~参考~
最近表面上は比較的順調な芸能人等の自殺が相次ぐ理由/

特にHSPは

時代の閉塞感をまともに感じやすい

~参考~
(経済的側面は別論として)現代人にとっては

(社会的輪を半強制されない)今が理想郷と言える側面も

~参考~
コロナ禍⇒「物象化」(リモート化)強制促進される人類

~(非生命体的)AI化する人類の末路とは?

~参考~
平成→令和/物象化(人間疎外)が更に進行

~内側から腐っていく痛み

(自己否定の先にある「自滅」)

 

参考
西部邁(にしべ すすむ

1939年(昭和14年)3月15日

~ 2018年(平成30年)1月21日)は、

日本の保守派の評論家。

雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授。

 

今思えば、2018年1月21日、

自殺幇助⇒多摩川に入水自殺した

元東京大学教養学部・西部邁教授(78)

時代を先取りした「先見の明」はもとより

人一倍HSPであった可能性

 

2018年(平成30年)1月10日、

元塾頭AはTV番組『西部邁ゼミナール』の収録で

西部と対談をし、同番組最後の対談相手を務めた。

その対談の際、

西部は

「(人間にとって)

本当に幸いなのは死ねること。

お願いですから死なせてください」

と述べた。

 

 

 

 

2018/1/26

 

 

 

 

 

 

