〔乃木坂46・橋本奈々未~坂口安吾「堕落論」〕

 

 

~文明がどれほど発達しようと

   (時代が変われど)

 人間の本質は微塵も変わらず~ 

 

 

「人間は生きることが全部である。

死ねば全てなくなる。」

 

「生きよ!堕ちよ!」

 

坂口安吾

 

坂口安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)

は、日本の小説家、エッセイスト。本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。

新潟県新潟市出身、東洋大学文学部印度哲学倫理学科卒業。

純文学のみならず、歴史小説、推理小説、文芸から時代風俗まで

広範に材を採るエッセイまで、多彩な領域にわたって活動した。

終戦直後に発表した「堕落論」「白痴」などにより時代の寵児となり、

無頼派と呼ばれる作家の一人、その後の多くの作家にも影響を与えた。

晩年に生まれた一人息子の坂口綱男は写真家。

 

 

 

 

 

 

「文士の遺言」坂口安吾の思い出 根の浅い平和国家日本!

 

    〔坂口安吾の『堕落論』の朗読と解説

 

 

    

      〔乃木坂46・橋本奈々未~坂口安吾「堕落論」〕

 

 

 

《坂口安吾(さかぐちあんご)・「堕落論」(だらくろん)》

それまでの規範からの堕落を肯定するその内容は、

当時の日本人に大きな衝撃を与え、

(特に)若者からの熱烈な支持を得て

著者・坂口安吾を一躍(いちやく)、

「時代の寵児(ちょうじ)」へ押し上げました。

半年のうちに世相は変わった。

「醜の御楯(しこのみたて)」

(天皇の楯となって外敵を防ぐ者)

といでたつ我は。

大君(おおきみ)のへにこそ 死なめ かえりみはせじ。

若者たちは花と散ったが、

同じ(同世代の)彼らが生き残って「闇屋(やみや)」となる。

ももとせの

命ねがわじ いつの日か

「御楯(みたて)」とゆかん君とちぎりて。

けなげな心情で男を送った女たちも

半年の月日のうちに

「夫君(ふくん)」の位牌(いはい)にぬかずくことも

事務的になるばかりであろうし、

やがて新たな面影を胸に宿(やど)すのも

遠い日のことではない。

人間が変わったのではない。

人間は元来(がんらい)そういうものであり、

変わったのは世相の上皮(じょうひ)だけのことだ。

私は「偉大な破壊」が好きであった。

私は爆弾や焼夷弾(しょういだん)に

戦(おのの)きながら、

「狂暴な破壊」に劇(はげ)しく亢奮(こうふん)していたが、

それにもかかわらず、

このときほど人間を愛し、なつかしんでいた時は

ないような思いがする。

運命に従順(じゅうじゅん)な人間の姿は

奇妙に美しいものである。

近ごろの東京は暗いというが、

戦争中は「真(しん)の闇(やみ)」で、

そのくせ どんな深夜でも

オイハギなどの心配はなく、

暗闇(くらやみ)の深夜を歩き、

戸締りなしで眠っていたのだ。

戦争中の日本は

嘘のような理想郷で、

ただ虚(むな)しい美しさが咲(さ)きあふれていた。

だが、「堕落」ということの驚くべき平凡さや

平凡な当然さに比べると、

あのすさまじい「偉大な破壊の愛情」や

「運命に従順な人間たちの美しさ」も、

「泡沫(ほうまつ)」のような

虚(むな)しい幻影にすぎないという気持がする。

特攻隊の勇士(ゆうし)は

ただの幻影であるにすぎず、

人間の歴史は「闇屋(やみや)」となるところから

始まるのではないのか。

未亡人(みぼうじん)が「使徒(しと)」たることも

幻影(げんえい)にすぎず、

新たな面影(おもかげ)を宿(やど)すところから

人間の歴史が始まるのではないか。

「生きよ堕ちよ」、

その正当な手順のほかに、

真に人間を救い得(え)る便利な近道が

ありうるだろうか。

戦争は終わった。

特攻隊の勇士は

すでに「闇屋(やみや)」となり、

未亡人はすでに新たな面影によって

胸をふくらませているではないか。

人間は変わりはしない。

ただ人間へ戻ってきたのだ。

人間は堕落する。

義士も聖女も堕落する。

それを防(ふせ)ぐことはできないし、

防ぐことによって人を救うことはできない。

「人間は生き、人間は堕(お)ちる。」

そのこと以外の中に

人間を救う便利な近道はない。

 

