inosan009のごくらく映画館Ⅲ SINCE2019

inosan009のごくらく映画館Ⅲ SINCE2019

HPでの『ごくらく映画館』(2003)からYahooブログの『Ⅱ』を経て今回『Ⅲ』を開設しました。気ままな映画感想のブログです。よかったら覗いてみてください。

 先般の某映画誌に「映画の予習にもの申す」なるタイトルのコラムがあった。「最近の映画には事前の予習的な知識を必要とするものが多い。そうしないと映画がわからなくなる」という趣旨の一文である。主な要旨は『オッペンハイマー』における「予習」の必要性。入り組んだ時制、多くの出来事や人間関係など、前もって知っておかないと映画に理解が及ばない、というものである。その最たるものは、主人公が開発に関与した原子爆弾による想定以上の惨禍を描かない映画のあり方にあるのではないか。そのことは世界中のだれもが知ることであり、いまさら映画で描くまでもない 、ということだろう。それはそうかもしれない、だが映画として果たしてそれでいいのだろうか。
 
 本作「関心領域」は、アウシュビッツに壁一つ隔てて隣接した土地に住むナチス軍人一家の物語である。描かれるのはその一家の生活ぶり。実に優雅に、楽しく心地よく人々は暮らしている。壁の向こう側で何が行わていたかは一切映画は語らない。時折壁の向こうから何かがはじけるような音(銃声?)が聞こえ、建物の煙突には黒い煙が漂っている。だが人々はそんなことにはまるで関心がないように暮らしている。大人も子供も隣人たちも、そして映画を見る我々も。壁の向こうの出来事を知らなければ、である。だが私たちはそのことを知っている。わざわざ予習する必要もない。だがそれも、「アウシュビッツに隣接した土地に住むナチス軍人一家の物語」という予備知識があってのことだ。なのに映画は、そのことすら提示しないのである。だからもしも、もしもだが、アウシュビッツのことや映画の設定やそのほか、まったくまっさらな状態でこの映画を見たとしたら、この映画が訴えようとする恐ろしい状況を観客は理解できただろうかと、あらぬ疑問が沸き上がってしまう。それは、すぐ隣で起こっている悲惨

な出来ごとにまったく無関心でいることの恐ろしさ、それは、ウクライナやガザでの惨状を、遠い国での出来事として無関心でいることも同様だ。

 この映画が訴えようとすることの意義は大きい。その制作意図や問題意識は大きく評価すべきだろう。だが単純に映画として面白いかどうかと聞かれたら、残念ながら否と答えたい。肝心なことは語らず、それは誰もが「予習」できているはずとしてあえて描かない映画のあり方。『オッペンハイマー』と同じ傾向がここにも見えてくる。映画がエンタテイメントである以上、できるならわかりやすく面白く、そのうえでしっかりとした主張があれば何よりと思うのは、いまや時代遅れなのか。冒頭に示したコラムの文末に「映画は多様な層の観客にとって広く開かれるべき方向性が望ましい」とあった。筆者もそう思う。
                                                                                                                                  2024.6

 

 主演草彅剛初の時代劇、と書こうと思ったが思い返せば『BALLAD 名もなき恋のうた』があったので、正確には『初の本格時代劇』と書くべきか。 

 古典落語の人情噺『柳田格之進』の映画化である。絶好の素材に目を付けたところにまずは拍手を贈りたい。本作のクライマックスとなる復讐譚は元ネタにはなかったように思うが、長屋暮らしの脱藩浪人と囲碁相手の大店主人との交流とその店での50両という大金の紛失をめぐる誤解からの顛末を描く本筋とが案外うまくはまっていて、全体として実に気持ちのいい話になっている。本作最大の巧妙であろう。そうしてここに絶妙な味わいが生まれるのである。

 今は亡き立川談志の有名な落語論に、『いい噺には江戸の風が吹く』という言葉があったが、本作にはまさにその『江戸の風』が吹いている。映画が始まったその瞬間から、古典落語の世界観が映画いっぱいに広がってくる。『凶悪』や『孤狼の血』など、どちらかといえば荒々しく突き放すような作風で知られる監督白石和彌とは思えない、清廉潔白・実直な人生観の主人公を真正面から見据えた真っ当な演出が思いのほか心地よく響いてくる。その演出に応える草彅剛の佇まいがこれまた実に見事に映画に映える。貧乏暮らしに耐えながらも武士としての尊厳を失わないその姿、碁盤に向かう時の真摯な態度、そして復讐の旅でだんだん汚れてひげ面になってゆくその悲壮感。草彅本人にして『自分で見ても今までで一番かっこいい』とまで言わしめた堂々たる風格だ。数々の映画賞に輝いた『ミッドナイトスワン』に続いて、今年の映画賞も大いに賑わすに違いない。

 さらに加えて、原作落語の世界観を損なうことなく実に丁寧に映画に転換した脚本の妙も大きく評価したい。脚本加藤正人には『雪に願うこと』『クライマーズ・ハイ』『孤高のメス』などなど優れた作品が数多くある。昨年のキネマ旬報ベストテンで意外にも読者選出の第一位になった『Gメン』もそのひとつだ。ほかにも、清原果耶、國村隼、斎藤工など助演人がみな素晴らしいことも記しておきたい。なかでもちょい役ながら賭け碁の賭場を仕切るやくざの親分を演じた市村正親が絶妙、女郎屋の女将を演じた客演格の小泉今日子とともに助演ちょい役賞というのがあったら断トツで推薦したいくらいだ。これら出演陣の巧妙も相まって、今年の日本映画を代表する一作となった本作、今年ベストな一本と言って間違いない。

                        2024.5

 

 

 難解な映画である。1920年代、ハーバードを首席で卒業したオッペンハイマーが、1940年代「マンハッタン計画」と呼ばれた原子爆弾の開発を経て、戦後マッカーシー旋風によって共産主義のスパイ容疑で聴聞会にかけられる1950年代までの彼の半生を映画は駆け巡るのだが、時系列が複雑に入り乱れる映画の展開のため、物語を理解するには実に厄介な脳内作業が必要だ。
 
