森 進一(もり しんいち/本名:森内 一寛〈もりうち かずひろ〉/1947〈昭和22〉年11月18日~)は、日本の歌手、作曲家、社会福祉活動家。

 

 

山梨県甲府市で生まれる。

母子家庭に育ち、沼津、下関などを転々とした。最終的には母の郷里・鹿児島に落ち着き、鹿児島市立長田中学校卒業と同時に集団就職で大阪に出て移住した。金の卵と呼ばれた若年労働者として、家族に仕送りするために少しでもいい賃金を求めて17回も職を替えた。

 

1965(昭和40)年、テレビ番組『リズム歌合戦」に出場し優勝。チャーリー石黒にその才能を見出され、渡辺プロダクション(ナベプロ)に所属した。芸名の名付け親はハナ肇であり、本名の「森内」と「一寛」から一字ずつ取り、渡辺晋のシンを進と読み替えて合成した。

元は普通の声であり、ルックスもいいことからポップス系でデビューさせる予定でスクールメイツ入りさせた。しかし個性が弱いとして、チャーリー石黒は売れるためには声を潰し、演歌を歌うしかないと森と渡辺プロを説得。

 

 

1966年、 “女のためいき”(作詞:吉川静夫/作曲:猪俣公章)でデビューした。

 

“恍惚のブルース”でほぼ同時期にデビューした青江三奈とともに「ため息路線」として売り出された。猪俣はその後の森の数多くの代表曲を手がけることになる。

美声歌手が主流だった当時の歌謡界において、かすれ声で女心を歌う森のデビューは衝撃的であり、世間からは「ゲテモノ」「一発屋」と酷評された。

 

 

1967(昭和42)年9月10日、“命かれても”(作詞:鳥井実/作曲:彩木雅夫/編曲:猪俣公章)を発表。累計売上は約100万枚で、自身初のミリオンセラーを記録したとされる。

 

12月5日、“盛り場ブルース”(作詞:藤三郎・村上千秋/作曲:城美好/編曲:森岡賢一郎)を発表。第1回日本有線大賞、第1回全日本有線放送大賞・金賞を受賞。オリコンチャート最高順位(以下「オリコン」)7位。翌1968年には東映で映画化された。

 

 

1968年5月5日、“花と蝶”(作詞:川内康範/作曲:彩木雅夫/編曲:森岡賢一郎)を発表。オリコン8位、累計売上は100万枚を記録した。

5月25日、古賀政男の楽曲を歌い上げたアルバム『影を慕いて』を発表。

 

12月31日、デビュー3年目にして “花と蝶”で第19回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。

 

 

1969(昭和44)年、全国の港町の情景を織り込んだ“港町ブルース”を発表。22歳の若さで第11回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞、さらに出場2回目にしてこの年の「第20回NHK紅白歌合戦」のトリを務めた。

 

 

1971(昭和46)年5月5日、“おふくろさん”(作詞:川内康範/作曲:猪俣公章)が発売、同曲で2度目の最優秀歌唱賞を受賞した(第13回日本レコード大賞最優秀歌唱賞)。

また、『第22回NHK紅白歌合戦』にも同曲で出場し、3年連続でトリを務めた。

 

 

1972(昭和47)年、森の狂信的なファンの女性から婚約不履行、未成年者略取で告訴された。実際には女性の主張していた内容は全くの狂言だったが、彼女がそうした妄想にとらわれるようになったのは、以前病気療養中の森の母を見舞った際に母から親切に対応されたのがきっかけだった。

 

 

1973(昭和48)年、訴訟騒ぎについて自分が遠因となったのではないかと気に病んだ母が自殺。山口地裁が森の全面勝訴を言い渡したのはその半年後だった。

 

 

1974(昭和49)年1月15日、フォークソング全盛期の黄金コンビによる楽曲、“襟裳岬”(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎)を発表。同曲で第16回日本レコード大賞、第5回日本歌謡大賞など多くの音楽賞を獲得し、「第25回NHK紅白歌合戦」で自身初の大トリを務めた。この“襟裳岬”以降、彼の曲の世界は転換期を迎え、通常の演歌歌手には無い趣向を持ち始める。

