレイジーキャッツとともに数多く出演した。中でも日本テレビ系『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』では、ハナがヒッピー姿で叫ぶ「アッと驚く為五郎」というギャグは流行語にもなった。
8月20日、シングル(EP)“スーダラ節”(作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶)でデビュー、B面“こりゃシャクだった”は『おとなの漫画』のヒットフレーズ。当初はこちらがA面であったが、“スーダラ節”のヒットにより爆発的な人気を得る

 

 

同月、石橋エータローが復帰するが、代役であった桜井センリもそのまま残り、以降7人のメンバーによる活動となる。

12月、2ndシングル“ドント節”を発売、B面“五万節”(作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶)は当初、植木が受け持ったパートで、暴走タクシー運転手を歌った3番とヤクザの大幹部という設定の6番のフレーズが問題視され放送禁止になってしまうが、後に歌詞の一部を変えて再発。オリジナル歌詞ヴァージョンも90年代になって発表された。

 

 

 

1962年7月29日、東宝クレージー映画第1作『ニッポン無責任時代』が公開、大ヒットを記録した。

7月20日、映画のヒットを受けて主題歌“無責任一代男”(作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶)を3rdシングルとして発売、作詞者の青島曰く「タモリはこの歌を座右の銘にし、ビートたけしはこの歌で人生観を変えられた」らしい。B面は“ハイそれまでョ”。

 

 

12月20日、4thシングル“これが男の生きる道”を発売、B面は“ショボクレ人生”。

 

以降、1960年代後半まで、映画、テレビ、舞台、レコードなど、全ての面で高い人気を誇る時代を迎えることになる。
12月31日、『第13回NHK紅白歌合戦』に初出場。“ハイそれまでョ”を歌唱した。歌は植木等のみだったが、他のメンバーも応援で登場。以降、クレージーは1970年まで(応援団としても含め)連続出場する。

植木等が人気絶頂の頃は地方公演で「植木等とクレージーキャット」と誤記されることもあり、リーダーとして内心穏やかでなかったと伝えられるが、植木が人気に胡坐をかいて増長するような性格では無かったこともあり、そんな扱いにも耐えて、グループのまとめ役としての役割を全うした。

 

 

1963年4月20日、キングレコードに移籍し、5thシングル“いろいろ節”を発売した。B面の“ホンダラ行進曲”(作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶)は、全部で4番まであり、1番が植木等、2番がハナ肇、3番が谷啓のそれぞれソロ、4番がクレージーキャッツ全員の合唱という構成になっている。 この曲でクレージーは同年の第14回NHK紅白歌合戦にも出場した。

 

7月20日、6thシングル“どうしてこんなにもてるんだろう”を発売、B面は“ギターは恋人”を収録。

 

8月20日、7thシングル“図々しい奴”を発売、B面の“愛してタムレ”は谷啓がメインヴォーカルを担当、最後に谷のギャグ「ガチョン」が入っている。

 

12月20日、8thシングル“学生節”を発売、B面は“めんどうみたョ”。

 

12月31日、第14回NHK紅白歌合戦に植木が単独で2年連続2回目の出場、“どうしてこんなにもてるんだろう”“ホンダラ行進曲”を歌唱した。

 

 

1964年6月20日、9thシングル“馬鹿は死んでも直らない/ホラ吹き節”を発売。“ホラ吹き節”では前奏、間奏、後奏に疑似ステレオ処理が施してある。

 

 

8月20日、10thシングル“あんた誰?/天下の若者”を発売。“あんた誰?”は谷啓のメイン・ヴォーカル。B面“天下の若者”は同名ドラマの主題歌。

 

11月15日、11thシングル“だまって俺について来い/無責任数え唄”を発売。“だまって俺について来い”は2001年に天童よしみによりカヴァーされたものが、テレビアニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のテーマソングとして使われた。

 

 

12月31日、『おとなの漫画』放送終了(全1835回)。

 

 

1965年4月5日、12thシングル“ゴマスリ行進曲”(作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶)を発売、植木等主演映画『日本一のゴマすり男』の主題歌。B面の“悲しきわがこころ”は、メンバー7人全員のソロパートがある唯一の曲。

 

 

5月、結成10周年記念の舞台として『クレージーの太閤記』に出演。

7月には『10年だよ!!クレージーキャッツ』を公演。

秋頃、それまで渡辺プロと業務提携だけだった「ザ・ドリフターズ」がメンバーチェンジを経て渡辺プロ所属になった。これに伴い、ドリフのメンバーにとって憧れの存在であった「クレージーキャッツ」のリーダーであるハナがドリフのメンバー、碇矢、加藤、高木、荒井、仲本の5人の芸名の名付け親となった。なお、志村は正式加入前だったので、ハナは命名していない。