 核爆弾に対する主人公の考えに大きな影響を与えたと思われるアインシュタインとの迎合が作品内で数回繰り返される。かなり重要なシーンであろうと思われるのだが、そこで交わされる二人の会話が実に曖昧なので一度見ただけでは何とも解釈し難い。湖畔に佇むアインシュタインのもとにオッペンハイマーが近づいたとき、突風が吹きアインシュタインの帽子が飛ばされる。オッペンハイマーがそれを拾い上げて彼に渡す。そのシーンの示唆するところは何か。量子力学と相対性理論の迎合である。われら凡人には理解できようはずもない。しかもその時期さえ不明確だ。
 
 かくも斯様にこの映画には様々示唆に満ちた部分が頻出するのだが、さらに理解に苦しむのがマンハッタン計画の陸軍責任者であるマット・デイモン扮する陸軍将校とオッペンハイマーの核実験の実行に際しての対話。いったん核爆発を起こせば核融合の連鎖反応が地球全体に影響を及ぼすかもしれない、その確率はほぼゼロだがとオッペンハイマーは言う。そしてそのゼロは「ほぼ」ではだめだと彼は言う。実験実行の可否を判断するには、人類の存亡さえかけた決断だったといえまいか。なのに二人は、さしたる葛藤もなかったかのように核実験に向けて突き進むのである。実験を決行した二人の決断にどんな力が作用したのか。

 そして映画はその核実験の模様に進んでゆく。それは実にスリリングな展開だ。実験の成功後、では完成した原子爆弾をどう使うかという議論に進む。当初攻撃目標としたヒトラーのドイツはすでに降伏していた。ならば日本か。世界で唯一の被爆国である日本の我々にとっては、それがどのように決められていったのか、この映画で見過ごすことのできない重要な箇所でもある。そこにどれほどの逡巡があったのか。しかし映画はそれも明確には示さない。「科学者である自分らにはその開発には責任があるが、それをどう使うかは政治家の責任だ」とオッペンハイマーは言う。それはその通りだろう。だが創ったものによる結果がどれだけ悲惨なものであり、のちにそれが世界の軍事的な力の均衡にどのような影響を及ぼしたか、その当時の人々にどれだけの想像力があったのか、映画はそれも語ろうとはしない。

 原爆が投下された広島・長崎の惨状を描くシーンはこの映画にはない。本作が賛否両論分かれる最大の要因であろう。2016年の映画『リトル・ボーイ/小さなボクと戦争』には、のどかな漁師町のリトル・ボーイと呼ばれた少年が、出征した父が早く戻ってくるよう奮闘する穏やかな小品だったが、少年が自分と同じ渾名で呼ばれた爆弾によって戦争が終わったと知ったとき、その爆弾によって焦土と化した瓦礫のなかに少年が立ち尽くす一瞬の映像があった。そのたったワンカットの映像が語るものの意味は大きい。本作にはそうしたものはない。

 要約すればこの映画は、核の是非を声高に問うものではなく、『原爆の父』と呼ばれた一人の科学者の半生を淡々と語るもののようだ。その限りにおいては実に見どころ多く意味深な映画なのである。映画は、地球が何らかの炎によって浸食されていく映像で終わる。このラストカットに込めた作者の思いは何か。2017年『ダンケルク』で、敗走する連合軍の一日を万感の思いを込めて描いて見せたクリストファー・ノーランだ
。そこにこそ本作を読み解く最大のヒントがあるのではないだろうか。
                                                                                                                       2024.4

 このところの外国映画、やたらと上映時間の長い作品が目立つ。『哀れなるものたち』2時間22分、『落下の解剖学』2時間32分、『瞳をとじて』2時間49分、『ボーはおそれている』2時間59分、といった具合だ。ジャンルも制作国もまちまちだが、どれも意欲溢れる力作とはいえいかんせん長すぎる。なかにはそこはいらないんじゃないのと思うようなところも散見され、見終わってどっと疲れること甚だしい。そんな中での本作、『ジョジョ・ラビット』のタイカ・ワイティティ監督、1時間44分という簡潔な尺が潔い。ついでに言えば邦画なら『レディ加賀』の1時間48分、短め尺の両作のなんと心地よく爽やかなことか。

 ワールドカップ予選でなんと31対0という歴史的大敗、チーム結成以来1ゴールも決めた事がないという万年最下位のフットボールチーム、米領サモアの代表団だ。そこへ送り込まれてきたのが、本国での素行が疎まれていわば島流しのアメリカ人サッカーコーチ。『プロメテウス』での頭だけになっても任務を果たそうとするアンドロイドが印象的だったマイケル・ファスベンダーが演じるこの人物。
ふてくされてやる気なしかと思いきや、意外や意外の熱血漢。チームの立て直しに獅子奮迅、というよりチームのあまりの暢気さにあきれはててのよく言えば熱烈指導、悪く言えば強烈なしごきが始まるのだ。

 米領サモアといえば独立国サモアから分割した米国の準州、サモア諸島南端の島嶼。ポリネシア文化の色濃い南国の楽園だ。そんな土地柄のサッカーチーム、プロスポーツにあるべき闘争心も勝ちにこだわる意欲もない。プロのコーチから見れば自分とは真逆の集団である。そんな水と油のようなコーチと選手たちがスポーツを通じてどう変わってゆくか、というのが本作のキモである。目標はただ一つ、ワンゴールを決めること。熱血コーチが弱小チームを立てなおすパターンは、古くは『がんばれベアーズ』をはじめ幾多ある。イーストウッドの『インビクタス』や、日本でなら『フラ・ガール』もその変形といえるだろう。どれも胸熱くなるスポーツ映画の傑作である。そんな中でも本作がひときわ光るのは、サモアの人々のおおらかな人柄とその人情が映画の中に息づいているからだと思う。それを丁寧に掬い取るタイカ・ワイティティ監督の人柄までもが映画ににじみ出る。

