沢田 研二(さわだ けんじ/本名:澤田 研二(読み同じ)/1948年6月25日~)は、

日本の歌手、俳優、作詞・作曲家。

 

妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。

現在は横浜市中区に在住。

 

 

両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現:鳥取市津ノ井)で生まれ、

その後、転居した京都市で育ち、京都市内の公立小学校・中学校を卒業。

中学では野球部に所属。

1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学し、空手部に所属。

 

1965年、高校在学中に「サンダース」のリハーサル中に声をかけられ歌ったのを機に

ローディー兼ヴォーカリストになったのが、芸能界に入ったきっかけだった。

その後「サリーとプレイボーイズ」(岸部修三、森本太郎、人見稔、加橋克己)に

ヴォーカルとして引き抜かれ、それを機に高校を中退。

サリーとプレイボーイズは、大阪を中心に人気を集めた後の「ファニーズ」。

ファニーズは、1966年5月に「全関西エレキ・バンド・コンテスト」で優勝も果たす。

その後、内田裕也にスカウトされ渡辺プロダクションと契約。

グループ名を「タイガース」と改名し、新宿ACB(アシベ)などに出演するようになる。

沢田のニックネーム「ジュリー」はこの頃付けられたが、

それは沢田がファンだった女優の「ジュリー・アンドリュース」からとったものだという。

 

翌1967年、1月には「第31回日劇ウエスタン・カーニバル」に出演。

2月5日、“僕のマリー”でデビューを果たす。

同年5月、2ndシングル“シーサイド・バウンド”をリリース、

続く1967年8月15日の3枚目シングル“モナリザの微笑”、

1968年1月の4枚目シングル“君だけに愛を”、

3月発売の5枚目シングル“銀河のロマンス/花の首飾り”など、続々とヒットをを飛ばす。

 

 

1969年には、米国『ローリング・ストーン』誌の表紙を日本人で初めて飾る。

(写真は「DDNJAPAN」記事から)

途中、メンバー・チェンジ(トッポ:加橋克己→シロー:岸部四郎)がありながらも

活動を続けるが、1970年12月に解散記者会見を開くに至り、

翌1971年1月24日の日本武道館「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」で解散。

 

GSの人気バンド、ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、ザ・スパイダースの解散が相次ぐ中、

1971年1月11日、元テンプターズの萩原健一と大口広司、

元スパイダースの井上堯之と大野克夫、

それにタイガースの岸部修三(岸部一徳)と沢田研二が集まり、GS後のムーヴメント、

ニュー・ロックのスーパー・バンドを目指し結成したのがPYG(ピッグ)である。

同年4月10日にファースト・シングル“花・太陽・雨”(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之)、

8月10日にファースト・アルバム『PYG!』を発売。

 

アルバムは、オリコンアルバムチャートで10位となった。

しかし、PYGの売りのひとつだったツインヴォーカルのうち萩原健一が俳優業に忙しくなり、

また後述の通り沢田研二がソロ・デビューをするとそちらに時間を取られるようになり、

1972年11月21日のラスト・シングル“初めての涙”(作詞:大橋一枝、作曲:大野克夫)を

最後にPYGは自然消滅の形で終焉を迎えた。

 

GS時代の1969年にソロ・アルバム『JULIE』をリリースしていた沢田がザ・タイガース解散後、

PYGと並行しながらも、ソロ歌手として活動を開始したのは自然の流れだった。

1971年11月、ソロ・シングル第一弾“君をのせて”で「沢田研二」はデビュー。

1972年3月10日の2ndシングル“許されない愛”が同年末、

第14回レコード大賞歌唱賞を受賞。

 

 

1973年4月21日リリースの“危険なふたり”が65万枚を売り上げ、

ソロ初のオリコン1位を獲得、日本歌謡大賞大賞、日本レコード大賞大衆賞を受賞。

なお、歌謡大賞歴代最高視聴率の47.4%を記録した。

 

 

1974年10月の“追憶”で沢田は2作目のオリコンシングルチャート1位を獲得した。

 

1975年1月にシングル“愛の逃亡者”はイギリスで“THE FUGITIVE”として、

“巴里にひとり”は“MON AMOURE JE VIENS DU BOUT DU MONDE”として

フランスでリリースされ、ヨーロッパに進出。

フランスでは週間ラジオチャートでトップ4に入るヒットとなり、さらに20万枚を売り上げ、

同国のゴールデンディスク賞を日本人として初めて受賞する。

以降、1978年にかけてフランス、イギリス、ドイツ、ベルギー等でシングル盤を発売した。

また、1974年にハワイ、1977年・1978年にグアム、1979年にシンガポール、

1980年・1982年に香港でそれぞれコンサートを開催している。

 

1975年8月21日、14枚目のシングル“時の過ぎゆくままに”は、

沢田自身が主演を務めたTBS系テレビドラマ『悪魔のようなあいつ』の

挿入歌として使用され沢田にとって3枚目となるオリコン1位を記録したシングルとなった。

 

 

同曲は第6回日本歌謡大賞で放送音楽賞を受賞し、第4回FNS歌謡祭・下期優秀歌唱賞、

第1回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭・年間話題賞などを受賞。

同年12月31日の『第26回NHK紅白歌合戦』でも歌唱した。

ザ・タイガース時代から一貫して沢田と活動を共にしてきた岸部修三(一徳)にとって、

プロベーシストとしては本作品が最後の参加曲となった。

 

1977年5月21日、“勝手にしやがれ”は4作目のオリコン週間チャート1位を獲得し、

累計売上では“時の過ぎゆくままに”に次ぐセールスを記録した。

 

