清洲城(その1)~織田信長公ゆかりの城 ~愛知県清須市の城郭・史跡 | 九州下町おやじの珍道中

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2020年12月中旬の名古屋市清須市散策レポの続き。

 

清洲古城跡公園」を散策した後は、川越しに見える「清洲城」に向かいました。

 

 

清洲駅・清洲古城跡公園のレポ

 

 

 

 

清洲古城跡公園」にある「清洲ふるさとのやかた」の正面に、大手橋という朱の欄干の橋が架かっています。

 

 

 

大手橋の下は、五条川が流れていて…。

 

 

 

大手橋を渡ると、その正面に「清洲城」が見えるんですよね。

 

 

 

清洲城」の入口にある門。

 

 

 

その門の近くに、由緒書き「清洲城と歴代城主」があります。

清洲城」は当初、尾張守護所下津城の別邸として築城され、下津城が戦乱で焼失したため、文明8年(1476)に守護所が清州城に移されたとされています。

 

 

戦国の頃、尾張国は守護代の織田氏が実権を握り、尾張の上四郡を支配していた岩倉織田氏と。下四郡を分割した清州の織田氏が争う中で、清州織田家当主織田信友那古野城主織田信長公は、攻め滅ぼし清洲城に入城し、尾張の拠点としました。

 

清洲城」は「関東の巨鎮」と称えられ、東国の中心地として発展を遂げ、信長公の長男織田信忠公、二男の織田信雄以降は名だたる武将が城主となりました。

 

清洲城」公の代の慶長15年(1610)徳川家康公は、清州城の廃都と名古屋遷都を命じ、3年後には「清洲越し」が完了、清洲城は廃城となり、城下町から美濃路の宿場町へと姿を変えて行きました。

 

清洲城歴代当主

織田信長織田信忠織田信雄豊臣秀次福島正則松平忠吉徳川義直

 

清洲町が町制100周年を迎えた平成元年(1989)に再建しました。

 

 

 

門をくぐると、「清洲城天守閣」が正面に!カッコいい~♪

 

 

 

お庭は、枯山水になっていて…

 

 

 

門の横に連なる塀は、「信長塀」。永禄3年(1560)織田信長公が桶狭間へ出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願し、大勝したのでその御礼に奉納された塀をモデルにしたものです。

沢山の瓦が埋め込まれていますね。

 

 

 

その塀の並びには、倉庫でしょうか、蔵のような建屋があって…

 

 

 

門を入って左手には、御堂のような建物があります。

 

 

 

この建物は「芸能文化館」。

外見は初期の書院造で、御殿と称するもので、内部は「黒木書院」、和風の「芸能の間」「ふれあいの間」となっていて、「ふれあいの間」は休憩所になっていますので、ご自由にお入り下さい。

 

 

 

天守台の石垣。

 

 

 

天守閣を見上げて…

 

 

 

入場料大人300円を支払って、天守閣内部に入ります。

 

遺跡から出土した銅鐸や壺が展示されていて…

 

 

 

壺や鉢がいろいろ見つかったのですね。

 

 

 

兜や刀もありますよ~

 

 

 

槍も展示されていました!上段は「宇陀郡住國房」、下段は「伯耆守信高」。

 

 

 

日本刀もあって…上段は「尾張國信高」、下段は「伯耆守藤原信高」。

 

 

 

こちらも、日本刀。上段は「三河國岡崎住橘清兼」、下段は「國光」。

 

 

 

勿論、火縄銃も!

 

 

 

2階に上がります。

 

 

 

戦国武士の暮らしということで、住居を再現したコーナーがあって…

 

 

 

信長公の清洲城下

このイラストは、信長公が居城した時代の清須城とその城郭域を想像して描いたもので、清須城がどの位置にあったのか、正確なことは分かっていませんが、当地もしくは五条川対岸の清州城公園に主郭に相当する構造物があったのではないかと考えられています。

 

 

信長公時代の清州城は、中世の守護の館の造りを踏襲したものだったと考えられ、館の周りには地形を利用して塀や土塁、土塀が巡らされ、要所には監視用の櫓が建てられていたようです。

 

 

 

おお!石落としから石を落としているシーンが再現されていますね~

 

 

 

清洲城」の城郭の変遷を表す展示。「守護所の時代」。

清須は、文明8年(1476)守護所となり尾張国の首府となって、京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあったので、尾張国の中心地として繁栄。

公家の山科言継が記した「言継卿記」に京都の足利将軍の館を彷彿とさせる雅な造りであった清洲城の様子が記されています。

 

 

 

織田信長公の時代

織田信長公が尾張国守護の斯波氏を擁して入城した清州城の基本的構造は守護の館と同じだったと考えられ、信長公や斯波氏が居住する館の周辺には高級家臣の屋敷が点在し、その周りを家臣団の館が取り囲む強固な防衛体制が築かれていました。この時代、天守閣が存在していません。

 

 

 

関東の巨鎮

織田信雄の時代に、最大郭域にまで拡大され、東西約1.6km、南北約2.8kmの中に、あらゆる機能を吸収した城塞都市となった清洲城は、後に徳川家康公が創建する名古屋城をはるかにしのぐ規模を誇り、朝鮮通信使の記録にもその規模が記されています。

 

 

 

清洲城」のジオラマも展示されていて…

 

 

 

斯波義重の由緒書き。

管領斯波義将の嫡男で斯波氏6代当主。越前・尾張・遠江三国の守護を務め、尾張国守護所である下津城の別郭として清洲城を築城したとされる人物です。

 

 

 

織田信秀織田信友の由緒書き。

織田信秀は、織田信長公の父。尾張国守護代家清須織田家織田大和守家)の重臣で、清須三奉行の一人。武威によって主家である守護代家やその主君である斯波氏を上回る勢力を尾張国内に築き上げ、清須城には清須奉行として居城しました。

 

 

織田信友は、尾張国守護代家清須織田家織田大和守家)の当主で、織田信秀と尾張の覇権を争うが、信秀の死後、その後を継いだ織田信長公と対立し、安食の戦いで信長公に敗れました。

 

 

 

その2」に続く。

 

 

 

 

清洲城

愛知県清須市朝日城屋敷1-1

 

 

 

 

 

 

 

 

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