 チームの一人にゲイの若者がいる。自ら第3の性だと自認するその彼(彼女?)が新任コーチの熱意に意気投合し、ホルモン治療薬の服用を止めてまでサッカーに取り組もうとする。チームの仲間は、そんなマイノリティの彼女を何の拘りもなくごく当たり前に受け入れている。まさにジェンダーレス、LGBTQとかSDGsとか、そんな言葉もいらない世界がここにある。政治集会の懇親会に水着姿の女性ダンサーを招聘してそれが『多様性』だと勘違いしているどこかの政策集団とはえらい違いだ。

 さてはてこのサッカーチーム、次の試合で初めてのゴールを決めることができるのか。映画終盤のオセアニア予選の模様も実にあっさりと描き、あえて大盛り上がりとしない潔さ。試合の勝ち負けよりも、一つのゴールこそが彼らの勝利であるとするこの心意気。爽やかで実に後味の良い映画なのである。

                        2024.3

 

第1位 こんにちは、母さん
 何の捻りも衒いもなく直球勝負のベストワン。こんなまともなチョイスも照れ臭いが、外国映画の1位と同じく安心して観ていられる映画の代表選手のような一作だ。寅さん映画の主人公を吉永小百合に置き換えたらどうなるかという監督山田洋二遊び心満載の温もり溢れる逸品、映画のお手本のような作品だ。軽妙な大泉洋も嫌味なく、『キネマの神様』以来山田組に定着した感の永野芽郁が好感触、どう見ても下町のおかみさんには見えないがいくつになっても吉永小百合、やっぱりいい。山田洋二92歳、まだまだ頑張ってほしい。

第2位 銀平町シネマブルース
 外国映画5位の『エンパイア・オブ・ライト』にも負けじと劣らない城定監督の映画愛溢れる一作だ。助監督の自殺をきっかけに映画を撮れなくなった落ちぶれ映画監督に、『ROOKIES』で一躍注目も女性関係のスキャンダルで一転凋落した小出恵介を起用、もうそれだけでなんだか嬉しくなってくる。皮肉というか洒脱というか、醜聞を逆手に取った絶妙なキャスティングだ。映画は城定監督らしい人間味あふれる人情噺、泣けます。蛇足ながら城定監督には、この年本作と『恋のいばら』の他に『放課後アングラーライフ』なる作品があったと聞くが公開時全くのノーマーク、ほとんど情報もなかった。いったいいつどこで見れたんだろか、残念!。

第3位    ロストケア
 この年一番の問題作だろう。知的障がい者施設での集団殺人事件を扱った『月』も衝撃的だったが、本作では介護施設での連続殺人事件を通して認知症老人介護の問題を問い詰めていく。犯人と検事の丁々発止の取り調べを通じて見えてくるものは、介護する側の厳しい現実、在宅介護の限界、生殺与奪に正義はあるのか等々といった現代社会に課せられた様々な課題だ。犯人は「自分は人々を救った」のだという。激憤する検事はしかし、その問題に答えを出すことができない。そのジレンマが彼女を追い詰めてゆく。松山ケンイチと長澤まさみの迫真の演技が見るものに迫る。 

第4位    せかいのおきく
 坂本順治が全編モノクロ・スタンダードで描く江戸下町の人間模様、と書くとなんとも美しいがさすがにこの題材はカラーでは描けないだろう。長屋暮らしの武家娘と下肥を担いで廻る汚穢屋(今や死語)青年の恋物語だ。糞尿まみれのこの映画がかくも美しく見えるのは、そこに市井を生きる若者の純な『せかい』があるからだろう。一瞬カラーになるときの黒木華の着物姿が美しい。

第5位 BLUE GIANT
 普段アニメにはあまり興味がないしジャズにも疎い筆者だが、この映画にはしびれた。テナーサックスを通じて『世界一のジャズマンになる』夢に向かって邁進するサックス青年と、彼の演奏に惚れ込んでバンドを組む天才ピア二スト、それに加えド素人ながらドラムでバンドに参加するサックス青年の旧友。この3人の成長物語が圧倒的なジャズの音量に乗せて描かれる。その一途な姿とジャズにしびれる、音楽の勝利だ。

第6位    妖怪の孫
 昭和の妖怪といわれた岸信介元総理の孫、憲政史上最長の在任期間を務めた安倍晋三元総理。その長期政権の功罪を検証しようというドキュメンタリーである。凶弾に倒れ国葬が行われた今、その残した政策集団の政治資金問題が告発されつつある中、この映画の真価はなおさら大きなものと思えてくる。その没後もいまだに派閥が××派とその名で呼ばれている影響力の大きさも問われなければなるまい。『新聞記者』『パンケーキを毒見する』など権力への疑念に挑み続けてきたスターサンズの気骨ある一遍だ。余談だが、スターサンズは『宮本から君へ』への交付が内定していた芸文振助成金を不交付とした行政処分の取消し訴訟に最高裁まで争って勝訴した。拍手を贈りたい。

第7位    遠いところ
 主人公の友達のキャバ嬢が吐き捨てるように言う。「沖縄じゃ中学出たら女はみんなキャバよ」。この言葉が沖縄の実情をどれだけ正しく伝えているのか、筆者には分からない。17歳のアオイは幼い子供を抱え生活のためキャバクラで日銭を稼いでいる。しかし当局の手が入り未成年のアオイは店で働けなくなり、八方塞がりの末風俗にまで落ちてゆく。「どこかへ行きたい」と呟くまだ若すぎる母。だからと言って何もしてあげられない自分や、自助・共助・公助と言って結局は何もしてくれないこの国への憤りがこみ上げて、胸が辛くなる。幼子を抱いて海へ入ってゆく彼女、その心の休まる場所があるのはあまりにも「遠いところ」なのかと。