 

第19回日本レコード大賞、第8回日本歌謡大賞、第10回日本有線大賞では大賞を受賞。

第3回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭でゴールデングランプリ、

第6回東京音楽祭国内大会でもゴールデンカナリー賞を受賞した。

同賞の世界大会でも銀賞を受賞した、沢田にとって代表曲となっている。

 

1978年8月1日リリースの“ヤマトより愛をこめて”が、同年公開の劇場用アニメ映画

『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のエンディングテーマに起用される。

 

 

1980年1月1日、沢田の80年代は、シングル“TOKIO”のリリースで始まった。

電飾付のスーツを纏い、赤と白の縞模様のパラシュートを背負って歌う姿は注目を集めた。

パラシュートのアイデアが沢田本人から提案されたたこの衣装は総額250万円だったという。

この曲のパフォーマンスに対して、デビュー以来約10年連れ添ったバックバンドの

リーダーである井上堯之は違和感を覚え、井上堯之バンドは解散することとなる。

 

 

1981年9月21日、34枚目のシングル“ス・ト・リ・ッ・パ・ー”がリリースされた。

ジャケット写真には大きく「JULIE & EXOTICS」と書かれ、

ジュリーとバックバンド全員が一緒に写真に写っている。

 

 

1982年9月10日、37枚目のシングル“6番目のユ・ウ・ウ・ツ”が

ポリドール・レコードのジュリーレーベルよりリリースされた。

西城秀樹(「リトルガール」)、郷ひろみ(「哀愁のカサブランカ」)に続き、

オリコン史上3人目のシングル30曲目のトップ10入りとなったが、

TBSテレビ『ザ・ベストテン』への出演、オリコン10位以内のランクインは同曲で最後となった。

本作ヒット中に、ソロとしてオリコンでのシングル総売上が山口百恵を抜き歴代1位となり、1991年までの9年間に渡り1位の座を保った。

 

1983年1月1日に、38枚目のシングル“背中まで45分”がリリース。

同曲は作詞・作曲が井上陽水による楽曲である。

 

1985年、沢田はデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立。

渡辺プロダクション傘下の"株式会社ココロ"を設立し、

レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。

 

1989年、EXOTICSのメンバーだった吉田建をプロデューサーに迎え、

村上'ポンタ'秀一を加えて新バンドJAZZ MASTERを結成し、

アルバムでは『彼は眠れない』を発表。

同年、10年間に渡って継続する音楽劇「ACTシリーズ」がスタート。

 

1997年、岸部一徳、森本太郎とともにユニット「TEA FOR THREE」を結成し、

シングル“君を真実に愛せなくては他の何も続けられない”を発表。

 

 

2000年という区切りの年に、2枚組のオリジナル・アルバム『耒タルベキ素敵』を発表。

無骨なロックで知られるGrooversのメンバーなども迎えて、新境地を切り開いている。

 

2005年には、ポリドール在籍時代のアルバム21タイトルと

3枚のベスト・アルバムのリマスター盤が相次いで再発売され、そのうちベスト盤

「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」がオリコンの邦楽アルバムTOP50にランクインした。

 

2008年、沢田の還暦を記念した二大ドームコンサート「人間60年・ジュリー祭り」を催行。

東京ドーム、京セラドーム大阪両日で5万4,000人を集めた。

本コンサートは、第21回ミュージック・ペンクラブ音楽賞の

コンサート・パフォーマンス賞を受賞。

 

2010年、長年プロデューサーだった加瀬邦彦とともにザ・ワイルド・ワンズと組んで

「ジュリー with ザ・ワイルドワンズ」を結成。

シングル“渚でシャララ”、アルバム『JULIE with THE WILD ONES』を発表し、

全国ツアーを行った。

 

第23回ミュージック・ペンクラブ音楽賞コンサート・パフォーマンス賞

「JULIE with THE WILD ONES LIVE “僕達ほとんどいいんじゃあない”」 受賞。

 

2011年、長年交流を絶っていた元ザ・タイガースの瞳みのるが40年ぶりに芸能界に復帰。

岸部一徳、森本太郎らタイガースのメンバーと共に、全国33都市38公演に及ぶ

沢田の全国ツアー「沢田研二 LIVE 2011~2012」にゲストとして帯同した。

ツアー最終日の2012年1月24日、会場の日本武道館には岸部四郎も参加し、

1971年1月24日「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で

解散した時のメンバーが再集結したメモリアルコンサートとなった。

 

2013年12月3日、44年ぶりとなるオリジナルメンバーによる

ザ・タイガースのコンサートを日本武道館において行った。

12月27日のツアーファイナルは、東京ドームに45,000人を動員。

この時も岸部四郎が登場し、初めて6人によるザ・タイガースの集結が実現した。

 

2017年7月16日、自身の芸能生活50周年を記念した全国ツアー

「沢田研二 50周年記念LIVE 2017-2018」をNHKホール公演を皮切りにスタート。

50周年にちなんで往年のヒット曲から最新の楽曲まで50曲をワンコーラスずつ歌った。

 

2020年5月、映画『キネマの神様』で、志村けんの代役として主演する事が明かされた。

2021年劇場公開予定。映画出演は14年ぶり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「沢田研二」「ザ・タイガース」「PYG」

HMV&BOOKS -on line- 「沢田研二 プロフィール」

https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%B2%A2%E7%94%B0%E7%A0%94%E4%BA%8C_000000000016732/biography/