「大多数の人々は、
盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。」
(「仏所行讃」巻九)
は日本の保守派の評論家、元経済学者、雑誌『表現者』顧問、
元東京大学教養学部教授。
~参考~
~参考~
~参考~
〔「人生の苦」を断ち切るための道~大多数の人々は、盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。〕
~「苦」を支えるものは
「我」ではなく「仁」にほかならない~
「志(こころざし)醜(みに)くければ、
その行き着く先もまた同じ。」
特に【栄枯盛衰】の人生における
「枯」「衰」の時こそ本当の自分が試される。
|
---|
~〔【「釈迦」の遺言~悔いなく生きる99の知恵】(志村武著/三笠書房)〕より抜粋~
(⇒オリジナルの初版は1984年10月、PHP研究所より刊行)
人生の苦の根本原因と、
それを滅する道を見極め、
人間の心を汚す煩悩を断絶すれば、
何が、どのように変わろうとも、
人間はそんなことに振り回されなくなって、
堂々と生きていくことができるようになる。
インド人が哲学をする目的は、
存在の意味と人間の運命を知的に洞察するところにあった。
彼らは何事も盲目的には信じなかったし、伝統があるというだけでは
何ものも受け入れなかった。
修行中の青年・釈迦は、この点を次のように力強く明示している。
「私はだれか他の人に言われて、
一切のものが存在するか否かの疑問を
解決しているのではない。
私は自ら難行苦行や静慮をして真理に到達し、
自分の手で掴みうるものを
しっかり掴みたいと思っている。
闘争や不安や矛盾に満ちているような見解を受け入れるのは、
私の望むところではない。
目覚めた人間が、他人の信仰によって動かされることが
あるだろうか?
大多数の人々は、盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。」
(「仏所行讃」巻九)
単に「汝の敵を愛せ」というだけでは、
インド人の心を満たすことはできなかったのである。
彼らはその理由を追求した。
だからこそ釈迦は、
「悔い改めよ、天国は近きにあればなり」
をメッセージの第一声とはしないで、
四聖諦(ししょうたい)
(「苦」「集」「滅」「道」という四つの真理)を説いたのだ。
四聖諦は四諦ともいい、
諦とは真理を意味する
これは仏教の実践的原理を示すもので、仏教の根本教説をなし、
最初の説法[初転法輪(しょてんほうりん)]
で説かれた四つの真理である。
Ⅰ)苦諦とは、
この世は苦であるという真理。
(人生は苦である)
迷いのこの世には、「生、老、病、死」の四苦の他に、
「愛別離苦(あいべつりく)」
「怨憎会苦(おんぞうえく)」
「求不得苦(ぐふとくく)」
「五陰盛苦(ごおんじょうく)」
などの四苦があり、これを一般には「四苦八苦」という。
苦とは、身心を悩ます状態にほかならない。
Ⅱ)集諦(じったい)とは、
いろいろな苦の原因は、
人間がエゴの立場から飽くことなく集(求)めて、
集めたものにしがみつくところにあるという真理。
(苦の原因は妄執である)
つまり、集は愛執であり、その愛執がもろもろの苦を導くという
ことである。
従って、苦と集は、迷妄の世界の果と因を示す。
Ⅲ)滅諦とは、
それらの愛執の絶滅が苦の滅した理想郷であるという真理。
(妄執を滅すれば苦はなくなる)
それは無常の世を超え、一切の執着を断ち切ることを意味する。
その状態を「悟りの世界」という。
Ⅳ)道諦とは、
そのような「悟りの世界」に到達するためには、
「八正(聖)道」によらなければならないとする真理。
(苦しみの止滅にいたる道が八正道である)
この場合の「正」とは「ひとりよがりではない」ことを意味する。
従って、滅と道は、「悟りの世界」に入るための果と因を示す。
「八正道」とは、
①正見(しょうけん)[四諦を自覚した見解]
[⇒とらわれの心を捨てて物事をありのままに正しく見ること。]
②正思惟(しょうしゆい)
[⇒物事を正しく考え判断すること。]
③正語(しょうご)
[⇒正しい言葉を話すこと。]
④正業(しょうごう)[身体の行ないを正しくすること]
[⇒正しい行いをすること。]
⑤正命(しょうみょう)[正しい生活]
[⇒規則正しい生活をすること。]
⑥正精進(しょうしょうじん)
[⇒正しい努力をすること。]
⑦正念(しょうねん)[正見という目的を常に心に留めて忘れないこと]
[⇒正しい思いと目標を持つこと。]
⑧正定(しょうじょう)[正しい宗教生活]
[⇒心を正しく安定させ常に心を安らかにすること。]
であり、
人を迷界の此岸(しかん)から悟界(ごかい)の彼岸へ導く道である。
〔禅海和尚(享年88)[「青の洞門」を掘った僧]の壮絶な生き様に学ぶ/「絶望」の中の「光」〕
~「絶望」の中の「光」(光明)~
[禅海(ぜんかい)和尚]
○?~安永3年(1774年)88歳で没したという。
◎「青の洞門」を掘った僧。