 

 

1979(昭和54)年2月、デビュー以来約14年間に渡り在籍したナベプロから独立し、「森音楽事務所」を設立。しかし一流スターが多く在籍する大手事務所からの独立は芸能界における自身の居場所を失う可能性を示唆していた。

同年夏、再起を賭けて発表した“新宿・みなと町”がヒット、以降の活動に弾みをつける契機となった。この曲のヒットにより森の全てのシングル総売上枚数が1000万枚を突破した。これはピンク・レディー(1979年)に続くオリコン史上2人目、男性歌手では初の快挙だった。

 

この頃、ナベプロ時代の同僚だった既婚者の大原麗子との関係が取り沙汰される。

 

 

1980(昭和55)年、大原と結婚。

 

 

1982(昭和57)年、元はっぴいえんどの松本隆作詞、大瀧詠一作曲による“冬のリヴィエラ”を発表。ポップス系の同曲により従来とは異なる新たなファン層を開拓した。

 

この頃の活動は、公私共に充実し順風でありがらも、夫婦生活では既にすれ違いが生じていたと言われる。

 

 

1984(昭和59)年、大原麗子と離婚。

8月5日、“北の螢”(作詞:阿久悠/作曲:三木たかし/編曲:川口真)を発表。

第26回日本レコード大賞・金賞、第17回日本作詩大賞・大賞を受賞。オリコン22位。

 

 

1985(昭和60)年、新しい挑戦として社会福祉活動「じゃがいもの会」を設立した。デビュー当時より面識があり、社会福祉活動に力を注ぎその前年からユニセフ親善大使の職を拝命されていた黒柳徹子がこれに賛同した。さらに歌手仲間である原田直之、小林幸子、森昌子らが参加した。この「じゃがいもの会」での活動により、歌手以外の社会的活動家としての「森内一寛」の一面が開花。

10月21日、ジャズのスタンダードナンバー“サマータイム”(作詞:D.Heyward/作曲:G.Gershwin/編曲:川口真)をシングル発売。本田技研「アコード」CMに起用された。

 

 

1986(昭和61)年10月1日、社会活動で一緒になり約1年半御交際を経て、昌子と結婚。昌子はこれを機に歌手を一旦引退。3児を授かり非常に仲睦まじい夫妻の在り方は、一般に理想的な家庭像・夫婦像のイメージとして広く認知されるようになった。

昌子との結婚式はテレビで生中継され、視聴率45.3%を叩き出すなど、日本中の注目を集めた。ただ、その裏では自宅に空き巣が入ったという。

昌子との間に誕生した3人の息子のうち、長男森内貴寛はロックバンド「ONE OK ROCK」のヴォーカリスト「Taka」、次男はテレビ東京の社員、三男森内寛樹はロックバンド「MY FIRST STORY」のヴォーカリストの「Hiro」である。

 

 

1988(昭和63)年、“京都去りがたし”でシングルとしては2回目の作曲を手掛け、初めて作曲者「森進一」のクレジットでリリースする。

 

 

1998(平成10)年の長野オリンピックの委員会理事、カンボジア地雷除去キャンペーン活動の発起人、在日外国人を支援援助する社会福祉法人「さぽうと21」の理事など、以後数多くの福祉・社会的活動に参画している。この活動には独立当初の騒動で迷惑を掛けた人々への感謝と贖罪の意味があったと言う。

 

 

2001(平成13)年、「第52回NHK紅白歌合戦」で妻・昌子と共演。

 

 

2002(平成14)年から昌子とジョイント・コンサートを行うようになり、デュエットソングも2曲発表している(書籍扱いという異色の発売方法)。しかし、これがきっかけで夫婦仲が悪化、昌子との意見の相違等が発生した。

 

 

2003年1月22日、妻・昌子とのデュエット曲“しあわせのうた”(作詞:やまさき十三・白峰美津子/作曲:弦哲也/編曲:前田俊明)を「森進一・森昌子」名義で発表。

 