第8位    リバー 流れないでよ
 タイムトラベル映画の傑作『サマータイムマシン・ブルース』や『ドロステのはてで僕ら』など、時折とんでもない傑作を生みだしてきた演劇集団ヨーロッパ企画がまたまた放つトンデモ企画。突然タイムリープに巻き込まれた京都貴船老舗旅館の面々。想定外の出来事に右往左往する人々のあれやこれやの騒動が目まぐるしく展開する。ネタバレ覚悟で言ってしまえば、これまたどこからか出現したタイムマシンの誤作動によるはた迷惑な出来事だったというオチまで、先の読めない面白さが続く。気楽に映画を楽しむ分にはうってつけの快作だ。
 
第9位    福田村事件
 大正12年に首都圏を襲った関東大震災の混乱のなか、意図的に流布された在日朝鮮人の暴動・放火・略奪説。「井戸に毒を捲いた」など根も葉もない噂が人々の不安と猜疑心を煽った。そんな中、都心から少し離れた福田村(現在の野田市)で起こった薬行商人一行への集団殺戮。讃岐出身の彼らの言葉の訛りで朝鮮人と間違われたことによる集団殺人だった。村長らは彼らが日本人であることをなんとか証明しようとするが、激高する村人や自警団には届かなかった。同様な事件は首都圏の関東各地で数多く発生し、殺された朝鮮人の数は数千人に上ったという。福田村の事件は誤解によるものではあったが、自警団に追い詰められた行商団の団長が「鮮人なら殺してもええんか」と叫んだその一言が、集団殺人の引き金になった。映画のプレスに「生存への不安や恐怖に煽られたとき集団心理は加速し群衆は暴走する」とある。世界のあちこちで自己防衛という大義を掲げて戦争が繰り返されている今こそ、噛みしめるべき言葉だと思う。

第10位    ゴジラ-1.0
 ゴジラ映画の革命だ。『ALWAYS三丁目の夕日』の第2作で、昭和30年代の東京にいきなりゴジラを出現させて度肝を抜いた山崎貴監督の、気合の入った本格的なゴジラ映画だ。そのVFXの技量は改めて言うまでもなく、本場ハリウッドをも超えている。シリーズ前作の『シン・ゴジラ』も完全に凌駕したと言える。本作最大の成功要因は、舞台を戦後の日本に設定したこと。もともとゴジラとは核実験の落とし子として誕生した原子爆弾への恐怖のメタファーだった。戦争で焼け野原となった東京の町をさらに追い打ちかけるように破壊しつくす原子怪獣、第1作への回帰である。ゴジラと戦う人間のドラマも、戦争の傷跡から立ち直ろうとする人々の物語として描いた点で秀逸である。ラストではその思わぬ展開に泣けてくる、ゴジラ映画で泣いたのは初めてだ。

選後所感
 こうして並べてみると、選外の『ほかげ』『月』『赦し』なども含めて重いテーマの作品が目立った年だったように思う。コロナが続いた暗雲な世相のせいだろうか。反面
『キリエのうた』『658km、陽子の旅』『コーポ・ア・コーポ』『高野豆腐店の春』『愛にイナズマ』『雑魚どもよ、大志を抱け!』『アナログ』『水は海に向かって流れる』『銀河鉄道の父』等々、様々な形で人生を応援する作品もあり、『リボルバー・リリー』『BAD LANDS』『最後まで行く』『唄う六人の女』『怪物の木こり』等々といった肩肘張らず映画を楽しめた作品も多かった。宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』も別格として記憶に残しておきたいと思う。この年もまた1年、映画を楽しめたことに感謝したい。


                        2024.1

第1位 フェイブルマンズ
 安心して観ていられる映画があるとすればまさに本作のことであろう。アクション映画でもなければ冒険映画でもスリラーやミステリー、それに社会派問題作でもファンタジーでもない。そうした様々なジャンルで傑作を作り続けてきたスピルバーグのほっと一息といえそうな、あえて言えばファミリー映画といえそうな、これは肩の力の抜けた悠揚自適な自伝のような作品だ。ジョン・フォードに面会し映画の極意を薫陶され、意気揚々と未来に向かって歩いてゆくラストの高揚感。スピルバーグの出発点がここにある。  

第2位    対峙
 セラピストの計らいによって面会することになった、銃乱射事件の被害者と加害者双方の両親。映画は、ひとつの丸テーブルをはさんで対峙する4人の会話を、ひりひりするような緊張感をもって追っていく。そこから見えてくるものは何か。ただただ息子を愛し、ただただ普通に育ててきたのに、片方は銃を乱射の果てに自殺し、片方は理不尽にもその犠牲となった。被害者の父母は何故そんなことになったのかを問い詰め、加害者の父母は返す言葉もなく痛恨の思いを訴える。「社会からは袋叩きにされている」と吐露する彼らもまた被害者なのかもしれない。話し合う中で芽生えてくる互いを思いやる気持ち。別れ際、加害少年の母を抱きしめる被害少年の母、涙が止まらない。

第3位 トリとロキタ
 ともに難民のトリとロキタは密入国の途上で知り合った偽りの姉と弟だ。保護施設に引き取られた弟にはビザが発給されたが、密入国が疑われた姉はビザが取得できない。そのため正業に就くことができず、麻薬密売組織の手先となることくらいしか生きるすべがない。そんな過酷な運命の二人がどうやって生きていけばいいのか。『息子のまなざし』『ある子供』『サンドラの週末』『午後8時の訪問者』等々、社会の片隅で必死に生き抜こうとする人々を見つめ続けてきたダルデンヌ兄弟の彼らを見つめる眼差しは、どこまでも冷徹だ。学校を出て家政婦になりたいというささやかな夢さえ無残に打ち砕かれてゆく。弱者に冷酷な社会。作者のその冷徹な目が静かに訴えかけてくる。こんな社会でいいのかと。