参考

自殺の準備
西部は50代の時から自分の生き方の結末を考えていた。

55歳の頃には自死への構えがおおよそ定まり、

2014年に妻と死別して以降はさらにその決意を固めていった。

そのころ以降は息子にも自殺を口にするようになり、

電話で息子に

「お父さんは自殺をすることに決めた」と告げた。

健康面では西部は背中に持病を抱えていて

激しい痛みに襲われることもあり、

皮膚炎や神経痛に悩まされており、

重度の頚椎症性脊髄症のため

細かな作業や重量のある物を持つことができず、

執筆活動が困難になっていた。

自殺するまでの数年、

親しい人には「死にたい」と漏らしていた。

周囲に

「ウソじゃないぞ。俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」

とも語っていた。

また娘や息子に迷惑がかからないように

人生を終えるといつも言っていた。

自殺するまでの数年、

木村三浩(一水会代表)に対しては

「自分の意思もわからない状態で

看取られるのは耐えられない」、

「もうそろそろ限界だ」と言っていた。

著書などでは「自然死といわれるものの実態は

『病院死』にすぎない」、

「生の最期を他人に命令されたりいじり回されたくない」、

「死に方は生き方の総仕上げだ」と記し、

自ら命を絶つ「自裁死」の意思があることを述べていた。

2017年夏ごろ、西部は自分が司会を務め

るTV番組『西部邁ゼミナール』(TOKYO MX)の

編集担当プロデューサーだった

MXエンターテインメント株式会社社員Kに

自殺についての具体的な計画を知らせ、協力を求めた。

Kは東京MXテレビから

子会社のMXエンターテインメントに出向し、

同番組のディレクターも務めていた。

Kは自分にとって大切な人物からの頼みを断るのは

人道に反すると考えてその依頼を了承した。

同年9月ごろから

Kはのちに西部が自殺するときに使う

ロープ、重り、重り用ベルト、懐中電灯などを購入し始めた。

同年10月、

西部は自分が主催していた私塾「表現者塾」の塾頭を

務めたAにも

「体がどうにも言うことをきかない。

多摩川で自殺するつもりだ。手伝ってくれるか」と依頼した。

依頼を受けた2人は、

ともに西部の熱心な信奉者として知られていた。

元塾頭Aは西部を師と仰ぎ深く尊敬していた。

同年11月、西部、A、Kの3人は

都内のホテルで西部が自殺をする

日時、場所、方法などについて具体的な打合せを行った。

自殺現場には

東京の西の端、東急東横線多摩川駅近傍である

大田区田園調布5丁目の多摩川左岸の河川敷が

選ばれた。

同月4日、

西部はAに「1月20日に決行する」と告げた。

西部から依頼を受けた2人は

西部の自殺のための

道具の購入や現場の下見などの準備をした。

Aは西部がのちに自殺する際に使う

工事現場用のハーネスを購入して準備した。

Aはそのハーネスを勤務先から持ち出し、

西部は自殺するときにそのハーネスを着用した。

またAは遺書を作成するのに使う中古パソコンも購入した。

Kは手の不自由な西部のためにパソコンで遺書を代筆した。

酒井孝太郎(産経新聞社会部次長)はのちに

「『助太刀』の依頼は、

手が不自由となっていたため避けがたかったに違いない」

と述べた。

木村三浩によると、

2人は「西部先生と非常に近く、思想的にも共鳴していた」。

富岡幸一郎(文芸評論家)はのちに

「2人は西部先生の死生観に共鳴していた、

それだけは間違いありません」と述べた。

2人について西部の娘はのちに

「(父と)Aさんは20年以上、

Kくんは10年以上の付き合いでした」、

「生前本当によくして下さった方々」、

「2人とも真面目で、

父が頼まなければ犯罪とは関係の無い人たちでした」

と述べた。

警視庁捜査1課によると、

西部は自殺する前、

2人に「ガスで自殺したい」などと話していた。

同年12月上旬ごろ、

AとKの2人は自殺現場である

多摩川の河川敷までの道を下見した。

同月、2人は自殺現場付近の下見もした。

西部の息子によると、

多摩川の河川敷は

西部と西部の妻が気にいっていた場所だった。

のちに息子は

「愛する妻との思い出が残る川辺で死にたかったのだろう」

と話した。

同月、西部は雑誌『AERA』(2017年12月18日号)で

村本大輔(芸人)と対談をした。

その際西部は村本と意気投合し、

予定時間を延長し3時間に及ぶ政治談義に花を咲かせた。

同月の暮れに木村三浩が西部の自宅で話していたとき、

西部は

「本当は俺はいないんだよ。

実は10月22日にやろうと思ったんだ。

ところが選挙になっちゃったもんだから、

世の中が騒いでいてできなかった。

でも来年になったら、間もなくいなくなると思うよ」と述べた。

木村が「先生、そんなこと言わないでくださいよ」と言うと

西部は「俺は覚悟を決めてるんだから、君が覚悟を決めろよ。

受け入れなきゃだめだよ」と述べた。

同月末、遺作『保守の遺言』(平凡社新書、2018年2月末刊)

の最後となった打ち合わせの席で、

西部は担当編集者の金澤智之(平凡社新書編集部)に

「1月下旬にはそう(自殺)するつもりだ。

この本は死後の出版になる」と述べた。

さらに同月末、西部は知人の一人に

「私がいなくなったあとは家族をよろしく」と言った。

2018年(平成30年)1月10日、

元塾頭AはTV番組『西部邁ゼミナール』の収録で

西部と対談をし、同番組最後の対談相手を務めた。

その対談の際、

西部は「(人間にとって)本当に幸いなのは死ねること。

お願いですから死なせてください」と述べた。

さらに西部はその対談で、

番組のスタッフやゲストと酒を酌み交わし

議論することの大切さを説いた。

同月15日、

西部と木村三浩は駐日ロシア大使館を表敬訪問し、

日本とロシアの友好について

ロシア代理大使と意見交換をした。

その後、西部と木村は

テレビ局のスタッフも交えて新宿で24時半ごろまで酒を飲んだ。

そのとき西部は

「僕はもういなくなるから、

会うのは今日でおしまいになるかもしれない」と述べた。

翌16日、

木村が西部に「昨日はご馳走さまでした」と電話をすると

西部は「昨日は会えて楽しかったよ。

でも、もう会えないからね」、

「君と知り合えて楽しかったよ」と述べた。

同月20日夜、

Aは西部とKを現場に連れて行くためにレンタカー店で

トヨタのヴェルファイアを借りてKと合流した。

同日夜、

西部は新宿の行きつけの文壇バーに娘とともに来店し、

酒を飲んだ。

そのバーを出たあと、同日午後11時50分ごろ、

西部は新宿御苑付近で「これから会う人がいるから

先に帰りなさい」と言って娘を帰宅させた。

 