10月1日、13thシングル“ヘンチョコリンなヘンテコリンな娘/小指ちゃん”を発売。

 

10月31日には結成10周年記念映画『大冒険』も封切られる。

11月15日、14thシングル“遺憾に存じます”を発売、同曲の前奏は“抱きしめたい”風で、演奏は寺内タケシとブルージーンズが担当し、紅白歌合戦でも一緒に出場している。B面は“大冒険マーチ”。

 

 

1966年3月15日、15thシングル“何が何だかわからないのよ/シビレ節”を発売、“シビレ節”の3番の歌詞の一部に問題があり放送禁止、局によっては要注意曲になった。長らくベスト盤等には問題箇所を編集したものを収録されてきたが、現在発売されているベスト盤ではオリジナル音源が収録されている。

 

 

6月15日、16thシングル“プンプン野郎/虹を渡ってきた男”を発売。“虹を渡ってきた男”は谷啓のヴォーカル。

11月12日公開の松竹映画『なつかしい風来坊』(監督:山田洋次)に「伴源五郎」役で主演。ハナは本作品でブルーリボン賞「主演男優賞」を、山田は同「監督賞」を受賞した、初期山田作品では最も評価の高い映画のひとつである。

12月5日、17thシングル“それはないでショ/笑えピエロ”を発売、“笑えピエロ”は植木得意のバラードで、1990年にリバイバルした。

12月31日、第17回NHK紅白歌合戦に「ハナ肇とクレージーキャッツ」として初出場、“チョット一言多すぎる”を演奏した。

 

 

1967年6月15日、18thシングル“花は花でも何の花”を発売、B面は“余裕がありゃこそ”を収録。

 

10月5日、19thシングル“万葉集/たそがれ忠治”を発売。

12月31日、第18回NHK紅白歌合戦に「ハナ肇とクレージーキャッツ」として2年連続2回目の出場、“花は花でも何の花”を演奏した。

 

 

1969年7月10日、シングル“あんた”を発売、B面“ウンジャラゲ”(作詞:藤田敏雄/作曲:宮川泰)の作詞は藤田敏雄とクレジットされているが、実際は宮川が植木等と話しながら考えていったとされ、スイス民謡やロシア民謡にみられる曜日をテーマにした曲のパロディ。同曲は1988年に志村けんによってリメイクされたのも有名。

 

 

10月7日~1970年3月31日、および1970年10月6日~1971年3月30日、日本テレビ系バラエティ番組『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』が放送。ヒッピー姿でハナが叫ぶ「アッと驚く為五郎」と言うギャグで人気を得る。

12月20日、21stシングル“アッと驚く為五郎”(作詞:河野洋/作・編曲:宮川泰)を発売。元々は番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』内にてハナ肇のギャグ「アッと驚くタメゴロー」がウケたことで作られた楽曲。植木の歌にクレージーキャッツがコーラスをつけ、1コーラスごとに「アッと驚くタメゴロー」とハナが叫び、間奏には同じく宮川泰作曲の『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』のオープニングテーマのメロディーが使用されている。セルジオ・メンデス&ブラジル'66による“マシュ・ケ・ナダ”の影響を受けたとされる。この曲のヒットを受け、さらに松竹によりハナの主演で映画化、全5本のシリーズが制作された。B面“酒のめば”は、この時期ザ・ドリフターズの一連の楽曲を手がけていた、なかにし礼・川口真コンビによる楽曲。

 

 

 

1970年2月27日、松竹映画『アッと驚く為五郎』に「大岩為五郎」役で主演。番組でのギャグや歌がヒットしたため持ち上がった映画企画だったが、映画もヒットし、役名が「坂東為五郎」になりつつも、『やるぞみておれ為五郎』(1971年1月14日公開)、『花も実もある為五郎』(1971年4月28日公開)、『坂東為五郎 なにがなんでも為五郎』(1970年8月26日公開)、『坂東為五郎 生まれかわった為五郎』(1972年1月21日公開)とシリーズ化、全5作が製作・公開され、すべてにハナが主演した。

7月5日、22ndシングル“全国縦断追っかけのブルース/おとこ節”を発売。

 

 

1971年1月に石橋エータローが脱退、料理研究家に転身する。以降、6人のメンバーでの活動となる。

8月5日、23rdシングル“この際カアちゃんと別れよう”を発売、植木が当時出演していた大塚食品「ボンシチュー」のCMで言ったギャグが流行語になり楽曲化、後にドラマ化もされた。B面は“こんな女に俺がした”。

 

 

12月31日、東宝クレージー映画としては最終作となる『日本一のショック男』公開。

 

 