第4位    ティル
 1955年の夏、黒人少年エメット・ティルが白人女性に口笛を吹いたことに端を発した拉致・暴行・殺人事件。その事件をもとにボブ・ディランが1962年に唄った"The Death of Emmett Till"。彼のセカンド・アルバムに収録されるはずだったその曲はレコード会社との折衝の末、発表が見送られたという、その経緯はあまりにも有名な話だ。後の公民権運動にも大きな影響を与えたというその事件の顛末と少年の母の勇気ある行動が本作の主題である。今も根深く残るアメリカの黒人差別。語り継がれることにこそ意義がある、映画の真価が問われる作品なのだと思う。

第5位    エンパイア・オブ・ライト
 2001年のジム・キャリー主演『マジェスティック』にこんな台詞があった。「どんなにつらいことがあってもここにいる間だけはみんな忘れることができる」。『ここ』とは映画館のことだ。本作を見て真っ先に浮かんだのがこの言葉だった。名作『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』などを手掛けたフランク・ダラボンによる名セリフだ。本作のサム・メンデスにその影響があったかどうかは定かでないが、映画(と映画館)を愛する心情に変わりはないと思う。本作に胸打たれる映画ファンたる私らも同様、その映画愛が胸にしみる。

第6位    コンパートメントNo.6 
 古代人が残したという岩盤彫刻を見るため北極圏へ向かう寝台列車の旅。根は優しいがちょっとツンデレな彼女。そんな彼女のコンパートメントに偶然乗り合わせた出稼ぎ労務者風の無骨な男。一人旅の女性と見知らぬ男、狭いコンパートメントには当然のように不穏な空気感が漂う。だが長い旅を通じて徐々に打解けてゆく二人。ぶっきらぼうなラブストーリーといえば当っているだろうか。不器用で孤独な魂が純な心に癒されてゆく、そっけない中にも味わい深い映画だ。

第7位    ガンズ・アンド・キラーズ
 いまどき珍しい本格西部劇。妻を殺された男とその娘の復讐談。ありきたりといえばありきたりな定番の西部劇だが、J・ウエインのかの名作『勇気ある追跡』を思わせる初老のガンマンと少女の旅、という設定がまず嬉しい。『炎の少女チャーリー』でラジー賞ノミネートの実績を持つ12歳のライアン・キーラ・アームストロング、主演のニコラス・ケイジをも食ってしまったその佇まいがいい。概ね酷評の目立つ作品だが、95分という短い尺に詰めこまれた西部劇の真髄、その心意気が嬉しい一本だ。

第8位    ヒンターラント
 全編斜めに傾いた背景の中で繰り広げられる犯罪ミステリー。長い間の捕虜収容所生活から解放され祖国に帰還した元刑事の兵士。ブルーバックで作りこまれた歪んだ世界観が支配する異様な緊張感が、まるで戦争のトラウマから抜け出せない主人公の不安定な心の内を表しているかのように見える。物語はあの『セブン』を思わせるような、怨念に満ちた復讐殺人劇。凝った絵作りがその異常感を際立たせる。中盤の一瞬と映画の終盤、田舎に疎開した妻が暮らす山合いの村の風景が、安定した実写の画面になるその瞬間に、戦争のトラウマを乗り越えて前に向かって進もうとする主人公の希望と安堵が滲み出る。映画に命が宿る瞬間だ。

第9位    モナ・リザ アンドザブラッドムーン
 視線で人を操ることができるというぶっ飛んだスーパーヒロインの登場。デ・パルマの『キャリー』をはじめとして超能力少女が暴れまわる映画は数あるが、キモはその力をどう使うかにかかっており、タランティーノ調と評される本作では見事にそれが嵌っている。ホラーではなく痛快女子成長談の一席。ピュアでクールな彼女の個性にも引き込まれ、いつの間にか彼女を応援している自分がいる。その彼女を追い詰める黒人巡査の登場がまた得難いキャラとなって映画を牽引。次があるならぜひ続きが見たくなる。これは面白い。

第10位 キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
 前記9位と似たようなタイトルで紛らわしいが内容は全く違う。上映時間3時間超を一気に見せてしまうスコセッシ渾身の力技。内容がやや重いのが難点だがそこはスコセッシ、ディカプリオに財産目当てでインディアン女性と結婚するグータラ男を演じさせ、デ・ニーロには表向き奇特な慈善家を装いながら裏では利権をあさる悪徳事業家を演らせて、そのどちらにも共感を持たさせずに映画をもたせてしまうのはさすがとしか言いようがない。ラストで事の顛末を解説するTVショーのMCを監督本人登場で進行するのはご愛嬌。見ごたえ満点の必見作だ。


選後所感
 次点以下は『ウーマン・トーキング私たちの選択』『ノック終末の訪問者』『極限境界線-救出までの18日間-』『アシスタント』『オクス駅お化け』『ザ・ホエール』『理想郷』.etcと続く。コロナやハリウッドのストライキなどで揺れたこの1年だったが、そんな中でも光るものがあった10本。次点以下も含めてどれも捨て難い。選外だが『インディ・ジョーンズ』と『MI』シリーズの新作には映画の楽しさを満喫した。ソクーロフの『独裁者たちのとき』は別格。強いて入れるならベスト・ワンでもいい。カウリスマキの『枯れ葉』とディズニーの『ウィッシュ』は未見。ワーストワンは通称『エブエブ』、アカデミー賞には申しわけないが私には響かなかった。

                        2024.1


 



 2013年の『風立ちぬ』を最後に長編アニメからの引退を表明していた宮崎駿監督まさかの復帰作。鷺(と思われる鳥)のイラストをフィーチャーしたポスター以外事前の情報一切なし。メディアへの発信はおろか試写会や宣伝イベントなど全くなしでの公開は、スタジオジブリと思えない大胆(というか尊大というか)な戦略だったが、興行は至って順調、どこの劇場も活況の模様らしい。さすが宮崎=ジブリブランドの強靭な人気・実力のなせる技、というべきか。

