「大多数の人々は、

盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。」
(「仏所行讃」巻九)

 

西部邁(1939年3月15日- 2018年1月21日)

は日本の保守派の評論家、元経済学者、雑誌『表現者』顧問、

元東京大学教養学部教授。

 

 

 

 

 

 

 

参考

 

参考

 

 

 

 

仏教用語で、
煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、
静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。
涅槃寂静は
三法印・四法印の一つとして、
仏教が他の教えと根本的に違うことを示す。
諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、
この涅槃寂静のすがたである。
無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、
煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。
『大般涅槃経』においては、
この娑婆世界の無常・無我を離れたところに、
真の「常楽我浄」があるとする。
無常の真実に目覚めないもの、
無我の事実をしらないで自己をつかまえているものの
刹那を追い求めている生活も、
無常や無我を身にしみて知りながら、
それを知ることによってかえってよりどころを失って、
よりどころとしての
常住や自我を追い求めて苦悩している生活も、
いずれも煩悩による苦の生活である。
それを克服して、
いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、
いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、
それこそ悟りであるというのが、
涅槃寂静印の示すものである。
仏教本来の意味からすると、
涅槃とは
いっさいのとらわれ、
しかも、いわれなきとらわれ(辺見)から解放された
絶対自由の境地である。
これは、縁起の法に生かされて生きている私たちが、
互いに相依相関の関係にあることの自覚であり、
積極的な利他活動として転回されなくてはならない。
この意味で、
この涅槃寂静は
仏教が他の教えと異なるものとして
法印といわれるのである。

 

~参考~
〔「人生の苦」を断ち切るための道~大多数の人々は、盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。〕

~「苦」を支えるものは

   「我」ではなく「仁」にほかならない~

 

 「志(こころざし)醜(みに)くければ、

   その行き着く先もまた同じ。」

特に【栄枯盛衰】の人生における

           「枯」「衰」の時こそ本当の自分が試される。

 

 

 

 

 

~〔【「釈迦」の遺言~悔いなく生きる99の知恵】(志村武著/三笠書房)〕より抜粋~

             (⇒オリジナルの初版は1984年10月、PHP研究所より刊行)

 

人生の苦の根本原因と、

それを滅する道を見極め、

人間の心を汚す煩悩を断絶すれば、

何が、どのように変わろうとも、

人間はそんなことに振り回されなくなって、

堂々と生きていくことができるようになる。

 

 

 

【深い河(1995)】(原作/遠藤周作)

 

 

インド人が哲学をする目的は、

存在の意味と人間の運命を知的に洞察するところにあった。

彼らは何事も盲目的には信じなかったし、伝統があるというだけでは

何ものも受け入れなかった。

 

修行中の青年・釈迦は、この点を次のように力強く明示している。

「私はだれか他の人に言われて、

一切のものが存在するか否かの疑問を

解決しているのではない。

私は自ら難行苦行や静慮をして真理に到達し、

自分の手で掴みうるものを

しっかり掴みたいと思っている。

闘争や不安や矛盾に満ちているような見解を受け入れるのは、

私の望むところではない。

目覚めた人間が、他人の信仰によって動かされることが

あるだろうか?

大多数の人々は、盲人によって闇中を導かれる盲人に等しい。

(「仏所行讃」巻九)

 

単に「汝の敵を愛せ」というだけでは、

インド人の心を満たすことはできなかったのである。

彼らはその理由を追求した。

だからこそ釈迦は、

「悔い改めよ、天国は近きにあればなり」

をメッセージの第一声とはしないで、

四聖諦(ししょうたい)

(「苦」「集」「滅」「道」という四つの真理)を説いたのだ。

 

四聖諦は四諦ともいい、

諦とは真理を意味する

これは仏教の実践的原理を示すもので、仏教の根本教説をなし、

最初の説法[初転法輪(しょてんほうりん)]

で説かれた四つの真理である。

 

 

 

 

 

 

Ⅰ)苦諦とは、

この世は苦であるという真理。

(人生は苦である)