 

「堕落論」(だらくろん)は坂口安吾の随筆・評論。坂口の代表的作品である。

1946年(昭和21年)4月1日、雑誌『新潮』第43巻第4号に掲載され、

同年12月1日に続編(のち『続堕落論』)が、

雑誌『文學季刊』第2号・冬季号に掲載された。

翌年1947年(昭和22年)6月25日に単行本『堕落論』(銀座出版社)に収録された。

文庫版は角川文庫、新潮文庫などに収録されている。

 

***

 

第二次世界大戦後の混迷した社会において、

逆説的な表現でそれまでの倫理観を冷徹に解剖し、

敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した書。

 

偉大であるとともに卑小な存在である

人間の姿を永遠の相(そう)の下(もと)に見つめ、

その愚劣さにもかかわらず、

その愚劣さを引き受ける覚悟と、

日本人の現実をあるがままの姿で

受容する態度を示し、

旧来のモラルの否定という次元ではなく、

虚飾を捨てて人間の本来の姿に徹することを

提言している。

 

 


評論家・西部邁は「堕落論」の本質は最後の数行にあるとし、

 

その坂口の述べている文言の、

「人間は

可憐(かれん)であり脆弱(ぜいじゃく)であり、

それ故、愚(おろ)かなものであるが、

堕ちぬくためには弱すぎる。

人間は結局

処女を〔美しいままに〕刺殺せずにはいられず、

武士道をあみださずにはいられず、

天皇制を担(かつぎ)ぎださずには

いられなくなるであろう。

だが他人の処女でなしに

自分自身の処女を刺殺し、

自分自身の武士道、

自分自身の天皇をあみだすためには、

人は正しく堕ちる道を

堕ちきることが必要なのだ。

を引用しつつ、

坂口が意味したことを補足し、

先に戦争における

「偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情」

実に讃嘆に値するものであったが、

それは、

「堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さ」と比べ、

「泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする」

ということだと解説している。

*

そして

西部はその安吾の言い分をさらに補足し、

「しかし

人間は幻影なしには生きられぬほどに

弱いのであるから、

いわば、限界点まで堕落したところで

自分が是が非でも持ちたいと思うような幻影

みつけ出せということである。

と解説している。

 

 

 

現世[⇒本質は「修羅の世界」]の無常を、

ありのまま受け入れ、

その厭世観の先に辿り付くものが

絶望しかなくても、

ほんの僅かでも「生きる意味」を

模索する活力が残存しているならば、

たとえ、そのメッカが

蜃気楼に相当する幻影であったとしても、

その幻影に向かって、

一歩を踏み出さなければならない。

その幻影を具現化するのも己次第なのだから。

「正しく堕ちる」こと[積極的「堕落」]

をおそれてはならない。

それは、ある意味、

自分の原点[素の自分]に立ち戻る事を

意味しているとも言えるのだから。

坂口安吾「堕落論」を字面だけで

ニヒリズム(虚無主義)的位置づけをする方も

少なくないが、

その本質に隠されているものは、

各自に課せられた宿命との闘い、

更にはそのための

(各自の原点立ち戻る=リセットする)勇気

我々に指南してくれているように思える。

 

 

 

「目に見えるものだけが敵ではない。
己の業と定めに立ち向かえ。」

「泥沼に落ちた事が問われるのではない。
そこからはい上がろうと努力するかしないか、
その事が大事なんだ。」

 

「深い谷ほどよく分かるのだ 
山の頂上がどんなに素晴らしいかを」
(映画【ニクソン (1995)】)

 

 

PS

 

【 ヨブ物語 】(旧約聖書の中の教訓書)

 

【ヨブは苦しみを与えられ、命以外の全てを奪われる。

それでも、ヨブは信仰を捨てず、神に救われた。】

 ⇒人生のあらゆる不条理(宿命)を

素直に受け入れ

神の与えた試練に信仰によって立ち向かうか、

人生に絶望し神を呪うか?

わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。

あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。

だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

(ヨブ記38章4節~7節)

⇒人知には常に限界があり、大局である神の計画の前には常に翻弄される。

特に人間の傲慢さに対し、神は己に対する反逆と捉える。

ここまでは来てもよいが、決して越えてはならない。

お前の誇り高き波(人知&感情)とはいえ、ここまでに限られている。

(ヨブ記38章11節)

⇒決して神との一線を越えてはならない〔宗教>科学〕。