 そうした宣伝戦略と相まって大仰なこのタイトル、なんとも説教臭い響きだが、監督自身が子供の頃に読んだ児童小説からの引用なのだという。その本は本編中にもちらっと登場するが、映画の内容は全くの別物で「原作」という訳ではないのだという。こうした情報も実は最近になって少しづつ明らかになってきたもので、公開当初我々観客は何ら予備知識なしに作品に向き合うことになったわけで、そうした意味ではよく言えばまっさらな状態で作品に触れることで、誰もが率直な感想を持ち得ることができたのではないかと思う。  

 然らば筆者の感想はどうか。まず第1感は、これはジブリ映画の集大成ではないかというもの。巻頭、空襲で罹災した母が入院する病院へ駆けつけようとする少年の姿が描かれる。この映画、宮崎アニメには珍しく反戦を主題とした硬派な映画なのかと一瞬思うがそうはならず、父の再婚相手の屋敷がある田舎へ疎開した少年が迷い込んだ異界での冒険物語になってゆく。テイストとしては『千と千尋の神隠し』に近い印象だ。

 思えば、神戸大空襲に始まる反戦映画の名作『火垂るの墓』と、いまだ人々を魅了してやまないファンタジーの名作『となりのトトロ』という全く真逆な世界観の作品が、公開当時2本立てで上映されていたことを思い出す。スタジオジブリの中では『反戦』と『ファンタジー』は常に同じ土壌で生き続けてきたのかもしれない。そしてその芽は、ジブリ初期の『風の谷のナウシカ』からあったことにも思い至る。それは、戦火によって腐海と化した地球に平和な世界を取り戻すべく戦う少女の物語であった。『反戦』という重いテーマを誰もが楽しめるファンタジーのなかに忍ばせる。ジブリ映画の真骨頂ではないだろうか。

 だが本作からはそうした強いメッセージは感じられない。ここでのテーマは喪失した母性への回帰ではないかと思う。戦争によって母を失った少年が、失踪した継母を追って異界に迷い込む。そこで少年は、若き日の父や母、彼を導くクロサギ姿の怪人など様々な人物に出会い迷走し、遂には新しく母となる女性を救い出すのである。

 映画が描きだすそのイマジネーションの豊かさには改めて感心する。異世界から戻るときの回廊の仕掛けなどにも工夫があって、そこでの切ない別れには胸突かれるものがある。本作が難解であるなどの声も聞くが、総じてやはりこれはジブリ映画の集大成、ひとつの区切りのような作品なのだと思う。映画公開の手法などにいささかの反感を感じなくもないが、作品自体は宮崎駿監督の想いがこもった素敵な映画だ。だからこれは、宮崎駿監督からの最後の贈り物として、率直に受け取めたいと思う所以である。

                        2023.8

 この夏最大の期待作のひとつであること間違いなしの本作、ならばと早速劇場にはせ参じたのだが期待に違わず大拍手、と相なったかどうかは申し訳ないがいささか疑念あり、というのが正直なところ。

 次から次へと見せ場が続く連続活劇15年ぶりの復活、確かに面白いことは面白いのだが、どこをとってもいつかどこかで見たことありの感強く、シリーズ前作までの展開をなぞるような作風は上出来ではあるが新味はない。今回スピルバーグが降板し、ジェームズ・マンゴールドがメガフォンを取ったことで、シリーズのテイストがどう変わったか、というのも見どころの一つではあったのだが、そこはシリーズファンの期待を損なわないよう、そつなくこなしてみせたという感触である。『ウォーク・ザ・ライン』や『3時10分決断のとき』『ローガン』『フォードvsフェラーリ』などの実績ある実力派の監督だ。シリーズの世界観を壊すことなく実に丁寧に前作をなぞっているのである。けれどもなぜか、前作までのようなわくわく感がわかないのはなぜだろう。監督の持ち味というものがやはり作品そのものに滲み出る、その結果といえば当たっているだろうか。  

 とはいえ15年ぶりのシリーズ最新作が全くの期待外れ、ということでは決してない。十字架に架けられたイエス・キリストを刺したといわれる秘宝「ロンギヌスの槍」をめぐるナチスとの争奪戦から古代アルキメデスが発明したとされ今では半分だけしか見つかっていない「アンティキティラのダイヤル」の発見に至る1944年の前哨戦に始まり、そこから話は1961年に飛んで、その残り半分を求めて始まる冒険へと繋がってゆく。まさに考古学者たるインディアナ・ジョーンズ博士面目躍如の冒険譚の始まりである。本来ならここで誰もがわくわくしてしまうところなのだが、なぜかそんなにわくわくしない。そんなことにはお構いなしに話はどんどん進んでゆき、賑わうカーニバルの中での馬とバイクの追っかけ、おんぼろオート三輪での爆走、深海への探索、そして飛行機からの脱出などなど、まさに陸・海・空にわたる連続活劇のオンパレード。見ているだけでくたびれるくらいの大サービス映画なのだ。それなのに、くどいようだがなぜかわくわくとはしない。それでも断然面白いし、昔と変わらぬ革ジャン姿のインディは年老いてなおサマになって懐かしい。お金払ってみる価値は十二分にある映画なのだ。

 さて、二つに割れた『運命のダイヤル』が一つになったとき、いったい何が起こるのか、本作最大の見どころである。それは見てのお楽しみ。第3作『最後の聖戦』で、古代神殿にたどり着いたインディが、聖杯を守り続けてきた十字軍の戦士に遭遇するあの名場面がよみがえる。思わぬ人物が登場するとだけ言っておこう。エピローグでインディ最愛の妻マリオンが再登場するのもシリーズのファンにとっては思わぬプレゼントだ。前作『クリスタルスカル』のラストでは、マット青年が拾い上げたあの帽子(フェドーラ帽というそうな)がまだまだこれは渡さんぞと言わんばかりにインディの手に戻ったが、今回それは誰のものともわからない手に取られて終わる。シリーズの終わりを告げる宣言か、それとも続きはまだあるぞという予告なのか。期待と不安は終わらない。 