迷いのこの世には、「生、老、病、死」の四苦の他に、

「愛別離苦(あいべつりく)」

「怨憎会苦(おんぞうえく)」

「求不得苦(ぐふとくく)」

「五陰盛苦(ごおんじょうく)」

などの四苦があり、これを一般には「四苦八苦」という。

苦とは、身心を悩ます状態にほかならない。

 

Ⅱ)集諦(じったい)とは、

いろいろな苦の原因は、

人間がエゴの立場から飽くことなく集(求)めて、

集めたものにしがみつくところにあるという真理。

(苦の原因は妄執である)

つまり、集は愛執であり、その愛執がもろもろの苦を導くという

ことである。

従って、苦と集は、迷妄の世界の果と因を示す。

 

Ⅲ)滅諦とは、

それらの愛執の絶滅が苦の滅した理想郷であるという真理。

(妄執を滅すれば苦はなくなる)

それは無常の世を超え、一切の執着を断ち切ることを意味する。

その状態を「悟りの世界」という。

 

Ⅳ)道諦とは、

そのような「悟りの世界」に到達するためには、

「八正(聖)道」によらなければならないとする真理。

(苦しみの止滅にいたる道が八正道である)

この場合の「正」とは「ひとりよがりではない」ことを意味する。

従って、滅と道は、「悟りの世界」に入るための果と因を示す。

 

 

  

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「八正道」とは、

①正見(しょうけん)[四諦を自覚した見解]

[⇒とらわれの心を捨てて物事をありのままに正しく見ること。]

②正思惟(しょうしゆい)

[⇒物事を正しく考え判断すること。]

③正語(しょうご)

[⇒正しい言葉を話すこと。]

④正業(しょうごう)[身体の行ないを正しくすること]

[⇒正しい行いをすること。]

⑤正命(しょうみょう)[正しい生活]

[⇒規則正しい生活をすること。]

⑥正精進(しょうしょうじん)

[⇒正しい努力をすること。]

⑦正念(しょうねん)[正見という目的を常に心に留めて忘れないこと]

[⇒正しい思いと目標を持つこと。]

⑧正定(しょうじょう)[正しい宗教生活]

[⇒心を正しく安定させ常に心を安らかにすること。]

であり、

人を迷界の此岸(しかん)から悟界(ごかい)の彼岸へ導く道である。

 
~参考~

〔禅海和尚(享年88)[「青の洞門」を掘った僧]の壮絶な生き様に学ぶ/「絶望」の中の「光」〕

 

~「絶望」の中の「光」(光明)~

 

 

 

 

[禅海(ぜんかい)和尚]

 

○?~安永3年(1774年)88歳で没したという。

「青の洞門」を掘った僧。

俗名/福原市九郎。越後高田藩出身。

◎江戸の旗本、中川四郎兵衛に仕えるが、

遂に主人を刃にかける。

悔んで仏弟子となり、諸国流浪の末、

九州・邪馬渓(大分県中津市本耶馬渓町樋田)の難所に

洞門を掘り始める。

★貫通施工期間約30年

★全長360m[うち手彫り部分144m]

第一期工事[享保(1735年)~寛永3年(1750年)]

第二期工事[~明和元年(1764年)]

←禅海和尚手彫りの洞門含む

貫通途上、中川の遺児・実之助が

父の仇討ちの名のりをあげるが、

禅海は「洞門の貫通まで待ってくれ」と懇願。

実之助は完成を早め仇討ちを果たすために手伝う。

しかし、貫通した時、

二人は恩讐を越えて感激の涙にむせんだ。

 

【 「生きていれば何度でも杭(くい)を打たれる」

(映画『希望の国』から) 】~故・(俳優)夏八木勲氏の遺言

「生きていれば何度でも杭(くい)を打たれる」

 

俳優・夏八木勲(1939年12月25日 - 2013年5月11日)

 

それでも世界は美しい。

突然おとずれた不安、痛み、苦しみ、別れ……

ただ、愛するものを守りたい。

 

【 希望の国 (2012/日本&英&台湾/133分/ビターズ・エンド) 】

【読み物:園子温監督インタビュー】

 

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~参考~

〔坂口安吾「堕落論」から学ぶ~自分の原点[素の自分]に立ち戻る(リセットする)勇気〕

 

〔乃木坂46・橋本奈々未~坂口安吾「堕落論」〕

 