6月20日、シングル“哀の河”のB面“夢まくら”で、シングル曲としては初めて森が作詞作曲を担当した楽曲を発表。

 

12月17日、“狼たちの遠吠え”(作詞・曲:長渕剛/編曲:笛吹利明)を発表。

同年末の「第54回NHK紅白歌合戦」で森が“狼たちの遠吠え”を披露した際、楽曲提供者の長渕がギター、コーラスとして参加した。

 

 

2004年5月19日、「森進一・森昌子・川中美幸・森口博子・黒柳徹子」名義で“じゃがいもの唄”(作詞:原田博行/作曲:森進一/編曲:若草恵)を発表。

7月21日、夫婦でのデュエット第二弾“なにはともあれ”(作詞・曲:さだまさし/編曲:若草恵)を発表。

11月21日、“さらば青春の影よ”(作詞:坂井泉水/作曲:大野愛果/編曲:徳永暁人)を発表。作詞を担当したZARDの坂井を始め、ビーイングの楽曲提供で話題になった。

 

 

2005(平成17)年3月、結婚19年目にして妻の昌子と別居。その心労もあってか、間も無くして長年の持病であったC型肝炎をこじらせて入院した。闘病中にはうつ病にかかる。

4月19日、所属事務所から昌子との離婚が発表された。

 

 

2006(平成18)年3月、回復して退院した。

 

 

2007(平成19)年2月、「おふくろさん騒動」が勃発、川内康範との確執が表面化した。両者はついに和解に至ることのないまま、2008年4月6日に川内は逝去した。

 

 

2008(平成20)年10月5日に、台東区蔵前にあるビクターのショールームで新曲“波止場”の発表を兼ねたファン限定のミニライブを開催、そのステージ上で二年前にC型肝炎が完治したことを報告した。

11月に、森と川内の遺族が和解したことが明らかになり、1年9ヶ月に及んだおふくろさん騒動に一応の終止符が打たれた。話し合いの席には関係者らと森やレコード会社が同席したという。

同年の『第59回NHK紅白歌合戦』に出演した際に“おふくろさん”を歌唱した。この時、森は冒頭で川内に謝罪を行った。

 

 

2009(平成21)年11月25日、尾崎豊の“I LOVE YOU”や石川さゆりの“天城越え”など、演歌からJ-POPまで様々なジャンルの曲を集めたカヴァーアルバム『Love Music』をリリース。コブクロの“蕾”では、自身初の多重録音によるハーモニーを聴かせている。

 

 

2010年6月16日、“眠らないラブソング”(作詞・曲・編曲;小室哲哉)を発表。小室哲哉の全面プロデュースによる楽曲で話題になった。

 

 

2014(平成26)年5月10日、この日放送された『ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像〜』で、肺がんの手術を行ったことを明かしている。

 

 

2015年、デビュー50周年を迎える

6月24日、“あるがままに生きる”で詞を有馬三恵子と共作しながら、シングルA面の作詞作曲を森が担当。

12月4日、同年の第66回に48回目の出場を果たすが、公式サイトで同回限りでの勇退を宣言する。同回の紅白ではトリ前で“おふくろさん”を披露、半世紀に渡る紅白出場に終止符を打った。紅白歌合戦には1968年・第19回の初出場から連続出場を続け、2013年・第64回に北島三郎が勇退してからは最多出場となった。連続出場48回は五木ひろしに抜かれるまで歴代最長だった(通算出場は北島の50回が最多だが、北島は不祥事による降板が1度あるため、連続出場は27回にとどまっている)。

 

 

2016年3月23日、ベスト・アルバム『ベスト〜歌手生活50周年記念盤〜』を発売。

 

 

2018年6月13日、“北港”を発表、森が単独で作詞作曲をした楽曲がシングルA面になった初めての作品。

 

 

2019年6月12日、“恋せよ乙女”(作詞・曲:森進一)を発表。A面の同曲とB面“あなたに抱かれて”の双方が森による作詞作曲なのは今作が初めて。

 

 

 

 

 

 

 

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