 2023.7 

 2019年の『新聞記者』や一昨年の『パンケーキを毒見する』など、時の政権への批判精神を発揮した作品を世に問い続けてきたスターサンズが、歴代最長の在任期間となった安倍政権の残したものとは何か、という命題に真っ向から挑んだドキュメンタリーである。その安倍元総理が、昨年7月参院選の応援演説中に銃撃され死亡するという衝撃的な最期を遂げたことは誰もが知るところだが、そんな記憶の薄れないこの時期に、その功罪を問う作品を発表するには相当な覚悟が必要とされたであろうことは容易に想像がつく。その意欲だけでも本作を制作した価値は大いにあると思いたい。

 映画は、国論を二分したその国葬の模様から始まる。しかし、この国葬には国民の6割が反対したという事実を述べるにとどめ、その賛否については言及しない。そしてそこから、その人格がどの様にして形成されたのかという原点に立ち帰る。母方の祖父である岸信介に大きな影響を受けたこと、父安倍晋太郎の秘書を経て国会議員となりその後総理大臣にまで登りつめたことなどが手際よく語られ、その人となりの根源に迫る。昭和の妖怪と言われた岸信介元総理大臣の孫。まさに本作タイトルの意味するところだ。

 そこから映画は、残されたアーカイブ映像を駆使して総理大臣在任中の安倍氏の言動を検証していくのだが、ほとんどの映像はいつか何かで見たことのあるものであることは至極当然で、特に目新しいものはほとんどない。だが、総理大臣として撮られた膨大な量の映像の中から、その本質が垣間見える映像を探し出し編集する作業には甚大な労力と判断が必要であったろう。その意味でこれは労作と言える。それらの映像の中で元総理は、政治的に相反する主義の人達を指して『こんな人たち』と非難し、答弁の矛盾を指摘する野党議員に対して『総理大臣である自分を嘘つきというのは大変失礼だ』と恫喝し、戦後70年この国が守り続けてきた日本国憲法を『こんな恥ずかしい憲法』と断じる。これら発言は、一国の総理大臣として果たして適切なものであっただろうか。しかしここでも、映画は答えを決めつけない。

 しかしそれでも、この長期政権が国民の中に根付かせた危険な風潮があることを映画は指摘する。『不寛容がはびこる社会』『自己責任という名の弱者切り捨て』そして『隣国からの侵略を危惧するあまりの国防力の強化』。我が身にかえって一人一人が考え直すべき命題ではなかろうか。この映画を見て思うのはまさにここにある。これは、そうしたことを観客に問い糺す映画なのだと思う。明快な主張を避けながら、そこが今一つ歯がゆくもある。マイケル・ムーアだったら良くも悪くも明快な論陣を張るのだろうにと思うばかりだ。

                                                                     2023.5

第1位    マイスモールランド
 この年3月、名古屋の入管施設で33歳のスリランカ人女性が亡くなった。その経緯は未だ明らかでないが、急変する容体に対して適切な医療が施されなかったのであろうことは想像に難くない。本作の主人公は日本で暮らすクルド人一家の長女、17才の女子高生だ。日本に住みながらも、祖国を持たないクルド人は難民認定すらされないのだという。そのため父は正規な仕事にもつけず、娘はアルバイトさえ認められない。こんな国のどこに福祉があるのだろう。県境を越えることも許されず、県をまたぐ橋の真ん中の境界線を示す看板にバツを書き印す少女の姿が痛ましい。主人公を演ずる嵐莉菜の美しい横顔と、涙を堪えるその瞳が、ただただささやかに生きる小さな世界を求めているだけなのに、そんな希望も叶わない悲しみを訴えて心に突き刺さる。

第2位    夜明けまでバス停で
 コロナ禍で職を失い寮にも住めなくなって、やむなくホームレスになってしまった成人女性の、バス停で夜を過ごすしかない寄る辺ない生活。「自助・共助・公助」と言って結局は何もしてくれないこの国の、弱者に対する冷酷な政治の在り方に、気骨漢高橋伴明の怒りが炸裂する。だが映画はそれを声高に叫ぶのではなく、途方に暮れながらも懸命に生き抜こうとする庶民の姿を直視して、遠くからでも頑張れと励まし応援する監督の目線が優しく温かい。そして毅然としてこんな社会でいいのかと、静かに訴えかけてくるようだ。

第3位 ケイコ 目を澄ませて
 生まれつきの聴覚障がいのため耳が全く聞こえないケイコ。ホテルの下働きをしながらボクシングジムに通い、プロのリングにも立つ。だがこれは、そんな不遇のボクサーのサクセス・ストーリーではない。むしろ挫折の物語だ。彼女はなぜ闘うのか。勝とうが負けようがリングに立ち、ジムで汗を流す。そのことだけに命の輝きを求めようとしているかのようだ。荒川あたりの河川敷で共にシャドウボクシングに励むケイコとジムの会長、岸井ゆきのと三浦友和が、まるで『ミリオンダラー・ベイビー』のイーストウッドとヒラリー・スワンクに見えてくる。会長に甘えるような岸井ゆきのの楽しそうな表情が印象的だ。試合に負けた数日後、ケイコは偶然出会った相手ボクサーからリスペクトに満ちた挨拶を受ける。彼女の勝利の瞬間だ。試合に勝つことだけが勝利じゃない、時に挫けそうになる自分に打ち勝ってこそ、真の勝利があるのだと。

第4位    夜、鳥たちが啼く
 『妖怪シェアハウスー白馬の王子様じゃないん怪-』で、史上最高にキュートなお岩様を演じた松本まりか。キャリアは長いが目立たない役柄が多く遅咲きの感が強いが、本作でのその触れなば落ちん危うげな佇まいに、今年の主演女優賞を捧げたい。バツイチ子連れのシングルマザーと、書けない自分に苦悶する売れない小説家。社会の規範から落ちこぼれたような、どこかまともじゃないそんな二人が、互いの傷を癒しあうように寄り添い求め合っていく。自然な流れに身を委ねるような人生の機微を繊細に描く、監督城定秀夫の細やかな情が滲み出る。