《坂口安吾(さかぐちあんご)・「堕落論」(だらくろん)》

それまでの規範からの堕落を肯定するその内容は、

当時の日本人に大きな衝撃を与え、

(特に)若者からの熱烈な支持を得て

著者・坂口安吾を一躍(いちやく)、

「時代の寵児(ちょうじ)」へ押し上げました。

半年のうちに世相は変わった。

「醜の御楯(しこのみたて)」

(天皇の楯となって外敵を防ぐ者)

といでたつ我は。

大君(おおきみ)のへにこそ 死なめ かえりみはせじ。

若者たちは花と散ったが、

同じ(同世代の)彼らが生き残って「闇屋(やみや)」となる。

ももとせの

命ねがわじ いつの日か

「御楯(みたて)」とゆかん君とちぎりて。

けなげな心情で男を送った女たちも

半年の月日のうちに

「夫君(ふくん)」の位牌(いはい)にぬかずくことも

事務的になるばかりであろうし、

やがて新たな面影を胸に宿(やど)すのも

遠い日のことではない。

人間が変わったのではない。

人間は元来(がんらい)そういうものであり、

変わったのは世相の上皮(じょうひ)だけのことだ。

私は「偉大な破壊」が好きであった。

私は爆弾や焼夷弾(しょういだん)に

戦(おのの)きながら、

「狂暴な破壊」に劇(はげ)しく亢奮(こうふん)していたが、

それにもかかわらず、

このときほど人間を愛し、なつかしんでいた時は

ないような思いがする。

運命に従順(じゅうじゅん)な人間の姿は

奇妙に美しいものである。

近ごろの東京は暗いというが、

戦争中は「真(しん)の闇(やみ)」で、

そのくせ どんな深夜でも

オイハギなどの心配はなく、

暗闇(くらやみ)の深夜を歩き、

戸締りなしで眠っていたのだ。

戦争中の日本は

嘘のような理想郷で、

ただ虚(むな)しい美しさが咲(さ)きあふれていた。

だが、「堕落」ということの驚くべき平凡さや

平凡な当然さに比べると、

あのすさまじい「偉大な破壊の愛情」や

「運命に従順な人間たちの美しさ」も、

「泡沫(ほうまつ)」のような

虚(むな)しい幻影にすぎないという気持がする。

特攻隊の勇士(ゆうし)は

ただの幻影であるにすぎず、

人間の歴史は「闇屋(やみや)」となるところから

始まるのではないのか。

未亡人(みぼうじん)が「使徒(しと)」たることも

幻影(げんえい)にすぎず、

新たな面影(おもかげ)を宿(やど)すところから

人間の歴史が始まるのではないか。

「生きよ堕ちよ」、

その正当な手順のほかに、

真に人間を救い得(え)る便利な近道が

ありうるだろうか。

戦争は終わった。

特攻隊の勇士は

すでに「闇屋(やみや)」となり、

未亡人はすでに新たな面影によって

胸をふくらませているではないか。

人間は変わりはしない。

ただ人間へ戻ってきたのだ。

人間は堕落する。

義士も聖女も堕落する。

それを防(ふせ)ぐことはできないし、

防ぐことによって人を救うことはできない。

「人間は生き、人間は堕(お)ちる。」

そのこと以外の中に

人間を救う便利な近道はない。

 

***

 

「堕落論」は坂口安吾の随筆・評論。坂口の代表的作品。

1946年4月1日、雑誌『新潮』第43巻第4号に掲載され、

同年12月1日に続編(のち『続堕落論』)が、

雑誌『文學季刊』第2号・冬季号に掲載。

第二次世界大戦後の混迷した社会において、

逆説的な表現でそれまでの倫理観を冷徹に解剖し、

敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した書。

 

偉大であるとともに卑小な存在である

人間の姿を永遠の相の下に見つめ、

その愚劣さにもかかわらず、

その愚劣さを引き受ける覚悟と、

日本人の現実をあるがままの姿で

受容する態度を示し、

旧来のモラルの否定という次元ではなく、

虚飾を捨てて人間の本来の姿に徹することを

提言している。

 

  

 

PS

 

【 ヨブ物語 】(旧約聖書の中の教訓書)