俗名/福原市九郎。越後高田藩出身。
◎江戸の旗本、中川四郎兵衛に仕えるが、
遂に主人を刃にかける。
悔んで仏弟子となり、諸国流浪の末、
九州・邪馬渓(大分県中津市本耶馬渓町樋田)の難所に
洞門を掘り始める。
★貫通施工期間約30年
★全長360m[うち手彫り部分144m]
第一期工事[享保(1735年)~寛永3年(1750年)]
第二期工事[~明和元年(1764年)]
←禅海和尚手彫りの洞門含む
貫通途上、中川の遺児・実之助が
父の仇討ちの名のりをあげるが、
禅海は「洞門の貫通まで待ってくれ」と懇願。
実之助は完成を早め仇討ちを果たすために手伝う。
しかし、貫通した時、
二人は恩讐を越えて感激の涙にむせんだ。
俳優・夏八木勲(1939年12月25日 - 2013年5月11日)
それでも世界は美しい。
突然おとずれた不安、痛み、苦しみ、別れ……
ただ、愛するものを守りたい。
【 希望の国 (2012/日本&英&台湾/133分/ビターズ・エンド) 】
~参考~ 〔坂口安吾「堕落論」から学ぶ~自分の原点[素の自分]に立ち戻る(リセットする)勇気〕
〔乃木坂46・橋本奈々未~坂口安吾「堕落論」〕
《坂口安吾(さかぐちあんご)・「堕落論」(だらくろん)》 それまでの規範からの堕落を肯定するその内容は、 当時の日本人に大きな衝撃を与え、 (特に)若者からの熱烈な支持を得て 著者・坂口安吾を一躍(いちやく)、 「時代の寵児(ちょうじ)」へ押し上げました。 * 半年のうちに世相は変わった。 * 「醜の御楯(しこのみたて)」 (天皇の楯となって外敵を防ぐ者) といでたつ我は。 大君(おおきみ)のへにこそ 死なめ かえりみはせじ。 * 若者たちは花と散ったが、 同じ(同世代の)彼らが生き残って「闇屋(やみや)」となる。 * ももとせの 命ねがわじ いつの日か 「御楯(みたて)」とゆかん君とちぎりて。 * けなげな心情で男を送った女たちも 半年の月日のうちに 「夫君(ふくん)」の位牌(いはい)にぬかずくことも 事務的になるばかりであろうし、 やがて新たな面影を胸に宿(やど)すのも 遠い日のことではない。 * 人間が変わったのではない。 人間は元来(がんらい)そういうものであり、 変わったのは世相の上皮(じょうひ)だけのことだ。 * 私は「偉大な破壊」が好きであった。 私は爆弾や焼夷弾(しょういだん)に 戦(おのの)きながら、 「狂暴な破壊」に劇(はげ)しく亢奮(こうふん)していたが、 それにもかかわらず、 このときほど人間を愛し、なつかしんでいた時は ないような思いがする。 * 運命に従順(じゅうじゅん)な人間の姿は 奇妙に美しいものである。 * 近ごろの東京は暗いというが、 戦争中は「真(しん)の闇(やみ)」で、 そのくせ どんな深夜でも オイハギなどの心配はなく、 暗闇(くらやみ)の深夜を歩き、 戸締りなしで眠っていたのだ。 * 戦争中の日本は 嘘のような理想郷で、 ただ虚(むな)しい美しさが咲(さ)きあふれていた。 だが、「堕落」ということの驚くべき平凡さや 平凡な当然さに比べると、 あのすさまじい「偉大な破壊の愛情」や 「運命に従順な人間たちの美しさ」も、 「泡沫(ほうまつ)」のような 虚(むな)しい幻影にすぎないという気持がする。 * 特攻隊の勇士(ゆうし)は ただの幻影であるにすぎず、 人間の歴史は「闇屋(やみや)」となるところから 始まるのではないのか。 * 未亡人(みぼうじん)が「使徒(しと)」たることも 幻影(げんえい)にすぎず、 新たな面影(おもかげ)を宿(やど)すところから 人間の歴史が始まるのではないか。 * 「生きよ堕ちよ」、 その正当な手順のほかに、 真に人間を救い得(え)る便利な近道が ありうるだろうか。 * 戦争は終わった。 特攻隊の勇士は すでに「闇屋(やみや)」となり、 未亡人はすでに新たな面影によって 胸をふくらませているではないか。 * 人間は変わりはしない。 ただ人間へ戻ってきたのだ。 * 人間は堕落する。 義士も聖女も堕落する。 それを防(ふせ)ぐことはできないし、 防ぐことによって人を救うことはできない。 * 「人間は生き、人間は堕(お)ちる。」 そのこと以外の中に 人間を救う便利な近道はない。
***
「堕落論」は坂口安吾の随筆・評論。坂口の代表的作品。 1946年4月1日、雑誌『新潮』第43巻第4号に掲載され、 同年12月1日に続編(のち『続堕落論』)が、 雑誌『文學季刊』第2号・冬季号に掲載。 第二次世界大戦後の混迷した社会において、 逆説的な表現でそれまでの倫理観を冷徹に解剖し、 敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した書。
偉大であるとともに卑小な存在である 人間の姿を永遠の相の下に見つめ、 その愚劣さにもかかわらず、 その愚劣さを引き受ける覚悟と、 日本人の現実をあるがままの姿で 受容する態度を示し、 旧来のモラルの否定という次元ではなく、 虚飾を捨てて人間の本来の姿に徹することを 提言している。
PS
|
---|