自殺の実行
娘と別れた直後の21日未明、

西部と社員Kが新宿区内を一緒に歩いている姿が

のちに防犯カメラで確認された。

自殺するまでの一連の過程で、

複数の防犯カメラに彼らの姿が映っていた。

同日未明、元塾頭AとKの2人は、

娘と別れた西部と待ち合わせ場所である

新宿2丁目付近路上で合流した。

Aは新宿から自殺現場の多摩川付近にある

大田区田園調布のバス停留所付近まで

西部とKを乗せてレンタカーを運転した。

Aは、防犯カメラに写ったり警察にばれたりしないよう

幹線道路を避けて車を運転した。

移動中の車内では

西部が好きだった「ダンチョネ節」を流していた。

その車中で西部はAとKに11万円ずつ渡した。

またその車中で

Kは西部がハーネスを身体に装着するのを手伝った。

21日午前0時50分ごろ、

自殺現場近くのバス停留所付近に到着すると

Aは西部とKを見送った。

車を降りるとKは現場の多摩川左岸まで

西部が歩いていくのに付き添った。

現場に着くとKは西部がロープを立木に繋ぐのを手伝い、

そのロープを西部の身体に装着されている

ハーネスに繋ぐのも手伝い、

重りと重り用ベルトを西部の身体に装着するのも手伝い、

川に流されないように固定した。

西部は粉末状の薬のような物質を持参していた。

西部はその物質は「毒だ」とKに説明した。

Kはフィルムケース大の瓶を用意していた。

Kは西部からその物質を受取り、

その物質をその瓶に入れて西部に渡した。

そうしてKは西部が歩いて

多摩川に入水するのを見届けた。

KはAに余った薬を「処分してください」と依頼し、

Aはその薬を保管した。

21日午前2時すぎに娘の携帯電話に

西部から着信があったがメッセージが残されていなかった。

普段西部は携帯電話を使っていなかった上、

メッセージもなかったことから不審に思い、

娘は警察に通報した。

同日未明、

娘は息子にも西部が自宅にいないことを知らせ、

2人で捜し歩いた。

同日朝、息子は現場の多摩川の川面に浮かんだ

状態の西部を発見した。

同日午前6時40分頃、

息子は「父親が川に飛び込んだ」と110番通報し、

駆けつけた田園調布警察署の署員が救出したが、

そのときには既に意識がなかった。

発見されたとき西部は

身体に工事現場用のハーネスを装着し、

腰付近にロープを巻いていた。

ハーネスに接続したロープのもう片方は

川べりの樹木に結びつけられていた。

また西部の遺体の眼と口には

ヘアバンドとタオルが巻かれており、

顔は毛糸のネックウオーマーで覆われていた。

これは顔を鳥や魚につつかれないようにするためだった

とみられている。

さらに口の内にはフィルムケース大の小さな瓶を入れていた。

発見時その瓶は空だった。

のちに息子は

「多分、姉のことを思って綺麗に死んだんだと思います

ロープを木に繋げていたのは、

海まで流されて発見が遅れるのを嫌ったからでしょう」

と話した。

現場の河川敷には家族、Kなどの知人、警察などに宛てた

ワープロ打ちの複数の遺書が残されていた。

娘宛ての遺書には次のように書かれていた。


 

警察宛ての遺書には

「すみません、お手を煩わせます」

という気遣いと配慮が記されていた。

同日午前8時37分、

東京都内の搬送先の病院で死亡していることが確認された。

西部の亡くなった夜が明けると、

娘と息子のもとには

西部から自死を告げる手紙が速達で届いた。

手紙には死に場所が記されていた。

78歳没。

法解剖などの結果、

死因は「溺死として矛盾ない」というものだった。

目立った外傷はなく、

生前の言動や遺書から

当初、単独で自殺を実行したものと見られていた。

 

~参考~
〔諸行無常/誰しも、特に世代交代or死が近づくにつれ

無意識的or意識的に襲われる厭世観&虚無感〕

 

~参考~
〔「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴言16-31)

/聖書の老い&病の捉え方〕

 

 

 

 

 

~参考~
〔一定周期的に無限ループする"地球史"

~「現世」ではなく「無間地獄」が存在本質〕

 

 

参考

 

 

 

 

 

 

 

~参考~
〔「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」

/現世の4つの真理(核心的本質)〕

 

「大多数の人々は、

盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。」
(「仏所行讃」巻九)

 

西部邁(1939年3月15日- 2018年1月21日)

は日本の保守派の評論家、元経済学者、雑誌『表現者』顧問、

元東京大学教養学部教授。

 

 

 

 

 

 

 

 

参考

 

参考

 

 

 

 

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、

 

~参考~
〔「人生の苦」を断ち切るための道~大多数の人々は、

盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。〕

 

~「苦」を支えるものは

   「我」ではなく「仁」にほかならない~

 

 「志(こころざし)醜(みに)くければ、

   その行き着く先もまた同じ。」

特に栄枯盛衰の人生における

           「枯」「衰」の時こそ本当の自分が試される。

 

 

 

 

 

~〔【「釈迦」の遺言~悔いなく生きる99の知恵】

(志村武著/三笠書房)〕より抜粋~

(⇒オリジナルの初版は1984年10月、PHP研究所より刊行)

 

人生の苦の根本原因と、

それを滅する道を見極め、

人間の心を汚す煩悩を断絶すれば、

何が、どのように変わろうとも、

人間はそんなことに振り回されなくなって、

堂々と生きていくことができるようになる。

 

 

 

 

【深い河(1995)】(原作/遠藤周作)

