オッペンハイマー | inosan009のごくらく映画館Ⅲ SINCE2019

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HPでの『ごくらく映画館』(2003)からYahooブログの『Ⅱ』を経て今回『Ⅲ』を開設しました。気ままな映画感想のブログです。よかったら覗いてみてください。

 難解な映画である。1920年代、ハーバードを首席で卒業したオッペンハイマーが、1940年代「マンハッタン計画」と呼ばれた原子爆弾の開発を経て、戦後マッカーシー旋風によって共産主義のスパイ容疑で聴聞会にかけられる1950年代までの彼の半生を映画は駆け巡るのだが、時系列が複雑に入り乱れる映画の展開のため、物語を理解するには実に厄介な脳内作業が必要だ。
 
 核爆弾に対する主人公の考えに大きな影響を与えたと思われるアインシュタインとの迎合が作品内で数回繰り返される。かなり重要なシーンであろうと思われるのだが、そこで交わされる二人の会話が実に曖昧なので一度見ただけでは何とも解釈し難い。湖畔に佇むアインシュタインのもとにオッペンハイマーが近づいたとき、突風が吹きアインシュタインの帽子が飛ばされる。オッペンハイマーがそれを拾い上げて彼に渡す。そのシーンの示唆するところは何か。量子力学と相対性理論の迎合である。われら凡人には理解できようはずもない。しかもその時期さえ不明確だ。
 
 かくも斯様にこの映画には様々示唆に満ちた部分が頻出するのだが、さらに理解に苦しむのがマンハッタン計画の陸軍責任者であるマット・デイモン扮する陸軍将校とオッペンハイマーの核実験の実行に際しての対話。いったん核爆発を起こせば核融合の連鎖反応が地球全体に影響を及ぼすかもしれない、その確率はほぼゼロだがとオッペンハイマーは言う。そしてそのゼロは「ほぼ」ではだめだと彼は言う。実験実行の可否を判断するには、人類の存亡さえかけた決断だったといえまいか。なのに二人は、さしたる葛藤もなかったかのように核実験に向けて突き進むのである。実験を決行した二人の決断にどんな力が作用したのか。

 そして映画はその核実験の模様に進んでゆく。それは実にスリリングな展開だ。実験の成功後、では完成した原子爆弾をどう使うかという議論に進む。当初攻撃目標としたヒトラーのドイツはすでに降伏していた。ならば日本か。世界で唯一の被爆国である日本の我々にとっては、それがどのように決められていったのか、この映画で見過ごすことのできない重要な箇所でもある。そこにどれほどの逡巡があったのか。しかし映画はそれも明確には示さない。「科学者である自分らにはその開発には責任があるが、それをどう使うかは政治家の責任だ」とオッペンハイマーは言う。それはその通りだろう。だが創ったものによる結果がどれだけ悲惨なものであり、のちにそれが世界の軍事的な力の均衡にどのような影響を及ぼしたか、その当時の人々にどれだけの想像力があったのか、映画はそれも語ろうとはしない。

 原爆が投下された広島・長崎の惨状を描くシーンはこの映画にはない。本作が賛否両論分かれる最大の要因であろう。2016年の映画『リトル・ボーイ/小さなボクと戦争』には、のどかな漁師町のリトル・ボーイと呼ばれた少年が、出征した父が早く戻ってくるよう奮闘する穏やかな小品だったが、少年が自分と同じ渾名で呼ばれた爆弾によって戦争が終わったと知ったとき、その爆弾によって焦土と化した瓦礫のなかに少年が立ち尽くす一瞬の映像があった。そのたったワンカットの映像が語るものの意味は大きい。本作にはそうしたものはない。

 要約すればこの映画は、核の是非を声高に問うものではなく、『原爆の父』と呼ばれた一人の科学者の半生を淡々と語るもののようだ。その限りにおいては実に見どころ多く意味深な映画なのである。映画は、地球が何らかの炎によって浸食されていく映像で終わる。このラストカットに込めた作者の思いは何か。2017年『ダンケルク』で、敗走する連合軍の一日を万感の思いを込めて描いて見せたクリストファー・ノーランだ
。そこにこそ本作を読み解く最大のヒントがあるのではないだろうか。
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