1972年1月7日、24thシングル“男の憲法/かあちゃん”を発売。

10月1日、『シャボン玉ホリデー』放送終了(全591回)。

以降、メンバーの個人活動が多くなる。
 

 

1973年7月5日、25thシングル“僕はしゃべれるんだ/ゲップゲップの歌”を発売。アニメミュージカル『シャーロットのおくりもの』より。

10月1日、最後のレギュラー番組となったフジテレビ『クレージーの奥さ〜ん!』が放送開始(〜1976年3月31日)。

 

 

1977年1月3日、フジテレビで放送された正月恒例の人気バラエティ番組『'77 新春スター 新春かくし芸大会』にて、当時46歳のハナが初めて銅像に扮する。以降、平成初期まで番組のみならず、日本のお正月名物となる。

3月13日、ビッグショー『クレージーキャッツ われらの演奏会』(NHK)に出演し、往年の音楽ギャグを披露。

 

 

1979年4月20日、26thシングル“これで日本も安心だ!/スーダラ節'79”を発売。“スーダラ節'79”は結成25周年記念ヴァージョン。結成25周年記念アルバム『ハナ肇とクレージーキャッツ』では「スイスイスーダララッタ〜」の部分をクレージー全員で歌っている別テイクが収録されている。

5月、結成25周年記念の舞台「ハナ肇とクレージーキャッツ結成25周年記念公演〜これで日本も安心だ!!」を公演。

 

 

1983年11月21日、27thシングル“毎度毎度のおさそいに”を発売、大正製薬「大正漢方胃腸薬」CMソング。

 


1985年にバンド「ハナ肇&オーバー・ザ・レインボー」を結成し、死去の1か月前まで活動していた(ドラム:ハナ、トロンボーン:谷啓、ピアノ:宮川泰、トランペット:中川善弘、ベース:江藤勲、テナーサックス:稲垣次郎)。晩年のハナはドラムの修練に意を注いでいたと伝えられ、安田伸はハナの通夜の席で「ハナは技量という点では、晩年になって真のドラマーになった」という主旨の発言をした。

 

8月5日、28thシングル“オムライスチョンボNo.5/ピーマンキッス”を発売、フジテレビ『ひらけ!ポンキッキ』より。“オムライスチョンボNo.5”は谷啓ヴォーカル。

10月22日、結成30周年記念番組『クレージーキャッツ結成30周年記念特別企画 アッと驚く!無責任』(フジテレビ)放送。

 

 

1986年3月6日、『シャボン玉ホリデー』が『シャボン玉ホリデースペシャル』として一夜限りの復活。石橋エータローも出演。

4月23日、29thシングル“実年行進曲/新五万節”を発売。クレージー結成30周年記念曲。作曲・編曲は大瀧詠一。“新五万節”は“五万節”のニューバージョン。

 

 

1988年11月26日、ハナ肇が主演した市川崑監督映画『会社物語 MEMORIES OF YOU』が公開。本作品には石橋エータローも含めたメンバー7人が全員出演し、ジャズ演奏を披露する。この映画でハナ肇は、ブルーリボン賞主演男優賞、毎日映画コンクール男優主演賞を受賞、日本アカデミー賞優秀主演男優賞のノミネートを受けた。また、ハナ肇とクレージーキャッツのメンバー7人が全員出演した最後のクレージー映画でもある。

 

俳優としては無骨で不器用なイメージがあるが、企画や才能への嗅覚は非常に鋭く、そのためもあって出演映画歴には初期の川島雄三、市川崑から晩年の市川準まで異才の傾向がある大物監督の名が並ぶ。特に松竹の若手監督だった山田洋次の才能をいち早く見抜き、『男はつらいよ』シリーズ開始以前、『馬鹿』シリーズなどで不動のコンビを組んでいた。ただし、山田はハナがライバル視していた渥美清とのコンビへとパートナーチェンジし、ハナは山田の師匠筋にあたる野村芳太郎監督(それ以前は渥美主演作を多く撮っていた)で何本かに主演したものの、まもなく松竹映画の主役スターの座から脇役専門へとシフトしていく。
山田の『なつかしい風来坊』、市川準の『会社物語 MEMORIES OF YOU』の2作品でブルーリボン主演男優賞などの賞を獲得している。作家の小林信彦は、ジャズ喫茶時代からクレージーキャッツを雑誌で取り上げ、面識ができてからは映画のブレーンもつとめた関係だが、ハナが批判的な文章をしっかりチェックしていて、初対面でいきなり詰問してきたエピソードを著書『日本の喜劇人』に記している。その後も、新作主演の後で顔を合わせると感想を迫り、言葉を選んで褒めると嬉しそうにしていたという。猪突猛進気味だが勉強熱心で要所では社会人としての礼儀はわきまえ、没後は「迷惑だが懐かしい人柄であった」と振り返っている。