 

 

インド人が哲学をする目的は、

存在の意味と人間の運命を知的に洞察するところにあった。

彼らは何事も盲目的には信じなかったし、

伝統があるというだけでは

何ものも受け入れなかった。

 

修行中の青年・釈迦は、

この点を次のように力強く明示している。

「私はだれか他の人に言われて、

一切のものが存在するか否かの疑問を

解決しているのではない。

私は自ら難行苦行や静慮をして真理に到達し、

自分の手で掴みうるものを

しっかり掴みたいと思っている。

闘争や不安や矛盾に満ちているような見解を

受け入れるのは、

私の望むところではない。

目覚めた人間が、他人の信仰によって動かされることが

あるだろうか?

 

大多数の人々は、盲人によって

闇中を導かれる盲人に等しい。

(「仏所行讃」巻九)

 

単に「汝の敵を愛せ」というだけでは、

インド人の心を満たすことはできなかったのである。

彼らはその理由を追求した。

だからこそ釈迦は、

「悔い改めよ、天国は近きにあればなり」

をメッセージの第一声とはしないで、

四聖諦(ししょうたい)

(「苦」「集」「滅」「道」という四つの真理)を説いたのだ。

 

四聖諦は四諦ともいい、

諦とは真理を意味する

これは仏教の実践的原理を示すもので、

仏教の根本教説をなし、

最初の説法[初転法輪(しょてんほうりん)]

で説かれた四つの真理である。

 

 

 

 

 

 

Ⅰ)苦諦とは、

この世は苦であるという真理。

(人生は苦である)

迷いのこの世には、「生、老、病、死」の四苦の他に、

「愛別離苦(あいべつりく)」

「怨憎会苦(おんぞうえく)」

「求不得苦(ぐふとくく)」

「五陰盛苦(ごおんじょうく)」

などの四苦があり、これを一般には「四苦八苦」という。

苦とは、身心を悩ます状態にほかならない。

 

Ⅱ)集諦(じったい)とは、

いろいろな苦の原因は、

人間がエゴの立場から飽くことなく集(求)めて、

集めたものにしがみつくところにあるという真理。

(苦の原因は妄執である)

つまり、集は愛執であり、

その愛執がもろもろの苦を導くという

ことである。

従って、苦と集は、迷妄の世界の果と因を示す。

 

Ⅲ)滅諦とは、

それらの愛執の絶滅が苦の滅した理想郷であるという真理。

(妄執を滅すれば苦はなくなる)

それは無常の世を超え、

一切の執着を断ち切ることを意味する。

その状態を「悟りの世界」という。

 

Ⅳ)道諦とは、

そのような「悟りの世界」に到達するためには、

「八正(聖)道」によらなければならないとする真理。

(苦しみの止滅にいたる道が八正道である)

この場合の「正」とは

「ひとりよがりではない」ことを意味する。

従って、滅と道は、

「悟りの世界」に入るための果と因を示す。

 

 

  

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「八正道」とは、

①正見(しょうけん)[四諦を自覚した見解]

[⇒とらわれの心を捨てて

物事をありのままに正しく見ること。]

②正思惟(しょうしゆい)

[⇒物事を正しく考え判断すること。]

③正語(しょうご)

[⇒正しい言葉を話すこと。]

④正業(しょうごう)[身体の行ないを正しくすること]

[⇒正しい行いをすること。]

⑤正命(しょうみょう)[正しい生活]

[⇒規則正しい生活をすること。]

⑥正精進(しょうしょうじん)

[⇒正しい努力をすること。]

⑦正念(しょうねん)

[正見という目的を常に心に留めて忘れないこと]

[⇒正しい思いと目標を持つこと。]

⑧正定(しょうじょう)[正しい宗教生活]

[⇒心を正しく安定させ常に心を安らかにすること。]

であり、

人を迷界の此岸(しかん)から

悟界(ごかい)の彼岸へ導く道である。

 

~参考~

〔禅海和尚(享年88)[「青の洞門」を掘った僧]の

壮絶な生き様に学ぶ/「絶望」の中の「光」〕

 

~「絶望」の中の「光」(光明)~

 

 

 

 

 

【 「生きていれば何度でも杭(くい)を打たれる」

(映画『希望の国』から) 】~故・(俳優)夏八木勲氏の遺言

「生きていれば

何度でも杭(くい)を打たれる」

俳優・夏八木勲(1939年12月25日 - 2013年5月11日)

 

~参考~
〔坂口安吾「堕落論」から学ぶ

~自分の原点[素の自分]に立ち戻る(リセットする)勇気〕