地蔵坂と、光照寺と、弁天坂と、南蔵院と ~東京都新宿区の坂道・寺院 | 九州下町おやじの珍道中

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20186月中旬の神楽坂散策の続き。

 

新坂」を上り、「善国寺」をお参りした後は、「地蔵坂」を上がって、「光照寺」に向かいました。

 

 

新坂・善国寺のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12515296209.html

 

 

善国寺」から神楽坂を上り、一つ目の左側の路地に入ります。この先も緩やかな坂になっていますね。

 

 

この坂は「地蔵坂」。この坂の上に「光照寺」があり、そこに近江国三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があったので、そう呼ばれるようになりました。また藁を売るお店があったので、別名「藁坂」とも呼ばれました。

 

 

地蔵坂」の坂の上から眺めて…。

 

 

 

地蔵坂」を上って路地を進むと、左手にお寺があります。

 

 

こちらが、「地蔵坂」の由緒書きにもあった「光照寺」。

 

 

境内を進んで、鐘楼。

 

 

この鐘楼堂の由緒書き。「光照寺」は慶長8年(1603)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺町に起立、正保2年(1645)ここ「牛込城跡」に移転しました。

 

 

徳川家康公の叔父松平治良右衛門の開基になり、「光照寺」の名称は、開山の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名に由来します。

鐘楼堂は、明治元年(1868)神仏分離令による廃仏毀釈により取り壊されたと伝えられ、昭和12年(1937)に復興しましたが、昭和20年(1945)第二次世界大戦の空襲により旧本堂とともに焼失しました。

梵鐘は、戦時中供出されていた為、戦災を免れ、戦後、「光照寺」も返還されて長く境内に保存されていましたが、平成5年(1993)にこの鐘楼堂を新築、復元されました。

 

 

本堂。立派ですね♪

 

 

こんな由緒書きも。「牛込城跡」。光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところで、堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明ですが、住居を主体とした館であったと推定されています。

 

 

牛込氏は、赤城山の麓・上野国勢多郡大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とし、天文年間(1532~1555)大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となりました。

天文24年(1555)重行の子の大胡勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含めて領有しましたが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康公に従い、牛込城は取り壊されました。

境内には新宿区登録文化財である「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがあるそうです。

 

へぇ~ここ「光照寺」は「牛込城跡」でもあるのか~興味深い!

 

 

新宿区の有形文化財の「木造地蔵菩薩坐像」「木造十一面観音坐像」の由緒書きもありました。

 

 

木造地蔵菩薩坐像」は、寄木造り、黒漆塗り、像高31cm、13世紀末(鎌倉時代)の作で、区内で最も古い仏像彫刻の一つです。

寺伝によると、もとは近江国三井寺にあり、後宇多天皇の皇后が弘安年間(1278~1288)後の後二条天皇を出産する際、難産であった為、この像に祈った処、無事出産されたことから「泰産地蔵」と呼ばれたと言います。

江戸時代には、芝増上寺に移され、正徳年間(1711~1716)に増上寺の末寺である「光照寺」に安置され、「安産子安地蔵」として信仰を集めました。

光照寺」前の「地蔵坂」は、この像に因むものです。

 

 

木造十一面観音坐像」は、一木造り、素木仕上、像高70cm、18世紀末(江戸時代後期)の作品で、木食明満(もくじきみょうまん)の作です。

 

 

明満(1718~1810)は、円空と並び称される造仏聖で、全国を旅して鉈彫(なたぼり)の仏像を約千体彫ったと伝えられています。

 

木食明満というと、宮崎県西都市の日向国分寺跡に立ち寄った際に、木食上人が彫った仏像を納めた「木喰五智館」があったのを思い出しましたよ。

 

 

日向国分寺跡・木喰五智館のレポ

https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12361306714.html

 

 

同じく新宿区指定有形文化財の「阿弥陀三尊来迎図」「法然上人画像」の由緒書き。

 

 

阿弥陀三尊来迎図」は、絹本着色、木製板に張り付けられた状態で、厨子に納められています。縦102.2cm、横39.4cm。

画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音菩薩・勢至菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎える為に降りて来る)様子を描いたもので、14世紀後半(室町時代)の作品と推定されます。

 

法然上人画像」は、絹本着色、掛軸装されていて、縦89.5cm、横41.3cm。

浄土宗の宗祖法然上人の肖像で、15世紀後半(室町時代)の作品と推定されます。

 

 

石仏と、供養塔。

 

 

 

光照寺」から路地を北に進むと、地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅がある大通りに出るんですが、その道路も緩やかな坂道になっています。

 

 

その大通りを向こう側に渡ると、案内板を発見。

 

 

この案内板は「弁天坂」。坂下の南蔵院内に弁天堂があったことに由来し、明治後期の「新撰東京名所図会」には南蔵院門前に甘酒やおでんを売る屋台が建ち、人通りも多い様子が描かれています。

 

 

坂上近くの横寺町47番地には、尾崎紅葉が明治24年から36年10月病没するまで住んでいました。

門弟の泉鏡花小栗風葉らが玄関番として住み、後に弟子たちは庭続きの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称しました。

 

 

 

弁天坂」の由緒書きの向こうに、お寺があることに、気づきました。先程、向こう側にいたんだけど、分からなかった…(^^;

 

 

再び、信号を渡り、そのお寺に近付いて…。こちらは「南蔵院」。「弁天坂」の由緒書きにあったお寺なんですね。

 

 

大聖歓喜天もお祀りされているのか~

 

 

本堂。

 

 

地蔵菩薩がいらっしゃって…。

 

 

南蔵院」の由緒書き。文字が滲んでいて、見辛いですね…。

 

 

境内を進むと、御堂が見えて来て…。

 

 

手前には、狛犬が…。樹木の下に隠れちゃっていましたけど…(^^;

 

 

お堂に近付いて…。こちらが歓喜天がお祀りされている堂宇なのですね。

 

 

境内には石仏がたくさん安置されていて…。

 

 

古そうな石仏ばかりでした。

 

 

「地蔵坂」を上り、「光照寺」をお参りし、「弁天坂」の坂下にある「南蔵院」をお参りした後は、「袖摺坂」を上がって「長源寺」に向かいました。

その様子は、また後日。

 

 

 

光照寺・牛込城跡

東京都新宿区袋町15

 

 

南蔵院

東京都新宿区箪笥町42

 

 

 

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