 

 

晩年には「ハナが渡辺プロの社長になるのではないか」との噂もあったが、これは実現しなかった。
 

 

1991年4月29日、紫綬褒章を受章。
8月9日、金曜テレビの星!『植木等スーダラ90分!アッと驚くクレージーキャッツ大集合!!』」(TBS)放送。クレージー全員が出演するものとしては最後の仕事になる。

 

 

1993年2月、肝細胞癌に侵されている事が判明し、肝臓の1/3におよぶ摘出手術を受ける。その後順調に回復して退院する。

8月13日、自宅で吐血し食道静脈瘤破裂の診断を受け入院した。

9月8日夜から容態が急変。

 

 

 

 

1993年9月10日午前7時3分、肝不全と肺炎により、家族、谷啓夫妻、犬塚弘らクレージーのメンバーにも見守られ、東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。63歳没。最後までハナは自分が癌だということを知らされなかった。

最後の入院の際は、日中には家族が付き添い、夜になると弟子であるなべおさみや元ザ・ピーナッツの2人が交代で看病し、そのたびに笑顔で「いつも済まないねえ」「おとっつぁん、それは言わない約束でしょ」と『シャボン玉ホリデー』のコントのセリフを繰り返していたという。

 

 

葬儀・告別式は東京都新宿区南元町の千日谷会堂で営まれ、弔辞は森繁久彌と植木等が読んだ。弔辞の最後を森繁は「あばよ!」、植木は「ハナ…さよなら…」でそれぞれ締めた。通夜の際に、植木がグループの解散を宣言した。この発言は翌日には撤回され谷啓も否定し、名目上は2023年10月の犬塚の死去にともないメンバー全員が死去するまでクレージーは存続していたが、実態としてクレージーとしてのメンバーの活動はハナの死と共に幕を降ろす形となった。墓所は板橋区総泉寺。




1993年9月13日、入院前の同年7月27日に収録に臨んだ『徹子の部屋』が、ハナの没後、追悼番組として放送された。


1994年に放映されたフジテレビのドラマ『夏子の酒』の収録に、死去する数か月前まで参加していた。だが、収録途中で亡くなったことから、ハナの代役に山谷初男が立てられ全面的に撮り直された。なお、収録された映像の一部は総集編やハナの追悼特別番組などで紹介されており、ハナにとってはこの映像が事実上の遺作となった。

 

 

2001年6月6日、初のBOXセット『クレイジー・キャッツ・ボックス』が発売。1961年のレコード・デビュー以来、各レコード会社から発売された音源はもちろんのこと、フォノシート音源、特販音源、宣材音源、サントラ音源などのレアトラックまでも収録、さらには植木等、谷啓のソロ作品までを網羅したスペシャルボックス。解説書には完全カラージャケットライブラリー、完全ディスコグラフィーを掲載。ライナーノーツでは、青島幸男、高田文夫、植木等、谷啓のスペシャルインタビューも実現した、CD6枚組 全127曲のスペシャルボックス。

 

 

2005年1月26日、ベスト・アルバム『結成50周年 クレイジーキャッツ コンプリートシングルス HONDARA盤』、『結成50周年 クレイジーキャッツ コンプリートシングルス HARAHORO盤』を2セット同時発売。それぞれCD2枚組で、『HONDARA盤』は1961~67年に発表したヒット曲など全43曲、『HARAHORA盤』は1967~95年までの楽曲全39曲を収録。

 

 

 

2006年4月12日、30thシングル“Still Crazy For You”を、渡辺プロ50周年記念曲として発売。松任谷由実とのコラボレーション曲。ハナをはじめ亡きメンバーのパートは各々のサンプル音源を使用。フジテレビ系『ウチくる!?』エンディング・テーマ。

 

 

2008年10月22日、ベスト・アルバム『クレイジー・キャッツ・デラックス』を発売。CD1枚に代表曲21曲を収録した、クレイジーの音楽を手軽に楽しめる一枚。

 

 

2019年3月27日、ベスト・アルバム『クレイジーキャッツ・スーパー・デラックス(平成無責任増補盤)』をSHM-CDで発売。21曲のヒット曲を網羅したDisc1と、新バージョン曲やそのメイキングの模様を収めたDisc2のCD2枚組。

 

 

2023年10月27日、犬塚弘が死去。これによりクレージーキャッツは、脱退した一部の存命者を除き、全員が故人となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(参照)

Wikipedia「ハナ肇」「ハナ肇とキューバン・キャッツ」「ハナ肇とクレージーキャッツ」

 

 

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