第5位    サバカン SABAKAN
 誰にでも一つや二つはありそうな少年時代の懐かしい思い出。そこにかつて共に過ごした熱い友達がいれば、その思いはなおさらだ。そんなノスタルジーに満ちた郷愁を感じさせられる映画である。成人した主人公が語る小学5年のひと夏の思い出。ちょっと不良の、だけど頼りがいのあるクラスメイトの少年とひょんなことからイルカを見るための冒険の旅に出る。長崎片田舎版のスタンドバイミーだ。家が貧しくごちそうといえば握り飯に缶詰のサバを乗せただけのサバカン寿司、その素朴な味まで懐かしい。なんてこともないのにしみじみと泣けてくる映画だ。

第6位    愛なのに
 今年第4位の『夜、鳥たちが啼く』と本作の他、『女子高生に殺されたい』『ビリーバーズ』と監督作が続き、『猫は逃げた』『よだかの片想い』などの脚本も手掛けるという、大忙しの城定監督だが、2020年の『アルプススタンドのはしの方』で脚光を浴びる前は年に5・6本は当たり前のピンク映画で成らしたキャリア、これくらいは屁のカッパってところだろう。筆者、日ごろ映画は監督で見るものなんて偉そうなことを言っているくせして、『アルプススタンド…』より以前の作品には全く縁がないので面目ないが、今やそういう監督の一人になった城定秀夫、できるなら前記4作全部テンに入れたいくらいなのである。一途な女子高生に一方的に恋をされる古本屋主人の困惑する姿を描いて、ここでもその人間観察のきめ細やかさが秀逸だ。本人にすれば愛なのに周囲から見たら変態扱いという、その落差に戸惑う主人公の姿が愛おしい。 

第7位    ハケンアニメ!
 連続アニメ制作集団の業界内幕モノ、と言ってしまえばそれまでだが、視聴率争いに一喜一憂する制作現場の熾烈な争いを切実に捉えて、一種のスポコンものにまで昇華した作者の過熱ぶりが大いに楽しめる。アニメ最終話の構想を土壇場になってひっくり返す新人監督の無茶ぶりに、スタッフ全員反発しながらも最後には『監督の頭の中にあるものを形にするのが俺たちの仕事だ』と言い放つスタッフの言葉に、アニメや映画に係わらず創作現場に携わる者たちの矜持を見た。視聴率で惜敗するも、後の単発DVDの売り上げでライバルを超えた時のプロデューサーのガッツポーズで終わるラストが鮮やかだ。

第8位    峠 最後のサムライ
 いまや日本アカデミー賞常連の感ある役所広司。ただ立っているだけで見事に幕末のサムライになり切ってしまうその姿にほれぼれする。圧倒的な戦力で攻め込む薩長新政府軍の前に、一度は善戦するもやがては落城し敗退する越後長岡藩の国家老河井継之助。その去就の一切を手際よく語る監督小泉堯史の手腕が手堅い。敗走する旅の中「武士には戦う義務があるが中間のお前には義務はない。だから家に帰れ」と諭す継之助に対し「私は旦那様に恩があります」と言い切る従僕松蔵の生き方に打たれる。義に生き忠に死ぬ、武士ではない松蔵のなかに脈打つサムライの矜持だ。コロナ禍で何度かの公開延期があったが、ようやく観ることが出来てほんとに良かったと思える作品だ。

第9位    マイ・ブロークン・マリコ
 『キネマの神様』『そして、バトンは渡された』等、どちらかといえば可愛らしくてか弱い女子の印象強い永野芽衣だが、本作では親友の遺骨を抱えて奮闘するヤンキーな姉さんを演じてその意外な変身ぶりが一層魅力的に映える。ドジでお人好しでいつも損な役廻りばかりしている友達を、疎ましく思いながら適当にあしらっていた自分への怒りか悔恨か。一途に思い詰めて、昔マリコが行きたがっていた海へと向かう無謀な行動に、彼女のやるせない思いが滲み出る。壊れたのは、死んだマリコの命だけでなく、かけがいのない友達を亡くした彼女の心も、だったのかも知れないと。

第10位    ラーゲリより愛を込めて
 今さらシベリア抑留ものかといささかアナクロな感もあったが、隣国への侵攻を平然と正当化する彼の国の行状を目のあたりにする今、先の大戦がもたらした決して忘れてはならない事実があったことを、否応なく思い起こさせられてしまう。だがこの映画が伝えようとするのは、そのことを告発することではなく、過酷な状況の中でも決してあきらめることなく耐え抜いた人々の愛と希望の物語なのだと思う。劇中主人公が口ずさむ『いとしのクレメンタイン』は、1946年のジョン・フォード『荒野の決闘』で広く知られるようになった曲なので、同じ時期にシベリアに抑留されていた主人公が何故この曲を知っていたのかとやや不自然さも感じるが、実在した山本旗男氏は旧制東京外国語学校でロシア語を学んだ秀才だったというから、どこかで原曲を聞いたことがあったのだろうと解釈しよう。戦後、彼の遺書を託された戦友たちが内地の家族を訪ね、その遺書を口述するラストが胸に迫る。
 

選後所感
 いつになく10本に絞るのに苦労した年だった。10位に入れるかどうか迷った作品を列記すると、『線は、僕を描く』『土を喰らう十二ヵ月』『LOVE LIFE』『すずめの戸締まり』『ある男』『ウェディング・ハイ』『天間荘の三姉妹』『Drコトー診療所』『あちらにいる鬼』『島守の塔』『前科者』『母性』『流浪の月』『20歳のソウル』『はい、泳げません』『こちらあみ子』『異動辞令は音楽隊!』『AKAI』『ビリーバーズ』『PLAN 75』(ほぼ候補順)となる。どれも捨てがたいが、これだけあるともうくじ引きみたいなもんで、その日の気分次第でどうにでもなりそうだ。押しなべて一定のレベル、というよりもどんぐりの背比べといった方が当たっているかも。それにしてもコロナ禍の中、よくぞ出揃ったとの感深い年ではあったと思う。

                        2023.1